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『台灣日本語文學報創刊20號紀念號』PDF版taiwannichigo.greater.jp/pdf/g20/b01-kobayashi.pdf銘傳大學應用日語學系兼任講師 1. はじめに 大江健三郎の父親、大江好太郎は、1944

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    大江健三郎文學研究

    ─父親與天皇─

    小林由紀

    銘傳大學應用日語學系兼任講師

    摘要

    大江健三郎氏(以下簡稱大江)之父親大江好太郎氏於 1944 年(昭和

    19 年)過逝,當時大江僅有九歲。依據渡邊廣士之論點,在戰爭末期

    戰渦之期間因父親的死與天皇導致的死之間,係以面對死亡之恐怖為

    媒介將父親與天皇之關係連結一起。而此關連建立之根本是否僅有實

    際體驗到之死亡恐怖呢?本論文為究明此問題,首先將提示大江五十

    年作品中之父親全體像,並明確定位父親之位置。再者,以權威者表

    像父親之觀點進行考察,由父親以反諷表現手法之過程檢視「為何選

    定父親與天皇」之課題,並導出結論。最終明確確立父親像與大江所

    選定主題之關連,並可依隨大江年齡看到父親形象之變化進而得到深

    度了解。又,除認識到大江與自敘體小說中重疊部分之主人翁係將父

    親視為具權威身份之統率者、族長之一面外,若將父親視為縱軸之底

    邊,而頂點即為君臨天下之天皇,於此可決定性看到父親與天皇之關

    連。另一方面,相對於將信奉天皇一體化之超國家主義之父親,並和

    遵守村落傳承之母親則置於對立之頂點,由此可了解大江的小說係以

    反諷法來凸顯天皇制與超國家主義之制度。

    關鍵字:父親、天皇、狂氣、忿怒、反諷

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    Thesis on Kenzaburo Oe’s works: Emperor and father Kobayashi Yuki

    Relief Lecturer, Ming Chuang University

    Abstract

    Kotaro Oe passed away in 1944 (Showa 19); his son, Kenzaburo Oe (hereinafter called “Oe”), was barely 9 years old. Hiroshi Watanabe declares that the lives of the common people dedicated to the Emperor and the death of his patriotic father in the catastrophic World War inspired Oe not only to explore the impeccable relationship his father had with the Emperor, but also to understand the fear of death. However, does this relationship come exclusively from that fear Oe experienced? This thesis analyzes how Oe has reflected the total image of his father on his literature works over the past 50 years. It also addresses on the characteristics of the father considering Oe as an authoritative official himself. Finally, this paper attempts to verify the existence and significance of his father’s intimate relationship with the Emperor, portraying his father of different personalities so as to draw fresh angles of conclusion. The above themes tied in with the images of Oe’s father in his intellectual literature works at various stages of publications and that image has been changed significantly as he grows old. Particularly in his classical tales, the protagonist, who sometimes reflected Oe himself, referred to Oe’s father as an authoritative official and a strong leader. This infers that if his father is to be placed at the bottom of longitudinal axis, then the Emperor occupied the apex – symbolizing that the two would still be closely linked to each other. Key words: Father, Emperor, frenzy, Rage, Irony

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    大江健三郎文学研究 ―父親と天皇─

    小林由紀 銘傳大學應用日語學系兼任講師

    要旨

    大江健三郎の父親、大江好太郎は、1944 年 (昭和 19 年 )、大江が満九歳の時になくなった。戦争末期の戦渦における父親の死と天皇

    の命による死とは、渡辺広士によって、死の恐怖を媒介とし、父親

    と天皇を結びつける結果になったと言われている。では、その結び

    付きの根底にあるのは、実体験としての死の恐怖のみであろうか。

    本論文では、この問題を明らかにするために、まず、大江の約五十

    年に渡る作品における父親の全体像を提示し、父親の位置付けを明

    確化した。次に、権威者としての父親という観点から考察を進め、

    父親のパロディ化の過程で、何故父親と天皇なのかという課題につ

    いて検証し、結論を導き出した。その結果、各年代における父親像

    と大江の持つ主題との繋がりが明らかになり、大江の年齢と共に、

    父親像の形象の変化、及び深化を見ることができた。更に、大江と

    私小説的に重なる部分を持つ主人公は、権威者としての父親に統率

    者、族長の一面を見るが、その父親を縦の軸の底辺とすると、頂点

    には天皇が君臨しており、ここに、父親と天皇との決定的な繋がり

    を見ることができた。一方、天皇と一体化しようとした超国家主義

    者の父親に対し、村の伝承を守ろうとする母親を対立項に置き、ア

    イロニーで天皇制的なもの、超国家主義的なものを顕現しようとし

    ていることも理解できたのである。 キーワード:父親 天皇 狂気 忿怒 アイロニー

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    大江健三郎文学研究

    ―父親と天皇─

    小林由紀 銘傳大學應用日語學系兼任講師

    1. はじめに

    大江健三郎の父親、大江好太郎は、1944 年 (昭和 19 年 )、大江が満九歳の時に亡くなった。戦争末期の戦渦における父親の死と天皇

    の命による死とは、死の恐怖を媒介として、父親と天皇を強く結び

    つける結果となった。この点を作品から明確に解き明かしたのが渡

    辺広士であり、「父を復元する想像力」1に詳しいのは周知の通りであ

    る。父親と天皇との問題が大江の一生の重要なテーマであることは、

    近年上梓された『取り替えチ ェ ン ジ リ

    子ン グ

    』2、『憂い顔の童子』3、『さようなら、

    私の本よ!』4の三部作で、この問題が再び取り上げられているのを

    見れば明らかなことである。では、父親と天皇との結びつきの根底

    にあるのは、果たして、実体験としての死の恐怖のみであろうか。

    この問題を明らかにするためには、大江の約五十年に渡る作家活動

    と、作品における父親の全体像を提示した上で、明確化させる必要

    があるのではないであろうか。更に、父親が最初に登場する 1960年の『遅れてきた青年』5と、1971 年の『みずから我が涙をぬぐいたまう日』6を比較すれば、後者における父親のパロディ化は顕著で

    あるが、その過程を明らかにすることも重要な課題であると思われ

    1 渡辺広士(1994) 「父を復元する想像力」『大江健三郎 増補新版』審美社

    初出『群像』1973 年 3 月号

    2 大江健三郎(2000)『取り替えチ ェ ン ジ リ

    子ング

    』講談社 書き下ろし 3 大江健三郎(2002)『憂い顔の童子』講談社 書き下ろし 4 大江健三郎(2005)『さようなら、私の本よ!』講談社

    初出「群像」2005 年 1 月号、6 月号、8 月号 5 初出「遅れてきた青年」『新潮』1960 年 9 月~1962 年 2 月号 6 初出「みずから我が涙をぬぐいたまう日」『群像』1971 年 10 月号

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    る。そこで本論文では、まず、大江作品における父親の全体像を、

    年代を追って明確に示したい。次に、大江が自ら<一生のテーマ>7

    とする父親と天皇の問題について、権威者としての父親という観点

    から考察を進め、父親のパロディ化の過程で、何故父親と天皇なの

    かという課題について検証し、結論を見出していきたい。作品の選

    択にあたっては、次の三点に留意する。第一点は、『父よ、あなたは

    どこへ行くのか?』8の<自分の父親を思いだしてゆくという私小説に似たスタイル>9を基本とする。第二点は、<自分の父親を思いだ

    してゆく>人物は、作品によって「わたし」、「僕」、「肥った男」、「か

    れ」、「おれ」で登場する。第三点は、<私小説に似たスタイル>に

    登場する父親の多くは、<死んだ父親>、<父親の死>という言葉

    で描写される場合がほとんどである。以上の三点を作品選択の条件

    として考慮し、分析を行うことにする。

    2. 作品における父親の全体像 では次に、大江作品における父親の位置付け、すなわち、父親と

    大江の主題との関連を解き明かすために、約五十年の時間を凝縮し、

    年代順に、父親に関する作品を見ていきたい。 2.1 1960 年から 1971 年まで(父親と天皇の起点)

    父親の死に関しての最初の作品は、1960 年の『遅れてきた青年』である。十歳の「わたし」が経験した父親の絶対的な死の恐怖は、

    天皇の命による死の恐怖とあいまって、その後の「僕」が永年持ち続

    ける死の恐怖の原点となっている。このテーマは、2005 年の現在に至るまで、大江が持ち続けているオブセッションと見てよいであろ

    7 「大江健三郎の 50 年」『IN・POCKET』2004 年 4 月号 講談社(インタビュー) p.30 8 初出「父よ、あなたはどこへ行くのか?」『文学界』1986 年 10 月号

    大江健三郎(1996)『大江健三郎小説3』新潮社、以下テキスト3と呼ぶ。 9 大江健三郎(1970)『核時代の想像力』新潮社 p.177 (初出「文学とは何か?(2)」

    1968 年 7 月 30 日講演による) p.161

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    う。また、この作品は、父親と天皇との結びつきが暗示された最初

    の作品でもある。間がややあって、1968 年の『生け贄男は必要か』10では、<唐突な死>11として、『狩猟で暮したわれらの先祖』 12で

    は、<父が急死した日> 13として、いずれも父親の死が突然であっ

    たことが記されている。続く、『父よ、あなたはどこへ行くのか?』

    (以下『父よ』と略す )は、渡辺広士によって、父親と日本的神秘主義と

    しての天皇が密接に結びついた作品14とされ、1969 年の『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』15(以下『狂気を』と略す )がそれに続い

    ている。この二つの作品における父親は、蹶起に失敗し土蔵に自己

    幽閉した人物である。その死については、父親に批判的な母親から

    明確にされないが、死因は心臓麻痺とされている。しかし「僕」は、

    父親が自殺したのではないかという疑いも持っている。一方、1971年の『みずから我が涙をぬぐいたまう日』 (以下『みずから』と略す )で

    は、天皇と一体化しようとした父親が蹶起した結果、銃撃戦で射殺

    されてしまう。超国家主義者であるこの父親と一体化を望む「僕」

    の姿からは、父親と天皇に拘る作者の姿勢が窺える。その証拠に大

    江は、<父親と日本的神秘主義としての天皇制の問題を一緒に考え

    ることは、その後、僕の一生のテーマになりました。『取り替えチ ェ ン ジ リ

    子ン グ

    や『憂い顔の童子』、そしていま書こうとしている小説にも流れてい

    ます。それが表面に表れた最初の作品が『みずから……』でした>16

    と述べている。1960 年から 1971 年までを第一段階として見ると、超国家主義者としての父親と日本的神秘主義としての天皇が、後の

    大江の<一生のテーマ>とされるほど、重要な位置にあることが窺

    える。

    10 初出「生け贄男は必要か」『文学界』1986 年 1 月号 11 テキスト3 p.298 12 初出「狩猟で暮したわれらの先祖」『文芸』1986 年 2 月~5 月、8 月号 13 テキスト3 p.325 14 同注 1 p.18 15 初出「われらの狂気を生き延びる道を教えよ」『新潮』1969 年 2 月号 16 同注 7 p.30

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    2.2 1982 年から 1984 年まで(父親と暴力的なもの)

    次に、父親の死が描かれるのは、1982 年の『さかさまに立つ「雨レ イ ン

    の・

    木ツリー

    」』17である。この年、大江は四十七歳を迎えている。「僕」は、自

    分が父親の死んだ年齢に近づいていることを意識し始め、それにつ

    いて、<僕はいまや自分の父親が急死した年齢に近づいている。数

    えで五十歳の父親は、冬の真夜中に半身を起して、脇に寝ていた母

    親を心底震えあがらせ、終生「ノーシン」と縁が切れなくするほどの、

    怒りに燃える声をひと声発して死んだ>18と記している。この一文

    は、『「罪のゆるし」のあお草』 19に再度描かれている。『さかさまに

    立つ「雨レ イ ン

    の・

    木ツリー

    」』のもう一つのキーワードは<忿怒>であるが、「僕」

    は、反核の講演が無断でキャンセルされたことに対し<忿怒>を持

    った20、という解釈が当然可能となる。しかし、それならば何故、

    <忿怒>と、父親の<怒りに燃える声をひと声発して死んだ>こと

    が併行して書かれたのかという疑問が残るが、これについては後述

    することにする。次は、同年の『泳ぐ男-水の中の「雨レ イ ン

    の・

    木ツリー

    」』21で

    ある。この作品では、父親が死の直前に「僕」に与えた教訓として、

    <―おまえのために、他の人間が命を棄ててくれるはずはない。そ

    ういうことがありうると思ってはならない。きみが頭の良い子供だ

    とチヤホヤされるうちに、誰かおまえよりほかの人間で、その人自

    身の命よりおまえの命が価値があると、そのように考えてくれる者

    が出てくるなどと、思ってはならない。それは人間のもっとも悪い

    17 初出「さかさまに立つ「雨

    レ イ ン

    の・

    木ツリー

    」」『文学界』1982 年 3 月号

    18 大江健三郎(1996)「さかさまに立つ「雨レ イ ン

    の・

    木ツリー

    」」『大江健三郎小説7』新潮社

    p.128 以下テキスト7と呼ぶ。 19 初出「「罪のゆるし」のあお草」『群像』1984 年 9 月号

    20 根岸泰子(1997)「『雨レ イ ン

    の・

    木ツリー

    』を聴く女たち―メタファーの受胎とその死まで」

    『国文學』2 月臨時増刊号 p.97 参照。

    21 初出「泳ぐ男―水の中の「雨レ イ ン

    の・

    木ツリー

    」」『新潮』1982 年 5 月号

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    堕落だ>22とある。この言葉は、1984 年の『「罪のゆるし」のあお草』で、更に二回繰り返される。「僕」は、後に父親の予言的な言葉が正

    しかったことを確認している。従って、この言葉からは、死んだ父

    親が単なる子供の父親というだけではなく、鋭い洞察力の持ち主で

    あったと推測される。次は、1983 年の『鎖につながれたる魂をして』23である。この作品においては、ブレイクの暴力的な挿話から、職

    人としての父親を回想する記述がある。それによると、四十代半ば

    の父親は、三椏の仕事において<統率者、族長の印象>24があった。

    そんなある日、父親は、工場を視察に訪れた警察署長に<犬を叱る

    よう>25に作業を催促されるという屈辱的な場面に遭遇する。「僕」

    は、父親の肉体の内部に蓄積された暴力的なものが爆発し、それが

    原因で<怒り狂っている大声をあげて死んだ>26と考える。そして、

    その暴力的なものが、息子である「僕」の肉体の中にも存在するとい

    う自覚を持っており、<父が死んだ年齢に一年をあますのみ> 27だ

    と気づく。この点を、前出の『さかさまに立つ「雨レ イ ン

    の・

    木ツリー

    」』における

    <忿怒>に重ねると、「僕」自身にも父親のような暴力的なものの内

    在により、<忿怒>によって自爆してしまうのではないか、そのよ

    うな危惧が「僕」にあったからこそ、死んだ父親の年齢に近づいたこ

    とと<忿怒>が併行して描かれたのではないかと考えられ、先の問

    題の解決に繋がるものと思われる。死んだ父親については、1984年の『揚げソーセージの食べ方』28、『もうひとり和泉式部が生まれ

    た日』29にも記述がある。1984 年には、『「罪のゆるし」のあお草』があるが、この作品は、父親の死に関する様ざまな前作からの引用30

    22 テキスト7 p.169 23 初出「鎖につながれたる魂をして」『文学界』1983 年 4 月号 24 テキスト7 p.315 25 テキスト7 p.317 26 テキスト7 p.317 27 テキスト7 p.319 28 初出「揚げソーセージの食べ方」『世界』1984 年 1 月号 29 初出「もうひとり和泉式部が生まれた日」『海』1984 年 5 月号 30 大江健三郎(1985)『小説のたくらみ、知の楽しみ』新潮社

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    によって構成されている。その意味において、父親の死を総括した

    ような作品でもある。しかし、父親の死に自分が関与したのではな

    いかという罪悪感を持っている点で、他の作品とは異なっており、

    父親の自殺については、後に根拠のないものとして否定している。

    1982 年から 1984 年までを第二段階としてまとめると、「僕」にとって死んだ父親は、統率者、族長の印象を持った威厳ある人物である。

    「僕」は、その父親が、自己の内部に潜む暴力的なものによって怒り

    狂った大声をあげて突然死してしまったのではないかという疑問を

    持っている。「僕」は、自分が死んだ父親の年齢に近づくにつれて己

    の中に潜む暴力的なものを発見し、自分も父親と同じ道を辿るので

    はないか、という恐れを抱いていることがわかる。人間に内在する

    暴力的なものは、大江の重要な主題のひとつであり、父親もその役

    割の一端を担っていることが、これらの点から理解できる。

    2.3 1984 年から 1986 年まで(父親と死の恐怖) 第三段階は、「僕」が父親の死んだ年齢に達した辺りから見られる

    変化である。1984 年の『いかに木を殺すか』31では、「僕」が書こうとしている小説について、<―つまりは死に向けて年をとる自分に、

    いつまでも遠いのでない死のいたる時まで、完成はしないのでない

    かと―そのような疑いもいだいてきたのだ> 32という危惧を持って

    いる。つまり、数えで五十歳頃から、「僕」は<死に向けて年をとる

    自分>を考え始めていることが窺える。続く 1985 年の『四万年前のタチアオイ』 33では、<―タカチャン、僕は五十歳からあとをま

    だ一度も生きたことがない。きみが知っているとおり曽祖父も祖母

    も父も、五十歳前に死んだからね。いったいどうすればいいものか?

    31 初出「いかに木を殺すか」『新潮』1984 年 11 月号 32 大江健三郎(1997)『大江健三郎小説8』新潮社 p.228 以下、テキスト8と呼

    ぶ。 33 初出「四万年前のタチアオイ」『季刊へるめす』1985 年第 3 号

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    >34と、これから先、生き延びる準備ができていない心境を、妹的

    人物「タカチャン」に訴えている。1985 年の『死に先だつ苦痛について』35では、更に、死を恐怖する苦痛について具体的に述べている。

    その一つは、冒頭に語られる父親の死である。父親は「僕」に、<―

    祖母ば あ

    様は躰が壮健であったから、いつまでも心臓がとまらず、酷た

    らしいことだったが!死ぬ段になれば、軀を弱めておかねばならぬ

    なあ> 36と言い残し、半年後にやはり怒り狂った大声を発して死ん

    でしまう。「僕」は、<永い時期にわたり、父親が自殺したのではな

    いかという疑いに苦しめられた。それも父親が軀を弱めて、、、、、

    自分の死

    にそなえたのではないか、という具体的な疑い (傍点原文のまま )>37を

    持っていた。1986 年の『M/Tと森のフシギの物語』38にも、全く同様の一文がある。「僕」は、すでに『父よ』から、父親が自殺した

    のではないかという疑いを持っていたが、このふたつの作品からは、

    自殺説の根拠を、肉体的苦痛による死の恐怖からの逃避、に見出す

    ことも可能であろう。大江は、主人公「タケチャン」の言葉を借りて、

    <人間が死について恐怖するのは、死後の虚無を考えての精神の苦

    しみと、生命が肉体のなかで打ち破られる、極限の苦痛への恐れと

    いうふたつがある>39と、ふたつの死する恐怖について語っている。

    「タケチャン」が死に際して味わった二重の死の恐怖について、やが

    て「おれ」もそのような恐怖を味わって死ぬのであろうと考えてい

    る。1984 年から 1986 年までの第三段階をまとめると、「僕」は、自分が四十九歳という年齢に達してから、<死に向けて年をとる自分

    >を意識し始め、<死後の虚無>と肉体的苦痛への恐れという具体

    的な死の恐怖を提示している。この点から、九歳の実体験としての

    34 テキスト8 p.337 35 初出「死に先だつ苦痛について」『文学界』1985 年 9 月号 36 テキスト8 p.357 37 テキスト8 p.357 38 初出「M/Tと森のフシギの物語」『季刊へるめす』1986 年第 6 号~第 8 号(第

    四章第五章は書き下ろし) 39 テキスト8 p.367

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    父親の死が、数えで五十歳を過ぎても尚、「僕」が持ち続けるオブセ

    ッションであると見て間違いないであろう。 2.4 1991 年(父親と谷間の森の地形) 第四段階は、暫く間があって、1991 年の『火をめぐらす鳥』40である。そこには、<父親が死のまぎわまで枕許に置いていた辞書>41

    という形で、死んだ父親が反映されている。続いては、同年の『「涙

    を流す人」の楡』42で、「僕」の五、六歳ごろの記憶として語られてい

    る。「僕」は、楡の木とも思われる木の下に、白いベールをかぶった

    女性が赤ん坊を抱いている光景を眼にした記憶を持っている。更に、

    <夜ふけに父親が、家業の内閣印刷局におさめる三椏み つ ま た

    の工場にいた

    若い衆たちと、ものものしいほどの身支度をして、鶴嘴やスコップ

    を持って森に昇って行く……>43という記憶がある。「僕」は、この

    二つの記憶を結びつけて、ある家族 (朝鮮人労働者・論者注 )の赤ん坊が、

    埋められてはならない村の墓地のはずれに埋葬されていることを、

    父親に報告する。そこで父親は、若い衆を指揮して掘り起こし森の

    奥へ捨ててしまった。父親はその三年後に急死するが、原因はその

    せいではないかと怯える。この記憶は「僕」に、自分と父親とに関わ

    る罪障感となって覆いかぶさっている。1984 年の『「罪のゆるし」のあお草』、更にこの作品でも、父親の死に自分が関与した際、罪悪

    感、罪障感を感じているところに共通点がある。そして前者は、谷

    間の森の「壊す人」と父親の死が絡んでおり、後者は、谷間の森の楡

    の木と、父親の行為が絡んでいる。すなわち、父親の死を考える時、

    同時に、谷間の森の地形が「僕」にとって重要な背景となっているこ

    とを見逃してはならないであろう。

    40 初出「火をめぐらす鳥」『Switch』1991 年 7 月、Vol.9 No.3 41 テキスト8 p.446 42 初出「「涙を流す人」の楡」『Literary Switch』1991 年 11 月、Vol.1 No.3 43 テキスト8 p.463

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    78

    2.5 2000 年から現在まで(父親と天皇の再現)

    第五段階は、2000 年の『取り替えチ ェ ン ジ リ

    子ン グ

    』と 2002 年の『憂い顔の童子』、2005 年の『さようなら、私の本よ!』からなる三部作である。1971 年の『みずから』において、父親は蹶起を指揮した超国家主義者として描かれたが、『取り替え

    チ ェ ン ジ リ

    子ン グ

    』では、その後日譚として父親の

    弟子「大黄さん」が登場する。その「大黄さん」に丸山眞男の政治思想

    が絡んで描かれ 44、超国家主義思想の内容が前作にも増して具体的

    に提示されている。これら三部作における父親像は、『みずから』と

    ほぼ同様、蹶起した将校らに指揮者として担ぎ出され、異常な死を

    遂げたという点で共通している。1960 年を起点とする父親と天皇との関連が、四十年の時を経て再度繰り返されたことは、大江にとっ

    てこのテーマがいかに重要なものであるか、言うまでもない。 以上の作品の整理によって、各年代における父親と大江の主題と

    の繋がりが多少なりとも明らかになったと思われる。そこで、次節

    では、この関連の中で最も重要視される超国家主義と父親と天皇に

    ついて、権威者としての父親という観点から考察を進めていくこと

    にする。 3. 権威者としての父親像

    父親が最初に描かれたのは、『遅れてきた青年』である。この作

    品は、江藤淳によって失敗作45と言われているが、戦争、天皇、政

    治、性などの大江の主要な主題が内在されている点を重要視したい。

    例えば、その一つに、<父親と日本的神秘主義としての天皇制の問

    題>46が挙げられる。『遅れてきた青年』を仔細に見る時、何故父親

    と戦争と天皇なのかを知る鍵が、ここにあるように思われる。では、

    この作品の父親像を、引用(1)から見ていくことにする。

    44 『取り替え

    チ ェ ン ジ リ

    子ング

    』における丸山眞男の政治思想の分析については、小森陽一

    (2002)『歴史認識と小説』講談社に詳しい。 45 福田和也(2001)『江藤淳コレクション 3 文学論Ⅰ』ちくま学芸文庫 p.235 46 同注 7 p.30

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    (1) 戦争はおわることがない、ぼうや、おまえは戦争に遅れないだろう。父親はそう

    いっていた、(中略)昔、ながい昔にそういっていたような気がする。神武天皇が生

    きていたころから父親がそういっていたのだという気がする。神武天皇につづく、

    薄暮の中の天皇たちの大行進、そのすべての時代にわたって、父親がそういってい

    たのだ、ぼうや、おまえは戦争に遅れないだろう、戦争には誰ひとり遅れることが

    あるまい! 47

    戦争には誰も遅れることはないと絶対肯定する父親像、そして、

    この戦いが天皇の命によってなされていることが、(1)で強く暗示されている。少なくとも父親は、(1)から参戦を強く望む者であることが窺える。しかも、その戦争の陰には<薄暮の中の天皇たち>の姿

    が見える。従って、父親と天皇と戦争の結びつきの暗示は、すでに

    この『遅れてきた青年』から窺い知ることができると言えるであろ

    う。「わたし」にとって、父親は戦争肯定者であり、「わたし」はこの

    父親を尊敬している。その様子が (2)の引用からわかる。 (2) わたしは父親を誇りに感じていた。父親は鼻歌をうたっていた。歌の一節ごとに、

    と、いう言葉とか、か

    、という言葉をいれて、他人ごとのように歌っている。歌そのも

    のを軽蔑したように歌っている。父親は、百姓の女房たちの、かれのもとに三椏の

    皮剥ぎの仕事をもらいにくる連中を軽蔑し、歌を軽蔑している。戦場に出ることだ

    けを望んでいるのだ。(傍点原文のまま)48

    (2)からは、父親が<三椏の皮剥ぎの仕事をもらいにくる連中>に仕事を与える立場の人間であることがわかる。ここに、父親の権威

    者としての一面を見ることができる。また、前出の『鎖につながれ

    たる魂をして』の中には、<農家と交渉する父親には、統率者、族

    長の印象があった>49という父親像が描かれており、ここでも、統

    率者、族長としての父親の威厳のある姿が窺える。一方、「わたし」

    は (2)で、父親が<戦場に出ることだけを望んでいるのだ>と見てお

    47 大江健三郎(1966)『大江健三郎全作品 4』新潮社 p.24 以下テキスト全4と

    呼ぶ。 48 テキスト全4 p.28 49 テキスト7 p.315

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    り、父親を明確に戦争崇拝者として位置付けている。その父親の、

    家長としての立場はどうだったのであろうか。研究対象作品の中で、

    父親が言ったとされる言葉は数少ないが、その中でも (3)は、「わたし」の家での、父親を含む男性の地位を表した言葉として重要視され

    るであろう。 (3) そしてわたしの言葉が王侯の命令ででもあったかのようにたちまちわたしの寝

    るための場所がしつらえられた。死んだ父親がいっていた言葉だがわたしの家の伝

    統は、女が男の奴隷であることだ。50

    ここで、「わたし」の言葉は<王侯の命令>でもあるかのように捉

    えられている。つまり、父親が単に「わたし」の家の男性というだけ

    ではなく、族長としての存在であったということは、「わたし」を含

    む家族にとって絶対的地位の存在であったと推測される。<死んだ

    父親>の言葉の時代設定が、少なくとも 1944 年以前51のことであり、その当時の家族制度が、まだ家長中心であったこと考え合わせれば

    なおさらのことである。こうして (1)(2)(3)を総合的に見ると、「わたし」の父親像の全体は、まず、戦争参加絶対肯定者として、いわゆる

    戦争崇拝者であったことが理解できる。それは、天皇の命による戦

    争に参加することであり、この点に父親の天皇崇拝が暗示されてい

    る。次に、父親が村における統率者であり、家における族長であっ

    たことからは、権威者としての父親像を見ることができる。こうし

    た角度から(1)(2)(3)を見ると、その原型とも言えるものが、『遅れてきた青年』には見られるように思われるのである。これに対して、

    渡辺広士は、父親の死と天皇の求める死の観点から<大江健三郎の

    場合には、この「天皇」が求める死、が、幼い彼にとって、父の死に

    よって知った死、の絶対的な事実性

    、、、、、、、と結びついていたらしいというこ

    とである。(中略 )これらの事実(大江のエッセイ・論者注)によって、少

    年大江健三郎の内部で父、と天皇

    、、と死

    、―その恐怖と恍惚―とがどのよ

    50 テキスト全4 p.164 51 父親の死は 1944 年のことである。

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    うに深く結びついたかを推測することができる。(傍点原文のまま ) >52と述べている。ここで渡辺広士は、大江が目の当たりに経験した

    父親の死と、天皇の命による死を結びつけて論じていることが理解

    できる。これを全面的に肯定するとして、先の引用からは、父親が

    村や家での権威者であったことが、天皇という絶対権威者への敬意

    と畏怖を「僕」に抱かせる重要な要因となった、と見てよいであろう。 次に、父親の権威者としての姿が見られるのは、1968 年の『狩猟

    で暮したわれらの先祖』であり、後に、単行本『われらの狂気を生

    き延びる道を教えよ』(以下『狂気を』と略す )に収録された。『狂気を』

    の中には、父親が描かれた作品が三作ある。その一作目が『狩猟で

    暮したわれらの先祖』である。この作品は、谷間の村を追われ、全

    国を流浪する「山の人」の物語であるが、彼らが飼っていたとされ

    る山羊に関して、父親の言葉が見られる。1944 年夏の出来事として、「僕」は<かれらが密殺した山羊の肉を、深夜ひそかに父親の指示を

    うけて買いに>53行く。1944 年夏という時代背景を考慮すると、山羊の肉なるものが存在したのであれば、それは貴重な食糧源であっ

    たに違いない。山羊の肉に関して、父親の言葉が、以下の (4)(5)(6)(7)の引用に見られる。 (4) 男は山羊の首筋からぬいたモズの嘴をズボンの腿にこすりつげながら起きあが

    る。かれらが独自の手続きをふんで殺した山羊は、臭くないと僕の父はいった。54

    (5) 皿に盛られてつきだされた山羊の肉の刺身を見つめてから、僕は顔をうつむけそ

    の匂いをかごうとした。それは臭くない。「山の人」たちが、かれら独自の手続き

    をふんで殺した山羊は、臭くないと僕の父はいった。55

    (6) 父は村での権威を発揮して、あからさまにではないが強制的に「山の人」たちか

    ら山羊の肉を買いあげたのだし、使いにゆく僕もまた「山の人」たちが抵抗しえな

    いことを知っていたのだ。同時に子供ながら僕は、山羊の肉がテント生活する「山

    52 同注 1 p.12-13 53 テキスト3 p.313 54 テキスト3 p.319 55 テキスト3 p.325

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    の人」たち自身にとって、きわめて貴重であることも知っていた。その山羊肉をう

    ばいさりながら「山の人」たちが再び森に戻ることを妨げた工作の中心人物は、や

    はり父だ。「山の人」たちが、かれら独自の手続きをふんで殺した山羊は、臭くな

    いと父は酔いにうっとりして家族みなにいかがわしい権威をこめて話した……。56

    (7) 「山の人」たちの山羊の肉をとりあげて食うほどのことまでした父もまた、ある

    朝、自分は気が滅いっているといった。57 (引用の下線すべて論者)

    (4)(5)(6)における<かれら独自の手続きをふんで殺した山羊は、臭くない>の繰り返しには、「山の人」が永く培ってきた独自の狩猟

    生活の一端が窺えるし、この点を認めている父親の態度も了解でき

    る。それに反して (6)の<父は村での権威を発揮して>、<強制的に「山の人」たちから山羊の肉を買いあげた>、<その山羊肉をうばい

    さりながら「山の人」たちが再び森に戻ることを妨げた工作の中心人

    物>、<いかがわしい権威をこめて話した>や、(7)の<「山の人」たちの山羊の肉をとりあげて食うほどのことまでした父>などには、

    「山の人」の特殊性を認めながらも、かれらを威圧する村の実力者で

    ある父親の姿が反映している。従って、(6)(7)の引用に『遅れてきた青年』の (1)(2)(3)を重ねると、村や一族の権威者である父親像が明確に浮かび上がってくる。では、この権威者としての父親が、どの

    ように天皇に繋がっているのか、その構造について大江は、<僕た

    ち農村で生まれた人間にとっては、戦中の子供の頃から大きい縦の

    軸は見えていた。その上のほうに天皇があり、中間に東京の警察組

    織があり、国家組織があり、超国家主義があり、一番下に村の社会、

    村の共同体、そして父親がいることは明らかでした> 58と述べてい

    る。すなわち、権威者の縦の軸の底辺に父親がいて、その頂点には

    天皇が君臨している。 (2)のように<父親を誇りに>感じていた「わ

    56 テキスト3 p.325 57 テキスト3 p.338 58 大江健三郎・すばる編集部編(2001) 「座談会 大江健三郎の文学」『大江健三

    郎・再発見』すばる編集部 (初出「すばる」2001 年 3 月号「座談会 昭和文学

    史 XV Ⅲ」) p.100-101

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    たし」であるなら、その頂点に立つ天皇という神秘主義的絶対存在へ

    の敬意と畏怖は、絶大なものであったに違いない。この点に、権威

    者としての父親と天皇との決定的な繋がりを見ることができるので

    ある。 4. 権威者からの変貌

    では次に、二作目の『父よ』における父親像を探っていくことに

    する。この作品における父親は、「僕」によって次のことが明らかに

    されている。父親は、ある事情により土蔵に自己幽閉した人物で、

    理髪師用の機械椅子に坐っていたこと、暗殺者に狙われるが抵抗す

    る意志はなかったこと、肥満した大男であったこと、心臓発作で死

    んだらしいこと、気が狂っていたかどうかは不明であることなどで

    ある。しかし、「僕」は、父親が自殺したのではないかという疑いを

    持っており、土蔵にこもった理由を肯定的に捉え、父親を美化しよ

    うとしている。大江は、実際の執筆動機について、作中と同様、ニ

    ューヨークの近代美術館で見た彫刻がきっかけとなっていることを、

    「文学とは何か? (2)」において明らかにしている59。その中で、<作者と、作中人物と、読者とのあいだに、作家の意識が働くのは当然

    として、作家の主観をはなれた客観性というのもあるはずです>60

    とし、彫刻の前で自分が感じ取った動揺を、いかにして表現すれば

    読者に伝えられるかについて触れている。これは、作家が書いた小

    説を、読者がどう受け止めるかについてかなり意識しているという

    ことを意味している。松崎晴夫はこの点について、<小説は作家か

    ら読者へ与えられるものではなく、作品のこちら側の反面をうけも

    59 大江健三郎(1970)『核時代の想像力』新潮社 p.177 (初出「文学とは何か?(2)」

    1968 年 7 月 30 日講演)<あらためてぼくの小説、ニューヨークの近代美術館

    で見た彫刻から出発している小説において、ぼくがなにを実現したいかとい

    うと、それは自分の眼のまえに、いま自分の書いている文章のなかに、現に

    そこにいるように、ぼくの少年時のある一時期においての父親の実存性を書

    きたいという単純なことなのです> 60 同注 59 p.159

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    っている読者と、むこう側の反面を担っている作家とが作品を同時

    に経験するものとして対等の主体性をもっている>61と述べている。

    この問題は、『父よ』における、「僕」、「肥った男」、「かれ」という

    人称にも反映されており、『父よ』に続く作品を読む時、作者、作中

    人物、読者の三者間の関係をしっかり念頭に入れておくということ

    は、極めて重要であると思われる。では、父親と天皇との関わりに

    戻るが、それが作中で指摘されるとすれば、「僕」が夢に見た***

    蹶起の話である。夢には、舞台の上に黒い大きな椅子が置かれてい

    る。その椅子は、父親が坐っていた椅子のようでもあり、<帝王が

    そこにかけるべき国家でもっとも重要な椅子>62のようでもある。

    すなわち、渡辺広士の指摘による、父親と天皇が<はじめて密接に

    結びつく>63というのは、この点を指して述べたものであることが

    わかるが、『父よ』では、父親が天皇に繋がるという糸口が示されて

    いるだけであって、それ以上のことはわからない。しかし、明確な

    ことは、あたかもこの父親像が、これまで見てきた(1)から (7)までの権威者としての父親像とは一線を隔している点である。ここで父親

    が肥満した大男であるという設定は、実は、その重要な鍵であると

    思われる。父親が自己幽閉の生活に入る以前の写真として、(8)の引用がある。 (8) それ以前の活動期における父親の写真は、まだ幾枚も保管されている。それらは

    ことごとく異様に痩せて風貌は鋭い輪郭をそなえており、石膏人間の腫れぼったく

    暗くマッシヴな印象とは似ても似つかぬ、鳥みたいな顔だ。64

    (1)から (7)までの引用の父親像と、 (8)における活動期の父親の写真には、<鋭い輪郭>を備えた権威者としてのイメージが重なる。

    一方、自己幽閉してからの父親は肥満した大男であるが、これは、

    61 松崎晴夫(1972)「七〇年代初頭の大江健三郎-『みずから我が涙をぬぐいたま

    う日』を中心に―」『阿部公房・大江健三郎日本文学研究叢書』有精堂 p.264(初

    出『民主文学』1972 年 2 月号) 62 テキスト3 p.402 63 同注 1 p.18 64 テキスト3 p.415

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    愚鈍で狂人のイメージに結びつくものと見られる。ということは、

    『父よ』において自己幽閉した父親と、それ以前の父親は、全く別

    の様相と人格を持った人物と見なすことができる。すなわち、前者

    は権威者としての父親像であり、後者は狂人としての父親像である。

    後者を裏付けるものとして、大食漢の父親像を挙げることができる。

    引用 (4)(5)(6)(7)での<山羊の肉>に対する父親の態度は、冷静で洞察力に満ちていた。一方、『父よ』では、食糧難の時代に手に入るも

    のはすべて食べて肥り、それが恥ずかしくて土蔵にこもったのでは

    ないかという批判を母親から浴びせられるほど「狂気」に満ちてい

    る。この点には、食糧難における時代錯誤的行為を父親の「狂気」

    に絡ませようとする作者の意図が窺えるが、父親と食糧に関する描

    写は思いのほか多く、ここに父親のパロディ化が顕著であるように

    思われる。特に、父親が土蔵から出てきて、牛の尾のシチューを作

    る姿は滑稽であり、その姿は『みずから』にも詳しく記されている。

    結果的に『父よ』を総括すれば、次のようになるであろう。まず、「僕」

    は「狂気」に駆り立てられるようにして、想像力によって死んだ父親

    を復元しようとする。明らかに「僕」は、父親との一体化を試み、父

    親を美化しようとしている。だが結局、明確な父親像は得られず、

    五里霧中のままに終わる。読み手側としては、食糧や肥満などの僅

    かな手がかりによって、これまでの威厳を持った父親像から、「狂気」

    に満ちた父親像の変貌を見出し、更にその父親が、帝王≒天皇のイ

    メージに重なっていることを発見したのである。 では次に、父親が登場する三作目の『狂気を』における父親像に

    移ることにする。三人称の主人公、「肥った男」というネーミングは、

    土蔵の中の肥満した父親との一体化の表れと見られる。終盤、「肥っ

    た男」は、母親に父親の本当の姿が知りたいと激しく訴えるが、無視

    され、母親が父親を「あの人」と呼んだことに思い当たる。ここで読

    者には、『父よ』で、父親≒天皇が暗示されているのであるから、父

    親≒「あの人」≒天皇という構図が浮かんでくるであろう。次に「肥っ

    た男」は、父親の「われらの狂気を生き延びる道を教えよ」という祈り

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    86

    の「われら」とは、息子と「肥った男」ではなく、「あの人」と「肥った

    男」のことを指しており、<あの人、、、

    の狂気は僕の狂気だ>65(以下<>

    内の傍点すべて原文のまま )と悟る。そして、<われらの狂気を、すなわ

    ちあの人、、、

    とかれ自身との狂気を生き延びるべき探求を開始すること

    >を決意する。つまり、この時点で、「あの人」は父親であり、かつ

    天皇であるという暗示がありながら、「肥った男」は解釈をあいまい

    なままにしている。一方、母親の葉書によって、父親は***蹶起

    に失敗した結果、天皇を弑逆しようという考えの恐ろしさのあまり、

    土蔵にこもった民間人であることが明らかにされる。すると、この

    後、今まで存在した「あの人」という言葉は全く姿を消し、「死んだ父

    親」という言葉に戻っていくのである。これは、何を意味するので

    あろうか。明確なことは、第一に、母親は父親を「あの人」と呼んで

    敵対視しており、父親を美化しようとする「肥った男」と対立してい

    る。第二に、<あの人、、、

    の声が、おお、われらの狂気を生き延びる道

    を教えよ、というのであるなら、あの人、、、

    にとって、われらとは、あ、

    の人、、

    と僕のことだ>と「狂気」に絡めて「肥った男」が言う時、「あの

    人」は父親≒天皇≒「肥った男」でもある。第三に、「肥った男」は、*

    **蹶起に父親が関係したとはっきり確認した後、父親を「死んだ

    父親」と位置付けており、父親と「あの人」を同一視していない。まと

    めると、母親は「あの人」を敵対視している。「肥った男」が美化して

    いるのは「あの人」ではなく、あくまでも「死んだ父親」のようである。

    第二の問題点については、作者の視点から捉える必要がある。大江

    のエッセイに、< (前略 )もっとも端的にいえば、基本的には作家はか

    れの時代を次の時代に向って生きのびることを要求されてはいない。

    ふたたびオーデンの詩句をひけば、作家が生きのびるべくつとめね

    ばならなぬのは、作家はもとより同時代の加害者も被害者もひっく

    65 以下の<>すべてテキスト3 p.456-457

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    87

    るめた、すべての人間の狂気をであろう>66 とあるが、『狂気を』

    における<あの人、、、

    the Man>は、エッセイの中の<同時代の加害者も被害者もひっくるめた、すべての人間>に置き換えられるであろ

    う67。そう解釈すれば、第二の問題は、作家大江の「人間」への訴え

    と捉えられるであろう。その方法は、まず、権威者としての父親を

    パロディ化し、***蹶起という天皇制と深く関わる問題と融合さ せた。そして、この状況を「時代の狂気」として捉え、それをオーデ

    ンの詩句に反映させた、と考えられる。ただし、『狂気を』における

    父親像は、上記に見たとおり、「あの人」≒父親≒天皇の関係が明確

    ではない。それが決定付けられたのは、『みずから』である。 『狂気を』であいまいだった「あの人」≒父親≒天皇は、『みずか

    ら』において、完全に=の関係に決定付けられている。それは、大

    江が、<私兵の軍服をまとった割腹首なし死体が、純粋天皇の胎水

    しぶく暗黒星雲を下降する……という光景をはっきり眼にしたよう

    に思う瞬間もまたあったのだ>68と『みずから』の序文で言うよう

    に、1970 年の三島事件に起因している。三島由紀夫は、大江が想像力の世界で駆使していた「狂気」を、現実のものとして民衆の眼前に

    叩きつけたのである。これに対し、『みずから』における父親は、徹

    底してパロディ化されている。まず、暗い土蔵の中で眼には水中眼

    鏡をつけており、肥満した大男である。更に、膀胱癌で血尿を垂れ

    流し、蹶起の折には木車で担ぎ出され、古襁褓む つ き

    を血で染めている。

    展開に緊張感はあるが、権威者としての父親像は全く姿を消してし

    まう。これについて大江は、戦後民主主義とアイロニーに関する話

    の中で、<僕自身の父親につながる環境は、超国家主義のものでし

    た。それは現在に至ってもアイロニーとしてしか書けないほど、僕

    66 大江健三郎(1966)「作家は絶対に反政治的たりうるか?」『大江健三郎全作品

    3』新潮社 p.378 67 <あの人は一面では「父親」であるとともに、一面では総体としての人間のシ

    ンボルでもあったのだから> 「蚤の幽霊」より テキスト7 p.273 初出「蚤の

    幽霊」『新潮』1983 年 1 月号 68 大江健三郎(1972)単行本『みずから我が涙をぬぐいたまう日』講談社 p.6

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    の心の中に深く根ざしている>69と述べている。アイロニーは、『父

    よ』から『狂気を』へ徐々に高まり、『みずから』において結実され

    たと言ってもよいであろう。一方、『父よ』と『狂気を』における父

    親と、『みずから』の父親の決定的な違いは何かというと、前二作の

    中で具体的な発言のなかった父親が、8 回にわたって『みずから』で発言していることである。その内容は、母親に向けてが2回と、「か

    れ」に向けてが 6 回である。「かれ」に向けられた言葉は、ほとんどパロディに近い。母親との対立は、種火から中火、強火へと、三作

    の作品を追うごとに激しくなる。父親と母親との対立について大江

    は、<母親は、そういう天皇制的なものとの対立存在として、地方

    的なもの、自分の村に伝わっている周辺的な人間のフォークロア、

    民俗、伝承に重なる存在として認識していた>70と述べている。つ

    まり、父親を底辺とし、天皇を頂点とする縦の関係に、母親的、村

    の伝承の存在を横の関係とし、それをアイロニーで表現したのが、

    『みずから』ということになるであろう。それから約三十年の時を

    経て、同じ主題が『取り替えチ ェ ン ジ リ

    子ン グ

    』、『憂い顔の童子』、『さようなら、

    私の本よ!』で再び取り上げられた。ということは、大江の内部に、

    <父親的なもの、天皇制的なもの、超国家主義的なものが、一つの

    主題として燃え上がる情念のようにある> 71という事実を、強く裏

    付けたものと言えるであろう。 5. まとめ

    本論文では、まず、大江作品における父親の全体像を明らかにす

    べく、年代を追って探求してきた。その結果、第一段階では、超国

    家主義者である父親と日本的神秘主義としての天皇との結びつきが

    決定付けられている。これは、私小説的に大江と重なる「僕」が、

    <一生のテーマ>と呼ぶほどの重要な主題となる。第二段階では、

    69 同注 58 p.63-64 70 同注 58 p.98-99 71 同注 58 p.99

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    「僕」が父親の死んだ年齢に近づくにつれて、己の中に潜む暴力的

    なものを発見していく。凝縮された怒りが出口を失い爆発する時の

    恐ろしさ、それは還元すれば、時代の様ざまな暴力、例えば現代の

    テロ行為へと繋がっていくのであり、「僕」は時代を先取りして警鐘

    を鳴らしている。第三段階は、「僕」が五十歳という年齢に達してか

    ら<死に向けて年をとる自分>を意識し始め、死の恐怖について深

    く考えている。父親の死とその恐怖が、五十歳を過ぎても尚「僕」

    が持ち続けるオブセッションであることを示しているものと思われ

    る。第四段階は、父親の死と罪障感だが、その背景には、谷間の森

    の地形と伝承が深く関わっている。谷間の地形と伝承は、小説家と

    しての「僕」に大きな影響を与えたが、それは父親の死にも絡んでお

    り、「僕」にとって重要な要素となっていること裏付けている。第五

    段階は、1960 年が起点である父親と天皇のテーマの再現であり、これを<一生のテーマ>として追い続ける「僕」の徹底した姿勢が窺え

    る。こうした時代と作品のシークエンスによる整理からは、成長を

    重ねる「僕」が見た父親の形象の変化が、顕著に表れていることが理

    解できる。換言すれば、主人公の「僕」という人物が、年齢を重ねる

    に従って父親への認識が深まり、更に、それを自己の言動の原点に

    照らし合わせながら作品を描いていったと見てよいであろう。この

    点については、単なる抽象論としてではなく、作品に基づき父親の

    全体像を明らかにして得られた結果であり、作業の結実となったと

    思われる。 一方、父親と天皇との絡み合いの重要性が再確認されたわけであ

    るが、では何故、父親と天皇なのか、この点を追求していった結果、

    権威者としての父親像が浮かび上がってきた。「僕」は、この父親に

    深い敬意を抱いており、父親を底辺とすると、その権威の頂点に立

    つ天皇への敬意と畏怖を持つに到ったことが明らかになった。すな

    わち、権威者の縦の軸の底辺に父親の存在があり、その頂点には天

    皇が君臨している。この点から、「僕」に根ざす父親と天皇との決定

    的な繋がりを見ることができたのである。渡辺広士は、父親と天皇

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    との結びつきを絶対的な死の恐怖に位置付けたが、作品上、権威者

    としての父親が天皇に繋がっているという事実は、新たな発見であ

    ったと思われる。 大江文学研究において、父親と天皇の結びつきを明らかにしてい

    くことは、戦争を含めた右翼的暴力的なものの根底を探求するため

    に不可欠なプロセスである、という意義を持つであろう。本論文か

    ら得られた結論は、今後、近年上梓された『取り替えチ ェ ン ジ リ

    子ン グ

    』、『憂い顔

    の童子』、『さようなら、私の本よ!』の三部作における暴力的なも

    のを研究するにあたって、基本の骨格に据えられるであろう。更に、

    この研究を続けていくことは、戦争を含むすべての暴力を、文学的

    立場から阻止していこうとする大江のライフワークの一端を解明す

    ることに繋がっていくものと考えられる。

    テキスト

    大江健三郎(1966)「遅れてきた青年」『大江健三郎全作品4』新潮社

    大江健三郎(1996)「生け贄男は必要か」「狩猟で暮したわれらの先祖」「父よ、あなたはど

    こへ行くのか?」「われらの狂気を生き延びる道を教えよ」「みずから我が涙をぬぐいた

    まう日」『大江健三郎小説3』新潮社

    大江健三郎(1996)「M/Tと森のフシギの物語」『大江健三郎小説5』新潮社

    大江健三郎(1996)「さかさまに立つ「雨レイン

    の・

    木ツリー

    」」「泳ぐ男―水の中の「雨レイン

    の・

    木ツリー

    」」「無垢の歌、

    経験の歌」「蚤の幽霊」「鎖につながれたる魂をして」『大江健三郎小説7』新潮社

    大江健三郎(1997)「揚げソーセージの食べ方」「もうひとり和泉式部が生まれた日」「「罪

    のゆるし」のあお草」「いかに木を殺すか」「四万年前のタチアオイ」「死に先だつ苦痛につ

    いて」「火をめぐらす鳥」「「涙を流す人」の楡」『大江健三郎小説 8』新潮社

    大江健三郎(2000)『取り替えチ ェ ン ジ リ

    子ング

    』講談社

    大江健三郎(2002)『憂い顔の童子』講談社

    大江健三郎(2005)『さようなら、私の本よ!』講談社

    参考文献(五十音順)

    大江健三郎(1966)「作家は絶対に反政治的たりうるか?」『大江健三郎全作品3』新潮社

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    大江健三郎(1970)『核時代の想像力』新潮社

    大江健三郎(1972)『みずから我が涙をぬぐいたまう日』講談社 単行本

    大江健三郎(1983)『新しい人よ眼ざめよ』講談社 単行本

    大江健三郎(1989)『小説のたくらみ、知の楽しみ』新潮社

    大江健三郎・すばる編集部編(2001) 「座談会 大江健三郎の文学」『大江健三郎・再発見』

    すばる編集部 初出「すばる」2001 年 3 月号「座談会 昭和文学史 XV Ⅲ」

    「大江健三郎の 50 年」『IN・POCKET』2004 年 4 月号 講談社(インタヴュー)

    小森陽一(2002)『歴史認識と小説』講談社

    篠原茂 (1998) 『大江健三郎文学事典』スタジオVIC

    根岸泰子(1997)「『雨レイン

    の・

    木ツリー

    』を聴く女たち―メタファーの受胎とその死まで」『国文學』

    2 月臨時増刊号

    福田和也(2001)『江藤淳コレクション 3 文学論Ⅰ』ちくま学芸文庫

    松崎晴夫(1967)「七〇年代初頭の大江健三郎‐『みずから我が涙をぬぐいたまう日』を

    中心に‐」『阿部公房・大江健三郎 日本文学研究資料叢書』有精堂 初出『民主文学』

    (1972 年 2 月号)

    渡辺広士(1994)『大江健三郎 増補新版』審美社

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