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「社会」と「政策」を考える 中澤克佳(「社会政策」、「ミクロ・マクロ経済入門」担当) 1. もしも保険がなかったら…? 例えば海外旅行に出かけるとしよう。もし、あなたが海外旅行中に不幸に も盲腸になってしまったとしたら、いったい治療するのにいくらかかるのだ ろうか? 表1 平均入院費用上位5都市(盲腸の場合) 順位 都市 平均費用 平均入院日数 ホノルル 232.1 万円 3~5日 ニューヨーク 194.5 万円 2日 ジュネーブ 186.8 万円 3~5日 上海 136.4 万円 1~2週間 ウィーン 109.3 万円 7日 出典: AIU 保険 旅行先で盲腸になってしまった場合、旅行が台無しになるだけではなく、 非常に高い医療費を負担しなければならない。そこで、旅行中に遭遇する「か もしれない」アクシデントに対して、その損害を補償する保険が存在する。 例えば、 AIU 海外旅行保険なら死亡・治療・賠償など含めて、1週間で 6,300 円の保険料となっている 1 旅行保険に加入する人々は、数千円から数万円の保険料を支払うことで、 旅先で出会う「かもしれない」様々なアクシデントの負担を軽くすることを 選択しているのだ。つまり、保険は一種の賭である。そして、加入者のなか で不幸にもアクシデントに遭遇した人には、給付が行われる。大多数の人々 は何事もなく帰国し、多くの場合、保険料は掛け捨てになる。 多くの「アクシデントに遭わなかった人」が支払った保険料が、少数の「ア クシデントに遭遇してしまった人」に支払われる。保険料は「アクシデント が発生する確率」(=リスク)と「保険に加入する人の数」でほぼ決定され る。民間の保険は任意契約である。つまり、私たちも保険会社も、契約を結 1 https://www6.aiu.co.jp/ota/individual.pdf 他にも様々な保険会社、保険プランがあ る。インターネットで公開していることが多いので、見比べてみて欲しい。 - 1 -

「社会」と「政策」を考える - toyo.ac.jp合、リスクの高い人が多く加入し、リスクの低い人たちが加入しなくなるこ とから、保険が成り立たなくなることがある。これを「逆選択」問題という。

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「社会」と「政策」を考える

中 澤 克 佳 (「社 会 政 策 」、「ミクロ・マクロ経 済 入 門 」担 当 )

1. もしも保険がなかったら…?

例えば海外旅行に出かけるとしよう。もし、あなたが海外旅行中に不幸に

も盲腸になってしまったとしたら、いったい治療するのにいくらかかるのだ

ろうか?

表1 平均入院費用上位5都市(盲腸の場合)

順位 都市 平均費用 平均入院日数 1 ホノルル 232.1 万円 3~5日 2 ニューヨーク 194.5 万円 2日 3 ジュネーブ 186.8 万円 3~5日 4 上海 136.4 万円 1~2週間 5 ウィーン 109.3 万円 7日

出典: AIU 保険

旅行先で盲腸になってしまった場合、旅行が台無しになるだけではなく、

非常に高い医療費を負担しなければならない。そこで、旅行中に遭遇する「か

もしれない」アクシデントに対して、その損害を補償する保険が存在する。

例えば、AIU海外旅行保険なら死亡・治療・賠償など含めて、1週間で 6,300円の保険料となっている 1 。

旅行保険に加入する人々は、数千円から数万円の保険料を支払うことで、

旅先で出会う「かもしれない」様々なアクシデントの負担を軽くすることを

選択しているのだ。つまり、保険は一種の賭である。そして、加入者のなか

で不幸にもアクシデントに遭遇した人には、給付が行われる。大多数の人々

は何事もなく帰国し、多くの場合、保険料は掛け捨てになる。 多くの「アクシデントに遭わなかった人」が支払った保険料が、少数の「ア

クシデントに遭遇してしまった人」に支払われる。保険料は「アクシデント

が発生する確率」(=リスク)と「保険に加入する人の数」でほぼ決定され

る。民間の保険は任意契約である。つまり、私たちも保険会社も、契約を結

1 h t tps : / /www6.aiu .co. jp /ota / individual .pdf 他にも様々な保険会社、保険プランがあ

る。インターネットで公開していることが多いので、見比べてみて欲しい。

- 1 -

ぶかどうか(保険に加入するか)は自由に決定できる。保険会社としては、

保険料だけ支払ってくれてアクシデントに遭遇しない人(=リスクの低い

人)に多く入って欲しいと考える。リスクの高い人を排除する行動を「クリ

ームスキミング」という。民間の医療保険や生命保険では、病歴があったり

年齢が高かったりすると、保険料が高くなる場合がある 2 。一方、私たちは

保険料とアクシデントに遭う可能性、そこから発生する損害の大きさを考え

て加入するかどうかを決める。当然、リスクが高い人、高いと考える人ほど

加入しようと思うだろう。保険会社が加入者の情報を得ることができない場

合、リスクの高い人が多く加入し、リスクの低い人たちが加入しなくなるこ

とから、保険が成り立たなくなることがある。これを「逆選択」問題という。 2. 民間保険と公的保険

日本で盲腸になった場合、1週間の入院で約 38 万円かかる。上で挙げた

都市と比べると非常に安い。しかも、医療保険によって自己負担は3割とな

るので、実際の支払いは約 12 万円で済む。ここでの「医療保険」とは、民

間の保険ではなく、国民全員が加入している公的な医療保険である。保険証

を見たことがあるだろう。学生の皆さんの保険料は、親が支払っている。 公的保険と民間保険の1番の違いは何だろうか? それは、公的保険は

「強制加入」という特徴を持っていることだ。民間保険は、企業も、私たち

も、自分の意志で加入するか否か、プランは何かを決めることができる。し

かし、公的保険はそれができない。なぜだろうか? 公的保険には医療保険・年金保険・介護保険などがある。仮に、これら保

険が民間保険と同じく任意加入だったらどうなるだろうか? 所得が低い

人、リスクが高い人、近視眼的な人は加入しない、あるいはできない可能性

がある。そのような人々が実際に困難な状態に陥ったとき、医療や介護、所

得保障といったサービスから排除される可能性が高い。そのような社会が果

たして望ましい社会だろうか? 皆さんはどう考えるだろうか? そもそも、予知能力のない私たちは、何十年にもわたる人生で遭遇する「か

もしれない」病気・けが・失業・老齢などのリスクを正確に認識し、それに

備えることは困難であるし、効率的ではない。私たち経済学者を含めた専門

家も、様々な「仮定」に基づいた「予測・分析」を行うが、それは決して「予

2 生命保険の起源は、紀元前のローマ時代といわれている。日本でも「講」と呼ばれ

る相互互助組織が江戸時代には成立していた。一般に、民間の生命保険の保険料は、

死亡する確率の高い(=平均寿命が少ない)男性( 78.64 歳)が高く、年金保険の保

険料は、長生きする確率の高い(=平均寿命が長い)女性( 85.59 歳)が高くなって

いる。

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言」ではない。不確実な未来は不確実なのである。もちろん、不確実だから

といって考えることを放棄してはいけない。 現代の社会保障制度は、不確実なある一定のリスクに対しては、国民全員

が負担することにしている。どのようなリスクに対応するかによって、負担

や給付のあり方が異なっている。また、「何を」、「誰が」、「どこまで」負担

するかは、それぞれの国で異なっている 3 。つまり、どのような社会保障制

度を選択するかは、民主主義においては究極的には国民、つまり私たちの選

択である。 3. 制度選択と選挙

社会保障も含めて、さまざまな「制度」や「政策」は、多くの人々の利害

と結び付けられている。ある政策によって得になる人や損になる人がでてく

る。そして、さまざまな制度や政策は「政治」によって決定されている。つ

まり、さまざまな利害を織り込んだ政策は政治的な意思決定によって決定さ

れ、政治の方向付けを行うのは、選挙である。 「政治の経済分析」という分野では、人々の投票行動と政党の行動につい

いて「合理的無知」と「政策の束」という考えを用いて解釈を行うことが多

い。「合理的無知」とは、「選挙において、どの候補者・政党へ投票すべきか

を判断するためには、政策に対して正確な評価をしなければならないが、そ

のために必要な時間や労力と、自分の1票を投じる価値(1票を投じること

で政策が望ましくなる可能性)を比較して、前者が大きいためにそのような

行動をしないこと」と定義できる。デートで行くレストランを選んだり、趣

味に時間を過ごしたりするのは、それによって得られる便益(楽しさ)が調

べる苦労を上回るからである。一方、何万分の1でしかない1票を投じるた

めに、時間をかけて政策について調べるのは苦労が大きいと多くの人は判断

していると思われる。 「争点の束」とは、政党や候補者は1つの問題だけで争うのではなく、外

交・社会保障・財政などさまざまな争点を持っていることを指す。外交に関

しては A 党だが、社会保障は B 党、ということはよくあるはずだ。その場合、

有権者は自分の中で政策に優先順位を付けて投票するが、結果として勝利し

3 アメリカには強制加入の公的医療保険は存在しない。人々は一部の低所得者を除い

て民間の医療保険に加入することになるが、高額な保険料が支払えず無保険の人々が

2,000 万人以上いる。彼らは無保険で医療を受けなければならないため、受診せずに

悪化、死亡するケースが多く、社会問題となっている。まさに命に格差が生じている

状態であるが、どのような制度を選択するかはその国の社会・伝統・国民性などに左

右され、究極的には国民の選択で決まる。単純に他国の制度を羨んだり、蔑んだりす

ることは危険である。

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た A 党の社会保障政策はあなたの望ましいものではないかもしれない。この

ような背景があり、特に他にしたいことがある、政策からの恩恵を感じにく

い若い世代を中心に選挙の投票率は低くなる。

図1 衆議院選挙の年齢別投票率

出典:「明るい選挙推進委員会」( h t tp : / /www.aka ru i senkyo .o r. j p /)

有権者 10 万人で定員1の選挙区があるとしよう。投票率 60%ならば3万

人以上の得票を集めれば当選可能になる。候補者が多ければもっと少ないか

もしれない。その場合、政党や候補者は特定の3万人に有利な政策を打ち出

すことで、当選をつかむことができる。若者が選挙から離れれば離れるほど、

若者の意見が反映される政治からは遠のいていく可能性が高いのだ。 それでは、合理的無知を克服し、政策を自らの頭で判断するためにはどう

すればよいだろうか? さまざまな制度はどのような制度で、どこに問題が

あり、何をすればよいのか、皆さんは分かるだろうか? 日々流れる断片的

なマスコミ報道に触れるだけでは、決して答えは見えてこない。物事の本質

を理解するためには、歴史や制度、論理にきちんと触れる必要がある。幸い

なことに、大学の授業やゼミはそのトレーニングをしてくれる良い場である。

そこで得た知識や考え方は、あなたが社会の方向付けを行う一員としての責

任を果たすことに、そしてあなたの人生に役立つはずだ。

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