8
ブーニン文学の時間について ―記憶と知覚の交錯 ― 1.はじめに イワン・ブーニン(1870 - 1953 )は文学や思想の潮 流の中で自分の位置について語られることを嫌う作家 だった。 1 一方,これまでの研究を振り返ると,文学 的流派や宗教的傾向の枠組みのなかでその作品世界を 位置づけようとする試みの多さに気づく。作家と研究 者の立場は異なるとは言え,ブーニンを良く知るゲオ ルギー・アダモヴィッチは犀利な洞察力で次のように 指摘し,研究する者に向けて警鐘を鳴らすのである。 「ブーニンの作品は全体的に意味づけることができる のであり,そうしなければならない。しかし,テーマ や内容ごとに,各々の場合に適した引用や,世界の謎 とやらについていかにもありそうな解答の目録を使っ て,その作品を把握しようとする者は,実ることのな い仕事を己に課してしまうことになる」。 2 今一度この 指摘に立ち返り,新たなブーニン研究の方法を模索す ることは無意味ではないだろう。 では,「全体的に意味づける」とは具体的にはどう いうことなのか。ブーニン文学に現れるテーマは多様 で,それら個々のテーマは確かに論じるに値するだけ の思想的内容を含んでいるように思われる。しかし, 個々のテーマ論が成立する一方で,まったく異なる ブーニン研究の方法もある。各テーマはその文学世界 の多様な外貌をあらわにするが,そこにはテーマ上の 相違を超えた一貫性があることを忘れてはならない。 そこで,本稿では,特に記憶と恋愛という主要テーマ と知覚の関係を時間感覚から解き明かし,ブーニンの 作品世界を「全体的に」理解することを目指す。その 際,その文学のエッセンスが凝縮している亡命後の作 品群に焦点を絞り議論を進めていきたい。 2.非日常的時間の体験 1)記憶の神秘 記憶というテーマは,亡命ロシアにおいて古い世代 の多くの作家や詩人が扱ったが,ブーニンもまたその 例外ではない。しかし,後に述べるように,ブーニン の記憶には,亡命論のなかで論じるよりも,むしろそ の独特の時間感覚との関連で考察すべき特徴がある。 そこで,ブーニンにおいて記憶の神秘がどのような時 間表象と結びつき,さらにそれがいかなる時間感覚か ら生まれているのかを明らかにしたい。 記憶の神秘をテーマとした作品の最たる例として, 『夜』(1925 )が挙げられる。繊細な自然描写や詩的散 文という形式も含めて,この作品にはブーニン文学に 特徴的な諸要素を見出すことができる。ここでは, 私> という語り手によって,地上的日常的な限定的 生と非日常的で超越的な生が,チュッチェフ的伝統に 倣って昼と夜とにたとえられて対比され,夜という神 秘的体験が語られる。 昼は行いの時,拘束の時。昼は時間の内,空間の内にあ る。昼はこの世の義務を遂行し,この世の生活に仕えると き。(…) 夜とは何か。それは時間と空間の奴隷がしば らく解き放たれること,この世での使命,この世での名前 や肩書きが取り払われること,そしてもしも眼を覚まして さえいれば,大いなる試練に誘い込まれるのだ。実りなき 「思索」,理解を求める虚しい渇望,すなわち甚だしい無理 解へ ―世界と世界の中にいる自分と,自分の始まりと 終わりに対する無理解へと。(V 300 この始まりと終わりの不可解さというモチーフ 3 は, 次のように展開してゆく。 私にはそうしたものがない,始まりも終わりもないのだ。 (…) 誕生いったいそれは何だろう。誕生私の誕生は決し て私のはじまりではない。私の始まりは,生まれ出るまで 私が宿っていた,あの(私にとっては全く不可解な)暗闇 の中に,そして私の父,母,祖父たち,曽祖父たちの中に あった。(…) しかし,私には終わりもない。 自分の誕生を理解することも感じることもできないのだ から,私は死も理解せず,感じない。(…) はじまり,終わり。しかし,時間と空間に関する私の認 識は,ひどく不安定だ。(V 300 - 301 そのような超時空的な生は特別な一部の人間にのみ 51 ロシア語ロシア文学研究 37 (日本ロシア文学会,2005 ) 調

ブーニン文学の時間についてyaar.jpn.org › robun › bulletin37 › 37_miyagawa.pdf · 2005-11-25 · の記憶には,亡命論のなかで論じるよりも,むしろそ

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ブーニン文学の時間について― 記憶と知覚の交錯―

宮 川 絹 代

1.はじめに

イワン・ブーニン(1870-1953)は文学や思想の潮

流の中で自分の位置について語られることを嫌う作家

だった。1 一方,これまでの研究を振り返ると,文学

的流派や宗教的傾向の枠組みのなかでその作品世界を

位置づけようとする試みの多さに気づく。作家と研究

者の立場は異なるとは言え,ブーニンを良く知るゲオ

ルギー・アダモヴィッチは犀利な洞察力で次のように

指摘し,研究する者に向けて警鐘を鳴らすのである。

「ブーニンの作品は全体的に意味づけることができる

のであり,そうしなければならない。しかし,テーマ

や内容ごとに,各々の場合に適した引用や,世界の謎

とやらについていかにもありそうな解答の目録を使っ

て,その作品を把握しようとする者は,実ることのな

い仕事を己に課してしまうことになる」。2 今一度この

指摘に立ち返り,新たなブーニン研究の方法を模索す

ることは無意味ではないだろう。

では,「全体的に意味づける」とは具体的にはどう

いうことなのか。ブーニン文学に現れるテーマは多様

で,それら個々のテーマは確かに論じるに値するだけ

の思想的内容を含んでいるように思われる。しかし,

個々のテーマ論が成立する一方で,まったく異なる

ブーニン研究の方法もある。各テーマはその文学世界

の多様な外貌をあらわにするが,そこにはテーマ上の

相違を超えた一貫性があることを忘れてはならない。

そこで,本稿では,特に記憶と恋愛という主要テーマ

と知覚の関係を時間感覚から解き明かし,ブーニンの

作品世界を「全体的に」理解することを目指す。その

際,その文学のエッセンスが凝縮している亡命後の作

品群に焦点を絞り議論を進めていきたい。

2.非日常的時間の体験

1)記憶の神秘

記憶というテーマは,亡命ロシアにおいて古い世代

の多くの作家や詩人が扱ったが,ブーニンもまたその

例外ではない。しかし,後に述べるように,ブーニン

の記憶には,亡命論のなかで論じるよりも,むしろそ

の独特の時間感覚との関連で考察すべき特徴がある。

そこで,ブーニンにおいて記憶の神秘がどのような時

間表象と結びつき,さらにそれがいかなる時間感覚か

ら生まれているのかを明らかにしたい。

記憶の神秘をテーマとした作品の最たる例として,

『夜』(1925)が挙げられる。繊細な自然描写や詩的散

文という形式も含めて,この作品にはブーニン文学に

特徴的な諸要素を見出すことができる。ここでは,

私>という語り手によって,地上的日常的な限定的

生と非日常的で超越的な生が,チュッチェフ的伝統に

倣って昼と夜とにたとえられて対比され,夜という神

秘的体験が語られる。

昼は行いの時,拘束の時。昼は時間の内,空間の内にあ

る。昼はこの世の義務を遂行し,この世の生活に仕えると

き。(…) 夜とは何か。それは時間と空間の奴隷がしば

らく解き放たれること,この世での使命,この世での名前

や肩書きが取り払われること,そしてもしも眼を覚まして

さえいれば,大いなる試練に誘い込まれるのだ。実りなき

「思索」,理解を求める虚しい渇望,すなわち甚だしい無理

解へ― 世界と世界の中にいる自分と,自分の始まりと

終わりに対する無理解へと。(V,300)

この始まりと終わりの不可解さというモチーフ3は,

次のように展開してゆく。

私にはそうしたものがない,始まりも終わりもないのだ。

(…)

誕生 いったいそれは何だろう。誕生 私の誕生は決し

て私のはじまりではない。私の始まりは,生まれ出るまで

私が宿っていた,あの(私にとっては全く不可解な)暗闇

の中に,そして私の父,母,祖父たち,曽祖父たちの中に

あった。(…)

しかし,私には終わりもない。

自分の誕生を理解することも感じることもできないのだ

から,私は死も理解せず,感じない。(…)

はじまり,終わり。しかし,時間と空間に関する私の認

識は,ひどく不安定だ。(V,300-301)

そのような超時空的な生は特別な一部の人間にのみ

― ―51

ロシア語ロシア文学研究 37(日本ロシア文学会,2005)

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与えられており,彼らには「変身の能力」(V,302),

そして後に検討する「特に生き生きとしたイメージさ

れる(感覚的な)『記憶』」(V,302)が備わっている

と語られる。そして,不安定な時空感覚は「時間が溶

ける」経験によって確かめられる。

何十年もの歳月が,現在の私を幼年時代や少年時代から

隔てている。はるかな昔だ。しかし,ほんの少し考えるだ

けで,時間は溶けだす。私は何度も不思議な経験をした。

それは,こんな体験だ。かつて幼い頃や青年時代をすごし

た草原へ帰って,周りを見渡してみる,すると,突然その

当時から過ごしてきた長い年月は全く存在しなかったのだ

と感じるのだ。これは全く,全く思い出ではない,違う,

私は紛れもなくまたあの頃の私,完全に以前の私なのだ。

(…)

そんな時,私は何度もこう考えた。私がいつだったかこ

の場所で過ごした一瞬一瞬が,私の自我の奥深くに秘めた

無数のごく小さなかけらのようなものに自分の痕跡を残し,

そっと印をつけていたのだ,だからほら,そのうちのいく

つかが突然よみがえり,姿をみせたのだと。一瞬でそれら

は再び私の存在の闇の中に消えていく。でも,消えるなら

それでいい,私はそれらが存在することを知っているのだ。

(V,303-304)

ここでは, 私>個人の過去の記憶が突如現在に蘇る

経験が語られる。4

こうした「時間が溶ける」体験は,個人の記憶の再

現にとどまらない。 私>の意識は,個人の記憶の境

界を越え,はるか 私>の誕生以前の記憶にまでさか

のぼってゆく。

あのはるか昔,福音書時代の朝を,エレオナのオリーブ

林でペテロがイエスを否認したことを,私は完全に自分の

体験として味わった。時間が消えた。私は全存在で感じた,

ああ,この二千年という長さは,なんと微々たるものなの

だろう (V,305)5

こうして,『夜』の中の「時間が溶ける」,あるいは

「時間が消える」体験は,個人の記憶だけでなく,数

千年もの過去に蓄積された記憶の再現として語られる。

『夜』ではペテロのエピソードのみならず,インドの

祖先との繫がりも語られ,その他様々な宗教的テクス

ト(伝道の書やブッダ,ソロモン,トルストイ,マホ

メット)が散りばめられる。そのなかでも特に超越的

な記憶に関する文脈での輪廻転生を彷彿させる表現は

ブーニンの仏教的志向を強調する議論の展開を可能に

する。6 しかし,ブーニンにとって宗教は何よりも詩

的霊感の源であり,7『夜』の宗教的テクストも思想的

意味を持つものではなく,誕生から死までという限定

的な個人的生の領域を越えた記憶の神秘を多彩に表現

するものと考えられる。

2)恋愛の時間と記憶

ブーニンにおいて,独特の時間感覚と結びついてい

るテーマは記憶の神秘のみではない。恋愛というテー

マも,やはり時間という観点から読むことができる。

数多くの恋愛小説の中でブーニンが描き出すのは,あ

らゆる合理性を破壊する力を持つ出来事であり,必ず

悲しい結末に終わる人生最高のきらめきである。そう

した激しい情念と甘美な悲哀はブーニン文学の成熟と

ともにいっそう先鋭化し,1920年代半ば以降の作品8

の中に結晶する。

さて,本稿の目的はブーニン文学の恋愛論を構築す

ることではなく,恋愛というテーマに伴う時間表象か

らブーニンの時間感覚を捉えることであった。その時

間感覚は様々な恋愛小説に現れている。

悲恋の物語『ミーチャの恋』では,冬から夏にかけ

ての季節の変化を背景に,揺れ動くミーチャの心理が

描かれている。ミーチャが恋するカーチャに出会って

間もない「心浮き立つ日々は瞬く間に過ぎ去」(V,

184)り,美しくも不安定な春という季節とともに,9

ミーチャの心理的波乱がやってくる。そして,「春特

有の変化」(V,202)に翻弄されるミーチャに幸福の

時はもう二度と訪れない。

名も知らぬ男女の行きずりの一夜の恋を描いた『日

射病』では,二人が無我夢中で求め合った瞬間が,忘

れえぬ恍惚の出来事として描かれている。10 ヴォルガ

を航行する船で知り合い,下船して一晩をともにし,

再び船で別々に去って行くという,生や恋のあり様を

象徴するプロットの上に描かれる男の揺れ動く心理は,

時間感覚に現れている。二人で過ごした時間は瞬く間

に過ぎ去り,後に残された男はひとりで埋めてゆかね

ばならない時間に直面して呆然とする。11 そしてその

日の夕方,「昨日の一日と今日の朝はもう十年も前の

ことのように」(V,244),また「自分が十歳も年を

とったように感じ」(V,245)ながら男も去ってゆく。

男の記憶に刻まれたのは,女と過ごした束の間の時で

あり,女の去った後は生彩を欠いた等質の果てしない

時間があるのみである。

『寒い秋』(1944)という短編小説でも,儚い幸福の

時と,それが失われた後の数十年という歳月が対照的

に描かれる。戦死することになる婚約者と最後に過ご

した寒い秋の晩だけが,主人公にとって生の証であり,

唯一の記憶なのである。

宮川絹代

52――

え揃

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り調整しています

る為

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いつだったか,考えもせず,あの人が死んだら生きてゆ

けないと言いましたが,私はこうしてあの人が死んだ後も

生きてきました。けれども,あれ以来自分が耐えてきたこ

とすべてを思い起こしながら,いつも自分に問いかけるの

です― そうね,でも,結局,私の人生には何があった

のかしら,と。そして答えるのです,あったのはただあの

寒い秋の晩だけだと。でもあの晩は本当にあったのでしょ

うか?やっぱりあったのです。そして,それが私の人生の

全てなのです。そのほかは要らない夢です。(VII,210)

また,『アルセーニエフの生涯』における時間表象

も注目に値する。ここでは主人公アルセーニエフのい

くつもの恋愛経験が語られているが,どの恋も瞬間的

に始まり,過ぎ去った後は曖昧な淡い感覚の中に溶け

いり,消えていってしまう。ナーリャ・Rへの恋心が

芽生えたのは,彼女について話す級友の言葉によって

「唐突に」(VI,80)であったし,遠い親類のアンヘ

ンのときは,コーヒーを注いでくれたときに彼女の冷

たい手に触れた「瞬間」(VI,102)であり,没落貴

族の娘リーザ・ビビコワの場合も,彼女の足を踏みそ

うになって動揺し走り去った「瞬間」(VI,124)で

あった。そして運命的な出会いとなったリーカへの恋

についても同様のことが言える。

あっという間に時がたってしまったのには全く驚いた。

そのときはまだ,知らなかったのだ,この速さ,時間の消

滅がいわゆる恋の最初の兆候であり,麻酔に似た,意味も

なくいつも心が弾む恋というものが始まる徴だということ

を……(VI,184-185)

恋は「時間の消滅」に始まる。そして,ここまで見

てきたように,ブーニンにおいて幸福な時はその恋の

始まりの瞬間のみであり,恋には必ず終わりが訪れる。

『ミーチャの恋』のように物理的な死に終わることも

あれば,『日射病』のように精神的に虚脱した生が残

ることもある。いずれにせよ,それはブーニンにとっ

て死に等しい。

それゆえ,恋は生の唯一の記憶となりうる。同名の

短編集の表題作『暗い並木道』(1938)のなかの「全

ては過ぎ去りますが,全てが忘れ去られるわけではご

ざいません」(VII,10)という台詞は,まさに「時

間の消滅」として捉えられる恋愛の幸福な瞬間が,永

遠の記憶に値すること,そしてそれ以外は死と同じで

あることを意味している。

『夜』から明らかになったように,ブーニンの記憶

は個人の過去のみならず,全世界の歴史に及ぶ。その

ような無限の記憶の再現は文学創造の源である。そし

て,恋愛によって体験される恍惚とした瞬間は,それ

だけで永遠の記憶に,すなわち言葉に刻まれるに値す

る。

それ[生の価値(筆者による補足)]が高まるのは,た

だ恍惚の時だ。それは,幸福か不幸による高揚感,獲得か

喪失かが鮮烈に意識されるとき,そして,記憶において過

去が詩的に変容するときである。(…) 創作に必要なの

は,ただすっかり過ぎ去った昔だけだ。「完全原状回復」

は必要ない(その上不可能である)。「蒔かれるときは朽ち

るものでも,朽ちないものに復活する。」しかも全てでは

ない,復活に値するもののみだ。( ,366「覚書」)

こうして,ブーニンは創作の中で,何よりも強烈に人

の心を奪う束の間の恋と,過ぎ去ったものがよみがえ

る記憶について語ろうとする。そして,それらを支え

る時間感覚はともに物理的長さを持たない非日常の時

間なのである。

3.刻々と変化する世界

ところで,主要テーマが非日常の時間体験に集約さ

れるといったところでは,ブーニンを時間から検討す

る議論は終わらない。重要なのは,その時間を全体の

中で見ることである。そこで,知覚的な情景描写に眼

を向けることが必要になってくる。鋭敏かつ繊細な全

知覚器官が捉える外的世界の描写はブーニンのテクス

トの中で一際生彩を放ち,その創作の根幹をなしてい

る。情景描写はテーマと不可分に結びつき作品世界を

作り上げているが,そこにも独特の時間感覚を見出す

ことができる。

例えば,聴覚的,視覚的風景がきわめて重要な意味

を持つ『夜』の場合,知覚表象における時間とテーマ

の時間とのコントラストは顕著である。まず聴覚的描

写から特徴的な箇所を引用する。

一瞬もとだえることのない音が,天と地と海の沈黙を突

きぬけるような響きで満たしている。それは無数の川が流

れては合わさる音のようにも,不思議な花が水晶の蔓をら

せん状に伸ばしていく音のようにも聞こえる。(V,299)

この例から明らかなように,静寂を満たす「一瞬もや

むことのない澄みきった音」(V,297)は,絶え間な

い川の流れや伸びてゆく水晶の蔓にたとえられ,ある

方向に向かう一定の動きとして描出される。では視覚

はどうだろうか。

ブーニン文学の時間について

― ―53

る為

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夜空の深淵は色とりどりの星が溢れ,その中に,やはり星

で一杯の透明な天の川が,白みを帯びてふんわりと浮かん

でいる。そして不揃いな二本の煙のように,星がなく,そ

のためにほとんど漆黒の南の地平線のほうへと傾いている。

バルコニーが面している庭は砂利が敷かれ,丈の低い草が

まばらに生えている。バルコニーからは夜の海が開けてい

る。淡い乳白色の鏡のような海は,深い眠りの中にあるか

のように動かず,沈黙している。(V,297)

静的な中に,暗闇と光,色彩とが視覚に訴える風景が

描写されている。この静的な空間は,絶え間ない音の

流れの背景となり,その流れを一層際立たせている。

さらに嗅覚触覚も含む全感覚が捉える動きが描かれる

とき,風景全体は時の経過とともに揺れ動く変化の中

に組み込まれてゆく。

かすかに空気が動き,花壇の花の香りと海の冷気が不意に

バルコニーに届く。そしてすぐに,ざわめきが聞こえてく

る。眠たげな波が下の方でゆっくりと岸辺へ打ち寄せる,

その静かな吐息だ。(…) 波は寄せては砕け,青白い光,

無数の生命の輝きで砂を照らし,またゆっくりと後ろへ引

き,自分の揺りかごであり墓場でもある場所へと帰って

いった。(V,303)

こうした描写は少しずつ変化しながら,記憶の神秘に

関する 私>の思索についてのテクストの合間に繰り

返し現れる。それは,知覚が捉える世界の不断の微か

な変化,淡々とした流れを示している。つまり,風景

描写における時間表象は絶えず流れてゆく現前の時間

を表しているのである。

恋愛の背景となる風景もそのような時の流れの変化

の中にある。例えば,『ミーチャの恋』では季節の移

り変わりが鮮明に描かれることで,ミーチャの心理と

は無関係に過ぎてゆく時間が示されている。ミーチャ

の葛藤の時は春とともに訪れるが,周囲の世界が夏を

告げても終わらない。

ミーチャは,迫りくる夏に伴う周囲の変化を追うのをやめ

た。変化は目に入ったし,感じてもいたのだが,彼にとっ

ては独立した価値を失い,彼はその変化を苦しみとともに

味わうだけだった― まわりがよくなればなるほど,彼

の苦しみはひどくなっていった。(V,211)

ここで,恋に翻弄されるミーチャに「夏は再び訪れ

る」(V,190)というコジマ・プルトコフの詩句を引

用した友人の忠告が想起されると同時に,周囲の時の

流れから離脱したミーチャの内面の時間が明らかにな

る。

『日射病』でも恋した男の内的時間感覚とは裏腹に,

淡々と過ぎてゆく日常の時間がある。すでに述べたよ

うに,男は女と過ごした時間を「十年も前のことのよ

うに」感じていたが,その十年間とは実は女が去って

いった朝十時から男が去るその日の夜までの時間であ

る。その客観的時間を強調すべく,朝と夜の描写が鮮

やかだ。

朝の十時に,― それは晴れた暑い幸福な朝で,教会の

鐘が鳴り響き,ホテル前の広場には市場が立ち,干草や

タールの匂い,そしてまたロシアの田舎町独特のあのいろ

いろ入り混じった香ばしい匂いのする朝だった― この

名の知れぬ小柄な女は,冗談まじりに自分のことを麗しの

見知らぬ女と言って,ついに名を明かさず去って行った。

(V,239)

「朝の十時」という時計上の時刻やその時間の日常

的光景は,客観的時間の存在を強調する。また,その

日の晩の描写からも,前日と変わらない夏の夜の風景,

御者の仕事や汽船の運航は日常的時間の中にあること

が示されている。12

ブーニンにおいて,幸福な恋愛の徴はただその始ま

りに「時間の消滅」として刻まれる。主人公たちはそ

の恍惚の瞬間に日常的時間の流れから離脱してしまい,

彼らの内面の時間はもはや客観的な時間の流れに再び

合流することはできない。そして,取り囲む世界との

調和を失い,孤独な閉鎖的内的時間のうちに生きる彼

らは,物理的,あるいは精神的な死に至る。

以上のことから,ブーニンの作品世界では,客観的

な外的時間として知覚的風景描写の時間も重要な意味

を持っていることがわかる。風景描写における時間は,

非日常の測りえない時間とは無関係に,とどまる事を

知らず流れてゆくのである。

4.記憶と知覚の結合をめぐって

さて,これまでテーマの時間と知覚表象における時

間をそれぞれ別に見てきた。それをまとめると次のよ

うになる。ブーニン文学のテーマは非日常的時間と考

えることができる。時空を超えた記憶の再現という体

験は,過去の持つ無限の豊かさを示す。一方,恋愛の

幸福はただ最初の瞬間にあり,過ぎ去った後に永遠の

記憶として生きることが可能になる。つまり,テーマ

で語られる非日常的時間は過去の記憶に支えられる内

的時間の様相である。それに対して,知覚が捉える外

的時間は刻々と変化し流れてゆく現前の時間として描

54

宮川

― ―

絹代

右揃

ています

る為

空送り調整し

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かれる。その意味で,描写のテクストは常に現在的と

いえよう。

このように,テーマにおいて語られる時間と知覚表

象において描出される時間が,過去と現在の結合,あ

るいは記憶と知覚の結合という形をとって相互に絡み

合い一体となっている。ここではその結合について検

討する。

1) 私>が繫ぐ内的宇宙と外的宇宙

すでに見てきたとおり,『夜』では思索に関するテ

クストと風景描写のテクストが交互に現れ,記憶と知

覚が明白に交錯している。そこで, という

行為に注目して,その交錯について考察したい。

まず,記憶に関する思索のテクストでは「私は何を

考えているのか。」( )(V,297およ

び 298),「私は何を考えていたか,私の中には何が

あったか。」( )(V,

298)という疑問文から,語り手 私>は内的世界に

思索を向けてゆく。そして,その内的世界の深淵には

すでに述べた神秘的記憶がある。

では,風景描写のテクストにおける はど

うだろうか。冒頭の段落では,「私は考える,そして

じっと耳をすます(

),透明なざわめき,惑わしの音に。」(V,

297)という一文のあとに,すでに引用した「はてし

ない夜空は…」という風景描写のテクストが続く。ま

た別の箇所でも,セミの響きや空や海を照らす木星の

光の描写の前に「私は耳をすまし,考える」(

)(V,299)とあり,やはり「考え

る」という行為が「耳をすます」,つまり知覚と連動

していることがわかる。ここから,風景描写に伴う

は,知覚によって 私>を外的な世界へと

解放するということが言える。

このように,「考える」という行為の主体である

私>は,一方では自己の内的宇宙の記憶へ向かい,

また他方では外的宇宙を知覚している。『夜』の最後

は,思索と知覚が入り混じったテクストの後に「神よ,

私をそっとしておいてくれたまえ 」(V,308)とい

う叫びで締めくくられているが,それは二つの宇宙の

深淵に向かって果てしなく研ぎ澄まされてゆく張り詰

めた精神の叫びであろう。 私>の葛藤は,二つの宇

宙のコントラストによって鮮明に浮かび上がってくる。

2)「イメージされる(感覚的な)『記憶』」13ということ

これら二つの宇宙,あるいは「消滅する」時間とた

えず変化する時間という二つの異質の時間の様相がし

ばしば対照的に描かれ,緊張感を生み,ともに作品世

界を構築していることを思い起こせば,それらの不可

分性は明らかであるが,ブーニンにおける知覚の重要

性は,その記憶の独自性とも深く関わっている。

すでに触れたが,『夜』には時空感覚が不安定な特

別な範疇の人々, 私>を含む詩人や芸術家に関する

次のような箇所がある。

彼らは何を持っていなければならないか。自分の時代だ

けでなく他の時代,過ぎ去った時代を,自分の国や種族だ

けでなく他の国や種族を,自分だけではなく他人を,特別

に強く感じる力を持っていなければならない。つまり,い

わゆる変身の能力に,特に生き生きとしたイメージされる

(感覚的な)「記憶」を持っていなければならない。(V,

302)

注目したいのは「イメージされる(感覚的な)『記

憶』」である。ここにブーニン文学の精髄を見出そう

とする研究はこれまでにもあった。14 しかしそれらは,

時空を超えた記憶の神秘,すなわち過去への志向を強

調するあまり,「イメージされる(感覚的な)」の意味

を十分論じていない。

ブーニン文学の記憶の独自性を,「イメージされる

(感覚的な)『記憶』」に求めるのなら,それは,記憶

の問題を古い世代の亡命文学における失われた過去へ

のノスタルジーという視点から離れて検討しなければ

ならないということを意味する。つまり,亡命生活の

厳しい現実と芸術の世界を対比し,現在を過去と対置

する説明15では,ブーニンの記憶は捉えられないのだ。

ブーニンの記憶において,過去は現在振り返られる

「思い出」ではなく,現在生き生きと知覚されるイ

メージである。ここには,故郷の思い出と亡命地での

現実,文学の世界と実生活の対比に基づく過去と現在

の間の断絶はない。過去は現在の知覚によって鮮やか

に再現され,現前に立ち現れてこそ,真の意味で「イ

メージされる(感覚的な)『記憶』」となる。16

この「新鮮な感覚や生き生きとした思考や巨大な無

意識」(V,302)すら伴う記憶は,「想像」17とも言い

換えられる。

私は想像の中で,遠い昔の他人の人生や感情をどれほど

生きてきたことか。まるで,この私があらゆる場所とあら

ゆる時代に存在していたようだ。では私の現実と,私の想

像や感情との境界はどこにあるのだろう。想像や感情もま

た現実であって,疑いもなく存在するのだから。(V,

305)

過去は記憶のための無尽蔵のイメージを抱えている。

なんらかの事物や出来事が過ぎ去り実際にはすでに存

― ―55

ブーニン文学の時間について

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在しなくとも,瑞々しいイメージは再現される。

『ミーチャの恋』をはじめとする恋愛小説に関して

も,せめぎ合う二種類の時間が緊迫感を生む重要な要

素となっていることはすでに述べた。その際,イメー

ジと言う言葉に注目すると,作品内で語られるイメー

ジの創出は実物の不在と関わっていることがわかる。

いまや,彼女はいなくて,あるのは彼女のイメージだけ,

それも本物ではなくて,彼が望んでいるイメージだけだっ

た。すると,彼女に求められていた清純さや麗しさを乱す

ものは何もないように思え,彼女はミーチャの目に留まる

全ての中に日々一層生き生きと感じられるのだった。(V,

200-201)

全ては過去へと押し流されてゆくが,そこに残され

るのは単なる空虚な不在ではない。失われた部分は知

覚と結びついた鮮明なイメージが埋めてゆく。そこに

葛藤があり,また創造へ駆り立てる霊感がある。すな

わち,過去と現在,あるいは不在と現前が相克のうち

に結合したところに「思い出」とは異なるブーニンの

「イメージされる(感覚的な)『記憶』」があるのであ

る。

5.おわりに

このような記憶と知覚の結合は,ブーニン文学の中

核をなす特徴である。刻々と過ぎる客観的時間とその

中に生きる人間の内的時間が複雑に絡み合い一体と

なって,悲哀や甘美さ,絶望感や喜びの入り混じった

ブーニンの作品世界を生んでいる。

ブーニンは現在によみがえる記憶を「エリコのバ

ラ」18にたとえる。「エリコのバラ」とは,古代の東方

で,永遠の生命,死からの復活を信仰する証として,

棺や墓に投じられた野アザミである。このアザミは摘

み取られ,故郷からはるか遠くに持ち去られ,何年も

のあいだ枯れた状態でいても,水に浸されると再び葉

や花をつけるという。

エリコのバラ。心の生命の水に,愛や憂い,優しさとい

う澄んだ水の中に,私は過去の根と茎を沈めよう。すると

ほら,再び,再び,私が胸に秘めていた草は見事に芽を出

すのだ。この水が涸れ,心が渇き干上がったときには降伏

しよう,時はもう戻らないと。そのときは,もはや永遠に,

わがエリコのバラは,忘却の塵で覆われてしまうだろう。

(V,7-8)

ブーニンは死を恐れていたが,最も決定的な死とは

忘却であった。過去は現在によみがえる。その記憶を

言葉に刻めば,失われたものも永遠の生を得る。こう

して,終末論的復活へのヴィジョンを抱かないブーニ

ンの永遠への願いは,ただ「イメージされる(感覚的

な)『記憶』」によって支えられた文学の創造に託され

ることになる。

(みやがわ きぬよ,東京大学大学院生)

1「私はどんな文学的流派にも属さないし,デカダン派とも

象徴派ともロマン派ともリアリストとも自分のことを呼

んだことはない」( ,268),「いかなる正統的信仰も堅

持していない」( ,258)など。(本稿におけるブーニン

の著作の引用は,

-

からのものであり,出典は巻数(ローマ数字)および頁

数(アラビア数字)のみ示す。翻訳は著者によるが,

『ブーニン作品集 3 たゆたう春/夜』,『ブーニン作品集 5

呪われた日々/チェーホフのこと』(ともに群像社,2003

年),高山旭訳『アルセーニエフの青春』(河出書房新社,

1975年)を参考にした。)2 //

3 自伝的長編小説『アルセーニエフの生涯』(1927-29,

33)でも,同様のモチーフが誕生や死に関する思索のテ

クストのうちに展開していく箇所があるが(VI,7),こ

こでは記憶の神秘ではなく,儚い生の愛しさというモ

チーフに展開している。4『アルセーニエフの生涯』における記憶の再現体験につい

ては,しばしばマルセル・プルーストの無意志的記憶と

の類似性が指摘される。ブーニン自身その類似性は認め

るものの,直接的な影響は否定する。また,無意識の領

域に存在する記憶の現在における再生という点で,ベル

クソンから論じることも可能であるが,ここでは比較に

問題を拡大しない。5 このテクストがチェーホフの『大学生』からの引用であ

る可能性は高い。ブーニンは未完の評伝『チェーホフの

こと』でもチェーホフがこの短編について語る言葉を引

いている( ,186を参照)。なおチェーホフのテクスト

との比較は

に詳しい。6 仏教との親近性に関して論じられているものには,例え

// -

//

- 及び,

// Pro et Contra.

- Marullo,

Thomas Gaiton, If You See the Buddha:Studies in the

Fiction of Ivan Bunin. Evanston. Illinois.:Northwestern

University Press,1998.などがある。

― ―56

宮川絹代

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7 この点でブーニンを宗教的霊感ではなく直感の作家とみ

なしたイリインの議論は説得力がある。(

//

- )8『ミーチャの恋』(1924),『日射病』(1925),『イーダ』

(1925),『エラーギン少尉の事件』(1925),作品集『暗い

並木道』(1937-45)9 「春」と言うことが何度も強調されている(「春の訪れと

ともに…」(V,188),「しかし,それでも春だった,空

気は春の匂いがした」(V,192),「今年の春,彼の初恋

の春も,今までの春とはまったく違っていた」(V,

200)など)。10「この瞬間はその後多くの歳月を経ても思い出されたほど

だった。男も女も,一生の間にそんな経験をしたのはこ

のときだけだった。」(V,239)11「この終わりのない一日をどう過ごしたらいいのだろ

う 」(V,241)12「『時間ちょうどにお連れしました 』と御者は取り入る

ように言った。(…)前日と同様に,桟橋にぶつかる柔ら

かい音がし,足元の揺れのせいで感じる軽い眩暈があり,

艫綱は飛び行き,いくらか後ろに動いた汽船の外輪の下

では前方に流れ出る泡立つ水が音を立てていた……。す

でにどこも明かりがつき,料理の匂いが漂うこの汽船の

賑わいは,一層感じよく,快適に思われた。(…)はるか

前方では暗い夏の夕焼けが消えようとしていた。(…)」

(V,245)13 原文は 。本稿の議論で

は (「イメージ」)を重視するため,

を「イメージされる」と訳した。望月恒子訳では「イ

メージ豊かな」となっている。14 例えば, //

- やRichards D. J.Memory and Time

Past//Forum for Modern Language Studies.1971.Vol.7.

N.2. pp.158-169.など記憶に着目した論文は多い。国内

では,望月恒子の研究がある(「記憶の源流― ブーニン

『アルセーニエフの生涯』を読む― 」『スラヴ学論叢』4

-2(2000):178-188,「亡命自伝文学における記憶の表現

― 時制と構文の特徴 ― 」『スラヴ学論叢』5-2

(2001):131-144)。先行研究の中でも特に

- は包括的且

つ詳細な研究書である。15 すでに引用した『夜』のテクスト(V,303-304)や,ス

テプーンの指摘(「過去についての憂愁の情は亡命生活の

中枢をなす。しかしブーニンと異なり,多くの作家は記

憶ではなく,思い出を『呼び起こす』のだ。」(

//

))同様,マリツェフも「記憶」が

「思い出」とは異なることを述べているが,生き生きとし

た過去を暗い現実とのコントラストのうちに捉えている

という点では,亡命論に依拠している(

- - )。16 ここでも,再びプルーストやベルクソンを彷彿とさせる。

特にベルクソンの『物質と記憶』で論じられる記憶,知

覚,イメージの関係との類似性は顕著である。17 原文は で, という語幹に注目し

たい。マリツェフはブーニンにおいて時間からの解放を

可能にする 3つのものとして,記憶,夢,想像を挙げて

いる( - )

が,現在の知覚によるイメージ創出との関連は考慮され

ていない。18『エリコのバラ』(著作年不明)。もともとは主に亡命後の

作品から成る同名の作品集(1924)の序文。

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ブーニン文学の時間について

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宮川絹代