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Meiji University Title Author(s) �,Citation �, 157: 23-46 URL http://hdl.handle.net/10291/18162 Rights Issue Date 2016-03-26 Text version publisher Type Departmental Bulletin Paper DOI https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

北貌における墓誌銘の出現 - 明治大学 · 墓誌銘は北貌でそれが盛行する約半世紀前には既に甫朝宋で成立していた。5世紀半 ばの顔延之撰「王球墓誌銘」の出現を契機として南朝社会に流行していたとみられ,そ

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Page 1: 北貌における墓誌銘の出現 - 明治大学 · 墓誌銘は北貌でそれが盛行する約半世紀前には既に甫朝宋で成立していた。5世紀半 ばの顔延之撰「王球墓誌銘」の出現を契機として南朝社会に流行していたとみられ,そ

Meiji University

 

Title 北魏における墓誌銘の出現

Author(s) 梶山,智史

Citation 駿台史學, 157: 23-46

URL http://hdl.handle.net/10291/18162

Rights

Issue Date 2016-03-26

Text version publisher

Type Departmental Bulletin Paper

DOI

                           https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

Page 2: 北貌における墓誌銘の出現 - 明治大学 · 墓誌銘は北貌でそれが盛行する約半世紀前には既に甫朝宋で成立していた。5世紀半 ばの顔延之撰「王球墓誌銘」の出現を契機として南朝社会に流行していたとみられ,そ

験合史学第 157号 23-46頁, 2016年3月SUNDAI SIDGAKU (Sundai Historica1 Review) No.157, March 2016. pp.23-46.

北貌における墓誌銘の出現

梶 山 智 史

要旨 中国の墓葬文化において,死者の生涯について記録した墓誌銘を副葬する習慣が

本格的に普及したのは北貌時代である。本稿では北貌における墓誌銘の出現について考

察した。

北貌における墓誌銘の習慣は孝文帝による洛陽遷都後に出現し,主として洛陽で盛行

した。現存の北貌墓誌史料群を統計的に分析すると,遷都以前には死者の姓名・身分・

没年のみを記した簡略な慕表や慕記があるだけで,散文の誌(序)と領文の銘によって

死者の履涯を詳述する墓誌銘は皆無であり,その習慣が存在していなかったとみられる。

これに対して,遷都直後の 495年から突如として墓誌銘が作られ始める。太和 19年

(495)の孝文帝撰 n馬県墓誌銘」を鳴矢として,宣武帝期には料各的に作られるように

なり,孝明帝期以降になって更に普及したとみることができる。

墓誌銘は北貌でそれが盛行する約半世紀前には既に甫朝宋で成立していた。 5世紀半

ばの顔延之撰「王球墓誌銘」の出現を契機として南朝社会に流行していたとみられ,そ

れは現存する南朝宋・斉の墓誌銘からも確認できる。ここから.北鏡の墓誌銘は南朝か

ら移植されたものであると推察される。

南朝墓誌銘の体例を北重量に伝えた者の一人として, 493年に南斉から北貌に亡命した

王粛が想定される。王粛は南朝宋の王球の孫であり,おそらくその一族には墓誌銘の元

祖たる顔延之撰「王球墓誌銘Jに関する情報が継承されていた。そのことは,王粛の親

族が北貌において体例の完備した墓誌銘を作成していたことからもうかがえる。

王粛は北貌亡命後,孝文帝と密接な関係を築き,洛陽遷都に象徴される孝文帝の諸改

革に大きく貢献した。こうした両者の密接な関係を勘案すると,王粛が孝文帝に南朝墓

誌銘の体例を教えた可能性が考えられる。

キーワード:墓誌銘.洛陽遷都,孝文帝,南朝,王粛

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梶山智史

緒言

中国の墓葬文化において,死者の生涯について記録した墓誌を副葬する習慣がある。その起

源は後漢時代にあるとも西晋時代にあるともいわれるが,それが本格的に普及したのは北貌時

代であった。

まず「墓誌」の定義について述べておくと.i墓誌」という用語には広義と狭義の両方の用法

がある。広義には墓中に埋納される死者に関して記した文字史料全般を総称するのに用いられ

る。これに対して,狭義には散文の誌(序)と韻文の銘から構成される文体を表わす。その基

本的な構成要素は,官頭に「墓誌Ji墓誌銘Ji墓誌銘井序」などの語を含む表題があり,続い

て散文の「誌(序)Jで死者の姓名・字・本貫・家柄・親族関係・品行・官歴・没年・葬年が記

され,その後に死者への碩徳や哀悼の情などを韻文で綴った「銘」が配置される。そしてこれ

らが方形の石板に刻まれて,墓内に安置されるのである。したがって狭義の「墓誌」は,より

厳密には「墓誌銘」と呼ぶべきものである。

広義の墓誌は後漢時代には現れていたが,狭義の墓誌,すなわち誌(序)と銘を具えた墓誌

銘が現れたのは西晋時代以降である(1)。もっとも,西晋ではまだ「慕誌」ゃ「慕誌銘Jという言

葉自体は生まれていない。「墓誌」ゃ「墓誌銘」の語が表題に使用された厳密な意味での墓誌銘

の初出となると,さらに下って5世紀半ばの劉宋時代であった。ただし,宋とそれに続く斉・

梁・陳の南朝時代の墓誌銘は現存する実例が非常に少ないため,甫朝においてその習慣が実際

にどの程度普及していたのかはよくわからない部分がある。

墓誌銘が爆発的に盛行したのは,むしろ南朝と対時していた北朝においてであった。北朝の

墓誌銘は質量ともに南朝とは比べものにならないほど豊富な事例が現存しており,当該時代に

おいて墓誌銘を作る習慣が目覚ましく普及したことが明らかである。北貌で出現した墓誌銘の

習慣はその後も東観・北斉と西貌・北周に受け継がれ,時唐時代においてさらなる隆盛をみた。

すなわち,北説は惰唐につながる墓誌文化の基礎が固められた時代とみることができる。

墓誌銘は正史などの編纂史料とはまた違った角度から当時の歴史の諸相を知る手掛かりとな

り得る史料として,北朝陪唐時代の歴史研究の各分野で利用されてきた(同。これまでは主とし

て個別の墓誌銘を用いて編纂史料の欠落を補い,あるいは編纂史料に記された史実を再検討す

るという手法により研究が蓄積されてきており,これは現状でも主流を占める。また,最近で

は墓誌銘の作成過程や文体・形状などの史料としての性格についても研究が進められている(目。

しかし従来では,北貌において墓誌銘がいかにして出現したのかという問題については未だ十

分に研究がなされていないように思われる。そこで本稿では,この問題について考察してみた

u、。

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北貌における墓誌銘の出現

北貌における墓誌銘の作製状況

(1) 北説墓誌史料群の全貌

そもそも北貌の墓誌はいくつ現存するのであろうか。筆者はこれまで北朝・晴代墓誌の出土

場所・所蔵場所・著録状況の把握に努め円その成果をまとめた拙編『北朝階代墓誌所在総合目

録Jを刊行した(5)。ここでは岡目録で集積したデータをもとに,北重量墓誌史料群の全体状況を

統計的に分析する。

拙編の目録では,誌と銘を完備した墓誌銘の他にも,死者の姓名・身分・埋葬年のみを記し

た簡略な墓記・墓表・墓碑などを含めた広義の墓誌を収録したが,それによれば.現在確認で

きる北朝時代(北貌・東灘北斉・西貌北周)の墓誌は 12日点である。このうち,年代がわかる

ものは 1151点,年代不明のものが60点である。年代がわかる北朝墓誌 1151点のうち,北貌の

墓誌はその約半数の 556点である。その年代別 (5年ごと)の分布をグラフにすると,【第 l表]

の通りである。なお,グラフの「墓誌総数Jとは慕表や慕碍なども含んだ慕誌の総数.r墓誌銘

数」とはその中の誌と銘を備えた墓誌銘の数を表わす。

北識の慕誌銘は必ずしも諸々の構成要素が完備したものばかりではない。例えば.r墓誌銘J

の語を含む表題を持つにもかかわらず,誌があるが銘がないものや.r墓誌銘」の語を持つ表題

はないが,誌・銘ともに備えたものなど,様々なバリエーションが存在する。したがって[第

l表】では,完備していないものでも「墓誌銘J(あるいは「墓誌J)の語を持っか,あるいは銘

160 150 140 180 120 110 100 90 80 70 60 50 40 80 20 10 O

. 圃圃圃

第1;衰北親墓誌の年代的分布

{

>-

寸r- 一

• 1. 1干t- 一 ド・ー

トー 一 }

ぜト一一一

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-墓誌総数

口墓誌銘数

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梶山智史

辞を持っているものは,すべて「墓誌銘を作ろうと意図したものJとみなし,慕誌銘としてカ

ウントした。

{第 I表]を一見して明らかであるのは, 494年以前の平城に首都が置かれていた時代には墓

誌銘が皆無であること,そして墓誌の事例も少ないということである。出土場所が判明してい

るものでは,山西大同が10点と最も多く,他には河北が2点,河南が2点,陳西が2点,遼寧

が1点である。ここでは山西省大同出土の 3点を例として見てみよう(なお,録文の字体は基

本的に繁体字を用いる。 i/ Jは改行を表わす。以下,本稿で引用する墓誌・墓誌銘はすべて同

じ)。

まず太和8年 (484)r司馬金龍墓誌」は,材質は石質で かたちは碑形である。その碑額に

は次のようにあるヘ

司空/現珊/康王/墓表

そして誌文は次の通りである。

維大代太和八年/歳在甲子十一月/庚午朔十六日乙/酉,代故河内郡温/牒肥郷孝敬里・

使/持節・侍中・鎮西大/将軍・吏部尚書・羽/民・司空・翼州刺史・/現珊康王司馬金

/龍之銘。

司馬金龍は東晋から北規に亡命した司馬楚之の息子であるが,この墓誌は五胡十六回時代の

墓表の形式を踏襲している(7)。

次に,延興6年 (476)i陳永及妻劉氏墓誌」は,材質は碍質で,かたちは長方形である。誌

文は次の通りである叫

維大代延興六年歳次丙民六月/己未朔七日乙丑,元斑ナ,-,河北郡/安戎l賄民,尚書令史陳永

井命婦/劉夫人之銘記。

次に,山西省大同出土の太和 14年 (490)r屈突隆業墓誌」は,材質は碍質で,かたちは長方

形である。誌文は次の通りである(九

太和十四年十一月三日,屈突/隆業塚由。故記。

以上3点はいずれも姓名,官歴,死亡年(あるいは埋葬年)を記すのみである。 494年以前の

北貌墓誌は大体においてこのように簡略なものであった。そして石質ではなく碍質のものが多

かったことも特徴である。なお[第 l表]に含めたのはあくまでも紀年があるもののみであり,

これ以外にもこの時期のものと推測される無紀年の碍質墓誌が多数存在する。

以上から,浩陽遷都以前の北貌では簡略な墓誌が作られていたのみであり,墓誌銘の習慣は

存在していなかったと考えられる。遷都以前の北貌の人々の聞には墓誌銘に関する知識を持つ

者がいなかったのではないかと推察される。

これに対して,洛陽遷都が完了した 495年を境にして墓誌銘が突如として出現する。その最

も早い事例は太和十九年 (495)r鳴県墓誌銘」であり,これについては後述する。遷都後初年

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北貌における墓誌銘の出現

の聞に作られた墓誌の総数は 533点にのぼるが,このうち墓誌銘は 445点で,約 83%を占める。

遷都後も平城時代のような簡略な墓誌は少量ながら作られ続けているが,墓誌銘が圧倒的多数

となっていることがわかる。

墓誌銘 445点を皇帝在位期間別に示すと,孝文帝遷都後 (495-499)が5点,宣武帝期

(499-515)が78点,孝明帝期 (515-528)が231点,孝荘帝期 (528-530)が68点,北貌末

(531-534)が63点となる。遷都後の太和年聞の墓誌銘は期間の短さもあってまだ少ない。そ

の後,宣武帝期 16年間に 78点と急増し,孝明帝期 13年間にはその約 3倍の 231点と激増する。

ここから,墓昔、銘は洛陽遷都の直後から作られ始め,宣武帝期に本格的に作られるようになり,

孝明帝期になって更に普及したとみることができる。なお,これらの遷都後の墓誌銘は大多数

が石質のものであり,この点でも遷都前とは異なる。

では,遷都後の墓誌銘はどこで作られていたのであろうか。これについては拙編の目録を一

瞥すれば,大多数が洛陽で出土していることがわかる。全445点の地理的分布を年代別 (5年

ごと)に示すと. [第2表]のようになる。

このように,洛陽とその周辺で作製されたものが365点と圧倒的に多く.82%を占める。一

方,地方における墓誌銘の作製は,太和末年以外はすべての時期にみられるものの,全体的に

みて限定的である。すなわち,遷都後の墓誌銘の習慣は,主として洛陽において盛行していた

ことがわかる。

なお,洛陽で作られた墓誌銘365点の誌主についてみてみると,北郵皇室とその関係者(姻

戚など)が 174点で約半数を占める。宣武帝期までは皇室関係者の墓誌が半分以上を占めてお

り,孝明帝期以降になると皇室関係者以外の墓誌が増加する。遷都後の洛陽において墓誌銘の

習慣は皇室関係者の間で特に流行しており,その流れに追随して他の胡漢の官僚等が墓誌銘を

作るようになったとみられる。

第2衰北説墓誌銘の年代別の地理的分布

¥~¥ 洛陽一帯 地方

495-499年 5 O

500"-'504年 11 5 (河北2,山西 1,険西 1,寧夏 1)

505"-'509年 24 3 (河北 1,快西 1,山西 1)

510-514年 29 6 (快西3,山西2,山東1)

515"-'519年 45 18 (陳西8,r可北5,山東3,山西 2)

520.......524年 71 12 (河北4,山西4,陳西2,山東2)

525........529年 135 13 (山東 5,河北4,険西3,甘粛 1)

530.......534年 45 23 (快西 16,河北4,山東2,山西 1)

合計 365 80 (快西34,河北20,山東 13,山西 11,甘粛 1,寧夏1)

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梶山智史

この他,地方ではl決闘華陰の弘農楊氏が数世代にわたって多くの墓誌を作成しており, [第2

表】に計上した陳商の慕誌銘の過半を占める。山東では清河崖氏,泰山羊氏,勃海高氏,河北

では勃海封氏,鵡郡李氏.河間耶氏などが複数世代で墓誌を作成している。

(2) 洛陽遷都後の改葬と墓誌銘作製

以上,北貌において墓誌銘は洛陽遷都後になって新たに出現した習慣であったこと,そして

その習慣は主として洛陽で盛行したことを統計的に明らかにした。そのことを傍証するものと

して,遷都前に亡くなった人物の墓誌銘が遷都後になって作られたという現象を取り上げたい。

現在確認できるのは以下の8例である。

( i ) 李伯欽慕誌銘:太和 6年 (482)2月27日平城没・葬→景明 3年 (502)12月12日鄭

城改葬…...死後20年経って作製

( ii ) 拓蹴忠及奏司馬妙玉墓誌銘(10).太和 4年 (480)7月10日平城没・葬→景明 5年 (504)

11月6日同地改葬H ・H ・死後約 23年経って作製

(出) 司馬紹墓誌銘:太和 17年 (493)7月12日平城没・葬→永平4年 (511)10月11日温

県改葬……死後約 18年経って作製

(iv) 楊阿難墓誌銘;太和 8年 (484)4月7日平城没・葬→永平4年 (511)11月17日弘農

華陰改葬……死後約 27年半経って作製

(v) 高現墓誌銘:遷都前没(時期不明)・平城葬→延昌 3年 (514)10月22日同地改葬…・・

死後期間はわからないが時聞が経って作製

( vi) 元欝及奏慕容氏墓誌銘:太和 15年 (491)6月26日平城没・葬→際平元年 (516)8月

14日同地改葬……死後約25年経って作製

( vii) 高道悦墓誌銘:太和 20年 (496)8月12自治陽没・翼州勃海葬→神亀2年 (519)2月

20日同地改葬……死後約22年半経って作製

(v日) 封魔奴墓誌銘:太和 7年 (483)11月9日平城没・葬→正光2年 (521)10月20日巽

州勃海改葬…・・・死後約 38年経って作製

以上はいずれも遷都後に改葬が行われ,その際に墓誌銘が作られた事例である。改葬が行わ

れた事情はそれぞれあるのでここでは触れないが(11) いずれにしてもこのような現象は,墓誌

銘の習慣自体が遷都前には無く,遷都後になって出現したことを表わしていると思われる。上

掲の中の(vii)i高道悦墓誌銘」には,まさにそのことを示す次のような記述がある{凶1ロω2幻)

神亀二年歳次己亥春ニ月辛亥朔廿日庚午,まP於崇仁郷孝義里。昔太和之世,構内有記無銘。

今恐川聾練移,美声浬減,是以追述徽猷,託珊壌陰。

神亀二年 (519)歳次己亥春二月辛亥朔廿日庚午,崇仁郷孝義里に亨る。昔太和の世,境

内に記有るも銘無し。今,川聾締り移り,美声煙滅するを恐れ,是を以て追いて徽猷を述

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北貌における墓誌銘の出現

品者

し,託して壌陰に噺らかにす。

これは誌文後半の埋葬に関わる部分にみえる一節である。これによれば,孝文帝の太和年間

(477-499)には,墓中に埋葬するものとして「記」はあったが「銘」はまだなかったという。

ここにいう「記」とは洛陽遷都以前に作られていたような死者の姓名や身分・没年などを記す

簡略な墓記を指すとみられ,一方「銘」とは遷都後のいわゆる墓誌銘のことを指しているとみ

られる。この時の改葬を取り仕切ったのは高道悦の息子の高輝であり,この墓昔、銘の撰者もお

そらくは彼であった(13)。高輝は父高遭悦が洛陽で没して本買の勃海郡に埋葬された太和年聞の

段階ではまだ墓誌銘の習慣がなかったと認識しており,約 22年を経てここに改葬するにあたっ

て,墓誌銘を作って父の功績を後世に伝えようとしたのであった。こうした高輝の認識は,宣

武帝期以降に墓誌銘が本格的に作られるようになるという前節の統計分析の結果とも符合して

いるといえよう。

(3) 孝文帝撰 D馬県墓誌銘」

先述したように,現存する北貌墓誌銘の中で最初の事例は孝文帝が作製したとされる「鳴鼎

墓誌銘」である。本節ではとの墓誌銘の作製状況について述べる。

縄県は孝文帝の乳母であった文明太后橋氏の兄であり,またその三人の娘が孝文帝の後宮に

迎えられた関係によって,孝文帝からことのほか重んじられた。晩年の宿願は大病をして四年

間寝たきりであったが,孝文帝は医者を派遣して病状を気遣い,またしばしば自ら見舞い,洛

陽遷都の際にも自ら梼照に別れを告げに赴き,その病状の重篤なのを見ると涙を流した。太和

19年 (495)に祷照が平城で亡くなると,彼の遺体は先に亡くなっていた妻の博陵長公主ととも

に洛陽に運ばれて埋葬された。その状況について『親書』巻83上・鳴県伝にはこう記す。

将葬,贈候黄鍛・侍中・都督十州諸軍事・大司馬・太尉・翼州刺史,加黄屋左鷲,備九錫・

前後部羽楳鼓吹,皆依晋太宰・安平献王故事。有司奏誼,詔日「可以威強恢遠日『武.1.奉

詮於公。」枢至洛七里澗,高祖服衰往迎,叩霊悲働而拝罵。葬日,送臨墓所,親作誌銘。

将に葬らんとして,偲黄鍛・侍中・都督十州諸軍事・大司馬・太尉・翼州刺史を贈り,黄

屋左藤を加え,九錫・前後部羽楳鼓吹を備う,皆晋の太宰・安平献王の故事に依る。有司

誼を奏するに,詔して日く「威強恢遺なるを以て『武Jと日うべし,奉りて公に誼す。」と。

枢,洛の七里澗に至る,高祖,義を服して往きて迎う,霊を叩き悲働して罵を拝す。葬る

日,送りて墓所に臨み,親ら誌銘を作る。

これによれば,孝文帝は鳴鼎の葬儀を西晋の「太宰・安平献王」司馬字の葬儀に倣って盛大

に行い, r武」という詮を与えた。調照の枢が洛陽の束の七里澗に至ると,喪服を着てこれを迎

え,霊牌をたたいてa働央し,これを拝した。そして埋葬の当日,孝文帝は墓所に臨み,謂照の

ためにみずから「誌銘」を撰述したという。

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梶山智 史

この『貌書.1f,馬県伝にいう孝文帝撰の「誌銘」にあたるとみられる墓誌銘が,最近中国で公

開された。考古学的発掘によるものではないため出土状況が不明であるが,近年洛陽で出土し

たものとみられる。現在は洛陽の龍門博物館に所蔵される。この「痛風墓誌銘」は 2010年に趨

君平氏(14)と李風暴氏(15)よって紹介され,後に趨君平・越文成編『秦晋珠新出墓誌蒐侠Jに拓本

写真が収録された(1九日本では窪添慶文氏が逸早く同墓誌銘の価値に注目し,これを用いた論

文を複数発表されている(へその体裁を示すと誌石は縦横62cmの正方形で,その上に全19

行.1行19字の合計327字が刻まれる。その録文は以下の通りである(なお.I口」は判読不明

の文字を表わす)。

太師京兆郡開園清武公墓誌銘。/太師京兆郡開園公,姓鴇,緯照,字菅園,翼州長柴/郡

信都牒人。畢公高之苗育,燕昭 文皇帝之孫./大規太宰燕宣王之中子, 景穆皇帝之靖,

/文明太皇太后之兄, 額祖献文皇帝之元男也。/又矯園之外男央。惟公含剛健之秀集,

髄慈順以/萄神,武則震肱商牧,仁罵喧昨生景。遭家坦運,鴻/漸西沼。 容后康基,或躍

代淵,紹堂構於一朝,輝/惰業乎来記。孝光家遠,道謁園造。精悟玄幽,沖尚/微洞。欽

畳蹄和,識超欲津。福履未鍾,星字陸戻。以/太和十九年歳在乙亥正月辛未朔廿四日甲午,

/年五十有人,嘉子代平城第。韓日武公。其年十二/月庚申,室子i可南洛暢之北在。其僻

日./現光肇姫,誘業問菅。凝謂命姓,升燕砕j自L。金風蓋/免,藍雲周震。集陵霜鵬,慧

口犠巾。出牧均萎,賓情/民害。入台同鄭,寒融大}I頂。聯芳容批,口耀坤/鎮。承霊

園姫,深基盤峻。道逸襲撃,望騰時備。滞滞/淵照,錦錦玉韻。上玄I民賓,川轍曙燈。職

榊冥嘘,含/痛錦問。

これによれば,鳴照は太和 19年 (495)正月 24日に 58歳で平城にて亮去し,同年 12月庚申

(26日)に洛陽北郊の叩山に葬られた。この墓誌銘もその際に作製されたと考えられる。その

内容についてはすでに窪添氏が詳細に考察しているのでここでは踏み込まないが,その構成要

素をみてみると,まず l行目に「墓誌銘」の語を含む表題, 2-3行目に姓・韓・字・本籍.3-5

行目に親族関係.6-10行目に彼の性質・品行や履歴. 11-13行目に没年・葬年がそれぞれ記

され,続いて 14-19行自に韻文にて改めてその生涯を総括した銘辞が記される。このように,

いわゆる墓誌銘の文体が持つべき要素を完備しているのである。

誌文中には孝文帝が撰したことは書かれていないが,上掲の『親書J謂照伝の記事もふまえ

ると,この墓誌銘は孝文帝が撰述したものである可能性が極めて高い。窪添氏は If!馬県墓誌は

その後の北貌墓誌の体例につながるものであった。」と述べ,洛陽遷都を呆たして約 l年後の太

和19年 (495)12月という時期に孝文帝自らが作った墓誌銘は,その後に流行する墓誌銘に一

つのモデルとして影響力を与えたと考えた(18)。これは首肯すべき見解と思われる。それに加え

て,ここで筆者が注目したいのは,孝文帝が墓誌銘の体例を知っていたという事実である。孝

文帝は一体どのようにして墓誌銘に関する知識を得たのだろうか。この問題については後ほど

30

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北貌における墓誌銘の出現

改めて考察したい。

二 南朝における墓誌銘の作製状況

墓誌の起源についてはこれまで様々に議論されてきたが,その中でも墓誌銘の起源というこ

とになると,官顕でも触れたように誌(序)と銘が整った墓誌銘の体例が初めて作られたのは

南朝宋の時代であったとみられる (1九そこで本章では,南朝における墓誌銘の作製状況につい

て検討する。

(1) 編纂史料にみえる南朝の墓誌銘関係記事

南朝における墓誌銘の発展について考える上でまず挙げるべきは.w甫斉書J巻 10・礼志下の

以下の記事である。

有司奏「大明故事,太子把玄宮中有石誌。」参議. ["墓銘不出礼典。近宋元嘉中,顔延作王

球石誌。素族無碑・策,故以紀徳。自爾以来,王公以下,戚共遵用。儲妃之重,礼殊恒列,

既有哀策.謂不須石誌。」従之。

有司奏すらく「大明の故事,太子妃の玄宮中に石誌有り。Jと。参議するに. ["慕銘は礼典

に出でず。近く宋の元嘉中,顔延は王球に石誌を作る。素族は碑・策無し,故に以て徳を

紀す。爾より以来,王公以下,成な共に遵用す。儲妃の重きこと,礼は恒列に殊なる,既もち

に哀策有れば,石誌を須いざらんと謂う。」と。之に従う。

これは南斉の時代に有司が上奏した,宋の大明年間 (457-464)に死去した皇太子妃の墓の

中に「石誌」があるという「大明故事」に関する議論である。なお,ここにいう太子妃とは,

具体的には大明5年 (461)に亡くなった皇太子劉子業の妃の何令腕を指すと考えられる倒。そ

の議論によれば,そもそも「墓銘」というものは礼典にはないものであるが,宋の元嘉中

(424-453)に顔延之が王球のために「石誌Jを作った。これは,帝王や后妃以外の「素族」に

は墓碑や哀策がないので,その代わりとして本来は墓碑や哀策に具備されていた死者の功績や

徳業を額える文章である「銘」を「石誌」に記し,基の中に納めたのである。それ以来,王公

以下が皆これに倣って「銘」を有する「石誌」を作るようになった。しかし,皇太子妃は別格

であり,すでに哀策があるのであるから. ["石誌」を作る必要はないのだ,とする刷。

ここにいう「石誌」とは,銘文を有することや墓中に埋納することなどの特徴からみて,墓

誌銘を指していることは間違いない。すなわち南斉時代には,劉宋の顔延之が王球のために「石

誌」を作製したことが墓誌銘の習慣の始まりである,という認識が存在していたことがわかる。

顔延之 (384-456) と王球 (393-441)はともに浪珊郡臨祈県(山東省臨祈市)を本貫とする

名門貴族の出身で,東晋から劉宋にかけての官僚にして文人であり,二人は交友関係にあっ

た側。王球は元嘉 18年 (441)に49歳で亡くなっており,顔延之が彼のために墓誌銘を作った

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梶山智史

のもこの時であろう。「王球墓誌銘」は残念ながら伝存せず,今その内容を見ることはできない

が,当時の著名な文人であった顔延之が作製したということで,その習慣は南朝社会に広まっ

たものとみられる。

ところで,この「石誌」に関する議論は具体的にいっ行われたのか,そしてなぜ、南斉時代に

劉宋の「大明故事」が議論の姐上にのぼったのかといえば,それは建元2年 (480)に皇太子議

蹟の妃である斐恵昭が菟去した際に行われたものであった。『南史』巻 11・后妃上・武穆斐皇后

伝には次の記載がある。

昇明三年,為斉世子妃。建元元年,為皇太子妃。二年,后莞,誼穆把,葬休安陵。時議欲

立石誌,王倹日「石誌不出札典,起宋元嘉中顔延之為王球石誌。素族無銘策,故以紀行。

自爾以来,共相祖習。儲妃之重札純恒例,既有京策,不煩(幻)若誌のJ従之。

昇明三年 (479),斉世子妃と為る。建元元年 (479),皇太子担と為る。二年 (480),后亮

ず,穆妃と詮す,休安陵に葬る。時に議して石誌を立てんと欲す,王倹日く「石誌は礼典

に出でず,宋の元嘉中 (424-453)に顔延之が王球に石誌を為るより起こる。素族は銘策

無し,故に以て行を紀す。爾れより以来,共に相い祖習す。儲妃の重きこと,礼は恒例にわずら

絶し,既に哀策有り,石誌を煩わささ?らん。Jと。之に従う。

これは先掲の『南斉書j礼志の記事に対応するものである。そしてこれによれば, I石誌」に

関する意見を提示したのは王倹であったととが判明する。すなわち,休安陵に襲恵昭を埋葬す

る際に,宋の何令腕の「大明故事」にもとづいて「石誌」を作ろうという話が出た。それに対

して王倹は「石誌」の由来と性質を説いて,その作製に反対したのである。王倹 (452~489)

は現珊臨肝の出身であり,王球とは遠縁ながら同族であった(24)。幼少より読書を好み篤学であ

り,図書目録『七志』を撰した学者でもあった彼は古今の儀礼制度にも通暁しており,その分

野に関する議論では彼の意見が多く用いられた。このような出自と学識を持つ王倹であればこ

そ,墓誌銘の由来と性質について説得的な見解を出すことができたのであろう。

それはともかく, 480年といえば,北重県において孝文帝が「i馬県墓誌銘jを作製するわずか 15

年前である。その段階でこのような議論が起こっていたということ自体,当時はまだ墓誌銘と

いう習慣に対する位置づけや認識が必ずしも明確ではなかったことを物語る。墓誌銘とは礼典

に定められた古くからの習慣ではなく, 5世紀半ばに顔延之撰「王球墓誌銘」の出現を契機とし

て南朝社会に流行し始めた新しい葬送の習慣であったのである。

なおこの他,南朝宋の墓誌銘作製に関しては, r宋書J巻72・建平宣簡王宏伝の以下の記事が

ある。

宏少而多病,大明二年疾動,求解尚書令,以本号開府儀同三司,加散騎常侍,中書監如故。

未拝,其年莞,時年二十五。追贈侍中・司徒,中書監如故,給班剣二十人。上痛悼甚至,

毎朔望視出臨霊, 自為墓誌銘弁序。

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北貌における墓誌銘の出現

宏少くして病むとと多し,大明二年 (458)疾動し,尚書令を解かんことを求む,本号開府

儀同三司を以て,散騎常侍を加えらる,中舎監は故の如し。未だ拝さず,其の年亮ず,時

に年二十五。侍中・司徒を追贈す.中書監は故の如し 班剣二十人を給す。上,痛悼する

こと甚至なり,朔望する毎に朝[ち出でて霊に臨む,自ら墓誌銘井びに序を為る。

宋の大明二年 (458)に孝武帝が弟の劉宏の早逝を悼んで「墓誌銘井序」を作製したとあり,

ここには「墓誌銘弁序」と明記されている。この「劉宏墓誌銘」も現存せず内容を見ることは

できないが,その表題に「墓誌銘」という用語が使われていたことは確かで、あろう O これは顔

延之が「王球墓誌銘Jを作製してから 17年後のことであるが,その時点で慕誌銘はすでに皇帝

にも認知された習慣になっていたことが見て取れる。また 皇帝が親しい臣下のために墓誌銘

を作ったという意味では.北貌孝文帝の「漏照墓誌銘jに先立つ事例であるといえる。

(2) 南朝宋・斉の墓誌銘の実例

では,南朝宋・斉では実際にどのような墓誌銘が作られていたのか。この時代の墓誌銘の出

土例はなぜか非常に少ないが,その中から 3点の実倒を以下に紹介する。

( i )宋・大明 8年 (464)I劉懐民墓誌銘J......現存墓誌銘の中で「墓誌銘Jの語が表題に記

された最も早い事例である。清代に山東益都 (LU東省青州市)で出土した。誌石は縦49cm,横

52.5cmのほほ正方形,誌文は全16行, 1行 14字の合計 197字である。録文は以下の通りであ

る(25)。

宋故建威将軍斉北海ニ郡太守笠/郷侯東陽城主劉府君墓誌銘。/苔苔玄緒,灼灼飛英。分

光i莫室,端禄/宋庭。曾是天従,凝容窮盤。高況闇魁,/方園隻情。肱紫皇極,剖金連城。

野獣/朝浮,家犬タ寧。准業不襲,施鵠改韓。/履淑違徴,潜照長冥。鄭琴再寝,呉沸/

重零。銘働幽石,丹涙諦標。/君韓懐民,青州平j豆郡平原牒都郷/吉遷里。春秋五十三,

大明七年十月/乙未完。卑.八年正月甲申,諜於華山/之陽朝。/夫人長柴播氏.父詞,字

士彦,給事中。/君所経位口口俊如左。/本州別駕,勃海・清河太守,除散騎侍/郎,建

威将軍,貯胎太守。

これは顔延之撰「王球墓誌銘」から 23年後に作られたものであるが,すでに「墓誌銘」の語

を含む表題および誌と銘が完備している。しかし表題の後にまず銘が記され,続いて姓名・本

籍・没年と葬年・夫人とその父について記され,最後に誌主の官歴が記される配列は珍しい。

(五)宋・元徽2年 (474)r明曇鹿墓誌銘」ー….1972年に江蘇省南京市太平門外甘家巷北で出

土した。南京市博物館蔵。誌石は縦48.5cm,横65cmの横長の方形であり.誌文は全30行, 1

行 22字の合計547字である。録文は以下の通りである(お)。

宋故員外散騎侍郎明府君墓誌銘。/祖憶,州別駕,東海太守。 夫人清河崖氏,父逗,度支

尚書。/父散之,ナトi別駕,撫軍,武陵王行参軍,槍梧太守。/夫人平原劉氏,父奉伯,北

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梶山智史

海太守。後夫人平原社氏,父融。/伯d陪之,斉郡太守。/夫人清河崖氏,父;;r;.州、li台中。

後夫人勃海封氏,父換。/第三叔善蓋,州秀才.泰朝請。/夫人清河崖氏父模,員外郎。

/第四叔休之,員外郎,東安東莞二郡太守。/夫人清河崖氏,父謹,右終軍,糞州刺史。

/長兄寧民,早卒。 夫人平原劉氏,父季略,済北太守。/第二兄敬民,給事中,寧朔将軍,

斉郡太守。/夫人清河崖氏,父凝之,州治中。/第三兄曇登,員外常侍。 夫人情河崖氏,

父景虞,員外郎。/第四兄曇欣,積射将軍。 夫人清河握氏,父勤之,通産郎。/君詳曇悟,

字永源,平原商人也。載葉聯芳,強蕗鴻正。晋徐/州刺史褒七世孫,槍梧府君散之第五子

也。君天情説撤./凪韻標秀。性重沖i青,行必厳損,学窮経史,思流淵前。少摘/箸婿,

取逸琴書,非自交非晦,韓議邦宇。州牌不膝.徴奉朝請。/歴寧朔将軍・員外郎・帯武原令。

位頒郎戟,志鈎楊橘,連其/吹懐,頗又憤慨。イ直巨滑j局、捜,鋒流紫闇,君義裂見危,身分

/妖鏑,襲深結鰻,痛嵯朝野。春秋叶,元徽二年五月廿六日/丙申越冬十一月廿四日辛卯,

窪子臨済牒成壁山。啓実/有期,幽多長即。蘭紅巴蕪,青松無極。仰皆芳塵,僻銘泉側。

/其辞日./斯文未陸,道散華流。惟葱宵彦,映軌鴻丘。件瞳潤徽,続詠/凝幽。測霊哉

照,護審騰休。未見其心,日茂其猷。巨治子紀,/修侵凌梓。金飛輩路,玉砕鹿嬢。霜酸

精則,気働人遊。鍋塵/玄~,志揚言留。 夫人平原劉氏,父乗民,冠箪絡軍,葉/州刺史。

後夫人略陽垣氏,父闘,柴安太守。

これもまた墓誌銘の諸要素を完備している。との慕誌銘の特徴は,表題の後の 2-15行目の

祖先や兄の家族関係に関する記述が極めて詳細なことであり,全体のほぼ半分を占める。続い

て16-24行目に誌主の姓名・本籍・性質・履歴・没年・葬年が綴られ, 26-29行目が銘,最後

の29-30行目に誌主の夫人とその父について記される。

(出)斉・永明 6年 (488)I蒲崇之妻王宝玉墓誌銘」……1990年に江蘇省南京市煉油廠にて採

集された。南京博物院蔵。誌石は縦48cm,横46.5cmの正方形,誌文は全 13行, 1行21字の

合計230字であるo 録文は以下の通りである(訂)。

斉故冠軍将軍東|湯太守蒲府君側室夫人王氏慕誌/銘。/夫人姓王,字賢玉,呉郡嘉興牒曇

漠里人也。建光宜映,/有由来実。夫人温朗明淑,神華玉麗,i青規素範,夙畑穿/器。以

建元元年納子粛氏,恭雅悟藤,魁隆美訓。事年口/永,以永明六年四月庚成朔九日戊午,

卒子建節里中,/春秋廿有人。卑閏十月了丑朔六日壬午, 卜窪於臨祈/勝之費鵠山。寂帳

口陰,虚荏長霧,秘謹従留,芳徽空樹。/銘文大司馬参軍事東海飽行卿造。/浩賢有耀,

懐徳有憐。幽閑之総播問宣音。薫詩潤雄.越/玉妻金。沖約規行,清和侃心。阪途易永,

夷敷難常。中春/掩縛,半露擢芳。方冥方古,執云不傷。追昭軌烈,式讃泉/房。 息、昂年

-1.0. ノ、。

これは表題・誌・銘の要素は完備しているが,親族関係は息子の記載しかない。また.誌と

銘の聞に「大司馬参箪事東海飽行卿造」と墓誌銘の作製者の署名があるのは,他にはない特徴

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北貌における墓誌銘の出現

である。

以上,南朝で作製された 460年代 .470年代・ 480年代の墓誌銘の実例を各一つずつ掲げた。

各墓誌銘の書式はいずれも[墓誌銘」の語を含む表題・誌・銘という要素を完備しており,当

時において墓誌銘の瞥慣が確かに広まっていたことを裏付けている。しかしこれらの構成要素

の配列や書かれ方をみると様々であり,まだ定型化の途上にあったことをうかがわせる。例え

ば「劉懐民墓誌銘」の銘を誌の前に配置する書式や「明曇慎墓誌銘」の親族関係の記事の多さ

は,後世の一般的な墓誌銘と比べると明らかに異例である。宋・斉における墓誌銘とは,まだ

歴史が浅い新しい習慣で、あったと思われる。

三 南朝墓誌銘から北貌墓誌銘へ

前章で明らかにしたように,墓誌銘は北説でそれが盛行する約半世紀前には既に南朝で成立

していた。となると,北委理は墓誌銘の体例を自力で独創したのではなく,南朝から移植したと

みるのが自然であろう。そのように考えて大過ないとすれば,では南朝で生まれた墓誌銘の習

慣はいかにして北貌にもたらされたのであろうか。これに関して想定されるのは,墓誌銘の習

慣が発生した 5世紀半ば以降に南朝に身を置き,後に北郵に帰順した人物がもたらした可能性

である。現存する北鶏慕誌銘の形態・書式のバリエーションの豊富さからみて,それはおそら

く一人ではなかったであろう。複数の南からの帰順者がその役を担ったものと推測きれる。

その中からここで取り上げたいのは, 493年に南朝斉から北説に亡命した王粛である。王粛

が墓誌銘の知識をもたらした可能性については,既に謹添慶文氏が「遷都の前年の 493年には

南朝最大の名門浪邪王氏の王粛が北貌に亡命して,孝文帝の改革に貢献した。彼のような亡命

者から最新の墓誌情報を得たという可能性が考えられてよいのではないか。」と述べている

が(28) ただ具体的な論拠は示されていない。しかし王粛に関して調べていくと,その可能性を

示唆する多くの事実に行き当たるのである。以下,それについて述べる。

(1) 王粛の家系と墓誌銘

王粛 (464-501),字は恭藤, ~良部臨折の人である。南斉に仕えて著作郎・太子舎人・司徒主

簿・秘書丞を歴任した。 493年に父の王集と兄弟の王融・王環・王彪・王爽・王弼等が南斉の武

帝に殺される事件があり,この時に王粛は北菱電に亡命した。北貌では孝文帝に厚遇され,儀礼・

典章の整備に大きく貢献した。 499年に孝文帝が崩じ宜武帝が立つと,遺詔により向書令とな

り,宰輔となった。その後,使持節・都督江西諸軍事・車J騎将軍となって対南斉の戦線に従事

し,戦功を挙げた。 501年に亮去し,侍中・司宝公を追贈され,宣簡と誼された(四)。

以上がその略歴であるがではそもそも王粛は墓誌銘に関する知識を持っていたのだろうか。

このことに関して注目すべきはその家系である。王粛の祖先を辿っていくと,あの劉宋の王球

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梶山智史

に行きつくのである。王球が441年に死去した際,彼には子がいなかったため,従孫の王集

(435-493)がその家を継いだ(羽)。この王集の子が王粛である。つまり,王粛は王球と直接の血

縁関係ではないとはいえ,その孫であることになる。このような親族関係を考慮すると,王集・

王粛の家には墓誌銘の元祖ともいうべき顔延之撰「王球墓誌銘」に関する情報が代々受け継が

れていた可能性が大いに考えられる。

そのことを傍証すると思われるのが,王粛の亡命後にその親族たちが北貌で、墓誌銘を作って

いることである。以下に繁を厭わずそれらの全文を挙げよう。

( i )延昌二年 (513)["王普賢墓誌銘」…・・誌主の王普賢は王粛の娘であり,宣武帝の後宮に

入った人物である。 1925年に河南浩陽で出土した。西安碑林博物館蔵。誌石は縦 55cm・横

68cmの横長の方形,誌文は全27行.1行23字の合計557字からなる。録文は以下の通りであ

る(31)。

現故貴華恭夫人墓誌銘。/祖集,斉故事尚書僕射・使持節・鎮北大将箪・羅州刺史。/夫

人陳郡股氏,父道持,太中大夫。/父粛,説故侍中・司空・昌園貰簡公。/夫人陳郡謝氏,

父荘,侍中・右光大夫・憲侯。/後尚陳留長公主。 父献文皇帝。/説故貴華夫人王普賢,

徐州現耶郡臨?斤!時都郷南仁恩人/也。氏育之萌,閥源遺実。嵩崖整其鶴駕,洛浦奉其盤歌。

惟弗/惟陽,資文允武。庸昭秦築,道光漢牒。丞相髄哲,匡維菅社。執/法克容.蝉亮宋

京。祖鎮北,以貞猷擦鰻,見免昏暦。考司空,以/鍵節峻襲,延寵明朝。夫人既路祖考之

淳藤,裏腕嬉之英姿./淑妙絶擬,機明贈識.端行滑留,従容柔靖。愛敬深凱風之美./

敦順車常棟之華,五教掌昭,四徳孔緒。妙閑草隷,雅好篇什./春登秋汎,毎絹酔藻。抽

情揮翰,鯛韻飛瑛。考昔鍾家恥,投誠/象説。夫人痛皐魚之晩悟,感樹静之莫因,遂乗険

就夷,庶惜/方寸。惟道冥昧,何羅極罰。茄茶泣血,哀深乎植。服関,廼降皇/命,愛登

紫披。方扇膏幅之遺風.間似庭之鴻範。報善岡徴,盛/容斯墜。春秋廿有七,貌延昌二年

太歳発巳四月乙卯期廿/二二日乙巳,履疾,嘉子金靖之内。玉樹埋柄,蕪蘭擢葉。噂六月/

二日乙酉,窪子洛陽西郷里。銘日./旋根賓専,蝉聯周紀。掩暖伊川,斌稜嵩時。突世啓

輝,綿基重/美。遁綴淑霊,寒戎家祉。提思入神,挺節隣聖。五典澄明,七徳/淳鏡。絹

藻理式,抽文理映。響潤淑章,聾光頭詠。婦骨檎績,女/史飛萱。質華星勢,徳耀姫原。

愛慮素問,貫軌藷存。卑昇淑披./饗映嘉門。奥善方夢,撒此淑仁。唱壁委撞,宋排況津。

蘭闇空/月,組帳恒塵。玉堤鴻歌,翠瞳凝辛。陸路陰重,泉戸凍結。玄扉/ー排,幽座燈

滅。斑裏挨蕪,松聞荒弱。鏑徳累徽,固停芥烈。

( ii )延昌四年 (515)["王紹墓誌銘J......誌主の王紹は王粛の子である。清の宣統3年 (1911)

に河南洛陽で出土した。誌石は縦横70cmの正方形,誌文は全29行. 1行29字の合計763字

からなる。録文は以下の通りである (3九

説故輔園持軍徐州刺史昌園牒開園侯王使君墓誌序。/祖集,膏故尚書左僕射・使持節・鎮

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北貌における墓誌銘の出現

北持軍・薙州刺史。/夫人陳郡股氏,父道持,太中大夫。/父粛,説故侍中・司空・昌園

宣簡公。/夫人陳郡謝氏,父荘,右光禄大夫・憲侯。/君詳紹,字安宗,徐州浪耶郡臨I斤

牒都郷南仁里人也。姫文以大聖啓源,子/菅資儲イIh命氏。自悲厭降,昼映崇輝,戎沖素累

傑,或貞芳聯専。君亙承祖烈./寒憧上操。天縦英才,幼挺岐握。弱不好奔,長端孝美。

樹信除由布之諾,締臨/深専韓之稿。若夫暁潔之性,斑碧悪其光。淵龍之聾,蘭恵聴其采。

敦詩習礼./早敷簡歳。論文緩翰,賓?苦情年。故長卿均才,巨原持器. r.王々駕,寓頃莫撤

其/量。洋々乎.澄挽曾何清濁。昔逢日戦之始,門属参夷之辰。考司空,深イ牟伍氏/之襲,

必誓異天之節,乃鵠立象菱電,志雪菟恥。君:年裁数成,便慨違長省,念閥/温情,提誠出験,

用申膝慶。天遺症々,俄鍾極罰。嬰競茄血,京、蒋過礼。服終纂/勝井幹,襲侯昌闘。年甫

渉冠,起家矯太子洗馬。儀形儲采,馳遇春華,在漢汲/賭公方,居菅亦衡所雅暢,握築時

輝,君諒兼之実。韓員外散騎常侍,鋳蝉紹/玉,檀廊廟之秀。服兼蝉組,耀珪壁之姿。績

遷中書侍郎,掌機近密,歴難葱授。/君地質羽儀,器惟物範。故得抽鰻鳳現,越碁系禁。

茂先管言,層締光闇蘭冊。/仲祖聯事,繍闇徽停青筒。君濁麗一時,何慰南妙。代暦弥瞭,

則哲之皐必斉。/聾芳無舛,惟允之栴厩式。宜持絹衰棉路,永饗朝葬。踊善徒唱,織此彦

士。春/秋廿有四,延昌四年八月二日選挟,亮於第。峯欲崇而肪匿,月日守閣而醸釆。/行

旅傷魂,親遊蹴骨。有詔震悼,贈輔園勝箪・徐州刺史,誼日 ,礼也。間十月/庚子朔廿

二日辛酉,窪乎洛陽西郷里。既播孝徳於衡問,弘臣道於朝章,故/飛英市銀金,騰貴以寓

績。陵谷或改,芳音程減。刊石責采,永扇情風。銘日./遁仙之系,卑聖斯始。清i闘j冥鏡,

現基岱時。照灼丹書,稽欝青史。聯祥挺哲,若人/載美。義範仁規,高韻卓絶。孝切曾穎,

友兼常棟。都子費華,潜生等慧。愛玉其/温,愛氷其潔。克叡克明,機榊是庶。六事孔惰,

九徳主著。既優而仕,登朝飛響。/康衝未陛,師斡先謹。鳴呼彼蒼,何普空黙。惟顔典子,

薄年厚徳。照車徒旬,連/城去園。如賓Wf亡,燐尚鹿則。塵書断義,韓酒誰琴。玄堂杏寂,

絶聾凝陰。感増/粗削,落験抽心。託裁幽瓦主主載休音。

(血)建義元年 (528)I王踊墓誌J……誌主の王諭は王粛の兄王融の子である。 1921年に河南

洛陽で出土した。誌石は縦 65cm.横 64cmのほほ正方形,誌文は全33行. 1行 33字の合計

1034字からなる。録文は以下の通りである (33)。

説故使持節侍中司空尚害左僕射腰騎大将軍徐州刺史王公墓誌銘。/祖集,斉尚書左僕射・

鏡北将軍・薙州刺史。/父融,給事黄門侍郎・東宮中庶子。/公詳諦,字国牢,徐州現耶

臨祈人。導造i原於榊跡,啓盛胃於仙儲。洪流興江河並逝,峻/峰共嵩岱争輩。離躯捜於興

秦,吉駿稽乎降漢。積仁義而矯門,累台棉而成族。人世祖/丞相文献公,徳議五臣,功斉

十首L。遁祖司徒,師表雅俗。高祖特進,羽儀冠蒐。祖僕射使/君,器惟瑚瑳,才賓経邦。

考黄門使君,民之秀極,物之領袖。公屑慶積善,資霊川岳。遠大/表自鱒辰,珪薄殻乎締

歳。年甫十二,備遭茶馨.泣血需慕,幾於段滅。賞門之働,不日是/過。既面告騨依,超

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梶山智史

庭閥範,勉軒砥繭,動不通節。慮家薙穆矯本,治身恭倹自居。敏拳同/於生知,好善由乎

不及。於是徽響籍甚,親朋揮慕。値斉季遭鈎,天下競逐。憧比屋之禍,/求息肩之地,遂

尊卑席巻,投誠委難問。解褐員外散騎侍郎・司徒主簿。佑韓府属,遷司空/諮議参箪・通直

散騎常侍,領汝南壬友。複矯司徒諮議,加前将軍。旬日除光禄大夫,諮/議如故。俄解諮

議,領散騎常侍。公道兼大小,才允出内,凡所経渉,並樹聾芳。正光之末,/燕繭多虞,

兵民叛命,威懐漣s1i.諒難其奉,以本官行幽州事。下車裁化,塞惟求痩,剛柔/迭用,寛

猛兼治,無待碁月,能聾是著。仰除左将軍・幽州刺史。属石渠閥寄,臨校f宇司,稽/古之

選,余議惟允,乃徴公矯秘書監。折韓初届,本明始謁。於日即兼度支尚書,又兼都/官,

尋正除度支。雄平叔之賛正本,茂先之居鵡閣,弗是過也。噴門清切,任盟衡宰。自非/時

宗戚右,同或斯授。以公鶏平南終寧・光様大夫・給事黄門f寺郎。俄遷鎮策見守主管・金紫/光

禄大夫,黄門如故。公自居近侍,星紀逮周,非王事職司,未嘗横有干撹。諸所薦抜.皆/

是世彦時華。難龍任日隆,謙光弥至,早多量主意,少慕栖f匡。難進好止,非矯使関。鯛鱗之

/請雄屡,丘盤之志未従。鳴呼天道,稲善饗膳,山見帥擢峰,部林被専,衣冠岡庇,縛紳実

仰。/春秋冊有七,以規建義元年歳在戊申四月十三日,嘉子洛陽。卑七月同展朔廿一七日/

壬午,柑塞苦阜之限。有 詔追贈使持節・侍中・司空公・尚書左僕射・標騎大将軍・都督

徐州諸軍事・徐州刺史。惟公風綿峻傑容止可観髄議奇巻識洞機寂。孤情輿脊松比/

秀,逸韻賂白雲共達。警幌玉之矯潤,等冬泳而成潔。甥|可調世之模槽,朝之棟棟者敗。/

弟桁,態儀形之方閤,悲嫌竹之難久,謹序遺行,寄之錦勤。撫軍持軍頓正李奨,投分有/

素,藻謄嘗時,朝L想以矯銘。庶可述不朽之鴻烈,申捗綱之永思。其調臼,/顛離上勝,駿

崇公卿。愛及東背,莫之興京。篤生夫子,弱冠知名。亦既来仕,費惟朝祭。紫/綾金章,

斑保擁節。外参入元,内居喉舌。民詠来蘇,遠至迩悦。壁同水鏡,清如水雪。性愛/林泉,

情安貧昔。退食自公,優遊環堵。散書浦紘交柄蔽戸。一時無墜,嘗求於古。時嵯鬼/紳,

悠悠天道。徒獲令名,終不書考。奨焚春芝,奄同霜草。誰言幅謙,量錫難老。昔恭光禄,

/及子同官。玄冬永夜,耳語交歓。実案不食,賓忘、飢寒。願言思此,痛切心肝。悲風動蹄,

噺/馬飛輪。北臨せ阜,衛望穀演。幽扉暫掩,ん帳虚陳。痛哉此地,痩我良人。

(iv)永安元年 (529)r王朝墓誌」……誌主の王朝は王粛の兄王環の子である。 1926年に河南

洛陽で出土した。西安碑林博物館蔵。誌石は縦62cm,横61cmの正方形,誌文は全30行, 1行

30字の合計803字からなる。録文は以下の通りである(判。

重量故散騎常侍鋸南勝平金紫光禄大夫領因子祭j酉消州刺史王使君墓誌。/祖諒ー免賓故向書

左僕射・使持節・鎮北将軍・薬州刺史。/夫人陳郡殿氏,父道持,太中大夫。/父誰環,

斉故司徒従事中郎。/夫人彰城劉氏,嘉興牒主。父義恭,宋太宰 .t工夏王。/公韓胡,字

仕朔,徐州現耶郡臨?斤牒都郷南仁里人也。綿臆開源,本枝流緒,長/澗遠泌,層峯峻極。

然其世載金紫之条,族茂銀黄之貴,四海尚其羽儀,九流重/其冠晃。祖懐文抱質,道貴嘗

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北貌における墓誌銘の出現

時。父恒古知新,名停後世。公膚積善之飴烈,撞鍾/美之粋霊,標葉桂於八樹,茂葱蘭於

九腕。亦既練飛,羽儀上園,雅号南金,盛栴/東箭。而宗致玄遠,志尚清高,有如水鏡,

無異珠玉。解褐矯秘書郎中。望延閤以/載飛,臨贋除而一息。庶士仰之而推高,衆流慕之

市蹄美。俄韓員外散騎侍郎./又除裏威将軍,補司空主簿。追申起家之屈,遷矯従事中郎,

特除中書侍郎,加/鋸遺之号。又矯清河玉友,館官如故。公自通籍承明,賛道玄武,理繭

鳳沼,曳裾/菟園。酔采蔚其秀出,楓議暢市清準。襲王慌其通要,邪劉謝其花賞。而監方

察/部,任重望隆,我求蕗徳,用膚嘉選。乃除使持節・都督済州諸軍事・左将軍・済州/

刺史,又加平東将軍。於是照之以冬日.潤之以夏雨,明示蒲鞭之威,必存竹馬/之信。至

如買父北臨,羊公南撫,異世間規,殊途共轍。又行定1・N.以患酔免。乃除/平南将軍・散

騎常侍,尋轄安南持軍・銀背光禄大夫,加散騎常侍。及中興統暦./賓命惟新,属想上摩,

留意東序。乃除鋸南持軍・金糸光禄大夫・園子祭酒,常侍/如故。何養況痢,未棋職事.

縦容宴喜,優遊歳時。問閤垂帳.濁運心識,左琴右書./濁王懐抱。而精義解頗之奇,麗

藻陵雲之異,聞以道鏡儒林,酔奉文魔者実。謂/此高門,有験多踊,何期冥昧,終慾奥善。

春秋冊有五,永安元年歳在戊申十二/月壬午期廿日辛丑,終於位。朝廷悼惜,行路質沸。

卑以二年歳次己酉二月発/未朔廿七日己酉,室於洛陽商郷恩。念高下之相傾,恐陵谷之逓

饗,謹黄泉市/鹿作,託玄石以留絢。其詞日./昭哉卿族,欝央公門。家慶所在,世禄依

存。耀卿之子,叔茂之孫。猶如桂霞,有若/現温。器成瑚瑳,才標禎幹。居鳳比翼,在龍

栴翰。雷等泉流,文同雨散。始登麟閣./終臨虎観。高風済構,遠集昂昂。知金如錫,令

問令望。方期海運,有葉雲期。遁然/鏡玉,忽失擢棟。影彰塘柳,棲凄産露。出場衡悲,

臨穴興慕。勝茂菓腕,行遊狭菟。/無復春秋,空哀正墓。

以上に掲げた 4点の墓誌銘の誌主は王粛の子と甥であり,みな王粛の一つ下の世代である。

紙幅の都合上,各墓誌銘の内容には触れないが,これらの書式をみるといずれも非常に画一的

な書式で作られていることがわかる。すなわち「墓誌銘」あるいは「墓誌」の語を持つ表題の

後,まず祖先の親族関係を記し,続いて誌主の姓名・本籍・性質・履歴・没年・葬年及ぴ埋葬

のことを述べ,最後に韻文の銘で締めくくるという書式である。とりわけ,表題の後に祖先の

名前と官職を各々改行して記す点に特徴がある。なお,王粛一族に関わる墓誌銘はここに紹介

した4点のほかに,永平3年 (510)r王謂妻元氏墓誌」と照平2年 (517)r王謂妻元貴妃墓誌」

もある。ともに女性の墓誌銘で比較的短文であるが,これらも表題の後に祖先の名前と官職を

各々改行して記すという特徴を有しており,王氏一族の手にかかるものと推察される。

このように一族で整然とした墓誌を作製していることは,彼らが北貌に帰順して以降に誰か

他人から墓誌銘の書式を教えられたのではなく.王粛一族の聞に元から墓誌銘の書式に関する

共通認識が存在していたことをうかがわせる。そしてその墓誌銘の書式とは,彼らの家系を考

慮するならば,顔延之撰「王球墓誌銘」の書式であった可能性が大いに考えられる。つまり,

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梶山智史

これらは墓誌銘の元祖の姿を受け継いだものであったと考えられるのである倒。

ところで,上掲の「王諦墓誌銘」の埋葬の場面には

弟桁,掻儀形之方悶,悲鎌竹之難久,謹序遺行,寄之鍋勤。撫軍将軍頓丘李奨,按分有素,

藻謄嘗時,親想以矯銘。

弟の桁,儀形の方に歯じるを鰭い,鎌竹の久しくし難きを悲しみ,謹んで遺行を序し,之

を錦勅に寄す。撫箪特筆頓丘の李奨,投分して素有り,藻は嘗時に鰭る,瓶ち1島りて以て

銘を震る。

とあって,王請の弟の玉街が同墓誌銘の誌を作り,撫半将軍の李奨が銘を作ったよ二とがわかる。

この王街は,他にも永安2年 (529)r元継墓誌銘Jの作製に関わっている。「元継慕誌銘Jの埋

葬に関わる部分にはこのようにある(附3おω6ω)

前佐司徒府諮議参軍事.太常卿.郵珊王桁'前佐司徒府記室参軍事・大将軍府従事中郎新

平橋元興等,l意陵谷貿遵,丘臨難識,故盤誌挺陰,刊載氏族。

前佐司徒府諮議参軍事・太常卿・郡部の王桁,前佐司徒府記室参軍事・大将軍府従事中郎おもんばか

新平の橋元興等,陵谷貿遷し,丘髄識り難きを庫る,故に撃ちて誕陰に誌し,刊みて氏

族を載す。

これによれば,王街が橋元興とともに元継の幕誌銘を撰したことがわかる。これは二人がか

つて元継の司徒府の僚属であった関係から,その埋葬に当たって撰文を依頼されたものと推察

される。以上のように王桁が親族や上司の墓誌銘を作製していたこともまた,王氏一族が墓誌

銘に関する知識を持っていた証拠となろう。

(2) 孝文帝と主粛と墓誌銘

前節では,王粛が劉宋の王球の孫であり,その家には墓誌銘の元祖たる顔延之撰「王球墓誌

銘」に関する情報が継承されていたとみられることを明らかにした。つまり,玉繭自身も墓誌

銘の知識を持ちあわせていたことはほぼ間違いないと思われる。ところで,先に北魂墓誌銘の

唱矢として孝文帝撰 PJ馬県墓誌銘」を取り上げ, r孝文帝は一体どのようにして墓誌銘に関する

知識を得たのだろうか」という問題を提起した。これについても,王粛が孝文帝に墓誌銘の知

識を伝えた情報源であった可能性が考えられる。

そのことをうかがわせるのは,孝文帝と王粛の密接な関係である。王粛は 493年3月に北貌

に亡命し,同年 10月突卯 (26日)に鄭にて孝文帝と対面した。時あたかも,浩陽遷都が決まっ

た直後であった。『調書』巻63・王粛伝にはこうある。

高祖幸鄭,聞粛至,虚襟待之,引見問故。粛辞義敏切,辞而有礼,高祖甚哀側之。遂語及

為国之道,粛陳説治乱,音韻雅暢,深会帝旨。高祖嵯納之,促席移景,不覚坐之疲i奄也。

因言粛氏危滅之兆,可乗之機,勧高祖大挙。於是図南之規転鋭,器重礼遇日;有加罵,親貴

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北貌における墓誌銘の出現

旧臣莫能間也。或扉左右相対談説,至夜分不罷。粛亦尽忠輸誠,無所隠避,自謂君臣之際

猶玄徳之遇孔明也。

高祖都に幸す,粛至るを聞き,虚襟して之を待ち,引見して故を問う。粛は辞義敏切なり,

静じて礼有り,高祖甚だ之を哀側す。遂に語りて為国の道に及び,粛,乱を治むるを陳べ

説き,音韻雅暢なり,深く帝の旨に会う。高祖唾して之を納れ,席を促して景を移すも,

坐の疲掩を覚えざるなり。因りて粛氏危滅の兆,乗ずるべきの機を言い,高祖に大挙するうた へだ

を勧む。是に於いて甫を図るの規転た鋭し,器重礼遇は日ぴ加うる有り,親貴旧民間て

る能う莫きなり。或いは左右を官けて相い対して談説し,夜分に至りて長めず。粛も亦いた

た忠を尽し誠を輸して,隠避する所無し,自ら君臣の際猶お玄徳の孔明に遇うがごときな

りと謂う。

孝文帝は亡命せざるを得なかった王粛の境遇をあわれむとともに,王粛と国家統治の道を語

り合って意気投合した。そこで王粛は,南斉の滅亡が近く,この機に乗じて征伐すべきことを

説いた。以後,孝文帝の王粛に対する礼遇は日を追うごとに増すばかりで,旧臣たちも二人の

仲をへだてることはできなかった。孝文帝は時に人払いをして,王粛と昼夜を忘れて語り合う

こともあった。王粛もとれに対して忠誠を尽し,何一つ鴎すことはなかった。王粛は孝文帝と

自らの関係について,劉備が諸葛亮にめぐり合ったようなものだと考えていた。

このように孝文帝はすぐに王粛の才能を認めて格別の礼遇を与えた。王粛はそれに応えて,

孝文帝による漢化の制度改革に大きく貢献することになる。これについては『北史J巻42・王

粛伝に次のように記される。

自晋喪乱,礼楽崩亡。孝文雄萱草制度,変更風俗,其間朴暗,未能淳也。粛明練旧事,虚

心受委,朝儀国典成自粛出。へだ

晋の喪乱より,礼楽は崩れ亡ぶ,孝文は制度を萱草し,風俗を変更すると難も,其れ間た

りて朴略なり,未だ淳なる能わざるなり。粛は旧事に明練し,心を虚しくして委ねを受く,

朝儀国典は成な粛より出づ。

王粛亡命以前から孝文帝は「漢化」を目指した諸改革を行っていたが,必ずしも十分ではな

かった。孝文帝の改革で定められた「朝儀国典」は,みな古くからの由緒正しい典章制度に通

暁した王粛によって作られたものであったという (37)。また, r南斉書』巻57・貌虜伝には

是年,王粛為虜制宮品百司,皆如中因。きだ

是の年 (499),王粛,虜の為に官品百司を制む,皆な中国の如し。

とあって,太和 23年 (499)の北貌官僚制度の制定に王粛が関わったことが当時の南朝にも伝

わっていたことがわかる。風に陳寅悟氏が北朝の文物制度を考える上では王粛の「北奔」が関

鍵となったことを論じているように,孝文帝の改革において王粛の存在とその果たした役割は

特別なものであったといえる慨。

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梶山智 史

以上のような孝文帝と王粛の密接な関係を考慮すると,王粛が中華の典章制度を伝えるつい

でに,当時の甫朝で新しく流行していた墓誌銘という葬送の習慣を孝文帝に教えたことは,大

いにあり得るのではないか。先に掲げた孝文帝撰「謂照墓誌銘」が,王粛一族が北貌で作った

墓誌銘と同じく南朝墓誌銘の体例を完備していることを勘案すると,その可能性は想定されて

よいように思われる。

結語

本稿で明らかにしたことをまとめると,以下の通りである。

①北貌における墓誌銘の習慣は洛陽遷都後に出現し,主として洛陽で盛行した。現存の北貌墓

誌銘を統計的に分析すると,遷都直後の 495年から作られ始めて,宣武帝期には本格的に作

られるようになり,孝明帝期以降になって更に普及したとみることができる。

②墓誌銘とは礼典に定められた古くからの習慣ではなく, 5世紀半ばの劉宋の顔延之撰「王球

墓誌銘Jの出現を契機として南朝社会に流行した新しい葬送の習'1貫であった。

③南朝墓誌銘の体例を北貌に伝えた者の一人として,王粛が想定される。 493年に南斉から北

舗に亡命した王粛は劉宋の王球の孫であり,その一族には墓誌銘の元祖たる顔延之撰「主球

墓誌銘」に関する情報が継承されていたとみられる。

④王粛と孝文帝の密接な関係,および王粛が孝文帝の改革に大きく貢献したことを勘案すると,

王粛が孝文帝に墓誌銘の体例を教えた可能性が考えられる。

以上により,北貌における墓誌銘の出現をめぐる実情の一端を明らかにし得たと思われるが,

しかしまだ考察すべき問題は多い。墓誌銘はなぜ洛陽遷都後の北説で盛行するに至ったのであ

ろうか。北貌墓誌銘の出現という現象は孝文帝の改草に始まる北貌後期の政治・社会・文化の

特質と関わる問題であり,当時の時代状況をふまえてさらに検討していく必要があると考えら

れる。今後の課題としたい。

(1) 墓誌銘の起源をめぐる議論と商晋の慕誌については,福原啓郎「西晋の墓誌の意義J(同著『貌晋政治

社会史研究l東洋史研究叢刊 77.京都大学学術出版会.2012年,所収。初出は 1993年).およぴ同「墓

誌銘の起源J(r月刊しにかj12-3.大修館書庖.2001年)を参照。

(2 ) 日中における北朝・階代の墓誌を用いた研究については拙編『北朝階代墓誌所在総合目録j(明治大学

東洋史資料叢刊 11.明治大学東アジア石刻文物研究所・汲古書院.2013年)にリスト化した。ただし遺

漏が多い上に,同書刊行後も続々と新たな研究成果が出されているため,増補の必要がある。また,主と

して 2000年代以降の日本における石刻史料を用いた北朝階唐史研究の動向については,梶山智史・堀井

裕之「近年日本的北朝陪唐石刻与政治社会研究動向J(北京大学中国古代史研究中心・中国中古史研究編

委会編「中国中古史研究:中国中古史青年学者聯誼会会刊』第5巻,中西書局.2016年)にまとめた。参

照されたい。

( 3 ) 墓誌の歴史を適時代的に略説したものとしては越超著『古代墓誌通論j(紫禁城出版社.2003年)があ

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北重量における墓誌銘の出現

る。また越氏は『漢重量南北朝墓誌、薬編J(天津古籍出版社.1992年)の「前言Jでも墓誌の成立過程と形

式について述べている。北貌墓誌の史料的な問題に関して細部に踏み込んだ成果としては,墓誌の文章

を構成する諸要素や文字数の詳細な分析からその起源と定型化について論じた窪添慶文「墓誌の起源と

その定型化J(伊藤敏雄編『貌晋南北朝史と石刻史料研究の新展開一重量晋南北朝史像の再構築に向けて

-.1,平成 18~20 年度科学研究費補助金(基盤研究 (B)) r出土史料による重量晋南北朝史像の再構築」成

果報告書別冊,研究代表者伊藤敏雄.2009年).同「北菱地墓誌中の銘辞J(r立正大学文学部論議』第 133

号, 2011年),同「遷都後の北重量墓誌に関する補考J(r東アジア石刻研究』第5号, 2013年)がある。ま

た北貌後期の政治の推移や被葬者の境遇などから議誌の製作事情を検討した室山留美子「出土刻字資料

研究における新しい可能性に向けてー北貌墓誌を中心に一J(r中国史学』第20巻, 2010年).~誌の後方

に文字が記されない空白の部分が出ること・墓誌文の冒頭・末尾で文字を詰めて書くこと・詮号や贈官を

後で補刻することなどの所謂「異刻」現象から北貌墓誌の生産過程を考察した徐沖「従“異刻"現象看北

貌後期墓誌、的“生産過程..J (r復旦学報(社会科学版)~ 2011年第2期)が挙げられる。この他,最近では

北朝纂誌に関する専著である林登)1関著『北朝墓誌文研究~ (麗文文化事業股傍有限公司.2009年)と馬立

軍 m朝墓誌文体与北朝文化~ (中国社会科学出版社.2015年)も出版されており,北朝墓誌の素材,製

作過程,作者,文体,そしてそこに表現された葬送の思想意滋などについて全面的に論じている。

(4 ) 拙編「北朝墓誌所在総合巨録Jおよび「階代墓誌所在総合目録J(ともに『東アジア石刻研究』創刊号.

2005年).および「新出北朝陥代墓誌所在総合目録 (2006一2010年)J (r東アジア石刻研究』第3jj-,20日

年)。

(5) 拙編『北朝商代墓誌所在総合目録l(明治大学東アジア石刻文物研究所・汲古書院.2013年)。なお,同

目録刊行後も新たな墓誌が公開されているが,本稿では統計の対象に加えていない。

(6) 越超「漢貌爾北朝墓誌集編~ (天津古籍出版社, 1992年)36-37頁,毛遠明編著『漠貌六朝碑刻校注』

(線装書局. 2008年)第3冊266-268頁に載る録文と拓本写真を参照。

(7) 張銘心「十六国時期碑形墓誌源流考J(r文史J2008年第2輯,総第 83輯)は, r司馬金龍墓誌」が十六

国の墓表の形式を採用したのは.司馬金龍の妻が北涼のi且渠牧鍵の娘で、あったことが関係しているとし.

同墓誌を河西地域の喪絡胤俗が反映された「河西岡背碑形墓表Jと称する。

(8 ) 段憲「北重量早期平城墓銘祈J(中国重量晋南北朝史研究会・平城北朝研究会編『北朝研究j1,北京燕山出

版社, 2000年).お上び同著『北貌平城書迩二十品j(大同展史文化叢書7,山西人民間版社.2007年)

27-28頁に載る録文・拓本写真・考察を参照。

( 9 ) 毛遠明編著『漢貌六朝碑刻校注j(線装香局.2008 年)第 3 冊 266~268 頁,段憲著『北貌平城書迩二十

品j(山西人民出版社. 2007年)42-46頁に載る録文・拓本写真・考察を参照。

(10) 景明 5年 (504)r拓政忠及妻司馬妙玉墓誌銘」は最近になって股憲 rr貌故城陽宣王(拓践忠)墓誌』

考J(r中国国家博物館館刊J2014年第3期)にで初めて紹介されたものであるため,拙編の目録には入っ

ていない。なおこのー墓誌銘は砕形であり,北裁では珍しい事例である。

(11) 李伯欽・拓隊忠・元欝を除〈改葬事例の状況と意凶については,室山留美子「北重量漢人官僚とその埋葬

地選択J(r東洋学報』第 87巻第4号, 2006年)が詳論している。

(12) 秦公「釈北重県高道悦纂誌J(r文物j1979年第9期).越超『漢貌南北朝墓誌桑編1(天津古籍出版社,

1992年)104-105頁,毛遠明編著『渓重量六朝碑刻校注j(線装香局.2008年)第5冊3-5]iなどに載る

録文と拓本写真を参照。

(13) 実は「高道悦墓誌銘」はその夫人である「高道悦妻李氏墓誌銘Jの墓誌蓋の裏面に刻まれており,つま

りこの夫婦の墓誌銘は「二石一金」という特異なものである。回熊信之氏は山東省石刻芸術博物館に所

蔵されるこの墓誌銘を実地調査した上で,その形制と内容について「北貌高道悦,李夫人墓誌銘と「父天

母地Jの藷J(相川銭崖古稀記念書学論集編集委員会編『相川銭崖古稀記念書学論文集j,木耳社.2007

年)を著して詳論した。その中で「本来この二石は長子高織が母のために調えたものと思われ.これを高

輝自身が,十余年前に非命に倒れた父とその父を尊ぴ家を守り来た母の思いを掬んで,孝義の意と亡親

の顕彰を果たしこれを永く遣すために,上石には父,下石には母の誌銘を刻みー金としたものと推

43

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梶山智史

れる。」と述べる。

(14) 趨君平「重量孝文帝撰『鴻隈墓誌J考述J(洛陽歴史文物考古研究所編『河洛文化論叢J第5輯,国家図

書館出版社, 2010年)。

(15) 李風暴「北貌『祷照墓誌』考評J(r中図書法~ 2010年第6期)。

(16) 越君平・趨文成編『秦晋珠新出墓誌蒐倹~ (国家図書館出版社, 2012年)第 l冊 14頁。

(17) 窪添慶文「長楽禰氏に関する諸問題J(W立正史学J第111号, 2012年),および前掲注3,窪添慶文「遷

都後の北貌墓誌に関する補考」。

(18) 前掲注3,窪添慶文「遷都後の北貌墓誌に関する補考J。

(19) 墓誌銘の南朝宋起源鋭に関しては夙に清の越翼が「殴徐叢考~ (学術筆記叢刊,中華書局, 1963年)巻

32 ・慕誌銘にて言及しており,劉宋の顔~之が友人王球のために作った「石誌J が死者の生涯の事績につ

いて叙述するいわゆる墓誌銘の始まりであるとする。程章燦「墓誌起源考一一兼対関於墓誌起源的諸積

伝統説法的考察J(同著『石学論議j,大安出版社, 1999年)も顔延之撰「王球墓誌銘」を文体としての墓

誌銘の起源と考え,この習慣が南朝宋・斉で次第に流行する一方,北貌孝文帝の太和年間 (477-499)前

後に北貌に伝わり,急速に華北で普及したのだとする。窪添慶文氏も前掲注3の諸論考の中で,北重量で

墓誌銘が出現した要因として南朝墓誌銘の影響を指摘している。顔延之撰「王球墓誌銘」を含む甫朝の

墓誌銘については本章で考察する。

(20) r甫斉書J巻 10・礼志下では太子妃の死を宋大明 2年 (458) と記す。しかし, r宋書J巻6・孝武帝紀

では大明2年に皇太子妃が死去したとの記載はなく,大明 5年 (461)閏月戊子に「皇太子妃何氏売。」と

ある。よって, r甫斉書』ネL志が皇太子妃の死を大明 2年とするのは誤りと思われる。

(21) この記事の解釈については,中村圭爾「束晋南朝の碑・墓誌についてJ(同著「六朝江南地域史研究l

汲古書院, 2006年,所収。初出 1988年)を参照。

(22) r宋書J巻73・顔延之伝, r宋書』巻 58・王球伝。

(23) r煩」は,前掲の『南斉書J巻10・礼志下では「須」に作る。従って この「煩」はあるいは「須」の

誤りか。

(24) 王倹は『南斉書J巻 23,r南史』巻 22に伝がある。なお,王球と王倹は共に東晋の権臣王導の子孫であ

るが,王球が王導の子の王勧の系統であるのに対し,王倹は王導の子の王沿の系統である。

(25) 趨超『漢重量南北朝基能薬編l(天海古籍出版社, 1992年)22頁,毛逮明編著『漢貌六朝碑刻校注j(線

装害局, 2008年)第3冊 118-120頁に載る録文と拓本写真を参照。

(26) 越超『漢貌南北朝墓誌集編l(天津古籍出版社, 1992年)22-23頁,甫京市博物館編『六朝風采j(文

物出版社, 2004年)242-243頁,毛逮明編著『漢貌六朝碑刻校注j(線装書局, 2008年)第3冊 123-125

頁に載る録文と拓本写真を参照。また,南京市文物管理委員会「甫京太平門外劉宋明曇億基J(r考古J1976年第 1期),張敏「劉宋『明曇t漕墓誌銘J考略J(r東南文化l1993年第2期)も参照した。

(27) 郡議「甫斉「王宝玉墓誌』考釈一一兼論甫朝墓誌的体例J(同著『冶山存稿:南京文物考古論議l鳳風

出版社, 2004年。初出 2003年),南京市文化広電新聞出版局編『南京歴代碑刻集成j(上海書面出版社,

2011年)34頁・ 356頁に載る録文と拓本写真を参照。

(28) 前掲注 3,窪添慶文「遷都後の北貌墓誌に関する補考」。

(29) r貌書』巻63・王粛伝。また『甫斉書』巻49・王失伝も参照。

(30) r宋書J巻 58・王球伝,および『南斉書J巻49・王失伝。王失は王球の従兄弟の王僧朗の孫であり,玉

粋の子であったo

(31) 越超『漢貌南北朝墓誌葉編j(天津古籍出版社, 1992年)69-70頁.毛遠明編著 ri菓貌六朝碑刻校注J(線装書局, 2008年)第4冊237-239頁に載る録文と拓本写真を参照。

(32) 越超 n築貌南北朝墓誌集編j(天津古籍出版社, 1992年)82-83頁,毛途明編著 Wi莫貌六朝碑刻校注J(線装書局, 2008年)第4冊286-288頁に載る録文と拓本写真を参照。

(33) 越超『漢貌南北朝墓誌集編l(天津古籍出版社, 1992年)241-243頁,毛逮明編著『漢貌六朝碑刻校注J

(線装書局, 2008年)第6冊215-217頁に載る録文と拓本写真を参照。

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Page 24: 北貌における墓誌銘の出現 - 明治大学 · 墓誌銘は北貌でそれが盛行する約半世紀前には既に甫朝宋で成立していた。5世紀半 ばの顔延之撰「王球墓誌銘」の出現を契機として南朝社会に流行していたとみられ,そ

北貌における墓誌銘の出現

(34) 越超『漢貌南北朝墓誌葉編~ (天津古籍出版社.1992年)253-254頁.毛遠明編著『漢貌六朝碑刻校注J

(線装書局.2008年)第6冊258-260頁に載る録文と拓本写真を参照。

(35) 越万里氏は『漠貌南北朝墓誌集釈~ (科学出版社.1956年)巻6の「王朝墓誌」で「誌首載胡祖父考批

名位氏族,与王紹王普賢二誌体製相似,湖本斉人,殆可視為南風北漸也。」と述べ.r王掬墓誌銘」と「王

紹墓誌銘Jr王普賢墓誌銘」の祖先に関する記述の書式が同じであることを指摘し,これは「南風北漸」

とみるべきであるとする。つまり越氏は,王氏一族が南朝の慕誌銘の書式を北貌にもたらしたと考えて

いたことがわかる。

(36) 越超『漢貌南北朝墓誌集編~ (天津古籍出版社.1992年)259-260頁,毛透明編著「漢貌六朝碑刻校注』

(線装書局.2008年)第6冊272-274頁に載る録文と拓本写真を参照。

(37)これと似た記述として. r資治遇鐙J巻 138・芳紀4・武帝永明 11年 (493)冬10月の孝文帝と王粛の対

面の記事の末尾に「時貌主方議興礼楽,変華嵐,凡威儀文物,多粛所定。(時に貌主方に礼楽を奥し,筆

風を変えんことを識す,凡そ滅儀文物は,多く粛の定むる所なり。)Jとある。

(38) 陳寅惜著『階唐制度淵源略論稿j(W陳貧恰集 開唐制度淵源略論稿・唐代政治史述論稿1生活・読書・

新知三聯香庖.2001年)の第2章「礼儀」。王粛の北貌における活動状況と貢献については玉大良「略論

王粛与北貌政局Ja北朝研究j1997年第2期)も参照。

附ie本稿は 2014年8月23日-24日に中国人民大学で開催された「制度与権力;第八届中国中古史青年学者国

際会議」での口頭報告をもとに加筆修正したものである。席上,有益なご指摘やご意見を下さった方々に深

〈感謝申し上げる。

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梶山智史

Appearance of Epitaph in Northern Wei China

KAJIY AMA Satoshi

In China, the life of the dead was sometimes inscribed on an epitaph. It was during

Northern Wei (386-534) when a practice of burying an epitaph with the dead became very

common. This paper discusses the historical phenomenon of the appearance of epitaph in

Northern Wei.

In Northern Wei, a practice of preparing epitaph appeared after the capital moved to

Luoyang during the reign of Emperor Xiaowen孝文 (467-499),and a practice became

prevalent mainly in Luoyang. The author's analysis of sources related to the Northern Wei

epitaphs reveals that the name, social status, and year of death were only inscribed on epitaphs

prior to Luoyang becoming the capital. On no epitaphs whatsoever, were the personal

history of the dead inscribed in detail in prose Gntroduction) and in verse. In other words,

there was no such practice at也attime. In 495 shortly after Luoyang became the capital.

however, the production of detai!ed personal history on epitaphs started. The earliest example

was the Feng Xi祷照Epitaph,drafted by Emperor Xiaowen. Such an epitaph became common

during the reign of Emperor Xuanwu宣武,and it became even more common during the reign

of Emperor Xiaoming孝明 andafter.

In fact. an epitaph already appeared in the Southern Dynasty of Song (420-479),

approximately fifty years before the popularity in Northern Wei. Epitaphs became popular

once the Wang Qiu王球Epitaphdrafted by Yan Yanzhi顔延之 appearedin the middle fifth

century. This popularity is evidenced by surviving epitaphs of the Song and Qi Dynasties.

Accordingly, the author argues that epitaphs of Northern Wei diffused from the Southern

Dynasties.

The author hypothesizes that Wang Su王粛 whosought asylum from Southern Qi to

Northern Wei in 493. Wang Su was a grandson of Wang Qiu, and the author speculates

information about the Wang Qiu Epitaph drafted by Yan Yanzhi was inherited to Wang Su.

The author's speculation is backed by the observation that Wang Su's relative created an

epitaph with inscriptions perfect in prose and verse in the Northern Wei Period.

Once the asylum was granted, Wang Su developed a close relationship with Emperor

Xiaowen and contributed to a series of reforms initiated by the Emperor, including the

selection of Luoyang for the new capital. It is possible that Wang Su taught Emperor Xiaowen

the format of an epitaph.

Keywords: Northern Wei China, Southern Dynasties of China, epitaph, Luoyang (capital of

China).

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