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今、日本でポール・フェヴァルの名を知っている人は、どのくらいいるのだろうか。19 世紀フ ランスの人気作家であったのに、読んだことのある者は、ほとんどいないのではなかろうか。映 画化もされた『せむし Le Bossu』の作者だと言っても、ピンと来る者は少ないに違いない。だが、 彼は確かに人気大衆小説家であったし、文学的な作品も書いて、それなりの評価を受けていた。 フェヴァルは、文学的作家と大衆作家の間に位置していたが、そのような立場にあったからこそ 行うことのできた興味深い活動もあったはずだ。本稿は、忘れられた作家フェヴァルのいくつか の特質に、ささやかな光を当てようとするものである。長くなるが、まずは作家を紹介したい。 1. ポール=アンリ=コランタン・フェヴァル(Paul-Henri-Corentin Féval)は 1816 9 29 (2) レンヌに生まれた。父、ジャン=ニコラ・フェヴァルはレンヌ王立裁判所判事であったが、一家 の生活は決して楽ではなかった。だが、それでもフェヴァル家は、市の重要な建築である、18 紀に建てられたブロサック館の 3 階を借りて住んでいた。母は貴族の出であり、奥さま連中の信 心会の会長を務めるほど信仰熱心な女性だった。ポールは 5 人兄弟の末っ子であり、兄と姉がふ たりずついた。姉たちもやはり、信心深かったようである。 1827 年、ポールがまだ 10 歳の時に、父が亡くなる。一家の生活はさらに苦しくなり、母はさら に信仰にのめりこむ。ポールは寄宿生として、レンヌの王立コレージュに入学する。ひ弱で、あ まり勉強ができたわけでもなく、同級生のみならず先生方にも気に入られてはいなかったようだ。 七月革命の際には、さらに周囲の反感を買うことになる。まわりが革命熱に浮かされている時に、 フェヴァルは敢えて白い記章をつけて「王様万歳!」を叫び、級友たちに殴られる危険を犯した のだ。この騒ぎは母の耳に入り、彼は数ヶ月の間、学校を離れ、母方の伯父の城館にひっこむこ とを余儀なくされる。ポールの頭を冷やすための処置だったのだろうが、なんとこの城館は、革 命時代にふくろう党員のたまり場だったところで、当時の話を滞在中に聞かされたポール少年は、 --- 1 --- ポール・フェヴァル試論 (1) 一 條 由 紀

ポール・フェヴァル試論(1)88%EA%9E%8A001...ポール=アンリ=コランタン・フェヴァル(Paul-Henri-Corentin Féval)は1816 年9 月29 日(2)、 レンヌに生まれた。父、ジャン=ニコラ・フェヴァルはレンヌ王立裁判所判事であったが、一家

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今、日本でポール・フェヴァルの名を知っている人は、どのくらいいるのだろうか。19世紀フ

ランスの人気作家であったのに、読んだことのある者は、ほとんどいないのではなかろうか。映

画化もされた『せむし Le Bossu』の作者だと言っても、ピンと来る者は少ないに違いない。だが、

彼は確かに人気大衆小説家であったし、文学的な作品も書いて、それなりの評価を受けていた。

フェヴァルは、文学的作家と大衆作家の間に位置していたが、そのような立場にあったからこそ

行うことのできた興味深い活動もあったはずだ。本稿は、忘れられた作家フェヴァルのいくつか

の特質に、ささやかな光を当てようとするものである。長くなるが、まずは作家を紹介したい。

1.

ポール=アンリ=コランタン・フェヴァル(Paul-Henri-Corentin Féval)は 1816年 9月 29日(2)、

レンヌに生まれた。父、ジャン=ニコラ・フェヴァルはレンヌ王立裁判所判事であったが、一家

の生活は決して楽ではなかった。だが、それでもフェヴァル家は、市の重要な建築である、18世

紀に建てられたブロサック館の 3階を借りて住んでいた。母は貴族の出であり、奥さま連中の信

心会の会長を務めるほど信仰熱心な女性だった。ポールは 5人兄弟の末っ子であり、兄と姉がふ

たりずついた。姉たちもやはり、信心深かったようである。

1827年、ポールがまだ 10歳の時に、父が亡くなる。一家の生活はさらに苦しくなり、母はさら

に信仰にのめりこむ。ポールは寄宿生として、レンヌの王立コレージュに入学する。ひ弱で、あ

まり勉強ができたわけでもなく、同級生のみならず先生方にも気に入られてはいなかったようだ。

七月革命の際には、さらに周囲の反感を買うことになる。まわりが革命熱に浮かされている時に、

フェヴァルは敢えて白い記章をつけて「王様万歳!」を叫び、級友たちに殴られる危険を犯した

のだ。この騒ぎは母の耳に入り、彼は数ヶ月の間、学校を離れ、母方の伯父の城館にひっこむこ

とを余儀なくされる。ポールの頭を冷やすための処置だったのだろうが、なんとこの城館は、革

命時代にふくろう党員のたまり場だったところで、当時の話を滞在中に聞かされたポール少年は、

--- 1 ---

ポール・フェヴァル試論(1)

一 條 由 紀

かえってより一層王党派としての矜持を高くすることになるのだった。

その後コレージュに戻ったポールは、1833年に無事バシュリエになり、司法の道に進む。もち

ろん、父を見習ったわけである。1836年に学位論文を提出し、弁護士になったフェヴァルは、最

初の仕事として、ニワトリ泥棒の弁護を引き受ける。デビューは成功しそうに思われたが、自分の

技術を軽んじられたと思い込んだ被告人が、弁護士そっちのけで盗みのテクニックについてとうと

うとまくしたて始めたため、おじゃんになってしまった。以後、フェヴァルが弁護に立つことはな

い。

司法界をあきらめ、パリで一旗揚げようと思い立ったフェヴァルは、わずかな金を握りしめて故

郷を後にする。うまい具合に親戚に銀行の事務職を紹介してもらうが長くは続かない。その後、職

を転々とするが、新聞の発行を持ちかけられて金を騙し取られたり、広告を貼る仕事を引き受けた

が、給料を払ってもらえなかったりと、首都に出てきたおめでたい田舎者の辛酸を次々と舐めるこ

とになる。だが、これらの経験は無駄にはならず、後のフェヴァルの小説に登場する、パリのシニ

スムと対比される純朴なブルターニュ出身者たちの原型を形づくるだろう。

散々な目に会いながらも、文学作品を書き始めたフェヴァルは、徐々に新聞の雑文書きや、ヴォ

ードヴィルのセリフ書きの仕事を得られるようになる。だが、生活が苦しいことには変わりなく、

しまいには栄養失調で倒れてしまう。幸いアパルトマンの隣人に助けられ、医師の看護を受けて回

復したフェヴァルは、なんとか『ヌーヴェリスト Nouvelliste』紙の校正係の職を見つける。出版界

にコネができたためであろうか、1839年にやっと自分の作品を世に送り出すことができる。6月に

は『ル・キャビネ・ド・レクチュール Le Cabinet de lecture』に『ピエール・ミシェ Pierre Michet』

が載り、11月には『ヌーヴェリスト』に『カナリヤおじさん L’Oncle Canary』が発表される(3)。ま

た、翌年にはブルターニュを題材にした小説をいくつか発表する。子供の頃から興味があったとい

う故郷の伝説・歴史は、その後もずっとフェヴァルの着想の源泉であり続けるだろう。

次第に多くの読者を獲得したフェヴァルは、1841年、権威ある雑誌『パリ評論 La Revue de Paris』

に『あざらしクラブ Le Club des phoques』を発表し、名声を高める。この小説は、奪われた地位と

財産の回復という、フェヴァルの作品に繰り返し用いられる主題を扱っている。難破して水夫に財

産を奪われたサン =ジューアン侯爵が、ロンドンの水泳愛好家の集まり、「あざらしクラブ」で詐

欺師に水泳対決を挑み、見事打ち負かすのである。1843年には、歴史小説『天空の騎士たち Les

Chevaliers du firmament』や、ブルターニュを舞台にした『白狼 Le Loup blanc』などが書かれる。後

者は、フェヴァルの代表作のひとつに数えられ、1977年にはフランスでテレビドラマにもなった。

摂政時代、フランスの支配に抵抗するブルターニュを描いている。フェヴァルは過去のブルターニ

ュを理想としており、このような主題を繰り返し取り上げ、発展させていくことになるだろう。

こうして、フェヴァルは次々に小説を発表していった。以上の例は一部に過ぎない。書くスピー

ドが早かったらしく、多作である(4)。作家として名を揚げつつあったフェヴァルのもとに、ひとつ

の大きな仕事が舞い込んだのは、依頼者が彼の作品を評価したからだけではなく、スピードという、

--- 2 ---

新聞小説家には欠かせない才能があったからでもあろう。フェヴァルに『パリ通信 Le Courrier

français』紙の仕事を紹介したアンテノール・ジョリが、連載小説を書いてくれないかと頼みに来

たのだ。タイトルはすでに決まっていた。『ロンドンの秘密 Les Mystères de Londres』。1842年に大

ヒットを記録したシューの『パリの秘密』人気にあやかろうと準備された作品だ。ジョリは新聞社

と作家の仲介者のようなことをやっていたらしい。実は『ロンドンの秘密』は、イギリスの作家が

書いたものがすでにあり、それを翻訳して『パリ通信』に載せるはずだった。ところが、とても公

に発表できるレベルではないと判断したジョリが、同じタイトルでかわりに書いてくれる小説家を

探すことになり、フェヴァルに白羽の矢が立ったのであった。イギリスに行ったこともないのに!

とフェヴァルは断ろうとするが、もう紙上には、タイトルとともに連載開始日が予告されていた。

どうしても『ロンドンの秘密』を書いてもらわなければならない。フェヴァルにとってもこれは大

きなチャンスである。結局、彼は引き受ける。さらに、ひとつ条件を飲まされた。小説の成功には、

イギリスらしさをアピールすることがなんとしても必要だ。したがって、作者はイギリス人でなけ

ればならない。フェヴァルはフランシス・トロロップ卿というペンネームを使うことを承諾させら

れる(5)。

結果的に、『ロンドンの秘密』(1843-1844)は大成功を収めた。フェヴァルは一躍人気作家の仲

間入りを果たし、『パリの恋人たち Les Amours de Paris』(『パリ通信』、1845)、『真夜中の領収証 La

Quittance de minuit』(『ル・ジュルナル・デ・デバ Le Journal des Débats』、1846)、『悪魔の息子 Le

Fils du diable』(『レポック L’Époque』、1846)などを連載する。ミルクールが、その評伝のなかで、

当時の人気を振り返っている。

パリの壁は全て、大きなポスターで覆いつくされていた。そこには、勝ち誇るように書かれた、フェ

ヴァルの名と彼の作品のタイトルが読まれるのだった。(6)

フェヴァルを一躍人気者にした名プロデューサーのことを、しかしながら作家自身は、恩人

(bienfaiteur)であると同時に誘惑者(tentateur)でもあったと後に語っている。ジョリは確かに、

成功を、つまり金と名声をもたらした。だが、新聞小説家になるということは、文学的作家として

は見てもらえなくなる危険があるということだった。フェヴァルは文学作品で認められたかった。

1850年代には、『成り上がり者たち Les Parvenus』(『現代評論 La Revue contemporaine』、1852)、

『虎殺し Le Tueur de tigres』(『パリ評論』、1853)、『エメ Aimée』(『ル・モンド・イリュストレ Le

Monde illustré』、1858)などの風俗小説・諷刺小説を相次いで発表する。また、彼の名は、1852年

7月から 1854年 1月まで新聞から消えるが、それは『パリ評論』などの雑誌に専念して作品を発

表するためであった。だが、ジョルジュ・サンドなど一部の作家や批評家にはそれなりに評価され

たものの、それほど大きな話題にはならなかった。「ポール・フェヴァルは新聞小説家、つまり金

儲けのために散文を書いている奴だ」というイメージをどうしても払拭できなかったのだ。その内、

--- 3 ---

大衆小説家としての人気も失ってしまう。上述のミルクールは、フェヴァルは道を誤ったと言うだ

ろう(7)。望む結果が得られず鬱状態に陥ったフェヴァルは、ペノワイエ医師の診察を受け、その娘

と 1854年に結婚する。彼女もポールの母と同じく、信仰に篤い女性だった。

自分の社会的イメージを甘受し、大衆作家であることを受け入れざるを得なくなったフェヴァル

は、新聞に戻り、1857年には『ル・シエクル Le Siècle』紙に『せむし』を連載し、再び当たりを

取る。これは、今なお読みつがれるフェヴァルの最も有名な作品であり、繰り返し映画化、テレビ

ドラマ化もされている冒険活劇だ(8)。とはいえ、今日では、作品名あるいは主人公ラガルデールの

名を知っていても、作者フェヴァルの名を知る者は、フランスでもあまり多くはないらしい。だが

当時は、小説はもちろん、1862年にアニセ・ブルジョワとともに翻案した芝居も大成功し、同年

12月にはコンピエーニュに招かれ、ナポレオン 3世の前で公演を行うことになる。ロンドンやブ

リュッセルでも上演された。物語は、主人公の騎士ラガルデールが、ヌヴェール公の遺児オロール

を守り、彼女の地位と財産を取り戻してやるというものだ。また、翌年には『ル・コンスティテュ

ショネル Le Constitutionnel』紙上に、パリで暗躍する悪の組織を描く『黒服 Les Habits noirs』シリ

ーズの第 1作目が連載される。すでにシューは亡く、デュマの全盛期も終わっていた 1860年代、

新聞小説家の唯一のライヴァルは、ポンソン・デュ・テラーユであった。1875年の 7作目まで断

続的に書き続けられる『黒服』シリーズは、『パリのドラマ Les Drames de Paris』というタイトル

で 1857年に連載開始されたポンソンの『ロカンボール Rocambole』シリーズに対抗するものとし

て構想されたのだ(9)。

このように、1850年代末からは再び大衆の人気を取り戻したフェヴァルだが、文学的野心をあ

きらめたわけではなかった。大衆向けの連載を続ける一方で、文学作品も書き続けている。また、

新聞小説に対する偏見と無理解を無くすこと、職業作家の地位向上に尽力する。「新聞小説家」の

レッテルを貼られたフェヴァルが、批評家や他の作家たちに認められるためには、新聞小説=低俗

という認識を改めさせなければならないからであり、生活のためには、金になる大衆小説から足を

洗うわけにはいかないという職業作家の状況を改善するためである。フェヴァルは、文芸家協会

(Société des Gens de Lettres)での活動を通して、また、文筆活動を通して、これらの戦いを続ける

ことになる。

しかしながら、第二帝政が終焉を迎えると、フェヴァルの状況は変わる。1864年にレジオン・

ドヌール勲章を受け、1868年には政府から依頼されて文学に関する報告書を書くなど、ナポレオ

ン 3世治下ではうまくやっていたフェヴァルだが、保守的で共和制に反対だったことが災いし、執

筆の依頼が減り、読者も離れていく。財政を立て直そうと、1875年には投資に手を出すが、破産

して私生活も苦しくなり、妻の影響でカトリックに「改宗」する。とは言え、それまで信仰を失っ

ていたわけでは決してなく、実践に戻ったということらしい。1876年にはカトリックの公報紙で、

公に「改宗」を表明し、以後、宗教的パンフレットや聖人伝などを書く傍ら、改宗前の小説を修正

することに没頭する。子供に読ませても恥ずかしくないような「安全な」作品にするためである。

--- 4 ---

こうして精神的にも財政的にもなんとか立ち直ったフェヴァルであったが、1882年には、人に騙

されて再び破産。さらにその 2年後には妻が亡くなり、最晩年は宗教だけを拠り所にして、ひっそ

りと暮らしていたようである。1887年 3月 8日に死亡した時には、もう世間からは忘れられた作

家であった。

2.

文学的野心を持ちながらも、最初のヒットが新聞連載小説であったがために、大衆小説家のイメ

ージを負い続けなければならなかったフェヴァル。文学(littérature)と周辺的文学(paralittérature)、

あるいは、いわゆる「純文学」と大衆文学の狭間に落ち込んでしまったのだ。悪く言えば、どっち

つかずで中途半端な立場であり、新聞小説家のくせに自尊心が高くて鼻持ちならない奴だというこ

とになる。ゴンクール兄弟は、1865年 1月 28日の『日記』で、夕食会で出会ったフェヴァルの姿

をこう描いている。

私はフェヴァルの側にいた。彼は、鼻声で話すブルターニュの田舎者で、サン=モール・ポパンクー

ル街に住み、子供がいて、規則的な生活を送るブルジョワ化された田舎者だ。毎日 8時から正午まで

書き、薪を売るように新聞小説をつくる。見栄っ張りでへりくだっている。だが実は、独自の文体を

持ちたいという欲望に苛まれ、文学者のひとりとして数えられないことに非常な屈辱を感じているの

だ。(10)

これは、ある意味では真実であろう。フェヴァルは晩年まで人に騙されやすい純朴な田舎者であり

続けるし、文学作品が認められないことに悔しさを感じていただろう。子供が多かったから、筆一

本で生活費を稼ぐためには、毎日せっせと書かねばならなかったのも理解できる。だが、一方では、

フェヴァルのことを、才能がないわけではないが、ジャンルを間違えてしまった作家だと考える者

たちもいた。

ゾラは、『自然主義の小説家たち Les Romanciers naturalistes』に収録されている「現代の小説家

たち Les Romanciers contemporains」のなかで、新聞小説家に一章を割き、フェヴァルを以下のよう

に素描している。

例えば、ポール・フェヴァル氏は新聞小説の創始者のひとりである。今日、彼はもう創作していない、

あるいは少なくとも、あまりにもひっそりと創作しているので、長い間彼の新作にはお目にかかって

いない。[...]彼はありきたりの知性の持ち主ではないから、確かに文学的作品を書くこともできただ

ろう。彼の全作品はかなりの量だが、今すぐ半キロいくらで売っぱらってしまっても惜しくはない。(11)

--- 5 ---

もう創作していないのではないかと思われているのは、これが 1878年、つまりフェヴァル改宗後

に書かれたからである。かなり皮肉が混じっているが、他の新聞小説家については留保を加えず、

もっと手厳しい意見を述べているので、このフェヴァルの扱いは、実はかなり良い方であるし、条

件法であっても、「文学的作品を書くこともできただろう」と言われている点に注目すべきである。

また、『昨日と一昨日の小説家たち Romanciers d’hier et d’avant-hier』でフェヴァルに長い一章を

割いているバルベー・ドールヴィイは、そのなかで、このように述べている。

誓って言うが、彼はその生まれながらの性質からして、偉大になりえた小説家だと思う。だが、実際

には偽りとは言わぬまでも(良く聞いて欲しい!)、偉大な芸術家には全くふさわしくない、劣ったジ

ャンルに関わって評判を落とした小説家なのだ。(12)

バルベーは、フェヴァルの作品をいくつか取り上げて具体的に論じ、イロニーが重要な要素となっ

ていると指摘する。また、「彼の非常に複雑な才能を構成するあらゆる能力のなかで、第一の、そ

して最も特徴的な能力は、観察とコメディーのセンスである(13)」と述べ、観察にイロニーが交じり

合って独自の効果を生み出していると評する。バルベーの意見は、他の多くの批評家の意見を代表

している。だが、新聞小説というジャンル内で創作している限り、これらの能力は宝の持ち腐れで

ある、というのが、当時の考え方であり、新聞小説に対する偏見を示している。

フェヴァル自身は、文学的野心をあきらめたわけではなく、新聞小説を書いていても、自負心を

失わなかった。例えば、決して大衆紙には書かないと決めていた。そのため、『ル・プチ・ジュル

ナル Le Petit journal』や『ラ・プティット・プレス La Petite presse』に『ロカンボール』シリーズ

を書いていたポンソン・デュ・テラーユには批判的である。フェヴァルが連載していた『ル・コン

スティテュショネル』や『レポック』などと、これらの新聞にどれほどの違いがあるのかと思われ

るかもしれないが、実際、読者層が全く違っていたのだ。

これは、活字を読む側の人間についても言えることで、新聞を予約購読するような人間は、有産階級

とは言わぬまでも、少なくとも、肉体労働とは無縁の階級に属していた。言い換えれば、読む側と書

く側の双方に共通のコードが確立されていたということである。[...]ところが、ミヨーの《プチ・ジ

ュルナル》は明らかに、このコードの外側に読者層を拡大しようとしていた。つまり、これまで、新

聞など読んだこともなく、言説ディスクール

といえば、教会の神父の説教か、近所の長老の教訓的な談話、さもな

ければ、カフェのおやじの噂話や猥談ぐらいしか知らない階層が《プチ・ジュルナル》のターゲット

として設定されていたのである。(14)

『ル・プチ・ジュルナル』は、1863年にモイーズ・ミヨーによって創刊されたフランス初の大衆日

刊紙である。1860年代は大衆紙発展の時代であった。多くの新聞小説家は、活躍の場を大衆紙に

移す。新聞小説といえば、教養のない者たちが読むものだと考えられ、デュマやシューが連載して

--- 6 ---

いた時代よりも悪いイメージを持たれていた。こういう言い方は矛盾しているように思われるかも

しれないが、フェヴァルは、大衆紙で連載される俗悪な新聞小説に対抗して、「良質の大衆文学」

を書こうとしたのだ。だからこそ、大衆紙で連載しないことにこだわったのである。

すでに 1861年にフェヴァルは、ある作品が優れているかどうかは、それが属するジャンルで決

まるものではないと主張している。新聞連載小説でも良いものは書けるはずなのだ。個々の作品を

検討することなく、それが属するジャンル全体を批判することは間違っている。

善と悪は、ムッシュー、私が今からとても真面目にお話しするのだということを信じてください、

善と悪は、これこれの文学形式、あるいは、ある作品が生まれた形式のなかにあるのではないので

す。(15)

「ある小説家からシャピュイ=モンラヴィル男爵への手紙」という副題を持つ、『元老院における

文学 La Littérature au Sénat』において、フェヴァルは、新聞小説を公の場で批判した元老院議員に

このように抗議の声を上げている。

フェヴァルは、特に 1860年代、自らの職業を守るため戦った。一個人としてだけではなく、文

芸家協会の一員として、会長としても戦い続けた。文芸家協会とは、著作権問題にとりくんでいた

バルザックらのはたらきかけによって 1838年に発足した文筆家の団体である。フェヴァルは、

1842年に入会し、1848年に副会長、1863-64年に会計を務めた後、会長に就任し、作家の権利を

守るために活動した(16)。1867年1月には、フランス人作家で文芸家協会会員のアンリ・オーギュ

の作品が作家名なしで、しかもタイトルを変えられて、スイスの新聞に勝手に掲載されたと聞き、

ジュネーヴで抗議講演を行っている(17)。フェヴァルは、ペンで生計を立てる者たちの権利を守るた

めに戦争を始めると熱く語り、ヨーロッパの世論に訴えようとした。このオーギュの件以外でも、

海外で勝手に作品が複製されないか見張ったり、貧窮に喘ぐ会員を助けるための救済基金を設立す

るなどの活動を、文芸家協会会長として行っている。だが、会員たちは必ずしもフェヴァルに賛同

する者ばかりではなかった。ジュネーヴでの講演でフェヴァルは、作家は世間が思うほど金持ちで

はないし、苦しい生活をしているのだから、作品を勝手に取り上げないでくれと訴えているが、あ

まりにも現実的に金銭の問題を語ったことが気に喰わない連中もいたらしい。協会をやめるとまで

言った者に対して、フェヴァルは、所有権(著作権)を主張することと金儲け主義を混同しないで

欲しいと反論する。だが、「金儲けのために作品を書いている」という通念が大衆小説を軽蔑させ

ていた時代に、金銭問題を赤裸々に語ることは、文芸家協会の作家たちを、金儲け主義の卑しい大

衆作家と同一視することだと思われても仕方がなかったのかもしれない。しかし、だからこそ、作

家の立場を理解させ、権利を守るために活動しなければならなかったのだ。

このように、フェヴァルは、文芸家協会会長として同業者のために奔走したが、では、作家とし

ては、何を目指したのだろうか。フェヴァルにとって小説とは何だったのだろうか。

--- 7 ---

1867年の万国博覧会の際に、公教育省に依頼を受け、『フランスにおける文学および科学の進歩

に関する報告集 Recueil de rapports sur les progrès des letters et des sciences en France』のひとつとし

て書かれた『文学の進歩に関する報告 Rapport sur le progrès des lettres』(1868)において、フェヴ

ァルは小説の部を担当している(18)。それによれば、小説は虚構だが教訓的であり、「語りながら証

明する il « prouve en racontant » (19)」ものだ。教訓的であるといっても、露骨に説教臭いのは優れた

小説とは言えず、誰でも楽しめるものでなくてはならない。また、小説の構成要素で重要なのは、

観察(observation)と歴史=物語(histoire)である。

現代小説は、本質的に人間的な教訓ドラマである。つまり、知られざる歴史という観察によって、あ

るいは、観察が固定した一連の事実としての、書かれた歴史によって、血の通ったものとなる教訓ド

ラマである。(20)

小説は教訓的なものだが、説教臭さを消し、生き生きした力を与えるのが観察である。そして、歴

史=物語は観察によってつくられるが、フェヴァルによれば、「過去の(観察の)記録」である

「死んだ歴史」(一般に使われる意味での歴史)よりも、「生きた歴史」である「(生の)観察」こそ

が、優れた小説を生み出す。生きた歴史を描いた偉大な作家としてバルザックの名が挙げられてい

る。だが、バルザックが活躍した時代とは文学を取り巻く状況が変わっている。上で説明したよう

に、大衆紙の登場によって読者層は拡大されたが、教養のない人々が多かった。つまり、求められ

るものが変わってしまったのだ。ところで、基本的にフェヴァルは、読者が増えるのは良いことだ

と考えていた。大衆がひどい小説ばかり読んでいるとしても、そのなかから、たったひとりでも、

「読書の秘密 le secret de la lecture (21)」を見つけてくれる者が現れれば良い。フェヴァルは読者に対

して、そのような期待を抱き続ける。そして、作家としての活動を通して、読者をモラル的にも文

学的にも教育しようとするのである。

フェヴァルと読者の関わりの場は、小説だけにはとどまらない。シューが、『パリの秘密』連載

時に、またその後もしばらく、読者から多数の熱烈な手紙を受け取ったことは有名だが、フェヴァ

ルもまた、人気大衆小説家の例に漏れず――シューほどではなかったかもしれないが――熱心な読

者から手紙を受け取っており、読者との対話が多少なりともあった。彼らの意見が小説に反映され

ることもあったようだ。だがフェヴァルは、それでは満足しなかった。作家が公衆と対話する機会

のある講演会がイギリスで行われていることを親交のあったディケンズから聞き及ぶと、その真似

をして、作家仲間を集めて講演会を企画したのだ。1865年末、開会の辞(22)のなかでフェヴァルは、

講演会の目的は、何かを教えることだけでなく、「思想家とその知的客との直接のコミュニケーシ

ョン」であると述べる。

さしあたり、私は確認するが、あなた方は、新しい武器を備えた作家の話を聞くことになる。その

--- 8 ---

文学的価値の正確な度合いに応じてではなく、あなた方が今まで読んだ時よりも二倍、いや十倍も注

意深く聞くことになるのだ。今から、作家の努力は、直接的にあなた方に働きかける。それがどんな

ものであれ、遠くからあなた方が影響を感じていたこの行為は、仲介なく、あなた方を打つのだ。あ

なた方に聞こえるのは、その弱められたこだまが、おそらくはあなた方を震えさせていたあの声その

ものだ!……(23)

直接の対話には、文学的価値とは異なる価値や効果がある。上の文章からは、フェヴァルがこの講

演会に並々ならぬ情熱を傾け、期待をかけていたことがうかがわれる。この演説で彼は、小説は信

じられない影響力を持つと言っているが、もうひとつ別の影響力を手に入れたかったのだ。講演会

の目的は、教えること、読者との直接的コミュニケーション、そして、「ペンで勇敢に戦う者たち

の手に、ことば(parole)の武器を握らせる(24)」ことなのだ。残念ながら不評に終わり、予定され

ていた翌年の講演会はお流れになったものの、フェヴァルは、めげずにその後も個人で講演し、

「ことばの武器」を行使し続けるだろう。

以上のように、フェヴァルは、新聞小説家に過ぎないとみなされつつも、そのレッテルを黙って

甘受することはなく、一貫して、小説家の立場を守るために戦い続けた。そのために彼は、一方で

大衆小説は堕落したジャンルだという考えを批判し、もう一方では読者を教育しようとした。対話

で読者と直接関わる計画はあまりうまくいかなかったが、では、小説ではどうだったのだろうか。

フェヴァルは読者に、何をどのように教えようとしたのだろうか。

3.

フェヴァルは文学的作品として写実的な風俗小説も書いているが、ここでは、彼が、大衆小説と

いう枠組みのなかで大衆小説について伝えようとしたことに焦点を当ててみたい。上で触れた『せ

むし』や『黒服』シリーズなど、フェヴァルは実に多くの大衆小説を書いているが、注目したいの

はパロディーである。バルベーも指摘したように、彼にはイロニーとコメディーのセンスがあり、

風刺小説でもその力を発揮しているが、それだけでなく、大衆小説を笑う大衆小説も書いているの

だ。

大衆小説のパロディーを書いた大衆作家は、確かにフェヴァルだけではない(25)。ポンソン・デ

ュ・テラーユも 1867年に『ロカンボールの真実 La Vérité sur Rocambole』を書いて、新聞小説の舞

台裏を読者に明かして見せる。だが、フェヴァルほど大衆小説のパロディーを遠くまで推し進めた

大衆小説家はいないのではないだろうか。1860年代に書かれた彼の多くの大衆小説作品が、多か

れ少なかれパロディー的要素を含んでいる。大衆紙には書かず、文学的野心も捨てなかった大衆作

家という二面性が、そうさせたのではないだろうか。

--- 9 ---

まず、フェヴァルがどのようにパロディー化を行っているのか見てみよう。例えば、1860年代

から 1870年代前半にかけてフェヴァルが書き続けた『黒服』シリーズでは、敢えて正義のヒーロ

ーではなく、悪の集団を中心に据えている。クフェレックによれば、

フェヴァルにおいては、悪の破壊しがたい力が、価値の全体的な転倒という、強迫的な形を取る。神

のように崇められる黄金という冒涜的な転倒、[...]罪人のかわりに無実の者に刑を宣告させる、仕組

まれた誤審という転倒、[...]カーニヴァルのしつこくつきまとう顔によって、言表を混乱させる文体

そのものによって、また、あらすじのもつれた糸が、自己同一性の手がかりをわかりにくくするのと

同じように、嘲笑とイロニーによって繰り返される転倒。(26)

このように『黒服』は、最初から既存の大衆小説――基本的に勧善懲悪もの――のパロディーとし

て構想されていたのであった。さらに、シリーズが書き進められるにつれて、小説の筋はどんどん

断片化していく。語り手は、テクストについてコメントし、脱線し、読者の裏をかくのだ。

また、シリーズ最後の作品『カデ党 La Bande Cadet』が連載中であった 1874年には、『吸血都市

La Ville vampire』というパロディー小説が書かれる。副題「アンヌ・ラドクリフ夫人の信じられな

い冒険 Aventure incroyable de Madame Anne Radcliffe」が示すように、ゴシック小説のパロディーで

ある。ラドクリフ夫人となる前のアン・ワードが、吸血鬼に襲われた友人を助けるために、自分の

結婚式そっちのけで奔走し、怪物たちの都市に乗り込むという内容なのだが、語り手は自分の物語

とラドクリフの『ユドルフォの秘密』を比較してみたり、ラドクリフの手法についてコメントした

りする。

(あなた方が私と同じかどうかは知らないが、その比類なき物語で、「彼女」が自分で積極的に発明し

た「先回りしないでおこう」という、この言い回しを使うときはいつも、私は鳥肌が立つのだ。)(27)

このように、フェヴァルはくりかえし大衆小説のパロディー化を行っているのだが、一番徹底的

にそれを推し進めているのは、1866年 12月の『ル・グラン・ジュルナル Le Grand journal』に三

回に分けて掲載された『犯罪製造所! 恐ろしい小説 La Fabrique de crimes ! Affreux roman』(28)にお

いてである。この作品について、詳しく検討してみよう。

まず、タイトルからしてわざとらしい。物語はあまりに荒唐無稽で要約するのは困難だが、敢え

て簡単に説明すると、対立するふたつの集団の攻防が描かれ、誘拐、監禁、殺人など、様々な犯罪

が起こる。まず最初に、この小説の作者ということになっている犯罪者ムーシャミエルの序文があ

る。作者は、フランス国民が犯罪をいかに好むか強調し、自分の作品は、時代の趣味を嘲笑するた

めではなく、逆に犯罪好きの人々におもねるために、これ以上は不可能というところまで極端を推

し進めたものなのだと言う。つまり、ムーシャミエルにはパロディー化の意図はなく、読者を満足

させること、つまり「もし、我々の世紀の健康に必要であるならば、殺人の消費を二倍にすること、

--- 10 ---

要するに、三倍、百倍にすること(29)」が目的だということになっている。だが、この言葉を素直に

信じるわけにはいかない。なぜなら彼は、金がなくて町に貼り出すことができなかった広告を序文

に挿入しているのだが、そこでは、自分の作品が「率直に言えば、ばかげている franchement idiote」

ことを認めて、宣伝文句のなかで強調してさえいるのだ。

つづく本文は、エピローグを含めて全部で 14章あり、多くの無茶苦茶なエピソードが展開され

る。例えば、ガス爆発により大量の死者が出ると、パリだけでなく地方からも見物客が訪れ、鉄道

会社が臨時便を増発するほどだ。これは、もちろん、犯罪好きの読者を諷刺しているのだろう。ま

た、殺されかかっていたところを助けられたヒロインが、恩人とその仲間たちに身の上話を語る時

には、自分を取り囲んでいた贅沢を詳細に語って貧しいあなた方をうらやましがらせたりはしない

と言っておきながら、やたらと何々にいくら払ったと金の話をする。

既存の大衆文学で使われている装置への当てこすりも忘れられてはいない。シューの小説以来、

「何々の秘密」というタイトルが多いことからもわかるように、新聞小説は謎がなくてはお話にな

らない。『犯罪製造所』にも、出生の秘密、顔を隠した登場人物などが出てくるが、さらには暗号

もある。ヒロインは、正体不明の恋人から手紙つきの花束をもらう。手紙は数字の暗号で書かれて

おり、その解読格子がメモとして添えられていた。ヒロインはそれを見て、「あなたって、ただの

ブルジョワじゃないのね!」と喜ぶ。だが、語り手は、この思わせぶりな暗号の仕組みをまったく

明らかにしないまま話を進め、読者に肩透かしを食わせる。

手紙の文面は以下の通り。

「17, 34594, 2903549669...」

だが、普通の言葉に翻訳するのが良かろう。

「愛しのマリアンナ嬢へ[...](30)

さて、手紙には逢引の約束が記されており、「死刑囚の息子」という大層なあだ名を持つ恋人は、

真夜中になると示し合わせた通り、煙突を使って忍び込もうとするのだが、抜け出せなくなって助

けを呼ぶ羽目になる。なんとも間抜けだが、実はこの男、別名ドクター・マレンゴという超人であ

り、「ドクター・マレンゴの病人たち」と呼ばれるたくさんの手下を従えている。マレンゴ一派と

戦う悪の集団は、オシュポ公爵――実はマレンゴの息子――率いる「雄蛸たち」である。最後の戦

いは「前科者の館」で行なわれるが、そこは大衆小説的装置の集大成である。

今我々がいる前科者の館は、夜の秘密のパリの最も仕掛けの多い住処のひとつだ。秘密の通路、回転

軸に乗った大きな石、動く天井、揺れる床、人が通れる壁、バネ仕掛けの暖炉、階段つきのタンス、

--- 11 ---

石棺、ドゥニ・ド・ティランの耳、そして他の地下牢の数は、そこでは文字通り計算できないほど

だ。(31)

「耳」が何なのかわからないが、それ以外は「いかにも」な仕掛けであふれている。ドクター・

マレンゴは、これらの装置を使って逃げた悪人たちを追跡するために、手下に「トリック発見粉」

を使えと命じる。これは、吹き付けると隠れた仕掛けが現れるという粉である(ちなみに、敵方は

「人相を変える水」というアイテムを持っている)。「トリック発見粉」を使うと、たちまち無数の

隠し扉が現れる。粉の威力が強すぎて余計な仕掛けまで見えてしまったのだ。ドクター・マレンゴ

は、もっとも怪しい扉を選び、「描写したら時間がかかりすぎるだろう特殊な方法」で開ける。手

下のひとりが思わずつぶやく。「このパリって町は、ほんとにおかしいな!」

前述の『文学の進歩に関する報告』でフェヴァルは、大衆小説で読書を覚えたばかりの「子供読

者 lecteurs enfants」が求めている物語の舞台は、「どこにもないパリ」だと分析しているが、『犯罪

製造所』の首都は、まさしく「メロドラマが演じられる劇場のように設備がそろえられている家々」

のあるパリなのである(32)。

こうしてフェヴァルは、ある時は、大衆小説読者の期待の地平とたわむれ、またある時は、大衆

小説の装置を大げさに描いてみせる。そして、このようなパロディーに加えて、彼は、登場人物や

語り手にテクストそのものについてコメントさせている。

このような出来事は、豊かな想像力から生まれた作品の中でも、今までに創造されたことはないと私

は思います!(33)

全てはすぐに様相を変えた。この驚くべき男の力に匹敵するものは何もなかった。我々はその力を浪

費してはこなかったが、それは、最終章の効果のために大事に取って置くためであった。(34)

最初の引用では、物語が過度の想像力から生まれた虚構でしかないことを明示している。二番目の

引用では、新聞小説の書き方を教え、読者を魅惑する力の源を暴いてみせている。他の作品でもフ

ェヴァルは、小説のなかで小説について語っているが、クエニャスの「ポール・フェヴァルの微笑」

によれば、

一方で、小説のなかで小説について話すことは、現実の効果を持ち得る。単純な対照で、そこから幻

想が語られる場である物語世界は「現実」を参照させられる。だが、他方では、もちろん、文学を幻

想の同義語として想起させること、その欺瞞的・人工的側面をはっきり示すことは、読者の幻想を壊

すことであり、幻想を疑わせることである。(35)

物語が虚構でしかないことを示し、読者に気づかせることは、読者が我に返ること、物語世界に浸

--- 12 ---

っていられなくなり、現実に返ることだ。フェヴァルは、大衆小説を受身で享受する読者に、その

真の姿を伝えようとしているのだ。

さらにフェヴァルは、テクストだけでなく、それを取り巻く状況をもパロディー化しようとする。

第二章の終わりで、語り手は、作者に寄せられた匿名の手紙に答えようと言う。質問の内容は、登

場人物の少年が、どうして「馬の尻と尻尾の間」に隠れられたのかというものだ。もっともな疑問

だが、答は「そんなことを聞いて何になる? 匿名の手紙なんか無視してやる」。語り手は匿名の

手紙は「悪意の賜物」だと言うが、フェヴァルは、揚げ足取りのような質問をしてくる手紙をパロ

ディー化しつつ、大衆小説の無茶苦茶さをもパロディー化している。

このように、フェヴァルはさまざまな方法で大衆小説を解体してみせている。非常に露骨なやり

方であると思われるし、物語は荒唐無稽の連続で、まったく「率直に言って、ばかげている」。だ

が、驚くべきことに、なんと当時の読者にはパロディーだということがなかなかわからなかったら

しい。フェヴァルは連載二回目の冒頭に、以下のような注をつけさせなければならなかった。

『犯罪製造所』を書くことで、ポール・フェヴァル氏は、今日もてはやされている小説をただパロ

ディー化しようとしたのではなく、読者の興味を引き、どのようにして魅惑されているのかを示すこ

とで、言わば、読者を自分の罠にかけようとしたのだ。

我々のなかでポール・フェヴァル氏は、この文学の開花に多少貢献しただけにいっそう、その主題

の大家である。だが、それでも彼は、常に自分自身と読者に敬意を抱いているので、ポンソン・デ

ュ・テラーユ、モンテパン、エマール、カパンデュ、その他の優れた犯罪学者諸氏の小説手法を、そ

のこまごまとした点まで嘲笑することができるのだ。(36)

こうしてフェヴァルは、『犯罪製造所』がパロディーであること、読者に小説のカラクリを教えよ

うとしているのだということを明らかにしている。また、ポンソンたち当時の流行大衆作家と自分

をしっかり区別し、『犯罪製造所』でパロディー化されているものは、彼らの作品にこそ多く適応

されていることを示して、騙されないよう読者に注意を呼びかけている。

さて、物語の方は、ふたつの集団がいよいよ真っ向からぶつかりあおうとする時にあっけなく終

わりを迎える。エピローグでは、登場人物たちが、実は精神病院から脱走した患者たちだったこと

が明らかになる。彼らの医師の手紙が掲載されているが、それによれば、彼らの病気は「ある種の

血みどろの物語を習慣的に読みふける人々」を特に冒すものである。

これらの不幸な者たちは、短剣、毒、仕掛け、罠、地下牢など、あらゆる種類の落し穴が、どこに

でも見えるのです。パリは、死に遭遇することなしには、もう一歩も進めない巨大なネズミ捕りのよ

うに彼らには思われるのです。(37)

重症の大衆小説中毒者たちは、読書中に虚構の罠にかかるだけでなく、現実世界にも虚構の仕掛け

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を見ようとしてしまう。物語のようなことが現実にも起こるのではないかと、いつも何かを待ち構

えているのだ。

『犯罪製造所』のパロディーを見抜けないような者たちも、治療が必要なのかもしれない。フェ

ヴァルは読者の病気を治す医者として、読者の裏をかき、大げさな物語をつくりあげ、大衆作家の

手の内を明かす。それは、「子供読者」を教育するためである。荒唐無稽な小説ばかり読んでいる

者たちに、何かを気づかせてやるのだ。そこから、たったひとりでも「読書の秘密」をみつけてく

れるように願って。それは、作家フェヴァルが、テクストの外へ向けて読者に投げかけ続けた謎な

のだ。

文学作家と大衆作家の間に立つというジレンマに悩まされ続け、自分の職業の権利を守るために

戦い続けたフェヴァルは、その一方で読者を教育しようとした。確かに、彼の文学的野心を示す小

説の方は、誉めるべき点もあるとしても、今ひとつのレベルでしかなかったのかもしれない。だが、

文学的作品を新聞に連載する一方で、大衆小説の仕掛けを暴露する彼の試みは特筆に価すると思わ

れる。彼は、文学と大衆文学の間にある垣根を取り払おうとしつづけたのである。

(1) 本稿は、2005年度早稲田大学特定課題研究助成費(課題番号 2005A-814)の交付を受けて執筆され

た。

(2) ミルクールなどは生年を 1817年としているが、1816年が正しいようである(Eugène de Mirecourt,

Paul Féval / Emmanuel Gonzalès, Paris, Gustave Havard, 1857)。

(3) フェヴァルの作品については、Paul Féval 1816-1887 (Rennes, Bibliothèque municipale de Rennes, 1987.

レンヌ市立図書館でフェヴァル展が行われた時のカタログ)や Jean-Pierre Galvan, Paul Féval : parcours

d’une œuvre (Amiens, Encrage, 2000)の書誌が参考になる。

(4) フランシス・ラカサンによれば、フェヴァルは「109巻に及ぶ 72の長編小説、18の戯曲、その内 6

つは小説からの翻案[…]、68の中編小説、4巻の自伝[…]、8巻の歴史研究[…]、そしてカトリッ

クの実践に立ち戻った後には、多くの教訓的パンフレット」を書いたということだ(Francis Lacassin,

« Préface » in Paul Féval, Les Habits noirs, Paris, Robert Laffont, 1987, p. VIII)。フェヴァルは、デュマと異

なり、戯曲以外は基本的にひとりで書いている。

(5)『ロンドンの秘密』が後に単行本化された際にはフェヴァルの名が載る。

(6) E. de Mirecourt, op. cit., pp. 43-44.

(7) Ibid., pp. 46-49.

(8) 最も新しいのは、1997年のフィリップ・ド・ブロカ監督の映画で、主演はダニエル・オートゥイユ。

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日本では、1998年のフランス映画祭の折に『愛と復讐の騎士』という邦題で上映されたらしいので、

ご覧になった方もおられるかもしれない。2005年 10月に日本語字幕版が DVD化されたようだ。

(9) 『黒服』もテレビドラマ化されているフェヴァルの代表作である。彼の死後、息子のポール・フェヴ

ァル・フィスが続編を書いている。

(10) Edmond et Jules de Goncourt, Journal, Paris, Robert Laffont,1989, p. 1134.

(11) Émile Zola, « Les Romanciers naturalistes », Œuvres complètes, t. 11, Paris, Cercle du livre précieux, 1968, p.

238.

(12) Jules Barbey-D’Aurevilly, « Romanciers d’hier et d’avant-hier », Les Œuvres et les hommes, t. XIX, Genève,

Slatkine Reprints, 1968, p. 119.

(13) Ibid., p. 133.

(14)鹿島茂、『かの悪名高き十九世紀パリ怪人伝』、小学館、2000年、pp. 115-116.

(15) Paul Féval, La Littérature au Sénat, Paris, E. Dentu, 1861, p. 13.

(16) フェヴァルが会長を務めていたのは、1865年 2月~ 1868年 3月と、1874年 3月~ 1876年 4月であ

る。

(17) 講演の原稿は、同年 1月 12日の『リベルテ Liberté』および、2月の『文芸家協会報 Chronique de la

Société des gens de lettres』に掲載される。

(18) Paul Féval, Sylvestre de Sacy et al., Rapport sur le progrès des letters, Paris, Hachette & Cie, 1868.サシーの

序文に、小説、詩、演劇に関する報告が続くという構成である。詩はゴーチエ、演劇はエドモン・テ

ィエリが担当した。

(19) Ibid., p. 35.

(20) Ibid., p. 41.

(21) Ibid., p. 46.

(22) 開会の辞は「ことば、ペン、そして小説 La Parole, la plume et le roman」というタイトルで 12月 10

日付の『ル・グラン・ジュルナル』に載るが、われわれが参照したのは、以下の書誌に再録されたも

のである。Paul Féval : romancier populaire : colloque de Rennes 1987, Rennes, Presses Universitaires de

Rennes II, 1992, pp. 5-16.

(23) Ibid., p. 11.

(24) Ibid., p. 15.

(25) Voir Michel Nathan, Lautréamont : feuilletoniste autophage, Champ Vallon, 1992, chapitre 7, « Le roman-

feuilleton dans les dernières années du second empire », pp. 82-106. ナタンもそうだが、ガルヴァンも前掲

書で、フェヴァルによる大衆小説のパロディーとロートレアモンの『マルドロールの歌』の親近性を

指摘している。

(26) Lise Queffélec, Le roman-feuilleton français au XIXe siècle, PUF, 1989, pp. 64-65.

(27) Paul Féval, La Ville-vampire, Toulouse, Éd. Ombres, 2000, p. 25.この小説は、作家フェヴァルがラドクリ

フの親戚だという老婆に会いに行き、彼女から吸血鬼退治の物語を聞くという入れ子構造になってい

る。

(28) 以下の研究誌に再録されている。Tapis-franc, revue du roman populaire, no 1, hiver 1988, pp. 94-132. ま

た、後にポール・フェヴァル・フィスに書き直されて出版される(La Fabrique de crimes, Paris, Dentu,

1898)。

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(29) Ibid., p. 95.

(30) Ibid., p. 116. ヒロインの名はマリアンヌ.のはずなのだが、ここではマリアンナ

.になっている。わざと

なのか、単なる誤植なのか、判断に迷うところである。

(31) Ibid., p. 129.

(32) P. Féval, S. de Sacy et al., op. cit., p. 45.

(33) P. Féval, op. cit., La Fabrique de crimes!, pp. 122-123.

(34) Ibid., p. 128.

(35) Daniel Couégnas, « Le sourire de Paul Féval », Paul Féval : romancier populaire, Rennes, Presses

Universitaires de Rennes II, 1992, p. 74.

(36) P. Féval, op. cit., La Fabrique de crimes!, p. 109.

(37) Ibid., p. 132.

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