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子ども社会研究19号 稲垣恭子編著 『教育における包摂と排除一もうひとつの若者論」 (明石書店2012年) 坪井瞳(浦和大学) 「善きこと」としての包摂?/「悪しきこと」としての排除? 「社会的排除/包摂」という概念がさまざまな文脈で注目を浴びている昨今である。 改めてその概念を確認してみると、「社会的排除」とは、近年のヨーロッパの社会政策を端 緒としたキーワードとなっている概念であり、また同時にそうした問題群を明らかにする キーワードである。「社会的排除」を表した端的な説明として、「主要な社会関係から特定の 人々を閉め出す構造から、現代の社会問題を説明し、これを阻止して「社会的包摂」(social inclusion)を実現しようとする政策の新しい言葉が「社会的排除」(socialexclusion)」であり、 その対象として「さまざまな社会問題群、例えば格差や非正規雇用の拡大、ワーキングプア やホームレス、孤独死や自殺、非婚や離婚、単身世帯の増大などを社会参加と帰属の側面か らさらに深く理解し、その解決の方向を考えていく上で「社会的排除」という見方が一定の 有効性を持っている」(岩田,2008,pl2)と述べられている。 ここ数年、本学会や社会学系学会においても、社会的排除を冠した部会や発表、論文など を目にすることも多く、平板に言ってしまえば、格差社会論などとセットになり、最近流 行りの概念なのだろう。しかし、どうであろうか。上の下線部とは「排除された状態に対し、 包摂を行う」という単線的な「排除→包摂」モデルであり、穿った見方をすれば、「排除状態 を包摂していくこと=善きこと」であるという隠れたメッセージもそこからは読み取ること もできる。 近代公教育体制それ自体が国民を包摂し、よき国民を育てる国民国家を創生するための装 置であるということは、これまでの国民国家論をはじめとする社会学の知見の中で指摘され てきている。現代では、それまで日常生活を護ってきたとされる既存のさまざまな制度が揺 らぎ、流動化しつつあるといわれている。それとともに、家族体制、就学、就職などをはじ めとするこれまで自明のものとされてきた制度の根拠や意味があらためて問われるようにな っている。つまり、教育という営みそれ自体が大きな包摂となっているが、その中での軋み が表出してきている、いや、むしろこれまでもあった古くて新しい問題であるが、後期近代 ではその幅をますます拡大し、個人化されたリスクへと着目がなされるようになってきてい る。 パラドキシカルなものとして社会的包摂/排除論を捉える そうした近年の研究の関心として、「不登校」、「ひきこもり」、「貧困」、「フリーター」や「ニ ート」などを「問題」現象として捉え、フィールドを通した排除のメカニズムを実証的に調 査・研究を行うスタンスが多くみられる。そうした状況に対し、中村高康は「社会学評論」(第 63巻3号、日本社会学会、2012)「テーマ別研究動向(教育)」の中で、昨今の「教育社会学の 200

『教育における包摂と排除一もうひとつの若者論」 · 『教育における包摂と排除一もうひとつの若者論」 ... その対象として「さまざまな社会問題群、例えば格差や非正規雇用の拡大、ワーキングプア

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子ども社会研究19号

稲垣恭子編著

『教育における包摂と排除一もうひとつの若者論」

(明石書店2012年)

坪井瞳(浦和大学)

「善きこと」としての包摂?/「悪しきこと」としての排除?

「社会的排除/包摂」という概念がさまざまな文脈で注目を浴びている昨今である。

改めてその概念を確認してみると、「社会的排除」とは、近年のヨーロッパの社会政策を端

緒としたキーワードとなっている概念であり、また同時にそうした問題群を明らかにする

キーワードである。「社会的排除」を表した端的な説明として、「主要な社会関係から特定の

人々を閉め出す構造から、現代の社会問題を説明し、これを阻止して「社会的包摂」(social

inclusion)を実現しようとする政策の新しい言葉が「社会的排除」(socialexclusion)」であり、

その対象として「さまざまな社会問題群、例えば格差や非正規雇用の拡大、ワーキングプア

やホームレス、孤独死や自殺、非婚や離婚、単身世帯の増大などを社会参加と帰属の側面か

らさらに深く理解し、その解決の方向を考えていく上で「社会的排除」という見方が一定の

有効性を持っている」(岩田,2008,pl2)と述べられている。

ここ数年、本学会や社会学系学会においても、社会的排除を冠した部会や発表、論文など

を目にすることも多く、平板に言ってしまえば、格差社会論などとセットになり、最近流

行りの概念なのだろう。しかし、どうであろうか。上の下線部とは「排除された状態に対し、

包摂を行う」という単線的な「排除→包摂」モデルであり、穿った見方をすれば、「排除状態

を包摂していくこと=善きこと」であるという隠れたメッセージもそこからは読み取ること

もできる。

近代公教育体制それ自体が国民を包摂し、よき国民を育てる国民国家を創生するための装

置であるということは、これまでの国民国家論をはじめとする社会学の知見の中で指摘され

てきている。現代では、それまで日常生活を護ってきたとされる既存のさまざまな制度が揺

らぎ、流動化しつつあるといわれている。それとともに、家族体制、就学、就職などをはじ

めとするこれまで自明のものとされてきた制度の根拠や意味があらためて問われるようにな

っている。つまり、教育という営みそれ自体が大きな包摂となっているが、その中での軋み

が表出してきている、いや、むしろこれまでもあった古くて新しい問題であるが、後期近代

ではその幅をますます拡大し、個人化されたリスクへと着目がなされるようになってきてい

る。

パラドキシカルなものとして社会的包摂/排除論を捉える

そうした近年の研究の関心として、「不登校」、「ひきこもり」、「貧困」、「フリーター」や「ニ

ート」などを「問題」現象として捉え、フィールドを通した排除のメカニズムを実証的に調

査・研究を行うスタンスが多くみられる。そうした状況に対し、中村高康は「社会学評論」(第

63巻3号、日本社会学会、2012)「テーマ別研究動向(教育)」の中で、昨今の「教育社会学の

200

書 三五口’

安易な教育学化傾向」について指摘を行っている。

そもそも規範的言説に満ち満ちた教育という領域を相手にする社会学である教育社会学と

いう学問的特質は、教育を分析対象として突き放してみる社会学的アプローチを採用するこ

とで規範的な教育学との差別化を図る一方で、教育現象へ社会学的思考をたんに適用するだ

けでは充足されない教育領域の実践的・規範的関心をも追及するという、微妙なバランスを

要する稜線を歩んできている。しかし、実践的なコミットをする研究群においては「社会学」

と銘打っているにもかかわらず社会学に対してどのような貢献がなされたのかという点が必

ずしも明瞭だとはいいきれないものも多く、規範的言明がデータや資料の解釈の中にさりげ

なく混入されがちであることを中村は憂慮する。「いずれのテーマも政策課題と密接に結び

付いており、そのことがかえって対抗言説を生み出しにくい状況を作り出している。貧困は

なくさなければならないし、学力はあげなければならないし、フリーターは減らさなければ

ならない。そのような規範的命題が背景に織り込まれている以上、それらに反する知見を出

すのは相当の勇気がいる。逆にいえば、規範に順接する知見は少々実証的裏付けが弱くても

出しやすく批判も受けにくいということである」(同p、448)。

もちろん、人々の眼差しの裏に紛れ、つまびらかになっていないものに対し光を当て実証

を行うという営みも重要な仕事であると評者は捉えている。しかし、問題はその先である。

実証を行ったところで、「排除されています、大変です。困ってしまいます、包摂しましょう」

という単線的かつ救済的、politicallycorrect的なものではないのである。それはただの運動

論となってしまう可能性もはらんでいる。中村はそこを指摘しているのであろう。

そこで本書である。「アクチュアルな格差・貧困論の文脈からは距離をとり(中略)包摂や

排除といった概念を用いて語り直してみたい」(p.103)というスタンスが通底した各章であ

り、「排除の中の包摂、包摂の中の排除」というパラドキシカルなものとして社会的排除/包

摂論を捉え、若者と教育をめく÷る問いを読み解いていこうとする試みであり、既存の教育領

域における社会的排除/包摂論へとダウトをかける著作である。

「教育や若者に関する言説や日常の教育実践のなかには、排除vs包摂、あるいは排除から

包摂へといった二項対立的な図式では捉えられないさまざま事象や関係が存在していること

が、近年ますます顕在化しつつある。各章の論考では、そうした教育をめぐる包摂と排除の

多様でパラドキシカルな関係が分析・検討されている。そこからみえてくるのものとは、包

摂と排除が織りなす微細な構造と同時に、その中に絡み取られない若者自身の語りやもうひ

とつの教育の可能性」であり、「近代公教育システムにおける排除の輻轄性」(p.105)という

視点そのものが本書の功績であるといえよう。そして、マクロな制度的包摂の様相とミクロ

な相互作用としての包摂の様相についても示唆がなされている。

制度への包摂、その中にひそむ排除

まず、第3章「学習塾への公的補助は正しいか?」(末冨芳)では、低所得家計を対象とし

た学習費用と受験費用の無利子貸付制度である東京都の「チャレンジ支援貸付事業」を取り

上げている。この事業について筆者は、教育機会の実質的な均等化という面からみて「正し

さ」を備えた政策である一方、教育機能をますます学習塾に依存させ学校の教育機能と正当

20ユ

子ども社会研究19号

性を弱体化させる危険や、教育という社会的包摂を広げることで学習を強制し、巻き込んで

いくことを指摘している。さらに、「学習塾利用への公費補助は、学校の教育機能だけでなく、

家庭も含めて学力形成の機能を誰がどのように担うべきなのかという根本的な課題を回避し、

私的負担にもとづく学校外教育なしには支えられない現在の排除的な教育システムを肯定し

ているという危うさをはらむ」(pp、9697)ことが指摘されている。

また、第4章「包摂/排除論から読み解く日本のマイノリティ教育」(倉石一郎)では、在

日朝鮮人教育、障害児教育、同和教育における「福祉教員」の3つを軸に、日本のマイノリ

ティ教育をめぐる包摂と排除の関係を検討し、既存の社会的排除/包摂論の枠組みを問い

直している。在日朝鮮人教育について取り上げると、1965年の文部次官通達において、「公

立小学校への入学希望を申請する場合は教育委員会がそれを認める」という教育を受ける権

利主体が抜け落ちているという排除、「入学を希望した者は日本人と同様の権利享受者であ

る」という包摂、しかし、「そこでの教育課程とは在日が日本人とは異なる文化的バックグラ

ウンドを持つことは顧みられない」という排除、その後1991年の日韓両政府での協議の際に、

「在日の子どものための民族教育が課外活動として承認される」こととなる包摂の実態がみ

える。「包摂は排除を克服するべく現れるのでは必ずしもなく、排除を母体として出現する

包摂は、逆説的であるがそれによって排除をより完全なもの」(pllO)とし、結果的に「二級

市民」としての固定化が進んでいくという。障害児教育、同和教育における福祉教員の場合

においても、そこでは「包摂と排除とを対立的にとらえる代わりに、じつは制度的な排除そ

のもののなかに最初から(部分的)排除がプログラミングされ」(p.110)、「入れ子構造」とし

ての社会的排除/包摂の構造が指摘されている。

制度への包摂とは、個人のリスクを回避するためのソーシャルセキュリティとしての機能

も持つが、同時に「包摂にひそむパターナリスティックな側面やある種の抑圧性が見過ごさ

れるばかりか、その温存に手を貸す恐れ」(plO4)も持つことが2つの章から浮かび上がって

くる(一方で、包摂による現場での豊かな実践や取り組みによって、単なる教育機会の均等

や就学支援を超えて生活全般の改善に結びつくことが、新たな希望の広がりという輻轄性、

その捉えの誠実さを感じる)。

ミクロな相互作用としての包摂

第1章「「ひきこもり」の当事者は何から排除されているのか」(石川良子)では、「ひきこも

り」を当事者がどうとらえているのかをめぐる支援者と当事者のリアリティ定義の競合を分

析している。引きこもっている当人の意思に基づく支援という原則が共有されるようになっ

てきている現在の支援の方向の中で、その実、支援者・研究者・講演会の聴衆とそれぞれ異

なる相手と、当人の「ひきこもり」経験について「語る・聞く」相互行為の中で、当人のリア

リティ定義が「聞く」側の定義に合わせてずらしていく過程が浮かび上がる。「支援者のリア

リテイ定義が当人のリアリテイ定義であるかのように提示され」(p.27)、支援者に耳心地の

良い、期待された語りをコントロールする当事者自身の姿が垣間見られる。

次に、第2章「男子問題の時代」(多賀太)では、1990年代半ば頃からジェンダーと教育を

202

言 評

めく、る問題として浮上してきた男子の「男子問題」(海外では学齢期、日本では青年期)に焦

点をあて、ジェンダーに関わる差別や排除の構図の変化を分析している。「男子問題」から見

えてくることとは、問題とされる男子は「正規雇用を与えられるに値しない「真の男性では

ない者」へと周縁化され、「一人前」になれない男性は「女に負けた」のではない。彼らは企

業社会における「男らしさ」の達成をめく識る男同士の競争で劣位に立たされている。彼らの

取り分が減らされたことによって最も恩恵を被っているのは、かれらのバックラッシュの標

的とする女性たちではなく、企業社会の中心に位置する他の男性たちである。一定の割合の

男性たちを「真の男」から排除し、社会の中で周縁化させているのは、新自由主義のもとで

進行してきた男性支配体制の再編過程」(p.69)なのであり、男性/女性という二項対立では

捉えきれないジェンダーをめく、る複雑な排除の構造が指摘されている。

そして、第5章「「教育」「教養」の力学と被爆体験言説一永井隆と山田かんをめく、って」(福

間良明)では、『この子を残して』『長崎の鐘』などの被爆体験の手記をもつ永井隆と、それら

を批判した詩人の山田かんの議論を検討し、被爆体験の語りと教育や教養との関係について

論じている。永井の教育や教養の経験は、「神の摂理」論や永井自身の天皇への同一化によっ

て被爆体験が意味付けられ、戦争による癒しがたい傷や絶望感を和らげ、被害者らを救済へ

と導く側面をもつ。そして同時に、その個人的救済の語りによって原爆の投下責任や戦争責

任といった社会的な問題として捉えることを回避し、隠蔽する構造が指摘されている。

第6章「低学歴勤労青少年はいかにして生きるか?」(井上義和)では、山本有三の小説『路

傍の石』を題材に、昭和戦前期における「教育システムからの排除」の問題について論じて

いる。従来の教育的包摂から放り出され、かつ学校教育システムからも排除された若者の状

況とその中での格闘の姿が描かれた主人公吾一を通して分析を行っている。元手を持たず身

一つで社会に放り出された勤労青少年の一つの選択肢として夜学や講義録で学ぶことであっ

た。そして、印刷所で働きながら夜学に通い教育や教養を得ることで吾一が選択したのは、

慣れ親しんだ既存のコミュニティにアイデンティティを置き「貧乏人同士手をつなぐ」ので

はなく、「金持ちとも手をつなぐ靜」ことによって、吾一が日常や現状から抜け出すために味方

となり動いてくれる「資本」としてのコミュニティへと自ら参入する姿が映し出される。

支援者に対して期待された語りを行うひきこもりの当事者、戦うべき相手は実は同性であ

った問題化された男子、原爆投下の責任を神の御業とすり替え昇華させる信仰と教養をもつ

者、そして現状を打破するために慣れ親しんだコミュニティから教育を身に付けることで脱

しようとする苦学生……こうした社会的排除層自身のミクロな相互作用を通し、社会関係資

本としてのコミュニティへと積極的参入を行う姿がこれらの章から浮かび上がってくるので

ある。

国民国家という「大きな物語」への包摂の様相

包摂による現場での豊かな実践や取り組みが、単なる教育機会の均等や就学支援を超えて、

生活全般の改善に結びつく新たな希望の広がりについても触れられており、その豊饒性には

期待したい。

203

子ども社会研究19号

しかし、本書の各章における個人を包摂する制度、そして個人自身のコミュティヘの積極

的参入とは、国家への自己同一性という欲望をはらみ、総力戦体制と何ら変わりのない「国

民国家」への包摂という危うさが示唆されているのではないだろうか。包摂の目指すところ

に国家への包摂、教育によってもたらされた「自由な個人」の裏には「主体=従属」という国

家の欲望が見え隠れする。こうした視点から本吉を読み解いていくと、制度的包摂と、人々

の営みの中でのミクロな相互作用を通して達成される国民国家という「大きな物語」への包

摂という姿が浮かび上がってくる。まさに、「包摂にひそむパターナリスティックな側面や

ある種の抑圧性が見過ごされるばかりか、その温存に手を貸す恐れ」(p.104)が本書の各論

が提示する排除/包摂論からは垣間見ることができる。

「目の前の差し迫った危機につねにさらされているマイノリティ研究においても、また侍

ったなしといわれる格差・貧困問題研究においても自体は同様である。本章のようないつ尽

きるとも知れぬ堂々 めぐりの議論に身をやつすことに、じつは後ろめたさもある」(pl30)と

いうが、さまざまな多元的現実を生きる個人が経験するさまざまな排除や包摂の中の「生き

られた経験」が丁寧にかつ懐疑的にトレースされており、規範的言説に満ち満ちた教育とい

う領域を相手にする教育社会学の中においても、アクチュアルな社会的排除/包摂論に対し

ても一石を投じる著作である。

最後に蛇足ではあるが、本耆が対象とする教育とは、学齢期以降のトピックとなっている

近年多く着目されている子どもの貧困、OECD勧告、生涯発達という視点からとらえても、

幼児期とは看過できないトピックであろう(幼稚園においては立派な学校教育である)。評

者自身が身を置く幼児教育や保育領域における排除/包摂の様相、学問的領域からの排除/

包摂の様相に関しても気になるところである。

文献

岩田正美2008『社会的排除一参加の欠如・不確かな帰属』有斐閣

中村高康2()12「テーマ別研究動向(教育)」『社会学評論』第63巻3号、日本社会学会

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