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〔論文) 弘前大学経済研究 6 October1983 マルクスにおける窮乏化概念について マルクスが『資本論』第 l 部第23 章において 定式化した「資本制的蓄積の絶対的・一般的法 則」は,従来,労働者階級の「窮乏(貧困〉化法 則」として理解されてきた。それは理由のない ことではない。マルクスは,この「資本制的蓄 積の絶対的・一般的法則」を述べるに際し,一 方の極での富の蓄積は,他方の極での窮乏(貧 困〉の蓄積であるとし,このテーゼをもって, 資本蓄積とともに労働者の状態は悪化する,と いう結論を与えているからである。このテーゼ はそれじたいとしては簡潔・明快であったので, 19 世紀末以来その替否をめぐって絶えず論争が 繰り返されてきたことは周知のことに属する 1 いま,ここでマルグス窮乏化論に拙論をつけ 加えようとする理由は二つある。一つには,マ ルクスがいかなる意味で,またいかなる論脈に おいて労働者の窮乏化を主張したのか,この点 はこれまでの論争において決して明確にされた とは思えなし、からである。通説における「絶対 的窮乏化」論(のちにみるように,これはマル クス本来の「絶対的窮乏」概念とは無縁である〉 の内容としては, 「実質賃金低下説」,「生活水 準低下説」,「労働力の価値以下への賃金低下 説」などの解釈が出されたが,これらはし、ずれ も資本制的経済構造にそくした議論とはいえず, 1 )論争史の回顧としては,さしあたり,遊部久蔵編著『『資 本論』研究史』.ミネルヴァ書房, 1974 年,第 3 章「窮乏 化論」(井村喜代子氏執筆),宇野弘蔵編『資本論研究』 E ,筑摩書房, 1971 年,「いわゆる窮乏化法則について」 (桜井毅氏執筆),岸本英太郎編『資本主義と貧困L 日本 評論新社, 1957 年,に所収の諸論稿などが好使である。 したがって通俗的な資本主義批判以上に出るも のではなかったように思える。実際,窮乏化論 ほど, 『資本論』から個々の命題が粗雑な形で 取り出され,それが体系的論脈から切り離され て議論された例はない,といっても過言ではな い。そしてこのような解釈にたっていたかぎり, わが国における窮乏化をめぐる議論は,いわゆ る高度成長過程によって息の根を止められてし まったかの観がある。少なくとも窮乏化を資本 主義の一般的現象として提示しようとする姿勢 は著しく後退したといえるしむしろ,窮乏化 論そのものを理論的に問題にしようとすること じたい稀になったといえるのであるわ。しかし, 労働者の生活状態が「改善」されたということ を認めうるとしても,そしてそのことが労働者 を取り巻く一切の状況に大きな影響を与え続け ていることを認めるとしても,この「改善」を もって窮乏化論は否定されるようなものである のか。そのような性格のものとして,マルクス において設定されていたのか。この点は,彼の 資本主義批判の基本的観点を見定めるうえでも, 検討を要する問題であると思える。第 2 には, 近年のマルクス資本蓄積論の研究が,いわゆる 「領有法則転回論」に集中しているとし、う事情 がある。むしろ集中されすぎているとの印象さ え受ける。これは窮乏化論がきわめて消極的な 扱いを受けているのとは,まことに対照的であ る。だが,資本制的領有法則の問題と,窮乏化 2 )こうなった理由としては,窮乏化をめぐる論議が,窮 乏化の「具体的態容」の検出に向かう方向をもったこと をあげることができる。この点については,例えば戸木 閏嘉久『現代資本主義と労働者階級』, 岩波書店, 1982 年, 61 頁以下参照。だが.決してこのような事情だけに 帰着せしめることはできない。 -79-

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〔論文) 弘前大学経済研究 第6号 October 1983

マルクスにおける窮乏化概念について

鈴 木

マルクスが『資本論』第l部第23章において

定式化した「資本制的蓄積の絶対的・一般的法

則」は,従来,労働者階級の「窮乏(貧困〉化法

則」として理解されてきた。それは理由のない

ことではない。マルクスは,この「資本制的蓄

積の絶対的・一般的法則」を述べるに際し,一

方の極での富の蓄積は,他方の極での窮乏(貧

困〉の蓄積であるとし,このテーゼをもって,

資本蓄積とともに労働者の状態は悪化する,と

いう結論を与えているからである。このテーゼ

はそれじたいとしては簡潔・明快であったので,

19世紀末以来その替否をめぐって絶えず論争が

繰り返されてきたことは周知のことに属する1)。

いま,ここでマルグス窮乏化論に拙論をつけ

加えようとする理由は二つある。一つには,マ

ルクスがいかなる意味で,またいかなる論脈に

おいて労働者の窮乏化を主張したのか,この点

はこれまでの論争において決して明確にされた

とは思えなし、からである。通説における「絶対

的窮乏化」論(のちにみるように,これはマル

クス本来の「絶対的窮乏」概念とは無縁である〉

の内容としては, 「実質賃金低下説」,「生活水

準低下説」,「労働力の価値以下への賃金低下

説」などの解釈が出されたが,これらはし、ずれ

も資本制的経済構造にそくした議論とはいえず,

1)論争史の回顧としては,さしあたり,遊部久蔵編著『『資

本論』研究史』.ミネルヴァ書房, 1974年,第3章「窮乏

化論」(井村喜代子氏執筆),宇野弘蔵編『資本論研究』E,筑摩書房, 1971年,「いわゆる窮乏化法則について」

(桜井毅氏執筆),岸本英太郎編『資本主義と貧困L日本評論新社, 1957年,に所収の諸論稿などが好使である。

和 雄

したがって通俗的な資本主義批判以上に出るも

のではなかったように思える。実際,窮乏化論

ほど, 『資本論』から個々の命題が粗雑な形で

取り出され,それが体系的論脈から切り離され

て議論された例はない,といっても過言ではな

い。そしてこのような解釈にたっていたかぎり,

わが国における窮乏化をめぐる議論は,いわゆ

る高度成長過程によって息の根を止められてし

まったかの観がある。少なくとも窮乏化を資本

主義の一般的現象として提示しようとする姿勢

は著しく後退したといえるしむしろ,窮乏化

論そのものを理論的に問題にしようとすること

じたい稀になったといえるのであるわ。しかし,

労働者の生活状態が「改善」されたということ

を認めうるとしても,そしてそのことが労働者

を取り巻く一切の状況に大きな影響を与え続け

ていることを認めるとしても,この「改善」を

もって窮乏化論は否定されるようなものである

のか。そのような性格のものとして,マルクス

において設定されていたのか。この点は,彼の

資本主義批判の基本的観点を見定めるうえでも,

検討を要する問題であると思える。第2には,

近年のマルクス資本蓄積論の研究が,いわゆる

「領有法則転回論」に集中しているとし、う事情

がある。むしろ集中されすぎているとの印象さ

え受ける。これは窮乏化論がきわめて消極的な

扱いを受けているのとは,まことに対照的であ

る。だが,資本制的領有法則の問題と,窮乏化

2)こうなった理由としては,窮乏化をめぐる論議が,窮

乏化の「具体的態容」の検出に向かう方向をもったこと

をあげることができる。この点については,例えば戸木

閏嘉久『現代資本主義と労働者階級』, 岩波書店, 1982

年, 61頁以下参照。だが.決してこのような事情だけに帰着せしめることはできない。

-79-

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論とは,同じ『資本論』第1部第7編の中に位置

づけられており,それらはL、ずれも階級関係の

再生産という第7編の中心テーマにたいして基

礎的な論点をなしていると思われるのであって,

叙上のような扱いはやはり一面的であるといわ

ざるをえない。この二つの論点は,正当な脈絡

のもとに結節きれなければならないであろう。

かくて,資本蓄積論全体の論脈の中でマルク

スの窮乏化概念を検討すること,これが本稿の

課題となる。だが,この課題はわれわれをもう

一つの課題に直面させる。周知のように,かの

「窮乏化法則」は相対的過剰人口論とのかかわ

りで与えられている。しかしまず第1に,マ

ルクスの相対的過剰人口論にたいしては,現在

までに様々の形で疑問が提出されているという

事情があり,第2に,相対的過剰人口論をし、か

に理解するかによって,窮乏化論の内容理解も

異なってこざるをえないという事情もある。そ

れゆえ,窮乏化論を扱うばあいには,相対的過

剰人口形成の「論証」問題の検討を避けるわけ

にはいかなレ。

そこで本稿は,マルクス相対的過剰人口論を

吟味しつつ,窮乏化論を『資本論』第1部第7

篇の資本蓄積論の論理構造にそくして検討する

ことを課題とする。

I

よく知られているように,資本の蓄積に対応

するものは貧困の蓄積である,というテーゼは,

『資本論』第1部第7編第23章「資本制的蓄積

の一般的法則」の官頭の考察課題,すなわち

「資本の増大が労働者階級の運命に及ぼす影響」

とし、う考察課題にたいする解答として提示され

たものである。

だが,ここにいわれる「貧困 Elend」とは何

であるのか,が直ちに問題となってくる。いう

までもなく,一口に貧困といっても,それは様

々の内容を包括しうるものであり,一義的にそ

の内容を確定することは困難だからである。そ

のうえ賃金労働者の活動領域はきわめて多様で

あるので,個々の領域について「貧困」を指摘

しえても,別の領域では逆の現象に出会うこと

もある。では,窮乏化の指標として何がとられ

るべきか,一ーこれは1950年代の窮乏化論の一

つの焦点であったといえよう。

しかしながら,このような立論の姿勢そのも

のに,まず疑問が生じてくる。というのはマル

クスは,労働者の生活状態に決定的な影響を与

える賃金額についてさえも,これを労働者の状

態を示す指標とみなすことを拒否しているから

である。この点は第23章で繰り返し指摘される。

例えば一一一。

「賃金労働者が維持され増殖されるための事

情が多かれ少かれ有利になるということは,資

本制生産の根本性格を少しも変えるものではな

し、。」3)

「資本が蓄積されるにつれて,労働者の状態

は,彼の受ける支払がどうであろうと,高かろ

うと安かろうと,悪化せざるをえないというこ

とになるのである。」4)

これらの叙述に示唆されていることは,マル

クスがいうところの労働者の「窮乏化」なる事

態は,決して現象的なレベルでの労働者の状態

にかかわるものではなくて,むしろ「資本制生

産の根本性格」に根ざすところの賃金労働者の

状態を指している,ということである。

そうである以上,窮乏化概念を問題とするば

あいにはまず,それが定式化されている『資本

論』第1部第7編の資本蓄積論の体系上の位置

と,その体系構成に示されている蓄積論の考察

視角を確認しておく必要があろう。

マルクスが『資本論』第1部で展開する資本

蓄積論は,いわゆる剰余価値論の直接の延長上

に配置されている。この剰余価値の分析では,

直接的生産過程における資本による労働の搾取

.支配関係が考察の主題となっていることはい

3) Karl Marx, Das Kapital, Marx-Engels Werke, Bd. 23, Dietz Verlag, Berlin, Buch I, S. 641. (マル

クス=エンゲルス全集刊行委員会訳『資本論』, 大月書

店普及版,第2分冊,旬。-801頁。以下では『資本論』

②,度)()-801頁のように略記する。)

4) Ibid., S. 675. (『資本論』②, 840頁。)

- 80ー

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マルクスにおける窮乏化概念について

うまでもないであろう。それに続く資本蓄積論

は,流通過程の立ち入った諸事情や剰余価値の

分割などの諸事情を一切度外視して,資本蓄積

なる現象を,直接的生産過程の反復・拡大とい

う観点からのみ考察している。それが「蓄積を

抽象的に,すなわちたんに直接的生産過程のー

契機として考察する」めとしづ考察視角である。

この点からすれば,第1部で提示される蓄積過

程の分析は,きわめて単純な,抽象的な論理に

もとづいて展開されたものといえるのであって,

その考察視角は著しく一面的であることを免れ

えない。しかし,この考察の抽象性と一面性と

は,剰余価値の分析が抽象的・一面的であるに

もかかわらず,というよりむしろそれゆえに,

資本の階級関係的本質を鋭く示しうるのと全く

同じ意味で正当性をもっ。剰余価値論が,資本

による労働の支配・領有過程としてその内実を

示されるとすれば,資本蓄積論は,この支配・

領有関係が深化し,拡大していく過程として展

開される。蓄積論はし、わば,資本による労働支

配とし、う観点ないしは視角から切り取られた資

本の蓄積過程の断面をなしているのである。あ

るいは,この視角とは,直接的生産過程の考察

から直接にひきだされるかぎりでの「資本の増

大が労働者階級の運命に及ぼす影響」めの考察

である,ともし、し、うる。マルクスはこれを,第

23章の主題を示すものとして掲げているのであ

るが,しかしそれが第7編全体を貫く主題であ

ることは行論のうちに示されるであろう。

し、し、かえると,直接的生産過程の考察を継承

する形で蓄積論が配置されていることは,その

主題が剰余価値論と同じく,資本・賃労働とい

う資本制生産の基軸的生産関係そのものに焦点

をあわせて設定されていることを示しているの

であり,こうした蓄積論の位置づけのうちに

労働者階級にとって資本存在の何であるかを,

剰余価値論に続いて提示するというマルクスの

意図を読みとりうるわけである。

資本蓄積論の位置と考察視角が叙上の如きも

5) Ibid., S. 590. (『資本論』②, 736頁。)

6) Ibid., S. 640. (『資本論』②, 799頁。)

のであるとすれば,資本蓄積の帰結として結論

づけられる労働者の窮乏化という事態は,直接

的生産過程における労働者の搾取という,資本

制的階級関係の根源からひきだされなければな

らないことは明らかであろう九のみならずむ

しろマルクスにとっては,この搾取過程そのも

のが労働者の窮乏化過程と考えられていたと思

われるのであって,例えば彼は次のように述べ

ている。

「骨折りとしては,生命力の支出としては,

労働は労働者の個人的な活動である。しかし,

価値形成者としては,自分を対象化する過程に

あるものとしては,労働者の労働は,生産過程

にはいってしまえば,それ自身資本価値の一つ

の存在様式であり,それに合体されている。そ

れだから,このような価値を維持し新たな価値

を創造する力は,資本の力なのであり,かの過

程は,資本の自己増殖の過程として,また,む

しろ労働者の窮乏化 Verarmungdes Arbei-

tersの過程として,現われるのである。なぜな

ら,労働者は,彼によって創造される価値を,

同時に彼自身にとって無縁の価値として,創造

するのだからである。」8)

資本制的生産過程では,労働者の労働そのも

のが資本に属するものとして,他人の生産手段

に吸収される。だから労働者はこの過程におい

て「彼自身にとって無縁の価値」を創造せざる

をえないのであるが,その過程こそが「窮乏化

の過程」であるといわれている。これがマルク

スにおける窮乏化概念の原意であると思われる。

つまりそれは,賃金労働者の資本による搾取と

いう事実を表現したものであり,直接的生産過

7)すでに1957年に附稔氏は次のような正当な主張をされ

ている。 「"? !レクスにおける窮乏化の必然性の論証は,

資本蓄積過程(剰余価値の資本への転化)の分析からは

じめではじまるものではなくて,剰余価値生産の分析か

ら出発すべきであり,資本主義的失業の分析からではな

くて実は資本主義的就業(賃労働)の分析からはじめら

れるべきだということができる。」同氏 「窮乏化法則の

問題点」, 『経済研究』(一橋大学経済研究所)第8巻第1号, 1957年。

8) Karl Marx, Resultate des unmittelbaren Produk-tionsρrozesses, Verlag Neue Kritik, 19初, S.16.

目崎次郎訳阻接的生産過程の諸結果』, 国民文庫, ω

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程における労働者の在り方を一言で示したもの

といえる。こうして,直接的生産過程における

資本による独自な搾取から生ずるあらゆる現象

は,窮乏化過程として総括できるといえよう。

だが他方では,マルクスがこれとは異なった

形で窮乏化概念を規定するばあいも目につく。

例えばマルクスは,生産手段,したがって自己

の労働実現のための客体的諸条件,および生活

手段から切り離された労働者を, 「絶対的窮乏

die absolute Armuth」として特徴づけ,彼を

「貧民 Pauper」と呼んでもいる。

「労働手段および生活手段を奪われた労働能

力は絶対的窮乏そのものであり,また労働者は,

そのような労働能力のたんなる人格化として,

現実には自分の諸欲望をもっていながら,他方

それらを充足するための活動は,ただ対象を欠

いた,自分じしんの主体性に包みこまれた素質

(可能性〉としてだけもっているにすぎない。

労働者はそのようなものとして,その概念から

して,貧民であり,自分の対象性から孤立化さ

れ切り離されたこの能力の人格化および担い手

として,貧民である。」9)

マルクスが,このように労働手段と生活手段

から分離された労働者に「絶対的窮乏」という規

定を与えていることは,一見すると,さきのよ

うに,労働者の被搾取過程を窮乏化と規定する

見方とは相容れないようにみえるかも知れない。

だが,両者は同じ事実の表現である。というの

は,労働者は,資本の生産過程で搾取される結

果として,客体的労働実現条件および生活手段

(それはさしあたり事後的には入手されるが)

から切り離された状態におかれるのだからであ

る。すなわち,この二つの窮乏化規定は,搾取

関係を,一方は生産過程における労働者の活動

の形態において,他方はこの活動の結果の形態

においてみたものであり,いずれも資本制的搾

9) Karl Marx, Zur Kritik der politischen Okonomie (Manuskript 1861ー1863),MEGA II/ 3. 1, Dietz

Verlag, S. 35. (資本論草稿集翻訳委員会訳『資本論草

稿集』③,大月書店, 57頁。) 「絶対的窮乏jなる表現は,

S.34 (同上訳56頁)' s. 36 (58頁)' s. 148 (265頁)など

にみられる。

取という事実の表現であるにすぎないのである。

しかし,いうまでもなく,マルクスが窮乏化

概念を定式化したのは,剰余価値論においてで

はなく,蓄積論においてであった。ここから推

論しうることは,蓄積論で示される労働者の在

り方を,剰余価値論で明らかにされた資本制的

生産過程における搾取とL、う事態の必然的帰結

として,いし、かえると直接的生産過程における

資本による労働支配が一層深化され,拡大され

ていく過程として位置づけようとするマルクス

の狙いである。では,蓄積論ではこの労働支配

の深化と拡大とは,いかなる点に認めることが

できるであろうか。これにたいしては,およそ

以下の二点をあげることができょう。その一つ

は,蓄積論では,直接的生産過程外での労働者

の在り方にも考察がむけられるということであ

る。この点,直接には生産過程内部における労

働者の在り方に考察が限定される剰余価値論よ

りは,考察の視野が,形式的にいえば広くなる

といえる10)。他の一つは,搾取関係の永続化と

拡大という点である。これが蓄積論で扱われる

資本制的階級関係の再生産という主題の中心的

内容をなすのであるが,蓄積論では,賃金労働

者は生産過程で搾取される結果として,次に再

び資本に搾取されるべき自らの階級的地位を措

定していることが明らかにされる。いし、かえる

と,過去の搾取関係にもとづいて現在の搾取関

係の発生が説明されることによって,搾取関係

が永続化される根拠が示される。しかもこうし

て資本制的搾取関係の存立根拠が示されること

によって同時に,この搾取関係の拡大過程も提

示されることになる。

10)第23章第5節「資本制的蓄積の一般的法則の例証Jで

マルクスはいう。 「労働日や機械にかんする諸篇では,

イギリスの労働者階級が有産階級のために『人を酔わす

ような,富や力の嬬加』をつくりだした事情が明らかに

された。しかし,そのときわれわれが取り扱ったのは,

おもに,その社会的機能を行なっているあいだの労働者

のことだった。蓄積の諸法則の十分な解明のためには,

作業場の外での彼の状態,彼の食物や住まいの状態も考察しなければならない。jDas Kapital, Buch I, S. 683. (『資本論』②, 852頁.)かくて,第5節では,労働者の

栄養状態や住居事情に立ち入りつつ,一般的法則の「例

証」がなされている。

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マルクスにおける窮乏化概念について

マルクスの窮乏化概念は,以上の二つの視点

からの考察をそれぞれ縦軸と横軸としつつ,そ

のそれぞれの展開の極点に位置づけられている

ものと思われる。それがマルクスに窮乏化概念

を蓄積論で定式化せしめた理由で、ある。

したがって,以上を要約すれば,マルクスの

窮乏化概念は,生産過程における労働者の搾取

としう資本制生産の根本事実から,資本蓄積す

なわち資本の増大が労働者にとって何を意味す

るのか,これを説明することを通じて与えられ

るもの,といえよう。つまり搾取関係を軸とす

る資本制的生産関係の考察に定位しつつ,資本

増大の下での労働者の「運命論」を展開してみ

せることのうちに与えられるといえる。この視

角と方法によってのみ,生産過程における窮乏

化の内容と,蓄積過程におけるそれとが一つの

必然的連関の下におかれ,したがって蓄積過程

における窮乏化現象が,資本による労働の搾取

という資本制的労働支配関係の進展ないし帰結

として理解できるのである。

II

そこで,労働者の窮乏化とし、う事態は,蓄積

論におし、てはいかなる点に認められるか,を基

本的にみておくことにしよう。その際まず着目

されるべきことは,生産過程における労働者の

搾取とし、う事実が,蓄積論を展開するにあたり,

いかなる形で現われるのか,という点、である。

それは,資本そのものが賃金労働者の労働によ

って媒介され,それから生じたものである点,

つまり資本が他人労働の所産である点に端的に

示される。このことが,生産過程における搾取

とし、う事実を集約的に表現し,かっ蓄積論を展

開する際の理論的出発点をなしているものと思

われる11〕。

Il) 「剰余価値の資本への転化は,貨幣の資本への本源的

な転化と全く区別されるところはない。諸条件は同じで

ある,すなわちある一定の価値額,…・・貨幣額が労働諸

条件および労働能力との交換によって資本に転化される

という諸条件は同じである。区別はこの過程そのものに

あるのではない,ーーというのはそれは同じ過程であり,

この点を, 『資本論』第1部第21章「単純再

生産」についてみておこう。生産過程をその反

復においてみるならば,生産物のうちにはすで

に必要労働が対象化されており,それが次に資

本家によって支払われるべき財源となっている

ことがわかる。ここで賃金は資本家の労働に由

来する財源から前貸されるという意味を失なう。

可変資本の運動は,その内実からすれば, 「先

週とか過去半年間とかの彼(労働者一引用者〉

の労働によって彼の今日の労働とか次の半年間

の労働とかが支払われる」12)ことを意味してい

るにすぎず,労働者の受け取る貨幣は,彼自身

が生産した生産物のうち自分を維持するに必要

な部分を彼自身にひきとらせるための指図証に

すぎなレ。つまりこうした独自の賃金運動は,

労働者の生産する全生産物(必要労働部分も含

めて〉が,一方的に資本に領有される事実の裏

面にすぎないのである13)。

だが,こうしたことは総資本についてもし、い

うるのであって,剰余価値が周期的に収入とし

て消費されるとすれば,資本家が本源的に所持

していた資本額は,この消費を条件としてのみ

維持されているのだから, 一定期間後には,

「もはやただ彼が無償で領有した剰余価値の総

額を代表」1めするにすぎなくなってしまうので

ある。

資本価値の存在は,かくて,生産過程におけ

る労働者の労働から生じたものとして現われて

くる。だがこのばあい,生産過程における労働

者の搾取関係を端的に示すものは,資本そのも

のが労働者による剰余労働=不払労働から成る

貨幣の資本への転化だからである。区JllJ:iただ次の点に,

すなわち,資本形成のこの第二の過程のばあいに資本に

転化される貨幣は,剰余価値すなわち剰余労働すなわち

対象[じされた他人の不払労働以外のものをあらわしてい

ない,という点にある。剰余価値の資本へのこの転化が資本の蓄積と呼ばれる。JKarl Marx, Zzげ Kritikder ρolitischen Okonomie (Manuskript 1861ー1863),

MEGA Il/3. 6, Dietz Verlag, S. 2220.

12) Das Kapital, Buch I, S. 593. (『資本論』②, 739頁。)

13) 「労働財源が彼の労働の支払手段という形で絶えず彼

の手;こ流れてくるのは,ただ,彼自身の生産物が絶えず

資本という形で彼から遠ざかるからでしかない。JIbid., s. 593. (『資本論』②, 739頁。)

14) Ibid., S. 595. (『資本論』②, 742頁。)

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という点であろう。したがって,直接的生産過

程における搾取関係は,資本そのものが他人の

不払労働から成るとL、う事実のうちに,その対

象的表現を得ることになる。

だが,資本が他人労働から成るとし、う事実の

対極には,さきにもふれたように,一切の生産

手段から切り離された労働者が措定される。こ

の,両極において異なった形態で表現される同

ーの過程は,しかし,連続的な過程である。し

たがって,他人の不払労働から成る資本は,そ

うしたものとして再び他人の不払労働を領有す

る存在であるとすれば,他方の極には,絶えず

無所有の労働者が排出されてくることになる。

つまり,他人の不払労働による他人の不払労働

の領有とし、う資本制的領有法則の対極に, 「絶

対的窮乏」にある労働者が不断に措定される。

この点に,蓄積論における労働者の「窮乏化」の

基本規定をみいだすことができるのである15)。

15)水谷謙治氏lまマルクスの「窮乏化」概念を4つの側面

に整理されたうえで,労働者が生産手段から分離された

存在であること,および彼の入る搾取過程そのものが,

労働者の窮乏の内容をなすことを指摘されている。同氏

『労働疎外とマノレタス経済学』,青木書店, 1974年,補論

I「労働者階級の『窮乏化』と『労働疎外』についてん

また平野厚生氏は,マルクスの「窮乏化j概念、を,資本

をつくる労働としてしか存在しえない賃金労働者の階級

的地位そのものの表現として捉えられるペきことを主張

されている。同氏『マルクス資本蓄積論の研究』, 青木

書店, 1981年,第5章。両氏の立論には教えられるとこ

ろが多かった。さらに,岡稔氏の以下の指摘は重要であると思える。

「まず第1に,労働者がいっさいの生産手段を奪われて

いて,生きるため民自分の労働力を売り渡さなければな

らないという点に,資本主義のもとでの労働者階級の窮

乏化の最も奥深い基礎がある。そしてこの基礎上でのい

っさいの運動一一絶対的・相対的剰余価値生産の諸形態

ーーによって労働者の窮乏化の諸形態が展開される。最

後に,この剰余価値の資本への転{じつまり資本主義の

もとでの生産の拡大と質的改善とは,それが資本の蓄積

という形態(労働者から疎外され労働者に対立する寓の

蓄積という形態)でおこなわれるかぎわそこには労働

者の状態を改善するようなどんな必然的傾向も含まれて

いないのであり,むしろ逆に,産業予備軍を媒介とする

その悪化が必然となる。もし以上のような理解が正しい

とすれば,窮乏化i法則とは『資本論』第1巻全体で取扱

われている資本主義の本質的特徴から演縛されるところ

の必然的発展傾向,レーニンのいい方によれば『資本主

義の傾向の特徴づけ』にほかならず,それ以上のもので

もそれ以下のものでもないであろう。」同氏前掲論文。

本稿もまさにこれと同じく「資本主義の本質的特徴から

演鐸されるところの必然的発展傾向」のうちに窮乏化概

このばあい,直接的生産過程における「窮乏

化」の本源的な事態は,蓄積論では,以下の点

で一層強められた位相の下に現われてくること

になる。

第1に。このばあい,労働者は生産過程で搾

取される結果,無所有の「絶対的窮乏」の状態

におかれ,自己の創造した資本の下で,つまり

かの搾取関係を物的に体現する資本の下で,再

び新たな搾取関係に入らざるをえない。資本の

側では,この過程は他人の不払労働による不払

労働の領有とし、う資本制的領有法則として現わ

れる。だが,労働者の側からすればこの過程は,

自己の創造になる資本によって再び搾取される

べき存在として自己を措定する過程である。す

なわち,搾取関係はそれに先行する搾取を根拠

として説明されることによって永続化されるこ

とになる。

第2に。そうだとすれば,もはや生産過程外

での労働者の在り方も無規定のままではすま

なくなる。労働者が自発的に行なう労働力商品

市場での労働力の売買行為や労働者の個人的消

費活動も,あげて搾取関係から生じ,また搾取

関係に入ることを予定されたものとして,生産

過程における資本の搾取のための機能を強制さ

れることになる。これは,生産過程における搾

取関係・階級関係が,生産過程外での労働者の活

動諸領域へといわば穆透してし、く過程であり,

それらを搾取関係が規制していく過程である16)。

拡大再生産過程,すなわち剰余価値の資本へ

の累増的転化過程をみてみれば,こうした内容

における窮乏化過程は,顕在化してくるととも

に,さらに強められてくる。

追加資本はそれじたい労働者の創造した剰余

価値であり,その実体は不払労働である。この

追加資本が追加労働力を購入することによって

資本が増大していくのであるから,拡大再生産

念を見定めようとする試みにほかならない。

16)資本関係の認識方法としては,マルクスはこうした方

訟をとっていると思われる。この点については,拙稿

「領有法貝I]の転変論と再生産論J『研究年報・経済学』

(東北大学)第4(},巻第3号, 1978年,を参照いただければ

幸いである。

- 84ー

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マルクスにおける錫乏化概念について

過程では,他人の不払労働によってますます多

くの他人の不払労働を領有していく資本の領有

法則を容易に確認することができるのである。

他方,労働者の側からすれば,やはり単純再生

産のばあいと同じく,彼は自己の剰余労働を資

本の剰余価値として措定することによって,自

己を再び無所有の労働者として措定している。

ただしこのばあいには単純再生産のばあい

と比べて,以下の点で労働者の窮乏化の内容は

進展しているといえる。

第1に。単純再生産のばあいと同様,このば

あいにも労働者は事後的にせよ,生活資料を受

け取っている。その点で彼が賃金労働者として

「再生産」される仕方には変化がない。相違は,

拡大再生産の下では,労働者は自己発展のあら

ゆる可能性をもっ富を,ますます増大する規模

で,資本として,すなわち自己を支配し自己に

敵対する力として創造しているという点である。

だから,搾取にもとづく搾取が,ここでは量的

に強められた形で現われるのであって,この過

程は労働者にそくしてみれば,累進的な自己窮

乏化の過程である17)。

17)剰余価値の資本への再転化過程について例えばマルク

スは次のように述べている。 「労働能力は,必要労働の

主体的諸条件一一生産する労働能力のための生活手段,

すなわち,その現実化の諸条件から分離された,たんな

る労働能力としてのそれの再生産のための生活手段ーー

だけを領有しており,そしてこれらの諸条件そのものを

物象として,命令する他人の人格化の形で彼に相対する

価値として捻定している。労働能力は,過程にはいった

ときよりも豊かになっていないばかりか,むしろ貧しく

なってむmer過程から出てくる。というのはそれは,

たんに必要労働の諸条件を資本に属するものとしてっく

りだしただけではなし労働能力のなかに可能性として

ある価値繕殖が,価値創造の可能性が,いまや同じく剰

余価値,剰余生産物として,一言でいえば資本として,

生きた労働能力にたいする支配力として,固有の権カと

意志を授けられた価値として,抽象的な,客体性を失っ

た,純粋に主体的な貧困 Armuthにおける労働能力に

対立して存在しているからである。労働能力は,たんに

他人の富と自己の貧困とを生産したばかりでなく,自己

自身に関係する富としてのこの富の,貧困としての生き

た労働能力にたいする関係をも生産する。貧困の消費に

よって,富は新たな活力を吸収し,新たに自己を地殖する。JKarl Marx, Grundrisse der Kritik der poli-tischen Okonomie, Dietz Verlag, SS. 35ふー7.(高木

幸二郎監訳『経済学批判要綱』, 大月書店,第二分冊,

387-8頁。以下では『要綱』 11.387-8頁のように略記

する。)

第2に。この過程では追加資本の増大ととも

に,ますます多くの追加労働者が資本の支配領

域に組み込まれる。それは労働者の子弟でもあ

りうるし,没落した小資本家でもありうるし,

また現実には非資本制的領域から補充されるこ

ともありうるであろう。いずれにせよ,その結

果は,資本の支配・搾取に服する賃金労働者の

量的拡大である。そしてこれは労働者の窮乏化

の外延的拡大を意味するであろう。

以上をまとめてみれば次のようになる。生産

過程における搾取関係の結果として,剰余労働

による剰余労働の新たな獲得という資本制的領

有法則が措定されるとともに,同時にその対極

に一切の労働実現諸条件から分離された労働者

が不断に措定される。この一方における「非労

働の所有」と,他方における「労働の非所有」

という事態こそ,資本制的生産過程の直接の帰

結としてひきだされるものであり,こうした労

働者の存在様式のうちに,蓄積論における労働

者の窮乏化の基本規定をみいだすことができる。

そしてこの窮乏化の規定は,単純再生産から拡

大再生産への考察の移行とともに,量的に拡大

される。

資本関係の再生産の抽象的考察を主題とする,

『資本論』第1部第21・22章では,労働者の窮

乏化規定は,さしあたり以上のような内容にお

いて捉えられていると思われるのである。

III

以上みたような窮乏化規定は,しかし,直接

生産者と生産手段との分離にもとづいて,生産

の人的要因を「労働力商品」として獲得してこ

なければならない生産構造のもとでは,さらに

進展していく可能性を匪胎している。その契機

を資本の運動形式の側面,および資本運動の内

容という側面から考察しておこう。

まず資本の運動形式の側面について。生産手

段と無産の労働者とが商品形態を通じて結合さ

れねばならないとしろ事情によって,この無所

有の労働者は一つの形態的擬制に入る。それは

-85-

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彼が,労働力なる商品を「所有する」という形

態的擬制である。だがもちろん,この労働力商

品の「所有」としの事態は,彼が一切の生産手

段から排除され,自己の身体力能の他には売る

べき何物も所有していないという事実の裏返し

の表現であるにすぎない。したがって,労働力

が商品になるという事態が一般化することは,

実際には,労働者の所有からの排除が進展して

いくことの表現にほかならない18)。これを蓄積

論の論脈でいえば,生産過程の結果として生産

手段からの排除が現われるために,労働者は再

び市場で「自分の皮を売る」私的所有者の枠組

におしこまれることを意味する。

だが,生産の人的要因を商品として獲得して

こなければならないというこの生産構造のうち

にすでに,直接生産者が生活手段さえ獲得しえ

ないという事態が生じうる可能性がはらまれて

いる。マルクスはこの点について次のように述

べている。

「自由な労働者という概念のなかにはすでに,

彼が貧民 Pauperすなわち潜勢的な貧民である

ということが含まれている。……資本家が労働

者の剰余労働を必要としないならば,労働者は

彼の必要労働を遂行することができないし,彼

の生活手段を生産することができない。その際,

彼は交換を通じて生活手段を受けとることがで

きないのであって,彼がそれを受けとるとすれ

ば,所得からの施物が彼にめぐまれることによ

ってだけである。彼が労働者として生きること

ができるのは,彼が自分の労働能力を,資本の

うち労働財源をなす部分と交換するかぎりでだ

けである。この交換そのものは,彼にとっては

偶然的な,彼の有機的な存在とはかかわりのな

い諸条件と結びついている。したがって彼は潜

勢的な貧民である。」19)

一般に私的所有は,ー私人による物の排他的

独占を意味し,したがって裏面からいえば,他

18)内同義彦『資本論の世界』, 岩波書店, 1970年, 72頁

以下参照。19) Grundrisse, SS. 497-8. (『要綱』皿, 546頁。)強調

は引用者のもの。なお以下引用文中の強調は断りがない

かぎりすべて引用者のものである。

の私人の所有喪失の可能性を含んでいる。しか

し資本制生産様式では,社会の一部の構成員に

よる生産手段の独占的な私的所有が現実化して

いる。それゆえ,この所有から排除された労働

者は,資本との突換に入らざるをえないのであ

るが,この交換を契機に,労働力商品の「私的

所有者」という形態規定を与えられるのである。

しかし,生産手段の私的所有という状態も,労

働力商品の「私的所有」という状態も,固定的

なものとして存在するわけでは決してない。実

際,蓄積論では,社会の一方の側での生産物の

私的所有が,不断の売買過程と,それに媒介さ

れる生産における生産物の絶えざる破壊と創造

の結果として捉えられるとすれば,他方,その

対極での労働者の無所有者化と労働力の「私的

所有者」化という事態も,こうした生産と流通

の運動過程にあるものとして,つまり絶えず生

起し消滅している運動過程にあるものとして捉

えられるのである。

したがって,再生産過程における労働力商品

の流通A-G-Wは,それじたい流動的なもの

であって,そのA-Gのいわゆる「命がけの飛

躍」の失敗によって,労働者がG-Wによる生

活手段の入手を行ないえない可能性を含んでい

る。 A-Gなる「この交換そのものは,彼にと

っては偶然的な,彼の有機的な存在とはかかわ

りのない諸条件と結びついている」のである。

社会的生産という観点からすれば, A-Gの

途絶を生ぜせしめる一般的根拠は,物の商品と

しての定在のうちにあるといえる。物の商品と

しての販売可能性は,商品所有者にとっては彼

の意志や意識にはかかわりのない事情に依存し

ているからである。労働力もそれが商品である

かぎり,この偶然性を免れることはできない。

しかしもちろん,労働力商品としては, G-

Aの途絶には特定化された根拠が存する。資本

制生産は貨幣による労働力と生産手段の購入に

よって開始されるが,この労働力の買い手は,

生産手段を同じく売買によって所有しうる者で

あって,現実にはそれは資本家という人格であ

る。だが労働力の購入は,直接生産者と生産手

- 86ー

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マルクスにおける窮乏化概念について

段との完全な分離を前提にしているから,その

購入をなしうる客観的根拠という点からすれば,

事実上労働力を購入するのは生産手段である。

資本家はその人格化された定在とみなしうる町。

こうして生産の主体は,直接生産者ではなく,

彼から独立化された生産手段としての資本であ

る。しかもこのばあい,生産の目的は,それじ

たい直接生産者にはかかわりのない剰余価値の

増大にある。価値はここではたんにある物的対

象のうちに宿されたものとして存在するのでは

なく,生産諸要素の価値としての存在を基礎と

しつつ,それじしん自己増殖の過程に入ってい

る。実体的にみれば,この過程が意味するのは,

労働者を生産過程に包摂することによって,彼

から剰余労働としての一般的・社会的労働をひ

きだすことである。

こうして生産の主体が,剰余価値の生産を目

的とする資本であるとすれば, G-Aの動因は,

労働者にとって無縁の存在たる資本の側にかか

ることになる。労働力の販売可能性は,一方的

に資本の側の労働需要に依存する。蓄積過程に

おける追加労働需要の動向,その増減こそが,

労働力の雇用状態を規定する。もし追加労働需

要が減退すれば,労働者は資本にとって無用の

存在である。したがってG-Aは途絶するが,

この無用の存在を「街頭にほうりだす」ことは,

労働力の商品形態がこれを保証するのである。

以上が,資本の運動形式からみるかぎりでの労

働者の窮乏化の進展可能性である。

そこで,次に資本運動の内容的側面からの考

察を加えてみたいが,その前にこれにかんして

20) 「資本の概念のなかに措定されていることは,労働の

客観的諸条件ーーしかもこれは労働自身の生産物である

ーーが,労働に対立して人格性をうけとるということ,

または同じことであるが.それらの諸条件が労働者に無

縁な一人格の所有として措定されているということであ

る。資本の概念のなかには資本家が含まれている。」:Grundrisse, S. 412. (『要綱』 m.≪B頁。)「再生産され.

新しく生産されるものは,この生きた労働の客観的諸条

件の定在だけではなしこの生きた労働舟Eカに対立し

て,自立した,すなわち無縁の主体に属している諸価値

としてのこれら諸条件の定在である。労働の客観的諸条

件は,生きた労働能力に対立して主観的な存在を受けとる一一資本から資本家が生成する。JIbid, S. 366. (『要

綱』 m.39s頁。〉

前提となる問題にふれておく必要があろう。そ

れは個別資本と総資本との関係についての問題

である。

資本蓄積の過程は,私的所有の形式の下に遂

行される。資本は,総資本としてこれを抽象す

れば,労働者階級にたいして生産手段の独占的

所有者として現われる。また個別資本としては,

対労働の関係を含みながらも,資本相互におい

て反発しあう私的生産主体として現われる。個

々の資本は現実には,私的生産にもとづく競争

の状態におかれている。そこで,それらは互い

の生産諸量を顧慮することなく,生産に従事す

ることになる。これは生産が商品生産であるこ

とから生ずる生産代表者閣の社会関係の分断の

側面である。だが,総資本と総労働として抽象

された水準においては,現実には上の過程に媒

介される個々の資本の生産・蓄積過程は,直接

的生産者としての賃金労働者階級とは無縁であ

るような,資本の生産・蓄積という形で現われ

る。

第1部の資本蓄積論では,この第2の観点か

ら蓄積運動が考察されなければならない。とい

うのは,ここで問題とされるのは,資本と労働

という敵対的関係の一般的考察だからであり,

直接生産者から切断された生産手段の独自的な

拡大運動と,その運動が彼らに与える一般的影

響を総括することに,考察課題が設定されてい

るからである。したがって,現実には資本蓄積

の運動は,個々の私的資本相互の競争過程に媒

介されるのではあるが,その点はここでは「示

唆」されればよいのであって,考察はもっぱら,

生産手段としての資本と,直接生産者との対立

の側面へと絞られてくることになる。

この点を確認した上で, G-A途絶の内容的

側面に移ろう。さきにみたように,生産の主体

が価値増殖を目的とする,それじたい価値化さ

れた生産手段としての資本であるとすれば,そ

の価値増殖の運動は,直接生産者からは完全に

独立して,いわば「独り歩き」で遂行されてい

しこの際,この蓄積の抽象的な考察にあって

もなおふれておかなければならない点は,蓄積

-87ー

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規模を決定する一要因としての剰余価値の追加

資本と収入への分割比率であり,この比率の決

定が資本家の私的意志にかかるということであ

る。つまり,この分割比率の変更によって,資

本は突発的膨張の要請に容易に応ずることがで

きるのである21)。

したがって,このような形で労働者から分断

された生産手段の自己拡大運動は,現存の労働

者人口の能力をこえて蓄積を進展せしめる可能

性をもっている。実際,個別生産諸部門聞の均

衡が達成されつつ,蓄積が行なわれるとすれ

ば,蓄積の限界は労働者人口のうちにのみ存す

る22〕。もちろんこのばあい資本は,雇用労働者

に支払う賃金によって,労働者の自然増加とそ

れによる労働力の追加供給を期待することはで

きる23)。とはし、え,それはきわめて緩慢な過程

なのであって,一般的には,資本の価値増殖欲

の増大の速度は,この自然増殖の速度よりもず

っと急速であるといえる。

こうして菩積の限界が現存の労働者人口に定

められるとすれば,次には,資本の側の追加的

労働需要が問題となる。この追加的労働需要も,

しかし蓄積論ではすでに無規定のものではな

く,生産過程によって根拠づけられたものとし

て現われている。資本の領有法則に示されるよ

うに,その実体は,生産過程で資本に領有され

た不払労働であり,それが追加資本に転化され,

その可変資本部分が追加労働需要をひきおこす

のである。このように,追加労働力を吸引する

21) 「特別に致富欲を刺激するもの,たとえば新たに生じ

た社会的欲望による新たな市場や新たな投資部面の開発

などが現われれば,蓄積の規模は,ただ資本と収入とへ

の剰余価値または剰余生産物の分割を変えるだけのことによって,にわかに拡大されうるj云々 。 DasKaρital, Buch I, S. 641. (『資本論』②, 800頁。)

22) 「必要な生産手段すなわち十分な資本蓄積を前提すれ

ば,剰余価値の創造には,剰余価値率すなわち労働の搾

取度が与えられていれば労働者人口のほかにはなんの制

限もなく,また労働者人口が与えられていれば労働の搾

取度のほかにはなんの制限もない。J Das Kaρital, Buch III, S. 253. (『資本論』④, 306頁.)創造された剰

余価値の資本への転化が,蓄積過程をなすのであるから,

この制限は同時に蓄積の制限でもなければならない。

23)第22章第 1節では,この前提の下に拡大再生産の抽象

的な考察がなされている。 Vgl.Das Kapital, Buch I,

S. 607. (『資本論』②, 757頁。)

追加資本は,その実体からすれば,現存労働者

人口の就業部分の剰余労働である。だが,資本

に領有されたこの剰余労働は,直接生産者から

の生産手段の独立化という事情の下で,追加資

本として,現存労働者人口とは敵対的な形態で

その増大運動を行なわざるをえない。この生産

拡大運動の目的が直接生産者とかかわりのない

剰余価値の追求におかれているからである。

こうして蓄積は,その財源を現存労働者人口

の剰余労働のうちにもちながら,しかも同時に

その限界を労働者人口にもちながらも,生産手

段が資本として労働者から独立化されているた

めに, G-Aを断絶させざるをえない事態に立

ち至るのである。以上が,資本運動の内容とい

う点からみた, G-A途絶の契機である。

具体的にはそれは,蓄積が現存労働者人口の

限界に到達する際に現われることになる。そし

てそれが『資本論』第1部第23章第1節でマル

クスの述べるところにほかならない。

IV

ここでは,第23章第1節のいわゆる「資本構

成不変の下での蓄積」の論脈にそくして,窮乏

化の概念内容がどのように進展せしめられてい

るか,を中心に考察する。

まずマルクスは,資本の有機的構成の概念を

明らかにしたのち,構成不変の下での蓄積の増

加が労働需要を増大せしめ,労働需要がその供

給を上回り始める点に達する,と指摘する。そ

の結果は賃金上昇の開始である。

この賃金上昇運動におけるマルクスの労働者

階級の状態にかんする指摘は二重である。この

マルクスの指摘を,労働者の窮乏化とし、う観点、

からあとづけてみよう。

第1の指摘は次のようなものである。賃金上

昇を惹起する資本蓄積は, 「資本の搾取・支配

部面」の外延的拡大の過程であって,それはプ

ロレタリアートの増殖過程にほかならない。だ

からこの過程は,労働者の資本への従属関係を

廃止するものではない,とし、う点、である。この

- 88-

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マルクスにおりる窮乏化概念について

指摘は,要するに,すでにみたような拡大され

た規模での階級関係の再生産における労働者の

状態論の内容に帰着する。すなわち,他人労働

による他人労働の領有という資本の領有法則の

結果としての,無産労働者の創出過程であり,

その外延的拡大の過程である。

ただ,相違もある。それは,このばあい蓄積

が労働者人口の増加よりも急速に行なわれるこ

とに対応して,労賃上昇の契機が取り入れられ

ている点である。だがここで注目しておくべき

点は,労賃が上昇すること,すなわち「賃金労

働者が維持され増殖されるための事情が多かれ

少かれ有利になるということ」24〕は,資本の領

有法則を変化させるものではないこと,したが

ってこの領有法則の結果として現われる労働者

の窮乏化過程も,やはりこの労賃上昇の全過程

において貫かれること,このことをマルクスが

はっきりと主張している点である。

「剰余価値の生産,すなわち利殖は,この生

産様式の絶対的法則である。労働力が生産手段

を資本として維持し,自分自身の価値を資本と

して再生産し,不払労働において追加資本の源

泉を与えるかぎりでのみ,ただそのかぎりでの

み,労働力は売れるのである。だから,労働力

の販売の条件のうちには,労働者にとってより

有利であろうとより不利であろうと,労働力の

不断の再販売の必然性と,資本としての富の不

断の拡大再生産とが含まれているのである。」25)

労賃上昇を惹起した追加的労働需要,それを

もたらした追加資本の源泉は,労働者の提供し

た不払労働であり,それを剰余価値として資本

に引き渡すかぎりで労働力は腹売される。この

ように,追加資本の実体が剰余労働であること

をふまえれば,追加資本の増加速度・度合が大

きいこと,したがって労賃上昇の速度・度合が

大きいことは,過去において生産過程でそれだ

け多くの剰余労働の領有がなされたことの表現

にほかならないであろう。そうである以上,も

はや「労働力の販売の条件」が「労働者にとっ

24) Ibid., S. 641. (『資本論』②,鈎O頁。)

25), 26) Ibid., S. 647. (『資本論』②, 808頁。)

てより有利であろうとより不利であろうと」,

自ら創造した富を継続的に資本として奪いとら

れることによって自らの生存を許されるという,

彼らの階級的地位に何らの変更が生ずるわけで

はない。このばあい生ずる労賃上昇は, 「せい

ぜい」, 現在において「労働者がしなければな

らない不払労働の量的な減少を意味するだけで

ある。」26)27)

第2の指摘は,この労賃上昇を過程の結末ま

で追求し,それが反撃をうける次第を明らかに

することによってなされる。このマルクスの指

摘には,しかしなお考察の不十分性が存する

と思われるので,以下ではこの過程を中心に検

討を進める。

マルクスは,労賃上昇の運動を二つのばあい

に分けている。一つは,労働需要の増大が労賃

騰貴をひきおこすが,しかしこの騰貴が蓄積を

妨げず,蓄積がさらに進むばあいである。この

際の労働者の状態についての指摘が上でみたば

あいに相当する。他の一つは,労賃騰貴が資本

に領有される剰余価値量を減少させることによ

って,蓄積が減少し,この減少によって労賃が

27)マルクスが以上のように労賃上昇の過程においても労

働者の窮乏化を認めているとすれば,彼にあっては窮乏

化を「絶対的窮乏化Jと「相対的窮乏化」に分けて規定

するという発想がみられないのは当然といえる。だが,

例えばマルクスはグラッドストーンの演説を批判して次

のようにν、う。 「労働者階級は相変わらず『貧乏』で,

ただ,それが有産階級のために『人を酔わすような,富

やカの増加』を生産したのに比例して『貧しさを少なく

した』だけだとすれば,労働者階級は相対的には相変わ

らず貧乏なのである。貧困の極点が軽減されなかったと

すれば,それは増大したのである。富裕の極点は瑚大し

たのだからであるけ Ibid.,S. 681. (『資本論』②, E49-

50頁。)ここではマルクスが,従来の通説にいわゆる「相

対的窮乏化jについて述べているといちおうは理解でき

る。だが彼はそれを労働者の窮乏化過程として一般的に

論じているわけでもないし,それが労働者階級の「運

命Jといかなる関係にたっかについて論じているわけで

もない。むしろ「窮乏化J概念を二つに類別することの

正当性の方が問われるべきである。このような窮乏化論

の理解にとどまるかぎりでは,それは「相対的窮乏化」

は認められるが「絶対的窮乏化Jは認められない,と

か,あるいは両者ともに認められるといった類いの議論

以上には出ないものと忠、われる。だがこれでは資本主義

に対する外面的批判の見地に堕す危険をもつことになろ

う。むしろマルクスの窮乏化概念は,資本主義の下での

労働者の階級的地位そのものの規定のうちに存する,と

いわなければならない。

- 89-

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下落に反転するぽあいである。マルクスは明示

していないが,第1のばあいが続くならば第2

のばあいを導くこと,つまり二つのケースが時

間的先後関係にたつことは明らかである。そこ

で,過程の結末,第2のばあいの帰結をマルク

スは次のように述べる。

「労働の価格の上昇の結果,利得の刺激が鈍

くなるので,蓄積が衰える。蓄積は減少する。

しかし,その減少につれて,その減少の原因は

なくなる。すなわち,資本と搾取可能な労働力

とのあいだの不均衡はなくなる。つまり,資本

制生産過程の機構は,自分が一時的にっくりだ

す障害を自分で除くのである。労働の価格は,

再び,資本の価値増殖欲求に適合する水準まで

下がる。この水準が,賃金上昇の始まる前に標

準的と認められていた水準よりも低いか,高い

か,それとも同じかは別として,とにかく労働

の価格は下がる,要するに,第1のぱあいには,

労働力または労働者人口の絶対的または比率的

増大の減退が資本を過剰にするのではなく,反

対に,資本の増加が搾取可能な労働力を不足に

するのである。第2のぼあいには,労働力また

は労働者人口の絶対的または比率的増大の増進

が資本を不足にするのではなく,反対に,資本

の減少が搾取可能な労働力またはむしろその価

格を過剰にするのである。」28)

こうして労賃は低下する。このばあい労賃が

低下するのは,蓄積の「衰え」,「減少」による,

いわゆる失業人口の排出を通じてである29)。こ

28) Ibid., S. 648. (『資本論』②, 809頁。)29)このばあい蓄積の「衰え」,「減少Jは具体的過程としては, f蓄積停止Jによるほかないであろう。構成不変の下での蓄積の際に生ずる労賃低下を「蓄積停止」を媒介として説明する見解としては,宇野弘蔵『経済原論』上,岩波書店, 1958年,鈴木鴻一郎編『経済学原理論』上,東大出版会, 1970年, 白川清『経済学原論』,御茶の水害房, 1979年,篠笥憲爾「資本蓄積と相対的過剰l人口」 (吉原泰助他編『講座資本論の研究』第3巻,青木書店, 1982年,所収)などがある。なお本稿では立ち入ることはできないが,この点につ

いてのマルクスの処理がはらむ問題性については,中西洋『増補 日本における『社会政策』・『労働問題』研究』,東大出版会, 1982年, 142頁以下,および平野厚生『""71レタス資本蓄積論の研究』,前掲, 131頁以下を参照されたい。

の一連の過程の考察を経て,マルクスは,労賃

上昇にかかわる労働者の「運命」について次の

ように結論する。

「だから,一つの自然法則にまで神秘化され

ている資本制的蓄積の法則が実際に表わしてい

るのは,ただ,資本関係の不断の再生産と絶え

ず拡大される規模でのその再生産とに重大な脅

威を与えるおそれのあるような労働の搾取度の

低下や,またそのような労働の価格の上昇は,

すべて資本制的蓄積の本性によって排除されて

いる,ということでしかないのである。そこで

は労働者が現存の価値の増殖欲求のために存在

するのであって,その反対に対象的な富が労働

者の発展欲求のために存在するのではないとい

う生産様式では,そうであるよりほかはないの

である。」30)

だが,まずこの叙述における失業人口につい

て問題が生ずる。それはこの失業人口を相対的

過剰人口として理解しうるかどうかという点で

ある。周知のようにマルグスが相対的過剰人口

の規定を与えているのは,第23章第2節の構成

高度化的蓄積の説明をうけた第3節においてで

あり,そこで構成高度化によって創出される労

働者にたいしてであるからである。そして第1

節で、はマルクスは,蓄積減少の結果生ずる失業

人口について,これを「労働力の過剰」と呼ん

ではいるが,積極的に相対的過剰人口と規定し

ているわけではない。まずこの点を検討してお

かなければならないであろう。

そこで第3節において,相対的過剰人口の規

定がし、かなる形で与えられているのかをみてお

く必要がある。第3節では相対的過剰人口の規

定は, 「資本の平均的な価値増殖欲求にとって

よけいな,したがって過剰な,または追加的な

労働者人口」31)として,あるいは, 「資本の平

均的な価値増殖欲求からみての,過剰人口」32)

として与えられている。第1節の失業人口は,

こうした規定と合致するであろうか。

30) Das Kapital, Buch I, S. 649. (『資本論』, 810-11

頁。)31) Ibid., S. 658. (『資本論』②, 821頁。)32) Ibid., S. 662. (『資本論』②, 825頁。)

- 90ー

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マルクスにおける窮乏化概念について

結論からいえば,それは相対的過剰人口とみ

なしうる。その論拠を示そう。問題は, 「資本

の平均的な価値増殖欲求にとって過剰」といわ

れるばあいの, 「平均的」なる規定をし、かに解

するかにある。第23章第3節,第4節における,

資本構成高度化にもとづく相対的過剰人口の規

定は,資本蓄積の長期的発展傾向にそくして与

えられたものであり,したがってそれは産業循

環における資本蓄積の諸変動から抽象された水

準において与えられたもの,とみることができ

る。だが,相対的過剰人口の規定がこのような

抽象水準において与えられているとすれば,そ

の過剰か否かを判別する基準は, 「資本の平均

的な価値増殖欲求からみて」としてしか設定さ

れようのないものである。もちろん現実には資

本の価値増殖欲求は,産業循環の諸局面に応じ

て様々でありうるのであって,例えばマルクス

はこう述べている。

「相対的過剰人口がときには恐慌期に急性的

に現われ,ときには不況期に慢性的に現われる

というように,産業循環の局面変換によってそ

れに押印される大きな周期的に繰り返し現われ

る諸形態を別とすれば,それにはつねに三つの

形態がある。」33)

ここでは,産業循環の局面変換につれて「周

期的に繰り返し現われる諸形態」も相対的過剰

人口に入る,とされている。そうであれば,こ

うした過剰人口とは,産業循環の諸局面での,

その都度の資本の価値増殖欲求にとって過剰な

人口であるはずである。ところで,第1節では,

失業人口は蓄積減少の結果生ずるのであるから,

このばあいの資本の価値増殖欲求は「平均的水

準」以下にあると思われるが,しかしこのば

あいの過剰人口が「平均的な価値増殖欲求から

みての過剰人口」と「平均以下の価値増殖欲求

からみての過剰人口」とに分かれるわけで、はな

いであろう判。それゆえ,第1節の失業人口は

33) Ibid., S. 670. (『資本論』②, 835頁。)

34) 「経済学上『プロレタリア』の意味するものは, 『資

本』を生産し増殖し,しかもペクールが『ムッシュー資

本』と呼ぶ人物の価値増殖欲にとってよけいiこなればた

ちまち街頭に投げ出される賃金労働者にほかならない。」

相対的過剰人口に入るのである35)。

もしこのように理解できるとすれば,労働者

の窮乏化を問題とするわれわれの立場からは,

構成不変の蓄積の下での労働者の「運命」につ

いて,マルクスのように,賃金上昇は資本の

「体制の再生産を保証するような限界のなかに,

閉じ込められている」3めという結論を与えてす

ますわけにはいかない。このばあいに生ずる失

業という現象を,労働者階級の「運命論」とい

う観点から,もう少し立ち入って蓄積論の論脈

のうちに位置づけておく必要がある。この労賃

上昇の過程を追認しつつ,その点を考察してみ

よう。

すでにみたように,資本とは直接的生産者と

彼らから独立化された生産手段との社会的関係

である。そして価値として生産者から独立化さ

れたこの生産手段の運動目標は,それじたいと

して生産者とは無縁の剰余価値にある。剰余価

値の資本への再転化による生産拡大運動は,し

たがって,直接生産者とは完全に分断された形

で進行する。しかしもちろん,この運動は現存

の労働者人口のうちに,真の内在的制限をもっ

ている。だから,この生産拡大運動が現存の労

働者人口の能力をこえるとき,この不均衡は顕

在化せざるをえないのである。とはいえ,この

顕在化の過程は,それじたい独特のものである。

生産手段と労働者とが,資本と労働力商品とい

う物象的な形態をもって結合されている事態に

対応して,まず第1に,現存労働者人口にたい

Ibid., S. 642, Anm. 70. (『資本論』②, 801頁。)

35)第23章第1節の構成不変の蓄積のさいに生ずる失業人口を相対的過剰人口のー形態として理解しようとする立

場としては,岡稔前掲論文,岩田弘『7 ルクス経済

学』上,風媒社, 1979年,篠笥憲爾前掲論文などがあ

る。宇野弘蔵氏にあっては,構成不変の蓄積の結果生ず

る「失業人口」は,構成高度化による相対的過剰人口と区日ljされているようであるが,この点はなお唆昧さを残

しているように思える。例えば同氏『恐慌論』, 岩波書

店, 1971年, 93-4頁, 144頁,参照。なお平野厚生氏の

最近の労作『マルクス資本蓄積論の研究』,前掲.はこ

の構成不変の蓄積のもとで生ずる失業人口を相対的過剰

人口の基礎的・中心的形態として捉えようとする立場に

たたれている。36), 37) Das kゆital,Buch I, S. 649. (『資本論』②,

810頁。)

- 91ー

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して資本が増大しすぎている事態が,労賃騰貴

とL、う物象的な関係として現われ,第2に生産

手段量にたいする現存労働者人口という生産の

内的制限が,この労賃騰貴による剰余価値量の

減少とし、う物象的な,真の関係からすれば外在

的な形態で現われる。

マルクスは,追加資本が現存労働者人口の不

払労働の所産でありながら,叙上のように,彼

らの関与から断ち切られて運動している事態,

すなわち資本存在と労働者との敵対的同一性に

ついてこう述べている。

「し、わゆる『自然的人口法則』の根底にある

資本制生産の法則は,簡単に次のことは帰着す

る。資本蓄積と賃金率との関係は,支払われな

い,資本に転化する労働と,追加資本の運動に

必要な追加労働との関係にほかならない。だか

ら,それは,けっして,一方には資本の大きさ,

他方には労働者人口,という二つの互いに独立

な量の関係ではなくて,むしろ結局はただ同じ

労働者人口の不払労働と支払労働との関係でし

かないのである。労働者階級によって供給され

資本家階級によって蓄積される不払労働の量が,

支払労働の異常な増加によらなければ資本に転

化できないほど急速に増大すれば,賃金は上が

るのであって,…不払労働はそれに比例して減

少するのである。ところが,この減少が,資本

を養う剰余労働がもはや正常な量では供給され

なくなる点にふれるやいなや,そこに反動が現

われる。収入のうちの資本化される部分は小さ

くなり,蓄積は衰え,賃金の上昇運動は反撃を

受ける。」37)

ここでは,生産の内在的観点から,資本存在

を物象的なものとみなす立場,資本を労働者人

口から独立したものとみなす立場は,ことごと

く斥けられている。すなわち,労働者人口と資

本蓄積との関連が,労働者人口と彼らのっくり

だした富との関連におきかえられ,資本と労賃

とし、う物的形態をまとった運動が,同じ労働者

人口の遂行する支払労働と不払労働との関係に

還元されて提示されているわけである。このよ

うな洞察を可能ならしめる根本的立場が,資本

なるものが他人の不払労働の所産であり,そう

したものとして新たに他人労働の領有を行なう

という了解,すなわち資本制的領有法則の把握

にあることは明白であろう。

以上をふまえて,過程の結末に発生する失業

人口の意味を考察してみよう。われわれはさき

に,生産過程で資本による剰余労働の領有が行

なわれる結果,過程の終りに生産手段から分離

された労働者が措定される点に,蓄積論におけ

る労働者の窮乏化の基本規定をみた。だがその

ぱあいには,資本の再生産と蓄積によってG-

Aの過程が続き,したがって事後的にせよ,労

働者が自己のなした必要労働部分,必要生活手

段を獲得していることが前提とされている。資

本が雇用手段として機能していることが,労働

者の賃金労働者としての再措定を可能にしてし、

る。

だが,資本蓄積の進展過程においては,資本

はG-Aの断絶とし、う事態をひきおこさざるを

えない。これは労働者にとっては自らの創造に

なる資本が,自らの雇用手段としては機能しな

いことを意味する。彼は労働による生存条件の

領有の資本制的な回路,すなわち賃労働による

生活資料の獲得という回路を断ち切られる。結

果は,生活資料さえ享受しえなし、「絶対的窮乏」

である。これがさきの窮乏化規定からの進展の

内容である。

ここで確認しておくべき点は,こうした進展

が生ずることはそれじたい,直接生産者と生産

手段との分離を,生産過程の結果として絶えず

っくりだす生産構造にもとづいていることであ

る。すなわち,生産手段が資本として生産者か

ら独立化せしめられ,そうしたものとして生産

の主体となっているような生産構造では,資本

の蓄積欲望に応じてG-Aが成立するのであり,

したがって,その蓄積欲望の変転に応じて労働

者があるいは過剰となり,あるいは過少となる

事態は避けられない。この意味で失業なる事態

が必然的であり,それが資本蓄積の過程におけ

る「労働者階級の運命」であるとすれば,生産

の結果絶えず自ら創造する生産手段から分離さ

- 92-

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マルクスにおける窮乏化概念について

れるという,この生産構造の下での労働者の在

り方が,この「運命」の基礎過程をなすことは

明らかであろう。

なお, この点と関連して, 労働者の「過剰」,

「過少」とし、う捉え方について一言しておきた

い。マルクスが労働者の過剰,過少というのは,

いうまでもなく資本の価値増殖欲求にたいして

である。この過剰または過少という見方は,資

本存在を歴史的に絶対的な「永遠の自然法則」

とみなす見地にあるかぎり,全く正当である。

だが,ひとたび資本存在が直接生産者から独立

化された生産手段と彼らの社会的関係であり,

しかもこの関係は彼らの剰余労働の資本への累

増的転化過程のうちに再生産されている,とい

う認識に達するならば,資本の歴史的相対性は

もはや明らかである。資本にとっての労働者人

口の過剰または過少は,歴史的に絶対的な立場

からは,決して過剰または過少を意味しない。

資本にとって人口不足として現われてくる事態

は,資本が現存労働者人口をこえて生産拡大を

行なった結果であり,人口過剰として現われて

くる事態は,この拡大運動の反転の結果として

の資本減少の結果にすぎない。実際には生産手

段としての資本が膨張,収縮運動を行なうだけ

であって,労働者人口がそうしているのではな

い。だが,この真の関係を,資本は人口不足,

人口過剰とし、う顛倒した形でうけとめる。資本

の側でのこうした認、識は,しかし,資本制生産

の枠組を絶対的に不動のものとする見地にたっ

かぎりでは, 「現実的」である。つまり,生産

の主体が直接生産者にではなく資本にあるとい

うことが資本制生産過程の「現実」であるのと

同様,生産における主体と客体の顛倒を無批判

に承認し,それを自明のものとみなす立場にあ

っては「現実的」なのである向。

38)この願倒的立場からの過剰人口の把握は,あるいは次

のようにも表現することができるであろう。 「だが,そ

れにしても,このく相対的過剰l人口〉という概念の内包

する意味の回路を明確に把握しておかねばならない。人

間が「過剰である」とはどういうことか,何に相対して

過剰であるのか。一一いうまでもなく,資本の増殖欲求

にとって人聞が過剰であるということである。ここで意

味づける主体は資本の側にあり,人聞は意味づけられる

しかしこの「現実的」立場にあっては,上

の資本と労働の真の関係が,自然的な「資本」

(食糧)増加と人口増加の関係に置換せられて

しまうことは容易である。資本関係の歴史的規

定性の没却は,その自然的関係への還元となっ

て現われるほかはない。かくて資本はたんに財

あるいは富として,要するに形態規定をはぎと

られた物としてみられ,また人口の方も動植物

の繁殖と同じ自然的関係のうちにあるものとさ

れる。このばあいには,イデオロギ一一般がそ

うであるように,資本関係における階級的色彰

も同時に,完全に脱色せられてしまう。マルサ

スに代表されるイデオロギー的立場がこうして

発生するのである。

すでにみたように,生産の主体が資本であり,

直接生産者が「自分の手の作り物に支配される」

とし、う顛倒的な生産構造の下では,労働需要の

起動因はつねに資本の側にある。第23章は,こ

の労働需要の変化の考察にあてられているので

あり,その抽象的な考察が第1節であった。だ

が,第23章第2節・第3節では,構成高度化要

因が導入され,資本量に比して労働需要が相対

的に減少していく傾向が論ぜられる。その帰結

として第4節で窮乏化が結論されていることは

周知のとおりである。

v

マルクスは,第23章第2節で構成高度化によ

る可変資本の相対的減少傾向を説明し,第3節

で過剰人口の累進的生産を論じている。ところ

が,マルクスの相対的過剰人口の説明にたいし

ては, F•オッベンハイマーの批判以来たびた

び疑問が提示されている。マルクスの窮乏化概

念を追求しようとするわれわれの目的からすれ

客体として存立する。すなわち人聞は,みずからの労働

と交通の回路においてうみだした資本によって,逆に存

在(生存!)そのものの意味を規定されるものに転位し,

この物象としての資本を,みずからの存在の意味を規定

する主体として物神化する。」 真木悠介『現代社会の存

立構造』,筑摩書房, 1981年, 154頁。 (強調は真木氏の

もの。)

- 93ー

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ぽ,この問題の検討を避けて通るわけにはいか

ない。

そこでまず問題の要点を確認することから始

めよう。資本蓄積が労働生産性の上昇という要

因にとらえられると,社会的総資本のうちの可

変資本部分は相対的に減少する傾向をもっ。だ

が,もちろんその絶対量をつねに減少させるわ

けではない。これはマルクスも認めるところで

ある。

「蓄積の進展は,可変資本部分の相対量を減

らすとはいえ,けっして同時にその絶対量の増

大を排除するものではない。」39)

「総資本の増大につれて,その可変成分,す

なわち総資本に合体される労働力も増大するに

はちがいないが,その増大の割合は絶えず小き

くなっていくのである。」40)

だがそうだとすれば,蓄積は可変資本量を相

対的には減少させるものの,絶対的には増加さ

せるのだから,蓄積とともに社会的労働需要は

持続的に増大し,したがって,自然的労働者人

口の増加という要因を考慮に入れないかぎり,

相対的過剰人口は形成されないことになってし

まう。では,その形成をいかにして説明するこ

とができるか。これがマルクス過剰人口論をめ

ぐる論争点をなすことになる。

しかし,マルクス過剰人口論の詳細に立ち入

ってみると,そこにはこのような労働需要の絶

対的増大と相対的減少との単純な比較では片づ

けえない側面があるようにも思える41)。すなわ

ち,マルクスはこの労働需要の絶対的増大が円

滑に進むとは考えていないと思われるのであっ

て,彼は労働需要の相対的減少による過剰人口

の生産を指摘したのち,それに続けて以下のよ

うに述べるのである。

39) Das Kapital, Buch I, S. 652. (『資本論』②, 813

頁。)40) lbi・d.,s.缶8.(『資本論』②, 820頁。)

41)本稿では過剰人口論について,さしあたり,ドイツ誇

現行版を考察対象とする。これまでの研究が示すよう

に,フランス語版ではこの点について論理展開の異同が

認められる。その立ち入った検討は他の機会をまたなけ

ればならないが,しかし本稿はフランス語版でも,説得

的な展開をなしえていない,という理解にたっている.

「社会的総資本を見れば,その蓄積の運動は

ある時は周期的な変動を呼びおこし,またある

時はこの運動の諸契機が同時にいろいろな生産

部面に配分される。いくつかの部面では資本の

構成の変化が,資本の絶対量の増大なしに,た

んなる集中*の結果として起きる。ほかの諸部

面では資本の絶対的な増大が,その可変成分ま

たはそれによって吸収される労働力の絶対的な

減少と結びついている。また別の諸部面では,

資本が,ある時は与えられた技術的基礎の上で

増大を続けて,その増大に比例して追加労働力

を引き寄せ,ある時は有機的な変化が生じて資

本の可変成分が縮小する。」42)

ここでマルクスは,社会的総資本の断片たる

個別諸資本の蓄積運動における,空間的,時間

的な差異に着目している。すなわち,個別諸資

本は, 1)資本の絶対的増加を伴いつつ,あるい

は伴うことなく,構成高度化によって可変資本

を減少させる。またあるいは, 2)あるときには

構成不変の蓄積によって追加労働力を吸引し,

あるときは構成高度化を通じて追加労働力を反

発する,と。これらの指摘は,要するに,社会

的総資本の可変部分が絶対的に増加するとして

もそれは直線的に,円滑に進むものではなく,

生産諸部面聞の動揺を通じて達成されることを

述べたもの,と理解できる。それゆえ,マルク

スはこの部分を, 「どの部面でも,可変資本部

分の増大,したがってまた就業労働者数の増加

は,つねに激しい動揺と一時的な過剰人口生産

とに結びついている」43)と結ぶのである。した

がって,以上の指摘は,可変資本の逓滅的増加

傾向をもって過剰人口発生の不可能を主張する

議論を予想した,マルクス自身によるそれへの

反論ともみなしうるであろう44)。

42) Das Kaρital, Buch I, SS. 658-9, (『資本論』②,821頁。)引用文中の「集中Jは現行版では「集積」とな

っているが, Fイツ語第3版におけるように「集中」と

解した方が妥当であるように思える。43) Ibid., S. 659. (『資本論』②, 821頁。)

44)例えば林車道氏はこうしたマルクスの説明を妥当なも

のとされ, 「生産部門間・企業聞の不均僧発展」と「産

業循環各局面聞の不均等性Jから,過軍事L人口を説明されている.同氏「相対的過剰休日についてJ,『研究と資料』(大阪市立大学),第2号, 1957年.

-94-

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マルクスにおける窮乏{~既念について

われわれとしては,こうした個別諸資本の蓄

積運動の差異から生ずる過剰人口を,いちがい

に否定してしまうわけにはいかないであろう。

だが,これが第1部の資本蓄積論における過剰

人口形成の説明として妥当かといえば,この説

明には次のような難点を指摘せざるをえない。

第1に,この説明のばあいにも,構成高度化が

過剰人口発生の内的要因となってはいる。だが

それは個別生産部面の過剰人口である。したが

って社会全体の労働需要が,逓滅的な比率では

あれ,増大している事情の下では,この過剰人

口は一時的なものにすぎないことになってしま

う45)0 第2に,マルクスが蓄積論で着目する有

機的構成とは, 「すべての生産部門の平均構成

の総平均」46)たる,「一国の社会的資本の構成」47)

である。この点を考慮するとき,さきの説明は,

過剰人口形成の説明としては不適切であると思

えるのである。かりに,社会的資本の構成高度

化を,過剰人口発生の抽象的根拠とし,さきの

説明をその具体的展開と考えるにしても,その

抽象と具体との明確な関連づけを欠いている点

に難点をもっといえる。

だが,さらに注目されるべきは,マルクスが

可変資本の逓減的増加が直線的に進むものでは

ないことを,個別諸資本についてばかりではな

し社会的資本についても主張している点であ

る。

「近代産業の特徴的な生活過程,すなわち,

中位の活況,生産の繁忙,恐慌,沈滞の各時期

が,より小さい諸変動に中断されながら, 10年

ごとの循環をなしている形態は,産業予備軍ま

たは過剰人口の不断の形成,その大なり小なり

の吸収,さらにその再形成にもとづいている。

この産業循環の変転する諸局面は,またそれじ

しん,過剰人口を補充するのであって,過剰人

口の最も精力的な再生産動因の一つになるので

45)そしてそうだとすれば, 「いわゆる摩擦的失業仕ic-

tional unemploymentと少なくとも現象面では同じも

のになってしまうん美崎餓『現代労働市場論』,農山海村文化協会, 1979年, 36頁。

46), 47) Das Kaρital, Buch I, S. 641. (『資本論』②,

800頁。)

ある。J48)

これは様々の示唆に富む文節であるが,さし

あたってわれわれはここに,マルクスが産業循

環過程における過剰人口の吸収と反発の過程を

認めていること,したがって,社会的資本の可

変部分の増大が円滑に進行すると考えているわ

けではないことを確認できればよい。

では,可変資本の相対的減少と絶対的増大と

をともに認めるとすれば,社会全体の労働需要

は最終的にどうなるのか,この点が示されなけ

ればならない。しかし,第23章第3節「相対的

過剰人口または産業予備軍の累進的生産」にお

いて,もっとも不明確なのがこの点なのである。

例えば,マルクスは経済学者の「機械によって

駆逐される労働者にかんする補償説」を,ここ

で再び批判して次のようにL、う。

「遊離させられるのは,ただたんに機械によ

って直接に駆逐される労働者だけではなく,彼

らの補充員も遊離させられるのであり,また,

事業が従来の基礎の上で普通の仕方で拡張され

るばあいには規則的に吸収される追加遂も遊離

させられるのである。彼らは今ではみな『遊離

させられて』いて,これから機能しようとする

新しい資本はみな彼らを自由に利用することが

できる。この資本に引き寄せられるのが彼らで

あろうと別の労働者であろうと,機械が市場に

投げ出したのと同数の労働者を市場から連れて

くるのにこれだけの資本でちょうど十分である

かぎり,一般的な労働需要への影響はゼロであ

ろう。もしこの資本がそれよりも少ない数の労

働者を使用するとすれば,過剰労働者の数は増

大する。もしそれよりも多数を使用するとすれ

ば,使用される者が『遊離させられた者』を超

過する分だけ一般的な労働需要が増大する。だ

から,どのばあいにも,もしそうでなければ投

下を求める追加資本が一般的な労働需要に与え

るであろう活況は,機械によって街頭に投げ出

された労働者でまにあうかぎり,中和されてい

るのである。つまり,資本制生産の機構は,資

48) Ibid., S. 661. (『資本論』②, 824頁。)

- 95ー

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本の絶対的増大に伴ってそれに対応する一般的

な労働需要の増大が生ずることのないようにな

っているのである。」的

ここで興味をひくのは,マルクスが「一般的

な労働需要」の変動に言及している点である。

つまり,社会的資本の可変部分が一方的に増大

するとしているのではなく,その多面的変化を

問題にしようとする姿勢がみられるという点で

ある。だがこの際,問題は,追加資本が遊離さ

せられた労働者数以上の労働者を雇用すること

が一般的に想定されるばあいである。このばあ

いには,確かに「資本の絶対的増大に伴ってそ

れに対応する一般的な労働需要の増大が生ずる

こと」はない。つまり労働需要の増大は機械に

よる労働者の駆逐によって一定程度は相殺され

る。とはいえ,労働需要の増大は続くのであっ

て,この増大が機械による労働者の代置によっ

てつねに大幅に相殺されるとし、う保証はない。

そして,この過程が過剰人口の生産とし、かなる

関係にたっかについて,マルクスは何も答えて

いないのである。

同じことは,これに続けてマルクスが次のよ

うに述べる際にも妥当する。

「労働にたいする需要は資本の増大と同じこ

とではなく労働の供給は労働者階級の増大と同

じことではなく,したがって,互いに独立な二

つの力が互いに作用しあうのではない。さいこ

ろはいかきまだ。資本は両方の側で同時に作用

するのである。一方で資本の蓄積が労働にたい

する需要をふやすとき,他方ではその蓄積が労

働者の『遊離』によって労働者の供給をふやす

のであり,同時に失業者の圧力は就業者により

多くの労働を流動させることを強制してある程

度まで労働の供給を労働者の供給から独立させ

るのである。」町

すなわち,資本が労働供給を増加させるのは,

1)構成高度化による労働者の「遊離」と, 2)失

業者の圧力による就業者の労働供給の増加,を

通じてである。この2)の事情は過剰人口の生産

49) Ibid., SS. 668-9. (『資本論』②, 833頁.)

50) /biム S.669. (『資本論』②.833-4頁。)

への補強要因とみなしうる。資本はこの2つの

要因によって労働供給を増加させつつ,他方で

労働需要を増加させる。しかし,こうした捉え

方は,抽象的にみれば正しいといえるにしても,

問題は,この一方の労働需要の増加と,他方の

労働供給の増加とが相殺, 「中和」されて,社

会全体の労働の現実の需給動向がどうなるのか,

という点なのであって,その点がここでも追求

されていないのである町。

そこで,以上にみたような第23章第3節にお

けるマルクスの過剰人口形成論を,われわれな

りに整理してみると,それは三つの論理水準に

おいて与えられているのではなL、かと思われる。

第1は,社会的総資本の可変部分の絶対的増

加傾向を認めつつ,その相対的減少から過剰人

口の形成を説明しようとする観点である。これ

はマルクス過剰人口論の基本的枠組をなすもの

であるが,この枠組だけをもってしては過剰人

口は説明しえない。

第2は,個々の生産部面における蓄積過程の

差異にもとづいて,過剰人口の形成を論じよう

とする観点である。しかしすでにみたように,

『資本論』第1部の過剰人口論としては,この

51)こうした考察の不十分性は第23章第2節末尾の次の叙

述にも窺える。 「正常な蓄積の進行中に形成される追加資本......は,特に,新しい発明や発見,一般に産業上の

諸改良を利用するための媒体として役立つ。しかし,元

の資本もいつかはその全身を新しくする時期に達するの

であって,その時には古い皮を脱ぎ捨てると同時に技術

的に改良された姿で生き返るのであり,その姿では前よ

りも多くの機械や原料を動かすのに前よりも少ない労働

量で足りるようになるのである。このことから必然的に

起きてくる労働需要の絶対的な減少は,……この更新過

程を通る資本が集中運動によってすでに大量に集積され

ていればいるほど,ますます大きくなるのである。/要

するに,一方では,蓄積の進行中に形成される追加資本は,その大きさに比べればますます少ない労働者を引き

寄せるようになる.他方では,周期的に新たな構成で再

生産される古い資本は,それまで使用していた労働者を

ますます多くはじき出すようになるのである。JIbid., S. 657. (f資本論』②, 819頁。)ここでは,原資本の更新に

よる労働供給の増大と,追加資本における労働需要の相

対的減少(絶対量としては逓滅的増加)という傾向が指

摘されている。これが個別資本についていわれているの

か.社会的資本についていわれているのかは措くとし

て,ここでもこうした運動が相殺された結果としての,

社会的資本の労働需要の動向こそが追求されるべきでは

なったのかと恩われるのである。

-96ー

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マルクスにおける窮乏化概念について

観点は適切ではない。

第3は,社会的資本の一般的労働需要の多面

的な変化に着目しようとする観点であって,そ

れは, 1)労働者の一方での反発,他方での吸収

を一般的に考察しようとする叙述, 2〕産業循環

の局面変転にそくして過剰人口の形成と吸収を

みようとする叙述などに窺うことができる。し

かし,この考察は,すでに指摘したように,不

十分なものにとどまっている。

それゆえまず,第3の観点からの考察をおし

進めて徴底化してみよう向。これによって,お

のずと,第3の観点からの考察と第1の観点か

らのそれとの関連をつけることができることに

なろう。

社会的資本が,構成高度化的蓄積を行なうと

すれば,一方での資本量の増加による労働需要

の増加と,他方での構成高度化による労働需要

の減少というこつの要因の関係によって,社会

的労働需要の絶対量は三つの形をとりうるであ

ろう向。 1)減少するばあい, 2)不変のばあい,

3)増加するばあい,である。これは,個々の資

本の労働需要と労働供給とが相互に「中和Jさ

れあった結果とみてよい。また,われわれはこ

のばあい,年々の労働者人口の増加をさしあた

り捨象するが,それについてはのちにふれるこ

ととしよう。

まず,社会的労働需要が構成高度化によって

絶対的に減少するばあいには,構成高度化から

直接に過剰人口が排出される。第2の,労働需

要が不変のばあいは,資本制生産にとっては偶

然的事態であって,早晩他の二つのばあいに行

52)以下,構成高度化の際に生ずる過剰人口の考察は,

平野厚生,前掲書,第7章の展開に基本的に依拠してい

る。なお,社会的資本全体の労働需要の動向を追求しよ

うとする,こうした考察方法は,第23章第1節において

マルクスが採っている方法と一致するものと思える。

53)フランス語版では"?'レタスば,社会的資本の労働需要

の動向についての,このような三つの場合の想定から,

構成高度化による過剰j人口形成の考察を始めている。 Cf.Karl Marx, Le Capital, traduction de M. J. Roy, entiをrementrevisee par l’auteur, Paris, Editeurs, Maurice Lachatre et CJe par Far Eastern Book-Selle四・ Publishers,Tokyo, 1979, pp. 277ff. (江夏・

上杉訳『フランス語版資本論』下巻,法政大学出版局,290頁以下。)

きっかざるをえない。第3の,社会的労働需要

が,構成高度化的蓄積によってもなお絶対的に

増加するばあいには一一そしてすでにみたよう

にこの事態がマルクスにあっては追求されてい

ないのだが一一,労働者の吸収の方が反発を上

回るととになる。そしてこの過程が続けば,そ

の結果は明らかであって,構成不変の蓄積にお

けるのと同様,労賃騰貴が生ずる。この事態は

さらに,剰余価値量の減少ー→蓄積の減少ー→

失業人口の発生→労賃低下という一連の過程

によって決着をつけられることになろう。かく

てこのばあいも,過剰人口の排出に結果せざる

をえないのである均。

われわれは,いちおう社会的資本が構成高度

化的蓄積を行なうことを想定して以上のように

述べたが,このばあい,個々の資本,あるいは

社会的資本が全体として,構成不変の蓄積を基

調として生産拡大を行なうことも,ありえない

こととして排除されるべきではないであろう。

また,マルクスのように, 「蓄積が,与えられ

た技術的基礎の上での生産のたんなる拡張とし

て作用する中休み期間は,短かくなっていく」均

とは,必ずしも想定する必要はないであろう。

構成不変の蓄積が,労働需要の増加の方向に作

用することは明らかであるから,それは以上の

過剰人口論の枠組に包摂しうるのである。

こうした理解にたつとき,第23章第1節の内

容は,二重の意味で,第3節の論理的基礎をな

すものとして捉えられることになろう。第1に,

構成高度化的蓄積と並んで,あるいはそれと交

替しつつ,構成不変の蓄積も行なわれうるとい

う点で。第2に,構成高度化的蓄積が一般的に

行なわれるばあいであっても,それが同時に労

54)平野厚生,前掲書, 247頁以下参照。なお,スウイー

ジーも過剰人口発生の窮極の保証を,賃金勝貴による蓄

積の「衰えJに求めているように恩われる。つまり機械

採用によっても資本の突発的な労働需要の増大を抑えら

れないばあいは,構成不変の蓄積と同じケースに帰着す

るとしているように思われる。 Cf.Paul Sweezy, The Theory of Capitalist Develoρment, Monthly Re-view Press, 1964, pp. 89-90. (都留重人訳『資本主義

発展の理論』,新評論, 109頁。)55) Das kゆital,Buch I, S. 658. (『資本論』②, 820

頁。)

-97ー

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働需要を絶対的に増加させるならば,やはり第

1節の構成不変の蓄積と閉じ過程が現われざる

をえないという点で。

だが,上記の三つのばあいが,どのように交

替して現われるのか,という点は必ずしも確定

する必要はない。それは蓄積論の課題と方法に

かかわっている。さきにもふれたように,蓄積

論は剰余価値論に続く形で,資本による労働支

配の深化の様相の考察に主限をおいている。こ

こでは,現実には複雑な機構と過程に媒介され

る資本蓄積の過程が,ただこの観点から切り取

られて考察されるのである。それゆえにこそ,

その課題が「労働者階級の運命」論に設定され

るのである。こうした考察の抽象性の下で、は,

もちろん,産業循環の過程における具体的な蓄

積のあり方は問題となしえない。ただ過剰人口

発生の窮極の根拠が資本蓄積の本性にもとづく

ものであることが示されればよい。その意味で

はこれはなお抽象的な考察にとどまるものであ

る。とはいえ,これによって,蓄積過程のより

具体的な展開の際に,資本制的生産拡大運動と

それが労働者に与える影響について歴史的な限

度が画されることになろう。

以上,第3の観点、からの過剰人口の考察を進

めたので、あるが,これは第1の観点における考

察をより具体化したものにすぎない。しかし

第3の観点からの考察と第1の観点からの考察

との関連は以上で尽きているわけではない。第

1の観点における可変資本の相対的減少という

要因は,過剰人口形成の背景をなすという点で,

やはり重要なのである。

その点に立ち入ってみよう。可変資本の相対

的減少という要因は,可変資本の増加速度を弱

めるが,これに対抗する運動としての資本蓄積

量の増加は,それじたい再び,可変資本の相対

的減少に作用するとし、う累乗効果をもっ。もっ

ともこの効果が顕著にあらわれてくるためには,

構成高度化の速度が問題とならざるをえないが,

この効果それじたいは否定しがたい。とすれば,

この要因は資本量の増大が労働需要の増大を結

果する際に,つねにその背後にあってそれを阻

- 98

止する内的要因として作用するであろう。労働

需要は増大するとしても,その度合は制限され

るのである。

このことに関連して,マルクス過剰人口論に

ついて留意すべき点がある。われわれはこれま

で労働供給要因については,資本蓄積の過程に

おける労働需要の減少に起因する労働者の解雇

だけを問題にしてきた。具体的には, 1)構成高

度化による労働者の直接的解雇, 2)労賃騰貴に

もとづく蓄積減少による労働者の解雇,という

こつのばあいである。これら以外の供給要因に

ついては,これを捨象してきた。だが,いま構

成高度化による可変資本の相対的減少という要

因が過剰人口の形成に及ぼす作用をみるために,

この点を取り上げなければならない56)。

まず明らかなことは,労働供給要因としては,

上記の二つのばあいのほかに,様々の要因が存

在する点である。例えば,年々の自然増加によ

る追加労働者も労働供給の一因をなすし,また

マルクスが第4節で指摘するような,資本の要

求する「適正年齢」をこえた労働者57),分業に

よる特化によって資本の労働需要に応じられな

い労働者,あるいは遅れた経営形態のために機

56)この点について萩原進氏は次のように指摘されている。 「マルクスの資本主義に特有の人口法則論は,ディ

マンド・アプローチ(労働需要面からの接近)だけから

構成されているのか,それとも需給関係論として構成さ

れているのか,という解釈論上の論点について,なおい

っそうの考究がなされる必要があろう。」 同氏 f窮乏化

論」,『資本]命を学ぶ』E,有斐閣, 1977年,所収, 253頁。

(強調は荻原氏のもの。) これは重要な指摘であると思

える。 『資本論』解釈上の問題としてならば,マルクス

が第l部第23章第3節で明示的に追加労働者人口に言及

しているという点で,マルクス過剰l人口論は, Tこんなる

「ディマンド・アプローチ」とはいえず, f需給関係論

として構成されている」という解釈が妥当ではないかと思われる。だがもちろんこのことは,マルクス過剰人口

論がわれわれの立場からみて,労働供給要因の考察なし

には成立しがたい,ということを必ずしも意味しないし,

少なくともマルクスの主観的意図からすれば,労働供給

要因の考案なしには過剰人口は説明しえないといった議

論は,批判さるべき対象ではあれ,採るべき筋合のもの

ではなかったであろう。さらに,われわれが本文で述ベ

るような労働供給要因の考慮ということと,この要因の

考察なしには過剰l人口の説明は不可能であるという議論

とは,無関係である。

57)もちろん絶対的な意味でではない。資本は安価で従順

な労働力,例えば年少労働者を欲する。

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マルクスにおける窮乏化概念について

械経営に敗れた部門の労働者等々もそうである。

これらの労働者が失業者に転落するのは,直接

には,資本の蓄積運動に由来する労働需要の減

少という事情によるのではない。

そこでこれらの供給要因を考慮にいれるばあ

いには,蓄積過程における労働需要の減少が労

働者の就業に及ぼす作用のうちに, 「すでに就

業している労働者をはじきだすとし、う比較的自

につく形」58)と「追加労働者人口を平素のはけ

口に吸収することが困難になるというあまり人

目にはつかないが効果は劣らない形」5めという,

二つの異なった作用を区別することが必要とな

ってくる。前者はいわば労働者の直接的排斥作

用であり,後者はいわば労働者の吸引抑止作用

である。この区別がなされるとすると,もはや

上にみたような,資本の蓄積過程における労働

需要の減少によって直接に失業者に転落したの

ではない,労働能力のある労働者の失業に,蓄

積運動から生ずる労働需要の減少という要因が

作用していない,とは決していえなくなってく

る。これらの失業者の就業を妨げるのは,一般

的基礎からいえば,やはり蓄積過程における労

働需要の減少だからである的。

一般的にいって,可変資本の相対的減少が労

働需要の増加率を弱めることは,もちろん労働

者の吸引抑止作用をもつであろう。しかし,こ

のような様々の労働供給要因を考慮するばあい

には,可変資本の相対的減少という要因は,た

んにこうした消極的な意味をもつにとどまらず,

過剰人口の形成について積極的な意味をももっ

てくる。というのは,この要因は,構成高度化

によっても労働需要が増大するばあいに,少な

くともこの需要が,さきにみた様々の源泉から

の労働供給を決定的に上回り始める時期に至る

までは,労働者を失業状態に押え込む方向に作

用するからである。

したがって,可変資本の相対的減少という要

58), 59) Das Ka.ρital, Buch I, S. 659. (『資本論』②,

821頁。)

60)マルクスは,こうした直接的原因の背後にある,失業

の抽象的ではあるが基礎をなす根拠として労働需要の減

少という要因を考えていたものと恩われる.

因は,それが絶対的減少をもともなって労働者

の直接的排斥作用として現われないばあいにも,

労働者の吸引抑止作用として過剰人口形成の方

向に作用しうるのである。それゆえ,こうした

作用をもっ労働需要の相対的減少という事情を

一般的基礎としつつ,われわれが第3の観点に

おいてみたような労働需要の多面的変化の運動

が展開されていくことになる。その意味で可変

資本の相対的減少という要因は,過剰人口創出

のいわば環境をなすものといえよう。

われわれは,過剰人口の形成についておよそ

以上のように考えるのであるが,こうした理解

にたつならば,過剰人口の「果進的」生産とい

うマルクスの主張には一定の留保が付されなけ

ればならないであろう。構成高度化的蓄積から

一義的に過剰人口が発生するわけではないし,

第3の観点からの考察のばあいにも,過剰人口

は絶えざる吸収と反発のうちに形成されるもの

といえるからである。ただ,一般的には,この

吸収と反発との量的規模,およびこの吸収と反

発とにおそわれる生産諸領域は拡大するといえ

るであろう。そしてこの過程を長期的にみると

き, 「累進性」が主張できるものと思われる。

しかしそうである以上,この「累進性」にはか

なりの限定が付されなければならないことにな

ろう。

なお最後に,あるいは蛇足となることをおそ

れつつ,確認しておくべき論点がある。構成高

度化による過剰人口の形成には,一見すると超

歴史的な側面があるようにみえる。労働生産力

の発展につれて,一定量の生産手段を動かすの

に必要な労働者数が減少すること,またその際,

この生産手段に体化された社会的労働量とこの

労働者を維持すべき社会的労働量の比率が,長

期的には後者の相対的減少傾向を示すことも,

あらゆる社会に共通の事柄であろうからである。

しかし,このことから生産力の発展がつねに労

働者の過剰化をもたらすと結論するのはむろん

誤りである。

労働者の「過剰化」とは,生産手段の資本制

的充用から,より正確には資本制的生産関係か

- 99ー

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ら生ずる事態である。

構成高度化によって失業者が生じるばあい,

新たに導入される生産技術,例えぽ機械は,就

業者の労働を軽減するために導入されるのでは

ない。もしそれによって労働が軽減されるとす

れば過剰人口は生じない。この点に構成高度化

にもとづく過剰人口の歴史的性格がある。つま

り,生産のための機械導入が,その目的からみ

て,直接生産者とは無縁の形で行なわれる点に,

過剰人口の発生根拠がある61)。

構成高度化的蓄積によってもなお,社会的労

働需要の増大を避けえないばあいには,構成不

変の蓄積のばあいと同じく,労賃上昇一→蓄積

減少→過剰人口の排出,という過程を経るこ

とになるが,このぼあいに過剰人口が発生する

根拠は,すでにみたように,労働者じしんの生

産した生産手段が彼から独立して価値増殖運動

に謹進するという点にある。

すなわち,いずれのばあいにも,過剰人口発

生根拠は,窮極的には同じである。問題の根源

は,直接生産者から独立化された生産手段が私

的所有の形式のもとで,価値増殖のための生産

拡大運動に従事するという点にあるのである。

VI

ここでは第23章第4節において,いわゆる窮

61)このばあい,われわれは資本が,過剰人口の排出を,

あるいは労賃騰貴の回避を直接的な目的として,新たな

生産方法を導入するとは想定していない。したがって,

構成不変の祷積の下で生ずる労賃騰貴を回避するために

資本は構戒高度化的蓄積を行なう,という形で蓄積の二

つの!策式を関連づける見解には賛同しえない。このよう

な見解としては例えば,谷口正厚「相対的過剰人口概念

について」『経済学雑誌』(大阪市立大)第72巻第2号,

1975年がある。

たしか:二マルクスは上のような形での機械採用の事例

をひきあいに出している (Vgl.Das Kaρital, Buch I, SS. 667-8,『資本論』②, 831ー2頁)し,現実にはこう

した例;ま無視することはできないであろう。だが,第l

部の資本蓄積論では,資本が機検探用などによって構成

高度化的蓄積を行なう動機は,相対的剰余価値の生産に,

あるいはせいぜい具体的にいっても特別剰余価値の獲得

に求められなければならないであろう。実際マルクスも

第23章第2・3節ではそうした一般的な形態での構成高

度化を想定していると思えるのである。

乏化の規定がし、かなる形で与えられているのか,

を具体的に考察する。

第4節冒頭には,過剰人口の諸形態について

の次のような指摘がある。

「相対的過剰人口がときには恐慌期に急性的

に現われ,ときには不況期に慢性的に現われる

というように,産業循環の局面変換によってそ

れに押印される大きな周期的に繰り返し現われ

る諸形態を別とすれば,それにはつねに三つの

形態がある。流動的,潜在的,停滞的形態がそ

れである。」62)

まずここで問題となるのは,三形態に総括さ

れる「固定的」過剰人口と,産業循環の変動に

ともなって形成される,いわば周期的な過剰人

口との関連である。上の指摘から判断するかぎ

り, 「固定的」過剰人口と,周期的な過剰人口

とを区別することは,マルクスにそくした理解

であるようにみえる。だが,マルクスの具体的

な叙述に注意してみると, 「固定的」過剰人口

なるものは,周期的過剰人口といちおうは区別

されながらも,決してそれと無関係に存在する

ものとされているわけではないことがわかる。

その点を流動的,潜在的形態,および受救貧民

についてみておこう。

流動的形態について。 「近代産業の中心…で

は,労働者はときにははじきだされ,ときには

いっそう大量に再び引き寄せられて,生産規模

にたいする割合では絶えず減っていきながらも,

だいたいにおいて就業者の数は増加する。」63)

潜在的形態について。 「農村人口の一部分は

絶えず都市プロレタリアートまたはマニュファ

クチュア・プロレタリアートに移行しようとし

ていて,この転化に有利な事情を待ちかまえて

いるのである c」64〕

受救貧民 Pauperismusについて。 「第1は

労働能力のあるものである。イギリスの受救貧

民の統計にさ.っと目を通しただけでも,その数

が恐慌のたひ争に膨張し,景気の回復ごとに減少

100ー

62), 63) Das Kapital, Buch I, S. 670. (『資本論』②,

835頁。)

64) Ibid., S. 671. (『資本論』②, 83←7頁。)

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マルクスにおける窮乏化概念について

しているということがわかる。第2は孤児や貧

児である。彼らは産業予備軍の候補で,たとえ

ば1860年のような大興隆期には急速に大量に現

役労働者主要に編入される。」65)

みられるように,これらの「固定的」過剰人

口は,産業循環の変動に対応して増減するとさ

れている。すなわち,流動的形態では,産業循

環における労働者の吸収と反発の傾向が指摘さ

れ,また潜在的形態では,農村過剰労働者が都

市への移動に「有利な事情」を待ちうけている

とされ,したがって都市に労働需要が存在する

ばあいには,この過剰労働者が動員されること

が示唆されている。さらに受救貧民は景気に敏

感に対応するとされている。停滞的形態につい

ていえば,これはその就業がきわめて不規則と

はいえ就業労働者なのであるから向,これが景

気の変動と無関係に存在するとは思われない。

それゆえ「固定的」過剰人口なるものは,い

わゆる周期的な過剰人口と別個に,それと並ん

65) Ibid., S. 673. (『資本論』②, 838頁。) また次のよう

にもいわれる。 「貧民群の干満運動は産業循環の周期的

な局面変換を反映する。jIbid., S. 683. (『資本論J②,853頁。)

66)停滞的形慈は,「現役労働者軍の一部をなしているが,

その就業はまったく不規則であ」り, 「労働時間の最大

限と賃金の最小限Jによって特徴づけられる。 Ibid.,S.

672. (『資本論』②.837頁。)だが,就業の不安定によっ

て過剰人口に属するのは,停滞的形態ばかりではない。

「このように,救貧法監評官の報告書には,就業の不安定や不規則 dieUnsicherheit und UnregelmaBigkeit

der Beschaftigung,労働中絶の頻発と長期継続,この

ような相対的過剰人口のいっさいの徴候が,それぞれア

イルランドの農業プロレゲリアートの苦痛として現われ

ている。足、いおこせば,われわれはイングランドの農村

プロレダリアートのところでも同様な現象に出合ってい

る。JIbid., S. 736. (『資本論』②, 925頁。)みられるよ

うにこれは潜在的形態についても指摘されている。だか

ら,不安定就業者;土停滞的形態にかぎられるわけではな

し一般に「どの労働者も,彼が半分しか就業していな

いとか,またはまったく就業していない期聞は,相対的

過剰人口に属する」 (Ibid.,s. 670.『資本論』②,835頁)

と解した方が妥当のように思える。この点については,

津田美徳子「相対的過剰人口の存在形態についてJ『経

済学雑誌』(大阪市立大)第70巻第3号, 1974年,が参

照されるペきであろう。

なお過剰l人口の具体的把鐙にさいしては,もちろんこ

のような不安定就業者層を考慮の外におくことは許され

ないであろう。日本についてこうした分析を行なった労

作として,江口英-r.現代の『低所得層』』上・中・下,未来社, 1979-80年,をあげておきたい。

で存在するわけで、はないであろう。マルクスが

先述のように両者を区別したのは,循環的変動

から抽象された次元で過剰人口の諸形態を提示

するという意図を示すものではないであろうか。

いわば両者は考察次元を異にする規定なのであ

る。その点を具体的にいえば, 「固定的」過剰

人口なるものは,周期的過剰人口がそこから吸

引されそこへ反発されるという過剰人口の存在

基盤において考察された過剰人口である。つま

り循環的に反発と吸収を繰り返す過剰人口は,

それを資本蓄積の長期的動向にそくしてみれば,

このような場所に,このような形態で縛りつけ

られている,というのがマルクスの捉え方では

ないであろうか。

以上のように理解できるとすれば,「固定的」

過剰人口は,産業循環とかかわりなく恒常的に

存在する失業者を意味しはしないであろう。た

だ,すで、にみたように蓄積の進展とともに,過

剰人口が吸収・反発される規模とこの変動にお

そわれる生産諸部面が拡大するというかぎりで

は,叙上の意味での固定的過剰人口は増大する

といえる。とはし、え,それはしばしば批判され

るような,恒常的に存在する失業者の一方的な

堆積を意味するものではないことになる。

固定的過剰人口の概念をこのように了解した

うえで,いわゆる窮乏化法則を定式化している

と思われる,よく知られた二つの文節を検討し

よう。

「社会的な富,現に機能している資本,その

増大の規模とエネルギー,したがってまたプロ

レタリアートの絶対的な大きさとその労働の生

産力,これらのものが大きくなればなるほど,

産業予備軍も大きくなる。自由に利用されうる

労働力は,資本の膨張力を発展させるのと同じ

原因によって,発展させられる。つまり,産業

予備軍の相対的な大きさは,富の諸力といっし

ょに増大する。しかしまた,この予備軍が現役

労働者軍に比べて大きくなればなるほど,固定

的過剰人口はますます大量になり,その貧困

Elendはその労働苦に正比例*する。最後に,

労働者階級の極貧層と産業予備軍とが大きくな

-101ー

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ればなるほど,公認の受救貧民層もますます大

きくなる。これが資本制的蓄積の絶対的・一般

的法則である。」67)

一見して明らかなように, 「資本制的蓄積の

絶対的・一般的法則」は,過剰人口の増大およ

びその「貧困」の増大のうちに捉えられている。

マルクスは視点を,産業循環の諸変動によって

形成される産業予備軍から, 「固定的」過剰人

口へ,さらに受救貧民へと移行させつつ,労働

者の「貧困」を捉えている。

だがこれに反し,次の文節は,このような窮

乏の捉え方とは異なるようにみえる。

「われわれは第4篇で相対的剰余価値の生産

を分析したときに次のようなことを知った。す

なわち,資本制的な体制のもとでは労働の社会

的生産力を高くするための方法はすべて個々の

労働者の犠牲において行なわれるということ,

生産の発展のための手段は,すべて,生産者を

支配し搾取するための手段に一変し,労働者を

不具にして部分人間となし彼を機械の付属物

に引き下げ,彼の労働の苦痛で労働の内容を破

壊し独立の力としての科学が労働過程に合体

されるにつれて労働過程の精神的な諸力を彼か

ら疎外するということ,これらの手段は彼が労

働するための諸条件をゆがめ,労働過程では彼

を狭量陰険きわまる専制に服従させ,彼の生活

時聞を労働時間にしてしまい,彼の妻子を資本

のジャガノート車の下に投げこむということ,

これらのことをわれわれは知ったのである。し

かし剰余価値を生産するための方法はすべて

同時に蓄積の方法なのであって,蓄積の拡大は

すべてまた逆にかの諸方法の発展のための手段

になるのである。だから,資本が蓄積されるに

つれて,労働者の状態は,彼の受ける支払がど

67) Das kゆital,Buch I, SS. 673-4. (『資本論』②,

839頁。)引用文中の「正比例」は, ドイツ穏現行版では「反比例 imumgekehrten Verhaltnis zu」となってい

るが,フランス語版におけるように「正比例Jの方が正

しいと思われる。なお,この点とさらにこのパラグラフ

の脱落箇所をめぐる『資本論』諸版の異同については.

佐藤金三郎「『資本制的蓄積の絶対的・一般的法則』の定

式化の『訂正』について」『経済学雑誌』(大阪市立大)

第55巻第5号, 1966年,が詳しい。

うであろうと,高かろうと安かろうと,悪化せ

ざるをえないということになるのである。最後

に,相対的過剰人口または産業予備軍をいつで

も蓄積の規模およびエネルギーと均衡を保たせ

ておくという法則は,へフアイストスのくさび

がプロメテウスを岩に釘づけにしたよりももっ

と固く労働者を資本に釘づけにする。それは資

本の蓄積に対応する貧困Elendの蓄積を必然、的

にする。だから,一方の極での富の蓄積は,同

時に反対の極での,すなわち自分の生産物を資

本として生産する階級の側での,貧困,労働苦,

奴隷状態,無知,粗暴,道徳的堕落の蓄積なの

である。」68〕

まずここで注意をひくのは,窮乏化の内容が,

必ずしも過剰人口の態容それじたいのうちに捉

えられているのではないことである。ここでは,

相対的剰余価値論で示された直接的生産過程に

おける労働者の存在態容,すなわち,労働者の

資本への従属,機械への付属物化,労働の精神

的内容の疎外等々の抑圧状態、が, 「剰余価値を

生産するための方法はすべて同時に蓄積の方

法」であるとし、う規定をうけて,それじしんの

過程によって,再生・固定化されざるをえなし、

ことが示され,それをもってまず労働者の状態

悪化が結論されている。引用文末尾にいうとこ

ろの「貧困,労働苦,奴隷状態,無知,組暴,

道徳的堕落」などもすべて,機械制工場内にお

ける労働者の状態の類いであり 69),それを相対

的剰余価値の分析は余すとこるなく示した。そ

してここでその「蓄積」がいわれるのは,この

状態が剰余価値の生産そのものによって永続化

68) Das Kapital, Buch I, SS. 674-5. (『資本論』②,

840頁。)69)われわれはさきに,生産過程における搾取という事態

に窮乏化の本源的規定をみた。ここではその「窮乏jが

やや具体的にこのような形で述べられている。だがもち

ろん搾取の形態は資本制生産の発展とともに多様化するのだから,窮乏化の具体的形態も多様な展開をみせるの

は当然である。われわれのいう意味での「窮乏化」は,

こうしたその具体的現われとは区別されなければならな

い。同じことは,過剰人口の存在そのものを窮乏と規定

するばあいにもいえるのであって,その「窮乏」規定は,

過剰人口がいかなる窮乏諸形態にあるのか,とし、う問題

とは区別されなければならない。

-102-

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マルクスにおける窮乏化概念について

されるからである。とすれば,これは搾取過程

じしんが再び搾取過程をうみだし措定するとい

う,われわれがすでにみた蓄積論における窮乏

化の基本内容に帰着する。ただこの搾取過程が,

構成高度化という考察局面に対応して,機械制

工場とし、う具体的場面で考えられているにすぎ

ない。そしてまたこのかぎりでは,この窮乏化

の内容に過剰人口の契機が介在する余地はない

のである。

だがこのばあい,マルクスが「貧困,労働苦,

奴隷状態,無知,粗暴,道徳的堕落」などの労

働者の状態の固定化に,過剰人口が「労働者を

資本に釘づけにする」とし、う形で作用する,と

している点が注目されるべきであろう。この過

剰人口の作用は,上の窮乏化の基本規定にはと

どまりえない内容をもつのであって,具体的に

はそれは, 「産業予備軍は沈滞や中位の好況の

時期には現役の労働者寧を圧迫し,また過剰生

産や発作の時期には現役軍の要求を抑制する」7め

といった機能として現われる。

以上の第4節の検討が妥当で、あるとすれば,

第4節におけるマルクスの窮乏化概念の内容は,

過剰人口の生産という点にひきつけてみれば,

1)過剰人口の増大という点と, 2)過剰人口の存

在による就業労働者の資本への従属的地位の固

定化とし、う点にみられている,とすることがで

きょう。

VII

そこで,このような過剰人口の存在が何故労

働者の「窮乏化」の極点をなすのか,という点

に考察を加えてみよう。その際われわれは,叙

上の内容をもっ「窮乏化」規定を資本蓄積論全

体の論脈の中に位置づけてみなければならない。

とりわけわれわれは,資本蓄積論の中核的論点

をなす,資本制的領有法則とそれにもとづく階

級関係の再生産という論点と,相対的過剰人口

論との内的論脈に注目しなければならないであ

ろう。

70) Ibid., S.飴8.(『資本論』②, 832頁。)

まず,過剰人口の増大という第1の窮乏化の

内容と,資本制的領有法則との論理的関連を考

察してみよう。この両者の関連を,マルクスの

意図にそくして辿ることはそう困難ではない。

第23章第4節でマルクスはいう。

「ますます増大する生産手段量が,社会的労

働の生産性の増進のおかげで,ますますひどく

減ってし、く人力支出によって動かされうるとい

う法則一この法則は,労働者が労働手段を使う

のではなくむしろ労働手段が労働者を使うとい

う資本制的基礎の上では,労働の生産力が高く

なればなるほど,労働者が自分たちの雇用手段

Beschaftigungsmittel に加える圧力はそれだ

け大きくなり,したがって,労働者の生存条件,

すなわち他人の富の増殖のためにzurVermeh-

rung des fremden Reich turnsまたは資本の

自己増殖のために自分の力を売るということは

ますます不安定になるということのうちに表わ

されている。」71)

また第3節では次のようにもいわれている。

「一方で資本の蓄積が労働にたいする需要を

ふやすとき,他方ではその蓄積が労働者の『遊

離』によって労働者の供給をふやすのであり,

同時に失業者の圧力は就業者により多くの労働

を流動させることを強制してある程度まで労働

の供給を労働者の供給から独立させるのである。

この基礎の上で行なわれる労働の需要供給の法

則の運動は,資本の専制を完成する。それだか

らこそ,労働者たちが,自分たちがより多く労

働し,より多く他人の富を生産し,自分たちの

労働の生産力が増進するにつれて,自分たちに

とっては資本の価値増殖手段としての自分の機

能までがますます不安定になる sogerihre Fu-

nk tion als V erwertungsmi ttel des Ka pi ta ls

immer prekarer flir sie wird とし、うのは,

いったいどうしてなのか,という秘密を見抜い

てしまうやいなや,…資本とその追従者である

経済学者とは, 『永遠な』いわば『神聖な』需

要供給の法則の侵害について叫びたてるのであ

71) Ibid., S. 674. (『資本論』②, 83ト 40頁。)

-103ー

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る。」72)

これらの叙述では,資本の蓄積につれて,

「資本の自己増殖のために自分の力を売る」と

いう,労働者の賃金労働者としての地位そのも

のが,ますます不安定になることが強調されて

いる。だがここで注目すべき点は,蓄積が他人

労働の累増的領有過程として捉えられ,過剰人

口がこの領有過程の帰結として位置づけられて

いることである問。しかし,すでに明らかなよ

うに,この他人労働の領有過程は,より正確に

いえば,他人の不払労働による他人の不払労働

の領有過程である。だからここに,資本制的領

有法則の展開として,過剰人口論を位置づけよ

うとするマルクスの視点、を認めることができる

のである。その点に立ち入ってみよう。

すでにみたように,資本の再生産は同時に資

本制的な階級関係の再生産でもある。この資本

制的階級関係の再生産の内的根拠をなすものは,

他人の不払労働による不払労働の領有という,

資本の領有法則である。このような資本の領有

法則が貫徹せしめられる結果として,生産過程

の終りには,自己の労働実現条件から切断され

た,その意味で「窮乏化」した労働者が継続的

に排出されてくることになる。そして拡大再生

産過程のばあいには,この過程が量的に拡大さ

れた形で貫かれることになる。

だが,資本蓄積のより現実的な過程は,労働

者の失業とL、う事態を必然的に生ぜせしめる。

このぱあいには,直接生産者はたんに,自己の

創造した生産物を資本として自己に対立的に措

定することによって,自己を生産手段から分離

された窮乏化した個人として措定する,といっ

た状態にあるのではない。事態はより進展して

いる。自己の創造になる富が自己の雇用手段と

して機能しないのである74)。その結果は,彼の

72) Ibid., S. 669ー70.(『資本論』②, 833-4頁。)73) 「経済学ば,このように労働者の相対的過剰l人口の不断の生産を資本市j的蓄積の一つの必要物として説いた後に,適切にも一人のオールドミスの姿を借りて,自分のっくりだした追加資本によって街頭に投げだされた「過剰者jにたいして,彼女の資本家の『美しい理想』に,次のような言葉を語らせる」云々 。 Ibid.,S. 664. (『資本論』②, 826頁。)

104

賃金労働者としての存在資格の否定であって,

彼は生産過程とは全く無縁の位置におかれ,そ

のことによって彼は生活手段すなわち自己の生

存条件からも排除されることになる。彼はもは

やたんに,賃金労働者として富の創造可能性を

資本に継続的に奪われるとし、う状態にあるので

はない。およそ富なるものから完全に排除され

ているのである。だから彼は貧民である。

資本の領有法則は,他人の不払労働による不

払労働の領有として示される。したがって,そ

の貫徹形態である資本蓄積の過程は,資本の側

では「非労働の所有」の拡大的展開として現わ

れ,労働の側では「労働の非所有」の累積とし

て現われる。いま,上の過程をこれに倣って表

現するとすれば,一方での「非労働の所有」は,

他方での「労働の非所有」を招来するだけでは

なく, 「労働の非労働」をも惹起するもの,と

いわなければならないであろう。資本の蓄積過

程にあっては,直接生産者は,自らの労働者と

しての規定性を充実させればさせるほど,逆に

それだけ労働者としての規定性を奪われていく

という顛倒的な事態が現われてくるのである。

資本制的領有法則の展開は,生産における主体

と客体の関係の顛倒を,この点まで進展せしめ

る。

これが過剰人口論における労働者の窮乏化の

第1の内容である。そしてこの内容は第2の内

容によって補完される。すなわち,労働者の現

役軍と予備軍との分裂が固定化されることによ

74)もちろん本文のような表現;主資本制的立場からのものであって,それじしんのうちに顛倒を含んでいる。 「彼(リカ- Fウ一一引用者)の『資本,または労働を雇用する手段』という表現は,事実上,彼が資本の現実の性質を把握している唯一のものである。彼自身は……資本市j的な立場にまったくとらわれているのだから,この顛倒,この取り違え Quidproquoは,彼には自明のことである。労働の客体的な諸条件一一それに加えて労働そのものによってっくりだされた一一原料や作業用具は,労働がそれ自身の手段として充用する手段ではなし反対に,それが労働を雇用する手段なのである。それらは労働によって充用されるのではなしそれらが労働を充用するのである。j Karl Marx, Theorien i. ber den

Mehrwert, Tei! III, Marx-Engels Werke Bd. 26,

III, Dietz Verlag, S. 111.岡崎・持永訳『剰余価値学説史』,第3分冊(『マルクス・エングIレス全集』, 大月書店,第26巻第3分冊) 146頁。

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""'?Iレタスにおける窮乏化概念について

って,現役軍の欲求の封殺と彼らの過度労働へ

の傾向が生ずる。マルクスにこの点を語らしめ

れば,次のようになる。

「労働者階級の就業部分の過度労働はその予

備軍の隊列を膨張させるが,この予備軍がその

競争によって就業部分に加える圧力の増大は,

また逆に就業部分に過度労働や資本の命令への

屈従を強制するのである。労働者階級の一方の

部分が他方の部分の過度労働によって強制的怠

惰という罰を加えられるということ,またその

逆のことは,個々の資本家の致富手段になり,

また同時に,社会的蓄積の進展に対応する規模

での産業予備軍の生産を速くする。」75)

こうして資本制的な労働が,一方で労働者の

存在資格を奪うことによって彼を貧民化すると

すれば,この貧民の存在は逆に反作用的に,就

業者の資本への従属状態を固定化させる。ここ

に直接生産者と生産手段との顛倒的な関係は,

その極点に達することになる。

このような賃金労働者の在り方が,彼らと彼

らのっくりだした生産手段との分離とし、う資本

概念にその基礎をもつことはすで、にみた。だか

らそれは,第21・第22章における労働者の窮乏

化規定の発展なのであり,その極限をなすので

ある。マルクスがすでに第21・第22章において,

蓄積にともなう「労働者階級の運命」を抽象的

に示しているにもかかわらず,第23章でその考

察を課題として掲げる理由もこの点にある。

同時に,マルクスの資本主義批判の頂点、が,

何故「資本制的蓄積の一般的法則」として,つ

まりいわゆる窮乏化法則として与えられている

のかも明らかとなる。なるほど資本制的生産様

式に先行する諸時代に,生産・生活手段を奪わ

れた多数の貧民の存在を指摘することはたやす

い。しかし資本制的生産様式における貧民は,

およそこれとは異質の存在である。この生産様

式は,生産者と生産手段との完全な,不断の分

離を基礎としている。したがってこの生産様式

の下では,この貧民の存在は,生産にとって偶

75) Das kゅital,Buch I, S. 665-6. (『資本論』②,

829頁。)

-105

然的な,外的なものとして現われるのではない。

むしろ生産者がより多く剰余労働を遂行し,生

産拡大が進めば進むほど彼らの貧民化の機会が

増大することになる76)。

これまでの考察から明らかになることは,マ

ルクスの窮乏化概念は,実質賃金の低下や生活

水準の悪化等々の外面的現象を指すものではな

く,資本制的搾取とそれにもとづく生産者と生

産手段との分離とし、う事態を指すものであるこ

とである。つまり一言でいえば,それは資本制

的生産関係そのものであり,過剰人口は,この

生産関係の展開という意味で窮乏化の最終的表

現なのである。

こうした形で窮乏化論を生産関係そのものの

うちに捉えるのでないとすると,窮乏化論その

ものに合意されていたマルクスの意図が歪曲さ

れるだけではなく,窮乏化論を資本主義の一般

的な理論問題として扱う意味は殆ど存在しなく

なるのではないか,と思える。例えば窮乏化論

を労働力の価値以下への賃金の不断の低下傾向

と解するとすれば,それは,たびたび指摘され

るように, 『資本論』の展開を全体としては否

定することになる。生活水準や実質賃金水準に

ついていえば,いわゆる景気循環という観点か

らしてもそれらは絶えず変動するといえるし,

またやや長期的な観点からしても,資本主義の

圧倒的生命力からすればそれらが上昇すること

は当然、ありうることである。こうした点以外に

76) 「種々異なった社会的生産様式においては,人口と過

剰人口の増大の種々異なった法則が存在するが,この後

者{土貧民層と同一である。この種々の法則を生産諸条件

にたいする,あるいは生きた個人との関連で考察すれば

社会の成員としての個人の再生産諸条件にたいする種々

のふるまいの様式に,単純に還元すベきである。という

のは,彼は社会のなかでだけ労働し領有するのだからで

ある。個々別々の個人についてまたは人口の一部につい

て,このような諸関係を解体することは,彼らを,この

一定の基礎の再生産的諸条件の外におき,したがって過

剰人口として,かったんに財産がないばかりではなく,

労働によっても生活手段を領有することができないもの

として,したがって貧民として措定することになる。貧

民層が労働そのものの結果として,労働の生産力の発展

の結果として現われるのは,資本にもとづく生産様式においてだけである。JGrundrisse, S. 498. (『要綱』 Ill.546 7頁。)

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窮乏化の現象を求めていくとしても,それは具

体的な労働者の状態分析の諸項目のうちに窮乏

化論を拡散させるにすぎないのではないかと思

われる77〕。

それゆえ,いわゆる窮乏化法則は,もしそれ

を通俗的な資本主義批判に庭めたくないのであ

れば, 『資本論』第1部の階級関係論の方法と

体系構成のうちにその意味を確定しなければな

らないと思われるのである。

77)もちろんわれわれは,資本市住産の具体的発展局面における労働者の状惣の実証分析の重要性を否定するわけ

ではない。ただこうした分析はそれじたいとしては,労

働者にとって資本の蓄積とは何であるのか,総じて彼に

とって資本とは何を意味するのか,という点を,資本市l生産の本質的な構造との関連で示すものではない。マル

クスの窮乏化概念は,しかし,こうした資本制的生産関

係の理論的表現として与えられているのである。

-106ー