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―  ― 47 本稿は、明治期における「調査済教科書表期」から検定期初期までの、文部省による教科書執筆 者・教科書出版関係者に対する歴史認識統制の実態解明を課題とする。「調査済教科書表期」から検 定期における小学校用歴史教科書の内容統制の実態に関する分析は、先行研究で十分になされてい ない。本稿では一種類の日本通史教科書に注目して、分析対象とすることにより、「調査済教科書表 期」から検定期初期における小学校用歴史教科書の内容統制の実態を明らかにした。 キーワード:歴史教科書、文部省、「調査済教科書表期」、検定制、付箋 はじめに 近代国民国家の形成をめざして、日本においても近代的学校教育制度が創始される。この近代的 学校教育制度において、国民統合に不可欠の施策として歴史教育が展開する。この歴史教育におけ る基本教材である歴史教科書の存在と機能は、近代日本列島住民の歴史認識の展開過程を解明する うえで極めて重要な研究対象である。この歴史教科書内容上に現れる歴史認識は、小学校国定歴史 教科書の登場で、一つの公的な歴史認識として確定する。その後この一つの公的な歴史認識は、小 学校国定歴史教科書のなかで変容していくことになる。 しかし、国定期以前の小学校用歴史教科書は、多様な歴史認識を示していたのであり、この多様 な歴史認識を統制するうえで、文部省による検閲システムは一定の役割を果たしていたと考えるこ とができる。 近代日本の小学校用歴史教科書については、内容統制に注目した場合、「自由発行期」 (1872年 (明治 )~1880年(明治13))、「調査済教科書表期」 (1880年(明治13)~1886年(明治19))、 5 検定期(1886年(明治19)~1903年(明治36))、国定期(1903年(明治36)~敗戦後の『くにのあ ゆみ』まで)と時期区分できる。 1872年(明治 )に始まる「学制」下の文部省教科書行政は、文部省と師範学校において教科書 5 編纂を行うとともに 、民間の教科書編纂・発行をも促すものであった。しかし、文部省は1880年 (明治13) 月、各府県教則記載の小学校用教科書の調査を開始する。地方学務局は同年 月30日 5 8 近代日本における文部省の小学校歴史教科書統制に関する基礎的考察 ―「調査済教科書表期」から検定期初期の分析― 竹 田 進 吾 東北大学大学院教育学研究科博士課程後期

近代日本における文部省の小学校歴史教科書統制に関する基礎 ... · 2007-11-05 · 近代日本における文部省の小学校歴史教科書統制に関する基礎的考察

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―  ―47

 本稿は、明治期における「調査済教科書表期」から検定期初期までの、文部省による教科書執筆

者・教科書出版関係者に対する歴史認識統制の実態解明を課題とする。「調査済教科書表期」から検

定期における小学校用歴史教科書の内容統制の実態に関する分析は、先行研究で十分になされてい

ない。本稿では一種類の日本通史教科書に注目して、分析対象とすることにより、「調査済教科書表

期」から検定期初期における小学校用歴史教科書の内容統制の実態を明らかにした。

キーワード:歴史教科書、文部省、「調査済教科書表期」、検定制、付箋

はじめに

 近代国民国家の形成をめざして、日本においても近代的学校教育制度が創始される。この近代的

学校教育制度において、国民統合に不可欠の施策として歴史教育が展開する。この歴史教育におけ

る基本教材である歴史教科書の存在と機能は、近代日本列島住民の歴史認識の展開過程を解明する

うえで極めて重要な研究対象である。この歴史教科書内容上に現れる歴史認識は、小学校国定歴史

教科書の登場で、一つの公的な歴史認識として確定する。その後この一つの公的な歴史認識は、小

学校国定歴史教科書のなかで変容していくことになる。

 しかし、国定期以前の小学校用歴史教科書は、多様な歴史認識を示していたのであり、この多様

な歴史認識を統制するうえで、文部省による検閲システムは一定の役割を果たしていたと考えるこ

とができる。

 近代日本の小学校用歴史教科書については、内容統制に注目した場合、「自由発行期」�(1872年

(明治 )~1880年(明治13))、「調査済教科書表期」�(1880年(明治13)~1886年(明治19))、5

検定期(1886年(明治19)~1903年(明治36))、国定期(1903年(明治36)~敗戦後の『くにのあ

ゆみ』まで)と時期区分できる。

 1872年(明治 )に始まる「学制」下の文部省教科書行政は、文部省と師範学校において教科書5

編纂を行うとともに�、民間の教科書編纂・発行をも促すものであった。しかし、文部省は1880年

(明治13)  月、各府県教則記載の小学校用教科書の調査を開始する。地方学務局は同年 月30日5 8

近代日本における文部省の小学校歴史教科書統制に関する基礎的考察

―「調査済教科書表期」から検定期初期の分析―

竹 田 進 吾

東北大学大学院教育学研究科博士課程後期

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近代日本における文部省の小学校歴史教科書統制に関する基礎的考察

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と 月11日、各府県に取調掛による教科書調査の結果を通知した。その後、同年10月31日、地方学9

務局はそれまでの調査結果をまとめた『調査済教科書表』を各府県に配布した。この『調査済教科

書表』は1885年(明治18)  月まで発行され、調査は小学校用教科書のみならず、中学校・師範学2

校用教科書にも及んだ。1886年(明治19)  月10日、第一次小学校令第13条において、小学校の教4

科書は文部大臣の検定したものに限るとされ、同年 月10日、「教科用図書検定条例」が公布された5

(文部省令第 号)。同年12月、古屋伝『日本史要』全 巻(1886年(明治19)12月28日文部省検定7 3

済)が、小学校用歴史教科書のなかでは最も早く文部省検定済本となって出版される。以後、1904

年(明治37)の国定教科書使用開始まで検定済教科書が相次いで登場する。

 本稿では、「調査済教科書表期」から検定期初期までの、文部省による教科書執筆者・教科書出版

関係者に対する歴史認識統制の内実を解明する。

 『調査済教科書表』による文部省の内容統制に関する研究には、大森正�、片桐芳雄�、中村紀久

二�のものがある�。大森は、「調査済教科書表期」当初の1880年(明治13)  月30日、  月11日の8 9

地方学務局の教科書調査を分析して、文部省達�にある「国安ヲ妨害スル」事項にあてはまる教科

書内容の要素は、修身書のなかの「西欧市民革命期の指導的政治思想」である「自由主義、人民主

権主義、及びそれを侵害する政府に対する人民の抵抗権と革命権を肯定する記述」としている。ま

た、文部省達にある「風俗ヲ紊乱スル」事項にあてはまる教科書内容の要素は、「修身書中の欧米の

積極的な恋愛の場面や男女間の色情の場面の記述、生理書では、生殖器や生殖作用についての記述、

家政書では、妊娠、出産、育児についての記述」としている。大森の研究により、「調査済教科書表

期」当初における、文部省による教科書内容統制の具体的基準が明らかにされたといえる。

 検定期における文部省の内容統制に関する研究には、國次太郎�、中村紀久二�のものがある�。

國次は検定期全期にわたり、制度・政策の変遷を概説しながら、算術・数学教科書内容統制、算術・

数学教科書調査担当者について考察している。付箋内容の分析は概説的ではあるが、小学校のみな

らず中学校・師範学校・高等女学校用教科書にまで検討の範囲が及んでいる。

 しかしながら、「調査済教科書表期」から検定期における内容統制の実態に関する分析は、先行研

究で十分になされていない。特に歴史教科書についてはほとんどなきに等しいといえる。本稿では

一つの歴史教科書に注目することで、「調査済教科書表期」から検定期初期における内容統制の実態

解明を目指す。

 分析の対象とする田中 義 廉 編『日本史略』�は、初版が1877年(明治10)刊行である。その後、よし かど

1888年(明治21)まで改訂が重ねられた。つまり「自由発行期」、「調査済教科書表期」、検定期と、

国定期以前の三つの教科書制度期にまたがって学校教育社会に存在し続けた貴重な教科書である。

体裁も天皇歴代を軸にした編年史であり、時期ごとに人物名・事件名を章題目に立ててそれを連ね

ていく体裁のように、初めからある歴史事象に注目してほかの歴史事象を切り捨てる面が少ない。

そのため統制内容を分析するのに適している。しかも「調査済教科書表期」において「採用スヘカ

ラサル分」となり、その直後に改訂版が刊行されている歴史教科書は本書だけである。さらに検定

期初期における文部省調査時の付箋のついた検定申請本が東書文庫に現存している。この『日本史

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東北大学大学院教育学研究科研究年報 第54集・第 号(2006年)2

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略』に注目することにより、検定期初期までの小学校用歴史教科書に対する文部省の歴史認識統制

の特質について、時期的に区別した分析を精確に行うことができる。

 第 節では、「調査済教科書表期」における文部省の歴史教科書内容統制の実態を、田中義廉編1

『日本史略』を素材にして具体的に分析する。『調査済小学校教科書表』第14号(1882年(明治15)

10月31日)�には、『日本史略』巻一・三~五と続編巻一・二が「小学校教科書ニ採用シテ苦シカラ

サル分」と出てくる。また『日本史略』巻二と続編巻三が「小学校教科書并ニ口授ノ用書ニ採用ス

ヘカラサル分」と出てくる�。そしてこれを受けてであろう、同じ出版人である内藤伝右衛門から

改訂版が1884年(明治17)  月に刊行されている。4

 第 節ではこの『日本史略』�と『改刻日本史略』(以下、この教科書を改刻版と略する)�の異同1

を分析することから、文部省の歴史教科書内容統制の実態を解明する。中村紀久二は、『調査済小学

校教科書表』第14号と『調査済中学校師範学校教科書表』第 号で「採用スヘカラサル分」となっ2

た『日本史略』巻二と続編巻三と、その改訂版との異同の検討を、文部省が「採用スヘカラサル分」

とした内容的な問題を解明する方法の一つとして挙げている�。しかしその分析はなされていない。

 第 節では、東書文庫所蔵の『改刻日本史略』(改刻版)にある付箋から、検定期初期における文2

部省による歴史教科書調査の実態を、そしてその指示が検定期刊行の改訂版�(以下、この教科書

を検定期改刻版と略する)で修正されているか、いないかから教科書肆の対応を解明する。

 . 「調査済教科書表期」における文部省の歴史認識統制1

 前記した大森と中村の研究を参照した上で、『日本史略』を分析する項目として五つの要素を設定

する。第一に、政府転覆・政体の変革・革命権を許容することにつながりかねない叙述。第二に、

具体的な性的描写叙述。第三に、天皇暗殺・殺害叙述。第四に、天皇・皇族個人の性質・資質等に

関する否定的叙述。第四のうち具体的な性的描写叙述は第二に分類する。第五に、天皇・皇族の仏

教支援を理由として、天皇・皇族を批判する叙述。これら五つの要素に該当する叙述を『日本史略』

全 巻・続編全 巻から網羅的に抽出し、その叙述が改刻版ではどのように修正、または修正され5 3

ていないかを検討する。

 第一の政府転覆・政体の変革・革命権を許容することにつながりかねない叙述から検討する。見

出しの叙述において、1870年(明治 )に淳仁天皇と追諡された天皇を「第四十七代淡路廃帝」(巻3

二13丁裏)と、同年に仲恭天皇と追諡された天皇を「第八十五代後九条廃帝」(巻三44丁裏)と記し

ている。それぞれの教科書巻頭の「目録」(目次)においても「四十七淡路廃帝」(巻二)、「八十五

後九条廃帝」(巻三)と記している。これらの叙述は改刻版において、見出しは「第四十七代淳仁天

皇」(巻二12丁表)、「第八十五代仲恭天皇」(巻三38丁裏)と、「目録」も「四十七淳仁天皇」、「八十

五仲恭天皇」と修正されている。

 これらは、大森の分析結果をふまえて、本質的には政府転覆・政体の変革・革命権を許容するこ

とにつながりかねない叙述に類するものとして、問題視されていたと考えることができる。しかし

ながら、本文中にある天皇を廃する叙述については修正に及んでいない�。これらは改刻版でも修

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近代日本における文部省の小学校歴史教科書統制に関する基礎的考察

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正されていないだけでなく、検定期改刻版でも修正されていない。

 『日本史略』は天皇歴代を軸にした編年史であり、目次・見出しの持つ意味は、章節名に相当す

る。そのため廃帝という歴史事象が、子どもの学習主題として成立してしまうことになる。そのこ

とを避けるため、文部省は目次・見出しの「廃帝」叙述を修正するよう指示したと考えることがで

きる。「調査済教科書表期」の小学校用歴史教科書において、目次・見出しに「廃帝」と出てくるの

は管見の限りでは田中義廉の『日本史略』だけである。

 次に、中村紀久二が「国安ヲ妨害」する事項として挙げている近代初頭の農民一揆叙述を検討す

る�。中村は「調査済教科書表期」の「国安ヲ妨害」する事項として「政府や官吏批判、明治政府

下での農民一揆を記述したもの」�を挙げている。具体的には田中義廉『日本史略』続編巻三の北

条・敦賀・福岡・名東・三重・茨城各県の農民一揆叙述を挙げている。続編巻三が「採用スヘカラ

サル分」となっていることから、農民一揆叙述が原因であると推測したのだろう。

 手順として改刻版・検定期改刻版を見てみると、注目すべきことに農民一揆叙述自体は削除され

ていない。しかも改刻版からは1873年(明治 )の鳥取・島根両県の農民一揆叙述まで書き加えら6

れている。したがって農民一揆叙述があることが問題視されたわけではないとわかる。とすれば叙

述の修正が問題となる。修正されているのは、1873年(明治 )の北条県(続編巻三41丁裏)、敦賀6

県(続編巻三41丁裏~42丁表)、福岡県(続編巻三42丁表)のひとまとまりの叙述だけである。問題

となっているのは何か。この部分を見ると、敦賀県の一揆が「越前国敦賀県下ノ土民耶蘇教ヲ嫉ム

モノ二万余人、蜂起シテ県下ヲ劫掠シ、暴動甚タシ、名古屋彦根ノ営兵之ヲ鎮定ス」(続編巻三41丁

裏~42丁表)という叙述から「敦賀県民乱ヲ作ス、尋テ平グ」(続編巻三35丁裏)と修正されている。

 このことから敦賀県の農民一揆(越前護法大一揆)叙述が問題となっていると判断できる。北条

県の一揆などはより詳細な叙述になっている。このように農民一揆叙述自体が存在することは問題

となっていなかったが、別の問題が存在したのである。それは「耶蘇教ヲ嫉ムモノ」に対する修正

指示であると推測できる。これは、中村のいう「国安ヲ妨害」ではなく、別の要因によるものであっ

た。キリスト教徒(欧米人)に対する配慮からくる修正と考えることができる。

 第二の具体的な性的描写叙述にあてはまる 点を示す。2

(允恭天皇死去の叙述の後―竹田注)初メ皇太子(木梨軽皇子―竹田注)其同母妹軽太娘ト相

姦シテヨリ淫行益甚シ、群臣服セス、皆心ヲ穴穂皇子ニ属セリ、帝ノ崩スルニ及ンテ皇太子穴

穂ヲ殺サントス、事ノ成ラサルヲ慮テ遂ニ自殺ス(巻一20丁表~裏)

紀元一千四百三十年庚戌神護景雲四年 天皇(称徳天皇―竹田注)河内ノ由義宮ニ行幸シ、道鏡ト狎褻ス、

道鏡益帝意ヲ悦ハシメント欲シ、淫具ヲ上ル、此ニ由テ病ヲ得テ還リ終ニ崩ス、寿五十三(巻

二16丁裏~17丁表)

 これらの叙述はそれぞれ改刻版において以下のように修正されている。

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東北大学大学院教育学研究科研究年報 第54集・第 号(2006年)2

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皇太子(木梨軽皇子―竹田注)淫虐ナリ、群臣服セス、皆心ヲ穴穂皇子ニ属セリ、帝ノ崩スル

ニ及ンテ、皇太子穴穂ヲ殺サントス、事ノ成ラザルヲ慮テ遂ニ自殺ス(巻一17丁裏)

紀元一千四百三十年庚戌神護景雲四年 是ヨリ先藤原仲麻呂ノ乱ニ帝(称徳天皇―竹田注)発願シテ三層ノ

小塔一百万ヲ造ラシム、是ニ至テ成ヲ告ク、因テ諸寺ニ分置ス○天皇崩ス、寿五十三(巻二15

丁表)

 これらから、『調査済小学校教科書表』第14号の調査時期である1882年(明治15)  月~10月にお8

いて文部省は、「淫」の具体的描写・説明を問題視していることがわかる。これら以外にも前記した

 点のように具体的ではないが、性的な描写がある�。2

 第三の天皇暗殺・殺害叙述にあてはまるのは、  点ある�。これら 点は改刻版・検定期改刻版4 4

でも修正されていない。第四の天皇・皇族個人の性質・資質等に関する否定的叙述にあてはまる叙

述は計18点�あったが、改刻版で修正されていない。しかし、改刻版においてこれらのうち 点の5

叙述には、文部省官吏による付箋がついている。この 点に関しては第 節で検討する。第五の天皇・5 2

皇族の仏教支援を理由として、天皇・皇族を批判する叙述にあてはまるのは、  点ある�。これら4

も改刻版で修正されていない。

 1882年(明治15)10月31日の『調査済小学校教科書表』第14号において「採用スヘカラサル分」

となったのは、全 巻のうちの巻二のみであった。しかし、第一の政府転覆・政体の変革・革命権5

を許容することにつながりかねない叙述にあてはまり、改刻版で修正されていたのは巻二・三であっ

た。また、第二の具体的な性的描写叙述にあてはまり、改刻版で修正されていたのは巻一・二であっ

た。このように、巻二は両方の要素で問題となっている。このことを、巻二が「採用スヘカラサル

分」とされた理由と考えることもできる。

 しかし、「廃帝」叙述で修正された巻二・三はまったく同質の問題である。それが巻二のみ「採用

スヘカラサル分」となっていることからすると、もう一方の具体的な性的描写叙述の方がより深刻

に問題視された可能性が出てくる。具体的な性的描写叙述で修正されたのは巻一・二であるが、こ

の問題は調査者の主観により、問題としての深刻さの評価が分かれてくる。このように考えた場合、

称徳天皇と道鏡の過激な性的描写叙述が「採用スヘカラサル分」の真の要因である可能性が出てく

る。

 しかしこの件に関して断定はできないため、巻二が「採用スヘカラサル分」とされた理由として

は、前記したように、巻二が両方の問題で修正されていること、称徳天皇と道鏡の過激な性的描写

叙述の二つの可能性を挙げるにとどめておきたい。

 次に続編全 巻で「採用スヘカラサル分」となった巻三の理由はなんであったのか。この巻では、3

越前護法大一揆の叙述がキリスト教徒(欧米人)に対する配慮から問題となっていた。このほか考

えられるのは、明治天皇の歴代数を「第一百二十一代今上天皇」(続編巻三 丁表)と記しているこ1

とである。孝明天皇の歴代数が「第一百二十一代」(続編巻二 丁表)となっていることからすれ1

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近代日本における文部省の小学校歴史教科書統制に関する基礎的考察

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ば、第122代でなければならない。しかし、続編巻三の再版本は1882年(明治15)  月25日「二刻御5

届」�であり、この再版本においてすでにこの点は修正されている。『調査済小学校教科書表』第14

号は同年 月~10月に調査されていることから、明治天皇の歴代数が問題視されて「採用スヘカラ8

サル分」となったわけではないと考えられる。

 続編巻三には、改刻版で修正されている叙述がこのほかにも存在するが、それらが「採用スヘカ

ラサル分」となった理由なのかはわからない。ここでは続編巻三の「採用スヘカラサル分」の理由

として、越前護法大一揆叙述がキリスト教徒(欧米人)に対する配慮から問題となっていたことを、

可能性として挙げておきたい�。

2. 検定期初期における文部省の歴史認識統制と教科書肆の対応

� 付箋の分析

 第 節では、東書文庫所蔵『改刻日本史略』(改刻版)についている付箋から文部省官吏による歴2

史教科書調査の実態を分析するとともに、その指示が検定期改刻版で修正されているか、いないか

から教科書肆の対応を分析する。

 本節で分析の対象としたのは付箋のあるものに限定した�。付箋は、全 巻・続編全 巻に計3165 3

点�ある。付箋がいつ貼られたか、つまりいつ教科書調査が行われたかについては、付箋に押して

ある「登作」「辻橋」朱印を手がかりにして、文部省官吏である田中登作・辻橋秀雄両名を『文部省

職員録』等から特定し、1886年(明治19)  月10日から1887年(明治20)11月30日頃の間に調査が7

行われたと推測した�。

 第 節の分析結果を参考にして付箋を調査していくなかで、本節では七つの分析視角を設定した。1

第一に、政府転覆・政体の変革・革命権を許容することにつながりかねない叙述。第二に、性的叙

述。第三に、天皇・皇族個人の性質・資質等に関する否定的叙述。第三のうち性的叙述は第二に分

類する。第四に、天皇の仏教支援を理由として、天皇を批判する叙述。第五に、欧米人に対する侮

蔑叙述。第六に、学問的訂正・学問的疑問�、文章の意味不明瞭(不正確な表現)、誤字・脱字、印

刷不明瞭。第七に、そのほかである�。

 これらの観点によって計316点の付箋のうち、調査の目的と原則を示す付箋 点を除いた314点の2

付箋を分類したのが「表 『改刻日本史略』に対する文部省の付箋による指示」である。これを見る

とわかるが、付箋による文部省官吏の指示は、第六の要素が多い�。これらの例は、文部省官吏の

調査の、当時としては客観的な指向を示しているといえる。

 調査は 名で行っている�。計316点の付箋のうち、「登作」朱印が押されているのは計158点、「辻2

橋」朱印が押されているのは計294点、朱印なしは計13点�である。田中登作は付箋の数も少ないが、

指示内容に、第二・三・四の要素が少ない。これらに関して田中登作が問題視した付箋は 点(巻1

二40丁裏)のみである。このように、改刻版に対する重要な修正指示は、辻橋秀雄が中心となって

行っている。

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東北大学大学院教育学研究科研究年報 第54集・第 号(2006年)2

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 また、文部省官吏がどのような文献を参照して教科書調査を行っていたかが、付箋から多少わか

る。付箋にあらわれる文献は、『古事記』『大日本史』『日本外史』『皇朝史略』『明治史要』等であ

る。これらの史書は明治初頭~20年頃の歴史教科書執筆者も参考にしていたと考えることができる。

明治20年頃までは、まだ近代歴史学が本格的に展開する以前の段階であり、歴史教科書執筆者も文

部省官吏も、『大日本史』『日本外史』『皇朝史略』『明治史要』等を参考にしてそれぞれ教科書執筆、

教科書修正指示を行っていたのである。

 修正指示内容として興味深いのは第一・二・三・四・五・七の要素である。次にこれらを問題視

した付箋の内容を検討する

 第一の政府転覆・政体の変革・革命権を許容することにつながりかねない叙述で問題視された本

文と、それに対する付箋内容は 点(続編巻一33丁裏~34丁表、続編巻二39丁裏~40丁表)ある。2

ともに「国家滋事」の語が問題視されている。この場合「滋事」は乱れることを意味するが、深刻

に問題視される言葉とは思えない。  点とも「滋事ノ字穏ナラス」(どちらも「辻橋」「登作」印)2

と付箋にあるが、検定期改刻版で修正されていない。

 第二の性的叙述で問題視された本文と、それに対する付箋内容を以下 点示す。一つは「紀元一4

千三百九十七年丁丑天平九年 光明后病アリ、供養院ヲ造テ仏ニ祈ル、既ニシテ后僧ノ玄�ヲ見テ大ニ娯ム病

頓ニ癒ユ、是ヨリ中冓次第ニ乱ル」(巻二 丁裏)である。これに対し「此等ノ事ハ事実ナルニモセ8

ヨ、教科書ニハ削除スルヲ可ナリトス」(「辻橋」印)との付箋があり、検定期改刻版で「既ニシテ

后僧ノ玄�ヲ召テ法ヲ修セシム病頓ニ癒ユ、是ヨリ中冓次第ニ乱ル」(巻二 丁裏)と修正されてい8

る。二つ目を示す。

表 『改刻日本史略』に対する文部省の付箋による指示

計下 欄上 欄 教科書肆の対応

修正指示内容 未修正修 正未修正修 正

22000①政府転覆・政体の変革・革命権を許容することにつながりかねない叙述

40004②性的叙述

54001③天皇・皇族個人の性質・資質等に関する否定的叙述

10001④天皇の仏教支援を理由として、天皇を批判する叙述

91305⑤欧米人に対する侮蔑叙述

32247924242⑥学問的訂正・学問的疑問、文章の意味不明瞭(不正確な表現)、誤字・脱字、印刷不明瞭

32001⑦そのほか

10100⑧指示内容不明

347561324254

計69278

(注)・上欄・下欄とは、付箋の貼ってある位置を示す。本文上欄か下欄を意味する。・修正指示が計347点となっているのは以下の通り。計316点の付箋のうち、調査の目的と原則を示す付箋 点を除き、2314点の付箋となる。この314点の付箋には、⑤・⑥の要素に関して、一つの付箋で ヶ所以上修正が指示されてい2るものがある。これを別個に計算すると、計347点となる。

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近代日本における文部省の小学校歴史教科書統制に関する基礎的考察

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上皇(鳥羽上皇―竹田注)三十三間堂ヲ東山ニ建テ観世音ノ金像一千一�ヲ安置シテ、得長寿

院ト号ス、左衛門尉平忠盛監督ノ労ヲ以テ但馬守ニ任ス、又�々上皇ノ荒婬ヲ助クルヲ以テ尋

テ刑部卿ニ擢シテ、昇殿ヲ聴ルサル、忠盛其祖貞盛已来、伊勢ニ居リ、世々武臣ト為テ朝貴ニ

歯セス、是ニ至テ始テ其家ヲ起セリ(巻三16丁裏、「荒婬」の右に朱点)

 これに対し「不穏」(「辻橋」印)との付箋があり、検定期改刻版で「又�々上皇ノ荒婬ヲ助クル

ヲ以テ」が削除されている。

 三つ目は「初メ文禄元年本願寺門主光佐死ス、季子光昭ノ母姿色アリ、既ニ寡ニシテ秀吉(豊臣

氏―竹田注)ニ見ユ、身ヲ献シテ以テ請フ、秀吉乃チ光寿ヲ斥ケ、光昭ヲ門主トス、是ニ於テ光寿

款ヲ家康(徳川氏―竹田注)ニ入ル」(巻五31丁裏~32丁表)である。これに対し「以テ請フトハ何

ヲ請ヒタルニヤ、身ヲ献ス云々不穏」(「辻橋」印)との付箋があり、検定期改刻版で「身ヲ献シテ

以テ請フ」が削除されるなどの修正がなされている。

 四つ目は「大野治長私ニ淀君ト通ス、威権甚盛ナリ」(巻五36丁裏、「私ニ淀君ト通ス」に朱点)

である。これに対し「淀君ト通ズ云云風教ニ害アリ」(「辻橋」印)との付箋があり、検定期改刻版

で「大野治長窃ニ淀君ニ侫ス、威権甚盛ナリ」(巻五36丁裏)と修正されている。このように、第二

の性的叙述で問題視された内容は、すべて検定期改刻版で修正されている。これらの性的叙述は、

第 節で問題視した具体的な性的描写叙述の内容と比べると、いずれもより具体的ではない。「調査1

済教科書表期」に問題視された具体的な性的描写叙述ほど過激な性的叙述でないものも、検定期初

期には問題視されるようになってきている。

 第三の天皇・皇族個人の性質・資質等に関する否定的叙述で問題視された本文と、それに対する

付箋内容を以下 点示す。一つは「天皇(允恭天皇―竹田注)曾テ皇后ノ妹衣通姫ノ姿色絶艶ナル5

コトヲ聞キ、召シテ宮中ニ入レントス、皇后ノ嫉妬ヲ以テ果サス」(巻一17丁表~裏)である。これ

に対し「衣通姫云云歴史ニ益ナシ、態々帝王ノ失徳ヲ掲グルモノナリ」(「辻橋」印)との付箋があ

るが、検定期改刻版でも修正されていない(巻一17丁表~裏)。

 二つ目は「紀元一千百二十三年癸卯七年 天皇(雄略天皇―竹田注)曾テ吉備ノ田狭カ妻ノ美ナルヲ聞

キ、田狭ヲ任那国司ニ任シ、其妻ヲ奪テ女御ト為ス、田狭之ヲ聞キ任那ニ拠テ反ス」(巻一19丁表)

である。これに対し「田狭カ妻云云不穏」(「辻橋」印)との付箋があるが、検定期改刻版でも修正

されていない(巻一19丁表)。三つ目を示す。

天皇(聖武天皇―竹田注)性暗弱仏法ニ迷溺シ、東大寺ノ仏像ヲ鋳又仏寺ヲ諸国ニ建テヽ以テ

天下ノ財力ヲ殫ス、其他内道場ヲ置キ、男女雑糅緇素混淆セシムルニ至テハ其醜辱誠ニ言フヘ

カラサル者アリ(巻二10丁裏)�

 これに対し、この部分の始まりと終わりに朱でかぎかっこがあり、「不穏」(「辻橋」印)との付箋

があるが、検定期改刻版でも修正されていない(巻二10丁裏)。四つ目を示す。

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東北大学大学院教育学研究科研究年報 第54集・第 号(2006年)2

―  ―55

中宮藤原氏崩ス、其ノ妹登子ハ皇兄重明親王ノ寡婦ナリ、天皇(村上天皇―竹田注)其姿色ヲ

悦ヒ、宮ニ入レテ、尚侍ト為シ、絶タ之ヲ寵幸シ、毎ニ昼ニ至テ尚ホ寝テ出テス藤原実頼窃ニ

其累徳ヲ嘆ス(巻二40丁裏~41丁表)

 これに対し「毎ニ○ ○

ヨリ出テズ○ ○ ○

マテノ一句削除スルヲ可ナリトス」(「辻橋」「登作」印)との付箋が

あるが、検定期改刻版でも修正されていない(巻二40丁裏~41丁表)。五つ目を示す。

女御藤原氏璋子ヲ立テヽ、中宮ト為ス、法皇(白河法皇―竹田注)嘗テ私ニ中宮ニ通ス、是ニ

至テ猶改メス、天皇(鳥羽天皇―竹田注)甚タ之ヲ啣ム、崇徳帝ヲ生ムニ及テ天皇意ラク法皇

ノ子ナリト、故ニ二宮交隙アリ、遂ニ保元ノ乱ヲ譲成スト云フ(巻三15丁裏)

 これに対し「私ニ中宮ニ通ス、是ニ至テ猶改メス」「及テ天皇意ラク法皇ノ子ナリト」辺に朱で傍

線が引いてあり、「不穏」(「辻橋」印)との付箋がある。これが検定期改刻版で「女御藤原璋子ヲ立

テヽ中宮ト為ス蓋シ法皇(白河法皇―竹田注)ノ意ニ出ヅルト云フ」(巻三15丁裏)と修正されてい

る。以上 点の付箋を見ると、検定期改刻版で修正されたのは 点のみである。しかし、検定期初5 1

期から内容統制がより厳しくなっているといえる。これら五つの本文内容はいずれも多少、性を連

想させるが、付箋内容等から第二の性的叙述には含めなかった�。

 第四の天皇の仏教支援を理由として、天皇を批判する叙述で問題視された本文と、それに対する

付箋内容は以下の 点である。1

天皇(敏達天皇―竹田注)性英明特立ニシテ固ヨリ仏法ノ信スルニ足ラザルコトヲ知ル、然レ

トモ毅然トシテ仏像経論ヲ毀絶スルコト能ハス私ニ馬子(蘇我氏―竹田注)ヲ許シテ之ヲ為サ

シム、故ニ其法漸ク行ハレ浸淫瀰漫シテ、終ニ天下ノ大蠧ト為ルニ至ル、天皇モ亦其責ヲ辞ス

ルコトヲ得スト云フ(巻一29丁裏)

 これに対し「コノ論ハ儒者ガ仏者ヲ疾視スルノ極論ナリ、公論ニハアラザルベシ」(「辻橋」印)

との付箋があり、検定期改刻版で「天皇モ亦其責ヲ辞スルコトヲ得ス」が削除されるなどの修正が

なされている。この例からは、仏教支援を理由とした天皇批判叙述に関して、検定期初期から内容

統制が厳しくなったといえる。

 第五の欧米人に対する侮蔑叙述で問題視されたのは計 点ある�。アメリカに対する侮蔑叙述(ア9

メリカを「墨夷」とする等)が 点、中近世移行期のヨーロッパ勢力等に対する侮蔑叙述が 点、5 2

欧米勢力に対する侮蔑叙述が 点である。検定期改刻版で、計 点のうち 点のみ修正されていな2 9 1

い�。第七のそのほかで問題視された 点は、  点のみ修正されている�。3 1

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近代日本における文部省の小学校歴史教科書統制に関する基礎的考察

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� 付箋の位置の意味と教科書肆の対応

 ここでは、付箋の貼られている位置のもつ意味を中心に、教科書肆の対応を検討する。「表 『改

刻日本史略』に対する文部省の付箋による指示」の本文上欄・下欄の欄に注目すると、付箋の貼っ

てある位置が重要な問題として存在している。國次太郎はこの点に関して「訂正された意見の記入

してある付せんは大体もとの本の上部に、訂正されなかった意見の記入してある付せんは下部に

はってある」、「上部に強制すべき意見をはったのか、訂正された後で確認のためはりなおしたか、

不明である」�としている。

 しかしながら表を見てみれば、國次が一つの可能性として示した、訂正された後で確認のために

貼り直したという考え方は問題となる。上欄にもかかわらず未修正の24点、下欄にもかかわらず修

正されている13点が存在し、むしろ「上部に強制すべき意見をはった」可能性の方が高いようであ

る。なぜなら表から明らかのように、内容的に重要な第一・二・三・四・五・七の要素に関して、

上欄に貼られている付箋内容はすべて修正されている。上欄にもかかわらず未修正なのは、第六の

要素だけである。このことからこの検定申請本に関していえば、本文上欄に貼られている付箋は、

基本的に教科書肆に修正が強制されているが、本文下欄に貼られている付箋は、基本的に教科書肆

の任意となっている可能性が高い。

 第一の政府転覆・政体の変革・革命権を許容することにつながりかねない叙述に対する付箋の修

正指示が 点とも修正されていないが、付箋の位置が本文下欄である。第三の天皇・皇族個人の性質・2

資質等に関する否定的叙述に対する付箋も 点中 点が修正されていないが、付箋の位置が本文下5 4

欄である。第七のそのほかに対する付箋の修正指示も 点中 点が修正されていないが、付箋の位3 2

置が本文下欄である。ただし、第五の欧米人に対する侮蔑叙述は、なぜか本文下欄の 点のうち、4

 点が修正されている。3

 第三の天皇・皇族個人の性質・資質等に関する否定的叙述は、付箋 点のうち、教科書肆が修正5

しているのは 点のみである。「衣通姫云云歴史ニ益ナシ、態々帝王ノ失徳ヲ掲グルモノナリ」とい1

う付箋には対応していないのである。付箋が本文下欄にあるために、修正が強制されていないと考

えることができる。これから、検定期初期において文部省官吏は、第三の天皇・皇族個人の性質・

資質等に関する否定的叙述をそれほど深刻には受け止めていなかった可能性、または、現実的に文

部省官吏の思う通りには、教科書執筆者・教科書肆の歴史認識を統制できなかった可能性という、

二つの可能性を指摘できる。

 おわりに

 以上、「調査済教科書表期」から検定期初期までの文部省による歴史認識統制を検討してきた。従

来、明らかにされていなかった歴史教科書統制について、その実態を「調査済教科書表期」と検定

期初期との時期的特質を明確にしながら解明した。最後に検定期初期以降への展望を含めて本稿を

まとめておきたい。

 「調査済教科書表期」と検定期初期を比較すると、検定期初期の方が「国安ヲ妨害シ風俗ヲ紊乱ス

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東北大学大学院教育学研究科研究年報 第54集・第 号(2006年)2

―  ―57

ル」事項に関してより広い範囲が問題視されている。また第六の学問的訂正・学問的疑問、文章の

意味不明瞭(不正確な表現)、誤字・脱字、印刷不明瞭も、検定期初期に非常に多くの指示を受けて

修正している。「調査済教科書表期」と検定期初期の調査の実態がまったく変わらなければ、『改刻

日本史略』の場合、付箋による修正指示は必要なかったはずであるが、「表 『改刻日本史略』に対

する文部省の付箋による指示」の通り、検定期初期になってさらに大量の修正指示を受けているの

である。その内実は、「国安ヲ妨害シ風俗ヲ紊乱スル」事項に関する修正指示とともに、当時として

は客観的な修正指示をも大量に含むものであった。

 検定期初期には天皇・皇族個人の性質・資質等に関する否定的叙述は、付箋 点のうち、教科書5

肆が修正しているのは 点のみである。これを、検定期初期の歴史認識統制をめぐる、文部省官吏1

と、教科書執筆者・出版関係者との関係性を特質づける事実と位置づけたい。

 検定期初期を制度的・政策的にみると、1886年(明治19)  月10日の「教科用図書検定条例」(文5

部省令第 号)第 条の「教科用ニ適スト認ムルトキハ、免許証ヲ下付シ」�という「積極的検定」7 2

が、同年12月 日の「教科用図書検定要旨」で早くも、「文部省ニ於テ教科用図書ヲ検定スルノ要旨9

ハ、該図書ノ教科用タルニ弊害ナキコトヲ証明スルニ止マリ、即国体法令ヲ軽侮スルノ意ヲ起サシ

ムヘキ恐アル書、又ハ風教ヲ敗ルヘキ憂アル書、若クハ事実ノ誤アル書等ハ採択セサルモノトシ、

其教科用上ノ優劣如何ハ問ハサルコトトナセリ」�と「消極的検定」に転換している�。そして翌年

 月 日の「教科用図書検定規則」(文部省令第 号)第 条で「止タ図書ノ教科用タルニ弊害ナキ5 7 2 1

コトヲ証明スルヲ旨トシ、其教科用上ノ優劣ヲ問ハサルモノトス」�と明記されるに至る。

 小学校用歴史教科書のなかで最も早く文部省検定済本となって出版されたのは、古屋伝『日本史

要』全 巻である。この初版の検定申請本は1886年(明治19)  月「刻成出版」であるが、供給本3 6

は同年12月 日「校正再版御届」、同年12月28日文部省検定済である。検定済となったのが、同年126

月 日の「教科用図書検定要旨」以降であることからすれば、検定期初期の小学校用歴史教科書は、9

「消極的検定」という原則の中で刊行されていたことになる。「教科用上ノ優劣」を問われ、子ども

の発達段階や子どもへの教育効果を考えたならば、天皇歴代を軸とした編年史であり、難解な田中

義廉の『改刻日本史略』は検定を通らなかったであろう。

 ついで小学校歴史教育を取り巻く状況は、金港堂編輯所編『小学史談』、山県悌三郎著『帝国小

史』を現出させるに至る。『帝国小史』に代表されるような、明治20年代後半以降の高等小学校第

 ・ 学年用日本通史教科書においては、特定の歴史事象を連ねた叙述形式が確立し�、基本的に1 2

本稿で問題としたような「国安ヲ妨害シ風俗ヲ紊乱スル」事項は存在しなくなっていくのである。

この新しい事態と、検定期初期以降の検定制における歴史認識統制は、どのような関係性でもって

歴史的に位置づけられるのであろうか。今後の課題としたい。

【注】

� 「学制」期の文部省教科書政策を一貫して自由発行・自由採択ととらえる考え方があるが、本稿では内容統制に注

目する観点から「自由発行期」というかぎかっこつきの用語を使用した。この件に関する詳細は、拙稿「(史料紹

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近代日本における文部省の小学校歴史教科書統制に関する基礎的考察

―  ―58

介)田中義廉編『改刻日本史略』への文部省付箋」(『東北大学大学院教育学研究科研究年報』第52集、2004年)の

解説の注 を参照。1

� 「調査済教科書表期」という用語は筆者の造語である。教科書の内容統制に注目した場合、「開申制」「認可制」と

いう採択段階の用語より『調査済教科書表』が刊行され、有効性を持っていた時期全体を通して示す用語として適

当であると考える。これは、國次太郎が「調査済教科書表の時代」と称しているのを受けたものである(「検定制度

の成立と算術教科書」、『研究論文集』第24集(Ⅱ)、佐賀大学教育学部、1976年、162頁)。

� ただし、「学制」期に文部省は一貫して各師範学校に教科書編纂・出版を認めていたわけではない。

� 「明治13年の文部省地方学務局による教科書調査に関する考察」(『教育学研究集録』第11集、東京教育大学大学院

教育学研究科、1972年)。

� 「明治前期の「教科書問題」―教科書の統制は教育全体の統制であることについて―」(『信州白樺』第49・50合併

号、1982年)72~79頁。片桐は1879年(明治12)末から検定制度開始までの教科書・教員統制を概括するなかで、

1880年(明治13)  月30日・ 月11日の地方学務局の教科書調査を、簡単に考察している。8 9

� 『内閣文庫所蔵 調査済教科書表 自明治十三年十月 至明治十八年二月』教科書研究資料文献第二集(芳文閣、

1985年復刻初版)の解題、『教科書の社会史―明治維新から敗戦まで―』(岩波新書、1992年第 刷、2001年第 刷1 2

を使用)の40~60頁。中村はこれらのなかで、「調査済教科書表期」全体にわたり、文部省の教科書調査を理解する

うえで指針となる文章を書いている。

� これらのほか、仲新『近代教科書の成立』(日本図書センター、教育名著叢書①、1981年複製、初版は1949年)

159~165頁、倉沢剛『小学校の歴史』Ⅱ―小学校政策の模索過程と確立過程―(ジャパン・ライブラリ・ビューロー

社、1965年)888~901頁、国立教育研究所編『日本近代教育百年史』第 巻 学校教育( )(財団法人教育研究振3 1

興会、1974年)1022~1029頁(堀松武一担当)、注 國次論文162~169頁に、「調査済教科書表期」における内容統2

制に関連する具体的叙述がある。しかしいずれも概説的叙述である。

� 1880年(明治13)12月18日付各府県あて文部省達第21号に「学校教科書之儀ニ付テハ追テ示達スル儀可有之候得

共、国安ヲ妨害シ風俗ヲ紊乱スルカ如キ事項ヲ記載セル書籍ハ勿論、�育上弊害アル書籍ハ採用セサル様予テ注意

可致、此旨為心得相達候事」(内閣記録局編、覆刻版監修石井良助・林修三『法規分類大全』第58巻 学政門(第一

編)、原書房、1981年、289頁)とある。本稿における法規、検定調査時の付箋からの引用は、筆者(竹田)が読点

をつけた。

� 國次には、注 國次論文のほかにも諸論文がある。本稿では省略するが、注 拙稿の解説の注 を参照。2 1 4

� 『検定済教科用図書表 解題』教科書研究資料文献第三集の二(芳文閣、1986年)、注 『教科書の社会史―明治6

維新から敗戦まで―』76~97頁。これらで明治20年代における修身教科書の付箋を簡単に考察している。

� これらのほか、注 倉沢剛著書914~916頁において、修身教科書検定不認可に関する史料を紹介している。7

� 注 仲新著書で、全 巻を「明治前期の主なる日本歴史の教科書」の一つとして挙げている(285~286頁)。田中7 5

の経歴、『日本史略』の書誌情報、『日本史略』に見られる歴史認識の歴史的位置づけについては、拙稿「田中義廉

編『日本史略』の基礎的考察」(『歴史教育史研究』第 号、歴史教育史研究会、2004年)を参照。2

� 注 『内閣文庫所蔵 調査済教科書表 自明治十三年十月 至明治十八年二月』所収。以下、各種『調査済教科6

書表』はすべてこれによる。

� 『調査済中学校 師範学校教科書表』第 号(1883年(明治16)  月28日)には、『日本史略』巻一・三~五と続2 2

編巻一・二が「中学校及師範学校教科書ニ採用シテ苦シカラサル分」と出てくる。また『日本史略』巻二と続編巻

三が「中学校及師範学校教科書並ニ口授ノ用書ニ採用スヘカラサル分」と出てくる。

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東北大学大学院教育学研究科研究年報 第54集・第 号(2006年)2

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� 田中義廉編輯『日本史略』全 巻は、山梨県立図書館所蔵本(内藤伝右衛門、「紀元弐千五百三十六年第九月一日5

版権免許」、1877年(明治10)  月20日出版、甲375. ―タナ― ~ 、奥付は巻五のみ)を使用した。続編全 巻1 9 1 5 3

は、国立教育政策研究所教育研究情報センター教育図書館所蔵本(内藤伝右衛門、1877年(明治10)11月15日版権

免許、1877年(明治10)12月出版(巻一)、1878年(明治11)  月出版(巻二)、1879年(明治12)  月出版(巻三)、3 1

�110. /73、奥付は 巻ともにある)を使用した。2 3

� 田中義廉編輯、高橋磯八郎校訂『改刻日本史略』全 巻・続編全 巻(内藤伝右衛門、1883年(明治16)12月155 3

日版権免許、1884年(明治17)  月出版、検定申請本、東書文庫所蔵、321-32- 、奥付は全巻にある)。4 2

� 注 『内閣文庫所蔵 調査済教科書表 自明治十三年十月 至明治十八年二月』の解題24頁。6

� 田中義廉編輯、高橋磯八郎校訂『改刻日本史略』全 巻・続編全 巻(内藤伝右衛門、1883年(明治16)12月155 3

日版権免許、1888年(明治21)  月11日訂正再版御届、1888年(明治21)  月23日出版、検定合格本、東書文庫所1 1

蔵、321-32- 、奥付は全巻にある)。3

� 本文中にある天皇廃立の叙述は、淳仁天皇(巻二15丁表、18丁裏、続編巻三27丁裏)、陽成天皇(巻二34丁表~

裏、37丁裏)、仲恭天皇(巻三45丁裏、続編巻三27丁裏)、天皇ではなく皇太子だと他戸親王(巻二18丁裏)、早良親

王(巻二20丁表)、恒貞親王(巻二30丁表)がある。

� 1872年(明治 )の山梨県(続編巻三38丁裏)、1873年(明治 )の北条県(続編巻三41丁裏)、敦賀県(続編巻5 6

三41丁裏~42丁表)、福岡県(続編巻三42丁表)、名東県(続編巻三42丁裏)、三重・茨城県(続編巻三55丁表~裏)

の農民一揆叙述がある。このほか一般論としての農民一揆に関する叙述がある(続編巻三33丁裏)。

� 注 『教科書の社会史―明治維新から敗戦まで―』53~54頁。6

� 巻二10丁表~裏、続編巻一15丁表~裏。しかし改刻版・検定期改刻版ともに修正されていない。改刻版に付箋は

ない。このほか巻二 丁裏、巻三19丁表、巻五36丁裏、42丁表にもある。これら 点は改刻版(検定申請本)にお9 4

いて付箋がついているので、第 節で検討する。2

� 安康天皇(巻一20丁裏~21丁表)、崇峻天皇(巻一36丁表、38丁表~裏)、淳仁天皇(巻二15丁表)の殺害叙述が

ある。

� 巻一19丁裏~20丁表、20丁裏、21丁裏~22丁表、22丁裏、26丁裏、巻二11丁裏~12丁表、14丁表~裏、17丁裏、

20丁表、34丁表~裏、37丁裏、46丁裏、47丁裏、巻三17丁裏、24丁表、26丁裏~27丁表、35丁裏、巻四17丁表~裏。

� 巻一34丁裏、36丁裏、38丁表~裏。これらのほか巻一33丁裏~34丁表にもある。これには改刻版で付箋がついて

いるので、第 節で検討する。2

� 注12拙稿「田中義廉編『日本史略』の基礎的考察」  頁。5

� 続編巻三は1867年(慶応 )から1877年(明治10)までの叙述であり、同時代史として単純な事実の誤り、誤字・3

脱字等が、ほかの時代より深刻に問題視された可能性もある。

� 続編巻二32丁表の本文上欄にクエスチョンマークと「不当」とが書かれている。これは付箋がない。朱印もない。

しかし「不当」と文字による指摘があるため、付箋に準ずるものと考え、分析対象とした。

� 注28の付箋のない指摘を入れている。

� この件に関する詳細は、注 拙稿の解説を参照。1

� 学問的訂正・学問的疑問とは、当時の調査者はそう判断して付箋をつけたのだろうと、筆者(竹田)が理解した

ことを意味しており、現在の歴史学の成果からすれば逆に学問的に誤った修正指示をしているものもある。

� このほかに、付箋による指示内容不明のものが 点ある(巻三15丁裏)。1

� これらに関する教科書・付箋内容の例示は、注 拙稿を参照。1

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近代日本における文部省の小学校歴史教科書統制に関する基礎的考察

―  ―60

� 朱印の押されていない付箋も計13点あることから、「登作」「辻橋」印所持者以外に『改刻日本史略』の調査者が

存在した可能性がある。

� 付箋はないが分析対象とした 点を入れている。1

� この叙述には、天皇の仏教支援を理由として、天皇を批判する要素も、性的要素も存在する。しかし、「性暗弱」

とあることを重視して第三に分類した。

� たとえばこの五つ目の例には「法皇(白河法皇―竹田注)嘗テ私ニ中宮ニ通ス」とあり、第二の性的叙述で問題

にした四つ目の「大野治長私ニ淀君ト通ス」と基本的に同じ内容といえる。それにもかかわらず、この例を第二の

性的叙述に入れなかったのは、付箋の指示している範囲が「是ニ至テ猶改メス」「及テ天皇意ラク法皇ノ子ナリト」

辺にも及んでいるからである。より広く、白河法皇の性質・資質が問題視されていると理解した。

� 続編巻二 丁表、  丁表、  丁裏(「外夷」と「禽獣視」の 点が問題と数えた)、  丁表、13丁裏、14丁表、271 3 3 2 4

丁裏、36丁表である。

� 続編巻二27丁裏。なぜこれのみ未修正なのかはわからない。

� 楠木正成叙述(「辻橋」印、巻四16丁裏~17丁表)のほか、「瞽僧ノ字穏ナラス」(「登作」印、続編巻一26丁表)、

「紅日白旗ノ字穏ナラス」(「辻橋」「登作」印、続編巻二17丁裏)と付箋にあるものを、第七のそのほかに分類し

た。このうち続編巻二17丁裏のみ、検定期改刻版で修正されている。

� 注 國次論文173頁。國次は本文下欄からはがし、上欄に貼り直したらしい付箋のあることを指摘している(注 2 2

國次論文173頁)。ただしこの『改刻日本史略』の事例では、本文上欄からはがし、下欄に貼り直したらしい付箋も

数は少ないが存在する。

� 『法令全書』明治19年下巻(内閣官報局)256頁。

� 『官報』第1034号(1886年(明治19)12月 日)。龍溪書舎の1984年復刻版を使用(97頁)。9

� 「積極的検定」と「消極的検定」をめぐる動向については、梶山雅史『近代日本教科書史研究―明治期検定制度の

成立と崩壊―』(ミネルヴァ書房、1988年)の第 章から第 章にかけて、詳細な分析がある。1 3

� 『法令全書』明治20年上巻(内閣官報局)45頁。

� 寿福隆人は、日本古代史叙述の全体像の分析から、明治20年代中期(明治25年前後)に大きな転換が起きている

としている(「明治20年代中期の古代史教材の転換―聖徳太子教材の成立を通して―」、『日本の教育史学』教育史学

会紀要第28集、教育史学会、1985年)。またこの時期に、「聖徳太子」叙述に関して、幕末・明治初期の歴史書・歴

史教科書には有力な史観として存在した、皇族「聖徳太子」を批判できる要素が、山県悌三郎著『帝国小史』にお

いて消滅しているとしている。その原因を、1889年(明治22)の帝国憲法の天皇条項、1890年(明治23)の教育勅

語・1891年(明治24)の「小学校教則大綱」などの天皇観、1892年(明治25)の久米邦武事件、1881年(明治14)

の「小学校教則綱領」以来の歴史教育における修身化の傾向などに求めている(29~30頁)。そして、「これ(『帝国

小史』刊行以後―竹田注)以後、『帝国小史』に見られる太子記事、つまり太子の倫理的側面に焦点をあてて仏教系

太子伝に見られる記述を抜き出し、集約して、  世紀後半から 世紀初頭の古代史を「太子物語」として叙述する6 7

という古代史記述が継承され、国定期の歴史教科書へとつながっていくのである」(28頁)とする。寿福は、この変

容した「聖徳太子」叙述を「意図的に作り出されたもので、教育勅語体制の確立の所産ではないか」( 頁)とする4

仮説を出している。寿福論文で重要なのは、明治20年代初頭から半ばにかけての時期に、『帝国小史』の著者山県悌

三郎の古代史観に変化が起きていることを指摘していることである(29頁)。

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東北大学大学院教育学研究科研究年報 第54集・第 号(2006年)2

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