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Hitotsubashi University Repository Title Author(s) �, Citation �, 4: 1-12 Issue Date 2012-12-25 Type Departmental Bulletin Paper Text Version publisher URL http://doi.org/10.15057/25348 Right

アーレントの意志論における内的能力としての決意 …...intimacy of heart )は、…世界の中に客観的で眼に見 で生きることもできない彼の無能さ(ない葛藤、社会の中で気楽にいることもできなければ、その外側男に反抗しているかのようであった。この近代人と彼の果てしのできない。ルソーの

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Page 1: アーレントの意志論における内的能力としての決意 …...intimacy of heart )は、…世界の中に客観的で眼に見 で生きることもできない彼の無能さ(ない葛藤、社会の中で気楽にいることもできなければ、その外側男に反抗しているかのようであった。この近代人と彼の果てしのできない。ルソーの

Hitotsubashi University Repository

Title アーレントの意志論における内的能力としての決意

Author(s) 阿部, 里加

Citation 一橋社会科学, 4: 1-12

Issue Date 2012-12-25

Type Departmental Bulletin Paper

Text Version publisher

URL http://doi.org/10.15057/25348

Right

Page 2: アーレントの意志論における内的能力としての決意 …...intimacy of heart )は、…世界の中に客観的で眼に見 で生きることもできない彼の無能さ(ない葛藤、社会の中で気楽にいることもできなければ、その外側男に反抗しているかのようであった。この近代人と彼の果てしのできない。ルソーの

一橋社会科学 2012

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アーレントの意志論における内的能力と

しての決意

阿部 

里加

はじめに

 

ハンナ・アーレント最晩年の意志論(『精神の生活』第二部)を扱っ

た研究は少ない。主な理由は、彼女の政治思想ばかりが注目される

からであろう。クリステヴァやヴィラは意志に言及しているが、政

治的なもの(the political

)との繋がりを重視するために、意志論

ではなく思考論や判断力論(遺稿集『カント政治哲学講義』)の読

解に主眼がおかれる1

。しかし現在では、政治に焦点を当てるアプロー

チは必ずしも主流ではない。社会哲学者R・イェッギは、政治や公

的空間から退くことを意味するアーレントの世界疎外

(Weltentfrem

dung

)概念の能動性に言及し、世界疎外を社会批判

の重要な契機と看做す2

。ただし、イェッギはこの見解の導出にあた

り意志論には言及しておらず、社会批判をなす主体がアーレントに

おいてどのように形成されるのかという点の考察には及んでいな

い。本稿はその考察にかんし意志論を正面から探求する点で意義を

もつと思われる。

 

アーレントの意志はクリステヴァによれば「思考の一形態にすぎ

ない」とされる。しかしではなぜ、思考と意志はアーレントにより

峻別されたのであろうか。先ずはこの点を確認する必要がある。彼

女の意志論によれば、思考と異なる意志の特性は意志の分裂である。

これは三つのことを指す。第一に意志内部の分裂は抗争であり対話

ではないこと、第二に意志は意志自身が命令し抵抗を受けるという

こと、第三に意志の分裂が人間に決意(volition

)を生じさせるこ

とである3

。アーレントは第一部の思考論末尾で次のように述べてい

る。意志の能力は「発見された」のであり、この発見は「歴史的に

記せる」。よって意志の発見は「われわれの生活の特殊な領域とし

ての人間の内界(inw

ardness

)の発見と表裏」である。そこでアー

レントは、歴史の観点から意志の働きを分析するために、「逆説的

で自己矛盾した意志の能力」により人々がしてきた経験を辿ると同

時に、「意志の歴史と類似した或る発展を辿ることにする」。という

のは、「逆説的で自己矛盾した意志」における決意が、「命令により

自身に話しかけるために反対の決意を生じさせる」一方で、「現象

界の中で人間が自らをどのように示したいか決めることのできる内

的能力(inner capacity

)」だからである(LM

T, 214

)。

 

本稿ではアーレントの意志論を読み解く準備作業として、始めに

思考(think

)と意志の違いを整理し、意志の特性を明らかにした

うえで決意がどのようなものであるかを検討する。思考と意志の概

念的区別が最初に登場するのは中期の著作であり、そこで意志は苦

悩として述べられる(第一節)。晩年の『精神の生活』で思考と意

志は次のように峻別される。意志は思考と同じく内的に分裂し抗争

の状態にあるが、意志の内的抗争のポイントはそれが観察者ではな

く、当事者の立場から自己関係的に描かれている点にある。この自

己に関わる内的能力こそが決意であり、現実世界から影響されない

よう逃げる能力である(第二節)。決意は、アーレントによると、

意志のみが抱える分裂矛盾から生じ、人格を形作る(第三節)。こ

うした決意の具体的場面として注目されるのはアドルフ・アイヒマ

ンの言動である(第四節)。以上を通じ意志論の射程にあるものを

見通したい。

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第一節 

中期著作における苦悩

 

思考と意志の区別は既に中期の著作に登場する。『革命について』

では思考と異なる精神的能力としてルソーの苦悩が述べられる。内

的な分裂から生じる彼の苦悩は、ソクラテス的な内的対話の思考に

は求められない激しさや力強さをもつとされる。

  

 

われわれは…初期の情熱(passion

)や心(heart

)、魂(soul

)、

とくにルソーの二つに引き裂かれた魂(âm

e déchirée

)に訴える

諸力を見逃すか過小評価している。ルソーは理性に反抗し、この

二つに引き裂かれた魂を、精神(m

ind

)自身との無言の対話に

おいて現れる「一者の中の二者(tw

o in one

)」、すなわち、われ

われが言うところの思考によって表現したかにみえる。けれども、

魂の「一者の中の二者」は対話ではなく葛藤

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なのだ(以下、傍点

強調は筆者)。…ルソーが一方で社会の利己性に対して、他方で

自己自身との対話にふける精神の落ち着いた独居(solitude

)に

対して闘わせたのは、苦悩する能力(capacity for suff ering

)であっ

た(O

R, 80

)。

 引き裂かれた魂の描写は、アーレントによる例外ユダヤ人の「意識

的パーリア」やベルリン社交界の歴史についての叙述にも見られる

が、とりわけ注意すべきは上流社会の社交界にルソーの内奥

(intimacy

)の心が苦悩し葛藤する場面である。intim

acy

はその語

源であるラテン語のintim

us

、すなわち最も奥底に秘められるもの

を指し、サロンや友人といった誰か他者との

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「親密さ」というより

もむしろ自身の心の内奥を指す。ルソーにとってintim

acy

とは、

他者との親密な交際という次元より更に奥深い次元に成立する概念

であり、「最奥の自己(inm

ost self

)」(LMW, 68

)に関わる。『人間

の条件』から引用する。

 

 

ルソーが彼の発見に到達したのは、国家の抑圧に対する反抗を

通してではない。むしろ、人間の心をねじまげる社会の耐え難い

力にたいする反抗や、それまで特別の保護を必要としなかった、

人間の最も深い地帯に侵入する社会への反抗を通してであった。

心の内奥(intim

acy of heart

)は、…世界の中に客観的で眼に見

える場所をもたない。しかも、内奥の心が抗議し、自己主張する

相手側の社会も、公的空間と同じような確実な場所をもつことが

できない。ルソーの場合、ジャン=ジャックがルソーと呼ばれる

男に反抗しているかのようであった。この近代人と彼の果てしの

ない葛藤、社会の中で気楽にいることもできなければ、その外側

で生きることもできない彼の無能さ(inability

)、…これらはす

べて心の反抗(rebellion of heart

)から生まれたものである

(HC, 39

)。

 社会に反抗し自分の心と向き合うがために苦悩し分裂状態にあるル

ソーを、アーレントは「極度の主観に陥っている」としながらも追

究し、ジャン・ジャックの抱える内奥の混沌から苦悩する力を引き

出す。「彼は上流社会に対する反抗心に導かれたのであり、他の人々

の苦境をみて確かに心を波立たせたけれども、…他人の苦悩

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に巻き

込まれたというよりはむしろ彼の心

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に関わりあうようになったので

ある」(O

R, 88

)。

 

こうしたルソー理解に批判的な読者は少なくないであろうが、

アーレントが苦悩を一般化して誰か他の人と共有できるものとせず

内的なものに位置付けるのは、人間が自身の心に関わることの意味

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を検証するためである。この検証の先行者はJ・スタロバンスキー

であり、『透明と障害―

ルソーの世界』における「透明な自己」は『人

間の条件』のジャン=ジャックに重なる。スタロバンスキーによれ

ば、ルソーは自らの内面性を他者に説得するために『告白』を執筆

するが、彼の内面の透明性は世間からは拒否され傲慢な魂の持ち主

だと非難される。スタロバンスキーによれば、そこでは問題はルソー

の歴史理論からジャン=ジャック個人0

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へと、すなわち、人間進化の

思弁的分析から存在という内的なものへと移行している4

。「迫害が

極限に達するならば、その時頼ることができるのは自己だけであり、

自己にあって完全な充足の苦くかつ神聖な幸福を知る。あらゆる外

部の関係が不可能となり、自己同一の充足のみが残される。こうし

た充足をルソーは肉体を離れた精神の充足として描くのである」5

)。

ルソーの内奥は『告白』を執筆することで最終的には敵意ある世界

や社会との隔たりを克服する。けれども、彼の精神の充足や内面の

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透明性

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といったものは、はたして自分との内的対話(思考)や執筆

によってのみ

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もたらされるのか。アーレントが同時代人のスタロバ

ンスキーとともに考察しているのはこの点に見える6

)。

 

ルソーの引き裂かれた魂がわれわれに教える重要な事実は、心は、

それが引き裂かれ葛藤の中に投げ込まれてはじめて正常に鼓動し始

めるということである。「心は暗闇の中で暗闇のために絶え間なく

続けられる闘争によってその源泉を生きたものにしておく」(O

R, 96

)のであるから、公衆から保護され、公的に表示してはならない

奥深い動機(innerm

ost motives

)に留まっている必要がある。引

き裂かれた魂や情熱、情緒は(思考や理性とどのような関係にある

にせよ)確実に人間の心の中に位置している

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とアーレントはいう

(OR, 95-6

)。こうした内奥の心についての議論は、世界変革の原動

力である行為(action

)や公的空間と対峙する文脈で述べられるた

め、カノヴァンにより次のように批判される。すなわち、アーレン

トは複数の人間が合意を結び、法律や制度を樹立するという複数性

の意味を主張しているのであり、人間の心の暗闇に分け入る必要な

どないと考えている。彼女は暗闇に隠されている感情に動機ではな

く個々人の外部、つまり人々の間

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で生じている事柄を強調しており、

個人としての善や個的良心(personal conscience

)が政治において

果たす役割に意義を唱えていると7

。この批判が当たらないことは既

に示した。むしろ、苦悩や自己と向き合う心を内的で暗闇にあるも

のとして位置づけその意味を論じることは、アーレントに明確に意

図されている。また彼女が苦悩するルソーを繰り返し引用するのは、

近代的自己の成立や登場といった手垢の付いた思想を再現するため

ではない。苦悩葛藤を通じた自己への関心それ自体はアーレントの

思想の初期から保持されている観点であり、アウグスティヌス研究

における自己探求(se quaerere

)や自己への立ち帰り(redire ad

se

)にまで遡及可能だからである8

。「私にとって私が問題となる

(quaestio mihi factus sum

)」という言葉が繰り返し引用されたの

も自己への関心のためである。ならば、ルソーの苦悩についてわれ

われがアーレントに差し向けるべき問いは、自己(the self

)と向

き合う苦悩や心は、なぜ内的な能力でなければならないのか

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、であ

ろう。

第二節 

観察者になれない私

 

思考との違いから述べられた中期の苦悩をふまえて、筆者は晩年

の『精神の生活』に向かう。先述したように、思考では「一者の中

の二者」により内的対話がなされる。人間が本質的に複数性におい

て存在することを何よりも雄弁に語っているのは思考であり、思考

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において私自身(m

yself

)との二者間の問答があることで弁証法や

批判が可能となる(LM

T, 185

)。ただし、「一者の中の二者」は意

志の内的分裂と異なり、外部世界や現象世界に呼び出された際には

一者になる。というのも思考はその特性として、私が私自身と矛盾

することなく首尾一貫していること(hom

ologein autos heautô

が必要だからである。アーレントはこの首尾一貫性をソクラテス的

思考における同意(consequence

)から導出する(LM

T, 185-6

)。

 

しかし、この首尾一貫性のために、思考は内奥にあるものを掬い

損ねる。対馬美智子が詳細に論じているように、アーレントのいう

思考は、基本的には、現象世界との折り合わせ(com

e to terms

を得意とする政治的思考であり、世界と和解し他者を理解するため

に、人間は政治的思考としての「視野の広い思考」を働かせ脱感覚

化(de-sensing

)しなくてはならない。この政治的=再現的思考

(represent thinking

)はカント政治哲学の構想力に基づく。構想力

は脱感覚化により私的感覚(sensus privates)から抜け出し、共通

感覚に基づいて判断する観点を用意するため、精神の生活と政治的

リアリティとをつなぐ根源的能力となる9

。他方で、脱感覚化の働き

は、内奥の大きな力である心の情熱や感覚(senses

)の喜びといっ

たものを転形させ、非私人化(deprivatize

)し、非個人化

(deindividualize

)してしまう(H

C, 50

)。アーレントが『人間の条件』

で政治および言論(speech

)の空間において、人間の唯一性として

の誰(w

ho

)(ドイツ語版で人格(Person

))を触知することはでき

ない(intangible

)と述べるのは(H

C, 181-2

)、脱感覚化による非

個人化のために政治的思考が人格を触知しえないからであると理解

可能である。

 

そこで意志論で要請されるのが、(政治的)思考とは対照的な能力、

すなわち内的対話により世界と折り合わせて世界に現れることを拒0

む能力

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である。アーレントによれば、世界からの退却(w

ithdraw

の仕方には二つあり、眼に見えないものを感覚に現前させる仕方と、

世界を遮断し自己の内面に退きこもる仕方があり、これらは区別さ

れなくてはならない。前者の世界と折り合わせる能力は、観察者

(spectator

)や判定者(the judge

)の能力であり10

、世界を理解する

ために脱感覚化や手摺りなき思考(D

enken ohne Geländer

)を要

する。これに対して後者の世界との折り合わせを拒む能力は、流れ

行く時間の中に人間が介入することで彼自身の存在を守ろうとする

戦闘者(fi ghter

)の能力である(LM

T, 207-8

)。この自己に関わる

意志の戦闘は徹底的に内的なもの

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であるため、政治的空間における

闘い(agon

)の延長線上に据えられない11

。思考における観察者や「見

物人の見解(the view

of the beholder

)」(LMT, 204

)と意志にお

ける言わば当事者の視点、これらはアーレントにおいて相容れない

ものとされる。

 

そもそも、人が観察者ではなく当事者となる場面はわれわれに身

近に経験されている。自然の不可避な脅威や抗えない支配の力を前

にした人間は、世界と自己とを折り合わせることも、不可視なもの

を現前させ構想することも、自己を俯瞰する観点のいずれをも設定

し難い。恐怖や悲しみに苛まれ世界の内で必死に生きようともがき

苦しむ姿の根本を、観察者の視点から捉えることはおよそ不可能で

ある。ならば、世界から退却して自己と向き合い現実世界の中で生

きる仕方が能動的態度として再審されよう。自分と向き合わざるを

えない状況に陥ったエピクテトスは現実に抗いながら、内的な力に

より私を形成していく。「私は死ななくてはならない。投獄されな

くてはならない。しかし、私0

はまた泣き言を言わなくてはならない

のだろうか。私0

が微笑みながら刑を受けるのを誰が妨げられよう

か」。「主人が私の足を鎖に繋ごうとしても私の意志

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までは支配する

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ことはできず、世界の現実が私にとって

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現実的であるためには私の

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同意

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を必要とする」(LM

W, 78-9

)。これらの私0

は現実と折り合う

ことではなく、現実から離れることを選ぶ。現実の只中に居ながら

現実から逃避することは、思考の対話とは対照的に、広範な帰結を

もたらすとアーレントはいう(LM

W, 75-6

)。「善のためにせよ悪

のためにせよ、喜ぶにせよ悲しむにせよ、人間が自由だと感じるこ

とができる心の平静さ(invulnerability

)とアタラクシアは、現実

からあなたがいかに逃避する(turning aw

ay

)か、また、現実から

あなたの能力がいかにして影響を受けないようにするかに懸かって

いる」(LM

W, 80

)。

 

世界を遮断し自己へと退きこもる意志は、『人間の条件』ではア

ウグスティヌスの愛に則して次のように述べられる。「愛の営為は

世界を去らずに世界の内部で実現されなければならず、他のすべて

の営為と同じ空間に現れる。ただしその現れ方はきわめて否定的性

格をもち、愛の営為は、世界を見捨て世界の住民から身を隠す。そ

して、世界が人々に与える空間を拒否し、あらゆる物とあらゆる人

が他者によって見られ聞かれる世界の公的な部分を拒否する」(H

C, 76-7

)。苦悩が内的なもの

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とされた根拠は、したがって、世界から

の逃避により人間が自己と向き合うためであるとひとまず結論しう

る。が、しかし、この結論はたんにアーレントが政治から哲学へと

回帰したことを意味しない。心を現実から隔離する能力が内的0

0

でな

ければならない根拠は、より深いところにある。

第三節 

意志の分裂から生じる選択および決定する

内的能力としての決意 

 

アーレントの意志論で主に注目されてきたのは、意志の分裂それ

自体ではなく、分裂した意志が愛へと変容され、愛の重力によって

内的な抗争が解決し統一されることで行為が可能になるという議論

である(LM

W, 95

)。有名な〈始まり〉の概念もこの文脈上にある。

こうした意志論理解には、若干の修正が必要である。なるほど、ア

ウグスティヌスは「人間以前には人格と呼べるものは存在しなかっ

た」とし、『神の国』にもとづき時間の観点から時間的出来事の系

列を「始める」自由として意志の自由、つまり〈始まり〉の自由を

述べたであろう。けれども、アーレントは意志を〈始まり〉や時間

の観点のみから論じているのでは決してないし、意志が統一され行

為へと移行されることで解決を示したわけでもない12

。「自由とは何

か新しいことを始める精神的能力であるが、われわれは、新しいこ

とが起こらないことも同様にありうることを知っている」(LM

W,

195

)。ならば、われわれは〈始まり〉の外にも目を向ける必要があ

る。

 

中期の著作から絶えず注視されていたのは、意志が統一されず分

裂したまま存続し続けるという事実であった13

。意志論の導入部で検

討されたイエナ期のヘーゲルをはじめ、ニーチェやハイデガーを通

じこの著作の最後まで保持されている主張も、意志の分裂を分裂の

ままにしておくことの意義である。思考は首尾一貫性により最終的

には自己の破滅を防ぐが(LM

T, 193

)、意志は異なる。「意志に与

えられた高い価値は分裂にある。思考からすると〈一者の中の二者〉

を引き起こすのみならず、あなた自身との分裂を起こすかもしれな

いという最悪のことが、いまや人間の条件の要となったのだ」

(LMW, 83

)。

 

では、意志の分裂の先にアーレントが見ているものは何か。先述

したルソーは上流社会の中に身をおくことで激しい内的葛藤に苛ま

れながらも自己と向き合うに至った14

。否、ルソーは上流社会の支配

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そのものに反抗しているのであり、苦悩の力は社会や現実の力と無

関係には生じ得ないという反論はあろう。けれども、その反論を承

知のうえで中期から、厳密には初期から晩年まで思考の能力とは別

のものとして論及され続けたものこそ、意志自身の命令に抗して働

く内的な力や、律法の外的な力に服従したとしてもなお残る内的抵

抗(inner resistance

)なのである(LM

W, 69

)15

。内的抵抗は意志

の自由に拘わる。「私の意志が自由だということの証は、意志の命

令を実行するために必要な現実的な力(posse/potestas

)とは関係

のない、肯定したり否定したりする内面的な力が存在する

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というこ

とにある」とアーレントは述べる(LM

W, 87

)。すなわち、必然性

や強制とは関係なく、自己や自らの生存を含めた所与の現実に関し

て肯定したり否定したりする内的能力は、意志がノーという選択肢

を持ち、一個の意志が存在するということをわれわれに指し示す

(LMW, 68

)。この内的抵抗の謂いは「汝なすべし」という命令に

反抗する意志であり、パウロでは「私は意志する、けれども、でき

ない」(LM

W, 66-7

)、アウグスティヌスではマニ教徒の内的抗争

や引き裂かれた意志に表現されている。アーレントが着目するのは、

そのように意志が自らを引き裂き二重化するという働きにみられ

る、「意志に固有の奇怪さ(m

onstrum

)」である(LM

W, 94

)。

  

 (意志の)分裂の悲惨さは一つの重大な発見であり、人間的自

由の感情や全能の感情がなぜ意志する自我(ego

)の経験から生

じてくるのかということを説明する。パウロと同様、エピクテト

スの考察の中心にあるのは、一切の従順が不従順の能力を前提に

しているということである。そこでの中心は、意志には、ともか

く私自身に係わる限りは、同意、不同意を示したり、イエスやノー

を言ったりする力があるということである。私はたんに世界を変

革しようと意志できるのみならず

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、〈私は意志しない〉ことによっ

てあらゆるものに対して現実性を否定することもできるというこ

とである。こうした力は人間の精神にとっては恐るべき、また本

当に圧倒的な何ものかを持っていたにちがいないが、実際には…

アウグスティヌスのいうような「奇怪な能力」とされる(LM

W,

83-4

)。

 奇怪さの困難は、したがって、意志が自らに命令し自らに抵抗する

という、意志に固有の自己矛盾の構造からくる。「命令をし、服従

を求めるのが意志の本性であるならば、抵抗されるのもまた意志の

本性である」(LM

W, 95-6

)。意志内部のこうした自己矛盾の構造

は、服従の論理によっては説明し得ず、意志の構造は一方で、意志

がつねに命令形で自らに語るという点はカントに、他方で、意志が

一種の力として捉えられている点はスコトゥスとニーチェに共通し

ているとアーレントは考える(LM

W, 37

)16

)。

 

しかし、意志の命令―

内的抵抗という分裂がアーレントにより追

究された最大の理由は、分裂が、「意志すること」と「否と意志す

ること」(w

illing and nilling

)の選択

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を可能にするからである。ア

ウグスティヌスが晩年に『回心』(retractationes

)というテーマで

繰り返し点検したものの中で最も決定的なものは、欲望や理性から

厳密に区別された能力としての「意志の自由な選択」(Liberum

arbitrium

voluntatis

)であるとアーレントはいう(LM

W, 86

)。す

なわち、リベルム・アルビトリウムにとって決定的である選択の能

力は、目的に向かう手段についての選択に係わるのではなく、もっ

ぱらvelleとnolle

の、意志することと否と意志すること(w

illing and nilling

)の選択

0

0

に係わるとされる。nolle

はここでは、velle

劣らず能動的な能力となる(LM

W, 89

)。「主人が私の足を鎖に繋

12-11-255 阿部氏.indd 612-11-255 阿部氏.indd 6 2012/12/18 15:44:332012/12/18 15:44:33

Page 8: アーレントの意志論における内的能力としての決意 …...intimacy of heart )は、…世界の中に客観的で眼に見 で生きることもできない彼の無能さ(ない葛藤、社会の中で気楽にいることもできなければ、その外側男に反抗しているかのようであった。この近代人と彼の果てしのできない。ルソーの

一橋社会科学 2012

- 7 -

ごうとしても私の意志まで支配することはできない」と言えるのは、

nolle

が抗うからである。「意志すること」と「否と意志すること」

を選ぶ力(volition

)は、選択し決定する主体としての私0

を形成せ

しめる。「意志を意志として存続させなくてはならない」(LM

W,

34-9

)根拠はここにある。

 

選択し決定する主体としての私0

は、内的能力がもたらす人間の個

別化により形成される。J・L・ナンシーはヘーゲルの「自己内行

(das Insichgehen) 」に自己の固有化(appropriation

)を看取して

いるが、アーレントが意志論第一章でヘーゲルの実存哲学を通じて

考察しているものも自己の固有化である17

。その固有化はニーチェの

否定性を経て最終的にはハイデガーにおける本来的自己存在(D

as eigentliche Selbstsein

)に繋げられる18

。意志の内的抵抗は、人間に

彼自身の意志の生まれ

0

0

0

0

0

0

0

0

0

0

を気づかせる。「意志は意志自身の力を知る

ために、強制されたり反抗したり怨念を持ったりという否定的な奴

隷感情をどうしても欠くことができない。ニーチェが考慮している

肝心な点はこの点であり、意志は内面で起きる抵抗を克服していく

ことによってのみ意志の生まれに気づく。…意志の力の源泉は、反

抗する私と勝利する私という、意志における〈一者の中の二者〉と

いう特性にある」(LMW, 162

)。既述したように、この意志におけ

る二者は、思考のように世界に現れるために一者となることはない。

世界から退却し自己と向き合う意志が要請されたのは、世界や社会

において人々と共に生きるために世界と折り合う思考とは対照的

に、意志の分裂から生じる選択や決意によって人格0

0

が形成されるか

らである。

  

 

ちょうど思考が自己を観察者の役割へと準備するように、意志

は自己を「持続する私(enduring I

)」に作り上げる。「持続する私」

が示唆しているのは決意のあらゆる個別の(particular

)営みで

ある。決意は自己の性格を創造するため、個体化原理つまり特殊

な人格の同一性の源泉であるとされた(LM

W, 195

)。

第四節 

アドルフ・アイヒマンの例外を可能にした

もの

 

決意が働いた場面として注目されるのはアドルフ・アイヒマンの

言動である。『イェルサレムのアイヒマン』においてアーレントの

関心が真面目な小市民アイヒマンの「思考の欠如(absence of

thinking

)」という状態に向けられ、思考に悪をなすことを止めら

れるかという問いが立てられたことは周知である。この「思考の欠

如」は、通常「恐るべき残虐行為を前にして権力への服従になんの

疑いも持ちえなかった、彼の良心の欠如」と説明されるが19

、その良

心の欠如がどこから生じるのかについては殆ど検討されていない。

私見によれば、この著作でアーレントが焦点を当てているのは、実

際には、彼に虐殺行為を許した内的要因としての「意志の欠如」で

ある。というのも、中期以降の苦悩や当事者の視点、内的抵抗にか

んする思索を考慮すると、彼女がアイヒマンの良心の欠如やユダヤ

人大量虐殺の原因を「思考の欠如」のみに限定しているとは言い難

いからである。アイヒマンの次の二つの言動に着目する。

 

一つは、迫害体制が敷かれる中で例外的に「ユダヤ人である自分

の従兄弟と伯父の知り合い夫婦を助けたのは、紛れもなく自分(ア

イヒマン)であった」ことを彼が認め、自分の行動の一貫性のなさ

に不安 (uncom

fortable

)を感じたという経験である(EJ, 137

)。反

対訊問の時にこれについて聞かれたアイヒマンははっきりと弁解

し、自らがとった行動の一貫性の無さを誤りとして上官に報告する。

12-11-255 阿部氏.indd 712-11-255 阿部氏.indd 7 2012/12/18 15:44:332012/12/18 15:44:33

Page 9: アーレントの意志論における内的能力としての決意 …...intimacy of heart )は、…世界の中に客観的で眼に見 で生きることもできない彼の無能さ(ない葛藤、社会の中で気楽にいることもできなければ、その外側男に反抗しているかのようであった。この近代人と彼の果てしのできない。ルソーの

一橋社会科学 2012

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例外なし(N

o exceptions

)、これこそ、「アイヒマンが彼の選好

0

0

0

0

(inclinations

)に逆らって行為した(acted

)という証拠であり、…

彼の義務を果したという証拠」(EJ, 137

)だからである。けれども、

人を殺す義務の遂行に忠実だった彼のこの弁解の態度こそが、彼の

中にわずかなりとも残った良心を沈黙させたとアーレントは断ず

る。ユダヤ人大量虐殺の遂行者であったアイヒマンの内面に不安を

生じさせ、彼の一貫性に破綻をもたらしたものがあるとすれば、そ

れは世界や上官との折り合わせの思考とは異なる能力に求めねばな

らない。強制収容の厳戒態勢下において彼に例外を許し、ユダヤ人

従兄弟を救出させた当のものは、彼の思考ではなく意志、正確には

決意ではなかったか。二つ目は、ブエノスアイレスで捕まった際に

彼が発した言葉である。

  

 

ドイツにおいて私が最後数年間に行った公的な諸営為の事実に

ついて、私は、後世の人たちが真の実態を知りうるように、少し

の粉飾もなく書きとめるつもりだ。この宣言は、私自身の自由意

志(m

y own free w

ill

)から宣言されるのであり、諸々の約束が

与えられたからでもなければ脅迫によるものでもない。私は最終

的には私自身と和解していたい(w

ish

)。詳細の全てを思い出す

ことはできないし、おそらく事実を混同してしまうだろうから、

真実を捜し求める努力に役立つ私の処分文書と宣誓供述書を私に

預けてほしい(EJ, 241

)。 

 ここでのアーレントの関心は、自由意志や彼自身と和解したいとい

う意欲、後世のために叙述しようと彼自身が決めた点にあり、思考0

0

欠如の状態から彼が自己を取り戻す

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0

0

過程においてどのような能力が

働いたのかが考察されている。アイヒマンが上官と彼自身の命法に

背いて後世の人々ために自らの筆で真実を叙述したい

0

0

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0

0

と請う態度は

思考のみでは説明不十分であり、自己に向き合わせる内的能力であ

る決意を要するだろう。

 

引用はたしかに、ある観点からすればアイヒマンが思考欠如に

陥っているのではなく、彼の思考をきちんと働かせることで、悪へ

の参加を防いでいるように解釈しうる。現れに関与する思考に従い、

世間のために叙述する行為を通じて、悪への加担を止めさせること

は可能だからである。しかし、だからといって、思考によりユダヤ

人虐殺が遂行される可能性が消える訳ではない。なぜなら思考する

彼は、自己矛盾や内的な分裂には耐えられず、例外を排除して上官

や世界と折り合うからである。ならば、われわれがアイヒマンに向

かって首尾一貫し「思考せよ」と勧告することには依然慎重であら

ねばならない。アーレントは、自らの定言命法に従ったアイヒマン

はヒトラー法令に矛盾なく従った点で官僚として裁かれることはな

くとも、人格として裁かれる可能性があるとして、裁判前後にカン

ト研究に着手する。ナチスの犯罪者たちが自主的に放棄しているの

は、『道徳哲学のいくつかの問題』によれば、人格的な性質(personal

qualities

)である。重要なので再び引用する。

  

 

彼らは善にせよ悪にせよ、いかなる意図もなかったこと、たん

に命令にしたがったにすぎないことを繰り返し強調して処罰に抗

議した。最大の悪はそのように誰でもない人(nobody

)、つまり

人格であることを拒んだ人間たちにより犯されたのだ。自分たち

が何をしているかについて自ら思考するのを拒んだ悪人と、自分0

0

たちが過去に何をしたかを考え、思い出して回顧すること

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(ヘブ

ライ語で悔俊(teshuvah

))を拒んだ悪人は、実際、自分たちを

誰か(som

ebody

)へと組み立てることに失敗したのだ。犯罪者

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一橋社会科学 2012

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たちは、誰でもない人でありつづけることで、人格をもつ他者と

の交わりに、彼ら自身が適さないことを証明したのだ

(RJ, 111-2

)。

 われわれにとっての問題は、現に自分が行っていることを思考する

一方で、過去に自分たちが行ったことを回顧するという能力である。

いずれも思考の能力として把握可能であるが、後者の、過去に行っ

たことを回顧し、且つ悔い改めることは、ルソーとアウグスティヌ

スの分裂、その後の人格形成の議論をふまえると、決意の能力に重

なる。自己自身に対して人格を構築できない人間は、他者に対して

も人格を構築できない。このことは道徳に関与するとアーレントは

カント・ノートに記している。「カントにおいては、他者に対する

義務よりも自己自身(sich selbst

)に対する義務が優先されており、

…自己自身に対する義務に違反する者は人間性を放棄してしまい、

もはや他者に対する義務を果たすことができない。…人間の自己自

身に対する義務の最大の違反は嘘である。行為(H

andeln/action

にはある種の用心深さ(A

chtsamkeit

)、つまり道徳的用心(vililantia

moralis

)が必要なのである」(D

B, 811

)。

 

以上の考察から、アイヒマンが例外的に従兄弟を救出し、またア

ルゼンチンで逮捕された際に自らの行ったことを後世に伝えるため

に自らの筆で事実を書き残したいと懇願したことは、決意により彼

が自己に立ち帰り、彼自身の行為を反省することによって人格を取

り戻した過程として理解可能である。行為(action

)は常に誤るも

のであり、誤りの歴史の中にあるのだということの認識なしに、人

間が自己に立ち帰り責務を負うことはできない。決意が負うのは、

行為の誤りに気づかせ自己へと立ち帰らせる力であり、歴史から離

れて自己を個別化し自己を発見する力であるとアーレントはいう。

「良心の呼び声が成し遂げることとは、記録に遺された歴史の流れ

のみならず、人間の日常の諸々の営みをも決定付ける出来事に巻き

込まれた状態から個別的なものになった

0

0

0

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0

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0

0

(individualized/ vereinzeltes

)自己を再発見すること

0

0

0

0

0

0

0

0

0

0

である」(LM

W, 185

)20

)。この自

己の再発見をもたらすのは思考ではなく意志、さらには決意である。

というのも、意志論によれば、過去や歴史について、なぜと問うの

は知性ではなく意志だからである。この意志は、いかなる原因も持

たず、因果性によって説明不可能であるとされる(LM

W, 89

)21

)。

 

冒頭で、「内的能力としての決意が特殊な領域の内的状態にある」

としたのは、人間が歴史や世界から退きこもることにより内奥の心

に関わり、存在の歴史(Seinsgeschichite

)を確保するためである

と考えられるが、その際の自己への立ち帰りは、アーレントの場合、

責任や道徳と密接である22

。「広範な帰結がもたらされる」のはこの

ためである。「内的な決意は…行為に対してのみならず性格に対し

て責任を担う人格を創造する力である」(LM

T, 214-5

)。ここで言

われる責任は、アーレントの思考と意志の峻別に従えば、直ちに他

者への応答可能性を指さず、やはり内的な場に据え置かれると考え

られるが詳細な検討は紙幅を超える。さしあたり、以上を決意の働

きとして確認したところで筆をおくことにする。

おわりに 

 

アイヒマン裁判後にシカゴ大学で行われた講義の草稿『基本的な

道徳的命題』でアーレントは次のように述べている。「理性も欲望

も本来の意味では自由ではありません。理性は、人間としての人間

に共通のものを示します。欲望は全ての生物に共通のものです。し

かし選択する(choosing

)能力としての意志は自由なのです。理性

12-11-255 阿部氏.indd 912-11-255 阿部氏.indd 9 2012/12/18 15:44:332012/12/18 15:44:33

Page 11: アーレントの意志論における内的能力としての決意 …...intimacy of heart )は、…世界の中に客観的で眼に見 で生きることもできない彼の無能さ(ない葛藤、社会の中で気楽にいることもできなければ、その外側男に反抗しているかのようであった。この近代人と彼の果てしのできない。ルソーの

一橋社会科学 2012

- 10 -

は人間に共通のものを示します。また欲望はすべての生物に共通の

ものです。完全に私だけのもの

0

0

0

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0

、それは意志だけなのです

0

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0

。意志す

ることで私は決定します。これが自由の能力なのです」23

)。

 

本稿は、アーレントの思想から自己に関わる内的能力を抽出した

にすぎない。意志論は思考論と判断力論との間に位置し、自己形成

過程論としての性格をもつため更なる読解が必要である。意志と決

意との関連も今後は問われよう24

。決意が示唆するのは、公に現れる

ことや語ることを選択しない態度を人格形成や「自己の固有化」の

過程として尊重し見守る視点である。自己の闇と向かい合う経験は、

今日では自己へのケアのありようを再構築するケアロジーや「個的

なもの(the personal

)」の概念の根底をなす。身体的障害を抱えな

がら自らの人生を選び取る私0

、どのような仮面をかぶるのかを決め

る私0

、科学的脅威から子どもを守りたい私0

、これらの私0

は独我論的

主体と紙一重にありながら、表象的次元にも譲り渡すことのできな

い倫理性に根ざしてはいまいか25

略記号

LMT/W

= The Life of the mind:Thinking/W

illing

(1978

)Harcourt Brace

Jovanovich.

HC =  

The Hum

an condition (1958

)The university of Chicago Press.

ドイツ

語版も参照。Vita Activa:oder Vom

tätigen Leben (1960

)Piper.

OR

= On Revolution

(1963

)Penguin Books.

DB

= Denktagebuch 1953-1973

(2002

)hrsg.von Ursula Ludz und

Ingeborg Nordm

ann, Piper. 

EJ

=  

Eichmann in Jerusalem

: A report on the banality of evil

(1963

)Penguin

Books.

RJ

=   

Responsibility and Judgement

(2005

) ed. by J. kohn, Schocken Books.

*引用は略記号、頁数の順に記す。

本稿は日本倫理学会第五九回大会で行った報告の原稿に加筆・修正を施した

ものである。

注(1

)ヴィラの関心は判断と思考にあり、クリステヴァは生の複数性と物語る

ことの無限の可能性を強調する。マーテルは反政治的で制限された自由し

か持ち得ないアーレントの古典的な意志や愛を批判する。川崎は意志論を

ふまえたうえで、アーレントが行ったことは思考と政治的行為の緊張関係

を見据え両者に正しい位置を与えることであったと述べる。これらの先行

研究では意志概念の独自性が十分に検討されていない。K

risteva, Julia,

Hannah Arendt: Life is a narrative, F. Collins

(trans.

), University of T

oront

Press, 2001. Villa, R. D

ana, Politics, Philosophy, Terror, University Press,

1999. Martel, Jam

es, Amo: Volo ut sis: Love, w

illing and Arendt's reluctant

embrace of sovereignty, Philosophy &

Social Criticism, March 2008, vol.34, p.

287-313.

川崎修『ハンナ・

アレントと現代思想│アレント論集Ⅱ』、

二〇一〇年、七八頁。

(2

)Jaeggi, Rahel, W

elt und Pesron: zum anthoropologischen H

intergrund der

Gesellshaftskritik H

annah Arendts, Lukas Verag, 1997, S. 91-106.

(3

)volition

は邦訳版で辞書的に「意志行為」とあるが、後述する意志と行為

の不一致という事態をふまえると適当ではない。volition

の語源である

voluntas

は意志(w

ill

)、意欲(w

ish

)、選好(inclination

)を指し、意志論

が後者二つに焦点を当てている点で「選択意志」、現実的制限を受けず心の

ままに決められる力であるという点で「随意」とも訳しうるが、過去や歴

史との関わりから本稿では「決意」と訳す。

(4

)Starobinski, Jean, Jean-Jacques Rousseau: La transparence et l’obstacle,

Gallimard, 1971, p. 53.

J・スタロバンスキー『透明と障害―

ルソーの世界』、

12-11-255 阿部氏.indd 1012-11-255 阿部氏.indd 10 2012/12/18 15:44:342012/12/18 15:44:34

Page 12: アーレントの意志論における内的能力としての決意 …...intimacy of heart )は、…世界の中に客観的で眼に見 で生きることもできない彼の無能さ(ない葛藤、社会の中で気楽にいることもできなければ、その外側男に反抗しているかのようであった。この近代人と彼の果てしのできない。ルソーの

一橋社会科学 2012

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山路昭訳、みすず書房、一九七三年、六一頁。

(5)ibid.,p. 289.

三九二―

三頁。

(6 )スタロバンスキーの透明は独居(La solitude

)において描かれる。

solitude

はアーレントの用語では内的対話の思考の状態にあり、思考にお

ける自己は他者への現れに縛られる。「ルソーが『告白』においてあるがま

まの人間を初めて描いたと主張しているものは、実際には、内面の無限の

機嫌不機嫌によって現れる自己自身

0

0

0

0

(sich selbst

)であり、他者に認めら

れたい(w

ünschen)自己0

0

である。それはすでに現れの空間に徹底的に縛ら

れた個人としての自己である。対して、アウグスティヌスは人間の前(coram

homnibus

)ではなく神の前(coram

Deo

)に現れるものを描く」(D

B,

664

)。

(7

)Canovan, M

argaret, Hannah Arendt: A Reinterpretation of her political

thought, Cambridge U

niversity Press, 1992, p. 192-5.

(8

)「純粋な哲学的解釈に基づく研究である」アウグスティヌス論の第一、二

章では自らの存在を問いかけるという起源への帰還として、自己探求、自

己への立ち帰りが論及される。A

rendt, Hannah, D

er Liebesbegriff bei Augustin:

Versuch einer Philosophischen Interpretation, J.Springer, 1929, S. 15-51.

(9

)対馬美千子「私たちのもつ唯一の内なる羅針盤」『社会思想史研究』第

三一号、二〇〇七年、七三―

八九頁。

(10 )小山の検証によるとアーレントは自らを観察者として看做し、アイヒマ

ン裁判についても「美学的観察者」として発言している。小山花子「美学

的観察者としてのアーレント」『一橋論叢』第一三四号、二〇〇五年、

一五一―

六六頁。

(11 )アーレントの内的な葛藤や愛を政治的複数性に引き伸ばして解釈する仕

方は散見され、アウグスティヌス論を訳出した千葉の論文でも愛は政治的

なものの文脈上におかれる。千葉眞「アーレントにおける私的なものに関

する一考察」『季刊iichiko

(特集ホスピタリティの空間)』第八七巻、

二〇〇五年、八五―

九三頁。

(12 )命令し従順さを要求する他方で抵抗を受け限定を受けるという意志の本

性は「意志することとできることとは同じではない(N

on hoc est velle

quod posse

)」という命題とともに初期から考察されている。今出はこの命

題をふまえて尚、アーレントがパウロの意志に見出しているのは、選択よ

りも前にある始める能力の自発性であり、行為の源泉としての意志である

としているが、後述する「奇怪さ」を考慮すると「意志してもできない」

ことそれ自体が議論されてよい。詳細については別稿に記す。今出敏彦「行

為の源泉としての意志―

ハンナ・アーレントの行為概念再考」『基督教学研

究』第二六号、二〇〇六年、一三一―

四二頁。

(13 )三浦は意志の分裂から新しく始める能力と出生の事実とを分節化し、生

まれを受動的契機と捉えることで他の誰でもない「私が意志していること」

が明確になると述べており概ね同意できるが、ルソーの苦悩や情熱といっ

た感情の生活(Gefühlslebens

)は受動的であると同時に能動的なものであ

るだろう。三浦隆宏「意志することと生まれ出づること―

アーレント政治

理論における「自由の深淵」という問題」『倫理学研究』第四一号、

二〇一一年、九〇―

一〇一頁。

(14 )本稿のルソーの苦悩の射程にあるものを考察するうえで参照した論文と

して、別所良美「否定性と苦悩―

批判的理性のありかについての試論」『人

文社会研究』第三六号、一九九二年、一一五―

三八頁。

(15 )内的抵抗はアウグスティヌスの心(cordis

)および回心をめぐる意志の

分裂で考察される(LM

W, 94

)。原書は以下を参照。A

ugstine, Saint, The

confessions of Augstine, E. B. Pusey

(trans.

), Everyman’s library, 1949, p.

450. アウグスティヌス「告白」『世界の名著14』第八巻、山田晶訳、中央公

論社、一九六八年、二七八―

九頁。

(16 )アイヒマン以降、カントの服従がどのようなものであるかが考察されて

いる。「理性と意志は明確に異なる能力であり、カントは理性と意志の関係

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Page 13: アーレントの意志論における内的能力としての決意 …...intimacy of heart )は、…世界の中に客観的で眼に見 で生きることもできない彼の無能さ(ない葛藤、社会の中で気楽にいることもできなければ、その外側男に反抗しているかのようであった。この近代人と彼の果てしのできない。ルソーの

一橋社会科学 2012

- 12 -

を説明するために、命法という形式を使って、あたかも裏口からもぐりこ

むように服従の概念に従った」(RJ, 72

)。この服従がニーチェの次の服従

と同様かが問われよう。「生あるものが見出される限り、私が聞いた言葉は

きまって服従(Gehorsam

e

)であった。すべての生あるものは、従順なも

の(ein Gehorchendes

)である。第二に聞いたことは、自己に従順である

ことができないものは、他から命令されるということである。これが生あ

るものの在り方なのだ。私が第三に聞いたことは、命令するのは服従する

より難しい、ということだ。…生あるものが命令するときには、かれはつ

ねに自分自身をそれに賭けている。それだけではない。何者がいったい生

あるものをして服従し、命令し、また命令することによって服従するよう

に言い聞かせているのか?服従して仕えるものの意志の中にさえ支配者に

なろうとする意志がある」。N

ietzsche, Also sprach Zarathustra : ein Buch für

Alle und Keinen, 1964, S. 122-5.

氷上英廣訳『ツァラトゥストラはこう言っ

た(上)』、岩波書店、一九六七年、一九五―九頁。

(17 )J・L・ナンシー『否定的なものの不安』、大河内泰樹・西山雄二・村田

憲朗訳、現代企画室、二〇〇三年、一八五頁。イエナ期ヘーゲルの自己の

個別性について参照した論文として、金井淑子「イエナ期精神哲学におけ

る精神の取り扱い│ヘーゲルの哲学的人間学への志向」『倫理学研究』第

一七・八合併号、一九七一―

二年、一六―

二七頁。

(18 )ハイデガーの本来的な自己存在(D

as eigentliche Selbstsein

)は世人(D

as

Man

)から引き出され「個体化の原理(principium

individuationis

)」の実

現は、意志、すなわち未来に対する人間の配慮によるとされるが、アーレ

ントの解釈では、本来的自己は「世人」からではなく「良心の声」から引

き出される(LM

W, 182-3

)。

(19 )川崎修『現代思想の冒険者たち17アレント―

公共性の復権』、講談社、

一九九八年、三二頁。

(20 )「良心は自己に関わり「私にはそれができない」とか「私はそれをしたく

ない」と語るだけであり、そこから行為のための刺激が生まれるわけでは

ない」(RJ, 108

)。

(21 )この非因果性と〈始まり〉の連続性にかんする検討は別機に行う。内的

な実体としての自己がどのように成立するかという過程はアーレントにお

いても単純ではなく、関係性において構築される可能性も形而上的な感性

的制限のなかで構築される可能性のいずれも現時点では排除しない。この

見地の導出に際し参照した論文として、大河内泰樹「「内的なもの」と「外

的なもの」―

カントとヘーゲルの実体概念をめぐって」『ヘーゲル哲学研究』

第六号、二〇〇〇年、五三―

六五頁。

(22 )イェッギはイデオロギー批判をめぐり内在的批判(Im

manente K

ritik

を検討しているが、道徳に関してはアドルノの「ミニマ・モラリア」に依

拠しており、根源悪を手放さないアーレントの道徳との相違が問われる。

Jaeggi, Rahel, “Was ist Ideologiekritik?”, in: W

as ist Kritik?, Suhrkam

p Verlag,

2009, S. 286-90. Jaeggi, “No Individual C

an Resist”: Minim

a Moralia as C

ritique

of Forms of Life, J. Ingram

(trans.

), Constellations, vol.12

‐1, 2005, p. 65-82.

(23 )A

rend, Hannah, “

Basic Moral Propositions ”, Lectures in U

niversity of

Chicago, 1966, p. 13. 

米国議会図書館アレント遺稿集サイト(http://m

emory.

loc.gov/ammem/arendthtm

l/arendthome.htm

l

)を参照。

(24 )自己と最奥の自己、意志する自我、人格、私、これらの連関についても

今後は整理を要する。

﹇学外研究者による査読を含む審査を経て、二〇一二年十一月九日掲載決定﹈

(一橋大学大学院社会学研究科特別研究員)

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