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漢詩を味わう - 宮城野書道会...蕃戎不敢過臨秦築長城比鐵牢 洮 争及堯階三尺高雖然萬里連雲際 秦 長城を築きて鉄 てつ 牢ろう に比し

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漢詩を味わう

漢詩を味わう

第124回

第124回

秦築長城比鐵牢

蕃戎不敢過臨洮

雖然萬里連雲際

争及堯階三尺高

秦 長城を築きて鉄てつ

牢ろう

に比し

蕃ばん

戎じゅう

 敢あえ

て臨りん

洮とう

に過よぎ

らず

万里 雲う

際さい

に連なると雖いえ

然ど

争いか

でか堯ぎょう

階かい

 三尺の高さに及ばんや

秦の築いた長城は鉄の牢獄のように堅固だった。

そのため、えびすどもも臨洮まで攻め込んでこようとはしなくなった。

だが、雲に接する地の果てに一万里も連なったこの長城の素晴らしさも、

堯の宮殿の三尺の高さしかない土の階段に到底及ばない。

長城は、匈きょう

奴ど

・突とっ

厥けつ・モンゴル族など北方民族の騎馬軍団による波状攻

撃に悩まされた戦国時代の歴代王朝が、その脅威から国土を守るため

に莫大な労力を費やして築かれた要塞です。天下統一した秦の始皇帝

はそれまでに作られたものを繋ぎ合わせて長遠な土塁を築きました

が、それ以降「万里の長城」という呼称で呼ばれています。前漢の武帝時

代に万里の長城はさらに延長され、明代になると北方のモンゴル族の

再来襲を防ぐため大改修されて、東の山海関から西の嘉峪関に至るま

で約全長六千キロに亘りました。世界の建築史上の奇跡と讃えられる

万里の長城ですが、その築造には、国境守備の兵士たちや、徴発された

農民など約二千年にわたっての多大な犠牲のもとに誕生しました。

「蕃戎」とは、中国からみた異民族を軽蔑していう言い方です。古代の中

華思想では、朝廷に帰順しない異民族は、東夷・南蛮・北狄・西戎などと

呼ばれ、また「四夷」と総称されました。こうした異民族への恐怖が万里

の長城を作らせたといえます。

「堯階三尺高」は史記の太史公自序にある墨家の言葉が出典で、堯舜の

徳行を説いて「堂高三尺、土階三等」というのを踏まえていますが、この

詩の作者汪遵は三尺と三等を混用しています。「古の聖王と呼ばれた

堯の宮殿は、土の階段がわずか三段という質素なものだが、それでいて

世の中はよく治まった。」という故事です。万里にも連なる長城の勢い

が、堯帝の三尺の階段にも到底及ばないと痛烈に風刺しています。実

際、皮肉にも秦は外敵ではなく国内の反乱で、僅か十五年で滅びてしま

いました。

汪遵は晩唐の詩人で、地方の小吏でしたが、奮起して勉強して科挙に及

第するというエピソードを持っています。長安でばったり同郷の先輩

と逢い、何をしに来たかと問われて、科挙に応試するためと答えたとこ

ろ、「小役人の分際で自分と同席するのか」と憤慨されましたが、先輩

を出し抜いて進士に合格したと言います。

参考文献:唐詩鑑賞辞典(東京堂出版)・漢詩の事典(大修館書店)・四大文明「中国」(NHK出版)

《長 城》 秦の始皇帝が築いた万里の長城。

《蕃 戎》 外民族。ここではえびすをさす。

《臨 洮》 秦時代の県名で現在の甘粛省岷県。長城の西の起点となった。

《雖 然》 二字で「雖」と同意。現代中国語の雖然と同じ用法。

《堯階三尺高》堯の宮殿が質素で階段の高さがわずか三尺だったこと。

《 争 》 どうして……であろうか。反語の助詞。 

長城

 汪お

遵じゅん

▪  ▪1

条幅揮毫三体参考 ※誌上展開催のため今月の月例出品は中止です。

吾が心は秋の月に似たり 

碧潭清くして皎潔 

物の比倫するに堪うる無し 

我れをして如何に説かしめん

《大意》わが心は秋の月が、澄みきった碧潭に皎皎と冴えているのに似ている。この心を比べるに足るものは他にない。いったいどう説明したらよかろうか。

(寒山詩・無題)

▪  ▪5

一般部規定課題(11月30日〆切)

佐 

藤 

象 

雲 

読み 

世味には

常に掩おお

い(うるさい世事が入ってこないように門は常に閉めている。)

▪  ▪6

一般部規定課題(解説)

一般部規定課題出品について

・規定課題は段級の区別なく、右掲

載の五字句となります。

・初段以下の方に限り、前半二文字

または後半三文字でも構いません

・規定課題(楷書)の出品はひとり

一点に限ります。

連月課題

 「唐庚詩・酔眠」

山静似太古

 

山は静にして

太古に似たり

日長如小年

 

日は長くして

小年の如し

餘花猶可酔

 

餘花

酔うべく

好鳥不妨眠

 

好鳥

眠りを妨げず

世味門常掩

 

世味には

常に掩い

時光簟已便

 

時光

已に便なり

夢中頻得句

 

夢中

頻りに句を得たるも

拈筆又忘筌

 

筆を拈れば

筌を忘る

▪  ▪7

セロクシフ

シャガヒケイ

重臣は高禄を得て富み栄え

参内の馬車は肥え太ってゆったりと軽やか

課題随意参考(11月30日〆切)

行  書草  書

隷  書次号課題

※成家・師範の随意作品出品は二点までです。

◇各体とも書風は自由です。特に上位者は古典などを参考に創意溢れる作品をご出品ください。

時光 簟てん

 已すで

に便なり▪  ▪8

ペン字部課題 細字部課題(11月30日〆切) (11月30日〆切)

(両部とも本会所定の指定用紙を使用のこと)

略解

セロクシフ

シャガヒケイ

重臣は高禄を得て富み栄え

参内の馬車は肥え太ってゆったりと軽やか

佐 

藤 

象 

雲 

和 

泉 

溪 

石 

先生書

正岡子規

※一級以下の方の試験課題です。実施要項は四十二頁をご覧ください。

▪  ▪9

臨書の基礎講座(11月30日〆切)

『粮亡于沙丘』

 

儒教の祖、孔子を祀る孔子廟は中国内外各

地につくられましたが、孔子の故郷の山東省

曲阜の孔子廟が代表的です。禮器碑はこの孔

子廟碑林に乙いつ

瑛えい

碑ひ

や史し

晨しん

碑ひ

などとともに収蔵

されています。禮器碑の内容は、儒教を顕彰

するもので、魯の宰相韓かん

勅ちょく

が孔子の教えを尊

び、孔子の旧宅と廟を修繕し、禮器を整備し

たことなどを中心として書かれています。

 

今月の「粮を食いて沙丘に亡ぶ。」は、今

月の「漢詩を味わう」の汪遵詩にも取り上げ

られている秦の始皇帝が、乱を興し、図と

讖しん

緯い

書しょ

(孔子の予言思想)を尊重せずに道徳に

背いて、供物を食べて沙丘で滅亡したという

一節です。

「粮」偏旁を背勢にしてバランスを保つ。

「亡」終画の波筆は細線から思い切って筆先

を開く。

「于」句中の助字「於」と同じでおいてとい

う意。置き字で読み下しでは読まない。

「沙」サンズイは軽く小さめ。最後の左払い

は暢びやかに。

「丘」古い字形では二つの山に挟まれた谷間

の形で、山間の凹地からできた形。左

右均整に。因みに孔子の諱は「丘」と

いう。

粮りょう

を(食くら

いて)沙丘に亡ぶ。……

象 

雲 

■禮ら

器き

ひ碑(後漢・西暦一五六年)の臨書

(15)

▪  ▪10

臨書の基礎講座 (11月30日〆切)

『亦将有感』

 

蘭亭序の臨書は今回で最終回となりま

す。前回、董其昌の「蘭亭に下拓なし」と

いう名言を紹介しましたが、ここで取り上

げた蘭亭序は、北京故宮博物院所蔵の神龍

半印本(八柱第三本)を中心に臨書してき

ました。これは唐時代の有名な搨書人、馮ふう

承しょう

素そ

の模本といわれますが、現存する蘭亭

序の模本の中では最善本とされています。

 

しかし、たびたび本欄で述べているよう

に、王羲之書法とは何を指し、どのような

ものが王羲之書法かということは、これを

説明することは非常に難しい問題です。王

羲之は、楷・行・草三体の標準形を世に定

着させ、それを基に書を芸術作品にまで昇

華させたことにあることは間違いないこと

のようですが、王羲之書法の変化美という

観点に立って臨書をするということが大切

です。書の基礎的な表現力を養うために蘭

亭序を始めとする王羲之書法を、ぜひ今後

も継続して臨書していただきたいと思いま

す。

亦また

、将まさ

に(斯こ

の文に)感ずる有らんとす。……

象 

雲 

■王羲之・蘭亭序(東晋三五三年頃)の臨書

(40)

▪  ▪11