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209 通信 書評 『現代インド研究』は、「現代インド地域研究」プロジェクトに関心を持つ全ての人々や団体の ためのフォーラム誌たるべく創刊された。そのため、「通信」の欄を設けて、「研究途上の発見や 仮説をコンパクトに提示する論考や、既出の論文・研究ノート等に対するコメントやそれに対す る応答など」(本誌投稿規程第 1 項)も掲載できるようにしている。今のところ「通信」への投 稿はないが、編集委員会としてはフォーラム誌として現代インド・南アジア研究に関する議論の 多角化・活性化を図りたいと願っている。そこで、第 3 号から「通信」欄を活用して書評を掲載 することにした。対象とする書物の選定や書評者の依頼は編集委員会で行うが、取り上げるのは 近刊の南アジア研究書を原則としたい。良質な研究書を幅広く紹介することも大きな目的である が、これをきっかけとして「通信」における議論の活性化につながれば幸いである。 丹羽京子『タゴール(Century Books 人と思想)』(東京:清水書院、2011 年、264 頁、893 円、 ISBN: 978-4-389-41119-0(評)北田 信 19 世紀後半から 20 世紀初頭、カルカッタは大英帝国の東半分の中心として機能し、そこにはヨー ロッパ風の楼閣が立ち並び、ヨーロッパ最新のモードや映画などの娯楽がいち早く輸入され、人々 は西欧風の都会生活を楽しんでいた。この時代に、新精神を表現するべく生まれたのが近代ベンガ ル語である。この新しい言語を使用して、新聞や啓蒙的書物、さらに ノヴェル ロマン が著 され、メガロポリスに暮らす人々の葛藤と苦悩を写すようになる。 ところが面白いことに、この新生の言語の成り立ちは、南アジアの辺境地ベンガルで話される平 易簡明な民衆の言葉を礎石とし、これにサンスクリット語の語彙を豊富に加えて高度で抽象的な議 論を行うことを可能にしたものだった。サンスクリットの造語法を用いて、西洋から大量輸入され た新概念の訳語が作られた。この大がかりな新言語創造は、東京で関東方言と漢文の結合によって 行われた作業によく似ているが、時間的には日本に先行していた。この新しい時代のベンガル語の 文学に触れる者は、そこに、古のベンガル地方で盛んに信仰されていた密教の官能的法悦や、ラー ダー・クリシュナの天上的愛の恍惚がいまなお溢れ、さらにそれがヨーロッパ世紀末の繊細な陰影 と絶妙に混合されているのを味わうであろう。 大阪大学大学院言語文化研究科准教授、中村元東方研究会連携研究員 2012, The Body of the Musician, An Annotated Translation and Study of the Pindotpatti-Prakarana of Sarngadeva’s Sangitaratnakara, Bern: Peter Lang. 2012, “Caca Songs: ‘The Oral Tradition in Kathmandu,’” in Hiroko Nagasaki (ed.) Indian and Persian Prosody and Recitation, Delhi: Saujanya Publications, pp.193–227.

書評211 書評 ルカッタでは、ヨーロッパのショウ(ヴァラエティーやキャバレー)とインド民俗芸能を融合させ てベンガル語の近代演劇が発明され、さらにこの様式が娯楽映画に受け継がれていく。タゴールと

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  • 209

    通信

    書評

    『現代インド研究』は、「現代インド地域研究」プロジェクトに関心を持つ全ての人々や団体のためのフォーラム誌たるべく創刊された。そのため、「通信」の欄を設けて、「研究途上の発見や仮説をコンパクトに提示する論考や、既出の論文・研究ノート等に対するコメントやそれに対する応答など」(本誌投稿規程第 1 項)も掲載できるようにしている。今のところ「通信」への投稿はないが、編集委員会としてはフォーラム誌として現代インド・南アジア研究に関する議論の多角化・活性化を図りたいと願っている。そこで、第 3 号から「通信」欄を活用して書評を掲載することにした。対象とする書物の選定や書評者の依頼は編集委員会で行うが、取り上げるのは近刊の南アジア研究書を原則としたい。良質な研究書を幅広く紹介することも大きな目的であるが、これをきっかけとして「通信」における議論の活性化につながれば幸いである。

    丹羽京子『タゴール(Century Books 人と思想)』(東京:清水書院、2011 年、264 頁、893 円、

    ISBN: 978-4-389-41119-0)

    (評)北田 信�

    19 世紀後半から 20 世紀初頭、カルカッタは大英帝国の東半分の中心として機能し、そこにはヨー

    ロッパ風の楼閣が立ち並び、ヨーロッパ最新のモードや映画などの娯楽がいち早く輸入され、人々

    は西欧風の都会生活を楽しんでいた。この時代に、新精神を表現するべく生まれたのが近代ベンガ

    ル語である。この新しい言語を使用して、新聞や啓蒙的書物、さらに “ノヴェル” や “ロマン” が著

    され、メガロポリスに暮らす人々の葛藤と苦悩を写すようになる。

    ところが面白いことに、この新生の言語の成り立ちは、南アジアの辺境地ベンガルで話される平

    易簡明な民衆の言葉を礎石とし、これにサンスクリット語の語彙を豊富に加えて高度で抽象的な議

    論を行うことを可能にしたものだった。サンスクリットの造語法を用いて、西洋から大量輸入され

    た新概念の訳語が作られた。この大がかりな新言語創造は、東京で関東方言と漢文の結合によって

    行われた作業によく似ているが、時間的には日本に先行していた。この新しい時代のベンガル語の

    文学に触れる者は、そこに、古のベンガル地方で盛んに信仰されていた密教の官能的法悦や、ラー

    ダー・クリシュナの天上的愛の恍惚がいまなお溢れ、さらにそれがヨーロッパ世紀末の繊細な陰影

    と絶妙に混合されているのを味わうであろう。

    � 大阪大学大学院言語文化研究科准教授、中村元東方研究会連携研究員・ 2012, The Body of the Musician, An Annotated Translation and Study of the Pindotpatti-Prakarana of Sarngadeva’ s

    Sangitaratnakara, Bern: Peter Lang. ・ 2012, “Caca Songs: ‘The Oral Tradition in Kathmandu,’” in Hiroko Nagasaki (ed.) Indian and Persian Prosody and Recitation,

    Delhi: Saujanya Publications, pp.193–227.

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    現代インド研究 第 3 号

    こうして生み出された近代ベンガル語の表現の可能性を極限まで切り開いたのがタゴールであ

    る。彼のベンガル語の文章には、当時のカルカッタの繁栄の絶頂が、雑踏のざわめきが、都会の倦

    怠と憂鬱が、こだましている。

    それらは一見したところきわめてシンプルな文体で書かれている。古来インドの芸術においては、

    詩的暗示が複数のコンテキストを互いに連繋させることにより、重層的な広がりを持たせる、とい

    うことが好んで行われてきた。タゴールの用いる言語においても、単純なことばが様々な連想を喚

    起し、複雑なフレイヴァーを醸し出す。ちょうどインドの弦楽器にたくさんの共鳴弦が張られてあっ

    て、たったひとつの音を爪弾いただけなのに、それに複数の弦が呼応し、顫えるような音の輝きが

    波紋のごとく広がってゆくのに似ており、あるいは同時代にヨーロッパで製作されたランプ・シェ

    イドが投げかける複数の淡い色彩の微妙な重なりのごとくでもあり、東洋のメガロポリスがもって

    いただろう美的な雰囲気を漂わせている。この時代に始まるベンガル語の近代文芸は今日なお健在

    で、読者層も厚く、それをめぐる批評活動も活発である。

    本書は、ベンガル語の現代文学研究・作品紹介に長くたずさわってきた丹羽京子氏(以下敬称略)

    が、タゴール周辺や彼以後の文学潮流、さらに今日の文壇事情まで踏まえて書いた評伝である。丹

    羽が本書において描きだすタゴール像は、聖人の退屈な肖像ではない。今でもベンガルにおいては

    いたる所でタゴールの詩歌が口ずさまれ、文学者たちはタゴールこそを文学の源泉とみなしている

    が、その理由はなにか?という問いに対する、丹羽なりの答えがかたちとなったものが本書である。

    丹羽は、このひとを “大いなる未完成 ” あるいは “未完成の完全なる詩人 ” と呼ぶ。本書は一般読者

    に読みやすい平明な語り口で書かれているにもかかわらず、実は、ベンガル人にとっての、あるい

    はベンガル語文学におけるタゴールとはなにか、という核心的な問題を論じたものであり、等身大

    のタゴールに近接しようという試みである。

    本書にはタゴールの生涯と作品に関する一通りの情報が、わかりやすくまとめられている。しかし、

    そこここで言及される些細なエピソードや、それについての丹羽の気の利いたコメントによって明

    らかにされるのは、従来の紋切り型の偉人像からは漏れていた、詩人の意外な面である。

    タゴールのノーベル賞受賞とそれに続く世界的なタゴール・ブームを、丹羽はやや冷静に描いて

    いる。ヨーロッパにおける英訳ギーターンジャリーへの一過性の東洋趣味的熱狂と、ベンガル人の

    ベンガル語ギタンジョリ理解は、別ものだ、と丹羽は言う。意外にもタゴール自身は海外の文学潮

    流にはさほど詳しくもなく、というより、それほど興味もなく、また、ヨーロッパ詩を模倣するこ

    とによって近代的であろうとした当時流行のベンガル語詩のスタイルにも距離を置き、むしろ中世

    ベンガル語の宗教的恋愛詩を愛し、その様式を受け継いだ。世界をめざす野心的な作家としてでは

    なく母語ベンガル語の伝統的な詩人として出発したのだ。(186 頁)

    タゴールは自作の戯曲を演じる劇団を組織したりもしているが、そのモデルとなったのは、ベン

    ガル地方の民俗的な巡回演劇(ジャットラ)だった、という指摘(96 頁)も面白い。19 世紀末のカ

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    書評

    ルカッタでは、ヨーロッパのショウ(ヴァラエティーやキャバレー)とインド民俗芸能を融合させ

    てベンガル語の近代演劇が発明され、さらにこの様式が娯楽映画に受け継がれていく。タゴールと

    並びベンガル語近代演劇の父と称されるギリシュ・ゴシュの率いる劇団も、ジャットラによく似た

    巡回劇団であったようで、花型女優ビノディニ・ダシがあまりうまいとは言えない文章で綴った手

    記なども残っている。それによれば、初期の近代劇団はかなりこじんまりとしていたようで、地方

    巡業の侘しさなども赤裸々に描かれていて興味深い1)。こうしたことはインドに限らず、歴史的な大

    劇作家たとえばラシーヌやモリエール、世阿弥などの率いた劇団も、常にパトロンを求めてさ迷う

    小さな旅芸人の一団だったようだ。表では煌びやかな旅芸人の、舞台裏の哀愁や猥雑に私は限りな

    い興味を覚える。

    放浪詩人バウルのように、タゴールは絶え間なく前進した。最近の丹羽の現代ベンガル韻律に関

    する論文2)においては、タゴールの各時期の作品の韻律を分析することによって、彼の革新性を浮

    き彫りにしている。タゴールは、中世ベンガル語詩の伝統韻律を換骨奪胎して現代的な韻律理論に

    結晶化させ、それを応用して作詩してゆく。そうかと思えば、創作後期に入ると、自分が作った決

    まり事をあっさり捨て去ってしまい、散文詩によって表現を始め、第二次世界大戦へと突き進む世

    界の不条理をテーマとするようになる。(203 頁)詩人の後期詩集は、ベンガル文学の評論家の間で

    も評価が分かれるようで(200 頁)、本書に引用される作品も、難解な印象がある。これらはもはや

    ギタンジョリの甘美さを持たないが、しかし醜美を超越する魅力を持つ。人生最後のこの段階で、

    行き着くところまで行き着いてしまったのに、またもや卓袱台をひっくり返し、帳を強引に開けて

    次の段階に踏み込んでいくような感があり、丹羽の解説がなければなんだかよくわからないほどで、

    私は強く心を打たれた。

    本書のもうひとつの重要なテーマは「女性」である。詩人と女性のソウル・メイトたちとの交流

    (第 6 章)を、丹羽は女性研究者としての視点から分析する。タゴールは生涯にわたって何人かの魅

    力的な女性と知り合ったが、これらの女性たちが創作上のインスピレーションの泉となったことは、

    よく知られている。ベンガル文化においては、古来、女性がシャクティ(エネルギーの源泉)とし

    て男性を牽引していく、という性格が顕著だが、それが現代の文化・心性にも多分に影響を及ぼし

    ているのか、女がひとたび顕われると、男はあれよあれよというまにどんどん引きずり出され、次

    元を何段も超えて連れて行かれる、ということになる。

    丹羽は、ベンガル語圏の女性作家の紹介にもつとめており、バングラデシュの女性作家の作品を

    翻訳出版したりもしている。第 5 章では、タゴールの小説に描かれる「女性」が焦点の一つとなっ

    ている。サンスクリット語や中世ベンガル語などの南アジアの古典文学においては、女性が一人称

    で語り、自律的に行動する、という事例はほとんど存在しない3)ので、タゴールの小説の中で、女神

    ではなく普通の主婦が物語る、というのは、南アジア文学史上の画期的な出来事である。女性が発

    する言葉によって、新しい文学世界が創出されている。

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    現代インド研究 第 3 号

    いろいろなエピソードの中で特に可笑しいと思ったのは、タゴールが 70 歳近くになって書いた小

    説『最後の詩』(臼田雅之の翻訳がある)の主人公オミットが、“大のタゴール嫌い” の青年として

    人物設定されているということである。(151 頁)タゴールはこの小説の中でこの生意気な青年に、

    よりによって「タゴール批判を展開してタゴール信奉者たちの不評を買う」ということをさせてし

    まうのである。ベンガル文壇においても、世界文学作家としても地位を確立していたような老作家が、

    自分の作品の中で茶目っ気たっぷりに自己批判をしてみせるとは、まったくいかしている。この小

    説では至る所でタゴールの冗句が炸裂しなかなか痛快である。タゴールの散文は上品に書かれてい

    るようでいて、そこここに小気味よい皮肉や自虐的ギャグが香辛料のように散りばめられており大

    いなる魅力となっている。

    タゴールに関する著作評論は多いが、本書はベンガル語文学の専門家が書いた初めての本格的な

    タゴール評伝である。これを機会に、ベンガル語原文からのタゴール新訳や、タゴール以外のベン

    ガル語近現代文学の作家たちの紹介が活発になることを切に待望する。

    1) Lyne Bansat-Boudon (ed.), Théâtres Indiens, Collection Purusartha, no. 20, Paris: Éditions de l’École des Hautes Études en Sciences Sociales, 1998 所収の France Bhattacharya の論文を参照せよ。

    2) Makoto Kitada 2012, “The Development of Metre in Modern Bengali Poetry,” in Hiroko Nagasaki (ed.), Indian and Persian Prosody and Recitation, Delhi: Saujanya Publications, pp. 229–254.

    3) しかしながら中世ベンガル語の代表的叙事詩モノシャ・モンゴルは例外的に、女性が自律的に行動する物語である。

    山下博司・岡光信子『アジアのハリウッド―グローバリゼーションとインド映画』(東京:東京堂出版、

    2010 年、345 頁、2,800 円 +税、ISBN: 978-4-490-20690-6)

    (評)深尾 淳一�

    本書の最も大きな特徴は、これまでほとんど取り扱われてこなかったような現在のインド映画の

    産業としての実態を、製作上の問題から、その担い手の背景、作品の特徴と多様性、異文化圏での

    受容のあり方にいたるまで詳細に描いた点にある。世界的に見てもインド映画研究の主流となって

    いるのは、社会学的、あるいは、映画論的な観点から、その社会的位置づけや作品分析を主眼とし

    � 映画専門大学院大学准教授(南インド考古学・地域研究)・(出版準備中)、「グローバル化とインド映画産業―インタビュー調査を通して」、『地域研究』第 12 巻第 2 号。・ 2004、「南インド、タミルナードゥ州における先史・原史文化の連続性」、『拓殖大学人文・自然・人間科学研究』、第

    11 号、79–95 頁。

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    書評

    たものであるということができる。その点で本書は、インド映画研究の本場である、英米やインド

    本国にもあまり例のないようなものとなっており、一般向けに読みやすくできていながらも、イン

    ドを専門とする研究者にとっても非常に有用な書物となっている。それはとりもなおさず、著者の

    広範な調査能力と深い洞察力をもってはじめて成し遂げることができたものであろう。

    帯には「これ一冊で話題は万全」とあるが、本書の真骨頂は 1990 年代から 2000 年代という最新の

    インド映画界の状況を多角的に分析しているところにある。本書に先立って 2002 年に刊行された『イ

    ンド映画への招待状』(杉本良男著、青弓社)では、ほぼ時間軸に沿ったかたちでインド映画の創生

    期から近年までの流れを叙述することが基調となっている。杉本氏の著作の最終章では、「越境する

    インド映画」と題して、経済自由化に伴ない商業化・グローバル化が進んだインド映画の変化につい

    ても触れられているが、その章の最後では「最後の章は未完成のまま」と述べられている。まさにそ

    の未完成とされている部分を埋めるのが、本書であるといってもよいであろう。この 2 冊の本をあわ

    せて読むことによって、インド映画の全体像をより包括的に理解することができるのである。

    このように本書は、これまでに出版されたインド映画の研究書と比べても、独自の性格をもつも

    のであるということができるが、表記などの点において少し細かい指摘をしておきたい。まず本書

    で用いられている映画のタイトルについてみてみると、欧米作品の場合は邦題を使用することを原

    則としているようであるが、一方インド映画については若干統一性に欠ける面があるように感じら

    れる。おおむね、原題をカタカナ表記したものに、日本公開作については初出で邦題を付するとい

    う方針をとっているようにみえるが、中には、邦題のみのもの、原題アルファベット表記のもの、

    日本公開作でありながら邦題の表記がないものなど、一部にブレが見られる。特に、日本公開時の

    邦題と、未公開作の原題を著者が私訳した題名との区別が十分に明確になっているとは言えず、混

    乱を生じかねないと思われる。確かにこの地域の映画や言語に精通した研究者の立場からいえば、

    日本公開時につけられた邦題は必ずしも納得できるものでないことが少なからずあり、なるべくな

    らその使用を差し控えたいという考えも理解できる部分はある。しかしながら、索引で同一作品の

    原題カナ表記と邦題が別々の項目として挙げられている例が多いこととあわせて、もし本書に挙げ

    られている映画作品のどれかに読者が関心を持ち、その作品についてさらに深く調べようとしても、

    容易に手掛かりを得ることができないことが不便ではないかと感じられた。

    校正はおおむね丁寧になされていて、誤記などはそれほど多くはないが、例えば、「アワーラ」は

    「アーワーラー」(p. 62)、「kāl」(p. 180)は「kal」(ヒンディー語で昨日・明日の意)、「アラーム・

    アーラー」(p. 182)は「アーラム・アーラー」、「クセラン」(p. 206)は「クセーラン(または「ク

    シェーラン」)が、「スブラマニア・プラム」(p. 211)は地名であり一単語なので、中黒点を取って「ス

    ブラマニアプラム」が正しいのではないかと思う。また、ショットジト・ラエ(サタジット・レイ)

    監督作の『大都会』(p. 7)がベルリン映画祭で獲得したのは、銀熊賞(監督賞)であり、同映画祭

    でグランプリを受賞したのは 1973 年度の『遠い雷鳴』である。

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    現代インド研究 第 3 号

    内容に関して述べるならば、第 7 章では、日本におけるインド映画の受容をめぐる問題が取り上

    げられていて、今まであまり公には語られてこなかった指摘にあふれ興味深い。特に、アカデミズ

    ムにおけるインド映画研究の「アンタッチャブル化」を語った部分では、長年インド映画に深い関

    心を抱き、その日本での興行の一端にもかかわった経験を持ちながら、一方で研究としての側面と

    の整合性に苦慮してきた著者の率直な心情が表されていて、評者にもうなずける部分がある。

    ごく最近になってようやく、筆者や評者も関わりを持っているインド文学史の共同研究の中で、

    新たな文学史叙述の切り口のひとつとして映画に着目しようという提案が出てくるようになるな

    ど、日本のインド研究の中にも映画を重要な観点として捉える気運が生まれてきたばかりであると

    いえようか。本書を含め、近年インドを専門とする研究者が相次いで映画に関する書籍を刊行でき

    るようになったことも、その一つの表れとみることもできよう。

    一方で、著者が述べているインド映画祭の評価については、評者は必ずしも賛同できるものでは

    ない。紙幅の関係で詳細には述べることはできないが、1988 年の「大インド映画祭」について言う

    ならば、それまで、最初期の 2、3 の例を除けば、日本におけるインド映画紹介は、ショットジト・

    ラエ(サタジット・レイ)にはじまり、その後のニュー・インディアン・シネマへとつながる、い

    わゆるアート系作品にばかりほぼ偏っていた中で、『放浪者(アーワーラー)』や『炎(ショーレー)』

    に代表されるメインストリームの映画をはじめて本格的に紹介した点で、この映画祭の意義はとて

    も大きいと私は考えている。また、ヒンディー語映画のみに偏らず、タミル語、カンナダ語、マラー

    ティー語、マラヤーラム語など、各言語の映画が幅広く選定されていたことからも、この映画祭の

    関係者の深い配慮を感じることができる。芸術系映画についても、思えばグル・ダットやリッティク・

    ゴトク(リトウィク・ガタク)のようなインド映画史に名を刻む監督の作品が初めて日本で紹介さ

    れたのもこの映画祭なのであることを忘れてはならない。また、1998 年の「インド映画祭」につい

    ても、ようやくメインストリーム映画の商業上映が日の目を見るようになってきた中で、一般の商

    業的興行には乗りづらいラージ・カプールの古典的作品を紹介する場は、このような公的な映画祭

    のほかにはありえなかったであろうし、マニ・ラトナムも現代のインド映画を語る上では欠かすこ

    とのできない存在であり、この映画祭で旧作が紹介されることには意義があったと思う。もちろん、

    これらの映画祭での作品の選定にまったく異議がないというわけではないが、『ムトゥ 踊るマハラ

    ジャ』で一つの頂点に達するインド映画の盛り上がりがあった背景には、特定の個人の「眼力」や

    「戦略」に負うところも決して小さくはないのであろうが、そこに至るまでの長年の関係者の地道な

    努力もあったことを忘れてはならないと思う。

    はからずも、本書も、前述の『インド映画の招待状』も、南インド、タミルナードゥ州での滞在

    経験が豊富で、タミル語映画にも精通した研究者の手によるものである点が興味深い。そのために、

    ヒンディー語映画に関する記述に偏らず、タミル語映画にまで十分に目が行き届いた、バランスの

    とれた記述になっており、その点も海外の類書にもあまり見られない特色となっている。逆にヒン

  • 215

    書評

    ディー語映画の立場からいえば、制作本数はタミル語映画やテルグ語映画に後れは取っていても、

    ヒンディー語話者の人口や社会的影響力の大きさや広がりを考えると、ヒンディー語映画の扱いが

    不十分であるように感じられるかもしれない。おりしも、ヒンディー語映画に造詣が深い松岡環氏

    が、2011 年刊行の『南アジアの文化と社会を読み解く』(鈴木正崇編、慶應義塾大学東アジア研究所)

    の中で、インド映画についての論考をまとめている。連続市民講座での講演が基になっているとい

    う性格上、概説的な記述が主となってはいるが、近年のインド映画の変化についても部分的にでは

    あるが述べられている。今後さらに、ヒンディー語映画を専門とする立場からも、インド映画産業

    の劇的な変化についての詳細な研究が出されることが期待される。また、テルグ語映画やベンガル

    語映画など、その他の言語の映画に焦点を置いた同様の研究書が出ることがあれば、さらにインド

    映画の研究に深みが生まれることになるであろう。

    評者も数年前にムンバイーとチェンナイで、映画プロデューサーや、映画監督、配給業者な

    ど、映画関係者へのインタビュー調査を行なった。そこでは、本書でも言及されている「企業化」

    (corporatization)という語に代表される現代のインド映画産業の大きな変化の側面として、(1)資金

    調達の手段の正規化、(2)映画ビジネスに関わる知識や技術の伝授方法の体系化への志向、(3)テ

    レビドラマの女性層への普及に伴う若者を対象とした映画の出現などがみられることを明らかにす

    ることができた。

    本書の著者も述べているとおり、映画はその国の文化や社会を如実に反映するものである。イン

    ド映画を新たな角度から描いた本書が、今後の日本でのインド映画研究の充実につながることを切

    に願うばかりである。

    澁谷利雄『スリランカ現代誌―揺れる紛争、融和する暮らしと文化』(東京:彩流社、2010 年、334 頁、

    3,000 円 +税、ISBN: 978-4-7791-1526-4)

    (評)荒井 悦代�

    筆者の澁谷氏のようにスリランカの宗教や文化について論じることは、私にはできない、と早々

    に白状しなければならない。しかし、後書きを読み、著者がコロンボ近郊のボラレスガムワに住ん

    でいたことを知った。私も 2008 年 9 月~ 10 年 3 月までボラレスガムワに住んでいたのだ。この場

    所は日本人が住む場所として全くメジャーではないのに。さらに私のすまいの最寄りのバス停留所

    � 日本貿易振興機構アジア経済研究所地域研究センター動向分析研究グループ長代理・2012、「スリランカ―進むインフラ開発、緩慢な和解プロセス」、『アジア動向年報 2012』、アジア経済研究所、523–546 頁。・2011、「スリランカ―マヒンダ・ラージャパクセ大統領2期目始動」、『アジア動向年報 2011』、アジア経済研究所、501–524頁。

  • 216

    現代インド研究 第 3 号

    の名前は筆者が愛して止まない「アンバラマ」ジャンクションだった。もう取り壊されてしまって

    いたのか、残念ながらアンバラマはなくなっていたが。偶然にしても、なにかの巡り合わせだろう、

    ということで力不足を認識したうえで、自分の経験と合わせつつ「スリランカ現代誌-揺れる紛争、

    融和する暮らしと文化」を紹介する。

    本著は、著者のこれまでの著作を集めたものである。したがってソカリ劇の話などは著者の既刊

    本1)に詳しいかたちで収録されている。写真もそちらの方が数も多くカラーもあり、楽しめる。し

    かし本著では、副題にあるように、スリランカにおいて人々の暮らしや文化が融和しようとしてい

    る様子が強調されている。

    スリランカの人々の中に融和の兆候が見られるということは、評者のように民族紛争まっただ中

    のスリランカをフィールドとして仕事をし始め、内戦のないスリランカを知らなかった人間にとっ

    て、明るい光と受け止められた。

    筆者がスリランカの人々、自然、文化・芸能をこよなく愛しておられるのがよく分かる。だから、

    内戦が始まり、どうしても紛争にも目を向けざるを得なかったことは筆者にとって苦痛だったかも

    しれない。苦痛を感じながらも、民族紛争の思想的な背景について芸能や大衆文化の側面からも説

    明してくれたのは有り難い。

    民族紛争の根源について、一般的にはどうしても政治や経済の面からアプローチしがちである。

    つまり、大学の入学枠とか公務員の職などの希少な資源をシンハラとタミルで奪い合っているのだ、

    というような。奪った・奪われたという感覚や、差別されているという感覚が、こっち側とあっち

    側という対立を生むのだろうな、と頭では理解できた。

    しかし、内戦時の様子や内戦終了後の現状を見るとそれほど単純でないと思わざるを得なかった。

    なぜならコロンボではシンハラ人もタミル人も、ムスリムも普通に暮らしていたから。見た目には

    区別はできないし、シンハラ人がムスリムの店で買い物することもタミル人の店で食事することも

    普通だった。憎み合っていたらそんなことはできないだろう。希少な資源の奪い合いだけに目を奪

    われていると、解決策を模索するにも選択肢が限られてくる。

    本著ではシンハラ・ナショナリズムの担い手が、エリートや新興のシンハラ中産階級から中下層

    階級に移ったこと、そして近年では前者が融和を求めるのに対して後者がより過激な民族主義的な

    方向性を示すことを、歌や映画の移り変わり、信仰のあり方を観察することで説明している。

    歌や芸能という身近なところでどのように人々の意識が形成されていったのか、どんな風に共有

    されていったのか、それをどのように経験していったのかが描かれている。歌は頭に残る。元気づ

    けてくれることもある。みんなで歌うと仲間意識も生まれる。そうやって普通の人々がシンハラ民

    族主義に駆られていったのが想像できた。

    内戦のほかにも民族解放戦線(JVP)の問題も、学術論文では立ち入れない部分が多くある。なぜ

    シンハラ人同士で殺し合いをしなければならなかったのか。そして、首謀した政党がどうして 10 年

  • 217

    書評

    もせずに中央政府に第三位の議席を得るほど支持を得ることができるのか。私は、実はしっくりす

    る解が得られないまま、統一国民党とスリランカ自由党という二大政党への不信感の裏返しだと説

    明してきた。それも間違いではないだろうが、より決定的にスリランカの人々を突き動かす何かが

    あるはずであると思い続けてきた。だからその時期を背景にした小説なども読んでみた2)。それらの

    小説は、等身大の人々の悩みや生活を示してくれた。それらはその時代が共有する流れも示してく

    れたが、あくまでも小説なので限定的な体験であり過ぎたかもしれない。本著や著者の「祭りと社

    会変動」は、シンハラ青年を突き動かした、鬱々とした感情が累積し、それが爆発して行く様が説

    明されている。

    JVP の武装闘争後、人々が救済を求めるためにサイババ信仰が活発になったことは興味深い。や

    はり無理があったのだ。「良き仏教徒として再生する」ためにサイババのような力が必要だったの

    だ3)。JVP が支持されている背景と同時に、人々が不安感を抱いていること、何とかしたいと感じて

    いることについても手がかりがつかめたような気がする。端から見ると、どうして内戦下で平常生

    活を送れるのだろうと常々疑問だったのだ。人々はそうやって現実と心のバランスをとろうとして

    いたのかもしれない。

    そして、仏教徒がヒンドゥー教的な信仰を受け入れること、仏教寺院でヒンドゥー的儀礼を開催す

    ることを矛盾なく受け入れる僧侶らを描くことで、内戦が宗教対立でないことを納得させてくれる。

    著者は、個人の救済にとどまらず、サイババ信仰が民族間の融和への欲求の表れでありシンハラ・

    ナショナリズム変容の特徴、と見えるという。今後の和平 ・ 和解の可能性として期待したい。その

    一方で政治家はシンハラ・ナショナリズムを強調する。政治家は演説で、腕をぐるぐる振り回しな

    がら絶叫する。力強い。そして力強い演説が演説上手として評価される傾向にある。ナショナリズ

    ムは、国民を統合する力を持っていただろうが、それによって引き裂かれているようにも見える時

    もある。

    ―スリランカ人の心象風景―

    都市部と農村部では、生活様式が異なるだけでなく、好みや思考にも影響し断絶が生じているこ

    とにも本著は触れている。第 11 章「スリランカ映画小史」では、ふるさとや伝統と都会的な生活や

    行動様式との違いや世代間の意識の違いから生じる苦悩を描いたマーティン・ウィクラマシンハ原

    作の小説を映画化した、レスター・ジェームス ・ ピーリスの作品についても紹介している4)。

    マスメディアや交通機関の発達によって都市部と農村部の格差は通常なら縮小してゆくはずだが、

    内戦後のスリランカでは、コロンボの発展は目覚ましく、おしゃれなショッピングモールができて

    いる一方で、農村部には立派な道路ができているものの、大きな変化はなさそうである。おそらく

    農村部から見るとコロンボは別世界のように見えることだろう。そのため、全国から学生の集まる

    大学では、都市部の学生と農村部の学生の間でうまくコミュニケーションがとれずに関係がぎこち

  • 218

    現代インド研究 第 3 号

    なくなってしまうと言う5)。

    その一方で都会の学生も田舎の学生も意識を共有するものがある。本著でも述べられている、仏教

    復興運動を主導したアナガリーカ・ダルマパーラによって作り上げられた 3 つのテーゼ(仏法の島、

    ライオンの島、アーリヤ人種)のほかに、目に見える形でスリランカ人が共有する心象 3 点セットが

    ある。

    私がスリジャヤワルダナプラ大学の 50 周年祭に居合わせた時である。実行委員だった知り合いの

    学部長が張り切って、企業などから寄付金を集め、学生に予算を託し思いっきりやってみろと言う

    ことになった。学生らも努力して、各学科の学習内容に合わせたすばらしい展示が目白押しとなった。

    歴史学科の学生たちはスリランカの歴史絵巻をジオラマで作ったり、化学学部の学生は、化学マジッ

    クを披露するなど見事なものだった。そこで気がついたのは、村の風景のジオラマの多さであった。

    寺と水田と貯水池の三点セットなのだ。昔の王様は権力者であると同時に仏教を守り、貯水池を建設

    ・ 管理し、米の生産を増やして国土を豊かにすることに心を砕いていたと信じられている。学園祭の

    テーマは決まっていなくても、晴れがましい場所では自然と、皆が共有する風景を作ろうと言うこと

    になったのだろう。圧倒的に村出身の生徒が多いそうなので、都会の学生さんもそれに従ったのかも

    しれない。ジオラマに現れる風景は、平和そのものだった。当時はまだ内戦中だったが、平和のある

    べき姿として、若い学生たちがこのような風景を共有しているのかもしれない、それは好ましいので

    はないか、と思った6)。

    スリランカは、時と場所によって様々な様相を見せる。人々の意識や行動様式も都市と農村の違い

    だけでなく、階層や、時代、世代などによって異なってくる。本著は、評者がスリランカの人々と交

    わる中で生じてきた様々な疑問を解くための手がかりを提示してくれた。

    1) 『祭りと社会変動-スリランカの儀礼劇と民族紛争』同文館。インターネットで検索すれば動画も見られる。

    2) マイケル・オンダーチェ、小川高義(訳)『アニルの亡霊』新潮社、エディリヴィーラ・サラッチャンドラ、中村禮子(訳)『明日はそんなに暗くない』南雲堂など。

    3) 2011 年、コロンボの中心部に、大川隆法氏の看板を見かけた。本屋でも関連出版物が平積みになっていた。心のよりどころを求める人々に受け入れられているのだろうか。

    4) 本著で紹介されているのは小説の三部作のうちの映画化された第一部である。第一部と二部は日本語訳が出ているので原作に触れることができる。確かに映画化するとどんなに優れた俳優や演出によっても、原作の機微は薄れてしまうだろう。それほど書き込まれた作品である。第三部の日本語訳が待たれる。野口忠司氏による訳はすばらしい。原作の風味を損ねていない。

    5) 学生間の融和が必要という名目で、入学前に軍キャンプでオリエンテーションが開催されることになった。

    6) 筆者も指摘するように、現大統領は,偉大な指導者ドゥトゥゲムヌ王の逸話を利用しようとしている。これも人々の歴史認識や心象風景に訴えようとしていると思われる。

  • 219

    書評

    駒井洋[監修]、首藤もと子[編]『東南・南アジアのディアスポラ(叢書グローバル・ディアスポラ 2)』

    (東京:明石書店、2010 年、288 頁、本体 5,000 円+税、ISBN 978-4-7503-3322-9)

    (評)工藤 正子�

    本書は、「叢書グローバル・ディアスポラ」第 2 巻として刊行され、越境者たちの転地(displacement)

    をめぐる状況とそれへの応答が、東南・東アジア出身者を対象とする実証的な調査研究から明らか

    にされている。12 の章におさめられた事例の数々は、近年の研究においてその意味が拡散している

    といわれる「ディアスポラ」[ブルーベイカー 2009]の概念をめぐって、いかなる洞察をもたらす

    のだろうか。人口が流出するメカニズムやそれが本国の社会経済に与える影響、移動を加速する斡

    旋ビジネスの興隆と人的ネットワークの拡大など、本書は多くの興味深い論点を提示しているが、

    紙幅の制約から本稿では本書の特色について 4 点に焦点をあてて論じたい。

    第一点として、本書では、ディアスポラの社会空間の編成が、越境者の政治的立場や法的地位、ジェ

    ンダー、エスニシティ、宗教などの属性とその交差によって、複雑かつ多面的に規定されることが

    明らかにされている。たとえば、オーストラリア・キャンベラ市ではインドシナ難民のラオス系が

    ホスト国政府の多文化主義政策に適応することで仏教徒としての居場所を交渉していくのに対して、

    新移住者のタイ系は、仏教寺院設立の過程でラオス系と協働するものの、やがて本国の宗教的伝統

    の正統性を強調した排他性をみせるようになる。この興味深い分岐の背景要因として、タイ系には

    一時滞在のエリートが多く、かつ経済発展をとげている本国との連携がもつ意味が大きいのに対し、

    故国が社会主義的改変をへたラオス系難民にとって故国との関係は大きく異なることが示される。

    伝統が選択的に維持、または再発見される過程が、その主体である越境者の属性といかに相関し、

    転変する社会経済的文脈のなかで「差異をつくりだす(他の場所との)結びつき」がいかに再分節

    化されるか[クリフォード 2002]をめぐる興味深い事例といえるだろう。

    しかし、特定の差異、たとえば、「難民」であることへの着目が、彼ら彼女らの越境経験を「紛争

    ディアスポラ」として均質的なものと把えてしまう可能性と隣り合わせであることはここに指摘す

    るまでもない。これに関して、「インド IT ワーカー」や、湾岸諸国における「女性家事労働者」を

    論じる章では、そのカテゴリー内部の階層性や宗教による労働条件の差異などが指摘され、越境者

    の複数の属性の重なり合いを丹念に精査することの重要性が示唆されている。

    � 京都女子大学(文化人類学)・ 2008、『越境の人類学―在日パキスタン人ムスリム移民の妻たち』、東京大学出版会。・ 2011、「移民女性の働き方にみるジェンダーとエスニシティ―パキスタン系イギリス女性のコミュニティ・ワークを

    中心に」、竹沢尚一郎(編)『移民のヨーロッパ―国際比較の視点から』明石書店、172–197 頁。

  • 220

    現代インド研究 第 3 号

    本書の特色の第二点目として、送り出し側からの視点に重点をおいていることがあり、そのアプ

    ローチがもたらす重要な成果として、ディアスポラと、移出民を取りこみつつ国境を再編しようと

    する送り出し国家とのあいだの複雑な関係性が浮かび上がっている。

    まず、人々が国家に生活保障を期待するよりも、国外に家族を送り出し、その送金に依存すると

    いう「私的な発展戦略の国際化」に向かい始めていることがバングラデシュやパキスタンの例から

    明らかにされる。しかし、一方で、東南・南アジアの国家の多くが、移出民からの送金額や人的資

    本がもつ意味に目を向け、移出民をまきこむ国家形成に乗り出していることが、フィリピンやインド、

    ベトナムなどの事例から克明に描き出される。

    インドの事例ではさらに、階層の高いインド系移民の移住先での存在感の増大と、本国の国際的

    な地位上昇が相乗的である点が指摘され、ディアスポラと国家の協働ともいえる状況が示される。

    また、同国からのそうした働きかけは実質的に、移住先で社会経済的な影響力をもつ移出民を対象

    にしたものであり、「誰を再国民化するのか」は送り出し国家によって選択的に行われている。

    しかし、本書が示すように送り出し国家の側からの国境再編の動きに対し、移出民からの応答は

    一様ではない。たとえば、ベトナム難民は、移住先米国で社会経済的に周縁的位置にありながらも、

    自らを包摂しようとする本国政府には反感をもち、そのいずれでもない固有のアイデンティティを

    構築しようとするのである。

    第三点目として、以上のように、故国や故地からの視点に重点をおく一方で、本書は、受け入れ

    国の体制についても重要な示唆を与えている。とりわけ、ビルマ、インド、パキスタンからの移民

    を扱う章では、欧米諸国との対照のもとに、受け入れ国としての日本が照射されている。難民や IT

    ワーカー、資格外就労者としてこれらの越境者の立場は異なるものの、日本では市民権や家族呼び

    寄せ、言語等の点で、欧米に移動した人々と比べて制約が大きいことがほぼ共通して指摘されてい

    る。さらに、そうした受け入れ国における諸制約が、転地における共同性の再編過程に作用し、た

    とえば、ビルマ人としての日本での凝集力の高さや、故国での民族・言語・宗教などの差異を超え

    た在日「インド人」コミュニティの形成に結びついているという指摘は、ディアスポラ形成に関与

    する諸要因の絡まり合いを考えるうえで興味深い。

    最後に、本書の特色の第四点として、ディアスポラ研究の今後の重要課題が示されている点を指

    摘したい。とくに次の 3 点を挙げることができる。

    第一に、本書では、越境者がかかえる(移住先と故国の)二重性にとどまらず、その先に連なる

    移動の継続性や反復性が照射されている。たとえば、アフガン難民の「帰還」は、一方向的なもの

    ではなく家族の段階的帰還をとおした多方向的なプロセスであり、そこから難民二世のアイデンティ

    ティ形成の複雑性が明らかにされる。また、日本から強制送還されたパキスタン人を本国や次の移

    住先で追跡調査した論考では、親族集団を資源として展開するグローバルな移動の連なりが示され

    る。そこでは、移住者たちのしたたかな戦略の一方で、経済的合理性のみに回収されない、個とし

  • 221

    書評

    ての欲望や計算外の矛盾した感情が描きこまれ、その記憶は次なる移動の経験とも絡み合っている。

    さらに、スリランカ人女性家事労働者を対象とした詳細な聞き取り結果を分析する最終章は、帰還

    後に貧困が緩和されていないことを明らかにしたあとで、「それでも女性たちは、なぜ海外出稼ぎを

    繰り返すのか」という問いの提起で閉じられる。これらの事例は、グローバル化が深化するなかで、

    人々の移動の軌跡やディアスポラの生成 / 再生産のプロセスがいっそう複雑化していることを示唆

    している。その一方で、国家は国境管理を厳格化し、多くの人々の流動性はいまだ「容赦なく制限」

    されたままである[ブルーベイカー 2009: 390–391]。こうした状況において、さらなる移出を生みだ

    す社会経済的諸条件と、移動をめぐる人々の夢や欲望との複雑な連関に目を向けることの必要性は

    いっそう高まっている。このことを、「日常生活の目線から見たディアスポラの社会学的調査を基盤」

    とした本書は説得的に示しているといえるだろう。

    第二に、在日ビルマ人の事例では、国民国家形成の過程で排除されてきたイスラーム教徒のロヒ

    ンギャ民族が、在日ビルマ人コミュニティでも「同胞」とされず、政治運動に参加できていないと

    いう重要な指摘がなされる。国境間の移動をめぐる研究では、国民国家とディアスポラは対置され

    ることが多かったのに対して、こうした事例はむしろ両者の社会編成の相同性を顕わにする。グロー

    バル化の深化はこうした相同性を破り、ディアスポラ空間における新たな社会的連帯や「トランス

    ナショナルな市民社会」[ヨー 2007: 165–166]をいかに切り拓くことができるだろうか。

    第三に、フィリピン人ディアスポラをめぐる論考の最後では、フィリピン国内におけるミックス

    の子どもたちや国際結婚により多様に形成されるトランスナショナルな家族などの存在が指摘され

    ている。ここに予見されているように、移出民をまきこむ国家形成という新たな段階での「国民」

    のカテゴリー化の流動と再編のなかで、これらの「複数の国家の間に生を受けた人々」を可視化し、

    彼ら彼女らと国家との関係や、そのエンパワメントが発動される過程に光を当てることが今後不可

    欠となるであろう。

    以上述べてきたように、本書は東南・南アジア出身者の越境経験の多面性と複雑性を浮かび上が

    らせ、そこからディアスポラと国民国家の緊張関係が照射されている。このことをみれば、本書は、

    「東南・南アジアのディアスポラ」の特性を問うと同時に、豊かな事例の精査とその比較対照によっ

    て、「ディアスポラ」概念そのものを鍛えていくための洞察に富む糸口を提供しているように思われ

    る。監修者や編者が述べるように、本書で「ディアスポラ」の用語がきわめて緩やかな定義のもと

    で用いられていることもその意味で戦略的と解釈できる。しかし、越境による社会再編プロセスを

    理解するための新たな地平を切り拓くためには、「ディアスポラ」の実体化を回避しつつ、一方で、

    「国民」に対置される「移民」といった既存概念との分節化にたえず意識的である必要はあるであろ

    う。越境者が再創造/想像する社会空間についての示唆深い事例を提供する本書のような研究の蓄

    積をとおし、国家の境界の維持・再編をめぐる議論が深化するともに、それによって「ディアスポラ」

    の概念がいっそう豊かなものとなることを期待したい。

  • 222

    現代インド研究 第 3 号

    参照文献

    クリフォード、ジェイムズ、2002、「ディアスポラ」『ルーツ―20 世紀後期の旅と翻訳』、有元健ほ

    か(訳)、月曜社、277–314 頁。

    ブルーベイカー、ロジャーズ、2009、「『ディアスポラ』のディアスポラ」、赤尾光春(訳)、臼杵陽(監

    修)『ディアスポラから世界を読む』、明石書店、375–400 頁。

    ヨー・ブレンダ、2007、「女性化された移動と接続する場所―『家族』『国家』『市民社会』と交渉す

    るトランスナショナルな移住女性」、伊豫谷登士翁(編)『移動から場所を問う―現代移民研究

    の課題』、有信堂、149–170 頁。

    石上悦朗・佐藤隆広[編]『現代インド・南アジア経済論(シリーズ・現代の世界経済 6)』(京都:

    ミネルヴァ書房、2011 年、414 頁、3,500 円 +税、ISBN978-4-623-05871-6)

    (評)友澤 和夫�

    現代インド・南アジア経済に関する待望のテキストが刊行された。本書はミネルヴァ書房『シリー

    ズ・現在の世界経済』全 9 巻の第 6 巻に当たる。このシリーズは、グローバリゼーションの進展によっ

    て変動する世界経済の体系的把握を目的に編まれたもので、2004 年に同社より出版された現代世界

    経済叢書全 8 巻シリーズの後継と位置づけられる。ただし、同叢書においては第 4 巻『アジア経済

    論』があるものの、そこで言うアジアとは東アジアと東南アジアであり、残念なことにインド・南

    アジアは対象から外されていたのである。今回のシリーズでは、インド・南アジアが単独の巻とさ

    れた一方で、東アジア・東南アジアを扱った巻はない。この措置は、両シリーズ間で取り上げる地

    域のバランスをとったものとも言えるが、評者は現在の世界経済におけるインド・南アジア地域の

    重要性の高まりを反映したものと理解している。

    もっとも、こうした世界シリーズ本によらずとも、インド経済については各時代の経済情勢やそ

    の変動を反映しながら、これまでに多くの優れた概説書が刊行されてきた。たとえば評者が大学院

    生であった 1980 年代後半には、その時期に導入された部分的自由化の影響を大きな論点として、『イ

    ンドの工業化 岐路に立つハイコスト経済』(伊藤正二編、アジア経済研究所、1988)や『新版イン

    ド経済』(西口章雄・浜口恒夫、世界思想社、1990)が出版された。そうした本を、赤線を引いたり、

    メモを取ったりしながら繰り返し読んだことを今でも思い出す。本書も、インド・南アジア経済を

    志す若い世代にとっては、こうした必読の書となることが充分に予想される。

    � 広島大学大学院文学研究科1999、『工業空間の形成と構造』、大明堂.2012、「インド自動車部品工業の成長と立地ダイナミズム」、『広島大学現代インド研究―空間と社会』、第 2 巻、17−33頁。

  • 223

    書評

    本書の構成は、以下の通りである(カッコ内は執筆者および訳者)。各章は、インド人とネパール

    人研究者を含め、当該テーマに通暁した専門家が執筆している。また、いわゆるベテランだけでなく、

    新しいテーマの執筆には若手を積極的に登用している点も特記されよう。

     序章 現代インド・南アジア経済をみる眼(石上悦朗、佐藤隆広)

     第 1 章 経済成長と貧困問題(黒崎卓、山崎幸治)

     第 2 章 財政政策と財政制度(福味敦)

     第 3 章 金融システムと金融政策(二階堂有子)

     第 4 章 国際貿易と資本移動(佐藤隆広)

     第 5 章 農業(杉本大三)

     第 6 章 産業政策と産業発展(石上悦朗)

     第 7 章 情報通信産業(スニル・マニ、上池あつ子訳)

     第 8 章 自動車産業とサポーティング産業(馬場敏幸)

     第 9 章 繊維産業と製薬産業(藤森梓、上池あつ子)

     第 10 章 財閥と企業(三上敦史)

     第 11 章 パキスタン経済(小田尚也)

     第 12 章 スリランカ経済(絵所秀紀)

     第 13 章 バングラデシュ経済(藤田幸一)

     第 14 章 ネパール経済(サガル・ラージ・シャルマ、中西宏晃訳)

     終章 現在インド・南アジア経済の課題と展望(佐藤隆広、石上悦朗)

    構成面からみると、序章を除く残りの章は、大きく 3 つにグループ化されている。第 1 章から第

    4 章は、「第 I 部 マクロ経済からみたインド経済」としてまとめられている。第 5 章から第 10 章は

    「第 II 部 産業と企業経営からみたインド経済」であり、第 11 章から終章は「第 III 部 南アジア

    各国経済論」である。本書の約 7 割がインド経済の説明に充当されているが、南アジアにおけるイ

    ンド経済の大きさからすれば至当であろう。また、インド経済については、マクロ経済的視点と産業・

    企業の視点の 2 つの軸によって捉えようとしており、経済学のテキストとしてオーソドックスな編

    成を採用していると言える。以下、各章の内容について簡潔に触れておきたい。

    序章では、経済成長、人口と出生率、人間開発の諸指標、産業構造の変化、対外開放度、統治体

    制の 6 つの観点から、現代インド・南アジアの基礎的知識がまとめられている。本章を読み進める

    上で前提となる内容である。第1章は、貧困問題をメインテーマとしている。ここで言う貧困概念

    は、単に所得や消費の水準によるのではなく、教育や健康などの人間開発面にまでおよび、その地

    域間格差、社会階層間格差を論じている。そして、トリックルダウンによって自動的に貧困削減が

    実現するには時間がかかるとし、従来以上に効率的な貧困削減策が必要であることを主張している。

    第 2 章では、インド財政の基礎知識が提示された後に、財政赤字問題が時系列的に論じられる。イ

  • 224

    現代インド研究 第 3 号

    ンドの財政は 2000 年代に入って大きく改善したが、リーマンショック時の景気対策により中央・州

    政府の双方の赤字が拡大したとする分析は納得がいく。第 3 章では、経済自由化以前の銀行を中心と

    した金融システムが、自由化後にどのように変化したのか明晰な説明がなされている。そこでは金融

    政策の変化にともなう商業銀行の台頭や証券市場の再興が主な論点となっている。第 4 章は、貿易と

    資本移動の拡大がインド経済に与える影響を、まず両者の長期変動を押さえた後に、前者においては

    輸出入構造の変化とサービス輸出の拡大に、後者については FDI の拡大とインド企業の海外進出に

    焦点を当てて具体的に論じている。

    第 5 章は長くインド経済の基盤であった農業を取り上げ、それを理解する上での基礎的事項が示さ

    れた後に、農業技術の普及と農家階層構成の変化、農産物輸入の自由化と農業の課題が提示されてい

    る。第 6 章は、インド産業政策の展開を論じた後に、産業の発展をインド化、グローバル化、インフォー

    マル化という 3 つの側面から捉える。第 II 部全体に通底する観点を提供する重要な章であり、割か

    れているページ数も他の章より多い。第 7 章は情報通信産業を扱うが、産業名から一般に想定される

    ICT サービスよりも、電気通信サービスを主としている点に特徴がある。そこでは携帯電話の普及に

    着眼し、関連する政策や民営化の動向、プロバイダー間の競争が述べられる。近年、都市農村間での

    デジタル・ディバイドが縮小しているという指摘は興味深い。第 8 章は自動車産業とそのサポーティ

    ング産業(その中心は部品産業)の発展を時系列的に論じたものであり、各時代の両産業の状態や関

    連性が的確に分析されている。第 9 章の前半では、インドの繊維産業をパキスタンやバングラデシュ

    などの隣国と比較してその特徴を抽出し、併せて将来展望を行っている。後半は世界的に関心を集め

    るインド製薬産業に着目し、成長過程とその要因、産業構造およびその転換が分かり易く描かれてい

    る。第 10 章は、財閥・大企業の分析であり、主要財閥の歴史的展開、経済自由化以降の新興財閥・

    企業の動向が捉えられている。とくに後半では、新しい市場の誕生や拡大に対応して新興財閥の成長

    がみられることを、具体的な企業の例示により明らかにしている。

    第 11 章は、パキスタン経済の動きを、文民政権下での低成長、軍事政権下での高成長という枠組

    みで捉える。また農産品を原材料とした繊維・食料品を中心とする産業構造が長く続いており、より

    付加価値の高い部門への転換が必要であること、そしてマクロ経済の不均衡の改善が課題であること

    が主張されている。第 12 章は、スリランカ経済の特徴を、福祉国家とプランテーション経済にある

    とみて、その形成過程が把握される。近年は繊維産業の成長が顕著であるが、原材料の輸入依存度が

    高く他部門との関連が薄いことを問題とする。また、内戦の経済への影響、青年層の失業問題にも言

    及している。第 13 章はバングラデシュ経済を多面的に検討し、貧困の削減、輸出品構成の多様化、

    所得配分の改善を3つの大きな課題とみている。また、同国は NGO の活動が活発であるが、それは「小

    さくて非効率な政府」問題の裏返しであるとする指摘は鋭い。第14章はネパール経済の構造的問題を、

    地理的条件、政治的不安定性、技術的後進性、外資投資などの面から浮き彫りとする一方で、将来性

    のある産業として水力発電と観光を挙げるほか、同国経済における送金や海外援助の重要性を示して

  • 225

    書評

    いる。終章では、序章で取り上げた 6 つの観点について今後の課題を検討している。6 つの観点は

    当然ながら本論各章の内容と深い関係をもつが、ここでは新しい角度から分析がなされている。

    以上、各章の内容を要約したが、本書の全体に対して評者なりのコメントを付しておきたい。第

    1 点は、本書は現代インド・南アジア経済の解説を目的としたものではあるが、独立以降の発展過

    程が重視されており、各章で取り上げる経済事象について時系列的な把握が共通してなされている

    点を特徴とみる。それは、南アジアは各国とも経済政策(あるいは政治体制自体)の大転換を経験

    しており、それによって大きく変動した側面がある一方で、貧困や地域格差など構造的に今日まで

    継続している問題を抱えることが背景にあるものと考える。第 2 点として、取り扱うテーマの幅広

    さと、紙幅が限られた中での各テーマの的確な掘り下げがなされている点を挙げたい。テキストな

    どの概説書は、1 人ないし 2 人の少人数の著者が執筆する場合と、各章ごとに著者を変える場合が

    ある。本書は後者を採用しているが、各章の内容は専門家ならでの論点を備えるとともに斬新な知

    識・視点も提示されており、多人数で執筆する際の長所が充分に発揮されている。第 3 点は、読者

    に対する工夫が随所にみられることである。各章の冒頭にはその章の内容をまとめた抄録があって、

    論の流れとポイントを予め押さえることができる。また、図表類が豊富であり、本文の理解に大い

    に役立っている。各章の内容にかかわるコラムも設けられており、そこでは最新のインド経済事象

    の具体が提示されている。そして、巻末には資料として各国の基本統計と 1947 年以降の年表が付さ

    れている。索引もあって、当該用語にかかわる本文での説明ページが明示されており、事典的な使

    い方もできるようになっている。

    そうした反面、本書には地図が 1 枚(製鉄所の位置と IT-BPO 企業の立地を示したもの、158 ページ)

    しかない点が惜しまれる。インド・南アジア各国の州や主要都市などを示すインデックスマップは

    最低限必要であると思われるし、インドは大国であり経済事象の地域差の存在は本書の中でも繰り

    返し述べられている。そうした動向は地図にすれば一目で理解できる場合も多い。また、諸産業の

    立地も地図化はそれ程難しいものではないので、テキストという本書の位置づけからも取り組んで

    ほしかった。これは評者が、経済地理学という経済現象の空間的理解を目的とする学問を専門とす

    ることから特に気になるのかもしれないが、要望として記しておきたい。

    要望点も記したが、これは本書の価値を損なうものでは全くない。評者が読んでも知らないこと

    が多く、良い勉強になった。インド・南アジア経済の大学生向けテキストとしては言わずもがな、

    同地域に関心のある社会人・ビジネスマン、そして研究者にも、必携の書として一読をお薦めする。

  • 226

    現代インド研究 第 3 号

    水島司・田巻松雄[編]『日本・アジア・グローバリゼーション(21 世紀への挑戦 3)』(東京:日本

    経済評論社、2011 年、272 頁、2,500 円+税、ISBN: 978-4-8188-2121-7)

    (評)山本 達也�

    本書は、序章を含めて全八章からなる論文集である。「日本を含むアジアにおけるグローバリゼー

    ションの展開が、二一世紀の世界をどのように変えていくかという問題意識」(1 頁)を共通項とし、

    アジアがグローバリゼーションの影響をどう受け止め、対応し、逆に世界を席巻するグローバリゼー

    ションにどう影響を及ぼすのかを問うものである。以下、序章を中心に本書の内容を概観し、書評子

    の所感を記したい。

    序章において、水島司氏はアジアの近代を西洋諸国における植民地状況下に置かれた時代であると

    位置づけ、アジアの近代の終わりの局面を国家建設と国民統合が進められた時期とする。そして、国

    民国家システムの確立が近代の終わりを徴づけ、その後グローバリゼーションが訪れる、という視点

    を明示する。氏は国民国家システムの特徴を領域性であるとし、対照的にグローバリゼーションは境

    界の消滅に付随する流動化を特徴とし、また国民国家システムとグローバリゼーションがぶつかり合

    いつつも連動していく所以を提示する。そして、流動化に加え、生活や世界観の標準化、それに反す

    る個性化、流動化における再編による格差等の構造化を挙げ、人びとの生活にそれらが大きな影響を

    与えていることを指摘する。

    氏によれば、「労働や各種サーヴィスを含めたさまざまな人と人との対面的・直接的関係を解体し、

    商品交換関係に最終的に移行させた」(13 頁)ことこそが、グローバリゼーションによってアジアの

    近代にもたらされたものである。水島氏はインドを事例として取りあげ、近年のグローバリゼーショ

    ンの進行が「前近代的な諸関係の残滓を最終的に消滅させる役割を果たした」(15 頁)ことを喝破する。

    しかし、同時に「グローバリゼーションの動きのなかで、アジアが常に受け身だったわけではなかっ

    た」のであり「アジアがグローバリゼーションのただ中から新たに創造した知、いわばアジアの知と

    はどのようなものなのかについて、充分注意を向けなければならない。それらを幾つかの空間とその

    空間で生存を図る個人の両方に焦点を当てながら具体的に掘り出し、長期の動向のなかに地域ごとの

    変化の実態を位置づけることも、アジアを対象とした研究においてきわめて重要な課題であり続けよ

    う」(15 頁)と、氏は論じている。

    昨今のグローバリゼーション研究を概観すれば、「環流」現象への着目等からも見えるように、一

    � 日本学術振興会特別研究員(京都大学)・ 2008、「ダラムサラで構築される『チベット文化』」『文化人類学』、第 73 巻第 1 号、49–66 頁。・ 2011、「音楽をつくる―現代的チベット音楽の制作現場」田中雅一、船山徹(編)『コンタクト・ゾーンの人文学1 

    問題系』、晃洋書房、156–183 頁。

  • 227

    書評

    方向的な「西洋化」とは異なった視点からグローバリゼーションを論じる研究が主流となってきて

    いる。本書の序章での指摘はこれら研究潮流と歩みを共にするものであり、アジア経済が世界経済

    のなかでどのような位置を占めていくのかを本書は明示していくこととなる。以下では、各章を概

    観し、簡単なコメントを付与することとする。

    加藤弘之氏が担当する第一章は、中国の経済的躍進をめぐって議論が展開する。改革開放以後、「復

    権」した中国が先進国と発展途上国という二項対立を塗りかえる潜在性を秘めているとともにその

    経済力の不確実性によってグローバル経済に及ぼす影響力がいかなるものであるのかが提示される。

    加藤氏の論述は序章で提示された「アジアから世界への影響」という問題意識を踏襲したものであり、

    グローバル経済がアジアに及ぼす影響のみならず、アジアからのグローバル経済全体へのアウトプッ

    トがいかなるものになりうるのかを分析したものであると言える。

    第二章では、90 年代の経済自由化以降、インドが投資とサーヴィス部門の発展によりグローバル

    経済のなかに組みこまれることで高度な経済力をつけ、世界規模の影響力を及ぼしているさまが佐

    藤隆広氏により分析される。それと共に、インドが東アジア経済やグローバル経済の地勢図を形成

    するにおいてどのような効用や悪影響をもたらすのかが提示される。本章も前章同様、序章での議

    論に沿ってローカルとグローバルの反照規定的な関係性が明示されているが、特にグローバルとア

    ジア、インドという三つの軸を立てて、グローバル経済におけるインドの立ち位置によって、アジ

    ア各国の損益にも影響を与えうることが指摘されている点は重要だと思われる。

    第三章では、台湾、韓国、中国という三か国の開発に関して論じられる。朴一氏はこれまで議論

    されてきた開発経済学的な理解では上記三か国の様相が理解できないとし、あらたな視点で開発経

    済学はグローバリゼーション下のアジア経済を論じなおす必要があると語る。しかし、本章の議論

    はどちらかといえば分析者側の現状認識に対する提言であり、その点で、「アジアが 21 世紀の世界

    をどのように変えていくのか」という序章が提示した視点からは少々ずれてしまっているように思

    われる。

    第四章は、グローバル経済下における地域主義の意義が論じられる。清水奈名子氏は、これまで

    の東南アジアにおける地域主義が国家補完的なものであり、ときにその利点が生かされていなかっ

    たことを指摘し、現在市民レベルで生じている東アジア共同体のもつ可能性を評価する。国家を超

    えたレベルでの交流の増加や連帯の形成が「流動性」というグローバリゼーションのもたらした現

    象の一つの帰結であるとすれば、本章の論述は、その可能性を問うための格好の事例ということと

    なるだろう。

    日本における下層問題を外国人労働者と野宿者の問題という視点から論じたのが、田丸松雄氏が

    執筆する第五章である。日本に見られる下層問題は「資本や国益の観点に基づく有用性によって人

    間を選別・排除するメカニズムが、より洗練された形で強化され、われわれ自身の足元にも向けら

    れていることを示す鏡」(198 頁)であり、何らかの共同性の復権の重要性が論じられる。第四章が

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    現代インド研究 第 3 号

    示したものが、グローバリゼーションがもたらす流動性が垣間見せる可能性であるとすれば、本章

    の議論はグローバリゼーションによる構造化に特に焦点を当て、それがつきつける暗部を示したも

    のであると言える。

    第六章はアジアから世界に飛び出す専門職移民を扱うものである。石井由香氏は高度な技能をも

    つ移民を専門職移民と名づけ、中間層である専門職移民の動機付けやその出身国への循環について

    論じている。本章が描くのは、グローバリゼーションや国家を稼働させ、かつ支えるアクターのふ

    るまいである。人びとに焦点を当てることで流動性の様相を提示する本章の議論は、書評子の研究

    するチベット難民社会においても一部当てはまるところがあり、構造化、世界的な標準化、そこか

    らはみ出る個体化という諸相をも同時に示していると言えるかもしれない。

    第七章では、タイの都市部から農村部におけるジャパナイゼーションの進行が鈴木規之氏により

    示される。本章では、西洋化とイコール関係で論じられる傾向のあったグローバリゼーションの多

    層性が提示されていると言える。本章では東南アジアにおける日本資本の構造化に関する興味深い

    事例が数多く提示されているが、その紹介に終始した感もあり、分析がもう少し深められていれば

    より興味深い論考となったであろう。

    以上、本書の内容を雑駁にまとめてきた。書評子は経済学を専門としない門外漢であり、個々の

    論文を的確に批評する力量をもたないため、ここでは特に序章の記述を参照しつつ、全体に関する

    簡単なコメントをしたい。

    序章における水島氏のグローバリゼーション理解は書評子のような文化人類学徒にとっても共感

    できるものである。特に、グローバリゼーションにおけるアジアの位置を受け身一辺倒なものにせ

    ず、能動的に働きかける点をも強調する水島氏の指摘はきわめて重要である。しかし、この指摘を

    踏襲しているのはごく数章だけであり、一部の論者は受動的な側面のみ論じているように見える。

    また、「グローバリゼーションの真っただ中でアジアが新しく創出したアジアの知」を模索する

    本書が論じる「アジア」とは中国、インド、韓国、台湾、ASEAN 諸国、日本、タイである。だが、

    二十一世紀に挑戦する「アジアの知」というときに、誰が「アジア」の一員としてアプリオリに措

    定されているのか。本書ではその点が明確にされておらず、また論者間でも認識の差があるように

    思われる。

    さらに、本書の論述における知の主体は、きわめて抽象的である。例えば、第五章において田丸

    氏は下層問題を取りあげ、グローバリゼーションがもたらす問題群を列挙し、下層問題とは皆に課

    せられた共通の課題であると論じる。しかし、下層問題に対して取り組み、グローバル化がもたら

    す解体作用に抵抗する主体とは誰なのか。課題を解決する「皆」のなかに下層民は含まれるのか。

    この点において、序章が論じるところの「アジアの知」「アジアからの働きかけ」を本書は納得する

    形で提示していないと言える。

    本書を読んで痛感するのは、書評子が経済学的な書籍を真っ向から評する能力をもちあわせてい

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    書評

    ないことと共に、複雑極まるグローバリゼーションを論じるには、特定の学問的アプローチに閉じ

    こもっていては十分な議論ができない、ということである。このことが示すのは、これまで言われ

    てきた以上に、グローバル化が進む世界の分析や理解には学際的なアプローチや議論が望まれる、

    ということだろう。例えば上述のグローバリゼーションにおける主体の問題などは学際的な議論を

    展開し、グローバリゼーション研究をより深化させていくうえで格好の第一歩となりうるだろう、

    と書評子には感じられた。本書が切り開くのはそうした学際的な議論のアリーナであり、本書が提

    示する数々の事例や分析は、分野を異にする研究者がさらに広い研究の視座を得るうえで有益なも

    のとなるだろう。