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日本における台湾原住民文学研究 一一翻訳・出版と書評を中心に一一 下村作次郎 1 はじめに 本稿は,台湾原住民文学についてその誕生と日本における受容を中心に 考察するものである。台湾原住民文学は,モーナノンの詩, トパス・トナ ピマの小説の誕生から数えると,すでに20 年になる。台湾原住民文学生誕 20 年である。もちろん,いまやこうした表現は誤解を生みかねない。台湾 原住民文学は神話伝説・口承文芸としては悠久の歴史を有するし,創作・ 書写文学としても日本統治時代に生まれている九したがって,台湾原住 民文学生誕20 年といった表現は不適切であるともいえよう。しかしながら 台湾原住民文学として広く文化界・学会に認知されるようになったのは, 80 年代の台湾の民主化に連動し,台湾原住民族権利促進運動のなかから生 まれたのが台湾原住民文学であった。本稿では,ひとまずこうした認識に 立って論述する。 さて,この20 年間に,台湾原住民文学は台湾における文学ジャンルのな かでゆるぎない地位を獲得し,さらに学問研究の対象としてさまざまに論 じられるようになった。本稿は,「日本における台湾原住民文学研究」に ついて,「翻訳・出版と書評J ,「研究論文」, f 学会・シンポジューム」, f 台湾原住民族の現在と日本一日本の雑誌・新間報道」の構成で考察する 予定である。 今回は,紙数の関係から先ず「翻訳・出版と書評」について考察する。 (17)

日本における台湾原住民文学研究 一一翻訳・出版 …...日本における台湾原住民文学研究 一一翻訳・出版と書評を中心に一一 下村作次郎

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日本における台湾原住民文学研究一一翻訳・出版と書評を中心に一一

下村作次郎

1 はじめに

本稿は,台湾原住民文学についてその誕生と日本における受容を中心に

考察するものである。台湾原住民文学は,モーナノンの詩, トパス・トナ

ピマの小説の誕生から数えると,すでに20年になる。台湾原住民文学生誕

20年である。もちろん,いまやこうした表現は誤解を生みかねない。台湾

原住民文学は神話伝説・口承文芸としては悠久の歴史を有するし,創作・

書写文学としても日本統治時代に生まれている九したがって,台湾原住

民文学生誕20年といった表現は不適切であるともいえよう。しかしながら

台湾原住民文学として広く文化界・学会に認知されるようになったのは,

80年代の台湾の民主化に連動し,台湾原住民族権利促進運動のなかから生

まれたのが台湾原住民文学であった。本稿では,ひとまずこうした認識に

立って論述する。

さて,この20年間に,台湾原住民文学は台湾における文学ジャンルのな

かでゆるぎない地位を獲得し,さらに学問研究の対象としてさまざまに論

じられるようになった。本稿は,「日本における台湾原住民文学研究」に

ついて,「翻訳・出版と書評J,「研究論文」, f学会・シンポジューム」,

f台湾原住民族の現在と日本一日本の雑誌・新間報道」の構成で考察する

予定である。

今回は,紙数の関係から先ず「翻訳・出版と書評」について考察する。

(17)

2 翻訳・出版と書評

雷頭に台湾原住民文学の誕生について述べたが,この原住民文学の誕生

に大きく寄与したのは呉錦発(1954年生まれ。高雄県美濃人)である。い

わば助産婦の役割を担った。呉錦発は,中興大学に在学中『台湾時報』に

発表した「英雄自由伝」でデビューして以来,精力的に小説を発表して台

湾の文学界では若手の代表的な作家に成長していた。呉錦発は創作に精を

出す一方で,当時高雄の『民衆日報J編集部の記者として台湾文学の新た

な書き手や優れた台湾文学の発掘にも意を注いでいた。

高雄は,その頃南部の文化界の中心となっていた。「北の鍾肇政,南の

葉石涛」と並び称されていた葉省涛が,南部の若い文学青年や台湾文学研

究者の中心人物として台湾文学の理論構築につとめ,また,張良津らが中

心となって鍾理和の文学を発揚して台湾文学のメッカを創出しようと美濃

に鍾理和記念館(1984年開館)が開設された。さらに,第一出版社の伺旗

化が『台湾文化』(1986年創刊)を出版して新しい台湾文化を模索し,そ

の後, 90年代になると高雄や台南在住の文学愛好者が集まり,陳坤痛によ

って『文学台湾』(1991年12月創刊)が刊行された。この間,高雄在住の

作家として双沢莱が盛んな文学活動を行っていたことなどが印象に残る。

さて,呉錦発はこうした南部の活気溢れる文学的雰囲気のなかで原住民

族に関わる最初の文学集 F悲情の山地』を編み, 1987年7月に農皐出版社

から出版した。時恰も1950年から38年の長きにわたって敷かれてきた戒厳

令解除の月である。該書の出版は,台湾原住民文学発展史のうえで大きな

意義を有している。

『悲博の山地』は,漢人作家7名7編,原住民族作家2名4編の計9名

11編の小説が収められている。そのうち, トパス・タナピマ(田雅各)だ

けが3編の作品が収録されているが,呉錦発は,該書を編むにあたってト

パスの作品を重視していることがわかる。

(18)

呉錦発は,該書所収の「序Jで次のように述べている。

本序の終りに,特に友人たちに昂揚した気持で紹介したいのは,ここ

数年のあいだに,ふたりの優れた原住民作家が文壇に登場したことです。

それは,高雄12s学院を卒業して,今(注:当時)憲兵として兵役にある

ブヌン族の作家,田雅各とパイワン族の詩人,モーナノンです。彼らの

登場は,ここ数十年来の台湾文壇における一大出来事であると思います。

彼らの滑らかな筆致,詩情説れるリズム感,そして尊厳あるヒューマニ

ティに溢れる叫びは,日に臼に腐敗し,墜落し,軽薄化し,皮相化して

いく台湾文学にとって疑いもなくひとつの警鐘です。彼らの文学はほん

とうの「人の文学」です。このような台湾原住民作家をもったことを,

私たちは誇りに思うと同時に,聡かしい気持ちにもなります。さらに数

年のうちに,なお多くのこうした原住民作家が台湾文壌に踊りでて,台

湾文学を一段と高いレベルに押しあげていってくれることを心から願っ

ています。

該書は, 5年後の1992年11月に『悲情の出地台湾原住民小説選』の邦

題で田焔書店より出版されている。該警の翻訳には呉棄と山本真知子が下

訳を行い,その訳稿をもとに監訳者として筆者が完成させたものである。

呉錦発は,この邦訳書に「日本語版のための序Jを寄せているが,その

なかで「『迫害者jのひとりである漢民族の一員」として,「日本も我々漢

民族と同様,かつて台湾原住民を迫害した『共犯者』なの」だとして,日

本の読者に次のように述べている。

このたび,この小説集が日本で出版されるのを機会に,私は日本の読

者の皆さんにも理解していただきたいと思います。台湾原住民迫害の罪

業のうえで,日本も台湾を植民地とした五十年の歴史のなかで,重大な

(19〕

役割を演じました。この間,日本は情け容赦なく台湾原住民の反抗を武

力で鎮圧したばかりでなく,第二次世界大戦の末期にも台湾原住民を徴

用して「高砂部隊Jを編成し,日本の南洋での戦争のために悲惨な代価

を支払わせたのです。

邦訳書には,原注のほか訳注が付され,読者の原住民文学世界の理解の

一助に供されている。さらに,邦訳書には,「台湾原住民の詩と文学Jと

題する解説(筆者執筆)が収録されている。

筆者の台湾原住民文学研究は, F悲情の山地』の翻訳を通じて原住民世

界への理解を深めたことと,この解説の執筆が出発点だと言える。筆者は

翻訳の最終段階に差しかかった「一九九O年の九月初旬」に編者の呉錦発

を尋ねるべく訪合した。そのとき呉錦発の世話取りで,台北ではモ一ナノ

ンに,高雄ではトパス・タナピマに会った。先述した解説は,このときの

印象をもとに「一,はじめに 盲目の詩人モ一ナノン氏との出会い,ー,

台湾文学一「山地文学jの創造は,もはや夢ではない,三, トパス・タナ

ピマの文壇デビュー,四,(作品解題)開かれたページjの構成で台湾原

住民文学世界への道案内として執筆した九

呉錦発編著『悲情の山地Jは,こうして翻訳されて日本に舶載された。

では,当時の読書界の反応はどうであったのだろうか。

まず台湾での反響は,呉錦発の伝えるところによれば,中国語版『悲情

の山地』を読めなかった原住民の長老らが邦訳書版『悲情の山地』によっ

て読んだという話である。前述したように当時『民衆日報』編集部にいた

呉錦発のデスクにそうした長老からの電話がかかり,原住民族部落での反

響が筆者らに伝えられた。響評がどれだけ出たのか寡関にして知らない。

邦訳書は台湾ではおそらくあまり往呂を引かなかったのではないだろうか。

一方自本では,津井律之と武藤功による書評および野田正彰がコラム欄

で取りあげた書評がある。薄井律之は,鍾理和を中心とする台湾文学の研

(20)

究者であるが,呉錦発とは交流があり,彼の案内で‘扉東県藤台郷のルカイ

族の部落である好茶村を訪れている。ルカイ族の部落,好茶村といえば,

黄春明の名作「戦士,乾杯! J3)の舞台である。津井は「ときめきjのな

かで訪れたが,そこは移村後の新好茶村であった。彼はそこでコンクリー

トの冨民住宅を見,教会を見,青天自臼旗がはためくもとで,「酷釘しき

った男が一人,覚束ない足取りで辺りを俳譜している姿Jを自にして「妙

に悲しJい気持ちになりながら,「今一つ生彩を欠く豊年祭」を見学して

いるO このような経験を有する津井は,「台湾原住民の現実を文学に託し

てJ (『東方』 1993年5月)のなかで, F悲情の山地Jの書評を次のような

蓄葉でしめくくっている。

台湾の原住民の文化や風俗,そして彼らが置かれた現実と彼らの悲し

み……。それらの重要なテーマを本書『悲情の山地』は文学作品という

形で生き生きと提示しているo かつて約五O年にわたり台湾を植民地と

して支配した我々一一日本人と漢民族とは「共犯者Jだと呉錦発氏は指

摘する一ーにとって,台湾原住民の今後を真撃にみつめていくための格

好の契機となる一番だと言っても過言ではないだろう。

本編にはまた愉快なエピソードも書かれている。津井は,ルカイ族の村

を呉錦発の案内で見て回ったときに,ある作家に車の運転をしてもらった

という。それが, トパス・タナピマであるとも露知らずに。そう言えば,

筆者が高雄ではじめてトパスに会ったとき,彼が運転する車に乗って郊外

のブヌン族の店に案内された。もちろんそのとき, トパスに引き合わせて

くれたのは,やはり呉錦発であった。

次の武藤功の「二重に越境する文学/呉錦発編 F悲情の山地』」 er葦牙』

19号, 1993年9月)は,硬貿な書評である。今度読み直し,改めて本書の

翻訳に携わった者としての自覚を迫られたような気がする。武藤が10数年

(21)

前に述べた次のような視点は,原住民文学の研究を続ける筆者にとっては

やはり変わらぬ響鐘である。

(前略)ここで,少数民族が置かれた困難の世界的状況が台湾にもそ

の近代化の波のなかで如実に表れているということを言うのはやさしい

が,その問題をわれわれ自身の問題として考えることは決してやさしい

ことではないということを肝に銘じておかなければならない。それゆえ,

ここでは当然,その近代化を推進する「多数民族Jの「少数民族」に対

する抑圧と収奪に対する反省,そして彼ら「少数民族jに対する尊重と

保護の政策を要求することはもちろんであるが,それだけではなくわれ

われ自身がそうした他殺の文明のなかにいることを自覚しなければなら

ないのである。

野田正彰は,作家であると同時に精神科霞でもあり,そうした立場から

原住民社会に巣食う精神的問題の存在を読み取ろうとしている。野田は

『悲情の山地』に出会って以来原住民文学への関心を持ちつづ、け,後述す

るように,本書の10年後に翻訳・出版された「台湾原住民文学選」につい

てもコラムに取りあげ,これまで6編の書評を書いている。ここでは先ず,

『悲情の山地』に対する野田の書評をみてみよう。

野田が F悲情の山地』について書いたコラムは 3編ある。第 1編の

「(風の散歩道)ころぼつくるの手小さなやさしさが消えた時Jff京都

新関J1999年 1月20日)は,弱者へのまなざしからアイヌの「ころぼつく

る伝説jと台湾原住民族のあいだに伝わる「小人伝説」に言及したもので,

トパスの「小人族」解読に新奇な視点、を提起している。野田は野寺夕子の

写真集『ころぼつくるの手』(たんぽぽの家, 1998年)で知的障害者の授

産施設「やまなみ工房」に学ぶ人たちが制作する「ころぼつくる」の写真

を見ながら,アイヌの「ころぼつくる伝説Jを連想する。

(22)

野田の記すところによると,「「ころぼつくる」とは,言うまでもなくア

イヌの伝説に出てくる蕗の下にかくれていた小人のことである。アイヌは

和人に追われて北海道に渡り,「ころぼつくる」に接した。小人は土の椀

を作ることが巧みであり,無音でアイヌの食物と交換した。窓から手のみ

差し入れて交換していたが,ある日,無理に家のなかにひきいれようとし

たため,それから姿を現さなくなった。これが「ころぼつくる伝説JJで

あり,このアイヌの伝説をトパスが描くところのブヌン族に伝わる「小人

伝説jと比較しながら読む。アイヌの「ころぼつくるJも台湾原住民族の

「小人Jも共に強者によって先住の地から追いやられた存在である。野田

は「田雅各さんの小説は,漢族に圧迫されている少数民族もかつて小さな

民族を裏切ってきたと語りかけている。そう語ることによって,優勢な漢

人に「自分たちを小人にしないでほしい」と主張しているようだ。Jと述

べ,さらに「野寺夕子さんの写真集を開き,私たちもまた知的障害者を小

人に,「ころぼつくる」にしていないか,と考え込んでしまった」と結ん

でいる。このコラムは,いわば「同時代」への批評として書かれたエッセ

イであり,厳密な意味での書評とは言いがたいが一つの文学作品の読み方

でもある。なお,野田のこれらのコラム記事は,いずれも『背後にある思

想』(みすず書房, 2003年)に収められている。

次の第2編と第3編は,それぞれ『信濃毎B新聞』のコラム欄「今日の

視覚jlこ掲載されたもので,タイトルはそれぞれ「台湾先住民の村j

(2002年 5月紅白)と打文化英雄Jの物語」(2002年 6月7日)となって

いる。この 2編は,『悲情の山地Jを直接取りあげたものではない。先述

したように野田は精神医療の専門家でもあるが,台湾原住民族のあいだに

蔓延するアルコール中毒の現状を真に自にすることになった。野田が原住

民族の部落に入ったのは, 1999年9月21日に台湾中部で発生した台湾大地

震のときに,『災害救援JC岩波新書, 1995年)の著者として招かれて災害

救援の講演を行い,「被災地,台中県,捕盟,南投県を閉りJC「社会の断

(23)

題」),さらに「二ヵ月自,再び台湾被災地を回Jったときである。このと

きに,野田はタイヤルの部落で,一夜を過して,お婆さんから「孫たちは

中国語しか話せない,私たちはタイヤル語と日本語。だから十分に話しあ

えないよ。タイヤルの山の話,伝説や神話を孫たちに伝えることもできな

い。子供たちは皆,平地へ下り,カネ儲けしている。山では畑作りをしな

くなった。食べ物は,子供たちが送ってきたカネで買っている。男たちは

女たちより早く死んでしまった。毎日酒を欽み,死んでいった。私も長く

生きすぎたよjと闇かされている。

このとき以来,野田は原住民族の部落に蔓延するアルコール中毒の問題

に関心を寄せることになった。このエッセイは次のように締め括られてい

る。「それからニ年半後,私は合湾山地の先住民の現状が知りたくなり,

タイヤル族だけでなく,パイワン,ブヌン,アミ,ヤミの諸族の村を訪ね

た。思ったとおり,アルコール中毒が蔓延していた。焼き畑と狩猟による

生業を奪われた人々は,無為のうちにビールを飲み続けていた。文化の喪

失とアルコール中毒はどこでも結び、ついている。」と。このような観察は

第3編の「「文化英雄jの物語jでも雷及され,「(注:ァミ族)ラムン家

の長男も,一見しただけでアルコール中毒とわかる。(中略)深い山へ入

り,ブヌン族の村に行っても閉じである。」と語り,最後に次のように述

べる。

近年,台湾でも先住民対策として経済的支援が行われている。だが,

どのように生きるのか,生き方のイメージが湧かなければ,青年はその

日暮らしの欽酒から抜け出せない。少数民族の復興のためには,カネ以

上に文学が大切であると私は思う。自分たちの文化のなかで,すばらし

い生き方をした文化英雄の物語が創作され,そんな本を先住民に普及し

ていくべきだろう。幸いにも『悲情の山地一台湾原住民小説選』(呉錦

発編,下村作次郎監訳,田畑書店)のような本を,私たちは日本語で読

(24〕

める。こんな本が村で安価に配られたり,また先住民出身の作家を支援

していくことが,アルコール中毒対策につながるのではないか。

このような読み方は文学論の本質とは無縁である。しかしながら,アジ

アにおける,とりわけ被抑圧の側にあった近代文学の多くがそうであった

ように,文学がこのような使命を担うのは文学のもう一つの役割でもある。

このほか,『悲情の山地』を日本の近代文学史との関係のなかで取り上

げた日本文学史がある。それは川西政明の三巻本『昭和文学史』(講談社)

であるが,この上巻(2001年)に「三章 日本とアジア 日本統治下の文

学」の章を設けている。川西はこの章に「台湾」の項を設け台湾文学につ

いて82ページ割き,そのなかで『悲情の山地Jを取り上げ,収録作品のな

かから鍾理和の「山地の女Jとトパスの f最後の猟人jに言及している。

次に台湾原住民文学の翻訳が日本にもたらされたのは, F悲情の山地J

の出版から10年後のことである。 2002年12月から2004年3丹にかけて草風

館から翻訳・出版された F台湾原住民文学選』全4巻がそれである。全4

巻の全体は,土田滋,孫大川,ワリス・ノカン,筆者の四人による共編で

あるが,各巻はそれぞれ別に責任者を立てる責任編集体制が取られている。

全4巻の書名は,次のとおりである。

下村作次郎編訳・解説『台湾原住民文学選 1 名前を返せ モ一ナノ

ン/トパス・タナピマ集』 2002年12月出版

魚住悦子編訳・解説『台湾原住民文学選2 故郷に生きる リカラッツ

.アウー/シャマン・ラポガン集JI2003年3月出版

中村ふじゑほか編訳・小林岳二解説『台湾原住民文学選3 永遠の山地

ワリス・ノカン集JI2003年11月出版

柳本通彦ほか編訳・柳本通彦解説『台湾原住民文学選4 海よ山よ 十

一民族作品集JI2004年3月出版

以下,各巻の内容と特色についてみてみよう。

(25)

第 1巻は,『名前を返せ』でモ一ナノンとトパス・タナピマの作品集で

ある。邦題は,モ一ナノンの詩「僕らの名前を返せJから取ったものであ

るが,この言葉は同時に台湾原住民族文化運動を象徴するものでもある。

モ一ナノンとトパス・タナピマの二人の登場は,台湾原住民族文化運動を

抜きには考えられないものであり,その意味では台湾原住民文学の誕生そ

のものを象徴する。

第 1巻には,モーナノンの詩が詩集『美腫的稲穂.nC麗星出版社, 1989

年8月初版, 10月2版)から「僕らの名前を返せ」,「鐘が鳴るとき一受難

の山地の幼い妓女姉妹にj,「もしもあなたが山地人ならJ,「燃やせ」,「山

地人j,「帰っておいでよ,サウミJ,「遭遇」,「白い盲人杖の歌j,「百歩蛇

は死んだ、jの5編が訳出されている。そして, トパス・タナピマの小説が

作品集『最後的猟人』(最麗出版社, 1987年9月)および f情人輿妓女』

(展星出版社, 1992年12月)から「トパス・タナピマJ,「最後の猟人」,

「小人族j,「マナン,わかったよ」,「ひぐらしJ,「機悔の死j,「サリトン

の娘J,「ウーリー婆の末日」,「ぬぐいされない記憶」,「名前をさがす」,

「恋人と娼婦j,「救世主がやってきた」,「怒りと卑屈Jの13編が訳出され

ている。

本書に対する書評は筆者の知るところ 9編ある。アジア関係の文学作品

の翻訳書としては決して少ないとは言えない。最初に出た書評は,矢吹晋

の「現代中国を読む 台湾原住民文学「名前を返せ」の叫び」 ff週刊チャ

イニーズドラゴン.D2002年12月17日〉である。

矢吹は冒頭で「草風館という出版社がある。風に揺れる野慈のように,

いかにも目立たない出版社だが,出す本はいずれも骨太であり,アイヌか

ら水俣まで,朝鮮・韓国,そしてベトナム問題,一貫してマイノリティに

向ける視線は揺るがない。Jと該書を出した出版社を評価する。実際のと

ころ,先にみたように, 10年前に f悲情の山地』を出版した田畑書店と時

様,こうした出版を手がけた出版社の功績は甚だ大きなものがある。

(26)

矢吹晋は現代中国論を専攻する中国研究者として著名だが,現代台湾へ

の関心も深く,日本で『アジアの孤児』を上梓した頃の呉濁流とも交流も

ある。なお,余談だが,箪風館の内JII千裕は,かつて新人物往来社にいて

呉濁流の『アジアの孤児』 (1973年)の出版を担当した。話を良すと,矢

吹が書評のなかでとくに取りあげたのはモ一ナノンの長詩「燃やせjであ

る。「モ一ナノンはここで(注:詩「燃やせjのなかで)「うるわしき島の

本当の主人jを倦称する「臨南人J(いわゆる台湾人)の誤ったアイデン

ティティー感覚を批判しつつ,返す蛮万で中閣を僧称する中華民国をも撃

つ。そしてこの中華民層批判の論理は,ただちに中華人民共和国の台湾政

策,少数民族政策に対する鋭い批判にもなっている。」とする。評者は,

長詩「燃やせjにこめられた原住民族の歴史観を的確に言い当てている。

次の書評は,村井紀の「台湾先住民族自ら文学化「滅亡の言説JJ(『北

海道新聞J2003年l月19日)である。村井の書評は,台湾原住民文学を読

む自がそのままアイヌ文学に向かっているところに大きな特色がある。村

井は,この書評のなかで「私が「滅亡の雷説空間」(ハルオ・シラネ編

『創造された古典』所収,新曜社, 1999年)と名づける現象が,過去のも

のから現在の問題に見え始め,またそれを確認できたからである(略)。

この言説は,アイヌの人々を苦しめたばかりではなく,多様な形態と広が

りをもつものだが,現代台湾文学のなかで,開発に追われる「原住民J

(=「先住民族」)自身がこの言説を文学化していることに気付いた。Jと

して, トパス・タナピマの「最後の猟人Jをとりあげる。そして,村井は

この作品を次のように読み解く。

僻地医療に携わる底師である作者自身「原住民j出身だが,森林開発

と森林保護のはざまにおかれ,自らの山地を禁猟匿とされた猟人の生活

を若い夫婦の葛藤を軸に瑞々しく描いている。ここには遅れを蔑むまな

ざしはないし,滅び行く猟人の生活を描くことが,そのまま現代へのプ

(27)

ロテクトとなっている。

さらに,村井はモーナノンの詩「僕らの名前を返せ」を取りあげ,「こ

の詩は,むろん彼らだけの経験ではない。つまりアイヌの人々は,「ユー

カラ」と「人類学の調査報告」においてのみ「γ重な取りあっかいと同情

を受けてきたjのではないか」と言い,アイヌ文学の現状に筆が向かう。

村井にとって台湾原住民文学の出現は,アイヌ文学を取り巻く現状への苛

立ちを雷説化する契機となったのではないか。村井は,『北海道文学会集』

(全22巻,立風書房, 1979年一1981年)について「アイヌの人々は諸作品

に描かれることはあっても,「作家jとなると遠星北斗・パチュラー八重

子・森竹竹市・鳩沢佐美夫のほかに見当たらないJ,「その十一巻「アイヌ

民族の魂」にしたところで,九人中の上記四人なのであるJと述べる。そ

して,「それではアイヌ民族の「作家」や現代文学は存在しないのか」と

潤い,そうではないのだとして,賀野茂,砂沢クララ,金成マツといった

アイヌの「作家Jたちの存在をあげている。このようにアイヌの「作家J

の文学に強い共感を寄せる村井は,この文章の最後に次のように述べてい

る。「「共生Jを唱えるなら,まず「返せわれらの笑顔を」とうたった戸塚

美波子や歌人江口カナメなどを入れた「現代アイヌ民族文学選Jを作れ!

アイヌの人々をかけがえのない隣人だと言うのなら,神話伝説ばかりでは

なく,これを伝えた人々や滅びの言説と対峠した近現代の経験も分かち合

うべきだろう。ここには計良光員りなどの現代批評も必要だ。パチュラー八

重子や鳩沢佐美夫などは全集も欲しい」と。

該編は書評という鐘文に過ぎないが,マイノ IJティ言説への意義深い批

評となっている。

西倉一善の「『台湾原住民文学選1 名前を返せ』(モ一ナノン, トパス

・タナピマ著)Jは,「共同通信』(2003年 1月30日)の簡単な紹介文にす

ぎなし、。

(28)

野田正彰は,先にみたように『悲情の山地J以来,台湾原住民文学に深

い関心安持ちつづ、けている。『名前を返せ』に関しては,『信濃毎日新聞』

の「今日の視覚J欄に掲載された「台湾原住民の文学」(2003年2月7日)

と「繭幌島の涼み台」(2003年2月14日)の 2編がある。前者で,取りあ

げられているのは,モ一ナノンの詩「帰っておいでよ,サウミ」である。

この詩に野田は,日本の植民地統治や戦後の国民党の山地行政によって平

和な山地が破壊されていった姿や山地から押し流されていった人々の生活

をみ,同時に「ここにも近代の衝撃,日本や大陸からの侵略に耐えて生き

るアジアの少数民族の文化があるjと指摘する。後者は, トパス・タナピ

マが繭瞬島で医療活動をしていた頃に書いた「救世主がやってきた」と

「怒りと卑屈Jに触れ,タオの人々の生活と核廃棄物貯蔵施設について言

及する。野田は,原住民族を訪ねて繭瞬にも足をのばしているが,これら

の作品は,野田にそのとき涼み台でタオの文化について語り合った二人の

タオ族の老人を思い出させている。

「世界と人間への再生の誘い」(『週刊金曜日』 2003年3月7日)で本書

を取り上げた菱信子は, 1986年に『ごく普通の在日韓国人』(朝日文庫,

1990年)で第2回ノンフィクション朝日ジャーナル賞を受賞した作家であ

る。菱信子は,冒頭に「昨年末に『台湾原住民文学選 I 名前を返せ』安

たまたま手にして以来,その冒頭に収められた台湾の原住民族のひとつで

あるパイワン族の詩人モ一ナノンの詩,『僕らの名前を返せ』を繰り返し

口ずさんでは,いても立ってもいられぬ思いに襲われている。」と述べて

いる。そして,その詩の一節にある詩句 f丁重な取りあっかいと同情」か

ら,戦前,台北帝国大学土俗人種学練列室に保管されていた霧社事件の指

導者,モーナルーダオの骨を連想する。菱信子はそのことを野上弥生子の

r台湾Fで読んでおり,モーナノンの詩に出会って改めて「善意の文明

人である作家の自に映ったさまざまなモノや出来事を思い起こす」ことに

なった。野上弥生子は,昭和10年,すなわち1935年に開催された台湾施政

(29)

四十周年簿覧会に参加すべく訪台し, 10月に全島を旅してまわった。霧社

には10月29日に訪れている。

菱信子は,『台湾Jの作者,野上弥生子の眼差しを「美しき未開に寄せ

る憧環と,文明の前になす術もなく飲み込まれ消えゆくその運命への憐欄

とに満ちた眼差しjと述べると同時に,「そんな眼差しに抗して死を選ん

だモーナルーダオの骨と一緒に細長い木箱に了重に収められてしまった,

他者と世界と未来に対する想像力」と記す。菱信子は野上弥生子と同じ作

家として,菱信子は失われた「他者と世界と未来に対する想像力」の再生

をモ一ナノンの詩によって果たそうとする。菱信子は本編を次のような言

葉で締めくくっている。

この声(出:モーナノンの詩「僕らの名前を返せ」)が求めているの

は,失われた倍統文化や名前の単なる再生ではない。求められているの

は,近代の思考,文明の眼差しに縛られてきた人間の想像力の再生。そ

れはつまり,この世界そのものの再生を呼びかける声であり,この世界

に生きるすべての者を再生へと誘う声でもある。その声を確かに聞きと

ってしまったのならば,人は「いま,ここJにとどまってはいられない。

そうして私自身もまた,その声に呼ばれ,その声とともに,自分と世界

の再生に向けて歩き出さずにはいられない,そんな心持なのだ。

次の二編は,民族考古学や文化人類学を専攻する研究者による書評であ

る。一編は,野林厚志「書評『名前を返せJJC『台湾原住民研究J2003年

3月)であり,もう一編は,笠原政治「台湾原住民の自画像JC『東方J

2003年5月)である。

野林厚志は,冒頭に「台湾の文学史について全くの門外漢」の作者がな

ぜ本書を書評する気になったかについて前龍きし,それは博物館で仕事を

している関係で白弓を表現する「表象という問題」に関心があるからだと

(30)

述べる。

野林の視点は,ユカタン・マヤの口承文芸の研究に従事する吉田栄人の

分類「( 1)現代の F先住民Jが創作する文学。( 2)現代の『先住民』に

よる,創作という意図はないが,文学とみなされるものO ( 3)『先住民』

の手によるものとされる過去の文学的記録であるY に依拠して,次のよ

うな次のように記す。すなわち,「台湾原住民の文学を考えた場合,( 3〕

は非常に稀少なものとなる。原住民が記録の手段を口承以外にほとんど持

たなかったことがその理由であると考えてよいであろう。ここで明確にな

ることは,台湾原住民文学とよばれるものには書き手である原住民の人た

ちのありようによって二つに大別することができるということである。す

なわち,創作者が明確であり,意図的に書かれた創作物,もう一つはいわ

ゆる口承文芸に屠するものである。」と。

このように,台湾原住民文学の範聴を定義づけたうえで,本書を分析す

る。野林の書評は,本書に収録された作品とその編者の選択基準を問うも

のである。このような問いかけは,これまでの評者にはなかった視点であ

る。次のように述べる。

(前盟各)第 1巻に収録されたモ一ナノンの詩は 9篇ある。それらのい

ずれもが台湾の漢族に抗する内容で満ち溢れている。文学でもデモ行進

をしているようにさえ受け取れるのである。モ一ナノンの詩に欠けてい

るのは,はっきり言ってしまえば,読者の存在を意識するという態度で

ある。

原住民文学が極めて震要な意味をもつのは,文学の創作者と読者との

簡に様々なすり合わせが模索されることを可能にするからである。実際

のところ,文学作品をどう評するかということについては,それを読む

読者の立場によって大きく異なることになる。すなわち,原住民文学は

原住民の人たちが生み出したように見えても,実際には読者や解釈する

(31)

側がその存在を想像したものということである。時には創作者が文学性

を意図していないにも関わらず,読者が文学作品と克なしてしまうとい

う事態も起こりうる。こうした場合,時として作品が原住民の人によっ

て書かれたということよりも,作品が「原住民的」であることが読者に

とっては重要となることがある。作者が原住民でなければならないのは,

それを原住民文学と見なしたことに対する正当性を読者や解釈者が保障

したいからにすぎないのであろう。では,「原住民的」であるというこ

とはモ一ナノンの詩の場合,どういう形で表れるのだろうか。言うまで

もなく,抑圧された状況に傷つき,魂の叫びをあげる原住民の姿に他な

らない。しかしながら,モ一ナノンの言葉はモ一ナノンの言葉にすぎな

いのも事実である。日本文学やフランス文学が一様でないのと同様に,

原住民文学も多くの作者が存在し,決して一様なありかたではないはず

であろう。にもかかわらず,モ一ナノンの作品は,原住民文学を創作す

る主体からの作品であり,その内容が原住民の人々にとってタブーなこ

とに関わっていくために,読者がその作品に対し,「原住民的」である

ことを期待していくことになったのではなかろうか。何故,あの内容の

詩を書き続けたのか,非常に興味深い点である。万が一,彼の詩が選択

的に選ばれたとしたら,原住民文学とは,少なくとも臼本に翻訳された

段階では意図的に想像された産物であった可能性を否定することはでき

なし、。

以上にみる評者の論点、は,きわめて重要である。台湾原住民文学とはな

にか,という本質に関わる問題を提起している。こうした問題は,その後,

2004年 6月5臼に開催された日本台湾学会第 6田大会(於東京大学)で,

「台湾原住民族文学とは何か?」として関われている。そのとき,ワリ

ス・ノカンは「当代台湾原住民族文学の新しい視野」の報告のなかで,都

市原住民にとっての原住民文学のありようやまったく f原住民的」でない

(32)

原住民文学の存在,また台湾原住民文学という捉え方への疑問や皮発,す

なわちブヌン文学やタイヤル文学などの呼称の主張が90年代に生まれてい

ることが伝えられている九

評者が指摘するもう一点,すなわちモーナノンの詩が「選択的に選ばれ

たjかどうかの問題である。これについては,先に第l巻『名前を返せ』

の収録作品について触れたところで述べたが,本書に収録された詩は,モ

ーナノンの詩集『美趨的稲穂UC農犀出版社, 1989年8月初版, 10月2版)

から,編訳者が「選択してJ翻訳したものである。「台湾原住民文学選J

の第 1巻は, 80年代の台湾原住民文学の誕生を臼本に伝えるべく明確な

「意図」をもって編集し翻訳し出版したものだと言って差し支えない。

野林はまた現代のタオ族研究の第一人者でもある。トパス・タナピマの

タオ族を描いたこ編の作品「救世主がやってきたjと「怒りと卑屈Jに,

原住民族のなかにおける「他者Jの問題を見出している。先にワリス・ノ

カンの論文について紹介したが,台湾原住民文学はいま20年の歳月をへて

この問題に直面している。これについて野林は次のように述べている。そ

の箇所を引用して本編への論評はひとまず終えたい。

台湾原住民といっても決して一枚岩的な存在ではない。それぞれの集

団が独自のアイデンティティを持っているだけでなく,集団内ですら集

落ごとの異なるアイデンティティがぶつかりあうことは少なくない。汎

原住民意識が想像上の構築物であり,それ自体が目的ではなく,汎原住

民意識を原住民の原点である「部落Jへ問帰させるための準備であるこ

とはすでに孫大川が的確に指摘していることである(孫 1997 : 47)九

しかしながら,汎原住民意識は原住民間士を同等に扱おうとするあまり

に,それぞれの原住民の社会のありようや,集団が置かれている状況を

唆妹にしてしまうこともある。(後略〉

(33)

次に笠原政治の書評に移ろう。笠原政治は先の野林厚志向様,長年の台

湾原住民社会へのフィールドを重ねる文化人類学者である。笠原の書評は

先の野林の筆法と異なるが,史笑や事実の間違いは見逃さず,疑問は率車

に提示し,いささかも学問上の検証をおろそかにしない。本書については,

一つは解説の誤り,一つは小説の背景への疑問を提示している。

本書の解説は,編訳者である筆者の執筆である。解説の誤りとは,高一

生に関する記述であるO 二二八事件は原住民社会にも大きな影響をおよぼ

したが,そのような世界を描いた「ぬぐいされない記憶」の解説として

「原住民族の知識人と二二八事件の関係では,ブヌン族のウォグ・ヤタウ

ユガナ(矢多一生,漢名は高一生)がよく知られているが,本編はそうし

た原住民族の知識人と二二八事件を措いた数少ない作品の一つである」と

記している。ここには指摘の通り明らかな誤りがある。高一生はブヌン族

ではなくツォウ族の知識人であり,彼は白色テロのなかで1954年4月17日

に「監諜罪」で処刑された九このとき,ツォウ族の湯守仁,方義仲,在

清山,タイヤル族の林端昌(ロシン・ワタン),高津照が一緒に処刑され

ている。

もう一つの指摘は,「ひぐらし」の時代背景についての疑問である。笠

原は「トパス・タナピマJと「ひぐらし」の 2編は,「帰郷小説とでも呼

ぶべき作品群であろう。ただし,後者の「ひぐらし」については,一九二

O年生まれの主人公が憧れて都会に出たという筋立てそのものが成り立つ

のかどうか,多少の疑問が残るJとする。確かに40年代には成年に達する

主人公が,戦前の皇民化期をどう生きたか不明のまま「都会に出たという

筋立」は,どのように理解すればいいのか,理解可能な読みを提示する必

要がある。

最後に80年代から90年代の台湾原住民社会の急激な変化をよく知る笠原

は,本書の作品世界がすでにいまの原住民社会をリアルタイムに反映する

ものでばないことを次のように指摘する。

(34)

本書に邦訳されたモ一ナノンとトパス・タナピマの作品が漢語で発表

されてから,すでにーO年以上,場合によっては二O年ほどの時間が経

過している。その閣に,台湾原住民をめぐる社会状況は大きく移り変わ

った。「名前を返せ」という運動は着実に成果をあげ,また「原住民」

という名称もすっかり定着した。公娼の制度も廃止された。政府の内部

に原住民(族)委員会が設けられるなど,国家政策が急速に改善される

一方で,山地の村々は関家公園の指定や,一段と進展した観光化,開発

などの大波に洗われている。そのような現状を考えるとき,本書の作品

が発表された一九八0年代との落差を改めて感じざるをえない。いまで

は変化の速度に合わせながら,これらの詩や小説を読むという姿勢が求

められているのかもしれない。

確かに,いまでは原住民族正名記念日( 7丹31日)が設けられたり,原

住民族専用のテレビ局が開局されたり,想像を絶するような変化が生まれ

ているのが今日の台湾原住民族をめぐる新しい状況である。

次の松永政治の書評「台湾原住民文学選1 名前を返せ」は『ユリイカ』

(2003年5月)に発表された。松永は70年代から台湾文学研究に従事し,

台湾原住民文学にも関心を寄せる台湾文学研究者の一人である。 1981年に

は「臼本圏内ジャーナリズムにおける霧社事件J(戴圏燦編著 F台湾審社

蜂起事件研究と資料』社会思想社〉を発表している。

松永の論点はある意味で明確だ。すなわち「原住民族の運動は,民主化

運動の中から出てきたものだし,また民主化運動という背景なしには持続

することはできなかっただろうが, しかし,ともすれば統一/独立のイデ

オロギ一対立や,中台の政治抗争の中にからめ取られてゆきがちな現状に

対して,そうした対立を無意味化するような地点から台湾社会のあるべき

未来を提示しうる点で,原住民族の問題は重要だ」と述べる。

台湾文学がそうであり,いまもそうであり続けているように,台湾原住

(35)

民文学もまた厳しい政治の挟撃から免れることができなし、。台湾原住民文

学は,今後どのような形に変容していくのか,予断を許さない。しかしな

がら,原住民族の人々は,これまでのように為政者の政策を一方的に強要

される存在ではもはやないことは確かである。換言すれば,原住民族自身

が「台湾社会のあるべき未来を提示Jする主体を担う時代が訪れたという

ことでもある。

「台、湾原住民文学選」の第2巻は, f故郷に生きる リカラッ・アウー/

シャマン・ラポガン集Jであり,標題のとおりリカラッ・アウーとシャマ

ン・ラポガンの作品集である。前者は,女性作家であり,後者は海の作家

である。本巻の特色は,女性と海の作家を1巻に収めたところにある。

第 2巻には, リカラッ・アウーの「誰がこの衣装を着るのだろうかJ,

「歌が好きなアミの少女」,「軍人村の母j,「白い微笑J,「離婚したい耳」,

「祖霊に忘れられた子どもj,「情深く義に厚い,あるパイワン姉妹」,「色

あせた刺青j,「傷口J,「姑と野菜畑J,「故郷を出た少年J,「父と七夕」,

「あの時代j,「赤い唇のヴヴJ,「ムリダン」,「永遠の恋人J,「医者をもと

めて」,「山の子と魚j,「オンドリ実験J,「誕生J,「忘れられた怒りJ,「大

安渓岸の夜J,「ウェイハイ,病院に行く」,「さよなら, fil婆」の散文24編

が収められている。

そして,シャマン・ラポガンの長編小説「黒い胸びれ」の 1篇が収めら

れている。

本書に対する書評には,野田正彰「「台湾関住民文学選②故郷に生き

る 新しい生き方教える精神の旅」(『熊本日B新聞』 2003年6月1日)が

ある。野田は,先に取り上げた 6編と本編で計7縞の書評(コラムを含む)

を執筆しているが,これによって台湾原住民文学に深い関心を寄せている

ことカまわかる。

すでに述べたように,野田が台湾をはじめて訪ねたのは1999年の921台

湾大地震のときである。このとき,霧社を歩いて原住民族社会を見聞して

(36)

以来,その後パイワン,ルカイ,ブヌン,アミ,タオの原住民部落を訪ね

ている。そうしたなかで,『悲情の山地』や「台湾原住民文学選Jを通じ

て台湾原住民文学に関心を持ち続ける野田が日ごろ感じていたことは,原

住民族の「若者に新しい生き方を教える」,「文化英雄の物語」が創造され

ることであった。今度,こうした野田の期待にこたえる作品がようやく生

まれた。それが本書に収録された,シャマン・ラポガンの『黒い胸びれ』

である。

第二巻, シャマン・ラポガンの「黒い胸びれ」は,私が原住民文学に

求めた総てを満たしてくれる,素晴らしい作品である。台湾の南端にあ

る島,繭娯島には,約三千人のタオ族がトビウオやシイラをとり, ミズ

イモ,サツマイモなどを耕作して暮らしている。ラポガンはこの島をと

りまく海の美しさを酉き尽くすとともに,中由化教育に振りまわされる

間少年の想いから,祖父母や父母が生きる漁労の文化と台湾本島の消費

や性の魅惑を対比させながら,やがてタオの漁労文化に人生の充実を見

出していく男たちの精神の旅を語っている。海洋文学の傑作であるとと

もに,文化変容のなかでのタオの少年の精神遍歴と成熟の物語である。

これから先,タオの少年は「黒い胸びれ」を通して,自分がいかに生き

るべきか,将来像を創ることができる。

このような批評は,原住畏文学の作家だけでなく,原住民文学の発展を

願うわれわれにとっても大きな励ましとなるものである。

本書には書評ではないが,もう一編本書にふれた髄筆がある。小田実の

「先住民族の文化について,また「正義」について一私の新年の辞 」

(『毎日新聞』 2004年12月28日)である。小田は日本の著名な作家である。

小田は, 2004年12月11臼に東京で開催された「日台フォーラム《台湾原住

民文化と現代》」に出席して,そこでシャマン・ラポガンおよびリカラッ

(37)

・アウーに出会っている。小田は二人の原住民族作家との出会いを通じて,

日本のアイヌ族,そしてハワイの先住民族カナカ・マリオ族を想起してい

る。小田は, 1994年 8月に「長年のアメリカ合州国の植民地支配を彼ら自

身の手で裁こうとする「園擦民衆法廷Jに参加したことがある」。そこで

の体験を通して,アメリカの「正義の女神」やかつての日本の「天に代わ

りて不義を討つJの植民地国の「正義」より,「平等,公正な分配,そこ

でバランスをとるというハワイの先住民族の「正義」のほうがはるかに上

等な「正義」だと思うJと述べる。本編には,シャマンとアウーに対する

小田実の読後感が述べられているので,その部分を以下に引用してみよう。

「フォーラム」に来た原住民族作家のひとりは,中国から来た一蒋介

石軍に少年兵士として強制的に加わらされてやって来た「外省人Jの父

と,彼に金で貿われて結婚したパイワン族の母をもっリカラッ・アウー

で,彼女の作品の主題は,まとめ上げて言えば,彼女の家族関係が示す

よう錯綜した現代台湾の問題がいかに原住民族の世界に入り込んで,彼

らの文化を崩壊させつつあるかーだ。

もうひとりは台湾南方海上の蘭槙島のタオ族の作家シャマン・ラボカ

ンー一彼の小説「黒い胸びれ」は,島の「特産」でもあり彼らの文化と

歴史の象徴とも言えるトビウオを主題にした「海洋小説」で,彼に言わ

せれば,こうした「海洋小説」は,今,中国にも世界にもない。彼らの

文化の崩壊をくいとめるのは彼らの故郷の自然の力だ一一そう読んでい

て感じさせる力強い小説だった。

魚住悦子がアウーとラボカンをニ人あわせて訳して「故郷に生きる」

と題した一書に収めている(革風館・ 2003)。これは都市がいやになっ

て故郷へ帰って農業をやるというたぐいのことではない。また,私はさ

っき今彼らは原住民族として法的に認知されたと書いたが,政府がもの

判りがよくてそうしてくれたものではない。すべて彼ら自身が運動を超

(38)

こしてたたかったからだ。運動の毘標をいくぶんでも達成したあと,運

動を形成した都市在住の知識人たちは,自分たちが故郷をいかに離れて

生きてきたかを痛感した。自分たち原住民族の根っ子にある,故郷へ帰

って生きょう一一それが「故郷に生きる」だ。

「台湾原住民文学選」の第3巻は,『永遠のの山地 ワリス・ノカン集』

であり,ワリス・ノカンの他人作品集である。

第3巻には,『山は学校』(『山是一藤学校』 1990年)から「みどりの葉

っぱは木の耳」,「ずる休みJ,「雨の中の紅い花J,「旅へ」,「欠落感」,「油

尾の子どもの下校j,「山は学校J,「母」,「縄J,「詩集」,「線路J,「黙思録J,

「三代j,「最後の日本軍夫J,「終戦」,「鳥来にてJ,「大間にてj,「捷午霧

社行」,「八雅鞍部を行J,「山霧」, f霧社」の詩21編が収められ,『サング

ラスをかけたムササビ』(『戴暴鏡的飛鼠J1997年)から,「大安渓J,「陸

勇線J,「山への招待J,「山の洗礼」, f猟人J,「老狩人が死んで」,「サング

ラスをかけたムササビJ,「火をつけるヤギ」の散文8編が収められている。

さらに,「永遠の部落」 er永遠的部落J1990年)から,「外省人の父J,「一

九九六年一月一日の命名」,「奪われた一日」,「故郷はどこ?J,「竹筒飯と

地方記者」,「石碑に涙無しJ,「ウルガの恋」。 「夢の顔j,「虹の橋」の散

文 9編,『受難の歴史』(未刊)から,「汚名を背負ってJ,「白の追憶J,

「「白色」追憶録」,「ロシン・ワタン」の散文4繍,『荒野の呼び声』(『荒

野的呼喚』 1992年)から,「家は国家公閣のなかJ,「神話の澱堂」,「延々

十年,故郷へ帰る道」,「目覚めへの路J,I太陽イナの故郷をめぐってJ,

「途方に暮れる?」の散文6編が収まれれている。全体で,詩が21編,散

文が27編収録されている。

残念ながら本巻に対する書評は出ていない。

「台湾原住民文学選」の第4巻は,『海よ山よ』と題して翻訳されたが,

本巻は「十一民族作品集」となっており, 11の民族の原住民作家の作品が

(39)

収録されている。以下,収録作家の作品を列記すると次のとおりである。

プユマ族の孫大川(パッラパン)「母の瞳史,歴史の母J,タイヤル族の

ワリス・ロカン「ホレマレ」,アミ族のアタウ・パラフ「パンノキJ,アミ

族のロゲ・リヴォク「リヴォクの日記J,タイヤル族のユパス・ナウキヒ

「出草J,タロコ族の薬金智「花痕J, シラヤ族(平繍族)の楊南郡「どう

してケタガランなのか?J,タイヤル族のマサオ・アキ「タイヤル人の七

家湾渓J, }レカイ族のアウヴィニ・カドリスガン「雲豹の伝人J,ブヌン族

のホスルマン・ヴァヴァ「生の祭J,ブヌン族のブタン・イシマハサン・

イシリトアン「大地の歌J,パイワン族のサキヌ「ムササピ大学」,プユマ

族のパタイ「盤路j,タイヤル族のリムイ・アキ「プリンセス」,パイワン

族のヴァツク「紅点J,ブヌン族のネコッ・ソクルマン「霧の夜J,サイシ

ャット族のイティ・ダオス「聖地へj,ツオウ族のパイツ・ムクナナ「親

愛なるアキイ,どうか怒らないでくださいj,タオ(ヤミ〉族のシナン・

シュムクン「マカラン」が収録されている。

21世紀に入ってから原住民族と認定されたサオ族とクパラン族を除く 10

の原住民族と,平捕族のシラヤ族出身の作家の作品が計19編収められてい

る。

本巻の書評には,西垣勤「台湾原住民文学選④『海よ山よ』J(『植畏地

文化研究』第三号, 2004年 7月)がある。

評者の西垣勤は『近代文学の風景 有島・激石・啄木など』(績文堂出

版, 2004年)の著作のある日本文学の研究者である。そのような日本近代

文学の研究者である西垣は,本書に収録された作品世界に共感を覚えて,

次のように述べている。すなわち,「私は,今回この蓄を読んで,大きな

感銘を受けた。言わば,現代の我々が忘れている世界,しかし我々が経験

しなくてはならない, しかしもはや経験出来ない世界を描いていて,その

世界に我々を導き入れてくれる物語に満ちているのであるJとして,作品

としてはとくにイティ・ダオス(サイシャット)「聖地へ」とユパス・ナ

(40)

ウキヒ(タイヤル)「出草Jに関心を払っている。

本稿の最後に,小説家である津島佑子のコラムを取り上げたい。津島佑

子のコラムは,「(半歩遅れの読書術)台湾の原住民文学ーアイデンティテ

ィの力強さ一」と題して2005年10月16日付け『日本経済新聞』に発表され

ている。津島の『台湾原住民文学選Jへの評価は,すこぶる高いものがあ

る。…つには,本選集のようなマイノリティー文学が,こうして日本の出

版界から出版されていることへの驚きから出たもので,次のように率直な

感想を述べている。

それにしても台湾全体の現代文学ですら, じつはこのB本であまり読

まれているとは思えないのに,そのなかで,原住民たちによる新しい文

学だけを全五巻もの分量で翻訳出版しようというのだから,無茶という

か,ふつうの資本主義の論理からは考えられない企画だったにちがいな

い。もう日本の出版界は儲け主義に走り最悪の状態だ,と日頃,嘆いて

ばかりいるのだが,こんな例を見ると,まだまだ日本の出版も捨てたも

のではないと考え直したりする。

津島はこのような『台湾原住民文学選Jを「驚異的な」シリーズとも述

べているが,台湾原住民族を取り巻く臆史環境については,「‘漢族が大陸

から移住する前から台湾に住みついていたこの原住民は現在,十二族を数

え,総人口四十万ほどだという。かれらはそれぞれ険しい山岳地帯や離島

を漢族に干渉されない自分たちの領分として,独自の古い文化を残してい

たのが,日本統治時代になってから,伝統文化を奪われ,山での労働に酷

使されたり,日本兵にされたりした。けれども,時代は刻々と変わってい

く。日本統治時代から今度は罷民党の時代になり,さらに今は実態として,

政治よりは IT産業の時代になっている。原住民もパソコンや携帯電話を

(41)

手放せない時代になっているのだ。」と的確に捉えている。さらに,台湾

原住民文学の作品世界については,内容から「台湾人Jとしてのアイデン

ティティの模索とその開放性を感受して,次のように述べている。

最近の十年間に輩出している若い世代の原住民作家たちによる作品を

読んで伝わってきたのは,伝統文化を自ら守りつつ,「台湾人Jとして

のアイデンティティをも改めて見出そうとする力強さだった。漢族も原

住民もそれぞれ自分たちの伝統文化を窮屈な櫨にしてはならない,と自

覚するかれらの開放性がなによりも頼もしく感じられた。

この若い原住民作家たちはどうやら,今の台湾でますます勢いを増し

ているようだ。

以上,本節では台湾原住民文学の翻訳・出版とそれに対する書評を中心

に詳しくみてきた。邦訳された台湾原住民文学は『悲情の山地』ゃ F台湾

原住民文学選』などまだ限られた範囲にとどまっている。しかしながら,

日本の文化界・学術界で取り上げられた,書評やコラム,随筆などを仔細

にみると,台湾文学,現代中国思想,文化人類学者,日本文学,作家,エ

ッセイスト,小説家といった多方面の分野から深い関心が寄せられている

ことがわかる。そしてその関心は実に多様であるが,それは台湾原住民文

学が多様な読みを喚起してやまない文学世界であることの証左でもあり,

台湾原住民文学の最大の特色はここにあるとも言えるのである。

(付記)

本稿は, 2005年9月2臼から 4臼まで国立東華大学で開催された「山海

的文学世界一台湾原住民族文学園際研討会Jにおいて報告した原稿をもと

に,その後新たに発表されたコラムを加えてまとめたものである。

なお,本稿は科学研究費補助金(基盤研究(C))「台湾原住民文学およ

(42)

び言語環境に関する基礎的研究J(代表者下村作次郎)による研究成果

の…部である。

1)筆者著「台湾原住民族文学史の初歩的構想」『天理台湾学会年報』(第13号,

2004年7月)参照。

2)この解説は「台湾原住民的詩輿文学」として『台湾文芸』 19号, 1993年10

月に訳載されている。

3)翻訳は筆者訳。 fバナナボート』(JICC出版局, 1991年)に収録されてい

る。

4)野上豊一郎・野上弥生子著『朝鮮・台湾・海南諸港』拓南社,昭和17年8

J=l

5)作者によると,宙関栄人の論文は「異文化を接ぎ木する技法 ユカタン・

マヤの口承文芸にみる奥文化哲学J(東北大学言語文化部『言語と文化J第

13号)である。筆者は未見。

6)続刊『台湾原住民文学選』(草風館, 2005年中刊行予定)に翻訳して収録

する予定である。

7)作者によると,孫大川!の論文は f汎原住民意識と台湾の民族問題の栂互作

沼J(明治学院大学『PRIMJI第6号)である。

8) 2005年 7丹5日に日本で高一生(矢多一生)研究会が成立し, F高一生

(矢多一生)研究』が創刊された。

(43)