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1 Chapter 1: 徹底図解:ASL ルールブックの例 BD 章編 一部の例は、ルールブックの簡潔な説明で自明であるとか、酷似した内容が重複しているという理由から省略している。 弾痕 CC3の底にいる分隊は、 BB3の小峡谷弾痕区域の底へ2MFコストで進入できるが、そこの弾痕TEMを適用させたければ 3MFを消費する。 次にAA3へと移動する場合、2MF(開豁地)3MF(弾痕TEM を適用したければ)の移動コストとなる。 切通し道路 該当ルール(改): 切通し道路の底にいるユニットは、暗い茶色の等高線にかからなければ、他の切通し道路ヘクスを通してLOSを引け るが、そうでなければ他の切り通し道路レベルのヘクスを見ることができない。 14T3にいる4-6-7は、隣接する6ヘクスは問題なくLOSが通じる。 くわえてV4W5R4だけを見ることができる。R4を見ることができるのは、地上レベルの絵によって遮断されずにLOS を引ける最初の地上レベルのヘクスだからである。 弾痕 TEM なし=2MF 弾痕 TEM あり=3MF 弾痕 TEM なし=2MF 弾痕 TEM あり=3MF

Chapter 1: ASL ルールブックの例 B D - boardwalk.co.jp · 2 Chapter 2: シナリオケーススタディ:ST. BARTHELEMY BASH 「ASL journal」第1号収載のこのシナリオは、ノルマンディ戦役の

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Page 1: Chapter 1: ASL ルールブックの例 B D - boardwalk.co.jp · 2 Chapter 2: シナリオケーススタディ:ST. BARTHELEMY BASH 「ASL journal」第1号収載のこのシナリオは、ノルマンディ戦役の

1

Chapter 1:

徹底図解:ASLルールブックの例 B~D章編

一部の例は、ルールブックの簡潔な説明で自明であるとか、酷似した内容が重複しているという理由から省略している。

弾痕

CC3の底にいる分隊は、BB3の小峡谷弾痕区域の底へ2MFの

コストで進入できるが、そこの弾痕TEMを適用させたければ

3MFを消費する。

次にAA3へと移動する場合、2MF(開豁地)か3MF(弾痕TEM

を適用したければ)の移動コストとなる。

切通し道路

該当ルール(改):

切通し道路の底にいるユニットは、暗い茶色の等高線にかからなければ、他の切通し道路ヘクスを通してLOSを引け

るが、そうでなければ他の切り通し道路レベルのヘクスを見ることができない。

14T3にいる4-6-7は、隣接する6ヘクスは問題なくLOSが通じる。

くわえてV4、W5、R4だけを見ることができる。R4を見ることができるのは、地上レベルの絵によって遮断されずにLOS

を引ける最初の地上レベルのヘクスだからである。

弾痕 TEMなし=2MF

弾痕 TEMあり=3MF

弾痕 TEMなし=2MF

弾痕 TEMあり=3MF

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Chapter 2:

シナリオケーススタディ:ST. BARTHELEMY BASH

「ASL journal」第1号収載のこのシナリオは、ノルマンディ戦役の典型的なボカージュ地帯の戦闘で、米軍戦車駆逐部隊の

守備するエリアを、独軍の装甲部隊が突破するというシチュエーションとなっている(戦史の詳細については、次章の

「Armor」誌翻訳記事を参照)。

このケーススタディでは、防御側の米軍の視点から記述する。

シナリオの概要

上図のとおり、デラックス ASLのマップボードを長辺に沿って 3枚つなげ、6枚ものオーバーレイを置く。マップ eの丘

のレベル 2はレベル 1とみなし、切通し道路は狭い―つまりこの道路は 1車線橋と同じ通行上の制限が課される(「その

Lv2なし

米軍初期

配置エリア

狭い切通し道路

狭い切通し道路

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Chapter 3:

1944年 8月の第 823戦車駆逐大隊の戦い Credit: Armor Magazine, Dr. Charles M. Baily and Mr. Jay Karamales

注:本稿は、米軍が発行する「Armor」誌、1992年1-2月号の記事「The 823d at Mortain: Heroes All」(Charles M. Baily

博士とJay Karamales氏)の全訳である。

戦力の比較は、たいていは兵力と武力の「数的勘定」になり、勇気という重要な要素は、戦力比較で用いられるモデルで

数量化することはできないのが普通である。しかし 1944年のモルテン(フランス)で示された勇気は、テクノロジーも

数の論理をも撃ち負かした。この時、米軍は西部戦線で運気を取り戻そうとした敵の試みを頓挫させたのである。

モルテンでは、「数的勘定」は米軍にとって特に不利なものであった。攻撃側の独軍の兵力は 25,500名で、防御側の第

30歩兵師団の一部連隊 6,000名を凌駕していた。それに第 47装甲軍団には、戦車が 4倍近くあった。これに輪をかけて

問題なのが、明かなテクノロジー上の不利であった―歩兵の対戦車火器、配属された戦車や駆逐戦車大隊の牽引砲では、

パンターの車体正面装甲を撃ち抜けなかったのである。Dデイから 6週間近くが経とうとしていたが、独軍は連合軍を狭

い拠点に閉じ込めて、消耗戦を続けた。だが 7月 25日に、米軍はサン・ローを突破した。独軍からしてみれば、情勢は

破滅的であった。静的な防御であれば、独軍は持ちこたえることができた。大部分が馬匹輸送で、動きも連合軍の航空優

勢のせいで筒抜けという状況では、独軍は機動戦で太刀打ちできなかった。戦局打開のため、独軍は必死に戦力をかき集

め、アブランシュ方面へ反攻し、米軍の唯一の補給線を断とうともくろんだ。独軍の野戦司令官は、アブランシュにたど

り着き、セー川沿いに防衛線を敷き、南方へ戦果拡張する敵戦力を分断するのがねらいだった。ヒトラーはといえば、米

軍を海へ蹴落とすという楽観的な夢想にふけっていた。

モルテンの戦い

攻撃にあたり独軍は、4個の装甲師団を集めた。その陣容は、第 1SS装甲師団、第 2SS装甲師団、第 2装甲師団、第 116

装甲師団である。これらの師団全体で 120~190両の戦車がおり、その半数がパンターであった。主攻勢を先導する第 2

装甲師団は、バルテルミー・ジュビニー街道に沿って攻撃を行うこととなっており、続いて第 1SS装甲師団が戦果拡張し

てアブランシュを奪取するという手筈になっていた。第 116装甲師団は北翼を掩護し、第 2SS装甲師団は南部を守備する

とともに 314高地を押さえる段取りであった。この高地は戦術的に見て重要であった。ここからは、アブランシュの南に

いる米軍の全てを見渡すことができたからである。Hアワー(攻撃開始時刻)は 8月 6日午前零時。行く手に立ちはだか

るのは、第 30歩兵師団とこれに配属されている第 823戦車駆逐大隊だけであった。

遡る 8月 6日の朝、第 30歩兵師団はモルテンにいる第 1歩兵師団との交代のため南へ動いた。交通渋滞に遮られ、師団

が所定位置に着くまでに丸一日かかり、2000時になろうとしていた。攻撃開始までほんの 4時間である。第 117歩兵連

隊はサン・バルテルミーを守り、第 120歩兵連隊はモルテンと 314高地に陣取っていた。第 119歩兵連隊は予備として置

かれた。時間が足りないせいで、一時休止時の防御のみを目的として、第 1歩兵師団がいた陣地に拙速に展開することを

余儀なくされた。後に第 30歩兵師団は、自身の防御陣地を構築できないことは、モルテン防衛の重大な問題であると結論

を出した。

独軍も交通渋滞で遅れて、0600時まで攻撃にとりかかることができなかった。南では第 2SS 装甲師団が、314高地の周

辺へと 2方向から進撃した。南部を進撃した部隊は、米軍の防御陣を蹂躙し、モルテンを確保した上に、南西へ 5マイル

も貫入した。だが、ラベイ・ブランシュに配置されていた道路障害が、北側での突進に待ったをかけた。第 2装甲師団は、

サン・バルテルミーの抵抗を迂回し、どうにかル・メニル・アドレまで進撃した。しかし、主攻勢は 7日の正午に行き詰

まった。まだ目標から 10マイル以上も離れたところである(図 1)。俯瞰して見ると、モルテンへの独軍の攻撃は、後の

アルデンヌ攻勢の予行のようであった。つまり、主攻勢はどこにも進めない代わりに、副次的な攻勢が恐ろしいくらいに

深く前進するが、その行く先は作戦的には無意味なのである。

モルテンとサン・バルテルミーは落ちたが、第 30歩兵師団は大きな損害を負いながらも、ジュビニー街道を下る進撃をス

トップさせたし、314高地は保持していた。戦後になってドイツ人の文筆家らは、文章の中で戦場での敗退を説明するに

あたり、米軍の戦術的な技量や勇気を認めたがらず、たいていは連合軍の航空戦力と物量に負けたのだとしている。モル

テンの戦いについて書いたあるドイツ人作家は、「最初の攻撃は、航空戦力によって完膚なきまでに阻止された」と述べ

ている。しかしこれは、独軍の主攻勢が初日の昼前―霧が晴れて、空軍がその役目を果たせる前―に頓挫した理由の説明

になっていない。攻撃が打ちのめされた真の理由は、防御側の戦闘行動に見ることができる。

以降の記述は、第 823戦車駆逐大隊の兵士達に焦点をあてたものである。

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Chapter 4:

WWIIにおける米軍駆逐戦車 Credit: Armor Magazine, John A. Nagl

注:本稿は、米軍が発行する「Armor」誌、1991年1‐2月号の記事「Tank Destroyers in WWII」(John A. Nagl中尉)の全

訳である。

1944年11月、ルア平野で第9軍が攻勢を行う頃には、第2機甲師団の戦車兵は、M4シャーマンでパンターやティーガーと戦

う術(すべ)を学んでいた。75mm砲から放たれる長さ13インチの低速砲弾では、いかなる距離であってもパンターやティ

ーガーの分厚い正面装甲を貫けないが、側面や後面からならダメージを及ぼせることはわかっていた。そのためシャーマ

ンの戦車兵は、複数の小隊で攻撃した。1個小隊で敵の注意を惹き、別働隊が敵の背後へと機動するのである。ある程度の

確実さをもってパンターを仕留められる唯一の車両は、90mm砲を備えたM36スラッガー駆逐戦車であったが、装甲は非常

に薄く、砲手の頭上には防護がなかった。

1944年11月17日の夜明け直後、第67機甲連隊の第1、第2大隊は、プフェンドルフ周縁の斜面に整列しており、ゲレオンス

ヴァイラー方面への攻撃準備は整っていた。不意に、歴戦の第9装甲師団に所属する20~30両のパンターとティーガーが、

シャーマンに攻撃を仕掛けてきた。両陣営から飛んでくる強力な砲兵支援が歩兵を釘付けにして、混じりけなしの戦車戦

が現出した。形勢は米軍に不利に進んだ。

独軍の戦車は高台から見下ろしており、米軍陣地周囲の斜面地形では、シャーマンが敵の後ろに回り込むような機動は無

理な話であった。最悪なのは、シャーマンの75mm砲と76mm砲では、独軍の重量級戦車には、ほぼ無力なことである。あ

るシャーマンは、ティーガーになにがしかの効果を認めるまでに14発撃っている。中隊によっては戦車が3~4両にまで減

る事態になって、大隊司令官は後方の在来型陣地にいる駆逐戦車に前進を要請した。90mm砲を搭載するM36「缶切り」が

独軍戦車を撃退したが、この日の戦いは高くついた。第2機甲軍は、この日だけで38両の中戦車と19両の軽戦車を失い、350

人を超える死傷者を出した。

機甲学校の報告書は、この戦闘を「第2機甲軍が経験した中で最大の戦車戦」と記述し、プフェンドルフでの進撃停滞を「我

が軍の戦車が砲、装甲、機動性で劣っていた」ことに起因するものだとしている。戦闘から2日後の面談調査で、ある戦車

兵の語った言葉はより明快である―「武器開発部門は、しゃきっとする必要があると思う」

どうして米軍戦車がプフェンドルフで打ち負かされ、独軍戦車を撃退するのに駆逐戦車を要請する羽目になったのかとい

う話は、戦車駆逐軍団の歴史と深く関わっている(訳注:部隊名になると慣例的に「戦車駆逐」とひっくり返るのは、構

成兵器システムに牽引対戦車砲が含まれることがあるため)。戦車駆逐部隊は、今では歴史にその名をとどめるだけとな

っている。その人員は、第二次世界大戦時にヨーロッパ戦域で活動した4個野戦軍の中で約6%の比率を占めるに過ぎず、

部隊構成は、独立した56個の戦車駆逐大隊、13群の司令部、1個旅団の司令部からなっていた。1個戦車駆逐集団と8個の大

隊は太平洋戦域で活動し 北アフリカで任務につくものもあった。しかし、ヨーロッパの戦争が終わって1年経つかという

時に、戦車駆逐大隊は全隊解散し、この兵器システムが米陸軍で日の目を見ることは二度となかった。

駆逐戦車はもう存在しないが、なぜ、どのようにして開発され配備されたのか、そして廃止された理由を知ることは、現

代の陸軍指揮官にとって貴重な教訓となる。そういった教訓には、全レベルにわたる歩兵部隊に不可欠な対戦車能力、実

戦的な訓練での諸兵種連合行動の重視、脅威となる敵戦力の弱点を特定・活用するドクトリンの必要性が含まれる。そし

てこれが一番重要なことであるが、第二次世界大戦における駆逐戦車の歴史は、不完全なドクトリンと能力で勝る相手を

超克し、勝利への道をつかんだ米軍兵士らの勇気と機略を示した輝かしい一例となっていることである。

戦車駆逐軍団の発足

「戦車は、各種口径の火砲のたやすい餌食である」

(ルーデンドルフ将軍、1918年)

1939年にポーランドを、1940年にフランスを蹂躙するのに用いられた独軍の電撃戦ドクトリンの成功によって、第一次世

界大戦以来支配的であった対戦車防御の概念の再考がせまられた。対戦車防御に関する考え方には、以下の2派があった。

・近接航空支援をつけて戦車で攻撃するという「射撃には射撃を」という考え。

・装甲戦力の支援をつけるが、それは主として特別編成の対戦車部隊とし、従来的な歩兵と砲兵のチームで敵戦車の攻撃

を頓挫させるという考え。

この議論は、いろいろな意味で第一次世界大戦時の、戦車は歩兵支援の役割に使うべきか、それ自体を戦術兵器とするか

という議論を反映したものである。議論は歩兵支援派が勝ち、1920年の国防法の改正につながった。この改正により、独

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Chapter 5:

シナリオケーススタディ:MACZEK FIRE BRIGADE

1939年9月4日、ブロツラフ地区―独軍のポーランド侵攻が始まった。ポーランド軍の第10(自動車化)騎兵旅団を指揮す

るスタニスワフ・マチェク大佐は、旅団に所属する第121軽戦車中隊を「火消し隊」として、前線の危機的な状況にある箇

所に投入した。このシナリオは、独軍の第4軽師団の進撃を阻止せんと防御陣を敷いた、第10(自動車化)騎兵旅団の戦い

を扱ったもので、このケーススタディは、ドイツ軍の視点から記述したものである。

シナリオの概要

マップは17番と50番を下図のようにつなげ、オーバーレイX9を17W7に、X13を17U7-U8に配置する。第6独軍ターン終了

時に独軍は、ヘクス列Lより北(右)にある建物のうち12棟以上を支配していれば勝利する。ECは乾燥、無風で開始し、

放火は不可である。

ドイツ軍が攻撃側で、その戦力の内訳は、4-6-8×10、9-1×1、8-1×1、7-0×1、MMG×1、LMG×2、ATR×1、Pz IIA×

3、Pz IB×2、PSW 222×2、オペルブリッツ×3、分隊用オートバイ×5である。その全てが、1ターン目に南端より進入

する。兵士がトラックやオートバイに乗せて進入することは強制されていない。PRCのいなくなったオペルブリッツは、

AFVと同じ要領で即座に帰還する。ELRは4で、SANは2である。

村を防衛するポーランド軍の戦力の内訳は、4-5-7×9、9-1×

1、8-0×1、HMG×1、MMG×1、ATR×1、?×10―これら

はヘクス列Lおよび以北に配置する。エリートと一線級の分隊

は、自動火器ボーナス能力を持つ。照準は不可である。1ター

ン目に北端よりVickers Ejw(b)×1、Vickers Edw(b)×2が進入

する。2ターン目に北端よりTKS(L)×2、TKS×1が進入する。

ELRは3で、SANは3である。

両軍ともAFVの操作班は、自発的に車両を放棄するのは禁じ

られている。

攻勢方針

ポーランド軍の初期配置は次ページのとおり。

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Chapter 6:

独軍戦車部隊対ポーランド軍「騎兵隊」 Credit: Armor Magazine, Steven J. Zaloga

注:本稿は、米軍が発行する「Armor」誌、1984年1‐2月号の記事「Polish Cavalry Against the Panzers」(Steven J. Zaloga)

の全訳である。

1939年9月の戦役における、ポーランド軍の独軍戦車に対する騎兵突撃の物語は、当時度を超していた独軍による似たよ

うなプロパガンダには疑問を投げかける真面目な歴史研究者の間でさえ、広く信じられている。このテーマは、ポーラン

ドの軍事史研究者によってかなり詳細に論じられているが、西側諸国の軍事史研究者は、言語の壁が立ちはだかって、資

料の大半に目を通すことができないでいる。本稿のねらいは、ポーランド軍騎兵の戦術面での対戦車ドクトリンの展開と、

1939年に起きた戦車対騎兵の実戦にどう適用されたかを簡潔に吟味することにある。

時代錯誤的で大規模な騎兵兵力は、1920年を過ぎてもポーランド軍全兵力の10%を占めていた。これは、1920年のソビエ

ト・ポーランド戦争で騎兵が重要な役割を担ったことに起因している。もっともポーランド軍の将校らは、赤軍が広範に

機関銃を採りいれたことで、騎兵突撃の生存性が劇的に低下するだろうことは、1920年代には気付いていた。それでも機

械化が進んでいない状況では、騎兵は、ウクライナと東ポーランドの大部分の地域において不可欠な機動戦力とみなされ

ていた。ポーランド軍の機械化は、騎兵の保守伝統の墨守のせいで遅れていた。これに厄介極まる経済的障壁が加わった。

騎兵突撃は、1920年の戦争ではたびたび成功を収めた。しかし、戦後になって騎兵ドクトリンは徐々に変質し、竜騎兵方

式へと発展して、馬は機動時に使い、攻撃時は徒歩になるという形になった。1934年、槍騎は訓練時を除いて公式に廃止

された。しかし、サーベルは騎兵の標準火器である、7.92mm口径のモーゼル型式カービン銃を補完するものとして存続し

た。

1920年代のポーランド軍の野戦規則は、騎兵戦車(訳注:巡航戦車と類似概念)の姿について真面目に取り扱っていなか

った。これは、赤軍がポーランド軍よりも少ない戦車しか持っておらず、ヴァイマル共和国軍に至っては、保有を禁止さ

れていて皆無だったためである。1929~32年の期間にソ連軍の戦車戦力が急伸長したのを受けて、1933年にポーランド軍

は、騎兵向けの対戦車戦闘教範を新たに出した。敵戦車に対しては、新規に開発されたP弾こと徹甲機関銃弾を使うもの

とし、その任には騎兵、装甲車、豆戦車が近距離からあたることになった。距離が離れていれば、騎砲兵中隊が用いられ

る。当時認識されていなかったのは、新型のソ連軍の戦車は、ポーランド軍のものに比べて重武装で、なおかつ重機関銃

には無敵に近かった。P弾では、250mの距離で9mmの装甲しか撃ち抜けなかったからである。それでも1933年の教範は、

対戦車作戦が騎兵にとって大きな懸念材料になるとは見ておらず、適切に対処すれば、戦車対騎兵の直接戦闘で困難にぶ

つかることもないと予見していた。1936年には、この見方も根底から覆される。騎兵局は、ナチスが権力の座に就いた後

に独軍騎兵が機械化されはじめ、さらに独ソともに戦車の大量生産計画に着手したのを見て、衝撃を受けた。1937年の騎

兵向け教範は、1933年にものに比べれば装甲車両への対応策について、より洗練された戦術的アプローチが盛り込まれて

いる。新たな教範では、敵の戦力組成、装甲車両を撃破するにあたっての地形の活用、騎兵旅団が装甲車両から身を守る

手段が扱われている。教範では、装甲師団の持つ革命的な戦術的意義が指摘され、「騎兵は、頻繁に(装甲車両に)立ち

向かうことになるだろうが、任務を全うするには、それに対処することを学ばねばならない」という認識が示されている。

そこでは何種かの戦術が言及されている。主に1個部隊の戦車が攻撃してきた場合の対戦車防御を扱っており、長大な兵站

段列という装甲部隊の弱点と、騎兵による夜襲の仕掛けやすさに力点が置かれている。

1937年版の教範の締めくくりでは、将来の戦争で装甲部隊が担うであろう中心的役割を認めているが、装甲師団の攻撃力

とそれを打ち破るのに必要な手段について誤解がある。この誤解は、大隊よりも大きな規模の装甲部隊を扱った経験がな

いこと、それに騎兵部隊の機械化についてポーランド陸軍内で論争があって、独ソの装甲師団に客観的な評価を下すこと

が困難であったことが多少は起因している。騎兵の埒外にいる将校らは、年間軍事予算での騎兵旅団の潤沢ぶりに苛立ち

をおぼえ、近代戦における騎兵能力の評判には懐疑の念を抱いた。戦時体制下でのポーランド軍の騎兵旅団は、歩兵師団

の37~43%の規模に過ぎないが、平時は馬のコスト高と幹部人員の多さから、歩兵師団の8割にあたる年間予算を付けら

れていた。K・ファブリシー将軍といった軍の監察官は、騎兵部門の機械化に対する頑迷な抵抗には批判的であった。論

争のさなか、騎兵部門は機械化部隊の実用性を軽視し、その弱点を誇大化した。こんな党派争いのせいで、独ソ装甲戦力

に対し政治的な脚色が施された評価がなされ、戦術ドクトリンの進歩が停滞した。

予算獲得合戦が、対戦車ドクトリンに嘆かわしい悪影響を及ぼす一方、騎兵部門の保守反動的な姿勢は、ポーランド軍に

戦車に関する未熟さがなければ、軍部のよその部門からの信用を落とすことになっていただろう。

ポーランド軍の装甲戦力は、1936年まではほぼ豆戦車と軽装甲車であった。騎兵部門は、これらの車両になじみ深かった。

というのも、各騎兵旅団には装甲部隊があり、13両の TK、TKS豆戦車と 7両の 1934年型装甲車が配備されていたから

である。豆戦車の装甲は非常に薄く、250m以下なら重機関銃にも脆弱である上に、武装は 1丁の機関銃だけであった。

機動性も低く、足回りは極めて故障しやすかった。装甲車もさして代わり映えしなかったが、一部にはWWI期のお下が

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7

Chapter 7:

シナリオケーススタディ:URBAN GUERILLA

ASLerの間で人気のある独ソ末期戦シナリオの典型で、ウィーン市街の地の利を生かし少数で戦うドイツ軍の精鋭と、長い

戦争で鍛え上げられたソ連軍歩兵&中・重戦車とが激しく戦う内容となっている(戦史の詳細については、次章の「Armor」

誌翻訳記事を参照)。このリプレイは、攻撃側のソ連軍の視点から記述している。

シナリオの概要

市街地マップの23番と22番をつなげ、オーバー

レイX15を22番のD10-D9に、X8を22番のM10

に貼る。23番のY7はフロリズドルフ大聖堂で、

ルール上は工場とみなす。使用するエリアは半

分だけである(22番のA-P列、23番のR-GG列)。

ソ連軍は、第7ソ連軍ターンが終了した時点で、

23Y7、23AA3、23CC2の建物のうち2棟支配し

ていれば勝利する。ECは普通、風は無い。

防御側のドイツ軍の戦力は、6-5-8×10、9-1×

1、8-1×1、8-0×1、MMG×1、LMG×3、PSK

×2、?×10、パンターG型×1、4号戦車J型×

1、ハノマークハーフトラック×1、9-2戦車指

揮官×1、88mm高射砲と操作班×1となってい

る。88mm高射砲はマップ23番に、それ以外は

マップ22番のヘクス番号7以上とマップ23番の

運河の南のエリアに置く。ELRは5、SANは4で

ある。

攻撃側のソ連軍の初期戦力は、4-5-8×12、2-4-8

×2、9-2×1、8-1×1、8-0×1、HMG×1、LMG

×2、FT×1、DC×2、T-34/85(SSRによりsD

は何回でも発射可)×3、9-1戦車指揮官×1で、

マップ22番のヘクス番号6以下のエリアに置く。

これにくわえ、第3ターンに増援として、6-2-8

×5、8-1×1、LMG×2、DC×1、IS-2m×2が、

運河の南のいずれかの盤端より入る。ELRは3、

SANは6と防御側よりも大きい。

ソ連軍には都市ゲリラ(パルチザンのルール適

用)が味方についている(SSR 5)。これはソ連

軍の狙撃drで3か4が出たときに登場する。再度

drをして、1~3で1-2-7HS、4~5でヒーロー、6

で7-0指揮官が盤上に登場するが、その位置は

狙撃兵マーカーで無作為位置決定DRを行って

決める(実際に狙撃兵マーカーは動くわけでは

ない)。このDRで決まったヘクスに一番近い、

建物・林・地下道ヘクスの地上レベルに置かれ

る(複数の候補があれば、より高いTEMのヘクスに置く)。こうして置かれた都市ゲリラには、TIカウンターを乗せる。

都市ゲリラとソ連軍のユニットはFGを組めない。都市ゲリラ指揮官はソ連軍ユニットの、ソ連軍指揮官は都市ゲリラユニ

ットを射撃指揮・回復できるが、指揮修整値は1落ちる。都市ゲリラユニットは、独軍と同様のPF能力を持つが、捕獲兵器

使用のペナルティがあり、発射できる上限は3発である。

両軍とも、意図的に車両を放棄することはできない。

攻撃方針

ドイツ軍の初期配置は次ページのとおり(ハーフトラックは、実際はBU)。

Page 8: Chapter 1: ASL ルールブックの例 B D - boardwalk.co.jp · 2 Chapter 2: シナリオケーススタディ:ST. BARTHELEMY BASH 「ASL journal」第1号収載のこのシナリオは、ノルマンディ戦役の

8

Chapter 8:

ウィーン橋頭堡の防衛 Credit: Armor Magazine, Peter R. Mansoor

注:本稿は、米軍が発行する「Armor」誌、1986年1-2月号の記事「The Defense of the Vienna Bridgehead」(Peter R. Mansoor

中尉)の全訳である。

機甲戦については、多くのレベルから考察することができるが、つまるところ戦闘の帰趨を決するのは、個々の車両の乗

員なのである。本稿は、ドイツが降伏するまで 1か月もない時期の戦いを描いたものである。これは 2つの点で際立った

内容となっている。戦争のこの段階に及んでもなお、独軍には数で勝る敵を打ち倒せる戦力を配備していたという事実が、

物語の一側面として存在するという点が 1つ。それ以上に心を惹きつけてやまないのは、1両の戦車とその乗員が、要地

を巡る重要な戦いの帰趨に影響を及ぼせ得たというインパクトの大きさである。この戦闘からもたらされる教訓は、現代

の機甲部隊の要職に就く者にとって、いまだ傾聴に値する。

1945 年 4月の上旬には、ソ連軍はドイツ中心部の辺縁へと張り付いた。ドイツ国防軍は、まだ十分な戦力を保持している

所では敢然たる抵抗をしていたが、ソ連の陸空軍は物量で圧倒し、第三帝国の残存部隊による効果的な防衛は、いよいよ

難しいものとなっていった。とはいえ、一部の独軍部隊は、ソ連の侵攻部隊に対して模範的な遅滞戦闘を仕掛け、それに

成功していた。その中の 1つに数えられるのが、4月の第 2週に行われたウィーン市の戦いである。

4月 12日、ドナウ川に架かる橋は 1つだけ、市の外郭に残っていた。これはフロリズドルフ橋という名で、ウィーンの第

21区にあった。第 2SS装甲師団(ダス・ライヒ)のデアフューラー装甲擲弾兵連隊とドイッチュラント装甲擲弾兵連隊の

所属部隊―おそらく併せて 2個大隊―は、フロリズドルフ橋の南側のウィーンの 1~2kmほどの範囲をまだおさえていた。

そこでは、ダス・ライヒ装甲連隊の戦車数両が支援にあたっていた。ソ連軍からは絶え間ない攻撃を受け、ソ連側につい

た都市ゲリラに悩まされながらも、独軍はドナウ川の北東川岸で防御陣を築く友軍の時間稼ぎのため、頑強に戦った。

独軍の歩兵は、3つの次元で戦っていた。地下ではウィーン市民が、空襲に備えて市内で接続路ができるように、地下階

の壁をうがって通路を作っていた。独軍の歩兵は、この地下道網を大活用していた。ソ連軍は、いまだ地下階をおさえて

いる独軍歩兵の背後 2ブロックの街路を、支配できていた。同じような状況が建物の上階にもあてはまった。街路戦闘を

するには最悪の状況であった。そこで戦ったあるドイツ兵の言葉を借りるなら、「滅茶苦茶」であった。

街路戦闘が始まった時、独軍の大半の装甲車両は、ウィーンから引き揚げていた。独軍は、装甲車両は市街戦では多大な

ハンデを負うことを、スターリングラードでの手痛い事実から学んでいた。それにフロリズドルフ橋が落ちる事態になれ

ば、装甲車両はドナウ川の南東川岸で体よく閉じ込められることになる。実際のところ、フロリズドルフ橋を通行するの

は至難の技であった。ソ連軍は、直接・間接射撃のどちらでも、橋を射界内に収めていたからである。ソ連軍としては、

前進が緩むことのないよう、橋を無傷で確保したいと考えていた。独軍としては、ドナウ川後背に有力な防衛線を敷くま

での猶予を作るのに橋を使い、敵が奪取した時に吹き飛ばそうと考えていた。このため、橋には爆薬の配線を張り巡らせ

ていた。

ダス・ライヒ装甲連隊の戦車は、フロリズドルフ橋の北 5kmほどに位置するシュタマースドルフ近郊に車陣を敷いていた。

戦車兵は自分の居場所をうまく擬装していたが、それはソ連空軍パイロットの拙い対地攻撃を恐れていたからというより

も、連合国が空を支配していた西部戦線で身についた習慣によるものである。第 2SS装甲師団で交わされた冗談に、ソ連

空軍が爆撃をしたら、一番安全なのは爆撃目標だというのがあった。

4月 12日の午後過ぎ、ダス・ライヒ装甲連隊のエンゼリン大佐は、シュタマースドルフの連隊司令部の近くに車両を停め

ている全戦車兵を招集した。その中に、車両番号 1227の乗員達がいた。彼らはバルジの戦い以来ともに行動し、経験豊か

であった。戦車指揮官のアルノ・ギーセン中尉は、パンター小隊の小隊長でもあった。彼は、1943年から第 2SS装甲師団

に所属し、クルスク、ノルマンディ、バルジで戦い、そして 1945 年に入ってハンガリー攻勢に参加した。この日までに

97両の戦車撃破を記録していた。

この時、19歳であった。砲手のゲルト・エッヘゴッツ伍長は、1943 年から部隊におり、優秀で熟練した戦車乗りであった。

エッヘゴッツは、23歳であった。操縦手のアルウィン・シュターナス伍長は、1941年から第 2SS装甲師団で戦車を駆って

おり、整備兵としても一流であった。年齢は 44歳と連隊でも最年長者であり、連隊長の友人であった。乗員の若手にとっ

て父親のような存在で、ギーセンも含め皆を愛称で呼んでいた。装填手のフリッツ・スプリーグ兵長と無線手のギュンタ

ー・ラウ伍長は、脂ののったベテランで、自身の職務を心得ていた。スプリーグは 19歳、ラウは 20歳であった。戦車兵

は座って、連隊長の指示に耳を傾けた。

300 メートル離れたところでフンメル 155mm自走砲中隊が、ソ連軍陣地を叩いているため、連隊長は集まった部下たちに

叫ぶように指示を伝えねばならなかった。エンゼリン連隊長は、「フロリズドルフ橋の向こう側の情勢は予断を許さない。

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Chapter 9:

シナリオケーススタディ:KANGAROO HOP

1944年9月17日、ブローニュ郊外のモン・ランベール。フランスの良港ブローニュを確保する任務を与えられたカナダ(加)

軍にとって、その手前に独軍の防御陣が敷かれた丘陵地帯はなんとしても制圧する必要があった。砲兵とRAFによる猛砲

爆撃の後、第3歩兵師団第9旅団と第10機甲連隊が攻撃を開始した。歩兵隊は、カンガルーAPCに乗車していたが、丘の中

腹で爆弾孔と地雷原のため徒歩での進撃となった。加軍には、機関銃弾と対戦車砲弾が容赦なく降り注いだが、クロコダ

イル火炎放射戦車の助けも借りて、夕刻には敵を掃討した―という史実をもとに作られたシナリオで、ケーススタディで

は、防御側の独軍の視点から記述する。

シナリオの概要

→北

典型的な「あの丘を獲れ」シナリオである。加軍には、同行する歩兵とは不釣り合いなほど多数のAFVがあり、丘を守る

独軍には豊富な野戦構築物とOBAがある。最終ターンが終わった時点で、加軍がレベル3の丘ヘクス(全部で7ヘクス)を

全て支配していれば加軍の勝利となる。

独軍はヘクス番号が2以上(=西盤端を除く全ヘクス)のどこにでもHIPで初期配置できる。非隠蔽地形(ちなみにトーチ

カは隠蔽地形)に置かれたHIP独軍歩兵は、(距離にかかわらず)統制状態の敵ユニットがその区域にLOSを通した時点で、

盤上に隠蔽状態で置く。加軍ユニットは、西盤端の任意のヘクスから進入する。ECは普通で、風は吹いていない。

独軍に与えられた戦力は、4-4-7×7、8-1×1、8-0×1、7-0×1、LMG×3、75mm対戦車砲(長砲身でない型式)×1、50mm対

戦車砲×1、100+mm OBA(HEと煙幕)を呼べる無線機×1、地雷原×18戦力、2-5-7トーチカ×2、1-3-5トーチカ×2、対戦車

壕×6、鉄条網×4となっている。ELRは2、SANは3である。

加軍に与えられた戦力は、4-5-8×7、2-4-8×1、9-1×1、8-1×1、LMG×1、FT×1、シャーマンファイアフライ×1、シャーマン

V×3、AVRE×2、ラム・カンガルー×6、チャーチルクロコダイル×1となっている。クロコダイル以外は第1ターンに進入し、

クロコダイルは第2ターンに進入する。初期配置の前に、AVREは粗朶を載せて盤内進入するかどうかを秘密裡に記録して

おく。分隊は初期配置時にいくつでも展開しておける。全兵士はラム・カンガルーAPCに乗せて初期配置する。その時、

各カンガルーには、1/2インチ「?」カウンターを乗せ、実際の乗車兵(とSW)は、対戦相手から見えないようにしたク

ローキングボックスの「?」に対応するIDの枠に置く。この「?」自体は、車両と乗車兵に隠蔽状態の利を与えるわけで

はないが、対戦相手が車両の中身を知るのを防ぐはたらきがある。「?」は、敵ユニットから3ヘクス以下のところまで近

いづいた時に取り除き、そしてクローキングボックスのユニットを乗せる。4ヘクス以上離れていても、APCが撃破され乗

車兵が生存判定にパスした際にも明らかにされる(パスに失敗し除去された場合は、明らかにする必要はない)。ELRは4、

SANは2である。SSRではないが、加軍のエリート分隊/HSは畏縮せず、分隊はdr1でWP手榴弾を展張できる(25.45& 25.46)。

ドイツ軍の初期配置

最初に右側の丘(上図では隠れているが)にユニットを置くべきかどうかについて考えてみよう。これまでの何人かとの

対戦経験では、自分がドイツ軍を担当した時にはこの丘には何も初期配置しなかった。一方で、自分が加軍を担当した時、

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Chapter 10:

チャーチル AVRE奮戦史

(arcaneafvs.com)

王立工兵隊所属のトロージャンAVRE (Armoured Vehicle Royal Engineers)―チャレンジャー2主力戦車の砲塔をとっぱら

い、鋼管をたばねた粗朶とパワーショベルのアームを背負い、前部には物々しい地雷排除装置を取り付けた、チョバム装

甲を鎧うモンスター。武装は機銃1丁だけにもかかわらず自重は62.5トンもあり、それでいながら1200馬力のエンジンはそ

の巨躯を難なく60km/hで疾駆させる。

工兵戦車は他の国々にもあるが、トロージャンAVREほどの威圧感と多機能性をもった専用車両は類をみない。イギリス陸

軍がこれほどまでに工兵戦車の設計と配備に熱を入れるのは歴史的な経緯があり、その源流は100年前の第一次大戦時―よ

り正確には1917年―にさかのぼる。当時イギリス陸軍は、HUSH計画という名の上陸作戦を立案していた。これは強襲部

隊をベルギーの沿岸に上陸させてアントワープを攻略し、新たに北部戦線を形成しようというものであった。これには開

発間もなく揺籃期にある戦車が投入されることになったが、沿岸部の護岸が第一の問題であった。これは坂になったコン

クリート構造物で、表面にはぬらつく海藻がへばりついていた。普通のAFVは、とてもここを登坂することはできない。

そこで考え出されたのが、海藻の下のコンクリート面に接地できるよう履帯にスパイクをつけ、車輪付きのランプを牽引

した改造戦車である。この戦車が護岸を登り、登坂用のランプを据え付けることで、後続の通常の戦車はランプを使用し

て登ってこられるという算段であった。また地雷原走破用に、別の改造戦車も考案された。これはMk IV戦車の前部両脇に

頑丈な金属の棒を装着し、その間にローラーをはめ込んで、走行しながら地雷を起爆させるというものであった。木の枝

の束(粗朶)を戦車に乗せ、それを塹壕に放り落として車両が通れるようにする案が出されたのもこの計画である。しか

し、ベルギー上陸作戦は第3次イーペルの戦いで白紙となり、戦争そのものが終結すると改造戦車のアイデアは、ほとんど

忘れ去られた。

改造戦車の構想が復活したのは第二次大戦が始まった1939年のことで、エル・アラメインの戦いとジュビリー作戦(英仏

海峡に面したフランスの港町ディエップへの上陸作戦)での苦い経験から、その種の戦車の需要が切に求められ、ノルマ

ンディ上陸作戦が具体的な計画として俎上に載ると、必須のものと

みなされるようになった。こうして開発されたのが、AVRE、シャ

ーマンクラブ、クロコダイル、シャーマンDD戦車、装甲ブルドー

ザなどといった特殊な改造戦車である。これらは第79機甲師団に一

括して編入され、実戦では他の部隊にばらけて配属された。第79機

甲師団の車両装備は、師団長の名をとって「ホバートのへんてこな

奴ら」と呼ばれた。

AVREは、チャーチル戦車の主砲をペタード臼砲に換装したもので

ある。ペタードとは、もともと 16世紀にフランスで使われた城門

爆破用の爆薬を意味していたが、こちらは 290mm口径の砲口から

「空飛ぶゴミ箱」こと、約 10kgの弾頭のついた砲弾(右写真)を

撃ちだすものであった。その主な用途は、トーチカや道路障害物な

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Chapter 11:

野戦構築物の活用法と対処法に関する一考察

本章では、ASLで使用される野戦構築物の大半について、史実(主に独ソ米)での構築・使用法について戦術レベルで概

観する。そしてプレイ時に配置する際のコツや留意点、そして攻撃時の対処法について考察する(Chapter 9では、より個

別的、具体的な話を展開)。

史実における単独壕

「単独壕」は ASL独自の用語で、日本では伝統的に散兵壕、蛸壺、各個掩体などと呼ぶ。呼称は国によってさまざまで、

米軍はフォックスホール(ASLルールの原文はまさにこれ)、スパイダーホール、独軍は Schützenloch(射撃穴)や

Wolfgrabhügel(狼塚)と呼んだ。各国の呼び名を集めれば、おそらく動物に擬せられた呼称が多くを占めるのではないか

と推測される。

単独壕は野戦構築物の中では最もベーシックなもので、その目

的は兵士の地上から上への露出を極力おさえて、直接射撃や上

から落ちてくる砲弾や爆弾の破片から身を守ることにある。通

常は 1~2人が入れる穴に過ぎないのだが、そのバリエーショ

ンは非常に多い。もっとも簡易な形態は、ソ連軍でさかんに奨

励された応急掩体で、蛸壺ときいて想像されるものより非常に

浅く、身体を完全に伏せ伸ばしても頭から背中そして脚にかけ

ての大部分が見える代物である。ソ連兵はさらに簡易な上半身

しか「埋め」られない小さな穴も一生懸命に構築した(右図)。

こんな応急掩体でも、脅威の予想される方向には掘り出した土

を盛るので、敵から見れば割と遮蔽されているのである。もち

ろん側面から撃たれたり、砲撃や航空攻撃を受ければひとたまりもなかったろうが…

ASL で、ソ連軍の築壕の試みには有利なダイス修整(-1)が適用されるのは、史実のソ連兵が応急掩体掘りに熱心であった

ことを考慮しているのかもしれない(独軍が 1人用単独壕を「ロシア人の穴」と言ったのは示唆的)。ただ、上半身だけ

を隠す赤軍式掩体であっても、その構築には 10分はかかる。もう少し「豪勢」なものだと軽く 20分は費やす。どう考え

ても 1ターン=1分のゲームの尺に収まらないのだが、ASLのデザイナーは、ゲームとしての面白さを優先して、築壕の

ルールを採用したのかもしれない。

米軍では、一人用の応急掩体をスカーミッシャーズトレンチ(散兵壕)と呼んだ。下図は、これを掘るために必要な工具

である。

この図は 1944年 2月に発行された米軍工兵軍団向け野戦教範から引用したものだが、左は 1兵士が携行する工具で、右

は 1個工兵大隊にあてがわれる工具の一覧である。ワイヤーカッターは散兵壕の前面に鉄条網を張るのに使い、斧や鋸は、

壕を掩蔽するための枝葉を切るのに使われた。もちろんこれらの工具は、散兵壕よりも本格的な野戦構築物の造成でも活

躍した。