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― ― 研究論集委員会 受付日 20179 22承認日 20171030― ― 教養デザイン研究論集 132018. 2 黄遵憲の「言文合一」言語観試論 来日前後を中心にThe Discussion on ``yan -wen-he-yi'', the perspective linguistic viewpoints of Huang Zunxian Focusing on the period before visiting Japan and afterwards 博士後期課程 教養デザイン専攻 2017年度入学 QIAN Haiying 【論文要旨】 1856年から1860年にわたるアロー戦争での敗北を機に,清朝は,イギリスとフランスより,外 務省に当たる官庁を設立するよう求められた。そして,翌年の1861年に総理各国事務衙門が設立 された。それと同時に,1860年代前半から1890年代前半にかけて洋務運動が展開されていった。 その間,1871年「日清修好条規」の締結に伴い,清と日本の正式な外交関係が築かれた。1874年, 北京に日本公使館が設立され,続いて,1877年には,日本に中国公使館が設立された。 本稿は,以上の時代背景の中,1877年に,清朝政府が派遣した初代駐日公使団随員であった黄 遵憲の言語観を中心に論じてみたい。黄は,参賛官として来日した。彼が1877年から1882年にか けての日本滞在中に著した大著『日本国志』の中には,「言文合一」の言語理論が見られる。筆者 は,『日本国志』の「文学篇」というテキストを分析した上で,黄の「言文合一」言語観の特徴や 変遷などを明らかにした。黄は,中国を近代化させるため,日本語の近代化の成果を中国語に移植 することが可能であるかどうかを模索していた。来日以前と以後で黄の言語思想に,いかなる変化 が起きたのかを論文では特に注目した。 【キーワード】 黄遵憲,日本国志,言文合一,移植,文字改革

黄遵憲の「言文合一」言語観試論 - Meiji Repository: …...― ― 研究論集委員会 受付日 2017年9 月22日 承認日 2017年10月30日 教養デザイン研究論集

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研究論集委員会 受付日 2017年 9 月22日 承認日 2017年10月30日

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教養デザイン研究論集

第13号 2018. 2

黄遵憲の「言文合一」言語観試論

―来日前後を中心に―

The Discussion on ``yan -wen-he-yi'', the perspective linguistic

viewpoints of Huang Zunxian

Focusing on the period before visiting Japan and afterwards

博士後期課程 教養デザイン専攻 2017年度入学

銭   海 英

QIAN Haiying

【論文要旨】

1856年から1860年にわたるアロー戦争での敗北を機に,清朝は,イギリスとフランスより,外

務省に当たる官庁を設立するよう求められた。そして,翌年の1861年に総理各国事務衙門が設立

された。それと同時に,1860年代前半から1890年代前半にかけて洋務運動が展開されていった。

その間,1871年「日清修好条規」の締結に伴い,清と日本の正式な外交関係が築かれた。1874年,

北京に日本公使館が設立され,続いて,1877年には,日本に中国公使館が設立された。

本稿は,以上の時代背景の中,1877年に,清朝政府が派遣した初代駐日公使団随員であった黄

遵憲の言語観を中心に論じてみたい。黄は,参賛官として来日した。彼が1877年から1882年にか

けての日本滞在中に著した大著『日本国志』の中には,「言文合一」の言語理論が見られる。筆者

は,『日本国志』の「文学篇」というテキストを分析した上で,黄の「言文合一」言語観の特徴や

変遷などを明らかにした。黄は,中国を近代化させるため,日本語の近代化の成果を中国語に移植

することが可能であるかどうかを模索していた。来日以前と以後で黄の言語思想に,いかなる変化

が起きたのかを論文では特に注目した。

【キーワード】 黄遵憲,日本国志,言文合一,移植,文字改革

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はじめに

黄こう

遵じゅん

憲けん

の「言文合一」の言語観に関する従来の研究では,黄が1877年から1882年にかけて行っ

た日本での視察の経験を著わした『日本国志・巻三十三・学術志二・文学』にある「語言与文字

離,則通文者少語言与文字合,則通文者多」(言語と文字が乖離すると,文章を読解できるもの

は少ない。言語と文字が一致すれば,文章を読解するものは増える)といった記述が注目されてき

た。この記述には,確かに「言文合一」の意識が見られる。厳家炎は,この黄の記述を「中国白話

文学の起点と位置づけられ,近代の開始点を早めた(現代性提前)」と評価する。この厳の評価

は肯定できる。しかし,従来の研究では,黄の「言文合一」の言語観は『日本国志』だけで評価さ

れている。このことはつまり,日本への視察だけで,評価に値する洞察を黄が獲得したことを意味

する。また,先行研究では,明治初期の日本における言語状況に関する史料の分析が不十分であ

る。明治初期の日本の言語実態が考察されていないと,議論が不毛になる恐れがある。

本稿では,まず黄がどのような文脈の下に「言文合一」の言語観を打ち出したかを考察する。次

に,テキスト分析から黄の言語観の変遷を彼の日本経験と関連づけて考察したい。主に二つの点に

重点を置く。第一に,来日以前の黄の「雑感(其二)」という詩にある「我 手 写 吾 口わがてもてわがくちをうつさん

」(話すよ

うに書く)という名句に注目し,その句を黄「言文合一」思想の出発点と見なすことである。第二

に,黄の最初の海外(日本)視察経験による「言文合一」の言語観を捉えることである。最後に,

以上の 2 点を踏まえて,黄の言語思想の変遷や特徴を分析する。

第一章 清末の外交官としての黄遵憲

第節 黄遵憲という人物

黄遵憲は字を公度といい,広東省嘉応州(1914年に梅県と改名,現在は梅州市)の客家の出身

である。黄は清末のアヘン戦争で「南京条約」が締結された 6 年後の1848年に生まれ,清政府が

滅亡し,中華民国が成立する 7 年前の1905年に58歳で死去した。黄の生涯においては,太平天国

の乱,アロー戦争,清仏戦争,日清戦争,戊戌政変,義和団事変(北清事変)など,他国との戦争

や内乱が相次いで発生している。黄はこのような国家民族が多難な時代を体験したのである。故に

黄は生涯にわたって憂国の情と愛国の志を抱き,このことは彼の言論,行動や著作などに強く反映

している。例えば,『日本国志』,『日本雑事詩』,『人境廬詩草』の創作や13年間の外交官としての

生涯から,その影響は窺える。

黄の家族は高祖父の代から質屋を営む豊かな大家族であった。曾祖父や祖父は読書人として知ら

れている。地方の有名人である。父黄鴻藻(1829~91)は,黄が 9 歳の時に挙人の資格を得,戸

部の役人として北京で仕官した。長男として生まれた黄には一族の期待が寄せられていた。楊天石

によると,その期待にもかかわらず,黄自身にとって,科挙の経験は苦い思い出に満ちていたとい

う。1867年の春,黄は20歳で生員の資格を得て,同年秋,広州に行って郷試を受けたが及第しな

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かった。三年後の1870年にも郷試に失敗した。その翌年の歳試で第一位となり,1873年には抜貢

生の資格を得たが,同年に受験した三度目の郷試にも再び落ちた。翌1874年には北京に赴いて廷

試も受けたが,これにも及第できなかった。落第が続いたことも,後の反権威的な性格の形成に関

連していると推測される。

1876年(明治 9)9 月30日,日本からの要請,洋務派官僚李鴻章の進言,および当時の在日華僑

からの要望により,清政府は初代の出使日本国欽差大臣に許 身を任命した。ところが,許は日

本に赴任しなかった。その理由は,佐藤保が『清光緒朝日中交渉資料』収載史料を踏まえて述べた

ように,「使日大臣の下命を受けた数ヶ月後,急に福建船政局への転任が決まったため」である。

そのため,1877年 1 月15日許の副使として来日の予定であった何如璋かじょしょう

が許に代わって正使に昇格

し,副使には新たに張斯桂ちょうしけい

が任命された。何如璋の推挙により,黄遵憲が参賛さんさん

官として加わること

になった。この時,黄は29歳,何如璋は39歳,張斯桂は60歳であった。

黄に関する権威ある研究者の銭仲聯は,自ら著した『黄公度先生年譜』に引いた『日本新政考』

(清・顧厚焜撰)の記述を根拠に,黄は「参賛五品銜揀選知県」の資格で,何如璋と張斯桂につぐ

第三の地位で来日したと述べている。黄が就いた参賛官の職務は,『清史稿』職官志六によれば,

「使臣は国際交渉を掌り,参賛は之を補佐する」と,簡略に規定されている。つまり,出使大臣を

補佐して外交の実務を処理することが参賛官の職務であった。参賛官は,英語の「counselor」を

訳したもので,日本の参事官に相当する官職である。佐藤は「日本の文献ではしばしば書記官と説

明されているが,『清史稿』の同じ書記官(secretary)も列記されているので,訳語としては参事

官とするのが妥当」と指摘している。

何如璋はなぜ黄を選んだのか。銭仲聯によれば,大埔県出身の何如璋と隣接の嘉応州出身の黄と

は同郷の関係にあった。また,何如璋は黄の父黄 藻の友人であった。そして,黄が「時世」に

関心を寄せていたことは黄の初期の詩作から理解できる。黄の「時世」に関する見識に関心を持っ

た何如璋は,後に使日大臣を拝命した際に黄を頼りになる人物として選んだのである。

一方,黄は当時(1876年 8 月)ちょうど順天府(北京)の郷試に合格して挙人になったばかり

であった。ただし,黄はそれまで必ずしもスムーズに科挙に合格していなかったため,自らの出世

は難しいと考えており,兼ねて「時世」に関心を持っていたこともあり,何如璋からの日本行きの

話を絶好の機会と捉えて,何如璋に随行することを引き受けた。黄のこの決意を親戚,旧師何廷謙

は非常に残念に思った。なぜなら,蒲地典子が指摘するように,「黄遵憲が進士の位をえて翰林院

に入り,高位高官に登ること」を何廷謙は望んでいたからである。当時,「国外のポストは遠流お ん る

に等しく,国外に出ることは官僚として自殺行為である」と考えられた。にもかかわらず,黄は

外交官としての経歴を選んだ。その理由のひとつには,科挙制度に対する失望があった。科挙試験

の内容だけではなく,科挙出身者の就職難が深刻な社会問題となっていたことも失望を深めた。し

かし,最も重要な理由は,黄の愛国心である。それは,黄が1877年当時の清朝政府においては外

国へ出使する随員の身分が制度的に規定されていなかったにもかかわらず,何如璋に随行すること

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を引き受けたことからうかがえるであろう。

第節 黄遵憲の来日と外交官としての経歴

1877年(明治10)11月26日,何如璋を始めとする40名の一行は,上海で日本へ向かう海安号に

乗船した。上海を出た海安号は11月30日に長崎に到着した。その後,平戸,下関,松山の三津

浜,小豆島を経て,12月 7 日には神戸に着き,神戸から加太瀬戸,大島,城ヶ島を経由して12月

16日に横浜港に入港した。何如璋は『使東述略』一巻の中で,その行跡を詳しく記録するととも

に,途中で立ち寄ったそれぞれの土地での見聞や印象を細かく書き留めている。また,清国公使

たちの東京着任は,1877年12月 9 日の『読売新聞』に報じられている。

参賛官としての黄は,横浜入港直後から事務の処理に忙しくなった。例えば,『使東述略』の記

述によると,黄は当時,横浜・東京間の往復が不便であったため,東京公館として適当な家を探

し,貸借契約を結んだ。それは,現在の港区芝公園の中労委会館の場所にあった。

当時清国外交官が日本に出使した目的の中で,まず解決しなければならなかった問題は,在日清

国人の権益を保護することであった。次に,琉球帰属に関する問題である。もとより,日清間には

それ以外にも多くの問題があったに違いないが,黄たちにとってはこれらの問題の処理だけでも決

して容易なことではなかった。黄の職務は,前述のごとく,何如璋の外交交渉を補佐することであ

った。平凡社版『大河内文書』の大河内輝声と沈文との筆談によると,黄は公文書の起草を担当

していたようである。また,佐藤保は「日本政府への照会文書や抗議書,また本国への報告・提議

等,今『日本外交文書』や『清光緒朝中日交渉史料』などに収載されている文書の多くは,黄遵憲

によって書かれたもの」と述べている。黄は公文書に関する事務全般の責任者だった可能性が高

い。一方,黄は来日して間もなく『日本国志』の執筆に取りかかった。『日本国志』に関する執筆

の動機や内容などについては,第二章で詳述する。

以上,黄の来日までの略歴や来日の経緯,職務などを述べてきた。次に,黄の人生の中で最も大

事な時期である外交官時代(1877~94)の経歴を紹介する。

上述のごとく,1877年,黄は29歳の時に中国最初の駐日公使となった何如璋の参賛官として外

交官の人生を始めた。駐日参賛を 4 年余り担当した後,黄は駐サンフランシスコ総領事を 3 年

半,駐英参賛官を 2 年,駐シンガポール総領事を 3 年,それぞれ歴任し,外交官として合計13年

間勤務した。

黄は日本で勤務した後,1882年に駐サンフランシスコ総領事に任命された。Jerry Schmidt の最

新の研究(2015)によれば,サンフランシスコ総領事としての主たる職務は,1882年 5 月 8 日に,

アメリカで制定された「中国人排斥法」への対応である。同法により,中国人労働者の移住が禁じ

られた。黄はこの「中国人排斥法」が成立する直前の1882年 3 月26日にサンフランシスコに着き,

総領事に就任した。そして黄は,中国人労働者を守るため,赴任直後から 3 年をかけてカリフォ

ルニア州とアメリカ西北部,ポートタウンセンド(Port Townsend)などを奔走していた。黄は当

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時のチェスター・A・アーサー(1830~86)政権と交渉し,「中国人排斥法」への反対を訴えた。

3 年半勤務した後,1885年に帰国して自費で『日本雑事詩』を出版した。翌1886年,黄は張之洞

(1839~1909)から南洋群島の視察,新任駐米公使張蔭恒からはサンフランシスコ総領事の再任を

要請されたが,『日本国志』を書き続けるため,いずれも固辞した。黄が執筆に傾注した『日本国

志』は1887年の夏に完成している。

その後,1890年になり,駐英公使薛福成の参賛としてロンドンに赴任した。ロンドンに赴任す

る前に,『日本国志』を羊城(広州)の富文斎から刊行した。ロンドン勤務の 2 年目の1891年,父

が死去したため,1892年,新設のシンガポール総領事に任命された。3 年勤務した後,1894年に

日清戦争が勃発すると,張之洞に要請されて帰国した。その帰国後に,外交官生活を辞め,国内官

僚として政治活動に専念したのである。

以上より,黄は日清戦争前の時期で最も日本の国情を洞察し理解している官吏であるのみなら

ず,西洋の事情にも詳しい有能な外交官であったと推測できるであろう。

第二章 「言文合一」の出発点

第節 「我手写吾口」の言語思想

1867年(同治六年),黄遵憲は広東省の郷試(科挙試験)を受験したが及第しなかった。翌1868

年(同治七年)に,黄は「雑感」というタイトルの五首の詩を作った。その二首目の全文と読みは,

以下の通りである。

「雑感(其二)」 「雑感 五首のうちの一首」

大塊鑿混沌 大たい

塊かい

混こん

沌とん

より鑿うが

たれ

渾渾旋大圜 渾こん

渾こん

として大だい

圜えん

旋めぐ

隸首不能算 隷れい

首しゅ

も算さん

する能あた

わず

知有幾万年 幾いく

万まん

年ねん

有るを知らんや

羲軒造書契 羲ぎ

軒けん

書しょ

契けい

を造り

今始歳五千 今始めて 歳とし

五ご

千せん

以我視後人 我わ

れを以も

って後こう

人じん

に視くら

ぶれば

若居三代先 三代の先に居るが若ごと

俗儒好尊古 俗ぞく

儒じゅ

古いにしえ

を尊とう

とぶを好この

みて

日日故紙研 日日に故ふる

き紙を研と

六経字所無 六りく

経けい

に字じ

の無き所は

不敢入詩篇 敢えて詩篇に入い

らず

古人棄糟粕 古人 糟そう

粕はく

として棄す

つるに

見之口流涎 之こ

れを見て口に涎よだれ

を流す

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沿習甘剽盜 沿えん

習しゅう

して剽ひょう

盗とう

に甘あま

んじ

妄造叢罪愆 妄みだ

りに造りて罪ざい

愆けん

叢おお

t土同搏人 黄こう

土ど

もて同じく人を搏つく

りしに

古今何愚賢 今と古と 何ぞ 愚と賢なる

即今忽已古 即そく

今こん

も忽たち

まち已すで

に古なり

断自何代前 断だん

ずること何の代の前よりする

明窓敞流離 明めい

窓そう

に流る

離り

敞あき

らかに

高炉 香煙 高炉に香煙を や

 く

左陳端溪硯 左に陳つら

ぬるは端たん

渓けい

の硯すずり

右列薛濤箋 右に列なら

ぶるは薛せつ

濤とう

の箋せん

我手写吾口 我わ

が手て

もて吾わ

が口くち

を写うつ

さば

古豈能拘牽 古いにしえ

も豈あ

に能よ

く拘こう

牽けん

せんや

即今流俗語 即そく

今こん

の流りゅう

俗ぞく

の語もて

我若登簡編 我わ

れ若も

し簡かん

編ぺん

に登のぼ

せば

五千年後人 五千年の後のち

の人

驚為古 斑 驚おど

ろきて古こ

 らん

 斑ぱん

と為な

さん

(出典島田久美子注『黄遵憲』「中国詩人選集二集」第15巻,岩波書店,1963年)

楊天石は,黄がこの詩を書いた動機に関連して,「郷試の失敗により,黄は自己の能力に対する

懐疑から始まり,遂には科挙制度に対する猛烈な批判に至る。科挙制度がまるで錠前のように,創

作の自由を奪ったと考えるのである。もはや科挙制度により選抜された人材は時代遅れの学者(知

識人)であり,世の中の変化に対応できないことは改めて言うまでもない」と指摘している。

筆者は,この詩の25行目にある「我手写吾口」が黄遵憲の言語思想を典型的に表していると考

える。ここでの「吾口」は音声言語を,「我手」は文字言語を指しており,文字によって音声言語

をそのまま書くべきという黄の主張が窺える。すなわち,音声を現在自分たちが使っている文字に

して文章を書くべきだと述べているのである。

ところが,この詩は,黄自身が主張しているような口語体ではなく,文語体で書かれている。こ

のようなパラドックスは,当時,科挙制度を乗り越え,立身出世しようとした黄が,文語文(八股

文)に習熟していて「口語体で書こう」という思想をいまだ実践できなかったからである。あくま

でも,黄は当時,「尊古賎今」(古を尊し,今を軽する)という状況に抗するために,この詩を作っ

た。その意図は「尊古賎今」に反対し,「我手写吾口」の原則により「俗語方言」で詩を創作すべ

きだということにある。荘光茂樹は「これは革新的『新詩派』の先端を開いた」と評価している。

さらに,「我が手で我が口の話したい事を書く」という黄の主張について,胡適は『五十年来中国

之文学』において,これは黄の「詩界革命」に対する宣言であると指摘し,「口語文詩」創作の論

哉 萩

嬢 瑠

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拠として引用したことがある。以上から,黄の「言文合一」の追求の出発点が「我手写吾口」にあ

ったと理解できるのである。

第節 詩の内容に関する解析

島田久美子の訳注を参照しながら,先に引用した詩の内容を現代日本語で説明すると,以下のよ

うになる。

大いなる混沌無秩序な世界に大地は穿たれ,遥かな高さに天はめぐっている。黄帝時代の臣であ

る隷首でさえも,天地が形成された歴史の長さを計算できない。おそらく何万年も経ったのであ

ろう。古の帝王である伏義氏,軒轅(黄帝)が文字を造って以来,現在に至るまで五千年の歴史が

ある。今の自分たちを後の人間が見ることは,今の自分が,過去の夏,殷,周三代を見ることと同

様である。時間の経過を見るに,今生きているこの時代もいずれは古代となるだろう。なぜなら

ば,私たちは進み行く時の軌道上に生きているからである。ところが,文人たちは古い書籍の研究

に執心してしまう。そして古典に縛られ,『詩』・『書』・『礼』・『楽』・『易』・『春秋』という六りく

経けい

出典を求め得ない言葉は,詩の中に使えないとする。古いにしえ

から残されたものに関しては糟粕だとして

も尊重し,羨望の涎を垂らす。当代の文学活動はマンネリズムに陥っている。文学,特に詩は古か

らの形式に固執し,先人の詩句の書き写しに終わり,創造性がない。むやみに作り出そうとする

と,なおさら罪を増してしまう。しかし,女じょ

 か

 が黄土をこねて人を作ったように,元を糾せば人間

は物質的には同じ存在なのである。古今の人を単純に賢と愚とには分けられないだろう。今の時代

もいつか古代になる。そうすると,前代と現代を区別する意味は何であろうか。私たちにとっての

前代とはいつから始まるのか。キラキラと光りが窓ガラスを透き通り,家の中では香炉に香りのよ

い烟をたき,左に端州(広東省東南部にある高要県)に産する端渓の上等の硯を置き,右に薛濤の

箋(紙)を並べる。つまり,今は古にも勝っている。私のこの手で,私の話し言葉のままを文字

に写せば良いのだ。古の用例がどうのこうのと,私を束縛できるものか。今の時代に生きる言語を

文章(詩歌)に書き込めば,五千年以降の人々がその文章を読めば,それは自然に彼らにとっての

古代の文章であり,古ぶりの素晴らしさと驚かれるのではないか。

第節 言語思想の解読

以上は黄遵憲が21歳の頃書いた「雑感(其二)」という詩の内容である。彼は,古人の束縛から

敢えて抜け出すべきであると述べた。だが,黄は古人から見習うことに反対するわけではない。今

の時代と周囲の状況を見極めることから詩の源流を探求すべきだと主張した。生き生きとした現実

こそが詩の内容を豊かにするのであり,その描写こそが近代詩へと発展することであると主張し

た。後の譚嗣同,夏曽佑らは西洋思想の新用語を導入した「詩界革命」を唱えた。早くから「尊古

賎今」を批判した黄の主張には先見の明があった。

いかにして彼は権威主義に反発する個性的な教養を形成したのか。蒲地典子の研究によれば,

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それには黄の教育環境が関わっている。黄が 3 歳の時,曽祖母李氏が千家詩を口授して暗誦させ,

4 歳の時家塾に入学させて塾師李学源(伯陶)に教育をゆだねた。そして,10歳の時には尋常では

ない詩才を発揮して塾師や近隣の人々を驚嘆させた。11歳の時,曽祖母李氏が没した。その前後

から嘉応州は太平天国の動乱の余波をうけて騒然となり,18歳の時,家業は決定的な打撃を被っ

た。晩年になって黄は,自分が16,7 歳のころになって初めて学問を学んだと語っているが,それ

は,恵まれた幼少期の環境ではなく,混沌とした世相と困難な条件の中で独学したことを指してい

るようである。「平生最不幸者,生於僻陋下邑,無師無友,  独行」という述懐もこの間の事情

を物語っている。康有為は1895年に初対面した黄遵憲の印象を「公度長身鶴立,傲倪自喜」と記

し,独学にもかかわらず博識であると感心して,「少而不覊,然好学若性,不假師友,自能博群書」

と記している。そして,黄が反権威主義的な人格であったことは,詩の16行目から20行目までに

ある「黄土同搏人,古今何愚賢,即今忽已古,断自何代前」に明確に表現されている。すでに述べ

たように,詩のこの部分は前代(古代)と現代の区別に黄が疑問を抱いていたことを示している。

要するに,古い文体も新しい文体も平等に扱うべきだと考えている。その意味で反権威主義的なの

である。

黄の言語思想は,この作品のみで十分に論じられるわけではないが,この作品を彼の言語思想の

出発点として捉えることができるだろう。この詩には黄の根本的な言語思想が現れている。すなわ

ち,話すように書くということである。黄が後に展開する「言文合一」という言語観の出発点がこ

こにある。当時の文学の復古主義に従って詩を書く際,その復古主義的な詩というものが自分の実

際に使う言葉とあまりにも異なるため,黄は復古主義的な書き方に不完全さを感じていた。まさし

く,古人に拘束されることなく,今ある自己の感情を率直に歌おうとした自立の精神がこの詩作

の中に十分に反映されているのである。

第三章 『日本国志』に見られる日本認識

黄遵憲の「言文合一」論を「文学篇」に即して分析するに先だって,まず『日本国志』という著

作の創作動機を明らかにしたい。

第節 『日本国志』の創作動機

『日本国志』は十二志,四十巻より成るが,黄遵憲がその後,自序で「詳今略古,詳近略遠」と

書いているように,日本に関する歴史や制度,法令を含めて様々な面に言及するが,重点が置かれ

ているのは,現在の明治維新前後である。すなわち,明治日本の新しい制度や法令などを詳しく記

している。この書作は1877年に定稿され,1890年に公刊された。その後,日清戦争の敗北によ

り,日本への注目が一気に高まり,『日本国志』は日本を知るための書著として漸く注目を集める

ようになったのである。中国人による最初の系統的な日本研究の著書と言われている。本論文では

光緒二十四年=明治三十一年(1898年)の浙江書局刊版を使用する。

踊跳

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黄の著述の中で最も精力が注がれ,最も評価された著作でもある『日本国志』は,黄が来日 2

年目の時に執筆が始められ,前後 8,9 年の年月を費やして論述した大作である。創作の動機につ

いて,黄は自序においておよそ次のように述べている。

私は駐日公使何如璋の参賛として来日したが,公使は公務多忙のために執筆する暇がなく,

随員が風俗習慣などの探求をしなければ,朝廷の期待にこたえることが出来ないと考えてい

た。私は来日後の二年間で日本文を習い,日本の書籍を読み,日本の役人や知識人と交遊し

て,『日本国志』を編著する志を抱き,朝夕編集して原稿を執筆した。

当時の黄は,来日二年目の秋に日本での見聞を『日本雑事詩』に書き記した。『日本国志』は膨

大な量の本格的な学術研究書として執筆したものである。『日本国志』は,当時の日本政府が公表

した布告官報文書,および図書典籍など200種類の文献資料を参考にして,「国統志」・「隣交志」

・「天文志」・「地理志」・「職官志」・「食貨志」・「兵志」・「刑法志」・「学術志」・「礼俗

志」・「物産志」・「工芸志」の12志から成る全50数万語もの大作である。歴史問題,文化思想方

面,西学東源説,経済問題,外交問題など様々な領域から,日中対等の立場で友好関係を発展すべ

しとする斬新な取り組みである。

なぜ黄は,このような著作の執筆を目指したのだろうか。その歴史的背景は,たとえば,郭嵩燾

(1818~91)の「致李伝相」の中に次のように記述されている。「1875年光緒元年に,清朝最初の

駐外使節(イギリス)として私(郭嵩燾)が西洋に初めて派遣される際に,月ごとに日記を一冊,

西洋事情の理解のために総理衙門に上呈することになった。私は万全を期してそれを行った。」

そして,張寿 (1902)の記述によれば,翌年,「1876年,総理衙門が出使章使十二条を制定した

際,東洋・西洋の出使大臣には付則で次のように指示した。交渉事件の詳細,各国の風俗,習慣,

人情などを詳細に記載し,随時報告すること。数年後,中国人が各国の事情に通じ,どのような事

態になろうとも,その時に把握できない事情を作らないためである」「以上の奏請が陛下の認可

を得た後に,各駐外公使へ文書で通達した。その通達に従うことが定例化していき,その後,各公

使は定期的に総理衙門まで日記を上呈するのみならず,随員一同に至るまで,関連する著作があれ

ば共に上呈することができるようになった。」ここから,黄の『日本国志』は,朝廷の総理衙門の

要求に従って執筆されたものだとも言える。つまり,黄は,当時の日本の歴史および政治・経済・

文化の現状を本国政府側に報告する目的のため,『日本国志』を編纂,企画し,資料を集めたので

ある。そこからは,本国政府側が出版してくれることを期待していたこともうかがわせる。

さらに,李長莉は,以下のように述べている。黄遵憲が日本に来た後,詩歌という形式をもって

明治期日本の政治状況や民俗風景などを記述した『日本雑事詩』を総署に上呈したことがある。こ

うした制度があるからこそ,黄は自らにかかる責務を深く実感したのである。それは,後に『日本

国志』を編纂するに至る主要な動機となった。ここで留意すべきは,『日本国志』の内容に反映

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されているように,清朝はこの時期「中体西用」のスローガンの下,洋務運動を展開していたこと

である。ヨーロッパ近代文明の科学技術を導入して,清朝の国力増強を目指した運動である。言い

換えれば,洋務運動は,「西用」=科学技術の導入によって,「中体」を守護し,清王朝の護持を目

指したのである。黄が明治期の日本を視察した際の動機も,洋務派に重なるものであったと言える

だろう。そして,『日本国志』は,日清戦争以前に,日本の国情を知るための最も主要な文献資料

であり,近代中国の政治,経済,文化,社会制度を構想するためにも多くの参考資料を提供してい

たのである。

第節 問題としての「中体西用」

中国の近代化を検討する際には,「保守洋務変法革命」という段階論的変化に則った見方が一

般的である。ところが,中国近代思想史研究の溝口雄三は,このような段階論的な変化で最も大き

な変化は洋務運動であり,「それまで絶対的存在としてきた中華の世界を相対的なものとして自己

認識し,それを外からの注入物によって補強し,中華の自存を図るという『数千年未だ有らざる』

の運動自体として特筆されるべきことであった」と述べている。これは,大変斬新な見解のよう

に思われる。

さらに,溝口は「洋務運動とは,中華文明世界がヨーロッパ文明世界との対決を迫られ,自己の

世界の敗北の危機意識から,異文明を摂取しつつそれによって自己の世界の再生と保存を図ろうと

した運動で,内容的にそれは民族や王朝・国家・国民の危機として自覚されたため,軍事技術の導

入,機械工業の振興,教育制度の改革などから始まって政治体制の変革にまで及んだ,『未み

曾ぞ

有う

の運動であり,それは,政治,経済,社会,文化すべてにわたった広くて深い運動であった」と

指摘する。このような洋務運動に対する理解に基づけば,黄の『日本国志』の内容や著作動機が,

当時の洋務派の政治,経済,社会,文化の全ての文明レベルにおける視点と合致していることは明

確である。すなわち,黄の態度は,基本的には洋務派の立場に立っていることを示している。ただ

し,西洋の近代化の影響は制度に止まり,文学にまでは及んでいない。そして,黄の思想的基盤は

宇野木洋の研究によれば,「中体西用」論にあり,精神態度も「文明レベルの運動」としての洋

務運動という視覚から捉えられるだろう。

第節 黄遵憲の日本認識

『日本国志』に見られる黄遵憲の日本認識の基本は,まず日本の明治維新に対する認識の深刻さ

が様々な領域にわたっていることにある。

清初以来の日中関係と中国人の日本認識について回顧すると,1840年のアヘン戦争を契機とし

て,中国の知識人の中には目を世界に開いて外国の状況を調査研究する者が現れてきた。日本に関

する研究を挙げれば,徐継 (1795~1873)の『瀛寰志略』と魏源(1794~1857)の『海国図志』

がある。さらに,1871年の日清修好条規によって正式な外交関係が成立し,1877年には日本に中

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国公使館が設立された。黄は初代駐日公使の参賛(参事官)として日本に渡り,『日本国志』と

『日本雑事詩』を著した。とりわけ『日本国志』は「厚今薄古」の態度で,明治維新後の典章制度

に重点を置き,中国の改革のために参考を提供しようとする精神で書かれたものである。

『日本国志』を執筆する際,黄は日本を尊重し,両国平等の立場で執筆した。日中対等の立場で

友好関係を発展すべしとする斬新な取り組みは,王曉秋が指摘したように,「一個の外交官として,

彼は,日中両国が平等に相待し,友好的に相処し,各々が富強を求め,共に外国からの侵略と闘う

ことを主張した」ものであった。さらに,『日本国志』という書名について言えば,中国の従来の

史書では日本のことを「倭」または「倭国」と記載しているが,黄はあえて,「日本」という国名

を用いており,日本に対する画期的な態度が表れている。

黄が西学に対してどのように考えていたかについて,石原道博は「学術志一・西学」の中から

「維新以後,外交に専心し,使節団を派遣して欧米諸大国を巡覧させてその事物の美,学術の精を

目睹せしめ,益々西学を崇高するを以て意となせり」という部分を引用して,維新以降の日本が積

極的に洋学を取り入れ,文部省を設立,学制を制定したことに黄が注目したと述べている。さら

に,王曉秋の「黄遵憲『日本国志』初探」においても,同様にこの部分を取り上げて日本が洋学を

取り入れたことに黄が関心を示していると述べている。要するに,黄は日本を「和体西用」と見な

しているのである。

そして,黄は日中両国が東アジアにあり,「同文同種」であることも認識していた。これは日本

認識に関する第三の特徴点である。「同文同種」からくる親近感について,宇野木洋は「当時の日

本人の服飾から化粧品に至る風俗の中に,清朝支配以前の古代の習俗の継承を見出し,その源流を

中国古典の記述に典拠を求めて解説している」と指摘した。すなわち,日本に対する親近感は,

文化・伝統上の同一性に由来しているのである。

こうした認識は,中国伝統文化を原点にしながら日本を見直す姿勢といえるのではないか。明治

維新後の日本において,宇野木は,黄は「変わったものと変わらないものを区分し,変わらないも

のの起源を中国伝統文化に見出そうとしているのである」と述べた。すなわち,日本を媒介とし

て西洋近代を受け止めようとしているのである。こうした黄の姿勢は,極めて複雑かつ興味深いも

のと言わなければならない。

第四章 「言文合一」の基本的な輪郭

本章では『日本国志』の「学術志二・文学」をめぐって検討していく。実は,この「文学」とい

うタイトルの表記に関して,先行研究には二通りの考え方がある。日本の研究者(石原道博)は

「文学(字)」と表記し,中国の研究者(孫洛丹)は「文字」と表記する。本論文では敢えて「文学」

篇としたい。この問題が発生した要因は刊行時に発生したミスプリントにある。目次に「文字」と

記していたが,本文では「文学」としていたために異同が生じたのである。

筆者が参照した光緒二十四年(1898年)刊行の浙江書局刊版には目次と本文の異同が見られる。

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そもそも最初の刊本である光緒十六年(1890年)刊行の羊城(広州)富文斎刊版に,この異同が

すでに存在していた。また,光緒二十四年の上海図書集成印書局印の版も同様の異同がある。こう

した異同は印刷上のミスか,もしくは,黄の原稿上のミスかと推測されるが,当時の「文学」と

「文字」の用法には,実際には明白な区別のないことに注意しなければならない。また,当時の

「文学」と現在の「文学」の意味は同一ではない。現在の日中において使われている「文学」とい

う語は中国古代からのものではなく,明治日本に定着した「literature」の翻訳語としての「文学」

である。魯迅が「門外交談」に記したように,「文学的存在条件首先要会写字」(文学の存在条件

は,まず,字が書けなければならない),「用那  的文字写出来的古 摘要,我 先前也叫文,

 在新派一点的叫文学」(そういう困難な文字を使用して書き上げた古語の摘要を,我々は以前,

『文ウエン

』とも呼び,現在,いくらか新傾向の者は,『文ウエン

学シユエ

』と呼んでいる)。要するに,従来の「文

学」に対応する語は「文」となる。

そこで,中国における「文」という字の意味するところを考えてみたい。中国人が「文」につい

て言及する際,特に伝統的な儒学の主流である「文以載道」(文を以て道を載せる)の考え方を重

んじる傾向がある。「文」の意味は非常に複雑であり,古代の中国では広義と狭義の意味が存在す

る。広義にとらえる場合には,文化という概念と同様に,制度,典章,義理,礼楽,規則などが全

て「文」とされる。他方,狭義の解釈では文章となる。しかし,「文」という語の広義と狭義の内

容を切断することはできず,両者の間には結びつきがある。ある国家の法令制度や礼楽制度は,ま

ず文字によって表され,文書の形式で頒布される。要するに,「文」=「文学」は文字・文章の両方

の意味を指す。以上より,黄の本文に「文学」が使われるとしても,合理的なものと考える。その

ため,本稿では「文学篇」と略称する。以下の「文学篇」のテキスト分析は原文からの引用に基づ

き,句読点は2003年に天津人民出版社より出版された『黄遵憲全集』を参考にしている。

第節 「文学篇」における日本語の歴史叙述

「文学篇」は内容的に二つに分けられる。本節では,前半部にあたる日本語の文字の出現・発展

・現状・特徴などを詳述している部分を扱う。

「文学篇」の巻頭は「日本古時文字,或曰有,或曰無,紛如聚訟」(日本古代には,文字がある

か否かについて散々議論されてきた)と書かれている。周知のように,日本への漢字の伝播は「漢

籍東伝」という形で発生した。『古事記』と『日本書紀』の記載によれば,朝鮮人王仁が『論語』・

『千字文』を日本に持参したという。書写符号としての漢字は漢文という「肉身系統」を借りて日

本に進出した。平安(794~1185)・鎌倉(1185~1333)時代に書面語としての漢文は公権力の象

徴であり,後の江戸幕府は儒学を「官学」として位置づけた。ここで注意すべきなのは,黄が「自

通使隋唐,表奏章疏皆工文章,然語言,文字不相比附,故僅僅行於官府,而民間不便也。天武之

世,嘗造新字四十四卷,其体如梵書。蓋佛教盛行,其徒借梵語以伝国音,創為新体,然此書不伝,

蓋以不便於用而廃之也」(日本が隋唐に使節を派遣してから,様々な公文書は巧みな漢文で書かれ

ム淮 涌 釘

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るようになった。だが,言語と文字が不一致であるため,漢文は役所の中のみで使われていた。民

間には浸透していなかったのである。7 世紀後半(天武天皇)に,新文字四十四巻が創作された。

その形は梵字と類似している。当時,仏教は盛んに信仰されており,僧侶たちが梵語を用いて国音

を伝達しようと考え,新しい文字を創作したのである。だが,このような文字は普及しなかった。

使用の不便さのため,廃れてしまったのである。)と指摘するように,日本における漢文の存在は

隋唐以来,国の役所(官府)内での運用にとどまり,言語と文字の不一致性の問題が生じていたの

である。

以上のように,黄は日本の漢字導入の歴史を概括した。続いて,仮名の創出やその形態,また四

十七字の片仮名に対応する漢字などについて詳細に記述していく。「其後遣唐学生吉備朝臣真備始

作假名。名即字也。取字之偏傍以假其音,故謂之片假名,片之言偏也。」(後に遣唐学生である吉備

朝臣真備が初めて仮名を作った。名は字の意味である。字の偏と旁つくり

を用いて,漢字の元の発音を利

用する(仮か

りる)。そこで,片仮名と言われるのである。片は偏のことである。)

ここで留意すべきなのは黄が当時,四十七字片仮名を使っていることである。いわゆる,伊呂波

を指す。当然ながら,黄は当時『日本国志』を編纂する際,白紙の段階から書いたのではなく,東

アジア漢字文化圏における日本語の歴史に関する先行研究を引用し,編纂したのである。王宝平,

孫洛丹らの研究によれば,日本語の歴史に関する記述は主に村瀬之熙(1744~1819)の著作から

直接引用されている。そして,孫は黄が参考にした内容は『芸苑日渉』巻二「国音五十音図」の

巻頭にあたる部分であるとも指摘した。なぜ黄は「五十母字」を使わず,敢えて四十七字に置換

したのか。こうした置換はどのような意味を表しているのか。重複した表記が存在する「イエウ」

から見ると,数量上の誤りはなかった。黄の本文を見てみよう。

日本之語言其音少,(其土音只有四十七音,四十七音又不出支,微,歌,麻四韻,一切語言

從此而生),其辞繁。(音皆無義,必聯属三四音或五六音而後成義。既不同泰西字母,有由音得

義之法,又不如中国文字,有同音異義之法。僅此四十七音以統攝一切語言)

日本の言語には音声が少ない。(基本的な音声は四十七音しかない。しかも,この四十七音

は支,微,歌,麻の四つの韻部に属し,すべての言語がここから生まれる),語句は煩瑣であ

る。(音はそれ自体に意味はなく,必ず三,四音,あるいは,五,六音を組み合わせて意味を

形成することになる。ローマ字母が音から意を得るのとも異なり,漢字が同音異義を持つのと

も異なる。僅か四十七音の中にすべての言語が納められるのである)

以上より,黄が文字の数より音声の数を主眼としていることがうかがえる。だからこそ,村瀬之

熙の『芸苑日渉』の中に「音声中心」的な傾向を発見したのである。

この四十七字仮名について黄は「僧空海又就草書作平假名,即今之伊呂波是也,其字全本於草

書,以假其音,故 之平假名」(空海は草書を参考にして,平仮名を創作した。すなわち,現在の渭

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伊呂波である。文字はすべて草書に由来しており,元の漢字音を仮りた。そこで,平仮名と言われ

るのである)とも記述している。要するに,この四十七字のかなは伊 波歌を元とし,その学びや

すさが黄の日本語に対する印象に合致するのである。日本語の文字と音の関係から言って,村瀬之

熙が主張した「五十母字」には,事実上には,四十七の音しかないということを黄は理解していた。

第節 「言文合一」に関する文字改革の提言

本節では,黄が「外史氏」という立場から自らの論を展開している部分を解読する。

その冒頭は次のように書かれる。「文字者,語言之所従出也。雖然語言有隨地而異者焉,有隨時

而異者焉,而文字不能因時而增益,画地而施行。言有万変,而文止一種,則語言与文字離矣。」(文

字は言語から生み出されたものである。言語には地域による違いが存在するし,時の流れとともに

変化もする。それに対し,文字は時とともに増えるものでもないし,地域を限って用いられるもの

でもない。つまり,言語には様々な変化が生じるが,文字は一種類しかない。言語と文字は乖離せ

ざるをえないのである)。黄はまず言語と文字が乖離せざるをえないことを指摘する。しかし,中

国の乖離状況を指摘しているのか,あるいは日本の状況を指すのかについて,ここでは明記されて

いない。ただし,「余観天下万国,文字語言之不相合者,莫如日本。日本之為国,独立海中,其語

言北至於蝦夷,西至於隼人,僅囿於一隅之用。其国本無文字,強借言語不通之国之漢文而用之」

(私は,世界の各地の言語状況を見ると,文字と言語の乖離レベルに関して日本が最も甚だしいと

考える。日本という国は,海に囲まれ,大陸から離れている。その言語が,北の北海道から,そし

て西の九州までの限られた地域に使用されている。固有の文字はなく,あえて言語の異なる隣国の

漢文を用いている)といい,仮名については「蓋語言与文字離,則通文者少,語言与文字合,則通

文者多,其勢然也。然則日本之假名,有裨於東方文教者多矣,庸可廃乎」(言語と文字が乖離する

と,文章を読解できるものは少ない。言語と文字が一致すれば,文章を読解するものは増える。そ

れは当然の傾向である。だとすれば,日本の仮名は文化の発展に大きな役割を果たしているのであ

る。廃止すべきものではない)と述べていることから,日本の言語乖離状況を指していると推測で

きる。黄は,話し言葉に一致する仮名の出現が,識字率の向上をもたらしたことに注目する。留意

すべきことは,黄の「言文合一」という言語思想がそこに出現したことである。そして,その言語

観においては,文字に焦点が当てられている。それこそは,来日以前に執筆した「雑感(其二)」

の名句「我手写吾口」の中に示されてはいなかった内容である。さらに,最も重要なのは,来日以

前の言語思想はあくまでも知識階層にかかわっていたのに対し,日本を視察したことにより,言語

問題の対象は,一部の知識人から一般の民衆へと大きく転換したことである。

次に黄は,仮名という文字を賞賛し,日本に仮名という文字がなければ,識字者が希少となって

いただろうことを指摘する。

仮名之作,借漢字以通和訓,亦勢之不容已者也。昔者物茂卿輩倡為古学,自愧日本文字之

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陋,謂必去和訓而後能為漢文,必書華言而後能去和訓。〔中略〕然此為和人之習漢文者言,文

章之道,未嘗不可,苟使日本無仮名,則識字者無幾。

仮名が作られてからは,漢字を借りて日本風の訓読を用いるようになっていくのも,やむを

えないことである。かつて荻生徂徠は中国の古典を読み解く方法論として古文辞学を唱えると

ともに,仮名の平易さを恥ずかしく感じていた。彼は訓読をやめてこそ本物の漢文を書ける

し,中国語を習ってこそ訓読をやめることができると考えていた。〔中略〕ところがこれは,

漢文を習う日本人のために,唱えたものである。文章を学ぶ方法として,これが悪いとは言え

ないが,日本に仮名という文字がなければ,識字者はどれほどいたことだろう。

黄が日本語の仮名文字の効用を力説する意図は当時の中国の識字率の低さにあり,子供と婦人の

文盲は言うまでもなく,成人した男性のほとんどが文字を読解できなかったのである。黄は,自ら

の名前さえも書けない中国の民衆という客観的な事実を明治期の日本と対比しつつ,日本人が創作

した仮名文字(簡易文字)を高く評価していた。「文学篇」前半部でも,以下のように,日本の識

字に関する状況が記されている。

「数歳小児学語之後,能読仮字,即能看小 作家書,甚便也。」(数歳の子供さえ,話せるように

なった後にはすぐに仮名が読める。そして,仮名で書かれた小説なども読めるようになる。非常に

便利である)と述べている。日本の方言についても,伊呂波四十七字以外の字で表す用はなく,そ

して一字一音である。全国の方言がこの四十七字音に統轄される。

続いて黄は,「蓋語言,文字合而為一,絶無障碍,是以用之便而行之広也」(言語と文字が一致す

れば,障害はなくなり,スムーズにかつ広く流通していくのである)と述べ,日本語の仮名につい

て,言語と仮名文字が一致していたからこそ,文章を読解できる層が民衆の間に広がるに至ってい

ると指摘した。

つまり,黄の日本語観では,書写が便利で,学びやすい仮名が,当時の日本の識字率の高さと関

わっていると捉えられている。その意味で,筆者は,黄が後の中国文字改革問題に示唆を与えたと

考えている。黄の仮名文字に対する見解は突然現れたものではなく,決して彼だけが認識していた

ものでもない。当時の中国知識人は,「中国が時代に遅れる原因は,一般の庶民たちが知識を持て

ず・教育の未普及・識字率の低下に終ってしまう」点にあり,教育を普及する上で,先に文字を

改革しなければならないと認識していた。この洞察が,後の「白話文運動」および文字改革に理論

的・世論的なベースを打ち建てたのである。そして,黄が日本語に関する特徴として文字に焦点を

当てたことは,後の中国の文字改革に一つの方向性を提示するものであった。

さらに,黄は西洋にも目を向けている。西洋ではルネサンスが起こって以来,社会の諸方面にお

ける発展がスムーズに進んでいた。その重要な要因は言語と文字が一致していることにある。要す

るに,黄の「言語と文字が乖離すると,文章を読解できるものは少ない。言語と文字が一致すれ

ば,文章を読解するものは増える」という「言文合一」の言語観が,そこにも明確に示されている。

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「余聞羅馬古時,僅用拉丁語,各国以語言殊異,病其難用。自法国易以法音,英国易以英音,而英

法諸国文学始盛。」(私はこのように聞いている。古代ローマ帝国では,ラテン語の文字のみが使用

されていた。だが,各国の言語は異なり,ラテン語の文字は諸国の言語に対応していない。フラン

スとイギリスが,自らの言語に対応する文字を利用するようになった結果,フランスとイギリスの

文学が盛んになったのである。)

最後に,黄は中国の文字変遷について,次のように述べている。

泰西論者,謂五部洲中,以中国文字為最古,学中国文字為最難,亦謂語言文字之不相合也。

然中国自虫魚雲鳥,屡変其体,而後為隸書,為草書。余鳥知夫他日者,不又変一字体,為愈趨

於簡,愈趨於便者乎。

西洋の論者は,中国の文字が世界で最も古く学習しにくいと指摘した。さらに,言語と文字

が合致していないと述べている。だが,中国の文字は虫,魚,雲,鳥の形を象形して表意して

以来,しばしば字体が変化してきた。後に字体は隷書となり,草書となった。字体は,またい

つか変わって,ますます簡略化し,ますます便利になる方向に向かうのではないだろうか。

すなわち,黄は,中国では古代から漢字の簡略化の歴史があることを指摘するとともに,その変

化の傾向が続くと捉えていた。さらに,黄は周秦以降,文体もまた次第に変わりつつあることを述

べていく。

周秦以下文体屡変,逮夫近世章疏移檄,告諭批判,明白暢曉,務期達意,其文体絶為古人所

無。若小 家言,更有直用方言以筆之於書者,則語言,文字幾幾乎復合矣。余又鳥知夫他日

者,不更変一文体,為適用於今,通行於俗者乎。嗟乎,欲令天下之農工商賈,婦女幼稚,皆能

通文字之用,其不得不於此求一簡易之法哉。

周・秦以降,文体もしばしば変わった。近世になるとさまざまな種類の公文書もわかりやす

く理解しやすく達意であることを期するようになった。このような文体は古代には無かったも

のである。さらに,小説家の中には,方言をそのまま用いて小説を書いた者も存在する。その

ため,このような文章では言語と文字がほとんど合致している。だとすれば,またいつか文体

も変わって,そのような文体は現在の物事を表すのにふさわしく,一般の庶民の間に流通する

ものとなるのではないだろうか。ああ。天下の農民,職人,商人,子供,婦人が全員文章を読

めるようにするためには,簡易な表現方法を求めなければならないのだ。

黄は,重要なこととして識字率の向上に至るまで「文学」を改革せざるを得ないと論じている。

つまり,読書人としての特権を捨て,「文学」を一般民衆の中に拡張すべきだと考えたのである。

梁啓超は,時世に対する黄遵憲の優れた見識をたびたび讃えているが,「飲冰室詩話」では,黄の

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詩を引用し,黄の先見の明と愛国の至情を評価している。筆者が,黄の日本への視察時期に焦点を

当てたのは,同時期の東アジアの漢字文化圏において漢文の地位が動揺していたことに注目したた

めである。黄が提出した「言文合一」という言語観を考察する際には,中国国内に限定されること

なく,漢字文化圏という背景の下に整理し,見直さなければならないだろう。

黄の言語思想は,改良主義思想と言われるものであり,学校を興して民衆を教化するという,文

字改革による近代における音声中心の路線であった。こうした言語思想が日本滞在中に形成された

ことは想像するにかたくない。

以上を総観するに,黄遵憲は21歳の時に執筆した「雑感(其二)」の詩において,すでに「我手

写吾口」という言語観を示していた。すなわち,話し言葉を使用すべきという主張である。ここ

に,黄の「言文合一」という言語観の出発点がある。だが,黄は「言文合一」をいまだ意識してお

らず,具体的な方策にも言及してはいなかった。そこには,黄自身が主張しているような口語では

なく,文語で書かれているというパラドックスも見られた。

1877年の来日以後,日本語の仮名に触れたことを契機として,黄は日本の文字の変遷と特徴を

考察し,日本が仮名を創造して文字と言語を一致させたことを肯定した。そして,当時の日本国内

の漢学者との交流,および日本語に関する書籍を参照し,『日本国志』の「文学篇」の後半部の論

述で明白に「言文合一」について言及し,その達成のために日本を参考にすることを主張した。日

本語の仮名という学びやすい文字を参考にすることで,中国にも簡易な文字を新たに創作すること

ができる。また,文体を簡易化することにより,「言文合一」を達成することができる。このよう

な「言文合一」の言語観こそが,後の中国で展開された白話文運動や大衆語運動に連なるのであ

り,いかに黄に先見の明があったかをうかがうことができる。

魯迅は「門外交談」の中で,古代の中国に言文一致が存在していたか否かという問いに対し,次

のように答えている。

私の憶おく

測そく

では,中国の話し言葉と文章語は,これまで一致したことがなかった。その大きな

要因は,文字が書きにくいために,文章中の文字を節約するより仕方がなかったためである。

当時の口語を摘要したものが古代の文である。また,古代の口語を摘要したものが後世の古文

でもある。我々が古文を作る際には,すでに象形ではなくなった象形文字,必ずしも諧かい

声せい

では

ない諧声文字を使用しており,紙の上に,今日では誰も言わず,理解する人も少ない,古人の

口語の摘要を描くのである。これがどんなにむずかしいかを,考えてもらいたい。

黄の「言文合一」という主張は1880年代前後に唱えられた。この主張が唱えられた時代は魯迅

が1934年に書いたエッセイ「門外交談」の時代から半世紀ほど離れているが,この間,中国では

首尾一貫して「言文一致」へ向かう趨勢にあった。さらに,黄が打ち出した「言文合一」について

は,日本の「言文一致体」が確立する以前のことである点にも注意しなければならない。言文一致

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運動の性質に関して,山田有策は「言文一致論の本質は〈文〉の改良であって,〈言〉の改良では

なかった。あくまでも近代国家にふさわしい国文を作り上げることが目的であり,〈言〉をそのた

めに利用しようとしただけである」と鋭く指摘している。すなわち,黄の「言文合一」という言

語観は「文」(文字・文体)の改良なのである。黄は中国の文字と文体のどちらも改革が必要であ

ることを主張した。文字はできるだけ簡単に,文体は明白で達意を期すべきことを主張した。黄が

文字や文体について進歩的な見解を表明していたことは,後の白話文運動や文字簡易化などの運動

と比較すると,極めて興味深いものを感じさせられる。

第節 「言文合一」の内面的理解

黄は「文学篇」の前半では日本語での文字に関して詳細に記述し,「文学篇」の後半にあたる部

分では自身の言語についての主張を展開していた。ここで留意すべきなのは,黄がどのような文脈

の下に議論を展開しているのかということである。

従来の研究は,「文学篇」のテキストに黄の日本語観のみを捉える傾向が強かった。すなわち,

日本語の特徴である表音文字(仮名)に対する黄の関心に注目してしまうのである。だが,黄の問

題は,なぜ日本語の言と文の乖離が起きたのかという点にあった。それは,東アジア漢文圏におい

て発生したものである。その上,東アジア漢文圏における「漢字廃止」の趨勢が国語としての日本

語の成立を促していた。日本語の書写の便宜と普及しやすさは,「脱亜入欧」の国家戦略とも密接

に関わるのである。当時の日本は,近代国民国家を形成するプロセスの中で,国民を教化し,明治

日本にふさわしい日本人を教育しようとしていたからである。

黄は仮名という書写の形式に民族主義的な情念を見ることはなかった。それも当然である。なぜ

なら,黄が『日本国志』を編纂した時期は19世紀80年代を中心としていたし,書き直しは1898年

前後で行われたが,あくまでも,日本の「言文一致体」が確立する前であった。

小森陽一が『日本語の近代』で指摘したように,「国語」としての日本語は,近代国民国家の形

成期に,「天皇の日本語」の発見から「国字」の改良,演説文,速記体,および言文一致体の小説

などまで,新しい文の書写文体を実践しながら,標準語としての「国語」の最終的な形が確立され

た。天皇制国家の確立,軍国主義イデオロギーの形成,さらに東アジアへの植民地拡張の野心と行

動,それらの行動と同時に進んでいったのである。黄はこのプロセスを直接に経験していなかった

ため,仮名という書写形式の内に民族主義のイデオロギーを洞察できなかったのである。

山本正秀(1978)は『近代文体形成史集成・発生篇』の中で明治初期における言文一致への志

向を論じている。それは,いわゆる洋学者の著訳書に現れた近代文体の胎動から,前島密,西周の

国字改良への提言,福沢諭吉が著作で用いようとした「世俗通用の俗文」,雑誌上の文体改良意見,

大新聞紙上の文章改良論に至る系譜である。このような言文一致の動向は,近代国家に必要な単一

の言語,および,筆記体系を形成する動きの一環であった。黄は,こうした明治初期の動向を見て

いる。

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黄は当時の清朝の階層的に深く分裂している状況において,民衆の誰もが理解できるような語彙

や文体を備えた表現形式を作り上げる必要があると考えていたのではないだろうか。日本を見てみ

れば,幕末の1866年に福沢諭吉は処女作『西洋事情』において,「文章の体裁を飾らず,努めて俗

語を用い」,「只意を以て主とする」文章を書くことの重要性を主張している。おそらく,黄も同様

な考えを持っていたのではないだろうか。

おわりに

本論文では,黄の言語思想について 2 つの点を中心に分析してきた。第一に,来日以前の黄の

「雑感(其二)」という詩にある「我手写吾口」という名句に注目し,その句を黄の「言文合一」思

想の出発点と見なした。第二に,黄が当時日本を視察した経験から唱えるようになった「言文合一」

の言語観の特徴である。日本語の仮名に触れたことを契機として,黄は日本の文字の変遷と特徴を

考察し,日本が仮名を創造して文字と言語を一致させたことを肯定的に評価した。その上で,日本

語の仮名という学びやすい文字を参考にして,中国も簡易な文字を新たに創作し,音声を重視すべ

きだと主張した。つまり,筆記体系を簡易化することにより,最終的に「言文合一」が達成できる

とも訴えた。ただし,黄は仮名文字の民族性を意識しておらず,また,音声の画一化・標準化の問

題も意識してはいなかった。

したがって,最も重要な論点は「言文合一」を主張する際のロジックがどのようなものであり,

日本語と中国語の間でそのようなロジックの移植が可能であるかどうかということである。まず必

要なのは,黄の言語観の出発点である「我手写吾口」が表したように,従来の書写体系を変えるこ

とである。話し言葉を書くことが難しいのではない。以前の時代においても話し言葉で文章を書く

ことはできた。誰でもが書きたいことを書くことは文体の問題ではない。書く主体こそが最も重要

な問題である。黄は日本に視察に訪れ,国民国家の均質化こそが重要だと意識したのではないか。

要するに,黄の「言文合一」を考える際には,来日以前の知識人に向けた言語観が,来日以降,一

般の民衆を主体にすることで大きく転向したことに注意しなければならないのである。

【注】

厳家炎『二十世紀中国文学史』高等教育出版社,2010年,p.78。

漢民族のなかにあって独自の伝統,生活様式,および方言客家語を保持するとされる人々。「客家人」と称

するほか,「客族」,「客属」,「客人」などの別称がある。原郷は,彼らのなかで,黄河中流域の中原地方で

あると信じられている。

旧中国において,各省で普通 3 年に一度行われる科挙の第一段階,郷試の合格者が与えられる資格。

楊天石『黄遵憲』,上海人民出版社,1979年,p.1021を参照。

許 身は1875年に出使英国欽差大臣郭嵩 が任命された時,その副使として任命されていたが,英国に赴任

する前に改任されたのである。

佐藤保「黄遵憲と日本」『近代文学における中国と日本』,汲古書院,1896年,p.56を引用。

銭萼聯 汪兆 著『黄遵憲詩作論評』,文海出版社印行,1972年,p.71。

佐藤保,前掲書,p.57。

鈴 烈

紺 鋪

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銭萼聯 汪兆 著,前掲書,p.71。

蒲地典子「黄遵憲の変法論」,『論集近代中国研究』,山川出版社,1981年,p.80を参照。

同前。

『小方壺齋輿地叢鈔』第十所収。

佐藤保,前掲書,p.64。

従来の研究は1882年 3 月30日にサンフランシスコに登着したとしている。

Jerry Schmidt 著,孫洛丹訳「金山三年苦黄遵 使美研究的最新材料」,「中山大学学報(社会科学版)」

2016年第 1 期第56巻,p.4854。

こうした試験は当時の清王朝中央から試験監督を各地域の都に派遣し,各省で行われる。省試とも言う。

楊天石,前掲書,p.1112。

荘光茂樹「黄遵憲について―中国近代「詩界革命」と『日本雑事詩』・『日本国志』―」『経済集志』日本大

学経済学部創設八十周年記念論文集第三部人文・自然科学篇 第54巻別号 12 合併号,1984年10月,p.115。

隷首黄帝の臣。数学の創始者であり,律度量衡を作ったという。

薛濤は唐代の名妓の名。音律にたくみで詩詞にたけていた。その小詩をかきつけた松花箋が,世にもてはや

されて有名になった。

蒲地典子,前掲論文,p.7980。

呉天任『黄公度先生伝稿』,香港中文大学,1972年,p.59。

「康有為序」『人境廬詩草箋註』,上海古籍出版社,1981年,p.1。

同前。

黄遵憲の文学観については多くの論著があるが,主に次の一節をよりどころにしている。黄氏が最も明確に

彼自身の文学観を述べた。光緒十七年(1891年)にロンドンで記した『人境廬詩草』の「自序」である。

「僕はかつてこう考えた,詩の外には事があり,詩の中には人があるのだ,今の世は古と異なるのだから,

今の人はやはりどうして古人と同じである必要があろうか。」詩作の方針も具体的に明らかにされている。

荘光茂樹前掲論文,p.119の訳文を参照した。

神代から1879年までの日本史を扱っている。

崇神朝以降1877年までの日中交渉史を扱っている。また,ポルトガル船の種子島来航以降1880までの対欧米

関係史を記している。

太古歴から明治五年(1872)の改歴にいたるまでの大要を記している。

明治四年(1871)の廃藩置県の大略を記している。次に,府県沿革表十九表が掲げられている。

中西の職官を論じ,神武以来の変遷をのべ,等級について詳述している。さらに,明治十四年(1881)の官

省,特に旧制にないものを詳述している。例えば,1881年に設立された「文部省」の教授,助教,員外教授,

訓,導,助,訓について具体例として摘録している。

明治維新以来の戸籍状況,租税,国計,国 ,貨幣,商務など様々の実状について言及する。

日本兵制史を述べ,明治維新後の徴兵を詳述する。とりわけ,最も重要視している海軍について論じる。

中西刑法を論じ,とりわけ,日本刑法史に重点を置き,明治十四年(1881)に頒行の治罪法・刑法について

紹介される。

漢学・西学・文学・学制の 4 段に分けて,日本国の有史以来,学術発展についての歴史を記述する。

具体的には,朝会,祭礼,婚娶,喪葬,服飾,飲食,居処,歳時,楽舞,神道,仏教,氏族,社会について

述べる。

明治維新以来,殖産の盛衰を論じ,そして,日本全国物産として58種をあげる。その中の,糸,茶,棉,

糖,米,海産類,石炭,銅鉄,諸細工物類という十項目について,いずれもその歴史に触れ,表を掲げて述

べる。

明治維新以来の日本国内における鉄道,電信,造船について述べ,さらに,日本医学史や日本織工史,刀

剣,銅器,陶器,漆器,扇,紙,筆墨彩色工についても考究する。

清朝後期,外交や洋務などを管轄するために設立された官庁で,1861年 1 月20日から1901年 9 月 7 日まで

存在した。また,「総署」・「訳署」ともよく略称される。

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郭嵩 「致李伝相」『養知書屋文集』巻十三,光緒十八年(1892年)刊本,p.23参照。

張寿 等編『皇朝掌故 編』,外編巻十八,光緒壬實(1902),求実書社蔵版,p.8参照。

李長莉「日本国志延遅行世原因解析」,『近代史研究』,2006年 3 月,p.57。

溝口雄三『方法としての中国』東京大学出版社,2014年,p.67。

溝口雄三前掲書,p.70。

宇野木洋「現在的視点から見た黄遵憲の日本認識―『日本雑事詩』の周辺―」,『総合プロジェクト研究 C グ

ループ』,p.131。

同前。

藤川正数「黄遵憲の〈日本国志〉について(上)―国際文化的意義を中心に―」,『国際文化研究』第 8 号,

桜美林大学国際文化研究所,1987年,p.93を引用。

王暁秋「黄遵憲『日本国志』初探」,『近代史研究』1980年,p.188

石原道博「黄遵憲の日本国志と日本雑事詩(中)清代の日本研究・第四部」,『茨城大学人文学部紀要 文

学科論集』(8)1975年,p.6。

宇野木洋前掲書,p.131。

同前。

魯迅著「門外交談」『魯迅全集』第六巻,人民文学出版社出版,1981年,p.99。

魯迅著,今村与志雄訳『魯迅全集 8』,学習研究社,1984年初版発行,111頁の訳文を参照。

同前。

魯迅著,今村与志雄訳前掲書,p.111の訳文を参照。

黄遵憲著『日本国志』浙江書局刊版。以下の引用も同じ。

孫洛丹「漢文圈的多重脈絡與t遵憲的言文合一論」,『文学評論』2015年第四期,p.48

江戸後期の漢学者であり,字君績,号栲亭。主な著作は『論語集義』,『学庸集 』『周易拾象稿』,『栲亭集』。

孫洛丹,前掲論文,p.50。

孫洛丹,前掲論文,p.51。

村瀬之熙『芸苑日渉』本邦音韻有五十母字,相傳為吉備朝臣真備從遣唐使留學,從王化言也。

厳安生『日本留学精神史―近代中国知識人の軌跡』1991年,岩波書店,p.158。

魯迅著(今村与志雄訳)『魯迅全集 8』学習研究社,1984年初版発行,108頁の訳文を参照した。ただし,下

線部分は筆者の訳しである。

山田有策『幻想の近代―逍遥・美妙・柳浪』おうふう,2001年,p.17。

小森陽一『日本語の近代』岩波書店,2000年。

錦 江