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連載 第14回 (最終回) 実践 ノンテクニカルスキルの 院内教育 研修に使える資料をWebに掲載中! 今回のお役立ちアイテムは,「情理の世界のマネジメントと空 気の支配」のビジュアルスライドブックです。特に院内教育など 組織学習でも利用し,即実践していってください。 スライド 「情理の世界のマネジメントと空気の支配」 のビジュアルスライドブック (PDF) ※ダウンロードの手順はP.2参照 http://www.nissoken.com/ps/ ダウンロードしてご利用ください。 前回(本誌Vol.3,No.2)は,医療におけるマネジメントとリーダーシッ プの必要性について学びました。ここで重要なことは,これらを「特別な こと」「自分と関係ないこと」「自分にはできないこと」ととらえてしまわ ないことです。医療現場では,一人のスタッフで完結できる業務はほとん どなく,基本的に組織(チーム)で意思決定・実行していきます。その際 に,自分がマネジメントやリーダーシップを発揮しながら,患者価値を高 める医療提供をしていかなくてはならない場面も出てくることを前提に, 今からその意識と技術を養っておいてください。 いよいよ本連載も最終回となりました。今回は,単なる「べき論」では ない医療現場のリアリズムに向き合い,そこでの難所や,それをどうやっ て乗り越えていくのかについて考えていきます。 医療現場に存在する「合理の世界」と「情理の世界」 Aさんの苦悩 Aさんは,この日も嘔吐を繰り返していました。Aさんは持病の治 療のために定期的に来院しています。治療の努力もむなしく検査デー タは悪化する一方であったため,治療方法を変更することになりまし た。それからすぐ,症状に異変が起こりました。治療中に嘔吐を繰り 返すようになり,吐き気止めを服用したり,スタッフが背中をさすっ たりして過ごす治療の日々が続きましたが,一向に改善しません。す ると,あるスタッフが役職者にこうつぶやきました。「治療方法を変 更したことが原因かもしれません。一度,以前の治療方法に戻した方 がよいのでは?」。しかし,治療方法が戻されることはなく,結局A さんは,2カ月間嘔吐に苦しみました。 医療現場において,不確実性の高い限られた情報の中から,患者の治療 における最善の意思決定を行うのは決して容易ではありません。このケー スも同様で,現状の治療方法のまま継続するべきか,それとも以前の治療 方法に戻すべきかは,単純に判断できるものではないでしょう。 ただここで注目したいのは,このケースのストーリーの中には,ある2 つの世界が存在するということです。それは,「合理の世界」と「情理の 医療現場に存在する「合理の世界」と「情理の世界」 メディカルアートディレクター 佐藤和弘 医療教育団体 MEDIPRO! 創業者/代表 一般社団法人 LINK 共同創設者/元理事 Kazuhiro_SATO 臨床工学技士として複数の医療機 関で約10年間,透析医療に従事。 患者さんとかかわる中でテクニカ ルスキル以外にも医療に必要なス キルがあることを実感し,グロービ ス経営大学院に進学,MBAを取 得。そこで出会った経営学やケース メソッドなどのノンテクニカルスキ ル教育に感銘を受け,当時従事し ていた医療機関で事故対策委員長 としてノンテクニカルスキル教育を 導入し,医療安全の質の向上に貢 献。その実感から,非営利医療教 育団体MEDIPRO!を創業,代表に 就任し,ノンテクニカルスキルの普 及に努める。これまで,院内研修や スクールなどを通じて約4,100人の 医療者にノンテクニカルスキル教 育を提供。 病院安全教育 Vol.3 No.3 111

合理と情理を - nissoken.com€¦ · 導入し,医療安全の質の向上に貢 献。その実感から,非営利医療教 育団体medipro!を創業,代表に 就任し,ノンテクニカルスキルの普

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連載 第14回(最終回) 実践!

ノンテクニカルスキルの院内教育

研修に使える資料をWebに掲載中!

今回のお役立ちアイテムは,「情理の世界のマネジメントと空気の支配」のビジュアルスライドブックです。特に院内教育など

組織学習でも利用し,即実践していってください。

スライドデータ

「情理の世界のマネジメントと空気の支配」のビジュアルスライドブック(PDF)

※ダウンロードの手順はP.2参照

http://www.nissoken.com/ps/ダウンロードしてご利用ください。

 前回(本誌Vol.3,No.2)は,医療におけるマネジメントとリーダーシッ

プの必要性について学びました。ここで重要なことは,これらを「特別な

こと」「自分と関係ないこと」「自分にはできないこと」ととらえてしまわ

ないことです。医療現場では,一人のスタッフで完結できる業務はほとん

どなく,基本的に組織(チーム)で意思決定・実行していきます。その際

に,自分がマネジメントやリーダーシップを発揮しながら,患者価値を高

める医療提供をしていかなくてはならない場面も出てくることを前提に,

今からその意識と技術を養っておいてください。

 いよいよ本連載も最終回となりました。今回は,単なる「べき論」では

ない医療現場のリアリズムに向き合い,そこでの難所や,それをどうやっ

て乗り越えていくのかについて考えていきます。

医療現場に存在する「合理の世界」と「情理の世界」

Aさんの苦悩 Aさんは,この日も嘔吐を繰り返していました。Aさんは持病の治

療のために定期的に来院しています。治療の努力もむなしく検査デー

タは悪化する一方であったため,治療方法を変更することになりまし

た。それからすぐ,症状に異変が起こりました。治療中に嘔吐を繰り

返すようになり,吐き気止めを服用したり,スタッフが背中をさすっ

たりして過ごす治療の日々が続きましたが,一向に改善しません。す

ると,あるスタッフが役職者にこうつぶやきました。「治療方法を変

更したことが原因かもしれません。一度,以前の治療方法に戻した方

がよいのでは?」。しかし,治療方法が戻されることはなく,結局A

さんは,2カ月間嘔吐に苦しみました。

 医療現場において,不確実性の高い限られた情報の中から,患者の治療

における最善の意思決定を行うのは決して容易ではありません。このケー

スも同様で,現状の治療方法のまま継続するべきか,それとも以前の治療

方法に戻すべきかは,単純に判断できるものではないでしょう。

 ただここで注目したいのは,このケースのストーリーの中には,ある2

つの世界が存在するということです。それは,「合理の世界」と「情理の

医療現場に存在する「合理の世界」と「情理の世界」

ケース

メディカルアートディレクター

佐藤和弘医療教育団体MEDIPRO! 創業者/代表

一般社団法人LINK 共同創設者/元理事Kazuhiro_SATO̶̶̶̶̶̶臨床工学技士として複数の医療機関で約10年間,透析医療に従事。患者さんとかかわる中でテクニカルスキル以外にも医療に必要なスキルがあることを実感し,グロービス経営大学院に進学,MBAを取得。そこで出会った経営学やケースメソッドなどのノンテクニカルスキル教育に感銘を受け,当時従事していた医療機関で事故対策委員長としてノンテクニカルスキル教育を導入し,医療安全の質の向上に貢献。その実感から,非営利医療教育団体MEDIPRO!を創業,代表に就任し,ノンテクニカルスキルの普及に努める。これまで,院内研修やスクールなどを通じて約4,100人の医療者にノンテクニカルスキル教育を提供。

合理と情理を

マネジメントし

医療現場を変革する

病院安全教育 Vol.3 No.3 111

世界」です(図1)。「合理の世界」とは,物

事や出来事を客観的にとらえ,論理的に意思

決定していこうとする世界のこと。一方で

「情理の世界」とは,合理的に正しいと考え

られる意思決定を時に阻む,価値観や感情が

支配する世界のことです。このスタッフの提

案は,もしかしたら合理的に正しい判断かも

しれません。そうだとすると,なぜそれが意

思決定されなかったのでしょうか? ここに

情理の世界の難所があるのです。

 役職者の立場で考えた場合,実は5人の人

物が関係してきます。1人目は役職者自身。

2人目は提案したスタッフ。3人目は治療方

法を決定する医師。4人目は実際に業務を行

うほかのスタッフ。5人目は患者です。そし

て,提案が意思決定されなかった原因がそれ

ぞれの人物にあると考えた場合,情理の世界

が明らかになってきます。あくまでも仮説の

話ですが,それは例えば次のようなことです。

・ 役職者自身に原因がある場合:部下の提案

を素直に聞き入れたくないという思いが

あった。

・ 提案したスタッフに原因がある場合:言い

方に問題があった。横柄だった。

・ 医師に原因がある場合:役職者が提案しづ

らい雰囲気があった。高圧的だった。

・ ほかのスタッフに原因がある場合:治療方

法の変更に伴い業務が煩雑になるのが嫌

だった。

・ 患者に原因がある場合:治療方法を再度変

更することに不安があった。

 したがって,提案したスタッフの意見が仮

に合理的に正しい意思決定だったとしても,

これら情理の世界を乗り越えていかなけれ

ば,実際に実行されることはない。これが,

医療現場のリアリズムとしてあるのです。

組織変革を最も困難にする「空気の支配」 その情理の世界の象徴が,「KY:空気を読め

ない」という言葉です。「その場を支配してい

る空気を読み,空気を乱すことなく,空気の

求める言動をすべし」という無言の圧力が組

織には必ずあります。では,その空気はなぜ

生まれるのでしょうか? ここには3つの強

力な集団バイアスがかかわっています(図2)。

●同調行動(同調圧力) ある集団を集めて社会実験が行われまし

た。問いは,図3のような絵を見せ,「Aの

棒と同じ長さの棒はどれですか?」というも

の。答えは当たり前ながらB。しかし実は,

その集団のうち1人以外は仕掛け人たちで,

全員がDと答えました。では,鎌をかけられ

た残りの1人はどう答えたと思いますか? 何

と,仕掛け人たちと同じDと答えたのです。

このように組織には,集団多数と同じ行動を取

組織変革を最も困難にする「空気の支配」

図1 医療現場の2つの世界

医療現場の世界

合理の世界 情理の世界

図2 空気が生まれる源泉

3つの集団バイアス

同調行動 集団分極化 集団浅慮

図3 同調行動の実験

A B C D

病院安全教育 Vol.3 No.3112

らなければならないという圧力が存在します。

●集団分極化(リスキーシフト) 「赤信号,みんなで渡れば怖くない」とい

う言葉があるように,集団になると極端な意

思決定や行動を取ってしまう傾向がありま

す。そして,ここには2つの視点があります。

1つは,他者に対して自己主張することに

よってステータスを感じたいという欲求(承

認欲求)。もう1つは,個人の時よりも,集

団の時の方がリスクが分散できるだろうと考

えてしまうことです。施設や組織の不祥事

も,この集団分極化が大きくかかわっている

場合が少なくありません。

●集団浅慮(グループシンク) 組織で意思決定する場合に,メンバー間の

合意形成を行うこと自体を重視してしまい,

適切な意思決定ができない現象のことを集団

浅慮と言います。「あの人に嫌われたくない」

「言い争うのが面倒臭い」「議論に労力をかけ

たくない」といった感情によって,当たり障

りのないうわべの議論や意思決定で終わって

しまい,根本的な問題解決がなされず,結局

同じ問題が起こる。この繰り返しからいつま

でも脱却できないことは,この集団浅慮がいか

に深く根づいているかを明確に表しています。

空気の支配を打ち破るカギは「共通言語」 これら3つの集団バイアスから生まれる空

気の支配は,巨大で強力なパワーを持ってい

る一方,目に見えず,つかみどころがなく,

そして組織の奥深くまで浸透していく,非常

に厄介な存在です。しかし,この空気の支配

を打ち破らなければ,組織変革はありません。

では,それには何が大切なのでしょうか?

 実は,本誌Vol.1,No.5に掲載されたあ

るレポートに,その答えが明確に記されてい

ます。当該レポートである「ここから始め

る! 身近なノンテクニカルスキル教育の実

際①」には,筆者が以前ノンテクニカルスキ

ル研修を行った東神戸病院の事例が掲載され

ており,そこで,退院不可能と言われた患者

の退院が実現できた例が紹介されています。

その内容は次のとおりです。

 外国籍の患者Aさんは症状コントロールが

不良で,治療に積極的ではなく,リハビリ

テーションにも非協力的で食事もあまり食べ

ません。しかも,医師からは退院は無理とさ

れていました。そこで,ノンテクニカルスキル

研修で学んだ「重要思考」(本連載第8回の

テーマ)を組織で実践し,部署を越えてチー

ム連携しながら諦めずにトライアンドエラー

を繰り返したことで,次第に症状緩和ができ,

リハビリテーションや食事,治療にも積極的

になったという,非常に素晴らしい事例です。

 さて,実はこれには続きがあります。この

事例を体験した後,当レポートの執筆者であ

る医療機器安全管理責任者の方が,ノンテク

ニカルスキル研修の成果だとおっしゃってい

た病棟師長の方に,ある質問をしました。そ

れは,「もともとこの病棟は昔からカンファ

レンスにこだわってやってきているし,師長

ご自身も経験が豊富で,今までもいろいろな

困難事例を経験しているので,ノンテクニカ

ルスキル研修を受けていなくても,退院まで

持っていけたということはないですか?」と

いう質問です。そうすると,病棟師長ははっ

きりと言ったそうです。「それはないですよ。

あのノンテクニカルスキル研修を受けた後,

患者について『大事なことは何だろう?』と,

多くのスタッフがそれを合い言葉のようにし

てカンファレンスを何度も重ねた結果です。

重要思考が『共通言語』になっていなかった

ら,あそこまでこだわって患者のことを考え

ることはできなかったのではないかと思いま

す」と。

空気の支配を打ち破るカギは「共通言語」

病院安全教育 Vol.3 No.3 113

 皆さんお気づきになったと思います。これ

までであれば成し遂げられなかったかもしれ

ない「真の患者視点」の医療提供。医師から

は退院は無理と言われている以上,「このま

までいい」「仕方がない」「どうしようもない」

という空気の支配が現場にあっても全くおか

しくありません。しかし,その空気の支配を

打ち破り,Aさんの退院を実現できたのは,

組織の中に「Aさんにとって本当に大事なコ

トは何かを考え,考え続ける」という「共通

言語」があったからにほかなりません。たっ

た一つの共通言語が,Aさんを救ったのです。

組織変革を実現する共通言語は,組織学習でしかつくられない 筆者はいつも院内研修の最初に,参加者の

方々にこう伝えています。

 「残念ながら,個人で学習しても現場は変

わりません。現場は組織の原理で動いてお

り,そこに共通言語がないからです。いくら

個人で新しい知識や技術を身につけ,それを

現場で実行しようとほかのスタッフに訴えた

としても,ほかのスタッフにそれに関する知

識や技術,必要性や意義,自分や患者さん,

病院の具体的メリットなどの『共通言語』が

なければ,『何で忙しいのにそんなことをし

ないといけないの!?』と理解・納得・共感

してもらうことはできません。これが個人の

学習の限界です。したがって,本当に現場で

実践しようと思うならば,組織で学習し,『共

通言語』をつくらなければなりません」

 これは,筆者がこれまでたくさんの医療機

関や医療者の方々と対話して気づいた一つの

結論です。組織学習なくして共通言語はつく

られず,共通言語なくして組織変革はありま

せん。

組織変革のサイクルを回し続ける 図4は,筆者が院内研修で必ず最後に示す

「組織変革のサイクル」です。ノンテクニカ

ルスキル教育にかかわらず,すべての医療教

育はこのサイクルを回し続けることで,初め

て現場で実行されます。逆に言えば,これら

のいずれかがストップすると,変革は実現で

きません。

 この中でまず意識するのは,院内研修など

の組織学習の計画と,実行・成果の計画は両

輪で考えるということ。研修の内容だけを一

生懸命つくり込み,仮にそれで高い学習効果

を生み出したとしても,スタッフは自ら現場

で実践できません。なぜならば,先述した集

団バイアスが現場にあるからです。したがっ

て,実行・成果を計画し他者に明確に見える

化するのに加えて,ある種の「強制力」もな

ければ人も組織も動きません。

 同じく重要なのが,実行・成果のスモール

ウィン(小さな成功)を意図的に演出し,実

感させることです。なぜならば,スモール

ウィンを実感することで,組織学習した学び

に何の意味があるのかを初めて正しく理解で

き,腹落ちするからです。そしてそれが,次

の組織学習や現場実行につながっていき,組

織変革は成し遂げられていきます。

 これこそがノンテクニカルスキルの本質で

あり,その価値なのです。

組織変革を実現する共通言語は,組織学習でしかつくられない組織変革を実現する共通言語は,組織変革を実現する共通言語は,

組織変革のサイクルを回し続ける

図4 組織変革のサイクル

組織で学習し共通言語をつくる

現場の実行と成果を「見える化」

スモールウィン

(小さな成功)

実感と意欲

病院安全教育 Vol.3 No.3114

参考文献&ポイント学習ガイド・冨山和彦:結果を出すリーダーはみな非情である,ダイヤモンド社,2012.・佐藤和弘:はじめてのノンテクニカルスキル 図解シンプルな思考・伝達・議論・交渉・管理・教育の技術60,日総研出版,2014.〈参考Webサイト〉MEDIPRO!:www.medi-pro.org  佐藤和弘SlideShare:http://www.slideshare.net/satokazuhiro1980〈院内研修などの問い合わせ〉[email protected]

今回のポイント

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医療現場には「合理」と「情理」の2つの世界がある

合理的に正しい意思決定でも,情理の世界を乗り越えなければ実際に実行できない

空気の支配は「同調行動」「集団分極化」「集団浅慮」の3つの集団バイアスが大きく影響している

空気の支配を打ち破るためには,組織学習を通じた「共通言語」づくりがカギになる

組織学習と現場実行を通じて,組織変革のサイクルを回し続ける

組織変革がノンテクニカルスキルの本質的価値である

病院安全教育 Vol.3 No.3 115