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民博通信 2016 No.15514
私は東京で、チベットのポン教によって高度化されたゾクチェンという哲学に基づいた瞑想法を実践する、在野の任意団体「ポン教ゾクチェン研究会」を主宰している。かつて主たる勉強の場としていたカトマンドゥのティテン・ノルブツェ寺で民博の立川武蔵・長野泰彦両教授(当時)と出会い、2011年の企画展示「チベット ポン教の神がみ」にも関わるなど、民博との縁は深い。この共同研究では主としてポン教由来と思われる護符の記述を行っているが、小稿では護符をもらう人々の目線で、チベットの護符がどんなものかを紹介しよう。
御守り紐あなたがもしも、チベット僧から紐を手渡されたら、気をつけて欲しいことがある。それは、けっして結び目を解いてはいけないことだ。それは単なる紐ではない。チベットの御守りなのだ。なにも知らない西洋人が、こうした紐をチベット僧から手渡されると、結び目を解いてしまうことがある。でも、その結び目こそが、要なのだ。チベット僧が紐に結び目を作り、真言を唱えて加持を込めることにより、ありきたりな紐は、パワーを秘めた御守りへと生まれ変わる。だから、結び目を解かないことだ。世界中どこにでも御守りがあるように、チベットでも御守りが使用されている。その中でも、もっともお手軽なのがこの御守り紐だ。あなたが高僧にお会いしたときや、仏教僧院で灌頂の儀式に参列すれば、いつでもこの御守り紐が手に入るはずだ。この御守り紐を、あなたの首や手首に巻いておくと良いだろう。そして、2~ 3日経過したら聖地に行って、その紐を清浄な木に結びつけるか、ピュアな炎で焼いてしまうのがしきたりだ。一方、首に巻いたままにしておく人も少なくない。実際、色褪せた御守り紐をなん重にもして、首に巻いたままにしているチベット人に出会うことがある。せっかくチベット僧からもらったありがたい御守り紐だから、あなたもチベット人と同じようにして、その御守り紐を首に巻いたままにしておくのも良いだろう。ただし、汗をかく夏場には汗
あ せ も
疹に悩まされることになるかもしれない。もう少し見栄えの良いチベットの御守りがご所望ならば、コルロと呼ばれるものがある。それは、手のひらに収まるほどの大きさで、四角い本体のまわりを、色とりどりの糸を使って編み上げ、複雑な模様に仕上げたものだ。一見すると、幼児向けの知育玩具のようにも見えるが、歴とした御守りなのである。
御守りの作り方カラフルなおもちゃのようなこの物体が、いったいどうして御守りの役目を果たすのか知りたくなったら、複雑に巻かれた糸を、ひとつひとつ丁寧にほぐして、本体を調べてみな
ければならない。しかし、もちろん御守りを暴くことなどお勧めできない。そこで、その御守りを制作している人や場所を訪ねてみることにしよう。コルロは、チベット僧院だけでなく、街角の仏具店でも手に入る。いったい、誰がこの御守りを制作しているのだろうか。以前はチベット僧院内で御守りが制作されていたそうだが、現在では仏具店や専門の工房で制作されている。ネパールの首都カトマンドゥには、仏教の聖地が数多く点在している。その中でもボダナートという地区は、世界一巨大な仏塔があることで有名だ。その巨大な仏塔の周辺を歩いていると、たくさんのチベット仏教僧院があることに気づくだろう。その隙間を埋めるように、チベット人難民が暮らすアパートが軒を連ねる。そうしたアパートの一室に、紹介してもらった御守り工房があった。普通、難民の住まいといえば、ビニールや段ボールから作ったテントを想像するかもしれない。でも、ここは頑丈で快適なコンクリート製の建物だ。カトマンドゥに住むチベット人難民の多くが、いまや二世や三世となって、ネパール社会に根をおろし、経済的には自立した生活を送っている。工房の中に足を踏み入れると、厚いカーペットが敷かれた床の上に、ソファーとテーブルが置かれていた。壁際には薄い大画面の液晶テレビが置かれている。工房というより、一般家庭の居間といったところ。部屋の中を子供が大声をあげながら、駆け回っている。この子供の母親が工房を取り仕切っている人物だ。このチベット人女性は、主婦業の合間に、御守りを製作していたのだった。テーブルに放置された作りかけの御守りを手に取りながら、その女性が御守りの作り方を説明してくれた。なんでも、御守りの本体とは、小さく畳んだ護符だという。その護符には、密教の本尊やチベット仏教の祖師などが描かれている。仏典の記述にしたがい、サフランや丸薬などを溶かした溶液を用
コルロ(左)と御守り紐(右)(2016年 8月 1日、カトマンドゥ市内、脇嶋孝彦撮影)。
悪魔を懲らしめるチベットの護符 文
脇嶋孝彦
共同研究 ● チベット仏教古派及びポン教の護符に関する記述研究(2015-2017年度)
民博通信 2016 No.155 15
意し、その護符に満遍なく塗り込むと、ブッダの加持が込められたことになるのだ。その護符を折り紙のように小さく畳み、色とりどりの糸を巻いていけば、コルロというチベット式御守りの完成だ。
不気味なチベットの護符御守り紐にしても、畳んだ護符に糸を巻いて作るコルロという御守りにしても、とても手軽に入手することができる。一般のチベット人はもちろんのこと、いくらかでもチベット仏教に接触したことのある外国人なら、誰もが知っているものなのだ。だがもしも、あなたがチベットの辺境の地を旅して回ることがあったら、もっと奇妙な護符に遭遇することがあるかもしれない。チベット人社会で一般に流通している護符には、穏やかな仏陀の姿、手足をなん本も持つ恐ろしい密教の本尊、幾何学的なマンダラなどが描かれている。ひと口でいえば、いかにも仏教色の濃い護符なのである。ところが、辺境の地であなたが遭遇する護符には、虎、魚、猿、猪、サソリなどの姿が描かれている。仏教色の薄い護符と表現することができる。護符に描かれているどの動物の姿も、現代人からすると、ずいぶん奇妙で、どこか恐ろしく、そして薄気味悪い。たとえば、サソリの護符の場合、全身が火炎で包まれ、両前足と尾には目と歯が見える。鋭い歯をむき出しにした頭部は、いかにも凶暴だ。身体の大部分が黒色に塗られていることも、
不気味さを増す要因になっている。だが、サソリの身体に書かれている文字に注目して欲しい。サソリの全身には、呪文が書き加えられている。とくに、両前足の付根と、尻尾の付根には 4つの文字が見てとれる。その 4つの文字の意味とは、「悪魔よ、来い」、「ここに留まれ」、「ここから動くな」、「もうどこにも逃げられない」。つまり、悪魔を呼び出し、拘束し、罠にかけることを意味している。なんともいえない気味悪さのために、背筋が凍りそうではないか。
チベットの悪魔サソリの護符には、いくつかのバージョンがある。他のバージョンの中では、左前足のところに、帽子をかぶった男性と長い髪の女性の姿が描かれ、右前足のところには、目がクリっとした蛇
や鳥の姿が描かれている。だが、これらは私たちのような人間でもなければ、日常的に見慣れた蛇や鳥たちでもない。それらは、チベットに棲む悪魔たちなのだ。こうして捕捉された悪魔は、この後どんな運命に見舞われるのだろうか。その答えは、他の護符の中に見つけ出せる。手足をきつく縛り上げられ、身動きができなくなるのだ。悪魔の四隅には鋭利な剣が描かれ、「殺」という文字が悪魔の姿を楕円形に取り囲む。悪魔は罠にかかり、少しでも身動きした瞬間、鋭利な剣で身体を切り刻まれてしまうのだ。この護符には仏教で説かれる、慈悲の片鱗すら存在しない。この護符に描かれている悪魔は、母親に憑依し、生まれてくる子供をすべて死に至らしめるのだという。時には、夫や他の家族にも災いをもたらし、ついには、一族を根絶やしにしてしまうというから、できる限り近寄りたくないものだ。こうしたチベットの悪魔は、ほとんど本来の仏教の教えとは無関係だ。だが、チベット固有のポン教や、チベット仏教古派の中で、詳細に分類され、取り扱われている。チベットの悪魔の影響は、人間だけに限らず、動物にまで及ぶことがある。チベットで使用される護符の中には、狼が描かれているものがある。その護符を注意して見ると、密教で使用される金剛杵が、狼の口にはめられている。これでは、狼は肉を食べることができない。飢え死にしてしまう。この護符は、ヤクや羊といった家畜が、捕食動物、事故、病気、飢え、迷子などの原因によって、失われることを避ける目的で使用されているのだ。こうした仏教色から離れた護符は、それを裏付ける文献資料が乏しいことになる。つまり、チベットの呪い師が、口伝で、師匠から弟子へと伝承してきたものなのだ。だから、一般のチベット人どころか、仏教僧にこの護符を見せても、まったくピンとこないのだ。私たちは、こうした一見奇妙に見えるチベットの護符の調査をとおして、仏教が伝来する前のチベットの文化について、光を当てようとしている。チベットの文化は旧石器時代の痕跡を、つい最近まで残していたといわれている。だから、仏教伝来以前のチベットの古い文化を調査することは、太古の人類の生活を調査することにもつながる。チベットという特定の地域を超えた意義があるのだ。
わきしま たかひこ
1969 年神奈川県生まれ。ポン教ゾクチェン研究会主宰。専門はチベット・ポン教のゾクチェン経典の翻訳と研究。著書『ゾクチェン瞑想修行記―チベット虹の身体を悟るひみつの体験』(Kindle 電子書籍 2015 年)、訳書『智恵のエッセンス』(春秋社 2007 年)、『光明の入口―カルマを浄化する古代チベットの 9瞑想』(Kindle 電子書籍 2016 年)。悪魔の護符(2015年 11月 10日、国立
民族学博物館所蔵、長野泰彦撮影)。
サソリの護符(2015年 11月 10日、国立民族学博物館所蔵、長野泰彦撮影)。
狼の護符(2015年 11月 10日、国立民族学博物館所蔵、長野泰彦撮影)。