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情報コミュニケーション学研究2010年第8・9合併号 Journal of lnformation and Communication Studies 論文 アメリ力冷戦外交における「力の立場」の論理とその限界 アチソン国務長官・ニッツェ政策企画室長とNSC-68 鈴木 健人* はじめに 1.アチソンとニッッェの世界観 (1>アチソンの世界観 ニッツェの経歴と核兵器 II.冷戦初期アメリカの戦略的前提とソ連の原爆 (1)アメリカの戦略的前提一1949年夏まで 軍事外交戦略の見直し一水爆開発の決定 III. NSC-68の成立とその問題点 (1)NSC-68の成立 (2)NSC-68の内容とその問題点 むすび はじめに 冷戦史研究において、1950年は一つの転換点と して記録されている。6月に発生した朝鮮戦争は、 その後の米ソ冷戦を著しく軍事的対立色の強いも のにしたことは、研究者の間で概ね一致した見解 となっている。アメリカ合衆国(以下、アメリカ) 政府内の動きにっいても、すでに多くの研究によっ て指摘されているように、同年4月に国家安全保 障会議文書第68号(NSC-68)がトルーマン (Harry S. Truman)大統領に提出され、同年1 月の水爆開発決定と合わせて、アメリカの再軍備 を急速に進める端緒となった。この過程の中で注 目すべきことは、それまで対ソ連「封じ込め」政 策を立案していく中でほとんど常に大きな役割を 果たしていたジョージ・F・ケナン(George F. Kennan)の影響力が全く低下してしまったこと である。それのみならず、チャールズ・ボーレン (Charles E. Bohlen)のような、国務省内の 問題専門家の意見もまた十分顧みられなくなって いたのであった。NSC-68は対ソ政策の基本文書 でありながら、ソ連専門家達の意見を反映してい ない文書だったのである。その理由は、当時の国 務長官であったディーン・アチソン(Dean Acheson)の唱えた「力の立場」の考え方の存在 にあった。そこで本稿では1949年春頃から1950 年4月のNSC-68の成立までの期間に焦点を合わ せ、同文書とそこに反映されているとされるアチ ソンの「力の立場」の考え方に見られる論理とそ の問題点を内在的に解明していきたい。 NSC-68にっいては、それがアメリカの冷戦外 交に関する最も重要な文書であることから、数多 くの先行業績があり、ここでそれらを全て概観す ることは困難である。そこで最近の主要な研究と、 そこで示されている問題点に絞って従来の研究に おける論点を示したい。大まかに言って、これま での研究における論点は三っの点に絞られると考 えられる。一っは財政保守主義をとり軍事費の増 加を抑えようとしていたトルーマン大統領その他 の政府関係者の考えを、覆そうとする試みであっ たということ1。第二は、同文書が示したソ連の 明治大学情報コミュニケーション学部専任准教授 1 Arnold A. Offner, Another Such Victory’President Trurnαnαn(i the Col(i California,2002), pp.366-367;Melvyn P. Leffler, A Preponderαnce of Poωe Administrαtion,αnd the Cold Wαr(Stanford U P., California,1992)(hereafter, S,Nelson Drew(ed.), NSO-68:Forging the Strategy of Contαinment(National De P.3. 19

アメリ力冷戦外交における「力の立場」の論理とそ …...である。J・L・ガディス(John Lewis Gaddis) の研究によれば、ケナン本来の封じ込め戦略が地

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情報コミュニケーション学研究2010年第8・9合併号

Journal of lnformation and Communication Studies

論文

アメリ力冷戦外交における「力の立場」の論理とその限界

  アチソン国務長官・ニッツェ政策企画室長とNSC-68

鈴木 健人*

はじめに

1.アチソンとニッッェの世界観

 (1>アチソンの世界観

 ② ニッツェの経歴と核兵器

II.冷戦初期アメリカの戦略的前提とソ連の原爆

 (1)アメリカの戦略的前提一1949年夏まで

 ② 軍事外交戦略の見直し一水爆開発の決定

III. NSC-68の成立とその問題点

 (1)NSC-68の成立

 (2)NSC-68の内容とその問題点

むすび

はじめに

 冷戦史研究において、1950年は一つの転換点と

して記録されている。6月に発生した朝鮮戦争は、

その後の米ソ冷戦を著しく軍事的対立色の強いも

のにしたことは、研究者の間で概ね一致した見解

となっている。アメリカ合衆国(以下、アメリカ)

政府内の動きにっいても、すでに多くの研究によっ

て指摘されているように、同年4月に国家安全保

障会議文書第68号(NSC-68)がトルーマン

(Harry S. Truman)大統領に提出され、同年1

月の水爆開発決定と合わせて、アメリカの再軍備

を急速に進める端緒となった。この過程の中で注

目すべきことは、それまで対ソ連「封じ込め」政

策を立案していく中でほとんど常に大きな役割を

果たしていたジョージ・F・ケナン(George F.

Kennan)の影響力が全く低下してしまったこと

である。それのみならず、チャールズ・ボーレン

(Charles E. Bohlen)のような、国務省内のソ連

問題専門家の意見もまた十分顧みられなくなって

いたのであった。NSC-68は対ソ政策の基本文書

でありながら、ソ連専門家達の意見を反映してい

ない文書だったのである。その理由は、当時の国

務長官であったディーン・アチソン(Dean

Acheson)の唱えた「力の立場」の考え方の存在

にあった。そこで本稿では1949年春頃から1950

年4月のNSC-68の成立までの期間に焦点を合わ

せ、同文書とそこに反映されているとされるアチ

ソンの「力の立場」の考え方に見られる論理とそ

の問題点を内在的に解明していきたい。

 NSC-68にっいては、それがアメリカの冷戦外

交に関する最も重要な文書であることから、数多

くの先行業績があり、ここでそれらを全て概観す

ることは困難である。そこで最近の主要な研究と、

そこで示されている問題点に絞って従来の研究に

おける論点を示したい。大まかに言って、これま

での研究における論点は三っの点に絞られると考

えられる。一っは財政保守主義をとり軍事費の増

加を抑えようとしていたトルーマン大統領その他

の政府関係者の考えを、覆そうとする試みであっ

たということ1。第二は、同文書が示したソ連の

* 明治大学情報コミュニケーション学部専任准教授

1 Arnold A. Offner, Another Such Victory’President Trurnαnαn(i the Col(i LVαr,1945-1953(Stanford U. P.,

California,2002), pp.366-367;Melvyn P. Leffler, A Preponderαnce of Poωer’Nαtionαl Security, the Truman

Administrαtion,αnd the Cold Wαr(Stanford U P., California,1992)(hereafter, Leffler, Preponderαnce)pp.356-358;

S,Nelson Drew(ed.), NSO-68:Forging the Strategy of Contαinment(National Defense U. P., U. S. GPO,1994)

P.3.

19

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軍事能力が著しく誇張されたものであったという

こと2。第三にアメリカの戦略がグローバル化し

また軍事化したという批判である3。これらに対

して、NSC-68とその背景をなす「力の立場」の

考え方については、それらが国家戦略として、論

理的にどのような問題点を含んでいたかという視

点からは十分ぢ研究の蓄積がないように思われる。

また、これまでの研究によって、NSC-68の策定

に最も大きな影響を与えていたのは、アチソンと、

政策企画室の室長を務めていたポール・ニッッェ

(Paul Nitze)であることはよく知られている。

だが、アチソンやニッツェがどのような世界観や

経験知を持ち、それがどのような形でNSC-68に

反映され、そこにどのような問題があったのかに

っいては、十分な検証が行われていない。そこで

本稿では以下の二点に注目しながら、NSC-68の

背後にある戦略的な論理を解明し、同文書に見ら

れる問題点を探って行きたい。

 第一に、対ソ世界戦略のあり方に関わる問題点

である。J・L・ガディス(John Lewis Gaddis)

の研究によれば、ケナン本来の封じ込め戦略が地

理的優先順位を考慮した「重要拠点防衛戦略」で

あったのに対し、NSC-68は「防疫線防衛戦略」

であり、ソ連を取り囲む周回防疫線すべてを防御

しようとしたものだとされている4。そのような

戦略が採用された理由は何であったのか。

 第二に、アチソンが唱え、ニッッェがNSC-68

を作成することで裏付けをした「力の立場」とは

戦略的にどのような意味のあるものであったのか。

「力の立場」は意外と脆弱な面を持ち、その立場

に固執したアチソンは、結局ソ連と実質的な交渉

をせずに終わってしまう。なぜそうなったのかを

NSC-68で展開された論理を内在的に分析して明

らかにしたい。これら二点を主に『アメリカ合衆

国外交関係(Foreign Relαtions(’f the United

Stαtes)』などの外交文書を活用することで解明

していきたい。

1.アチソンとニッツェの世界観

〔1)アチソンの世界観

 アメリカのある研究は、アチソンを評して、

「ダウニング街十番地[英首相官邸]に居ても、フォ

ギー・ボトム[米国務省の所在地]に居るかのよう

に慣れ親しんで見えたことであろう」と述べてい

る5。事実アチソンは、親英的な態度で米政界に

知られていた。これは、一っにはアチソンの家庭

環境と教育環境から見て当然であった。ディーン・

アチソンの父親は、英国生まれの聖職者であり、

このことが彼の子弟に何らかの影響を与えたこと

は十分に想像できる。また母親はトロントの裕福

な家庭の出身であり、英国びいきであった6。ア

チソンが教育を受けたグロートン校は、イギリス

のパブリック・スクールをモデルとしており、イェー

ル大学でさえ、アチソンが在学していた二十世紀

2 Michael Hogan, A Cross of lron’Harry S Trurnαnαnd the Origins()f the Nαtional Security Stαte,1945-1954(

Cambridge U. P., Cambridge,1998)p.295.なおホーガンは他にも興味ある論点を提示しているが、それにっいてはまた別

に検討したい。佐々木卓也『封じ込めの形成と変容一ケナン、アチソン、ニッツェどトルーマン政権の冷戦戦略一』(三嶺

書房、1993年)209-210ページ。

3 佐々木、前掲書、207-208ページ。Leffler, Preponderαnce, pp.356-357,

4 John Lewis Gaddis, Strαtegies(’f Contαinment’、4 Criticαl Appraisα1(’f Arnericαn 1>αtionαl Security Policy during

the Cold Wαr(rev,&exp., ed.)(Oxford U.P., Oxford,2005Xhereafter, Gaddis, Strαtegies)pp.57-58, p.89.ガディス

の冷戦史研究は多いが、冷戦の通史としては河合秀和と筆者が翻訳した『冷戦:その歴史と問題点』(彩流社、2006年)があ

る。

5 Lawrence S. Kaplan,門Dean Acheson and the Atlantic Community,’I in Deαn Achesonαnd the Mαhing of U. S.

Forθign Polic),, ed, by Douglas Brinkley,(MacMillan,1993),(以下、 Kaplan,”Acheson,”と略)p.29.

6 Robert L. Beisner, Dean Acheson:ALife in the Cold VVαr(Oxford U. P.,2006)p.7.

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             レプリカ初頭にはオックスブリッジの「複製」であったと

言われる7。

 このような環境の中で成長し弁護士になったア

チソンの世界観が明白に表明されたのは、1930年

代末の危機の時代であった。アチソンは、1939年

11月にイェール大学で演説をしたが、そこで彼は

アメリカがヨーロッパの大戦に無関係ではいられ

ないこと、また空軍と海軍の援助を送るべきこと

を主張していた。アチソンは大西洋世界の文明が

危機に直面していると信じていたのである8。ド

イッのヨーロッパ支配を深く憂慮していたアチソ

ンにとって、求めるべき平和のモデルは、十九世

紀の、イギリスを中心にした世界であった。

 十九世紀のヨーロッパ諸国による帝国主義的拡

張と、イギリスの海軍力が、国際社会の安定と経

済成長をもたらしたというのがアチソンの歴史認

識であった。無論これは理想的な世界秩序ではな

かった。資本と製品が工業的中心から周辺へ流れ、

周辺からは天然資源と食糧が工業国へと流れて来

た。だが、これによって生活水準は前例のないほ

ど引き上げられた、というのがアチソンの認識で

あった9。唖然とするほどのヨーロッパ中心史観

であるが、この歴史観のなかで安定と繁栄の中心

であったとされたのが他ならぬイギリスであった

のである。だが第一次世界大戦と大恐慌は、この

国際秩序を破壊してしまった10。まさにこれこそ

が、アチソンの言う大西洋文明の危機なのであっ

た。この危機の克服は、アメリカが世界の政治経

済に積極的に関与することによってのみ可能とな

るであろう。第二次世界大戦初期のアチソンは、

「米英の平和(Pax Anglo-Americana)」を回復

させることによって、世界の安定と繁栄がもたら

されると考えていたのである11。

 このような歴史観と国際秩序観を持っていたア

チソンにとって、経済問題担当国務次官補

(Assistant Secretary of State for Economic

Affairs)への就任は願ってもないことであった

はずである12。1941年1月以来、アチソンはこの

職務に励み、その力量を遺憾なく発揮した。アチ

ソンにとっては、ナチス・ドイッの「新秩序」も

日本帝国の「共栄圏」も、自給自足的経済体制の

確立をあざすものであり、アメリカとして受け入

れられないものであった。ドイッと日本に対処す

るたあの施策を実施しっっ、アチソンが獲得した

認識は、経済力と技術力が権力、とりわけ軍事力

を強化するのだという観念であった13。ドイッと

日本によるアウタルキーの発展は、これら二国に

工業力と技術力を集中させ、それらと人的資源が

結合することによって、アメリカの安全が脅かさ

れると考えたのであった。

 戦争の帰趨が明らかになりっっあった1944年、

アチソンは国際組織と議会対策を任されることに

なったが、彼の世界観は変わることがなかった。

アチソンはブレトン・ウッズ協定の策定に力を注

7 Kaplan,”Acheson,”p.30.なおカプランは、英国的文化の影響を受けたことがアチソンの政治行動を支配したわけではな

 いと主張している。

8  1bid., p.30.

9 Melvyn P. Leffler,”Negotiating from Strength:Acheson, the Russians, and American Power,”in Deαn Acheson

αnd the Mαhing of U. S. Foreign PolicJ,, ed. by Douglas Brinkley,(MacMillan,1993),(以下、 Leffler,”Strength,”と

略)p.178.

10 Jbi(オ., p.178.

11 Kaplan,”Acheson,”p.30.

12 Leffler,”Strength,「’p.180.

13 1bid., p.179.

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ぎ、戦後世界における自由な国際経済体制の確立

に取り組んだ14。この意味で、アチソンもまた他

の政策立案者たちと同様に、ウィルソン主義者で

あったと言えるであろう。しかし、彼が力の観念

を維持し続けたと思われる点は、他のウィルソン

主義者と異なっている。

 第二次世界大戦後しばらくすると、ソ連がかっ

てのドイツや日本と同様に、自由な国際経済体制

の敵であることが明らかになってきた。1945年8

月に、アチソンは国務次官となっていたが、徐々

にソ連への警戒心を強めていく。クレムリンが対

独戦の結果占領した東欧諸国と二国間経済協定を

結び、アウタルキー的な国際経済体制をユーラシ

ア大陸で築こうとしているかのように見えたので

ある。アチソンは1947年半ばまで国務次官の職

に留まるが、その間、ギリシア・トルコ援助

(「トルーマン・ドクトリン」)の立案や、マーシャ

ル・プラン立案の初期段階で重要な役割を果たし

た15。そして、1949年1月、アチソンが国務長官

として国務省に復帰した時、米ソ冷戦はすでに明

白な現実として彼の前に立ち現われていたのであ

る。後に彼は自らの回顧録に『創造に立ち会って

(Present at the Creαtion)』という標題をっけ

るが、アチソンが立ち会ったのは、まさに「アメ

リカの平和」の創造であった。いまやアメリカは、

十九世紀のイギリスが果たしていたような、国際

秩序の安定と世界の繁栄の中心としての役割を担

わなければならなかった。そして、工業力と技術

力が強力な軍事力の基盤となるのであれば、アメ

リカこそ最も強力な軍事力を発展させ保有するこ

とのできる唯一の国家であったのである。

(2)ニッツェの経歴と核兵器

 ポール・ニッツェの祖父はドイツ生まれであっ

た。また彼の両親もドイッの知的な伝統と文化に

深く親しんでいた。第一次世界大戦が勃発したと

き、ニッツェの家族は偶然ドイッに滞在していた

が、当時7歳の少年であったニッッェは、ミュン

ヘンのホテルの窓から兵士達が前線に向けて出発

するのを眺めていたという16。ニッツェの父親は

シカゴ大学教授で、アメリカを代表する言語学者

であった。だがニッツェは学問の道を選ばず、ハー

ヴァード大学を卒業するとディロン・リード商会

に入り、ウォール街の人となった。ディロン・リー

ドでは、当時副社長を務めていたジェームズ・フォ

レスタル(James Forrestal)の知遇を得ている17。

フォレスタルは後に海軍長官となり、第二次大戦

後には初代の国防長官に就任することになる。

1940年6月、F・D・ルーズヴェルト(Franklin

D.Roosevelt)大統領が当時ディロン・リード商

会の社長になっていたフォレスタルに対し政府に

参画するよう求め、フォレスタルはこれに応えた

のだった。その時までにニッツェと親しくなって

いたフォレスタルは、ニッツェを自分と一緒に政

府の職にっけようとしてニッッェを呼び寄せた。

「月曜日の朝にはワシントンに居るように18」とい

う電報を出先で受け取ったニッツェは、これ以後、

長い公職の道を歩むことになる。

 ニッツェは、既にウォール街で若手の投資銀行

家として名声を得ていただけに、国務省に入った

14 ∫bid., p.180.

151bid., p.183.またアチソンの回顧録も参照のこと。 Dean Acheson, Present at the Creαtion:My Yeαrs in the Stαte

Depαrtnzent(Norton, New York,1969).

16 Nicholas Thompson, The Hαwhαnd the Dove’Pαul Nitge, George Kennαn,αnd the History(’f the Cold VVαr

(Henry Holt and Company, New York,2009), p.12.

17 1bid., p.27, pp.37-38,

18 1bid., p.38.

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後も経済問題を担当することが多かった。第二次

大戦中は、南アメリカから戦略的に重要な天然資

源を獲得するための業務についていた19。一方、

この世界大戦は、その後のニッツェの経歴に大き

な影響を与える転換点をもたらしていたのである。

1944年秋、ニッッェは戦略爆撃調査団の一員とな

り、アメリカの戦略爆撃がナチス・ドイッの戦時

経済にどのような影響を与えたかを調査すること

になったのであった。少年期にドイッ語を覚え、

成長してからもしばしばドイッを訪れていたニッ

ツェにとって、ドイッでの仕事はうってつけであっ

た。ニッッェは、爆撃の効果を測定するために敗

戦直後のドイッを歩き回った。それと同時に関係

者からの聞き取り調査も行ったが、その中にはア

ルベルト・シュペーア(Albert Speer)もいた。

シュペーアは軍需相としてドイッの戦時経済を運

営した有能な人物であり、米英の戦略爆撃が続く

中で驚異的な努力によりドイッの工業生産力を維

持した実績を持っていた。シュペーアがヒトラー

のために働いたのは明白な誤りであったが、ニッ

ツェにとっては貴重な情報源であった。ニッッェ

はシュペーアからの聞き取り調査によって、アメ

リカが実施した戦略爆撃に一定の限界があったこ

とを知るようになる20。

 確かにドイッにおける戦略爆撃の被害は、広島

と長崎における被害に比べれば、「限定的」と表

現しないわけにはいかなかった。ニッッェはドイ

ッでの調査を終えた後、やはり戦略爆撃調査団の

一員として日本にやって来ていた。ニッツェは日

本の自然の美しさに感嘆しながらも、「真珠湾」

や「カミカゼ」によってアメリカ人に被害を与え

た日本人に対する嫌悪感を捨て切れずにいた。ド

イツの場合と同様、日本の旧指導者たちから聞き

取り調査をしたが、その中には近衛文麿も含まれ

ていた21。しかし、言うまでもなく、ニッツェに

最も強い印象を与え、後の経歴にも深く関係する

体験は、広島と長崎での原爆被害調査であった。

どちらの町も大きな被害を受けていたため、ニッ

ッェを含む調査チームは市内に宿泊施設を設定す

ることができず、沖合に浮かべた船舶に仮泊する

ことを余儀なくされたのであった22。

 1946年夏にニッッェたちの報告書が公表された

が、そこでは意外にも、原爆の威力に限界がある

ことが強調されていた。特にニッツェは、長崎で

鉄道の復旧が早かったことや、どちらの町でも補

強されたコンクリートでできた建築物が倒壊を免

れたことなどを指摘しており、原爆といえども単

に新しい別種の、普通の爆弾でしかなかった。し

かし、調査報告書での冷めた表現とは裏腹に、自

分が直接目で見て体験した悲惨な状況にっいて、

ニッツェは強い衝撃を受けていたようである。い

ま本稿でも利用している『タカ派とハト派』の著

者であるニコラス・トンプソンはニッッェの孫で

あるが、同書の中で自分の体験を書いている。そ

れによれば、ニッツェは広島や長崎で見た光景を、

ほとんど他人に語らなかったという。そして高齢

になるにしたがって、その時の恐怖の記憶がふく

らみ、直近の出来事に対する意識が薄れてきてか

らでも、その時の光景にっいて語ることがあった

というのである23。公的生活では原爆の威力の限

界を指摘し、理性と精神力で内面の心理的ショッ

クを抑えてはいたが、家族だけが知る私的生活に

おいて、ニッツェはその心理的深層に強い衝撃を

受けたことを吐露していたということができるで

19 1bi(i., p.12.

20  1bid., pp.13-15.

21 1~)id., p.45.

22 1うi(オ.,p.46.

23 1bi(i., p.47.

23

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あろう。潜在意識に深く刻まれた核兵器への恐怖

が、冷戦時代の戦略家としての活動の源泉になっ

ていたとしても不思議ではない。1946年末、ニッ

ツェは国務省に戻り、国際貿易政策局(Office of

Intemational Trade Policy)に入って経済政策

の面からアメリカの冷戦外交を支えるようにな

る24。

H.冷戦初期アメリカの戦略的前提とソ連

 の原爆

(1)アメリカの戦略的前提一1949年夏まで

 1947年3月に、トルーマン・ドクトリンの宣明

により開始されたアメリカの冷戦外交は、同年6

月のマーシャル・プランの呼びかけと、1949年4

月の北大西洋条約の締結に至って一定の成果をあ

げたと考えられていた。「封じ込め」政策の立案

者であったケナンも、1949年3月には、マーシャ

ル・プランの効果によって、西ヨーロッパ諸国を

共産主義から守るという目的が達成されたと述べ、

次の段階におけるアメリカの目的として、東ヨー

ロッパからソ連権力を排除することを掲げていた

ほどであった25。同月には国家安全保障会議事務

局が、その前年に承認された国家安全保障会議文

書第20/4号(NSC-20/4)と同時並行的に進めて

いた作業を完成させ、NSC-20/4で定められた対

ソ政策目的実現のたあの具体的な方策にっいて報

告書を提出していた。同報告書は、現有戦力と即

           イソテグリティ応戦力によって西半球の統一を守り、攻勢戦略

のために必要になる海外基地の確保を重視してい

た。また対ソ戦勃発の場合には、可及的速やかに

ソ連に対して戦略的航空攻撃を実施して、ソ連の

戦争遂行能力の弱体化をめざすこととされていた。

だが同時に政治経済的手段も重視され、心理的戦

争も行うことになっていた26。っまり、アメリカ

が核を独占している限り、軍事的には戦略爆撃能

力を維持しておくだけで十分であり、それを背景

にした政治・経済・心理的手段でソ連を封じ込め

ることが可能であると判断されていたのである。

 こうした情勢判断を受けて、また不況回避のた

めもあって、トルーマン大統領は、1949年7月に

国防費の上限を150億ドルから130億ドルまで、

さらに引き下げる決定を行った。トルーマンは第

二次大戦終結直後から、均衡予算の達成と国債の

削減を基本目標にしていたのである27。

 こうした中で、ソ連の原爆実験(9月)と「中

国の喪失」(10月)がほとんど同時期に発生した

ことは、アメリカの政策立案者たちに新たな危機

感をもたらすことになった。1948年には、ユーゴ

スラヴィアがソ連陣営を離脱したが、中国の共産

化はそれを相殺するどころか一層大きな影響を国

際社会に与えると考えられたのである。またソ連

が予想より早く原爆実験に成功したことも、アメ

リカにとって衝撃であった。

 アチソンは、1949年1月に国務長官となるが、

就任から1年も経たないうちに新たな状況に直面

したわけである。アチソンの関心は、当初ヨーロッ

24乃‘d,,p.69.なおニッツェの回想録として次のものがある。 Paul H. Nitze, with Ann Smith and Steven Rearden, From

Hiroshimαto Glαsnost’At the Center()f Decision-A Memoir(Grove Weidenfeld, New York,1989).

25Record of the 36th Meeting, Policy Planning Staff, Department of State, March 1,1949,3:30 p. m. to 4:40 p. m.,

 Foreign Relαtions(ゾthe United Stαtes(hereafter cited as FRUS)1949, Vol. V,(U. S. GPO,1976)p.9.

26 Draft Report by the National Security Council Staff, March 30,1949,”Measures Required to Achieve U. S.

 Objectives with Respect to the USSR,”FIR US,1949, VoL I, pp.271-276.

27 Steven L. Rearden,’IFrustrating七he Kremlin Design:Acheson and NSC 68,’1 in Deαn Achesonαnd the Mαhing(’f

 U.S. Foreign Policy, ed, by Douglas Brinkley,(MacMillan,1993),(以下、 Rearden,”Kremlin Design,”と略)p161, p.

 164.

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パに向けられていた。就任後の4月には北大西洋

条約が成立していたからである。またケナンは、

国務長官に就任直前のアチソンに私信を送り、ド

イッ問題の重要性を訴えていた28。アチソンは当

初、ケナンが提案したドイッにおける占領軍の兵

力引き離し構想に強い関心を示したが、西ヨーロッ

パ諸国との接触を重ねるうちに、その構想の実現

に懐疑的となった29。ドイッ問題への対応をめぐっ

てアチソンと異なる見解を持っことになったケナ

ンは、1949年末をもって政策企画室長の職を退く

ことになる。そして、ケナンが自らの後任として

選んだのがニッッェであった。ニッツェは、かっ

てアチソンから「ウォール街の輩」として重視さ

れなかったが、この時はケナンの推薦が受け入れ

られたのであった。後にアチソンは、ニッッェを

「99%まで自分と同じ考えを持っている」と言っ

て重用することになる30。

 ニッッェは、マーシャル・プランを実施する過

程で、経済問題の専門家としてケナンとともに作

業し、ケナンから高く評価されるようになってい

た。ニッッェが政策企画室長になるのは1950年1

月であるが、1949年の末から次期室長として事実

上活動を始めていた。経済問題担当として頭角を

現したニッツェであったが、彼にとってソ連の原

爆実験成功の情報は極めて深刻なものであったと

思われる。戦略爆撃調査団の一員として、広島と

長崎の惨状を直接体験したニッツェは、アメリカ

の都市に原爆が投下された時の状況をありありと

その眼前に想像できたに違いない。ニッツェはア

メリカに対するソ連の原爆攻撃をなんとか阻止し

たいと強く念じたはずである。現実にソ連が原爆

を手にしてしまった今、アメリカはそれへの対抗

策を考えなければならなかった。ニッッェは政策

企画室長として、全力を挙げてこの問題に取り組

む決意であった。

② 軍事外交戦略の見直し一水爆開発の決定

 核の独占状態が崩れたことは、アメリカが重大

な戦略的分岐点に到達したことを意味した。アメ

リカが選択すべき一っの方向は、あくまで核の優

位を維持することに努め、原爆の保有量を増加さ

せたり、さらに強力な水爆の開発に進むことであっ

た。他の一っは、ソ連と外交交渉をすることによっ

て核兵器の開発や保有を規制し、それによってア

メリカの安全を確保するという方向である。「封

じ込め」の提唱者であったケナンは、ソ連が自国

の国益が守れれば外交交渉に応じる合理的な交渉

相手であると考え、原子力の国際管理の可能性を

試してみるべきだと主張した31。だが、アメリカ

の外交・軍事当局者の多くは、前者、すなわち核

兵器の増強によってアメリカの優位を維持し、そ

れによって自国と同盟国の安全を確保して国際秩

序の安定を図るという方向を選択していく。

 アチソンは、1949年秋に、この水爆開発問題が

持ち上がったとき、当初はケナンを中心とする政

策企画室の作業を重視し、開発の一時停止を考え

たこともあった32。1946年に彼は「アチソン=リ

リエンソール報告」を出し、原子力の国際管理を

唱えたことがあったからである。アチソンはジョ

ンソン(Louis A. Johnson)国防長官、リリエ

28Wilson D. Miscamble, George F. Kennαn and the Mαhing(ゾ.4mθrlcαπForeign Policy,1947-1950(Princeton U. P.,

 1992),p.159, fn 70.

29拙稿「ケナンのr封じ込め』構想とドイッ問題一分割か統一か1946年一1949年」、「中・四国アメリカ研究』第2号、2005

 年(中・四国アメリカ学会)20-26ページ。

30 James Chase, Acheson’The SecretαT y of Stαteωho creαted the Anzericαn VVorld(Simon&Schuster, New York,

 1998)pp.272-273;Rearden,”Kremlin Design,’1 p.163,

31拙著『「封じ込め」構想と米国世界戦略一ジョージ・F・ケナンの思想と行動、1929~1952年』(渓水社、2002)第8章。

32 同上書、222-227ページ。

25

Page 8: アメリ力冷戦外交における「力の立場」の論理とそ …...である。J・L・ガディス(John Lewis Gaddis) の研究によれば、ケナン本来の封じ込め戦略が地

ンソール(David Lilienthal)原子力委員会議長

とともに、水爆開発問題にっいて検討するよう大

統領命令を受けていたが、当初は慎重な態度を示

していた。しかし、アチソンの慎重さは、道義的

問題を考慮したゆえではなく、外交的軍事的に水

爆がどこまで必要かつ有効かを見極ある姿勢から

出たものであった。したがって、その戦略的必要

性や有効性がある程度まで認識されると、水爆の

保有へ進むことを是認する論理構造を持っていた

のである33。

 一方、軍の内部でも核戦力を増強する必要性が

強く認識されるようになっていた。すでにこの節

の冒頭でも述べたように、1949年までのアメリカ

軍事戦略は、核の独占を前提にし、ソ連に対する

戦略爆撃能力を持っことで、ソ連を抑止する戦略

になっていた。こうした戦略に立脚しているから

には、実際にアメリカのソ連に対する空軍力がど

の程度有効であるかを確認することは必要不可欠

であった。すでに1949年4月、統合参謀本部は

ソ連に対する原爆攻撃の効果や戦略空軍の爆撃能

力を分析する作業に着手していた。そのひとつで

あるハーモン委員会は、同年5月には報告書を提

出し、アメリカ空軍による原爆使用を含めた戦略

爆撃のみによってソ連を敗北に導くことは困難で

あることを指摘していたのであった。同委員会に

よれば、戦略爆撃によってソ連の工業力をある程

度減少させることは可能だが、西欧、申東、極東

における戦略的重要地域に対するソ連地上軍の侵

攻を防止することは不可能であるとされていたの

である34。また、ハーモン委員会と同様の分析作

業を進めるよう命じられていた兵器体系評価団

(Weapons Systems Evaluation Group:WSEG)

による研究は、さらに一層悲観的な予測を示して

いた。このWSEGは、1950年1月になってから

報告書を提出することになる。

 1949年10月半ばに、トルーマン大統領は軍の

原爆備蓄増加の要求を承認したが、これは時系列

的に見ればソ連の原爆開発や中国における共産党

政権の成立に対応しているかのようである。だが

それはあくまで表面的な対応関係であるにすぎな

い。この核戦力の増強は、ハーモン委員会報告や

WSEGの作業の影響を受けたものであり、政府内

の検討作業の結果として行われたものであった35。

その証拠に、ソ連の原爆実験と中共政権成立の後、

アメリカ政府内では原爆の製造拡大ではなく、水

爆開発問題が急浮上してきたことが指摘できる。

それまでの対ソ作戦の前提であった核独占下の原

爆攻撃能力が不十分であるという認識に加えて、

ソ連の原爆に対抗するための水爆開発が最重要課

題となったのである。

 WSEGの調査結果にっいては、1950年1月23           ブリ-フィング日にホワイト・ハウスで概要報告が行われた。ト

ルーマン、アチソン、ジョンソン国防長官をはじ

めとする関係者高官が出席していた。そして、こ

こでもまたソ連に対するアメリカ空軍の戦略爆撃

能力の限界が指摘されていたのである。出撃した

爆撃機のうちソ連の目標上空に到達できるのは70

-80%であるとされたが、帰還できるのはそのう

ちの50-75%であるとされた。っまり、最も楽観

的な推定値で計算した場合でも、アメリカ空軍は

1回の出撃で3割から4割の爆撃機を失うことに

なるのであった。ソ連の工業能力はかなりの程度

減殺される見通しであったが、それが決定的なも

のと判断できるか否かは結論が出ないままであっ

た36。

 この概要報告が、トルーマンによる水爆開発決

33 同上書、222-233ページ。

34 同上書、194ページ。

35 同上書、194-195ページ。

36 Rearden,「Kremlin Design,「「p.165.

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Page 9: アメリ力冷戦外交における「力の立場」の論理とそ …...である。J・L・ガディス(John Lewis Gaddis) の研究によれば、ケナン本来の封じ込め戦略が地

定のわずか1週間前に行われたということは見逃

せない事実であり、トルーマンに一定の危機感を

与えていたとしても不思議ではない。また国防省

関係者だけでなく、国務長官のアチソンもWSEG

の報告内容を知っていたという点にも注意する必

要がある。ソ連の原爆開発に対抗措置を取ろうと

していた政府高官たちは、同時に自国の戦略核能

力に限界があることを認識していたわけであり、

より強力な兵器を獲得しようとする強い傾向を共

有していたのである。

 1950年1月31日、トルーマンは国民向け声明

を出し、アメリカが水爆開発に進むことを明らか

にした。トルーマンが声明を出す直前、彼自身に

よって任命された国家安全保障会議特別委員会を

構成するアチソン、ジョンソン、リリエンソール

は揃ってホワイト・ハウスを訪れ、それまで彼ら

が進めていた水爆開発問題に関する作業について

報告をしたが、トルーマンは既に水爆開発に進む

決心をしていたようである。アチソンらが提出し

た報告書にっいて十分検討することもなく、トルー

マンは開発を決定した。会議はわずか10分足ら

ずで終了したと言われている37。

 トルーマンが、この報告書を読んだのかどうか

は不明であるが、報告書は水爆開発を肯定的に評

価する認識を示していた。「熱核兵器の開発

(Development of Thermonuclear Weapons)」

と題されたこの報告書は、「4万キロトン」の水爆

と「40キロトン」の原爆の効果を比較し、「スー

パー[水爆のこと]」の爆風が損害を与える地域が

原爆のそれの50倍よりも大きく、熱線が影響を

与える地域に至っては60-170倍に及ぶことを指

摘している38。したがって、1発の「スーパー」

は、原子爆弾10-50発に相当し、原爆によって

は十分破壊されない可能性のある戦略目標を破壊

することができるとされていた39。興味深い点は、

この時点においては水爆の運搬手段が存在してい

ないことが指摘されていたことである。「超音速

の無人機(asupersonic unmanned vehicle)」

がやがて必要になるであろうと、報告書は予想し

ている40。水素爆弾の破壊力はあまりに大きいた

め、従来のように有人爆撃機による自然投下では、

その爆撃機まで破壊されてしまうのである。

 このように巨大な破壊力を持っ水爆をソ連だけ

が保有するという状況を、アメリカは受け入れら

れないと報告書は主張していた。もしそのような

場合には、アメリカ国民に重大な士気の阻喪をも

               ブラックメイルたらすだけでなく、ソ連による「脅迫」の可能

性は、ソ連がその意思をヨーロッパ諸国に押し付

けることを可能にし、西側陣営からヨーロッパ諸

国を遠ざけることにもなるというのである。一方、

アメリカだけが水爆を保有する状況になれば、心

理的に好ましいだけでなく、戦争に対する抑止力

として作用するかもしれなかった。また戦争にお

いて重要な要素である兵力の集中を妨げ、奇襲の

価値も最大限まで活用できることになる。この点

は、敵としてのソ連を考えるとき、極めて重要で

あった。っまり水爆は、ソ連の最も強力な源泉で

ある「量の活用(employment of mass)」を放

37鈴木、前掲書、264-265ページ;イーブン・A・エァーズ(ロバート・H・ファレル編)『ホワイトハウス日記1945-1950:

 トルーマン大統領とともに』(宇佐美滋、木村卓司、寺地功次、橋本美智子訳)(平凡社、1993年)の1950年2月4日の項に、

 トルーマンが次のように言ったと記録されている。「われわれはやらねばならない。誰もそれを使いたがりはしないが、[水素]

 爆弾を作らねばならない。われわれはどうしてもそれを保有せねばならないのだ。たとえそれがロシア人と取引する目的のた

 めだけであるとしても」(532ページ)。

38 Report by the Special Committee of the National Security Council to the President, January 31,1950,

 1「Development of Thermonuclear Weapons,”FRUS,1950, Vol.1, p.519.

39 1bid., p.520.

40  Jbid., p.520.

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Page 10: アメリ力冷戦外交における「力の立場」の論理とそ …...である。J・L・ガディス(John Lewis Gaddis) の研究によれば、ケナン本来の封じ込め戦略が地

棄させる力を持っていると考えられたからである。

またさらに、敵による原爆攻撃に対する唯一の効

果的な防御は、水爆によって敵の「原爆空軍基地

(enemy atomic air bases)」を破壊するところ

にあるかもしれないと主張されてもいた41。

 原子力の国際管理にっいては、十分な管理がさ

らに難しくなり、管理協定の違反がより重大にな

るとして消極的であった42。またアメリカ側が一

方的に熱核兵器の開発を自制したとしても、その

ことで他国が同種の兵器の開発を思いとどまるこ

とはないとの予想が述べられており、やはり消極

的であった43。

 以上のような内容を持っ報告書の基本的立場は、

「全面的な」開発計画ではなく、熱核兵器の「技

術的実現性(technical feasibility)」を評価する

ことであったが、トルーマンがこの報告書を慎重

に読んでいたとしても、彼が下した決定に変わり

はなかったと思われる。

皿.NSC-68の成立とその問題点

(1)NSC-68の成立

 既によく知られているように、トルーマン大統

領は水爆開発の決定を下すと同時に、アチソン国

務長官とジョンソン国防長官に対して国家戦略全

般の見直しを命じ、この見直し作業が国家安全保

障会議文書第68号(NSC-68)となって結実する

ことになる。この見直し作業は、ソ連側の原爆能

力と将来の水爆開発を考慮して進められることに

なっており、まこうかたなく、核時代に入って初

めての国家戦略の見直しであった44。つまり、米

ソがともに核兵器を保有している状況を前提にし

て検討作業が進められたのである。

 国務省でこの作業の中心となったのが政策企画

室とその室長であるニッッェであったが、ニッッェ

はアチソンと連絡を取りっっ見直し作業を進めた。

アチソンは1週間のうち数回、ニッッェらをふく

めた国務省幹部と定例の会合を持ち意見交換をし

ていたので45、両者の間には十分な意思の疎通が

あったと思われる。また国防省側の担当者とも調

整しながら作業を進めたようである。

 この作業は、当初からソ連に対する強い警戒感

によって支配されていた。1950年2月2日、っま

りトルーマンの指示が出てから二日後に行われた

政策企画室の会議では、戦争の可能性が前年秋の

時点より高まっていることが指摘されていた。ク

レムリンの強硬な態度を示す数多くの兆候が表れ

ているばかりでなく、統合参謀本部の非公式見解

として、ソ連は突然大規模攻撃を開始することが

可能であるという評価も紹介されていた。この会

議は政策企画室が、近い将来における戦争発生のプロバビリティ

可能性を分析する報告を準備すると決めて終わっ

ていた46。

 この会議の六日後には、「最近のソ連の動向

(Recent Soviet Moves)」と題したニッッェ自身

による研究がまとめられた。ニッッェは1946年

のスターリンの選挙演説を、ソ連からの公然たる

敵対宣言であったと見倣し、ソ連は状況に応じて

成功の見込みの高い策略や手段を使うと主張した。

41 1bid., pp.520-522.

42 1bidL, p.523.

43 Jbid,, p.518.なお報告書のこの主張は正しかった。ソ連の核兵器開発の歴史を振り返ると、同国の科学者は原爆開発を進

 める中で早くから水爆の可能性に気付き、開発に着手していたからである。(David Holloway, Stαlinαnd the Bomb:The

 Soviet Unionαnd Atornic Energy,1939-1956(Yale U. P.,1994)pp.295-299)。もしこの時点でアメリカが水爆開発を自

 制していた場合には、ソ連のほうが先に保有していた可能性がある。

44 The President to the Secretary of State, January 31,1950, FRUS,1950, Vo1.1, pp.141-142.

45 Jbid., p.142, fn 12.

46  1bid,, pp.142-143.

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Page 11: アメリ力冷戦外交における「力の立場」の論理とそ …...である。J・L・ガディス(John Lewis Gaddis) の研究によれば、ケナン本来の封じ込め戦略が地

そしてこの観点から、ソ連が「軍事的侵攻」と非

武力的手段とを明確に分けて考えていると仮定す

る理由がないと訴えていた。無論、ソ連が西側に

対する全面戦争を準備しているような動きはみえ

ないが、地域紛争で軍事力を使用する意欲は高まっ

ているように思えると、ニッッェは主張した。地

域的武力紛争は、偶発的に全面戦争へと発展する

かもしれなかった。しかもソ連側は、全体的に自

信を持って行動するようになっていると言うので

あった。この自信の背景としては、原爆保有だけ

でなく、生産力が戦前水準に回復したことや、東

ヨーロッパ諸国に対する支配力の強化が進んでい

ることなどが考えられた。だがさらに重要なのは、

クレムリンの指導者たちが社会主義実現に向けて

の信念を持っており、自分たちが将来へ向けて歴

史の波に乗っていると考えていることであった。

ソ連は中国での支配権を強化するばかりでなく、

東南アジアとりわけインドシナへ進出してくる可

能性が出て来たのであり、ベルリン、オーストリ

ァ、朝鮮も危険であった47。

 このような危機感を持ったニッツェらの作業は

急速にすすめられ、2月下旬にはおおよその草稿

ができ上がったようである48。一応の草稿ができ

上がると、ニッツェは政府外部の有識者を選び、2

月末から3月末にかけて次々と面接して草稿への

意見を求めた。この中には、原爆開発の中心人物

であったロバート・オッペンハイマー(J.

Robert Oppenheimer)(プリンストン大学)、前

国務次官であったロバート・ロヴェット(Robert

A.Lovett)、またジェームズ・コナント(James

B.Conant)(ハーヴァード大学学長、アメリカ

原子力委員会一般諮問委員会委員)などがいた。

これらの人々とニッッェらの政策立案者との会見

記録は、『アメリカ合衆国外交関係』に掲載され

ているが49、実際ニッツェらの作業にどこまで影

響を与えたのかは明らかでない。

 こうした外部の有識者からの意見聴取とは別に、

ニッツェ達の作業には二っの、しかも正反対のベ

クトルを持った圧力がかかってきた。一っは国務

省内部のソ連問題専門家からの反対意見であり、

他の一っはアメリカ議会の議員たち、および彼ら

と会見したアチソンからの肯定的な支援である。

 国務省内部からの反対意見は、ニッツェの前任

者であり、ソ連「封じ込め」の最初の提唱者であっ

たジョージ・ケナンからのものである。政策企画

室長を退いた後、参事官(Counselor)となって

いたケナンは、かってほどの影響力を持ってはい

なかったが、当時の国務省においては依然として

数少ないソ連問題の専門家であった。ケナンは、

ニッツェ達の作業が自分の考えとは異なっている

ことを認識したためか、2月17日に覚書を提出し、

「冷戦」が突如として西側に不利になったという

印象を正当化するものはほとんどないと主張した。

ソ連の原爆開発にしても、それは既に織り込み済

みの出来事であり、新たに根本的変化をもたらす

ものではなかった。ソ連は依然として政治的手段

によって自国権力の拡大を図っており、西欧に軍

事侵攻する意図は持っていない、というのがケナ

ンの判断であった。ケナンから見れば、急速に高

まっている危機感はアメリカが「自ら作り上げた

もの」であり、第二次大戦後に形成された基本的

状況は本質的に変化していないというのである。

47 Study Prepared by the Director of the Policy Planning Staff(Nitze), February 8,1950,”Recent Soviet Movesノ’

 朋σS,1950,Vol.1, pp.145-147.

48 Memorandum by the Deputy Under Secretary of State(Rusk)to the Director of the Policy Planning Staff

 (Nitze), February 23,1950, FRUS,1950, VoL I, pp.167-168.

49 FRUS,1950, VoL I, pp.168-175, pp.176-182, pp.190-195, pp.196-199, pp.200-201.

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そして、もしアメリカが今後5年から10年にわ

たって平和を維持できれば、共産主義からの圧力

が弱まり、世界はより安定した、安全な国際秩序

へと移行できるはずであると、ニッツェ達とはまっ

たく異なる見通しを述べていたのであった50。

 ケナンの提出した覚書は、ニッツェを中心にし

て進められていた国務・国防両省共同の作業の前

提となる現状認識を鋭く批判したものであった。

ニッツェ達は、ソ連の軍事的脅威を強調していた

が、ケナンはソ連の脅威をもっぱら「外部からの」

軍事的なものとして捉えることはできないと主張

していたのである。ケナンの認識によれば、共産

主義はアメリカを始あとする自分たちの文明の危

機として、「内部から」現れて来ているからであ

る。したがって、直接的な軍事的対応がある程度

は必要であるとしても、主要な対抗策は西側自身

の政治的経済的諸制度の弱点を克服することにあ

るはずであった51。だが、中国の共産化やソ連の

原爆保有に直面して、危機感をっのらせていた政

府高官たちにとって、ソ連の脅威を文明の危機と

して捉えることは、たとえそれが分析として正鵠

を射たものであったとしても、あまりにアカデミッ

クであった。自分たちの目前に迫っていると思わ

れた危機に対応しようとするとき、政策は具体的

で直接的でなければならなかった。そして軍事力

の強化こそが、具体性と直接性を備えているよう

に思われたのである。

 ケナンは、以上のような批判的な覚書を提出し

た後、ラテン・アメリカへ調査旅行に出発し、し

ばらくワシントンの政策形成過程から離れること

になる。だがケナンの批判とは別に、3月の末か

ら4月の初めにかけて、ニッツェ達の作業に対す

る新たな批判が現れた。それはケナン同様、当時

の数少ないソ連問題の専門家であったチャールズ・

ボーレンからのものであった。ボーレンは1947

年から49年まで参事官を務めた後、公使として

パリの駐仏大使館に転出していたが、ニッツェ達

の作業に加わるべく一時ワシントンに帰任したの

である。なおボーレンの回顧録は、ボーレンがニッ

ッェ達の作業のことを知ってはいたが、1951年に

帰任するまで作業結果であるNSC-68を研究しな

かったとしている52。だがこれは、ボーレンの記

憶の誤りか意識的な虚偽である。『アメリカ合衆

国外交関係』には、ボーレンがこの作業に加わる

ため1950年の3月下旬に一時帰任したこと、お

よび4月5日付のボーレンからニッッェあての覚

書が掲載されているからである53。回顧録の出版

が1973年であることから、当時の政治状況を考

慮したボーレンが作為したのではないかと思われ

る。

 そしてまさにこの4月5日付の覚書において、

ボーレンはニッツェ達の作業に対する批判を展開

していた。ボーレンはNSC-68の草案が、ソ連の

根本的目的を世界の支配であるとしている点に疑

問を提起したのである。ソ連の目的をそのような

ものとして把握することは、過度の単純化であり、

また必然的に戦争が不可避であると結論付けるこ

とになってしまうというのである。ソ連の指導者

50Draft Memor呂ndum by the Counselor(Kennan)to the Secretary of State, February 17,1950, FRUS,1950, Vol.1,

 pp.160-163.

51 1bid., p.164.

52Charles E. Bohlen, Witness to History,1929一ヱ969(W. W. Norton&Company, New York,1973)p.290.

53Memorandum by Mr. Charles E. Bohlen to the Director of the Policy Planning Staff(Nitze), Apri15,1950,”Draft

 State-Defense Staff Study Pursuant to the President「s Directive of January 31,1950,”FRUS,1950, Vol.1, pp.221-

 225,especially p.221, fn 1;鈴木もこのボーレンの覚書を国立公文書館新館(National Archives, College Park)で見る

 ことができた。RG 59 Records of Department of State, Records of Policy Planning Staff, Lot 64 D 563, Box 55, File,

 NSC 68 and 114.

30

Page 13: アメリ力冷戦外交における「力の立場」の論理とそ …...である。J・L・ガディス(John Lewis Gaddis) の研究によれば、ケナン本来の封じ込め戦略が地

たちの根本目的は彼らの体制を維持することであ

り、また国内体制に深刻な危険を及ぼさない限り

においてのみ、社会主義体制を輸出することであ

ると、ボーレンは主張していた。また、冷戦にお

いて必要な軍事力と、実際の武力対決の際に必要

とされる軍事的必要物を明確に区別していない点

も、問題点として指摘していた。原爆にっいても、

アメリカが独占している間は、抑止力としての価

値を強調し過ぎていたとし、その論理的帰結とし

て、ソ連の原爆保有が持っ影響力を今度は過大に

強調することになったと、核兵器の重要性を過度

に強調する態度を戒あていたのである。

 さらにボーレンは、この草案についての全体的

印象として、草案の結論が草案の中で展開されて

いる議論から直接導き出されるようになっていな

いと、草案の内容と結論との間に乖離があること

を指摘していた。そして、ソ連の問題や世界情勢

の中でアメリカが果たすべき役割にっいて論じて

いる部分については、アメリカの立場の基本的要

素として、強力で十分な防衛態勢(defense pos-

ture)を築く必要があるという一っの勧告しか示

していないと批判していた。このような勧告は、

アメリカの立場に関する当たり前の結論を再確認

しただけであるというのである。無論、アメリカ

の保有している軍事力が、当時において、また将

来において十分なものであるかどうかは問題であ

ると、ボーレンは草案の議論を部分的に受け入れ

はした。だが軍事力が不十分であるという主張が

正しいとしても、その主張を支持する十分な証拠

が述べられているようには思えない、というのが

ボーレンの認識であった54。

 ボーレンの議論は、ケナンの議論ほどアカデミッ

クではなかったが、当時の有力なソ連問題専門家

がそろってこの草案を批判していた事実には十分

注意する必要がある。ロシア語を話し、実際にス

ターリンを始めとするソ連政府高官と交渉した経

験を持ち、長年にわたってソ連の動向を調査し分

析してきた外交官たちから見て、この草案で展開

されている議論はあまりに粗雑であった。ソ連の

問題を中心にしていながら、ソ連の現状を正確に

分析しているとは、とても思えない文書であった

のである。このことがどのような意味を持っかに

ついては、後で改あて議論することにしたい。

 ケナンやボーレンなどの外交官とは異なり、ア

メリカ議会の上院議員や下院議員は、ニッッェ達

と同様の危機感を持っ人が多かったようである。

トルーマンが水爆開発決定の国民向け声明を出す

直前の1950年1月26日、アチソン国務長官は数

人の上院議員と会見した。議員たちは危機感に支

配され、程度の差はあれソ連に対して強硬な態度

を示すよう主張していた。むしろアチソンの側が

「ロシアは戦争を望んでいない」と、たしなめる

ほどであった55。だがそれはアチソン自身がソ連

に対して宥和的であるということを意味したわけ

ではない。2月に行った演説で、アチソンは初め

て「全体外交(tota正diplomacy)」を提唱し、外

交、軍事、経済の各方面での戦略を調整し、それ

を政府諸機関だけでなく、財界、労働組合、マス

メディアが自発的に支えていくべきであるとの考

えを示していたのである56。3月3日には、アチ

ソンはバーナード・バルーク (Bernard M.

Baruch)と会見したが、バルークは「われわれ

54 1bi(i., pp.222-223.

55Memorandum by the Assistant Secretary of State for Congressional Relations(McFall)to the Under Secretary of

State(Webb), January 26,1950,「「Meeting with Several Senators,’1朋US,1950, Vo1.1, pp,140-141.

56 Beisner, op, cit., p.248.

31

Page 14: アメリ力冷戦外交における「力の立場」の論理とそ …...である。J・L・ガディス(John Lewis Gaddis) の研究によれば、ケナン本来の封じ込め戦略が地

は冷戦に負けつつある」との危機感を示し、ソ連

との関係からアメリカの状況を「全面的に再検討

する」必要性を訴えていたのであった。アチソン

はバルークとの会見にっいて覚書を残したが、バ

ルークの考えはアチソンの考えと大体一致してい

たのかもしれない57。アチソンは、同月16日にカ

リフォルニア大学バークレー校で演説をし、ソ連

との外交交渉を行う前提条件として、自由選挙に

よる政府のもとでのドイッ統一、オーストリアか

らの撤兵など十項目を提示していた58。つまりま

ずソ連側から譲歩がない限り、アメリカは交渉に

応じないとの立場を示していたのである。これは

事実上、ソ連との交渉の可能性を否定するもので

あった。

 アチソンの考えを最も良く示しているのは、3

月24日に行われたクリスチャン・バーター

(Christian A. Herter)下院議員との会見記録で

ある。バーターは、アメリカ国民が世界情勢にっ

いて裏付けのない安心感を持っているとし、アメ

リカとソ連との関係は悪化しっっあり、対抗策を

とらない限り今後5年以内に更に深刻になるので

はないかとの危惧を表明していた。これに対して

アチソンは、自らの考えをある程度まで率直に述

べていた。

 アチソンは、彼もバーターと同様に、アメリカ

国民が誤った安心感を持っていることを認め、ソ

連は世界支配という一っの目的しか持っていない

と主張した。しかもアチソンは、バーターとの会

見中に、ソ連の目的が世界支配であることを随所

で強調していた。アチソンの見解によれば、1948

年から1949年にかけては、中国の喪失を除けば

アメリカの立場が悪化しているとは言えなかった

が、過去6ヵ月から9カ月の間に情勢が悪化し、

この傾向が続けばアメリカの立場はかなり悪化す

るというのであった。アメリカは世界支配を目ざ

すソ連に対抗できる唯一の国家であり、共産主義

と戦う他の国々を助けられる資源を持っ国家でも

あった。世界を支配しようとするソ連に対し、ア

メリカは「力の立場(asituation of strength)」

を形作る必要があり、たとえソ連との間に何らか

の協定ができたとしても、その立場を維持しなけ

ればならないのである。政治、経済、軍事の各方

面で》アメリカとその友好国が「統一された力(a

unified force)」となるまで自らを強化しなけれ

ばならず、そうした立場に到達して、初めてソ連

との交渉が成功する可能性が出てくるというので

あった59。

 このようにアチソンは、当時の彼の持論であっ

た「力の立場」を形成する必要性を、かなり率直

に議会関係者に表明していたのである。この「力

の立場」は、彼の世界観からして、おそらく19

世紀のイギリスをモデルにした圧倒的に強力な地

位のことであったと思われる。歴史認識として正

しいか否かはともかく、アメリカはかつてのイギ

リスのような覇権国家にならなければならなかっ

たのである。

 以上のように議会関係者に危機感を持った人々

がいたこと、加えてアチソン国務長官自身が「力

の立場」を築く必要性を強く主張していたことは、

ニッッェが指導する国務・国防合同の作業グルー

プによる草案作成を後押しすることになった。ケ

ナンやボーレンらの主張は、たとえそれが正鵠を

射た、専門家による批判であったとしても、当時

のワシントンでは少数派であり、政府の政策立案

に大きな影響を与えることはできなかったのであ

る。こうして、ニッツェ達はアチソンの意向に沿っ

78∩コ

5民り民り

Memorandum of Conversation, by the Secretary of State, March 3,1950,

Beisner, op. cit., p.249.

Memorandum of Conversation, by the Secretary of State, March 24,1950,

FRUS,1950, Vol.1, pp,184-185.

FR US,1950, Vol.1, pp.207-208.

32

Page 15: アメリ力冷戦外交における「力の立場」の論理とそ …...である。J・L・ガディス(John Lewis Gaddis) の研究によれば、ケナン本来の封じ込め戦略が地

てNSC-68の草稿を完成させることができた。確

かにアチソンは草稿の作成に直接関与し指導した

わけではなかったが、草稿の基調はアチソンの主

張する「力の立場」を推進する内容になっていた

のである。

(2)NSC-68の内容とその問題点

 NSC-68は、政府内の機密文書としては奇妙な

文書である。たとえば、第2章「アメリカの基本

的目標」では、アメリカ合衆国憲法前文から引用

したり、権利の章典や独立宣言にも言及してい

る60。通常政府内の機密文書において、既に知ら

れている様々な宣言を、改めて自国の国家目標と

して設定することはほとんどない。国家安全保障

会議のような外交軍事戦略を検討する機関が生み

出す政策文書では、もっと具体的な政策目的を提

示するのが普通である。通例に反してNSC-68が

このような特徴をもっているのには理由がある。

それは文書を作成したニッッェ達がこの文書を公

表するつもりであったからである61。結局はトルー

マン大統領が公表を認めなかった62たあ、通常の

機密文書と同様に長期にわたって政府内に保存さ

れることになった。公表を前提にしていたがゆえ

に、一種の「マニフェストのよう」63な文書になっ

ているのである。

 もう一っ奇妙な点は、結論部である。約半分ほ

どがNSC-20/4からの引用で占められている。

NSC-20/4は、ケナンが室長を務めていた時の政

策企画室の文書を基にして、軍からの要請も加え、

1948年の夏から秋に国家安全保障会議で検討され

た後、大統領の承認を受けた政策文書であった。

同文書ではアメリカのソ連に対する政策目的が、

国家戦略を導く指針として定められていた64。一

方NSC-68は、 NSC-20/4の結論のかなりの部分

を、依然として妥当なものとして受け入れている

のである。既に見たように、チャールズ・ボーレ

ンがNSC-68の草案を批判するにあたって、従来

のアメリカの立場を再確認しただけであると主張

した根拠が、結論部においてNSC-20/4から相当

な分量の引用をしている点にあったのである65。

確かに、かって決定された政策目的を再引用する

のであれば、NSC-68は新しい指針を提示してい

るとは言えないであろう。ニッツェ達の考えは、

NSC-20/4の結論は依然として妥当であるが、緊

急性がより高まったということに過ぎなかったの

である66。この緊急性こそ、ソ連の原爆保有と関

係しているのであるが、この点にっいては後でま

た分析することにしたい。

 これらの点を踏まえてNSC-68の内容を分析し

ていくが、この文書については既に多くの先行業

績があるので67、できるだけ問題点を絞って考察

していくことにする。

60 AReport to the National Security Council by the Executive Secretary(Lay), April 14,1950, NSC 68, FRUS,1950,

 Vol.1, p,238.

61 Thompson, op, cit., p.112.

62 Beisner, Op cit., p.246.

63 Thompsol1,0ρ, cit., p.112.

64 鈴木、前掲書、第4章。

65Memorandum by Mr. Charles E. Bohlen to the Director of the Policy Planning Staff(Nitze), Apri15,1950,”Draft

 State-Defense Staff Study Pursuant to the President°s Directive of January 31,1950,1「FRUS,1950, VoL I, p.222.

 また本稿の30-31ページを見よ。

66 NSC 68, FRUS,1950, Vo1,1, p.287.

67かってわが国の冷戦史研究者は、NSC-68を「冷戦研究のバイブル」と呼んだことさえある。しかし、 NSC-68は「バイブル」

 と呼ぶには内容空疎な公文書である。

33

Page 16: アメリ力冷戦外交における「力の立場」の論理とそ …...である。J・L・ガディス(John Lewis Gaddis) の研究によれば、ケナン本来の封じ込め戦略が地

 スティーヴン・リアーデン(Steven Rearden)

によれば、NSC-68にはアチソンの考えが浸透し

ており、それは三つの点に整理できるという。第

一はソ連の脅威にっいての認識であり、第二は

「力の立場」の構築についてであり、第三は財政

保守主義に対する攻撃である68。このうち最後の、

財政保守主義の考え方を突き崩して軍事予算を大

幅に増加させようとした点にっいては、既に多く

の研究で指摘されており、また本稿で改めて検証

するための紙幅もないので省略する。ここでは主

に第一の点と第二の点に対象を絞って考察したい。

 まず第一の、ソ連の脅威についての認識である

が、NSC-68ではソ連の目的が世界の支配である

ことが強調されている。「クレムリンの基本的意

図(Fundamental Design of the Kremlin)」の

項では、ソ連と国際共産主義運動を支配している

人々の基本的目標が、彼らの「絶対的権力」の保

持と強化にあることが強調されている。非ソ連世

界の政府組織や社会構造を破壊し、それらをクレ

ムリンによって支配される装置や構造に置き換え

ることが彼らの基本的意図であるとされた。この

ような視点に立つ限り、アメリカは非ソ連世界に

おける主要な力の中心であり、したがってソ連に

対する主要な敵となるのであった69。しかも第一

次世界大戦と第二次世界大戦は、それまで存在し

ていた五っの帝国(オスマン帝国、オーストリア=

ハンガリー帝国、ドイッ帝国、イタリア帝国、日

本帝国)を消滅させ、英仏両帝国の力を劇的に弱

めたとされた。したがって、国際政治における力

の配分は、アメリカとソ連を中心にしたものにな

り、二極化が進んだのであった70。この力の二極

化は、自由な国家と奴隷国家との間の思想的対立

をも意味しており、アメリカという共和国のみな

らずアメリカ文明それ自体に対する挑戦を意味し

ていた71。これに加えて、ソ連は状況に応じてい

かなる手段でも採ることができ、共産党と秘密警

察はクレムリンの強力な力の源泉であり、目標を

達成するために軍事力の行使を躊躇わずに行うと

考えられた72。

 ソ連は世界支配をめざしているのだという直載

な情勢評価は、アチソンの考えそのものであった。

ケナンやボーレンなどソ連問題の専門家が異議を

唱えた理由もまた、NSC-68のきわあて単純で大

袈裟なソ連の意図の評価にあったのである。ケナ

ン達にとっては、誤ったソ連認識に基づく政策の

実施を求めている危うい文書であったのである。

だが、既にいくっかの研究が指摘しているように、

アチソンの考え方からすると、ソ連の脅威に関す

る分析が正確であるか否かは、実は二義的な問題

でしかなかった。アチソンの意図は、政府上層部

を「棍棒で叩くように」して刺激し、彼のめざす

方向へと政府全体を動かすことにあったからであ

る73。NSC-68の文体が、冷静で客観的な事実の

分析ではなく、劇的で、ある場合には誇大妄想的

でさえあるように感じられるのは偶然ではなかっ

た。「自分たちの主張を真実よりもさらに一層明

確にする74」というのがアチソンやニッツェの考

え方であった。ポール・ハモンド(Paul

Hammond)の古典的研究が示したように、アチ

ソンにとってNSC-68の価値は、その内容が正確

8∩コ012004

ρ0677777

Rearden,’IKremlin Design,”pp.168-170.

NSC 68, FR US,1950, Vol.1, p.238.

Ib‘d,, p,237.

Ibi〔孟, p.238-239.

lbid., pp.243-244, p.246,

Rearden,「Kremlin Design,’1 pp,168-169;Beisner, op, ci亡., p.243.

Beisner, op. c‘亡., p.244.

34

Page 17: アメリ力冷戦外交における「力の立場」の論理とそ …...である。J・L・ガディス(John Lewis Gaddis) の研究によれば、ケナン本来の封じ込め戦略が地

であるか否かではなく、その論争的な性質にあっ

たのである75。

 ではアチソンは、どのような方向に政府を動か

そうとしたのかという点が、第二の問題となる

「力の立場」の構築に関するものである。端的に

言えばNSC-68は、アチソンの言う「力の立場」

の構築を目的としていた。では「力の立場」とは

どのようなものであったのか。NSC-68は、ソ連

                   システムの意図を挫折させる76と同時に、アメリカ的体制

が生き残り繁栄できる国際環境の形成を促進する

と唱っている77。だが二極化した世界において、

アメリカにとって好ましい国際環境形成の促進と

ソ連の意図を挫折させることは表裏一体の関係に

あった。ソ連の意図を挫折させ内部崩壊を待っ政

策こそが「封じ込あ」政策であったが、NSC-68

は「封じ込め」政策を遂行するたあの力の中で、

最も重要な要素が軍事力であると主張していた。

というのも、NSC-68の唱える「封じ込め」とは

「計算された漸進的な威圧の政策(apolicy of

calculated and gradual coercion)」であったか

らである78。

 NSC-68はアメリカの取りうる政策として次の

四つを指摘していた。一つは、現状の政策の継続

であり、それは自由世界側の状況を悪化させるだ

けであった。二っ目は「孤立」であるが、これは

ソ連のユーラシア支配を許すことになり、さらに

好ましくなかった。三っ目のコースは「戦争」、

すなわち予防戦争であった。だがこれは、アメリ

カ国民が受け入れないうえ、限定的な数の原爆攻

撃ではソ連を敗北させることも不可能で、戦争後

に満足のいく国際秩序を形成できそうにもなかっ

た。四つ目のコース、すなわち「自由世界におけ

る政治的経済的および軍事的な力の急速な増強」

のみが、西側の基本目的を達成するための唯一の

方策であった。自由世界が、成功裏に機能する政

   システム治経済体制を発展させ、ソ連に対する政治的攻勢

                デザインをかけることによって、クレムリンの意図を挫折

させることであった。そしてこのような政治経済

              シ-ルド体制の発展のためには、軍事的な盾が必要であっ

た。この軍事力は、ソ連の膨張を抑止し、必要な

場合には、限定戦争であれ全面戦争であれ、ソ連

陣営からの攻撃を打破できるものでなければなら

なかった79。っまり「力の立場」とは、形式的に

は政治、経済、軍事など全ての分野にわたるもの

(「全体外交」)とされたが、実質的には軍事力の

増強が最重要視されていたのである。そして軍事

力の増強は、原爆の増強や水爆の開発など核兵器

の強化だけでなく、ヨーロッパの防衛を中心とす

る通常戦力の大幅な増強によっても達成される必

要があった80。ある先行研究によれば、むしろ後

者の通常戦力の増強の方が重要視されていたとも

言われている81。

 ではNSC-68において、ソ連の軍事的能力はど

のように評価されていたのであろうか。アメリカ

の軍事力増強の前提として、ソ連の軍事的能力が

どのように描かれていたかを概観しておきたい。

 ソ連の軍事力は、世界支配という目的の達成を

支えるためのものであり、またそのための軍事力

75・なおこの点について本稿では次の論文を利用した。Rearden,”Kremlin Design,”p.168.

76 NSC 68, FRUS,1950, Vol.1, p.282.

77 1bid., p.252.

78 1bid., p.253.

79 1「bid,, pp.276-282.

80 1bi(i,,pp.265-269, pp.282-284.

81 Rearden,”Kremlin Design,”p,169.

35

Page 18: アメリ力冷戦外交における「力の立場」の論理とそ …...である。J・L・ガディス(John Lewis Gaddis) の研究によれば、ケナン本来の封じ込め戦略が地

を発展させっっあるというのが、NSC-68の基本

的な評価であった。したがってソ連が保有してい

る軍事力は、自国の領土を防衛する必要性を遥か

に超えたものであるとされた。しかもこの過剰な

軍事力に、原爆が加わることになったのである82。

もし1950年に戦争が始まった場合に、ソ連とそ

の衛星諸国がどのような軍事行動を取ることがで

きるかが、統合参謀本部による評価として示され

ている。ソ連軍はまず、イベリア半島とスカンジ

ナヴィア半島を除いて西ヨーロッパを席巻し、中

近東の産油地帯へも向う。極東では共産主義が獲

得した地域を強化する。イギリス諸島への空爆を

実施し、大西洋と太平洋における西側の通商連絡

線に海空から攻撃を加える。アラスカ、カナダ、

米国本土の目標に対して原爆攻撃を加える。また

原爆攻撃能力は、他の使用法として、連合軍側が

イギリス諸島を戦略拠点にすることを不可能にし、

連合軍がヨーロッパ大陸へ反攻するための「ノル

マンディー」式の上陸作戦を防止することも可能

である83。

 これに加えて、ソ連の原爆攻撃能力についての

予測も示されていた。ソ連はすでに原爆搭載可能

な航空機を保有し、爆撃の命中率が40-60%と予

想されるところから、ソ連が200発の原爆を保有

するに至る1954年を危機の年としていた。とい

うのは1954年には、100発前後の原爆がアメリカ

本土に投下されることになり、深刻な被害を受け

る可能性があるからである84。ニッツェ達がNSC一

68で訴えていた緊急性とは、この1954年が危機

の年になるという予測に由来していたのであった。

 以上のように、NSC-68は当時のソ連の軍事能

力をかなり過大に見積もっていた。このように巨

大な能力を持っていると思われたソ連に対して、

十分な軍事力を整備しなければならないというの

が、アチソンやニッツェの言う「力の立場」であっ

た。また、この点にこそ大きな問題が潜んでいた

のである。

 アメリカは、核兵器については、当然のことな

がら原爆を増強し水爆を開発しなければならなかっ

た85。現有戦力と即応戦力にっいても、西半球と

重要な同盟国地域の防衛、攻勢戦力を整えるまで

動員拠点を防衛、ソ連の主要目標に対する攻勢作

戦、通商連絡線の防衛と維持、など重要な任務を

果たすべきであるとされた。アメリカとその同盟

国の軍事力は、ソ連とその衛星諸国の軍事力より

も優越していなければならなかったのである。さ

らに重要な点は、地域防衛の必要性を訴えている

ことである。アメリカ本土とカナダへの航空攻撃

に対する十分な防衛はもちろんのこと、イギリス、

西ヨーロッパ、アラスカ、西太平洋、アフリカ、

中近東、およびこれらの地域を結ぶ通商連絡線に

対する空からの、および地上と海上における攻撃

に対しても、十分な防衛を施さなければならない

とされていた。しかもこれらの軍事力は、戦争に

備えるだけでなく、アメリカの外交政策を支援す

る役割を持っ必要があったのである86。

82 なおこの軍事力もアメリカを巻き込んだ戦争を始めるには、まだ不十分だとソ連側は考えていると予想していた。しかし、

 そのような予想を示した後で、1950年に戦争が始まった場合のソ連の軍事行動を予測している。このように矛盾するかのよう

 な表現が見受けられるのがNSC-68の特徴である。確かに意図と能力は別のものであるが、叙述の一貫性を欠いている印象を

 受ける。ある部分では一定の留保をっけながらも、軍事力増強の必要性へと論理を展開させようとしているのである。全体と

 して軍事力増強の必要を強調しながらも、ところどころに穏健な分析が散りばめられているのは、種々の覚書等をまとめて書

 き上げたためであろうか。あるいは官僚機構の中で文書をまとめる必要から、そうなっている可能性もある。

83 NSC 68, FRUS,1950, Vo1,1, pp.249-250.

84 1bid., p.251.

85 fbid., pp.266-268.

86 1bid., p.283.

                        36

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 アチソンの「力の立場」の考えを反映している

と言われるNSC-68であるが、この「力の立場」

の考え方には大きな問題があった。核兵器に関す

る優位の維持という機能的な面においても、また

ほとんど全世界を防衛しようとする地理的な面に

おいても、アメリカはソ連に優越していなければ

ならないという壮大な論理は、まさにその壮大さ

ゆえに重大な欠陥を持っていたのである。それは

第一に戦略的一般化とでも呼びうる、論理の非戦

略性であり、第二に戦略的全体性とも呼びうる脆

弱性の内包である。

 戦略的一般化とは、地理的にソ連の支配下にな

い全ての地域を同等に防御しなければならないと

する戦略的論理であり、ガディスの言う「周回防

疫線戦略87」と類似の論理を持っものである。本

来戦略とは、自国の能力の有限性や地理的条件を

勘案し、解決すべき問題や防御すべき地域に優先

順位をっけ、自国が実施できる政策を、是非とも

必要な地域もしくは実施可能な地域で遂行するた

めの方策を考えるものである。しかるにNSC-68

は、非ソ連圏の全ての地域を防衛することをめざ

している。これは地域的優先順位を考慮していな

いという意味で、戦略的思考の欠如を表している

のである。政治の「友敵関係」において、「友」

の領域を全て守りたいというのは、心情的論理と

してはやむを得ないとしても、戦略的にそれが実

施可能であるか否かを考慮することなく、全てを

守るということは戦略ではないであろう。(ただ

し、実質的な外交軍事戦略ではなく、宣言政策と

しての抑止戦略の場合は事情が異なる。)ここで

問題となるのは、自国の能力の有限性に対する認

識である。自国の能力に限界があることを十分認

識している政策立案者であれば、当然それに応じ

て地理的な意味での戦略的優先順位を考慮し、重

要度の高い地域にできるだけ多くの資源を振り分

けようとするであろう。自国の能力に限界がある

ことを十分認識していなかったり、限界能力を過

大に評価している政策立案者は、地理的な戦略的

優先順位に対する認識が希薄になると考えられる。

 この視点に立って興味深い点は、NSC-68が、

当時のアメリカの経済的潜在力の大きさから考え

て、軍事力を大幅に拡大することができると主張

している点である88。もとより、アメリカの巨大

な生産力も決して無限ではなかった。だが、NSC-

68は大幅な軍事力増強が可能であると主張するこ

とで、自国の能力の有限性に対する認識を希薄化

してしまったのである。議論の出発点は、ソ連に

対抗するために大幅な軍事力増強が必要だという

ものであったが、それが経済的能力の面で十分可

能であると主張することで、あたかもアメリカの

軍事的潜在力は無限であるかのように(水爆の破

壊力には理論上限界がない!)議論できるという

錯覚をもたらしたのである。自国の能力の限界を

十分認識していないとき、全世界を守ろうとする

軍事戦略を考えたとしても不思議ではない。だが

それは重大な誤りであった。

 次に戦略的全体性の問題であるが、これはアチ

ソンの「力の立場」という観念が、実は極めて脆

弱な論理構造を内部に含んでいるばかりか、結局

アチソンの下ではソ連との間で実質的な外交交渉

ができなかったことの理由を示すものでもある。

「力の立場」の論理は、冷戦が不利な展開を見せ

っっあると判断したアメリカが、軍事力を急速に

増強することで政治的立場を有利にし、そのうえ

でソ連と外交交渉を行うというものであった。こ

の意味で政治的に有利な立場にあるか否かは、軍

87 Gaddis, Strαtegies, p.89.

88 NSC 68, FRUS,1950, Vol,1, pp.256-258.

37

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事力においてソ連より優越しているか否かと同義

であった。しかもこの軍事力の優越は、核兵器に

っいても通常戦力においても、さらに既に見たよ

うに地域的な軍事情勢においても(地理的に非ソ

連圏の全ての地域を防衛しようとする戦略)貫徹

されていなければならなかった。っまり「力の立

場」とは、完全無欠な軍事的優位の確立とその継

続を意味していたのである。だが現実にこれを達

成するのは極めて困難であった。まず核兵器と通

常兵器とを問わず、機能面から見ての難しさであ

る。ソ連が原爆を増強しアメリカとの差を縮めた

り、あるいは水爆開発に成功すればアメリカの戦

略的優位は失われるかもしれなかった。通常戦力

の分野でも、ソ連の巨大な地上軍に優越するだけ

の陸軍部隊を増強することは容易ではなかった。

地理的に見ても、中国革命が成功した後の東南ア

ジア情勢は、一応の安定を見せっっあったヨーロッ

パと異なり、極めて不安定であった。つまり「力

の立場」は、機能面においても地理的意味におい

ても、もしほんの僅かでも西側の優位が脅かされ

た場合には、たちまち達成不可能となる脆弱性を

併せ持っていたのである。「力の立場」は常に完

全無欠な軍事的優位を確保することを意味してい

たため、部分的な僅かの戦略的優位の喪失でも、

全体が成立しなくなるという論理的構造を持って

いる。戦略的に全体が全てソ連に対して優位でな

ければ、「力の立場」は構築不可能であるという

意味で、これを戦略的全体性の持っ脆弱性と呼ぶ

ゆえんである。

 この脆弱性にはもう一っの面がある。それは時

系列的に見て、一体いっになったら「力の立場」

が達成できるのかを見極めることが困難であるこ

とである。アメリカの軍事力増強を知ったソ連は、

当然これに対抗して軍事力強化を図ることになる

が、この軍備競争の過程でアメリカが「力の立場」

を確保するためには、軍備増強のテンポが常にソ

38

連のそれを上回っていなければならない。そうで

なければアメリカは徐々に戦略的優位を失ってい

くからである。しかも、核兵器と通常戦力で、ま

た地域的な軍事力強化の面で、すべてそうしなけ

ればならないのである。そうなるとアメリカは、

一体いっになったら「力の立場」を確保すること

ができるのか。あるいは、もしそれを確保できた

としても、どのくらいの期間にわたってそれを維

持できるのであろうか。

 NSC-68成立後の展開は、さしあたり本稿の対

象外であるが、「力の立場」を確保してから外交

交渉に臨むという考えは、「力の立場」がいっま

でも達成できない場合には、外交交渉はその間ずっ

と行わないということである。実際の歴史的過程

を検証する余裕はないが、「力の立場」の考え方

は、実質的に外交交渉を無期限に行わないという

論理構造を持っていたことを指摘するだけで、こ

こでは十分であろう。外交交渉が行われないまま

に「力の立場」をひたすら追求するのであれば、

軍事力増強だけが自己目的化し、米ソの軍事的二

極構造を強化するだけになってしまうであろう。

そして、これはトルーマン政権末期において、実

際に見られた現象であった。

 ここまで検証してきたように、NSC-68はアメ

リカの冷戦外交の展開に大きな影響を与えたが、

政府内の文書としては異質な面があり、またソ連

を対象にしながら国務省内のソ連問題専門家から

批判されていたものであった。この文書によって

アチソンやニッッェがめざした「力の立場」の考

え方は、戦略的思考としては重大な問題を孕んで

いたのである。

むすび

 トルーマンをはじめとするアメリカの政府首脳

部は、まだ原爆の独占が続いていた時期において

も、ソ連に対する戦略爆撃能力に限界があること

Page 21: アメリ力冷戦外交における「力の立場」の論理とそ …...である。J・L・ガディス(John Lewis Gaddis) の研究によれば、ケナン本来の封じ込め戦略が地

を認識していた。従来、アメリカの水爆開発と

NSC-68の成立は、ソ連の原爆保有と中国での共

産党政権の成立によって初めて動き姶めたとされ

ている。核戦略でいう宣言政策的な意味で見れば、

確かにそのとおりである。原爆独占期のアメリカ

の冷戦外交は、原爆独占による抑止力でソ連地上

軍の優位を相殺し、そうしながら重要な地域や同

盟国に経済援助を中心にして政治経済心理的支援

を与えるというものであった。トルーマンが軍事

予算を制限した根拠も、そのような冷戦外交の論

理に基づいたものであった。しかし、アメリカ政

府首脳部は少なくとも1949年5月にハーモン委

員会報告が提出された後は、原爆による戦略爆撃

によってソ連を敗北させることは困難であること

を自覚していたのである。また1950年1月中旬

にはWSEGの概要報告も受けることになった。

1949年9月に確認されたソ連の原爆保有は、アメ

リカが自国の戦略核能力に疑問を持ち始めた時期

に発生したからこそ、政治的な問題としてばかり

でなく、戦略的により一層大きい衝撃を与えたの

である。それゆえに、ソ連への対応は更なる原爆

の備蓄増加だけではなく(増加命令そのものはす

でに1949年10月に出ていた)、原爆より格段に

破壊力の大きい水爆の開発が緊急の課題となった

のである。

 19世紀のイギリスを、世界の政治的安定と経済

的繁栄の中心であったと考えていたアチソン国務

長官。戦略爆撃調査団の一員として通常の戦略爆

撃だけでなく、広島と長崎での原爆被害を直接見

聞したニッッェ政策企画室長。この二人がソ連の

原爆保有という新たな戦略的状況に直面したとき、

彼らの世界観や経験知が、水爆開発を是認しアメ

リカの軍事力強化を促す方向で作用したとしても

決して不思議ではなかった。ケナンやボーレンら

のソ連問題専門家による批判は、「力の立場」を

構築しようとしたアチソンやニッッェにとって、

十分深刻なものとは思われなかったのである。

 ニッツェはアチソンの支持を受けながらNSC-

68を完成させたが、同文書で含意されている「力

の立場」の構築には大きな問題があった。戦略的

一般化は、財政的な面で軍事力の増強が十分可能

であるとする自国資源への自信から、戦略的思考

に不可欠な地理的な優先順位を慎重に考察するこ

とを妨げ、同文書で言及した全ての地域を守ると

いう論理を展開させるに至ったのである。さらに

「力の立場」が含意している戦略的全体性は、機

能面においても地理的な面においても全ての分野

にわたって軍事的優位を確保しようとする幻想で

あった。完全無欠な軍事的優位が達成されない限

り「力の立場」が構築できないとすれば、わずか

な優位の喪失も全体的優位を掘り崩すことになり、

極めて脆弱な論理構造を内包していたのである。

「力の立場」を確保してからソ連と交渉するとい

う構想は、「力の立場」がいっになったら構築で

きるのか不分明である以上、現実にはソ連と外交

交渉しないという態度を強化するだけのものになっ

た。この意味でNSC-68は、アメリカの戦略的硬

直化と冷戦における軍事的二極化の固定化をもた

らす論理を、その内部にもっていたのである。

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