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17 17 宿使使< > 6 99 98 99 04 退退10 使使使退使使185 95 使退使使32 退—— 文・写真 田崎健太 text & photograph kenta tazaki たざき・けんた、1968 年 3 月 13 日京都市生まれ。早稲田大学卒業 後、小学館に入社。1999 年末に退 社し、ノンフィクションライター として独立。著書に『此処ではな い何処かへ 広山望の挑戦』(幻冬 舎)、『W杯ビジネス30年戦争』(新 潮社)、『楽天が巨人に勝つ日−ス ポーツビジネス下克上−』(学研新 書)』など。早稲田大学講師 ハンドボール ── 同時進行ドキュメント ── 第9回 58 sportsevent handball 59 sportsevent handball

魂 ハンドボール ── 田場裕也と 琉球コラソンの挑戦前日までの晴天が嘘のように、朝から空は 縄地方はこの日から梅雨入りしていた。いた夕方には、雨は本降りになっていた。沖と雨が降り出した。櫛田亮介が那覇空港に着分厚い雲で覆われ、昼過ぎにはぽつりぽつり

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Page 1: 魂 ハンドボール ── 田場裕也と 琉球コラソンの挑戦前日までの晴天が嘘のように、朝から空は 縄地方はこの日から梅雨入りしていた。いた夕方には、雨は本降りになっていた。沖と雨が降り出した。櫛田亮介が那覇空港に着分厚い雲で覆われ、昼過ぎにはぽつりぽつり

前日までの晴天が嘘のように、朝から空は

分厚い雲で覆われ、昼過ぎにはぽつりぽつり

と雨が降り出した。櫛田亮介が那覇空港に着

いた夕方には、雨は本降りになっていた。沖

縄地方はこの日から梅雨入りしていた。

 

元々櫛田は、1日前の5月17日に那覇に到

着するはずだった。17日に、琉球コラソンの

トライアウトが予定されていたのだ。

 

ところが、トライアウトは中止。コラソン

のゼネラルマネジャーの田場裕也から「個別

に見てみたいので、この日から始まるコラソ

ンの練習に参加してほしい」という連絡を受

けていた。

 

トライアウトが急きょ中止になった理由を、

櫛田は聞かされていなかった。また、練習が

どこで行なわれるのか知らされていなかった

ため、出発前に宿の予約もできなかった。

 

不安に思いながら、空港に迎えに来てくれ

たキャプテンの久高清満の車に乗った。車は

那覇を通り越えて、浦添市に向かっていた。

 

「今日は練習場所がとれて良かったです

よ」

 

久高はハンドルを握りながら、冗談めかし

て言った。

 

「えっ?」

 

「じつは、体育館の予約ができてなくて、

さっき場所が決まったんですよ。そうでなけ

れば、今日は走り込みでした」

 

櫛田は、思わず黙り込んでしまった。

 

田場からは、今日1日で使えるか使えない

か判断すると言われてい

た。走り込みになってい

れば、どこを見て判断す

るというのだ。

 

<

このチーム、大丈夫

なんやろか>

 

不安が櫛田の中で、大

きくなっていた。

 

櫛田は、1977年6

月に奈良県で生まれた。

ハンドボールを本格的に

始めたのは遅く、中部大

学に入ってからのことだ。

大学4年生の時、監督に

就任した蒲生晴明は、身

体の大きさを見込んで櫛

田をレギュラーに抜擢。

活躍が認められ、大学卒

業後の99年に本田技研に

入社した。

 

当時のホンダは、日本

のハンドボール界をけん

引する存在だった。櫛田

が入る前年、98─99年シ

ーズンに日本リーグを制

覇、2003─04年まで

6連覇を続けることにな

る。

 

チームには、同じ左利

きのステファン・ストッ

クランと茅場清がいた。

 

フランス代表と日本代

表の中心選手を押しのける力は櫛田になかっ

た。彼は出場機会を求めて、ホンダ熊本に移

籍した。

 

ところが、アテネ五輪の出場権を獲得でき

なかったこともあり、ホンダはハンドボール

から距離を置くようになった。冷めた空気は

選手に伝染し、能力ある選手たちが早々と現

役を引退していった。

 

そんな中、どうしてハンドボールに対する

情熱を持ち続けていたのかは、櫛田は自分で

はわからない。

 

ハンドボールを始めたのが遅かったことも

あり、巧くなりたいという気持ちは人一倍あ

った。ストックランや、フレデリック・ヴォ

ルというフランス代表歴のあるプレーヤーか

ら刺激を受けたこともあっただろう。もっと

高いレベルで、ハンドボールをしたいと思う

ようになった。

 

櫛田の背中を強く押したのは、田場の存在

だった。彼の出演したテレビ番組を見て「自

分も欧州でプレーしてみたい」と強く思った。

欧州のクラブへ履歴書を送り、興味を示した

クラブのテストを受けて、ドイツの4部リー

グのピルナと契約することができた。櫛田は

本田技研を退社し、欧州に渡った。2006

年のことだった。

 

しかし──。

 

2年目のシーズン途中だった。2007年

10月に左ヒザを脱臼。ジン帯を損傷し、ヒザ

が真横に曲がってしまった。神経がやられて

しまい、しばらくは足の指を動かすことがで

きないという大ケガだった。

 

翌シーズンはビザの関係もあり、契約に至

らず日本に帰国してリハビリを行なっていた。

 

辛いリハビリの時に耐えることができたの

は、もう一度ハンドボールにコートに立つと

いう目標があったからだ。

 

しかし、現実は厳しかった。1年以上のリ

ハビリを経て、日本の実業団チームに手紙を

送ってみたが、反応は芳しくなかった。

 

ほとんどのクラブでは、ハンドボールチー

ムに所属するには、社員あるいは契約社員で

あるという前提条件があった。世界的な不況

の中で、身分保証をした上で受け入れてくれ

るというチームはなかった。

 

そんな中、純粋なクラブチームである、コ

ラソンは例外だった。

夢と現実の狭間で

行なわれた入団テスト

 

この日の練習場所は、浦添市民体育館の室

内練習場だった。浦添市がプロ野球の東京ヤ

クルトスワローズのキャンプ誘致のために建

設した施設である。

 

現在、沖縄では2011年の読売ジャイア

ンツのキャンプが決まり、奥武山運動公園に

は新球場の建設が進んでいる。1年のうちほ

んのわずかしか使用しないプロ野球のキャン

プのために、多額の公的資金が投入されてい

るというのが、この島の現状である。

 

室内練習場は、キャンプの時期以外、フッ

トサル、あるいは小学生がハンドボールの練

習に使用している。室内練習場の人工芝は、

野球の練習に向いた毛足の短い人工芝が使わ

れている。足元が滑りやすく踏ん張りがきか

ないため、ハンドボールに向かないが、贅沢

は言えなかった。

 

コラソンの選手が、チームとして正式に集

まるのは今季初めてのことだった。選手たち

は、今年2月末にシーズンが終了した後は、

自主的に走り込みとウエイトトレーニングを

行なっていた。

 

久しぶりに集まった顔の中には、馴染みの

ある顔が何人も欠けていた。

 

昨シーズン終了後、数人の選手がチームを

脱退していた。チームにとって痛かったのは、

サイドプレーヤーの岡田健が辞めたことだっ

た。

 

岡田は、本業に必要な資格取得試験を控え

ていた。子供が生まれ、ハンドボールを優先

することはできない。泣く泣くハンドボール

をあきらめることになった。

 

他の選手が準備運動しているのと離れて、

緊張した面持ちの櫛田は1人でゴムチューブ

を使って、入念に脚の関節を伸ばした

 

田場は櫛田が使えるかどうか、半信半疑だ

った。

 

実戦からは2年近く離れている。どこまで

動けるか。

 

ただ、185㎝という彼の身体は魅力だった。

ドイツの下部リーグの選手は、1部リーグの

選手と比べてスピードや技術は劣るが、当た

りは激しい。当たり負けしない身体を作り上

げたはずだった。

 

田場が真剣に櫛田のプレーを見始めたのは、

練習が半分終わった、ゲーム形式の練習から

だった。

 

筋肉質ではあるが小柄なコラソンの選手の

中で、櫛田はひと際大きかった。コラソンの

選手は、控えめでコートの中で互いに指示を

出すことは少ない。そんな中、櫛田は率先し

て声を出していた。田場はコートの中に入り、

櫛田のポジションを何回か変えた。

 

「体重は何キロあるの」

 

「95キロです」

 

田場がわざわざ体重をたずねたのは、バッ

クプレーヤーはもちろんだが、ポストとして

使うこともできるのではないかと思ったから

だ。コラソンの内山藤将はセンスとスピード

のあるポストプレーヤーだが、小柄で、攻撃

の形が限定されてくる。オプションとして、

大型のポストを欲しいと田場は考えていた。

 

また、岡田が抜けたため、左利きの選手は

喉から手が出るほど欲しかった。なによりコ

ートの中でのリーダーシップが期待できそう

だった。

 

問題は金銭面である。

 

練習後、田場は櫛田を誘って食事に出かけ

た。その席でこう言った。

 

「コラソンに入ってほしいが、仕事を約束

することができない。仕事は紹介することが

できるが、自分でリスクをとってやってほし

い」

 

コラソンの経営が厳しいことは、櫛田も理

解していた。かつて自分が所属していたホン

ダがリーグを撤退したことも頭にあった。沖

縄に来る前から、コラソンに入ったとしても

チームに頼り切るつもりはなかった。

 

櫛田は、翌日夜の飛行機を予約していたが、

職を探すために沖縄滞在を延長することにし

た。先

が見えない状態で

始まったチャレンジ

 

翌日の練習は、通常使用している興南高校

の体育館で行なわれた。県リーグに所属して

いる、BICクラブとの練習試合で、櫛田は

コラソンの弱点をまざまざと感じることにな

った。

 

ハンドボールは確率のスポーツである。

 

野球やサッカーと違って、どんなに力の差

があっても失点をゼロに抑えることは不可能

である。いかに失点の確率を減らして、得点

の確率を上げるかが勝負の分かれ目になる。

 

失点の確率を減らすこと、つまりDFが重

要になってくる。DFとは、相手選手の攻撃

の選択肢を減らしていくことでもある。シュ

ートコースを切り、ゴールから遠くに追い込

んでいく。シュートレンジが狭くなれば、シ

ュートを打たれたとしてもキーパーは易々と

止めることができる。

 

コラソンには、村山裕次、水野裕紀、ある

いは高田匠と攻撃センスのある選手はいる。

しかし、組織的なDFができなかった。その

ため、昨季、トヨタ自動車、豊田合成よりも

力では勝るはずだったが苦戦した。得点を重

ねても、簡単に失点してしまうのだ。

 

格下のBICクラブに対しても同じだった。

 

相変わらず粗いハンドボールだった。その

中で、櫛田のDFは光っていた。

 

田場も監督の東長濱秀吉も、感覚の人間で

あり、OFを重視する傾向がある。一方、D

Fには論理がある。それをコートの中で自分

の身体を使って教えることのできる櫛田は、

コラソンを変える可能性を持っていた。

 

結局、櫛田の沖縄滞在は1週間となった。

自分の中ではコラソンでやりたいという気持

ちは大きくなっていた。田場の元でハンドボ

ールができることは魅力的だった。朧気なが

ら、いずれ自分もコラソンのようなクラブチ

ームを立ち上げたいと櫛田は考えていた。沖

縄での経験はその役に立つはずだった。

 

しかし、一方で生活が安定しない不安があ

った。

 

今年、櫛田は32才になる。ドイツでプレー

したことや、ケガで家族を始めとした周囲に

迷惑を掛け続けてきた。そろそろ恩返しをし

なければならないという気持ちがあった。沖

縄の企業の面談を受けたところ、採用してく

れるところは出てきたが、給与は本土と比べ

るとかなり低かった。

 

また、肝心のコラソンの体制がはっきりし

なかった。

 

赤嶺嘉英は、本業の関係で、5月でコラソ

ンの社長を退いた。監督の東長濱の心も揺ら

いでいる。昨シーズン、彼はリーグを戦うた

めに仕事を犠牲にしてきた。一切の収入にな

らないコラソンの監督を2年間続けることは、

生活基盤が揺らぐことになる。

 

コラソンの今季はまだ先が見えない状態だ

った—

文・写真 田崎健太text & photograph kenta tazaki たざき・けんた、1968 年 3 月 13日京都市生まれ。早稲田大学卒業後、小学館に入社。1999 年末に退社し、ノンフィクションライターとして独立。著書に『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』(幻冬舎)、『W杯ビジネス 30 年戦争』(新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日−スポーツビジネス下克上−』(学研新書)』など。早稲田大学講師

「魂」のハンドボール

──田場裕也と

    琉球コラソンの挑戦

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第 9回

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