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姿24 輿宿宿30 会津橋曳き揃え 屋台に集う若者たち 合気道の奉納試合 (田辺は合気道開祖 植草盛平生誕地) 鳥居前参道に曳き揃え 熱心に話す谷脇幹雄館長 4 南方熊楠記念館の昭和天皇歌碑の前にて 今回はイギリスの科学雑誌『ネイチャー』に51編もの論文を掲載した知の巨人南方熊楠が 晩年を過ごした和歌山県田辺市を訪ね、熊楠ゆかりの地と田辺祭を見学しました。 2014年7月24日㈭〜25日㈮ 第131回研修会 「ふるきよきものの伝承」 (その21)

田辺祭 南方熊楠記念館...一行が最初に訪れたのは、南方 ぶことができました。の人となりや、研究成果などを学番に見学しました。ここでは熊楠たキャラメルの箱、晩年の姿を順三才図会』や、昭和天皇に献上しいます。幼年期に筆写した『和漢熊楠ゆかりの品々が展示されて熊楠記念館です。

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    一行が最初に訪れたのは、南方

    熊楠記念館です。館内には南方

    熊楠ゆかりの品々が展示されて

    います。幼年期に筆写した『和漢

    三才図会』や、昭和天皇に献上し

    たキャラメルの箱、晩年の姿を順

    番に見学しました。ここでは熊楠

    の人となりや、研究成果などを学

    ぶことができました。

     

    和歌山県田辺市の夏の風物詩と

    いえば田辺祭です。450年あまり

    の歴史を持つこの祭りは県無形民

    俗文化財に指定されており、今で

    も毎年多くの人が訪れています。

     

    和歌山から田辺までのバス車

    中にて南方熊楠顕彰館の濱岸宏一

    館長から田辺祭について解説いた

    だきました。

     

    24日の宵よいみや宮では、笠鉾と神輿が

    市内を巡ります。一行は午後7時

    頃からの鬪雞神社のお勤めを見学

    しました。その後、町内を巡った全

    ての笠鉾が会津橋に集合。これを

    会津橋曳き揃えといいます。橋の

    上に笠鉾が並ぶと、提灯の明かり

    が川の水面に映り、辺りは幻想的

    な雰囲気に包まれました。その後、

    いくつかの笠鉾が会津大橋から戻

    り囃子を奏でながら、それぞれの

    宿(御宿)へ戻りました。

     

    本祭は翌日、午前4時30分、暁の

    祭典で始まりました。一行は早朝

    の薄暗い神社の境内で地元の子ど

    もたちによる「浦安の舞」の奉納

    を鑑賞しました。

     

    田辺祭では「お笠」と呼ばれる

    笠鉾(山車)が町を練り歩きます。

    上屋に人形が飾られ、下屋にはお

    囃子の人々が乗るのが特徴です。

    町ごとに笠鉾があり、上屋に飾ら

    れる人形はそれぞれ異なります。

     

    町回りの際に笠鉾の先導を務

    めるのは住すみや矢と呼ばれる衣笠で

    す。住まいを矢のように走り、厄

    をはらうことから住矢と名付け

    会津橋曳き揃え

    屋台に集う若者たち

    合気道の奉納試合(田辺は合気道開祖植草盛平生誕地)

    鳥居前参道に曳き揃え

    熱心に話す谷脇幹雄館長

    南方熊楠記念館

    田辺祭

    笠鉾と住矢

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    南方熊楠記念館の昭和天皇歌碑の前にて

    今回はイギリスの科学雑誌『ネイチャー』に51編もの論文を掲載した知の巨人南方熊楠が晩年を過ごした和歌山県田辺市を訪ね、熊楠ゆかりの地と田辺祭を見学しました。

    2014年7月24日㈭〜25日㈮

    第131回研修会「ふるきよきものの伝承」(その21)

  • られました。一度通った道は後

    に戻らず、右回りはしないこと

    が特徴です。また、住矢の笠の中

    に入ると病気が良くなるという

    言い伝えもあります。

     

    鬪雞神社は通称「権ごんげん現さん」

    と呼ばれ、御祭神の中には熊野

    三山(熊野本宮、熊野那智、熊野

    速玉大社)も勧請されています。

    三山の別宮的存在で熊野信仰の

    一翼も担っていました。

     

    名前の由来は『平家物語』壇ノ

    浦合戦の故事によるものと言わ

    れています。その昔、武蔵坊弁慶

    の父である熊野別当・湛たんぞう増は源

    氏と平氏の両方から援軍を要請

    されました。どちらに味方をす

    るか決めかねた湛増は神社の本

    殿前で赤を平氏、白を源氏に見

    立て紅白の鶏を7回闘わせまし

    た。全て白が勝利したため源氏

    に味方したと言われています。

    境内ではこの様子を模した湛増

    と弁慶像が置かれています。

     

    ちなみに南方熊楠の妻・松枝

    は、鬪雞神社宮司の四女。熊楠ゆ

    かりの場所としても有名です。

     

    田辺の市街地や神島を一望で

    きる高台にある高山寺。弘法大

    師が開いたと言われるお寺に、

    熊楠は眠っています。

     

    生前、熊楠は寺苑の一角にあっ

    た日吉神社の境内から数多くの植

    物を採集し、研究に役立てていま

    した。明治41年(1908年)、高山

    寺に隣接していた猿さるがみのやしろ

    神社が合祀さ

    れるのに伴い、ご神木も伐採され

    てしまいました。これに激怒した

    熊楠は神社合祀反対運動に積極

    的に携わるようになりました。

     

    暁の祭典を鑑賞した後に訪れ

    たのが、南方熊楠顕彰館です。こ

    の施設は南方邸に残された蔵書

    や資料の保存、及び熊楠に関す

    る研究を推進・活用するために

    立てられました。館内には彼の

    蔵書や資料の閲覧はもちろん、

    学習室も完備されており、熊楠

    の生涯を学ぶことができます。

     

    また、顕彰館の隣には、熊楠が

    晩年を過ごした自宅が当時のま

    まの姿で残されています。熊楠

    の娘、文枝さんの世話をされた

    方に解説いただきながら、熊楠

    の研究に対するひさたむきさを

    感じることができました。

     

    熊野古道が世界遺産に認定さ

    れ、今年で10年が経ちました。現

    在、この地に多くの自然が残さ

    れているのは、熊楠の努力によ

    るものです。南紀白浜で生まれ

    た巨人・南方熊楠。その信念はい

    まもなお、受け継がれています。

    南新町のお宿。傘鉾上屋に乗る人形たち

    「浦安の舞」氏子代表が裃姿で勢揃い

    熊楠の部屋

    「てんぎゃん」と呼ばれた幼少時代 和歌山県城下の金物商の次男として生まれた南方熊楠。学校の授業に出ず、山に入り植物採集に明け暮れていたことから「てんぎゃん(天狗)」と呼ばれた。

    東京大学を退学し、海外へ 明治17年。熊楠は大学予備門(現在の東京大学)に入学したのものの、2年後に退学。西洋の最新の科学を学ぶためにアメリカへ。その6年後にイギリスへ渡る。このころ科学雑誌『ネイチャー』に論文の投稿を始めた。海外での生活は明治33年まで続いた。

    神社合祀運動に反対 帰国後、那智に移り住んだ熊楠は、原生林が残る熊野の森で自らの研究に没頭。明治37年に田辺に移り住んだ熊楠は近郊の山々で植物調査を行う。明治39年、研究対象の森林が伐採されることになったのを皮切りに神仏合祀運動に反対の姿勢を示す。

    熊楠の墓の前で説明するボランティアガイドの山本享一さん

    エコロジー思想の先駆者南方熊楠 1867〜1941年

    鬪雞神社

    南方熊楠顕彰館

    高山寺

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