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1 参考資料 研究の背景 哺乳類の生殖は、視床下部脳下垂体性腺で構成される内分泌系で調節されてい ます。最上位にある視床下部で性腺刺激ホルモン放出ホルモン(GnRH)が産生され、 脳下垂体に作用して性腺刺激ホルモンの分泌を調節しています。GnRH の分泌パター ンはパルス状で、数十分から数時間間隔の規則正しいリズムを持っています。 心臓の活動がペースメーカー細胞の支配下にあり、休息や行動、緊張の状況に応じ てその拍動が調節されるように、性腺の活動は、生殖内分泌系のペースメーカーであ GnRH パルス分泌機構によって制御されています。繁殖季節や性成熟を迎えた動物 では、パルス分泌の頻度が高まって性腺活動が活発となり、逆に、栄養状態が悪くな ったり、過度のストレスがかかったりすると、パルス分泌の頻度は著しく低下し、性 腺の活動が抑制されます。 このように生体内外の情報を統御し、卵子や精子の発育を調節する最上位に位置す GnRH パルス分泌機構は重要な役割を担っていますが、その実体が視床下部のどこ に存在し、パルス状の活動のリズムがどのようにして作り出されているのかは、大き な謎のまま残されていました。 研究の経緯 キスペプチンは 2001 年に発見された新たな神経ペプチドとして知られています。 その後、キスペプチンあるいはその受容体遺伝子の変異が生殖機能不全につながるこ と、多くの哺乳動物でキスペプチンが GnRH の分泌を強く促進すること、その産生細 胞が視床下部に分布することなど、キスペプチンが生殖に深く関わっていることを示 す知見が次々と報告されました。 私たちの研究グループでは、まず、キスペプチン神経細胞が GnRH パルス分泌を制 御している本体ではないかという仮説を立て、実験を行いました。その結果、ヤギで キスペプチン神経細胞の活動を計測したところ、 2030 分間隔の非常に規則正しい神 経活動の上昇があり、その一つ一つに対応して黄体形成ホルモン(LH)が血中にパ ルス状に分泌されていることが明らかとなりました(図 1、参考論文 1)。 この成果は、当初の仮説が正しいことを強く支持するものであると同時に、私たち がヤギで確立した脳内に留置した電極から神経活動を記録する手法が、キスペプチン 神経細胞の活動を解析する上で非常に有用なツールであることを示しています。 研究の内容・意義 1.ヤギ脳内の視床下部にあるキスペプチン神経細胞は、細胞同士が密集 して存在し、神経線維でネットワークを形成しているような形態をとり(図 2A)、 その多くに、神経細胞を興奮させる作用を持つニューロキニン B NKB)という物 質と、逆に興奮を抑制する作用を持つダイノルフィン(Dyn)という物質が含まれ ていること(図 2B)を明らかにしました。 2.キスペプチン神経細胞の活動に及ぼす NKB 投与あるいは Dyn 投与の影響を解析 し、NKB GnRH の放出を指令するキスペプチン神経細胞の活動を促進し、逆に Dyn は抑制することを明らかにしました(図 2C)。特に NKB の促進作用は、これ までマウス・ラットでの実験結果から抑制作用を有すると推測されていたのとは逆 のものであり、私たちが確立した手法でのみ明らかにすることができた大きな発見

生殖を操るリズムを生み出す脳内メカニズムを解明 …...2010/05/28  · 3 であること、また、強い性腺刺激ホルモン放出ホルモン分泌促進作用を持

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Page 1: 生殖を操るリズムを生み出す脳内メカニズムを解明 …...2010/05/28  · 3 であること、また、強い性腺刺激ホルモン放出ホルモン分泌促進作用を持

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参考資料

研究の背景

哺乳類の生殖は、視床下部—脳下垂体—性腺で構成される内分泌系で調節されてい

ます。最上位にある視床下部で性腺刺激ホルモン放出ホルモン(GnRH)が産生され、

脳下垂体に作用して性腺刺激ホルモンの分泌を調節しています。GnRH の分泌パター

ンはパルス状で、数十分から数時間間隔の規則正しいリズムを持っています。 心臓の活動がペースメーカー細胞の支配下にあり、休息や行動、緊張の状況に応じ

てその拍動が調節されるように、性腺の活動は、生殖内分泌系のペースメーカーであ

る GnRH パルス分泌機構によって制御されています。繁殖季節や性成熟を迎えた動物

では、パルス分泌の頻度が高まって性腺活動が活発となり、逆に、栄養状態が悪くな

ったり、過度のストレスがかかったりすると、パルス分泌の頻度は著しく低下し、性

腺の活動が抑制されます。 このように生体内外の情報を統御し、卵子や精子の発育を調節する最上位に位置す

る GnRH パルス分泌機構は重要な役割を担っていますが、その実体が視床下部のどこ

に存在し、パルス状の活動のリズムがどのようにして作り出されているのかは、大き

な謎のまま残されていました。 研究の経緯

キスペプチンは 2001 年に発見された新たな神経ペプチドとして知られています。

その後、キスペプチンあるいはその受容体遺伝子の変異が生殖機能不全につながるこ

と、多くの哺乳動物でキスペプチンが GnRH の分泌を強く促進すること、その産生細

胞が視床下部に分布することなど、キスペプチンが生殖に深く関わっていることを示

す知見が次々と報告されました。 私たちの研究グループでは、まず、キスペプチン神経細胞が GnRH パルス分泌を制

御している本体ではないかという仮説を立て、実験を行いました。その結果、ヤギで

キスペプチン神経細胞の活動を計測したところ、20〜30 分間隔の非常に規則正しい神

経活動の上昇があり、その一つ一つに対応して黄体形成ホルモン(LH)が血中にパ

ルス状に分泌されていることが明らかとなりました(図 1、参考論文 1)。 この成果は、当初の仮説が正しいことを強く支持するものであると同時に、私たち

がヤギで確立した脳内に留置した電極から神経活動を記録する手法が、キスペプチン

神経細胞の活動を解析する上で非常に有用なツールであることを示しています。 研究の内容・意義

1.ヤギ脳内の視床下部にあるキスペプチン神経細胞は、細胞同士が密集

して存在し、神経線維でネットワークを形成しているような形態をとり(図 2A)、

その多くに、神経細胞を興奮させる作用を持つニューロキニン B(NKB)という物

質と、逆に興奮を抑制する作用を持つダイノルフィン(Dyn)という物質が含まれ

ていること(図 2B)を明らかにしました。 2.キスペプチン神経細胞の活動に及ぼす NKB 投与あるいは Dyn 投与の影響を解析

し、NKB は GnRH の放出を指令するキスペプチン神経細胞の活動を促進し、逆に

Dyn は抑制することを明らかにしました(図 2C)。特に NKB の促進作用は、これ

までマウス・ラットでの実験結果から抑制作用を有すると推測されていたのとは逆

のものであり、私たちが確立した手法でのみ明らかにすることができた大きな発見

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となりました。 3.一方、共同研究者のマウスでの実験から、キスペプチン神経細胞には、NKB と

Dyn のいずれの受容体も共存していることが明らかになっています(参考論文 2)。 4.これらの一連の研究結果を総合して考えると、キスペプチン神経細胞の周期的な

活動リズムは、その神経細胞のネットワークの中でアクセルとしての NKB とブレ

ーキとしての Dyn の拮抗した相互作用により生み出され、その周期的な神経活動

リズムは神経ペプチドであるキスペプチンや GnRH、LH のパルス状分泌に変換さ

れ、最終的に性腺の活動を制御しているものと考えられます(図 3)。 5.昨年、ヒトにおいて NKB あるいはその受容体の遺伝子変異を持つ家系では、重

篤な性腺機能不全になることが発見され大きな関心を集めましたが、その理由につ

いては全くわかっていませんでした(参考論文 3)。しかし、本研究での発見によ

り(図3)、そのような症例では NKB 伝達系が働かないため、性腺の活動を高め

るリズムが作られていないことが原因であると考えられます。 今後の予定・期待

種の維持に不可欠な生命活動である生殖の調節を司る中枢機構は、哺乳動物の間で

広く保存されており、今回ヤギで得られた知見は、哺乳類に共通した生殖制御のメカ

ニズムを示していると考えられます。 畜産の分野では、様々なストレスによる繁殖効率の低下が大きな問題になっていま

すが、これまで抜本的な対策をとることはできませんでした。 しかし、今回明らかとなった生殖リズムを生み出す神経機構は、生殖に影響を及ぼ

す生体内外の環境要因の変化の作用点と考えられます。したがって、今後、この神経

機構に及ぼす各種環境要因の作用メカニズムを探求し、生殖にとって負の要因となる

ストレスを取り除き、さらに積極的にリズムを生み出す方策を明らかにすることによ

って、家畜などの繁殖を向上させる技術開発が進められていくものと期待されます。 さらに、生殖医療分野においては、これまで原因のわからなかった不妊症や遺伝的

生殖機能不全を科学的に解明し、その治療方針や創薬のターゲットを決めるために重

要な基礎知見の提供に大きく貢献することが期待されます。 発表論文 Wakabayashi Y, Nakada T, Murata K, Ohkura S, Mogi K, Navarro VM, Clifton DK, Mori Y, Tsukamura H, Maeda K-I, Steiner RA, Okamura H Neurokinin B and dynorphin A in kisspeptin neurons of the arcuate nucleus participate in generation of periodic oscillation of neural activity driving pulsatile GnRH secretion in the goat. J Neurosci, February 24, 2010, 30(8), 3124-3132 用語の解説・補足説明

視床下部:性欲や食欲などの本能行動や、生殖や成長などに関わる内分泌機能など、

重要な生命活動を統御する脳の部位。 脳下垂体:性腺刺激ホルモンや成長ホルモンなど、多くのホルモンを分泌する内分泌

器官。脳に接して、脳の直下(腹側)に存在し、脳の一部が伸びてぶら下

がっているように見えることからこの名があります。 性腺:雌の卵巣と雄の精巣を総称する用語。生殖腺とも呼ばれます。 キスペプチン:52~54 個のアミノ酸からなるペプチド。発見当初、癌の転移を抑制す

る作用を持つことから、メタスチンと命名されましたが、Kiss1 遺伝子産物

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であること、また、強い性腺刺激ホルモン放出ホルモン分泌促進作用を持

ち、生殖との深い関わり合いが明らかとなったことで、今ではキスペプチ

ンと呼ばれることが一般的です。 性腺刺激ホルモン放出ホルモン(GnRH):視床下部で産生される脳ホルモンの一つ

で、正中隆起から下垂体門脈中に放出され、脳下垂体に作用し性腺刺激ホ

ルモンの産生・分泌を制御します。GnRH は Gonadotropin-Releasing Hormoneの略語。

黄体形成ホルモン(LH):脳下垂体で産生される性腺刺激ホルモンの一つ。GnRH の

作用により末梢循環に放出され、性腺に作用して卵子や精子の発育に関与

します。LH は Luteinizing Hormone の略語。 神経ペプチド:神経細胞内で産生され、細胞間あるいは細胞内の情報伝達を担うペプ

チドの総称。 ニューロキニン B(NKB):サブスタンス P、ニューロキニン A とともに、タキキニ

ン類に属する神経伝達物質の一つ。一般的に神経細胞を興奮させる作用を

持つとされ、癲癇、鬱、不安などに関与することが示唆されていますが、

明確な生理機能はまだわかっていません。昨年、NKB あるいはその受容体

である NK3 の遺伝子変異を持つ家系では、重篤な性腺機能不全になること

が発見され(参考論文 3)、生殖に関与している可能性が示されています。 ダイノルフィン(Dyn):オピオイド(内在性のアヘン類縁物質)の一種である神経

伝達物質。中枢神経系に広く存在し、カッパオピオイド受容体に結合して

神経細胞の働きを抑制します。オキシトシンやバソプレシンなどの分泌調

節への関与がよく知られています。GnRH の分泌調節にも関与しているこ

とが報告されていますが、その作用機構は不明でした。 参考論文 1. Ohkura S, Takase K, Matsuyama S, Mogi K, Ichimaru T, Wakabayashi Y, Uenoyama Y,

Mori Y, Steiner RA, Tsukamura H, Maeda KI, Okamura H. Gonadotrophin-releasing hormone pulse generator activity in the hypothalamus of the goat. J Neuroendocrinol 2009; 21: 813-21.

2. Navarro VM, Gottsch ML, Chavkin C, Okamura H, Clifton DK, Steiner RA. Regulation of

gonadotropin-releasing hormone secretion by kisspeptin/dynorphin/neurokinin B neurons in the arcuate nucleus of the mouse. J Neurosci 2009; 29: 11859-66.

3. Topaloglu AK, Reimann F, Guclu M, Yalin AS, Kotan LD, Porter KM, Serin A, Mungan

NO, Cook JR, Ozbek MN, Imamoglu S, Akalin NS, Yuksel B, O'Rahilly S, Semple RK. TAC3 and TACR3 mutations in familial hypogonadotropic hypogonadism reveal a key role for Neurokinin B in the central control of reproduction. Nat Genet 2009; 41: 354-8.

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図 1 キスペプチン神経細胞の活動と血中黄体形成ホルモン(LH)濃度の対応

右のグラフから、周期的な神経活動の上昇に伴い、血中 LH 濃度が脈動的に変動し

ていることがわかります。脳下垂体からの LH 分泌は視床下部ホルモンである性腺刺

激ホルモン放出ホルモン(GnRH)により制御されているため、キスペプチン神経細

胞の活動の上昇は GnRH を下垂体門脈中に放出させる指令であると考えられます。

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図 2 キスペプチン神経細胞の形と機能

A、キスペプチン神経細胞の組織像:視床下部後部に分布するキスペプチン神経細胞

は集団を形成し、神経線維でお互いが連絡をとるネットワーク構造をとっています。 B、同一組織切片上での、キスペプチン、ニューロキニン B(NKB)、ダイノルフィン

(Dyn)の三重染色像:右端は、3 つの像を合成したもの。すべてのシグナルが同

じ細胞上に重なっており、キスペプチン神経細胞には、ニューロキニン B とダイノ

ルフィンが共存していることがわかります。 C、キスペプチン神経細胞の活動に及ぼすニューロキニン B あるいはダイノルフィン

の影響:キスペプチン神経細胞では、周期的な神経活動の上昇(GnRH を放出させ

る指令)が起きています(図左)。NKB を投与すると、キスペプチン神経細胞の活

動は強く刺激され、短いインターバルで神経活動の上昇が誘起されます(図中)。

一方、Dyn は神経活動を抑制し、投与後しばらくの間は活動の上昇が見られません

(図右)。

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図 3 生殖のペースメーカーとしてのキスペプチン神経細胞の作用を示す模式図

キスペプチン神経細胞では、神経細胞の発火(興奮)を促進する NKB 系と抑制す

る Dyn 系とのせめぎ合いがあり、Dyn の力が弱まり NKB の力が優勢になると、細胞

は発火します。その情報は NKB によりネットワークを構成する細胞に伝わり、協調

した一斉発火が起きる一方、発火が起きると Dyn も同時に放出され、NKB の作用か

らやや遅れて、自分自身あるいは周囲の細胞の発火を抑制するように作用します。こ

のようにして、キスペプチン神経細胞ネットワーク内では周期的な神経活動の上昇が

形成されます。周期的な神経活動の上昇は、キスペプチンのパルス状分泌を引き起こ

し、GnRH を介して脳下垂体からパルス状に LH が分泌されます。 相対的に NKB 系の力が強い時(例えば、繁殖季節や性成熟期)には神経活動上昇

の頻度(リズム)は速まり、逆に Dyn 系の力が強い時(例えば、低栄養やストレス状

態の時)にはリズムは遅くなります。このように、キスペプチン神経細胞は生殖のペ

ースメーカーとして働き、そのネットワーク内で生み出される神経活動のリズムによ

って性腺の活動を調節していると考えられます。