21
アングロ- 32 l はじめにI問題の設定と方法 - 従来'あとの時代の歴史的発展の状況からイギリ ランスという一国史単位で歴史を見ようとする立場が あった。たとえば「イギリス国民史」を想定するなかで ングランドにのみ目を向け'ノルマンディーとの関連でイン グランドを捉え直すという見方が希薄であったようである。 しかし'アングロ=ノル・マン国家に限定して考えてみると' イングランドとノルマンディーを別々のものとして見るよ .り'まとまったものとして捉える見方の方が'その国家像を (-) よ-正確に理解できるのではないであろうか。 リsi 本シンポジウムのテーマである地域から見た中世国家を問 題にしようとすれば'アングロ=ノルマン国家を構成してい たイングランドとノルマンディーとの関係をどのように捉え るべきかt という点をぬきにして'それを論ずることはでき ない。征服後'イングランドに渡ったノルマン諸侯たちの多 くがノルマンディーにおいても所領をも り'かれらは'両地域をまとまったものと : c の支配者を望んでいた。ウィリアム1世死後 に支配された時期には'一方の側における諸侯た に対する関係は'他方の側における支配者の動向に きく左右された。そのことは、ウィリアム二世、ヘン 世各治世初めに起った反乱においてうかがわれる。 しかし'この事情は両地域が別々の支配者により統治され た時期に固有の現象であったわけではない。ウィリアム一世 治世'ウィリアム二世治世末期'ヘンリー一世治世の大半に おいて一人の支配者が両地域を治めていたわけであるが、た とえば'イ`ングランドにもっぱら存立基盤をもっていた諸侯 たちの国家に対する関係は、ノルマンディー公でもあった国 王(以下'国王=公と表記する) のノルマンディーにおける 立場・政策によって常に影響を受けていたのである。 したがって'アングロ=ノルマン期において'イングラン ドとノルマンディー両地域における在地の諸侯たちと支配者

アングロ-ノルマン国家再考...アングロ-ノルマン国家再考 32 山 代 宏 道 l はじめにI問題の設定と方法 -従来'あとの時代の歴史的発展の状況からイギリスとかフ.り'まとまったものとして捉える見方の方が'その国家像をイングランドとノルマンディーを別々のものとして見るよしかし'アングロ=ノル・マン国家に限定して考え

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アングロ-ノルマン国家再考

32

山  代  宏  道

l はじめにI問題の設定と方法 -

従来'あとの時代の歴史的発展の状況からイギリスとかフ

ランスという一国史単位で歴史を見ようとする立場が有力で

あった。たとえば「イギリス国民史」を想定するなかで'イ

ングランドにのみ目を向け'ノルマンディーとの関連でイン

グランドを捉え直すという見方が希薄であったようである。

しかし'アングロ=ノル・マン国家に限定して考えてみると'

イングランドとノルマンディーを別々のものとして見るよ

.り'まとまったものとして捉える見方の方が'その国家像を

(-)

よ-正確に理解できるのではないであろうか。

s

i

本シンポジウムのテーマである地域から見た中世国家を問

題にしようとすれば'アングロ=ノルマン国家を構成してい

たイングランドとノルマンディーとの関係をどのように捉え

るべきかt という点をぬきにして'それを論ずることはでき

ない。征服後'イングランドに渡ったノルマン諸侯たちの多

くがノルマンディーにおいても所領をもっていたわけであ

り'かれらは'両地域をまとまったものとして統治する一人

:c〔

の支配者を望んでいた。ウィリアム1世死後'両地域が別々

に支配された時期には'一方の側における諸侯たちの支配者

に対する関係は'他方の側における支配者の動向によって大

きく左右された。そのことは、ウィリアム二世、ヘンリー一

世各治世初めに起った反乱においてうかがわれる。

しかし'この事情は両地域が別々の支配者により統治され

た時期に固有の現象であったわけではない。ウィリアム一世

治世'ウィリアム二世治世末期'ヘンリー一世治世の大半に

おいて一人の支配者が両地域を治めていたわけであるが、た

とえば'イ`ングランドにもっぱら存立基盤をもっていた諸侯

たちの国家に対する関係は、ノルマンディー公でもあった国

王(以下'国王=公と表記する) のノルマンディーにおける

立場・政策によって常に影響を受けていたのである。

したがって'アングロ=ノルマン期において'イングラン

ドとノルマンディー両地域における在地の諸侯たちと支配者

Page 2: アングロ-ノルマン国家再考...アングロ-ノルマン国家再考 32 山 代 宏 道 l はじめにI問題の設定と方法 -従来'あとの時代の歴史的発展の状況からイギリスとかフ.り'まとまったものとして捉える見方の方が'その国家像をイングランドとノルマンディーを別々のものとして見るよしかし'アングロ=ノル・マン国家に限定して考え

アングロ-ノルマン国家再考(山代)

との関係を見ようとする場合'まず'これら両地域を切-戟

して考えるのか、あるいは両地域をまとまったものとして捉

えるのか'その立場を明確にしなければならない。そして'

それを行わないでイングランドとノルマンディーのいずれか

におけるさらに小さい規模での地域と国家の関係を論じよう

としても'そこには限界があるように思われる。それゆえ'

ここでは'まず、一方の地域における諸侯と支配者との関係

が他方における状況に大きく影響されていたこと'また'支

配者とともに諸侯たちも両地域の一人老支配を希求していた

こと'そして'実際に一〇六六年から二五四年までのアン

グロ=ノルマン期のうち'ウィリアム一世治世二〇六六~

八七)'ウィリアム二世治世末期二〇九六~二〇〇),ヘ

ンリー一世治世の大半(二〇六~三五)'そしてスティー

ヴン治世の大半(二三五~四四)'すなわち八九年のうち

約六六年間'一人の支配者が両地域を治めていたという理由

から」これら両地域をまとまったものとして見ていきたい。

さらに'アングロ=ノルマン国家について考える際に指摘

しておかねばならないもう一つの点がある。それは,あとの

時代における「中央と地方」といった概念を'そのままこの

時代に適用すべきではないtということである。すなわち'

この時期の統治の特徴は'いまだ国王=公による巡回統治で

あったという点にある。たしかにへ支配者は自己の支配領域

内の必要な場所に裁判官や役人を派遣したわけであるが'自

らも'側近諸侯や自己のハウスホールドを伴って支配領域'

すなわちこの場合'イングランドとノルマンディーを巡回し

リa

ていた。そのことをさきの表現でいえば'国王の宮廷である

「中央」が定まっておらず、まさに「中央」が「地方」を巡

り歩いていたtということができるかもしれない。

本シンポジウムで西洋史に課せられた課題は'こうしたア

ングロ=ノルマン期の時代状況の中で'まず'「地域」をど

のようなレベルで捉えるのが当時の「国家」理解にとってよ

り有意義であるのかを問い'つぎに'実際にどのような方法

によればそれら両者の関係を究明できるのかを問うことであ

るtと考える。そして'それらの問いに対する筆者のとりあ

えずの回答は'アングロ=ノルマン国家を理解するにはイン

グランドとノルマンディーという「地域」(そのレベルでの

地域)を'まとまったものとして捉えることが必要であり'

また'そうした捉え直しをするに際してはtJ・ル-パトゥ-

レル(LePatourel)が行った主として財政・司法組織の分析

といった側面からのアプローチとともに'教会分野において

(m)

も同様のアプローチが可能であるtというものである。

二 両地域の統治

(I) 財政組績

まず'両地域の1体性を主張するJ・ル=パトゥ-レルの

研究の概要を見ておきたい。アングロ=ノルマン期の財政組

33

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織に一.っいては'十二世紀に入る七'すなわちヘンリーl世が

÷1〇六年にノルマンディーを併合して両地域をいっ七よに

凌配するようになったころかちtI.ノしだいに'両地域において

固定した財務府が設立され'それぞれに財務官たちが在住す

(6)

るようになっていった。

かれらは国王のそば'すなわち国王私室(チェインバー)

から離れて'イングランドではウィンチェスターへソルマン

ディ-ではルーアンに設置された財務府に常駐するようにな

ったt と推測される。たしかに'そうした変化が認められる

のであるが'それにもかかわらずアングロ=ノルマン期には

同時に'国王に支払われるべきお金が直接に国王私室へ納入

されたり'あるいはそこから送付されたりして'両地域の財

務府のいずれにも全然入らなかったり'また財務府監査を経

ることもないtといった事態が依然として生じていたのであ

la

る。ま

た..両地域の財務府は共同して機能しなければならなか

った。.なぜならへ お金や財宝は'一方の地域から他方へと'

そして同.一地域内でもある場所から他の場所へと'巡回する

国家宮廷が必要とするままに運ばれたからである。イングラ

ンドにおいて国王-公に支払われるべきお金がノルマンデ

ィーの財務府へと納入され'その決済がイングランドの財務

(8)

府で済まされることも可能であった。

・明らかにイングランイの財務府を統轄する1人の役人とノ

ルマンディーの財務府を統括するもう一人の役人がいたので

あるが'さらにその上には'二つの地域を包摂する財務組織

の頂点に'ただ一人の財務長官が存在していたのであるO ル

=パトゥ-レルは、この時期の国王-公の巡回するハウス

ホールドがメンバーとして単一的であり'唯一の財務長官も'

なかば独立しかかってはいたが'依然として国王ハウスホー

(9)

ルドのメ'ンバ1で満ったような存在として捉えている。

このように'ヘンリー一世の財政組織は'イングランドあ

るいはノルマンディーのためにというより'むしろ国王=公

という一人の支配者に仕えるために存在していた。しかし'

そのことを別にしても'財政組織が一人の財務長官の下にあ

ったという意味で基本的に単l的であったt と考えることが

(_o)

可能であろう。

両地域における財務組織は'少なく.ともヘンリー一世時代

以降'相互に緊密に関連し合い'また同一原理に基づいて成

立していた。もっとも'ル=パトゥ-レルは'両地域の一体

化(統合)をめざす国王-公の統治とその重要性にもかかわ

らず'支配者の統治が'海峡によって区別され'また過去の

歴史的条件を異にする両地域において行われた点を見落して

はいない。それは細部における相違をもたらした。たとえば'

国王と公の収入源については、イングランドでヴァイキング

への献上金支払いのため散収され始めたゲルト税がノルマン

ディーでは存在しなかったこと'また'アングロ-サクソン

時代の州や郡とカロリング時代のパギといった過去の行政組

織とその残存状態が相達していたため'収入が教収される領

m

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アングロ-ノルマン国家再考(山代)

域的単位が異っていたこと'さらに'税徴収役人たちに関す

(〓)

る相違などである。

(2)司法組持

つぎに'同様のことが両地域における国王=公の司法組織

についても言える。巡回する国王法廷(=宮廷'クリア=レ

ギス) へともたらされた訴訟は種々の形態をとったが'少な

くとも残存史料に見られるかぎり'大部分が教会や諸侯たち

の土地財産に関わるものであった。そして'かれらの所領は

両地域にわたって散在していた。したがって'国王法廷へと

もたらされた訴訟のための業務は'移動する国王法廷がどこ

で'またどのような形で開催されていたとしても、ほぼ同じ

I

)

であったt といえるであろう。

たしかに'訴訟は問題になっている所領のできるだけ近く

で審理されるべき理由は存在していた。たとえば'所領の所

在地が審理に適用されるべき慣習(汰)を決定したこともあ

2

ったであろう。しかしtl同時に'アンジュー地方のソミュー

ル (Saumur) の修道院とノルマンディIのフエカンプ

(Fecamp)修道院との問で争われたイングランド所領(サセ

ックスの Beeding他)に関する訴訟が'ノルマンディーの

フカルモン(Foucarmont)において審理されることも起こり

31

えたのである。

そうしてみると'イングランドとノルマンディーの各地域

における別々の司法組織を想定するよりも'やはり両地域に

またがる単一の司法組織の存在を考える方が、この時期の現

(21

実により近いものであったといえよう。

三 教会分野からみた両地域

これまで'主としてー・心=..(トゥ「レルの研究に依拠し、

ながら'財政組織と司法組織について見てきたアングロ=.ノ

ルマン期のイングランドとノルマンディーの一体性は、教会

分野においてはどのように検証されるのであろうか。財政や

司法と比べて'教会分野におけるこの問題への接近方法にと

もなうひとつの困難性は'両地域における国王-公(支配者)

と諸侯(司教たちを含む)との関係が'この時期には'ロー

マ教皇庁の立場によって左右されたtという点にある。すな

わち'両地域をまとまりあるものとして捉えながらアングロ

‖ノルマン国家を見ようとする場合、ローマ教皇庁の対応を

無視できないのである。したがって'教会分野では'国王=

公と司教そしてローマ教皇という考察すべき要素がより多く

複雑になるt ということである。

本稿では'首位権(primacy)問題を手がかりにしながら両

地域についての大司教.i)教皇庁の捉え方を探り,さらに,戟

皇使節(papallegate)問題を手がかりにしながらロつマ教皇

と国王-公の両地域についての認識を探っていきたい。しか

し'その前にまず'一〇六六年ノルマン征服後のアングロ=

m

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ノルマン期において見られるようになった'両地域の結びつ

きを示す現象について検討しておきたい。

(-) 両地域の結びつき-実態-

F・バーロー(Barlow)は'両地域の教会について'それ

らがイングランド教会とウェールズ教会との関係とちがい'

まった-分離したままであったと主張している。イングラン

ドの司教たちは例外的にのみノルマンディーへと赴いたが'

用事で国王に会うためであった。他方'ノルマンディーの司

教たちはめったにイングランドを訪問しなかった。そして'

これはヘンリー一世の政策であったのであり'それによりへ

ンリIは島国教会の主人にとどまることができた。かれは'

大陸の教会の影響にさらされたノルマンディーの聖職者集団

"

(

2

)

からの汚染を恐れていたt というものである。

こうしたバーローの主張は'そのまま受け入れることはで

きない。ここで'あらかじめ筆者の見解を明らかにしておく

と'ヘンリー一世は'ノルマンディー教会を含めて自己の支

配預域内にある教会をローマ教皇の干渉から守ろうとした'

しかし'その努力にもかかわらず教皇使節の入国については'

ノルマンディーを守りきるこrはできなかった,というもの

である。

もっとも'バーローも別の箇所では'さきほどとは少しニ

ュアンスの異なる見常を述べているo すなわち'アングロ=

表1 HOLDINGS OF FOREIGN HOUSES IN DOMESDAY

Gross Income

in Domes勾γ

£  s. d.

22  0

21  0

20  0  0

18  0

16 16

11  0  0

o

i

n

w

o

o

o

w

ai ^ w in ^ m n

1

H ouseGross Income

in Domesday

∫ s. d.

200  0  3 StOuen,Rouen

lO7  0  0 Lire

94 13  0 Jumiとges

73 18  4 Cluny

73  0  0 Lonle

45  4  6 Prtaux

42 13  0 Bernay

40  0  0 Marmoutier

35  5  0 MontJbourg

34  8  8 Trfiport

30  0  0 Cormeilles

26 15  0 StTaunn,EvTeuX

26  0  0 St Nicholえs, Angers

25  0  0 LaCroixStLeufroy

23  0  0 St Pierre-sur-Dive

House

Fecam p

・Ste Trinite, Caen

St Remi, Rheims

Grestain ・

St Etienne. Caen

St Denis, Paris

St Wandrille

Alm enfiches

St Evroul

St Valery

St Pie汀e, Ghent

Mont St Michel

Seez

Troam

Eec

* Nunneries, (D. Knowles, Monastic Order, p. 703.)

m

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アングロ-ノルマン国家再考(山代)

表2 THE PROVENANCE OF FOREIGN SUPERIORS APPOINTED TO ENGLISH

MONASTERIES, 1066-1135

-1066 1066-1087 1087-1100 1100-1135  Tota

i

n

I

 

>

n

I

-

n

1

2

-

2      2

1     2

2

1

2      5

蝣t^^^^^^^^^Kl

1

1

3

n

i

n

^

-

"

n

-

<

N

 

1

 

2

 

I

I

I

I

I

I

I

I

I

I

House of Origin

In Normandy

Bec

Bernay

Caen

St Evroul

Fecamp

Jumiとges

Lre

St Ouen

Mont St Michel

S6ez

St Wandrille

Anonymous

Other French Houses

Cluny

B eauvais

Marmoutier

St Denis, Paris

Norman monks from

Christ Church, Canterbury

Winchester, Old Minster

26    11    26     64

‖      Bj H      軒    iIH

Jumiとges Bee(4)  Fecamp S^ez(2)

Fさcamp (1)     Beauvais (1)

St Carilef (l)

St Sabas, Rome

Add following bishops

(D. Knowles, Monastic Order, p. 704.)

ノルマン期のイングランドで厚遇された惨道

会の大部分が'かれらの本部を国外にもって

いた。大陸的運動からのイングランドの相対

的孤立は急速に終ろうとしていた。イングラ

ンド孤立のための障壁をこわそうとする意識

的動きがあったからという上りへインダラン

下がノ'ルマンデイIへと加えられ'それがフ.

ランスの一部であったからであるtと主張し

(_7)

ている。

両地域の教会問の結合の程度'またイング

ランドの孤立が終わる時期とその原因をめぐ

る相違は依然として残っているのであるが'

少なくともイングランドとノルマンディーと

の結合は承認されているようである。問題は'

教会分野においてその一体性がどれほどのも

のであったのかt ということであろう。

ところで'・イングランドとノルマンディー

の両地域が一人の支配者の下にあることは'

教会の利益にもかなっていた。イングランド

に土地や財産をもつノルマンディーの司教座

教会や修道院にとってそうであった。そのこ

とは'実質的にはノルマンディーのすべての

大教会や修道院を意味していた。すべての司

教座教会がイングランドに財産を獲得した。

37

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またドゥームズディ調査時二〇八六年)に'イングランド

に所領を保有していたノルマンディーの修道院については'

(3

表Iを参照していただきたい。

.さらに'両地域の一人老支配は野心的な教会人にとっても

漸都合であった。というのも,√ングー㌃ドの司教座教会や

重要な修道院への任命は'大部分、ノルマンディーあるいは

フランス出身者に対してなされたからである。それは、カン

タベリー修道士エドマIがtへンリIl世時代にはイング一ア

ン.J・人は高位聖職への昇進のチャンスはないtと証言してい

るとおりである。その数字については'表2を参照していた

(1

9)

だきたい。教会人たちは'こうした両地域にまたがる昇進の

(2

0)

途が開かれたままであることを願っていたはずである。

両地域の一体性の程度を知るには、聖職者の往来ならびに'

いま指摘したのとは逆の方向'すなわちイングランドにいた

聖職者がノルマンディーの高位聖職へと昇進した事例があっ

たのかどうかを検討してみる必要がある。F・バーローは'

いずれの方向へも司教たちの往来はまれであったtと主張す

るのであるが'その見解は支持Lがたい。たとえば'ヨーク

大司教サースタン.の兄弟で二二一三年ロンドン司教座教会

の参事会員からノルマンディーのエグルー(Evreux)司教に

昇進したカン(Quen.Audou

.en)はt.しばしばイングランド

1^)

に滞在しているLt時々にはサースタンに同行していた。1

一二1年二月サースタンが召集したヨI久大司教座教会参事

会では'ダラム司教ラヌルフ=フランバルドと共に'カンも

(22)

同席しているのである。

カンとならびt.イングランドの聖職からノルマンディーの

聖職へと昇進した他の事例としては'一一三〇年レディング

修道院長からノルマンディ-第l位のルーアン大司教となっ

たヒユI=オヴ-アミアン (Hugh of Amien)'ノリッジの

大助祭(archdeacon)からアグランシュ (Avranches)司教と

なったリチャード'さらにコーンウォールのポドゥ(,[ン

(Bodmin) の律修聖職考(canon regular) でクータンス

(Coutances)司教となったアルガ-(A-gar)たちがいる。M

・プレット(Brett)は'こうした状態を、「ヘンリー一世治

世末期には'ノルマンディーがイングランドによって植民地

化されつつあった'と言った方がよいくらいであった」と表

り叫E

現している。

多少ニュアンスは異なるがt o ・fe ホリスター

(Hollister)は'「ウィリアム1世治世と比'へるとヘンリー一

世治世では'ノルマンディーが海峡を横切る王国の南部分で

SI

あるかのように支配された」と指摘している。こうしてみる

と'両地域の結びつきは'実態としても否定Lがたいように

思われるのである。

では'こうした結びつき室不す両地域は'ナングロ=ノル

マン国家において位置.つけられる時'常に同じ扱いをうけて

いたのであろうか。つぎには'両地域に関するカンタペリー

大司教'ローマ教皇'そして国王=公の捉え方を分析するこ

とにより'アングロ=ノルマン国家における両地域の位置づ

Of

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アングロ-ノルマン国家再考(山代)

けを試みてみたい。

(2)首位権問題

アングロ-ノルマン国家'とりわけ教会分野において'聖

職者たちが両地域をどのように捉え.ていたのかを直接示すよ

うな史料は見当らない。1方から他方け高位聖職へと昇進し

た聖職者たちにとって、両地域の鼠に介在する海峡はかれら

を妨げるものとは思われなかったにちがいない。しかし'か

れらがその昇進を喜んで受け入れたであろうことは推測され

えても'両地域について自分たちの認識を表明しているわけ

ではない。それでは'教会分野において両地域についての認

識を知りうる手がかりがまったく無いのかというと'必ずし

もそうではない。ここでは'カンタベリー大司教による首位

権の主張を手がかりにその問題を考えてみたい。

カンタペリー教会は'聖アウグスティヌスの時代より文字

どおり全イングランドの「母なる教会」(mother church)で

あったが..ノルマン征服後大司教となったランフランク(荏

位'1〇七〇~八九年)は'カンタベリー大司教座がイング

ランドのみではなく'全ブリテン諸島に対する首位権をもつt

という理想(an idea-of primacy throughout the British

Isles)をもちこんだ。M・ブレットは'それが'各大司教の

スコットランド・ウェールズ・アイルランド問題に対する接

(」)

近の仕方に色彩りを添えているt と説明している。

ランフランクはt j<司教就任後もかれの理想を実現するた

めの第1歩を,叙階を希望していたヨーク大司教トーマス(荏

位二〇七〇上1(P〇年)が自分に服従宣誓を行うよう命

じることで開始した。かれは'ヨーク大司教がカンタベリー

大司教に対して服従宣誓をするのは古い習慣であったと主張

・Lt これに対し'トーマスはそうした醸習は見つからないと

反論したのであつ(a)

これ以後'アングロ=ノルマン期を通じて'カンタベリー

大司教の首位権の主張とt m-ク大司教に対する服従宣誓の

要求をめぐる両者の対立が継続していくことになる。しかし

ここでは'当面のテーマである首位権の主張について'一〇

七二年ウィンチェスター教会会議において'ランフランクが

イングランドの首位大司教であると認められたこと、さらに

国王ウィリアム1世がランフランクの立場を支持していたこ

(28)

とを指摘しておきたい。

つぎのカンタベリー大司教はアンセルム (在位'一〇九三

~二〇九年)であるが二〇九三年かれはヨ「ク大司教トー

マスによる叙階に際し.Iトーマスからの服従宣誓を要求し'

さらに自らをブリテンの首位司教として叙階するよう求め

sた。つ

づく大司教ラルフ(在位'一一一四~二二年)も'ヨー

ク大司教に任命されたサースタン(在位二一一四~四〇年)

(Q】

に対し服従宣誓を要求しながら叙階の引き延ばしを行ったo j

さらに大司教ウィリアム(在位'一一二三~三六年)も'叙

39

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階をカンタペリー教会で行ってやると寛大に申し出たサース

タンに対し'自らをイングランド全体の首位大司教として叙

階するよう要求することで'サースタンの反発を招いたので

(3t)

あった。

こうしたランフランクに始まる各カンタベリー大司教のブ

リテン諸島に対する首位権の主張は'ローマ教皇庁の政策'

すなわちへ ローマ教皇座を首位とするヨーロッパにおける教

会ヒエラルヒー確立の動きに反するものであった。すでに大

司教ランフランクの時'一〇七二年の教会会議においてカン

タベリー大司教のイングランド全体に対する首位権は一応確

立されたのであるが'その後'この会議の決定事項のうち首

位権に関しては'ついにローマ教皇庁の承認をうることはで

(32)

きなかったのである?

当時'教皇庁はたとえ首位権を認めだ場合でも'それを名

誉称号(titleofhonour)に限定するよう努力していた。また'

ローマ教皇庁への上訴の増加とともに教皇は大きな影響力を

行使するようになり'教会組織におけるそれまでのパターン

を自己の都合にあわせて変更する機会を得ていたのである。

たとえば'1101年からアイルランドへ汎遺された教皇使

節たちは'そこにおけるカンタベリー大司教の影響力を減ず

1

3

!

る働きをなしたのであった。

首位権の問題についていま注目されるのは'一〇七九年に

教皇グレゴリー七世がルーアン・サンス・ツールの大司教座

をリヨン大司教の首位権へと従属させたことである。教会の

伝統的パターンに対するローマ教皇側からの干渉は世俗支配

者に歓迎されることはなかった。この場合も'グレゴリー七

世の決定はウィリアム一世の怒りを引き起こしたのであっ

(S)た。以

上'アングロ=ノルマン国家におけるイングランドとノ

ルマンディーの両地域が'教会分野においていかに認識され

ていたのかを探るため'首位権問題を取りあげながら'カン

タベリー大司教がどれぽどの広がりをもたせて首位権を主張

し'それに対してローマ教皇がどのように対応したのかを見

てきた。その結果'カンタベリー大司教の主張の中には'イ

ングランドをはじめウェールズ'スコットランド'そして時

にはアイルランドをも含むブリテン諸島全域をおおう首位権

の主張が認められるものの'そこにはノルマンディーのルー

アン大司教座に対する主張は含まれていないことがわかっ

た。また両教会の関係を示唆する言及も見当たらない。

そうしてみると'カンタベリー大司教たちは'ルーアン大

司教との関係を並列的なものと見ていた可能性が襲い。しか

し'このことは'かれらが一人の支配者の下にあるアングロ

=ノルマン国家内における両地域の位置づけに関Ltそれら

を分離したものとして捉えていた八ということを必ずしも意

味するものではない。

他方'ローマ教皇グレゴリー七世が行ったルーアン大司教

座をリヨン大司教の首位権に従属させるという決定は大変に

興味深い。一〇七九年三月二五日教皇はかれの命令にもかか

40

Page 10: アングロ-ノルマン国家再考...アングロ-ノルマン国家再考 32 山 代 宏 道 l はじめにI問題の設定と方法 -従来'あとの時代の歴史的発展の状況からイギリスとかフ.り'まとまったものとして捉える見方の方が'その国家像をイングランドとノルマンディーを別々のものとして見るよしかし'アングロ=ノル・マン国家に限定して考え

アングロ-ノルマン国家再考(山代)

わらず'大司教ランフランクがローマ教皇庁を訪問しないこ

とを非難している。教皇はランフランクが来れない理由は国

王ウィリアム一世がそれを望まないからであるtと理解して

いたはずである。そして'一カ月もたたない四月二〇日に教

皇はルーアン大司教座に関するさきの決定を行っているので

131

ある。もちろん、ルーアン大司教区と領域的に一致するノル

マンディーの支配者もウィリアム一世であ一つた。

ここで注目す.へきは'非難されたランフランクはノルマン

ディーのルーアン大司教ではなく'イングランドのカンタベ

リー大司教であったということであるLtまた逆に'教皇の

さきの決定はイングランドの大司教座についてではなく'ノ

ルマンディーの大司教座について行われたということであ

る。いったい教皇グレゴリー七世は'これら両地域の教会を

どのように捉えていたのか疑問になる。しかしいずれにして

も'ルーアンとカンタベリー両大司教座教会ともアングロ=

ノルマン国家の唯一の支配者であったウィリアム一世の支配

頒域内であったのである。そして'グレゴリー七世にとって

は'そのことだけで十分であったのではないか。

(3) 教皇使節問題

教会分野から見た場合'アングロ-ノルマン国家の支配者

である国王=公は'イングランドとノルマンディーの両地域

をどのように認識し位置づけていたのであろうか。つぎには'

教皇使節の問題を取-あげながら'そのテーマを検討してい

きたい。

まず'アングロ=ノルマン期の支配者たちが'自分たちの

支配領域をこれら両地域に限定して考えていたのかどうかを

簡単に見ておきたい。結論を先取りして言えば'かれらはど

うも'機会さえあればイングランドとノルマンディーを越え

る支配領域を打ち立てることを構想していたようである。

ウィリアム1世について、F・バーロ~はつぎのことを指

摘している。ウ`イリアムとクリユニー修道院との接触は'一

〇七四年以前にはメ-ヌのサン=ヴァンサン (St.≦ncent)

修道院そしてトゥレ-ヌのマルムティエ(Marヨoutier)修道

院よりもさらに南へ及ぶものではなかった。しかし'かれと

ランクフランクは共にさらなる先を見始めていた。その年以

後'完成したカンタベリー教会のための慣例集はクリユニー

の慣例に大きく依存していた。また'ウィリアム一世は'ク

リユニー修道院参事会と祈祷兄弟盟約(confraternity)を結

(36)

んでいるのである。もちろん'このことからただちに'ウィ

リアムが世俗的意味でも広大な支配領域を構想していたと主

張できるわけではないが'少なくともノルマンディーの南に

位置するメ-ヌそしてトゥレ-ヌ地方に対しては支配のため

の布石を置いていたt といえるであろう。

たしかに'大部分の同時代人たちの印象も'ウィリアム一

世が国王としてイングランドのみではなくノルマンディーや

メ-ヌといった自らの支配領域を支配しているtというもの

41

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S)

であった。また'一〇七四年にはウィリアム一世が神聖ロー

マ帝国のロレ-ヌ国境に進撃し'ケルン大司教アノ(Anne)

の招きでアIへンを奪おうとしていたtとうわさされたこと

S)

もあった。

つぎのウィリアム二世も'ノルマンディーの併合のみでは

なく'フランス国王との戦いをも辞さないで自らの支配領域

を拡大する計画をもっていた。年代記作者たちは'ウィリア

ム二世が殺される前に'大いなる希望と計画をもっていたと

述べている。こうして十字軍遠征費用を捻出するため自己の

領土をウィリアム二世に対して抵当に入れることを提案した

アキテ-ヌ公でポワトゥ伯のウィリアム九世の申し出を'ウ

ィリアム二世は「非常な満足をもって」受け入れた。オルデ

リック-ヴイタ-リスは言う。なぜなら'ウィリアム二世は

「かれの父の公国〔ノルマンディー〕と王国〔イングランド〕

に対し」アキテ-ヌをつけ加えることを希望していたからで

あるt と。さらに'ウィリアム二世がフランス王位そのもの

を熱望しているとのうわさも流布していた。こうしたウィリ

アム二世について'0-」 ホリスターはt.国王が当時、「広

大な大陸帝国を組み立てる (assemble an extensive con-

(S)

tinentalempire)過程にあった」と説明している。

.つづくヘンリー1世は'1 二四年'十二才の娘マティル

ダをドイツ王(神聖ローマ皇帝) ハインリヒ五世(王'10

疫で二二五年'皇帝二二丁二五年)と結婚させ

たO たしかに'それはイングランド王にふさわしい決定であ

ったかもしれないが'そこには'自己の支配領域であるノル

マンディーの保全をはかり'背後のドイツ王と協力しながら

フランス王を牽制していこうとする意図が読み取れるのであ

(4t)

る。こ

うして見てくると、アングロ=ノルマン国家の支配者た

ちが'海峡をまたぎイングランドとノルマンディーという地

域を合わせて自己の支配領域と認識していたのはもちろんの

こと'さらにはその支配領域を拡大することさえもくろんで

いたt と言えそうである。

では'再び教会分野に立ち返ってみると'支配領域の問題

はどういうことになるのであろうか。いま'両地域における

国王=公の支配を脅かす要田をもたらしたのはローマ教皇使

節であった。D二t。↓(Nich。ll)はr#俗支配者に対す

る教会側の攻撃の先兵が教皇使節であった」と言っている。

そして'この時期に活躍したのが教皇使節クノ(Cuno)であ

る。ヘ

ンリー一世が恐れていたのは'クノやかれのような人物

がノルマンディーやイングランド教会の動向を左右しかねな

いtということであった。二一七年はじめ'ヘンリーは事

態がほとんど手に負えなくなるのを目撃していた。かれの義

理の息子で'ローマ教皇座への抵抗を続ける皇帝パインリヒ

五世は'教皇を威嚇するためイタリアへと遠征し'教皇パス

31

カル二世はローマからべネヴエントへと逃れた。大陸でのこ

うした状況に加え'イングランドではカン夕べ--大司教と

42

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アングロ-ノルマン国家再考(山代)

ヨーク大司教の間で服従宣誓問題をめぐる対立が続いてお

り'ローマ教皇はイングランドへの教皇使節派遣を克く主張

した。しかし'ヘンリーはそれを受け入れようとはしなかっ

(バ)

たのである。

こうした中で'フランスへの教皇使節クノはヘンリーに対

して挑戦状を投げつけていた。すなわち'かれは'シャロン

(Ch巴ons)教会会議(二1五年)にノルマンデロイIのすべ

ての司教や捗道院長を召質した。クノは'かつて二度かれら

を教会会議に召集していたが無駄であった。もちろん'司教

たちが欠席した背後にはヘンリー一世の意志が働いていたこ

(4)

とは容易に想像された。結局'ノルマンディーの司教や修道

院長たちは三度、出席するのを怠った。それに対し、クノは

(4)

かれら全員を聖務停止におき'さらに破門したのである。こ

のことは'ヘンリーにとって大きな圧力となったにちがいな

い。し

かし'ヘンリーがさらに気づかっていたのは'この時期'

ヨーロッパにおいて教会ヒニラルヒIを確立しっつあった

ローマ教皇のような外的権威に途を開くことは'ノルマンデ

ィーという地域において現在直面している以上に大きな反乱

を引き起こすかもしれないtということであった。かれは当

時'ノルマンディーに対する支配を失うかもしれない危険に

直面していたのである。

ノルマンディー国境には'いつもながらの敵が並んでいた。

フランドル伯やアンジュー伯は'ヘンリーの宿敵フランス王

ルイ六世によって扇動されていた。そして'かれらの侵入は'

今やノルマンディー地域の諸侯たちのヘンリーに対する忠誠

心の弱化によって'いっそう脅威的であった。そこでは'一

一〇六年捕えられ監禁されていたヘンリーの兄ロバート公の

息子ウィリアム-クリトIが'ノルマンディー公の位を主張

していたのであった。フランス王はこのウ_ィリアム=クリ

ト-を蛮力に支援していたLt.ノルマンディー地域内にも支

(5)

持する有力な諸侯たちがいたのである。

ノルマンディーに対する教皇の干渉に対しヘンリー一世が

ひどく敏感になっていたのはなぜか。それは'こうした地域

内での反乱ゆえであったが、さらに'最近ではローマ教皇が

神聖ローマ皇帝からの脅威に抵抗するためフランス王に支援

(4)

を求めてきていたことも忘れてはならない。そうしながら'

教皇側は'フランス国内の王の敵に対して教会的制裁を加え

ることさえ辞さなかったのである。たとえば'二一四年教

皇使節クノは'ルイ六世を悩ませていた略奪者トマ=ド=マ

ルル(ThomasdeMarie)に対して「十字軍」せ組織したO

クノは'トマに対する戦いに参加する者には煩宥と免罪を約

束したのである。教皇権威に逆い続けるなら'教皇使節クノ

がへンリIl世に対しても同様の「十字軍」を起す可能性は

(5)

十分にあったといえよう。

ところで'二一九年教皇座には平和と和解をめざすこと

を宣言したカリクストゥス二世(在位'~二二四年)が就

いた。ヘンリー一世は教皇と敵対し続けられる立場にはなか

43

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った。一方で'教皇との和解へと向かうことを余儀なくされ

つつあったハインリヒ五世から確実な支援を期待することは

できなかった。他方'かれの宿敵フランス王ルイ六世はまさ

に教皇の好意に浴していた。ヘンリーは孤立状態に置かれる

m爪

危険に直面していたのである。

こうした中で'ヨーク大司教サースタンの働きもあって'

ヘンリー一世は二一九年末にはローマ教皇と'翌二二〇

年にはフランス王との問で協議を行い和解に達することがで

きた。教皇カリクストゥス二世は'教皇使節アンセルムをヘ

ンリーの領内から引き揚げ'将来'国王の要請による以外'

(51)

イングランドへ教皇使節を派遣しないことを約束した。フラ

ンス王との和解は'ヘンリーの息子ウィリアムがルイ六世に

対して臣従礼を行い'ルイはウィリアムをノルマンディーの

(52)

正当な支配者として承認するtという内容であった。

二〇六年のノルマンディーの併合以降'二二〇年フラ

ンス王との和解までのヘンリー一世のノルマンディー支配に

ついて'ホリスターはつぎのように要約している。すなわち'

ヘンリーのアングロ=ノルマ.i国家支配は・フランスとノル

マンディーとの古来の結び付きを切断し'意識的にノルマン

ディー公の称号を避けながら'もっぱらインダランtf王とし

て支配することであった。囚われたロバート公の不在中'国

王としてノルマンディ「を支配する。ロバート公がまだ生存

しており'かれがすでに臣従礼を行っていることを枚拠に、

ヘンリーとしてはフランス王への臣従礼を拒否する。公位就

任の儀式を避けることで'フランス王のもつノルマンディー

(5)

公決定への伝統的関与を回避したのであった。

さらに'ホリスターは'一一二〇年息子ウィリアムのフラ

ンス王への臣従礼については'ヘンリー1世は自らルイ六世

の封臣となることの責任と当惑を回避する一方'主君として

のルイからは最大限の利益を獲得できた'とする。それは'

ノルマンディーの支配者をフランス王に結び付けることな

-'かえってフランス王をヘンリーの相続計画に結びつける

ISI

ものであったt と解釈するのである。

以上'国王=公であったへンリIl世がノルマンディーで

の反乱に直面しながら'ローマ教皇や教皇使節に対し慎重な

行動を取らざるをえなかったことを見てきた。しかし'ヘン

リーは教皇使節の教会会議出席要請に対し'ノルマンディー

の司教や修道院長たちを決して出席させてはいないのであ

る。そこにはt F・バーローの主張するようなイングランド

教会とノルマンディー教会をいったん分けたうえで'ヘン

リーがイングランドという島国教会の主人であろうとしたt

との姿勢は認められない。.あくまで、等しく自己の支配領域

内にある両地域の教会をアングロ=ノルマン国家の支配者と

しての自己の支配下に置いておくという意思がうかがえるの

である。

それでは'ローマ教皇は両地域の教会をどのように位置づ

けていたのであろうか。教皇使節クノは'さきのシャロン教

会会議そして二二〇年にはボーグエ(Beauvais)教会会議

44

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アングロ-ノルマン国家再考(山代)

に'ヘンリー一世に圧力をかけることも意図しながら'ノル

(55)

マンディーの司教たちを召集している。しかし、同じヘン

リーの支配預域であるイングランドの司教や惨道院長たちは

そこに召集されてはいない。両地域の聖職者たちに対する区

別を認めることができよう。

さらに一一二三年今度はローマ教皇庁において'イングラ

ンド内の問題であるカンタベリー大司教とヨーク大司教の服

従宣誓をめぐる問題が持ち出され'解決がつかないままにそ

の件は教皇使節の統轄の下に次回開かれる予定のイングラン

(56)

ドでの教会会議において裁決される.へきことが決定された。

ここでも'イングランド教会に関する問題はイングランドで'

という区別がなされているようである。

では'こうした両地域の教会を区別して取り扱うという立

場がローマ教皇庁において一貫していたのかというと'必ず

しもそうではない。ここで注目したいのはヘンリー一世治世

最後の教会会議(二三二年四月二四日'ロンドン)に関連

しての決定である。前年教皇インノセント二世が'ランダフ

司教ウルバンとヘリフォード司教ロバートとの間で争われて

いた教区問題を'カンタベリー'ヨークそしてルーアンの三

」)

人の大司教の前で裁くよう命じたものである。言い換れば'

それは'イングランドとウェールズの教会に関する問題を'

イングランドとノルマンディー教会の大司教たちによって裁

-よう命じたことになる。そこに'ヘンリー一世という一人

の支配者の支配領域内にある三つの地域に'何らかのまとま

りを認めていた教皇の立場を兄い出すことができるのではあ

るまいか。

最後に'イングランドとノルマンディーの教会についての

ヘンリー一世の対応を取りあげておきたい。二二五年教皇

使節ジョン-オヴ-クレマ (John of Crema)は'ヘンリー

1世によってイングランドへの入国を許可せれたQそれまで

かれは'イングランドの教会問題に教皇使節が介入するのを

許す意図のないヘンリーによってノルマンディーに足止めさ

(S)

れてきていた。

ヘンリーが入国許可を与えた原因は明確ではないが'ニ

コールは'ジョンがヘンリーの敵対者ウィリアム=クリトI

とアンジュー伯との提携を壊した'その働きに対するヘン

リーからの報酬であったtと推測している。この点について

は'ニコールが依拠するオルデリック-ゲイタ-リスもジョ

ンの働きを明言しているわけではない。むしろ'オルデリッ

ク-ゲイタ-リスもウィリアム=オヴ=マ-ムズベリーも共

に'計画されたクリト-の結婚が教会法的見地から違法であ

ると主張しながら'その提携を壊すことに熱心であったヘン

s

リー一世の立場を強調している。

いずれにしても'一一二五年九月イングランドで教皇使節

による教会会議が開催されたことは'教皇側にとってはひと

(60)

つの勝利であった。ヨークのヒユー-ザ-チャンクーは'そ

れは'ウィリアム一世・二世いずれの治世においてもいかな

る教皇使節もできなかったことであるtと注目している。し

SB

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かし'教皇使節が自己の領土で教会のための法を定めるのを

目撃していらいらしたヘンリーは'かれの王国に今後決して

(61)

教皇使節を受け入れない決意をした'といわれる。

それではt へンリつ一世はどう行動したのか。実は'かれ

の対応はすでに一一二〇年から始まっていた。そして'それ

はカン夕べリ」大司教の教皇使節任命を実現するtというも

のである。ニコ」ルは言う。「教皇使節たちがローマ教皇庁

の突撃隊(striking force) であるなら'強力な教皇庁に対す

るヘンリーの最上の防衛方法は'自らのために教皇使節をも

(52)

つことであった」と。

ヘンリーは'一一二〇年エクセタ-司教に対し'教皇を説

得してカンタベリー大司教を全ブリテン教皇使節にさせると

(63)

いう任務を託した。しかし'それは成功しなかった。この場

合'意図された教皇使節の管轄範囲にノルマンディーが含ま

れていなかったことに注目⊥ておくべきであろう。

1 1二五年さきの教会会議の後'ヘンリー1世は'ローマ

教皇庁へと赴くカンタベリー大司教ウィリアムとヨーク大司

教サースタンに対し'再び同主旨の任務を課し'協力して教

皇の説得にあたるよう命じた。そして'今回は'サースケン

の助言に対する教皇の信頼もあって、その使命は成功する。

その結果'カンタベリー大司教はイングランドに対する教皇

.(S)

使節に任命されたのである。

では'なぜへンリ-一世は'二二〇年という時点からノ

ルマンディーを切り離すような形で'カンタベリー大司教を

ブリテンの教皇使節に任命させることを意図するようになっ

たのであろうか。

 

ヘンリー一世は'一一二〇年息子ウィリアムがフランス王

ルイ六世に対し臣従礼を行ったことにより、ノルマンディー

に対しルイ六世が干渉してくる機会が多くなるかもしれな

(6)

いtと感じていたであろう。また'ノルマンディー教会に対

する自己の支配を主張しながらも'その主張を貫徹すること

は'対フランス王'対ローマ教皇との関係上むずかしくなっ

ていた。それゆえ'ヘンリーは'ひとまずノルマンディー教

会については譲歩しながら'少なくともイングランドへの教

皇使節の入国だけは避けたいt と考えるようになったのでは

ないか。それが'カンタベリー大司教に教皇使節職を獲得し

たいというかれの意思につながったわけである。他方'ノル

マンディーが形式的にではあれフランス国王の主権下にある

ことを認めることにより'ヘンリー1世にとって、フランス

への教皇使節が'実質的にはヘンリー一世の支配下にある

ルーアン大司教区に入ることを阻止することは'ますます困

難になったのである。実際、一一二八年教皇使節マスユー=

オヴ=アルバノ (Matthew of Albano)はルーアンにおいて

(砧)

教会会議を開催しているのである。

46

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アングロ-ノルマン国家再考(山代)

註(-) 佐藤伊久男氏は「アンジュー帝国」の問題を論じるなかで'

「大陸の侯領'伯預等がフランス王との主従関係のもとで保

°

 

°

有されているのに対して'イングランドのみが王冠をあたえ

ていることを彊謁する、そこに(国民史)観の1 つの坦抱が

.ぁる」ことに注目している。同氏「前期ブランクジネッTl朝

の歴史的地位-(イングランド国民国家)形成史論軍え害-」

吉岡昭彦編著「政治権力の史的分析j(一九七五'御茶の水

書房)七七~一〇四頁。特に八二頁註(2)。

アングロ=ノルマン国家を問題にする本稿では、つぎのよ

うなホリスターの琴言から出発するのが適当であろう。「ふ

り返ってみて、我々はノルマンディーが'結局'フランスへ

と吸収されたことを知っている。我々は'この知識が我々を

誤って導くことがないように注意しなければならない。一二

.〇三~四年のフィリップ=オーギユストの征服は一世紀前に

は予期されえなかった。その頃'フランス王たちは'まさに'

大侯頂に対するかれらの封建的権利を組織的に利用し始めた

ところであった」。C'W-Hollister,"Normandy.France,and

Anglo-NormanRegnum",Speculum51(1976),pp.202-42.

esp.220.

「アンジュー帝国」概念と比較される時'ホリスターの「ア

ングロ=ノルマン国家」概念は明確になる。前者は'現代の

歴史家たちによる便宜的な発明以上のものではない。しかし'

後者は'王としての権威によりイングランドとノルマンデ

ィーを同様に支配したノルマン国王たち自身の政治的理念お

よび現実に根ざしている。その概念はウイリアム征服王とと

もに始まりヘンリー一世治世に盛んになった。ヘンリー一世

(2)

のノルマンディー統治が'国王としてのかれの拝号と控炭の

うちになしくずし的に行われていった時期には'フランスか

ら自由な其のアングロ=ノルマン王国は非常に現実的な可能

性をもつものであった(Ibid.,242,235)'とするホリスタI

の見解を筆者も支持したい。

本稿は、一九八八年一〇月二九日広島史学研究会大会シン

ポジウム.「中世における地域と国家」での報告に加筆・修正

したものである。

(7)

oQ2)

Hollister,op.cit.,209.

佐藤'前掲論文'九〇~一頁。巡回宮廷は海峡を往来して

滝大きく変化することはなかった。両地域において'それは

支配者・側近・かれらの臣下から構成されていた。かれらは

単一の言語・文化・封建的イデオロギーのみでなく'ノルマ

ン人として共通の事業達成の自覚と民族的アイデンティテ

ィIを共有していた。Hollister,op.cit,209.

J.Le Patourel,Normandy and England,1066-1144.

Reading,1971.

Ibid.,19;F.Barlow,The English Church 1066-1154.

London,1979.p.78.佐藤伊久男・「インゲラ.ンドにおける財

務府.(Exchequer)の成立について」服藤弘司・小山貞夫絹r法

と権力の史的考察し(1九七七'創文社)1二二七~五五頁参

照。L

e Patourel,op.cit.,19.

Ibid.,19.

Ibid.,19,14n.38.

Ibid.,19.

47

Page 17: アングロ-ノルマン国家再考...アングロ-ノルマン国家再考 32 山 代 宏 道 l はじめにI問題の設定と方法 -従来'あとの時代の歴史的発展の状況からイギリスとかフ.り'まとまったものとして捉える見方の方が'その国家像をイングランドとノルマンディーを別々のものとして見るよしかし'アングロ=ノル・マン国家に限定して考え

(5) Ibid.,19-20;Hollister,op.cit.,210.

(SJ) Ibid.,19-20.

(2) ホリスターは'ノルマンディーとイングランドの法慣習は

区別あるままに留まり'それはtより少ない程度ながら'イ

ングランドでウニセックス・マー・ソア・デインロー地域の慣

習が異なっていたのと同様であるt と指摘している。

Hollister,op.cit.,210.

(S) H.W.C.Davised.,RegestaRegumAnglo-Normannorum

l066-1154,vo1.1.Oxford,1913.No.423;Le Patourel,

op.cit,20.

2) Ibid.,20.

(2) Barlow,op.cit.,78.

(」) Ibid.,91.

i) D.J.A.Matthew,The Norman Monasteries and Their

English Possessions.Oxford,1962.pp.13,24-5,31,43,

72,74; D.Knowles,The Monastic Order in England

940-1216.Cambridge,1966(1940).p.703;Le Patourel,

op.cit.,8.

2)"Quodtamenfortecredibiliusvideretur,sinonomnesex

alienigenis,sedaliquossalternexindigenisterrae,non.us・

quequaque Anglos perosus.tali ministerio substituisset."

M.Rule ed.(EadmeriHistoria Novorum in Anglia.Lon-

don,1965(1884).p.224;Knowles.op.cit.,704.

(S) LePatourel,op.cit.,9.

(m) Barlow,op.cit.,83.| 二五年カンは'ローマへもサー

スタンに同行している C.Johnson trans.,Hugh the Chan-

tor,TheHistoryofthe Church of York 1066-1127.Lon-

don,1967(1961).p.123.

(22) D.Nicholl,Thurstan,Archbishop of York(1114-1140).

York,1964.p.76;D.S.Spear,"An Anglo-Norman Ec-

clesiastical Family; Archbishop Thurstan of York and

BishopQuenofEvreux",EtudesNormandes,35(1986),pp.

2

1

-

7

.

i) Barlow,op.cit.,90;M.Brett,TheEnglishChurchunder

HenryI.Oxford,1975.p.9.

(S) Hollister,op.cit.,216.

¥eg)エドマIはカンタベリー教会を「全ブリテンの母なる教会」

と呼んでいる"etad ecclesiam,totius Brittani指matrem,

quas in urbe Cantuarberia sita est,magno devotionis

honoretransvexit."J.Raineed.,HistoriansoftheChurch

ofYorkanditsArchbishops,3vols.London,1879-94.I.

163;R.W.Southern,SaintAnselm and His Biographer.

Cambridge,1963.pp.127-30.

( S)"Cum uero inter alia professionem ab eo Lanfrancus

cum sacramento requireret,respondit Thomas se hoc

minime facturum,quia suos antecessorcs hoc Lanfranci

antecessoribus fecisse non cognouerat.Lanfrancus autcm

quanuissufficient!rationehoceumexantiquomorefaccre

deberemonstraret,nontamenilleadquieuit."C.P】ummcr

and J.Earle ed.,Twoofthe Saxon ChroniclesParallel,2

Vols.Oxford,1965(1892).I,288:D.C.DouglasandG.W.

Greenawayed.,EnglishHistoricalDocuments,II.London,

48

Page 18: アングロ-ノルマン国家再考...アングロ-ノルマン国家再考 32 山 代 宏 道 l はじめにI問題の設定と方法 -従来'あとの時代の歴史的発展の状況からイギリスとかフ.り'まとまったものとして捉える見方の方が'その国家像をイングランドとノルマンディーを別々のものとして見るよしかし'アングロ=ノル・マン国家に限定して考え

アングロ-ノルマン国家再考(山代)

1981(1953),p.632.

(S;)"Lanfrancus,licet posterius investitus,a suffraganeis

suis prES COnsecratus est.Thoヨas ab eo consecrari re-

quisivit.Meverorenuitnisisubieccionisprofessionemei

faceret.Quod ille ex iure ecclesie sue se non debere/

dicens,non consecratus dicessit,reヨ sicut erat,regi

denuncians."Johnson,op.cit.,2;Rule,op.cit.,16.

D.Whitelocketa1.ed.,CouncilsandSynods:WithOther

Documents Relating to the English Church.V01.I:A.D.

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教会政策」r史学研究」一二八二九七五)七四-八五頁。

特に七八頁。

(S) Rule,op.cit.,42-3;T.Forestertrans.,TheChronicleof

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レンス=オヴ=ウスターは'二〇七年アンセルムが選出司

教たちを叙階するのを補助した「かれの司教座の属司教たち

(thesuffraganbishopsofhissee)」の中に'ヨーク大司教ジ

ェラルドを含めている Ibid.,216.このことは'かれのカン

タペリー寄りの立場を示すものであろう。

(讐 サースタンは'〓l九年ランス教会会議において教皇カ

リクストゥス二世により叔階された Forester,op.cit.,231.

(n) fCuidumTurstinus,Eboracensisarchiepiscopus,secun-

dum consuetudinem offerret ut eum ipse ordinaret;"Si

me,"inquit,"utprimatemtotiusAngliaevoluerisordinare.

1ibenter me manibus vestris inclinabo,sin autem,incon-

suite contra morem antiquum nolo ordinari."Qui non

multopost,idestv.ka1.Martii,jubenteregeconsccratua

est Cantuari用a suis suffraganeisL T.Arnold ed.,Sy-

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(1882-5).II,269:Nicholl,op.cit.,87.

(讐 R.W.Southern, "Anselm at Canterbury",Anselm

Studies,I(1983).pp.7-23.esp.ll.拙稿'前掲論文'七八

眉。

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(34)-bid.

(8) Ibid.,34n.26.ニコールはt l〇七〇年ローマ教皇はカン

タベリー大司教に対しイングランド教会を孤立から連れだし

ヨーロッパの宗教生活の主流へと引き入れる役割を期待して

いたが'いまやその仕事は達成され'カン夕べリーは必要不

可欠のものではなくなり'実際'ルーアンやリヨンと同様あ

まりにも多くを要求することでローマの直接支配を脅かすも

のとして懐疑的に取り扱われることになったtと指摘してい

る Nicholl,op.cit.,40.

8) Barlow,op.cit.,184.

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(讐 K.Leyser, "England and the Empire in the Early

TwelfthCentury",TransactionsofRoyalHistoricalSociety,

5th series,10(I960),pp.61-83.esp.61.

(S3) M.Chibnall ed.,The Ecclesiastical History of Orderic

Vitalis,6Vols.Oxford,1968-81.IV,80;C.W.Hollister,

"The Strange Death of William Rufus",Speculum48

(1973),pp.637-53.esp.645;Hollister,Regnum,214.

49

Page 19: アングロ-ノルマン国家再考...アングロ-ノルマン国家再考 32 山 代 宏 道 l はじめにI問題の設定と方法 -従来'あとの時代の歴史的発展の状況からイギリスとかフ.り'まとまったものとして捉える見方の方が'その国家像をイングランドとノルマンディーを別々のものとして見るよしかし'アングロ=ノル・マン国家に限定して考え

(2) Chibnall,op,cit.-VI,166-9;K.R.Pottered.,Willelmi

Malmesbiriensis Monachi Historia Novella.London,1955.

p.2,n.1.

(3) N.Pain.Empress Matilda,Uncrowned 曾een of

England.London,1978.p.14.レイザIは'この政略結婚

によって'ヘンリー一世は自己の家柄を高めることをめざし、

ハインリヒ五世は直面していたローマ遠征のための軍資金と

してマティルダがもたらした一万マルクの持参金を大いに役

立てたt と考える Leyser,op.cit.,65-6,74.

Nicholl,op.cit.,55.

(S3) Ibid.,皇帝と教皇との交渉についての詳細は、Cf.

Forester,op.cit.,219-22.

(2) Nicholl,56.

(45) 別の脈絡においてであるが'「ノルマンディーの高位聖職

者たちは国王〔ヘンリー〕の命令によってルーアン教会会議

に召集された」 Hollister,Regnum,219.

(  Forester,op.cit..226;Nichol1.op.cit..61.

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underHenryI.Cambridge,1986.pp.15-7.ホリスターは、

このクリト-の脅威こそが'後述するように'二二〇年ヘ

ンリー一世をし・てフランス国王とノルマンディー公との封建

的関係を再び確立させた実際的動機であったとしている。

Hollister,Regnum,224-25.

50 49 48

Leyser,op.cit.,71.

Nicholl,op.cit.,60.

Ibid,61-2,64;Leyser,op.cit.,66.

(^)"ItaqueposthaecCalixtusvenit,etrexHenricusillucei

locuturus accessit.Acta igitur sunt multa inter illos,

quorum gratia par erat tantas personas convenisse.Inter

qu指rex a papa impetravit ut omnes consuetudines quas

pater suus in Anglia habuerat et in Normannia sibi con-

cederet,etmaximeutnerainemaillquandolegati officioin

Anglia fungi permitteret,si non ipse,..."Rule,op.cit.,

258;Nicholl,op.cit..68-9.

(52)"Anno MCXX.Rex Anglorum Henricus et rex Fran-

corum Ludowicus.post multa suarum partium detrimenta,

die praestituta ineunt colloquia.Quo ex consensu concor-

diaeperacto,jussuregisHenricifiliusejusWillelmus,facto

regiFrancorumhominio,Normanniaesubillosuscipitprin-

cipatum."Arnold,op.cit.,II,258;Forester,op.cit.,230;

Nicholl,op.cit.,72.

(S3) Hollister,Regnum,215,218.

(S) Ibid.,226-7,229.

(55) Nichol1.op.cit..73.

(  Arnold,op.cit.,II,273;Nicholl,op,cit.,90.

;) Whitelock,op.cit.,757-61;Brett,op.cit.,82.

(58) Johnson,op.cit.,120;Green,op.cit.,10;Brett,op.cit.,

4

5

.

(S) Nichol1.op.cit.,92-3;"Tandem Fulco Andegauensis

Sibillam filiam suam ei pepigit,comitatumque Cenoman-

norumconcessit!etperaliquod tempusscpcfatum tironem

admodum adiuuit.Verum nimia Henrici regis industria

50

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アングロ-ノルマン国家再考(山代)

63 62

preualente. "prescripta copulatio penitus interrupta est

ヨinisprecibusque,etauriargentiquealia2mquespecie2ヨ

ponderosa enormitate.Missis etiam argutis dissertoribus

disputatumestdeconsanguinitate:proquadiffinitumest

Cos secunduヨChris【mnaヨ】egeヨconiungi nOn debere. "

Chibnall,op.cit.,VI,164-7.

"Mirum enim in modum uir ille,omnium regum quos

nostraetetiaヨpat2ヨnOStr02ヨtenetヨeヨ0riaヨaXiヨuS.

suspectaヨtaヨen seヨper habuit AndegauensiuヨpOten-

tiam.HincestquodsponsalitiaqueWillelmusnepossuus,

comes postea Flandrie,cum filia comitis Andegauensis

Fulconis,postea regis lerosolimorum.contracturus esse

uidebatur,dissoluitetcassauit. "Potter,op.cit.2-3.

Whitelock,op.cit.,733-41;Forester,op.cit.,238-40-

Nicholl,op.cit.,93;Johnson,op.cit.,121.

Ibid.;"Rexdepreteritopenitens,defutureprecavensne

RoヨanuヨlegatuヨinregnosuOdenuoreciperet,persuasit

etprecepitCantuariensiarchiepiscopoquatinuslegationem

[peteret]. "Johnson,op.cit.,123;Nicholl,op.cit.,97.

Nicholl,ibid.

dona in{jracian二≡concept;!,ncc pcllclC t三m:L≡ll1.1,

Johnson,op.cit.,87.

(3) Johnson,ibid.,123,126, "Anno MCXXVII.Henricus

rex cuヨfi-ia Iヨperatrice iii.idus Septeヨbris rediit in

Angliam.TurstinusEboracensis.etWillelmusCantuarien-

sisarchiepiscopiredeuntRoma.Willelmusquidemlegatus

ApostoliciperAngliam,setTurstinusinstatuquofuerat

revertitur."Arnold,op.cit.,II,281;Nicholl,op.cit.,97.

(<g) R.H.C.Davis,King Stephen,1135-1154.London,

1977(1966).p.ll.

(g) Nicholl,op.cit,108.

(広島大学文学部)

Ibid.;.'Nuncautemdupliciter,quodnonlitteratusetnon

videns,muneribusregisabarchiepiscopodominopapeet

curiedivisis,peticionemfacitquatinusproamoreregiset

pr0pace ecclesie in regno sue Eboracensem archiepisco-

pumprofiteriCantuariensipreciperet,etlegacionemsuper

Briranniain/sula,illi concederet.Utbreviterdicam,nee

一八二号  正 誤 表

〔戸田畳治氏論説〕

°

七一頁 下段 八行 示すされる 示される

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A Reconsideration of the Anglo-Norman State

by Hiromichi. Yamashiro

The Norman Conquest of England in 1066 gave birth to the Anglo-Norman State

(ANS). This paper treats England and Normandy as one region respectively and points

out a historical image of ANS.J. Le Patourel already regarded each region as dominion and adopted the name of

"Anglo-Norman Empire" for ANS which consisted of both regions. C. W. Hollister

pointed out that there was, in the reign of Henry I, the possibility of the establishment of

the "Anglo-Norman regnum" over two regions. Thus, both scholars clarified the in-

tegrality of two regions. Le Patourel based his argument on the examination of the

fiscal and judicial systems in England and Normandy.This paper examines the possibility, in the ecclesiastical field, to regard two regions as

one entity so that we might well have a historical and more precise image of ANS.

Thus, the following points are discussed and clarified.1 ) The integrality of two regions is proved by the examination of Norman

cathedrals/monasteries which owned their lands in England and of the clerics who

travelled/were promoted from one side to the other.2 ) Analizing archbishops' claims of primacy of Canterbury and the papal reactions, the

papal view of regarding two regions as one unit is clarified.3 ) The king-dukes' recognitions of their ruling territory are discussed. In terms of the

papal legates, especially their requests to enter England, Henry I's reactions reveal both

his idea of his ruling territory as an entity and also the historically forced change of his

treatment of two regions.

Tokusei (t£j&), issued by Mori (3i#IJ),a sengoku-daimyo (ijclll^^i )

-the analysis of Izumonokuni-ikkoku-tokusei-rei (tiiE@-HSi&<T?), 1579 (Tensho ^E 7 )-

by Hiroshi Hasegawa

The mainly purpose of this artirle is to consider all kinds of tokusei that were issued by

Mori a sengoku-daimyd, through the analysis of Izumonokuni-ikkoku-tokusei-rei (the act of

tokusei on every debtor in the Izumo province), 1579 (Tensho 7).I tried to make clear.^in this article, methods and purposes of Izumonokuni-ik-

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