20
1 人権(人間の権利)は自明か? 2 啓蒙主義的・個人主義的な人権論 3 保守主義による人権批判 4 マルクスの方へ 1 人権(人間の権利 human rights)は自明か? 人権という言葉は誰でも知っている。おおもとを考えれば,人権とは,人間が生まれなが らにして持つ当然の権利であり,いかなる権力をもってしても奪うことのできない権利をさ していると教えられる。だが,人権は,その存在や内容において,果たして自明の概念だろ うか。いざ,問いを発してみると,人権にまつわる様々な問題があることがわかる。 浜林正夫『人権の思想史』の冒頭に,あるテレビ番組で,高校生が発した「なぜ人を殺し てはいけないのか」という素朴な質問に対して,誰もとっさに答えられなかったことが話題 になったというエピソードが紹介されている(浜林 1999=2)。この番組については詳らかで はないが,その後,この質問をめぐる多くのコメントが出され,著作が何冊も刊行されてい るところを見ると,反響の大きさが看てとれる。「なぜ人を殺してはいけないのか」存権は人権の中でも最も基本的なものの一つだが,いざその根拠を問われると,決して自明 ではないことがわかる。浜林は,この問いにホッブズが答えているといっているが,それが 正解かはわからない。ホッブズについては後で問題にするが,いずれにせよ人権が曖昧さを ふくんでいることの証左にはなるだろう。 一方,生存権が確立した後でも,刑事犯罪としての殺人は云うまでもなく,環境破壊や餓 死といった間接的な緩慢なる殺人などは現在も対処すべき喫緊の課題になっている。とりわ け,深刻なのは国家間の大量殺人(戦争)である。人権は,もともとは憲法に先立つ。つま り憲法によって人権が成立したわけではなく,人権を保障するために近代の憲法が制定され, その憲法の制御を受けて立法作用が行われる。しかるに,近代国家の憲法においては,そう した生存権を人権として含むにもかかわらず軍隊の存在が自明の前提とされている(因みに, 日本国憲法第 9 条は例外である)。20 世紀の二つの世界戦争は,世界の中でもいち早く近代 63 人権の根拠をどのように考えるか 石 川 晃 司

人権の根拠をどのように考えるか - 日本大学文理学部人権の根拠をどのように考えるか げられていくものではあろう。しかし,それにしても,人間や権利をどのように考えていた

  • Upload
    others

  • View
    2

  • Download
    0

Embed Size (px)

Citation preview

1 人権(人間の権利)は自明か?

2 啓蒙主義的・個人主義的な人権論

3 保守主義による人権批判

4 マルクスの方へ

1 人権(人間の権利 human rights)は自明か?

人権という言葉は誰でも知っている。おおもとを考えれば,人権とは,人間が生まれなが

らにして持つ当然の権利であり,いかなる権力をもってしても奪うことのできない権利をさ

していると教えられる。だが,人権は,その存在や内容において,果たして自明の概念だろ

うか。いざ,問いを発してみると,人権にまつわる様々な問題があることがわかる。

浜林正夫『人権の思想史』の冒頭に,あるテレビ番組で,高校生が発した「なぜ人を殺し

てはいけないのか」という素朴な質問に対して,誰もとっさに答えられなかったことが話題

になったというエピソードが紹介されている(浜林 1999=2)。この番組については詳らかで

はないが,その後,この質問をめぐる多くのコメントが出され,著作が何冊も刊行されてい

るところを見ると,反響の大きさが看てとれる。「なぜ人を殺してはいけないのか」―生

存権は人権の中でも最も基本的なものの一つだが,いざその根拠を問われると,決して自明

ではないことがわかる。浜林は,この問いにホッブズが答えているといっているが,それが

正解かはわからない。ホッブズについては後で問題にするが,いずれにせよ人権が曖昧さを

ふくんでいることの証左にはなるだろう。

一方,生存権が確立した後でも,刑事犯罪としての殺人は云うまでもなく,環境破壊や餓

死といった間接的な緩慢なる殺人などは現在も対処すべき喫緊の課題になっている。とりわ

け,深刻なのは国家間の大量殺人(戦争)である。人権は,もともとは憲法に先立つ。つま

り憲法によって人権が成立したわけではなく,人権を保障するために近代の憲法が制定され,

その憲法の制御を受けて立法作用が行われる。しかるに,近代国家の憲法においては,そう

した生存権を人権として含むにもかかわらず軍隊の存在が自明の前提とされている(因みに,

日本国憲法第 9条は例外である)。20世紀の二つの世界戦争は,世界の中でもいち早く近代

63

人権の根拠をどのように考えるか

石 川 晃 司

人権の根拠をどのように考えるか

憲法を整備してきた,イギリス,アメリカ,フランス,イタリア,ドイツそして日本といっ

た国民国家の間でおこった。職業軍人同士が戦闘によって死亡者を出すのも重大な人権侵害

だが,20世紀に入ってからの戦争においては,民間人死亡者の比率が激増していることも

銘記しておいた方がよい。先ほどの「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに対して,

「戦争の場合には人を殺すことが正当化される」と答える向きがあったと聞くが,愚かな回

答である。生存権をもとにするならば,戦争が重大な人権侵害であることは疑いがない。

当たり前だが,人間の権利(人権)は「国民」ではなく「人間」に妥当させることが期待

されている。だが,人権を保障するためにつくられた憲法は,その具体的なあり方において

は,個別の国家の憲法としてあらわれる。この側面においては,憲法(constitution)はそ

の国家の基本構制(constitution)を基礎づける最高法規にほかならない。逆に云えば,憲

法はその国家の基本法であるから,その国家を固めるためのものであり,第一にはその国家

において妥当する。ここでは,憲法は他の国家に対して排他的に作用することになる。その

憲法が人権を保障するとはいっても,その憲法の支配が及ぶ範囲において保障することにな

る。つまり,「国民」を対象とすることになる。日本国憲法をみてもわかるが,人権を規定

した第 3章のタイトルは「国民の権利及び義務」であり,権利に関しても,あくまでも「国

民の」である。人権が抽象的な個人あるいは「人間」の普遍性に定位するのに対し,具体的

な人間は個別の共同体の一員として存在している(存在せざるを得ない)。これはどう考え

られ,調整がつけられるべきかがはっきりしない。私の考えでは,この矛盾が戦争において

典型的に現れる。ここでも人権についての曖昧さが出てきている。

以上のことに関連するが,「人権の名のもとに個人の権利が異常に拡大され,「公共の福祉」

を侵害するに至る場合が散見される,こうした風潮を野放しにしていいのか」といった批判

もある。これは私的な(個人的な)領域よりも,公的な領域を上位に置くものであり,さら

に過激になると,戦前の国家主義よろしく,個人を超えた崇高な価値があると主張する向き

もある。私見では,ここにも人権にまつわる曖昧さが潜在している。

近代憲法は,その国家における最高規範として定立され,立法作用も行政作用も全てその

制御の下におかれる(立憲主義)。その国家におけるすべての権力は,憲法によって制御さ

れた権力(pouvoir constitué)である。だが,その憲法はどこに由来するのか。つまり,憲

法を制定する権力(pouvoir constituant)がある筈で,それは何か。剥き出しの実力と云う

ほかない。実際,絶対王政を崩壊させた後,近代憲法を制定する権力を握ったのは,いわゆ

る市民階級であり,近代憲法には市民階級の利害が反映されることになる。ということは人

権にも,市民階級の特殊利害が反映されることになる。もちろん,憲法に反映された価値は,

市民階級という特殊な一階級に属する価値だけではなく,例えば精神的な自由権や身体的な

自由権のように普遍性をもつとおもわれるものもある。しかし,経済的な自由権の追求は経

済格差を著しく拡大する結果を招来したために,制限を加えられていくことになった。もち

ろん,人権は決して完成されたものではなく,歴史の中でさらに,思想的・現実的に練り上

64

人権の根拠をどのように考えるか

げられていくものではあろう。しかし,それにしても,人間や権利をどのように考えていた

のかと疑問を感じざるをえない。

現在においても,人権に対して批判が向けられることがあるが,多くは人権それ自体を否

定するものではなく,その在り方に対して疑念を表明するものである。だが,問題はそれだ

けではない。通常,権利(right)は,とうぜんその内容に正しさ(right)を含んでおり,

人間に関して「正しいこと」を明らかにしたものが人権だということになるわけだが,その

「正しさ」はどのように決まるのか,「正しさ」の根拠はなにか,「人間の権利」で問題になっ

ている人間とはなにか,がはっきりしているわけではない。このように様々な問題が生じる

のは,そのもとになる権利や人間の概念が曖昧だからである。もちろん,その曖昧さは論者

の側にある。「権利」を否定するものはいない。「人間」を否定するものもいない。しかし,

それらがいかなるものかについての議論は深められていない。

本稿では,人権の根拠や人権をめぐる「人間」論の妥当性を,啓蒙主義,保守主義,マル

クスの思想をもとに考察を加えたい。啓蒙主義が提示した人権の概念は人権の最初の形態で

ある。これに対して,思想的なアンチテーゼを突きつけることになったのが保守主義であっ

た。私は啓蒙主義の人権論にも,保守主義の人権批判にも同意しない。この問題を組み立て

る際には,おそらく啓蒙主義とも保守主義とも違う問題設定をしなければならないと考える。

その際に手がかりとなるものとして,私は(ヘーゲルと)マルクスの議論を考えている。

2 啓蒙主義的・個人主義的な人権論

人権(人間の権利)とは何かについて本質論的に答えようとすれば,人間をどのように捉

えるのが妥当なのかという根本的な問いに逢着する。人権という考え方が出てきたのは,近

代に入ってからであり,しかも,西欧という一部の地域において生みだされて世界に広まっ

ていったものである。そこには時代的な刻印がおされている。そこで捉えられた人間像が,

人権に反映されることになる。しかし,そこで捉えられた人間像が普遍性を持つか否かは単

純に判断できるものではない。とりわけ,西欧近代が様々な意味で問い直される現代では特

にそうだ。

法律に先立ち,つまり立法を制約し,近代憲法によって保障されるものとしてあらわれる

人権が,明瞭な形をとって現れるのは,T.ホッブズの『リヴァイアサン』(1651)や J.ロッ

クの『統治論(市民政府論)』(1690)においてだといわれる。周知のように,ホッブズもロッ

クも,社会契約説を主張しており,その理論の展開の仕方も似通っている。すなわち,まず

相互に切り離された個人を設定し,共通の権力が存在しない個人間のありのままの状態(自

然状態)を出発点に据え,個人の合意によって主権者を成立させるという理論構成をとる。

この自然状態をどのように考えるかは両者で異なるが,これについては,いまは措く。注目

しておきたい点は,この自然状態において自然法が支配しているとされることである。また,

これらの理論では,国家や社会(政治社会)が二次的に生成するという地位しか与えられな

65

人権の根拠をどのように考えるか

いことである。

この自然状態において,個人は,固有の譲り渡すことのできない権利を自然権としてもっ

ており,この自然権を守るためにこそ社会契約を結ぶとされる。ここで問題にしたいのは,

後の人権に接続する,この自然権を主張する根拠はどのように考えられていたのか,である。

この点に絞って,ロックの理論を振り返ってみる。(ホッブズについては,後で触れる。)

ロックもホッブズ同様,自然状態において,人間がもつ自然の権利,基本的な権利がある

ことを主張する。この基本的な権利の内容と根拠は,次のように述べられている。

「自然の状態にはそれを支配する自然の法があり,それはすべての人を拘束している。

そして理性こそその法なのだが,理性にちょっとたずねてみさえすれば,すべての人は

万人が平等で独立しているのだから,だれも他人の生命,健康,自由あるいは所有物を

そこねるべきでないということがわかるのである。なぜなら人間は皆,唯一全能でかぎ

りない知恵を備えた造物主の作品だからである。すなわち人間は,唯一なる最高の主の

命によってその業わざ

にたずさわるために地上に送られた召使いであり,主の所有物であ

り,主の作品であって,人間相互の気ままな意志によってではなく,神の意のある間,

生存を許されるものだからである。」(ロック1690=195-6)

自分の「生命,健康,自由あるいは所有物」が,譲り渡すことのできない価値であり,人

間はそれに対する権利を持つことが指摘され,この人間の権利(人権)の根拠として,神と,

さらには理性が持ちだされている。ロックが提示したこれらの価値は,人権として,アメリ

カの独立宣言やフランス人権宣言に盛り込まれることになった。そしてその後の多くの憲法

の人権規定に大きな影響を与えることになったことも周知のことである。

だが,神や理性を,人権の根拠として定立することができるのだろうか。結論からいえば,

不可能である。神に関していえば単純なことで,究極的な根拠として神を認めるというとき,

その根拠は「信じる」点に求めるしかない。誰もが同じ神を「信じる」ならば,それを究極

的な根拠や価値基準とすることもできようが,「神の死」のあとに,つまり価値相対主義の

時代に生きる私たちには,それは難しい。神に限らず,一般に究極的な価値基準などを,客

観的に設定するというのは矛盾である。

また,長谷川三千子は,この神と人権について,権利と義務の関係から辛辣な批判を加え

ている。本来,権利はメダルの裏表のように義務と対になる。しかるに,長谷川によれば,

この議論では神から与えられた権利を主張しはするが,神に対する義務については,ほとん

ど言及しないのである。「一口に言って,「人権」の概念は,こっそりと裏側では神にたより,

神のご威光によって自らを正当化しておきながら,それを曖昧な表現でぼやかしたり,途中

で放り出したりしてしまうことによって,それと一対になるべき「神への義務」に頬かむり

をきめ込んでしまっている―そういう代物なのである」(長谷川 2001=158)。これはアメ

66

人権の根拠をどのように考えるか

リカ独立宣言に典型的にあらわれるのだが,その源は明らかにロックにあるとしている。

翻って,こうした批判を前にして,ロックの人権論は,妥当性を持たないということにな

るのだろうか。引用した箇所に限らず,『市民政府論』には神に対する言及が多い。もちろん,

ここで神というとき,キリスト教の神,客観的に見れば特殊な神を意味している。ここだけ

を取り上げて,長谷川が指摘するように,自分の理論にとって都合のいいように,神を利用

しているだけだと,批判することも不可能ではない。とはいえ,当時の思想的な伝統に沿う

ならば,また文化的な背景を考えるならば,神を持ちだすことはごく普通のことでもあった。

中世においては神がそのまま信じられていたわけだし,ロックの生きた時代にあっても神が

究極の根拠として威力を発揮したという「余韻」も残っていたはずである。だが,問題はそ

こにはないようにおもわれる。

ロックの思想のリアリティは,この時代の多くの思想書にみられるように,神を外しても

成立するように思えるところにある。人権に関しても,神がなくとも,世俗化された思想の

次元で正当化されていると考えるべきではないのか。だとすると,キリスト教の神を根拠と

しなくても人権が成立するとすればどのようにしてなのか,が問題となる。

もう一点,人権の根拠としての理性の問題がある。この問題についても同じように考える

ことができる。ロックは「理性にちょっとたずねてみさえすれば」として,権利の根拠を理

性にもおいている。理性や自然法は,西洋思想においては古代ギリシャ以来,重要な役割を

果たしてきた。近代に入っても,これらの概念は,自然権とともに,政治思想の嚮導概念と

なった。もちろん,そこに盛り込まれる内容は変化する。近代に入ると伝統的な自然法は理

性との関係で捉えられることになる。グロティウスに典型的だが,自然法は「正しい理性が

教える戒律」という意味で捉えられるようになる。神の存在ないし神による「後ろ盾」を否

定したわけではないが,重要なことは,自然法はたとえ神が存在しないとしても妥当すると

明言していることである。神は棚上げされている。この場合の理性は,後にデカルトによっ

て明らかにされる構成的な理性に近い。神の棚上げは,デカルトにしても同じだ。デカルト

も確かに神の存在証明をおこない,神の後ろ盾によって理性の権能の根拠としたが,仮に神

が存在しないとしても,その理性の考え方自体は成り立つように見えることが重要だ。後世

から見れば,神は補足的な位置を占めるだけだ。こうした流れを踏まえて,ロックの思想は

展開されていると考えるべきだろう。

だが,そうだとしても,究極的な根拠をこうした理性におくことができるだろうか。単純

化を怖れずに云えば,デカルトは,方法的懐疑の果てに理性作用(コギト)の確実性を見い

出だし,それを知の出発点に据えた。私が明晰判明に真実と認識するもの,私の理性が「我

思う,故に我在り」と同じ程度に争い難い自明性をもって真実と認識するものはすべて確実

であるとされることになった。知の領域の主体が理性の側に移行し,人間は認識の真理性を

自己の精神の内で自律的に保守してゆく権利を得る。すなわち,理性が対象を構成し,世界

のうちに何が存在し,何が存在しないのかを決定する権利を握る原理的存在に高められてい

67

人権の根拠をどのように考えるか

く。だが,究極的なことを云えば,理性の判断の確実性の根拠は理性がそう判断したからと

いうトートロジーに陥るほかない 1)。理性の背後に「神」を根拠として認めるなら話は別だ

が,先に述べた通り私たちは「神の死」以後に生きている。

かくして,啓蒙主義的な個人主義が主張する人権の根拠は,「神」「自然法」「自然権」「理

性」にしても「信じる」のでなければ,その妥当性,普遍性を保持しえないということにな

る。実際,ロックなどを嚆矢とする人権概念は,西洋という歴史的文脈に依存した特殊なも

のであり,人類としての普遍性をそのまま主張できるのかと疑問を呈されることもある。ロッ

クは自由主義(リベラリズム)の定礎者であり,近代憲法は,アメリカ憲法やフランス人権

宣言における人権概念を見ればわかるように,自由主義を大きな柱としてつくられている。

そうした意味では,当初の「人権の理念は,本来的には近代西欧世界の独善的な文化帝国主

義を反映した,リベラルな想像力の産物」(シュート &ハーリー 1993=3)ということになる。

事実,ロックが提示した人権の内容は,当時のブルジョアジーの利益にかなうものであっ

た。とりわけ,所有権に関してはそういえる。だからこそ,この人権規定が,資本主義の進

展とともに広がっていったということもできる。また,同じ理由で,19世紀にプロレタリアー

トの要望を入れる必要が生じると,社会権が人権として追加されることになった。何度も云

うが,人権とは人間の権利であり,人間という普遍的な次元に定位される。しかし,このロッ

クの議論を見ると,とりわけ所有権の議論を見ると,人間だけではなく,ブルジョアジーと

いう特殊な階級に専ら支持されるものになっている。

だが,こういう特殊性と普遍性の問題はいつでも付き纏うと考えるべきではないだろうか。

歴史的・個別的な状況の中で,さまざまな観念が産み落とされる。このとき,この観念には

その時代的な,また地域的な陰影が刻印されるだろうが,しかし同時に普遍性も含むと考え

るべきであろう。人権にしても同じで,特殊な地域に,特殊な時代に産み落とされたであろ

うが,それは全世界に広まっていった。もちろん,批判もあるだろうが,そうした批判も含

めて,いまだに大きな論争の的になること自体が重要であり,それが普遍性ということだ。

では,以上の議論を踏まえるとき,人権の根拠は,どこに求められるのか―否,どのよ

うに考えられるべきか。権利として定立され,それを受け入れる準備が,時代として整った

と云うほかないようにおもわれる。

重要なのは,人間にたいする見方が近代に入って大きく変化し,その変化の上に思想が構

築されていることである。社会・経済的な歴史において,また文化・精神的な歴史において,

近代は人びとが個人の意識,自らの尊厳の意識に目覚めつつあった時代である。「個人の尊厳」

という考え方,またその実現が歴史の現実のプログラムにのぼってきつつあった。この場合

の個人は,理性をもとにして自立的な判断をおこなうと考えられている。それ以前の,いわ

ば共同体の中に埋没するように存在していた人間,個人という意識などほとんど持つことが

なかった人間とは明らかに異なる「人間」が,理性を備えた個人が,出発点に据えられてい

る。こうした人間類型は近代に入って作為的に形成されたのではなく,歴史的に醸成された

68

人権の根拠をどのように考えるか

ものである。現実の歴史に根を下ろしている。理性は西洋において,古典古代から特別な意

味を持っており,その歴史は長い。自然法にしても同じだ。そして近代に入って,近代的理

性,近代的自然法として展開された。要するに歴史的にそういう展開が可能な段階に到達し

ていたということだ。

近代に入って個人が自覚され,その個人は自らをとりまく様々な桎梏から自由になり,よ

りよい生き方を模索するようになった。ホッブズやロックの政治社会理論は,現実をそのま

ま表象した理論ではなく,未来への道標を示す一種の規範理論として提示されたものである。

歴史は自らの進む方向・意味(サンス sens)を指し示す。確かに,まだ実現されてはいない。

だが,そうした方向・意味を,歴史は自らをホッブズやロックという思想家を借りて表明し

たともいえる。彼らの規範理論のリアリティはそこにある。

もちろん,逆からも云える。どのような思想であれ,歴史のコンテキスト(社会・経済的

動向だけでなく文化・精神的動向も含む)から独立して表象されるわけではない。現実のな

かに,歴史のなかに,その根拠を置いている。もちろん,歴史は個別的だから,そこで表象

された思想が,その地域だけにしか妥当しないようにみえることもあろう。そうした特殊性

の側面を持たざるをえない―そうした限定を思想はいつだって持たざるをえないという宿

命を負っている。しかし,特殊性だけでなく普遍性もそこに可能態として内包されていると

考えるべきだろう。

ホッブズやロックの時代に,人権という観念が生みだされざるを得なかった。これから見

るように,そこで意味された人間が,具体的な肉体を欠いた抽象的なものであるといった批

判が,保守主義からやってくる。しかし,そういう思想が生みだされたこと自体が,歴史の

運動,歴史の意志と見ることができる。そのような考えを生み出すこと自体の意味を問うべ

きなのだ。「この時代に,ことさらに人間の権利を主張しなければならなかったのはどうし

てなのか」と問うべきだし,そのことの現代的な意義を問うことが必要である。

人権(人間の権利)は当時にあって実現されているわけではなく可能態として存在した。

だから規範理論として提示された。実現されていないという意味では,歴史のなかに根拠が

ないように見える。しかし,人間の尊厳をもとにした人間の権利を保障するための社会契約

といった規範理論を語ることができるまでの段階に歴史が到達していた。未来に存在すべき

ものを過去が指し示しているのであって,規範理論はそれを表象していると考えるべきもの

だ。そういう根拠づけなのだ。

人権を保障するものとして,社会契約によって成立させられる国家は,人権を守るために

合目的的・人工的に設立される権力機構であり,ほとんど政府の意味に近い。一方,私たち

が具体的に生きている共同体は歴史的に形成されてきた個別的なものであり,その意味で排

他的であるが,人類一般に定位する人権と,その人権が実現される場である私たちが具体的

に生きている共同体との関係について,社会契約論者はどのように考えていたか。共同体を

無視していたわけではない。むしろ,暗黙のうちに共同体を前提にしていたようにおもわれ

69

人権の根拠をどのように考えるか

る。社会契約によって形成される政治権力について,ロックは次のように述べている。

「所有権を調整し保全するために死刑,およびそれ以下のあらゆる刑罰をふくむ法律

をつくり,このような法律を執行し,外敵から国家を防衛するにあたって共同社会の力3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3

を使用する権利3 3 3 3 3 3 3

のことであり,しかもおしなべてこのようなことを公共の福祉のために

のみ行なう権利である」(ロック1690=194,傍点引用者)

ここで国家というとき,私たちによって現実に生きられている共同社会を含む国家を指し

ている。「外敵」を想定しているのだから,人権の保障が,当該の社会に限定されているこ

とは確かである。つまり,閉じられた共同体を前提した議論である。私たちの国家において

成立する議論であり,普遍的な次元での議論ではない。ということは,人権とはいっても,

その共同体においてしか妥当しない概念で,普遍性を要求することはできるのかという疑問

が出てくる。少なくとも,こうした排他性を排除する論理を持ちえないのでは,生存権を脅

かす国家間の戦争が肯定されることになる。この矛盾について,啓蒙主義の議論はこたえる

ことができない。この矛盾を矛盾として捉えていない。だが,この矛盾を止揚する道を示さ

ない限り,人権は普遍的なものとならない。

3 保守主義による人権批判

自然法・理性・神―こうした観念に権利が基づくことを否定するとき,権利の根拠をど

こに求めるか。歴史的に形成されてきた共同体にその根拠を求める立場が出てくる。この立

場に立って,啓蒙主義的・個人主義的な人権について,大きな批判を加えたのは,E.バー

クの『フランス革命の省察』であった。この著作に盛り込まれたバークの思想は,現在,保

守主義として知られるものである。現在もバークを典拠としながら,啓蒙主義的な人権批判

を行う向きは多い。2001年に新書として公刊された八木秀次『反「人権」宣言』と長谷川

三千子『民主主義とは何なのか』,さらに 2005年の百地章『憲法の常識 常識の憲法』は,

いずれもバークの保守主義を踏まえて,人権を無批判的に受け入れる風潮に一石を投じたも

のとして興味深い 2)。以下,これらも参考にしながら,保守主義の人権批判を見てみる。

人権(人間の権利)を批判するとはいえ,人権を認めないとする議論ではない。啓蒙主義

的・個人主義的な人権の概念に異を唱えているのである。とりわけ,八木も長谷川も百地も,

現在の人権状況について不満であり,それがして,そもそも人権とは何であったのかという

議論に立ちかえることになったようにおもえる。例えば,八木には無際限に人権を主張する

ことによって,社会に様々な悪弊(長谷川では民主主義)が蔓延してしまっているという思

いがある。徹底した個人主義,さらに云えば,道徳的にも,自分だけがよければいいとする

エゴイズムが蔓延し,権利に対する義務も忘れられ,共同体や社会の価値が顧みられず公共

心が低下していることに危惧の念を抱いている。

70

人権の根拠をどのように考えるか

確かに啓蒙主義によって主張された社会契約論的な人権は,個人を出発点として,個人の

自然権(人権)の保障をするために社会契約を結ぶとしているのだから,その成立からして

個人主義的である。この個人主義が野放図になり,公共領域が顧みられなくなっているので

はないかと不満を表明することもわからないわけではない。

しかし,それが啓蒙主義的な人権論に,原理的に内在するものかどうかは議論の余地があ

る。これまで見たように,この人権論は個人の尊厳という考え方が現実の中に根づき始めて,

それを具体的に実現しようとする過程で出てきた学説である。そこに権利を主張しなければ

ならなかった現実的な必然性も読み取るべきであろう。

また,先にも触れたが,近代憲法においては,権利の主張が前面に出て,その一方義務は

後景に退いている。この点を取り上げて,長谷川は(八木も同じだが),権利と義務は本来

一体であるべきなのに対し,近代民主主義においては権利だけが主張されており,自己の権

利意識だけを専ら主張し義務に対しては意を払わない利己的な人間が,民主主義の支配的な

担い手となっているとして批判する。そして,その淵源を辿れば,人権や国民主権のいい加

減さに行きつくとする。

とまれ,保守主義者のこうした批判の根柢にあるのは,歴史的に形成されてきた共同体の

軽視に対する批判である。社会契約論において,国家や政治社会は契約によって成立するこ

とになるが,これはフィクションであり,国家あるいは共同体は,歴史の中で形成され厳然

と存在する。保守主義者は,これを軽視することが我慢ならない。むしろ,価値や権利は歴

史的に醸成され,風土に根づいているところにその根拠があることを強調すべきだとする。

土地(ground)こそが根拠(ground)なのである。時間をかけて風土に根づいていることが,

価値や権利の根拠として定立されるべきものだ。そして,個人にしても歴史的に形成されて

きた共同体によって育まれるのだから,この共同体に対して,尊崇の念を抱くべきであると

する。尊崇の念を抱くべきかは別にしても,歴史的に形成されてきた共同体に権利の根拠を

見るという考え方は,それ自体考察に値する。

百地章は,日本国憲法における人権規定の総則にあたる 12条に「公共の福祉のために」,

13条に「公共の福祉に反しないかぎり」の表現があることをとりあげ,この公共の福祉

による人権の制約について言及している 3)。百地によれば,宮沢俊義や芦部信喜に代表され

る,戦後日本の憲法学界の通説では,「個人を超える国家的利益などといった考え方を否定」

し「民主主義の下では「人間」こそが最高の存在であり,「人権」には何よりも高い価値が

認められるから,人権に対抗できる価値というものは,そこにはあり得ない。ここでは,国

家そのものすら人権に奉仕するためにある。(中略)人権制約の根拠となりうるのは,他人

の人権しかなく,たとえ国家や国民全体のためであっても,人権を制約することはできない」

(百地 2005=139-140)とされる。これに対して百地は,「基本的人権は国家権力をもってして

もその本質を侵害することはできないし,近代立憲主義も,国家権力の濫用を防止し,国民

の人権を保障するべく,憲法を制定することにあった」と認めながらも,「それが現実に保

71

人権の根拠をどのように考えるか

障されるためには,平和で秩序ある独立した国家の存在」(百地 2005=146-7)が必要である

として,国家あっての人権という視点を強調する。

百地によれば,こうした「常識」的なことが,戦後日本では忘れ去られており,その原因

を探れば「「国家論」なき戦後憲法学」に行きつくとする。この指摘自体はもっともなことで,

戦後の憲法学に限らず,戦後の政治学についてもいえる。私自身,かねてより国家論を抜き

にした憲法学や政治学が成り立つのか,疑問に思ってきたから,百地の云うことの半分は理

解できる。確かに,戦前の軍国主義,国家主義に対するアレルギーなのか,はたまたアメリ

カ主導の戦後政策にそのまま乗ってアメリカ流のデモクラシーを無反省に受容してきたこと

の結果なのかはわからないが,戦前の国家主義(軍国主義)体制に対して,臭いものに蓋と

ばかりに無視に近い扱い方をしてきたのは事実だからだ。正面からこの問題に向き合い,そ

れを理論的に否定する(あるいは肯定する)といった批判的な作業をおこなってこなかった

のだから,何の反省もなかったと云われても仕方がないところがある。

歴史的に形成された国家に対して価値を置くべきだと考える保守主義者の国家イメージ

は,程度の差はあれバークに依存している。保守主義からすれば,社会契約説が前提とした

自立的で同質的な個人なるものはフィクションであり,現実の個人は最初から社会のなかに

絡めとられているのだから,いわば「共同体 -内 -個人」の観点が強調されるべきだという

ことになる。社会は有機的全体性をなしており,個人も含め,そのなかに生じる全ての現象

は,この全体性との連関をもってしか存在しない。個人は,この有機的全体性に関係のうえ

で相即する。こうした視点から,バークにおいて,それ以前の思想家にない程,国家の重要

性,特にその倫理的重要性が強調されるに至る。

云うまでもないことだが,ここで国家というとき,社会契約によって作り上げられた国家,

すなわち権力機構としての国家,機能的な団体(政府機構)とは異なる。機能的な国家につ

いては,機能的に理解されるだけであって,私たちの存在を規定するような意味も価値もそ

こには託しえない。バークが問題にしているような,倫理的な意味を加味された国家は,政

府機構としての国家ではなく,いわばネイションといった次元で捉えられる国家である。バー

クも契約という言葉を使っているが,社会契約説におけるものとは全く異なる。バークによ

れば,国家も確かに契約であるが,簡単に解消できる「単なるその時々の利益を目的とする

二義的契約」ではなく,「もっと別の尊敬を以て眺められるべきもの」である(バーク

1790=123)。すなわち国家は「すべての学問についての組合,すべての技芸についての組合

であり,すべての美徳とすべての完全さについての組合なのです。そうした組合の目的は多

くの世代を重ねてもなお達成不可能な以上,国家は,現に生存している者の間の組合たるに

止まらず,現存する者,既に逝った者,はたまた将来生を享くべき者の間の組合となります」

(バーク 1790=123)。したがって,このようにしてできあがった国家を「偶然的改良につい

ての己が思弁を根拠として(略),(国家の―註)紐帯を完全に切断分裂させ,それを分解

して非社会的,非文明的,非結合的な第一要素の混沌状態にしてしまうなど道徳的にも勝手

72

人権の根拠をどのように考えるか

になし得ることでは」ない(バーク 1790=123)としてフランス革命を批判することになった。

バークによれば,フランス革命は,この歴史の中にあって連綿として培われてきた倫理的共

同体としての国家の徹底的な破壊を目指したものだからである。

歴史はそれ自体で淘汰の作用をもつ。すなわち,時間の経過は優れたものだけを生き延び

させる。したがって,歴史的国家の現在には過去から継承された優れたものが沈殿している。

一方,個人はたかだか数十年,この歴史の舞台に登場するだけにすぎないが,歴史はずっと

継続され,私たちの経験はそこに沈殿され続ける。それを共同体はさまざまな形で,例えば

文化や伝統といった形で担うことになる。バークは,個人の知識や知恵などとるに足らない

もので,歴史が淘汰し沈殿させてきた経験的知の宝庫としての先入見(prejudice)を活用す

べきことも説いた。確かに,一面では首肯するところがある。個人と全体との事実的な関係

については理解できる。「共同体 -内 -個人」とでもいうべき視点についてもわかる。個人は

共同体によって育まれるのであって,共同体から切り離された個人などというものは現実に

は存在しない。そしてこの共同体は歴史的に形成されてきたものであり,現時点における最

大の範域は,国民国家におおよそ定位することができるだろう。(EUのような,国民国家

を超えようとする動きはあるにしても,である。)

しかし,ここから直ちに価値のうえで,国家が個人に優位すべきだとする根拠を導くこと

はできない。これは「個人と全体」という古典的な問題だが,戦前の国家主義・全体主義の

体制下においては,祖国のために死すことは自明の価値であるかのように語られていた。こ

こでは,事実と信じたものを無造作に価値へと転化させるという誤謬をおかしている。「祖

国のために死すこと」を正義と考える者もいるであろうが,それは個人の判断であって客観

的な根拠を持つものではない。熱に浮かされ,情緒に絡めとられた状態ならばいざ知らず,

理性的(反省的)な認識からは程遠いといわざるをえない。

保守主義からする人権批判は,啓蒙的合理主義の人権論に対する批判としては,具体的な

人間のあり方を加味して考察を加えなければならないとした点で有効性をもつ。また,啓蒙

的合理主義では,全体と個人は機械的な結びつきしか認めることができないのに対し,保守

主義がそこに有機的な結びつきを指摘したことは功績というべきである。これは,外側から

にせよ,事実を云いあてている。これらは,人権を批判する客観的な根拠としてかんがえる

ことができる。あるいは,人権を考える場合,加味すべき条件である。だが,共同体の価値

を,積極的に個人に対抗させて立て,共同体を価値のうえで優位におくと主張する根拠は薄

弱である 4)。

確かに,保守主義は個人と社会の相即性という一面を強調することによって全体主義へと

結び付く傾向をしばしば示した。だが,保守主義が全体を強調する立場をとるにしても,保

守主義の「全体」主義は全体のために個人が犠牲にならなければならないとして個人を全体

に対して貶価することを正当化するものではないし,そこに保守主義の国家-社会観の本質

を見るべきでもないだろう。保守主義が個人主義に対立し,全体主義へと向かう傾向を示す

73

人権の根拠をどのように考えるか

のは,価値論的観点からではなく,飽くまでも方法論上の要請と解釈されるべきであり,そ

の背後には事実性・具体性重視の観念が控えている。したがって,逆に云えば,この観念に

基づいていない全体主義は否定される,またこの観念に基づいている個人主義は肯定される,

ということもありうる。保守主義における「全体」概念は,第一には「関係の総体」と解さ

れるべきものであり,「個人対社会」といったシェーマを超えている。あるいは,超えるべ

きものと考えられている。

保守主義とロマン主義,歴史主義は類縁性をもつ同根思想と云われるが,ロマン主義の有

機的社会観について,多田真鋤は「個人と共同体に関するローマン主義の概念形成は明瞭で

あり,かつ西欧思想におけるそれと比較してはっきりと相違している。ローマン主義思想は

個性の発展と自己実現に価値をおくと同時に,共同体にも同様な高い価値を見いだしたので

ある。個人と共同体を対立させ,いずれか一方に傾斜する西欧的見解と相違して,ローマン3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3

主義思想は両者が相互に補完しあうに必要な存在であるという見解を強調した3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3

のである」(多

田 1972=114。傍点は引用者)と述べている。これはそのまま保守主義に底通する。そして,

全体主義に引き寄せることなく,この視点を追求していくことが,私たちには大切なことで

あるようにおもえる。

啓蒙主義的・個人主義的な人権論にしても,保守主義の人権論にしても,国家によってそ

れが保障されるという点では共通している。ただし,人権に対する考え方は双方で異なるし,

保守主義の場合,人権論というよりも人権批判論である。また,国家といっても,その概念

は双方で大きく異なる。啓蒙主義的自由主義で問題にされる国家は国家機構(政府)の謂い

であり,確かに初期においては,経済の自律性に最大限の配慮を行ない(見えざる手!),

国家については必要悪という消極的な位置づけをしているだけであったが,ロックなどをみ

ればわかるように,司法行政領域を保障するために国家を要請している。司法行政領域は,

ロックに即せば,自由権を中心とする人権の保障をより確実にするためのものである。保守

主義は,国家に倫理的な価値を認め,個人はその中にあって育まれる存在と考えられている

から,人権が考えられるとしても国家を媒介としてであることは明らかである。バークは倫

理的共同体としての国家を背負ってしか,個人なるものは存在しないとした。また,歴史主

義やロマン主義と関連する保守主義の特質も明らかにした。だが,これらの思想の議論は,

いずれも,価値が歴史的に形成され,倫理的共同体に歴史的な価値が沈殿していることを指

摘しはするが,その内的な構造については,ついぞ明らかにすることはなかった。保守主義

には合理主義に対する疑念があるから,致し方ないところでもある。現実は小賢しい限られ

た理性で解明しつくすことはできない複雑さを内包しているとして,理論的解明については

断念し,「実践」的総合とでもいうべきものにかけることになるのである 5)。

しかし,私たちはここで諦めるわけにはいかない。人権の根拠論は,この方向で,まだ理

論的に詰める余地は残されている。たしかに,事実から直接に価値は出てこない,存在から

当為は出てこない。権利は価値や当為の領域に存在する。そこには,意志が介在せざるを得

74

人権の根拠をどのように考えるか

ない。だが,事実を無視して価値や当為を導くわけにはいかない。人権との関係で,事実を

どのように認識するか。こうした根本的な問題に帰ってくることになる。啓蒙主義的人権論

は,現実の表象とはいえ,あまりにも個人の権利の理念に振りすぎ,保守主義の人権批判は

外側から大枠を示しただけにとどまっている。私たちは,さらに進む必要がある。

4 マルクスの方へ

自然には,通常の大自然の意味のほかに,事物に予め備わっており,それに有るがままの

行動様式をとらせる本質的な力,すなわち根源的原因という意味がある。特に,後者の自然

概念は,西洋思想史において嚮導的な役割を果たしてきた。近代に入ってから,人間本性

(human nature)が注目を集め,それが自然法や自然権との関連で論じられるのも,そのあ

らわれである。デカルトのコギトもそうで,根源的なもの,究極のものへの志向を物語るも

のであろう。人権にしても事情は同じで,根源的なものをどう設定するかが,依然として問

題である。ここまで,啓蒙主義的・個人主義的な人権論や保守主義的な人権批判を見てきた

が,いずれも充分に納得させるものではない。では,どのように考えるべきか。今後の展開

の素描をしておきたい。

この点に関して,私が最初に注目したいのはホッブズである。ロックは自然状態において,

生命・自由・財産を自然権としてみとめたが,自由や財産は普遍的な側面を持つことは否定

しないにしても,当時の市民階級の利害を反映したという側面も持っており,その意味で根

源的なものの条件を満たしていない。しかし,ホッブズは生命の維持つまり自己保存(self-

preservation)を根源的なものとして据え,これを手放すことなく社会契約の理論を演繹し

てみせる。自己保存という事実を否定することはできない。そこからすべてが始まるという

意味で根源的であり,一切の虚飾を排除している。この点を手放そうとしない。それ以外の

一切の価値判断を交えないのである。「生きている」という事実を認めないわけにはいかない。

そこから始まるという意味で,ホッブズは個人の最も基本的な権利としてそれを措定する。

この抗し難しさが,ホッブズの理論のリアリティを保障していることになる 6)。「生きている」

という事実を根源的なものとして措定する―この視点については,動かしようがないよう

におもわれる。

つまり,ここから出発すべきである。しかし,ここから契約により国家を設立するという

社会契約説はとれない。ここから出発して,保守主義が明らかにした個人と全体との有機的

な連関を,その内部構造に立ち至って展開することが肝要だということになる。

確かにバークの議論は,国家が個人に対して持つ「威力」を説明するのに,説得力があっ

た。だが,倫理的共同体としての国家について,その内部構造に立ち入って積極的に評価す

る最も本質的な議論を展開したのは,おそらくヘーゲルである。これに比べれば,バークは

靴の上からかゆいところをなぞっているだけだ。バークの宗教にたいする評価などをみても

わかるように,放埓に陥ってしまいがちな人間性の歯止めになるといった外面的な効果から

75

人権の根拠をどのように考えるか

専ら考察が加えられている(バーク 1790=114-5)。ヘーゲルはまったく違う。感性的な確信

から,つまり観念の最も素朴な地点から,自己意識へとはせのぼる過程,さらに宗教から法,

国家へと接続していく連関を明らかにする。ひいては,この世界の中のあらゆる現象を関連

づけようと試みており,その中で個人や国家を論じている。ヘーゲルは,バークが批判した

合理主義の立場を貫いており,その意味では近代哲学,近代思想の嫡子だ。ヘーゲルは,理

性を駆使して徹底的に明晰であろうとする。だからこそ,ロマン主義や,さらには保守主義

的な形式的な認識のあり方に対して批判的にもなった。ヘーゲルの理性は,自らを知の定点

として世界を一方的に構成していくような理性ではない。それは,絶えざる弁証法的な運動

の過程にある理性であり,それをも含みながら生成する世界のあらゆる現象を関連づけ,そ

れとともに自らの完成を図っていくような理性である。ここからして「真理とは全体のこと

だ」と主張されることになる。「全体とは,本質が発展して完成したもの以外にはない。絶

対的なものについて,それはその本質からして結果として出てくるものであり,最後に至っ

てはじめて本来のすがたをあらわす,といわねばならないが,まさにこのいいかたのうちに,

絶対的なるものがみずから生成していく現実的な主体であることが示されている」(ヘーゲ

ル 1807=12)。弁証法的に発展し生成する全体こそが,真理の場であるとされるのである。

しかし,そうであっても,疎外概念を中心とした弁証法の展開にしても,ヘーゲルにおい

ては,専ら観念の内部で適用されており,この観念論的な傾向は批判されなければならない。

疎外が問題になるとしても,意識と自己意識の対立といったように観念内部での対立に還元

されている。ヘーゲルにおいては,人間の本質領域を観念の世界に限定したから,疎外が問

題にされても観念内部においてでしかない。これに対して,フォイエルバッハは,その疎外

の論理をヘーゲルから継承しながらも,自然的存在としての人間を強調することによって,

単に精神の領域だけではなく感性の領域にも妥当させることができるとして最初に本質的な

批判を加えることになった。いわばヘーゲルが人間の本質を精神に見ていたとすれば,フォ

イエルバッハはそれを感覚や身体の領域にまで拡大したのである。

これをさらに徹底したのが,マルクスであった。人権の根拠を問題にしようとするとき,

人間をその現実性においてどのように理解するかが鍵となるが,マルクスは,先のホッブズ

と同じように「生きている」という事実から出発し,自然哲学として,その事実の客観的構

造を明らかにして見せる。「生きている」という事実をそのまま権利(自然権)へと転化す

るのではなく,その事実の客観的分析をおこなう。マルクスの自然哲学は「経済学―哲学手

稿」中「疎外された労働」の項に,典型的にあらわれている。

「人間の普遍性は実践的には,自然の全体を自分の非有機的な3 3 3 3 3

身体にするという,ほ

かならぬこの普遍性において現象している。自然の全体は,一面でそれが直接的生活手

段であるかぎりで,また他面でそれがかれの生活活動の素材であり,対象であり,道具

であるかぎりで,非有機的な身体3 3 3 3 3 3 3

にされている。自然は人間の非有機的肉体3 3 3 3 3 3

である。す

76

人権の根拠をどのように考えるか

なわち,それが人間の身体そのものでないかぎり,そうである。「人間は自然によって

生活する3 3 3 3

」という意味は,自然がかれの肉体であって,もし死んではならないとしたら,

かれがこの肉体との不断の交流過程にとどまらなければならない,ということである。

が,人間の肉体生活および精神生活が自然に関連していることは,自然が自分自身に関

連していること以外の意味をもっているわけではない。なぜかといえば,人間とはすな

わち自然の一部なのだから。」(マルクス1844=102)

「生きている」という事態の構造について,疎外関係をもとにして述べられたこの考察に

は首肯せざるをえない。通常,私たちはマルクスの疎外論というと,経済・社会的な範疇に

おいて理解するが,疎外の概念は本来ヘーゲルの弁証法の用語であり,さらにマルクスが使

う場合でも,まず自然哲学において使用されたものであることに注意すべきである。何かを

おこなうときに(観念の運動でもそうである),働きかけた対象を変化させるだけでなく,

働きかけることによって自分も対象から働きかけ返されることになる。吉本隆明が指摘する

ように,マルクスの,この疎外概念はその根柢において「それ以外の関係が人間と自然の相

互規定性としてありえない」(吉本 66=112)不変の概念と考えられており 7),これによって「自

然」のもとに,類的本質存在としての人間の,あらゆる現象が関連づけられることになる。

もちろん,この代謝関係自体は生物一般にいえることだ。事実として,自然は弁証法的な

運動法則を持っている。自然の中の存在である生物もまた,弁証法的な運動法則に支配され

ている。しかし,他の生物と人間とでは,自然との関係のあり方は異なる。動物もまた自然

に働きかける(自然との代謝関係に入る)が,これは生命の維持をおこなうための本能行動

であり,関係をとり結ぶことではない。およそ,動物の場合は関係というものをもたない。

人間の場合は,対自的な意識をもち,対象的な行為を行うことによって,自然と,また自分

自身や他者と,関係をとり結んでいく。人間は,「全自然を,じぶんの<非有機的肉体>(自

然の人間化)」にしていくのである。自然に働きかけるということは,自分自身に働きかけ

るということにほかならず,このとき関係を拡大していくことになる。ここで,対自的意識

を持つことが,人間が類的本質存在である根拠に据えられており,その限りではフォイエル

バッハ(さらにはヘーゲル)と大差がないようにみえる。確かに人間の人間たる所以は,自

己意識を持ち,そのことによって心の全領域を変改し,さらに環境を変改していくところに

認められる。

ただ,注意すべきは,マルクスは人間が自己意識を持つことを自明の前提にしなかったこ

とだ。確かに,私たちがこうして思惟を行うことが可能になるのは自己意識を持つことに拠

る。したがって,自己意識が人間の人間たる所以であるということには,充分な根拠がある。

だが,マルクスは同時に,自己意識の存在を自明の前提とするのではなく,その発生の機序

までも,この代謝関係の疎外によって理解しようとしていた。「人間の肉体生活および精神

生活が自然に関連していることは,自然が自分自身に関連していること以外の意味をもって

77

人権の根拠をどのように考えるか

いるわけではない。なぜかといえば,人間とはすなわち自然の一部なのだから」とする徹底

した自然哲学からは,自己意識もまた自然の産物,つまり根源的な疎外関係の産物であると

するほかない。基本的な代謝関係から,自己意識(人間的意識)は派生するのである。これ

は,経済的な領域から,観念の領域(幻想領域)が派生するといっても同じであり,後年,『経

済学批判』序説で述べられた,有名な唯物史観の公式に繋がるものがある。もちろん,マル

クスは上部構造の相対的独立性を認めており,ここから安易に土台が上部構造を決定すると

いう素朴な経済一元論を主張するわけにはいかないにしても,である。ヘーゲルにおいては,

精神が最初に人間の本質領域として措定されており,その精神の展開として世界が説明され

る。しかし,マルクスにおいては,精神(人間的精神,人間的意識)もまた,その起源から

して疎外の産物に他ならず,また社会性を帯びたものである 8)。こうして,生身の自分はこ

こにいるだけだが,この徹底的な<自然>哲学によって,「関係」において類としての人間

つまり人間の関連する全領野へと拡大されることになる。フォイエルバッハは人間的なもの

の概念を感覚や身体の領域にまで拡大したが,マルクスはさらにそれを徹底していく。ここ

まで来て「フォイエルバッハは宗教的なものを人間的な3 3 3 3

ものに解消する。しかし人間的なも

のはけっして個々の個人に内在する抽象物ではない。人間的なものとは,その現実性におい

ては,社会的諸関係の総和(ensemble)である」(マルクス 1845=196)と語ることにもなっ

たのだ。マルクスは人間のありのままの姿(自然)を事実的に捉えようとしており,そのこ

と自体が人間や社会の秘密を明らかにすることに他ならない。人間的世界の意味はこのよう

な,全円性を確保された次元から推してしか明らかにならない。

マルクスは「ユダヤ人問題によせて」で,政治的開放に対して人間的開放の必要を主張し

たが,こうした問題も本来は,その自然哲学から起こさなければ理解できない。そしてまた,

人権(人間の権利)も,ここまで拡大された人間の概念を前提にしなければ,本質的な議論

にならないようにおもわれる。

マルクスによれば,近代国家(国民国家)は確かに宗教(キリスト教)をはじめとするさ

まざまな精神的な要素を私的な領域(市民社会)に追いやることによって,自らを政治的国

家として,つまり公民の領域,普遍的な領域として確立した。これは観念の普遍性を確立し

たことを意味する。この「国家の観念主義の完成は,同時に,市民社会の物質主義の完成」(マ

ルクス 1843=24)でもある。個人に即して云えば,国家の一員としては公人であり,一方,

市民社会の一員としては私人であるという分離がもたらされる。

ここで重要なことは,「宗教はもはや国家3 3

の精神ではなく」(マルクス 1843=15)なるが,

しかし宗教が廃止されるわけではないことだ。そして「宗教がそこに存在することはある欠

陥がそこに存在しているということ」(マルクス 1843=11)9)に他ならない。

もう一点ある。公人と私人との関係について,次の記述がある,「市民社会の成員として

の人間は,本来3 3

の人間,公民3 3

(citoyen)とは区別された人3

(homme)であると考えられる。

というのは,政治的3 3 3

人間がたんに抽象された人為的な人間であり,寓意的な3 3 3 3

,法3

人としての

78

人権の根拠をどのように考えるか

人間であるのに,市民社会の一員としての人間は,その感性的・個別的・直接的な3 3 3 3

あり方に

おける人間であるからである。現実の人間は利己的な3 3 3 3

個人の姿ではじめてみとめられ,真の3 3

人間は抽象的な公民3 3

の姿ではじめてみとめられる」(マルクス 1843=25)。もちろん,これは

倒錯している。しかし,市民社会に生きる利己的な人間が真の人間であり,政治的な,法3

としての人間は偽の姿だなどと云っているわけではない。このような分離それ自体が本来の

人間の姿を歪めているということなのだ。さらにいえば,市民社会に生きる人間(私人)が

公人よりもはるかに広い意味と価値をもち,それを基底に考えるべきだとしているように思

える。これは,その自然哲学からは必然的な帰結であるし,また経済的範疇の分析にのめり

込んでいった後のマルクスの思想展開からも,そう云えるようにおもわれる。

いずれにせよ,この政治的国家と市民社会の分離は解消されなければならず,それはとり

もなおさず,政治的解放を超えた人間的解放に他ならない(マルクス 1843=25)。人権を問

題にする場合でも,このような人間的開放の次元において初めて本質的な議論が可能になる

と考えているように思われる。

1) もちろん,今日の眼からすれば,理性に対して違った角度から,さまざまな批判を差し向け

ることができよう。例えばフッサールの現象学はデカルト的な手法(コギト)の厳密化をは

かったが,最終的には,理性にたいする生活世界 Lebensweltの先在性を認め,生活世界の運

動の中に理性も巻き込まれていることを認めざるを得なかった。

2) 八木著は文字通り「人権」を批判したものである。長谷川著は「民主主義」を批判したもの

だが,その前段として「人権」批判を含む。人権と民主主義は関連を持つから,当然のこと

でもある。百地著は,まともな国家論なしに展開された戦後憲法学を批判するものだが,国

家との関連で基本的人権の問題性が語られている。三書ともに新書という体裁もあり,その

分だけ煩瑣な学術書よりも問題意識を鮮明にしてある。

3) 日本国憲法 12条,13条は次の通り。第 12条「この憲法が国民に保障する自由及び権利は,

国民の不断の努力によつて,これを保持しなければならない。又,国民は,これを濫用して

はならないのであつて,常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」。第 13条「す

べて国民は,個人として尊重される。生命,自由及び幸福追求に対する国民の権利については,

公共の福祉に反しない限り,立法その他の国政の上で,最大の尊重を必要とする」。

4) 因みに,客観的な根拠云々は別にして,こういう考えは受け入れられるか,を考えてみても,

おそらく難しいだろう。個人意識や個人の権利意識が広く行き渡っている現在において,個

人に対する国家の優位を主張し,「外側」から箍をはめることなど問題にならない。まして

やゲルナーやアンダーソンのナショナリズムに関する議論によって,ネイションの神話性が

明らかになり,またグローバリゼーションや紛争によって移民や難民などの人の移動が盛ん

になっている現在ならば,なおさらのことだろう。

5) これについては拙著『保守主義の理路』中,「保守主義的総合としての実践」(104-113頁)

で論じている。

79

人権の根拠をどのように考えるか

6) ロックに対しては,辛辣に批判している長谷川三千子も,ホッブズの議論のリアリティにつ

いては高く評価している(長谷川 2001=162-186)。

尚,冒頭でとりあげた「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いは,実はホッブズがと

りあげた問いでもあった。ホッブズは,人間の基本的な運動様式を自己保存(生命の維持)

であるとし,この自己保存を自然権であるとする。ホッブズによれば「<自然権>とは,各

人が自分自身の自然すなわち生命を維持するために,自分の力を自分が欲するように用いう

るよう各人がもっている自由」(ホッブズ 1651=159)に他ならない。しかし,各人が恣意的

にこの自然権を行使すれば,「万人の万人に対する戦争状態」となり,自己保存それ自体が

危うくなるという矛盾を出来させることになる。自己保存の自然権を追求したところ,自己

保存を否定するという矛盾に遭遇してしまう。かくして,各人は相互に自然権の一部を譲渡

し強大な権力を出現させて(社会契約),秩序を回復させるということになる。この議論は,

フィクションとしてのリアリティを保持しており,さまざまに応用が利くところがある。

また,ホッブズというと,強大な国家権力を要請しただとか,結果的に絶対王政を擁護した

だとか,が指摘されるが,彼がその理論において,自己保存を最後まで手放さなかったこと

ははっきりしている。「服従の目的は,保護を得ること」(ホッブズ 1651=239)にあり,「主

権者に対する国民の義務は,主権者が国民を保護できる権力を持ち続けるかぎり,そしてそ

のかぎりにおいてのみ,継続するものと考えられる。人間にはほかにだれも保護してくれる

者がない場合に自己保存という生来の権利があり,いかなる契約によろうとも,これを譲渡

することはできないからである」(同前)。

7) マルクス思想における自然哲学の重要性を指摘し,独自のマルクス思想理解を示したのは吉

本隆明『カール・マルクス』である。今から 50年前の論文だが,いまだに色褪せることの

ない魅力を放っている。吉本のマルクス思想理解については,拙稿「吉本隆明の初期思想(1)」

(『法学研究』第 77巻 7号(2004年 7月),慶應義塾大学法学研究会)中,第 2章「マルクス

思想の受容と継承」(44-62頁)で論じている。

マルクスというと,20世紀のソ連や中華人民共和国をはじめとする社会主義国を,思想的に

最初に制御していると考えられており,ソ連や中共が民衆抑圧や民衆の大量死をもたらした

「犯罪国家」であったことが今日明らかになっていることを考えれば,また,多くの社会主

義国が自壊していったことを考えれば,その思想など改めて顧みられる価値などないとする

向きもあろうが,そこで烙印を押されて崩壊したのはマルクス主義ではあっても,マルクス

の思想それ自体ではない。もちろん,どのようなものであれ思想には時代の子という側面が

あるから,マルクスの思想を現代にそのまま持ち込むことは不可能だが,それでも本質的な

考え方は現在でも通用するし,大きな意義をもつと考える。

8) 『ドイツ・イデオロギー』の中に,言語と意識の起源が密接な関係にあること,それらは疎

外によって生みだされたものであること,起源において社会性を帯びていること,等を述べ

た箇所がある。「われわれは,人間は意識をももっている,ということをみいだす。しかし,

この意識もはじめから『純粋な』意識であるわけではない。『精神』はもともと [マ マ

14]物質に

―このばあいにそれは運動する空気層,音,つまり言語の形式であらわされる―『憑き

まとわれ』るという呪いをかけられている。言語は,意識とおなじようにふるい。すなわち

言語は,他の人間たちのためにも存在する実践的意識であり3 3 3

,それによってはじめて私自身

のためにも存在する現実的な意識である3 3 3

。そして言語は,意識とおなじように,まず他の人

80

人権の根拠をどのように考えるか

間たちとの交通の欲求,その渇望からうまれたものである。なんらかの関係が存在するばあ

い,その関係は私にとって存在している。動物は,なにものにも『関係3 3

』せず,またおよそ『関

係』をもたない。動物にとっては他にたいするそれの関係は,関係として存在するのではない。

したがって,意識はそもそものはじめからすでに社会的産物であり,そしておよそ人間が存

在するかぎりそうであるほかない」(マルクス 1845-6=220)。

9) 宗教(キリスト教)批判はフォイエルバッハ『キリスト教の本質』によって徹底的になされ

ており,この考察は,マルクスがヘーゲル国家哲学の批判する際に大きな影響を与えた。

[引用・参考文献]

※  本文中の引用文については,以下の文献表をもとに「著者名・引用著作発行年・頁数」の順序

で出典を示してある。

T.ホッブズ 1651『リヴァイアサン』永井道雄・宗片邦義訳,所収『世界の名著 ホッブズ』 中

央公論社 1971

J.ロック 1690『統治論』(宮川透訳,所収『世界の名著 ロック /ヒューム』 中央公論社 1968)

E.バーク 1790『フランス革命の省察』(半沢孝麿訳 みすず書房 1978) 

G.W.F.ヘーゲル 1807『精神現象学』(長谷川宏訳 作品社 1998)

G.W.F.ヘーゲル 1824『法哲学講義』(長谷川宏訳 作品社 2000)

L.フォイエルバッハ 1841『キリスト教の本質』(船山信一訳 上・下 岩波文庫 1973)

K.マルクス 1843「ユダヤ人問題によせて」(花田圭介訳 所収『マルクス 経済学・哲学論集』 

河出書房,1967)

K.マルクス 1843「ヘーゲル法哲学批判序説」(高島善哉・高島光郎訳 所収『マルクス 経済学・

哲学論集』)

K.マルクス 1844『経済学―哲学手稿』 (三浦和男訳 所収『マルクス 経済学・哲学論集』)

K.マルクス 1845「フォイエルバッハについての 11のテーゼ」 (高島善哉・高島光郎訳 所収『マ

ルクス 経済学・哲学論集』)

K.マルクス 1845-6『ドイツ・イデオロギー』(中野雄策訳 所収『マルクス 経済学・哲学論集』)

K.マルクス 1857『経済学批判序説』(岡崎次郎訳 所収『マルクス 経済学・哲学論集』)

R.G.コリングウッド 1945『自然の観念』(平林康之,大沼忠弘訳 みすず書房 1974)

吉本隆明 1966『カール・マルクス』(所収『吉本隆明全著作集 12 思想家論』 勁草書房 1969)

多田真鋤 1972「ローマン主義的保守主義の世界観」(所収『近代ドイツ政治思想研究―ナチズ

ムの理念史』増補版 慶応通信)

B.アンダーソン 1983『想像の共同体』(白石隆・他訳 リブロポート 1987)

E.ゲルナー 1983『民族とナショナリズム』(加藤節訳 岩波書店 2000)

杉原泰雄 1992『人権の歴史』岩波書店 

S.シュート & S.ハーリー 1993「序文」(所収 S.シュート & S.ハーリー編『人権について』 み

すず書房 1998)

石川晃司 1996『保守主義の理路』木鐸社

浜林正夫 1999『人権の思想史』吉川弘文館 

81

人権の根拠をどのように考えるか

八木秀次 2001『反「人権」宣言』ちくま新書 

長谷川三千子 2001『民主主義とは何なのか』文春新書 

百地章 2005『憲法の常識 常識の憲法』文春新書 

鷲見誠一 2009『人権の政治思想』明石書店

82