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新潟大学人文学部 2018 年度卒業論文概要 メディア・表現文化学 主専攻プログラム

新潟大学人文学部 2018年度卒業論文概要...『ズートピア』の描く現代アメリカ社会 穐山華乃 2016 年に公開されたディズニー映画『ズートピア(原題:Zootopia)』は、動物たちが人間

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  • 新潟大学人文学部2018年度卒業論文概要

    メディア・表現文化学主専攻プログラム

  • 目 次

    穐山 華乃 『ズートピア』の描く現代アメリカ社会 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 1阿部 初海 アール・ヌーヴォーとジャポニスム:

    ミュシャの作品から見たジャポニスムの広がり . . . . . . . . . . . . . . . . . . 2

    阿部まどか 羽海野チカのマンガとアニメーション . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 3有 路 恵 グラムロック論 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 4池 田 健 Yellow Magic Orchestra におけるテクノのイメージ . . . . . . . . . . . . . . . . . 5石井 陽菜 和製ミュージカル映画の展望 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 6伊藤 紗吏 20年目の劇場版ポケットモンスター論 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 7大室那津子 幾原邦彦の描く《魔女》 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 8片桐 知己 三木聡監督作品における「脱力系」コメディの仕組み . . . . . . . . . . . . . . . . 9片桐美乃里 『東のエデン』(監督 神山健治 2009年)における携帯電話 . . . . . . . . . . . 10勝山公一朗 日本国内の音楽におけるインターネットメディアの機能 . . . . . . . . . . . . . . 11加藤健太郎 ゴルゴ 13を通してみたソ連・ロシア像 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 12上平 真穂 ジョン・スノウの医学論文におけるコレラの隠喩 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 13河原 悠真 小津安二郎論 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 14木村 純子 蚕糸業における女性:主に長野県上田・小県地域の製糸業を参考に . . . . 15小 林 茜 オートクチュール誕生以降のフランスモードにおける「エレガンス」 . . 16小林古都子 スポ根ジャンルの衰退と新しいスポーツ漫画 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 17小林 嵩英 ユーリー・ノルシュテイン論 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 18齋藤 亜美 宝塚歌劇における翻案:西洋起源の作品をめぐって . . . . . . . . . . . . . . . . . . 19櫻庭 結佳 宮崎駿作品におけるキャラクター造形 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 20佐藤 元春 VOCALOIDは音楽制作に何をもたらしたか . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 21塩野谷 秋 現代日本のポピュラー音楽におけるライブイベント論:

    SEKAI NO OWARI を中心に . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 22

    塩谷 郁巳 表現方法の多様化とキャラクターの在り方:EGOIST・楪いのりを例にみる変化. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .

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    設樂 文花 新海誠における声と視線 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 24志田 綾奈 ストリートダンスの文化性とスポーツ性 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 25須貝 理久 『食戟のソーマ』研究 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 26菅沼 香帆 現代日本社会における「ゆるキャラ」の広がりと変容 . . . . . . . . . . . . . . . . 27高井 陽菜 「いいね」の社会性 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 28高橋 咲良 キャラクターを二重に経験すること:2.5次元を中心に . . . . . . . . . . . . . . . 29滝口 美穂 iPhone6の CMコンセプト . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 30竹井 恭子 ACジャパンが社会に発信するもの . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 31竹内 知葉 ロボットアニメにおける対象年齢の違いと表象の変化:

    『勇者王ガオガイガー』を中心に . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 32

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    辰己 晴香 少女マンガの多様化における雑誌の役割:白泉社『LaLa』を中心に . . . 33千葉 麻子 観光資源としての『刀剣乱舞-ONLINE-』 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 34塚田 真夕 現代日本の若者と海外旅行 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 35並木 萌菜 『図書館戦争』にみる現代小説の特性 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 36並木 萌花 J-POPの歌詞の表現特性 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 37西永 里花 教室内のいじり:スクールカーストを中心に . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 38西脇 佳那 『レ・ミゼラブル』登場人物研究 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 39畑中 恵美 アニメーション映画の中の東京:新海誠を中心に . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 40松崎 野乃 荒木飛呂彦のサスペンス表現:

    荒木の創作理論と『ジョジョの奇妙な冒険』 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 41

    丸田 稜介 梶井基次郎における「私」 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 42三浦 夏子 男性アイドル論 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 43山井 朋香 マイケル・ジャクソンから考察する

    芸術作品としてのミュージック・ビデオ . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 44

    山口 礼音 食を通して描かれる絆と別離 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 45横 山 優 『硝子戸の中』における「私」の描き方 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 46横山 裕香 映画『雨月物語』における女性幽霊の表象 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 47吉 田 隼 ロックミュージックと対抗性 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 48

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  • 『ズートピア』の描く現代アメリカ社会

    穐山 華乃

    2016年に公開されたディズニー映画『ズートピア (原題:Zootopia)』は、動物たちが人間のように生活している世界が舞台であり、警察官のウサギ、ジュディ・ホップスと、詐欺師のキツネ、ニック・ワイルドが大都会ズートピアで起きる事件を解決する物語である。草食動物が抱く肉食動物への偏見が描かれる『ズートピア』には現代のアメリカ社会が抱く人種差別・偏見が描かれていると考えれらており、それらがどのように表現されているのかを分析した。第 1章ではズートピアとアメリカ社会の関連を、都市や人口、言語といった面から考察した。ズートピアはアメリカの都市や世界の都市がモデルになっており、アメリカ社会の多様性が反映されている。人口構成の観点からは、アメリカの黒人と白人の比率がズートピアの肉食と草食の比率に近いことから、肉食動物と黒人がそれぞれの社会でマイノリティであり、社会的地位が近いことがわかった。また、肉食動物へ抱かれる悪いイメージと、人々が抱く黒人へのイメージの類似性を提示した。第 2章では、アメリカ社会の黒人差別の歴史を振り返り、現代の黒人や移民への差別感情の始まりを確認した。差別を乗り越えたと思われる現代、負の遺産であるマイノリティへの差別や偏見がぬぐいきれず、近年人々の中の差別感情が浮き彫りになっていることが分かった。また、1946年のディズニー映画『南部の唄 (原題:Song of the South)』からディズニーの差別に対する姿勢について分析し、アメリカ社会の大衆のありのままを民族の記録として描こうとしていたことを確認した。第 3章では、キャラクター表現から見える偏見・人種差別について考察した。偏見を嫌っていたはずのジュディのなかにある「潜在的な偏見」(Unconscious Bias)が社会を分断してしまった。またそれは、ニックがキツネに抱かれる偏見通り、悪賢い詐欺師として生きようと決めたきっかけにもなった。映画内ではジュディに限らず誰もが潜在的な偏見を抱いており、それが社会にもたらす危険性を描くことで、人々の中に眠る潜在的な偏見に注意を向けさせてようとしたと考察した。影響力のあるディズニーが『ズートピア』にて複雑な差別・偏見を主なテーマとして取り上げたのは、現代社会の差別・偏見への人々の関心が高まっているからである。『ズートピア』には、変化し続ける人種観の中で、自身の中の差別感情に気付き、相互理解を深めることが、社会を一つにするために大切だというメッセージがあると読み取ることが出来ると結論付けた。

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  • アール・ヌーヴォーとジャポニスム~ミュシャの作品から見たジャポニスムの広がり~

    阿部 初海

    19世紀後半のヨーロッパには、日本の美術に影響を受けたジャポニスムという現象があった。これは絵画や工芸品だけでなく建築や音楽にまで日本の影響を及ぼすものであった。本論文ではアール・ヌーヴォーの芸術家の一人であるアルフォンス・ミュシャがこのジャポニスムの影響を受けていたのではないかということについて考察した。先行研究では、彼がジャポニスムの影響を受けているという意見も受けていないという意見もあった。本稿では影響を意識していなかった芸術家が、意識しないうちに影響を作品に反映させるほどのジャポニスムの影響を明らかにした。文献の分析、ミュシャの作品分析によって考察を進めた。第 1章では主にジャポニスムとそれにかかわった芸術家たちについて述べた。日本の美術工芸品が西洋に流通するようになり、ジャポニスムという新しい潮流が生まれた。この流行には万国博覧会が深くかかわっていた。19世紀後半に生まれたジャポニスムはその時代の多くの芸術家たちに影響を与えた。その影響が彼らの作品のモティーフや構図に表れたことが分かった。日本の美術工芸品をそのまま登場させるだけでなく、応用し、作家自身の美術作品に昇華していった。日露戦争での勝利により、西洋が持っていた日本へのイメージの転換が起こったことや、日本の経済成長により流行は衰退していった。第 2 章ではミュシャの作品分析を行いジャポニスムとの関連、影響について考察した。ジャポニスム、そして浮世絵とミュシャのリトグラフに共通していることとして、以下のことが分かった。作品分析から分かったことはジャポニスムの影響を受けた芸術家たちと同じように特徴的な輪郭線、自然のモティーフと取り入れていたことが共通しているということである。また、すべてではないが、強調された輪郭線により平面性を持った作品もあった。平面的かどうかは風景が描かれているかで決まるとした。装飾パネルでしばしば見られた連作は、縦長の形状と室内装飾という点から日本の掛け軸との共通点が見られた。制作技法の分析から分かったことは、大量印刷できたために単価が低く、民衆の生活に溶け込むことができる、民衆のための芸術だったということ、そして作品制作の環境が共通しているということである。以上から、ミュシャは意識の中ではジャポニスムに影響されていることを否定していたが、その意識に反してジャポニスムの要素が見られる作品を生み出していたことが明らかになった。ジャポニスムが流行し、その影響を受けた芸術家たちが多くいた中で、ミュシャだけが全く影響を受けていなかったと考えることは難しい。ミュシャが意識しないうちにその影響を作品に反映させるほど、ジャポニスムが浸透していたと結論付けた。

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  • 羽海野チカのマンガとアニメーション

    阿部 まどか

    マンガとアニメーションは似通ったメディア作品であり、たいへん親密な関係にある。1917 年に日本で初めてマンガがアニメーション化されて以降、マンガでヒットした作品はアニメーション化されることが多くなっている。マンガとアニメーションを比較した研究も数多くされてきており、2つのメディアの決定的な違いは「時間」にあると考えられている。時間構造の違いはストーリーの展開のみならず、心情を伝える際にも何か影響を及ぼすのだろうか。またその場合にはどのような影響を与えるのかを理解する必要がある。そこで本論文では心理描写が巧みだと評価されているマンガ家・羽海野チカの作品を題材にマンガとアニメーションにおける心理描写の方法について考察を行った。第 1章では、アニメーションについて取り上げた。まず、現在アニメーションはどのような方法で流通しているのか、またそれぞれの配信方法の特徴について述べた。その後、全てのマンガとアニメーションに当てはまるような共通点と相違点を挙げた。時間構造の違いに関して受け手の視点から考えると、マンガはコマとコマの間の時間を読者が想像して読まなければならない能動的なメディア、アニメーションは制作者が提示したものを受け取るだけの受動的なメディアだということが明らかになった。第 2章では羽海野チカ作品について取り上げた。彼女の作品の魅力や特徴について分析を行った。彼女の作品は登場人物が苦しみと向き合いながら成長していく過程を丁寧に描写しているという特徴があることが判明した。第 3章では羽海野チカの代表作の一つである『ハチミツとクローバー』を取り上げた。登場人物が恋愛や将来のことで悩んでいる様子の描き方を時間構造の違いに注目してマンガとアニメーションで比較し、全編通して見られたアニメーションならではの表現方法の特徴が5点見つかった。第 4章では羽海野チカのもう一つの代表作『3月のライオン』を第 3章と同様の方法で比較した。この作品では全編に共通するアニメーションならではの表現方法が 4点判明した。そして最後に第 3 章と第 4 章で取り上げた 2 つのアニメーション作品に共通する心理描写の方法をまとめた。その結果、マンガとアニメーションの時間構造の違いは心理描写にも影響を及ぼしていることが明らかになった。マンガは能動的、アニメーションは受動的なメディアだという特徴を心理描写の面においても巧みに利用していた。羽海野チカ作品において、マンガでは描かれていないコマとコマの間をアニメーションでは動きをつけて埋めることで、登場人物の心情を視聴者により正確に伝えることを可能にしたのではないかと結論付けた。

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  • グラムロック論

    有路 恵

    ポピュラー音楽史において強い存在感を持っているロックというジャンルにおいて「グラムロック」というサブジャンルがある。1970 年代前半に派生したジャンルであるが、それ以前のロックと比べビジュアル面が強く押し出されているという特徴がある。本稿ではその「グラムロック」について、「デヴィット・ボウイ」という人物に着目し分析・考察を行った。第一章では、ロックの歴史を概観しその母体となったロックンロールの誕生までさかのぼり、ポピュラー音楽となるまでの過程を追った。1950 年代にリズム&ブルースを源流とし白人性を獲得することによりロックンロールが誕生し、後に知性がもたらさせることにより1960年代にロックが生まれた。また、アメリカの社会的動向や世代の価値観などにより対抗文化としての性質も持ちえたが、60年代の終わりとともに対抗文化としてのロックは終りへと向かったことを確認した。第 2章では、デヴィット・ボウイのグラムロックスターとして一躍有名になったキャリア

    『ジギー・スターダスト』期を中心にそれ以前のキャリアも併せてグラムロックの考察を行った。また、彼は商業的戦略に長けており自身のセクシュアリティと絡めて販促活動をしていたことについても明らかにした。加えて、『ジギー・スターダスト』として売れ出した時期のアルバムジャケット写真の分析などにより「グラムロック」はアーティストのビジュアルイメージの特殊性と独自性を徹底的に強め、そのイメージがリスナーにとって作品から独立して受け取られるまでに視覚的要素を拡大していたという特徴を明らかにした。第 3章では、前章に続いてデヴィット・ボウイのキャリアを分析しているが、そのキャリアの中でグラムロック性を失ったタイミングを洗い出しさらに考察を加えている。1975 年にリリースされたアルバム『ヤングアメリカン』において、前作までコンセプトとしてあった SF的、近未来的要素は鳴りを潜めビジュアル面においても転換期となったことを確認し、彼自身のグラムロック性は人智を越えた領域を志向していたことを明らかにした。また、第1章において触れた前時代のロックの反抗性とグラムロックの反抗性の比較を行い、グラムロックの反抗性は人としての規範をも逸脱する意思を持ったものであると結論付けその差異を明らかにした。

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  • Yellow Magic Orchestra におけるテクノのイメージ

    池田 健

    1978 年に結成し、2018 年で 40 周年を迎えたイエローマジックオーケストラ(YellowMagic Orchestra 以下 YMOとする)はキーボード、ベースを細野晴臣、ドラムを高橋幸宏、キーボードを坂本龍一が担当した三人組のグループである。また国内外において人気を誇り、音楽シーンに絶大な影響を与えたことで印象強い。YMOの楽曲はコンピュータを介して制作が行われるため、「テクノポップ」として括られる。テクノという言葉の含むイメージは、ロボット的であり、「テクノ」がそのまま YMOに対する直接的なイメージとして付与され、それに見合うセルフ・イメージを彼等が構築してきたことはある程度の事実として理解することは可能だった。しかし、そのまま YMO=テクノというイメージとする図式は短絡的なのではないかと考えた。本稿では YMOの打ち出してきたセルフ・イメージの分析を中心として、検証をしてきた。まず、第一章では、外側から眺めた YMO として先行研究から見出せた YMO に関するイメージを考察した。清潔感、ビョーキ、テクノオリエンタリズムといったキーワードが浮上し、どこから眺めるかによって YMOの持つセルフ・イメージは異なるのではないか、或いはここで YMOをテクノとしてまとめることができないことに帰結した。第二章では、YMO が自らのセルフ・イメージをどのように見せようとしてきたかについて、結成以前、前期における活動について、楽曲からアルバムワーク、広告ポスターなどをもとにして考察した。その結果、『イエロー』では東洋感、ディスコ、匿名性をセルフ・イメージとしていた。『ソリッド』ではロックへ変化しつつ、それまでの匿名性を希薄化させており、メタマーというコンセプトに見合う形でのイメージを打ち出していたのである。『増殖』では、諧謔性をモチーフとしつつ、記号化された三人のキャラクター性の拡散を表すかのようなイメージとしていたのである。三章では、前章に引き続き中期後期におけるセルフ・イメージの分析を行ってきた。中期における『BGM』『テクノデリック』では、暗さを具体化したかのようなイメージであり、それはライヴ映像にも顕れているものであった。その後にリリースされたシングル「君に、胸キュン」では軽薄な印象として消費される「アイドル」を前面に打ち出したものであった。しかし、YMOの試みたのは「おじさんアイドル」であるため、松田聖子のような清純さを売りにした普遍的なアイドル像とは違うのであった。そこで用いられた手法とはアイロニーであり、他者との差異化を図ったのであった。今回触れたイメージは当然全てではなく、ごく一部分に過ぎない。それをふまえると、本稿の結論として「YMOとはなにか」という一義的な答えは下せず、テクノというひとつのイメージで括れないこととなった。

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  • 和製ミュージカル映画の展望

    石井 陽菜

    本稿では、日本で作られた非翻訳、翻案ミュージカル映画を「和製ミュージカル映画」と定義し、ミュージカル映画が日本においてどのような存在であるのかについて取り上げた。日本では宝塚歌劇団や劇団四季を始めとする、ミュージカルを主とした公演を行う劇団の存在があるにも関わらず、一から日本で製作されたミュージカル「映画」はほとんどない。ミュージカルが盛んであるアメリカやインドなどと日本にはどのような違いがあるのかについて、『君も出世が出来る』(1964)などをはじめとした和製ミュージカル映画と、それらが作られた時代の映画界の状況などを照らし合わせながら考察した。第 1章では、ミュージカル映画の歴史とそれらが日本にもたらした影響について触れながら、ミュージカル映画に酷似した「歌謡映画」の誕生とその影響についてまとめた。流行りに従い音楽(歌、踊り)を映画の中に積極的に取り入れようとした制作陣は、歌謡曲の人気歌手を起用した歌や踊りのある歌謡映画の製作を行ったが、それらは台詞と同等の価値を持つ音楽という演出を行うミュージカル映画とは大きく異なっていた。その為、海外の形式をそのまま踏襲したミュージカル映画製作の大きな妨げとなった。第 2 章では和製ミュージカル映画はどのような形でオリジナリティを出そうとしていたのかについて触れた。「時代劇」「サラリーマン喜劇」という特徴的なジャンルとの掛け合わせや音楽によって個性を出す試みなどについて、具体的な作品をいくつか取り上げながら述べた。第 3章では、どうして和製ミュージカル映画が日本の映画界にとって主流とならなかったのかについて、「成長期の日本の状況」、「日本の映画製作の環境」、「日本の文化」という 3つの観点から考察した。ミュージカルブームと歌謡映画の発達時期の重なり、映画界の衰退などのミュージカル映画としての成長の壁となった点や、日本における映画製作のあり方が他国と大きく異なっているという点などを指摘し、ミュージカル映画製作の盛んな国々のような発展の仕方が出来なかったのは環境の要因が大きいということを示した。第 4章では、触れてきた第 1章~第 3章までの内容に触れながら、今の日本の映画に求められているものはなにかについて述べた。2.5次元ミュージカルの流行とミュージカルアニメーションの登場から、アニメーション映画では積極的にミュージカルという要素を取り入れている。それらの動きが業界の拡大を促し、日本の実写映画においても「和製ミュージカル映画」が積極的に製作される可能性を指摘し、本稿のまとめとした。

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  • 20年目の劇場版ポケットモンスター論

    伊藤 紗吏

    1996年のゲーム発売以来、様々なメディアミックスが行われているポケットモンスターシリーズの中で、本稿は映画に注目した。1998年の劇場版 1作目の公開以来、劇場版シリーズは毎年上映され 2017年に 20周年を迎えた。本稿は劇場版 20作目となる『劇場版ポケットモンスターキミにきめた!』(2017)に注目し、ポケモンシリーズはどのようにして子供も大人も楽しめる魅力的なコンテンツになったのかについて明らかにすることを目的とした。第 1章では、ポケモンシリーズの原点やメディアミックスの変遷についてまとめた。ポケモンの生みの親である田尻智が少年時代に昆虫採集とゲームに熱中した経験が、ポケモンの原点にあると明らかにした。そして 1996年のゲーム発売以来、多様なメディアミクスをし続けたことでポケモンは幅広い世代に知られるコンテンツになっていったと指摘した。その中で劇場版シリーズは、伝統は残しながらも常に変化し続けたことで、20年経っても人々に支持されているコンテンツであると考察した。第 2 章では、『キミにきめた!』の最大のテーマである主人公「サトシ」とその相棒「ピカチュウ」の絆について、同じく人間と人型でないキャラクターの絆を描いた作品である『STAND BY ME ドラえもん』(2014)の主人公「のび太」とその相棒「ドラえもん」の関係性と比較した。どちらも相棒として感情を共有しお互いを支え合う対等な関係性という点で共通している一方で、ポケモンは通常人間の言葉を発しないキャラクターであるため、サトシとピカチュウには言葉を超えた絆があることを明らかにした。第 3章では、まず 20作目の映画『キミにきめた!』の内容について、『STAND BY MEドラえもん』を参考に、リメイク表現や夕日・涙の描写から感じるノスタルジー性について検討した。また、20年目の新たな試みとしてポケモンの存在の否定や死といった現実的表現が使われていることを指摘し、大人を意識した映画であり、かつアニメは子供が現実を学ぶ役割を担うために、現実的表現は必要であったと考察した。そして、なぜ大人を意識した子供向けアニメ映画が作られ、大人たちが受容しているのかについては、変化という厳しい状況下にいる大人たちは潜在的にノスタルジーを求めており、周年記念映画をきっかけにノスタルジーに浸る機会を得たいという需要があるためと結論づけた。『キミにきめた!』によって、20年もの間大人も子供もポケモンに親しんだ思い出があることを再確認させられた。近年も様々なメディアミクスを展開するポケモンシリーズだが、20年続くシリーズだからこその懸念もある。ポケモンシリーズはこれからも時代に合わせて変化し続ける必要がある一方、原点を守り続けることで、人々の心に残る存在になると指摘し、本稿のまとめとした。

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  • 幾原邦彦の描く《魔女》

    大室 那津子

    プリンセスストーリーの主人公であるお姫様を取り上げた先行研究は少なくない。その中でも特に、ディズニー社のプリンセスたちを中心に据えた言説は数多く存在する。その一方で、アニメーションにおける魔女を中心にした言説は多くない。魔女に関する言説のほとんどは、魔女狩りやグリム童話の領域にとどまっている。《魔女》たちはプリンセスを語る上で引き合いに出されはするものの、詳細に分析されることは極めて少ないのだ。ジェンダーという問題が広く議論され、《お姫様》の評価が見直されつつあるのに対し、

    《魔女》たちの評価が変化しないのは、不自然だと考えた。そのため、本論ではおとぎ話を下敷にしたアニメーション作品に登場する《魔女》たちに焦点を当てた。その中でもフェミニズムやジェンダーについて議論を呼んだ『少女革命ウテナ(以下ウテナ)』(1997)を主軸にディズニー社と比較しつつ、《魔女》についてどのように描かれているのか論を展開した。第 1章では、日本での《魔女》の受容とアメリカからの影響、その源流であるヨーロッパの魔女についてまとめた。日本に輸入された魔法は少女と組み合され、「魔法少女」として広く受容された。また、「魔法少女」はアメリカのスタジオで制作されたアニメーションやドラマの影響を強く受けている事を明らかにした。さらに、おとぎ話の原作の代表としてグリム童話の《魔女》と、魔女が悪として描写される要因となった魔女狩りについてもまとめた。本章の最後に、ヨーロッパにおける魔女と幾原の《魔女》のキャラクター、作品の下敷であるおとぎ話との共通点について明示した。第 2章では『ウテナ』とディズニー社などおとぎ話を元にしたアニメーション作品の表現を参照しつつ、《魔女》や《お姫様》、《王子様》の描かれ方について分析した。その中で、《お姫様》が自己実現の為に《王子様》が利用されていることや、《お姫様》にとっての《魔女》が未来の自分の姿でもあることを隠し、悪意を持った他者に仕立て上げ排除していることを明らかにした。また、日本の《魔女》たちが魔女狩りの時代と同様に、涙を流すことで《魔女》から解放されていることを劇場版『魔法使いサリー』(1990)や『ウテナ』を具体例として挙げつつ示した。第 3章では 2010年代に入り変容を見せる《お姫様》たちについて、『ウテナ』から『ユリ熊嵐』(2015)への幾原自身の表現の変化についても触れつつ、《魔女》の描かれ方が大きく変化したことをまとめた。悪役としてのみ描かれていた《魔女》が、《お姫様》と同様に他者と愛を与え合える存在である描写がされるなど、《魔女》も自己投影可能な人物として描かれるようになったことを明確にした。さらに幾原は「めでたしめでたし」のその後、新しい物語が生まれるまでを描くことで、自身の行動が他者に影響を及ぼすことを提示しているとした。幾原の描く《魔女》とは、同調圧力に屈せず自らの意思で行動し、見返りを求めぬ愛を与えることのできる少女たちであると結論づけた。

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  • 三木聡監督作品における「脱力系」コメディの仕組み

    片桐 知己

    本論は三木聡が監督した映画、テレビドラマを取り上げ、それらの作品が持つ「脱力系」と評される特徴について考察したものである。三木が放送作家として多数のバラエティ番組を手がけ、シティボーイズライブの作・演出を務めたというキャリアが、映像作品の制作に影響を及ぼしていると考えた。また、テレビ番組と雑誌に着目し「脱力系」の意味を定め、ほかの喜劇映画と比較し三木の監督作品では笑いの要素がどのような役割を担っているのかについて述べた。第 1章では、三木が携わった舞台の脚本・演出と映像作品の関係について取り上げた。そこで、シティボーイズライブでみられる、サスペンスシュールやソフトシュール、SF 系シュールといった井山弘幸の分類によるシュールコントの要素が、映像作品に反映されていることがわかった。さらに、『熱海の捜査官』以降の作品全体に漂う不安感や緊迫感も、シティボーイズライブの演出での表現から活用されているものだと考えた。また、映像作品で舞台を意識した演出を行っているという発言から、『時効警察』の各話について、発言している側とそれに反応している側を一つのフレームに入れ込んでいる時間を計測した。その結果、三木が監督した回はほかの監督の回よりも発言している側とそれに反応している側を同じフレームに入れ込んでいる時間が長いことが判明した。第 2章で触れたバラエティ番組からは、『笑う犬』などのコント番組や『TV’S HIGH』に携わったことが、映像作品を制作する基盤となっていたことがわかった。そして、作品に日常に則したシチュエーションが用いられているのも、バラエティ番組の影響と考察した。また、『タモリ倶楽部』における”トマソン的物件”や『トリビアの泉』における”トリビア”といった、番組で扱った要素を映像作品にも流用していることがわかった。作品に登場する人物の個性の強さも、コント番組のキャラクターからきていると考えた。第 3章では、「脱力系」という言葉を”本筋とは関係のない要素が多く見られる作品”という意味ととらえ、他の喜劇映画と比較しながら、三木の作品は本筋とは関係のない要素をどういった意図で利用しているのかを考察した。真面目なテーマを持ちながら笑いが組み込まれる喜劇映画は、そのテーマの奥行きを広げるために笑いを利用していた。それに対し、三木は作品のテーマに触れないような笑いを作り、その笑いを使ってリアリティを持たせながら、最初の状況とそこから予想される最終的な状況とのズレを作り出していたことがわかった。さらに、『熱海の捜査官』以降の作品は不条理な要素を多くしたため、笑いは日常の世界を提示する役割を担っていると考察した。以上の分析で、三木が携わってきた舞台の作・演出とバラエティ番組の制作というキャリアが、映像作品に影響を与えていたことが分かった。さらに、三木作品が「脱力系」と評される理由と「脱力系」な作品を制作する意図を考察することができた。

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  • 『東のエデン』(監督 神山健治 2009年)における携帯電話

    片桐 美乃里

    この論文は現代社会での必需品とされる携帯電話の在り方について『東のエデン』という作品の視点から考察することを目的としたものである。作品について知った後、作中に登場する携帯電話の存在の特徴や、必要性を研究する際の問題とした。第一章では、考察対象である『東のエデン』という作品に入る前に、2000年代の携帯電話の時代背景について調べた。各年の携帯電話の世代の進化のほか、新たに搭載された機能は何があるかといった特徴的な点について確認した。また、当時の利用者の考える携帯電話に対するアンケートなども含めて、携帯電話の進化の動きについて考察した結果、作中に登場するシステムを構築する際の基となったということが推測できるものとなった。第二章では、携帯電話の考察を進めるにあたって、機能面以外に携帯電話を主役とした作品の持つ運命というものについて研究することで、『東のエデン』における携帯電話とはどういったものだったのかをより具体的にさせることができると考え映画『着信アリ』を取り上げ、ストーリーの確認以外に、各作品で登場する携帯電話の違いについて調査した。その結果、携帯電話を持つ者に対する運命の訪れる流れの違いが目立つものと分かった。第三章では、『東のエデン』に登場する人物の比較を行った。先に、作中に登場する主役としての携帯電話「ノブレス携帯」の特徴について確認した後、この「ノブレス携帯」を持つ主要人物の紹介と携帯電話の使用履歴の参照をした。そこから、各人物の持つ性格や考え方がそれぞれ携帯電話に表れているということが判明した。また、各人物が携帯電話で、人間関係にどのような影響の変化があるのかを推測した。さらに、個人的に見たときも挙げ、それぞれが携帯電話によって引き起こされた末路のばらつきを見ることができた。第四章では、これまでの運命に関する比較を基に、「ノブレス携帯」を得た者が手に入れた権力とは何かということと、同人物たちが歩んだ運命とは何かということを明確にした。「ノブレス携帯」がもたらした権力は、それぞれの望むようにできる行動という、幾多にも枝分かれした選択の余地という自由であった。そして、各人物が歩んだ運命とは、「ノブレス携帯」にそれぞれの持つ信条や未来の在るべき姿を託すことによって、迎える未来は大まかに決められていったものであったと判明した。まとめでは、『東のエデン』は、これまでの考察を踏まえ、この作品がどういったものであったのかの再確認をした。この作品には、当時の携帯電話社会の姿を認識してもらうために、携帯電話が不可欠でなければならなかったのだと結論付けた。

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  • 日本国内の音楽におけるインターネットメディアの機能

    勝山 公一朗

    今日、音楽は新聞や雑誌、ラジオやテレビといったマスメディアをはじめ、様々なメディアとの関係を持っている。加えてインターネットの登場と普及に合わせて、新たに関係が構築されつつある。音楽とメディアの関係については、従来ポピュラー音楽の領域で語られてきた。ポピュラー音楽にはマスメディアによる働きが構成要素としてあるからである。では近年普及し発展するインターネットと音楽の関係性について言えることはないのか。インターネットに存在する、あるいはしたウェブサイトやサービスと、楽曲それ自体や他の音楽を取り巻く事柄との関係をどう捉えることができるのか。このような疑問から出発し、本論文ではウェブサイト等をインターネットメディアとして捉え、それらの音楽に対する働きに着目しつつ、音楽との関係性について言語化と考察を行うことを目指した。第 1章ではインターネット登場以前のメディアと音楽の関係について先行研究や各メディアの歴史をもとに確認した。音楽に関わってきたメディアとして楽譜とレコードを取りあげ、音楽に持つ働き、つまり機能として捉えられることをいくつか確認した。第 2章ではウェブサイトやウェブサービスをインターネットメディアとして捉え、音楽への働きを考察した。音楽に関わる代表的なウェブサイト等としてナプスター(Napster)、マイスペース(MySpace)、ユーストリーム(USTREAM)の 3つを取りあげ、サービス内容や興隆、先行研究からインターネットメディアの音楽に対する働きを数点挙げた。第 3章ではまず 1章と 2章で述べたそれぞれのメディアの働きを整理、機能として捉え直した。次にインターネットメディアの機能として主に考えるべき働きを言語化し、「機会による再現可能性」、「楽曲の置き場」、「評価基準の追加」、「音楽を聴くことの敷居を下げる」、「閲覧・視聴履歴等のデータによる関連の音楽コンテンツの推薦」の 5つにまとめ、各機能について考察を加えた。最後にインターネットメディアが音楽に対してどう働いているのか、音楽や私たちとの関係性についてどのようなことが言えるのかを述べた。最終的にインターネットメディアが音楽に対して持つ働きを捉え、機能として言語化、考察するという目標は可能だったものの、各機能は立場が変わることで良くも悪くも働くので「インターネットメディアは音楽にとって○○だ」と言い切ることはまだ困難であり、インターネットメディアと音楽の関係性について継続的な観察と研究が必要であるとした。

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  • ゴルゴ 13を通してみたソ連・ロシア像

    加藤 健太郎

    『ゴルゴ 13』は『ビッグコミック』(小学館)誌上で 1968年の連載開始から一度も休載することなく現在まで続いているさいとう・たかをの漫画であり、超一流のスナイパーのゴルゴ 13(以下ゴルゴと表記)の活躍を描く劇画である。社会情勢を扱っており、実際の事例をオマージュしたエピソードも多く、フィクションながらそのリアルさで著名人にも多くの読者を持つ。情報が安易に入手できない東西冷戦期にどのようにして諸外国の様子を漫画で再現できたのか、特にその中でも社会主義国家で実態の見えなかったソ連をなぜ詳細に漫画にすることができたのか、後継国家のロシアとともに分析した。第 1章ではまず『ゴルゴ 13』の作品像を確認した。「劇画」というジャンル、半世紀という長期間にわたり連載が続けられている理由、ゴルゴという人物像などを作者のインタビューなどをもとに述べた。また読者が『ゴルゴ 13』をどのようにとらえているかを著名人の発言などから推察し、次章からの作品分析の基礎の一部とした。分析したのはソ連・ロシアに関するエピソードのみであり、設定した条件のいずれかに当てはまるものを全エピソードより抜粋、そのうえでソ連・ロシアの 1968年以降の最高指導者の任期ごとに区分した。第 2章ではソ連時代の作品分析を行った。約 23年間で 38のエピソードが描かれ、そのうちの多くに KGB(ソ連国家保安委員会)が登場していることを指摘し、日本にとってほとんど馴染みのない外国の諜報機関を知るための一翼を『ゴルゴ 13』が担っていたのではないかと考察した。またゴルゴがソ連で依頼を遂行したのは 6回にとどまり、現地での取材が容易ではなかったことがうかがえた。この期間は裏切り、亡命、権力闘争などが多く描かれ、読者の中での作品内のソ連像がそのようなものとして構築されただろうと考察した。第 3章ではロシアに関連するエピソードを分析した。エリツィン大統領の 8年間で 10話、プーチン大統領の 15年で 8話とソ連時代に比べ数が減っており、ロシアになって掲載エピソードが減った理由としては KGBの消滅が大きな要因であることを指摘した。この時期は現実の事例に即したエピソードが多く、それらのリアルさは実際の新聞記事の内容からも見出すことができた。終章ではさいとうがどのようにして資料を集め、何を伝えようとしてきたのかを述べた。さいとう自身やスタッフが直接ソ連に赴くことは難しかったため、渡航経験のある人物を必死で探し出し、学会などで東側に入りやすい医師を資料の提供元として重宝したということを記述した。ソ連・ロシアに関する取材方法などに特異点などは見いだせなかったが、大本の出来事だけではなくその周りや普段の状況、風景にも気を配るさいとうの姿勢は現代社会でも重要であり、今後国際情勢や現代社会を学び生きていくうえで心にとどめておくべきであるとして本論を締めた。

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  • ジョン・スノウの医学論文におけるコレラの隠喩

    上平 真穂

    本論文では、文学作品とジョン・スノウの医学論文におけるコレラの隠喩について検討し、コレラには混合の隠喩があることを明らかにした。第 1章では、病気、特に感染症は患者だけでなく病原微生物についても着目する必要性を述べた。感染症は感染源、感染経路、宿主の 3つが揃って初めて成り立つ。病気を分析するために文学作品がよく利用される。しかし、文学作品に登場するキャラクターがいかに苦しんでいるかを分析しても、それは宿主のみに着目しただけであり感染源と感染経路を無視している。感染源と感染経路についても検討する必要がある。感染源と感染経路について検討するテクストとして医学論文が最適だと考えた。第 2章では、コレラの医学的記述について述べた。コレラはコレラ菌によって引き起こされる。コレラは激しい下痢による脱水を主症状とする感染症である。第 3章では、『ドラキュラ』と『ヴェニスに死す』のコレラの隠喩に関する分析を行った。

    『ドラキュラ』におけるコレラの隠喩には人と化物、風と水の混合があることが分かった。ドラキュラ伯爵がミーナに自身の血を飲ませて隷属化を図ったことは、コレラ菌を飲み込んでコレラが発症することと類似性がある。伯爵は瘴気のような息を吐き、水路で移動する。コレラの感染経路についても空気か水かの議論があった。伯爵自身にもコレラ同様に空気と水の混合がみられる。『ヴェニスに死す』におけるコレラの隠喩には死と生の混合があることが分かった。アッシェンバッハはタッジオと接触を図るたびに体調を崩していく。タッジオの微笑はナルチスの微笑であり、その微笑を見る者の命を奪っていく。タッジオはコレラ菌のように人を生から死へとシフトさせていく。第 4章では、ジョン・スノウの医学論文におけるコレラの隠喩を検討した。ジョン・スノウは、ロンドンのブロード・ストリートで 1854年に発生したコレラの大流行の原因を疫学的手法で突き止めている。この件は疫学史で大きく取り上げられている。ブロード・ストリートで起きたコレラ大流行の始まりはコレラ患者の便を汚水溜めに捨てて、その汚水溜めの内容物が井戸に流入したことである。上水と下水が混合したのである。また、病気は不健康であり健康と対極にあるかのように思われているが、健康はグラデーションのように曖昧でどこからが健康なのかは言い難い。  先述のように、コレラには水と空気の論争があった。万物の根源は土、空気、水、火でできているという四元素論が信じられていた時代がある。四元素論によれば、水は目に見え、空気は隠されているとされていた。コレラの論争において、コレラの感染経路の真実は、空気を信じる者に隠され、水を信じる者の目に見えた。空気には偽りが、水には真実があった。コレラには偽りと真実の混合という隠喩が潜んでいた。医学論文は事実をありのままに記述した隠喩とは縁遠いテクストであると信じられている。しかし、実際には医学論文にも文学作品と同様に混合という隠喩が存在するのである。

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  • 小津安二郎論

    河原 悠真

    これまで、小津に関する様々な研究がなされてきたが、それらは小津を禅、風流、もののあはれ、などといった日本的な映画監督に結びつけようとするものだった。しかし、こういった主張は小津を日本的な監督に「押し込めようと」しているように考えられた。そこで本論文では、小津安二郎の『晩春』(小津安二郎監督、日本、1949)において、紀子(原節子)と服部(宇佐美淳)が海沿いの道路を自転車で走るシーンを取り上げ、画面を“見る”ことに努め、画面から読み取ることができる事実と、歴史的な事実をもとに、前述のシーンを分析した。第一章では、『長屋紳士録』(小津安二郎監督、日本、1947)『風の中の牝雞』(小津安二郎監督、日本、1948)に登場するシーンを例に挙げながら、本論文の目的としている、『晩春』における紀子と服部のサイクリングシーンの分析のための前段階として、戦後という時代背景を読みとった。小津作品の戦後の二作では、インフレと食糧不足による国民の生活の苦しさが色濃くあらわれている。第二章では、『晩春』『麦秋』(小津安二郎監督、日本、1952)を主に取りあげ、第一章で述べたような苦しい生活の中で芽生えつつあった、豊かさへのあこがれについて論じている。また、第二節・第三節においては、紀子(原節子)のファッションがアメリカのボールドルックに影響を受けていることや、登場人物の会話などから、アメリカナイズされた生活様式が豊かさの象徴として見られていたことを述べた。第三章では、本論文の目的としていたサイクリングシーンの分析を進めた。第一節では、サイクリングシーンに登場したコカ・コーラの看板についての分析、その前段階として、コカ・コーラそのものの歴史について述べた。続く第二節では、第一章・第二章で述べた戦後の日本の食糧事情の切迫、アメリカンスタイルへのあこがれと、前節のコカ・コーラの歴史を踏まえ、サイクリング中に画面に登場するコカ・コーラの看板についての分析を行った。サイクリングシーン・その後の浜辺で談笑するシーンと、コカ・コーラの CMとの類似性を指摘し、この一連のシーンが、アメリカ的なものが豊かさを象徴し、豊かさが幸せと結びつくという二段構造をなしていることを主張した。第三節では、『晩春』における、原節子演じる紀子について分析した。第二章第二節で述べたボールドルックや、家族・友人・知人との会話などから、彼女が、流行のファッションを取り入れ、生活水準の高い、現代的な生活の中にいることが分かった。一方で結婚観においては、後妻をとることを「不潔」と評すなど、比較的旧い価値観・精神をもった女性として描かれている。こうした説話的流れの中から見て、紀子と服部が自転車で疾走するシーンを、安易に「軍国主義からの解放感」「アメリカがもたらした自由の感覚」と断じることはできないと結論づけた。

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  • 蚕糸業における女性~主に長野県上田・小県地域の製糸業を参考に~

    木村 純子

    この論文は対象とする地域を長野県上田・小県地域としたうえで、主に製糸業に従事した人々が残した資料や記録にスポットを当て、彼ら・彼女らの生きざまがどのようなものであったかについて調査したものである。調査に当たっては、先行研究及び書籍『信濃蚕糸業史』等による地域史を参考にしながら、主に現地での関係者・団体への聞き取りを重視した。序論では現在の製糸業は、『あゝ野麦峠』やその派生作品の影響もあり、その印象は発展途上の日本の過酷な長時間労働の歴史とともに思い起こされることが多いことを指摘した。1 日 12 時間労働などの長時間労働が実在したことは 1 章で示した資料や記録などからも明らかであるが、それでも長野県だけではなく、県外の山梨・新潟・岐阜・富山・群馬などの地域からも毎年福利厚生等を掲げた募集で多くの工女が集まり製糸工場へ出稼ぎに行っており、工女の需要が製糸工女の評価向上に努めた人々や、貧しさに直面していた農村の背景が重なって生み出された点に触れた。2章の具体例で製糸工場の中には、工女への還元事業として貧しい家庭の出である女性に対し当時の婚前の女性のたしなみとされていた華道などを修める機会を与えた神栄製糸株式会社田中製糸工場のような工場も存在したことが確認できた。上田地域には、同地域でトップの規模を誇っていた依田社の記録がシナノケンシ株式会社の絹糸紡績資料館に残されていた。経営者の「工女は最大の協力者である」との訓示を掲げ大規模な企業に成長した依田社では、当時雇われていた 6千人超の工女全員が信越線に乗り東京見物に繰り出すという大規模な慰安旅行が企画され行われていた。3章では、依田社経営陣が第一回国際労働機関総会に出席していたことを示し、世界の労働者を取り巻く情勢に敏感な立場であった彼らが工場法の施行に合わせ、いち早く待遇改善に取り組んでいたことを明らかにした。製糸工女の残酷物語『あゝ野麦峠』の舞台となった岡谷は長野県の中でもいち早く生糸の能率的な大量生産が発達した地域であるが、上田地域は 1日 11時間労働が決議される以前の大正 15年に 1日 10時間労働を実現させていることから、器械製糸の発展こそ遅れたものの、別の労働者保護という観点からは他の地域よりも時代に先んじていたという一面が明らかになった。徐々に是正されていったとはいえ、製糸業に従事していた女性は長時間労働や賞罰制度による様々なストレスを抱えながらも糸を挽き続けた。それは彼女らの主な目的が出稼ぎであり、苦しい家庭の家計を助け、生き抜かなければならなかったためであった。彼女らをひとまとめに歴史の犠牲者とするのではなく、今私達が生きている時代や制度の礎となった激動の時代を生き抜いた一人の証人として、改めてその姿を構築しなおす必要がある。

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  • オートクチュール誕生以降のフランスモードにおける「エレガンス」

    小林 茜

    フランスは、様々な新しいファッションを生み出し、世界におけるモード発信の中心として存在してきた。そしてその「フランスモード」において「エレガンス」という価値基準は最高の称賛の言葉であり、フランスのファッションを作り出す人々やそれを享受する人々は皆、「エレガンスとは何か」ということを追求し、華やかなモード文化を作り上げてきた。そこで、本論文では「モード」を女性服の流行やファッション全体を表す言葉とし、フランスモードにおける「エレガンス」という価値基準のあり方の変遷を追い、フランスモードにおける「エレガンス」とは何かを考察した。なお、考察する時代はフランスモードがより隆盛を見せ始めたオートクチュール産業誕生以降(1858 )を中心とした。まず第一章では、本論文において必要となる基本的な事柄について整理した。第一節ではフランスモードにおけるエレガンスの基本的な意味をおさえた。第二節ではオートクチュール産業が誕生するまでの背景として 19世紀フランスモードにおいて起こった変化や発展について述べ、続いて第三節ではオートクチュール産業とはどういうものかについて述べた。また第一章を通して、19世紀にはより多くの人々が 1つのモードを享受することができるようになり、オートクチュール産業によってクチュリエが顧客よりも優位な立場となってモードを先導する存在になったことを示した。第二章では、オートクチュール産業が誕生した 1850年代から 1980年代までをモードの変遷に従っていくつかの時代に分け、エレガンスを考察した。これによってフランスモードにおけるエレガンスとは、品位と共に「女性らしさ」や「女性の美しさ」を表現するものであることを示した。1850年代から 1980年代までのエレガンスは、慎み深くか弱い女性、自由で自立した強い女性、自立しながらも女性らしい優雅さを失わない女性、そして自分らしい美しさを表現する女性と、社会の中で変化する女性を反映して変化してきた。これらの各時代における理想の女性像をモードにおいて表現することで様々な形の「女性らしさ」と「美しさ」が生まれ、それがエレガンスとなるとした。またエレガンスは、シャネルが当初ミニスカートを「エレガントではない」と批判したように指標としてフランスモードの美しさを判断する役割を担っており、洗練されたモードを作るための最も重要な価値観として追い求められてきた。しかし 20世紀末になりモードが多様化し、様々な価値観が並存するようになったことでエレガンスは 1番に追い求められる価値感ではなくなった。それでもエレガンスはそれまでのフランスモードを築き上げてきた価値観としてフランスモードの伝統的な美しさを表現するという新たな役割を担ったことを示した。以上のことから、オートクチュール誕生以降のフランスモードにおけるエレガンスとは最終的に「多様な女性らしさと美しさを表現した洗練されたスタイル」であり、美しさを判断する指標として追及される価値観から、フランスモードの伝統的な美しさを表現する価値観へと変化したと結論付けた。

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  • スポ根ジャンルの衰退と新しいスポーツ漫画

    小林 古都子

    スポ根とは、スポーツ根性ものの略式名称である。そのスポ根ものの元祖といわれているのが 1968年に連載が始まった梶原一騎の野球漫画『巨人の星』だ。このスポ根のブームは1967~69年代と言われているが、そのブームは長く続くわけでもなく、80年代にもなるとスポ根漫画は、特に少年漫画では衰退していくこととなる。そこで、少年漫画において、スポ根から変化していったスポーツ漫画はどう変わっていき、さらに現在のスポーツ漫画はどのようになっているのか明らかにすることを本論の目的とした。第一章では先行研究を中心に、スポーツ漫画の全体的な流れと、研究対象となる少年漫画に影響受けやすいのは子どもだと考えられる故、子どものスポーツの環境についてまとめ、大人が子どもを「囲い込む」状況にあったということを述べた。第二章ではスポ根の代表作品『巨人の星』と、スポ根の衰退時期の作品の『キャプテン翼』を、第一章でまとめたことを参考に、子どもと大人の関係にフォーカスを当て、比較を行った。『巨人の星』では大人の権力が強く、子どもに過干渉し、囲い込む傾向があるのに対し、『キャプテン翼』では子どもの自由を認め、見守る傾向があるということを明らかにした。第三章では現在のスポーツ漫画のリアル化について述べた。『ハイキュー!!』を例に挙げ、『巨人の星』や『キャプテン翼』と比較すると部活の描写や、技の在り方において、よりリアリティを獲得しているということを確認した。以上のことより、『巨人の星』から、『キャプテン翼』にかけて、スポ根が衰退したとともに、子どもが大人の囲い込みから抜け出す、新しい形のスポーツ漫画が誕生するようになった。さらに時代が進むとリアリティを持つ漫画が求められるようになり、スポーツ漫画のリアル化が進むようになったという流れが、スポーツ漫画の変容であると結論付けた。

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  • ユーリー・ノルシュテイン論

    小林 嵩英

    ノルシュテインの作品をボードウェルとトンプソンによる映画分析理論を用いて、物語や語り手、声などを中心に分析を行った。第 1章では、先行研究やボードウェル、トンプソンの映画分析理論を紹介した。第 2章では、各作品の物語形式の分析を行った。ノルシュテイン作品において、『話の話』以外の作品は、「古典的なナレーション」に近い形式を持ち、時間的・空間的・因果的に連続性を持つ作品も多いことがわかった。『話の話』、『25日・最初の日』以外のノルシュテインの作品はボードウェルの言う「ordinary film」に分類することができ、そこから逸脱した作品として、『話の話』を位置付けることができる。また、『話の話』の物語形式は、「芸術映画ナレーション」に分類することができる。ノルシュテインのこの物語形式を持つ作品の少なさから、「作者」のスタイルの蓄積が観客の側にはなく、観客は何を頼りに作品を鑑賞すればいいのか分からなくなる。これにより、観客は「謎」であるという印象を受ける。「作者」の筆跡を頼りに作品を鑑賞する観客は、これにより「謎」でという印象を受ける。また、『話の話』の特異な点としてその空間的な矛盾を挙げた。シュジェートは同一空間、空間的な連続性を示すようないくつかのキュー(手がかり)を示すが、観客はそれを別の世界のように、連続しない空間として認識する。これが、この作品の特異な点であると述べた。この「構成上の動機付け」以外では動機付けすることができないような矛盾した空間が観客を混乱させ、謎である印象や何が物語られているのか分からないといった印象を与えるということを示した。第 3章では、「語り手」という側面からノルシュテインの作品を分析した。『話の話』以外の作品は、語り手がシュジェートを補い観客のファーブラ構成を促すような役割を担っているが、『話の話』においての語り手は、シュジェートを補うようなものではなく、観客はファーブラを構成することができないとした。第 4 章では、声と視線について分析した。ノルシュテインの作品は、声や視線によって、物語世界と非物語世界の境界線が明瞭になるシーン、強調するシーンを含む。これは、『キツネとウサギ』以降の作品すべてに当てはめることができる。それにより、作品は、観客との境界線をはっきりと引き、観客が物語世界へと入ることを妨げるとした。非物語世界と物語世界は、「個人的な世界」としてそれぞれ存在し、覗き込むことはできるが、完全にその世界に入りこむことは許さない。『話の話』においてこの区別は顕著である。この区別や「作者」としての蓄積の無さなどにより、『話の話』は、観客に「謎」であるという印象を与えると結論付けた。

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  • 宝塚歌劇における翻案~西洋起源の作品をめぐって~

    齋藤 亜美

    2019 年で 105 周年を迎える宝塚歌劇団では、これまでに様々な西洋起源の作品が上演され、演出が加えられてきた。本論文では、原作のある作品を宝塚に持ち込むときに、何らかの変更がされていることを「翻案」として捉え、『Anna Karenina』と『エリザベート』の 2作品を取り上げ、原作となった作品と、宝塚で上演されたものを比較し、どのような演出がされているのかを分析した。第 1 章では、宝塚への海外作品導入の背景についてまとめた。1929 年に岸田辰彌の『モン・パリ』が日本初のレビューとして大ヒットを収め、宝塚に西洋の文化を大胆に取り入れることになった。1963年には、東宝が日本初のブロードウェイミュージカルとして『マイ・フェア・レディ』を上演し大ヒットを収めた。このことを受け、宝塚でも作品作りに海外の力を取り入れるようになり、1967年に宝塚初の海外ミュージカル『オクラホマ!』が上演された。その後も宝塚では海外ミュージカルが多数上演され、『エリザベート』をはじめ、海外ミュージカルの人気が高いことを確認した。第 2章では翻訳による『Anna Karenina』と、宝塚で上演されたものを比較し、原作では女性のアンナが主人公であるが、宝塚版では男性のヴロンスキーが主人公になるように演出されていることを示した。さらに、原作はリョービンとアンナの 2つの時間軸で物語が進んでいくが、宝塚版ではリョービンの時間軸はほとんどカットされ、アンナを巡る夫カレーニンと、愛人ヴロンスキーの三角関係を中心とした「恋愛ロマン」として描かれていることが分かった。第 3章では『エリザベート』のウィーン版、宝塚版、東宝版の 3つを比較し、演出の違いを明らかにした。トートの役の比重やエリザベートの人物像が 3バージョンそれぞれ異なっているのに加え、宝塚版では政治的、歴史的、性的描写がカットされ、団のモットーである「清く・正しく・美しく」に適応した演出がされている。初演となるウィーン版を大胆に変更した宝塚版は、トートが主役となっているため「トート編」と言える。宝塚版の後に上演された東宝版は、宝塚版から「愛と死の輪舞」のシーンや、歴史を理解しやすくするための革命家の存在を引き継ぎながらも、ウィーン版のような性的描写や、反ユダヤの民族主義運動を表した「HASS」など、政治的内容を取り入れたことから、ウィーン版と宝塚版の中間であると言えるという結論に至った。以上の分析から、宝塚歌劇に原作のある作品を持ち込む際、男役を主役としたり、「清く・正しく・美しく」に適応したりすることで、観客の期待に応える演出がされていることを見出した。原作のある作品を宝塚版として翻案する際、大きな変更が必要となる。大きな変更をしてまでも演出家が描きだしたかったものの一つとして「ひと時の夢」があるのではないかと考えた。「男役」という存在が作り出す虚構の世界の中で、観客には「夢」や「非日常性」が提供されていると結論付けた。

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  • 宮崎駿作品におけるキャラクター造形

    櫻庭 結佳

    今やジブリを知らない人はいないほどその知名度は高く、同時にジブリ作品とは宮崎駿のアニメであるというイメージを持っている人は多いのではないだろうか。「スタジオジブリ=宮崎駿」といったイメージは非常に強い。宮崎駿は高畑勲との共同制作でも知られ、宮崎が監督を務めた『風の谷のナウシカ』(1984)や『天空の城ラピュタ』(1986)では高畑がプロデューサーを務め、高畑が監督を務めた『おもひでぽろぽろ』(1991)や『平成狸合戦ぽんぽこ』(1994)などでは宮崎が製作プロデューサー、企画などを務めている。しかしながら、二人の作品には異なる特徴を見出すことができる。それは、宮崎駿はファンタジーの力を肯定し、高畑勲はリアリズムに特化していることである。本稿では、壮大な世界観を描く宮崎駿の作品におけるキャラクター造形に焦点を当てた。第一章では、宮崎駿という人物、そしてジブリの世界観を概観していく。宮崎駿は、1963年に東映動画に入社、テレビシリーズ『ルパン三世』(1971年 10月―1972年 3月)の途中から高畑勲と共に演出を担当し、『未来少年コナン』(1978年)で初めて監督を務める。東映動画はこれまで多くの短編アニメを作ってきたが、ジブリは劇場用の長編アニメを作ることを活動の中心に置いた。多くのアニメーションスタジオがテレビアニメを作ることを主としていたことを考えると、ジブリは特異な存在であったと言える。第二章では、宮崎駿の作品の人物像として具体的にジブリの世界における「少女」を中心としたキャラクターについて考察した。宮崎駿の作品において、「少女」は主なキーワードとなっており、「少女」というのは、未来への可能性を秘めた存在である。しかしながら、宮崎は子どもが大人になることに対して、「くだらなくなる」と発言しており、「少女」というのは宮崎の作品におけるファンタジー性を支える要素であると結論付けた。第三章では『千と千尋の神隠し』に焦点を当て、それぞれのキャラクターについて考察した。心理学者のアブラハム・マズローの欲求 5段階説を引用し、『千と千尋の神隠し』におけるキャラクターは安全欲求の段階にあると考えた。また、物語の主な舞台となる油屋が過酷労働を強いる場として描かれており、そこに子どもである千尋が加わることによって、資本主義の暴力を明らかにしていると指摘した。宮崎が描く世界はアニメーションの中に留まり、それだけで完結するのではなく、実社会との重なりを起こすものである。ファンタジーとリアルの世界の融合が、「少女」によって巧みに表現されている。宮崎駿は作品の中で、世界の美しさと残酷さのコントラストをジブリという世界で見事に表現してきたのであると結論付けた。

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  • VOCALOIDは音楽制作に何をもたらしたか

    佐藤 元春

    VOCALOIDとは 2003年ヤマハ株式会社によって開発された音声合成技術であり、およびその応用製品の総称である。なお、VOCALOID(ボーカロイド)および「ボカロ」はヤマハ株式会社の登録商標である。コンピューターを歌わせるという挑戦の末に生まれたのがVOCALOID であるが、中には VOCALOID を用いて制作した楽曲を自ら歌唱したセルフカバーを投稿する者も見られた。彼らは自身で歌うことが出来るにも関わらず、何故わざわざ VOCALOID を使うのかという疑問が本研究のきっかけとなっている。本論文では、VOCALOIDが音楽制作にもたらしたものは何かを明らかにすることを目的とした。第 1章ではそもそも VOCALOIDとは何か、また VOCALOID開発以前の歌声合成の研究の歴史と、VOCALOIDの研究から発売、さらにバージョンアップによってどのように機能が充実していったのかを述べた。VOCALOID発売以前からすでに数多くの歌声合成システムが存在していたが、VOCALOIDの生みの親である剣持は問題があったと述べており、楽曲制作において VOCALOIDを「普通」に使ってもらうためには、それが過去の問題点が解決されたソフトウェアであるべきだとした。第 2 章では VOCALOID を用いた代表的な楽曲と作曲者たちについて述べた。代表的な例を挙げ、VOCALOID と作曲者たちによってどのような作品が生まれたのかを明らかにした。第 3 章では作曲者たちが VOCALOID に出会ったきっかけと、作品を発表した後の展開について具体的な例を挙げて述べた。電ポル P は VOCALOID が登場したことによって、PC 上で本格的なロックやポップスを完成させることができるようになったと述べている。Easypopは自分の曲をネットで広めるためにボカロを使ったと述べ、2009年当時のネット上の土俵はニコニコ動画であったと述べた。またかにみそ Pはニコニコ動画に曲をあげたところ、反応がそれまでと全然違って驚いたと述べた。作品を発表した後の展開は、かにみそPの「ダンシング☆サムライ」を例に取り上げ、ニコニコ動画に投稿された楽曲がカラオケや着うた配信、「歌ってみた」や他のボカロ Pによるアレンジなどの二次創作、漫画化などに幅広く展開する様を見出した。VOCALOIDが登場したことによって PC上で歌を含めて作品を完結させられるようになり、ニコニコ動画と VOCALOIDが共に繫栄したことによって作曲者とリスナーが集まり、作曲者たちが作品を聴いてもらいやすくなる環境に徐々に変化していった。その中でも有名なものはアニメ化や漫画化など更に活動を展開し、今や VOCALOIDは作曲者のツールに留まらず、一つの文化になったと結論付けた。

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  • 現代日本のポピュラー音楽におけるライブイベント論~SEKAI NO OWARI を中心に~

    塩野谷 秋

    ポピュラー音楽は直訳すると大衆音楽という意味で、世の中で広く聴かれ、多くの人に好まれている音楽である。本論文では、日本のポピュラー音楽において、レコード産業が衰退していく一方でライブ市場が拡大していることに注目し、日本を代表するバンドのひとつとして SEKAI NO OWARIのライブを分析した。1章では一般社団法人日本レコード協会が発行している『日本のレコード産業』を参照し、レコード産業の流れを確認した。レコード産業は 1998年にピークを迎え、その後 CDの売り上げは減少していく。音楽は CD で買う時代からダウンロードする時代へと変化し、音楽配信が伸びを見せるものの、レコード産業全体としては衰退していることを示した。一方で、一般社団法人コンサートプロモーターズ協会が行っているライブ市場調査のデータを参照し、ライブの公演数・入場者数・年間売上額などが増加していることを示した。2章では SEKAI NO OWAROがどんなバンドであるかということを述べ、彼らがバンド結成よりも先にライブハウスを手作りしたことや、仲間と楽しむために音楽をやっていることに注目し、バンド結成までの経緯をまとめた。3章でこれまでのライブの概要と取り上げるライブについて述べ、4章でライブの特徴を分析した。大規模なステージセットや演出、変わった座席ブロック名やフードコーナーのメニューなど、細部までこだわっていることを示した。5章では彼らのライブが変わったきっかけと、なぜこのようなライブを行うようになったのかについて、インタビュー内容をもとに明らかにした。彼らはセルフプロデュースの初野外ワンマンフェスティバル「炎と森のカーニバル」を行った際に、これまで室内では限界があったことを実現させることができた。ボーカルの Fukaseの頭の中に広がるファンタジーをライブにうまく持ち込むことで、自分たちにしかできないことを確立していったのである。また Fukaseの音楽活動に対する考えに注目し、音楽を使って遊んでいるという意識や、やりたいことに妥協しない強引さが、このようなファンタジックなライブを実現させた要因であると示した。ライブ市場が成長を見せている日本の音楽産業において、SEKAI NO OWARIは音楽的な要素以外からも楽しめるライブのスタイルを提示した。ただしこういった大掛かりなことが実現できるのは、金銭面や知名度、集客力などから考えてもある程度の人気アーティストに限ったことである。こういった一部のアーティストのライブ規模の拡大が、ライブ市場の拡大にも影響を与えているとも考えられると結論付けた。

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  • 表現方法の多様化とキャラクターの在り方~EGOIST・楪いのりを例にみる変化~

    塩谷 郁巳

    2000 年代後半から現在に至るまでのキャラクター表現方法の多様化は、キャラクターと「中の人」の関係性、そしてキャラクターの在り方にどのような変化をもたらしたのか。本稿では、2011年~2012年にかけて放送されたテレビアニメ『ギルティクラウン』から派生した架空のアーティストである EGOISTにおける、ヴォーカル担当のキャラクター「楪いのり」とその声を担当する「中の人」である chellyとの関係性に焦点を置き、キャラクター市場の発展の過程におけるキャラクターと「中の人」の距離感の変化、キャラクター表現技術の進歩とそれに伴うキャラクターの在り方の変化について研究を行った。まず第一章では、キャラとキャラクターの違いを定義し、楪いのりというキャラクターを

    「意味」、「内容」、「図像」という 3つのキャラ要素に分解した。そのうち「意味」と「図像」を chellyが共有していることが、2人の距離を近づけている要因であると考えられ、これより「中の人」自身がどれだけ自分のキャラ要素を持って自立できるかが、自らが演じるキャラクターとの関係性の深浅に影響を与えると考察した。次に第二章では、EGOISTと同じく、キャラクター 3DCG×歌声(「中の人」)という活動形式を取っている初音ミク(2007年発売)との比較を行い、二者の相違点と共通点について考察した。また、楪いのりと chellyが離れるに離れられない複雑な関係性に至った一因を担うのが、EGOISTの現在の活動領域であるキャラクター音楽市場であると考え、続く第 3章で、キャラクタービジネスにおける音楽市場の発展について触れ、その中でもここ数年で強く求められているのが“キャラクターが存在感を持って動くこと”であると捉えて、そうした“動く”キャラクターへの関心を収束したコンテンツとしての「キャラクター系ライブ」における表現方法の変遷について考察した。このように、現代のキャラクターが生きる場所は、もはや平面的な範疇では収まらず、「動き」や「声」といった構成要素を加えて“存在感”を持つことを必要とし、これによりキャラクターと「中の人」が強く結びつけられることが増えた。こうしてキャラクターたちが 2次元という平面を飛び超えて動き出そうとする一方で、しかしこれは「中の人」にキャラクターの在り方を左右されかねない状況も同時に招いている。つまり、キャラクター表現方法の多様化によって「キャラクター」と「中の人」が強く結びつけられるようになっている現状は、キャラクターが“存在感”を持つようになったという反面、「中の人」がキャラクターを支配しかねないという危機感も生んだと考えられ、キャラクターの在り方に、プラスにもマイナスにも変化をもたらしている、と結論づけた。

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  • 新海誠における声と視線

    設樂 文花

    アニメーション映画監督である新海誠の作品は、しばしば精緻な風景描写について議論され、声や語りに関して焦点を当てられることが少ない。しかしながら映画における物語空間を認識する上で、声は非常に大きな役割を担っている。本研究では、新海の映画における声、語りの演出を分析することで、それらが観客を取り込む物語空間にどのように作用しているのか明らかにすることを目的とした。第一章では、初期作品における語りと映像の関係について分析を試みた。『彼女と彼女の猫』(2000)では、処女作品ながらキャラクターの視線を遊戯的に見せる声と映像の演出に成功しており、『ほしのこえ』(2002)においては二つの語りの声のシンクロを用いた演出の雛形を完成させていることを明らかにした。第二章では、三種類に分けた語りのパターンに沿って、中期作品と位置付けた『秒速 5センチメートル』(2007)を『星をおう子ども』(2011)と比較した。それによって、心情を吐露する内的独白による語りが風景と結びつき、あるいは映像よりも存在感を持って現れ、物語空間を作り上げていることを明らかにした。また、この内的独白による声の存在と、エンディングにおける声のシンクロの発展形と言える音楽による語り(歌詞)と映像を用いた表現によって、孤独感や虚しさを強調することに成功し、新海の語りを用いた演出が確立したと結論づけた。第三章では、新海の作品における語りの声の特徴に焦点を当てて考察し、後期作品の『言の葉の庭』(2013)を『秒速 5センチメートル』と比較することを中心に論を進めた。全作品を通して声優の起用の仕方について検討した結果、前・中期作品における男性キャラクターは、少年期、青年期通して同一の男性キャストを起用していることから、声に共通して厭世的な雰囲気を漂わせている要因の一つであると明らかにした。後期作品においては、上の二作品における語りの息継ぎのタイミングと映像の関係を比較してこれらにはある程度の法則性があることがわかった。そして、それらはビデオコンテを用いた制限された演技によってもたらされ、声に同質的な印象を付与していると結論づけた。また、『君の名は。』(2016)と『言の葉の庭』を比較することで、『秒速 5センチメートル』と同様の内的独白と映像が関係する演出が存在し、かつクライマックスにおいてシンクロする声の発展形が用いられていることによって、新海の物語世界に共通する特徴的な切実さと孤独を感じさせていると結論づけた。以上の分析より、新海の作品における一様な印象をあたえる声による語りは、映像と互いに作用しあって、時に身体を離れた声が映像の枠組みを超えて存在感を強めることで、作品に漂う孤独感を強調することを可能にしており、観客が取り込む物語世界を構築する上で声の存在は非常に重要な要素であると結論づけた。

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  • ストリートダンスの文化性とスポーツ性

    志田 綾奈

    ダンスは中学校の保健体育で 2012年度から必修化され、以前に比べ多くの人�