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「聖殿遺跡」と刻まれた碑 25 No.315 2015 年 10 月 20 日 No.315 (1) ひ   だ   ご   坊 仏暦2558(2015)年 34 10 21 31 11 10 11 11 20 FAX 発行 真宗大谷派 高山教務所 発行者 出雲路 善公 〒506-0857 高山市鉄砲町6番地 ☎(0577) 32-0776 *毎月20日発行 50,000部 三市一郡無料配布 印刷 山都印刷株式会社 『ひだご坊』は毎月20日に発行されます。 鹿殿殿殿殿飛騨の真宗 伝承散歩 聖殿遺跡碑 しょう でん 高山市岡本町 ハンセン病とは ハンセン病とは 「らい菌 」 に感 染することで起こる病 気で、かつては「らい病」と呼ばれていました。発症すると手足などの末 梢 神 経が麻 痺したり、皮 膚にさまざまな変 化が起こったりします。 早 期に適 切な治 療を行わないと、手 足などの末 梢 神 経に障 害が起き、汗が出なくなっ たり、 痛い、 熱い、 冷たいといった感 覚 がなくなったりすることがあります。 また、 体 の 一 部 が 変 形 するといった後 遺 症 が 残ることもあります。 現 在 で は有効な薬が開発され、完全に治る病気となっています。 隔離の歴史 1907 年、ハンセン病を患った人を療養所へ隔離する「癩 らい 防ニ関スル件」 が制定されました。1931 年には「癩予防法」と名前を変え、 すべての患者を強制的に収容し、療養所から一生出られなくする「ハンセン病 絶滅政策」が行われました。各地に療養所が建設され、各県では「無らい県 運動」という名のもとに、患者を見つけ出し療養所に送り込みました。そして市 民もまた運動に参加し、隔離を推進していきました。療養所では偽名を名乗るこ とが強いられ、また、「断種・堕胎」 が強制されました。そして戦後の 1953 年 には、さらに隔離の強制力の強い「らい予防法」として生まれ変わりました。 ハンセン病問題の現状と課題 1996 年、「らい予防法」が廃止され ました。その時から 20 年の月日が流れ 「ハンセン病国賠訴訟」 の勝訴、「ハ ンセン病問題基本法」の制定など公の解放はすすみました。しかし入所者 の減少による医師や看護師の不足や統廃合の不安、入所者自治体の高齢 による弱 体 化など課 題を残しています。また、人々の心に植え付けられた偏 見や差別により、現在も多くの人が故郷に帰れず、肉親との再会を果たせな いでいます。そして療養所を退所した人や家族、遺族にも、いまだに大きな 不安を与えています。ハンセン病問題を過去のこととせず、一人ひとりがこの 問題に向き合うことが求められています。 ハンセン病問題とは何か

聖殿遺跡碑hidagobo.jp/site/wp-content/uploads/2016/07/68bfd... · 知を、「の療養所内外に対する周いう概念です。その概念のが、隔離は「救癩」とた。

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Page 1: 聖殿遺跡碑hidagobo.jp/site/wp-content/uploads/2016/07/68bfd... · 知を、「の療養所内外に対する周いう概念です。その概念のが、隔離は「救癩」とた。

「聖殿遺跡」と刻まれた碑

〈略歴〉

解放運動推進本部に25年在

籍。部落差別問題・アイヌ問

題・ハンセン病問題等多くの課

題と出会う。現在、三重教

区金藏寺住職。真宗大谷派

宗議会議員。

ハンセン病問題が

  問いかけるもの

訓くる

覇べ

 

浩こう No.315

2015年10月20日

No.315 (1)ひ   だ   ご   坊仏暦2558(2015)年 

☎テレホン法話〈0577(34)2313〉 

○10月21日~31日…畑亮徳氏[願德寺] 

○11月1日~10日…小原正寛氏[専念寺] 

○11月11日~20日…五辻元駐在教導[教務所]             

宗教トラブルFAX相談窓口〈0577-

32-

0763〉

発行 真宗大谷派 高山教務所発行者 出雲路 善公

〒506-0857 高山市鉄砲町6番地☎(0577)32-0776

*毎月20日発行 50,000部三市一郡無料配布

印刷 山都印刷株式会社

『ひだご坊』は毎月20日に発行されます。

はハンセン病患者を国の

辱はじ

とする「国こ

くじょくろん

辱論」です

が、それだけでは、隔離政

策の「正当性」を、国民

にもハンセン病患者にも納

得させることは困難でし

た。そこで持ち込まれる

のが、隔離は「救癩」と

いう概念です。その概念

の療養所内外に対する周

知を、「慰い

安あん

教きょう

化か

活動」

などで担ったのが真宗大

谷派をはじめとする宗教

者たちでした。とりわけ、

自らの存在を、屈く

つじょくてき

辱的政

策により卑ひ

下げ

するしかな

い状態に貶お

とし

められている

入所者には、自らに真剣

に寄り添いながら説かれる

「隔離を受容することが

救済」という「教え」は、

深く浸し

透とう

していきました。

 

しかし、それは、宗教

者の活動が、隔離の持つ

非道さに覆お

いをかけてし

まうはたらきを持ったこ

とを意味します。人は人

権侵害があるときには、

必ずそれと闘います。し

かし、人権が侵害されて

いることそのものに覆い

がかけられてしまうなら、

闘いということもかすめ

とられてしまいます。そ

れこそが、究極の人権侵

害といえましょう。

 

この「慰安教化」活動

の根底ではたらいた意識

が、ハンセン病を患った人を

「救ってあげなければなら

ない憐あ

れな人」とみなし、

同情するこころであると思

います。このこころは、私

たち一人ひとりの日常に

さまざまな形で現れ、自

らを「善意」の高みに押し

上げ、同情の対象を見下

ろしていきます。同情の

こころは、差別するこころ

と同質のものと言わねば

なりません。したがって、

そのまなざしが自らに向

けられることはありませ

ん。自らが問われること

のないところに、人と人と

が水平に出会う地平、す

なわち互いを独尊者とし

て称た

えあう世界(同ど

朋ぼう

会)は開かれません。

 

隔離された痛み、悲し

みが、同朋社会の顕け

現げん

への

祈りとなって、私たち一

人ひとりの無む

明みょう

をつよく

照らしだしていると言え

るのではないでしょうか。

 

つらくて、いたい。

「いいことをしておいて、

何が痛いか」と怒ど

鳴な

られ

た。たまらなかった。台

の上に上がったときに器

具の音を聞きながら気を

失った。子どもを引きず

り出された。顔をたたか

れて目が覚める。鼻も口

もガーゼで押さえられ、

ばたばたしている赤ちゃ

ん。まぶたが動いていた。

へその緒お

が波打っていた。

髪の毛が真っ黒だった。

子どもが殺される。看護

婦は子どもをもって走っ

ていってしまった。その

時の医師はこういった。

「園の規則まで破って、

子どもをつくって恥ずか

しくないのか」。水さえ

飲ませてもらえなかった。

その悔く

しさは忘れられま

せん。赤ん坊の死後、夫

は二度と子どもができな

いよう、断だ

種しゅ

手術を強制

されました。

 

ハンセン病回復者で、

鹿児島県にあるハンセン

病療養所星ほ

塚づか

敬けい

愛あい

園えん

で現

在も暮らす玉た

城しろ

しげさん

が、自らの経験を語られ

た言葉です。

 

私たちの国は、一九〇七

年から一九九六年まで、

九十年にわたって、ハン

セン病を患わ

ずら

った人を一生

療養所に閉じ込めるとい

う「ハンセン病絶対隔離

政策」を行ってきました。

その政策が与えた被害

は、「ひとりひとりの全

人格、全人生にわたる」

被害と表現されますが、

その中でも、断種・堕だ

胎たい

は、最も酷ひ

い仕打ちであ

ると、多くの入所者が語

られます。

 

また、園内では本名が

奪われ「園名」を名のら

されてきました。これは、

「その人をして社会の中

で生活することが許され

ないものとの自己認識を

強いる」ためになされたと

確かめられています。本

名が奪われるということは、

その名によって紡いできた

あらゆる人間関係が奪わ

れるということであり、

自らのいのちのルーツであ

るふるさと、家族を奪わ

れるだけでなく、「自分

自身」もが奪われるとい

うことです。

 

隔離政策は、ハンセン

病を患った人たちの人間

としての尊厳、独ど

尊そん

性せい

のものに向けられた刃で

あったのです。

 

隔離政策が国民に受け

容れられたのは、ひとつ

い」と願い、上人に白川郷へお越しくださる

よう懇願しました。善俊上人は仏の教えが

行きわたっていない白川郷の様子を聞き、その

願いを受けて白川郷へやってきました。浄正の

住んでいる海塩村に庵をかまえ、その庵は聖

殿と呼ばれ、その地の道場となりました。

 

時は過ぎ、一五八九年、照蓮寺が金森長

近によって高山城下へ移った際に、聖殿の道場

を預かってきた浄正の第十世・道智も呼び寄

せられ、金森氏より岡本にある太子堂跡地を

与えられ、ここへ移りました(現在の願生寺)。

 

聖殿の跡地は、現在は御母衣ダムの底にあ

りますが、そこに立っていた聖殿遺跡碑は願

生寺の境内に移されています。

飛騨の真宗

伝承散歩⑱聖殿遺跡碑しょう でん

高山市岡本町 鎌倉幕府が開かれたころ、下総国(千葉

県)守護に任ぜられ、幕府の家臣の重鎮と

なった千ち

葉ば

常つね

胤たね

という武士がいました。そ

の孫である千葉小次郎成正は、激しい動乱

に世の無常を感じ、武士としての立身出世

を諦め、道を求めて諸国巡歴の旅に出まし

た。白川郷海か

塩えん

村むら

(荘川町海か

いじょう上)において

成正は病に倒れてしまい、しばらくそこに

留まりましたが、結婚もし、そのままそこ

に定住することにしました。

 

白川郷の地は貧しく、成正は焼畑の耕作や

養よう

蚕さん

の技術を伝え、村人の生活は開かれてい

きました。また、成正も村の人々から厚い信

頼を得ていました。

 

その頃、奥美濃の白鳥(郡上市)に嘉か

念ねん

坊ぼう

善ぜんしゅん俊

上しょうにん人

という僧がいると聞き、早速白

鳥へ赴き、念仏の教えを聞きました。その

教えに深い感銘を受けた成正は善俊上人の

弟子となり、浄正と名のりました。

 

浄正は「この教えを飛騨の人にも聞かせた

ハンセン病とは ハンセン病とは「らい菌」に感染することで起こる病気で、かつては「らい病」と呼ばれていました。発症すると手足などの末梢神経が麻痺したり、皮膚にさまざまな変化が起こったりします。早期に適切な治療を行わないと、手足などの末梢神経に障害が起き、汗が出なくなったり、痛い、熱い、冷たいといった感覚がなくなったりすることがあります。また、体の一部が変形するといった後遺症が残ることもあります。現在では有効な薬が開発され、完全に治る病気となっています。

隔離の歴史 1907 年、ハンセン病を患った人を療養所へ隔離する「癩らい予

防ニ関スル件」が制定されました。1931 年には「癩予防法」と名前を変え、すべての患者を強制的に収容し、療養所から一生出られなくする「ハンセン病絶滅政策」が行われました。各地に療養所が建設され、各県では「無らい県運動」という名のもとに、患者を見つけ出し療養所に送り込みました。そして市民もまた運動に参加し、隔離を推進していきました。療養所では偽名を名乗ることが強いられ、また、「断種・堕胎」が強制されました。そして戦後の 1953 年には、さらに隔離の強制力の強い「らい予防法」として生まれ変わりました。

ハンセン病問題の現状と課題 1996 年、「らい予防法」が廃止されました。その時から20 年の月日が流れ「ハンセン病国賠訴訟」の勝訴、「ハンセン病問題基本法」の制定など公の解放はすすみました。しかし入所者の減少による医師や看護師の不足や統廃合の不安、入所者自治体の高齢による弱体化など課題を残しています。また、人々の心に植え付けられた偏見や差別により、現在も多くの人が故郷に帰れず、肉親との再会を果たせないでいます。そして療養所を退所した人や家族、遺族にも、いまだに大きな不安を与えています。ハンセン病問題を過去のこととせず、一人ひとりがこの問題に向き合うことが求められています。

ハンセン病問題とは何か

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初逮夜

音楽法要講師 相馬 豊 氏

しょ たい や

そう ま ゆたか

(月)2日

午後1時

午後1時

午後1時

午前

10時

午後

2時午後

7時

午後

6 時

午前

10 時

おおたいや

まんにっちゅう

31日(土)

10月

日1(日)

11月

親鸞聖人の教えにこの私が出遇うための法要

3日(火)

-戦後70年を迎えて-

1980 年、神田山陽門下生となり、二ツ目昇進以降、ジャズ講談や一人芝居の要素を取り入れた独自の講談を次々と発表、講談の新境地を切り開いている。1986 年、「講談はだしのゲン」公演で日本雑学大賞受賞。ノーベル賞作家アレクシエービッチ氏著『チェルノブイリの祈り』を公演。

子ども報恩講

子ども作品展

お気軽にご参加くださいお気軽にご参加ください日時 11月 7 日(土) 午前10時~午後3時頃

期間 10月24日(土)~11月7 日(土)

会場 高山別院 本堂

※昼食はこちらで用意いたします。内 容 おつとめ、作品展表彰式、    かみしばい、おはなし、    遊びの広場など持ち物 お念珠、お勤めの本参加費 無料

高山教区・高山別院宗祖親鸞聖人御遠忌法要・別院本堂御修復

決意集会ご案内

高山教区・高山別院宗祖親鸞聖人御遠忌法要・別院本堂御修復

決意集会ご案内現在、高山教区・高山別院では御遠忌・御修復に向けての検討が進められていますがその概要が固まりつつあり、別院報恩講を場としてその決意を共にいたしたく、下記のとおり決意集会を行います。満日中の御参詣とともに、是非ともご参加くださいますようお願いいたします。

日時 11月3日(火) 満日中法話終了後日時 11月11日(水)

   午後1時から

会場 高山別院 本堂

講師 出雲路善公輪番

午後12時よりお斎があ

 ります。(1,000円)

 【11月】

13日(金)了泉寺﹇鉄砲町﹈

15日(日)淨願寺﹇丹生川町﹈

ご坊報恩講のつどい

講談師 神田香織氏 講談師 神田香織 氏「はだしのゲン」 「はだしのゲン」「はだしのゲン」「はだしのゲン」-戦後70年を迎えて-

報徳会再建永代経

ほう とく え

さい こん えい たい きょう

帰敬式(9時)き きょうしき

第34回別院真宗公開講座

終了後御遠忌・御修復決意集会

講師 相馬 豊 氏

御伝鈔拝読ご でんしょう

10月31日(土)

同朋唱和

日 中にっ ちゅう

全飛門徒物故者追弔会

ぜん ぴ もん と

つい ちょう え

ご坊報恩講のつどい

中沢啓治氏原作の「はだしのゲン」。広島に投下された原爆被害をもとに書かれた実体験の物語。

11月2日・3日には別院報恩講参拝のためバスを運行します。乗車場所・時間等のお問い合わせ、お申し込みはお手次のお寺へお願いします。

 【2日】白川村、荘川町、久々野町、一之宮町、    丹生川町、下呂市、国府町、飛騨市 【3日】朝日町、高根町、清見町、山田町、    下林町 

 期 日 11月2日(月)・3日(火)昼 お斎料 1,500円 

 期 日 11月1日(日)~3日(火) 

 期 日 11月1日(日)~3日(火) 

 日 時 11月1日(日)     午前11時~午後3時 主 催 表千家 二木社中 

 期 日  10月24日(土)午前9時~午後5時  10月25日(日)午前9時~午後4時

 日 時 11月4日(水)午前7時~

 この夏に開催された戦後70年企画「非戦平和展」での展示に引き続き、以下の期間、「原爆の図」(丸木位里・俊作)を本堂にて展示します。◆第一部「幽霊」(原寸大) 展示期間 10月31日(土)~11月8日(日) ※見学無料

会場 旧湯屋小学校体育館    下呂市小坂町湯屋46番地   午後2時~

第一部

会場 高山別院本堂   午後7時~

第二部

入場料 大人1,000円(高校生以下無料)

【両会場とも】

講談

ご回壇案内

ご回壇案内

ご回壇案内

大谷婦人会

高山支部報恩講

大谷婦人会

高山支部報恩講

大谷婦人会

高山支部報恩講

フリーマーケットフリーマーケットフリーマーケット

ご坊名物大根汁(無料)ご坊名物大根汁(無料)ご坊名物大根汁(無料)

参拝送迎バス参拝送迎バス参拝送迎バス

お 斎お 斎お 斎 庫裡ホール

玉翠会書道展玉翠会書道展玉翠会書道展 庫裡ホール

「原爆の図」展示「原爆の図」展示「原爆の図」展示 本堂

お浚えお浚えお浚えさらさらさら

報恩講翌日のお朝事です。ぜひお参りください。

抹茶接待(無料)抹茶接待(無料)抹茶接待(無料)庫裡御殿

No.315 (2)ひ   だ   ご   坊仏暦2558(2015)年 

定例法座・法話(午後1時から) ○10月21日(水)…宮川德義氏[

聖圓寺] 

○10月27日(火)…出雲路善公輪番 

○10月28日(水)…谷口昭久氏[誓願寺] 

○11月11日(水)…出雲路善公輪番 

○11月13日(金)…前田雅敬氏[長林寺]

「ひだご坊」ホームページ http://www.buddhist-of-hida.jp/ 記事についてのお問い合わせは高山教務所まで ☎(0577)32-0776