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2016 7 21 日放送 「認知症の早期診断」 虎の門病院 高齢者総合診療部 部長 井桁 之総 2025 年には、75 歳以上の後期高齢者が 2179 万人に達し、高齢化率は 30%を超え、 要介護者が 755 万人になると言われています。孤独死、老々介護が増加し、医療財源と 病床数が不足すると予想されております。一方、わが国における認知症の患者総数は、 現在 400 万人を超え、社会損失額は、14.5 兆円に達しています。2025 年には、認知症 患者数は、 700 万人に達し、 65 歳以上の 5 人に一人が認知症になると言われ、その対策 が急がれております。 認知症の約半数を占めるアルツハイマー型認知症は、過去 30 年の研究から、発症に 関わる原因遺伝子とたんぱく質が同定され、その発症機序は解明できたと、思われてい ました。しかしながら、過去 10 年間に行われた大規模治験において、病態修飾薬、つ まり根治薬は、みつかっておりません。現在販売されている、4種類の抗認知症薬はい ずれも進行を遅らせる薬であり、根治薬ではありません。一方、アミロイド PET などの 画像検査や髄液バイオマーカーの研究の進歩から、アルツハイマー型認知症の発症前診 断が可能となりました。現在、これらの検査は保健適応が認められておりませんが、発 症前診断や超早期診断を行い、発症に関わる危険因子を早期から管理する時代になりま した。 【認知症と MCI認知症とは、一度正常に発達し、社会活動ができるようになった方が、その後、知的 機能が低下し、社会活動や日常生活に困難が生じたものを言います。また、年齢相当以 上の物忘れがあるものの日常生活に問題をきたさない状態を、軽度認知障害:MCI と呼

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2016年 7月 21日放送

「認知症の早期診断」 虎の門病院 高齢者総合診療部 部長 井桁 之総

2025 年には、75 歳以上の後期高齢者が 2179 万人に達し、高齢化率は 30%を超え、

要介護者が 755万人になると言われています。孤独死、老々介護が増加し、医療財源と

病床数が不足すると予想されております。一方、わが国における認知症の患者総数は、

現在 400 万人を超え、社会損失額は、14.5 兆円に達しています。2025 年には、認知症

患者数は、700万人に達し、65歳以上の 5人に一人が認知症になると言われ、その対策

が急がれております。

認知症の約半数を占めるアルツハイマー型認知症は、過去 30 年の研究から、発症に

関わる原因遺伝子とたんぱく質が同定され、その発症機序は解明できたと、思われてい

ました。しかしながら、過去 10 年間に行われた大規模治験において、病態修飾薬、つ

まり根治薬は、みつかっておりません。現在販売されている、4種類の抗認知症薬はい

ずれも進行を遅らせる薬であり、根治薬ではありません。一方、アミロイド PET などの

画像検査や髄液バイオマーカーの研究の進歩から、アルツハイマー型認知症の発症前診

断が可能となりました。現在、これらの検査は保健適応が認められておりませんが、発

症前診断や超早期診断を行い、発症に関わる危険因子を早期から管理する時代になりま

した。

【認知症と MCI】

認知症とは、一度正常に発達し、社会活動ができるようになった方が、その後、知的

機能が低下し、社会活動や日常生活に困難が生じたものを言います。また、年齢相当以

上の物忘れがあるものの日常生活に問題をきたさない状態を、軽度認知障害:MCIと呼

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びます。さらには早期診断の観点から、自覚症状による物忘れだけがある状態を「主観

的もの忘れ」と呼ぶようになりました。ここで重要なのは MCI の概念です。MCI は年に

10%ほど認知症に移行します。よって、MCI と診断を受けたら 1年以内に再受診をして

ください。また、年に 14

-44%程度、正常にもどる

ことも解っています。コグ

ニサイズ、つまり暗算をし

ながら有酸素運動を行い、

魚や豆類、野菜を中心とし

た地中海式料理をとり、高

血圧や糖尿病などのリス

クファクターの管理をき

ちんとすることで予防で

きる場合があります。

ここで、認知症の早期診断を老年医学からの立場から見てみましょう。

【老年症候群,フレイル・サルコペニアと軽度認知障害 (MCI)】

「老年症候群」は、加齢に伴う心身機能の衰えによって現れる、身体的・精神的諸症

状と疾患の総称です。「フレイル」は、加齢による臓器機能や予備能の低下のために、

ちょっとしたことで要介護や入院となる状態を言います。また、サルコペニアは、老化

に伴う筋肉量の減少と筋力の低下をいい、進行するとフレイルに移行します。フレイル、

サルコペニアと MCIはいずれも認知症の前段階で注意が必要ですが、危険因子を管理し、

運動や栄養管理で健康な状態に戻ることがあります。ですから日ごろの生活習慣の管理

がとても大切です。認知症

は甲状腺機能低下症、ビタ

ミン B1, B12、葉酸欠乏症、

慢性硬膜下血腫、正常圧水

頭症などの治療法がある

疾患でも生じ、これらが他

の認知症疾患に合併して

いることもあります。さら

に、うつなどの精神症状や

老年症候群を併発し、これ

らが複雑に絡み合って社

会生活を難しくさせます。

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ですから簡易知能検査で安易に診断せず、内科、老年科、神経内科、精神科の観点から総

合的に診断することが大切なのです。

【糖尿病とサルコペニア、とアルツハイマー型認知症】

ここで糖尿病からみたアルツハイマー型認知症への関与をお話します。糖尿病はアル

ツハイマー型認知症の危険因子であり、糖尿病があると MCIからアルツハイマー型認知

症への移行が 3 倍促進され、その発症率が 2 倍に上昇します。また、糖尿病があると、

大脳のインスリンが不足

し、アルツハイマー型認知

症の原因蛋白であるアミ

ロイドβ蛋白の代謝が遅

れます。同時に、インスリ

ンシグナル伝達が障害さ

れ、リン酸化タウ蛋白が増

加し神経細胞が障害され

ます。そして近似記憶障害

が生じ易くなるのです。ア

ルツハイマー型認知症が

発症していなくても、糖尿

病があるだけで、髄液のリ

ン酸化タウ蛋白が増加し

ていると最近報告されて

おります。このように糖尿

病とアルツハイマー型認

知症とは密接に関係して

いるのです。

つぎに運動とアルツハイマー型認知症の関係についてお話します。発症前のアルツハ

イマー型認知症では、認知機能障害と運動機能の低下が、潜在的につながっており、 発

症の約 10年前から体重減少が始まり、約 1、2年前からサルコペニアが発症すると言わ

れております。また、同時期の糖尿病予備軍では耐糖能障害が悪化します。このとき、

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末梢のインスリン分泌が最大になると言われ、脳内のインスリンシグナル伝達がもっと

も障害されます。つまり、ご高齢の方の歩行速度が低下したり、もしくは、耐糖能障害

が悪化した場合には、その後 1、2 年以内にアルツハイマー型認知症が発症する可能性

が高いという仮説が成り立ちます。このように、認知症の早期診断と言っても認知機能

だけを見ていればいいのではなく、全身状態の変化にも注目すべきだと思います。

【変性疾患による認知症】

認知症をきたす疾患は多岐にわたります。いわゆる変性疾患、脳血管障害、免疫・感

染性疾患、自己免疫性疾患、中毒性疾患、代謝性疾患など、さまざまです。その中でも

変性疾患による認知症は、大脳の特定部位に異常構造をもったたんぱく質がたまること

が知られております。アミ

ロイドβ蛋白とタウ蛋白

がたまれば、アルツハイマ

ー病になり、αシヌクレイ

ンがたまればパーキンソ

ン病やレビー小体型認知

症になります。他にもタウ

蛋白は前頭側頭葉型認知

症や進行性核上性麻痺、大

脳皮質基底核変性症を引

き起こし、さらに TDP43

は筋萎縮性側索硬化症や

前頭側頭葉型認知症を発

症させます。これらのたん

ぱく質はそれぞれ、大脳や

脳幹の溜まりやすい場所

が決まっており、どこの部

位に溜まるかによって、ま

ったく異なる症状を引き

起こすのです。さらにこれ

らの蛋白質はいったん蓄

積を開始すると、次から次

へと正常な構造をもつ蛋

白質を異常構造たんぱく

質へと変換させ、伝播してゆきます。この伝播する方向は概ね決まっており、その病理

像によって臨床のステージも分類されています。よって、臨床症状との関連で、どの蛋

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白がどこからたまり、どこへひろがってゆくのかを類推し、認知症の診断と進行予測に

活かして行くのが、臨床医の腕の見せ所になります。

【アルツハイマー型認知症とレビー小体型認知症の早期診断】

ここでアルツハイマー型認知症とレビー小体型認知症の早期診断のお話をします。こ

れらの異常たんぱく質を髄液で測定することによって、アルツハイマー型認知症やレビ

ー小体型認知症の発症前

診断が可能です。アルツハ

イマー型認知症では、発症

する約 20 年も前から大脳

にアミロイドβ蛋白が蓄

積します。一方、髄液中で

はアミロイドβ42 蛋白が

低下し、これを検出するこ

とで発症前診断が可能で

す。しかし保健適応はあり

ません。あくまでも研究上

の分類ですが、髄液のアミ

ロイドβ42 が低下し、ほぼ臨床症状がないものを preclinical AD と呼び、MCI stage

のあるものを MCI due to AD, そして発症したものを AD dementiaと呼んでいます。 一

方、レビー小体型認知症はαシヌクレインという蛋白質が大脳皮質にたまります。脳幹

にたまるとパーキンソン病と呼び、さらには自律神経や皮膚、腸管にも溜まります。そ

のため臨床症状は多彩です。発症の約 10 年前から便秘や嗅覚異常が生じ、約 5 年前か

らうつ やレム睡眠行動異常が生じます。立ちくらみや幻視が加わるとその可能性がい

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っそう高くなり、脳血流シンチグラフィーやドーパミントランスポーターシンチグラフ

ィー(DAT SPECT)で診断が可能です。また、発症前診断には、髄液のαシヌクレインの

低下や腸管や皮膚の生検が試みられておりますが、まだ一般的ではありません。このよ

うに治りにくい認知症も早期に診断し、いかにリスクを抑え込むか、という時代になり

ました。われわれは最先端の知識をいち早く取り込み、より質の高い医療を提供してい

ます。

【高齢者と認知症患者さん、その家族のこころ】

最後に、高齢者と認知症患者さん、その家族のこころについてお話します。高齢者は

退職、配偶者の死、老化という社会的、心理的、肉体上の喪失体験が多く「うつ」にな

り易いのです。またアルツハイマー型認知症やレビー小体型認知症では、病気自体に鬱

や無気力を合併しやすくなります。認知症の患者さんでは、脳の容積が小さくなり、情

報が脳から溢れるように「間違い」を起こします。患者さんとしては、うまくやってい

るつもりですが、周りから責められることが多く、戸惑いや怒りを感じてしまうのです。

みなさんは、この「間違い」を責めずにおおらかに受け入れることができますか?高齢

者でも認知症患者さんでもこころの源は同じであり、そこに寄り添うことが大切です。

しかし現実はとても難しい・・・なぜなら患者さんを通して受容できない自分自身とも、

向き合うことになるからです。患者さんと、介護で苦労されるご家族には精神的なサポ

ートが必要です。それは医学的な見地に立ち、かつ人として心のこもったものでなけれ

ばなりません。皆さんの流した悲しみの涙が、喜びの涙に変わるよう、我々は今後も努

力を続けてまいります。