4
社団法人 日本看護協会「看護職賠償責任保険制度」第5回特別講演会(2008622日) 大変であればこそ 優れた看護実践にその隘路を見いだす はじめに - 今はどんな「今」でしょうか - <1> 昨年の春、私は50年の伴侶を見送りました。約2ヶ月を病院 で、 9ヶ月を在宅で過ごしました。仕事と両立しながらでしたか ら、十分とはいえなかったかもしれませんが、息子と二人で工夫 しながら精一杯のケアをした実感はあります。しかし、看護を 受ける立場から、現在の医療・看護の環境やそのありようについ ては一言いいたい思いが強く、今回のテーマにもそれが連動し ていることを申し上げておきます。 ところで、本日のテーマであります「今だからこそ」の「今」につ いて共有しておきましょう。先ず、在院日数の短縮により、かつ てない目まぐるしい過密な看護現場の状況があります。とりわ け、医療の機械化やIT化の影響を受けて、文字通り人間疎外と いった状況が進行しています。例を挙げてみましょう。 古くから医師の象徴でもあった聴診器を、診断技術の進化と ともに捨てた医師たち、それを拾った看護師の現在の行動様式 には、かつて医師に向けた批判内容と共通のものがあることを、 看護師のみなさんたちは自覚しているでしょうか。 「息苦しさ」を訴える患者の顔も様子も観察せず、指先に挟ん だサチュレーションモニターのデジタル値のみで「息苦しくない はず」とか「大丈夫」と言うのみ。ディスプレイに集中する目は あっても、患者を見る目は曇っていないでしょうか。電子カルテ 上でのデータセットの選択で処理されるアセスメントにより、新 人の頭の中が見えなくなったと嘆く看護師の声も聞きました。リ スクマネジメントの名のもとに、患者の尊厳が脅かされている 数々のエピソードは枚挙にいとまがありません。 こうした風潮を、看護の危機的状況と呼ばずに何と呼べばい いのでしょう。人間の営みとは逆行するような効率性に価値を おくことを黙って見過ごしてよいものでしょうか。1人の看護師 の実践能力を遙かに超えた日々の業務の過密化も見ないわけ にはいきません。その結果もっとも苦しむのは医療や看護の受 け手である患者とその家族であるといえます。いったい質の高 い看護はどこに行ったのでしょう。 でも、看護師の仕事の大変さは、今に始まったことではありま せん。そして殆どの看護師たちは、このままであってよいとは思 わず、何とかしたいと願っていると思います。もしかしたら、個人 が努力しても無駄だと思っている方もいるかもしれません。そこ で、厳しい「今」を乗り越えるための示唆として、先人たちの言葉 をご紹介しましょう。 ナイチンゲールは言いました。 「我慢と断念という言葉が看護 師の口にのぼるとき、それは怠慢と無関心の言い換えに他なら ない。それは自分に対しては恥をあらわし、病人に対しては無責 任をあらわす」と。また、社会学者ブラウン博士は、 「もし、いけな いと知りつつ、良心にそぐわない現状に甘んじ続けたら、何時し かその状態に無感覚になり、辞職するか、緊張のもとにくじけて しまうだろう」と述べています。 確かに、現在看護師たちが直面しているのは、これまで誰も 体験したことのないレベルの「大変さ」であり、質であるかもし れません。でも、患者さんが存在している限り、逃げたり放り出 すわけにはいきません。私たちは専門職なのですから。では、こ の苦しい道から抜け出す方法があるのでしょうか。これまでも 看護の道は何時も険しく厳しいものでした。人手が足りていた 時期など思いつきません。それでも、何とか乗り越えて来たのは 何故でしょう。 それは、 「石にかじりついてもこの仕事を!」の気概にほかな らないと思います。その気概の源泉こそ「優れた看護実践」なの です。優れた看護実践とは、たとえそれが1回限りの実践であっ ても、後日「あの時のあの実践(経験) と同じ」という共通性を 持っています。そこから引き出される真実は、年月を経て有用で あり、忘れてならないのは、未熟な時代の経験であっても、真実 は真実ということです。 だからといって、日々成り行き任せであっては何も得られない 今だからこそ 看護師の手の有用性を 日本赤十字看護大学教授 学部長 同看護実践・教育・研究フロンティアセンター長 川嶋 みどり MIDORI KAWASHIMA (要旨) - 癒し、慰め、励ます手の価値 -

「看と は生き 今だからこそ 看護師の手の有用性を · でも、看護師の仕事の大変さは、今に始まったことではありま せん。そして殆どの看護師たちは、このままであってよいとは思

  • Upload
    others

  • View
    2

  • Download
    0

Embed Size (px)

Citation preview

Page 1: 「看と は生き 今だからこそ 看護師の手の有用性を · でも、看護師の仕事の大変さは、今に始まったことではありま せん。そして殆どの看護師たちは、このままであってよいとは思

社団法人 日本看護協会「看護職賠償責任保険制度」第5回特別講演会(2008年6月22日)月22日)

大変であればこそ

優れた看護実践にその隘路を見いだす

はじめに -今はどんな「今」でしょうか-

かって

ー長

1983

2005

07年、

、日本

日本老

<1>

 昨年の春、私は50年の伴侶を見送りました。約2ヶ月を病院

で、9ヶ月を在宅で過ごしました。仕事と両立しながらでしたか

ら、十分とはいえなかったかもしれませんが、息子と二人で工夫

しながら精一杯のケアをした実感はあります。しかし、看護を

受ける立場から、現在の医療・看護の環境やそのありようについ

ては一言いいたい思いが強く、今回のテーマにもそれが連動し

ていることを申し上げておきます。

 ところで、本日のテーマであります「今だからこそ」の「今」につ

いて共有しておきましょう。先ず、在院日数の短縮により、かつ

てない目まぐるしい過密な看護現場の状況があります。とりわ

け、医療の機械化やIT化の影響を受けて、文字通り人間疎外と

いった状況が進行しています。例を挙げてみましょう。

 古くから医師の象徴でもあった聴診器を、診断技術の進化と

ともに捨てた医師たち、それを拾った看護師の現在の行動様式

には、かつて医師に向けた批判内容と共通のものがあることを、

看護師のみなさんたちは自覚しているでしょうか。

 「息苦しさ」を訴える患者の顔も様子も観察せず、指先に挟ん

だサチュレーションモニターのデジタル値のみで「息苦しくない

はず」とか「大丈夫」と言うのみ。ディスプレイに集中する目は

あっても、患者を見る目は曇っていないでしょうか。電子カルテ

上でのデータセットの選択で処理されるアセスメントにより、新

人の頭の中が見えなくなったと嘆く看護師の声も聞きました。リ

スクマネジメントの名のもとに、患者の尊厳が脅かされている

数々のエピソードは枚挙にいとまがありません。

 こうした風潮を、看護の危機的状況と呼ばずに何と呼べばい

いのでしょう。人間の営みとは逆行するような効率性に価値を

おくことを黙って見過ごしてよいものでしょうか。1人の看護師

の実践能力を遙かに超えた日々の業務の過密化も見ないわけ

にはいきません。その結果もっとも苦しむのは医療や看護の受

け手である患者とその家族であるといえます。いったい質の高

い看護はどこに行ったのでしょう。

 でも、看護師の仕事の大変さは、今に始まったことではありま

せん。そして殆どの看護師たちは、このままであってよいとは思

わず、何とかしたいと願っていると思います。もしかしたら、個人

が努力しても無駄だと思っている方もいるかもしれません。そこ

で、厳しい「今」を乗り越えるための示唆として、先人たちの言葉

をご紹介しましょう。

 ナイチンゲールは言いました。「我慢と断念という言葉が看護

師の口にのぼるとき、それは怠慢と無関心の言い換えに他なら

ない。それは自分に対しては恥をあらわし、病人に対しては無責

任をあらわす」と。また、社会学者ブラウン博士は、「もし、いけな

いと知りつつ、良心にそぐわない現状に甘んじ続けたら、何時し

かその状態に無感覚になり、辞職するか、緊張のもとにくじけて

しまうだろう」と述べています。

 確かに、現在看護師たちが直面しているのは、これまで誰も

体験したことのないレベルの「大変さ」であり、質であるかもし

れません。でも、患者さんが存在している限り、逃げたり放り出

すわけにはいきません。私たちは専門職なのですから。では、こ

の苦しい道から抜け出す方法があるのでしょうか。これまでも

看護の道は何時も険しく厳しいものでした。人手が足りていた

時期など思いつきません。それでも、何とか乗り越えて来たのは

何故でしょう。

 

 それは、「石にかじりついてもこの仕事を!」の気概にほかな

らないと思います。その気概の源泉こそ「優れた看護実践」なの

です。優れた看護実践とは、たとえそれが1回限りの実践であっ

ても、後日「あの時のあの実践(経験)と同じ」という共通性を

持っています。そこから引き出される真実は、年月を経て有用で

あり、忘れてならないのは、未熟な時代の経験であっても、真実

は真実ということです。

 だからといって、日々成り行き任せであっては何も得られない

しして

「看と

は生き

ただ、

手を介

を以て

がわか

然なこ

その個

神経を

があり

るケア

手が自

う。

看護の

ていま

」を世

普及す

による

ょう。

きく発

つ意味

す。

ぬくも

の手の

今だからこそ看護師の手の有用性を

日本赤十字看護大学教授 学部長同看護実践・教育・研究フロンティアセンター長

川嶋 みどりMIDORI  KAWASHIMA

(要旨)-癒し、慰め、励ます手の価値-

Page 2: 「看と は生き 今だからこそ 看護師の手の有用性を · でも、看護師の仕事の大変さは、今に始まったことではありま せん。そして殆どの看護師たちは、このままであってよいとは思

<2>

失敗知の中にも看護を進化させる法則性が

爪のケアから保助看法へ

保助看法 60 周年に思うこと

診療

看護

と思います。私の新人時代のことですから相当昔のことになり

ます。専門職であるからには、忙しい日々、ただ漫然とその日そ

の日に追われていたのでは、何も得られないと気がつきました。

そこで、出勤とと

もに「今日、私が看

護師としてできる

ことは何?」を問

い、職場を出る時

には「今日、私は看

護師として何をし

たか?」を問うこ

とにしました。まる

でお念仏のようでしたが、そうすることによって、看護本来の仕

事の価値を自分なりに見出すことができたと思います。

 だからこそ、私にとっての新人時代は、今では想像できないほ

どの貧しい環境や設備ではありましたが、そこでの実践内容は

今思い出しても、何と豊かであったことでしょう。たとえば、入職

して僅か10日目から1週間かけて行った、悪性の脊髄腫瘍の少

女への清拭を通して得たことは、数十年後の現在にも、多くの

看護師に共感を持っていただける内容があり、今日の私の看護

観の基礎にもなっています。すなわち、「生活行動援助の価値づ

け」であり「安全性と安楽性の概念」であり、「看護実践の治療

的効果」でもあるのです。

 このほかにも、人間の生活行動のそれぞれの営みの連関を

教えてくれたのは、生後数ヶ月の先天性巨大結腸症の、乳児の

排ガスケアの後の哺乳力(食欲)を通してでした。また、脳神経

系の疾患の疑いで、言葉を失っていた少年の言葉を回復させた

のは、少年の黒潮の海の記憶を呼び起こした「海」の歌でした。

このことは、現在の私の専門領域である老年看護学のコンセプ

ト「人生の時と場を共有することで、記憶や言語の再生が可能」

に通じる原点でもあります。

 このように、ベッドサイドは看護の教室であり、患者さんは最

高の教師でもあるのです。さらに、詳細は省略いたしますが、頻

回なナースコールや、訴えの多い患者さんの訴えを多くしてい

るのは何かを明らかにする研究では、看護師の対応自体が、

コールや訴えを増す要因であることが明らかになりました。ま

た、1日の看護師の行動を観察して、何が看護師を忙しくさせ

ているのか、「忙しい」という主観的な思いを「忙しさ」という客

観的な尺度で普遍化できないかという研究も実りあるものでし

た。このほか現在も続けていますが、臨床ならではのリアルな事

例を記述し、その検討を重ねながら看護師の経験知を積み上げ

ていくなど、まさに、ベッドサイドは看護研究の宝庫でもあります。

 また、私たちは、うまくいったことばかりではなく、失敗や悔

いを残した事例からも学ぶことができます。要は成功知であっ

ても失敗知であっても、流さずに意識化・言語化し、看護界で共

有することがとても大切です。

 例を挙げてお話しましょう。もう数年以上前のことになりま

すが、卒後研修の研修生が訪問看護の実習先で、高齢者の足の

爪切りに際して少量の出血をさせてしまい、消毒後、絆創膏を

貼ってそのお宅を辞しました。しかし、こうしたことを「よくある

ことね。注意してね」では済まされないことを、その後の家族の

クレームにより反省させられました。

 そこで、当時の教科書類を調べてみましたら、高齢者の爪切り

に関する詳細な記述のないことを知りました。そのような問題

意識と前後して、別の研修生は、「高齢者の爪の伸び具合は、そ

の高齢者の介護問題を把握する指標となる」という優れた研究

発表をしました。このような経緯を経て、私も高齢者の足や爪の

状態に関心を持つようになりました。そのような折に爪切りの

達人に出会い、「たかが爪切りというなかれ」という思いを強く

したのでした。それはまるで目から鱗でした。爪の切り方ひとつ

で寝たきり高齢者を起こしたり、血流をよくするというのですから。

 

 因みに、日本看護科学学会学術用語集には、爪のケアは足浴

や足のケアと並んで基本的生活行動援助の領域に位置づけら

れています。このように、皮膚の延長である爪のケアは、保助看

法の二大看護業務の範疇であり、優れて療養上の世話であるこ

とを、いまいちど再確認しておきましょう。従って看護師の自由

裁量でこれを実施できることは当然であり、専門職である以上

そのリスクを負う責務を認識すべきであることは言うまでもな

いことです。

 

 ところで今年は保助看法60周年です。1948年に公布され

たこの法の記述が変わらず続いていることに、疑義を挟む向き

もあるようですが、私はむしろ評価する立場です。なかでも、診

療の補助と療養上の世話という二大看護業務の記述が今日ま

で続いていることの意味を大切にしたいと思います。とはいえ、

この二大業務は何時の時代にも揺れ動き続けてきました。看護

師らは「本当はしなければならないのだけど⋯」と言いつつ、何

時も診療の補助に傾く業務のありようについて、心を痛めてき

ました。確かに現行の診療報酬制度のもとでは、業務の比重が

診療面に傾くことは当然かもしれません。しかし、私たちは看護

師ですから、看護本来の仕事にもっと時間を割くべきだと思います。

 そこで、この診療の補助業務についての先人たちの言葉をご

紹介しましょう。先ず最初にナイチンゲールは、「患者のために出

された指示が本当に患者のためになるように遂行されるには、

どのように知性的に従うか」(1881)と述べています。また、「互

いに同意して患者の益を図る」(1907)と言ったのは大関和で

した。V.ヘンダーソンは、「診療面の仕事は本来の看護の役割で

はない

と、そ

うする

育背景

います

 今日

として

こうし

認識を

動する

善であ

柔軟に

以上は

かな行

事とい

 

 では

に境界

患者に

決して

の範疇

 では

為に比

対象の

て安全

換技術

ります

す。だ

循環障

もなっ

者の場

いる方

 した

や極度

ら見解

できる

然であ

である

スクを

 看護

え、対

す。そ

看護師

朝夕問い続けて

毎日が自分への問い

Page 3: 「看と は生き 今だからこそ 看護師の手の有用性を · でも、看護師の仕事の大変さは、今に始まったことではありま せん。そして殆どの看護師たちは、このままであってよいとは思

<3>

社団法人 日本看護協会「看護職賠償責任保険制度」第5回特別講演会(2008年6月22日)

診療の補助と療養上の世話

看護の原点 -手を用いたケアの再評価-

護界で共

になりま

者の足の

絆創膏を

よくある

の家族の

の爪切り

うな問題

合は、そ

れた研究

足や爪の

爪切りの

いを強く

方ひとつ

ですから。

アは足浴

置づけら

、保助看

であるこ

師の自由

ある以上

までもな

公布され

挟む向き

でも、診

が今日ま

はいえ、

た。看護

つつ、何

痛めてき

の比重が

ちは看護

思います。

言葉をご

ために出

るには、

また、「互

大関和で

の役割で

はない」として、その理由を「不十分な教育背景のもとで行う面

と、その仕事をすることによって第一義的な看護師の役割を全

うする時間を犠牲にし、その結果、看護本来の仕事を十分な教

育背景のない職員の手に委ねる」(1961)ことになると述べて

います。

 今日、医師不足が社会問題化し、その解決を図る方策の1つ

として、看護師の業務拡大が現実のものとなりつつありますが、

こうした基本的な立場に立ち返って看護業務についての正しい

認識を持つ必要があります。医療現場においては、時々刻々、流

動するその場の状況に応じて何をすることが対象者にとって最

善であるかを、過去の事実や規則や原則にとらわれることなく

柔軟に判断し、実施することがもっとも重要であるのです。行う

以上は、行うことに伴う危険性を予知し、対応策を知って速や

かな行動ができること、専門職としての主体的な診療面での仕

事といえるでしょう。

 

 では、この2つの仕事、診療の補助と療養上の世話のあいだ

に境界があるのでしょうか。これまでも、絶対的医行為すなわち、

患者に危害を与える恐れのある行為、たとえば外科手術などは、

決して看護師は行いませんでした。静脈注射もごく最近までそ

の範疇とされていたことは記憶に新しいと思います。

 では、療養上の世話の場合はどうでしょうか。確かに、医療行

為に比べてそれ自体は安全な行為ではありますが、臨床看護の

対象の状態は、健康に何らかの問題を持った方ばかりで、決し

て安全であるとはいえない場合が殆どです。たとえば、体位変

換技術にしても、血圧の変動や骨折のリスクをはらむ場合もあ

ります。チューブやライン装着者の場合も、慎重さが求められま

す。だからといって時間ごとの体位変換を行わないと、圧迫や

循環障害による症状等で、患者に不必要な苦痛を与えることに

もなってしまうでしょう。つまり、看護師の行うケアは、介護職

者の場合とは異なり、何らかの健康上の問題や症状をかかえて

いる方たちであるのです。

 したがって、先ほどの爪のケアに戻りますが、高齢者の巻き爪

や極度に肥厚したり病変のある爪切りについて、看護の立場か

ら見解を述べてみましょう。1つは、放置しておくと危険が予知

できる場合、当然何らかのケアをするのは専門職の立場から当

然であり、爪切りを行うかどうかは、看護師の自由裁量の範囲

であると思います。2つめは、実際に爪切りを行う場合、そのリ

スクを意識して行うことの大切さです。

 看護の原点は、人権の尊重を柱にして、安全性、安楽性をふま

え、対象の方の自然治癒力の発現に向かって働きかけることで

す。その具体的な手法の第一歩でもあり、究極と思われるのが

看護師の手を用いたケアであるといえます。

 竹内敏晴は、

看護される体験

の原点として、中

耳炎に苦しんだ

少年時代、発熱し

た夜の「母の手の

記憶」について述

べ、「痛くて苦し

いままでの安らかさ」という示唆に富む言葉を書いています。時

実もまた、「重病の病人に対して心を通わせたいとの願いから、

無意識に自然にさしのべられる手こそ、百万言の言葉よりも心

の連帯をつくる」と述べています。このように、人間の手には、人

を癒し関わりを持つ機能があるのです。

 また、私たち看護師は、自分の三本指を患者の橈骨内側に触

れ、脈拍を測ることができるのですが、昨今では、自動血圧計の

デジタルな数や心電計モニターによって数も性状も知ることが

できるようになり、殆ど腕に触れることもないようです。しかし、

F.ナイチンゲールは、種々の脈拍の性状をリアルに描いたうえで、

「このような脈の性状の把握ができるような感受性を身につけ

ること」が看護師にとって大切であるといいます。

 手を触れる脈拍測定は、このように数を数えるだけではなく、

性状をも把握できますが、そのほかの面でも有用です。最近の

学生はコミュニケーション下手という定評があり、実習に行って

受け持ちの患者さんと意志の疎通を図ることができずに足が

すくんでしまうようなことも珍しくないといいます。

 そこで、私は、この脈拍を測るために患者さんの前腕を持ち、

測定を終えたら

その手を持ち替

えて、患者さんの

前腕外側を手の

ひらに向かって静

かに、羽毛で撫で

るようにマッサー

ジをすることを勧

めています。こうすれば、どんなに気難しい患者さんもきっと口

を開いて下さるはずであると。また、手浴も同様の効果がありま

す。これは、在宅のパーキンソン病患者さんへの看護音楽療法

での経験から言えます。口の重いパーキンソン病の方たちが、こ

の手浴を通して、口を開いて問わず語りに色々なことを語って

下さるのです。

 人間にとってあらゆる営みの基本である手、看護師はその手

によって患者のあらゆる問題に対処できるはずです。目的に

よって、支え、抱きかかえ、握り、はさみ、触れ、さすり、つかみ、揉

むなどなど。この手の温度は一定ですし、人と人との関わりを生

みだす有力なツールにもなります。意識のない状態のICUの

患者さんでさえ、看護師が心をこめて触れた手から、共感や励

Page 4: 「看と は生き 今だからこそ 看護師の手の有用性を · でも、看護師の仕事の大変さは、今に始まったことではありま せん。そして殆どの看護師たちは、このままであってよいとは思

<4>

社団法人 日本看護協会「看護職賠償責任保険制度」第5回特別講演会(2008年6月22日)

はじめ

少量の熱湯とタオルと手

個別の可能性をめざし手の有用性を今いちど

看護の原点にかえる大きな夢の実現に向かって

日本赤十字看護大学教授 学部長同看護実践・教育・研究フロンティアセンター長川嶋 みどり 氏

1951年日本赤十字女子専門学校卒業。1971年まで日本赤十字中央病院勤務。1983

年より健和会臨床看護学研究所所長、2003年より日本赤十字看護大学教授、2005

年より同大学学部長、看護実践・教育・研究フロンティアセンター長に就任。2007年、

第41回フローレンス・ナイチンゲール記章受章。現在、日本看護歴史学会理事長、日本

看護研究学会理事、日本看護系学会協議会監事、日本看護学教育学会監事、日本老

年泌尿器科学会理事、日本統合医療学会理事、日本看護管理学会監事。

講師 Profile

 昨年

で、9ヶ

ら、十分

しなが

受ける立

ては一言

ているこ

 ところ

いて共有

てない

け、医療

いった状

 古くか

ともに捨

には、か

看護師

 「息苦

だサチュ

はず」と

あっても

上でのデ

人の頭の

スクマネ

数々のエ

 こうし

いので

おくこと

の実践

にはいき

け手で

い看護

ましのメッセージを受け取っていることを、心拍数や血圧から

実証した研究もあるといいます。

 ところで、私にとって本当に幸運だったのは、看護師になって

本当に間もなくの体験が、看護の価値を実感させるものであっ

たことでした。先にお話したあの脊髄腫瘍の少女ですが、1週

間かけて行った部分清拭により、全身を覆っていた垢が取り除

かれ、さっぱりと清潔になった後のことです。いわゆるターミナ

ル期の状態で、不整と結滞のある微弱な脈拍でしたが、何と、清

拭を終えた時には緊張のよいレギュラーな脈になっていたこと

は驚きでした。そして、何より嬉しかったことは、それまで一切

口から摂取しなかったその少女が、全身をきれいにしたその朝、

「看護婦さんおなかが空いた」と、微笑みさえ浮かべて言ったこ

とでした。

 教科書も参考書もない時代でしたし、まして未熟な新人時代

が始まったばかりの頃で、その根拠を質すすべもなかったので

したが、その10年後に翻訳出版されたナイチンゲールの「看護

覚え書」に書いてあった、「生命力を圧迫していた何ものかが取

り除かれて生命力が解き放たれたまさにその徴候のひとつ」と

いう言葉に触れた時、あの少女の清拭後の反応が何であったか

がすっと胸に落ちたのでした。

 まさに、看護の安楽性とはこのことであり、看護の可能性につ

いての教えがありました。つまり、看護にとって器械や装置は要

らない、看護師自身の身体ツール、とりわけ手という道具と、患

者の状態を何とかしたいという看護師の思い、そして少量の熱

湯とタオルがあれば、救命だって可能であるということを、少女

は身をもって教えてくれたのでした。

 20世紀は差別をなくし平等をめざした時代でもありました。

誰もが人間らしく生きていくためには、制度や技術がどのよう

であればよいかを追求してきたのでしたが、21世紀は個別性が

より重視される時代であると言えます。つまり「一律から個の尊

重に向かうケア」の時代です。人間らしさの普遍の上に、その人

らしく生きて行くことをめざすのです。

 そのためにも、看護の受け手であるその方が、これまでどのよ

うに生きてきたか、今、どう生きているか、そして、これから先ど

のように生きてい

くのかをしっかり

見たうえで、その

時時の人生の場と

時の共有をめざす

ことがとても大切

だと思います。

 さてみなさん、

もういちど、看護師の手の有用性を確認しましょう。お話しして

きましたように、じかに手を触れ、抱き取ってもらうことが「看と

られる」ことであり、「手当て」の始まりでした。触れる手は生き

ています。動き汗ばみ、呼吸しているといってよいでしょう。ただ、

触れられる側がそれを受け取ることができなかったら、手を介

したいのちの流れあいは成り立たないでしょう。このことを以て

しても、まさに看護は人間と人間の相互作用であることがわか

ります。

 療養上の世話は、気持ちよい世話に尽きます。至極当然なこ

とを、至極ふつうにさりげなく行うケアの真髄、そこには、その個

人の自然治癒力を啓発する安楽なケア、すなわち副交感神経を

優位にし、免疫力を高めることに通じる本来の看護の姿があり

ます。また、個を尊重したケア、即ちその人らしさを実現するケア

とは、その人の文化と一致したケアをいいますので、受け手が自

然のままに受け取ることができるサービスともいえましょう。

 57年間この仕事を続けてきた私は、残された人生を「看護の

原点にかえる大きな夢」の実現に向かって歩みたいと願っていま

す。最後に描く夢とは「Te-Arte」、そう、「テアーテ-手当て」を世

界中に広めることです。その考え方と人間的な有用性を普及す

るために、看護師の手に焦点を当てた研究と実践と研修による

看護師の手の復権こそ、今の医療を潤す泉になることでしょう。

科学的な知と暖かい手のぬくもりを結合させた看護を大きく発

展させたいと願います。単なる夢や願望ではなく、手の持つ意味

と価値を追求して、「手当学」を構築していきたいと思います。

 人間のいのちの尊を踏まえて先人たちの蓄積した手のぬくも

りのケアについ

て考えてきました。

どうぞ、ひとりで

も多くの看護師

のみなさんが、ご

自分の手の価値

を認め、看護の可

能性に向かう実

践をして下さることを、教員のみなさんは、学生たちにこの手の

有用性を伝えて下さることを期待して終わります。

日同

川M