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─ 186 ─ Lu Xiang-Shan’s Evaluation of Yanzi IKOGA, Takashi This paper tries to clarify the thought of philosopher, Lu Xiang-shan(陸象山) , in the the south-sung period, through the Yanzi( 顔 子 )theory. Yanzi( 顔 子 )was the pupil whom Confucius(孔子)loved most because of Yanzi’s posture of study to be seen in “the Analects of Confucius”. Lu Xiang-shan believed that only Yanzi is a true successor of “心 学(Mind study) ”, and the teaching was broken off because Yanzi died. He tried to succeed to the teaching. In this paper, I wants to inspect thought of Lu Xiang-shan through such a Yanzi theory.

Lu Xiang-Shan’s Evaluation of Yanzi - 東洋大学 トップ … to the teaching. In this paper, I wants to inspect thought of Lu Xiang-shan through such a Yanzi theory. 陸象山の顔子論

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─ 186 ─

Lu Xiang-Shan’s Evaluation of Yanzi

IKOGA, Takashi

 This paper tries to clarify the thought of philosopher, Lu Xiang-shan(陸象山), in the

the south-sung period, through the Yanzi( 顔 子 )theory. Yanzi( 顔 子 )was the pupil

whom Confucius(孔子)loved most because of Yanzi’s posture of study to be seen in “the

Analects of Confucius”. Lu Xiang-shan believed that only Yanzi is a true successor of “心

学(Mind study)”, and the teaching was broken off because Yanzi died. He tried to

succeed to the teaching. In this paper, I wants to inspect thought of Lu Xiang-shan

through such a Yanzi theory.

陸象山の顔子論

─ 187 ─

 

※ 

句読の位置は適宜改めた。また引用した原文には、その最後にこ

れらのテキストの頁数を記した。

〈文献〉

福田殖『象山文集』明徳出版社、一九七二年

友枝龍太郎、福田殖、荒木見悟

他『陸象山(陽明学体系第四巻)』

明徳出版社、一九七三年

吉田公平『陸象山と王陽明』研文出版、一九九〇年

王心田『陸九淵─知軍著作研究』武漢大学出版社、一九九九年

小路口聡『即今自立の哲学─陸九淵心学再考』研文出版、二〇〇六

年小路口聡『「陸象山語録」精読』(未刊行)

〈論文〉

柴田篤「『顏子沒而聖學亡』の意味するもの─宋明思想史における

顏囘─」『日本中國學會報』第五十一集、一九九九年

小路口聡「良知心学の血脈─陸九淵・王陽明・王龍渓─」『陽明学』

第十七号、二〇〇五年

─ 188 ─

融通無碍に応対し、そして少しも捉われることなく、固定化するこ

となく、そして一切の痕跡を残さない、というのである。

 

果たして象山が、顔子の到達した境地をこのように理解していた

のか、その詳細は明らかにはされていないが、先に述べたような点

から、私はかなりこの王龍渓の理解に近いものであったと考えてい

る。

さいごに

 

以上、陸象山の顔子論をいくつかの観点から検証してきた。これ

らをまとめると、顔子は「請う、斯の語を事とせん」の時に、つい

に知が至り、善が明らかになったということ。つまり学問の「根本」

が確立し、正しい道の出発点に立てたということである。この点こ

そが陸象山の顔子論、ひいては陸象山思想の最も重要な部分である。

そして、その道の出発点に立つまでに、顔子は已むに已まれぬ思い

に突き動かされて工夫努力を続けていったのであり、それを「自ら

を疑う」ということ、さらに「智を自然に導く」という点に着目し

て検証をしてきた。そして、象山がこれらの顔子論を展開する上で、

顔子と対比させたのが同じ孔子門下の子貢であった。そしてこの子

貢批判は取りも直さず、子貢の名を借りた朱子批判であったのであ

る。今回見てきた顔子論は、その全てが朱子を意識して展開してい

ると言ってもよいであろう。

 

また、最後の部分では、「請う、斯の語を事とせん」の時、孔子

が全ての事業を顔子に伝授したというその内容に少し触れた。しか

し、陸象山自身、その内容についてはほとんど何も語っておらず、

まるで興味関心がないかのようである。第二章でも述べたように、

『陸九淵集』全体を通して見られる象山の主張は、あくまで学問の

「本」を確立するということ、つまり、「先ず其の大なる者を立つ」

(『孟子』告子上)の一点張りである。「本」さえ確立できれば、後

は自然に導かれる、つまり、「誠なる者は自ら成るなり」(『中庸』)

という立場であり、「枝葉末節」的な工夫についてはほとんど語っ

ていない。そしてここまで熱心に、この一点を主張し続けたのも、

朱子の存在が大きかったからだと思われる。同時代の大思想家、朱

子の学問がその「本」を誤ったまま(と象山は捉えた)世間に広が

っていくのを目の当たりにして、象山は危機感を抱き、何としてで

も正しい学問を伝えなくてはならないと使命感を強くしたにちがい

ない。そのような象山の強い思いが、今回見て来た顔子論にハッキ

リと見て取れるように私は思う。

参考文献

〈テキスト〉

鐘哲『陸九淵集』中華書局、一九八〇年

陸象山の顔子論

─ 189 ─

知れない。ただ、今取り上げた部分に、その手がかりとなる一文が

見られる。

 

例えば、今見てきた「與胡季隨」には「〔顔子が〕学問を途中で

やめることがなかったのは、〔学問は〕どこまで行っても決して終

わりはないということに気付いたからであります。」という。また

「語録上」(一五条)にも「〔君主に〕登用されたら出廷し、解雇さ

れたら引退する。これが出来るのは、私(孔子)とお前(顔子)だ

けだ。」と『論語』(述而第七)の一文をわざわざ引用している。こ

れらによれば、「知至り」「善が明らか」になった時、「道は、どこ

まで行っても決して終わりはない」「道とは窮まりのない」ものだ

ということを真に知り、さらには、いかなる状況においても、自由

自在・融通無碍に感応して、臨機応変に対応することが出来る状態

になったのではないかと推測される。後者では「これが出来るのは、

私(孔子)とお前(顔子)だけだ。」と孔子も述べている。本心と

は本来は自由自在・融通無碍なものであって、常に変化し続けるも

のである。そして万事に感応し、通じていくことが出来るものであ

り、決して固定化したり、作為・按配出来るものではない。まさに

『易経』(繋辞下伝)にいう「感じて遂に天下之故に通ず」である。

 

また王陽明の高弟である王龍渓は、この「語録上」(一五条)に

ついて、次のようにコメントしている。

…王陽明先生はおっしゃった、「顔子没して聖人の学亡ぶ」と。

これは険語である。結局のところ、曾子・孟子が伝えた学とは

何だったのだろうか。これは心で会得する(心悟)する必要が

ある。言葉ではこれを言い尽くすことは出来ず、それに似たも

のを大まかに示すにすぎない。曾子・孟子にはまだ入るべき門

があり、循うべき道があり、守るべき規約があるが、顔子はす

なわち、開かざる扉を通って入り、車輪の跡が残らない境地に

達し、縛ることの出来ない紐で結ぶのである(注)。曾子・孟

子には一つの守るべきものがあるが、顔子は〔そういうものは〕

すでに忘れてしまっている。

…先生曰、師云、「顔子沒而聖人之學亡」、此是險語。畢竟曾

子、孟子所傳是何學、此須心悟、非言詮所能究也。略舉其似。

曾子、孟子尚有門可入、有途可循、有繩約可守、顔子則是由

乎不啟之扃、達乎無轍之境、固乎無滕之緘。曾子、孟子猶為

有一之可守、顔子則已忘矣。

『王畿集』巻一「撫州擬峴臺會語」(一六頁)

(注)『老子』第二十七章に「善行無轍跡、善言無瑕謫、善數不用籌

策、善閉無關楗而不可開、善結無繩約而不可解。(是謂要妙)」とあ

る。

 

ここで王龍渓は、矛盾表現を使いながら、顔子が到達した境地は、

まるで捉えどころがないものであると言っている。曾子・孟子には

まだ捉われるところがあったが、顔子は、状況に応じて、自由自在・

─ 190 ─

曾子雖未及顔子、若其真知聖人則與顔子同。學未知止、則其

知必不能至。知之未至、聖賢地位、未易輕言也。

『陸九淵集』巻一「與胡季隨」(八頁)

 

顔子は「請う、斯の語を事とせん」と言ったその時に、「真に聖

人を知った」ということである。第二章・三章で見てきたように、

顔子はこの時に、「知が至り」、「善が明らか」になったのであり、

そして道の第一歩が確立されたわけである。つまりやっと道の出発

点に立てたわけである。ではこの時、顔子は何が「見えた」のであ

ろうか。「真に聖人を知った」というが、一体、何を知ったのであ

ろうか。「語録上」(一五条)において、象山は次のようにいう。

顔子が〔孔子に〕仁を問うた後、孔子は数多くの事業を全て顔

子に伝授した。だから「〔君主に〕登用されたら出廷し、解雇

されたら引退する。これが出来るのは、私(孔子)とお前(顔

子)だけだ。」(『論語』述而第七)と言われるのだ。顔子が亡

くなると、孔子はこれを嘆き悲しんで、「天は私を滅ぼしてし

まわれた」と言われた。私が思うに、孔子の事業は〔顔子の死

によって〕途絶えてしまった。曾子がその道統をよく伝えたと

はいっても、〔孔子から〕「参(曾子)は魯(愚鈍)である」

(『論語』先進第十一)と評される曾子である。どうして顔子が

日々蓄積しているものを期待する事が出来ようか。しかし幸運

にも、曾子はそれを子思に伝え、子思はそれを孟子に伝えた。

孔子が伝えようとした道は、孟子に至って一度輝きをますこと

になる。しかし孔子が顔子に伝授した事業は、結局、再び伝わ

ることはなかったのである。

顔子問仁之後、夫子許多事業、皆分付顔子了。故曰、「用之

則行、舎之則蔵。惟我与爾有是。」顔子没、夫子哭之曰、「天

喪予。」蓋夫子事業自是無伝矣。曽子雖能伝其脉、然「参也

魯」、豈能望顔子素蓄。幸曽子伝之子思、子思伝之孟子。夫

子之道、至孟子而一光。然夫子所分付顔子事業、亦竟不復伝

也。

『陸九淵集』巻三十四「語録上」一五条(三九七頁)

 

顔子の「仁を問う」の後、つまり「請う、斯の語を事とせん」と

顔子が言った後、孔子は数多くの事業を全て顔子に伝授したという。

陸象山は道統の流れを、孔子(→顔子)→曾子→孟子 

と捉えてい

るが、その道統を伝えたという曾子、孟子でさえも、顔子には及ば

なかったという。そして孔子が顔子に伝授したという事業(教え)

はついに亡んでしまったとしている。

 

話は戻るが、では顔子は何を伝授されたというのか。何を知った

というのか。この孔子が顔子に伝授したという事業の内容について

は、象山は具体的に述べていない。これは、あくまで自らの心で理

解すべきものであって、言葉で表現出来る類のものではないのかも

陸象山の顔子論

─ 191 ─

『陸九淵集』巻三十五「語録下」一九一条(四五六頁)

理がまだ明らかになっていないうちは、むしろそのままにして

おくことだ。〔何もない所に無理に〕いろり(爐)を起こし、

かまど(竈)を作る必要などない。

見理未明、寧是放過去。不要起爐作竈。 

『陸九淵集』巻三十五「語録下」一四二条(四五二頁)

 

ここでは「善を為そう」「心を正そう」と思うことさえも作為・

安排であり、心を損なうことになるという。過剰に意識をして「~

しよう」と思ったその瞬間に、もう本心は損なわれ、その本来の働

きは失われてしまうのである。これは善・悪、正・不正、関係がな

い。心を緊迫させることなく、ゆったりのびやかにしていれば、自

然に本心が涵養され、そしてまさに「智の働きは甚だ偉大なものと

なり」、そして天下の万事に対応していくことが出来る。「無心」で

あってこそ、偉大な叡智を手に入れることが出来るのだ。顔子はま

さにこのような人であった。

五、「夫子、許多の事業を、皆、顔子に分付し了れり」

 

以上、顔子が「致知」「明善」に至るまで、つまり「請う、斯の

語を事とせん」と顔子が発する以前に、顔子がどのように工夫努力

をしてきたかをみてきた。この章では、「請う、斯の語を事とせん」

の時、顔子には何が「見えた」のか、どのような境地に至ったのか

を考えてみたい。ここで再び、巻一「與胡季隨」に戻ることにする。

宰我・子貢・有若は、「智」の働きに関しては、聖人を知るの

に十分なものでありました。三人の「智」は思いますに、その

聡明さという点においては、他の者とはっきり区別されるには

十分であり、陳子禽・叔孫武叔といった輩とは異っていました。

〔しかし、ただの「智」ではなく〕「大いなる智」をこの三人に

求め、また〔ただ聖人を知るだけではなく〕「真に聖人を知る」

ということを期待するならば、彼らはその任ではありません。

顔子は「請う、斯の語を事とせん(この言葉を第一として生き

てまいります)」と言った時点において、真に聖人を知ったの

であります。曾子はまだ顔子には及びませんが、もし真に聖人

を知ることが出来たならば、それこそ顔子と同列であると言え

ましょう。〔顔子が〕学問を途中でやめることがなかったのは、

〔学問は〕どこまで行っても決して終わりはないということに

気付いたからであります。知がまだ至ってない状態で、聖賢の

地位について、軽々しく語ることは出来ないのです。

宰我子貢有若、智足以知聖人。三子之智、蓋其英爽足以有所

精別。異乎陳子禽、叔孫武叔之流耳。若責之以大智、望之以

真知聖人、非其任也。顏子「請事斯語」之後、真知聖人矣。

─ 192 ─

いるだろう。条毎に数十家の解釈を書き並べて、最後に自分の

意見で締めくくっている。繰り返し、自分の意見を書き並べ、

他人の説を批判し、自ら『この上なく精微』と言いながら、そ

の実態を探ってみれば、案の定、分かっていないのである。そ

れで何の役に立つというのだろうか」と。

先生曰、「読書不必窮索。平易読之、識其可識者、久将自明、

毋耻不知。子亦見今之読書談経者乎。歴叙数十家之旨而以己

見終之。開闢反覆、自謂究竟精微、然試探其実、固未之得也。

則何益哉。」

『陸九淵集』「語録下」三三六条(四七一頁)

 

これは象山の朱子批判である。「条毎に数十家の解釈を書き並べ

て…」とは、朱子の『四書集注』を指す。象山に言わせれば、朱子

こそ、その読書において、穿鑿、窮索、苦思して、作為・按配を施

して、智を自然に導くことをせず、本心の働きを阻害し続けた人物

であった。

 

このような「無為自然」に関する象山の発言をいくつか紹介して

おこう。

「意識的に思うことなく、作為を施すことがなければ、〔心の本

来の姿は〕寂然として動かないが、〔外物と〕感応して、つい

には天下のあらゆる事情に通じていく」(『易経』繋辞下伝)。

無思無為、寂然不動、感而遂通天下之故。

『陸九淵集』「語録下」一九〇条(四五六頁)

学ぶ者は心を緊迫させて用いてはいけない。山深いところにあ

る宝は、宝に「無心」であって手に入れることが出来る。

学者不可用心太緊、深山有宝、無心於宝者得之。

『陸九淵集』巻三十四「語録上」一一三条(四〇九頁)

ゆったりのびやかにするなら、それと同時に多くが保養され、

思慮もまた正しくなる。あまりにも穿鑿しすぎたら、それと同

時に保養されるものも少なくなり、思慮もまた正しくなくなる。

優裕寛平、即所存多、思慮亦正。求索太過、即存少、思慮亦

不正。 『陸九淵集』巻三十五「語録下」二六七条(四六四頁)

「〔聖人の〕話す言葉が必ず信実となるのは、〔作為的に〕行い

を正そうとしたためではない」(『孟子』尽心下)。行いを正そ

うと思った瞬間に、もう正しくなくなっているのだ。

「言語必信、非以正行」。纔有正其行之心、已自不是了。

『陸九淵集』巻三十四「語録上」八条(三九六頁)

悪は心を損なうが、善もまた心を損なうのだ。朱濟道のような

人は、善によって〔本心が〕損なわれてしまっている。

悪能害心、善亦能害心。如濟道是為善所害。 

陸象山の顔子論

─ 193 ─

ドでもある。

 

たとえば巻三「與劉深父」に、「読書の方法」として次のように

ある。…

巻を開いて書物を読む時には、衣冠を整え容姿を厳粛にし、

心を平らかにして気を静めます。そしてその書の注釈や章句を、

ゆったりと気持ちを落ち着けて、決して切迫することなく暗誦

すれば、その道理は自然と明らかになるでしょう。もしすんな

りと理解出来ずに滞ってしまうのであれば、「この心(つまり

本心)」がいまだ充足しておらず、いまだ明らかになっていな

いがために、滞ってこのように理解出来ないようにみえるだけ

なのです。〔このような状態に陥ったなら〕しばらく書物から

離れて、時が解決してくれるのを待つのがよいのであって、必

ずしも「苦思(苦しみながら、強引に穿鑿する)」する必要は

ありません。「苦思」すれば、心は自ずと乱れ、根本である心

が自ら崩壊し、己の本心を見失って物事に滞り、いつまでも明

白になることはありません。ただ、自分が十分に理解出来た所

をより所として実践に励み、それを涵養していけば、徳は日々

に進み、業は日々に修まり、そして「この心」は日々充足し、

日々明らかになっていきます。こうなれば、今日すんなり理解

出来ずに凝滞している所も、他日、必ずや疑問点は氷釈して、

道理に従って自然と理解出来る時がくるでしょう。

…開卷讀書時、整冠肅容、平心定氣。詁訓章句、苟能從容不

迫而諷詠之、其理當自有彰彰者。縱有滯礙、此心未充未明、

猶有所滯而然耳、姑舍之以俟他日可也、不必苦思之。苦思則

方寸自亂、自蹶其本、失己滯物、終不明白。但能于其所已通

曉者、有鞭策之力、涵養之功、使德日以進、業日以修、而此

心日充日明、則今日滯礙者、他日必有冰釋理順時矣。

『陸九淵集』巻三「與劉深父」(三四頁)

 

この象山のいう「読書法」こそ、まさに智を自然に導いていく具

体的な例である。理解できないからといって「苦思」して強引に穿

鑿してはいけないのである。そういう時は、一旦書物から離れて、

心をゆったりとさせて心を涵養していくことが大事であり、そうし

ていれば他日、必ず疑問は氷釈し、自然に理解出来るようになると

いう。

 

ちなみに「苦思」して強引に穿鑿するというのは、朱子の「読書

窮理」を指している。「語録下」三三六条に次のような発言がある。

〔象山〕先生は言われた、「読書は必ずしも窮索を必要としない。

平易に読み、理解出来る所を理解すれば、しばらくして自然と

明らかになるであろう。知らないことを恥じてはいけない。君

も近頃の、書を読み、経典を談じる者(朱子を指す)を知って

─ 194 ─

や」の三段階の教えを指す。「三つの切り替えの言葉」「相手

のことばをうけて、それをガラリと新次元に転ずる急所の一

句」(小路口聡『「陸象山語録」精読』一一頁) 

参照。

 

ここでは『論語』の中に見られる、顔子の「喟然の嘆」(子罕第

九)、「仁を問う」(顔淵第十二)、「邦を為す」の問い(衛霊公第

十五)がその智を自然に導いていった結果であるとし、その掲載さ

れている順序(第九→第十二→第十五)も当にそうなっていると象

山は指摘する。まず自分よりはるかな高みにいる孔子に対して、「喟

然の嘆」、つまり、心から感嘆し、ため息をつくという初めの段階

がある。その後、第二章で見てきたように力の限りを尽くし、よう

やくその姿をしっかりと捉えられるようになる。そして孔子に「仁

を問う」のである。この時、孔子から「克己復礼」の教えを受け、

「請う、斯の語を事とせん」の時、心はスッキリと通り、自らに対

する疑いは消え、自らの進むべき道がハッキリと「見えた」のであ

る。つまり、「知至り」「善明らか」になり、「本」が確立された。

「本」が確立されれば、次は「枝葉末節」的な事柄が知りたくなる。

そこで「邦を為す」の問いが自然に出てくるのである。つまり、具

体的な、国の統治方法を孔子に質問した(したくなった)わけであ

る。以上の流れは、顔子が智を自然に導いて行った、つまり、そこ

には少しも作為・按配がなく、本心の呼びかけに素直に応じていっ

た結果であると象山は見ているわけである。

「喟然の嘆」

「仁を問う」

「邦を為す」の問い

(子罕第九)    

(顔淵第十二)   (衛霊公第十五)

 

また「語録上」一六条では、「仁を問う」(顔淵第十二)の中でも、

孔子から、「克己復礼、仁を為す」「一日、克己復礼すれば、天下仁

に帰す」「仁を為すは己に由る。人に由らんや」と立て続けに三つ

の転換語を受け、そこで顔子は教えの「大綱」が明らかになった。

そしてさらに「細目」を質問したとあり、ここにも顔子が、「大綱」

から「細目」へと自然に智を導いて行った様子が見てとれるとして

いる。

 

ところで、この「智を自然に導く」というのは象山思想の鍵とな

る考え方である。この点だけを見れば、それはまさに「無為自然」

(注)であり、この考え方は『陸九淵集』全体を通してみられるも

のである。

(注)

象山は、「無為自然」に心を導いていくことを説くが、これは

人間社会の真只中で行われるのであって、この点が老荘思想

の「無為自然」とは異なる点である。様々な人と交際し、今

自分の目の前にある事の上で、自分が今取り組んでいる課題

の上で、心に作為按配を施すことなく(無為)、自然に導いて

あげるのである。この作為按配を施さないという「無為」、さ

らに「自然」という考え方は、象山思想全体を貫くキーワー

陸象山の顔子論

─ 195 ─

智における問題点は、〔自然の流れに逆らって〕無理やり穿鑿

することであります。もし智者が、禹が自然の流れに順って治

水したように智を用いたならば、智において問題点は何もあり

ません。禹の治水は〔自然の流れに順って〕無理のない所へ水

を導いて流していったのであり、知者も同じように無理のない

所へ智を働かせて行けば、智の働きは甚だ偉大なものとなるの

です。

所惡於智者、為其鑿也。如智者如禹之行水也、則無惡於智矣。

禹之行水也、行其所無事也、如智者亦行其所無事、則智亦大

矣。 『陸九淵集』巻一「與胡季隨」(八頁)

 

この部分は『孟子』(離婁下)から象山がそのまま引用したもの

である。ここでは禹が川の自然な流れに順って治水したように、本

心も自然な流れに順って導いてあげれば、智の働きは甚だ偉大にな

るという。そこに作為・按配が少しでもあれば、その本来の働きは

損なわれてしまうのである。顔子はまさに、心の底から突き上げて

くる思いに素直に順い、工夫努力を続けたのである。

 

そのような顔子の例として、第二章で見た「與胡季隨」の中の一

文を再度取り上げ、また新たに「語録上」(一六条)を紹介する。

『論語』に掲載されている顔淵の「喟然の嘆(孔子に対して溜

息をついて感嘆する)」は、「仁を問う」の前に当然あるべきで

すし、「邦を為す(国家を治める方法)」の問いは当然「仁を問

う」の後にあるべきで、「請う、斯の語を事とせん(この言葉

を常に実践していこうと思う)」と述べた時こそまさに、知が

初めて至り、善が初めて明かになった時なのです。

論語所載顔淵「喟然之嘆」、當在「問仁」之前、「為邦」之問、

當在「問仁」之後、「請事斯語」之時、乃其知之始至、善之

始明時也。

『陸九淵集』巻一「與胡季隨」(八頁)

学問には本末がある。顔子は、孔子から立て続けに三つの転換

語(注)を聞いて、その大綱はすでに明らかになったので、そ

の後、その細目を質問した。孔子はこれに対して、「礼に非ざ

れば視ること勿れ。聴くこと勿れ。言うこと勿れ。動くこと勿

れ。」と答えた。ここで初めて、顔子の心はスッキリと通り、

何の疑いもなくなった。だから、「回、不敏なりと雖も、請う、

斯の語を事とせん」と言ったのだ。本末の順序は、思うにこの

ようであったのであろう。

學有本末。顔子聞夫子三轉語、其綱既明、然後請問其目。夫

子対以「非禮勿視、勿聴、勿言、勿動。」顔子於此洞然無疑。

故曰、「回雖不敏、請事斯語矣。」本末之序、蓋如此。

『陸九淵集』巻三十四「語録上」一六条(三九七頁)

(注) 『論語』顔淵第十二の「克己復礼、仁を為す」「一日、克己復

礼すれば、天下仁に帰す」「仁を為すは己に由る。人に由らん

─ 196 ─

に出てきた「自らを疑うことの兆し(自疑之兆)」でもある。「釈然

としない」、それは心の微妙な違和感であり、「何かおかしい」「何

かスッキリしない」「何かこのままではいけないような気がする」

といった感覚である。これは本心が覆われてしまっているがゆえに

「釈然としない」わけである。ただこのような感覚を認識すること

が出来るということは、同時に「本心」の「兆し」に気付いている

ということであり、「本心」がまだ機能しているという証拠でもある。

 

普通、このような感覚は流してしまうことが多いが、顔子はこれ

をしっかりと捉え、その蔽いを払拭すべく、工夫努力を続けたので

ある。この点こそがまさに顔子の偉大な所である。そしてついに孔

子から「克己復礼」の教え受け、そして「請う、斯の語を事とせ

ん」と顔子が発した時点で、本心の蔽いは取れ、心は「釈然」とし

てスッキリと通り、「自らに打ち克ったという実感(自克之実)」が

生まれた。これが「克己復礼」の「克己」であり、また「物格知

至」である。顔子はこのような段階を経て、限りなく聖人に近づい

たわけである。

 

これとは反対に子貢は、自らを疑うことなく、今の自分に安住し

てしまい、今の自分を絶対化してしまった。子貢は、聖人になるに

は、多くの知識を学んで、それを記憶しておく(多學而識之)こと

だと固く信じて疑うことがなかった。そして、孔子はその間違いに

気付かせようと問い質すが、子貢はまるで自らを疑うことなく、「そ

うです(然)」とあっさり答え、再び「違いますか」と問い直した

のである。このように、子貢は自らを絶対化して少しも疑わなかっ

たために、学問は止まってしまい、道に到達できなかったと象山は

言う。

 

自らを絶対化してしまうこと、これを象山は「自是(自らを是と

す)」(巻一「與鄧文範」他)という。そしてこの「自是」こそが、

学問にとって最大の障害になるのである。「自是」するのではなく、

「自疑」、つまり自らを疑って工夫努力を継続し、その結果「自克」

することによって、本心をその蔽いから解放してあげるのである。

そして、これこそが真の学問である。

〔顔子と子貢の対比〕

顔子…今の自分を疑った(自疑)

     

 

学問は進み、道(聖人)に近づいた

子貢…今の自分を疑わなかった(自是)

     

 

学問は止まり、道に到達できなかった

四、智を自然に導く

 

顔子の工夫努力について、巻一「與胡季隨」ではさらに次のよう

に言う。

陸象山の顔子論

─ 197 ─

ん突き詰めていったのが顔子である。そしてその結果、疑いは晴れ、

「自らに打ち克ったという実感(自克之実)」が生まれたのである。

このような工夫努力こそ「物格知至」(『大学』)である。

 

これに対し、子貢は「自らを疑うことの兆し(自疑之兆)」に気

付くことなく、自らを疑うということがなかった。そして知識を広

く求めて、「枝葉末節」の事柄についてはしばしば的中させたが、

道の「根本」を理解することは決してなかったのである。

 「自疑之兆」(微)

「自克之実」(顕)

 

この「疑う」ということに関して、巻三十五「語録下」に次のよ

うな象山の発言がある。

学ぶ上において、患うべきは「疑い」がないことである。「疑

い」があれば学問は進む。孔子門下において子貢のような人は、

「疑う」ことがなかったからこそ、道に到達することが出来な

かった。孔子は〔子貢に対して〕、「お前は、私(孔子)が、多

く〔知識を〕学んで、記憶している者だと考えているのか。」

と問うたが、〔これに対し〕子貢は「そうです(然)」と答えた。

常日頃から孔子はそんな風には考えていなかった。子貢(注 

原文には「孔子」とあるが「子貢」の誤りである)は〔さらに〕

「違いますか」と再び問い直したのである。顔子は「孔子を仰

ぎ見ればいよいよ高く、より所とするところがない」(『論語』

子罕)と言ったが、顔子の〔今の自分に対する〕「疑い」は小

さくなく、今の自分に安住することは決してなかった。だから、

「其れ殆ど庶幾からんや」(『易経』繋辞下伝)と言われるので

ある。

為學患無疑、疑則有進。孔門如子貢、即無所疑、所以不至於

道。孔子曰「女以予為多學而識之者歟。」子貢曰「然。」往往

孔子未然之。孔子復「非與」之問。顔子仰之彌高、未由也已。

其疑非細、甚不自安。所以「其殆庶幾乎」。

『陸九淵集』巻三十五「語録下」三四〇条(四七二頁)

「己に克つ」(『論語』顔淵第十二)、「三年にして之に克つ」

(『易経』既済卦九三)と言われるが、顔子には今時の人のよう

な病(私欲)があったわけではない。彼が打ち克とうとしたの

は、ただ〔自分の心の中に〕ほんの少し「釈然としない所」が

あったからだ。

克己、三年克之、顔子又不是如今人之病、要克只是一些子未

釋然処。

『陸九淵集』巻三十五「語録下」一七〇条(四五四頁)

 

顔子は常に今の自分を疑った。なぜなら心の中に「釈然としない

所」があったからである。この「釈然としない」という感覚は、先

─ 198 ─

章夫」)、また「非を知れば、則ち本心は即ち復す」(巻三十五「語

録下」一七六条)と述べている。つまり「非」や「過ち」に真に気

0

0

0

付く0

0

ことが出来れば、必ずそれを取り除き、改めることが出来るの

であり、直ちに本心に復ることが出来るのである。「気付く」こと

こそ最も重要である。そういった意味で、顔子は「不善」に気付く

力が誰よりも素晴らしかったということであり、この点こそ顔子の

評価されるべき点であろう。

 

そして、顔子はこのような地道な工夫を、已むに已まれない思い

に突き動かされながら継続していったのである。だから孔子からこ

の上ない称賛を受け、「〔顔子が学ぶことを〕やめるのを見たことが

ない(未見其止)」と言われたのである。

三、「自疑」の重要性

 

この章では、再び巻一「與胡季隨」に戻り、顔子が「知至り」

「善明らか」になるまでの工夫努力の様子を、「疑う」という点から

検証していきたい。

 「学びて問う」という初期段階を経て、次に〔他者との〕切

磋琢磨の段階があり、〔その後に〕必ず「自らを疑うことの兆

し(自疑之兆)」が現われて来ます。その疑問をとことん突き

つめて行けば、必ず「自らに打ち克ったという実感(自克之

実)」が生まれます。これが古人のいう「物格知至」(『大学』)

の成果であります。まだ本当に自らに打ち克つことが出来ず、

自らを疑うこともない。このような状態で無鉄砲に是非を決定

し、可否を定め、たとえそれが枝葉末節において子貢のように

しばしば的中したとしても、それは常に孔子の悩みの種となる

だけです。〔それが的中していたからまだいいが〕ましてやそ

れが的中しなかった場合は言うまでもありません。事事物物の

法則が存在する所では(『詩経』大雅丞民)、天徳に〔その人

が〕到達していなければ、軽々しく語ることは出来ません。

學問之初、切磋之次、必有自疑之兆。及其至也、必有自克之

實、此古人物格知至之功也。己實未能自克而不以自疑、方憑

之以決是非、定可否、縱其標末如子貢之屢中、適重夫子之憂

耳、況又未能也。物則所在、非達天德、未易輕言也。

陸九淵集』巻一「與胡季隨」(八頁)

 「学びて問う」という初期段階を経て、次に他者との切磋琢磨の

段階がある。そしてその後に必ず「自らを疑うことの兆し(自疑之

兆)」が現れてくると象山はいう。ここで「兆し」という言葉が使

われていることに注目したい。それはあくまで「兆し」であって、

微かなものである。微かなものであるがゆえに、見過ごしてしまい

易いものである。この微かな「兆し」に気付き、その疑問をとこと

陸象山の顔子論

─ 199 ─

パワーで、知的・道徳的なポテンシャルエネルギー(潜勢力)

を指す」(小路口聡『陸象山語録精読』 

一〇頁)「中国語の精

神は、元気、気力、心的、肉体的双方を含めたエネルギーの

意」(三浦國雄『「朱子語類」抄』講談社学術文庫、七七頁)

…『易経』(繋辞下伝)は顔子の賢さを称賛していう、「不善有

れば未だ嘗て知らずんばあらず。之を知れば未だ嘗て復た行わ

ざるなり(不善があれば必ず気付いた。不善に気付けば、二度

と同じ過ちを繰り返さなかった)。」と。これによれば、つまり

顔子もまた不善がなかったわけではないということだ。

…『易』稱顔子之賢曰、「有不善未嘗不知、知之未嘗復行

也。」由是觀之、則顔子亦不能無不善處。

『陸九淵集』巻七「與張季忠」(九三頁)

学問というものは本来、窮まりないものである。・・・・顔子

の「好学」(『論語』雍也・先進)に関して、孔子は実にこの上

なくこれを称賛し(注)、そして「(顔子が学ぶことを)やめる

のを見たことがない」(『論語』子罕第九)と言われた。

學問固無窮已、・・・・顔子之好學、夫子實亟稱之、而「未

見其止」。

『陸九淵集』巻一「與邵叔誼」(二頁)

(注) 「実にこの上なくこれを称賛し」は原文では「實亟稱之」であ

る。「亟」は普通、「しばしば」と訓じ、「頻度」を表す副詞で

あるが、上海復旦大学の呉震先生のご教示によれば、その前

に「実(じつに)」という副詞があることから、これは「極」

の誤りであろうとし、「きわめて」と訓じるのが自然であると

のことである。

 

顔子は決して器用で要領のよいタイプの人間ではなかった。偉大

な「精神」を生まれつき有していた人間ではあったが、実践の上で

は大変な苦労を要した。孔子の教えをしっかりと捉えることが出来

なかったが、力の限りを尽くして工夫努力を継続していった結果、

なんとかその姿を捉えることが出来るようになったのである。そし

てその顔子が、常日頃から行っていた工夫というのが、「不善有れ

ば未だ嘗て知らずんばあらず。之を知れば未だ嘗て復た行わざるな

り。」である。心の中に「不善」が生じたならば、それを取り除き、

心の本体に立ち返った。これを「遠からずして復る」(『易経』復卦

初九、繋辞下伝)、つまりそう時間をおかずに直ちに立ち返ったの

である。

 

ちなみにこの「不善有れば未だ嘗て知らずんばあらず。之を知れ

ば未だ嘗て復た行わざるなり」であるが、これを前半の「不善に気

付く」と、後半の「不善を二度と行わない」に二分して捉えがちで

ある。しかし象山は、「真に非を知れば、則ち去る能たわざる無く、

真に過ちを知れば、則ち改むる能たわざる無し。人の患うべきは、

其の非を知らず、其の過ちを知らざるに在るのみ。」(巻十四「與羅

─ 200 ─

『陸九淵集』巻一「與胡季隨」(八頁)

 

ここでは顔子が、常に今の自分に安住することなく、さらなる高

みを目指して工夫努力を継続していった結果、ついに、孔子から

「克己復礼」の教えを受け、そして「請う、斯の語を事とせん」の

時に、「知が至り」「善が明らか」になったと象山は述べている。つ

まりここでやっと顔子は出発点に立てたわけである。「本」が確立

され、「大なるものが立ち」、初めの第一歩が正しく踏み出されたの

である。ここが他の門人達と決定的に異なる点である。

 

ただ顔子がここに至るまでの道筋はそう簡単ではなった。これに

ついて、ここでは次のように述べている。「顔子の賢さを持ってし

ても、まだ知が至らず、善が明らかでない時がありましたが、その

ような時でさえも、音楽や女色、お金や目先の利益にとらわれたり、

怒り、暴力、わがまま勝手といった自らを喪失してしまうようなこ

とには決して至りませんでした。」、また「顔子が多くの人たちと異

なる理由は、ここに安住することなく、〔孔子を〕賛嘆して仰ぎ見

る力を極限にまで高めて、そして絶えず学問をつづけたからであり

ます。」と。顔子は、普段から、地道に工夫努力を継続していたの

であり、孔子から「克己復礼」の教えを受ける時には、すでに物欲

に捉われたり、感情にまかせて自らを見失ってしまうようなことは

なかったと言う。

 

そして象山のこのような発言は、朱子の「克己復礼」の解釈を強

く意識したものと考えられる。

 

朱子は「克己」を「身の私欲に勝つ」と解釈している(『論語集

注』)が、象山は、顔子が孔子から克己復礼の教えを受ける時点で

は、すでに「身の私欲」はなくなっていたとして、朱子の解釈を真

っ向から否定しているのである。さて、話をもとに戻すと、このよ

うな顔子の常日頃の工夫努力について、象山は次のように述べてい

る。

…顔子は人として偉大な精神(注)を有していたが、それを実

践していく上において大変苦労した。仲弓の精神は顔子には及

ばなかったが、実践においては反対に容易であった。顔子は初

め、「仰げば高く、鑚れば堅く、前を瞻れば忽ち後にいる」〔と

いった具合に孔子を全く捉えることが出来なかったが〕、博む

るに文をもってし、約するに礼をもってし、遍く手を尽くし、

力を尽くし、「その能力の限りを尽くしきって」、ようやく「し

っかりとその姿が捉えられるようになった」のである。

…顔子為人最有精神、然用力甚難。仲弓精神不及顔子。然用

力却易。顏子当初「仰高鑚堅、瞻前忽後、博文約礼」、遍求

力索、「既竭其才」、方「如有所立卓爾」。

『陸九淵集』巻三十四「語録上」一四条(三九七頁)

(注) 「精神」とは日本語に訳しにくい言葉である。「気の清明なる

陸象山の顔子論

─ 201 ─

の学問の「本」であり、初めの第一歩であり、「開端発足の大指」

は、ここでは「致知」と「明善」である。巻一「與胡季隨」では、

まずこの学問をする上での大前提を説明し、そこに顔子を登場させ

て、以下のように論を展開していく。

 

顔子の賢さは、孔子がしばしば感嘆するほどであり、その気

質は、一般の人とははるかにかけ離れた素晴らしさであったこ

とは言うまでもないことです。子貢は顔子を理解することはな

いでしょうが、また顔子とは全く異質の存在である事に自分自

身気付いていました。『論語』に掲載されている顔淵の「〔孔子

に対して〕溜息をついて感嘆する」(子罕第九)は、「仁を問

う」(顔淵第十二)の前に当然あるべきですし、「邦を為す(国

家を治める方法)」の問い(衛霊公第十五)は当然「仁を問う」

の後にあるべきで、「請う、斯の語を事とせん(この言葉を第

一として生きてまいります)」(顔淵第十二)と述べた時こそま

さに、知が初めて至り、善が初めて明かになった時なのです。

顔子の賢さをもってしても、まだ知が至らず、善が明らかでな

い時がありましたが、そのような時でさえも、音楽や色事、お

金や目先の利益にとらわれたり、怒り、暴力、わがまま勝手と

いった自らを喪失してしまうようなことには決して至りません

でした。孔子は〔そのような状態であった顔淵の〕「仁を問う」

に答えて、まさに「克己復礼」(顔淵第十二)の説を述べたの

です。〔とすれば〕いわゆる「己私」とは必ずしも、一般の人

が目にするような過失や悪行のようなものを「己私」と言って

いるのではないということがわかります。自らに克つことなく

して、いくら仁義道徳の実践を自らに命じても、いくら聖人賢

人のレベルに達しようと自ら決意しても、それらは全て私欲に

他なりません。顔子が多くの人たちと異なる理由は、ここに安

住することなく、〔孔子を〕賛嘆して仰ぎ見る力を極限にまで

高めて(孔子に少しでも近づこうと努力して)、已むに已まれ

ない思いに突き動かされて学び続けたからであります。それゆ

え「克己復礼」の言葉を実践し切ることが出来き、そして

「知」が成就して「至り」、「善」が成就して「明か」になった

のです。

顔子之賢、夫子所屢歎、氣質之美、固絶人甚遠。子貢非能知

顔子者、然亦自知非儔偶。論語所載顔淵「喟然之嘆」、當在

「問仁」之前、「為邦」之問、當在「問仁」之後、「請事斯語」

之時、乃其知之始至、善之始明時也。以顏子之賢、雖其知之

未至、善之未明、亦必不至有聲色貨利之累、忿狠縱肆之失、

夫子答其「問仁」、乃有「克己復禮」之説。所謂己私者、非

必如常人所見之過惡而後為己私也。己之未克、雖自命以仁義

道德、自期以可至聖賢之地者、皆其私也。顔子之所以異乎衆

人者、為其不安乎此、極鑽仰之力、而不能自已、故卒能踐

「克己復礼」之言、而知遂以至、善遂以明也。

─ 202 ─

の道」は「明善」にあるとしています。今、「善が明らか」に

ならず、「知が至る」ことがない状態で(すなわち初めの第一

歩が間違っている状態で)、ひたすら〔経典を〕暗誦し、注釈

書を学び、コツコツと知識を積み上げ、一生懸命道に取り組ん

でいますが、譬えてみれば、山を登るのに谷に入り込んでいく

ようなもので、入れば入るほどますます深みに入り込んでしま

うのであり、〔南方の〕越国に行くのに車輪を北に向けて走ら

せるようなもので、急いで走らせれば走らせるほど、ますます

遠ざかってしまうのです。「開端発足の大指(最初の一歩の進

むべき方向)」が大きく間違っているのを知らないで、来る日

も来る日も澤虞(山林や沼地を管理する役人)と沼地で道を競

い合ってみても、必ず大きな沼地に入り込んでしまい、そこか

ら出られなくなってしまうだけであるし、燕賈(燕国の商売人)

と商売上の様々な駆引きを試してみても、必ず幽都(堯帝の時

の北方の地)の中で老いぼれて困窮してしまうだけなのです。

大學言明明徳之序、先於致知。孟子言誠身之道、在於明善。

今善之未明、知之未至、而循誦習傳、陰儲密積、勤身以從事、

喩諸登山而陷谷、愈入而愈深、適越而北轅、愈騖而愈遠。不

知開端發足大指之非、而日與澤虞燕賈課遠近、計枉直於其間、

是必没身於大澤、窮老於幽都而已。

『陸九淵集』巻一「與胡季隨」(八頁)

 

ここでは道の第一歩が大事であり、この初めの第一歩が間違って

いれば、その後どんなに努力を重ねようとも、全て徒労に終わると

象山は言う。南方の越国に向かうのに、車の車輪を北に向けたら、

その後、どんなに急いで走らせても、ますます遠ざかるだけである。

そしてこの初めの第一歩をここでは「開端発足の大指」と言ってい

る。つまりここが学問の根本であり、この根本さえ確立出来れば、

あとは自然に導かれて、なすべき言動を取り、そして真の叡智を発

揮していくことが出来るという。つまり「誠なる者は自ら成るなり」

「誠なる者は終始なり」(『中庸』)である。一方、この「開端発足の

大指」が間違っていれば、その後、どのように努力を重ねてみた所

で、どんなにその道の専門家と競い合ってみたとしても、結局はそ

の世界に埋没してしまってそこから抜け出せなくなってしまうので

ある。このように、象山の思想の全体に貫かれているのは「本末思

想」であり、「本」さえ確立できれば「末」は自然になされる、と

いう立場である。さらに言うならば、「本」さえ正しければ全ては

正しい、「本」が間違っていれば全ては間違っている。「正則皆正、

邪則皆邪」(「語録下」二二七条)「一是即皆是、一明即皆明」(「語

録下」三二八条)である。

 

象山は、生涯を通して一貫してこの「本」を正していくことを主

張する。つまり、これこそ「先ず其の大なる者を立つ」(『孟子』告

子上)であり、象山の学問はこの一点に尽きるのである。そしてこ

陸象山の顔子論

─ 203 ─

学思想を明らかにしていこうとする重要な部分である。

〔喟然章〕『論語』子罕第九

顔淵は深くため息をついて言った、「〔孔子先生は〕仰ぎ見れば

ますます高くなり、切ろうとすればますます堅くなり、前にい

らっしゃるかと思えば、もう後ろにいらっしゃる。先生は順序

正しく人々を教え導かれる。『文』でもって私を博められ、

『礼』でもって私を約される。やめようと思ってもやめること

は出来ない。そして私の全てを傾けて努力してきた結果、よう

やく〔その姿が〕しっかりと見えてきた。〔しかし、その先生

に〕従おうとしても、手立てがないのだ。」

顔淵喟然歎曰、「仰之彌高、鑽之彌堅、瞻之在前、忽焉在後。

夫子循循然善誘人、博我以文、約我以禮。欲罷不能、既竭吾

才、如有所立卓爾。雖欲從之、末由也已。」

〔克己復礼章〕『論語』顔淵第十二

顔淵が仁について質問した。孔子はこう答えられた、「克己復

礼を仁と為す。一日、克己復礼すれば、天下仁に帰す。仁を為

すは己に由りて、人に由らんや。」と。顔淵は〔さらに〕おた

ずねした、「請う、其の目を問わん(その細目を教えていただ

けますか)」と。孔子は、「礼に非ざれば視ること勿れ。礼に非

ざれば聴くこと勿れ。礼に非ざれば言うこと勿れ。礼に非ざれ

ば動くこと勿れ。」と答えられた。顔淵は言った、「回、不敏な

りと雖も、請う、斯の語を事とせん(私め、至りませぬが、こ

の言葉を第一として生きてまいります)。」と。

顏淵問仁。子曰、「克己復禮為仁。一日克己復禮、天下歸仁

焉。為仁由己、而由人乎哉?」顏淵曰、「請問其目。」子曰、

「非禮勿視、非禮勿聽、非禮勿言、非禮勿動。」顏淵曰、「回

雖不敏、請事斯語矣。」

(注) 「克己復礼」に関する孔子の発言については、一般によく知ら

れている一文であり、また様々な解釈があることから、ここ

では日本語訳をせず、書き下し文を記した。特に「克己」に

関しては、陸象山は独自の解釈をしており、これについては

第二章で説明する。

二、「致知」「明善」こそ、道の第一歩

 『陸九淵集』巻一「與胡季隨」は、顔子について多くが述べられ

ており、その顔子論を通して本当の学問というものを胡季隨に説明

しようとしている書簡である。以下、この書簡「與胡季隨」を中心

に、象山の顔子論を検証していく。まず初めに、学問は初めの第一

歩が大事であるとして、象山は次のようにいう。

『大学』では「明徳を明らかにす」の順序として、「致知」を先

ず初めに挙げています。『孟子』(離婁上)では「身を誠にする

─ 204 ─

はじめに

 

宋明代の儒学思想の中における顔子の存在は極めて大きい。顔子

は言うまでもなく、孔子が、その「好学」の姿勢ゆえに、最も愛し、

一目置いていた弟子であった。その学問に対する姿勢、そしてその

到達した境地に関していえば、後世においても、その評価は最も高

く、誰もが賞賛して已まなかった人物である。そのような顔子に対

する評価がとりわけ高くなるのが宋明代であった。この時代におけ

る顔子論の地平に関しては、柴田篤氏の「『顏子沒而聖學亡』の意

味するもの─宋明思想史における顏囘─」(『日本中國學會報』第

五十一集、一九九九年)にその概略が簡潔にまとめられている。柴

田氏はこの中で、周濂渓・程伊川・朱子・王陽明・王龍渓に焦点を

当て、それぞれの顔子に対する解釈・評価を、簡潔かつ的確に述べ

ておられる。

 

しかしこの中に、朱子の好敵手であった陸象山の顔子論は述べら

れていない。陸象山は、顔子の死後亡んだという道統を真に継承し

たのは自分であり、そして、それを復活させるのだという強い自負

があった。そして、同時代の朱子を、孔子門下の子貢に見立て、顔

子と常に比較することによって、その違いを浮き彫りにしていこう

とした。このような点からも、陸象山の顔子論を取り上げることは

十分に価値のあることだと思われる。本稿では、『陸九淵集』の中

で、特に顔子について多く述べられている巻一「與胡季隨」を中心

に据えて、その顔子論を検証していきたい。

一、『論語』の中の顔子

 

まず初めに、『論語』子罕第九の「喟然章」、顔淵第十二の「克己

復礼章」を確認しておきたい。ここは、陸象山がその顔子論を展開

する上で度々使用する箇所であり、独自の解釈を施して、自らの心

文学研究科中国哲学専攻博士後期課程2年 

伊香賀 

陸象山の顔子論