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明治大学教養論集通巻511 (2016 ・1) pp.49-99 キケロー裁判弁説の精神史的考察 一一政治闘争,正義, ヒューマニズム一一 角田幸彦 精神の理念はキケローと共にローマに注入され,その後長きにわたっ てヨーロッパにおいて勝利の行進を続けた。 (V.Buchheit Ciceros Triumph des Geistes in: Gymnasium 76 (1 969)) 1 2010 6 月,私は私のキケロー研究の仕上げという決意のもと『キケロー 裁判弁説の精神史的考察j (全 702 頁)を出版した。そして 2014 6 月『哲 学者としての歴史家ブルクハルト一一プラトン,オウィディウス,ルーペン ス,精神史と共にーーj (全 893 頁)も,前著の序文で次なる公刊を予告し た通り上梓できた。この二つの公刊の後に『ホメロス 人と思想、』に早々と はや 着手している毎日となっており,早新作の一つの章に収める内容をこの 6 27日に 400 字原稿で一応書き上げた。ホメロスの幅宏い視界,深い人間省 察,見事な「語り J(文章), しかも彼の哲学(全体知への統合的眼)は,私 には日々キケローに連なっているという思 L いを抱かせてきた。キケローの 「語り」は彼の裁判弁説に,敢えて言えば,ホメロス的滋味を湛えて展開さ れていることに我乍ら驚くに及んだ。イタリアの「キケロー」たるヴィーコ のホメロス把握は,誰も言わないが,完全な誤解である。ホメロスは感性的 な思考にとどまっていたとヴィーコは言ったからである。そしてホメロスは

キケロー裁判弁説の精神史的考察明治大学教養論集通巻511号 (2016 ・1) pp.49-99 キケロー裁判弁説の精神史的考察 一一政治闘争,正義,

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明治大学教養論集通巻511号

(2016・1)pp.49-99

キケロー裁判弁説の精神史的考察

一一政治闘争,正義, ヒューマニズム一一

角田幸彦

精神の理念はキケローと共にローマに注入され,その後長きにわたっ

てヨーロッパにおいて勝利の行進を続けた。 (V.Buchheit, Ciceros

Triumph des Geistes in: Gymnasium 76 (1969))

1

2010年 6月,私は私のキケロー研究の仕上げという決意のもと『キケロー

裁判弁説の精神史的考察j(全 702頁)を出版した。そして 2014年 6月『哲

学者としての歴史家ブルクハルト一一プラトン,オウィディウス,ルーペン

ス,精神史と共にーーj(全 893頁)も,前著の序文で次なる公刊を予告し

た通り上梓できた。この二つの公刊の後に『ホメロス 人と思想、』に早々とはや

着手している毎日となっており,早新作の一つの章に収める内容をこの 6月

27日に 400字原稿で一応書き上げた。ホメロスの幅宏い視界,深い人間省

察,見事な「語りJ(文章), しかも彼の哲学(全体知への統合的眼)は,私

には日々キケローに連なっているという思Lいを抱かせてきた。キケローの

「語り」は彼の裁判弁説に,敢えて言えば,ホメロス的滋味を湛えて展開さ

れていることに我乍ら驚くに及んだ。イタリアの「キケロー」たるヴィーコ

のホメロス把握は,誰も言わないが,完全な誤解である。ホメロスは感性的

な思考にとどまっていたとヴィーコは言ったからである。そしてホメロスは

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野蛮な時代を描いたと彼は決め付けたからである。ホメロスの哲学性がヴィー

コには全く押さえられなかった。ホメロスについての草稿を書き終えて,先

の私のキケロー書をばらばら捲って気分転換を図って,私は改めてキケロー

の語りの芳香と響き良さにホメロス性を感じた。

精神史 CGeistesgeschichte.History of Ideas)について先ず述べるなら,

哲学を哲学史の枠から引き上げて,様々な領域,そして時代を包む全体的雰

囲気,発想、,意欲へ引き寄せて考えようとする構えのことである,と一応し

fこL、。

先述したホメロス草稿を書き終え,私はキケローに関する私の著作を散読

すると同時に,私同様に精神史的哲学ぞ標梼している坂部恵の文献表に記し

た著作の三冊が,私のホメロスへの旅とかつてのキケローの,特にキケロー

の弁論の数々(元老院,民会,裁判)への学びの日々に深く契合しているこ

とに驚いた。坂部(元東京大学哲学科教授〕とは,私の寄いた「景観哲学受

目指して』を贈呈した際に, 1時間程桜美林大学の氏の研究室で論談させて

いだいたことがある。氏の文献表⑮,⑮,⑫の三著は 10年以上ち前に購入

したものの,心に対話的喰い込みを見せ,夢中になって読み続けたのは今回

が初めてであった。二日半で読了し,ノートに感銘した文章を筆写もした。

成穏と思う所は多いが,私の学風に合う文言として次のもののみ再録する。

日本の哲学専門研究者たちが,微温的な環境のなかで,マックス・ウェー

ノfーのいう「魂なき専門人」としての自己形成をむしろ進んで競いあっ

ているとすれば,個別研究のレベルは上がるにせよ,それこそ「哲学の

終駕Jについて論じ宣告する聞もないままに,それをみずから好んで呼

び寄せているとしかわたしにはおもえない九

更に坂部は正しくキケローにはじめて実現された〈狭義〉の哲学を踏み出

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た広義の〈フィロソフィ一〉の決定的重要さを認めている。広義のフィロソ

フィーとは狭義の哲学,芸術,文学,宗教,倫理学を包むものとしている坂

部であるがぺしかし坂部のこの把握ではまだ真の意味で広義のフィロソフィー

が見えていなL、。キケローを先ず呼び出すなら, 1"彼の広義のフィロソフィー」

(豊かな愛知活動と言い直してもよ L、)には正しくバロック的多彩さが示さ

れている。ギリシア・へレニズ‘ムの哲学史の正確で平衡感覚に貫かれた知見,

ソクラテスの新たな発見,長敬に満ちたプラトンの吸収,ギリシアの雄弁術・

修辞法のこの上ない謙虚な学び,詩作に示された言語感覚,宇宙論への心の

こもった関心一一キケローはプラトンの宇宙論『ティマイオス』のラテン語

訳も作った一一,ギリシアの歴史書の熟読,法学者に見劣りしないローマ法

全体の理解一一彼はローマ法概論にも手を染めた一一,ヘレニズムの倫理学

やギリシアの神々についての諸学説の理解,国家哲学・法哲学のオリジナル

な形成そして裁判の火中の栗を拾う係争への勇気ある挺身等驚くべき広さがテオリア プラク νス

キケローに実現している。理説と実践(政治活動)の両方をローマ人キケ

ローは偉大な精神)Jで統合させた。キケローに並ぶバロック性は彼の友人の

ウァロにも見られる。ウァロはキケロー程哲学思索力の逗ましさは発揮しな

かったが, 1"広義のフィロソフィーJという精神世界を形成したキケローと

並ぶ偉人であった。ギリシア哲学史,演劇論,人間学,神々の伝承の収集,

ローマの民衆史,ラテン語研究 名詞論,類語論,ラテン語の起源論一一,

詩学,農業論,哲学,学問論……。対象認識の深さはキケローに及ばないが,

視界はキケローよりも遠大であったウァロである。彼もキケロ一同様政治家

として活躍した。しかし執政官(大統領)という国政の最高位には彼は届か

ず,法務官(副大統領)どまりであったの。

そもそも「広義のフィロソフィ一一一英知の大海ーー」への心の聞きはギ

リシア人以上にローマ人の民族的特性である。元老院議員になっていた大政

治家の多くはギリシア語を完全に操ることが出来たし,ギリシアのホメロス,

悲劇,哲学,史書,雄弁術に精通していたのである。

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坂部の前述の精神史と銘打った二著は,残念ながらこのローマ精神そのも

のを形作っている真の「広義のフィロソフィー」をほとんど取り上げようと

しない。彼はカロリング・ルネサンスというヨーロッパ中世の発生に専ら,

或いは力点を込めて「広義のフィロソフィーJを位置させるのである。ここ

に坂部の精神史的限界を私は見る。

カロリング・ルネサンス期のように修道士や神学者,神学的哲学者「広義

のフィロソフィー」の担い手ではなく,深く哲学し,ギリシアの文物を熟読

玩味した世俗人が目を見晴らせる程大勢出たのが共和政後期のローマであっ

た。このようにローマを踏まえなければ,実は「広義のフィロソフィー」の

真の形象は浮かんでこないのである。

かの 19世紀の大歴史家ランケは「それ以前の全て(の文化)はローマへ

注ぎ,そしてローマから全てが流れ出る。もしローマ人が存在しなかったな

ら,ヨーロッパはそもそも存在しなかった」とよく引用される名言を打ち上

げた。そしてニーチェも,一方ではローマ人の平俗性を痛罵するものの,他

方で「キケローがいなかったなら,ヨーロッパは野蛮のままになっていただ

ろう」と率直に認めている九

「ローマ人は何にでも手を出し,浅知恵を求め,徹底的探究心がない,専

門的密度に遠L、」など,今でも自己吟味もなく,臆面もなく公言する日本の

知識人,否,大学人が大勢居る。否,ずばり言って驚く程大勢居る。ローマ

には哲学者など居ないと恥ずかし気もなく高飛車に発言した哲学研究者(一

応の)がいるのを最近私は知り呆れかえり,誇々とその無知と非哲学を突い

てやった。しかしそれだけではない。ギリシア哲学の大御所中の大御所の学

者が,ローマには独創的な哲学者はいないと一般向けの著書の中に吐き捨て

るように明言していたのを私は読んでがっかりしたものである。

私はもう 30年以上前ドイツ(当時の西ドイツ)でアリストテレスの論理

学研究の当時ドイツ最高峰と認められていたパッツィヒ (GunterPaizig)

の演習一一テーマはヒュームの理神論一一に一度だけ出席したことがある。

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キケロー裁判弁説の精神史的考察 53

この教授にはキケローの哲学について,これこそがローマ人の哲学精神のギ

リシアのそれと全く異なった発露であると絶讃した論文がある。この論文は

よく引用されるキケロー認識に優れたもので,キケローの柔軟で平衡感覚に

満ちた哲学(Gedankengang)こそがキケローの哲学の独創性であると見

事に剃って見せているの。アリストテレス研究のドイツの当時五本の指に数

えられるパッツィヒが,ローマ哲学をそしてその中柱のキケローをこのよう

にしっかり認めているのである。更にローマ文学史家ストローはキケローは

アカデメイア派,ストア派,エピクロス派,ペリパトス派というヘレニズム・

ローマ期の主要哲学四学派の代理人であると呼んでいる。

更にキケロー讃歌を紹介しよう。 20世紀最大のホメロス学者の二人と言

えばヴィラモヴィッツ=メルレンドルフとシャーデヴアルトである。日本で

ホメロスの最もアカデミックな研究を著したのは岡道男であるが,彼はドイ

ツでこのシャーデヴアルトに学んだ。シャーデヴアルトは言う。

キケローのみが西洋文化におけるヒューマニズムの永続的伝統を築き

得た九

いかにヨーロッパではギリシア哲学研究者でもギリシア古典学者(ホメロ

ス学者)でもしっかりローマを,ローマ精神史一一単にローマ哲学史の枠だ

けでなくー←を,そしてキケローを読みその〔精神史的)意義を見て取って

いるかが分かるであろう。坂部はこの部分のヨーロッパ精神史考が極めて薄

弱であった。そもそも日本の哲学は明治のはじめからドイツ哲学に過度に寄

りかかってき, ドイツ人のギリシア文化・ギリシア芸術熱中も受け継いでき

た。誰一人ローマ哲学寄,その創設者キケローモ真剣にかっキケローの全人

性 (Ganzmenschlichkeit)を読み取ろうとはしなかった。日本の陸軍の創

設期はドイツでなくフランスの陸軍を模範としていたが,明治政府は次第に

ドイツ(プロイセン・ドイツ)の陸軍の軍制へと向きを変えることになって

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54 明治大学教養論集通巻511号 (2016・1)

いったことは知る人ぞ知るところであるが, もっと日本の哲学がフランス哲

学に強く結び付いたとしたら,ローマ文化,ローマ哲学そしてキケローへも

もっと学びの心が出てきたのではあるまいか。ドイツのローマ嫌いと対蹴的

に,フランスはラテン文化の母胎としてのローマ文化に強く関与していたか

らである。しかし都会人でも田舎人であり,社交性,日常の言葉の美しい造

形,ユーモアと皮肉の弾みのない日本では, ドイツ的堅さが性に合い,その

ことの延長で日本人はローマ嫌いになっていく他なかった。

2

私は 21年前『西国幾多郎との対話一一宗教と哲学をめぐって一一」を公

刊した。先述の坂部も和辻哲郎や九鬼周造への並々ならない関心に加えて西

国の「述語の論理JI場所の論理JI絶対無Jに,彼の著作の中で言及してい

る。西田について私は彼のハイデガーそしてアリストテレスの理解が全くの

無理解であることを, 17年前菊版大型の『アリストテレス実体論研究J(全

512頁)の第 6章で 115頁にわたって詳述した。この章のタイトルは「西田トポス ウーシアー コイネー・アイステンス

幾多郎の哲学とアリストテレスー一自然,場所,実体,共通感覚一一」

であった。

私はギリシア哲学のソクラテス,プラトン,アリストテレス,次いでロー

マ哲学の二大焦点と目されるキケローとセネカに 50年間学びの路を採って

きたが,神経質なデカルト主義者西田にはソクラテス性とキケロー性が全く

欠けていると益々考えるようになってきた。

ソクラテスについて私の愛読する政治哲学者レオ・シュトラウスの気に入っ

ている文言があるので引用する。

我々はイエスが笑ったという話は一度たりとも聞いたことがなL、。他

方ソクラテスが枕いたという話には一度なりともお目にかかったことが

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ない(トマス・モア「安楽と苦悩の対話」より〉。泣くのを堪えて笑お

うとする微かな心の傾きこそ,哲学することに本質的なことであるよう

に思われる。……哲学の精神は諦めを根底にした精神の静訟である。そ

のような精神の静雄にとって,笑うことの方が泣くよりも少しは近いも

のがあるη。

そしてこのソクラテスの笑いが一種,否,大いなる皮肉(irony,eipωveia)

であることは今更言う必要もなかろう。

ソクラテスが愛知活動 (ψlAocroφiα一哲学)で行じた皮肉はローマのプラ

トン,あわせてローマのソクラテスという趣を有する我がキケローにおいて

は哲学の著作の中においてではなく,一連の裁判弁説 (Gerichtsreden,以

下,キケローの行った裁判弁説とその作品群は GRと略記)において現われのそ

出ている。キケローの裁判における全力を傾けた獅子奮迅の努力,伸るか反

るかの言論闘争(むしろ言論闘技)において,この緊張の時間の只中に,見

事に円現,華やぐ清測さを響かせたのは,彼の本来的静誰さの発する余裕で

あった。この静説な余裕は皮肉そしてユーモアの開展ともなった。西田の硬

直的な過度の概念的思索とは違って,ソクラテスとキケローに咲き響く地中

海性を,地中海精神を,そしてヴァレリーやヘルマン・フホロンデノレのこの上

なく愛した地中海の青い温もり安私は思うのである。

私はキケローの哲学書,倫理学書の全てを一応原典にて fol1owした後,

彼の GRの数々に打ち込んだ。それが「キケロー裁判弁説の精神史的考察J

となって出版されたのは 5年前 (2010年〉のことであった。各 GRを個別

的に研究した論文や小品の書物をほぼ全て読んだのは無論であるが,大局的

に彼の GR'a::,そこに聞かれる言葉世界 (Sprachwelt)を総覧総括した欧

米の研究書は 300頁に及ぶ大著から論文程の小さな論著までほぼ隈無く部分

的にまた全部を読んだ。日本の大学に所蔵されていないものはドイツやイギ

リスの大学に依頼し借り出し,複写した。複写歴の長い私にとってとりわけ

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56 明治大学教養論集通巻511号 (2016・1)

これらキケロー GRを巡る大きな研究書群の複写はぞくぞくさせたことを今

でも思い出す。その中に次のフランス語のものがあった。東大より送っても

らった AugusteHaury, L 'ironie et l 'humour chez Ciceron, Leiden 1955で

ある。

キケローの書簡はキケローの人閣性のこの上ない率直な披涯となっており,

彼の人間的弱さ,思いのブレ,大樹の陰に頼ろうとする保身(むしろ保身性

と私はとどめた~,)がはっきり押し出されている。一方, GRにあっては明

確に第一義的に闘魂がそして闘技の説得の言葉世界の織り成しが貫かれてい

る。法廷へ訴えられた被告の無罪獲得が「至上命令」としての弁護人キケロー

の責務であり,当代の最高の雄弁家であり,政治家の両位一一政治家とは国

家官僚と同義なのがローマの特色で-あった一一へ昇る確固たる階梯に立つ人

物であったキケローは,この人以外自分の弁護を託する者はいないという必

死のすがりを依頼人たる被告から全面的に受けていた。

しかもキケローにとって民事裁判(財産問題),刑事裁判(殺人や傷害事

件)であっても,国家への犯罪(役職者の法律違反,国家反迭の嫌疑)と同

様に自らの政治家の今後にもそして現在にも大いに波及する場面を持った事

件であった。何としても裁判人,陪審人の多数を説得して無罪判決へ導かね

ばならなかった。一票違いでも勝利を椀ぎ取らねばならなかった。

であるからこそ,較妙酒脱な風味にも通じるとごろのある皮肉とユーモア

が鎮められねばならない。そもそも元老院や民会での演説ーという多数

派工策一ーでも最も見事な弁説の実演者であるキケローに,判決に直接関わ

る者は無論のこと,一般傍聴人もキケローの口からどんな名科白が出てくる

か固唾をのんで,話し振りのエンターテインメント(興感性)を期待してそ

の場に臨んでいるので必る。単に疑惑を消去するゴリゴリの弁説では逆作用

にすらなる可能性がある。

それから何としても皮肉一一ユーモアの方ではなくーーについて私が言わ

ねばならないと心得ていることがある。キケローの皮肉はソクラテス以上の

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広い教養の賜物であり,人間学,人間省察に裏打ちされたものであり,到底

我が国の弁護人(弁護士)などの及ぶ所ではないということである。雄弁性

は人間学の背景なしには単なる深みのない流れものになってしまう。それに

もう一つ私は付加させたL、。キケローに達成された皮肉は,特に日本人に見

られる冷笑,冷めたさ,温かい思いやりのなさ,吏に人間常識に反した言葉

いじめなどとは全く別のものであるということをである。キケローの皮肉は

飽く迄も係争において拡げられるものである。それはまた自分より位の高

い政治的な実力者らに,また根からの悪人(地位や特に財産,金にダーティ

な在り方を見せしめる者)にのみ向けられていたのである。

皮肉は突き射すものであり,相手のうぬぼれ. r~ 、いこき振り」の鼻を多

少であれ折る言葉の繰り出しである。他方,ユーモアは皮肉のように相手を

ほのかに遣り込めるのとは違って,事態、や物言いの裏を突き一歩外した雰囲

気でそれらを包むことである。皮肉ばかり得意でユーモア感覚の完全にと断

言してよい程身に付かない我が日本人である。ユーモアの持つ地中海文化と

は全く fremdな日本人は救いようのない「片面」性に居直って日々暮らし

ているとすら言えよう。

ところで,ソクラテス研究はここ 20年というもの漸く我が国のギリシア

哲学研究者において活性化してきたが,ソクラテスを真に一ーと言うことは

地中海精神においてと言うこと一一理解・認識するには,キケローにおける

皮肉とユーモアの言葉世界に心を聞き,そこからソクラテス理解についての

新しい教えを乞わねばなるまL、。先の AugusteHauryの書物は, ドイツの

キケロー研究者の視界と問題意識には全く現われてとないフランスのキケロー

論である。そもそもドイツのキケロー学はキケローの著した理説書(哲学,

修辞学,倫理学,自然哲学,宗教哲学と)にのみ集中してきた。裁判の本質

を成す臨場性,一回勝負,場の雰囲気で別の論法も採る機敏,敵をやっつけ

るはやる心,憎しみすら火炎を上げる対決の激しさだけが問題ではない。

「万人が我が友」の精神が発露している。すなわち,今ここに集う者一一裁

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判の帰趨を握る者一ーたちだけでなく,キケローの名言の数々を愉しもうと

してきている傍聴の者たち,被告の運命に心配一路の身内,他方,原告の仲

間,その利益に与っている腹黒い男・女,これ等への呼ひe掛けが意欲されて

いる。敢えて雷うと,敵・味方区分のあのカール・シュミット的分立化の突

破がなされている。人類を同胞とする聖フランシス的な心がキケローの裁判

における言葉世界を貫いて流れている。敢えてこう私は言いたい。

「人聞は言葉を持つ動物」というアリストテレス的境位を越えて「人聞は

言葉を磨く動物である」という生き方 (Lebensweise)を筋金とした哲学者,

ヒューマニストとしての文章世界の創造者キケローに向かうことなくしては,

田舎人の口予牟人聞の哲学が語、り通る日本の哲学的再生は望みなしである。

哲学の高遁さは雄弁性 (eloquentia)を背骨としなければならぬ。ここで,

キケローの「弁論家』を出そう。

雄弁とは最高の徳の何らかのひとつのものである。全ての徳は同等で

あり,同じ生れのものであるにせよ,外見上の現われということにおい

ては,ひとつの徳が他の徳よりも美しく目立っている。事物に関する知

識を身に付けた後に,精神を巡る思想や考察を言葉によって表現し,聴

いている者たちをと、の方向へも誘う(誘うことのできる〉この(雄弁の

持つ)力が,そうした徳のひとつである。雄弁(弁論)の力が大きけれ

ば大きい程,この力は誠実さと最高度の慎重さに結び付いていなければ

ならない。こうした徳を欠いた者たちに雄弁術の多彩に香る力を伝える

なら,この者たちを弁論家に作り出すことにはならないのであって,気

狂いに何らかの武器を渡すことになるであろう。〔同書lII.55拙訳〕

雄弁術はひとの心を怒りや憎しみや悲しみで大きくさせもすれば,平静さ

や同情へ導く知恵でもある。心の方向転換 (μmαsoλ均〉一一魂の向き替

えーーとは,周知のことと思われるが,プラトンの哲学会体のイデーであり,

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キケロー裁判弁説の精神史的考察 59

根幹主張である。哲学がこのことへ向かうためには教育すること,改善する

ことの不断の挺身が必要であり,それには哲学は弁論術と「聖婚」せねばな

らない。つまり修辞法(修辞学)の学習も欠かせない。キケローの哲学的意

欲は,プラトン哲学を中心とするギリシア哲学安ローマに移植することであっ

た。しかしこのことは,プラトンが哲学と分離させた雄弁術を哲学と切り離

せないものとして,常に哲学を雄弁術と同道させねばならなかった。またそ

の裏面のこととして,雄弁術の単なる人心操作,自己の利益のために多数を

まとめることというソフィスト性を拒否し,雄弁術の導き手(・導師)とし

て哲学の高調さが強調されねばならない。キケローは哲学のみに突っ走るプ

ラトンの高飛車性を看過できなかった。プラトン哲学がローマ化・キケロー

化へ下ろされることは哲学の堕落では断じてない。プラトン研究者は世界に

数千人はいるであろう。しかし,ここをしっかり抑えた者は極めて少ないと

私は見ている。

翻訳吾作ることに骨身ぞ削り,欧米の哲学,文学,史書を日本語に移すこ

とで精神が完全に消耗し,オリジナルなものを創る意欲の全く欠落している

日本については,先に名前が出た坂部恵も何回も力説している。その一方,

妙に独創を尊び,独創的と大方の評を得ている哲学へ寄りすがり,大局的で

批判的な冷静さの対処の全くない日本,特に哲学界は問題である。既述した

が,パッツィヒのキケローの独創性の顕揚を打ち上げた先の論文は,日本人

のギリシア人の独創への舞い上がる憧れ・ギリシア人の呪縛・平衡感覚の貧

しさを札すため,何としても読むべきである。日本は一体いつになったら過

剰なギリシア晶周への自己批判を示し,キケローの地に足の着いた,跳ね上

がらない,静誼な思索行路 (Gedankengang)に,キケロー性・ローマ性

という哲学と修辞(雄弁〉との連携に日が聞かれるであろうか。

繰り返しになるが,ここで坂部のヨーロッパ全体僻臓の精神史がカロリン

グ・ルネサンスそしてカトリック・ヨーロッパに決定的足場を採っているこ

とに対して,私の不満, 1"ローマ精神,その中柱たるキケローの精神世界

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60 明治大学教養論集通巻511号 (2016・1)

(坂部の言う〈広いフィロソフィー))にもっと心傾けるべし」を出してお

こう。

坂部のヨーロッパ精神史的哲学(広いフィロソフィー)は私に大いなる刺

激と発奮を引き起こしてくれた。「精神史」ということで私が 1989年,今か

ら26年前,私の単独編著「精神史としての哲学史』の序文に書いた拙文を

先ず出したい。

精神史 CGeistesgeschichte,History of Ideas)とはドイツ・イデア

リスムスとドイツ・ロマンティークにおいて開撃され,その後ディルタ

イによって深められた発想である。ディルタイ自身は決して精神史とはでんめん

何かを明確に規定しておらず,この概念には陵昧性が彼の著作中に纏綿

していた。しかし一応私は精神史を人聞の精神活動(文化へ結実する)

を生成 CWerden)の面から解き明かそうとする抱負だと言っておく。

文化史が作品化された人間精神の歴史的説明であるのに対し,精神史は

人聞の動的精神,生成途上の精神を民族的かつ民族交流的な広さの中で

究明するものと区分けできょう。

この精神史なる語を初めて用いたのは, ドイツ・ロマンティークの指

導的担い手の文芸批評家F.シュレーゲルとされる。ドイツ・イデアリ

スムスの帝王ヘーゲルは,時代のさまざまの文化領域は一つの精神の現

わしめるところであると説いた。彼の哲学史は時代の全体的傾動を入れ

た一種の精神史としての哲学史であった。

しかしへーゲルは歴史を一つの神的原理(神の理性)が統轄している

とい体系的思惟にずばり言って自縄自縛されて,哲学史を無理に

(彼自身はそうは全く考えないが)統一原理で,つまり自由の発展史と

して構成したのは,ランケやブルクハルトの批判を倹つことなし行き

過ぎであり,歴史の虚像化でしかなL、。彼は神的原理を精神 CGeist)

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キケロー裁判弁説の精神史的考察 61

と呼び,世界に自らを開展する精神を世界精神と,そして客観的精神と

も名付け,この上段に神の精神を絶対的精神として立ててしまった。完

全にキリスト教信仰にはまってい忍ヘーゲルである。この客観的精神の

他に絶対的精神を置いたことにつき「彼の動揺が示されているJC両っ

たのは東大教授だった岩崎武雄一一マイルドなカント主語者一ーであっ

た。「時代を貫く力としての精神」なる語はシェリングの弟子アスト一一

この人物の『プラトン語葉集成JICLexicon Platonicum)は今日ち学

術的生命を保っているーーやシュライエルマツノ、一門下のリッターにも

使われている。リッターは言う。個々の哲学者の精神のみならず,その

学派その時代その民族の精神にも認識は及ぶべきである,と九

私は終始精神史という眼で哲学してきた積りである。昨年 2014年大きな

ブルクハルト書を公刊し,そのサブタイトルの中に「精神史と共に」という

言葉を入れた。この著のまえがきの文章も収録させていただく。キケローと

ローマのことが出てくるからでもある。

私に哲学幅を越えて精神史的に問う喜びと日々の愉しみを吹き込んだ

二人,カッシーラーとパーリンのことをも記したL、。カッシーラーの

『啓蒙の哲学Jとパーリンの論集 TheProper Study of Mankindは

今でも私の精神史的思索の師書である。カッシーラーのこの著には「啓

蒙主義の精神史JCGeistesgeschichte der Aufklarung)という言葉が

ある。啓蒙主義を単に合理主義,反歴史主義と決め付けるのはドイツで

も日本でも共通である。これを断固として誤解と断じ,啓蒙主義が歴史

尊重であったと,人間の情念(肉感〈エロス性〉への高まる思い)の時

代であると,彼は見事に認識を錬り込んだ。

パーリンの「ヴィーコとヘルダーJも私に響いた一書だった。このサ

ブタイトルに「精神史J(History of Ideas)が付けられている。

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62 明治大学教養論集通巻511号 (2016・1)

レーヴィットにはプルクハルト研究書のほぼ全てに引用言及される

『ヤーコプ・ブルクハルト 歴史の只中の人間 J (1936)があるが,そ

の中に「精神史」という諾が出てくる(原書 64頁)。

私は 15年間ローマ精神史という「広いフィロソフィー」の視界で仕

事をしてきたが,二人の偉大なドイツのローマ学の大御所の著作の中に

精神史という語を見出した。先ずヘルマン・シュトラスブルガーである。

彼の遺稿集成本『カエサルへの戦いを秘めているキケロ一後期哲学作品』

に「私はブルクハルトの Rea1geschichteとGeistesgeschichteの統合

を導きとしてキケローを書いた」と記されていた。一方のカール・クリ

ストは『ドイツの 19世紀におけるローマ史家』において「ブルクハル

トの精神史的立場」という表現を残している。

私は 1956年留学先のマールブルクーーキケロー研究のため一一の行

きつけの古書庖でオットー・ゼールの『キケロー』の大作を見付けすぐ

買った。その後,わずか 77頁のゼールの『ブルクハルトとヨーロッパ

の危機Jl(1948年)も入手した。極めて精神史的な小冊子であった的。

更に本論文の文献表⑨『キケロー裁判弁説の精神史的考察』の中の文字通

り最終頁に,パーリンの『ロシア精神史』一一私は独訳 RussischeGeistes-

geschichteで2009年スイス・チューリヒで読んだーーのことが叙されてい

る。そこの私の文章を又引用する。

ノくーリンはこの著で、実に平明に精神史について読者の注意を喚起して

いる。精神史は個別史,例えば哲学史,科学史,丈化史,政治史,芸術

史などを横並びにさせたり,それらを何らか連結させることで形作られ

るものではなL、。またノfーリンは次の注意を附加する。我々の用いる諸

概念,例えば自由,正義,国家,社会,経済,善・惑などは決して明確

に規定など出来ないことを我々は思い知るべきである,と。続けて彼日

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キケロー裁判弁説の精神史的考察 63

く,時代の渦巻く大きな思潮へ目を向けることを敢えて行って,かろう

じて諸概念は不鮮明である陰の部分を摺りながら思想家に築かれていく

ものだ。

2009年 8月 24日スイスで聞いた「新チューリヒ新聞」一一スイスの最高

級紙。フランス革命も当時報じた古くから続く新聞一一に次のように出てい

た。「今日バルト三国とかつてのソ連への従属から解き放たれて,西欧世界

に精神史的に (geistesgeschichtlich)彼らの居場所を持つようになってい

るJlO)。

文,坂部に戻る。彼はヨーロッパ精神史と並べて日本精神史を立て,時代

(年代)に同じような精神史的文化(宗教,文芸)が生まれたことを述べて

いる。この彼の僻服図には私は慎重にならざるを得ない。私にとって問題な

のはこの坂部だけでなく,むしろ第ーに日本精神史という大著の作者和辻哲

郎である。私はどうも日本についてこの精神史という語を用いることに素直

になれない。この語を目にすると,戦前の日本精神の民族主義的な声高な叫

びがまだ反響してくるからである。

ヨーロッパの例えばドイツ精神,フランス精神,イギリス精神等々は民族

の魂の表現,伝統文化の評価だけでなく,常に民族の枠を越え出たヨーロッ

パの普遍精神を同伴している。ホメロスとギリシア精神,キリスト教,ロー

マ文化,中世,ルネサンス,バロック, 18世紀啓蒙思想は全ヨーロッパ諸

国の統合精神であり, ヨ一口、yパ文化の育み手でもあった。

精神史について最後に一書する。ドイツのミュンへン大学には哲学専攻と

隣り合って精神史専攻が設けられている。そしてほぼl世紀続く「ドイツ文

芸学と精神史季刊雑誌」が発刊されている。私はブルクハルト書を著す際十

数篇この雑誌の論文を活用した。

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64 明治大学教養論集通巻511号 (2016・1)

3

キケローはローマ最大の哲学者である。ギリシアにおいてもプラトン・ア

リストテレスは哲学枠を越えた総合的視界の哲学者であった。しかし真の意

味で哲学が広汎な人間的精神活動を抱き込んでいるのは,キケローだけであ

る。ローマのキケローこそヨーロッパの人間形成の哲学形成者である。「キ

ケローは何でも屋であり,哲学へはちょっと手を出しただけである」という

暴雷を私は直接耳にしたことがあるが,これ程のローマ音痴はない。しかし

日本のインテリの次元は今もこのレベルを俳個している。敢えて言えば,坂

部の言うごとく「広義のフィロソフィー」を多分ヨーロッパで最も本格的に

模範的に達成した偉人こそがキケローなのである。その体系性という観点か

ら見てもヘーゲル以上の包括的哲学が彼に達成されている。ローマには体系

的哲学者など存在せず,ただ倫理学者のみだったとは,私の恩師下村寅太郎

の言葉である。これは大いなるローマ庇評であり,ローマ誤解でしかない。

キケローの精神史的目は法史にも闘政史にも及んでいた。更に 20世紀の

フランス史学の中心アナール派の言う全体史,心性史にもキケローから発す

る驚嘆すべき感覚と仕事成果が輝いている。全体人(Ganzmensch)とい

う名誉この上ない呼び名はキケローにのみ真に合致する。詩文と人間味を余

すところなく聞き示した手紙の膨大さは彼をフランスモラリストと結び付け

ている。彼の純理的,究明の徹底的思索はギリシアの体系的哲学者アリスト

テレスに接近するものがある。「ローマ精神とは何か」は一路深くキケロー

に向かい,キケローから汲み上げるに如くはない程である。

坂部の精神史としての哲学ないし哲学史の射租には, r悶家Jrイデア的・

究極的善性を目指すべき国家とは何か」の問いの必要が全く見当たらない。

キケローの精神史的哲学はノンポリの唯普遍的,人類的なお人よしのヒュー

マニズムとは全く別である。このことを我々は肝に銘ずべきである。キケロー

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キケロー裁判弁説の精神史的考察 65

はプラトンの徒であり,彼は「自分はプラトンと共に道安誤ってもプラトン

に従う」とまで明言している。その一方で,キケローはプラトンを自らの哲

学形成上の最大のライバルとし,プラトンを対決的批判の的・軸にしっかり

見据え続けた。彼のプラトンの対話篇の熟読はギリシア人の誰をも,無論プ

ラトンの弟子たち,弟子中のトップを占めるアリストテレスをも越えるもの

であり,魂のこもったものであった。これは私のアリストテレス批判でもあ

る。キケローの哲学作品・倫理学著作がはっきりそれを示している。

国家やポリスのないヒューマニズム,お目出たい人類皆兄弟的博愛主義は

キケローの採るところでは断じてない。今日の我々の時代はなんとこういう

オプティミスティクな正義論,公共哲学,多文化コミュニケーションを旨と

する平等主義,更に共生哲学などが人間存在への深いぺシミスティクな洞察

なしに振り撒かれているであろうか。

とは言え,キケローは民族主義(自民族中心主義),ましてやくローマ〉

帝国主義に腰を据えていたのではなL、。彼こそは実定法以上に人間の理性か

ら支えられる自然法を尊ぶべきことを力説したのである。彼はローマの実定

法の正義根拠を自然法に置こうとしたのである。またローマが隣り合う国々

へ物欲に満ちた侵略戦争をこれ以上今後仕掛るべきではない,戦争は今後は

防衛のために限られるべきだ,とも忠告している。吏に国家政治の最高位の

執政官(大統領)に迄行き着いたにも拘わらず,国家が団結のため宗教を国

家護持の支えとし,国家が御用宗教に頼ることが過度であるローマへはっき

りした批判を発言したキケローであった。天の神,自然に働く神の采配,個々

人が唯魂の支えとする神,自分の現世執着,他人から受ける栄誉への喜ひ"を

打ち砕く光源としての神,ずばり言って,一人天にツパせず神の前に立つ宗

教性こそがキケローにとって真の救いと考えられた。ここに私はゲーテが

『ヴィルへlレム・マイスター』を貫く敬度主義 CPietismus)へ向けた思い

を感じるのである。ただ現実の圧倒的多数の者は哲学力,つまり自己の徹底

的吟味,省察には全く遠い存在であり,彼らは国家宗教,そのオリジンにあ

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るギリシア以来の神話宗教,神々へ寄りすがっている。このことをキケロー

は峻拒しなL、。ルターやカルヴァンのあの厳しい原則主義などローマ人には

そしてギケローにも全くの非宗教であった。教条などと全く無縁の敬度な心,

これこそがギリシア人と共にローマ人の哲学であった。哲学は元々この両氏

族の静離な,狂信とは全く無縁の「宗教」なのである。「哲学的信仰」は 20

世紀のヤスパースの根本思想をなしている。しかしこの聞かれた敬度性はキ

リスト教が国家・帝国権力と結託する以前の時代,ギリシアにそしてローマ

にも哲学者の宗教として活きていた。そして私は敬度な心こそが唯一ひとが

自由であることの保証であると思っているo

キケローの GRを熟読し,味わいの深さに改めて舌を巻く境地にひとは烹

るだけではなL、。この弁説はローマ共和政の騎りを,否,それ以上に晩鐘を

この上なく歴史的にリアルに活写していることに我々は息を呑むであろう。

いかなる客観的歴史記述,史料を精査して著された史書よりも,キケローの

GRはlebendigな時代の描出となっている。これと彼の手紙の数々だけで

ローマ共和政の実相がそしてその必然的な劣化と類落が vividに伝わってく

る。そもそも彼の哲学は極めて歴史的時代的具体性を表現している。私はキ

ケローに何やら和辻哲郎の体系的倫理学,すなわち『人間としての倫理学」

や「倫理学J(上,中,下〉に示されている倫理学の康史的感性を思いすら

する。キケローの GRこそは当時のローマ政治史の活写であり,単なる歴史

家の精確な叙述ではローマ史の当時の心性と闘争を描いてもこれ程生気あふ

れる出来栄えにもたらせなかったであろう。

哲学者キケローは政治家であった。彼は政治家とあわせて最高の裁判活動

家,主に被告サイドの弁護人でもあった。哲学一政治一裁判〔への挺身)は

キケローの実存の鼎である。ずばり言って, ["裁判でのキケロー」から始め

て,キケローのローマ随一の原理的思索,へーゲル性の Denkweiseへと向

かうべきである。キケロー研究は他の哲学者たちを問題とするのとは全く異

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キケロー裁判弁説の精神史的考察 67

質の態度と視界を要求される。キケローの全人性,教養という総合性,政治

への責任,他者への同'情,これらは彼の哲学書よりも裁判での口演・語りに

よって表出されている。大臣となった哲学者として 20世紀イタリアのクロー

チェが知られているが, 90に近い数の裁判で依頼人の信頼をいわば縦恋に

した哲学者は,後にも先にもキケロー唯一人である。

ローマ精神史はローマの文化諸領域を総覧することよりも,キケローの

GRを考察するのが一番であると私は強く主張したL、。

4

キケローは被告とされた者の弁護を当人からの直接の依頼によって,或い

は被告の縁者からの間接的依頼によって担うだけでなく,積極的に自ら名乗

り出て弁護に当たったり,大物政治家の懇願で引き受けたり,種々の契機が

あるものの,一度弁護を了承した以上,何日も前から発言内容,論の立て方,

口演の仕方までも色々と準備した。その上事実確認もとことん手抜くことな

く行った。八百代言の悪しきソフィスト風は誠実な人柄のキケローには全く

探しょうがなかった。

私はキケローの GRを彼の時代の節目節目で一応五期に区分して考察した。

その成果が『キケロー裁判弁説の精神史的考察」であった。

第 l期:この期の弁護は『クインクティウス弁護lと『ロスキウス・アメ

リーヌス弁護』が知られている O これらの弁護は独裁官スッラの強大な陰の

中で為された。一歩スッラを怒らせる,或いはこの人物に根にもたれる弁護

弁説をしようものなら,被告は無罪票決に浴しでも,弁護したキケローはスッ

ラ側から隠微なまた陰険な仕返しに狙われることは免れ難かった。こういう

緊張にもめげず, rクインクティウス弁護Jは為された。彼の一見余裕に満

ちた流れるような弁説の裏にこの緊迫状況があった。この期にキケローは

財務官になる(前 75年,以下,前は省略)。

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68 明治大学教養論集通巻511号 (20日・1)

第 2期:~カエキナ弁護J ~クルエンティウス弁護』代表としてのこの二

つはキケロー 30代後半から 40歳の聞に為された。キケローは「名誉の階アエディーリス

梯j(政務官職への昇り道)の造営官(按察官とも訳される)に前 69年,

法務官に 68年 (40歳〕選出される。従って「名替の階梯Jの最上段たる執

政官に当選するのに大切な時期となっていた。この二つの弁説は,その少し

前70年,シケリアの総督ウェ γ レースを巡る裁判に原告側に立って弁説し,

勝利したキケローは込み上げてくる自信に支えられていた噴のものである。

キケローはウェッレース弾劾裁判でこの男の弁護人,当時の口一マ最高の雄

弁家ホルテンシウスを打ち負かした。このことで 30代半ばでローマーの弁

論家と目されるようになっていた。尚,ホルテンシウスはその後裁判で共同

弁護人としてキケローと一緒に働く。ホルテンシウスの人柄が良かったこと

をこれは示しているO

第3期:執政官就任 (43歳〉と翌年 44歳そして 47歳の聞は極めて政治

性・権力闘争の濃厚な四つの裁判での弁説『ムーレーナ弁護J~スッラ弁護』

『アルキアース弁護」そして『フラックス弁護』が重要な中身を持つ。この

時期のキケローは 43歳時に彼に対して仕組まれたカティリーナとその一味

の国家転覆の陰謀に地獄の入口に立たされていた。なにせカティリーナの奥

にはカエサルがいた。一切悪しき企みには直接加わらず,陰で指令を発するあぷ

恐ろしい政治力の持ち主カエサルを, もしもキケローが「集り出しj,カエ

サルの黒幕性を世に知らしめたとすれば,権力闘争の枠を越えて,ローマ国

家は内乱が起こり,市民戦勃発となるのは必至であった。ローマ共和政を守

ることをいわば宗教としているキケローは,決して正商切ってカエサルの正

体を暴くことはできなL、。この辺のことは私の政治学博土論文著『キケロー

における哲学と政治一一ローマ精神史の中点 J (2006年)の第 I部「キケ

ローとカエサル」が全 3章 14-201頁で詳細に究明した。この第 3期のキケ

ローは政治的果断,奥を読む熟慮,元老院議会での哲学的高さを示し建国の

精神を訴える雄弁によって「父国の父j(pater patriae)と讃えられるに至

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キケロー裁判弁説の精神史的考察 69

る。しかしこの成功と栄光はキケローの「死刑宣告J(フールマン)一一身の

破誠一ーとなる。

第4期:キケローが亡命から帰国できた 57年 49歳から 51年 55歳迄の時

期である。『セスティウス弁護J~パlレフ申ス弁護J ~プランキウス弁護J ~ラピ、

リウス・ポストゥムス弁護」を私は特に吟味して「キケロー裁判弁説H ・H ・』

を書いた。この時期はキケローの裁判活動は休む聞もない程でおよそ 30件

に及ぶ。これら全てに彼は弁護人として立った。この時期 (54年ー53年)は

カエサル,ボンベイウス,クラッススの三頭支配ー・三者の完全な密議によ

る支配,非合法的な体制,権利の分割,中心はボンベイウスが占めたーーが

ローマ政治そのものとなるという共和政最大の危機が吹き出ていた。国軍の

私兵化,民衆が大きな権力に期待する熱狂ーーヒトラー・ナチス体制へのド

イツそしてオーストリアの一般民衆の狂熱的期待と同等現象一一,三者の国

庫の備えを噺笑う収奪,三者の野心連携の日を追う高まり H ・H ・o 53年クラッ

ススがパルティア人との戦いで民に眠って殺されると,カエサルとボンベイ

ウスの二頭支配が出現する。この間キケローは「弁論家についてJ~国家に

ついてJ~法律について』の執筆に打ち込む。 51 年彼はキリキアの総督とな

る。山賊退治の戦闘に総督として最高司令官を務めもした。やがてカエサル

とポンペイウスのローマを二分する戦い(市民戦争)が火を噴く。 49年カ

エサル,ルピコン川を越えローマ本土へ攻め入る。 48年カエサル勝利。秋

独裁官となる。この長い権力闘争の時代,キケローの GRは円熟した彫りの

深いものとなる。国家の危機そしてカエサルの単独支配が回避できない状況

で,裁判ははっきりと時代物語,キケローの時代との闘いとなっていく。彼

の闘魂は, rもはや共和政は失われたJ(Respublica amissa)という嘆きと

蹄念を抱き込みながらも燃え続けた。

「セスティウス弁護J~バルブス弁護J ~プランキウス弁護J ~ラピリウス・

ポストゥムス弁護J~カエリウス弁護J ~ミロー弁護」が今白書物として残っ

ている。これら安私は『キケロー裁判弁説の…Jにおいて入手可能な注釈・

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70 明治大学教養論集通巻511号 (2016・1)

研究書をほぼ全て読み followした。

第 5期:カエサルと闘うキケローは,裁判の判決を最終的に握ったディタタトール

独裁官カエサルを前に「リガーリウス弁護J~デーイオタルス弁護」の二つ

のみを行った。妻との離婚一一彼女は紀元後 103年まで 103歳の長命を全う

し,その間二回(計三回〉結婚した「強き女」である一一,愛娘の死が,カ

エサルの独裁の出現に加えてキケローに悲嘆と弱気の境位安突き付けること

となった。キケローは息子以上にこの娘を可愛いがった。娘は父の哲学書執

筆の手助けをし,父の友人の書庫で父から依頼された書物を探すこともした。

プレイボーイで悪党政治家ドラベッラと父の皮対をおしきって結婚した娘は

難産が元で亡くなる。しかしこの晩年3年間 (46-43年)こそ,キケローの

著述活動の驚嘆すべき充実の時であった。彼は常にカエサルと精神的対決を

秘めつつ,カエサル政治の悪魔性への伏された批判を哲学書(倫理学書)に

入れ込んでいった。健康に恵まれず,重い苦悩と悲しみが間断なくひたひた

と流れる日々のキケローであった。キケローはしかし「弱虫キケローJ(モ

ムゼン)では断じてなかった。キケローはこの晩年, しかもやがて死刑とな

る3年間で「キケローを越えるキケロー」になった。死をも予想し,覚悟も

したと思われるキケローを私は面前に立てて,ハイデガーのあのナチス同感,

否,協力の 1933年から 1945年を対立的に思う。キケローのカエサルへの抵

抗,秘められた,正しく弁論術の妙技を示した言葉による闘い,これはロー

マ史以上に全ヨーロッパ史そして世界史(万国史)へ呼びかける偉大な崇高吉本う

で人間精神を守る哲学の業である。私はハイデガーの影響でギリシア哲学

専攻へと近世哲学から移った来歴を持つ。「言葉の魔術師J(レーヴィット〉

ハイデガーの思惟,彼を貫く詩的思惟 (dichterischesDenken)に大いに

魅せられ,彼の現象学,解釈学的現象学にそしてそのより徹底的繊承たる弟

子ガダマーの解釈学に,更にポール・リクールの物語を包む時間性・時間意

識を貫く物語性に現在の自分の思惟行程をコミットさせている。

しかしハイデガーのような政治的桐察力のない哲学,単に詩的思惟にこも

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キケロー裁判弁説の精神史的考察 71

る哲学(こういう決め付けに私は必ずしも単純に全面的には同じないのでは

あるが)は,キケローに照らして大いに問題だとも私は思う。「キケローか

らハイデガーを見るJrハイデガーの詩的思惟とキケローの就中 GRのくこ

とば世界〉を突き合わせるJこういう設聞は,目下ホメロス一筋で『イリア

ス~ ~オデュッセイア」の研究に打ち込んでいる私に,傍で自分の方へも心

を寄せてくれと呼び掛けているのである。

キケローの真の偉大さは,政治の渦中,ローマ共和政の停まらない崩壊が

現われているカエサル時代に,純哲理的,理論的,学究的哲学書,倫理書,

更に知識人に心の省察へと「善導Jする作品群を次々と書いたところにある。

知識人の誕生はフランス革命以後であるということが通説化しているが,私

は必ずしもそうとは考えなし、。著作によるカエサルへの秘めたる指弾,理論

警の人類に残した平衡感覚の柔らかい筆致,歴史的に過去を冷静に広く見て

哲学を作る見事色知識人の日常における自己省察に手を伸ばす教育姿勢,

このような全人性を持つ哲学者はヨーロッパではキケローのみである。プラ

トンをすらキケローは越えている。このことに全く思いの及ばないのが日本

の哲学界である。

以下,キケローの晩年の著述一覧を示す。『アカデミカ~ (知識論), ~普と

悪の究極について~ ~トゥスクルム荘対談集~ (共に倫理学), ~神々の本性に

ついて~ (ギリシアの自然学,神に関する思想の精査一一キケローの平衡感

覚が細やかな探究心と見事に共鳴一一), ~ピリッピカ~ (カエサル暗殺後独

裁権を継承しようとしたアントニウスに向けた元老院での弾劾演説), ~若年

について~ r予言について~ ~友a情について~ ~宿命について~ (この四つは小

品〉そして『義務について~ (倫理学,社会公民の生き方について綴ったも

の〉。拙著「体系的哲学者キケローの世界~ (2008年)はこれらすべての作

品を論じたものである。

この第五期の GRは,既述したが,カエサルに最終判定を仰ぐ裁判ならざ

る饗問的なものにおいて為された。所謂「カエサルの寛恕 (clementia

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72 明治大学教養論集通巻511号 (2016・1)

おだ

Caesaris一恩赦〉を引き出す煽て・持ち上げのスピーチが繰り出されてい

る。しかし皮肉とユーモアのローマ性を知ることは無駄ではない。

キケローとカエサルの政治的友情 (amicitiapolitica)は,ローマ共和政

末期を最もリアルに伝える精神史としての政治史である。キケローはカエサ

ルを批判した一方で,カエサルを大樹の陰とした。政治家として当然であり,

決して彼はひ弱で不誠実とは言われなL、。先述したが,彼は「弱虫キケローJ

(モムゼン)ではない。カエサル軍と戦い,敗れ,カエサルの寛恕に浴する

ことを恥として自害した盟友カトー(小カトー)の生き方を余りに高く評価

したり賞讃するのは大いに問題である。寛恕に裕して,まだ国政に関わり,

カエサルの方向にいささかでも阻止を企て,カエサルに物申すこと,とにか

くこれに賭けたキケローこそカトーよりも責任ある政治人 (politischer

Mensch)として深慮に貫かれた存在と私は評価している。恰好の良い抵抗

死は単なる憤死と実は軌をーにする。

5

はん

ここで煩を厭わず,キケロー GRの広義的なものに我々は向かうことにす

る。

年度と裁判名を JonathanPowell and Jeremy Paterson, Cicero The Ad-

vocate, Oxford 2004の最後に載っている Appendixから示す。恐らくキケ

ロー GR研究の歴史で他にない画期的掘り起こしである。(年号に紀元前は

省略する。太字はキケローの意図で公刊されたものそして今にその内容が全

面的に《ほぼ全面的という場合もある》に伝わっているものである。向,私

法事件《財産,土地争い〉はん,公法事件〈殺人,国家反逆,公金の取得〉

はB.と略記)

81 クウインクティウス弁護 A. 成功かと思われる。

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80か79

80

79

? 77

? 77-76

? 76-68

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65

65

?65-4

64

63

63

63

63

キケロー裁判弁説の精神史的考察 73

アレティウムの或る女性の自由を巡る件での弁護 A. 成功。

ロスキウス・アメリヌス弁護 B. 成功。

コッタの妻ティティニア弁護 A. 恐らく成功。

クlレティウス弁護 B. 結果は不明。

ウァレヌス弁護 B. 不成功。

喜劇役者ロスキウス弁護 A. 結果は不明。

名前の分からない一人のシシリアの貴族の弁護 B. 成功。

スカマンダー弁護 B. 不成功。

ガイウス・ムスティウス弁護 B. 成功。

テルマエのステニウス弁護 A. 成功。

トヮリウス弁護 B. 結果は不明。

シケリアの総督ウェッレス弾劾 B. 成功。

フォンテイウス弁謹 B. 恐らく成功。

オッピウス弁護 B. 成功の確率高い。

カエキナ弁護 B. 多分成功。

マトリニウス弁護 B. 結果は不明。

クルエンティウス弁護 B. 成功。

マニリウス弁護 B. 結果は不明。

フンダニウス弁護 A.かB.か不明 成功。

コルネリウス弁護 A.かB.か不明 成功。

オルキウィウス弁護 A. 成功。

ナレスティウス弁護 A. 成功。

ガッリウス弁護 B. 成功。

売国奴ラビリウス弁護 B. 判決前に裁判打切。

ムーレーナ弁護 B. 成功。

カルプルニウス・ピソ弁護 B. 成功。

プブリウス・ピソ弁護 B. 成功。

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74 明治大学教養論集通巻511号 (2016・1)

62 スッラ弁護 B. 成功。

62 アルキア弁謹 B. 成功。

60 ピウス・スキピオ弁護 B. 成功。

59 ガイウス・アントニウス(キケローの同僚執政官〉弁護 B.

成功。

59 ミヌキウス弁護,他の一つの弁護 A.か B.か不明 共に成功。

59 フラックス弁護 B. 成功。

58-56 カルプルニス・べスティアの六つの裁判での弁護 B. 全て成

功。

57 キケロー自身(屋敷と地所を巡る)の裁判 B. 成功。

? 57-56 マルクス・キスピウス弁護 B. 不成功。

56 セスティウス弁護 B. 成功。

56 ププリウス・アシキウス弁護 B. 成功。

56 カヱリウス弁護 B. 成功。

56 リキウス・バルブス弁護 B. 成功。

? 56-52 プランクス・ブルサ弁護 A.かB.か不明 成功。

55 カニニウス・ガッレス弁護 A.か B.か不明 成功。

? 55 アンピウス・バルブス弁護 A.か B.か不明 結果は不明。

54 P.ウァティニウス弁護 B. 結果は不明。

54 レアーテ市弁護 B. 成功。

54 C.メッシウス弁護 B. 多分成功。

54 リウィウス・ドルヅスス弁護 B. 成功。

54 スカルロス弁護 B. 成功。

54-52 スカルロス弁護(別件で) B. 結果は不明。

54 ウァレティウス・メッサリア弁護 B. 結果は不明。

54 A.ガピニウス弁護 B. 不成功。

54-53 ラビリウス・ポストゥムス弁護 B. 結果は不明。

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キケロー裁判弁説の精神史的考察 75

52 ミロ弁護 B. 不成功。

52 M.サウエニス弁護 B. 結果は不明。

52 P.セスティウス弁護 B. 結果は不明。

52 コルネリウス・ドラッベッラ弁護 A.かB.か不明 結果は不

明。

52 プランクス・ブルサ弁護 B. 成功。

46 Q.リガリウス弁護 B. 成功。

46 デイモタロス王弁護 B. 成功。

年号不明

(48以前)ポヒッリウス・ラエナヌ弁護 B. 結果は不明。

(44以前)アキッリウス某弁護 B. 成功。

尚, ζ のAppendixには各々の裁判の告訴内容についてそれなりの説明

がなされているが,それは省略せざるを得なL、。

6

ローマ精神はギリシア精神と対蹴的である。法の体系化,そのための慎重

で即応的な法の時代時代の積み上げにローマ的特質が現われている。他方,

ギリシア精神史は哲学という個々人の創造の連鎖を以て特質を発揮している。

こう言っても見当違いではあるま L、。哲学は所詮社会への関与,社会への影

響には至らず,個人に集う弟子たち,個人の興した学園内での波及力しかな

い。一般市民にとって哲学など全く関心外であった。このことは学派そ作ら

ず市内のどこでも哲学問答を仕掛けた(とされる)ソクラテスも重々承知し

ていた。政治への志のある若者も恐らく哲学者はソフィストと見分けがつか

なかったし,併性て,哲学者などはソフィス卜と違って役立たずであり,哲

学者は高らかすぎる空虚な呼び掛けをする鼻もちならない輩と映ったに違い

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76 明治大学教養論集通巻511号 (2016・1)

ない。その点ローマのキケローの時代,またそのー・二世代前の時代,元老

院の議員は,つまり政治の中枢に位置する政治家はギリシアとは較べようが

ない程哲学(=ギリシア哲学)を愛好し, 日々の自己省察の足場とした。哲

学の社会・人心への浸透力ははるかにローマ(キケローの時代のローマ)は

ギリシアに優っていた。この基本中の基本の歴史的事実も我々日本人は分かっ

ていない。また分かろうとしなかった。確かにギリシアは天才的哲学者の輩

出において,ローマをそして全ヨーロッパのその後の民族を凌いでいた。

一方,ローマは個人でなく英知の歴代の積み上げで,法の網の目の細やか

な修正,補足,時代の新しい状況と現われでナこ問題の処理への対応を実に丁

寧に行った。このギリシアとローマの精神の異なりを我々 H本人は全く見て

こなかった。ローマにはギリシアと違って政治の活気,社会の機敏がある。

ギリシア以上に自己主張と自己実現の野心,闘争心がローマには撮っていた。

ローマにおけるギリシア哲学の受容と浸透は'ffi'学の社会化である。とは言っ

ても,ローマ人のギリシア哲学理解は高水準であったことを我々は知らねば

ならなL、。このことはローマ法研究者もしっかり見据えてはいない。

哲学は何処迄も妥協なく純度高くあらねばならなL、。これがそもそもギリ

シアに生まれギリシア人に創造された哲学であった。しかし法はそうはいか

ない。法は個人の創造ではなL、。或る個人が法の制定に主導的役割を担った

としても,時代の動き,新しい犯罪,新しい人間関係から改正・変更を「呼

び掛け」られて新しく作られ,積み上げられてL、く。共和政ローマでは帝政

ローマとは違ってそうであった。しかも古い法律は新しい法律によって失効

することがなし場合によっては言わば旧法が審きの決定に用いられること

もローマ的現象であった。哲学はあくまで厳格・峻厳でこそ哲学であり,哲

学は非妥協であってよL、。一方,法はそうではなL、。罰則を伴う法律は,状

況に投ぜられて犯罪を行うこと,犯罪行為に追い込まれるという人聞の弱さ

に十分心を聞き,罰の重さを酌量すべきものである。「最高の法は最大の不

正J(Summum jus summa injuria)という格言はローマの裁判を包むヒュー

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キケロー裁判弁説の精神史的考察 77

レーガル・マインド

マニズムとすら言える日)。こうした法精神とのつながりと奥を持つロー

マのヒューマユズムこそは「広いフィロソフィーJと密着していることも我々

は忘れてはならなL、。「広いフィロソフィー」を求める真の教養人の立脚点,

敢えて言えば教養の宝庫がローマであった。

キケローは哲学を修辞学と結びつけ,哲学的思惟の脈打つ生命に修辞学を

置いた。完全な(最高度の)弁論家になるには「広いフィロソフィーJ,学

芸万般への休むことのない学びの道を歩まねばならなL、。これによって裁判

弁論は単に勝敗に過剰に神経を磨り減らすことなく,正義に寛容さを実現さ

せる腹のすわりができる。確かに裁判弁説は敵対する利害,訴える者と許え

られた者の闘争である。キケローは何としても被告が罪人ではないこと,原

告の方に悪しき意図が秘められていたことを突かざるを得ない。しかも単に

攻撃の過熱によってではなく,皮肉とユーモアを大いに紡ぎ出して硬軟混ぜ

合わせて陪審人に呼びかけ,投票にまだ迷いのある者や原告側に傾いている

者を被告への同情へ向かわせねばならなL、。しかしこのことの達成には勝ち

負け,無罪獲得に過剰に高まる以上にヒューマニズムへ呼び掛けねばならな

い。それは単なる心根の優しさの大切さの呼び掛けを弁論の要とするだけで

は不十分である。弁論には広い人間通 CMenschenkenner)を背景とすべ

しという誠実さが必要である。一方では海千山千の弁論家という象面も確か

に有するキケローではあるが,他方,彼は実に高遥に弁論そのものの勝敗か

らの独立を主張している。優れた弁論家,否,完全な弁論家は「広いフィロ

ソフィー」へ乗り出しそれらを自己の魂の養分とした者のことである。ここ'!>ざし

弁論家の「広いフィロソフィー」への志のキケローの喚起を引こう。

我々は詩文を読まねばならぬ。歴史を知らねばならぬ。全ての優れた

学芸の著者と師匠(の作品)を読まねばならぬ。しかも詳しく調べるこ

ともやらなければならぬ。その上自分で練習を絶えず行って彼らを賞讃

し,解釈し,訂正し,批難し,反駁することが必要であるω。

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78 明治大学教養論集通巻511号 (2016・1)

完全な弁論家は為された事柄と古い時代の歴史,当然のことだが,我々

の国家の歴史を知らねばならぬ。それに加えて支配者となった国民や有

名な王たちの歴史を知らねばならぬ凶。

なぜ私が,弁論家にとって国家や支配権に関わる法である公法が熟知

されているべきだと考えるのかにつき, くだくだ説明する必要はなL、14)。

人の心を動かすことを目的としている弁論術は学びの掠成す宏い沃野原を・

先人の英知と努力の結実した過去を喜びと召命感で身に付けねばならない。

会議合i毛主ゐ告辛ゐ会主である。 X一首テ妊に満ちた哲学で、ある。弁論術や

修辞学(説得術)を低い技能や学とすることは,ギリシアの哲学,就中プラ

トンの大いなる問題性である。教養,知の宏い世界へ日々目を輝かせて向か

うこと,それは特に日本人に目につく受身的な吸収とは全く違う。他者へ語っ

てみる,今諮ることで初発的に考えてみることであり,要点を捉えたり記憶

することではない。正しく筋立てて (composite),最かに言葉を広げであで

(copiose)艶やかに (ornate)語るべきである。哲学という深い英知の天

上への高まりよりも,弁論術はむしろ人心の媛,微妙なからみ合い,善悪の

闘争,現実に徹しかっ現実を越える弁証法にこそ真実を見る。弁論術こそヒュー

マニズムである。哲学の硬直・厳格・過度の上昇性を批判すること,哲学

(精神)に言葉の肉体を与えること,これが弁論術である。弁論術はがなり

立て,興奮し,目を血走らせて行うべきでは実はなL、。他者との聞に張り巡

らせる対話性,自己を深めることで他者を深める相五教育性を自覚するもの

である。弁論術は「話すJ1しゃべる」ことではなく, 1語り」である。「語

り」とは事実の報告(報道)ではなL、。イマジネーション,ファンタジー,

構想力 (Einbild ungkraft)で一つの今ここでの私の世界創造である。「あ

ることJ(1存在J)よりも「あらしめること」である。今ここでの心を込め

た形成である。哲学は実は常に今聞かれる一回性 (Einmaligkeit)でみる。

しかし力強くこういう姿勢がとれるには,言葉の道,言葉への道 Weg以

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キケロー裁判弁説の精神史的考察 79

上に UnterwegsC途上性〕に目覚めねばならない。

哲学は数理や科学に娼びる後追い思索ではない。そもそも「ひとは語られ

ざることには沈黙すべきである」というかのヴィトゲンシュタインの有名な

言葉は,諮ることの力を分かっていないことを示している。全ては語られる

のである。語ることは考えることの途上性〔歩み疲れぬこと〉を愛し,それ

に「殉ずるJ静離な情熱が大切である。「言葉を生きること」は「言葉を伝

達手段として使うこと」ではない。その次元の克服であり,その次元の融解

なのだ。

プラトンも先ず詩人として哲学の道へ入った。彼はソクラテスに出会い,

若い噴書いた詩を全て火中に投じたとされる(ディオゲネス・ラエルティオ

スの「哲学者列伝J)。しかし詩人であった若き時代をプラトンが持ったこと

こそ意義がある。「ローマのプラトン」キケローは若い時代のみならず生涯

の最後の日々まで詩を書くのをやめなかったω。彼はプラトンの宇宙論

crティマイオスJに示されている〉を受け継く'宇宙へ昇る心を詠った1九尚,

ブルクハルトも若い時,否, 30代になっても詩を作った。

詩人の魂の清例さは,哲学者の彫り行く深さと,弁論家の語りへの尽きぬ

愛とに鼎である。弁論家において実現されるしかない伝承,伝統,過去の偉

人の言葉世界の自己への吸収は哲学することにもこの上なく重要である。哲

学者の弁論家への昇華,弁論家への統合,弁論性での哲学の練り直し,この

ことをヨーロッパ精神史において自覚的に達成できたのはローマ人キケロ一

一人であった。

個の魂の探化への詩人の道は現実の自らの投ぜられ,自己の運命の場所た

る社会への力強い洞察と対決的批判の弁論家という哲人性の道によって成長

せねばならなL、。キケローの精神史的偉大さは正しくここにある。

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80 明治大学教養論集通巻511号 (2016・1)

7

キケローのこの上ない懐の深さをそして現実の苦労安理解すること・理解

してやることなしに,ただ彼の哲学と修辞学の「聖婚Jrこの上ない睦まじ

さJばかりを云々することは,キケローにのぼせた甘さの為せる業である。

彼の GRを貫きかっそこに秘められている困難色現実の様々の状況性,更

に要注意性へのキケローの慎重さを followせねばならなL、。彼は第一義的

には哲学者である。決して浅慮の人士が誤解するような政治家存在性が第一

義のキケローを成していない。しかし彼は活動だけでなく,理論的原理的著

作においても政治家である。彼の哲学は全面政治哲学であった。

ドイツ・ワイマール共和国の憲法もアメリカの独立宣言も,更にフランス

革命の人権思想もキケローなくしては生み出されなかった。キケローが政治

家であり,それ安全うしたこと,カエサルと常に対決し,独裁政から必死に

ローマ国家の屋台骨共和政を守ろうとしたこと,現実へのこうしたキケローあだ

のアンガージュマンが仇となり,哲学者としての偉大さが減価されてしまう

弊があると見るのは,こう見る者がキケローを貫く人閣の深さに迫ろうとし

ていない浅慮による。カエサルという政治の世界で活躍し,ローマ最大のリ

アリスト政治家,胸に秘めた野望の議しさそのちのたる存在が常に彼の前に

立ちはだかっていたからこそ,キケローは単なる魂の救済の哲学ではなく,

闘う哲学を創ることができた。そして政争とその明らかな表れたる裁判に

一一ローマーの「広いフィロソフィー」の達成者でありながら一一常にアンガージ品マン

関 与することによって言葉磨きを形作ることができたのである。

突飛であるが,私はキケローのカエサルとの対決にチャーチルのヒトラー

との対決に一脈通ずるものを感ずる。ヨーロッパの精神を悪魔的に巧妙な人

心懐柔と暴力(私兵聞と国軍をためらうことなく用いて)を以て破壊してゆ

くヒトラーにチャーチルは妥協なく対決し,結果としてヨーロッパ精神・ヨー

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キケロー裁判弁説の精神史的考察 81

ロッパ文化は救われたのである。我がキケローはカエサルの敷設した独裁者

支配に敗れた。チャーチルの勝利と栄誉にはキケローは浴せなかった。しか

し自分の死刑の運命を予知しつつも,絶望に投ぜられても,彼の「ローマは

失われた!Jの嘆きを「友Jとしつつ,弁説と哲学・倫理学審の精励な執筆

で非ヒューマンな悪魔の道と闘い続けた。私は思う,ヨーロッパ精神史はキ

ケローに先ず感謝すべきであり,チャーチルのヒトラーとの徹底的戦いはこ

のキケローの作ったヨーロッパ精神史を守ってくれたのだ,と。ヨーロッパ

史を考える場合,間洋史家たちまた今日盛隆華々しいアナール派歴史学は,

キケローの果たしたヨーロッパ精神の形成に思いを馳せないのはいかがなも

のか。またチャーチルをキケローに結びつけて,ヨーロッパ精神史の最大の

危機の救済者チャーチルという大きな視界をチャーチル研究家,つまりヨー

ロッパ政治史に集う学者たちが持っていないのは,彼らがヨーロッパの真いしずえ

の礎ローマ精神に目を聞かれていないからである。

8

私は哲学徒であって法学者ではない。ローマ法史の専門家でない。ローマ

の「広いフィロソフィー」そしてその心臓を成す言葉表現の瑞々しい波動に

大いに心引かれてキケローへ向かった私である。しかし「キケロー学び」の

歩みにおいて,自分でも驚く程彼の GRに心が聞かれ,かつて夢想、だにしな

かった法廷活動のキケローそして法の世界,法という世界に学ぼうという情

熱が湧き出てきた。船田享三の会五冊の『ローマ法J(岩波書庖)はキケロー

のGRに筆を染め始めた頃から私の座右の書となった。吏に Th.モムゼン

の『ローマ法J(Romisches Staatsrecht),それ以上に彼の『ローマ刑法』

(Romisches Strafrecht) も懸命に?私は開巻してきた。法史と法による闘

争たる裁判弁説,この切り離せない両輪性は,哲学そして修辞学(言葉磨き

のテクネ一路)に自足しそうな私に新しい視野と心の境位を贈ってくれた。

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82 明治大学教養論集通巻511号 (2016・1)

先のモムゼンの有名な文言に, rローマ史を学ぶ者はローマ法を学ばねば

ならない。ローマ法を学ぶ者はローマ史を学ばねばならなL、」がある。ずば

り私がそれを掘り下げるなら,ローマ共和国史一一ローマ帝政史・セネカの

時代の前史一ーはローマ法の醸史なのである。先の船田の大著『ローマ史』

は大変な業績であるが,法制史家一般の枠を出ず,全く精神史が,それどこ

ろかそれ以前に国政史が一行も審かれていない。私は最近迄のローマ法の日

本の業績をそれなりに繕いたが,残念ながら瑞々しい精神史(的目)が出て

いない。彼にはモムゼン性が全くなL、。私が最初に読んだローマ法概論は原

田慶官の「ローマ法J(有斐閣)であった。法学部生ならいざ知らず,哲学

徒でかつ精神史学的な自の私には響き出るものは全くなかったことを覚えて

いる。尚,原田の名前を私が最初に耳にしたのは,高校3年 17歳の時であっ

た。世界史担当の北海道大学西洋史学科出身の M先生が授業中, r全く金に〈さび

もならない模文字の研究をした東大のローマ法の原田慶吉なる人物がいる」

と寄った。ローマ史のことを話している時である。この}言を私は鮮やかに

今も覚えている。この先生は自分が高校教師にあき足らず司法試験を受けよ

うと計画していたことを, 25年後私は先生宅を訪れた際,耳にした。この

原田の唯一冊のローマ法に関する書物(東大法学部での講義録〉を私は 65

歳になって(先の高校の師はこの時 80歳で存命だった)手にするなど,人

間の縁と出会いはわからぬものである。 65歳になっていた私は師に手紙で

このことを感慨一入に綴った。

改めてここから又キケローの GRを巡る問題に瞳を返す。先にキケローの

GRのクロノロジカルな一覧を挙げておいた。「広いフィロソフィーJrヒュー

マニティJ(人文学諸領域)への超人的関与とカエサル対抗でのローマ政治

の「祖父の遺風J(共和政のこと〉回復に日々骨身寄削っていたキケローは,

この一覧で分かるように,公法,民法の両方の多くの係争に弁説の名手とし

て加わったのである。しかも赫々たる実績を挙げた。およそ 9割方の裁判で

被告の救済に成功した。驚くべき勝率であったことも一覧表の示している

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キケロー裁判弁説の精神史的考察 83

「成功した」の注記の数ですぐ分かる。

キケローの GR・キケローの弁護人の活躍について 15篇からなる論集が

今から 11年前出版された川。この論集のエピローグはイギリスの現役法曹

界の人物 JohnLawsの「キケローと現代の弁護士J(Cicero and the Mod-

ern Advocate) という論文である。この中で「キケローは多くの現代の英

国の法律家よりもより良く法とその媒体が構成する artとlogicの均衡を心

得ている」と至極当然だったことを書いている 18)。このイギリスにおける非

キケロー性はむしろ日本にこそ顕著であろう。口下手人聞の天国日本には,

修辞と同道する闘争心,修辞と闘争心との共鳴する弁証法がなL、。キケロー

の余裕,この皮肉とユーモア溢れた弁説が当時の極端に不穏な荒々しくもあ

る騒然とした時代,ローマ共和政の晩鐘が鳴り響く時代に為されたのである。

しかも 90件にも近い数で口演されたことを我々はどう受け止めるか。哲学

徒もローマ法史家もこのことに臨場感・対面性を持ってキケローを考えたこ

とがあるであろうか。平和な時代ならいざ知らず,社会に政治権力の暴力が

常に靴音を響かせている時代,びくついて生きるしかない時代においてあれ

程の余裕・エンターテインメント性・聞かせる「かたり」が現われていたの

である。「はなしJに対して, Iかたり」の物語的深み,構想力・イマジネー

ションの羽ばたきと強調する坂部恵の『かたり」もキケローの GRへ向かう

我々の必読書である。

ローマの裁判弁説は多くの現役の政治家に担われたが,ーっとして内容が

伝わっているものはない。キケローの GRの見事さが他の全ての者の裁判弁

説を歴史に埋もれさせた。その意味でキケローはローマのホメロスとすら言

える。しかもキケローの GRは驚くべき数なのである。

キケローの GRについてとにかく為されたもの・口演されたものをそれら

に言及している書物を探索して一覧にした画期的研究書に私が出会い購った

のは今から 18年前 1997年のことであった。 JaneW. Crawford, M. Tullius

Cicero: The Lost and Unpublished Orations, Gottingen 1984がそれであ

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84 明治大学教養論集通巻511号 (2016・1)

る。 Oration(演説)とL、っても弁護弁説がほぼ全てであり,ほんの 3,4件

弾劾(告発)弁論が載っている。元老院や民会での政治弁説は入っていない。

総数はこの告発弁説も入れて 88件となっている。これらはほぼ名称だけで

一一誰誰の弁護演説というように一一口演そのものは失われてしまっている。おおやけ

クローフォード女史のこの著作は口演されただけで公に流布されなかっ

た,つまり筆写奴隷の手で書物とされてローマに出まわらなかった GRにつ

いて,何故それらは出版されなかったか,口演のままに放置されたか,逆に

何故,例えば『バルブス弁護』の場合のように口演とは違った弁護弁説が世

に流布されたか,つまり出版を認めたかについても見解が呈示されている。

彼女は先著から 10年後に,キケローの断片的に残っている(先著は名称

のみで伝えられている弁説を扱った)GRについてのこれ又前人未踏の仕事

である注解の作成を行った。 thesame, M. Tullius Cicero: The Fragmenta-

ry Speeches An Edition with Commentary, Atlanta 1994がそれである。

後著の方は不問とし,専ら前著 theLost a.U.O.の方について本稿は関わる

ことにする。

尚,キケロ -GR研究の金字塔と目されているのはグリニッチというオッ

クスフォードのフェローの手になる 600頁に及ぶ大著である。 A.H. ].

Grenidge, The Legal Procedure 01 Cicero's Time, New York 1901 (Reprint

1971)がそれである。そしてこの労作と並べて是非共開くべきフランスのキ

ケロー書がある。 Jules H um bert, Les ρlaidoyers ecrits et lesρlaidoires

reclles de Ciceron, Paris 1925である。日本の大学には所蔵されておらず,

ドイツ・コンスタンツ大学に依頼し送ってもらい複写した。 2007年のこと

である。

クローフォードの Cicero:The Lost and Unpublished Orationsが対決

している一書がある。ドイツ・ミュンへン大学のローマ修辞学史で名高いス

トローである。 Wilfried8troh, Taxis und Taktik Die advokatische

Dispositionskunst in Ciceros Gerichtsreden, Stuttgart 1975への Crawfordの

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キケロー裁判弁説の精神史的考察 85

不満と批判は,一文で尽くすなら,キケローが出版(世間への流布)を承認

した GRは演説展開が弁論 (oratio)・雄弁 (eluquentia)の模範となると

判断されたものであり,専らこういうケースに限るとしたストローの主張で

あった。ストローはクローフォードとは違ってローマ詩研究を専門とし,多

分 20世紀最も卓越したローマの修辞表現に関する研究者である。彼は私の

大いに心寄せているローマの哀歌『黒海からの手紙Jと艶話『愛の手ほどき』

そしてアレゴリー的作品(~変身物語j))で三つの顔を示したオウィディウス

研究でも読み応えのある作品を著した。

Crawfordは主たる対決者を Strohとし,一方, Strohは正面の敵対者と

して Humbertを立てている O 歴史的I1置からは Humbert--Stroh→ Craw‘

fordとなる。ここぞ振り返ることはキケロー GR理解に絶対的に必要であ

る。キケローの魅力は花咲く言葉世界であり,私にとって谷を隔ててキケロー

の艶やかさ,事柄に言葉を賦与する創造性に相対座していると思われるのは

唯一人 19世紀のスイスの大歴史家ブjレクハjレトだけである。

ストローは「キケローの建築術的技法J(die architektonische Kunst

Ciceros)を貫く構築性を讃えている山。空間の造営たる建築術は言葉の壮

大な構築に実にアナロジカルである。修辞的言説・修辞的哲学展開において,

キケローは言葉の態築術師・建築のマイスターとして一頭抜きん出ている。

キケローの「語り」は,バロック性に満ち満ちている。キケローにはルネサ

ンス性は全くなL、。バロック的存立の謎と本質はキケローの弁論への学び、で

実は捉えられるのではないだろうか。

坂部恵のヨーロッパ精神の視界もバロックの重要さを, しかもニーダーラ

ン卜(ベルギー)・バロックよりもスペイン・バロックをそしてスペイン演

劇の冠石たるカルデロンの意義を力説する則。私もそれに全く同感である。

スペインのバロック文芸と絵画への学びによって我々日本人のヨーロッパ理

解に大いに深められるべきことを『哲学者としての歴史家ブルクハルト』

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86 明治大学教養論集通巻511号 (2016・1)

(2014年)で多少述べた。坂部恵は, しかし,キケローの弁論の重厚で華麗

で霊気ある教育的熱情に全く気付いてはいなかった。ローマは決してギリシ

ア的に捉えられてはならなL、。むしろバロック的に見直されるべきである。

私はストローの前掲番号読み,こうも考えた。尚,坂部の不満を敢えて更に

出すなら,スペイン・バロック精神に決定的に働いたセネカの理解が全く見

当たらないということである。スペイン・バロックはセネカの悲劇作品への

反発と同感,それと同道するセネカの哲学作品への感動にこそ決定的に支え

られていた。これが長らくセネカを学んだ私の把躍である 21)。スペインの反

宗教改革(カトリック教会の浄化運動)とスペイン・バロック演劇はセネカ

に決定的につながっているというのが私の把握である O

ストローはアンベルのよ記のキケロー論が多くの研究者に引用されている

にも拘わらず,彼らがしっかりアンベルを読んだか疑問を呈し,読まれない

アンベルがそのまま絶大な喝采を受けていると,何やらキケロー的な皮肉を

提示している。尚,ストローの顔はその写真を見た私には仲々の皮肉屋だと

映った。

さて,アンベルの「評価されながらもしっかり読まれないままのJ(スト

ロー)の先の著作によると,ローマの弁論術・修辞学はギリシアの理論を実

践の際生かしていないとの指摘が為されている。原文の私の訳は大筋である。

C'est que, d'une facon, generale, la disposition de rhetorique

n'est pas adaptee a la pratique de la plaidoirie a Rome. Les theo-

riciens romaines n'ont pas su ou n'ont pas ore se degager de la

rhetorique traditionnelle qui est d'inspiration grecque. On sait ques

les conditions du discours judiciaire a Ahenes sont telles que rien

n'intervient pour modifier la marche de la demonstration oratoire:

precede de l'interrogatoire des temoins, disposant des le debut de

tous les el色mentsde la cause, le plaidoyer se developpe sans

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キケロー裁判弁説の精神史的考察 87

qu'aucune influence exterieure vienne modifier son plan initiap2),

裁判弁説の実際の運びから見ると,ギリシアの裁判弁説におけるレト

リックの位置・配分はローマの裁判弁説の実際の展開とは別物であった。

ローマの法律家たち(つまり裁判に出ている弁護人らと違って)は,ギ

リシア人のインスピレーションの表れである伝統となってきたレトリッ

クから自由になろうとする(ローマ的独自性を発揮する〉ことなど考え

てもいなか勺たし,思い切って自由になろうなど思いもつかなかった。

しかし実際の弁護の形態はそうではなかった(ローマ風に変わっていた)。

アテネの法廷のスピーチは状況の圧力(脅しゃ異常な雰囲気)が広がっ

てきているのを全く意に介さず行われた。つまり,ギリシアでは裁判弁

説は何ら外的なもの(裁判事件外部からその場で出てきたもの)に影響

されなかった(しかしローマはそうではなかった)0 (括弧内は私〕

要はローマの裁判弁説は,修辞の力がギリシアの場合と違って輸争への

言わば僕ではなく,大手を奮って一人歩きしていたとアンベlレは言うのであ

る。ずばり整理すると,ローマの裁判弁説は客観的筋立てよりも物語性,情

感喚起性に傾くというのである。それは歴史的に見て当然であると私は思う。

社会全体が「肉感的」であり,言葉表現(心に衣を着せること)に心が弾む

のがローマである。ギリシアのポリスは競争の社会,都市の活気がまだ現わ

れていない。ローマの首府ローマは urbanitas(都市性)に満ちていた。裁

判が dramaturgy(演戯性〉によって演出される「語りJ性をローマはギリ

シア以上に持っていたと見るべきである。「聞かせる弁論」こそはローマで

はじめて本格的になったと思われるが,当然である。

アンベルの雷うように実際法廷で口頭で為された弁護弁説(les

plaidoiries reelles以下,①とする〕と書かれた弁護弁説(lesplaidoyers

ecrits以下,②とする)は同じものではないことは誰にも理解されよう。

ただ①の復元は不可能である。どういう手段で①そ確保できるか。最も考え

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られ得るのはキケローの手紙の中で口演の弁説のおよそが振り返られている

のを見出す場合であろう O しかしそういう経路なしに,とても②の中での発

言など①で為された筈はなL、。後に入れられたものであると自然に考えられ

るという場合が結構あるに違いなL、。口頭では筋がなにがしか乱れたり,弁

護ではっきり語れなかったこと一一失念か故意で,多分故意のことが多かろ

うが一ーを文字で表しておこうとする,自分の雄弁力・弁護の漏れのなさを

永遠化したいというキケローの願いと意図があったのは当然である。ひとと

の対話・論談を改めて文章化する以上に,裁判という時に際どい,勝利の予

想が容易でなかった闘技といってよいものに,当日は敢えて口にしなかった

(むしろ控えた)ことを,あなたにも隠すことなく弁じ立てたとして世に知

らせることも別段いぶかしいことではない。事柄は一般論ではなく,一つ一

つの裁判弁説についてその残っている書かれたキケローの作品化した GRを

吟味せねばならなL、。裁判前の政治状態,原告側と被告並びにその弁護人と

の人間関係,政治的立場,原告の背後に控えている彼の支援者,この人物

(複数の場合も多いにあった)の力などを見定める努力が必要とされる。裁

判結果に対する予想される政界の対応にも気を配るキケローであった。彼は

慎重居士であり,決して糠喜びしなかった。終結した裁判に対し補足や言い

足りなかった原告非難を付加するのではなく,むしろ何を後世に伝えるかを

熟慮して書かれた弁説(実際とは異なる一種の創作)を彼は作ったに違いな

い。当日の口演の反省だけでなく,むしろそれ以上に闘いの烈しかったこと

を踏まえ,原告のあくどさ,背後に黙しておどしをかけている圧力の主への

皮肉とユーモアを入れ込んだ新たな闘いこそが改めて文言化された。これぞ

真の弁論であったと敢えて虚の部分を挿入し,読む者にローマ共和政 キ

ケローにとってこれこそが神聖なるもの・宗教であったーーを自分の後に付

いて護ってほしいとの言わば教育の願い・警世の必死の歌(語り〉なのであっ

た。こう私は考えている。裁判を傍聴した狭い枠を越え,当日臨席しなかっ

たローマ市民,否,子供,まだ生れていない将来の人聞にも書かれたものな

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ら読まれる。心ある者には共和政護持の力と決意を与えることこそが政治家

としての顕示欲以上に,キケローの本意であった。

政治家としてキケローは自分の偉大さに決して謙雌・控え目な人物ではな

い。裁判で他の共同弁護人一一基本的に二~四人の弁護人が演説した 中,

自分が主役であり,どんなに自分の演説が困難を切り聞き,勝利困難な闘い

を見事勝利に導いたか安世に知らしめる野心も大いにあった。そもそも自己

を見せること,野心を抱き込んで生きること,これはローマ人の政治'性の高

い生き方には何ら見苦しいこととは思われなかったと見るべきである。

書かれた GRと実際の口演の間,両者の関わり,相違についての研究は実

は17世紀後半から始まっている。 Martindu Cygneが著した Eゅlanatio

rhetorica et analysis orationum Ciceronis (1670)が研究史の第一頁を成す。

ローマ法学者の Friedrich1. Keller (1842) と同じく RichardHeinze

(1925) がその後漸くこの間題に向かった目)。しかし何と言っても Jules

Humbertの290頁強の小さな一書が画期的な仕事である。それはヴェルナー・

イェーガーのアリストテレス書 C~アリストテレス『形而上学』の生成史』

1912) における 20世紀アリストテレス研究の幕開けに一脈通じる偉業であ

る。

私はムーレーナ弁護(119-142) とミロー弁護(189-204)を『キケロー裁

判弁説の精神史的考察J執筆時に丹念に精読した。アンベルが言うように,

この二つの弁護は法廷の雄弁(l'eroquencejudiciaire) の chef-d'auvre

(傑作)と目される 24)。そしてこの二つは極めてスリリングな弁説である。

というのは弁説の確かき Cauthenticitる)が,つまり脅かれて残っている弁

説が本当に裁判のリアルな口演であったのかにつき論争が続き,容易に解釈

が落着しなかった。

「ムーレーナ弁護Jl (~ Jlは作品化されたもの,つまり書かれた方を指す)

はキケローが現役執政官に就任した 63年の 11月下旬の裁判を舞台とする。

読むと権力闘争が常態化してきた共和政末期のどろどろした人間模様が「見

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事」に活写されている。弁護側はキケローの他,かつてキケローに裁判で敗

れたそれ迄ローマの雄弁家と習められていた執政官職にも昇ったホルチンシ

ウスそしてやがてカエサル,ポンペイウスと三頭支配を敷くクラッススであっ

た。クラッススはこの時ボンベイウスと軍隊掌握を巡り緊迫した脱み合いの

関係にあり,激突は不可避の様相を呈していた。

さて,争いは何かというと,次年度執政官に当選したムーレーナをこの選

挙に敗れたスルピキウス・ルークスが選挙を巡る不正行為 (ambitus)で訴

えたのである。そして原告側弁護人四人中の一人はごりごりのストア派,や

がてカエサルの寛恕を拒否して自刃したあのカトーであった。その上

ambitusの法令を元老院に承認させたのはこの年の執政官キケローであっ

た(181年, 159年, 67年の ambitusに閲する法を更に厳しくした新法を

キケローは提出した)。

カトーは厳格主義者の紋たる者であり,選挙買収の中身の精査も多分せず,

怒り狂う程激していたし,現役執政官キケローが法廷で被告の味方をするこ

とも許せなかった。しかし事はこれだけではない。 62年度執政官選挙でキ

ケローが応援したのはなんとスルピキウスの方だった。であるから,スルピ

キウスがキケローを裏切り者とかんかんに怒ったのは当然である。何故キケ

ローはムーレーナの弁護を買ってしかも第一弁護人となったか。スルピキウ

スの武人的荒さとそりが合わなかったにも拘わらずキケローは選挙ではこの

人物の運動の中心になったが,そこにはローマ的人間関係の複雑さが働いて

いた。紙帽の関係上裁判の展開に筆は及べない。ただキケローが皮肉とユー

モアのこのよない「歌曲」を響かせ,カトー自身を微苦笑させ,結局カトー

を中心の四人の原告側弁護人も攻撃の厳しさを抑え,裁判被告の無罪と結審

した。この弁護で書かれているカトーへの皮肉とユーモラスな言葉が本当に

法廷でなされたかが解釈上の,真偽上の問題になってきた。

もし君(カトー〉の重厚さと厳格さに大カトー(カトーの曽祖父〉の

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キケロー裁判弁説の精神史的考察 91

礼儀正しさと愛想のよさを振りかけるなら,君の特質は現在でも最上の

ものだから,それ以 tによくなるわけではないが,少なくとも気持のい

い味つけをほどこしたものになるであろう o (66.谷栄一郎訳『キケロー

選集」岩波書庖〕

是非この弁説を読んでいただきたく,本稿を自にした方々に希望してこの

弁説を去る O

『ミロー弁護』をアンベjレは「キケローの関わった他の諸々の係争(裁判)

は時代の様・歴史は乏しく陵昧な知識しか我々に与えてくれないが,この裁

判のキケローの弁説(書かれた弁説)は他に似たものがない程我々は係争を

再構成できる」と言う紛。ミローが訴えられたのはクロディウス殺害につい

てである。残念ながらこの詳述もできない(是非拙著「キケロー裁判弁説の

精神史的考察』の 594-622頁を聞いていただきたく思う〉。クロディウスこ

そはキケローの最大の仇敵,否,天敵とすら言うべき男である。彼は姉のク

ロディア共々キケローを常に失墜させること,それ以上に殺すことを画策し

た。かのカエサルは常にクロディウスを前面に出し,キケロー攻撃を託した

のはキケロー自身のよく知るところでもあった。このクロディウスを路を譲

れ譲らないの手兵同士の争いで殺したミローの裁判であるO 彼は防御として

殺し,仕掛けた殺人ではないと主張した裁判である。キケローは「悪魔を片

付けてくれたJミローの裁判ではなにがなんでも生命の恩人ミローを救わね

ばならなかった。しかしクロディウスの陰にはとの時,つまり 52年単独執

政官ポンペイウスがいた。当時彼はカエサル以上の実力者であった。ポンぺ

イウスは何としてもミローを有罪に(死刑)にしたかったのは言う迄もない。

キケローはミローの自己防御としての殺害を飽く迄主張しながら,ポンペイ

ウスの怨みを買うことのないように事を運ぶ。ここでの弁護は先の『ムーレー

ナ弁護」と打って変わって,皮肉とユーモアを抑えて事実認定そしてクロディ

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ウスの日噴の悪党振りを,暴力 (vis)行使の常習犯であることを強調する

しかなかった。ボンベイウスに響く物言いは慎重に避けて。

私は先述の「キケロー裁判弁説の……』で次のように書いた。

Milonia (ミロー弁護を指すラテン語名称)は「アルキアース弁護』

と並んで最も修辞性に豊む麓郁たる芳香を発つ出来栄えを誇る。……自

分が実際の裁判で(ポンペンウスの陰に脅えて)いつものように旨く送

り出すことの出来なかった弁護を改めて書き,誰にも読めるチャンスを

与えたキケローの精励と誠実に我々は感謝すべきである 26)

カッシウス・ディオの「ローマ史J40.50.3-4は,次の逸話を伝えている。

結審後亡命先のマッシリア(今日のマルセーユ)で悠々自適の日々を満喫し

ていたミローへ Miloniaの写しが送られてきた。これを読んだミローは

「裁判の場でこんな弁護が為されたなら,私はここでしか手に入らない旨い

ボラを食べてなどいられなかったでしょう」と辛錬な返書をキケローに認め

たと伝えている。カッシウス・ディオは常に対抗心を持っていた史家である。

ミローのエピクロス的心情をキケローのストア派的なすぐむきになる性格に

対比させたディオであると或る論者は言っている2九

言葉の表現世界の含み,奥行き,仮面性を最も見事に示したこの修正を多

分大いに行った弁説は当時のローマのリアルな政治状況を伝えるだけでなく,

その中に複雑な思いで闘いつつ生きるキケローの諦念と明るさが出ている。

裁判での弁説とその後書き残された弁説は,当然後者にはフィクショ

ンが多く含まれている。しかしストローがし、みじくも指摘するように,

たとえパラドクスに聞こえようと,書かれた弁説の実際の弁説とは異な

る言わば孟クシ1長(作り事〉をもローマ社会の現実と受け取らねばならな

いとすべきであろう。ここに私は「物語Jr語り」の持つ事実以上の意

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キケロー裁判弁説の精神史的考察 93

味,価値,真実性を執拙に説く坂部恵の「かたりJ(弘文堂 1991年)

を思い浮かべるのである 2九

漸くここで我々は既出のクローフォードの著書に触れたい。 GRとして残

されているキケローの言葉世界は哲学的人間学の深さそして輝きすら湛えて

いる。第一義的に哲学者であるキケローの政治,社会,入閣の心理(深層心

理にも及ぶ)に関する省察は哲学的に響く。そもそもキケローのあらゆる著

作は GRと固く結び付いている。しかもそれに手紙(約 900通残っている〉

が寄り添って鼎を成している。

キケローのみがローマの裁判弁説を歴史上残せたのであるが,つまり他の

者の裁判弁説は全く伝えられていないのであるが,弁説の中にクローフォー

ドの探索したように,失われたもの,公刊されなかった弁説 90程が他の様々

の文献に言及されたものとして伝えられている。 orationesvel deperditate

vel ineditae ex testimoniis cognitaeとラテン轄で記されてきた裁判弁説

である。「或る裁判弁説が為されたことが証拠 (testimonia)によって確か

に知られているのに,何故それ(それら)が保存されなかったか。失われた

ものは全てキケロー自身によって出版はされたものの,その後古代ないし中

世に失われたのか,或いは大抵の学者が信じているように,それらのどれも

キケローの手では出版されなかったのか。最も可能性のある容はこのこつの

極論を結び合わせたものである。すなわち弁説のあるものは疑いなく出版さ

れそして失われた。他は一一恐らく大多数一一裁判後すぐには (tobegin

with)出版されなかった」。こう著者は口火を切る紛。

そもそも出版 (publication)とは,キケローの時代,今日の意味或いは

中世からの意味での出版ではない。出版というより流布 (circulation) と

いうのが正しい。要するに人から人へ渡る回し読みであり,複写が為される

(ぼちぼちとか次々とかの別はあるにせよ)。これが書物が読まれ中身が知ら

れる多分唯一の在り様だった。従ってキケローが弁説を出版する意閣を持た

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なかったら,彼はその複写を流布させる(出回らせる)ことをたとえ親しい

友人にもしなかった。「出版するということの意味することは視写が友人・

仲間(政界の)そして一般市民に達する(広がる〉ということである。出版

号車むという気持ちがあれば,一部コピー会或る者に与え,それが広められ

ることを口頭や態度で承認することである」と著者は或る論者を引用するω。

こういう前置きに続いてクローフォードはキケローが裁判弁説を出版(流

布)させる動機に進む。そして逆に出版を差し止める動機にも。

無論,出版(流布)は裁判での実際の弁説を世に(友人枠だけでもか,一

般市民迄広げてか,は微妙である。人の口安封ずることは出来ず,窓口を限っ

ても噂は広がる〉広めることにキケローがゴーサインを出したからであるの

は言う迄もない。人心に残したくない,言いたくない,自分が隠したい事柄

ーーたとえ裁判の席で公言しでもーーは書かれたものの形で残したくないの

は当然である。

裁判での勝利に決定的に力となった自分ぞ世に知らしめ,政界での支持を

大きくしたい意図も政治家でもあるキケローには当然あった。負けた裁判で

も,原告の方が悪いのに,力及ばなかったこと, しかし弁説は聞かせるもの

だったと世に露にし,自己弁明する意図もあって「公刊」することも何らお

かしくない。出版(流布)をよしとすること,その反対に出版(流布〉を止

める(断念する)には,一様でない複数の理由,更に入り組んだ理由もあっ

た筈である。政治街道で前進するには名声,賞讃,ファン的支持(層〉が必

要であるし,それだけでなく仮面を,時に厚い仮面をつける必要があるのは

例外などない厳然たる政治家の事実である。誠実正直一路など政治の世界で

は身の破滅である。

クローフォードは,キケローが弁説をとにかく出回らせた動機についてス

トローを批判する。ストローが,弁説の冴え,見事さ,言葉の修辞的説得性

の模範として自己の弁説を誇り,世に教育(雄弁教育)を施そうとしたと主

強することに彼女は反対する8~ストローはキケローは政治的見解形成

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キケロー裁判弁説の精神史的考察 95

(politische Meinungsbildung)を意図して出版したという最も説得的な従

来からの捉え方を拒否する。そしてストローは言論教育(魂の言葉による造

形)が専らキケローに意図されたと説く。クローフォードは通常の政治的効

果を求めてという解釈にまた復する。彼女はキケローの味方としての政治認

識の醸成と浸透こそが,裁判をそもそも貫く政治性一一確かにローマの精神

史のー駒であったーーに鑑みて,大切とし出版を決したとする。

そして一方,出版を断念した場合の理由も政治状況を劃酌し,過激に走っ

たと思われる弁説は世に知らしめないという政治的配慮であるという基本線

接彼女は穏当に(これ諮の大方の読みに服して)再び主張する(率直に言っ

て,私の見解は両者を抱き合わせるものである)。

とは言え,彼女は実に精細に 90近くのキケローが行った GRの間接的報

告(伝承とすら言った方がよいかも知れない〉を分析して,キケローの出版

断念の深層心理へ向かった。また失われた弁説がなぜ失われてしまったか,

どういう経緯か,どういう力が,風圧があったか。自然消械的としても,出

版されたらしいのに何故消えたのか,消されてしまったのか,具体的に追跡

する。残念乍ら,彼女の followする細やかな目に就き従うことは紙帽の関

係でできない。別の機会に彼女の分析を検討する所存である。

9

政治史,法制史,経済史,文化史,芸術史などに並んで社会史がある。ギ

リシアとローマに関して,ギリシア社会史よりはローマ社会史の方が枠付け

として適用する。つまり社会なるものの存在はギリシアよりもローマにこそ

安当する。ローマ社会の一大モニュメントは,私に言わせると,裁判でああ。

裁判の活発な社会性こそローマ精神史の本質をなす。私の今から 5年前公刊

された「キケロー裁判弁説の精神史的考察Jは一種のローマ社会の構造研究

の意味を持っている。社会学は社会科学,実証的調査に専らの哲学のない個

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通巻511号 (2016・1)明治大学教養論集96

別科学に収まり切れないのである。社会学は哲学から独立できるとは私には

カライブニッツ,また哲学も哲学者の思想(プラトン,思われない。一方,

サルトルなど〉の細やかな研究に止まってはヘーゲル,ハイデガー,ント,

このことを私に教えならなL、。彼らの時代と社会へ目を向けるべきである。

てくれたのはジンメルであった。

キケロー我々は裁判弁説 (forensicspeech)にのみ目安向けているが,

されたものの議会,民会弁説 (politicalspeech)についても出版(流布)

とそれをキケローが断念したものに二分されることも知っておくべきである。

クローフォードは年代を四つに区分し, political speechとforensicspeech

の公刊の有無の一覧表を作ってくれたB九

恐らく出版された

(公にされた)数されなかった数

ρonLn6RMQurDAURU

唱1

A

A

ソ白・『ム

TA

ハU

i

OAUAUnunU

法廷弁説

政治的弁説

法廷弁説

政治的弁説

法廷弁説

政治的弁説

法廷弁説

政治的弁説

69-60

59-50

49-43

80-70

の公刊59年カエサル (59年執政官〉が苅者院の議長録 (actasenatus)

この

ことがその後キケローの弁説が公にならなくなっていった理由であるのは間

違いなL、。

を導入したことで,議員たちは発言に気をつけるようになっていった。

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キケロー裁判弁説の精神史的考察 97

《注〉

1) 坂昔日恵『現代精神史序説~ 153頁。

2) 坂部問書 167頁。

3) 角田霊祭彦「ローマの博学者ウァロ(その1)Jo 4) 角田幸彦文献表⑪20頁参照。

5) G. Patzig 文献表⑪S.308.

6) Wolfgang Schadewaldt 文献表⑫S.699.

7) レオ・シュトラウス 文献表⑫27頁。

8) 角田幸彦文献表⑫序文i-ii。

日) 文献表@4-5頁。

10) 文献表⑨689-690頁。

ll) 文献表⑨29頁。

12) Cicero, De Orator 1 158ff.

13) Cicero, Orator 120.

14) Cicero, Orator 124.

15) ]. Soubrian, Ciceron Aratea Fragments Poetique, Paris 1972, p. 1.

16) 角田幸彦文献⑨39頁にこの詩のラテン語原文と拙訳が出ている。

17) 文献表(j)。

18) 文献表①p.414.

19) 文献表⑤S.8.

20) 坂部恵文献表⑬102頁,⑫37頁。

21) 文献表⑫第 7章3,rフランスにおけるセネカJ(237-245)を読まれたし。イタ

リアの 16世紀の古典学者スカリジェは, rセネカの独創の才はL、かなるギリシア

人にも.かのエウリピデスにも劣らない。彼の詩の,音の,精神そのものの卓越

性も然りであるJと述べた(上記拙著 251買)。セネカこそスペイン・バロック

演劇の生みの親である。

22) J. Humbert 文献表④pp.82-83.

23) W. Stroh 文献表⑤S.7.

24) J. Humbert 文献表④p.119.

25) J. Humbert 文献表④p.189f.

26) 角図書評彦 文献表⑨595頁。

27) J. N. Settle, The Trial 01 Milo and the other丹'0Milone, in: T AP A 94 (1961)

pp. 268-280.角田幸彦文献表⑨595頁を読まれたい。

28) 私はホメロスを一書にすべく草稿を作っている。この行程で坂部の「かたり』

に深く感応してきた。

29) 文献表(Dpp.I-2.

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通巻511号 (2016・})

30) Crawford 文献表①p.2. J. J. Phillips, The Publication 01 Books at Rome in

the Classicα1 Peri口d(Diss. Yale 198}) pp.16-17.

31) Crawford 文献表①p.6“

32) Crawford 文献表①p.12.

明治大学教養論集98

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角田幸彦『キケロー裁判弁説の精神史的考察』文化書房博文相斗 2010年。

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『政治哲学へ向けて一一政治・歴史・教養(キケローとプラトン,ゥーィーコ,

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坂部恵「ヨーロッパ精神史入門

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キケロー裁判弁説の文献は特に本稿に関わったもののみ参考文献(11頂不同)

An Edition with

Die advokatische Dispositionskunst in Ciceros

The Fragmentary Speeches ②

3刷)ー1944年(1983

カロリング・ルネサンスの残光』岩波書庖, 1997

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キケロー裁判弁説の精神史的考察 99

⑫ レオ・シュトラウス「古典的政治的合理主義の再生」石崎喜彦訳,ナカニシヤ

出版, 1996年。

⑫ 角田幸彦編畜『精神史としての哲学史」東信笠, 1989年。

『哲学者としての歴史家ブルクハルト』文化書房博文社, 2014年。

「ローマ帝政の哲人セネカの世界一一哲学,政治,悲劇一一』文化

書房博文社, 2007年。

(かくた・ゆきひこ 元農学部教授〕