16
79 グローバリゼーション時代における宗教 -天理教学の視点から- 井 上 昭 夫 * Agora: Journal of International Center for Regional Studies, No.3, 2005 【論 文】 1.はじめに 情報技術の急速な発達により,経済のグロー バリゼーション(世界化)は驚異的に拡大し た。その影響は,良きにつけ悪しきにつけ, 国境を越えて,個々の文化や私たちの精神の 領域にまで,知らず知らずのうちに深く確実 に進入してきている。 グローバリゼーションの世界における急激 な浸透は,ナショナリズムや原理主義の反逆 を導き出した。またジョン・ヒックに代表さ れるような宗教多元主義もグローバリゼー ションがもたらした一つの相対主義である。 グローバリゼーションのなかで一見相反す る様に見える,思想や価値観の多元化と物 質界の一元化は,一から多に拡散,多から 一に収斂しようとする,人類の精神文明の 対極構造としてあるという解釈も成り立つ だろう。この両極を,精神界と物質界を動 かす強力な文明のエネルギーとして理解す るとき,その揺れ動くはざまに投げ出され た現代の宗教は,グローバル化によって相 対化され,その特殊性を失う方向に向かう のか,グローバル化がもたらす均質化,普 遍化に対抗するファンダメンタリズムに回 帰するのか,あるいはその折衷タイプに甘 んじるのか 1。両者の関わりはどのようであ り,また調和ははたして望むべきものであ 1.はじめに 2.一元化される世界 3.一神論とグローバル化 4.多神と一神―二元論を超える「メビウス 宇宙」 5.グローバル化時代と「元の理」 6.「裏守護」の再解釈の再構築 7.「元の理」の比較文明論 8.おわりに * 天理大学地域文化研究センター 1)宗教は本来的に自らの信心の絶対性を主張する。どの宗派も,信者に向かって執着的生の在り方を罪とか煩悩,わ が身思案などと説きながら,自分の宗教こそが絶対であり,最善であると主張する。しかし,グローバル化の波は,多元 主義的な思想を巻き込み,この宗教の自ら持つ絶対性の相対化という危機的状況を生み出す。そこで宗教の向か う道は二つしかないと思われるとして,ピーター・ベイヤー(Peter Beyer)は,その著書Religion and Globalization, SAGE Publications, 1994の中で,その二つの方向を次のようにまとめている。 ①まず第一の方向は,グローバル化がもたらす相対化に直蔓する宗教伝統がその教義の特殊主義的な側面を再活性 化させる(revitalization of a tradition in the face of relativation)という方向。つまり原理主義という方向性。ベ イヤーが分析するラシュディ事件をめぐるイスラム原理主義の方向へと向かう道である。 ②第二の方向として,グローバル化に対して,固有の伝統文化としての宗教が,その特殊性という自らの性格を脱却 して,よりオープンでリベラルな姿勢で対応するという方向。グローバリゼーションが持ち込む異質性の全てを否定 し,あるいは反逆するのではなく,それらを取捨選択し,取り込むべきものは取り込んで自文化を新たに創造する方 向へと向かう道。 ③その他,①と②の折衷タイプも現実には見られるが,この二つの方向を「理念型」として用いることで,ベイヤーはグロー バル化に直面している宗教における「普遍と特殊」, 「超越と内在」といったパラドクシカルな同時性という性格が明ら かになると分析している。その分析は,ヒックらの宗教多元主義や「宗教間対話」にとっても, 「グローバリゼーションと宗 教」を考える上で,有益な視点を提供してくれると思われる。

グローバリゼーション時代における宗教 -天理教学 …opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/3793/AGR...バル化に直面している宗教における 「普遍と特殊」「超越と内在」,

  • Upload
    others

  • View
    0

  • Download
    0

Embed Size (px)

Citation preview

Page 1: グローバリゼーション時代における宗教 -天理教学 …opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/3793/AGR...バル化に直面している宗教における 「普遍と特殊」「超越と内在」,

79

グローバリゼーション時代における宗教-天理教学の視点から-

井 上 昭 夫 *

Agora: Journal of International Center for Regional Studies, No.3, 2005

【論 文】

1.はじめに

情報技術の急速な発達により,経済のグロー

バリゼーション(世界化)は驚異的に拡大し

た。その影響は,良きにつけ悪しきにつけ,

国境を越えて,個々の文化や私たちの精神の

領域にまで,知らず知らずのうちに深く確実

に進入してきている。

グローバリゼーションの世界における急激

な浸透は,ナショナリズムや原理主義の反逆

を導き出した。またジョン・ヒックに代表さ

れるような宗教多元主義もグローバリゼー

ションがもたらした一つの相対主義である。

グローバリゼーションのなかで一見相反す

る様に見える,思想や価値観の多元化と物

質界の一元化は,一から多に拡散,多から

一に収斂しようとする,人類の精神文明の

対極構造としてあるという解釈も成り立つ

だろう。この両極を,精神界と物質界を動

かす強力な文明のエネルギーとして理解す

るとき,その揺れ動くはざまに投げ出され

た現代の宗教は,グローバル化によって相

対化され,その特殊性を失う方向に向かう

のか,グローバル化がもたらす均質化,普

遍化に対抗するファンダメンタリズムに回

帰するのか,あるいはその折衷タイプに甘

んじるのか1)。両者の関わりはどのようであ

り,また調和ははたして望むべきものであ

1.はじめに

2.一元化される世界

3.一神論とグローバル化

4.多神と一神―二元論を超える「メビウス

宇宙」

5.グローバル化時代と「元の理」

6.「裏守護」の再解釈の再構築

7.「元の理」の比較文明論

8.おわりに

* 天理大学地域文化研究センター

1)宗教は本来的に自らの信心の絶対性を主張する。どの宗派も,信者に向かって執着的生の在り方を罪とか煩悩,わが身思案などと説きながら,自分の宗教こそが絶対であり,最善であると主張する。しかし,グローバル化の波は,多元主義的な思想を巻き込み,この宗教の自ら持つ絶対性の相対化という危機的状況を生み出す。そこで宗教の向かう道は二つしかないと思われるとして,ピーター・ベイヤー(Peter Beyer)は,その著書 Religion and Globalization,SAGE Publications, 1994の中で,その二つの方向を次のようにまとめている。

①まず第一の方向は,グローバル化がもたらす相対化に直蔓する宗教伝統がその教義の特殊主義的な側面を再活性化させる(revitalization of a tradition in the face of relativation)という方向。つまり原理主義という方向性。ベイヤーが分析するラシュディ事件をめぐるイスラム原理主義の方向へと向かう道である。

②第二の方向として,グローバル化に対して,固有の伝統文化としての宗教が,その特殊性という自らの性格を脱却して,よりオープンでリベラルな姿勢で対応するという方向。グローバリゼーションが持ち込む異質性の全てを否定し,あるいは反逆するのではなく,それらを取捨選択し,取り込むべきものは取り込んで自文化を新たに創造する方向へと向かう道。

③その他,①と②の折衷タイプも現実には見られるが,この二つの方向を「理念型」として用いることで,ベイヤーはグローバル化に直面している宗教における「普遍と特殊」,「超越と内在」といったパラドクシカルな同時性という性格が明らかになると分析している。その分析は,ヒックらの宗教多元主義や「宗教間対話」にとっても,「グローバリゼーションと宗教」を考える上で,有益な視点を提供してくれると思われる。

Page 2: グローバリゼーション時代における宗教 -天理教学 …opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/3793/AGR...バル化に直面している宗教における 「普遍と特殊」「超越と内在」,

るのか,はたまた相矛盾すると思われる異

文化の共存ないし,それらを包摂する文明

はどのようにして創出可能なのか。そこに

はどのような問題が横たわっているのかに

ついて,共に考えるための素材となる若干

の情報と解釈,そして関連するモデルを提

示し,グローバル化時代における未来への

見透しを,天理教学に立ち返って考察する

ことにより,将来に向けての問題提起とし

たい。

2.一元化される世界

(1)グローバル化と食文化

科学技術による経済発展が生んだグロー

バリゼーションは,私達の生活領域に数多

くの変化をもたらした。日常の私たちの食

習慣の変化についていえば,ファストフー

ド外食産業の代表格であるハンバーガーが,

日本に上陸したのは1971年のことである。

統計によれば,1998年に至って日本人1人当

たり,1年間7.7個のハンバーガー,トータルで

9億7400万個を消費した計算になっている2)。

都会では数百メートルおきにマクドナルド

に出会うほどになった。ここで言いたいの

は,マクドナルドの突出した消費量ではな

く,マクドナルドが徹底的な合理化過程,

つまり人間的な技能を人間によらない技術

体系や徹底したマニュアルに置き換えるこ

とによって,労働や職業の非人格化と非人

間化をもたらしているという問題意識の重

要性である。マクドナルド的な合理化シス

テムは,まずファストフードやファミリー

レストランを制圧し,さらには銀行,フィッ

トネス・クラブ,レンタル・ビデオ,フォ

ト・ショップなどのサービス業へと広がり,

教育や,医療,葬儀場といった社会の全領

域を制覇しつつある。ジョージ・リッツア

は,このような社会の全域に見られるグロ

ーバル化するマクドナルド化現象を「合理

化の現代的なパラダイム」として位置付け,

逆にその非合理性,脱人間化現象を批判し

ながら,驚くべき範囲の社会現象が,マク

ドナルド化の見出しと関連づけられ,直接

間接にファストフード・レストランの原理

によって影響を受けていると,鋭い洞察を

その著『マクドナルド化する社会』3)にお

いて行っている。この書は1993年の初版以来,

アメリカで劇的なベストセラーを続け,現在

世界12ヶ国で翻訳出版されている。

リッツアが最初にマクドナルド化する社

会について一つの論文を書いてからここ10年の間に,日本は言うに及ばず,ファース

トフード・レストランは世界の隅々まで浸

透したかのようである。パリのファースト

フード・クロワッサン,北京のケンタッキ

ーフライドチキン,北京とモスクワのマク

ドナルドといった具合に。リッツアによれ

ば,多数の産業がこのマクドナルドによっ

て開発された路線によって組織されていっ

た。彼は「ほとんどすべての制度(たとえ

ば教育,スポーツ,政治,そして宗教)が

その展開にマクドナルドの原理を応用して

いた。そのため,マクドナルド化は世界中

に普及した」と分析する。注目すべきは,

ファストフードの領域を超えて影響を与え

る,カッコ内の諸制度におけるマクドナル

ド化現象である。相次ぐ我が国の近年の金

融界,県警における不祥事対応マニュアル

は,銀行,警察のマクドナルド化の証であ

ると言えないこともない。いずれにしても,

波及するマクドナルド革命が,このさき私

達に何をもたらすかを考えることは,グロー

バリゼーションを考えるに際して,一つの

有効な切り口を与えることになろう。

マクドナルド化とは,効率化,計算可能

アゴラ(天理大学地域文化研究センター紀要)80

2)毎日新聞「マクドナルド独走」1999年9月26日。3)ジョージ・リッツア『マクドナルド化する社会』早稲田大学出版部,正岡寛司監訳,1999年。

Page 3: グローバリゼーション時代における宗教 -天理教学 …opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/3793/AGR...バル化に直面している宗教における 「普遍と特殊」「超越と内在」,

性,予測可能性,そして制御の4つの次元か

ら説明される。効率化とは,作業工程の簡素

化と商品の単純化を通して,従業員ではなく

客を働かせて,サービスを効率的に処理する

ことを指す。計算可能性とは,製品の質より

も量とスピードに重点を置き,販売量,価格,

時間などを数量化,定量化し,製品や労働を

規格化することを意味する。予測可能性とは,

ハンバーガーの味と量と価格は,世界のどこ

の店でも同じであり,従業員の接客態度もマ

ニュアル化されていて,ニューヨークでも大

阪でも変わらないという画一性である。そし

て制御とは,「人間技能の人間によらない技

術体系への置き換え」である。こうした合理

至上主義・高度資本主義が生んだマクドナル

ド化は,圧倒的多数の消費者によって支持さ

れているが,それはより安く,より多く,よ

り速く,従ってより良い(と感じられている)

商品とサービスを消費者に提供することに成

功したからに外ならない。しかしリッツアは,

マクドナルド化で問題なのは,従業員と客,

従業員と従業員,客と客との接触が瞬間的な

ものになることを通して,職場では創造的な

人間関係はうまれず,組合も出来ない。客同

士も今までのようなカフェやパブのような場

所で生まれた人間らしい会話や交流を持ち得

ない。にもかかわらず,客は大いに楽しんで

いるという「幻影」を与えられ,「バーチャ

ルな幸福」のイメージに満足しているという

社会心理現象にある。それをリッツアは「合

理性がもつ非合理性」とよび,マルクスが

「疎外」と呼んだ脱人間化現象を,マクドナ

ルド化は引き起こしていると警告を発してい

るのである。広範囲にその合理性のもつ有利

な点に目を奪われて,マクドナルド化し,マ

ニュアル化する人間に対して,個人がそれに

うまく対応する活動リストをあげ,「逆マニュ

アル化」を行っている。そして人々がマクド

ナルド化に抵抗することで,「より筋の通っ

た人間的な世界」を創り出すよう促して著書

を結んでいる4)。

マクドナルド化に象徴される,均質・同

質・均一・単純・統合・合理性といった価

値観を追求するグローバル化する社会諸相

の中では,同じ音楽が流れ,同じ映画が上

映され,同じ教育がマニュアル化され人び

とに供される。

(2)グローバル化と医療

結婚式や葬式もマニュアル合理化され,

生命の死も臓器移植を前提とした脳死とい

うグローバル化された概念によって,法律

的に規制されることとなった。臓器は先端

医療技術の開発により,その移植医療が国

家の境界を超えて国際的となり,ここでも

貧者が売り手に廻り,金持ちが買い手に廻

るという世界的な社会構図ができあがった。

経済のグローバル化がもたらしたと同じよ

うに,貧富の格差が対照的に浮かび上がり,

臓器はグローバリゼーションによって売買

される商品に成り下がったのである。そし

てミレニアムを迎えた2000年の1月4日,マ

スメディアが一斉に,試験管の中ではある

が,生物の器官・臓器を,日本の発生生物

学者が創り出すことに初めて成功したと報

道した。たたみかけるようにあくる日の5日の読売新聞には,上海の遺伝子操作研究セ

ンターが,移植に使うヒトの臓器をクロー

ンによって生み出すことの技術開発に成功

し,この技術は患者本人の細胞から臓器を

「複製」するため,移植で最大の難関になっ

ている拒絶反応が抑えられ,ドナー不足の

問題も解決出来るという記事が載った。

耳や目など感覚器官の細胞魂の創成や,ク

ローンによる臓器の創成は,産業化にはま

だ時間がかかると言われるが,画期的な生

命科学の出発点となったことには間違いは

ない。人間の器官,臓器を発生学的に創り

井上昭夫:グローバリゼーション時代における宗教 81

4)リッツア 前掲書,323頁。

Page 4: グローバリゼーション時代における宗教 -天理教学 …opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/3793/AGR...バル化に直面している宗教における 「普遍と特殊」「超越と内在」,

あげることによって,移植に供するという治

療がより現実的となったのである。そのうち

人間の身体組織や臓器は,新たに薬局で商品

となり,売買される時代がやって来るであろ

う。先端医療技術のもたらした身体部品のグ

ローバル化である。現在進行中である,ボン

ベイの人体臓器バザール5)は,そのうち不

要なものとなるのであろうか。遺伝子改造は,

先端科学技術が限りなく神の領域にわけ入

り,しまいには多様な人間存在と個人の尊厳

を消し去ってしまうかも知れないという不

安を残す。

天理教内をふり返れば,遺伝子診断と遺伝

子治療の時代を迎えて,身上や事情のおたす

けにおける,個人の「いんねん」のさんげや,

神の手引きとしての「病のさとし」は,肉体

的治癒を目的とするよりも,こころと精神の

あり方の方向に力点がより置かれることにな

ろう。医療科学技術の未来を先取りした,宗

教者の救済行為における精神への力点の移行

が求められる。

このように世界が医療を巻き込み,ますま

す単一の市場に向けて画一化,統合される

様々な現象の中で,異なる地域の特性や民

族・宗教・文化が,ナショナリズムという装

いを通して,グローバリゼーションに先鋭に

対抗する形で台頭してきた。均質のグローバ

ル化と差異・格差のナショナル化。両者が相

克する中で,世代や階層の間では,同じ世界

の情報を瞬時に共有する機会を与えられなが

らも,徐々に共通感覚が失われつつあるとい

う垂直的な差異化現象が見られるようになっ

た。つまり,人類は,空間的にグローバリゼ

ーションによって縮小化された同質の一つの

社会としての世界に向いながら,世代間とい

う時間差による価値観の差異の拡大化によっ

て,お互いのコミュニケーションが断たれつ

つあるという「逆説の世界」にも向かって

いる。このことに気付き,グローバル化さ

れたヨコの均一性だけでなく,世代間によ

るタテがつくり出す,「疎外」という問題の

対応にも迫られているという,グローバル化

が持つ重層性をも認識しておかねばならな

い。

3.一神論とグローバル化

グローバル化は科学技術によってもたら

されたが,その科学技術は西洋の一神論と

いう揺りかごのなかで生まれた。そして,

それは発達するに従いどんどんと階層的構

造をとるようになったのである。このよう

にして培われた一神教的思想はまた複雑多

岐にわたる問題を解決するに際しても,唯

一の答えを追求しようとする強い傾向を持

つようになった。

宗教心理学者であるデイビッド・ミラー

は,キリスト教の一神論的な神と,現代社

会におけるコンピューターの一神論とは密

接に結びついていると主張している。そし

てミラーは「黄金時代に終わりが来ること

と関連した恐れや不安に伴って,人々は,

今やこの新しい,息詰まるような一方向的

思考の形式に,とりわけやられてしまいや

すくなっている」と述べている6)(註3)。ミ

ラーの言うこの一方向思考の形式とは,世紀

末を特徴付けるキーワードでいえば,現代の

グローバリゼーション以外の何ものでもない。

ミラーの思索の延長線を辿っていくと,

世界には普遍思想があり,それを学ぶのが

学問と考える時代は終わったのではないか

という感じがする。それぞれの地域の特性

と異なった風土と同様に,思想というもの

はもともとローカルで多元的であると考え

アゴラ(天理大学地域文化研究センター紀要)82

5)井上昭夫「身代わりの思想と脳死・臓器移植」『脳死・臓器移植を考える―天理教者の諸見解』天理やまと文化会議,1999年, 9~50頁。

6)デイビッド・L・ミラー『甦る神々―新しい多神論』春秋社,1991年,「日本版への序」8頁。

Page 5: グローバリゼーション時代における宗教 -天理教学 …opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/3793/AGR...バル化に直面している宗教における 「普遍と特殊」「超越と内在」,

るのが正しいのではないか7)。合理的画一化

を強制するグローバリゼーションは,この当

然の歴史的真実を撃ち破ろうとする結果,地

域や民族,そして固有な文化のアイデンティ

ティ・クライシスをもたらしている。グロー

バル化は,私達の日常生活における衣食住や

教育といったさまざまな社会文化のあり方

を,執拗に一元化しようとしている。人間の

多様な個別性,価値観の多様性,文化の異質

性の中の豊かさが,グローバル化の影響のも

とに失われることは,人間性を支える個性と

しての存在の根源が失われることにほかなら

ない。伝統的な宗教文化や価値観もグローバ

ル化する市場と情報化によって引き裂かれよ

うとしている。

グローバリゼーション研究の先駆者であ

り,国際的権威者として知られているローラ

ンド・ロバートソンは,グローバリゼーショ

ン時代における宗教について,「宗教文化」

の社会的諸類型が,諸社会がグローバルな文

脈に参加する様式を定める時に,果たす役割

の包括的な説明を可能にするためには,まだ

数多くの作業が必要であると断って,その作

業の透視図の必要性について次のように述べ

ている。

「このような透視図(パースペクティブ)

は,現代世界の形成の理解を間違いなく助け

るであろうし,現代のグローバルな場が単に

資本主義,近代主義,帝国主義などの帰結に

過ぎないというような見方に対抗するのに役

立つであろう。諸社会の『内なる』諸特徴が,

諸社会のグローバルな場への参入の形式に大

いに影響する。そして,ある意味では,これ

らの諸特徴は,全体的なグローバルな状況の

一局面である。日本は,世界秩序の個別的諸

概念の有力な生成源の一つである。」8)

ここでロバートソンは,グローバリゼー

ションを形成する単一化した社会における

個別と普遍のことを念頭において述べてい

ると考えられる。また彼は,日本の宗教的

基盤は,「外」で発生した様々な思想のいく

つかを「排除」し,輸入されたものを「浄

化」する能力を持っているという。つまり,

例えば和魂洋才的な能力は,浄化の諸儀礼

を経てなされるという意味で,極めて宗教

的であると解釈しているのである。そして,

ロバートソンは,日本が開国と鎖国を規則

的に循環させることによって,外部からの

「汚染」を少なくし,有益な思想,文化,科

学技術といったものは,組織的に輸入採用

してきたことに対する高い評価を与え,グロー

バリゼーション時代への期待を述べている。

世界の伝道宗教は,その独自性の故に,

他の宗教との接触に問題をもった。中には

その結果,スコラ哲学にみられるような独

自の神学を構築するという果実を得た宗教

もあったし,またその排他性故に,その思

想のぶつかり合いが宗教戦争を招いたこと

も歴史の示すところである。キリスト教の

日本改宗の試みは,宗教のグローバリゼー

ションのあり方において,様々な文化・政

治的問題と多くの教訓を残した。その伝道

の排他・融合主義は,多様な文化,異質文

化の否定と啓蒙主義に基づいており,多元

的な価値観を認識し,理解する方向には向

いていなかった。なべて同様な姿勢は延々

と20世紀のバチカン第2回公会議あたりまで

存続していたと思われる。一言で言って,

それはキリスト神学においては,教義的に

「裏守護9)」的論理を持ち得なかったからで

ある。その証拠に「無名のキリスト教徒」

という詭弁も20世紀の中頃に至っても真面

井上昭夫:グローバリゼーション時代における宗教 83

7)内山節他『ローカルな思想を創る―脱世界思想の方法』農山漁村文化協会,1998年。8)R・ロバートソン『グローバリゼーション―地球文化の社会理論』阿部美哉訳,東京大学出版会,1997年,

122頁。9)天理教の十柱の神の守護の理を,仏教・神道の神仏に見立て,人間の創造者である親神が表にあらわれ

るまでの智恵の仕込み全般をあらわす。第6節参照。

Page 6: グローバリゼーション時代における宗教 -天理教学 …opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/3793/AGR...バル化に直面している宗教における 「普遍と特殊」「超越と内在」,

目に議論されていたのである。自我中心から

実在中心への人間存在の変革を目指す,ヒッ

ク神学の諸宗教を惑星に見立て,太陽を実在

中心とした,コペルニクス的キリスト教神学

の転回に出会い,西の思想が東を振り向くと

いう希望を私たちは持った。私見をほどこせ

ば,天理国際シンポジウムにも参加した10)

ヒックの宗教多元論は,キリスト教の教学が,

近代思想と現実のグローバル化する社会の中

で,神学的に対応し得た「裏守護」的パラダ

イムであったとも言える。

4.多神と一神―二元論を超える「メビウス

宇宙」

『甦る神々―新しい多神論』の中で,ミラー

は,思考の中に情熱を取り戻す一つの方法に

ついて,それは「思考を再神話化し,神々を

用いてそれを再人間化することである」と述

べ,続いて「そうすれば抽象は美的具象性を

帯び,観念にもう一度情熱が賦与されるであ

ろう」と述べている11)。近代が押し進めて

きた「脱神話化」の仕事を逆転させて,「再

神話化」することが必要だと言うわけだ。こ

ういったミラーの視点は,天理教教義の根幹

である「元の理」の再神話化についても,新た

に私たちを深く考えさせずには置かない。

また一方,心理分析家のジェームズ・ヒル

マンは,「心理学:一神論的か多神論的か」

という論考の中で,多神論的心理学は,そこ

にあるものを,よりよきものへと変えること

(変容と改善)には力点を置かず,そこにあ

るものを,それ自身の内へと深めること(個

性化と,魂の形成過程)を強調すると述べ

る。そして,天理国際シンポジウム’89,「コスモス・生命・宗教」のサブタイトルで

ある「ヒューマニズムを超える」意味を,

「人間を超えた」ものと理解した時,人間を

超えたものは,「動物」を指すと言い,天理

教の創造神話(「元の理」)やコスモロジー

のなかで動物の果たしている大きな役割に

言及している12)。それは,たましいのコス

モロジーおいては,とくに動物が注目され

るからであると説明する。さらに,コスモ

スという言葉は多神論的なコンテキストで

用いられるため,数を現わす中性詞である

「多元的」(pluralistic)という用語は,宗教

的な暗示に満ちていると解釈する。ミラー

とヒルマンは二人とも天理を訪れ,「元の理」

についても文献を読み,天理教の創造説話

や救済論についての知識を持っている。

ミラーは天理やまと文化会議主催の天理

国際シンポジウム’92「人間環境の内と外」

において,「内もなく,外もなく」というテー

マで基調講演を行っている。その中で,内

対外の対立的定義づけ,つまり,アリスト

テレス・デカルト学派,そしてユダヤ・キ

リスト教による内対外の哲学・神学的前提

を,内外分離思考として批判し,内と外の

概念の共存と融合が古典的な詩の世界や神

話の世界にこそ見られるとして,ポール・

ヴェルレーヌや西行の詩を引用し,心理学

者ユングの,詩的イメージは深層心理を

「抽象的な科学用語よりも,表現豊かでなお

かつ的確」に現わすという見解を援護して

いる。また,詩的表現の真理の何たるかを

アゴラ(天理大学地域文化研究センター紀要)84

10)ヒックは,1987年天理やまと文化会議が主催した天理での国際シンポジウム「アジア太平洋におけるくらしと文化」に,河合隼雄,岩田慶治,鶴見和子等と参加し,仏教とキリスト教における人間の成人(human maturity)について,宗教多元主義の視点から融合を試みる基調講演を行った。

『Proceedings of the Second Asian-Pacific Cultural Symposium』Culture and Social Centre for theAsian and Pacific Religion,Seoul, Korea and Tenri Yamato Culture Congress, Tenri, Japan, 1987.

11)ミラー 前掲書,252頁。12)ジェームス・ヒルマン「たましいのコスモロジー―世界からコスモスへ」『コスモス・生命・宗教』天

理大学出版部,1987年,321~353頁。

Page 7: グローバリゼーション時代における宗教 -天理教学 …opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/3793/AGR...バル化に直面している宗教における 「普遍と特殊」「超越と内在」,

伝達する大切さについての同様の洞察は,天

理教原典の『おふでさき』においても見られ

るとして,

このよふハりいでせめたるせかいなり 

なにかよろづを歌のりでせめ Ⅰ:21

せめるとててざしするでハないほどに 

くちでもゆハんふでさきのせめ Ⅰ:22

という2首に注目している。

ミラーは,自然破壊の大きな原因となった

思考法に,自然と人間を対立するものとして

位置付け,内と外をお互いに隔たったものと

して想像する二元的な哲学的とらえ方があっ

たということを証明するために,思想史を通

してその諸例をあげている。そして,対立的

思考法を超える視点としては,シカゴ大学の

宗教史家,ジョナサン・スミスの次のような

説明に,それが現れているとする。

他者性という考え方は,言葉と概念を妨

げてしまう。相違という考え方は,話し合

いと理解を招く。なぜならば,相違とはもと

相違する(離れていく)という動詞形からく

る能率的単語であり,見方によっては同じ

かも知れないものが分かれることを示唆す

る。対照的に,他者性には動詞形がなく,強

いて言えば受動態によく出てくる疎外する

ぐらいだろう13)。(下線筆者)

つまり,スミスは相違点を明確にするのは,

思考にとって大切であるが,それは内外の分

離思考なしでも可能だと言うことに注目して

いる。続いて,ミラーはシカゴ大学のミルチ

ア・エリアーデ教授の称号を持つウェンディー・

ドニガー博士が,「夢・幻想・他の現実」と

いう書物の中で,ヒンズー教神話において

は,その宗教自体が内外分離思考を否定し

ていると言う事例を取り上げ,神話的洞察

は「メビウス宇宙」を現わしているという

解釈を紹介している14)。メビウス紙片とは

“長四角形の片端を180度ひねってもう一方

の片端にくっつけた時にできる,表しかな

い形”であるから,「メビウス宇宙」とは,

内外の区分不可能な,内も外も一体化した

関係を意味している。そのようなメビウス

に見られる「二つ一つ」の関係において,

内と外,宇宙と人間,客体と主体を捉える

大切さを,宗教史の諸例をあげて,ミラー

は現実世界の区分不可能性を解説している。

そして,現代の理論は,いままでの哲学・

宗教の二元的観点よりも,内と外の共存・

融合を重視する傾向にあり,宇宙の根本的

多元性の新しい証明は,深層心理学,美学,

想像哲学,神話誌学,批判理論,神学,科

学技術などの領域に見い出せるとして,そ

れぞれの動きについて見解を述べている15)。

一方,上智大学で宗教学を専門とする越

前喜六教授は,『多神と一神との邂逅』のま

えがきで,多神と一神は統合できない相互

排他的な思想とは思えないと言い,キリス

ト教の唯一神は父と子と聖霊という相互に

独立した三者の神的ペルソナが唯一の神性

において,一である三位一体の神であるか

ら,キリスト教の神の思想においては,一

神教と多神教が見事に統一されている,こ

のように考えるのは自分だけだろうかと述

べている16)。これは,私見によればキリス

ト教学内における見事なトートロジーで,

キリスト教が他宗教を排他的神学思想で見

てきた悲劇的史実を自己回避した独解であ

井上昭夫:グローバリゼーション時代における宗教 85

13)デイビッド・ミラー「内もなく,外もなく」『人間環境の内と外』天理やまと文化会議,1999年,92頁。14)ミラー 前掲書,93頁。15)ミラー 前掲書,95~103頁。16)越前喜六編著『多神と一神との邂逅』平河出版社,一九八六年。

Page 8: グローバリゼーション時代における宗教 -天理教学 …opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/3793/AGR...バル化に直面している宗教における 「普遍と特殊」「超越と内在」,

ると思われる上,他宗教と自宗教の関わりに

ついては,何ら新しい説得力も持ち得ないと

思われる。「教会の外に救いなし」と他宗教

排他論を公然と打ち出したフィレンツェ公会

議(1438~45),そして1960年の世界宣教シ

カゴ大会において,非キリスト者を「無名の

キリスト教徒」と見なしたK・ラーナーから,

ジョン・ヒックの「宗教のコペルニクス的転

回17)」をもって説明される宗教多元主義,

さらには禅とキリスト教の交流に見られる宗

教対話の流れなどは,バチカンの第二公会議

をはさんで,一神論からの多神論ないしは他

宗教への歩み寄りの姿勢であると見られる

が,そこには如何せん悠久の歴史を通して培

われた優越観溢れる独善的神学に基づく一神

論の限界が見られる。その限界を突き破るの

は,哲学や神学ではなく,ミラーが語る美学

や詩,そして神話や文学の世界であるという

主張は説得力を持っている。

ここで文学にまなざしを向ければ,一神教

と多神教,自宗教と他宗教の共存・調和の思

想的・実践的可能性は,たとえば芥川龍之介

の『西方の人』や遠藤周作の『深い河』に見

られる。特に後者はカトリック作家が「宗教

の神学」に大きな一石を投じた作品と評価さ

れる。『「深い河」創作日記』に見られるヒ

ックの多元主義との出合いや,作中の五人を

通して,主人公から「玉ねぎ」に見立てられ

た,どこにでもいるキリストの比喩,神に対

する多元的・複数的視点は,個人的,同世代

人の思いを実存的に取り込んでいて,「宗教

間対話」の限界と可能性を同時にリアルに提

示しているという点で,すこぶる意義のある

作品である。問題の構造的提示の仕方,その

実存的コミュニケーションの効果性におい

て,哲学や神学は到底太刀打ちできないと思

われるのは,やはり美学や文学の持つ普遍

的真理を個性的・実存的に創造・表現でき

得る特性であると考えられる。

このような次第で,西欧の二元論的伝統

的哲学や神学,さらには一神教の異文化排

他的な伝道活動を通して,自宗教のグロー

バル化を目指した方向は,時代によって逆

に思想的に否定され,その結果として,包

括論や宗教多元論などが誕生し,「宗教間対

話18)」も活発となった。しかし,必ずしも,

こういった営みが成功しているとは思えな

い。その理由の一つは,驚くべき速度でも

って進展する現代の諸科学技術が,従来宗

教の専売特許であった生命や宇宙の神秘の

ベールを次々とはがし,宗教の絶対性を相

対化したことにある。また,コンピューター

と通信における先端科学技術の発達によっ

て,世界が一つの空間領域を形成し,情報

は瞬時にして共有されることになり,グロ

ーバル経済は貧富の格差を否応なしに拡大

し,開発による経済的果実の平等分配など

をめぐって,宗教界に平和と正義の視点が

先鋭に浮上してきた。そういった状況の中

で,資本主義経済と密接に関係のあるアン

グロ・アメリカンの一神教的宗教も,グロ

ーバル化する世界における他の地域や国々

の異宗教,そして異民族の多元的な価値観

に寛容の態度をもって,折り合いをつけな

ければ共存できないという背景が出来上が

ったからである。しかし現実は,徹底した

イスラムの一神教的抗戦主義,民族間の争

い,そしてナショナリズムの勃興がもたら

す様々な問題解決について,現代の宗教は

殆ど無力であることを認めざるを得ない。

アゴラ(天理大学地域文化研究センター紀要)86

17)ジョン・ヒック『宗教多元主義-宗教理解のパラダイム変換』間瀬啓允訳,法蔵館,1990年。18)井上昭夫「宗教多元主義とグローバリゼーションの行方」『いずみ』いずみ社,1999年8月~2000年1月

号所収。第30回IARF(国際自由宗教連盟)世界大会のための関西地区事前学習会での記念講演においてグローバリゼーションと宗教の現況にふれて「宗教間対話」の批判を行った。

Page 9: グローバリゼーション時代における宗教 -天理教学 …opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/3793/AGR...バル化に直面している宗教における 「普遍と特殊」「超越と内在」,

5.グローバル化時代と「元の理」

以上,グローバリゼーションを取り巻く政

治,経済,文化,言語,社会,宗教などの情

況や反応,そしてそれらの対応について様々

に概観してきた。新しい時代潮流の中で,天

理教学はますますグローバル化する世界に向

けて,如何なる対応と展開をなすべきかとい

うことがここでの私たちの問題となる。世界

の収斂する画一化と拡散する多元化の両極の

あいだ,そして差異のナショナル化と均質の

グローバル化が創り出す,相克と緊張感のは

ざまにおいて,地球・自然環境破壊という未

曾有の問題をかかえ,人類は未来の予測不可

能な渾沌の時代を迎えたと言っても過言では

ない。一列世界において永続する単一社会と

いったものを,地球規模で構想することが意

味を持たず,人類が選び得る道は果てしなく

ローカルであり,その選択肢は多元であり,

加えて多様な心をあわせ持つ人間が,自己を

主張して争いを来すという渾沌の時代を,底

知れぬ泥海の時代と見立てれば,たちまち想

起するのは「元の理」の冒頭である。

「元の理」によれば,この世界創造の原初

は「味気ない泥海」であったが,現代の泥海

は味気ないどころか,まことに「恐ろしい泥

海」として現れている。例えば,一時間毎に

1500人以上の子供達が飢餓が原因でその命

を奪われているという世界の現実が一方にあ

り,その又一方に,その国のコンビニ一社か

らは,5万人が一日3食を一年間食べると同

じ量に相当する3500トンの残飯が捨てられ

るという現実がある19)。この事実を知った

前者に関わる親たちにとっては,まさにこの

世は地獄そのものであろう。研ぎ澄まされた

感情移入でもって,立場を逆転する努力の少

しと,いささかでも類似する状況をひながた

の道の中から自ら追体験し,想像力を駆使す

れば,そうたやすく「世界たすけ」という

言葉を使うのさえ憚られるという心境にな

る。世界の貧困が,視界に入らない世界認

識は,自身のローカル性から飛翔できない,

後退した反グローバルな保守主義であろう。

天理教学の現代的展開があるとすれば,

「元の理」にある泥海の世界の再解釈,つま

り再神話化からなされねばならないだろう。

そうでなければ,ミラーが言う「神学の中

の生命観,理解の中の躍如,思考の中に情

熱」が湧いてこないのではないか。教学や

講話の中で,同じ教語が繰り返され,同じ

文脈で語られる教理の日常的反復は,読む

者や聴く者に新鮮な感動を与えなくなって

久しいと,正直なため息を漏らした一教友

の告白をあえてここで想起しよう。理念の

井戸に取り込まれ,心性還元論の輪の虜に

なっていては,世界の悩みから断絶してい

るのであって,現実の問題に肉迫していく

実存的宗教の神学はあり得ないと思う。

コンピューターの進化がグローバリゼー

ションを深化させた。人類初めての体験で

あった「Y2K」問題も,東海村の臨界事故の

教訓が活かされず,危機管理を制御するコ

ンピューターに問題を起こした原子力発電

所がまたもやという不安を将来に残したが,

どうやら無事に通過した。元旦の朝一番,

人間よりも早く,iMacが「明けましておめ

でとうございます。本年もよろしくお願い

します」と挨拶してくれる。インターネッ

トが大衆のものとなり,個人は言うに及ば

ず,様々な団体が多伎多様にわたるホーム

ページを生産している。その網(ネット)

は地球全体を取り巻き,たまごっちブーム

もネット上に展開される。自分の「お墓」

がネットでできる。ネットは遊びの空間で

あると同時に,新たな実在性をも獲得して

井上昭夫:グローバリゼーション時代における宗教 87

19)中村靖彦『コンビニ ファミレス 回転寿司』日本経済新聞,1999年6月15日。

Page 10: グローバリゼーション時代における宗教 -天理教学 …opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/3793/AGR...バル化に直面している宗教における 「普遍と特殊」「超越と内在」,

きたようだ。ある関心に関わっている限り,

他者はいざ知らず,自分にとっては,それは

「実在」しているのである。かくして宗教と

宗教でないものの境界が分からなくなってき

た。自明のものであったはずの宗教が,そう

自明のものでなくなりつつある。それを理解

した上だかどうか,数多くの教団が様々な方

法でインターネット伝道をはじめた。つまり,

宗教が,ビジネスや遊びのインターネットと

いうバーチャルな領域に,実在を主張して侵

入してきたのである。水子のお払いもイン

ターネットが取り扱ってくれる様になった。

アメリカでは一時テレビ伝道師が億万長者

となり,セックスや金銭にまみれ,あきれたス

キャンダルを数々生産することもあった20)。

仮想は仮装であることを忘れてはならない

という神からの警告であろうか。コンピュー

ターは膨大な情報を瞬時にばらまき,拡散さ

せながら,便利という道具を眼前に突き付け

て,グローバルな仮装現実を見事に創りあげ

たのである。通信講座で便利を売る,立体映

像によるインターネット人間総合科学大学

も,まもなく発足すると言われている。私見

に従えば,中身の見えないコンピューター・

ブラックボックスには,インターネットとい

う隠された「龍」が潜んでいる思われる。グ

ローバリゼーションを「龍」に見立てた場合,

それが守護神としての東洋龍であるか,それ

とも悪魔としての西洋龍であるかは,諸刃の

剣の関係にある21)。

6.「裏守護」の再解釈の再構築

それではここで,グローバリゼーション

時代における「元の理」の再神話化の方向

について,私見を若干述べて置きたい。第

一に,グローバリゼーションがそれ自身に

もかかわらず創出する,多元化時代に向け

て対応するための,いわゆる教学における

「裏守護」解釈の再構築である。深谷忠政は

『天理教教祖論序説』22)において,人間の成

人に応じて説かれたとする応法の教えを,

十柱の神の守護で説き分けるその「裏守護」

にふれて,世界の多様な宗教を「すべて十

柱の神のどれかを強調しているものである」

と解釈し,天理王命をその神々の元の神と

して位置付けている。そして,仏教をくに

とこたちのみことの守護の上に成立する教

えとし,キリスト教ををもたりのみことの

守護の上に成立する信仰であるとする。つ

まり,前者は「人間の理知を重視して諦観

を教え,縁起という空間的関連を重視」す

るからであり,後者は「愛を重んじ,かく

れた神の顕現という時間的関連を説く」か

らであると説明する。「こふき話」によれば,

キリスト教は裏守護の説き分けには出てこ

ない。様々な世界の宗教思想の特徴を見極

めることにより,その個性を親神の十全の

守護に対応して検証することは,「裏守護」

説き分けの神意に添った「元の理」の現代

的解釈であると考える。しかし,『天理教教

アゴラ(天理大学地域文化研究センター紀要)88

20)生駒孝彰『コンピューターの中の神々』平凡社,1999年。21)井上昭夫「「元の理」比較文化論の試み」『現代・思想・元の理』天理やまと文化会議,1990年,57~

96頁。22)深谷忠政『天理教教祖論序説』天理教道友社,1996年,59~61頁。ここでは,「いわゆる十柱の神の裏

守護といわれるものは,天理王命が神々の神として元の神たることを明示するものである」とし,三十の裏守護を挙げている。そして,「方位をもって示される十柱の神の守護は,天理王命が実動する神として実の神たることを明示するものである」として,「あるといえばある。ないといえばない。願う心の誠から,見えるりやくが神の姿やで」というお言葉を引用し,「神が存在論的にではなく,機能的に明らかにされていることが,本教の特色であるといえよう」と述べている。

この深谷の見解とは対照的に,芹沢茂は,「宗教の理解―十柱の神をめぐって」(『おやさと研究所年報』第3号,1996年)において,天保九年立教の宣言における親神の直接的啓示の記述については,教理的・理論的にはなんら問題がないとしながら,歴史的理解においては別の記述になると述べている。

Page 11: グローバリゼーション時代における宗教 -天理教学 …opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/3793/AGR...バル化に直面している宗教における 「普遍と特殊」「超越と内在」,

井上昭夫:グローバリゼーション時代における宗教 89

つまり,天理王命とは教祖が夜眠っている時,十柱の神が順次入り込まれたと歴史的に理解されていたわけであるから,「こふき本」にも書かれているように,天理王命は十柱の神の総名であるとする。

『おふでさき』,Ⅷ:74,XI:42,Ⅵ:52を通して,十柱の神と裏守護の関わりについて極めて示唆的な意見を述べている。芹沢は中途で,この「裏守護」の課題についてはここでは立ち入らないとし,話題を主題に戻しているが,「裏守護」については氏のこれからの独創的な展開を期待したい。というのも,澤井義次が,「「元の理」と「見立て」?宗教学の視点から」(『「元の理」と原典』講座「元の理」第六巻)のむすびにおいて,いみじくも次のように述べているからでもある。「見立て」は,「存在の本質理解への橋渡しである限り,具体的な状況に応じて変わり得るもの」であり,現代の宇宙論や哲学思想は「元の理」を理解するための「見立て」になってきている,従って「元の理」の解説部分に当たる「裏守護」や「見立て」による説き分けは,「わたくしたちの日常活動ないし,日常的な知との接点をもった形で再解釈されていく」。そう氏は認識している。とすれば,「見立て」は,現代思想を理解するためにあると位置づけられるから,教学においては,その再解釈を通して変わりゆく「鏡」としての,人類の知恵が移りゆく時代において創り出す,さまざまに現れる世界思想を理解するための道具と認識すべきだという見解が成り立つ。

一方,筆者は,深谷,芹沢の双方の考え方,つまり十柱の機能論,十柱の存在論を対立的に捉えず,両論を肯定する「裏守護」の世界の構造を,親神をからだとした無限の球体である究極の「鏡」として捉え,下次元の人間世界においては,「鏡」を親神の全守護を表現する二面鏡として理解する。加えて,筆者は「裏守護」の世界は,過去・現在・未来を包み込んでおり,立教前における間接啓示者に限らず,未来の世界においても,人間の知恵の領域における全側面にわたって,立教前の「知恵の仕込み」を「種」として,立教後にも枝葉のようにそれが伸びていくと解釈するのである。こういう理解に立って初めて,教理が,過去や現世界はいうに及ばず,未来の世界における豊かないのちの多様性からも断絶することなく,その多元性を取り込んだ全体性の統合を可能とする。未来の科学技術も法学,芸術,哲学,宗教思想も「知恵の仕込み」による文化の産物である限り,「元の理」と「裏守護」のパラダイムの中へと全て取り込まれる。このような次第で「元の理」の新しい開かれた現代的,未来的「裏守護」解釈から,宗教と科学,自然と人間といった対立構造を調和・昇華する手引きが与えられるのではないかと考えている。

例えば,十柱の中の両雛形である,「ぎ」と「み」を裏守護の歴史的解釈に適応させると,「やまと」というローカルな地域にグローバルな風景が次のように立ち現れてくる。つまり,遺伝子DNAの情報列の進化が,生物の脳機能を発達させ,その結果,人間の心が生まれ,その心がさまざまな自然環境の中で多種多様な文化を育てたとすれば,シルクロードは歴史的に文化遺伝子の情報列として見立てられるという想定である。文化情報を受信・発信する装置としての「線」であるシルクの「道」を,父性原理とする。そしてDNAの螺旋状の二本のテープ上に,「一列」平等に整然と並んだ塩基配列が,順序よく運んだ多様な異種文化・「種」の着床地点を,「やまと」盆地の「ぢば」と見立てた。ここで意味する「いちれつ」とは,「どじょう」にも見立てられる,「無数」の文化要素を運ぶ「ひとすじ」のメビウスの輪を連想する,ベルト線としての「道」を現している。そして,「やまと」が「なわしろ」としての役割を持つ,母性的ふるさとを象徴する盆地であることに注目し,それを「円」としての小宇宙として捉える。かくて,シルクロードの終着点は,「ぢば」をターニングポイントとして,新たな文化の出発点に見立てられることとなる。そこから,壮大な未来へのロマンが,生まれるというわけである。「元の理」に示される十全の守護と,発生学と文化史を重ね合わせて考えると,このような物語にも似た風景が現前してくる。「元の理」は,究極の知恵の仕込みとして人類に親神から啓示された,グローバルな思想を築き上げ

るもととなる道具である。「元の理」をミクロ・マクロの鏡とし,ものごとを見極め,比較する営みを「元の理」による事情・身上のさとしをも含めて,「元の理」化するという造語によって概念化したいと考えている。一つの人間世界に生起する多様な出来事や思想は,それらも「元の理」化することによって,その混沌の中の存在の多様性が秩序あるものに向かう契機を与えられる。「元の理」は陽気ぐらしをグローバル化するローカルな手段であるから,その思想は,「やまとのぢば」という固有の歴史的,宗教的特殊性に発し,合理的・空間的に拡散することによってではなく,その特殊性を個々の信心という個別・多様な営みを通し,実存的・垂直的に深めることによって,普遍に至る。深めるということは,根を掘ることにほかならず,それが普遍に至るということは,「このはなしなにの事をばゆうならば にほんもからもてんぢくの事」(XII:7),「にほんにもこふきがでけた事ならば なんでもからをまゝにするなり」(Ⅴ:32)ということばが示す「元の理」のグローバル化における順序的文脈につながるということになる。「籠れる大和の新生を目指して」『盆地の宇宙・歴史の道』前掲書参照。

Page 12: グローバリゼーション時代における宗教 -天理教学 …opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/3793/AGR...バル化に直面している宗教における 「普遍と特殊」「超越と内在」,

祖論序説』はそれ以上踏み込んで,「裏守護」

の世界を文明・宗教思想の領域で展開しては

いない。「裏守護」の包摂する多元的世界は,

あたかも富士の裾野のように人類の多岐多様

な思想を映して広がっている。

「裏守護」という言葉は,明確に定義され

た言葉ではない。また「神道見立て」「仏教

見立て」というよく使われる言葉も,「こう

き本」の中にも出てこない。しかし,「裏守

護」に相当する文章は,『正文遺韻』(昭和

28年版)野「うらのみちにつきてのはなし」

に12項目にわたって記述されている。その

最後の方に注目すべき作物の「修理肥え」に

譬えた話が出てくる23)。人間も作物の修理

と同じことで,「是までに,かみが入りこん

で,どのようなことも教へんといふことはな

い」と言われる。『正文遺韻』では,親神が

現れるまでの,人間成長のための神の働らき

を作物の修理と収穫に譬え,その守護の総称

として「裏守護」といわれているように見う

けられる。

石崎正雄はこの裏の道を語る『正文遺韻』

の一節に触れて,このお道が「表の道」であ

るとすれば,それ以外はすべて「裏の道」で

あり,医者の薬も拝み祈祷も裏の道である。

裏の道とはただ単に仏教や神道と天理教を対

比しているのではない。つまり,「裏守護」

は「知恵の仕込みすべてを含んでいる」よう

に考えられるという見解を述べている。「い

まゝでもどのよなみちもあるけれど 月日

をしへん事わないぞや」(十―2)と啓示さ

れていることからも,氏の見解は当然であ

ろう。また「裏守護」の見立てにおいては,

相互に矛盾する配置や,語呂合わせ的な共

通性が見られるとしている24)。勿論「裏守

護」は,親神の守護の理を,手当たり次第

に民間信仰の神々や仏教教理に当てはめた

のではない。しかし,天理教学が「裏守護」

に関して,その書誌的研究の域を出ないの

は,第一に,「裏守護」が,「ぢば」を頂点

とした,知恵の仕込みの全てを含む広大な

裾野を持つということ,そして第二に,そ

の説き分けに見られる「裏守護」の非整合

性,不統一性ということを見抜くことがで

きないからであろう。しかし,もともと世

界の多様な宗教は,相互に個々の教義の独

自性を境界として排他的に存在しているわ

けではない。表現さえ違え,共通する教え,

人間として生活を成り立たせるための共通

的倫理規範を持っている。それを集大成し,

人類普遍の「地球倫理」を創出しようとい

う国際的な試みもある25)。宗教や地域によっ

て,その教えの力点が異なるのが,歴史の

事実であり,自然であることは,人類そし

ていのちというものが,多元的であること

の証明である。親神の下に人間の魂が平等

であることと,それぞれに違う心26)が創出

する文化相異に立つ個性は,全く矛盾しな

い。加えて,現実の世界はファジーで成り

アゴラ(天理大学地域文化研究センター紀要)90

23)諸井政一『正文遺韻』昭和28年版。24)石崎正雄『こうきと裏守護』天理やまと文化会議,1997年。25)世界倫理についての資料は数多くあるが,ここでは次のものを挙げておく。・Twiss/Grelle, Explorations in Global Ethics, Westview Press, 1998.・Ethics & Agenda 21-Moral Implications of a Global Consensus, United NationsEnvironment

Programme, 1994.・The United Nations and the World's Religions: Prospects for a Global Ethics,Boston Re search Center

for the 21st Century, 1995.・Callicott & Rocha Ed., Earth Summit Ethics: Toward a Reconstructive PostmodernPhi losophy of

Environmental Education, State University of New York Press,1996.・吉田収『地球倫理―人類の未来のために』世界聖典刊行協会,1994年。・ハンス・キュング『今こそ 地球倫理を』吉田収訳,世界聖典刊行協会,1997年。

Page 13: グローバリゼーション時代における宗教 -天理教学 …opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/3793/AGR...バル化に直面している宗教における 「普遍と特殊」「超越と内在」,

立っている。「裏守護」の広がりと曖昧性,

非合理性は,この世界の事実に立脚している。

その故に「裏守護」を伝える「元の理」の構

造は,諸宗教間の共存・調和に向けても,グ

ローバリゼーション時代に対応する,天理教

学の姿勢と新しい視点を提供する。

7.「元の理」の比較文明論

では,天理教者は「裏守護」の説き分けか

ら,どのような原則を引き出せるか。まず,

「裏守護」が,日本に存在する仏教や儒教,

そして神道や民間宗教に留まらず,科学や文

学,芸術など,人間の知恵の仕込みから創出

された,よろづよ一列の世界における全ての

営みを包摂しているということに注目しよ

う。教祖はその原型を「裏守護」という現実

世界の,多元にして多様なものを包み込む,

親心の概念を持って示された。「裏守護」に

おいて大切なのは,多様であるが故に,相互

には非合理であり,矛盾すると考えられる宗

教や思想も,「元の理」の人間観・世界観に

よって,「つとめ」の論理的構造の中に統

合・統一されているという点である。「裏守

護」の論理は,「あれかこれか」の二者択一

より「程度や度合い」の中に,文化・思想の

多元性を包括する論理である。そして,ぢ

ば・甘露台を囲んで配置される,相補的な個

別の十柱神の守護と固定化された方位から,

その延長線上に一つの比較文明論的透視図が

見えてくる。ロバートソンへの天理教者の返

答は,この視座に立つ思索から創出される。

くにとこたちは,水に重点を置く守護を

現わしているので海洋文化,をもたりは,

太陽の働きに優る沙漠文化,かしこねは,

風・プネウマを連想させる神秘なる神,月

よみは,つっぱり過剰の一神教文化,くに

さづちは,つなぎの東洋文化,たいしょく

天は,合理・分割の西欧文化,をふとのべ

は,ソクラテスの産婆術を連想させる理想

的教育文化,くもよみは,移動・循環.回

帰の遊牧文化,いざなぎは,種の文化で父

性原理,いざなみは,苗代の文化で母性原

理に対応するという仮説を立ててみる。そ

して個々の文明・文化の特性と関係性を

「元の理」のパラダイムに当てはめて考える

と,多様な世界を取り込んだ「元の理」文

明論という領域が開けてくるような気がす

る。そこで世界はこの「裏守護」を鏡の背

面として,表の守護と二面性をなしている

ように思われる27)。

日本社会学会会長でもあった故蔵内数

太・大阪大学名誉教授は,すでに「元の理」

を精微な哲学と体系としてとらえ,易の地

天の卦と「元の理」の六柱の神との対称性

に注目して,朱子の『易経本義』の諸註釈

書に見られる矛盾を論理的に整理・統合す

ることを試みている28)。また,俊英の哲学

者である大橋良介・京都工芸繊維大学教授

は,「「元の理」の比較宗教的分析」という

論考において,「どじょう」と「ふぐ」の独

創的な読み込みを行い,「元の理」の「裏守

井上昭夫:グローバリゼーション時代における宗教 91

26)『おふでさき』一やしきをなじくらしているうちに 神もほとけもあるとをもへよ(Ⅴ:5)これをみていかなものでもとくしんせ 善とあくとをわけてみせるで(Ⅴ:6)このはなしみな一れつハしやんせよ をなじ心わさらにあるまい(Ⅴ:7)をやこでもふうくのなかもきよたいも みなめへくに心ちがうで(Ⅴ:8)せかいぢういちれつわみなきよたいや たにんとゆうわさらにないぞや(XIII:43)このもとをしりたるものハないのでな それが月日のざねんばかりや(XIII:44)高山にくらしているもたにそこに くらしているもをなしたまひい(XIII:45)

27)井上昭夫「鏡の構造―「世界は鏡」の思想の系譜」『世界は鏡』教養ブックス第八巻,天理やまと文化会議,1992年。

28)蔵内数太「「元の理」と世界思想」『「元の理」の象徴学』天理やまと文化会議,1998年,所収。

Page 14: グローバリゼーション時代における宗教 -天理教学 …opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/3793/AGR...バル化に直面している宗教における 「普遍と特殊」「超越と内在」,

護」解釈において,新しい地平を開いた29)。

ここにもう一人,「元の理」について発言

する,文明論者がいる。伊東俊太郎・東京大

学名誉教授は,比較文明学会の会長でもある

が,教授は講座「元の理」の世界を読んで,

「元の理」には海洋文明の文化的要素が凝縮

されているような印象を受けたと筆者に語っ

たことがある。伊東教授は,学会誌『比較文

明』第六巻における,「世界文明と地域文化」

という特集の巻頭論文において,まず文化と

文明は結合・相補的な関係にあると位置づけ

ている。そして,文化は哲学,宗教,芸術な

どに見られる「エートス・観念形態・価値感

情」を表わし,一方「ハード・ウェア」とし

ての文明は,その中核にある文化を「ソフ

ト・ウェア」として,そのエートスを科学技

術,政治制度,経済組織,法律体系など当該

生活圏の「制度・組織・装置」に反映させ,

それらを形成していくと言う。そこで,今衝

突しているように見えるのは,生活圏の外郭

をなす文明的制度や装置の問題であって,必

ずしも内核をなす文化の問題ではないとす

る。例えば,関税のあり方や輸出入の範囲の

設定などは,外郭をなす文明制度の「すり合

わせ」によって解決可能な問題であるから,

「文明の問題を文化の問題に直ちにすりかえ

てはいけない。どの生活圏の,その内核とし

ての文化の固有性を維持しつつ,かつその外

郭としての文明の装置を互いに「すり合わ

せ」,共有化することによって,世界文明の

途を歩みうるのである」とし,その行為を

「文明調整」と名付けている30)。

「元の理」における十の神名で象徴される,

親神の守護の働きは,一つ一つがそれぞれ

独立した機能を果たし,その場所を占めな

がら,神名が与えられた「ぢば」を中心に,

全体として一なる神の守護に包摂・統一さ

れ,個々が一になって十全のものとなって

いる。このことは,グローバリゼーション

の画一化の問題と個別文化や国家主義の反

逆を考える上で,非常に示唆に富んでいる。

そういった「元の理」の構造に見える統一

的文化相対論的視座から,伊東の「世界文

明」と「地域文化」の共存的思想を見ると,

それは極めて明解な文明論となっているこ

とが理解できる。

伊東のいう「文明調整」は,いまや国際

的政治における駆け引きを除いては,不可

能である。そこには,文化の画一化を呼び

込む,経済的グローバリゼーションの問題

がある。文明は移転する。そしてサミュエ

ル・ハンチントンがいうまでもなく文明は

相互に対立・衝突する。その文明を支える

文化には,しかし,それがいかに異なると

はいえ,人間の「普遍的」な性質が見いだ

される。文化の中味には人間としての,い

かにわずかであっても,共通性が存在する

という信念に基に組み立てたのが,この次

に紹介する「天理文化近代論」のモデルで

ある。ハンチントンは多文化世界における

文化の共存にふれて「ある文明の普遍的と

目される特質を助長するかわりに,文化の

共存に必須であるとして求められるのは,

ほとんどの文明に共通な部分を追求するこ

とである。多文明的な世界にあって建設的

な行きかたは,普遍主義を放棄して多様性

を受け入れ,共通性を追求することである」

と述べている31)。欧米,アジア,アフリカ

アゴラ(天理大学地域文化研究センター紀要)92

29)大橋良介『「元の理」と現代』講座「元の理」の世界第五巻,天理やまと文化会議, 『人文学報』第六十五号所収,京都大学人文科学研究所,平成元年より転載。同講座第四巻『「元の理」の動物学』において,大橋は「「元の理」と「切れの構造」」という論考の中で,「元の理」は人間にとって普遍的テキストであるという論理を展開している。

30)伊東俊太郎「世界文明と地域文化」『比較文明』刀水書房,1990年,6~10頁。31)サミュエル・ハンチントン『文明の衝突と21世紀の日本』鈴木主税訳,集英社新書,2000年,184頁。

Page 15: グローバリゼーション時代における宗教 -天理教学 …opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/3793/AGR...バル化に直面している宗教における 「普遍と特殊」「超越と内在」,

井上昭夫:グローバリゼーション時代における宗教 93

を問わず人類が培ってきた多様な文化の中に

は,少なくとも基本的な「わずかな」道徳レ

ベルで共通した特徴が存在する。ハンチント

ンは人類が世界文明を発展させるには,こう

した多様の中の共通の特徴を追求して拡大し

ていくことによって可能だろうと指摘してい

る。

しかし二十一世紀の世界は,グローバルな

国際社会の一体化という方向ではなく,むし

ろ数多くの文明の単位に分裂していくと予測

される。一方,文化は単一化をうながすグ

ローバルな文明潮流に対抗して,自己の地域

の歴史的固有性を失うことなく,咀嚼され,

内面化され,深化していく。「文化は宗教の

表現形態であり,宗教は文化の内容である」

と定義したのは,パウロ・ティリッヒである

が,いま文化の外核としての世界文明のあり

方を,グローバリゼーションが持ち込んだ問

題を通して問われているのは,その内核であ

る文化が問われていることであり,その文化

の内容である宗教が問われていることに外な

らない。

このような視点に立てば,天理教学におい

ては,異文化・異文明の際立った歴史的・精

神的特質を分析・抽出し,それらを親神の十

全の個別的守護を「見立て」として照応させ

ることにより,文明相互の相補的共存の方途

を求めることが考えられる。この作業により,

知恵の仕込みの証しである世界諸文明の視野

が,「元の理」の領域に取込まれることとな

る。つまり,「元の理」に啓示された人類の

文明的パラダイムが開示され,そのことによ

り逆に「元の理」の世界は「裏守護」の文明

的解釈によって,さらにその理解が深まると

いう方向が見えてくるのである。世界文化の

多元性の統一は,象徴的に「元の理」の儀式

化である「つとめ」の手ぶりと楽器・鳴り

ものの調和を通して表現される32)。21世紀

の人類の歴史を決定づけるであろう「グロー

バリゼーション」の向かうべき方向は,世

上を合わせ鏡として,「文明調整」機能を示

す「元の理」の真実の中に,「文明衝突」を

回避する療法としても現出しているのであ

る。「世界だすけ」とはこのような視点に基

づいて思想化されなくてはならない。「元の

理」は「裏守護」の説き分けを通して,多

様な世界人類のあみだした文化・文明と繋

がっている。というより,世界の諸文明は

「元の理」の原点である「ぢば」から発して

いるという教理解釈がここに成り立つので

ある。

8.おわりに

「元の理」は「たすけ」の理ばなし,「つ

とめ」の理ばなしに止まらず,「ひろめ」の

理ばなしでもある。その学際的研究は,広

い学問領域にわたって,展開されてきた33)。

ここに提示したのは,「元の理」文明論構築

に向けての,「裏守護」の文化論的解釈を通

して見えてきた,一つの見取り図であり,

透視図(パースペクティブ)でもある。

私たちは,21世紀を迎えて,天理という

閉じ込められたローカルな領域から,「か

ら・てんじく」への広がりを求め,異質な

る世界領域の文化・文明に学び,異なる一

列兄弟の真の「互い建てあい助け合い」の

共存・共栄に向けて,グローバルに通じる

世界人を目指して進まねばならない。つま

り,ローカルとグローバル,感性と知生,

宗教と科学,こころともの,個別と普遍と

いったニ項対立思考を「二つ一つ」に包摂

し得る「グローカル」な視点を獲得しなけ

32)井上昭夫「やまとの国中を飛翔,旋回するつとめの波動」「「元の理」の空間構成が織りなす秘議」『天理教学の未来』,天理やまと文化会議,1998年,243~250頁。

33)井上昭夫「ひろめの理ばなしとしての「元の理」」『「元の理」の象徴学』天理やまと文化会議,1998年,13~22頁。

Page 16: グローバリゼーション時代における宗教 -天理教学 …opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/3793/AGR...バル化に直面している宗教における 「普遍と特殊」「超越と内在」,

ればならない34)。そのためには,その具体

的ビジョンと構想を,躍如たる理解と情熱溢

れる思考によって創出し,天理教学研究の領

域をさらに深化拡大して行かなければならな

いと思う。

アゴラ(天理大学地域文化研究センター紀要)94

34)グローバリゼーションを経済システムに重点をおいて展開する,世界システムの提唱者E・ウォーラスティンに対して,R・ロバートソンは宗教文化に重点を置く。両者はグローバリゼーション研究における大御所であるが,前者は編著『転移する時代』(藤原書店,一九九九年)において,二十一世紀の世界システムを阻害する要因の一つである世俗化されたかにみえた宗教が,「世界的大反抗」をとげる可能性があるとしている。しかし,ここでは前者の主張に深入りすることは止め,後者のテーマに関わる基本的見解を本論の参考として,その著書から引用しておきたい。

①〈グローバル化〉グローバル化 globalization という用語を使う際に,私は,「単一の場」と呼ばれるものを作り出す

ために全世界が次第に相互依存的になるような,総体的な過程を考える。そうした「単一の場」を,特別な意味で「ワールド・ソサエティー」と呼ぶこともできるが,それは,この用語で国家として構成された諸社会の消滅を示さない限りにおいてである。(グローバル化・国際化と宗教『東洋学術研究』第二十七巻三号)

②〈グローバル化・国際化・宗教の役割〉とくに,私は,全体社会の国際化の過程における宗教の役割に注目している。グローバル化と国際

化を区別したことを思い起こしてほしい。すなわち,私は,グローバル化という用語を,ワールド・ソサエティーといったものを生み出すための世界の縮小をあらわすために用い,国際化という用語を,国民社会(あるいは,原則としてなんらかの「地方的」な集合体)がグローバル化過程に順応する過程を示すために用いてきた。ここで私は,宗教的集合体が大いに(グローバル化に加えて)国際化に対応することを余儀なくされるだろうことを示すだけでなく,ある状況のもとでは,宗教的集合体は国際化の過程において重要な役割を果たすということも指摘したい。(前掲書)

③〈グローカリゼーション〉1992年以来,私が行ってきている仕事は,グローカリゼーション「世界化するとともに地方化する

こと」というテーマに対する特別の関心を含んでいる。グローカリゼーションの概念は,一方に,全世界が同質化しつつあると考える人々と,もう一方に,一つの全体としての現代世界はますます多様化する世界だと考える人々との,知的な衝突を取り扱うために採択されている。グローカリゼーションの概念は,私の使い方では,もろもろの考え方や産品が,一つの全体としての世界および諸地方に,同時に,市場化される傾向の増大を指している。かなりの期間にわたって,「グローバルに考えよう,ローカルに行動しよう」という標語が使われてきている。私の主張は,ますます多くの人々が,グローバルにかつローカルに,考えかつ行動するようになっている,ということである。(序章 日本の読者へ『グローバリゼーション 地球文化の社会理論』R・ロバートソン,1997年,16~17頁)

④〈グローバリゼーションと宗教研究〉この序章の結びとして,私は,宗教とグローバリゼーションのテーマについて,ことにさまざまな

神学思想が一つの共同体としての世界をめぐって形成されてきたいろいろなやり方についてこれからも書き続ける,と言っておきたい。グローバリゼーションのパラダイムが,宗教の研究にますます影響を与えている(Peter Beyer, 前掲 は,その重要な具体例である)のを見ることは,私にとって,喜ばしいことである。(前掲書)