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‐25‐ 使稿

軍記と絵巻と寺院 - Chiba Uopac.ll.chiba-u.jp/da/curator/900040209/kubo-0703.pdf · 「斬首」がいかに描かれ、なぜそのように描かれなければならなかったのか、と置く論者としては、

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‐25‐

軍記と絵巻と寺院

―〈初期軍記〉における「斬首」の表現をめぐって―

はじめに

本研究プロジェクト「中世仏教文化の形成と受容の諸相――「絵画」の問題を

中心として」にかかる問題

(1)

として、自身が対象とする軍記作品―初期軍記―にお

ける「斬首」の表現を起点に考察を進めてみたい。寺院を拠点とする仏教信仰に

おいて、「斬首」はもとより、「殺生」が戒められるのは、今日的常識としても了

解されることである。いまかりに、『岩波仏教辞典』「殺生」の項に確認すれば、

「生きものを殺すこと。生命あるものを殺すことは仏教の罪の中で最も重く、不

殺生戒は五戒・八斎戒・十戒の第一にあげられ、在家者もこれも犯してはならな

いとされる」とある。平安末から鎌倉期に至る「中世」前期の社会的通念として

も、右が一般的であったと想像される。が、必ずしもそうとは言い切れない社会

状況、それを正当化する人々があった。直ちに想起されるのが「武士」と称され

る人々であり、今ひとつが殺生戒を護持すべき立場にある「僧侶」である。久野修義

(2)

は「仏法と「武」」を論ずる中で次のように述べる。

寺院が主要にかかわるのは武勇か安穏か、というような設問は当を得たもの

ではなく、中世においては、武勇〈戦争〉にも安穏〈平和〉にも、ともに大

きく寄与する存在が寺院なのであり、そこにこそ大きな特徴があったのであ

る。

自力救済が求められ、武力行使が一部に独占されていない時代にあって、主

要な社会イデオロギーを担う仏教は、武力を正当化し認定する機能を果たす。

殺生戒という原則をあくまで維持しつつ

(3)

このことはなされる。「悪人往生」や

「一殺多生」というのはその例といえるだろう。

まず、「主要な社会イデオロギーを担う仏教」が、「武力を正当化し認定する機能

を果た」していた、という指摘は抑えておきたい。久野は「悪人往生」の事例と

して、『続本朝往生伝』の源頼義往生説話を挙げる。頼義往生説話は『発心集』・『古

事談』にも採られ、いわば「中世の伝承世界」に継承されていく話題で、本稿で

もそれを視野に入れ考察を進めていくが、頼義の「悪」を定点観測的に捉えるこ

とはできないのである。たとえば、頼義の「武」に依拠する「頼義故実」ともい

うべき規範意識が、頼朝によって周辺の御家人に主張されていったという川合康

の史学研究の成果

(4)

がある。また、頼義の嫡子として前九年合戦にも参戦し、後三

年合戦の中心人物だった源義家の「武」が、軍記物語における〈現在〉を語るた

めの〈過去〉として、表現に引き出されていることを明らかにする羽原彩

(5)

の軍記

研究の成果もある。川合や羽原が指摘するような、後世参照された頼義や義家の

「武」とは、「武」の当事者=源氏によるものか、軍記作者がその当事者を語るた

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めに「過去」から呼び出してきたものである。彼らの「武」の事蹟を尊重する価

値観と、「武」=殺生を「悪」とする仏教的価値観とは、関係があったのか、あっ

たとすればそれはどのようなものであったのか。

「武」=殺生は、戦場において様々な形で遂行されたが、それらの行為の中で

最も典型的な方法が、相手の「首を取る」という行為である。文学研究に軸足を

置く論者としては、「首を取る」という行為自体の問題も重視するが、最終的には、

「斬首」がいかに描かれ、なぜそのように描かれなければならなかったのか、と

いう「表現」にかかわる問題を見据えていくこととなる。

「首」をめぐる分析

戦場で敵将の「首を取る」といっても、斬る(掻く)行為と事後に取り扱う(「さ

らす」あるいは「懸ける」)行為という、二つの段階がある。

まず、斬る行為について確認してみる。そもそも一文字の「斬」は、『大漢和辞

典』に拠れば「うちくび。こしきり。古の車裂に法つた極刑」と第一項に挙げら

れ、刑罰に由来する。また、事後の取り扱い行為としての「梟首」は、「古の極刑

の名。首を斬つて木の上に懸けてさらす。又、其の刑。獄門。さらしくび。簽首

級。」(『大漢和』)とある。「梟」が悪鳥ゆえ、「梟悪」という語彙を生んでいるよ

うにイメージが悪い熟語である。「梟首」の用例(事物起源、律令刑罰部)には、

『左傳』『秦漢』など、黄帝が蚩尤を斬った時の事後処理を嚆矢とする説が有力な

ものとして挙げられている。

すぐに想起されるのは、『将門記』の「新皇ハ暗ニ神鏑ニ中リテ終ニ託鹿ノ野ニ

戦ヒテ、独リ蚩尤ノ地ニ滅ビヌ」という一節であろう。将門の「梟首」は日本に

おけるその嚆矢として通っている(『国史大辞典』)が、「蚩尤伝説」を介した「首」

の問題は、数多い将門の「首」伝承の中で軸となる課題である。本稿では〈初期

軍記〉のうち、『陸奥話記』『奥州後三年記』を対象とするので、将門の「首」問

題は別の機会に譲るが、「斬首」の始原説として、刑罰としての「斬」、夷狄征伐

の故事としての「梟首」があり、それらに大陸に準拠する姿勢

(6)

があったことは抑

えておきたい。

日本における「斬」は、『養老律』巻頭

(7)

に掲げられる処分一覧において確認でき

る。「笞罪五/杖罪五/徒罪五/流罪三/死罪二」とある五種二十等の刑罰の最後、

「死罪二」の下には「絞斬二死、〈贖銅各二百斤〉」とある。死罪は「大辟

だいびやく

罪」と

いい、「獄令」には執行の詳細が記される。たとえば、以下のような条がある。

凡決二

大辟罪一

。皆於レ

市。五位以上及皇親。犯非二

悪逆以上一

。聴レ

自二

尽於

家一

。七位以上及婦人。犯非レ

斬者。絞二

於隠処一

その断罪行為が「市」で執行されたこと、五位以上の皇族で「悪逆」以上に該当

しなければ自宅に於ける自尽が許されたこと、七位以上もしくは婦人で「斬」に

該当しない場合は人目につかぬ場所で「絞」に処すること、という内容である。

ここから様々な問題が見出されよう。衆目集まる「市」という場で執行されたこ

とは、「見せしめ」という犯罪抑止効果を狙ったものとして広く理解される。また、

七位以上の官位で、「悪逆」以上の罪でなければ、「市」における処分が回避され

たのは、官位ある者の身分保護

(8)

という、身分保護に配慮した『律』の姿勢にもよ

るだろうが、官位官職が世襲された実態にも関わるだろう。ここで確認したいの

は、「悪逆以上」が該当する罪である。『律』

(9)

には「八虐」の重罪が挙げられるが、

国家顛倒を目論み攻撃する「謀反」、皇居や国土を毀壊する「大逆」、国家に背き

離反する「謀叛」、二等親以内の直系親族に対して暴行する「悪逆」が、上位四種

の罪となる。「謀反」が第一等の重罪であり、官位の高下に関わらず、「市」にお

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ける斬首によって断罪される犯罪として位置づけられることは、「謀反」が発生し

た現地に追討軍が派遣され、その主謀者が現地において即刻断罪される=「斬首」、

そして都へ搬送され「梟首」される、といった歴史的事象を理解するために重要

である。

「斬首」あるいは「梟首」については、史学研究からの成果が多く、軍記文学研

究においてはあまり取りあげられていない。軍記における戦闘の表現から、その

精神史を通観した佐伯真一

(10)

は、次のような見解を述べている。

なお、首を取るという行為そのものは、黒田日出男が指摘するように奈良時

代や平安初期の対征夷戦などにおいても見られ、その起源は、軍神への生け

贄(黒田日出男「首を懸ける」)、狩猟民として習俗(五味文彦『武士と文士

の中世史』)などといったところにさかのぼるかもしれない。ただ、起源はと

もかくとして、平安末期の武士たちにとって、首を取るという行為の目的は、

ほとんど功名にあったと見てよいだろう。

「首を取る」行為の目的として「功名」がある、という基本的認識は、まず動か

ないだろう。また、「奈良、平安初期の対征夷戦」を別にしているから、「平安末

期の武士」とは、いわゆる「ムサノ世」の到来―保元の乱―以降を対象としてい

るかと思う。佐伯の議論は、戦場において「首を取る」という点にあろうから、

「平安時代末期の武士」を問題化するのは当たらないが、先に確認したとおり、

刑罰としての「斬首」、征夷戦における「斬首」が、混淆した形で都に持ち込まれ

るのが、「平安末期」の問題として注目されるのである。

たとえば、『平家物語』の冒頭、「承平の將門、天慶の純友、康和の義親、平治

の信頼、おごれる心もたけき事も、皆とり

ぐにこそありしかども」と列挙され

る本朝の謀叛人中、教科書的には馴染みの薄い「康和の義親」を取りあげてみる。

源義親は、奥州十二年合戦を戦った源義家の次男、長男である兄義宗が早世し、

源氏の嫡流を継ぐべき人物であったが、鎮西での濫行により隠岐国流人となり、

さらにその後出雲を侵害した罪によって、平正盛(清盛祖父)追討軍により誅さ

れている。天仁元年(一一〇八)正月二十九日にはその「首」が入洛、獄門に懸

けられている(『中右記』『殿暦』)。義親は源氏の嫡流を継ぐべき系譜にあり、「夷」

なる認識のもとに追討された前九年合戦の安倍氏の顛末とは趣きが異なる。やは

り、『平家物語』が語るように、義親の系譜から鑑みて、その追討は平将門、藤原

純友と同様、「謀反」の罪によって討たれた人間として、認識されたのであろう。

追討戦における「斬首」は、「公的」に保証された行為であったはずだが、「平

安末期」はそのほとんどの時期が、嵯峨朝弘仁年間以来の「死刑廃止」期間に該

当する。戸川点

(11)

はこれを問題化し、「平安時代には儒教的徳治主義と穢忌避による

死刑廃止要求と現実の問題としての犯罪防止という要求があり、これらの矛盾す

る要求のため理念としての死刑停止と実態としての死刑というダブルスタンダー

ドが生まれた」と捉えた。死刑廃止要求が、戸川の指摘通りか否かは判断しかね

るが、実態としての「死刑」は継続していたことは確認できる。

「功名」を目的としない、むしろ刑罰としての性格を帯びる「斬首」―かりに

「追討命令遂行型斬首」と称する―の一例として義親斬首の例を確認した。先に、

「平安時代末期の武士」について、「ムサノ世」の到来―保元の乱―以降の武士を

対象にしているかと推したが、もう一つの「斬首」を抑えておきたい。

「斬首」の目的が「功名」となるには、戦闘によって取った「首」の素姓を明

らかにし、自軍の将に報告するという手続きが必要である。こうした「斬首」を、

かりに「成果事後報告型斬首」と称しておく。この「功名」のための「成果」=

「首」の素姓が不明の場合、以下の『平治物語』上「待賢門の軍の事」

(12)

が伝える

ような状況が出来したようである。

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平山、太刀をすてて、とりておさへて首をとり、材木の上にをきて、大気を

つゐてやすむ所に、後藤兵衛も、くみおとしたる緋縅の主とおぼしくて、首

一と付に(か)きてぞ出来たる。平山これをみて、「や、殿、後藤殿。その首

すて給へ。今日は首の不足もあるまじ。さやうに取もちては、名あらん首を

ば誰にもたすべきぞ。はやくすて給へ」と申せば、後藤兵衛が申やう、「これ

らがふるまいも、たゞものとはおぼえず。此首をばこゝに置て、在地のとも

がらに守らせて、のちにとらん」とて、二の首を材木の上にをきて、「此首う

しなひては、在地の罪科ぞ。賢、守れ」といひをき、二人、馬にうちのりて、

とゞろ駆けして六波羅の勢を追て行。

「首」の番を命じられた「在地のともがら」にとっては迷惑な話だが、平山季重

や後藤兵衛実基にとっては、「今日は首の不足もあるまじ」とあるように、首の数

にも価値がおかれていたが、彼らにより強く求められたのは「名あらん首」であ

った。後藤兵衛は、素姓は不明ながらも戦いぶりに手応えがあったため、戦闘後

に「首」の主の素姓を確認したかった。ゆえに、「在地のともがら」に見張り番を

命じたのである。このような「成果」不明の状況から、「首」の主の素姓を知る、

という流れが、『平家物語』の「敦盛最期」「実盛最期」等の説話を生んでいった

ことはあらためて言うまでもない。現実としては、事後の首実検により「功名」

が明らかにされ、討った人間の功績が讃えられたであろうが、軍記物語はそうし

た「功績」を讃える光景よりも、「首」の主の哀話を伝えることを専らにしている。

やや逸れたが、こうした「成果事後報告型斬首」は、戦場において、「味方では

ない」という最低限の判断に基づいておこなわれるもので、戦争被害をより拡大

していったことが想像できる。「追討命令遂行型斬首」の目的は、その「罪」を負

った首謀者の「首」を取ることにあるから、それに荷担した人々、特に「名」も

なき者が「主」を守るため、戦場で落命することはあっても、戦後に至って彼ら

に断罪が及んだとは考えにくい。たとえば、「忠常の乱」により、その主謀とされ

た平忠常は護送の途次に落命し「斬首」されたが、この乱により「亡国」と化し

た房総の地は、忠常の嫡子常昌(常将)が継ぐといったケースもあったのである。

といっても、『将門記』『陸奥話記』に見られるように、戦闘に付随する略奪、凌

辱行為が全くなかったとわけではないので「追討命令遂行型斬首」が、純粋に目

的の謀叛者のみを討ったと幻想しているわけではない。

右に見た『平治物語』では、「首」の「数」と「名」に価値が置かれていた。数

の問題は、戦闘能力低下という、敵軍へのダメージを与えるという目的を遂行す

る観点から、戦場においては古来不変的な価値であったと考えられる。一方、「名」

を求める「斬首」=「成果事後報告型」は、「追討命令遂行型斬首」から変容した

価値観であると考えられ、戦場での実態は甚だ怪しい。佐伯真一

(13)

が「名乗った結

果として身分の低い相手を「合わぬ敵」と決めつけることはよくあるが、それに

よって実際に対戦が拒否されているような例はあまり見当たらない」と述べる通

り、戦う双方の「名」の均衡によって戦闘行為が成立する状況は非現実的であろ

う。 戦

場における「斬首」の行為に、「追討命令遂行型」と「成果事後報告型」とい

う二つの方向性を見出してみた。結論的な見通しを先に述べれば、『陸奥話記』に

は、「斬首」の前に将軍頼義によって「責める」手続きが取られており、「追討命

令遂行型」の許容範囲内でそれがおこなわれたように描かれている。一方、『奥州

後三年記』にも武衡やその乳母人・千任の「斬首」前には、「責める」段階は認め

られるものの、その内容は義家の「私怨」に満ちたものである。「たたかいの庭」

からの逃走路を悉く封鎖し、逃亡者を無差別に誅殺した縣小次郎次任の「斬首」

は、まさに「成果事後報告型」の「斬首」に該当している。『後三年記』は「追討

命令遂行型」から「成果事後報告型」への過渡的な段階を表現している作品とし

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て捉えることができる。

軍記物語が「斬首」という行為を通じ、戦闘状態の終息を以て、一定の完結を

果たす(結末とは限らない)歴史物語という観点を導入すれば、「いかに敗者の首

が取られたか」という物語内容を「読む」ことは、重要かつ有効であろう。先述

の通り、管見の限りにおいては、軍記文学研究における「斬首」の研究は多くな

いが、史学研究を中心にその成果は蓄積されている。以下、簡略ながら概観して

おきたい。

ひとくちに「斬首」の研究と言っても、対象とする問題は様々であり、研究史

に触れる前に若干の整理を試みておきたい。斬られた「首」をめぐっては概ね、

①「首」を斬る行為、②「首」を運ぶ行為、③「首」を晒す行為、④「首」を見

る行為、⑤「首」を語る行為、という段階が想定される。

①の「斬る」行為については、「斬る」あるいは「掻く」作法が想起されるが、

中世において多くの作法があるわけではない。むしろ、冒頭に確認したようにそ

の行為を支える法制度上の問題、その史的変遷を論究するものまで含めると、か

なり多くの蓄積がある。

②の「運ぶ」行為については、「大路渡し」を中心として、検非違使の職能、「触

穢」論の視点からの考究がある。たとえば、『平治物語絵巻』「信西巻」で信西の

首が獄門に懸けられるまでの行程が図像化されているが、それらを分析する研究

などである。

③の「晒す」行為については、首が懸けられた場所―獄門―をめぐる問題も含

められよう。「なぜ首が晒されたのか」という梟首の起源の問題から、「斬刑」と

いう制度の中にあった梟首、戦場における「梟首」の意味、等々、その対象とす

る問題は広い。

④の「見る」行為については、「首実検」という戦果を確認する行為と、②や③

によって、たんに「首を見た」経験を分析するものである。後者は、「触穢」論と

おいて検討されている。

⑤の「語る」行為については、「表現する」と言い換えた方が適切かも知れない

が、④による「首」を語った同時代の直接経験はもとより、①から④のような歴

史的事象としての「首」を、文字表現としてあるいは絵画表現として伝承してい

く行為をも含められる。

まず、先の佐伯論の引用に挙げられる、黒田日出男

(14)

の論がある。黒田の論は右

の①から⑤まで全て視野に入れ、発生論的問題、文化史的展開を通観、絵画表現

への注意を喚起し、軍功を証すという目的に加え、「武運と戦勝を祈願・報賽する

ために「生贄」としての敵の「生首」を求めた」という見通しを得ている。また、

五味文彦

(15)

は、武士がおこなう①と③の行為について、武士の「狩猟民的な心性」

を見い出し、「狩猟民が山の神に鹿の首を供犠として捧げる風習との共通性」を指

摘する。黒田、五味ともに共通するのは、「神に捧げる首」という見方で、「供儀」

という側面である。人類学的な方法によって、さらなる深化が期待されるかも知

れないが、中世の「斬首」における「供儀」的な側面は、後に意味付けされた可

能性も考えられる。

先述、戸川点

(16)

は「弘仁の死刑廃止」と「保元の死刑復活」とを問題化し、軍記

物語の表現から実態としての「死刑」の継続を明らかにし、そこでおこなわれた

「梟首」周辺に「穢」が意識される「首をみる」行為があったことも明らかにす

る。軍記物語を対象とし、黒田同様、「首」をめぐる行為全般を見渡す論として重

要である。

②③④についての研究では、「触穢」に関わる「検非違使―河原者」の存在に注

目した丹生谷哲一

(17)

の論、大村拓生

(18)

や菊池暁

(19)

による「大路渡し」をめぐる研究、生

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‐30‐

嶋輝美

(20)

による一連の本格的「斬首」史論がある。また、③の「場」として「獄所」

のあり方を論じる上杉和彦

(21)

の論、「穢」に関わる空間的把握を論じた山本幸司

(22)

の論

も参考となる。

『陸奥話記』・『前九年合戦絵巻』をめぐって

『陸奥話記』における「斬首」の表現から考えていきたい。讒言により頼義に

斬られた「永衡」、永衡とともに一時は頼義に従ったが、永衡の斬首によって離反、

安倍氏に付き、その敗北により捕縛、斬首された「経清」、そして奮戦の上討たれ

た安倍氏の首領「貞任」に注目する。

その前に『陸奥話記』の基調として、「身体」に関わる戦争被害の表現を確認し

ておきたい。たとえば、康平五年(一〇六二)九月五日に設定される、武則の籌

策による官軍奇襲は、次のような安倍軍の被害をもたらしている。

貞任等、不意に出でて、営中擾乱す。賊衆駭き騒ぎ、自ら互ひに撃ち戦ひ、

死傷甚だ多し。遂に高梨の宿幷びに石坂の柵を棄てて、逃げて衣河の関に入

る。歩騎迷惑して、巌に放たれて谷に墜つ。三十余町の程、斃亡せる人馬、

宛も乱麻の如し。肝胆地に塗れ、膏膩野を潤す。〔二三

不意に火を放たれ、三方から鬨の声を上げられた貞任軍は、パニック状態とな

り敵味方とも判断つかぬまま殺傷し合う。そこから逃れた歩兵も逃げ道を失って

谷底へ身を投げ、柵から三十キロメートル以上もの間、人馬の死骸が乱れた麻糸

の束のように折り重なり、地面は死骸から出た内蔵にまみれ、野原は死骸からの

膏(人体の脂)に濡れていたという。大曾根章介校注

(23)

によれば、死骸を乱麻に喩

えるのは『漢書』「武五子伝」に、敗死者の内蔵が大地を覆う描写は『史記』「准

陰侯列伝」に、死体の膏が野を濡らすのは『文選』「喩二

巴蜀一

檄」といった漢籍

の表現を淵源とするものである。それぞれに出典が異なる表現を組み合わせ、こ

うした凄惨な被害描写を可能にした『陸奥話記』のエネルギーはどのように考え

ればよいだろうか。

宮次男

(24)

は、『後三年合戦絵巻』の凄惨な描写を「南北朝という動乱期の時代的特

色」と判じたが、『太平記』の表現それ自体の分析も含め、佐倉由泰

(25)

が試みたよう

な方法が必要であろう。佐倉は〈初期軍記〉を分析対象に入れていないが、結語

で次のような問題提起をしている。

身体について軍記物語にはないもの、稀なもの――痛覚、絶叫、嗅覚的表現、

老い、病、味覚、発汗、糞尿、放屁、エロス等々。これらに沈黙する軍記物

語とは一体何であろう。たとえば、戦いの場を語りながら、痛覚や絶叫が現

れないのはなぜなのか。軍記物語には「痛い」という意味の単純かつ切実な

一言が容易に見出せないのである。

中世軍記では「稀なもの」が、『陸奥話記』には認められるだろう。それは後に

みる、絵を含んだ『後三年合戦絵巻』ではさらに浮かび上がってくる。むしろ、

『平家物語』(覚一本)などで、こうした表現が後退したのだという見方も可能だ

ろう。ともあれ、こうした戦争被害によってもたらされる「身体」に関わる表現

が『陸奥話記』本文に認められることは、それが厳に『太平記』の時代の軍記に

限られたものでなかったことを示唆するものであろう。

直接的に「痛い」という一言は発せられないが、痛みを伝える表現を伴う「斬

首」の光景として、経清斬首の場面に注目したい。

是に於て、経清を生け虜る。将軍召して見て、責めて曰く、「汝が先祖は、

相伝へて予が家僕為り。而るに年来、朝威を忽諸し、旧主を蔑如す。大逆に

して無道なり。今日、白符を用ゐるを得るや否や」と。経清、首を伏して言

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ふこと能はず。将軍深く之を悪む。故に鈍刀を以て漸くに其の首を斬る。是

れ経清の痛苦の久しからしめんと欲してなり。〔二八

〕 最後の合戦で生け捕られた経清に対し、一方的に糾問する将軍頼義、沈黙を守

り続ける経清。経清の黙秘に立腹した将軍は、「経清の痛苦」が長く続くよう、「鈍

刀」を用い、ゆっくりと首を斬ったという。頼義の糺問は、その内容からも現地

における略式の裁判といった向きの印象を与えるものである。

経清と同様、頼義に糺問され、返答なく目の前で絶命し首を取られたのが安倍

氏の長、貞任である。

貞任、剣を抜きて官軍を斬り、官軍、鉾を以て之を刺す。大楯に載せて、六

人して之を将軍の前に舁く。其の長六尺有余、腰囲は七尺四寸、容貌は魁偉

にして、皮膚は肥白なり。将軍、罪を責む。貞任一面して死せり。〔二九

奮戦の甲斐なく、官軍の鉾により致命傷を負った貞任は、大盾を担架にして六

人がかりで将軍の前に運ばれた。身長一八〇センチ以上、胴回り二メートル以上

の巨漢で色白の容貌、将軍に一瞥し、絶命したと伝えている。注目されるのは、

合戦の場において貞任の首を取られず、息があるうちに頼義の前に運ばれ、「将軍

罪を責む」という手続きがとられたことである。見逃しがちな短い表現だが、経

清同様、将軍による糺問の手続きがここにある。将軍頼義による事前の指示の有

無は不明とするしかないが、経清も貞任も将軍による断罪の手続きを経て「斬首」

されているのである。作品の進行上前後するが、永衡の「斬首」も同様の手続き

を経ているのである。

人有り将軍に説きて曰く、「永衡は前司の登任朝臣の郎従と為りて、当国に下

向し、厚く養頣を被り、勢は一郡を領せり。而れども頼時の女を娉してより

以後、太守に弐あり。合戦の時、頼時に与し旧主に属せず。不忠不義の者な

り。今外に帰服を示すと雖も、而も内に奸謀を挟みて、恐らくは陰かに使を

通はして、軍士の動静・謀略の出づる所を告げ示さんかと。又着る所の冑の、

群と同じからざるは、是必ず合戦の時に軍兵をして己を射ざらしめんと欲す

るなり。黄巾・赤眉は豈軍を別つの故にあらずや。如かじ、早に之を斬り其

の内応を断たんには」と。将軍、以て然りと為す。則ち兵を勒して永衡及び

其の随兵中腹心を委ねし者の四人を収めしめ、責るに其の罪を以てし立ろに

之を斬る。〔六

最後の一文には、永衡及び随兵計四名が捕縛され、将軍による糺問を経て、「其

の罪」が確定し、即時に斬られたことを伝えている。永衡斬首は、言いがかりの

冤罪という印象が強いが、本稿冒頭に見たように「律」の「八虐」という観点か

らみれば、糾弾されている過去の罪科は「謀反」あるいは「不義」、現在の罪科は

「謀叛」が適用されているようだ。具体的な過去の罪科とは、永承年間(一〇四

六〜五三)、前陸奥守登任が安倍氏攻めを行った際、頼時(頼良)軍に参軍したこ

とであり、現在の嫌疑は、阿久利川事件後の出陣の際、内通する安倍軍から自身

に攻撃が及ばぬよう目を引く甲冑を着けたことである。

経清・貞任・永衡の「斬首」に際し、将軍頼義による糺問の手続きが取られて

いることに注目したわけだが、『陸奥話記』とほぼ同内容を伝える『今昔物語集』

巻二十五、「源頼義朝臣罰安陪貞任語第十三」の該当場面

(26)

を比較すると、永衡斬首

は「守此レヲ聞テ、永衡幷ニ其ノ類四人ヲ捕ヘテ、其ノ頭ヲ軌ツ。」とあり、「責

める」手続きは認められない。また、経清斬首では「守、経清ヲ召テ仰セテ云ク、」

と始め、その後断罪の発話はあるものの「責めて曰く」という表現は採らない。

貞任の斬首でも「守貞任ヲ見テ喜テ其ノ頸ヲ斬ツ。亦弟重任ガ頸ヲ斬ツ」とあり、

「将軍罪を責む」という手続きはおろか、目的の貞任を目の前にして喜々として

首を斬っている。『今昔』は、それが形式的なものであったにしろ、『陸奥話記』

にあった頼義の断罪の表現を無視している。

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‐32‐

以上の『陸奥話記』に点描されている頼義の断罪は、『陸奥話記』が仕組んだい

くつかの「公」の視点の一つであろう。佐倉由泰

(27)

が指摘するように、頼義を一貫

して「将軍」という立場において描こうとする傾向に通じているのだろう。一方、

『今昔』の「貞任ヲ見テ喜テ其ノ頚ヲ斬ツ」という表現の先には、頼義の残虐さ

が押し出されている。薄ら笑いをも浮かべながら「斬首」を命じる頼義が浮かん

でくるのである。

こうした頼義のイメージを念頭に置きつつ、僅かながら残存する『前九年合戦

絵巻』の「詞」と「絵」を検討してみる。現存する『前九年合戦絵巻』は、国立

歴史民俗博物館蔵本(旧文化庁蔵本)と東京国立博物館蔵本(五島美術館断簡)

の二種である。いずれも残存部分は極めて少ない。歴博本の詞書には、永衡斬首

を次のように語っている。

安大夫頼時がむこ藤原経清平永衡といふ者あり。大夫、すでに謀叛するをみ

て、しうとをそむきて国府へまいれり。或者、将軍に語云、「永衡御方へ参

れりといへども、内心にはさだめて安大夫をわすれじ。外には帰伏の有様を

示て毒害の心あらんか。常に御方の軍の有様をつげやらんため也。永衡はこ

れ、前司登任の郎等なり。当国に下向してあつく恩を蒙りて、一郡を領す。

而を大夫がむこと成てのち、国司と大夫と相戦間、大夫が方に寄て重恩の主

を射たる者也。況、着するところの甲、銀にして人にすこれ、戦の間大夫が

兵物にみしられていられじと構たる事也。すみやかにこれをきらるべし」と

云。将軍この事を用て、永衡を切つ。宗とある郎等四人、同これを切つ。

宮次男

(28)

は、右の詞書の淵源には『陸奥話記』本文があり、『今昔』との依拠関係

は薄いと判断している。引用部以降の語彙使用の実態からして同意される見解だ

が、傍線部の通り、「或者」の忠告をそのまま容れ、直ちに永衡を切っている展開

は『今昔』と通じる。さらに、「或者」が告げた永衡の罪科について(二重傍線部)

は、『陸奥話記』で「不忠不義の者なり」と批判されていたが、「重恩の主を射た

る者」と変わっている。「不義」は「八虐」の中で八番目に挙がる罪であり、その

批判は公的な性質を帯びるが、「恩」を重視した批判となると、その背景には武家

社会における制度上の「恩」への価値意識が働いていると考えざるを得ない。現

存同絵巻の成立は、十三世紀後半と言われているが、そのような時代性を負った

詞書の変化と捉えられる。

「絵」はどうであろうか。東博本第二十紙から二十一紙(挿図3)は、永衡斬

首と首級を曝している情景を描いている。永衡の白装束の胴体は前に崩れ、首は

その前に転がっている。その横で白装束で合掌しているは永衡の従者であろう。

この手前の場面、十九紙と二十紙(挿図2)には「門」を挟み、邸内には縁に腰

掛ける義家が、その前には扇で門外を指す武者が、門を跨いで手招きする雑兵の

姿が、それぞれ描かれている。『陸奥話記』ではその裁きと斬首の「場」に頼義が

いたように読み取れるのだが、絵巻に頼義は不在である。

武士の館と「首」という構図から想起されるのは、「馬庭のすゑになまくひたや

すな切懸よ」という『男衾三郎絵詞』

(29)

詞書である。黒田日出男

(30)

はこれを「軍神」

への「生贄」という視点で捉えていた。『男衾三郎絵詞』の問題は別に考えたいが、

『前九年合戦絵巻』では邸内に「首」を入れていないことが気になる。さらに、

「門」を境に「首をみる」という光景が問題視されるのである。

刑罰にかかる裁きがおこなわれる「場」として「門前」があったという事例は、

上杉和彦

(31)

に指摘がある。それは、院御所、検非違使庁別当の門前で、罪人引き渡

しや尋問がおこなわれたことから、「門前や築垣の周辺は家の支配の及ぶ空間内と

考えられていた」として、『平治物語絵巻』の信西梟首の「獄門」描写を分析して

いる。また、生嶋輝美

(32)

は、中世後期の「首実検」の事例を収集し、「室町殿におけ

る首実検は「室町殿の門外」でおこなわれる慣例が成立していたらしい」と述べ

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‐33‐

る。生嶋は触れないが、「家と穢」という観点から、山本幸司

(33)

が早く同様の事例を

紹介している。山本は、「首実検の場所は其所の寺などにて有べし、首御覧ずる人

は門の内、首御目にかくる人は門の外にあるべし、門もなき所は幕をはりて、中

を巻上げて、内外の隔をなす也」という伊勢貞丈の『軍令抄』を引用し、首実検

の作法として、近世にはそれが確立していた事実を指摘する。また、論中で「周

囲を囲まれていない荒野も、空間全体としては穢にならない」ことも指摘

(34)

してい

る。『前九年合戦絵巻』の永衡斬首の絵は、山本が指摘するような「穢」を避けた

「首実検」の光景として、見ることができそうである。永衡斬首の光景は義家の

死角(挿図3)に配されており、縁に腰掛けた義家(挿図2)の視線の先にある

ものは、首を懸けている光景である。つまり、義家は「穢」を避ける都の作法に

則って「門外」に懸けられた「首」を見ているのである。であるとすれば、「門」

を跨いで義家に呼びかけている者が「穢」をもたらしているのではないか、とも

考えられるが、むしろそうした作法を解さない在地の奔放な雑兵の姿を描いてい

るのかも知れない。同じ歴博本第二紙(挿図1)には、頼義の出陣に際して妻子

の別れの邸内が描かれるが、まさに「六道絵」

(35)

の「愛別離苦」の情景に重なる。

邸内を描く絵に限って言えば、「穢」や仏教的価値観に敏感な、都の貴族的な視点

を以て描かれているようである。先述した通り、非常に限られた残存部分からう

かがえる傾向として、頼義の「武」がうかがえる場面が少ないことに気付く。斬

首の場面の不在、馬上で行軍する姿は描くが、戦闘する姿は見当たらないのであ

る。全体が残っていないので、軽々なことは言えないが、『前九年合戦絵巻』(歴

博本)の「絵」に描かれる「武」は、頼義よりも義家に担わされているようであ

る。 以

上、「斬首」に着目し、『陸奥話記』と『前九年合戦絵巻』を検討してきた。

『陸奥話記』には、「斬首」の前に少ない文字ながら糺問する表現が認められ、断

罪の段階が読み取れることを確認した。しかしながら、『今昔』では頼義の武断が

前面に押し出され、それらが捨象されており、こうした傾向

は『絵詞』詞書にも

継承されていた。また、『絵詞』の「絵」は、詞書のように頼義が主導する「斬首」

を描かず、「門」を境界とする義家の「首実検」の構図をとって描かれており、そ

の背後には「穢」が忌避された都での「首実検」の実態が投影されている可能性

を推した。

『陸奥話記』には、永衡・経清・貞任以外にも「斬首」に関わる記事がある。

年齢十三、容貌美麗な千代童子を武則の勧めで頼義が斬る場面、貞任の首の入京

に際して、かつて貞任の従者であり降人となり首級搬送に同行していた「担夫」

の哀話、などである。残念ながらこれらの「絵」は残されていない。作品は、著

者自身によるあまりに有名な著述事情の説明と献辞をもって閉じられるが、その

直前、頼義を次のように讃えている。

而れども頼義朝臣は、自ら矢石に当り、戎人の鉾を摧く。豈名世の殊功に非

ずや、彼の郅支單于を斬り南越王の首を梟せしも、何を以てか之に加へんや。

〔三八

大陸における夷戎追討の系譜―「斬首」「梟首」の偉業―に頼義の功績を加える

べきだという、最大級の讃辞をもって、これまで綴ってきた歴史的事件を閉じよ

うとしている。『陸奥話記』が、いかに「斬首」への関心を示しているかが推し量

られる文言である。当節では以上の指摘にとどめ、第五節で再び頼義の問題に触

れることとしたい。

『奥州後三年記』・『後三年合戦絵巻』をめぐって

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‐34‐

『陸奥話記』と『前九年合戦絵巻』の比較と異なり、対象となる詞書テキスト

(36)

同じものであるから、「斬首」をめぐる「テキスト」と「絵」についての検討とな

る。東京国立博物館蔵の『絵詞』は、全六巻であったと想定されるが、後半三巻

のみが現存し、それぞれ上・中・下巻とされている。その中で「斬首」の光景、

あるいは「首」に関わる様子を描くのは、①中巻・八紙(二二

鬼武と亀次、二三

末四

郎の最期)、②二十三・二十四紙(二八

兵粮攻め↓挿図4)、③下巻・七〜九紙(三

金沢柵陥落、三一

武衡・千任・家衡の探索)、④十四・十五紙(三三

武衡の命乞い)、

⑤十六・十七紙(三四

千任の処刑↓挿図5・6)、⑥二十〜二十二紙(三五

次任、家

衡を誅罰、三六

県殿の手づくり↓挿図8)、⑦二十五・二十六紙(三七

官符却下↓挿

図9)である。

最終決戦の描写「三〇

金沢柵陥落」で、その惨状を「地獄のごとし」と表現して

いる通り、「首」を取る、という場面に限らず、敵に射られ血を流す兵、斃れ伏す

死体、火を放たれた柵、等々、その様は「地獄図」を連想させる。絵巻研究の碩

学、宮次男をして「「後三年合戦絵詞」ほど殺戮場面をむごく描いた絵巻作品はな

いといってよい」と言わしめ、また「地獄絵がなんらかの形で影響してはいなか

ったであろうか」とも推している。おそらくその通りであろう。さらに、宮は『発

心集』『古事談』の「義家堕地獄説話」との影響関係も指摘するが、伝承世界の義

家堕地獄説話については次節で検討する。

実際、モチーフとして「地獄」が発想されている箇所として、⑤の千任の処刑

で舌を抜かれる場面(挿図5)が挙げられよう。『往生要集』巻上

(37)

には「八大地獄」

の世界が説かれ、第五「大叫喚地獄」の「受無辺苦」という別所では、特に「妄

語の果報」として「獄卒、熱鉄の鉗を以てその舌を抜き出す。抜き已ればまた生

じ、生ずれば則ちまた抜く。眼を抜くこともまた然り。また刀を以てその身を削

る。刀の甚だ薄く利きこと、剃頭の刀の如し。」とあり、櫓門の上から千任が発し

た罵言を「妄語」と解すれば、抜舌の光景は大叫喚地獄の一齣であったと言える。

かといって、義家軍をそのまま獄卒を率いる閻魔庁に擬すという構図を当てはめ

る見方は無理があろう。イメージとして、地獄絵描画と類似した手法が採用され

ている程度に理解しておく。

「地獄絵」という把握では、不十分な場面もある。①は冬将軍到来を前に、膠

着状態で対峙していた両軍であったが、武衡軍側からの申し出により、相互から

兵を出して一対一の勝負をさせたという場面である。義家はそれを受け、武衡軍

から「亀次」、義家軍から「鬼武」が半時にわたって組み合い、最終的に鬼武の長

刀によって亀次は冑の上から首を取られる。亀次の首を義家軍に渡すまいと武衡

勢が城中から駆けだし、それを我が物にしようとする義家軍と合戦になったとい

う。「たがひに徒然をなぐさめ」るための申し出であり、『平家物語』巻十一「那

須与一」の場面をすぐに連想してしまうのは安直かも知れないが、「武芸」に関わ

る芸能的な状況、あるいは佐伯真一

(38)

が問題とする「一騎打ちルール」(一対一)の

イメージ形成に関わる問題を提供する場面とも考えられ、興味深い。「亀次」と「鬼

武」の組み合い以上に、両軍による亀次の「首」がの取り合い問題となろう。野

中哲照

(39)

は、これを論功行賞のための「首」とは考えず「この首は、獄門の木で晒

され辱められる梟首としての首のイメージに近い」と考えている。さらに「梟首」

について、「恥辱を与えることこそが梟首―遺体を毀損し首を晒す行為―のもつ本

質的な意義で、力の誇示や公衆への威嚇は、ここから派生する社会的意義とでも

いうべきもの」と述べている。考古学的にも面の皮を剥がされた「首」があるら

しいが、『平治物語』(学習院本

(40)

)中「義朝敗北の事」には、「人にしらせじと目・

鼻・顔の皮をはぎけづりて、石を首に結そへて、谷川の淵に入てけり」とある。

息絶えた義朝の伯父、陸奥六郎義高(毛利冠者)の「生死を敵に知らせぬため」

という文意に加え、「首の素姓を知る敵からの恥辱を受けないため」という理解を

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‐35‐

する必要があるかも知れない。野中も触れるように、『保元』『平治』の義朝の「斬

首」には、敵から受ける「恥辱」が相当に意識されているようである。戦場にお

ける「武」の強弱によってもたらされる「首」には、敗者の「恥」が刻みこまれ

ることとなる。

また、②の兵粮攻めで女性の「首」が落とされている場面(挿図4)も、別の

視点をもって考えるべき「斬首」である。冒頭で触れた『律』の「斬首」執行の

条文では、女性の斬首が衆目に晒されることは避けられていた。瀧川政次郎

(41)

は「婦

人を公衆の面前で殺戮することは、変態性慾を刺戟する虞れがあるから、婦人の

処刑は隠所において執行した」と述べている。近世の拷問史研究に徴すれば、具

体的事例が検索できそうだが、現代でも猟奇的斬首事件後に報道される中に、如

上のような向きの動機が報告されており、こういう観点からの分析も必要だろう。

②の「斬首」の光景は、たんに非戦闘員の被害を描いただけでなく、何かを訴え

ようとしているのではないか。本研究プロジェクトの代表・池田忍

(42)

は、『平治物語

絵巻』「三条殿夜討巻」において女性が武士に傷つけられるイメージを分析し、「傷

つく女性の身体は、胸や足をあらわにし、その性が刻印されている。そのような

描写は、女性の性的な身体を「他者」のものとして眺めつつ、彼女たちを踏みに

じり合戦を遂行する武士を「他者」として退ける、貴族男性のまなざしを前提に

成立した」と述べている。「貴族男性のまなざし」は、ここにも通じていると考え

られるが、少なくとも「性的」な視点が介入していることは動かないだろう。そ

れは、城門の前に描かれる兵たちの姿を見れば瞭然である。太股を露わにし、首

のない女性に刀を振り下ろそうという躰の兵、烏帽子も被らず左上半身をはだけ、

微笑を浮かべながら矢を引こうとする兵、その後ろには念珠を握りしめ息絶えた

と思しき女性がうつ伏している。ここに、詞書には語られない、凌辱行為があっ

たことが暗示されている。

「首」に関わる場面、七箇所のうちの③以降、後半の下巻に集中している。後

半から結末へ向かって展開していく本作品の構想については、野中哲照の内容

分析

(43)

によって、ほぼ論じ尽くされている感があるが、それに拠りつつ、若干の私

見を加えてみる。

③は金沢柵陥落の場面であり、城外に逃亡しようとする人々に対して、「将軍の

兵、これをあらそひかけて、城のしもにて悉ころす。又、城中へみだれ入て殺す。

にぐる者は、千萬が一人なり。」という無差別殺戮行為を語っている。詞書から「斬

首」が繰り返されたことは想像されるが、文字としては表現されていない。挿図

は示せないが、東博本の下巻第六紙から八紙にかけて、対応する場面が描かれて

いる。六紙末上方には、折り重なる死骸が描かれ、そのうち三体には首がない。

七紙下方の二体のうち、上の遺体には首がなく、腕も切り落とされている。八紙

初めの城内の戦闘場面では、まさに首を切り落とされた直後の光景が描かれてい

る。また、九紙は戦闘が終了した帰陣の光景を描くが、長刀の先には三つの首が

描かれている。絵の方は、「斬首」の光景を描くことで、その惨状を表現しようと

しているといえよう。

④は、武衡の捕縛とその処刑を描いている。以下は、『陸奥話記』で注目した、

将軍による糺問の場面である。

將軍、武衡をめして出て、みづからせめていはく、「軍のみち、勢をかりて

敵をうつは、昔も今もさだまれるならひなり。武則、かつは官符の旨にまか

せて、且は将軍のかたらひによりて、御方にまいりくはゝれり。しかるを、

先日、僕従千任丸おしへて名符あるよし申しは、件名符定て、汝傳たるらむ。

速にとりいづべし。武則、えびすのいやしき名をもちて、かたじけなく鎭守

府将軍の名をけがせり。是、将軍の申おこなはるゝによりてなり。これすで

に、功労をむくふにあらずや。況や汝等は、その身にいさゝかの功労なくし

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‐36‐

て、謀反を事とす。何事によりてか、いさゝかのたすけをかぶるべき。しか

るを、みだりがはしく重恩の主となのり申。其心如何。たしかに弁申せ」と

せむ。武衡は首を地につけて、敢て目をもたげず、なくく「只一日のいのち

をたまへ」といふ。傔仗大宅光房に仰て、その頸をきらしむ。〔三二

傍線部「みづからせめていはく」とあるように、『陸奥話記』の頼義と同じ手続

きが執られている。しかし、その内容で「公的」な向きの批判は「謀反を事とす」

程度である。ここに表現されているのは、野中哲照

(44)

が詳細に読み解いたように、

前九年合戦の認識をめぐる源氏と清原氏の対立構図である。同合戦において、清

原武則軍が将軍頼義軍に加勢したのは、頼義が武則に「名符」を差し出したから

である、という武衡の乳母人千任による暴露、さらに義家にとって清原氏は「重

恩の君」であるという千任の主張、それを覆そうとする義家の「せめ」は、この

合戦そのものを招いた清原氏側の「罪」を責める内容にはなっていない。野中は

『奥州後三年記』に一貫して、「義家が敵対している清原氏は、前九年合戦で源頼

義にもたらした功労者の子孫である」という認識があると見ている。野中が評す

る通り、義家の認識は「武則、かつは官符の旨にまかせて、且は将軍のかたらひ

によりて、御方にまいりくはゝれり」と「あいまい」である。清原武則が「官符」

による「公的」な追討軍であると認めつつ、父頼義の協力要請に賛同したもの、

と並列的に語っているからである。結末で「官符」が得られないことになる義家

が、武則参軍時に「官符」があったとの主張をするのは何かの皮肉であろうか。

実際、今回も過去の前九年合戦においても、「官符」は戦闘終了後の「国解」請求

手続きによって下されるものだからである。こうした義家の「せめ」の内容は、

頼義の糺問とは本質的に異なる―「公」と「私」―であったことは瞭然であろう。

こうした核心的な対立―義家の怒り―をもたらす役割を担っているのが、千任の

存在で、その最期は最大限に凄惨なものとして表現されることとなる。

⑤は、千任への拷問の場面(挿図5・6)である。将軍義家の千任に対する態

度は以下のように語られている。

次に千任丸をめし出て、「先日矢ぐらの上にていひし事、只今、申てんや」

といふ。千任、首をたれてものいはず。その舌を切べきよしををきつ。〔三四

その罪科を糾す行為ではなく、たんに「拷問」である。頼義の経清斬首も「痛

苦」を伝えていたが、この「痛苦」はまさに筆舌に尽くしがたい。舌を引き出す

ために「金はし」が用いられたが、口を開けなかったため、「かなばしにてはをつ

きやぶりて、その舌を引出て、これを切つ」とあり(挿図5)、さらに、「しばり

かゞめて、木の枝につりかけて、あしを地につけずして、足のしたに武衡が首を

おけり」とあり、肉体的苦痛に加え、精神的苦痛を与えるのである(挿図6)。こ

こで、『陸奥話記』巻末で衆人の涙を誘った哀話、かつての主人貞任の首を前に、

自らの櫛を以て涙ながらにその髪を梳いた「担夫」の忠義が想起される。まして

や千任の立場は、幼い義仲を「人」になるまで養育した木曾中三兼遠(『平家物語』

巻六「廻文」)と同じ立場、養父としての「めのと」であったろう。その精神的苦

痛もまた筆舌には尽くしがたい。この後、千任にも「斬首」があったと思われる

が、絵も詞書もそれを記さない。むしろ、この光景を維持することが重要だった

のだろう。この惨状を前に義家は「二年の愁眉、今日すでにひらけぬ。但、なを

うらむるところは、家衡が首を見ざることを」と語る。ここに、「私怨」を増幅さ

せていく義家が大写しにされていくのである。

⑥は、逃亡した家衡の斬首とその献上を描く場面(挿図7・8)である。金沢

柵陥落後、逃亡経路には悉く次任の検問が敷かれ、行方不明の家衡は身分の低い

男に扮装し逃亡を図ったが、次任の目に止まり、逃亡しようとしたところを射ら

れたのである。その後、次任には義家自身の「紅のきぬ」と「上馬一疋」が与え

られ、次任は家衡の「首」を義家の御前に献上した(挿図8)。なお、その主体を

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‐37‐

次任に限定して良いものか判断に迷う

(45)

が、「武衡・家衡が郎等どもの中に、むねと

あるともがら、四十八人がくびをきりて将軍の前にかけたり」と加えている。絵

に描かれている野に懸けられた「首」の光景(挿図7)の配置からすれば、次任

によって取られた「首」として理解され、それらは後の、義家の実検に備えるか

のように首札が付けられ、整理された状態で懸けられている。ここでは少々理解

困難な「手づくり」という語彙をめぐる挿話について、以下引用する。

「家衡が首もてまいる」とのゝしるに、義家、あまりのうれしさに、「たれが

もてまいるぞ」といそぎとふ。次任が郎等、家衡が首を桙にさしてひざまづ

きて、「縣殿の手づくりに候」となむいひける。いみじかりける。みちの國に

は、手づからしたる事をば手作となむいふなる。〔三六

義家の「うれしさ」が、賊軍追討の使命を果たした充足感ではなく、私的な怨み

を晴らす向きの感情であることは、前段からの文脈で明らかだろう。ここで問題

とするのは、自ら「首」を取って献上する行為が、当地では「手づくり」と称さ

れたということである。「手づからしたる事」に注目すると、直接的には家衡の首

を斬ったという行為が該当する。『陸奥話記』では、謀反の総大将、貞任は瀕死の

状態で大盾に乗せられ頼義の前に運ばれていた。おそらくは、それが兵のとるべ

き「公」的な態度であったと考えられる。しかし、先に触れたように武衡・千任

を処分した義家が次に望んだのは「家衡が首」であり、そこに家衡の罪科を糾す

余地はなかった。次任の行為は、まさにその望みを叶えるものだったが、本来「手

づから」すべき行為ではなかったという批判が、この挿話の根底に潜んでいるよ

うである。

「手づから」したる「斬首」を生む背景として、「成果事後報告型斬首」の横行

があったと考えられるのである。前後するが、次任が家衡を射た場面は「其中に

家衡、あやしの下すのまねをして、にげんとていできたるを、次任、これを見て、

うちころしつ」とあった。素姓はわからぬものの、逃ヽげヽよヽうヽとヽしヽたヽので無差別に

射られたのである。即死の場合は不可能だが、虫の息の家衡は次任の尋問に対し、

申し開きの場を期待して、自らの素姓をすんなり明かしたと想像される。義家の

目的は、「家衡の首」であったから、素性を聞いた次任は喜んで家衡の首を斬った

のであろう。とすれば、次任を指示した義家による戦後の指令が問題となる。そ

れは「たたかひの庭」というキーワードに秘められているようである。

「たたかひの庭」に関わる問題として、武衡の投降を「降人」と認定するか否

かの件がある。弟義光による降人助命の主張を退けた義家の論理である。

義家、義光につまはじきをしかけていふやう、「降人といふは、たゝかひの

庭を遁て、人の手にかゝらずして、後にとがをくひて、頸をのべてまいるな

り。いはゆる宗任等なり。武衡は、たゝかひの庭にいけどらへにせられて、

みだりがはしく片時のいのちをおしむ。これをば降人といふべしや。君この

礼法をしらず。はなはだつたなし」といひて、終にきりつ。

「たたかひの庭」=戦場から逃れ、その途中「人の手にかゝらずして」、完ヽ全ヽにヽ逃

亡を果たした者が、後に罪を悔い、命を取られることを顧みず、敵将の前に出頭

するのが「降人」であると認識している。つまり、「たたかひの庭を遁れ」ても、

追っ手の及ぶ範囲は、どこまでも「降人」として認められないわけである。とす

れば、かりに家衡が次任に捕縛され、降参の意を表明したとしても家衡を「降人」

とは認めなかったということなる。

「たたかひの庭」に限らず、敵軍に従った者は「皆殺し」するという義家の論

理に基づき、次任の待伏が指令されているのである。

縣の小次郎次任と云物あり。當國に名を得たる兵なり。城中のもの、にげ

さらむとする道をしきりて、とをくのきてみちをかためたり。たゝかひの庭

をにげてのがるゝもの、みな次任にえられぬ。〔三五

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‐38‐

右の傍線部「みな次任にえられぬ」により、義家による「皆殺し」の方針は、実

際の表現として確認することができる。「たたかひの庭」で戦闘は終息しないので

ある。次任は「皆殺し」の戦闘方法によって、結ヽ果ヽ的ヽにヽ家衡の「首」を得たので

あり、その副産物として数多くの「首」も得た。やはり、絵にみる(挿図7)野

に晒された首は、次任の手によるものなのだろう。

敵に「恥」を見せるための「梟首」の本質論はそれとしてあったろうが、ここ

は手柄―「首」―を整理し、後に義家に確認してもらう―「首実検」―ための「梟

首」と理解されるのである。本稿で提言する「成果事後報告型斬首」の象徴的一

齣ともいえる。

⑦は、義家帰京の場面(挿図9)であり、二十六紙下の水溜まりには「首」が

二つ捨てられている。謀反追討を報告する義家の「国解」は、朝廷には「わたく

しの敵」とみなされ却下、追討官符は得られず、義家一行は「首をみちにすてゝ、

むなしく京へのぼ」ったと詞書は伝える。「首」を捨てる行為は、斬られた「首」

に価値が全くなくなったことを意味する。その「価値」を保証するのが「官符」

であり、それは「朝威」そのものだともいえよう。『岩波ことわざ辞典』の「勝て

ば官軍」の項には、「戊辰戦争以降に作られたもののようだ」とあるが、義家の場

合は、勝っても「官軍」とはならなかったのである。

以上、後半(下巻)の「斬首」の表現から読み取られたように、義家の「武断」

は「私怨」に満ち、敵軍の将の「謀反」の罪を問うのは形だけで、その戦後処理

は「皆殺し」の論理に基づいた「成果事後報告型斬首」を奨励するものであった

といえる。ただ、このように見てきた「斬首」の光景について、管見の限り、従

前の研究ではあまり問題化されなかったようである。おそらく、「成果事後報告型」

の戦闘形態をとることが「当たり前」とされた時代の武士には、みてきたような

義家の振る舞いを「批判」として感じ取れなかったと思われる。本稿のような関

心によって「批判」と読み取られないのは、こうした武士たちの認識とどこか通

じるものがあったのではないか。従来、源氏の「武威」を奨励する絵巻と論じら

れてきた所以である。『後三年合戦絵巻』の制作意図、時代や「場」による様々な

享受の可能性については、後述することとしたい。

頼義・義家伝承をめぐって

「斬首」にかかる前九年合戦の表現について、『陸奥話記』には、その執行責任

者である将軍頼義によって「責」める手続きが踏まれていること、それは頼義に

よる安倍氏追討行為が「公的」に遂行されたという史的認識を浮き彫りにするも

のである。これは、「斬首」の正当性の淵源にある『律』の斬刑を見据え、「華夷

思想」という大陸の論理をこの国の辺境鎮圧行為―夷狄の斬首―に適用しようと

した作者の創意に基づくものであろう。他方、それとは反する「私」に関わる表

現の方に人々は注目してきたと思われる。それは、安倍氏への内通嫌疑によって直ヽ

ちヽにヽ「斬首」された永衡、痛ヽ苦ヽを与えるため鈍刀を以てゆっくりと斬首された経

清、かつての主人貞任の首を前に、涙ながらに自らの櫛で髪を梳く「担夫」の姿

であったろう。こうした頼義の事蹟として「私」に傾いた表現は、『今昔』や『前

九年合戦絵巻』にうかがえたように、永衡や経清の斬首は彼らの「罪」は注目さ

れなくなり、殺戮行為を辞さない「頼義像」として、伝承世界で流通していった

のである。

そこで問題とするのが、頼義往生譚である。大江匡房の『続本朝往生伝』が最

も古い伝承として知られている。後の『発心集』にも「マコトニ終リ目出テ往生

シタル由、伝ヽニヽシルセリ」と引用される通り、それなりに流通した説話であった。

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‐39‐

頼義は承保二年(一〇七五)に八十五歳で没しているが、その約三十年後の康和

五年(一一〇三)までに『続本朝往生伝』

(46)

は成ったとされている。

前伊予守源頼義朝臣は、累葉武勇の家に出でて、一生殺生をもて業となせり。

況や征夷の任に当りて、十余年来ただ闘戦を事とせり。人の首を梟し物の命

を断ちしこと、楚越の竹といへども、計へ尽すべからず。不次の勧賞に預り

て、正四位に叙し、伊予守に任ぜられたり。その後堂を建てて仏を造り、深

く罪障を悔いて、多年念仏し、遂にもて出家せり。瞑目の後、多く往生極楽

の夢あり。定めて知りぬ、十悪五逆も猶し迎接を許さるることを。何ぞ況や

その余をや。この一両を見るに、太だ特みを懸くべきなり。

頼義往生説話の第一義として、「十悪五逆も猶し迎接を許さるること」があるの

は勿論だが、傍線部のように「征夷の任」にあたり、多くの勧賞を蒙り、官位官

職昇進を果たしたという事蹟を挙げることが注目される。それは、「一生殺生をも

て業」とした罪のうち、やや趣が異なることをわざわざ断っているよう見受けら

れる。後の『発心集』

(47)

(巻三)では「況ヤ、御門ノ仰ト云ナガラ」「十二年ノ間、

謀叛ノ輩ヲホロボシ」という表現となり、勧賞にこそ触れないが、その殺戮行為

の「公的」な位置づけがやや明確になっていく。さらに本稿が注目している「斬

首」に関わっては、『続往生伝』で「人の首を梟し物の命を断ちしこと、楚越の竹

といへども、計へ尽すべからず」とあるところ、『発心集』では「謀叛ノ輩ヲホロ

ボシ、諸ノ眷属、境界ヲ失ヘル事数ヲシラズ」と表現される程度で、「梟首」には

触れなくなる。部分的な問題だが、時代を経るによって、頼義の殺戮の「公的」

性格は強く認識され、「首」をめぐる行為への言及は次第に後退していくのである。

つまり、『前九年合戦絵巻』の永衡斬首の現場に頼義が描かれていないこと、戦闘

をする姿が描かれていないことは、こうした傾向の延長線上にあるのではないか。

『前九年合戦絵巻』でも触れたように、この要因は義家との相関関係において

考えるべき問題であろう。匡房は康和五年(一一〇三)までに『続往生伝』を著

しているが、当時義家は六十五歳で存命していた。義家が匡房に教導されたとい

う「鴈列の伏兵」の説話は『後三年記』に記され、『古今著聞集』にも収載(後述)、

近代に至っても国民教科書に採られ、あまりに有名な話だが、史実としての実態

は甚だ怪しい

(48)

父子とも奥州の地で多くの命を奪った共通の「罪」において、父が讃えられ、

子が批判される、という正反対の認識が生じた契機として考えられるのは、それ

が「公」であったか、「私」のものであったか、という歴史認識の一点においてで

ある。義家の死後に用意されていた世界は、父の「極楽」世界とは正反対の、「地

獄」の世界であった。前後するが、『発心集』巻三「伊予入道、往生ノ事」の頼義

往生、義家堕地獄説話

(49)

を引く。

伊予守源頼吉ハ、若クヨリ罪ヲノミ作リテ、聊モ懺愧ノ心ナカリケリ。況ヤ、

御門ノ仰ト云ナガラ、ミチノ国ニムカヒテ、十二年ノ間、謀叛ノ輩ヲホロボ

シ、諸ノ眷属、境界ヲ失ヘル事数ヲシラズ。(中略)

其後、カタリテ云ク、今ハ往生ノネガヒ、疑ナクトゲナントス。勇猛、ガウ

ジヤウナル心ノヲコレル事、ムカシ衣川ノタチヲ落サントセシ時ニ異ナラズ

トナン云ケル。マコトニ終リ目出テ往生シタル由、伝ニシルセリ。

多ク罪ヲ作レリトテ、ヒゲスベカヲズ。深ク心ヲ発シテ、ツトメ行ナヘバ、

往生スル事又如是。

ソノ息ハ、ツヰニ善知識モナク、懺悔ノ心モヲコサヾリケレバ、罪ホロブベ

キ方ナシ。重キ病ヲウケタリケル比、ムカヒニスミケル女房ノ夢ニ見ルヤウ、

サマぐスガタシタル、ヲソロシキ物、数モシラズ、ソノアタリヲ打カゴメリ。

如何ナル事ゾト尋ヌレバ、人ヲカラメントスルナリト云フ。トバカリアリテ、

男ヲヒトリヲヰ立テ行サキニ、札ヲサシアゲタルヲミレバ、無間地獄ノ罪人

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‐40‐

トカケリ。夢サメテ、イトアヤシク覚テ尋ケレバ、此暁、ハヤクウセ給ヌト

ナン云ケル。

「ソノ息」義家は、仏道に導く「善知識」も得られず、「懺悔ノ心」も起こさな

かったので、その罪障は仏の許すところとならず、無間地獄に堕ちたと語る。こ

の堕無間地獄が、『平家物語』巻六「入道死去」に援用されていることは、夙に冨

倉徳次郎の指摘

(50)

するところで、清盛には具体的に「南閻浮提金銅十六丈の盧遮那

佛、燒ほろぼし給へる罪」が適用されていた。『発心集』の義家の場合、具体的な

罪は明かされておらず、説話構成上から「罪」を読むならば、頼義の「十二年ノ

間、謀叛ノ輩ヲホロボシ」以下を共有し、同じくその殺生の罪を指しているのだ

ろう。『今昔物語集』巻二十五最末「源義家朝臣、罸清原武衡等語第十四」として

章段名のみ掲げられ、記事は掲載されておらず、『陸奥話記』のような表現変化を

同書に確認することはできない。

義家に具体的な「罪」があったことを記す文献は多くないが、同時代の『中右

記』で幾度か(嘉承元年七月十六日条・承徳二年十月二十三日条)義家に言及し

ている。記主・宗忠は、義家次男義親の「首」が都にもたらされた報を記して、

「故義家朝臣年來武士長者、多煞無罪人云々、積惡之餘、遂及子孫歟」(天仁元年

(一一〇八)正月二十九日条)と記している。罪なき人を殺傷した「積惡」が子

孫に及んだという見方を示す。頼朝以降の武家社会では、その大枠として、「源氏」

の物語が「神話」(八幡太郎)あるいは依るべき「故実」として大切にされてきた

だろうが、義家死去の二年後、貴族の立場からその「罪」が批判されていたこと

は、義家堕地獄説話を考えるうえで重要である。『陸奥話記』でも記されているよ

うに、義家が八幡神の神威に保証された「武」を有し、「八幡太郎」なる呼称を得、

語り継がれてきた方が大勢であったろう。その一つの形として、貞和本『後三年

合戦絵巻』には「八幡太郎絵詞」の題箋が付され、玄慧筆の序文にはその武威が

讃えられているのである。しかしながら、『後三年合戦絵巻』は、義家の武人とし

ての武力、知略も確かに描くが、前節で見てきたようにこの作品が真に表現しよ

うとしたのは「公的」に認められなかった戦闘において積み重ねられた殺戮行為

であった。野中哲照

(51)

のように「私戦化」という主題の表出とも言い換えられよう。

後三年合戦の「戦後」については、諸説議論ある問題だが、結果的に義家は第

二の将門にならなかったわけで、義家の帰京後

(52)

も引き続き「武威」に政局を左右

されていた朝廷にとって、義家からの国解却下は痛快な処断として語り継がれた

のである。同時に、義家の「武」=「悪」として認識する風潮が高まる中、義仲

は没し、その堕地獄説が父頼義往生と対照される形であらわれてきたのだろう。

義家の「武」=「悪」=「罪」という構図を明らかにする伝承は見当たらない。

それを後三年合戦の顛末を描く一作品として体現したのが、『後三年絵』であった

と考えられる。義家の「罪」を語ることは、「武威」を「罪」として語ることとな

り、「武威」に脅威する人々にとっては、直接的に避けられるべき営為であったに

違いない。義家の「武威」への脅威は、嘉応元年(一一六九)までに後白河院周

辺で詠われた『粱塵秘抄』

(53)

の以下の今様からうかがえる。

鷲の棲む深山には

並べての鳥は棲むものか、

同じき源氏と申せども

八幡太郎は怖しや〔四四四

右詠歌の具体的な背景は未詳だが、保元・平治の乱は経ており、次節で確認す

る後白河院宣による承安本『後三年合戦絵巻』発注以前に詠まれたことは確かだ

ろう。鷲が無差別に「並べての鳥」を喰らう深山の光景が浮かぶ。この「鷲」と

は、無差別に殺戮行為をおこなった八幡太郎=義家

(54)

に準えられた比喩表現である。

いったい、後白河が義家におぼえた脅威は、どのような時期の、どのようなイメ

ージであったのか。

義家への批判を加速させたのは、先の『中右記』「故義家朝臣年來武士長者、多

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‐41‐

煞無罪人云々、積惡之餘、遂及子孫歟」と評された一一〇〇年前後からだろう。

一方、一二〇〇年前後のほぼ同時期に成立した『発心集』と『古事談』にはとも

に頼義往生譚

(55)

を載せ、加えて義家堕地獄説話を載せている。『発心集』は同一説話

内に、『古事談』は二つの別の説話として、それぞれ収載している。義家を批判す

る向きの堕地獄伝承が語り継がれていた一二〇〇年前後という時期は、鎌倉政権

が確立しようとしていた時期に該当する。つまり、一一〇〇年前後から一二〇〇

年前後までの約一世紀という限られた時期に、義家堕地獄を語る批判の姿勢が、

伝承世界の一隅にあったと考えられる。

一方、『発心集』『古事談』から約半世紀後の建長六年(一二五四)年成立した

『古今著聞集』巻第九「武勇第十二」には、三三六

「源義家衣川にて安倍貞任と連

歌の事」、三三七

「源義家大江匡房に兵法を学ぶ事」、三三八

「源義家安倍宗任をして

近侍せしむる事」、三三九「源義家或法師の妻と密会の事」といった義家説話が複数

話収載されている。三三六

で「やさしかりける」と称されるように、『著聞集』の義

家は、知略にすぐれた武人でありながら貴族的なイメージが付与されており、そ

こに堕地獄説の主人公だった義家の姿はうかがえない。先に見た十三世紀末に成

立の『前九年合戦絵巻』に僅かながら残存していた義家像は、『著聞集』のイメー

ジに近いとも考えられる。鈴木彰

(56)

は「義家を理想化し、権威化する思潮の高まり

の中で、こうした義家の負の側面が表だって語られていたとは考えがたい。理想

として、求められる義家像が前面に打ち出されてくる背後に、意識的に消し去ら

れた人物像もあったであろうことを決して見落としてはならない」と喚起してい

るが、義家堕地獄という「負の側面」は『発心集』『古事談』以降『古今著聞集』

までの間に、消し去られた可能性が高い。その晩年も次男義親の濫行をめぐり批

判にさらされていたが

(57)

、早ければ義家没の嘉承元年(一一〇六)直後から、十三

世紀初頭までの約一世紀の間に、「負」のイメージは脈々と語り継がれていたと考

えられるのである。

後白河が制作を依頼した承安元年(一一七一)は、まさにこうした義家への「負」

のイメージが語り継がれた時期の真っ直中にある。後白河が義家を恐れたという

今様に戻れば、「朝威」によって源平両氏の武士を操作し、保元・平治の乱を凌い

できた後白河にとって、それが可能であった「同じき源氏」―あえて特定するな

らば義朝―と比べ、義家が最も畏怖されたのは、「鷲」に喩えられる圧倒的な「武

力」というよりも、言うことを聞かない独善的な「武力」―「朝威」を無視した

「武威」―にあったと解釈されるのである。「朝威」を無視した「武威」の結末が

如何なるものであったか、それを世に知らしめ、伝えていくモノが必要とされた。

後白河院はこうした動機に基づいて、承安元年に『後三年合戦絵巻』の制作を静

賢に依頼したのであった

(58)

宮次男

(59)

は、絵巻の最後の段について「八幡太郎の異名を持つ義家の態度として

は、いささか大人げない話で、義家の無念さもわからぬでもないが、逆にこれを

嘲笑しているようにとれなくはない。あるいは、こんなところに、静賢の本心が

隠されているかもしれない」と述べている。後白河の制作依頼の意図の背景とし

て、義家の「負」の伝承を考えてきたが、実際問題としては、「詞書」作者の創意

に帰着する問題である。その作者に近い存在として静賢を考えるのは妥当だろう。

殺生戒を破り、発心に至らぬ者の顛末を伝える伝承を背景として、静賢のような

僧侶が関与し、唱導的・教訓的な性格を帯びた結末を用意する絵巻作品が制作さ

れたのである。

以上、頼義往生説話、義家堕地獄説話といった伝承世界の頼義・義家の存在に

注目し、義家に対する「武」=「悪」=「罪」という認識を探り、そこから後白

河院が制作依頼した承安本『後三年合戦絵巻』の背後にあった狙いを考察してき

た。次節では、『後三年合戦絵巻』の成立と管理に関わる、「寺院」という「場」

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‐42‐

の問題について考えてみたい。

〈初期軍記〉と寺院―『後三年合戦絵巻』の可能性

話題は『平家物語』に変わるが、この物語の基調となる仏教的思想や世界観、

あるいは実際に本文表現として依拠している唱導世界との接点など、その生成の

背景として、寺院という「場」の関与が成立論の大きな一つの関心事となってい

る。〈初期軍記〉と称される『将門記』『陸奥話記』『奥州後三年記』は、どうであ

ろうか。『将門記』においては、夙に川口久雄

(60)

が注目したように「冥界消息」の場

面に唱導世界との接点が考えられている。『陸奥話記』では、黄海の戦いにおいて、

頼義の腹心藤原茂頼が頼義を見失い、その遺骸を探し出すために剃髪して戦場を

彷徨う場面、頼義軍と清原軍が営崗に兵を集結し、清原武則が「八幡三所」に必

勝を祈誓する場面など、神仏に関わる本文は断片的に認められるが、それらから

作品全体を貫くような思想を見出すことは難しい。テキストとしての『奥州後三

年記』も同様である。すると、『将門記』を除いて、寺院の関与は考えられないの

だろうか。

少々回りくどくなったが、それを考えさせるのが、「絵」を伴った合戦絵巻―本

稿では『後三年合戦絵巻』―の存在である。現存・散逸を含め、その存在が確認

しうる合戦絵巻の享受状況については、日下力

(61)

作成の「合戦絵巻年表」により一

覧可能である。承安本『後三年合戦絵巻』は、日下作成年表の冒頭に位置し、平

安時代制作の合戦絵巻としては唯一のものである。

すでに「承安本」として検討してきたが、この最も古い合戦絵巻は、吉田経房

の『吉記』承安四年(一一七四)三月十七日条、中原康富の『康富記』文安元年

(一四四四)閏六月二十三日条に確認される『後三年絵』を指す。静賢に依頼さ

れたので「静賢本」とも称される。一方、現存『後三年合戦絵巻』は、玄慧筆の

「序」に貞和三年(一三四七)の年記があるので「貞和本」、あるいは序文起草者

の名から「玄慧本」と称する。成立伝承のみを残す「承安本」と現存する「貞和

本」との間には、鎌倉政権の成立とその滅亡を挟み、二百七十年余の隔たりがあ

り、両本の関係についての見解は二分されている。

宮次男

(62)

は、「其絵濫觴者」で始まる『康富記』の「後三年絵」要約部分が、伝四

巻「静賢本」をもとに書かれていることを前提とし、現存六巻「玄慧本」詞書と

の比較を試み、「両本が全く無関係であったとすることはできない」としながらも

「玄慧本は静賢本の単なる模写本でもなければ、異本でもなく、説話としての発

展過程において、静賢本のより発展した形態」と捉え、「院政期のものではなく、

南北朝時代における後三年合戦の説話絵巻とみるべき」と結論する。宮の解説は

影響力が大きく、一般に「現存『後三年合戦絵巻』は南北朝期のもの」という理

解が広がっているようで、およそ通説としての位置を占める。

一方、『奥州後三年記』の軍記文学上の位置づけを問い直す、という目的を掲げ、

テキストを徹底的に問い直した野中哲照

(63)

は、一連の検証作業

(64)

によって、承安本と

貞和本とを「記述量にほとんど差のない、誤字・脱字を校合できる程度の異本関

係」と判定した。ただし、「絵」については現存貞和本と承安本とが、右のような

詞書相互の関係にあるとまでは述べていない。野中の結論によれば、現存本詞書

の分析は、承安元年(一一七一)当時の詞書研究として理解して良いことになる。

「斬首」の表現に注目し、『後三年合戦絵巻』の「詞」と「絵」を読み解いてきた

本稿は、野中説を支持する立場をとっている。野中は、さらにテキスト語法の時

代性を突き詰め、『吉記』の成立伝承自体の疑わしさをも指摘して、テキストの成

立年次を一〇九〇〜一一二〇年あたりの年代まで絞り込んでいる。前節では、後

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‐43‐

三年合戦への批判、嫡子義親の悪行など、義家の没年直後からその批判が発生し

ていた可能性を論じた。それは右の年代とも重なってくるが、結末部の内容と制

作依頼動機を重視するので、現状においては承安年間の制作という理解にとどめ

ておきたい。野中の一連の研究から十年以上が経過したが、樋口知志

(65)

など一部史

学研究から賛同意見が寄せられ始めている。

以上の先学の検討に加えるところは少ないかも知れないが、成立伝承、享受伝

承を確認することによって、寺院と『後三年絵』という問題を確認し、若干の見

通しを述べてみたい。

まず、承安本にかかる最古の伝承を載せる『吉記』承安四年(一一七四)三月

十七日条を確認してみる。

十七日甲辰

武衡家衡等絵子細事、

拾遺來臨、爲見申繪、所招引也、件繪義家朝臣爲陸奥守之時、

與彼國住人武衡家衡等合戦繪也、件事雖有傳言、委不記、又不畫、靜賢法印

先年奉院宣始令畫進也、彼法印借出御倉送之、為消徒然歟、(下略)

記主の吉田経房は当時三十二歳、権大納言藤原実国の子、「拾遺」=藤原公時

(66)

「繪」を見せるため、自邸に招いたという。「繪」とは、源義家が陸奥守当時、陸

奥国住人武衡と家衡らとの合戦絵というので、後に『康富記』に言う「後三年絵」

と同じものだろう。経房はさらに加えて、これを「伝うる言」(伝承)はすでに存

在していたが、委しくは記されず、「画」として描かれていなかったこと、そこで

先年、後白河院の院宣を受けた静賢法印が「画」を描かせ、進上したものという

制作情報を伝えている。最後に、これが経房の手許にあるのは、静賢法印が経房

の徒然なる状態を慰めようと「御倉」から借り出して送ったのだろうか、と推し

ている。この前々日の十四日には静賢が経房を訪ね、蓮華王院領常陸国における

訴えについて相談しており、当時両者が蓮華王院経営をめぐって交流していたこ

とが知られる

(67)

次に『吉記』の記事から二百七十年余を経て、承安本の存在を伝える『康富記』

文安四年(一四四七)閏六月廿五日条を確認しておきたい。

但自御室寺仁宮和、御寶藏被召寄後三年繪被御覽云々、被取出、可拜見之由、

各被仰之間、其詞處々令轉讀了、此繪四巻在之、承安元年月日、依院宣、靜

賢法印其時ハ上座にて、承仰、令繪師明實圖也云々、

記主の中原康富は、「伏見殿」に参上(引用部の前)し、これを見たことを記す。

「伏見殿」といえば『看聞日記』記主、当時七十二歳の貞成親王(後崇光院)が

想起されるが、省略した記事には「尚書」や「論語」の講読について書かれるの

で、同年二月に親王宣下された、十九歳の貞常親王の周辺事と理解される

(68)

。仁和

寺宝蔵から借り出された同絵は「四巻」で、承安元年(一一七一)当時、「上座」

にあった静賢法印が院宣を仰せ承って、絵師「明實」に描かせたものと伝える。

四巻であること、描いた絵師が明実であったことが、『吉記』に加える情報である。

なお、「上座」は、『愚管抄』巻五にあるように、当時蓮華王院執行であったこと

を指す

(69)

のだろう。

静賢が、蓮華王院執行という立場にあったがゆえに「絵師」を依頼するという

「流れ」があったならば、蓮華王院領を背景とする経済的基盤は無関係ではなか

ったろうし、第一には後白河院による一大文化的事業としての蓮華王院宝蔵収集

物制作の実態が問題となろう。このような大きな問題もさることながら、「静賢」

という個人に注目しても、いくつかの可能性は見出される。執行を務めた蓮華王

院は、天台宗山門派延暦寺妙法院門跡に所属、静賢は平治の乱で信頼の謀略によ

って梟首された通憲入道(信西)の孫で、後白河院側近

(70)

の中でも特に重用された

人物である。『平治物語』上「信西・信頼不快の事」に「大唐、安禄山がおごれる

むかしのことを絵に書きて」とあるように、祖父信西は後白河院の寵臣偏愛を諫

めるため、『長恨歌絵』六巻を造進

(71)

しており、それは蓮華王院宝蔵に収められてい

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‐44‐

る。『玉葉』が「為レ

悟二

君心一

」と伝えるように、『長恨歌絵』の内容がそのまま、

当時の後白河を批判し、諭すためのものであったことを考えれば、後白河院にと

って絵巻は「賞翫」のみならず「批判」のメッセージが込められたものとして、

「後三年絵」以前に享受されていたことになる。先述したような、後白河による

義家批判=「武威」(源氏)の素地は、静賢の祖父信西の代から調えられていたと

見ることもできる。とすれば、絵師依頼の人脈も、静賢個人というよりも信西一

門との関わりで考える必要があるかもしれない。宗派を超えて高僧を輩出してい

る信西一門は、「寺院」環境の交流を想定するに鍵となる一族であるから、静賢に

注目すれば、蓮華王院(山門)を起点とした諸寺院との交流が浮かび上がってく

るのである。

和田英松

(72)

は夙に『吉記』から『康豊記』までの間、当絵巻の所在を伝える情報

として、『醍醐寺新要録』(巻二十行慶編)の建暦二年(一二一二)二月十五日の

記事に注目している。仁和寺御室・道法法親王が醍醐寺に入寺した折、醍醐寺座

主勝賢が「将軍三郎合戦絵」(=静賢本)を見せたことが伝えられている。その後

の行方は、近藤好和

(73)

の考証によって追跡されている。近藤は、従来偽書とされて

きた「小代宗妙〈伊重〉置文」を鎌倉末期の史料と判定し、平賀朝政が「奥州後

三年ノ合戦ノ次第」が書かれた「蓮華王院ノ宝蔵御絵」を閲覧した記事に注目、

「蓮華王院ノ宝蔵」は、『吉記』の「御倉」所蔵情報一致すると理解し、朝政在京

の建仁三(一二〇三)年十月から元久二年(一二〇五)閏七月の間に、承安本が

蓮華王院の蔵であったことを確認する。また、『明月記』元久二年(一二〇五)閏

七月二十六日条に、朝政が誅殺前夜、北面の人々と蓮華王院の「絵」を見たとい

う情報を記していることも補強材料としている。さらに、仁和寺御室道法法親王

が醍醐寺に入寺した際、同絵閲覧を契機に、醍醐寺から仁和寺へ移された以前の、

醍醐寺蔵となった時期を、静賢の甥成賢が第二十六代醍醐寺座主として再任され

た建永元年(一二〇六)十月からの約六年間であったと推す。以上の所蔵経緯を

整理すれば、以下のようになる。

承安元年(一一七一)後三年絵制作(『吉記』・『康富記』)

←蓮華王院蔵

承安四年(一一七四)静賢、「御倉」より借出、経房に貸与(『吉記』)

←蓮華王院蔵

元久二年(一二〇五)平賀朝政、蓮華王院にて閲覧

(『明月記』・「小代宗妙〈伊重〉置文」)

←蓮華王院蔵(近藤好和)

建永元年(一二〇六)成賢、醍醐寺座主再任(『醍醐寺新要録』)

←醍醐寺蔵?(近藤好和)

建暦二年(一二一二)道法法親王、醍醐寺にて閲覧(『醍醐寺新要録』)

←仁和寺蔵(和田英松)

文安四年(一四四七)仁和寺より伏見殿に借出、中原康富閲覧(『康富記』)

以上のように、承安本は真言系寺院にて保管されていたのだが、現存貞和本は

「山門」で制作されることとなる。右を見ても明らかなように、信頼できる貴人

に貸し出されているので、門外不出の絵巻という印象ではない。残念ながら「山

門」あるいはその関係者への貸出の事実を確認する史料はないが、その可能性は

皆無ではなかったろう。

現存貞和本の制作事情は、玄慧起草の以下の「序」

(74)

に伝えられている。

朝家に文武の二道あり。互に政理を扶く。山門に顕密の両宗あり。をの

く、

護持を致す。是聖代明時の洪業より出て、神明仏陀の余化にあらずといふこ

となし。しかるに本朝神武天皇五十六代清和天皇の御宇、貞純親王六代の後

胤、伊与(予)守源頼義朝臣の嫡男、陸奥守義家朝臣八幡殿と号す。(中略・

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‐45‐

後三年合戦の概要を記す)俗呼て、これを八幡殿の後三年の軍と称す。星霜

は多くあらたまれども、彼嘉名は朽ることなし。源流広く施して、今に至り

て又、弥新なり。古来の美歎、誰か其□徳を仰がざらん。世上の知る処、猶

ゆくすゑに伝へ示さん事を思ふ。後漢の二十八将、其形を凌雲台に写す。本

朝賢聖障子、名士を紫宸殿に図せらる。故に、今、此絵を調へ置かしむる所

なり。就中に、清和御代、殊に吾山の仏法を崇御す。其往好を思ふに、流を

斟ては、必ず源を尋ぬべきことはりあり。況や又、当時天下の静謐、海内の

安全、しかしながら、源氏の威光、山王の擁護なり。是等の来由につきて、

此画図、東塔南谷の衆議として、其功を終ふ。狂言戯論の端といふことなか

れ。児童幼学のこゝろをすゝめて、讃仰の窓中、時々是を披て永日閑夜の寂

寞をなぐさめ、家郷の望の外、より

くこれを翫て、嘲風哢月の吟詠にまじ

へんとなり。後素精微のうるはしき丹青の花春常にとゞまり、能筆絶妙の姿、

金石の銘、古にはづべからず。彼此共に益あり。老少同じく感ぜざらめや。

于レ

時貞和三年、法印権大僧都玄慧、一谷の衆命に応じて、大綱の小序を記

すといふことしかり。

右が草された貞和三年(一三四七)以前の「山門」といえば、暦応四年(一三

四一)の佐々木道誉による妙法院里坊焼討事件

(75)

、貞和元年(一三四五)八月の天

龍寺供養以前の阻止行動などが大きな事件としてあり、その社会的背景について、

考究する必要がある。当時の比叡山と当該絵巻の関係について、『太平記』を視野

に入れ、足利氏の義家伝承の称揚に着目した河野秀男の論

(76)

を起点として、再検証

の必要があろう。宮次男

(77)

解説によれば、「尊氏をはじめ、足利勢の武将に比叡山の

歴史を講義して、政策変更に追いやった玄慧法印」によって起草された序文には、

「源義家の武勇を賞賛すると同時に、清和源氏が、現在の足利氏に至るまで盛ん

なのは、ひとえに日吉山王の加護があるからであると、比叡山の足利氏に対する

優越的な立場を主張しようとする意図」があるという。

確かに、源氏の流れを汲む足利氏を意識した源氏讃歎の姿勢は窺えるが、紫宸

殿の「賢聖障子」に準え、「今、此絵を調へ置かし」めると位置づけつつ、「児童

幼学のこゝろをすゝめ」るため、という享受目的も示している。

幼童情操という享受目的は、「狂言戯論の端といふことなかれ」を承けるものと

も読める。「幼学」と「狂言綺語(戯論)」

(78)

との関係性について、わかりやすい一

例として、「いまだこの道を学び知らざらむ少年のたぐひをして、心をつくる便と

なさしめむがために」という序文を記す『十訓抄』

(79)

がある。『十訓抄』著者は、そ

の著述を「口業の因離れざれば、賢良の諫めにたがひ、仏の教へにそむけるに似

たりといへども、閑かに諸法実相の理を案ずるに、かの狂言綺語の戯れ、かへり

て讃仏乗の縁なり」と確認している。序の冒頭では、読者を「少年」とし、目的

を「心をつくる便」としたいと言い、序の末ではこれから綴っていく内容が「口

業」を免れないのを自覚しつつ、「讃仏乗の縁」としたいする。「幼学書」という

位置づけ、創作活動における「狂言綺語」の自覚は、「寺院」という「場」、ある

いは仏教思想に強い影響を受けた文化人にとって、その創作活動を保証する免罪

符的な側面もあったと考えられる。もちろんこうした表向きの位置づけ、あるい

は常套句的な言い回しは、それらが実態としてあった

(80)

上で形成されていったわけ

で、そうした制作意図や享受の伝統に当てはまる作品と、そうではないかも知れ

ない作品とを吟味する必要がある。現存『後三年絵』の序文は、常套句的言い回

しの方で、「後三年絵」の内容の分析からみても、当初から「児童幼学のこゝろを

すゝめる」ものであったか疑問である。

合戦絵巻の「児童幼学」による享受実態を否定しているわけではない。小松茂美

(81)

は、合戦絵の注文実態、享受史料を検証し「少年賞翫のための合戦絵」という位

置づけを試みている。鎌倉幕府は二度『将門合戦絵』を制作依頼、調達している

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‐46‐

(『吾妻鏡』元久元年(一二〇四)十一月二十六日条・寛元三年(一二四五)十月

十一日条)が、初度が当時十三歳の三代将軍実朝、二度目が当時七歳の五代将軍

藤原頼嗣のためであった。ただ、これらは幕府という「武」の側の享受であり、

いま考えている寺院という「場」が対象とする「幼学」とは異なったものとして

区別する必要があろう。

「児童幼学のこゝろをすゝめ」るためという、貞和本の序文を額面通りに理解

することには躊躇するのだが、「叡山東塔南谷の衆議」として完成した一大事業で

あった、という記述はその通りであったろう。これまで見てきた「斬首」の光景

をはじめとして、同絵巻の凄惨な絵画描写が突出している点について、宮次男

(82)

『太平記』巻二十一「塩冶判官讒死事」を引用し、血と肉が表現される「南北朝

という動乱期の時代的特色」と通じ、「厭離乱世、欣求和平」を願うための「現世

的地獄図」という見方を示している。しかしながら、この貞和本の「絵」が現存

しない承安本とさして変わらなかったとすると、これまで述べ来たったような議

論が必要となるのである。先に「玄慧本は……静賢本より発展した形態」と引用

した通り、宮は詞書の分析を通じては両本を地続きのものと考えないが、「絵」の

解説では、「同一構図的反復描写」の方法が採られていること(挿図10・11)に

注目し、「藤原末鎌倉時代初期の説話系絵巻に、しばしば用いられる手法」と判じ、

「玄慧本が描かれるに際し、静賢本がかなり参考に供されたのではないか」と推

している。そして、「静賢本をそっくりそのまま模したというのではないのであっ

て、基礎となる構図を移したのではなかろうか」と但し書きを加えている。絵巻

研究における「絵」の分析方法

(83)

について、十分な知識を持たないのが悔やまれる

が、宮は両本の「絵」の近さを示唆しているのであって、現存貞和本の「絵」に、

承安本当時の「絵」をある程度透かし見ることは許されよう。特に、後半部に集

中する凄惨な光景については、詞書からもそれが読み取れるので、現存本に近い

凄惨な「絵」が承安本にあったとみて差し支えないだろう。すでに触れたように、

その中には直接的に「地獄絵」に繋がる「千任の抜舌」の言葉と絵があるから、

『太平記』的なそれではなく、『往生要集』の地獄観を描出していると考えた方が

良さそうである。『往生要集』の地獄観も「寺院」という「場」から発信されてい

る可能性が高い。前節で小括したように、後白河によって『後三年絵』が制作依

頼されたのは、「朝威」を蔑ろにした「武威」を糾弾する「モノ」を伝える目的に

あった。それを具現化する手法として用いられたのが、「地獄図」として凄惨な殺

戮場面を創造することであったと考えられるのである。

「公的」に保証されるべき「武功」として重視される「斬首」が、「わたくしの

敵」という朝廷の判断によって呆気なく結ばれている。義家の蛮行の残忍さを描

き込めば描き込むほど、その「呆気なさ」は際立ってくる。そうした効果を狙っ

ての叙述方法であったろう。言い換えれば、その圧倒的な武力、武略を描き込め

ば描き込むほど、たった一通の文書を以て「武」を無にしてしまう「朝威」は、

より高位に引き上げられる。とすれば、現存貞和本序文に「古来の美歎、誰か其

□徳を仰がざらん」(虫損は「武徳」か)と讃歎されるのも、そのまま理解するわ

けにはいかない。貞和年間の玄慧―比叡山―も、やはりこれまで明らかにしてき

たような作品理解をしていたのではないか。さらに言えば、醍醐寺、仁和寺を渡

り歩いてきたこの絵巻が「いかなる武力を以てしてもそれが水泡に帰すこともあ

る」という、極めてわかりやすい結末を用意している以上、久野の指摘にあった

ように、「武」の当事者でもあり、武士の「武」と直接対立する関係に度々陥って

いた「寺院」にとっては、広く容れられるべきモノとしてあった、といえよう。

貞和本序文は「況や又、当時天下の静謐、海内の安全、しかしながら、源氏の

威光、山王の擁護なり」と書き、源氏の「武威」と山門の「神威」とを並べてい

る。直接には各々が「相依相即」の関係にあると読めるが、治承寿永の源平時代、

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‐47‐

山門が頻りに主張した「王法仏法相依相即論」がそうであったように、上位にあ

る存在(王法)と敵対関係の危機にある時、その対立を避けるため、相互の「権

威」を並列する論理が立てられるのである。建前上、並列関係を説きながら、敵

対関係が現実となれば、自らの優位性を主張する論理に転換するのが「相依相即」

の主張の実態であろう。河野秀男

(84)

が詳論しているように、それを証すモノとして、

山門で『後三年絵』が再び制作されたのであろう。

一方、このような見方をすれば、源氏武士にとっては『後三年絵』の結末は屈

辱の過去であり、それに反発したのではないか、という構図が浮上する。たとえ

ば、『吾妻鏡』承元四年(一二一〇)十一月二十三日条に見る、実朝による「奥州

十二年合戦絵」の閲覧時はどうであったか。その反応を知る由がないが、この六

年前の元久元年(一二〇四)十一月二十六日、実朝が京に発注した「将門合戦絵」

が鎌倉に届いている。「将門合戦絵」は現存しないが、そこにはすでに「朝威」に

対し、「武」を以て抗し得なかった将門の最期が描かれていたはずである。六年前

に「将門合戦絵」を享受し、「奥州十二年合戦絵」を見た実朝に得られたものは、

「朝威」に保障されない「武」のあり方は駆逐されるという「教訓」ではなかっ

たか。この時すでに、若き日の実朝の心のどこかに、源氏の「武」と決別する決

意が芽生えていたのかも知れない。

承安本が、蓮華王院から醍醐寺、仁和寺という「寺院」に収められていた実態

を確認し、貞和本の「地獄絵」の側面が承安本以来のものであること、承安本、

貞和本ともに「寺院」と対立する「武」を超える権威を証すモノとして容れられ

てきた可能性等々、的を絞りきれない問題提起に終始してしまった。

以前から論者が見据えている一つの問題について触れ、当節を閉じたい。これ

までたどってきた、後白河院周辺(信西・静賢)、承安本『後三年合戦絵』の存在

と内容、これを管理してきた「寺院」、それぞれを結ぶ問題は、『平家物語』成立

の「人」と「場」に重なって問題ともなるのである。詳細をめぐる実態追究は今

後の課題となるが、一つ具体的な問題に触れれば、それは巻一「願立」説話

(85)

への

関心である。白河院三不如意の一つ「山門強訴」の一例証説話とも言える内容を

有する。そもそもこの事件は、嘉保二年(一〇九五)三月、美濃守源義綱が当国

の新立の荘園に関わって押領騒動を起こし、その騒動の間「山の久住者円応」を

殺害したことが発端となっている。源義綱は義家の同腹弟であり、事件当時義家

は五十六歳で存命していた。この説話の背後には、「山門」と「朝廷」と「源氏」

の三者の関係があり、最終的には「山門」の権威―日吉山王―が勝利するわけだ

が、この説話が「源氏」(義綱)と結んだ「朝廷」(白河院・師通)を批判する話

として伝えられたことと、「源氏」(義家)と結ばなかった「朝廷」(白河院)とい

う後三年合戦の歴史とは、およそ対照的な状況を示している。かりにこうした対

照が認識されたのであれば、それが可能な「場」とは、「山門」をおいて他には考

えられないのである。

まとめと展望

本稿では、具体的背景を考えるため、「斬首」の表現を起点として、絵巻を含め

た〈初期軍記〉作品の「読み」を提示してきた。様々な問題に拡散し、まとまら

ないものとなってしまったが、一つの結論として、承安本の後白河院制作意図、

それが「寺院」に伝来しつづけた意義、再び叡山で貞和本が制作された意義、い

ずれも「武威」に抗するモノとして認識されたがゆえに、『後三年絵』は存在し続

けたことを考えてみた。以上の「読み」から、軍記の本質として、戦闘の「歴史」

に基づいた「武」のあり方を語りつつも、それを超えた力は何かであったかを物

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‐48‐

語る、という一つの役割があったのではないか、ということを考えざるをえない。

大津雄一

(86)

が、『将門記』から次々と読み解いていった軍記=〈王権の絶対性の物語〉

を、その内容ではなく、存ヽ在ヽとして直截に体現したのが、『後三年絵』であったと

いえるかも知れない。この作品における「斬首」が、武衡・家衡を〈王権への叛

逆者〉として排除したものではなかったからである。

簡潔に言えば、武士による戦闘とは「敵将の「首」を取る」という行為を最終

目的として開始され、その達成とともに終結を迎える。それを描く軍記物語も、

敵方対象の「斬首」を以て一定の完結が迎える。〈物語〉の関心は、「斬首」が「な

ぜ」「どのように」おこなわれたのかというところにある。このごく自然な流れの

中で「斬首」を問題にしてきた次第である。

見てきたように、社会法制度上「斬首」は刑法犯に対する処罰行為であったと

いう背景があり、同時に、大陸の先史、実際には漢籍の表現の夷狄征伐行為とし

て、我が国に受容されていたという、「斬首」の両義性は、『陸奥話記』の表現に

確認された。ところで、こうした「斬首」=「死刑」という枠組み、武士の戦闘

行為による「斬首」が混淆していく歴史的過程として問題となるのが、『保元物語』

『平治物語』の時代である。『保元物語』で死刑制度復活を強行した信西が、『平

治物語』では武士の「武威」によって獄門に懸けられるのである。『平治物語絵巻』

も含め、軍記における「斬首」をめぐる表現分析は、課題が多い。また、刑罰と

して、夷狄征伐行為として、という表向きの「斬首」行為の裡に表現されている

問題について、本稿でいくつか気付かされた。「斬首」をめぐる情念の問題、「斬

首」をめぐるエロスの問題などである。近時、ジュリア・クリスティヴァによる

「斬首論」

(87)

も邦訳された。今後、「首」の表現分析の方法論も充実させていかねば

ならない。どれも「今後の課題」となるが、ひとまずここで措くこととしたい。

【使用テキスト】論を通じて参照、複数に及んで引用したもの。

『陸奥話記』……柳瀬喜代志・矢代和夫・松林靖明・信太周・犬井善壽校注訳『新編日本

古典文学全集41

将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』(小学館、二〇〇二年)から引

用(引用部には当該書の章段番号を付す)。なお、大曾根章介校注担当『岩波日本思想大系

8

古代政治社会思想』(岩波書店、一九七九年)、梶原正昭校注『古典文庫70

陸奥話記』

(現代思潮社、一九八二年)を併せて参照した。

『奥州後三年記』……野中哲照「『奥州後三年記』の本文研究(本文篇)」(『古典遺産』41、

一九九一年二月)を引用、本文中当該本文の章段名を使用。

『前九年合戦絵巻』……小松茂美編『続日本絵巻大成17

前九年合戦絵詞・

平治物語絵巻・

結城合戦絵詞』(中央公論社、一九八三年)

『後三年合戦絵巻』……小松茂美・宮次男・古屋稔執筆『日本絵巻大成15

後三年合戦絵

詞』(中央公論社、一九七七年)

『平家物語』……高木市之助ほか校注『岩波日本古典文学大系32

平家物語上』(岩波書店、

一九五九年)。底本は、覚一本(龍谷大学蔵本)。

『律』……『岩波日本思想大系

律令』(岩波書店、『新訂増補国史大系

律』(吉川弘文館、

一九七一年)

『吉記』……『増補史料大成29・30

吉記一・二』(臨川書店、一九六五年)

『康富記』……『史料大成29〜31

康富記一〜三』(内外書籍、一九三六〜三八年)

(1)

二〇〇四―二〇〇六年千葉大学大学院社会文化科学研究科・研究プロジェクト134

「中世仏教文化の形成と受容の諸相―「絵画」の問題を中心として(代表・池田

忍)」

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‐49‐

二〇〇五年十月二十六日に「軍記と絵巻に描かれた〈首〉―発生論的諸問題をめぐっ

て」と題して報告した。本稿はその内容と一部重複するが、その後の成果を加えてい

る。

(2)

「中世日本の寺院と戦争」(『戦争と平和の中近世史』青木書店、二〇〇一年)

(3)

以下、引用部を含めた論中の傍線、圏点は、特にことわらない限り、久保による

ものである。

(4)

「奥州合戦ノート―鎌倉幕府成立史上における頼義故実の意義―」(『鎌倉幕府成立

史の研究』第二部第五章、校倉書房、二〇〇四年、初出一九八九年)

(5)

「『源平盛衰記』頼朝挙兵譚における義家叙述の機能―頼朝に連なる〈過去〉」(『国

文学研究』140、二〇〇三年六月)

(6)

「斬首」(死刑)の停止の根拠について、「唐の影響、即ち唐制の模倣」にあったと

いう見解はよく知られている。利光三津夫「嵯峨朝における死刑停止について」(『律

の研究』第三章、明治書院、一九六一年)

(7)

【使用テキスト】参照。『国史大系

律』

(8)

平治の乱で斬首された信頼の「首」が公卿という理由で、大路渡しされなかった

のはよく知られることである。(『玉葉』寿永三年(一一八四)二月十日条)

(9)

【使用テキスト】参照。『岩波日本思想大系』頭注、補注による。

(10)

『戦場の精神史』一〇二頁(日本放送出版協会、二〇〇四年)

(11)

「軍記物語に見る死刑・梟首」(『歴史評論』637、二〇〇三年五月)

(12)

日下力校注担当『岩波新日本古典文学大系43

保元物語

平治物語

承久記』(岩

波書店、一九九二年)。底本、陽明文庫蔵本。

(13)

『戦場の精神史』七六頁(日本放送出版協会、二〇〇四年)

(14)

「首を懸ける」(『月刊百科』310、一九八八年)

(15)

『武士と文士の中世史』一〇頁(東京大学出版会、一九九二年)

(16)

「軍記物語に見る死刑・梟首」(『歴史評論』637、二〇〇三年五月)

(17)

「中世における他者認識の構造」(『歴史学研究』594、一九八九年六月)

(18)

「中世前期における路と京」(『ヒストリア』129、一九九〇年十二月)

(19)

「大路渡しとその周辺」(『待兼山論叢』27、一九九三年十二月)

(20)

「中世後期における「斬られた首」の取り扱い」(『文化史学』50、一九九四年)、

「鎌倉武士の死刑と斬首―『吾妻鏡』・軍記物にみるその観念と作法(上)」(『文化史

学』54、一九九八年十一月、「鎌倉武士の死刑と斬首―『吾妻鏡』軍記物にみるその観

念と作法(下)」(『文化史学』55、一九九九年十一月)

(21)

「京中獄所の構造と特質」(『都と鄙の中世史』吉川弘文館、一九九二年)

(22)

「貴族社会における穢と秩序」(『日本史研究』287、一九八六年七月)

(23)

【使用テキスト】参照。『岩波思想大系8

古代政治社会思想』

(24)

「後三年合戦絵巻」(『合戦絵巻』角川書店、一九七七年)

(25)

「中世軍記物語における身体と表現機構」(『中世文芸の表現機構』、おうふう、一

九九八年)

(26)

小峯和明校注『岩波新日本古典文学大系36

今昔物語集四』(岩波書店、一九九

四年)

(27)

「『陸奥話記』とはいかなる「鎮定記」か」(『東北大学文学研究科研究年報』53、

二〇〇四年三月)

(28)

「前九年合戦絵巻」(『合戦絵巻』角川書店、一九七七年)

(29)『日本絵巻大成12

男衾三郎絵詞

伊勢新名所絵歌合』(中央公論社、一九七八年)

(30)「首を懸ける」(『月刊百科』310、一九八八年)

(31)「京中獄所の構造と特質」(『都と鄙の中世史』吉川弘文館、一九九二年)

(32)「中世後期における「斬られた首」の取り扱い―首実検と梟首を素材として―」(『文

化史学』50、一九九四年)

(33)「貴族社会における穢と秩序」(『日本史研究』287、一九八六年七月)

(34)邸内に持ち込まれた「穢」という観点から見れば、内裏内に「首」が持ち込まれた

絵を描く『平治物語絵詞』「三条殿夜討巻」は異常である。

(35)聖衆来迎寺蔵『六道絵』「人道生別死別風火水不慮難之図」

(36)【使用テキスト】参照。野中テキストは、残存本文を三十七の章段に分け、一段〜十

段を群書類従本、十二段〜三十七段を東博本『後三年合戦絵巻』詞書を採用している。

以後、本稿中に使用する章段番号・章段名は、これに従う。

(37)石田瑞麿校注『岩波日本思想大系6源信』(岩波書店、一九七〇年)

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(38)『戦場の精神史』九一・一〇九頁など(NHK出版、二〇〇四年)

(39)

「『奥州後三年記」の語る私戦化要因」(『鹿児島短期大学研究紀要』63、一九九八

年十一月)

(40)金刀比羅本には面の皮を剥ぐ場面はない。

(41)『日本行刑史』三四頁(青蛙房、一九六一年)

(42)「『平治物語絵巻』を読む」(『軍記文学研究叢書4

平治物語の成立』汲古書院、一

九九八年)

(43)「『奥州後三年記』における〈前九年アナロジー〉」(『鹿児島短大研究紀要』61、一

九九七年十一月)、「『奥州後三年記』のメッセージ│後三年合戦私戦化の表現を追って

│」(『鹿児島短期大学研究紀要』62、一九九八年六月)、「『奥州後三年記」の語る私

戦化要因」(『鹿児島短期大学研究紀要』63、一九九八年十一月)

(44)「『奥州後三年記』のメッセージ│後三年合戦私戦化の表現を追って│」(『鹿児島短

期大学研究紀要』62、一九九八年六月)

(45)詞書の「四十八人がくびをき」った主体を「義家軍」の全体的戦果として、次任に

限定しない見方もできる。

(46)井上光貞・大曾根章介校注『岩波日本思想大系7

往生伝 法華験記』(岩波書店、

一九七四年)

(47)久保田淳・大曾根章介編『鴨長明全集』(貴重本刊行会、二〇〇〇年)。底本は、慶

安四年板本(広本系)。

(48)匡房は太宰権帥在任時に、義家次男義親の対馬での乱行を朝廷に提訴している。匡

房の立場から後三年合戦後の義家に対して好意を寄せていたとは考えにくい。

(49)久保田淳・大曾根章介編『鴨長明全集』(貴重本刊行会、二〇〇〇年)

(50)『平家物語全注釈

中巻』二一五頁(角川書店、一九六七年)。

(51)石井紫郎「合戦と追捕―前近代法と自力救済―」(『日本国制史研究Ⅱ

日本人の国

家生活』東京大学出版会、一九八六年、初出一九七八年七月・十一月)など、後三年

合戦=「私戦」を分析する議論は、諸分野でなされている。

(52)元木泰雄「源頼義・義家」(『古代の人物6

王朝の変容と武者』清文堂、二〇〇五

年)に詳しい。

(53)小林芳規・武石彰夫校注担当『新日本古典文学大系56

梁塵秘抄

閑吟集

狂言歌

謡』(岩波書店、一九九三年)

(54)八幡神加護による「武威」が誰からも讃歎される認識であったか疑問である。義家

の「武」に対する批判的な眼差しを見出すならば、『将門記』の将門新皇即位場面にお

ける八幡神の登場も了解される。八幡神の「神威」が、「皇」と「武」両方を保証する

権威として発動するという認識において共通するが、その信仰が源氏に独占されるに

至って、我々の目を惑わせるようになったのではないか。

(55)『古事談』編纂にあたり『発心集』を参照したという見方を批判するのは、磯水絵「源

義親の説話をめぐって―殿暦・富家語・古事談―」(『説話と音楽伝承』和泉書院、二

〇〇〇年、初出一九八一年六月)

(56)「源義家」(『人物伝承事典

古代・中世編』東京堂出版、二〇〇四年)

(57)元木泰雄「源頼義・義家」(『古代の人物6

王朝の変容と武者』清文堂、二〇〇五

年)

(58)宮次男「後三年合戦絵詞」(『合戦絵巻』角川書店、一九七七年)では「その背後に、

後白河法皇の政治的配慮が複雑にからみ合っていたこと」と複数の要因を想定する。

野中哲照「『奥州後三年記』の成立圏―奥州成立の可能性をさぐる―」(『鹿児島短期大

学研究紀要』55、一九九五年三月)は「承安本制作の前年、嘉応二年(一一七〇)五

月の除目で、奥州平泉の覇者藤原秀衡が従五位下・鎮守府将軍に任じられた」ことに

注目、それを祝う「奥州側の祝祭ムードと都側の好奇心とが不思議に融合する雰囲気

の中で制作されたのであろう」と推している。

(59)「後三年合戦絵詞」(『合戦絵巻』角川書店、一九七七年)

(60)『平安朝日本漢文学史の研究(上)』(明治書院、一九五九年)

(61)「合戦絵巻と『平治物語絵詞』―軍記文学との関連から」(『日本絵巻大成13

平治

物語絵詞』(中央公論社、一九七七年)

(62)「後三年合戦絵巻」(『合戦絵巻』角川書店、一九七七年)

(63)野中の『後三年記』に関する研究成果は、一九八九年から二〇〇一年まで、本文研

究・注釈作業・研究論文・その他合わせて、三〇本に手が届く数である。

(64)「『奥州後三年記』から『後三年合戦絵詞』へ」(『室町藝文論攷』三弥井書店、一九

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九一年十二月)、「『奥州後三年記』の表現連鎖│承安本との関係調査のための前提とし

て│」(『古典遺産』42、一九九二年三月)、「貞和本『奥州後三年記』の後次性―作品

成立の時代をさぐる(1)」(『鹿児島短期大学研究紀要』50、一九九二年十月)、「『奥

州後三年記』貞和本と承安本との関係│作品成立の時代をさぐる(2)│」(『鹿児島

短期大学研究紀要』51、一九九三年三月)

(65)「前九年合戦と後三年合戦」(『奥羽史研究叢書3

平泉の世界』、高志書院、二〇〇

二年)

(66)『吉記人名索引(一)』(学習院大学吉記輪読会、一九九六年)。なお、小松茂美「『前

九年合戦絵詞』『平治物語絵巻』『結城合戦絵詞』―合戦絵巻の流行」(『続日本の絵巻17』、

中央公論社、一九九二年)では、当時五歳の平清宗だったとする。

(67)下郡剛「承安期における経房の奏事」(『後白河院政の研究』第五章第二節、吉川弘

文館、一九九九年)

(68)小松茂美「『前九年合戦絵詞』『平治物語絵巻』『結城合戦絵詞』―合戦絵巻の流行」

(『続日本の絵巻17』、中央公論社、一九九二年)

(69)『玉葉』治承元年(一一七七)十二月十七日条。

(70)『愚管抄』巻五など。

(71)『玉葉』建久二年(一一九一)十一月二日条ほか。

(72)「前九年後三年合戦絵巻考」(『歴史地理』18―6、一九一一年十二月)

(73)「小代宗妙〈伊重〉置文と静賢本後三年合戦絵巻の伝来」(『国学院雑誌』86│9、

一九八五年九月)

(74)『日本絵巻大成15

後三年合戦絵詞』(中央公論社、一九七七年)

(75)妙法院は、天台宗門跡、蓮華王院を管轄している。

(76)「後三年合戦絵巻とその思想」(『日本歴史』228、一九六七年五月)

(77)「後三年合戦絵巻」(『合戦絵巻』角川書店、一九七七年)

(78)拙稿「延慶本『平家物語』の〈狂言綺語〉観―〈物語〉の志向したもの―」(季刊『文

学』10―2、岩波書店、一九九九年四月)でも考察している。

(79)浅見和彦校注訳『新編日本古典文学全集51

十訓抄』(小学館、一九九七年)

(80)たとえば、高橋秀城(「東京大学史料編纂所蔵『連々令稽古双紙以下之事』をめぐっ

て」平成十八年度仏教文学会大会発表、二〇〇六年六月)が紹介する『連々令稽古双

紙以下之事』(十六世紀初頭)などに挙がる諸作品が、十五歳までに享受されている。

軍記も多くの作品が対象となっているが、『後三年記』は挙がっていない。

(81)「「前九年合戦絵詞」「平治物語絵詞」「結城合戦絵詞」―合戦絵の流行」(『続日本の

絵巻17

前九年合戦絵詞

平治物語絵詞

結城合戦絵詞』(中央公論社、一九九二年))

(82)『図説

地獄絵を読む』(河出書房新社、一九九九年)

(83)たとえば、鷹巣純「絵巻物から屏風絵へ―後三年合戦絵巻にみる合戦絵の変貌―」

(『びぞん』87、一九九三年九月)がある。「パノラマのような画面」の特徴を指摘し、

「一つの段を完全に開き切った上で」の鑑賞実態を推している。

(84)「後三年合戦絵巻とその思想」(『日本歴史』228、一九六七年五月)

(85)拙稿「「延慶本『平家物語』の山門記事」(『語文論叢』19、一九九一年十月)以来

の問題である。

(86)『軍記と王権のイデオロギー』(翰林書店、二〇〇五年)

(87)星埜守之・塚本昌則訳『斬首の光景』(みすず書房、二〇〇五年)

【図版一覧】別掲「挿図」は以下の複製本より転載した。

挿図1〜3

『太陽古典と絵巻シリーズⅣ

合戦・縁起絵巻』(平凡社、一九七九年)

挿図4・7・8・10・11

『合戦絵巻』(角川書店、一九七七年)

挿図5・6・9

『日本絵巻大成15

後三年合戦絵詞』(中央公論社、一九七七年)

【付記】

科学研究費補助金・萌芽研究「軍記を中心とした日本古代中世文化と戦争被害の諸相に

関する包括的研究」(課題番号 18652022

)の成果の一部である。

(千葉大学大学院人文社会科学研究科・助手)