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インド農村部におけるジェンダー開発 桜美林大学国際学部国際学科 4 20627121 鈴木絵里加 牧田東一ゼミ 1

インド農村部におけるジェンダー開発...インド農村部におけるジェンダー開発 桜美林大学国際学部国際学科 4 年 20627121 鈴木絵里加 牧田東一ゼミ

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インド農村部におけるジェンダー開発

桜美林大学国際学部国際学科 4 年

20627121 鈴木絵里加

牧田東一ゼミ

1

目次 序章 ………………………………………………………………….3 ページ 第1章 女性差別の歴史と現状 ……………………………………5 ページ

第1節 ヒンドゥー教とマヌ法典 ……………………………5 ページ 第2節 イギリスによる植民地支配と女性差別 ……………7 ページ 第3節 女性差別の現状 ………………………………………8 ページ

第2章 近年の経済発展とその影響 ……………………………....10 ページ

第1節 新興国インドの経済発展 ……………………………10 ページ 第2節 経済発展によって広がる格差 ………………………11 ページ 第3節 農村女性の現状 ………………………………………12 ページ

第3章 ジェンダー開発の歩み …………………………………....14 ページ

第1節 ジェンダー開発の必要性 ……………………………14 ページ 第2節 ジェンダー開発:トップダウン型から参加型へ ....15 ページ 第3節 女性へのエンパワーメントの重要性 ………………16 ページ

終章 …………………………………………………………………..18 ページ

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序章 2007 年 2 月、筆者は初めてインドを訪れた。大学のインド国際協力プログラムに参加し、NGO訪問、ホームステイ、地元大学生との交流、農村滞在など、さまざまな体験をし、たくさんのこ

とを感じ、学んだ。 その中でも、筆者が最も印象に残った、と言うよりは、悔いが残ったものが、農村滞在であっ

た。この農村滞在は、あしたの会という NGO が女性に対し支援を行っているニンガオ・ボギ村

に3日間滞在し、ジェンダーと文化というテーマに沿って、1日調査を行うものであった。カー

スト制度と女性差別が根強く残るインドではあるが、あしたの会の支援の結果、ニンガオ・ボギ

村の女性はどの程度成長できたのか、女性差別は改善されたのか、を知るために、村の人々にイ

ンタビューを行った。しかし、筆者はインタビューを通じて、女性は男性に対し遠慮している印

象を受け、少なからず女性差別は残っているだろうと感じた。村の人々の返答と、筆者が目にし

た村人の日常に差を感じ、インタビューで得られた答えをどこまで信じていいかわからなかった。 しかし、初めて会う外国人の質問に全て本音で答えるということは考えにくく、村の女性の本

心を探るためには、まず、村の人々により接近し、打ち解けることが必要だと考えた。そこで、

筆者は同じ年の 8 月に、あしたの会でのインターンという形で、「農村女性の開発」という調査テ

ーマを持ち、再びインドを訪れた。約3週間のインターンでは、まず、都市部の図書館で、女性

差別に大きく関係しているであろう、教育、妊娠中絶、ダウリーなどのインドの法律と現状を調

べ、その後、ニンガオ・ボギ村に5日間滞在した。この度の滞在では、フィールドワークのよう

に、村の女性の1日に密着し、家事、畑仕事、家畜の世話などを一緒に体験し、まず、村の人々

に馴染むことから始め、同時に観察とインタビューも行った。 この5日間を通して筆者が感じたことは、農村開発において、あしたの会が女性にターゲット

を絞ったことは効果的であり、村の女性たちの中にも、SHGなどあしたの会の支援の成果を自身

で感じている人もいたし、筆者が客観的に見ても、SHG1に積極的に参加している人とそうでな

い人の差を大きく感じた。しかし、その半面で、あしたの会が行う物質的な支援や、どのような

支援を行うかという意思決定を主にNGO側が行うという、トップダウンとも言える支援の方法に

は疑問が残る。なぜなら、NGO側が行うべきと考える支援と、実際に村の人々が求めるものには

差があるように感じたからだ。村人は村の中で、電気や水道、教育など、問題意識は持っている

ものの、与えられることを望み、自ら問題解決へ動こうとはしない。現在あしたの会が行ってい

る支援の方法は、こうした村人の依存を強めることになるだろうと筆者は考えた。 そしてさらに、5 日間の農村での滞在を通して、そもそも、村の人々は支援を必要としている

のか、先進国や富裕層と呼ばれる立場の人々の介入は果たしてよいのだろうか、という根本に、

疑問を抱くようになった。インドで大きな問題とされている、ダウリーと呼ばれる花嫁持参金に

ついても、インドの法律はダウリーを禁止し、我ら先進国もダウリーに反対し根絶へ向けて動い

てはいるが、村の人々の多くは、法律で禁止されていても村の伝統であるダウリーをやめるつも

りはないと述べた。援助や支援と聞くと良い事をしている印象を受けるが、文化への介入や伝統

1 村の中で近所の女性が 10 名ほどで集まり、日常生活の悩みを相談しあったり、起業に必要な資

金を貸し借りし合ったりして、女性の社会参加や地位向上を目的に作られた自助グループ。

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の侵害ともとれるのではないか、と筆者は考えた。 しかし、この筆者の結論には矛盾点があり、あしたの会が行おうとする農村女性の支援に賛成

できる部分もあれば、支援自体の是非を疑問視する気持ちもある。開発と支援自体を進めるべき

であるのか、もし支援をするべきであれば、どの程度、そのような方法での支援が、被支援者の

要望に応えられるのか。インドをはじめ開発途上国では今さまざまな開発や援助が行われ、今後

もそれは続いていくだろう。そんな中、筆者が実際に体験したニンガオ・ボギ村でのあしたの会

の支援をもとに、農村開発における女性へのアプローチについて考えていきたい。

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第1章 女性差別の歴史と現状 インドではなぜ女性が差別されてきたのか。そして、世界的に人権や差別撤廃が主張される現

代において、インドではなぜ未だに女性差別が根強く残っているのか。インダス文明発祥の地で

あるインドの長い歴史をさかのぼり、第 1 章では、女性差別の歴史と現状を検証していく。 第1節 ヒンドゥー教とマヌ法典 紀元前 2500 年から 1500 年に繁栄したとされるインダス文明は、ヒンドゥー教徒の聖地といわ

れるインダス川流域、パンジャーブのハラッパー、シンドのモヘンジョ=ダロを中心に発展した

高度の都市文明である。そんな古代都市文明は、紀元前 1500 年頃、コーカサス地方からやって

きたアーリア人によって破壊され、アーリア人の侵入はその後のインド文化形成にも大きく関わ

ってくることとなる[山本 1960:10-14]。 アーリア人はコーカサス北方を原住地としていたが、遊牧生活をしながら中央アジア、北西イ

ンド、パンジャーブ地方へ広がり、インダス文明の栄えるこの地で原住民を征圧しながら定住す

るようになった。その後、紀元前 1000 年頃になると、アーリア人はさらに勢力を拡大し、ガン

ジス川とジャムナー川との両流域に、中国地方と呼ばれる、いくつもの小国家からなるアーリア

人勢力の中心地帯ができあがった。この頃に、これまでの多くの争いでの戦勝祈願の必要性から、

司祭階級としてのバラモンが大きな力を持つようになった。さらに、アーリア人は自らを先住民

と差別化することで、自己の族種の血の純潔を守り固有の宗教風俗を維持しようとする意識が大

きくなった。このような、社会的、宗教的な動きから、現在ではインドの代名詞ともとれるカー

スト制度が発達していくのであった[山本 1960:15-20]。 紀元前 6 世紀から前 2 世紀頃にかけて、バラモン層は、人々の行動の準則を確立しようと、ダ

ルマ・スートラと総称される文献群を作った。しかし、これらの文献はバラモン層の価値観によ

り作られたため、人々の行動の準則の確立は、同時にバラモン層を社会の最上位の身分とし、以

下クシャトリア、ヴァイシャ、シュードラと続くヴァルナ体制の社会を確立するものでもあった。

この種の文献は、その後もさまざまな形で編纂されていくが、中でも、紀元前後に編纂されたと

されるマヌ法典は、社会体制、価値体系、および行動規範の原型を総括し、さらに、バラモン層

の生涯にわたっての行動および生活のあり方を説き、これまでのダルマ・シュートラの集大成と

なった。そして、マヌ法典は、インドの伝統的な正統世界、あるいはヒンドゥー教世界の社会体

制、ヒンドゥー教徒の価値観や生活の深層部を支配してきたといえ、のちに古典法と呼ばれる、

法制および法規則の母体ともなるのである[渡瀬 1990:ⅰ-ⅵ]。 現在、インド人口の約 80%がヒンドゥー教徒であるとされているが、そもそも、ヒンドゥー教

とは、本来複数の宗教や文化が合わさってできたものの便宜的な呼称であり、明確な定義をする

ことは難しい。ヒンドゥーという言葉は、ペルシア語でインダス川流域に暮らす人々という意味

をであったが、インドに侵入したイスラム教徒がインダス川流域の原住民をヒンドゥーと呼ぶよ

うになり、その結果現在のように「インド人」を意味するようになった。さらにヒンドゥー教は、

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特定の教祖によって作られた宗教ではなく、インドの地に自然に生まれた民族宗教である。した

がって、崇拝や信仰の体系というよりも、むしろ習慣的な性格が強く、カースト制度など、人々

の生活全般を規定する制度、習俗を含んでおり、文化や生活様式と言い換えることもできる。そ

のヒンドゥー教世界の聖書とも言えるのが、マヌ法典なのである。 そして、今、インドで起こる女性差別の背景にはさまざまな理由が考えられるが、筆者は、マ

ヌ法典の影響が根本にあるのではないかと考える。 マヌ法典には、穢れという浄・不浄の概念があり、それが長い年月を経て、現在でも根強く残る

女性差別などを形成していったと言える。マヌ法典における穢れは、親族の死穢と産穢があり、

特に死穢を中心に記されている。二つのみではあるが、流産や月経による穢れを含む産穢につい

ては、以下の記述がある[小谷 1999:66-73]。 「5 章 62 節 死体によって引き起こされる汚れは全(サピンタ親族)が有する。誕生によっ

て引き起こされる汚れは父と母が有する。(あるいは)誕生による汚れは母のみが有し、父は

沐浴によって清浄となる。 5 章 66 節 流産のときは、(胎児の)月数の(昼)夜で清められる。月経中の女は月経が終わ

ったとき沐浴することによって清められる[小谷 1999:68]。」 このように、産穢は主に母に発生する汚れとされ、流産・月経などの穢れは、その本人にのみ

かかわるものとされていた。しかし、この種の穢れは誰にでも生じるものであると同時に、あく

までも一時的な穢れ状態であり、基本的には沐浴などによって、その穢れた状態からは脱するこ

とができる。それにもかかわらず、穢れの意識が差別という行動に実体化されたのは、なぜだろ

うか。それは、穢れを伝染するものとする観念が発生したからである。この実体化された穢れに

ついても、以下の記述がある[小谷 1999:66-73]。 「5 章 85 節 チャンダーラ2、月経中の女、パティタ3、出産後 10 日未満の女、死体、彼ら

に触れた者―これらの者に触れたときは沐浴によって清められる[小谷 1999:70]。」 ここに記されたように、穢れが身についているとされる者に触れることはもちろん、それらの

人々に触れた者に触れることでも穢れるとされている。つまり、身体的接触を通して、親族のみ

ならず、他人にまで穢れが伝染すると観念されているのである[小谷 1999:66-73]。 そして、マヌ法典には、妻の貞節についての記述もある。家庭における女性の地位は、以下の

ように記されている。 「5 章 148 節 幼いときは父の、若いときは夫の、夫が死んだときは息子の支配下に入るべ

し。女は独立を享受してはならない[渡瀬 1990:97]。」 2現在では不可触民といわれるアウトカーストの人々。 3共同社会の規範の侵犯により、共同社会から追放された者。堕姓者と訳される[小谷 1999:52]。

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すなわち、女に自立はなく、その生涯を通して女は男に従属するべきであるとされている。結

婚についても、父が娘を花婿に与えるという行為であり、与えるという行為によって、夫の妻に

対する所有権が生じるとさえ記され、夫と和合して家を守ることのみが、夫と同じ世界、すなわ

ち天界に到達できる手段であるとされた。しかし、マヌ法典などダルマ文献の作者たちがこれほ

どに女性に貞節と従属を強く求めるには、単に夫婦和合と天界のためではなく、現実的で切実な

理由があった。それは、ヴァルナ秩序の混乱を防ぐためである。女は魅力的で男を惑わし駄目に

する。その上女は、男の容姿や年齢を気にせず、男というだけで彼らを受け入れる。妻の不貞は、

同一ヴァルナ内で起こるとは限らず、異なるヴァルナの男との間にできた子どもはヴァルナが定

まらない。さらに、妻の不貞は家庭内に異なる血を持ち込む危険を孕んでいる。このような、ダ

ルマ文献の作者たちの女性観、社会秩序、家の問題が絡み合い、妻の貞節と従属が強く求められ

た。そして、妻の監視がもっとも効率的に行われる最善の方法は、妻が自分で自分を守ることで

あるとダルマ文献の作者たちは考えた。そのために、妻が家における彼女の役割と意義を自覚す

るように遇することが最も大切なことと考え、マヌ法典には、清め、ダルマ、料理、家具の管理

等に妻を参加させることなどを推奨している[渡瀬 1990:97-99]。 第2節 イギリスによる植民地支配と女性差別 2007 年 8 月 15 日、インドは、独立 50 周年を迎えた。ムガル帝国の統一的支配の崩れたあと

の 18 世紀中ごろ、インド国内は、中央部、北部、デリー近辺がそれぞれ独立した一国を形成し、

政治的分裂と戦乱のうちにあった。しかし、それらの地域ごとの小国たちは、その内部にすら分

裂や紛争の種を抱え、支配者たちの地位も脆弱なものであった。不安定な、陰謀と戦乱の中で、

ヨーロッパ商人たちの軍事的・商業的拠点としての植民市が、着実に発展しつつあった。ところが、

西洋人もまた、彼らたちの中で相争っていた。18 世紀に起こった英仏戦争はヨーロッパのみなら

ず、世界の商業権をめぐる争いとなり、直ちに植民地に波及することとなった。そして、イギリ

スとフランスの世界商業権争いはイギリスの勝利に終わり、インドにおいてもそれは同様で、ベ

ンガル地方をはじめ、イギリスの植民地化はますます広がっていった[山本 1990:150-158]。 イギリスはインドに対して、近代化を目指しさまざまな影響を与えた。 まず、イギリスの植民地支配によって大きく変化したことは、インド農業の自給体制と土着の

産業が組織的に破壊されたことである。地租の比率を上げ、さらに、地主に耕作者を追い出す権

利を認めたため、大多数の土地なし農民を生み出した。そして、多くの小土地所有者は、地租の

支払いのために換金作物を栽培するようになった。その結果、村の食糧生産は減少し、反対に、

綿花、ジュード、藍など、イギリスの工場制手工業のための原産品が生産されるようになった。

イギリスは、地租の比率を上げただけでなく、インドの伝統的な生産体系との結びつきまでも破

壊した。そしてさらに、インド産業が破滅的な結果を迎える。もっとも厳しい試練を受けたのは、

インドの繊維産業であった。1813 年、イギリスは、本国に輸入するインド産モスリンに 78%の関

税を貸し、他方、インドに輸入されたイギリス産綿布はたった 3.5%の関税でしかなかった。当然、

イギリス産の綿布のインドへの輸出は増加し、他方、インドの繊維産業は衰退し、膨大な数の織

布工や職人たちは農村へ戻ることを余儀なくされた。農業と工業のバランスが崩れ、農地は流民

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となった職人たちを抱えきれず、大量の失業、貧困、死をもたらした[ジョアンナ 1996:50-53]。 女性の問題についてのイギリスの影響は、インド女性にとって救いの手となった部分もある。

それは、1829 年のサティー禁止法に見られるような女性差別の緩和を目指すイギリス政府の行動

と、イギリス社会の個人やグループによる女性組織の形成と女性運動である。イギリス政府は、

1772 年から 1947 年の間に、女児殺しの禁止、サティーと幼児婚の禁止などを含む 9 つの法を導

入し、インドにおける女性の法的地位の向上を目指した。サティーとは、夫に先立たれた妻が、

夫の火葬の際に同じ炎に身を投じる募婦殉死であり、ヒンドゥーの宗教では浸透しているもので

ある。イギリスがインドの覇権を確立した 18 世紀後半、特に上位カーストの間では一般的に行わ

れ、その中でも、藩王の間では、道連れとなる女性の数がしばしば功名の証とされ、一人の藩王

の死に対して、20 人のサティーは通例であった。そして、時には 60 人以上ものサティーを道連

れにする者もあった。これをイギリス政府は法律で禁止し、独立州においても、英領州と同様、

サティー禁止に努めた[ジョアンナ 1996:53-57]。 また、1917 年からの 10 年間で設立された 3 つの主要な女性組織にも見られるように、イギリ

ス人女性の影響は大きかった。婦人参政権とインド民族主義を支持し、イギリスとインド植民地

政府を非難し、婦人参政権問題をイギリス政府に対して提起しようと、少人数のイギリス人女性

が音頭を取ったのである。こうして始まった女性運動は、女性の解放とインドの自由を融合する

ことによって、自らの主張の支持を勝ち取り、植民地主義撤廃の民族運動と連帯を結ぶことにな

る[ジョアンナ 1996:53-54,67-68]。 第3節 女性差別の現状 インドにおいて女性差別の問題として代表的にとりあげられるダウリー、妊娠中絶、教育の問

題について述べていく。

ダウリーとは、結婚する際に花嫁の家族が花婿の家族に持っていく花嫁持参金のことを指す。

本来ダウリーは、新しい家での地位を花嫁に与え、彼女自身の物といえるものを花嫁に持たせる

ことであった。インドのみならず、ヒンドゥー教の国や地域では普遍的な文化とされ、行われて

いる。しかし、この文化が女性差別であると指摘されているのだ。それは、ダウリーの金額が家

族の資産を越えるほど高額であること、花婿側がダウリーをゆすり取るまでになったこと、現金

のみならず家電製品や家具までをもダウリーとして要求されるようになったこと、ダウリーの金

額が花嫁の価値判断とされ場合によっては殺人にまで発展してしまうこと、将来ダウリーを支払

う重荷のために親が女児を生むことを拒むようになったこと、などが理由として挙げられる。1961

年に制定されたダウリー禁止法では、ダウリーをはっきりと禁止、それに対する刑罰も設定して

いる。しかし、人々にはダウリーは文化であるという認識が強いようで、実際にダウリー禁止法

制定から 30 年以上経った現在においても、特定のカーストや階級に限られず、普遍的にダウリー

の受け渡しが行われている。

インドにおける人工妊娠中絶は、妊婦の命、生活に関わるリスクのある場合、レイプ、避妊の

ミスなどを含む、妊婦の心身に重大な損害のある場合、生まれてくる子どもに重度な病気や障害

がある場合に、妊娠満 20 週まで認められる。そして、女児の出産を拒むことができないように、

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検診の際に男女の判断がついても、それを医師は親に伝えてはならない。さらに、違法の中絶を

行った医師は罰金を科せられる法律がインドでは制定されている。しかし、インド政府のデータ

によれば、すべての妊娠のうち 1.7%は中絶されたとされ、一年間に 400~600 万人以上が不法に

中絶したとしている。また、非政府組織のデータによれば、インドにおいて一年間に 670 万人の

妊婦が中絶し、そのうちの 5〜17%の妊娠は安全でない手術により死亡したであろうとされる。

さらに、『今 50 ルピーを払うか、将来 50 万ルピーを払うか』というポスター4が表すように、女

児を出産して将来 50 万ルピーのダウリーを払うよりは、今 50 ルピーで出生前診断を行い、中絶

した方がいいと、出生前診断を促すような動きが見られた。

また、教育の分野では、女性差別が顕著に現れる。2001 年のデータでは、インドにおける識字

率は、男性 78%に対して女性は 54%であった。女性の中でも都市部と農村部を比較すると、都市

部 64%に対して農村部の女性は 31%であった。インドの中でも、特に農村部の女性が教育を受け

られないことが分かる。さらに、小学校の入学率にも男女差は現れ、中学校や高校、大学への進

学率、ドロップアウト率にはさらに男女差が大きく現れている。女児が学校に行けない理由は、

家の手伝いのためや学校が遠いから、学校にトイレがないから、など、様々であるが、親が男児

に比べて女児の教育に消極的であることが大きな理由として挙げられる。女性の貧しさ、読み書

きのできないことは、幼児婚、母だけでなく家族全体の衛生と栄養の貧しさ、子どもの教育の無

関心を招く。それに対し教育を受けることは、自らの人生を選択できるようになり、不公正な社

会的苦痛に対抗し、権利を主張できるようになり、女性の世界と可能性を広げるものであるだろ

う。そのために、インド政府も動き始め、GDP の 5%を教育と健康のために使い、支出の 8.4%を

リテラシー、2.5%を教育に使うとした。

4 出生前診断を行わずに女児が産まれ、将来ダウリーとして 50 万ルピー払うよりは、妊娠中に

50 ルピーで出生前診断を行い、女児の場合中絶した方がいいという、出生前診断を勧めるポスタ

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第2章 近年の経済発展とその影響

近年、インドはブラジル、ロシア、中国とともに BRICs に数えられ、著しい経済成長を見せて

いる。大きな人口と古くからの伝統を持つインドは、どのような成長を見せたのか。そして世界

的にも注目を集めるその経済成長の一方で、インド国内ではどのような問題が浮き彫りになるの

か、検証してゆく。

第1節 新興国インドの経済発展

今後、飛躍的な経済成長が期待できる有力新興国として、BRICs が注目されているが、中でも

インドは、巨大な人口と豊富な資源を持つことにより、4カ国の中でも最も有望であると期待さ

れる。インドは、現在 11 億人の人口を抱え、2030 年には 14 億人を超えると予測され、中国を抜

いて世界最大の人口を持つ国となるだろう。また、その人口は若年層の割合が高く、それは経済

成長を遂げるにあたって非常に有利な条件である。もうひとつのインドの強みは、石炭やボーキ

サイト、鉄鉱石、天然ガスなどという天然資源が国内に豊富にあることである。そしてさらに、

インド人の英語力と数学力は群を抜く。これらの教養により、インドの経済発展の中心ともなる

IT 産業、医療産業が飛躍的に発達した [門倉 2007:3-7]。

かつてのインドは、世界経済に取り残され、実際に、経済成長率は高いときでも 5%台であっ

た。ところが、21 世紀に入り急速な経済発展を遂げ、2005 年の経済成長率は 9%を超え、今後も

それは維持されるだろうと予想される。経済発展の重要なカギを握るのが、11億人の人口である。

11 億人の個人消費は、特に富裕層や中間所得層を中心に、インドに巨大な消費マーケットを形成

し、外国企業のインド進出を誘うこととなった。そして、それに伴い、インド政府もこれまでの

国内産業を保護する政策を改め、外国企業の直接投資に対する規制を緩和する方向に政策を転換

した。さらに、これまで諸外国は、アジアにおいて、安い賃金を求め中国に注目してきたが、さ

らなる低賃金を探し、インドに目を付けた。インドでは、教育を受けた優秀な人材が低賃金で手

に入ることが、外国企業にとって大きな魅力となっている[門倉 2007:18-28]。

インドの経済において、急速に成長しているのが、コンピュータ・ソフトウェアの開発・販売

と、アウトソーシング・ビジネスを中心とした IT 産業である。1990 年代後半、世界的に IT 産業

がソフト化、サービス化され始めた。カーストが根強く残るインドでは、職業は世襲されるもの

であったが、IT など、新しい産業分野では、カーストに縛られず、誰もが職を求められる。カー

スト制度から脱却したいと考える若者の多くが、IT 産業で働くことを望み、さらに教養を身につ

けることで、インドの IT 産業は飛躍的な発展を遂げた。そして、IT 産業のみならず、インド経

済を牽引する、医療、製薬、映画などは、いずれも高い技術と知識が必要とされる。一部のイン

ド人は海外留学などで突出して高い教育水準をもち、これらの産業の発展を支えた[門倉

2007:64-72]。

このように、巨大な人口と豊富な資源という、インド特有の好条件から、インド経済は大きな

発展を見せ、世界からの注目を集める存在となった。

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第2節 経済発展によって広がる格差

先に述べたように、インドは今、目覚ましい経済発展を見せ、世界から注目されている。しか

し、経済発展によって豊かになったり、教育を受けそれを仕事に活かしたりできるのは、11 億人

のうちの豊かな階級のほんの一部の人々であり、カースト制度や女性への差別意識が根強く残る

インド社会では、経済発展によってさらに貧富の格差が広がることとなった。

これほど世界から、将来が有望であると期待されるインドではあるが、現在でも、1日 1ドル

以下の生活をしている貧困層の人々が、全人口の 35%にもなる。所得格差の指標についても、低

所得層の年収に対する高所得層の年収の比率が 4.7 倍となっている [門倉 2007:152-156]。

自国の経済発展のために、インド政府は 1991 年に新経済政策として、財政改革、産業改革、対

外経済への解放などを行い、その成果として、いまや世界から注目される存在となった。しかし、

国内に目を向けてみると、目覚ましく発展する IT 産業などの反面、取り残される分野がある。そ

れが、農業である。インドの農村のほとんどは、電気、水道、道路などがほとんど整備されてお

らず、その日その日の天候によって農産物の収穫量が大きく左右され、農村の人々はとても不安

定な生活を送っている。しかし、インド政府による農村に対しての政策、農業分野の改革は手付

かずのままとなっているのである。

グローバル化が進む現代社会では、多国籍企業の進出、貿易の自由化などが多くみられる。こ

れらは、インドの農村を貧しくする大きな要因の一つとなっている。国際市場における農産物の

相場は、一般的には豊作なら値は下がり、不作なら値が上がるという、不安定なものである。日

本など先進国においても、それは同様であるが、先進国とインドでは、グローバル化に対する政

策や保護制度が大きく異なる。多くの先進国は、全人口に対する農民の割合が低くなっても、農

産物の価格維持制度や、政府の買い上げ制度などにより、農民を保護する制度が整っている。し

かし、インドにおいては、国土の 70%、人口の 80%を支える農業に対してほとんど支援政策もな

いまま、グローバライゼーション下の価格競争、価格変動に投げ込んでいる[伊藤 2007:133-134]。

政府は、1991 年に始まった新経済政策において、肥料補助金と食料補助金を改革として掲げて

はいるが、いずれもとり残されたままになっている。肥料について政府は、生産コストより低く

設定されている販売価格との差を補助金でまかなっているが、そのために非効率的な肥料工場の

赤字経営が続いている。また、穀物についても、政府は価格支持制度を採用し、生産者保護のた

めの最低支持価格と、豊作年であっても穀物価格が暴落することを防ぐためのフロアー価格とし

て、政府買上価格を設定している。ところが、この保護政策のために、綿花、油種などから穀物

へと生産物の過剰転換が生じ、さらに、政府の買上も過剰となり、食料補助金を押し上げる要因

となり、これらの制度は機能を果たしていない、むしろ農民に混乱を招いているのが現状である

[絵所 2008:119-122]。

農業部門の不安定さは、統計を見れば一目瞭然である。2002 年から 2004 年までの経済統計を

みると、インド全体の成長率は 3.8%、8.5%、7.5%と、実に順調な成長を見せ、その後も毎年 8%

を超える経済成長を遂げている。ところが、農業のみの成長率に目を向けると、2002 年はマイナ

ス 6.9%、2003 年はプラス 10%、2004 年はわずか 0.7%のプラス成長となっている。世界は国全

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体の数字からインドを高く評価するが、その一方で、天候条件などにより毎年のぶれが大きい農

業は、不振を極めている。この不安定な状況は、金銭面だけでなく精神面など相対的に、農業従

事者には大きな負担となる。その結果、インドの農民の多くは、親戚や銀行、高金利な民間貸金

業者などから多重に借金をし、多重債務状態になっている。それゆえインドの農村部では、借金

の返済不能に困り自殺する者が後を絶たない。また、農業生産の行き詰まりにより自ら死を選ぶ

者も少なくなく、農業生産が大きく落ち込んだ 2002 年には、17,961 人の農民が自殺したという

統計が出ている[伊藤 2007: 134-142]。

このような農民の問題は、都市部で起きる問題とも大きく関係している。多重債務に苦しみ、

最後には土地も奪われた農民は、自殺を選ぶ者もいれば都市部に逃げる者もいる。借金や生活の

行き詰まりで、農村から職を求めて、都市に見通しもないまま逃げてくる人々は、スラムに住み

ついたり、路上で生活したりするようになる。読み書きのできない農民は、都市部に来ても低賃

金の仕事、不定期な仕事にしか就けず、農村よりも深い絶望の中にある。農村部の貧困は都市部

の貧困と密接に関係し、インドの格差社会をますます広めてしまうのである[伊藤 2007:

147-149]。

第3節 農村女性の現状

2007 年に筆者が訪れたニンガオ・ボギ村は、インドの農村の中では、比較的豊かな農村であったように

思う。街からのアクセスも車で 1 時間ほどで、携帯電話やバイクを持っている人も少なくなかった。村の近

くには工場があり、村の若い男性の多くはその工場で働いていた。教育についても、2007 年度には 66%、

2006 年度には 79%の子どもが高校へ進学した。

しかし、街から村への道はでこぼこで、村から街へ行くバスも平均 2 時間は待つという。電気も、村の中

心部には電線が繋がり街灯も設置されたが、電力不足で電気を使えることは滅多にないそうだ。電線を

中心部以外にも設置することや、電力を増やし停電を少なくすることを、村の人々は長年訴えてきたもの

の、約 10 年経った今でも、電力は不十分で、暗闇の中でろうそくを灯す生活を余儀なくされている。村に

は水道も整備されておらず、近くの井戸に水を汲みに行かなくてはならない。中には井戸まで 5 分以上歩

かなくてはいけない家庭もあり、生活用水全てを井戸から汲んでくる村の人々にとっては、大きな負担とな

っている。道路、電気、水道などいわゆるインフラ整備については、村の人々は長い間問題意識を持ち、

村政府へ改善を訴えてきたそうだが、国や村としての取り組みはなかなか進展せず、国が行うべき村の整

備が置き去りにされている。特に、幼い子どもを持つ母親は、水の衛生が何よりの心配事と言っていたが、

改善されるには長い時間がかかるだろう。

村の人々の日常生活は、女性と男性で大きく異なる。男性の中でも、20〜30 代の働き盛りの男性は、

先にも述べた通り、近くの工場へ働きに出る人が多く、他には、軍隊へ入隊し、半年に一度しか家へ帰っ

て来ない人などもいる。歳をとった男性は、女性と共に畑仕事をする人が多い。しかし男性は、仕事に行

く前と終わった後、女性が家事をしていても手伝おうとする人は見受けられなかった。性役割分業がはっ

きりと感じられた。これに対し女性は、仕事の量が多く、肉体的にも精神的にも辛いのではないかというの

が、著者の率直な印象だ。料理、洗濯、掃除、子育て、家畜の世話、畑仕事を、1 人で行うのだ。洗濯は、

手で一枚ずつ石鹸で擦りながら行い、家畜の散歩に出かけ、作物の収穫を 1 人で黙々と何時間も続ける。

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筆者が収穫を手伝った畑は、インゲン豆を育てており、あまり広い印象を受けなかったが、3 時間程 3 人

で黙々と収穫しても、畑の 4 分の 1 も終わらなかった。これを普段は女性が 1 人で行い、収穫後のゴミ取り

や仕訳も 1 人で行うという。また、村の女性の中には、葉を焙り粉にしたものを歯にこすりつけている人が

見受けられた。これは中毒性のあるたばこのようなものであり、貧しい人や肉体労働をする人に多いとい

う。

インドの都市部においても同様ではあるが、農村部では特に、文化的背景から男性と女性の性役割分

業は根強く浸透していると著者は感じた。男性の仕事に比べ女性の仕事は、拘束時間時間も長く、仕事

に出る男性の世話でもあるにも関わらず、女性に対し男性からの評価や報酬はなく、女性自身も、昔から

の習慣であるとこのジェンダー差を不当と感じていない。夫婦間でのお金の使い道についても、男性が稼

いだお金だから、と、女性は意見を主張できずにいる。

筆者が訪れた村では、あしたの会という NGO の支援の成果もあり、徐々にではあるが、女性の知識と

能力が高まり、就学率も昔に比べ高まったという。しかし、教育によりダウリーや幼児婚を禁止した法律の

存在を知りながらも、伝統であるものを求められた場合は断れないと言った。また、インドでは政府の役人

の 33%を女性で構成すると定められ、村政府においても当てはまるが、著者がインタビューを行った村政

府で働く女性は、積極性が感じられなかった。この女性は、夫とその家族に勧められ役人に立候補し 3 年

間役人でいるが、村政府の会議では一度も意見を言えず、村の女性たちで話し合った要求や意見も、男

性の前では萎縮してしまい主張できずにいるそうだ。男性が優位である社会で生まれ育った女性たちに

とっては、その環境が当たり前であり、伝統を変えることは容易ではないが、女性が自身に価値を感じ、正

当に評価される社会を造ることが必要だと、筆者は感じた。

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第3章 ジェンダー開発の歩み

第二次世界大戦後、旧植民地が徐々に独立し、それに伴い、これまで世界ではさまざまな支援

や援助が行われてきた。開発途上国と位置づけられる国々では、どのような支援が地元の人々に

とって最良のものであると考えられ、実行されてきたか、これまでのジェンダー開発の歩みを検

証してゆく。

第1節 ジェンダー開発の必要性 インドのみならず、世界中において、女性は男性に比べ、不利な立場に置かれている。世界の最貧困

層の 10 億人のうち 5 分の 3 が女性であり、識字能力のない世界の成人のうち 3 分の 2 は女性である。女

性が無報酬の時間の 70%をあてる家族の世話に対しても、世界経済に対するこの貢献は未だに統計に

表されていない。成人女性の半数までが、親密なパートナーからの暴力を経験している[UNFPA

2008:28]。全世界のジェンダー開発指標においても、女性の指標が男性の指標よりも低く、1999年にお

ける国会の議席数は、女性は全世界で 12.0%、開発途上国においては 10.0%と、女性の社会進出は男

性に比べ、圧倒的に少ないことがわかる[田中 2002:12]。

第二次世界大戦後、旧植民地は次々に独立し、これまで植民地化してきた先進国らの援助を受けな

がら、近代化を目指し、開発が行われてきた。1980 年代には、世界銀行や IMF の主導により構造調整政

策が導入された。その結果、医療や教育などへの資金が削減され、また、公務員の削減や給料の削減な

どが行われ、その影響は特に、社会的弱者や女性に及んだ。労働市場において、女性の解雇や賃金の

低下がもたらされ、女性の無償労働の負荷をさらに増やすこととなったのだ[田中 2002:12-13]。UNDP は、

「女性の間で貧困が拡大しているのは、労働市場において女性が不利な立場に置かれ、社会保障制度

や家庭内での女性の地位や権限が不当に扱われていることに原因がある[田中 2002:13]」と指摘してい

る。

開発において女性に焦点があてられたのは、1970 年代に生まれた女性と開発(WID)という新しい概念

である。WID とは、開発学と女性学を理論母体とし、それまでに行われてきた経済開発が男女に異なる影

響を及ぼし、特に女性には負の影響が大きく及んでいることに着目したものである。女性は経済、特に農

業生産において重要な役割を果たしていながらも、開発過程から排除されており、女性の地位を向上さ

せ、開発をより効率的にするには、女性を開発過程に統合することが必要であると主張した。こうして、近

代化は自動的に女性の地位を改善させるという根拠のない仮定へ疑義を唱えた。時代が進み、1980 年

代になると、開発と女性の関係は、ジェンダーと開発(GAD)という概念へと変化することとなった。男女の

社会関係すなわちジェンダー関係、その中で女性は男性より劣る存在として従属してきたジェンダーと、

そこから生じる諸問題が社会的に作られてゆく、その作られ方が注目されるようになった。女性の男性へ

の従属を変えるためには、社会構造とそこでの権力関係を見直すことが必要であると主張した[村松

2005:50-55]。

ジェンダーの平等は、女性が持つ当然の権利であり、またそれは開発や平和に不可欠なものである。

女性が弱い立場に置かれるのには、多くの社会で文化的な信条や習慣が大きく関わっているが、その文

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化的固定観念が、女性への差別意識や暴力へつながる。女性に知識と能力がないこと、すなわち女性の

貧困は、家族計画ができないゆえの人口問題、HIV/AIDS の蔓延、妊産婦死亡率の低下など、やがて

世界の貧困となる。女性の権利であるジェンダーの平等のためには、女性自身が選択する能力を持ち意

思決定を行えるようになること、すなわち女性のエンパワーメントが、最も必要である。女性のエンパワーメ

ントは、女性の知識と能力を高め、女性自身の意思決定や夫婦間での意思決定に参加できるようになり、

やがて社会参加、ジェンダーの平等へとつながる[UNFPA 2008:27-41]。

「女性のエンパワーメントおよび意思決定の過程への参加と権力へのアクセス(参入)を含む、社会

のあらゆる分野で平等を基礎にした完全な参加は、平等、開発および平和の達成にとっての基本

である[UNFPA 2008:27]。」

第2節 ジェンダー開発:トップダウン型から参加型へ 第二次世界大戦後から今日まで、世界では様々な開発が行われてきた。しかし、開発というものの考え

方は、開発事業の実践とその試行錯誤の経過からの反省を活かしながら、変化してきた。1960 年代に支

持された考え方は、開発とは経済成長であるといるものである。経済活動を活発にすることが最重要であ

ると考えられ、インフラストラクチャーの整備が行われた。道路や空港、鉄道などを整備することで産業が

発展し、その効果はやがて社会全体に行き渡ると想定された。つまり、トリックルダウンの考え方である。貧

困の原因を資金不足ととらえ、資金を外国からの援助で補った。開発の方法も、産業革命以降の西ヨー

ロッパの経験から、開発途上国を西欧化することが近代化とされた。貧しい人々は西欧に従うという、トッ

プダウンの考えが根底にあったのだ[斎藤 2002:5-6]。

このようなトップダウンの考え方は、近代化と共に、色々な問題を提起するようになった。中でも、最も問

題視されたことは、経済成長の恩恵が、平等に行き渡らなかったことだ。特権階級は富を得たが、社会的

弱者は貧しいままで取り残され、貧富の格差をより大きくさせた。このような反省から、1970 年代または 80

年代に見られるようになった新しい開発への考え方が、ボトムアップである。開発は、単に経済規模を拡

大させるだけでは達成されず、多様な途上国の開発は西欧の開発の結果を容易に移転するようなもので

はない。開発は、それに取り組む過程であり、人間の生活を中心に開発をとらえる考え方である。これま

でのように、知識人が途上国の人々に一方的に解決策を提示するのではなく、途上国の政治や社会、文

化的側面を考慮に入れながら、途上国の人々の目線で、貧困を克服するための開発を目的とし、途上国

の人々と開発の関係者がパートナーとなり開発を進めていく。お互いを尊重し合うその地道な開発の過

程が重視されるようになったのである。そして、開発途上国の人々を受動的な受け手と見るのではなく、開

発の主体的担い手と考えるようになった。途上国の人々が、自ら問題を解決するために能力を伸ばして

いくこと、つまりエンパワーメントが、貧困解決の本質である。そして、開発を途上国の人々自身が主体的

に参加し進めることが、最も重要な過程であると考えられるようになった[斎藤 2002:6-11]。

そして、1990 年代には、参加型開発という概念が登場した。ここにおける参加とは、トップダウン的に、

政府や援助機関が実施する開発プロジェクトに途上国の人々を参加させるという表面的な意味ではない。

地域住人たちと支援側が共同でプロジェクトを行うために、専門家が地域住人の活動に参加するというの

が、参加型開発の本来の在り方である。住人たち自身の将来に関わる開発活動の過程に参加し、意思を

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表明するという決定権を通じて、社会の資源配分や様々な仕組みへの交渉力を増すことができる。これ

が、個人や集団のエンパワーメントにつながるのだ。途上国の人々が自信を持ち、交渉力を高めることで、

社会的変化を実現させることができ、開発専門家は、それをサポートする役割なのである。そうすることで、

開発プロジェクトを進める地域住人には当事者意識と責任感が高まり、オーナーシップが確立され、開発

に対しても協力的になるのだ。その結果、開発の効果と効率性も高まる。このような参加の過程を途上国

の人々が経験することで、色々なことを学習し、能力を伸ばし、エンパワーメントが実現されていくのである

[斎藤 2002:11-15]。 第3節 女性へのエンパワーメントの重要性 筆者が訪れたニンガオ・ボギ村では、あしたの会という、主に農村女性の開発を行う NGO が

支援を行っているが、筆者はその活動がトップダウンである印象を受けた。なぜなら、あしたの

会が行う物資的あるいは金銭的援助は、あしたの会が支援の方針を決定し、一方的に与えている

ように感じたからだ。村の人々はあしたの会に対し、新しい本や教科書がほしい、机や椅子がほ

しい、校舎を囲む塀がほしい、トイレがほしい、など、たくさんの要求をしてくる。しかし、村

の人々は自らその目的のために動こうとはしない。言えばくれるから言ってみようとでも言わん

ばかりだと筆者は感じた。実際に、トイレを作るプロジェクトにおいて、2ヶ月で8割を NGO側が作り、残りの2割を村の人たちに任せたところ、2年間後、やっと完成したそうだ。小学校

に寄付された本や教科書はすぐにぼろぼろになり、落書きされ、どこかに持ち去られたという。 このような物資的な支援は、村の人々の NGO への依存を招き、自立して生きていくためには

なっていない。自分の望みを自分で叶える力をつけること、つまりエンパワーメントが開発の基

本であると筆者は改めて実感した。 ニンガオ・ボギ村のみならずインド農村部、あるいは都市部においても、近所の成人女性たち

の集合による SHG(Self Help Group)という自助グループが形成され、日々の悩みや仕事の相

談、ミシン教室、企業会議、資金の貸し借りなどさまざまなことが行われる。SHG は、男性と対

等に発言できない女性たちに、女性のみで話し合う機会を与え、女性同士で悩みを分かち合い協

力し合うことで、一人では言い出せないことやできないことも、成し遂げることができるのでは

ないかというものである。女性が弱い立場におかれることが当たり前になってしまったインドの

社会では、女性は自信を失い、いっそう男性への従属心を強めてしまう。自分と同じ悩みを抱え、

意見を持った人がいると知ることで心強さを増し、発言へと繋げようとしたのだ。実際に筆者が

訪れたニンガオ・ボギ村においても、この取り組みによって、近所の女性たちと一緒にお金を借

りてヤギを飼い、収入を得られるようになった人もいれば、製粉機を買い、ビジネスを始められ

るようになった人もいる。これまでお金がなくて何もできなかった人でも、近所の人や知り合い

にならお金を借りることができると考える人が多く、また、ミシン教室などで技術を習得でき、

この SHG での女性たちの取り組みにより、さまざまなチャンスが広がり、自分に自信が持てる

ようになったと、多くの女性が笑顔で話した。 さらに、農村部の女性たちは、酒に酔った夫に暴力を振るわれることが多くあり、また、酒に

使うお金がもったいないと感じる女性が多く、SHG で禁酒運動を行った。村全体で行ったデモ活

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動などにより、村の商店では酒を売らなくなり、酒を飲む頻度を減らしたり、飲むことをやめた

りする夫もでてきたそうだ。このような成果で、女性への暴力を減らすことはもちろん、女性た

ちが発言することの大切さと成果を得る喜びを感じることができた。 この SHG は成人女性だけでなく、学校に通う年代の少女たちにも行われている取り組みであ

る。言語、算数、保健、衛生などの勉強会や、ゲームを通して少女たちがコミュニケーションを

とる機会が与えられるようになった。これまで、学校が終われば家で母親の手伝いや勉強をして

いた少女たちが、同年代の友達と触れあい学び合うことで、日々の生活の中に楽しみを見つけ、

将来の夢を考えるようになったという。また村の少女たちへのインタビューでは、保健や衛生に

ついて学び意識が高まった、勉強が楽しいから結婚はまだしなくていい、などと話す少女も少な

くなく、これまで当たり前と思っていた文化や習慣を見直す機会にもなっているようだ。少女た

ちの意識の変化は、少女たちが母親になったとき、インド社会全体に、大きな変革をおこすこと

になるだろうと筆者は感じた。実際に、筆者が話を聞いた少女たちは、自分が母親になっても子

どもを学校に通わせてやりたい、意地悪な母親や姑にはなりたくない、子どもの好きなように生

きてほしい、などと話し、親や男性への従属から離れた意見を聞くことができた。女性たちが SHGに参加することは、自我を目覚めさせ、自立し、教育の大切さを知り、夢を持つことであり、そ

れこそが社会を変える一歩であると筆者は感じた。 さらに、筆者が村での滞在を通して感じたことは、女性へのエンパワーメントは男性の意識の

変化へと繋がっているということだ。妻が SHG に参加し、いろいろな知識や技術を持ち帰って

くることは、家族である夫にとってもプラスになる。男性の中には、女性たちの活動で、飲酒撲

滅運動が起こったことをきっかけに飲酒をやめたという男性や、妻が楽しみながら成長していく

姿を見られることが嬉しいと話す男性もいた。女性へのアプローチは、やがて男性の意識も変化

させるのだ。

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終章

これまでに述べてきたように、古くからインドでは文化的に女性が差別され、特に農村部では近年の経

済発展の煽りを受け、都市部との経済格差がさらに大きくなった。女性の貧困、農村の貧困、インドの貧

困は、やがて世界の貧困につながる。貧困は争いを生み、心を貧しくさせる。平和な世界のためには、貧

困の撲滅が必要不可欠である。

インド農村部において、女性は生まれながらにして男性より劣る存在であるという文化的な固定観念に

縛られ、教育を受けられず、男性に萎縮し従属する生活を送ってきた。これは、女性の社会進出への大き

な障害となり、ジェンダー格差が縮まらない大きな原因である。女性に直接、教育を行ったり技術を習得さ

せたりすることで、女性は自信を持ち、自身の意志を主張できるようになるだろう。また一方で、幼児婚や

ダウリーを禁止するという法律により、女性の自由を守り、女性自身の可能性を探る時間とチャンスを与え

ることで、女性自身の視野を広げ、選択する能力を育てることができるだろう。女性に直接アプローチする

ことはもちろん、法律による規制も、女性のエンパワーメントにつながると筆者は考える。

インド農村部に対するこれまでの開発は、失敗を繰り返しながら、それらを改善し試行錯誤しながら、国、

NGO、個人など、あらゆる立場のものから行われてきた。女性のエンパワーメントは、女性の権利であるジ

ェンダー平等を手に入れるために、非常に重要な役割を担う。実際に、筆者が訪れた村でも、SHG に参

加する女性たちには、個人差はあるものの、ジェンダーに対する意識の変化を感じられた。家族とのコミュ

ニケーションの多い女性のエンパワーメントは、女性自身の変化はもちろんだが、家族全体の意識を変え

ることにもつながると筆者は考える。インド農村部では、親や年上の人の意見を尊重するという若者が多く、

特に少女は母親の影響を受けやすいと感じた。これはいい面と悪い面があるが、マイナスの面では、結婚

相手は親の決めた人になり幼児婚につながるなどが挙げられるが、一方プラスの面では、母親が SHG に

参加するから娘も参加するようになった、などが挙げられる。そしてさらに、その娘の世代が親になるとき、

その家庭にはおおきな変化が見られるだろう。また、妻である女性へのエンパワーメントにより、夫である

男性の女性に対する意識が、少しずつではあるが、プラスに動こうとしていると筆者は感じた。

しかし、いくら女性へのエンパワーメントが行われ、女性が主張したいと思うようになったとしても、男性

が女性の価値を認める社会でなければならない。文化的固定観念は男性にも根強く存在するものであり、

男性の意識の変革が必要不可欠であると筆者は考える。女性へのエンパワーメントが重要視され、少し

ずつ成果が見えはじめた今、女性へのエンパワーメントと同時に、男性へのアプローチが課題とされるだ

ろう。

また、支援を受ける住民に本当に必要なことは、自立である。そのためには、政府や NGO な

どの支援機関の人々の、開発に対する考え方や取り組む態度が、非常に重要になると筆者は考え

る。与えることを支援と考え、上からの目線で開発に取り組めば、地域住民の本心を読み取るこ

とはできないだろうし、住民の責任感や当事者意識を高めることはできないだろう。これは、住

民の自立を助けるどころか、依存心を強めることになってしまうだろう。地域住民のための開発

という自覚を与え、オーナーシップを確立することで、地域住民の自立は実現できるのだろう。

筆者が体験したように、今まで自分が育った環境とは違う文化に触れ、地元の人々とふれあうこ

とは、とても多くのことを学べるし、視野を広げることができた。専門家も地域住民も開発に関

わる者同士、お互いに学び成長していく仲間として、尊重し合う関係が望まれると筆者は考える。

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参考文献 絵所秀樹(2008) 『離陸したインド経済-開発の軌跡と展望』ミネルヴァ書房 伊藤洋一(2007) 『IT とカースト インド・成長の秘密と苦悩』日本経済新聞出版社 門倉貴史(2007) 『「今のインド」がわかる本』三笠書房 小谷汪之(1999) 『穢れと規範-賤民差別の歴史的文脈』明石書店 リドル・ジョアンナ(1996) 『インドのジェンダー・カースト・階級』明石書店 村松安子(2005) 『「ジェンダーと開発」論の形成と展開』未來社 斉藤文彦(2002) 『参加型開発 貧しい人々が主役となる開発へ向けて』日本評論社 田中由美子(2002) 『開発とジェンダー:エンパワーメントの国際協力』国際協力出版社 UNFPA(2008) 『世界人口白書 2008』UNFPA 渡瀬信之(1990) 『マヌ法典 ヒンドゥー教世界の原型』中公新書 山本達郎(1960) 『インド史』山川出版社

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