(9) (8) 平成₃₀年(₂₀₁₈)₁月₁日(月曜日) 平成₃₀年(₂₀₁₈)₁月₁日(月曜日) (毎月₃回₁日₁₀日₂₀日発行) (毎月₃回₁日₁₀日₂₀日発行) 〈第三種郵便物認可〉 祖師堂① 本地堂② 思親閣仁王門 ⑲(身延山頂) 御真骨堂 本堂 御真骨堂 拝殿③ 殿水鳴楼 旧書院⑥ 新書院⑦ 東渓閣 鶯渓閣 水屋 五重塔 大鐘楼⑪ 常唱殿⑮ 信徒研修道場 三昧堂⑯ 拝殿 祖廟塔 開基堂 殿法喜寮 清風寮 釈迦殿 納牌堂 時鐘楼⑩ 男坂 女坂 西三門⑬ 太子堂⑫ 武道場 体育館 実習棟 身延山大学 身延山高校 ※普段は入れません 総本山身延山久遠寺 登録有形文化財目指す 19 の諸堂地図 総本山身延山久遠寺 登録有形文化財目指す 19 の諸堂地図 信行道場 水行堂⑱ 瑞門⑰ 19 50 調日蓮聖人のみ魂が棲まわれる「祖師 堂」で「棲神閣(祖師堂)」とも呼ばれ ます。明治14年(1881=137年前)に 建立されたお堂です。全て新しい材料で建て られたわけではなく、大部分は天保の改革で 取り壊された江戸の鼠山感応寺本堂のものが 使われています。感応寺はわずか8年しか存 在しませんでしたが、大寺院でした。鎌倉の 比企谷妙本寺に置かれていた用材を利用し、 大火で焼失した祖師堂を復興させたのです。 富士川を船で上り運ばれてきました。(約 871㎡、木造平屋建、撞木造、銅瓦葺) 昭和17年(1942=76年前) に建てられた白亜の八角塔で す。中に日蓮聖人がご入滅された時に建立さ れた五輪塔形式のお墓が納められています。 「いづくにて死に候とも、(中略)墓をば身延山に立 てさせ給へ」と日蓮聖人のご遺言どおりに、日蓮聖 人が身延ご在山時に過ごされた場所に建てられてい ます。(約11㎡、石造) 文政5年(1823=195年前)に建立され ました。始めのクイズ「約200年前のお堂」の 答えはこのお堂のことです。皆さんは多分、このお堂を参拝され たことがない、見たことがない…という方がほとんどかもしれません。昭 和49年まで行われていた身延山の荒行堂に入ったという経験がおありの お坊さんなら見覚えがあるかもしれません。そうです。このお堂はかつて 「大荒行尊神堂」と呼ばれていたお堂です。昭和16年にある場所から現在 地に移築されました。(約163㎡、木造平屋建、入母屋造、瓦棒銅板葺) みなさんは祖師堂の大きな屋根を支えてい る方がいることに気づかれていますか? よく 「天 あまのじゃく 邪鬼」がこういった場所に配されすが、久遠寺 の祖師堂は赤い姿をした「力 りき じん 」という神さまが屋根 を支えてくれています。南・東・西の3ヵ所に配さ れています。望月先生から感応寺の話がありました が、もともとの感応寺本堂がそのまま再現されたわ けではありません。同じものを造れば簡単だったも のを、より大きく、さらに形も変えられました。な ので部材をみてますと、こんなところに別の部材が 使われているな! と感心するところがあります。 正面のお題目は鎌倉の本山妙 本寺格護「臨滅度時御本尊」の お題目です。建立時にはなく、昭和42年に寄 進されたものです。この八角の塔が建立される以 前は、お堂の中に五輪塔を護持していました。御 真骨堂拝殿にかかる「而実不滅度」の扁額を先に 紹介しましたが、かつてのお堂は「方便現涅槃塔」 と呼ばれていました。これも先と同じく、日人の肉体は滅しても、その教え、御心は変わらず にここにあり、絶えず私たちを教え導いてくださ っている、という思いが込められています。さて、 問題です。実は、現在も身延山内にかつてのお堂 が残っています。それはどこでしょう? 答えは 読み進めてもらえれば分かりますよ! 祖廟塔での私の問いを覚えていますか。実はこの三 昧堂こそが、日聖人のご廟をかつて護持し、「八角堂常在殿」と呼 ばれていたお堂なんです。八角ではないのに八角堂と呼ばれていたの は不思議ですよね。それはかつての御廟堂が八角であったということ や、お厨子が八角であったためにそのように呼ばれたと考えられていま す。ちなみに八角なのはできるだけ、円形に近づけるためで、木造では 円形にするのが難しいので八角になっていることが挙げられます。残念 ながら現在は自由に参拝することが難しい場所にあります。 明治の大火をくぐり抜けた本地 堂ですが、祖師堂の真裏という場所に建てられ ていることに深い意味があります。身延山頂の思親 閣へ向かう途上に一丈六尺のお釈迦さまを祀る丈六 堂がありますが、実は祖師堂、本地堂、丈六堂はほ ぼ一直線に並んでいます。これはお釈迦さまから上 行菩薩へ、そして上行菩薩から日聖人へという、 法華経弘 ずう に関する日聖人の教義が示されており、 重要な信仰的意義があるのです。 拝殿を入ってすぐにある扁 へん がく は「而 じつ めつ 」と揮 ごう されていま す。訓読みすると「而 しか も実 じつ には滅 めつ せず」となり、寿 じゅ りょう ほん の自 にある経文ですが、これには日聖人の み魂が滅することなく身延山でいつも私たちを迎えて くれていらっしゃるという意味が込められています。 ちなみに、大火前の御真骨堂は「而実不滅塔」と呼ば れていたんですよ。 新書院はなか なか入る機会がないと思います が、ここにある欄間は日聖人の御 一代記ではなく、ここ身延山での歴 史上の出来事が彫られているのが特 徴です。 皆さんは鐘楼堂の基壇の真ん中 に大きな穴が開いてあることを知っています か? これは鳴洞といって音響を良くするためのも のです。鐘の音は撞 しゅ もく (鐘を撞く木のこと)で打っ た瞬間の音が重要なのではなく、鐘の中で反響する 音が大事なのです。身延山の鐘は一里(約3・9㎞) 四方に響き渡ると伝わっています。ちなみに体を思 い切り倒して鐘を撞く、その姿も話題になります。 養仙院が梵鐘を寄進した理由に、「身延山の 人たちは時を知らない。修行に不便であろう」 と言われたと伝わっています。本当に身延山の人たちが時を知ら なかったかは、謎ですが…。ただ、この梵鐘はもともと女坂の途 中にあり、久遠寺だけではなく、門前町にも時間を知らせる役割 がありました。現在は朝の勤行が終了した時に鳴らされますが、 昔は十二時辰に合わせた2時間ごとに鳴らされていました。 日本三大三門の1つと言われるほど、 圧巻の三門です。今までに三門は2回焼失していますが、 仁王さまは焼けずに済んでいます。この仁王さまは、もと もと相模国にあった仁王像が六浦平次郎入道によって、背 負われて一夜で運ばれてきたという伝説があります。三門 が燃えたとき、身延川の川辺に仁王さまが移動されていた という話もあり、よくもまあこんなにも大きな像を平次郎 が背負ったり、火災の際に人びとが運び出せたなあと思っ ていたのですが、実は以前、仁王像を移動させた時、意外 な部分が解体できることを知りました。伝説は本当のこと なんだなと思いましたね。 身延山では、度々の火災で伽藍 が焼失した後、何よりもまず祖師 堂を再建してきました。それはお祖師さまへの信仰の 表れに他なりません。しかし、書院は実務上必ず必要 かつ規模も小さいため、祖師堂に先んじて火災の翌年 に完成した建物です。内部の欄間には後藤功裕の作の 表と裏がまったく同じものの彫刻がほどこされており、 珍しく貴重なものですので、機会があればぜひご覧く ださい。 甘露門はもともと「表門」でした。他にも「中門」「裏門」がありましたが、 現在はありません。かつては菩 だい てい を登った上に持 こく てん ・広 こう もく てん が祀られた二 てん もん があり、参詣者の多くはそちらを潜 くぐ りました。この甘露門は女坂を登ってきた参拝者はもちろんの こと、僧侶や商工人の出入りなど、久遠寺として実務的な門の役割も担っていました。古写真を見る とかつては鬱 うっ そう とした木々の中に佇んでおり、大変趣があります。 ヒミツ?! ヒミツ?! ヒミツ?! ヒミツ?! ヒミツ?! ヒミツ?! ヒミツ?! ヒミツ?! ヒミツ?! ヒミツ?! ヒミツ?! ザ・解説! ザ・解説! ザ・解説! 日蓮聖人のみ魂が棲まわれる祖師堂。その名も「 三方で屋根を支える のは「力神」さま! 日蓮聖人は自らをお釈迦さま が法華経の流布を託す四菩薩のう ちの じょう ぎょう 菩薩の生まれ変わりと申され ました。その上行菩薩を祀るのがこの 嘉永5年(1852=166年前)に 建立された本地堂です。はじめは宝永 7年(1710)に建てられましたが、 文政7年(1824)に焼失してしま いました。(約16㎡、木造平屋建、楼造、 銅板平葺) ザ・解説! 祖師堂 (日蓮聖人) 丈六堂 本地堂 (お釈迦さま) (上行菩薩) 殿日蓮聖人のご遺骨が納められて いるのが御真骨堂ですが、登録が 進められているのは拝殿で、境内にある祖師堂と 同じく朱色のお堂です。堀之内妙法寺が所有していた 御松庵の建物を寄付していただき、祖師堂と同じ明治14 年に建てられました。(約115㎡、木造平屋建、入母屋造、 瓦棒銅板葺) 昭和6年(1931)に建立されまし た。金、銀、金砂という襖の色に合わせ た3つの間に区切られており、奥の間は 皇族などの来賓の間となっています。 (約 199㎡、木造平屋建、入母屋造、浅瓦 葺) 明治9年(187 6=142年前)建 立です。ここでは輪 ばん しょく や法 げい お目通りの儀式 が行われます。上段の間は、 のぶ 筆と伝わる襖があ ったため(現在は宝物館に 格護)、元信の号「法 げん (古 げん )」を取って「古法眼の 間」と呼ばれ、今でもそう 呼ばれるときがあります。 (約205㎡、木造平屋建、 入母屋造、本瓦葺) 鐘楼堂は明治15年 (1882=136 年前)、梵鐘は22世 日遠上人代で企画、25 世日深上人代で鋳造さ れ、銘は21世日乾上人 の撰です。通常は朝と 夕方に撞かれます。梵 鐘はお万の方の寄進で すが、もともと発願し たのは道順という人で した。当時、身延山に あった梵鐘より、良い ものをと発願したので すが、志半ばで亡くな ってしまいます。その 話を聞いたお万の方が 不憫に思い、意志を引 き継ぎました。(約24㎡、 木造、入母屋造、本瓦葺) 明治10年(1877) に甲斐国南条講題目結 社が寄進しましたが、 昭和27年(1952= 66年前)に大映の社長・故永 田雅一氏が再建したものです。 梵鐘は延宝8年(1680) に四国松山城主久松家の祖、 定頼の正室養仙院が寄進した もので、31世日脱上人の銘が あります。(約20㎡、木造平屋 建、浅瓦葺) 三門とは「 」のことで、 がん 3つから悟りを得るとい う意味で、三門を通って 悟りという境地に向かう、 という意義があります。 身延山の三門は明治40年 (1907=111年前) に建立されました。楼上 の内陣にはお釈迦さまと じゅう 像、下層の両側 には寺院を護持する金剛 力士(仁王)像が安置され ています。十六羅漢像は 毎月16日の一般公開や毎 年の8月7日の七夕(旧 暦)に合わせて仁王尊の祭 りがあるため、拝するこ とができます。(間口13間 奥行5間高さ21丈=約21 ㍍、木造、総欅造、本瓦葺) その名の通り、 聖徳太子を祀るお 堂で、三門工事に 携わった宮大工に よって大正15年(1926 =92年前)に建立されまし た。堂内には聖徳太子像、 日蓮聖人像、妙力大善神 などが祀られています… が、太子像は現在は三門 で管理されていますので、 ぜひ係の人に尋ねてみて ください。(約30㎡、木造 平屋建、寄棟造、浅瓦葺) 法華経 にある「 」から名付けられた甘露門は、明治 元年(1868=150年前)に造られま した。観世音菩薩は私たちを救うため、甘露 の雨を降らすという意味です。扁額は元・元 老院議官の中村正直筆によるものです。(約12 ㎡、木造、高麗門、本瓦葺) ザ・解説! 殿87 使殿10 82 36 殿33 60 19 殿使18 調殿殿殿12 殿使殿23 20 20 殿 「質素だが素晴らしい建物」 お抱え宮大工集団の最後の仕事 大客殿 横に長い、近代和風建築の 中でも珍しい建物 ザ・解説! ザ・解説! ザ・解説! ザ・解説! ザ・解説! ザ・解説! ザ・解説! 旧書院 別名「古法眼の間」 16 駿秀吉姉・瑞龍院が 子・秀次の菩提を 弔うために… 観音さまが甘露の雨を降らす 4㌔四方に響く鐘! ヒミツは「基壇」に アリ! 門前町にも時間を 知らせる役割 伝説は本当だった!? かつて身延山には「池上」姓を持つ棟 梁さんを筆頭に、身延山の諸堂を建立、修復 するお抱えの宮大工集団がいました。大工職 人にはもともと寺院建築史上大きな存在であ ったことに由来して聖徳太子への信仰があ り、身延山でも太子講が結成されました。 ヒミツ?! 身延山のお抱え 宮大工集団が建立 以前のお堂は山内に ご入滅後からの五輪塔を護持 常唱殿 祖廟塔と中心が 寸分違わないこ とが建立条件 ザ・解説! ずい もん 世間と 結界の修行場を 隔てる門「瑞門」 は 昭 和28年( 1 9 5 3 =67年 前 ) に 建立されました。 横から門と塀の並びを見ると中心がずらされている薬医門という、お医者 さんがいる家・建物とわかる門造でつくられています。(約4㎡、木造、 切妻造、浅瓦葺)/水行堂=厳しい寒さの中で、水をかぶるための水が張 られる水盤を守るお堂で、昭和27年(1952=66年前)に建てられまし た。(約23㎡、木造平屋建、切妻造、瓦葺) かつての修行場 厳しい修行に身を投じ かつて菩提梯を登りきった 場所にあった仁王門を新しく 総本山身延山久遠寺の 19 棟 総本山身延山久遠寺の 19 棟

本 いらっしゃいます。私たちを見守ってみ魂は滅す …news-nichiren.jp/wp/wp-content/uploads/2018/03/★18...(9) 平成₃₀年(₂₀₁₈)₁月₁日(月曜日)

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Page 1: 本 いらっしゃいます。私たちを見守ってみ魂は滅す …news-nichiren.jp/wp/wp-content/uploads/2018/03/★18...(9) 平成₃₀年(₂₀₁₈)₁月₁日(月曜日)

(9) (8)平成₃₀年(₂₀₁₈)₁月₁日(月曜日) 平成₃₀年(₂₀₁₈)₁月₁日(月曜日)(毎月₃回₁日₁₀日₂₀日発行) (毎月₃回₁日₁₀日₂₀日発行)〈第三種郵便物認可〉

祖師堂①本地堂②

思親閣仁王門⑲(身延山頂)

御真骨堂宝物館入口

本堂

報恩閣

(総受付)

御真骨堂拝殿③

納牌堂

納牌堂

仏殿④

水鳴楼

旧書院⑥

新書院⑦

東渓閣

鶯渓閣水屋五重塔

大鐘楼⑪

常唱殿⑮ 信徒研修道場

三昧堂⑯

拝殿祖廟塔⑭

開基堂

大客殿法喜堂法喜寮

清風寮

釈迦殿納牌堂

時鐘楼⑩

甘露門⑨

樋沢川 菩

提梯

男坂女坂

西谷

三門⑬

太子堂⑫

武道場

体育館実習棟身延山大学

身延山高校図書館

東谷

※普段は入れません

総本山身延山久遠寺登録有形文化財目指す 19の諸堂地図

総本山身延山久遠寺登録有形文化財目指す 19の諸堂地図

信行道場

水行堂⑱ 瑞門⑰

 山梨県総そ

本ほん

山ざん

身み

延のぶ

山さん

久く

遠おん

寺じ

では、明治時代に建立された諸堂(19棟)

を中心に国の制度による有形文化財の登録を進めています。登録有形文

化財建造物は50年を経過した歴史的建造物のうち、「国土の歴史的景観

に寄与している」「造形の規範となっている」「再現することが容易では

ない」という基準で評価が決められ、登録されるものです。残念ながら、

身延山久遠寺は明治8年(1875)に大火に見舞われ、ほとんどの堂ど

宇う

が灰か

燼じん

に帰き

すというできごとがありました。それでも、日蓮聖人のみ

魂たま

が棲す

まう身延山を復興させようと多くの信仰篤き人たちが関わり、現

在まで伽が

藍らん

を整えてきました。今回、身延山大学の望月真澄先生と身延

山久遠寺布教部の林是恭師がその諸堂を案内してくれます。

 近年では、明治時代建造の建物などが、その文化的、歴史的価値に気

づかず、取り壊されている現状があります。身延山ではもちろんそのよ

うなことはありませんが、もう一度、私たちの信仰の拠り所にある諸堂

を見直してみませんか。

 あけましておめでとうございます。

 私は日蓮聖人ご在山時からの身延山を調

べていますが、今回紹介するのは、有形文

化財登録を進める建造物で比較的近年のも

のです。と言っても、一番古いものでは約

 あけましておめでとうございます。身延

山久遠寺・宝物館学芸員の林と申します。

現在、身延山久遠寺にある諸堂を有形文化

財に登録するために奔走しています。今回

は登録を進めている諸堂のちょっとしたヒ

ミツ(?)を教えます。次回の参拝がもっと楽しみになりますよ!

望月真澄先生(身延山大学仏教学部長)

林是恭師(身延山久遠寺布教部)

200年前のお堂があるんですよ。みなさんはどのお堂か分かりますで

しょうか? 楽しみに読んでみてください!

 日蓮聖人のみ魂が棲まわれる「祖師堂」で「棲神閣(祖師堂)」とも呼ばれます。明治14年(1881=137年前)に建立されたお堂です。全て新しい材料で建てられたわけではなく、大部分は天保の改革で取り壊された江戸の鼠山感応寺本堂のものが使われています。感応寺はわずか8年しか存在しませんでしたが、大寺院でした。鎌倉の比企谷妙本寺に置かれていた用材を利用し、大火で焼失した祖師堂を復興させたのです。富士川を船で上り運ばれてきました。(約871㎡、木造平屋建、撞木造、銅瓦葺)

 昭和17年(1942=76年前)に建てられた白亜の八角塔で

す。中に日蓮聖人がご入滅された時に建立された五輪塔形式のお墓が納められています。「いづくにて死に候とも、(中略)墓をば身延山に立てさせ給へ」と日蓮聖人のご遺言どおりに、日蓮聖人が身延ご在山時に過ごされた場所に建てられています。(約11㎡、石造)

 文政5年(1823=195年前)に建立されました。始めのクイズ「約200年前のお堂」の答えはこのお堂のことです。皆さんは多分、このお堂を参拝されたことがない、見たことがない…という方がほとんどかもしれません。昭和49年まで行われていた身延山の荒行堂に入ったという経験がおありのお坊さんなら見覚えがあるかもしれません。そうです。このお堂はかつて「大荒行尊神堂」と呼ばれていたお堂です。昭和16年にある場所から現在地に移築されました。(約163㎡、木造平屋建、入母屋造、瓦棒銅板葺)

 みなさんは祖師堂の大きな屋根を支えてい

る方がいることに気づかれていますか? よく

「天あ ま の じ ゃ く

邪鬼」がこういった場所に配されすが、久遠寺

の祖師堂は赤い姿をした「力り き

神じ ん

」という神さまが屋根

を支えてくれています。南・東・西の3ヵ所に配さ

れています。望月先生から感応寺の話がありました

が、もともとの感応寺本堂がそのまま再現されたわ

けではありません。同じものを造れば簡単だったも

のを、より大きく、さらに形も変えられました。な

ので部材をみてますと、こんなところに別の部材が

使われているな! と感心するところがあります。

 正面のお題目は鎌倉の本山妙

本寺格護「臨滅度時御本尊」の

お題目です。建立時にはなく、昭和42年に寄

進されたものです。この八角の塔が建立される以

前は、お堂の中に五輪塔を護持していました。御

真骨堂拝殿にかかる「而実不滅度」の扁額を先に

紹介しましたが、かつてのお堂は「方便現涅槃塔」

と呼ばれていました。これも先と同じく、日蓮聖

人の肉体は滅しても、その教え、御心は変わらず

にここにあり、絶えず私たちを教え導いてくださ

っている、という思いが込められています。さて、

問題です。実は、現在も身延山内にかつてのお堂

が残っています。それはどこでしょう? 答えは

読み進めてもらえれば分かりますよ! 祖廟塔での私の問いを覚えていますか。実はこの三

昧堂こそが、日蓮聖人のご廟をかつて護持し、「八角堂常在殿」と呼

ばれていたお堂なんです。八角ではないのに八角堂と呼ばれていたの

は不思議ですよね。それはかつての御廟堂が八角であったということ

や、お厨子が八角であったためにそのように呼ばれたと考えられていま

す。ちなみに八角なのはできるだけ、円形に近づけるためで、木造では

円形にするのが難しいので八角になっていることが挙げられます。残念

ながら現在は自由に参拝することが難しい場所にあります。

 明治の大火をくぐり抜けた本地

堂ですが、祖師堂の真裏という場所に建てられ

ていることに深い意味があります。身延山頂の思親

閣へ向かう途上に一丈六尺のお釈迦さまを祀る丈六

堂がありますが、実は祖師堂、本地堂、丈六堂はほ

ぼ一直線に並んでいます。これはお釈迦さまから上

行菩薩へ、そして上行菩薩から日蓮聖人へという、

法華経弘ぐ

通ず う

に関する日蓮聖人の教義が示されており、

重要な信仰的意義があるのです。

  拝殿を入ってすぐにある扁へ ん

額が く

は「而に

実じ つ

不ふ

滅め つ

度ど

」と揮き

毫ご う

されていま

す。訓読みすると「而し か

も実じ つ

には滅め つ

度ど

せず」となり、寿じ ゅ

量りょう

品ほ ん

の自じ

我が

偈げ

にある経文ですが、これには日蓮聖人の

み魂が滅することなく身延山でいつも私たちを迎えて

くれていらっしゃるという意味が込められています。

ちなみに、大火前の御真骨堂は「而実不滅塔」と呼ば

れていたんですよ。

  新書院はなか

なか入る機会がないと思います

が、ここにある欄間は日蓮聖人の御

一代記ではなく、ここ身延山での歴

史上の出来事が彫られているのが特

徴です。

 皆さんは鐘楼堂の基壇の真ん中

に大きな穴が開いてあることを知っています

か? これは鳴洞といって音響を良くするためのも

のです。鐘の音は撞し ゅ

木も く

(鐘を撞く木のこと)で打っ

た瞬間の音が重要なのではなく、鐘の中で反響する

音が大事なのです。身延山の鐘は一里(約3・9㎞)

四方に響き渡ると伝わっています。ちなみに体を思

い切り倒して鐘を撞く、その姿も話題になります。

 養仙院が梵鐘を寄進した理由に、「身延山の

人たちは時を知らない。修行に不便であろう」

と言われたと伝わっています。本当に身延山の人たちが時を知ら

なかったかは、謎ですが…。ただ、この梵鐘はもともと女坂の途

中にあり、久遠寺だけではなく、門前町にも時間を知らせる役割

がありました。現在は朝の勤行が終了した時に鳴らされますが、

昔は十二時辰に合わせた2時間ごとに鳴らされていました。

 日本三大三門の1つと言われるほど、

圧巻の三門です。今までに三門は2回焼失していますが、

仁王さまは焼けずに済んでいます。この仁王さまは、もと

もと相模国にあった仁王像が六浦平次郎入道によって、背

負われて一夜で運ばれてきたという伝説があります。三門

が燃えたとき、身延川の川辺に仁王さまが移動されていた

という話もあり、よくもまあこんなにも大きな像を平次郎

が背負ったり、火災の際に人びとが運び出せたなあと思っ

ていたのですが、実は以前、仁王像を移動させた時、意外

な部分が解体できることを知りました。伝説は本当のこと

なんだなと思いましたね。

 身延山では、度々の火災で伽藍

が焼失した後、何よりもまず祖師

堂を再建してきました。それはお祖師さまへの信仰の

表れに他なりません。しかし、書院は実務上必ず必要

かつ規模も小さいため、祖師堂に先んじて火災の翌年

に完成した建物です。内部の欄間には後藤功裕の作の

表と裏がまったく同じものの彫刻がほどこされており、

珍しく貴重なものですので、機会があればぜひご覧く

ださい。

 甘露門はもともと「表門」でした。他にも「中門」「裏門」がありましたが、

現在はありません。かつては菩ぼ

提だ い

梯て い

を登った上に持じ

国こ く

天て ん

・広こ う

目も く

天て ん

が祀られた二に

天て ん

門も ん

があり、参詣者の多くはそちらを潜く ぐ

りました。この甘露門は女坂を登ってきた参拝者はもちろんの

こと、僧侶や商工人の出入りなど、久遠寺として実務的な門の役割も担っていました。古写真を見る

とかつては鬱う っ

蒼そ う

とした木々の中に佇んでおり、大変趣があります。

ヒミツ?!

ヒミツ?!

ヒミツ?!

ヒミツ?!

ヒミツ?!

ヒミツ?!

ヒミツ?!

ヒミツ?!

ヒミツ?!

ヒミツ?!

ヒミツ?!

ヒミツ?!

ヒミツ?!

ヒミツ?!

ザ・解説!

ザ・解説!

ザ・解説!

 みなさんは祖師堂の大きな屋根を支えてい みなさんは祖師堂の大きな屋根を支えてい

も ん

日蓮聖人のみ魂が棲まわれる祖師堂。その名も「棲せ い

神し ん

閣か く

祖師堂

三方で屋根を支えるのは「力神」さま!

 日蓮聖人は自らをお釈迦さまが法華経の流布を託す四菩薩のうちの上

じょう

行ぎょう

菩薩の生まれ変わりと申されました。その上行菩薩を祀るのがこの嘉永5年(1852=166年前)に建立された本地堂です。はじめは宝永7年(1710)に建てられましたが、文政7年(1824)に焼失してしまいました。(約16㎡、木造平屋建、楼造、銅板平葺)

ザ・解説!

本ほ

地じ

堂ど

太子堂

祖師堂(日蓮聖人)

丈六堂

本地堂

(お釈迦さま)

(上行菩薩)

なんで少し離れた

ところにあるの?

重要な信仰的意義

御真骨堂拝殿 日蓮聖人のご遺骨が納められているのが御真骨堂ですが、登録が進められているのは拝殿で、境内にある祖師堂と同じく朱色のお堂です。堀之内妙法寺が所有していた御松庵の建物を寄付していただき、祖師堂と同じ明治14年に建てられました。(約115㎡、木造平屋建、入母屋造、瓦棒銅板葺)

 昭和6年(1931)に建立されました。金、銀、金砂という襖の色に合わせた3つの間に区切られており、奥の間は皇族などの来賓の間となっています。(約199㎡、木造平屋建、入母屋造、浅瓦葺)

 明治9年(1876=142年前)建立です。ここでは輪

り ん

番ば ん

委い

嘱し ょ く

や法ほ っ

主す

猊げ い

下か

お目通りの儀式が行われます。上段の間は、狩

野の う

元も と

信の ぶ

筆と伝わる襖があったため(現在は宝物館に格護)、元信の号「法

ほ う

眼げ ん

(古こ

法ほ う

眼げ ん

)」を取って「古法眼の間」と呼ばれ、今でもそう呼ばれるときがあります。(約205㎡、木造平屋建、入母屋造、本瓦葺)

 鐘楼堂は明治15年(1882=136年前)、梵鐘は22世

日遠上人代で企画、25世日深上人代で鋳造され、銘は21世日乾上人の撰です。通常は朝と夕方に撞かれます。梵鐘はお万の方の寄進ですが、もともと発願したのは道順という人でした。当時、身延山にあった梵鐘より、良いものをと発願したのですが、志半ばで亡くなってしまいます。その話を聞いたお万の方が不憫に思い、意志を引き継ぎました。(約24㎡、木造、入母屋造、本瓦葺)

 明治10年(1877)に甲斐国南条講題目結社が寄進しましたが、昭和27年(1952=66年前)に大映の社長・故永田雅一氏が再建したものです。梵鐘は延宝8年(1680)に四国松山城主久松家の祖、定頼の正室養仙院が寄進したもので、31世日脱上人の銘があります。(約20㎡、木造平屋建、浅瓦葺)

 三門とは「三さ ん

解げ

脱だ つ

門も ん

」のことで、空く う

・無む

相そ う

・無む

願が ん

の3つから悟りを得るという意味で、三門を通って悟りという境地に向かう、という意義があります。身延山の三門は明治40年(1907=111年前)に建立されました。楼上の内陣にはお釈迦さまと十じ ゅ う

六ろ く

羅ら

漢か ん

像、下層の両側には寺院を護持する金剛力士(仁王)像が安置されています。十六羅漢像は毎月16日の一般公開や毎年の8月7日の七夕(旧暦)に合わせて仁王尊の祭りがあるため、拝することができます。(間口13間奥行5間高さ21丈=約21㍍、木造、総欅造、本瓦葺)

 その名の通り、聖徳太子を祀るお堂で、三門工事に携わった宮大工によって大正15年(1926=92年前)に建立されました。堂内には聖徳太子像、日蓮聖人像、妙力大善神などが祀られています…が、太子像は現在は三門で管理されていますので、ぜひ係の人に尋ねてみてください。(約30㎡、木造平屋建、寄棟造、浅瓦葺)

 法華経観か ん

世ぜ

音お ん

菩ぼ

薩さ つ

普ふ

門も ん

品ぼ ん

にある「澍じ ゅ

甘か ん

露ろ

法ほ う

雨う

」から名付けられた甘露門は、明治元年(1868=150年前)に造られました。観世音菩薩は私たちを救うため、甘露の雨を降らすという意味です。扁額は元・元老院議官の中村正直筆によるものです。(約12㎡、木造、高麗門、本瓦葺)

ザ・解説!

ザ・解説!

ザ・解説!

ザ・解説!

扁額には「而に

実じ

不ふ

滅め

度ど

み魂は滅することなく

私たちを見守って

いらっしゃいます。

 大きく立派な仏殿とその左右が

位牌を安置する納牌堂です。昭和

6年(1931=87年前)に建立

され、日蓮聖人第650遠お

忌き

に落

慶法要が営まれました。本堂がな

かった時代は、本堂として使われ、

法事を営むことができるように内

陣が設けられました。身延山には

かつてお抱えの宮大工集団がいま

したが、その組織的な最後の仕事

となったのがこの仏殿納牌堂で

す。専門家から見ると「質素だが

素晴らしい建物」と評価の高いお

堂です。(木造平屋建、入母屋造、

銅瓦葺)

 甘露門での林師

の説明にもありま

したが、菩ぼ

提だい

悌てい

登りきった場所に

かつて二に

天てん

門もん

があ

りました。この二

天門が天和年間に

移設されました

が、現在の仁王門

は老朽化により昭

和10年(1935

=82年前)に建て

替えられたもので

す。(約36㎡、木造、

切妻造、浅棒銅板

葺)

 日蓮聖人のお墓・ご廟

所に関する法務と作務を

司っている常唱殿は昭和

33年(1958=60年前)

に建てられました。この

建物の中心は祖廟塔と寸

分も違わずに建てられて

いることが建立の条件と

されたそうです。(約3

41㎡、木造平屋建、檜

皮葺)

 明治19年(1886=132年前)

建立の大客殿です。大玄関は法ほ

主す

猊げい

下か

、国賓、宗門内の要職者、小玄関は

来客者が使用します。18年に東京深川

浄心寺で身延山祖師堂の出開帳が行わ

れた折に建立が発願され、浄財が調達

されました。(約531㎡、木造平屋建、

入母屋造、瓦棒銅板葺)

 

早くは日蓮聖人がご在世の頃

から、富木常忍公が母の、また

遠藤守綱が父・阿仏房の遺骨を

納骨し、以来、一般の方はもと

より、大名家をはじめとする篤

信の信徒や、日蓮聖人の教えに

導かれた多くの人たちが、法華

経の霊

りょう

山ぜん

に、また日蓮聖人の少

しでもお傍にと、納骨・納牌を

するようになりました。身延山

への信仰を表す大きな特徴で

す。

 

はじめ常経殿とい

う名称でしたが、祖廟

塔前の拝殿をかつて

常経殿と呼んでいた

こともあり、向こ

後ご

の混

乱を避けるために平

成12年5月から常唱

殿を名乗るようにな

りました。素材がなか

なか手に入らない檜

皮葺の屋根は一

見の価値があり

ます。

 

横に長大な建物で、

明治期からの近代和風

建築と呼ばれるものの

中でも珍しい建物で

す。上段の間があるこ

とや昔は松竹梅竜と部

屋が分けられていまし

たが、今は襖を取り払

って大きな1つの部屋

として使われていま

す。かつての客殿は「千

畳敷」とも呼ばれ、な

んと現7間23間よりも

広い20間20間

もありました。

仏ぶ つ

殿で ん

納の う

牌は い

堂ど う

身延山の大きな

    

特徴の1つ

「日蓮聖人のお傍で

    

眠りたい…」

「質素だが素晴らしい建物」お抱え宮大工集団の最後の仕事

大 客 殿横に長い、近代和風建築の

中でも珍しい建物

ザ・

 

解説!

し ょ く

ザ・解説!

 鐘楼堂は明治15年

年前)、梵鐘は22世年前)、梵鐘は22世

ザ・解説!

ザ・解説!

ザ・解説!

ザ・解説!

ザ・解説!

ザ・解説!

新書院

身延山での出来事

彫刻した欄間

旧 書 院

別名「古法眼の間」

 明治16年(1883=1

35年前)に建立されまし

た。現在は参拝に関する寺

務所が報ほ

恩おん

閣かく

にあります

が、以前はこのお堂にあり

ました。玄関を入ると吹き

抜けの天井が高く、大きな

梁が特徴です。(約625

㎡、木造平屋建、入母屋造、

銅瓦葺)

 

豊臣秀吉には瑞ず

龍りゅう

院いん

という姉がいました。

身延山の昔の本堂や唐

門、そして法喜堂を寄

進したのは瑞龍院です。

秀吉ははじめ子がなく、

姉の子、秀次を養子に

とりました。しかし、そ

の後、秀吉に子(秀頼)

ができたため、秀次は邪

魔な存在となり、最終

的に切腹してしまいま

す。秀次の菩提を弔う

ために瑞龍院が寄進し

た1つが法喜堂です。

現在の法喜堂は甲斐駿

河寺院寄進ですが、普

段何気なく出入りする

お堂にも、そういった

歴史があるのです。

ヒミツ?!

ザ・解説!

明治

法ほ う

喜き

堂ど う

甘か ん

露ろ

門も ん

秀吉姉・瑞龍院が子・秀次の菩提を弔うために…

観音さまが甘露の雨を降らす

大だ い

鐘し ょ う

楼ろ う

4㌔四方に響く鐘!ヒミツは「基壇」に    アリ!

時じ

鐘し ょ う

楼ろ う

門前町にも時間を知らせる役割

伝説は本当だった!?

 かつて身延山には「池上」姓を持つ棟

梁さんを筆頭に、身延山の諸堂を建立、修復

するお抱えの宮大工集団がいました。大工職

人にはもともと寺院建築史上大きな存在であ

ったことに由来して聖徳太子への信仰があ

り、身延山でも太子講が結成されました。

ヒミツ?!

身延山のお抱え 宮大工集団が建立祖そ

廟びょう

塔と

以前のお堂は山内に

ご入滅後からの五輪塔を護持

常唱殿祖廟塔と中心が寸分違わないことが建立条件

ザ・解説!瑞ず い

門も ん

=世間と結界の修行場を隔てる門「瑞門」は昭和28年(1953=67年前)に建立されました。

横から門と塀の並びを見ると中心がずらされている薬医門という、お医者さんがいる家・建物とわかる門造でつくられています。(約4㎡、木造、切妻造、浅瓦葺)/水行堂=厳しい寒さの中で、水をかぶるための水が張られる水盤を守るお堂で、昭和27年(1952=66年前)に建てられました。(約23㎡、木造平屋建、切妻造、瓦葺)

三さ ん

昧ま い

堂ど う

瑞ず い

門も ん

水行堂

このお堂は以前、

大切な大切な

役割がありました。

かつての修行場 厳しい修行に身を投じ

思し

親し ん

閣か く

仁に

王お う

門も ん

かつて菩提梯を登りきった場所にあった仁王門を新しく

② ③ ④

⑪⑫

⑱⑮

三さ ん

門も ん

望月真澄先生(身延山大学仏教学部長)

200年前のお堂があるんですよ。みなさんはどのお堂か分かりますで

総本山身延山久遠寺の 19 棟総本山身延山久遠寺の 19 棟