31
Title 唐代府兵制の再檢討 : 折衝府の歴史地理的分析 Author(s) 愛宕, 元 Citation 東洋史研究 (1997), 56(3): 493-521 Issue Date 1997-12-31 URL https://doi.org/10.14989/155153 Right Type Journal Article Textversion publisher Kyoto University

Title 唐代府兵制の再檢討 : 折衝府の歴史地理的分析 東洋史研究 … · 都温墓誌 太極元(文博 『 』 一九九三 l 一一 一〉 震庭前墓誌 開元ロ(洛陽出土歴代墓誌輯縄』川)

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Title 唐代府兵制の再檢討 : 折衝府の歴史地理的分析

Author(s) 愛宕, 元

Citation 東洋史研究 (1997), 56(3): 493-521

Issue Date 1997-12-31

URL https://doi.org/10.14989/155153

Right

Type Journal Article

Textversion publisher

Kyoto University

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||折衝府の歴史地理的分析|

|

フE

城壁をもっ折衝府

折衝府の園家施設警護

ω帯陵と折衝府

ω離宮と折衝府

ω関津と折衝府

糾渠水と折衝府

歴史的地理的にみた折衝府

- 61ー

~i

先に折衝府武官ポストが官歴としてどのように運用されているかを跡

s

つけることによって、唐代府兵制の動的側面を明

(1〉

らかにし、制度崩壊の過程について検討を加えた。本稿では、その崩壊の

一因とされる折衝府の偏置について、塵史地理

的に考察することにより、さらなる検討を加え、制度史研究では見えてこない歴史の質像をいささかなりとも明らかにし

493

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494

h

-

、。

φムド

1v唐

代府兵制の根幹をなす軍府、すなわち折衝府が全園に卒均して設置されたのではなく、特定地域にきわめて集中して

設置され、

それが軍府州における農民の兵役負捨の過重を必然的に生起し、遂には制度が機能マヒに陥ったとする理解は

それなりに説得力はある(負措の不均衡を否定する解樟もある)。

そこでまず、

唐代折衝府の設置総数について見ておこう。

『新唐書』地理志に記す府州別の四四入府の折衝府名は、諸文献に言う六

OO府前後という総数とは大幅にずれがあり、

その歓落部分を補うべく努力がなされてきた。その主なものを奉げると次の通りである。

務経原『唐折衝府考』

羅振玉『唐折衝府考補』

・『同拾遺』

増補一

O九府

増補六九府

谷蟹光『唐折衝府校補』

同右『府兵制度考緯』

増補三

O府、計六三

O府

(以上『廿五史補編』所牧)

最多六一一一一一一J六三四府(一九六

上海人民出版社〉

- 62ー

醇英群

・丁贋皐「甘粛荘浪銅虎符」増補一四府(『考古輿文物』一九八O|一一)

賀梓誠「開於唐史中一些問題的糾正和補充|唐墓誌銘割記之一二」若干の増補(『文博』一九八四l三)

張園剛「唐代府兵淵源興番役」増補二二府(『歴史研究』一九八九|六)

武伯倫「唐京兆郡折衝府考逸」若干の増補(『考古輿文物』一九九Ol六〉

李方「唐折衝府増考」増補三

O府、計六六

O府

以上の諸論考はともに既存の文献史料では知り得なかった唐代(一部惰代を含む)折衝府名を、

新出墓誌銘等の石刻史料

一定の意義は認めねばならないが、折衝府の

名稽を掘り起こしてその糟数を増補することにもっぱら意が用いられているだけのように見受けられる。特に李方氏の論

や吐魯番文書等に擦って新たに折衝府名やその所在を明らかにしたもので、

文は、賀梓誠論文に擦りつつ二、三の新出墓誌銘や吐魯番文書からいくつかの未知の折衝府名を拾い上げただけの、

古品支」

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しく「増考」以外の何ものでもない。ただ谷氏『考樟』では全園的な折衝府の分布の疏密について踏み込んだ考察がなさ

れ、その歴史的意味についても一定の見解は示されてはいる。しかし、

それも長安・洛陽及び河東方面に密度高く配置さ

れだ唐代折衝府の分布から、強幹弱枝策であるといった見解の枠を超えるものではない。分布の疏密は、確かにマクロ的

にはそのように理解して大筋では間違

ってはいないであろう。しかしながら、情唐園家の成立過程を逼時的にながめなが

ら、折衝府分布の地域的な疏密だけでなく、個々の折衝府の立地にまでミクロ的に検討してみると、従前には見えてこな

か司た折衝府の性格が立ち表われてくるはずである。

本稿で取り上げる個々の折衝府名は『新志』及び上記諸論考に奉げているもの、及び筆者が現時黙で検索し得た以下の

諸府である。

321 京京京兆兆兆府府府原元舎城(城(善府3府i府折)折〉都

衝衝尉都尉

4薙州登口府校尉

5薙州白楽府左果毅

6京兆府高善府別持

(4〉

7京兆府鴻胡府別賂

楊景山宗墓誌

開元却(『洛陽新獲墓誌』鎚

文物出版社〉

一九九六

- 63一

張登山墓誌

天賓14 ,.-., ・司

ゴヒ尽圏書館蔵中園歴代石刻拓本薩縞b

26

139

莫高窟第一九九窟題記

盛唐(『敦爆莫高窟供養人題記』卯頁

文物出版社)

一九八六

龍門造像銘

唐初(『績補支字訪碑録』江18a)

孟貞墓誌

開元2(『唐代墓誌銘集編附考』

Mlm)

李忠義墓誌

天賓7

〈『文博」一九九01一)

同右

(

5

)

8京兆府(?〉豊儀府果毅何光墓誌

9岐州永遠府長史

惰代(『芭洛家墓遺文四編』

2)

日扶風郡(岐州)玉泉府左果毅李忠義墓誌

(6〉

日扶風郡部告府左果毅

495

龍朔元〈『洛陽出土歴代墓誌輯縄』山

一九九

中園社曾科皐出版社〉

楊事墓誌

同右

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496

ロ岐州

(0・)廊邑府折衝

15 14 13 汝務(貌州州γ州、|壁停)(城(山?府8府)校)鷹恒尉揚差是

府折衝

楊徹墓誌 都

温墓誌

太極元(『文博』一九九三l一一一〉

震庭前墓誌

開元ロ(『洛陽出土歴代墓誌輯縄』川)

陪代(『洛陽新獲墓誌』口)

准南公杜君墓誌陰

文物出版社)

惰代(『八理室金石補正』潟、

『唐代墓誌銘集編附考』

9lM)

日緯州朔田府折衝

眠障墓誌

(9)

口西河郡(扮州)陸壁府折衝天賓4(『房山石経題記匿編』2頁

書目文献出版社)

貞元日(『千唐誌費減誌』山川

九/¥

一九八七

(太原府)洛陰(鹿)府

(太原府〉開業府

(同右〉

(閉山〉

却(太原府〉原仇府北周期(同右〉

紅海州池水府左果毅

董度運墓誌

辺幽州莫繁府折衝

李経墓誌

幻幽州昌卒府左果毅

宋頑墓誌

M同谷郡(成州)夏集府折衝

お江都(揚州?〉安徳府司馬

お蓑州

(0・〉

宜春府左果毅

(陽曲)燃東北六十里洛陰故城(『永祭大典』巻五二

O四・一六葉表)

開元日

(『洛陽出土歴代墓誌鶴縄』州〉

- 64ー

一紳龍元(『山右家墓遺文補遺』

5b)

垂扶2(『考古』一

九八六|五)

張無債告身

天買叩

(『吐魯番出土文書』第叩加2頁

・4頁)

孫陸墓誌

惰末令官洛四編』

2)

管元恵墓誌

開元部(『文物』

一九八三|一ニ)

幻撫州巴陵府(『永祭大典』各八

O九二

・=二葉表〉

額慶

3〈『吐魯番出土文書』第5加盟貝)

お(西州)交河府衛士箔歓進

〔所属府州不明の折衝府〕

お城紀府左果毅

本願寺金剛経碑陰

開元7ハ『常山貞石志』

8)

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初弘教府像正

泊客調府長史

認周王府陵正

周王府陵正

お準徳府司馬

M西梁府鎮守大賂軍

龍門造像銘

七世紀後半(?〉創刊集(池田温『中園古代籍帳研究』川一貝句・

85背)

高歳通天元(『績補笈字訪碑録』叩)

威亨3(『園立北卒図書館磁碑目』

MWb『石刻史料新編』第三掛判所枚〉

李元昭墓記

李南容ハ『新唐書』

η上

張雲墓誌

宰相世系表2上

∞lM印NN)

惰代(『千唐誌索蕨誌』臼〉

要準墓誌

元和

2(『中州家墓遺文補遺』

8b)

お宜範府果毅惰代(『弘賛法華俸』日

持統安府左果毅元師奨墓誌

(日〉

訂鄭川府果毅何夫人墓誌

(

)

お臨彰府折衝李懐徳墓誌

Tm・必C)

垂扶元(『文博』一九九三|五)

威亨5(『芭洛績編』中mb〉

- 65ー

贋徳元〈『文苑英華』則〉

拘高陵府長上左果毅〈李)遁海

川町文義府長上果毅(李)師感時期不明(同右〉

位高思府果毅長上

位准一音府折衝

必孝義府折衝

叫順政府統軍

必崇訓府陵正

崇訓府司馬

497

必輔賢府左果毅

時期不明(『房山石経題記集編』別頁)

部温墓誌

諜園公夫人武氏墓誌

太極元〈同右一九九三|一ニ〉

高足酉墓誌

郭行節墓誌

口孝長墓誌

越才墓誌

漏師訓墓誌

先天

2〈『文博』一九九一一一l一一)

寓歳逼天

2(『洛陽新獲墓誌』斜〉

惰代(『洛陽出土歴代墓誌輯縄』削)

貞観U(同右川〉

永徽3(同右川)

長蕎3(『中園歴史地理論叢』

4〉

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498

円引安化府寝騎将軍

史道徳墓誌

晴代(『固原南郊惰唐墓地』一九九六

文物出版社〉

安化府軍頭

史銭棒墓誌

乾封元(同右)

品安丘府鷹揚郎将

史索岩墓誌

惰代(同右)

。立功府騒騎将軍

印掌設府標騎将軍

同右

唐初(同右)

同右

唐初(同右)

折衝府名は今後も新出墓誌等によって若干数は判明するであろうが、右に奉げた所属府州の明らかな二人府からだけで

も知られるように、関内道、河南道、河東道、臨右遁といった地域の折衝府であろうことはほぼ議測出来、従来から言わ

強幹弱枝という唐朝の基本的な戦略思想に再考を迫ることはなかろう。

れているように

また谷氏が六三三乃至六三四

- 66ー

府、李氏が六六

O府に増補された設置組数についても、惰代の名稽が唐代に改稿されたものが少なからずあることを考慮

すれば、既存文献に言う六百数十府という概数だけで十分であり、正確な総数を求めることにさほど重要な意義があると

ただ名稽については、筆者が検索した五

O例を通覧してみると、惰代及び唐初には安徳、

は思えない。

準徳、

宣範、

I1原

政、安化、立功、掌設とい?た抽象名が自に附く。貞観初に全国的な制度化が完成した時貼で、地名に因る名稽に統一さ

れたものと考えられる。

さて、折衝府の官街としての有様、配備立地の歴史地理的な検討、唐朝創業期に直面していた統一戦略の考察等を通し

て、唐代府兵制の制度的虚構性、そのように制度化がなされねばならなかった時代的必然性について以下に考えることに

したい。

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城壁をもっ折衝府

折衝府名には新城府(京兆府〉、廊邑府(岐州)、胡壁府(河中府〉、天固府(寧州)といった城、

のが六

O府以上、全瞳の約一割を占めることから、折衝府が城壁で圏緯せられた軍事上の要塞であアたことがまず類推さ

邑、壁、固などを伴うも

れる。事賞、城壁を有する折衝府の事例は多く見い出せる。

まず州豚城の域内に設置されていたことが確貫に剣明するものとして次のものがある。長安域内の延一隅坊に員化府・宣

(

)

卒府、宣卒坊に義陽府、永祭坊に永祭府、金城坊に匡道府が置かれていた。太原府の竹馬府は府域内に、芳州の甘松府は

(

U

)

郭下常芥鯨城内に、涼州の麗水府は昌松鯨城内に、沙州の龍勤府は毒昌鯨域内に置かれていた。この内、甘松府は北周

武成年間(五五九J六

O〉に吐谷涯を腫逐後に築城された甘松防という要塞がこの地の軍政支配から民政へと轄換されて芳

州治とされたのをそのまま折衝府へと引き離がれたものである。これら州鯨域内の折衝府は域内の一坊乃至数坊を占め、

- 67-

かつ坊塘も城壁に匹敵する強固なものであったと考えられる。その他、折衝府名と牒名が一致するものが少なからず見え

る。京兆府の清南府、岐州の岐山府・岐陽府・鳳泉府、邪州の宜様府、臨州の臨済府、寧州の羅川府、慶州の播交府・祭

播府・同川府、郎州の洛変府、延州の延安府・金明府・延川府、霊州の鳴沙府、夏州の寧朔府、経州の大斌府・綾徳府、

河南府の伊陽府、報州の恒農府、汝州の郊城府・魯山府・龍輿府、河中府の賓鼎府、音州の神山府、緯州の正卒府・太卒

府・翼城府・高泉府、慈州の吉昌府・伴城府、隈州の隈川府、太原府の太原府、扮州の介休府、石州の離石府、折州の秀

容府

・定裏府、代州の五蓋府・雁門府、雲州の雲中府、

瀦州の上策府

・銅韓府、海州の泌水府

・高卒府、懐州の河内府・

武徳府、貌州の元城府、相州の臨津府、沌州の肥郷府、恒州の恒山府、易州の途城府、幽州の良郷府・昌卒府、卒州の麗

龍府、檀州の密雲府、蔚州の漁陽府、峡州の夷陵府、豪州の郵城府、利州の嘉川府、秦州の成紀府・清水府、滑州の滑源

府、蘭州の金城府、眠州の祐川府・和政府、涼州の姑戚府、西州の交河府、嚢州の宜春府、松州の交川

499

漕州の長沙府、

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500

府、慶州の番高府、潜州の潜水府がそれである。これら折衝府のかなりのものは同名の豚域内に置かれていた可能性があ

る。その外にも奮闘脚城や慶軍鎖等の故城祉を利用したと思われるものが少なくない。

京兆府梅里府一一興卒燃の東南

一O里の地に城周ご一里、城高二丈五尺の梅里故城が残っている。この故城はかつて西音

〈日)

期に始卒郡城であったものである。

京兆府濯鐘府υ

一都豚の東北二五里に涯鐘故城がある。秦始皇一帝が全園から武器を回牧して熔解し鍾鍍を作った地と俸え

(

)

られる。

)

京兆府頻陽府

日美原豚の西南三里に城周六里絵の頻陽故城がある。後述するように、頻陽府は高租献陵との関係もあり

そうである。

(

)

京兆府水衡府

一雲陽燃の南

一五里に水衡城があり、唐初の

一時期には豚治も置かれていた。

(印)

筆州鄭ロ巴府

一郭下鄭豚西北三里に春秋以来の鄭故城がある。

華州懐徳府υ

同州朝口巴牒西南四三里に懐徳故城がある。懐徳府はこ

の故城に撲ったものであれば、同州所属とせねばな

(却〉

らない。

- 68一

(

)

鳳朔府三交府υ

賓難牒の西一六里に三交故城がある。この故城は司馬誌が諸蔦亮に封抗して築かせたものである。

(

)

臨州龍盤府

u

上元元年(六七四)以後に呉山鯨が置かれることになる龍盤城がある。

(お)

寧州天国府

一彰原蘇の南に惰代に置かれた軍鎮である天国壁がある。

(

M

)

寧州大延府υ

哀楽師怖の南に子延城がある。大と子はいずれかが誤りであろう。

(

)

坊州杏城府

日中部勝西南五里に五胡期以来の杏域鎖が残っている。

(お)

延州塞門府い延昌鯨西北二

O里に塞門鎮という軍鎮がある。

(

)

霊州鳴沙府υ

北周の建徳六年(五七七〉に設置された鳴沙鎖城を継承したのが唐代の鳴沙勝城である。軍鎖から鯨治へ

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そして同名の折衝府が鯨域内に置かれていたことを強く示唆する事例である。

河南府箕山府・公路府リこの二府は大業一二年(六一六〉に煽一帝の命によって大運河最大の中縫倉である洛ロ倉域内に移

(

)

されている。各地で叛観が激しさを増しつつあるこの時期、糧食の一大集積基地である洛ロ倉の防衛強化策であることは

言うまでもないが、折衝府が皐なる府兵の貼簡・訓練・番上等の機関ではなく、貫戦部陵を擁した軍事単位であることを

(

示す好例である。翌年に李密が洛口倉城を占接した際には、倉域防衛に嘗る箕山府郎防附張季珂が強固に抵抗している。洛

(

ω

)

口倉城所在の輩蘇に西南郡する繰氏豚には愛術固や公路量と呼ばれる後漢末に裳術によって築かれた故量が残っており、

公路府は本来はこれらのいずれかに置かれていたものと考えられる。

(

)

河南府陽奨府ぃ酒源牒の東三八里に春秋期の陽奨邑が故域社として残っている。

河南府駅城府

u

酒源牒の東南二ニ里に故鞍城又は鞍牒故城と呼ばれる職園競の域社が残

っている。後述するように、

(

)

地には関所の鞍開城がある。

- 69ー

(

)

河南府原邑府い済源懸の西北九里に済源故城が残っている。これは春秋期の原邑故城である。

ハ川品〉

河南府原城府u

済源牒の西北二里に故原城という故城が残っている。やはり春秋期の巴域社である。先の原邑府と原城

府はともにこれら故城祉を修築して折衝府所在地とされた可能性が大である。

(

)

河南府温城府ニ温鯨の西(又は南〉三

O里に温城故城がある。漢-

E回以来、惰煽一一帝期までの温牒城である。

河南府(?)慈潤府日新安蘇の東南二

O里に慈澗故鎮がある。北周保定六年(五六五)に設置された軍鎮で、

(町四〉

の武徳三年〈六二

O)に王世充と羅土信の聞でこの故鋸をめぐる激しい攻防戦が展開されている。

ハ幻〉

鄭州漆州府日新鄭燃の北一三里に湊州故城がある。東親の侯景によ

って築かれた軍量である。

(お〉

河中府陶城府

u

郭下河東豚の北四

O里に舜の都城と停えられる故陶城がある。

ハお)

河中府緩化府い虞郷鯨の西北三

O里に綬化故城がある。北貌期の綬化郡治が置かれた域社である。

唐創業期

501

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502

(

)

河中府桑泉府一臨音鯨の東一一一一里に桑泉故城がある。惰代に桑泉鯨治が置かれていた。

(

H

U

)

緯州桐郷府口問喜牒の西南八里に桐郷故城がある。漢代の聞喜豚域社である。

)

緯州周陽府日開喜豚の東二九里に周陽故城がある。前漢文一帝一期の周陽侯趨煮の封ロ巴域社である。

(必〉

緯州垣城府υ

垣燃の西北ニ

O里に漢の垣鯨治が置かれていた故垣城がある。

(

H

H

)

緯州蒲邑府口隈州隈川豚の北四五里に蒲ロ巴故城がある。春秋E

日文公の公子時期のロ巴と停えられる。

扮州六壁府口扮州には北貌太卒員君五年(四四四)に稽胡針策として築かれた六壁域が残っている。

(

K

M

)

(

)

壁城と呼ばれた。扮州孝義豚西北一八里の「其の城は好曲す、故に圏域と名づく」とあるものと同一の域社であろう。

扮州買胡府υ

霊石鯨の南三五里に買胡壁という畳量が残っている。陰地闘の東北に嘗る戦略的要衝の地である。唐の建

(

U

)

園時、高温李淵集園が太原から南下した際に、惰将宋老生に阻まれて駐軍した地である。

(必)

雲州雲中府一綾羅泉という泉源のある快馬城に雲中府は置かれていた。

雲州恒安府u

雲州には北斉天保七年(五五六)に設置された恒安鎖があり、針漠北の要衝であることから惰代まで軍鎮

として存擁した。貞翻一四年(六四O〉には雲州治が恒安鎮に移されている。従って州域内の折衝府ということになるが、

むしろ軍鎖から直接に折衝府に移行したことを示す具瞳的な事例と言える。また惰末以来の群雄の一人である苑君嘩が一

六角の域形から六

- 70ー

時期擦った「地は険にして城は堅し」といった要害の地でもあり、唐代折衝府の立地を知る上で極めて重要な事例でもあ

(

)る。

刑州龍騰府υ

惰開皇二ハ年(五九六)に新設された青山牒が大業二年(六O六)に鹿せられて

れているから、蓄腕脚城がそのまま折衝府に引き離がれていることが剣る。

(印)

とがあたり前ということが知られよう。

「豚は龍騰府に属す」とさ

つまり折衝府は城壁によって圏窮されているこ

(

)

相州鄭城府日郭鯨城至近の東五

O歩に故鄭城がある。曹操によって築かれた鄭北城か、あるいは東貌・北費期の南城か

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はこれだけでは剣然としないが、南北いずれかの鄭域社であることは間違いない。

江陵府夷陵府u

夷陵牒治は晴代には石泉域(下牢成城)に置かれていたが、

(

され、決いで貞額九年(六三五)に陸抗故墨に移された。この出現遜から剣るように、群雄が各地に割譲する唐初にあっては

地方行政府が軍府と同居し、安定期になって初めて軍政と民政が分離されている。創業期にあって再統一を遂行しつつあ

る唐朝が確保した地においてまず軍政支配を貿施する際に折衝府がいかに重視されたかが剣る事例である。下牢成(鎮〉

城の地は長江が三峡の峡谷部を抜けて江漢卒原に出た所であり、隔による卒陳戦に際しても陳側がまさしくこの地におい

(

)

て長江に戴鎖をわたして惰水軍を回止しようとした戦略的要衝であった。

唐初武徳四年(六二一)に牒治は夷陵府に移

滑州滑源府u

滑州には滑源豚があるが、墓誌銘によって滑源鎮の存在が知られるから、滑源府という軍府は、牒城内で

(

はなく鎮城と同所に設置されていたと見なすのが安嘗であろう。

挑州安西府日郭下臨檀鯨の東四

O里に北周武成元年(五五九)に吐谷葎討伐のための前進基地として築かれた故城があ

(

社に安西府が置かれた。折衝府が謹境において園防を捲う鎮や民と全く同じ性格を

貞観一一一一年(六三九)

-71ー

有する軍事的要塞であることを示す事例である。

眠州和政府u

和政豚の西北七里に和政府が置かれていたことが確認出来るから、牒名と府名が同じではあるが、折衝府

(白山)

の所在地は異なる。

(

『括地士山』逸文に「臨挑より西南、芳州扶松府以西、並に古の諸売の地なり」と見え、唐代西謹の重要軍

鎮としてのあり方がうかがえる。

芳州扶松府日

涼州明威府・武安府υ

郭下姑戚牒の北一八

O里に明威成が、

府が併置されているものと見てよかろう。

(四叫〉

西北一六

O里に武安成が置かれている。これらは成と折衝

503

蕎州安城府日宋代安豊鯨の南四里に麿安城府が残っており、

(

)

惰開皇一六年(五九六)に設置されたものという。宋初に

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504

おいて唐の折衝府であったことが剣るのは、域社が残っていたためと考えられる。

(

)

潤州金山府口金壇燃下の金山府は、惰末の動範に際して郷人達が自衛のために「保緊」した場所であることから、城壁

を有していたことは確買である。

路が績き、

萄州濯ロ府υ

萄州に北蜘押する彰州導江蘇の西二六里に北競期に設置された濯口鎮がある。五百里の問、南岸壁立する陸

(

つまりは交通や戦略上の要衝の地である。濯口府は鎮と相劃して南の局州側

「井陸之阿」に比せられる難所、

に置かれていたものと考えられる。

大寧府一所属府州不明の折衝府として羅氏が事げられているものであるが、懐州修武鯨の東南三八里に残る太寧城に比

(

定出来るとすれば、懐州の折衝府ということになる。

『括地志』や『元和士山』といった唐代編纂の地志に故城と記

されているものは、明らかに唐代に故域社が残存していたはずのものであるから、折衝府の多くはこれら故城祉を修築し

以上に城壁をもっと考えられる折衝府を列奉してきたが、

- 72ー

て再利用していたこと、すなわち折衝府は城壁を有するのがごく一般的であった可能性が極めて大であったことを示して

いると言えよう。そこでこの可能性を裏附けるためにも、確貫に城壁をもっ折衝府をいくつか示そう。

陪末の群雄高士達・蝿賢建徳集圏が越州長城府を攻撃した際のこととして、「(東海公高)機脱、兵を領して劫抄し、長城

(

)

府に至りて城中の兵の射る所と篤りて死す」とある。城中からの射撃で射殺されたのであるから、長城府という折衝府が

城壁で園撰されていること、また戦時に軍事要塞として機能していることが明確に剣るのである。太原府洞渦府は「検次

(

鯨域内に在り。周一百七十歩、贋(武の誤りであろう)徳五年に置く。後に麿す」と見える。城周が一七

O歩(約二六五米)

というのは勝城としてはあまりにも小さきに過ぎるから、この城周は検次豚域内の敷坊を一般坊塘よりも高く厚く強固に

構築した折衝府の占有匿を園緯した城壁に違いない。この事例は、既述の州豚城内に置かれたいくつかの折衝府の存在形

態を知る上で貴重である。同じく太原府の信憧府は「唐の府兵の居せし所也。周三里五十歩、豚の東一里に在り、徴する

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に基祉有り。

(

)

猶お在り。」とあることから、明初においても折衝府城の域社が残っていることが知られる。信憧府の場合、麻城の東一呈

元一統士山、奮経に云う、北斉の原仇府、大業三年に至りて援せられ、後に置き蹴業に改む。唐聖暦二年に慶せらる。遣社

という至近の地に置かれた城周三里五

O歩(拘

一七五八米)というかなり大規模な折衝府城ということになる。

川中心』には撫州繁卒豚(宋豚である〉に残る故城祉について

「又た古城と競す。或は嘗て折衝府帰りて、

巴陵府と稽すと謂

(侃〉

ぅ。城壁隠然として猶お存す。鼓角堆及び税務の遺祉存す。」と云い、撫州の巴陵府なる折衝府域社の存在を記しており、

また

築城し屯営し、

も故域社に闘する俸承であり、唐代の折衝府であると断定は出来ないが、唐代の折衝府が城壁をもつものであるとする後

い停えて、唐は府兵を置き、

『正徳頴州府志』巻一古蹟篠にも「東城・西城、倶に州北七十里の五樟村に在り。近きこと南城相い去ること三十里。相

)

迭に名づくと。」と見える。撫州と顕州の二例はあくまで

此に分成せしめ、

世に至るまでのごく

一般的な認識を示すものとして、重要な史料であると言えるであろう。

折衝府の園家施設警護

- 73ー

)

唱EA( 一帝陵と折衝府

(mm〉

に刻せられた「斉士員献陵造像銘」には造像者名として王保府、

府というともに京兆府所属の折衝府の武官名、

三原豚令・検校陵署令及び「陵疲二所宿衛人」たる呂村以下九ケ村の宿老

(ω〉

達等の名が見える。三原燃の東一五里にある高祖献陵と上記五府のいくつかはきわめて近い距離にある。既越のように、

貞親一一一一年(六三九)

頻陽府、

懐信府、

天費府、長豊

頻陽府は三原豚に東北郷する美原蘇の西南二里の頻陽故城に比定出来、また天費府は三原豚西北二五里の天費原乃至原上

(

)

の天費洞の地に比定出来る。他の三府も京兆府所属であり、恐らくは献陵に比較的近い地であったと考えられる。陵署令

(冗)

を兼ねる三原鯨令や献陵近漫諸村の宿衛人達とともに、献陵至近の地の折衝府武官名が見えることから、これら折衝府の

505

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506

設置は献陵警護を主要な任務としたものではないかと考えられるのである。同じく京兆府の九慨府も、醒泉鯨西北六

O里

の九嶋山に貞観一

O年(六三六〉から造営が始まった太宗昭陵に附設された折衝府である可能性が大であると言えよう。

(2)

離宮と折衝府

離宮と同名の折衝府もかなり見い出すことが出来る。京兆府の温湯府は昭麿豚の温泉宮(後の華清宮〉と関連があろう。

理山温泉が正式の離宮とされるのは貞槻一八年(六四四〉であるが、北周・陪代にすでに離宮に匹敵する施設を備えてい

(

η

)

(

ね)

た。京兆府の甘泉府は事鯨西南二二里に置かれた隔の甘泉宮と同名である。同州長春府は朝邑豚に置かれた北周以来の長

春宮と関連しよう。唐初武徳二年(六一九)には洛陽に擦る王世充に劃する戦略基地として長春宮には快東大行蓋が置か

(

)

れ、秦王世民(後の太宗〉が鎖するという要衝でもあった。同州輿徳府は鴻均蘇南三二里に置かれた輿徳宮と関係しよう。

(

)

すぐ南には滑水の重要渡津である興徳渡もある。快州上陽府は載州湖域燃の惰の上陽宮と関係しよう。湖城豚は快州と載

(

)

州の州境に位置する。上陽宮は貞貌初めに離宮として再整備され、威亨元年(六七O〉に鹿せられるまで存績した。映州

(

)

恒農府は、隔大業初めに快勝に置かれた弘農宮と関係がありそうである。

以上に離宮と折衝府の立地及び名稿の一致を示したが、折衝府武官が離宮の留守職等を兼務している事例が墓誌に見え

(

)

るから、離宮と同所に置かれた折衝府が離宮の日常的警護に嘗っていたことはまず間違いないと言ってよかろう。

- 74ー

(3)

閲津と折衝府

(乃)

河南府成泉府は氾水鯨東南二里に置かれていた同名の成泉闘と関係しよう。河南府韓韓府は繰氏鯨東南四六里に置かれ

(即)

た後漢以来の糧韓故聞と関係しよう。河南府函谷府は函谷闘と関係しよう。奮闘域は映州軍賓鯨南一

O里にあるから河南

(mU)

一里の新開城に置かれたと考えられる。北周期には逼洛防として強固に要塞化され北費の入

府外である。新安燃東(北)

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(

)

闘に備えた。汝州魯陽府は魯山懸西南一九里にある魯陽聞と同所に置かれた折衝府であろう。魯陽闘も北周が封北賓のた

(

めに設けたもので、三鶏鎮とも呼ばれる軍鎮でもあった。河南府輩洛府は輩鯨にある洛水の渡津である輩洛渡と関係があ

(

ろう。河中府大腸府は谷氏『校補』に指摘するように、南郡の快州に所属すべき折衝府である。快州郭下快勝東北三里に

架けられた黄河三大渡津橋の一である太陽橋、及び牒西北四里に太陽故闘がある。聞は古来の渡津の地茅津に北周大象元

)

年(五七九〉に設置されたもの、橋梁は貞観一一年

2ハ三七〉に架橋されたものである。闘が東北三里、橋梁が西北四里と

方向が異なるが、東

・西はいずれかが誤りで、同所でなければならないのは嘗然である。黄河浮橋という要衝であるが故

に闘が置かれ、そして折衝府もまた必然的に置かれることになったと言える。河中府永和府の所属府州は隈州の誤りでは

ないかと考えられる。すなわち隈州永和燃の西、黄河に臨んで中央刑部司門曹が直接管理する下関の一永和闘が置かれて

(

いるからである。永和聞は黄河の渡津でもあり、北費期の永和鎮城を繕承したものである。緯州正卒府は郭下正卒懸と名

稽が一致するが、照西三

O里に北膏期に置かれた故武卒閥、あるいは鯨南七里の故家雀開とむしろ関係がありそうであ

(

)る。緯州太卒府は太卒燃東北二七里の太卒故開城と関係があろう。この開城は北説太武一帝期に設置されたもので、そもそ

(∞∞)

も豚名も閲名に因ったものである。太原府白馬府は孟豚東北六里の山上に北貌期に置かれた白馬開と関係するようである

(

)

)

が、後世に白馬麿府と俸えられる地が陽曲鯨西北五

O里に残っており、所在地は大幅にずれることになる。代州雁門府は

(mm〉

郭下雁門鯨西北三

O里の西陸閥、即ち雁門闘の地に比定出来よう。輿州輿城府は郭下順政勝南五里の輿城闘の地に比定出

(

)

来よう。輿域闘は中央刑部司門曹直轄の中闘の一である。津州長卒府は高卒牒北五一里にある長卒聞に置かれたものであ

(

ろう。蘭州金城府は郭下五泉豚のすぐ西の黄河渡津である金城津と関係しよう。北周武一一帝期に正規の渡津とされ、惰開皇

(

)

一八年(五九八〉には闘も置かれ、要衝としての重要度はより高くなった。河南府釈城府については先に済源鯨東南一一一一里

の故膜域に比定したが、故関とも関係しそうである。済源鯨西一一里の太行山服中の八陛(陸路〉における第一陸に北斉

(間四〉

河清二年(五六三)に頼関城が築かれており、東西劃立期の重要な要衝となっている。

507

-75ー

親城府はむしろこの故聞に併置さ

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508

かく見てくると、所属府州不明の高陵府も壇州臨黄豚東南三五里にある黄河渡津で

(mm)

闘でもある古高陵津、間ち唐代の虚津闘の地に比定することが出来よう。

れていたと考えるべきかも知れない。

以上の外、交通・軍事上の要衝に置かれたと見なし得る折衝府がある。

京兆府武功鯨の東三

O里に望苑騨が置かれてい

(W)

る。長安から西へ一一

O里の主要街道上である。

京兆府望苑府はこの轄に併置されていたものであろう。函谷奮闘以西の

一五里は「絶岸壁立し、岸上の柏林は谷中に蔭し、殆ど日を見ず」という陸路が績き、古来、桃林塞とも呼ばれる難所で

(mm)

あった。河南府柏林府と快州桃林府はこの地に置かれたと考えられ、既述の河南府函谷府とも相い連繋する要害の地であ

(

)

る。快州底柱府は瑛石鯨東北五

O里の黄河漕運での最大の難所である底柱山、所謂三門峡の河岸に置かれていたことはま

ず間違いなかろう。河中府石門府は解牒南を東西に走る中篠山脈を南北に抜ける臨路である白陸嶺の河東側入口に嘗る石

(川)

門の地に比定出来る。

以上に見てきた中で、故閥、故津とあるものは、障唐期には鹿せられていたものであろうが、分裂期に比して重要度は

- 76ー

いささか減じたとは云え、交通・軍事上の要衝である黙は襲りはないはずで、そのような地であるが放にこそ折衝府が置

かれていたと考えられるのである。

(4)

渠水と折衝府

(

京兆府白渠府は関内道清北の重要渠水である三白渠の流域、恐らくは主要な斗門のある地に置かれたと考えられる。華

(

)

州羅文府は郷鯨東南一五里の羅文渠と関係しよう。この地は五代初期に羅文塞という要塞が設置され、後梁とE

日との攻防

(山)

の場となっている。重要渠水の管理は中央都水監が、その他は府州際が捨嘗し、近謹の農民が管理維持のための努役に動

敦埠出土の開元二五年

「水部式」

残巻に詳細に見え、

第三九J四

O行に「揚州揚子津の斗門二所

員されていたことは

は、宜しく管する所の三府の兵及び軽疾内に於て、量り差して分番守首せしめ、須うるに障いて開閉すベし」とあるよう

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に、揚州三折衝府の府兵が取水口である斗門の開聞を行うことを規定している。斗門附近を府兵が常時巡回して不法取水

等に劃する監視がなされていたことが剣ろう。

歴史的地理的にみた折衝府

前節ではもっぱら地理的立地の覗貼から折衝府の設置地黙を見た。本節ではその貼を踏まえつつ、北親分裂以降の東西

説、そして北周・北費の華北における巌しい劃立抗争、惰による南北の統て惰末の動観を鰹て、唐が群雄勢力を卒定し

て再統一・を達成するまでの約八

0年聞を逼時的にたどりながら、唐の折衝府の設置地貼がどのような意味をもつかを検討

したい。そのような検討により、唐代府兵制のソリγドな制度史面の研究ではほとんど見落されていた、新たな側面が浮

び上ってくるであろう。

- 77ー

まず東西貌及び北周・北斉の劃立抗争期に表われる折衝府名と同一名の戦略要地を拾い出してみよう(年衣は西貌・北

周の年強で示す)。大統四年ハ五三八)、東貌の太師高歓は晋陽を出撃して洛陽を攻撃し、西貌の長孫子彦が守備する金塘城

(

)

を攻陥した。金塘城は曹説明帝期に漢貌洛陽城西北隅の外側に増築された一種の要塞城で、東西貌の時期にもまさしく軍

事要塞として用いられていることが剣るとともに、名稽上の一致や域社であることなどからも、唐代の河南府金靖府とい

う折衝府はこの金塘域社に置かれたことは確賓である。麿一帝元年(五五二)、北斉文宣帝は自ら離石に赴き、長城四

OO徐

(

)

里の建設と三六成の設営を陣頭指揮している。漠北の突蕨及び柔然に糾問する北港防備の強化である。離石の地は北貌期に

(

)

離石鎮とされ、北周の北斉併合後には石州治所となり、惰唐に縫承されている。北漫防備上の一援貼であることから、石

州郭下離石豚域内に置かれたのが石州離石府であろう。北斉天保九年〈五五八〉、名賂餅律光は北周が河東南部に設けた緯

(川)

川・白馬・治交・翼城の四民を奪取して

いる。緯州の緯川府、翼城府はこの鎮民社に置かれたと考えられよう。

保定三年

(五六一二〉一二月、北斉側は刷所律光が歩騎二高を率いて太行八陸の一である頼関の西に動掌城を築き、さらには長城二

OO里

509

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510

(

)

と一一一成を築いている。西側に針する防備強化であり、

長城は所謂内地長城であることは言うまでもない。翌保定四年に

(

)

は、北周の楊割は駅闘を突破したものの東に深入りしすぎて孤立し、北斉婁叡に撃破され捕虜となっている。前節でふれ

たように、頼関の地に頼城府が置かれることになる。翌五年十月、やはり既述の函谷開城が北周によって逼洛防として要

(川〉

塞機能がより一層強化され、中州刺史として賀若敦が重兵をもって鎖している。このような経緯からも、河南府函谷府は

快州霊費豚の奮闘ではなく、河南府新安蘇の新聞に併置されたと考えてよい。天和元年(五六六)七月、北周は長安西面

(

)

に武功

・廊

・斜谷

・留谷・津坑等の諸城を築き軍隊を駐屯させている。吐谷揮に劃する封策、あるいは一二年前における

後梁の人士一

O徐高人の闘中逗徒後の治安劃策であろう。ここに見える留谷城こそは鳳朔府留谷府が置かれることになる

城塞に違いない。また廊城も岐州(鳳朔府〉郎ロ巴府とされること、全く同様である。

無論、

これら諸城が北周期において

すでに府兵の駐屯する軍府であ司た可能性もある。

北周の斉公字文憲、柱園李穆は洛陽西面の

(

)

宜陽に進出し、北斉の糧道を遮断するために宜陽域を包圏するとともに、崇徳等玉城塞を築いている。この宜陽域は北貌

期の一合鳩祉で、北周は攻陥後に重兵を配して劃北買のための重要援黙とした。唐初に牒西の惰離宮名に因んで一隅昌豚と

(

)

改稿された。宜陽の地は東西雨勢力にとってともにきわめて重要な戦略的要衝で、この後も繰り返しこの地をめぐる攻防

天和四年(五六九)九月、

- 78ー

印ち一踊昌鯨域内に置かれたことはまず確貰である。天和六年(五七一〉二

(

)

月、北買の餅律光は西境に嘗る扮北の地に卒龍・衛壁・統戎等一三銭成を築き、係争の地での防衛強化を園っている。同

年五月、北周の耳目公字文護の命をうけた中外府参軍郭祭は慈州士口昌豚の西、挑秦期に築かれた挑裏城の南、定陽域の西に

(

)

城塞を築き、北宵の攻撃を退けて

いる。

戦が展開されている。河南府宜陽府は宜陽城、

これらのいずれかが慈州吉昌府が置かれることになる城塞であろう。

一O月に始まる北周の北斉卒定戦においては、河東の北膏側城塞が次々に攻陥されていくが、それら城塞中の卒

(

)

陽城や永安城は、地理的に亙目州卒陽府や河中府永安府とほぼ完全に一致する。

建徳五年

(五七六)

折衝府の立地が北周と北斉の巌しい劉立関係を反映したものであることを一万す事例は『逼典』にも見えている。河南府

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伊陽牒僚には「後周、兵を此に置き膏に備う」〈巻一七七州都七〉、永寧牒傑には「後周の黄直・同軌・永昌三城、以て買に

傭うなり」〈同前〉、王屋懸僚には「今の鯨東二十里の費子嶺、周費分境の慮」(同前〉などと見え、河南府伊陽府、同軌

府、王屋府の所在地とほぼ完全に重なることが剣るであろう。また緯州垣豚僚に「古泉落城有り、西親、此に都郡を置き

以て東親に備う」

(巻一七九州郡九)一と見える古域社は緯州垣城府に比定出来よう。

統一惰の時期になると、突販の南侵に備えるために築かれた城塞で折衝府と関連するものが見えるようになる。開皇一

九年(五九九)、東突肢の内紛で惰に降った啓民可汗を敵劃する達頭可汗の攻撃から掩護するために、雲州雲中牒の恒安鎮

(

に一曹の援軍を迭り込んでいる。さらに翌年にも恒安鎖附近に金河・定裏二城を築き、啓民可汗のために防備強化を園つ

(

たが、翌仁寄元年(六O一)には達頭可汗によって恒安鎮を攻陥されている。武徳三年(六二

O〉、突販によって惰王に擁

ハ川〉

立された楊正道は、亡命漢人一高人とともにこの定裏域に擦っている。

衣に惰末の大動範期から唐の創業期に至る歴史展開の中で、折衝府と関連する地を拾い出してみよう。義寧元年

2ハ一

七〉七月、高租李淵集圏が太原から扮水沿いに河東を南下する途次、音州の震邑に擦る惰勝宋老生に進撃を阻まれ、やむ

- 79ー

なく覆邑西北五

O徐里の貰胡畳で足止めを徐儀なくされたことは前節でも言及した。ここで霊山紳のお告げで聞道を得て

危機を打開したことは有名な創業期のエピソードであるが、買胡壁の位置は扮水河谷の陸路である雀鼠谷の南口に嘗る。

(

)

扮州買胡府はこの買胡畳という壁城に置かれたことはまず間違いなかろう。武徳元年

2ハ一八〉正月には、洛陽の王世充

(

に劃して東方からの攻勢を強める李密は、既越の漢貌洛陽城西北隅外の金塘城を占援している。河南府金靖府が置かれた

と考えられる軍事要塞である。同年四月、江都で煽帝を棋害した字文化及は北上して長安・洛陽を伺うが、輩洛に援った

(

)

李密によって西準を阻止されている。輩洛は洛水が輩豚で黄河に合流する地貼で、既述のように渡津の地でもあり、戦時

にあっては嘗然のことながら戦略的要衝となることはこの事例が示す通りである。河南府輩洛府の歴史的、地理的立地は

自ずと明らかであろう。同年九月、臨西方面から開中への進出を狙う醇奉はその子醇仁果を滑北にまで侵攻させるが、邪

511

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512

(

州の宜旅川で唐側の反撃により大敗している。邪州宜椋府は宜緑豚域内に置かれていたか、あるいは宜乱脈川沿いに置かれ

ていたか、いずれにせよ戦略的要衝であることに獲りはない。同年一一一月、

一度は唐側に蹄順した李密が華州で再び離叛

(川)

「桃林豚を破り、其の兵糧を牧め、北走して河を渡るに若かず」という戦術をとるが、既述の桃林塞のある地

が戦略的要衝としてここに登場する。映州桃林府が置かれたと考えられる地である。武徳二年(六

一九)二月には唐は王世

(

)

(

充が築いた

「河内壁褒三十一所を攻め下」し、同三年四月には井州太原府附近に劉武周が築いた「城壁百絵所を下」し、

(

)

同年八月には王世充が由山上に築いた

「畳緊二十徐を降」して

いる。

同年十月には王世充側の陽城鯨令が

「諸壁を帥いて

(

)

降」り、十一月には裏陽方面でも「其の城柵十四を下」している。ここで注目すべきは河東や河南方面で多数の城塞が攻

取されている黙である。この聞の武徳二年七月には、

唐は初めて長安及びその周遊に十二軍を置き、関内の諸府が各軍に

(

統率されることになる。これがその後に整備される府兵制の基礎となるのであるが、関内道から河東道や河南道、さらに

を謀る際、

は全園的に順次増設されていく折衝府の多くは、再統一の過程で群雄勢力から奪取した戦略的要衝の城塞が再利用された

と考えてよかろう。武徳二年十月、河東において劉武周の攻勢が強まり、

- 80ー

「耳目州以東(北の誤りか)の城鎮は倶に渡」し、

(

)

抗し切れなくなアた唐側の菅州行軍縮管委寂は蒲州等二州の民を「城壁に勤入せしめ、其の積衰を焚く」という堅壁清野

策を取るが、大敗してしまう。ここにも河東方面の多数の城鎖、城壁の存在が見えている。武徳三年十一月、突厩及び夏

(

)

州に擦る梁師都と同盟関係にあった雲州総管郭子和は、盟を破って梁師都から寧朔城を奪取し、同九年三月には梁師都が

(

)

南侵して唐から静難鎖を奪取している。寧朔城は夏州寧朔牒城で、寧朔府は懸域内に置かれていたと見てよかろう。

また

静難鎮の正確な場所は不明ながら、夏州の南であれば寧州静難府が置かれた城鋸に比定出来よう。

三Eロロ

唐代府兵制を支えた全園六百数十府の折衝府がどのような地に置かれていたかを歴史的、地理的に考察してきた。折衝

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府が州照城郭内に置かれている事例を含めて、その多くは固有の城壁をもっ軍事基地としての構造をもつこと、

つまりは

事責上の軍鎖と言ってよいものであることがほぼ確認出来た。と言うことは、折衝府が車に農民を府兵として徴兵し軍事

訓練を施すといった機関に止まるものではなかったことを意味しよう。本稿でミクロ的に検討した折衝府の立地を以下に

まとめておこう。

折衝府は唐朝の園家的重要施設を保全するべき役割の一端を擦っていたと言える。折衝府が帯陵や離宮と同所ないし至

近の地に置かれている事例を示したが、これは決して偶然ではない。慶域な陵匿の立入り禁止地匿の警備巡回といった日

常的な警護任務、皇帝が滞在しない期聞の離宮のやはり日常的な警備管理任務を携わされていたのが、これら近郊する折

衝府所属の府兵であったと考えられるからである。折衝府武官が離宮の留守となっている事例を示したが、武官が単身で

そのような肩書を帯して任務に嘗っていたとはとうてい考え難く、必ずやしかるべき人数の府兵を帯同して任務を途行し

- 81ー

ていたはずである。帯陵に附設されたとおぼしき折衝府として、高祖献陵の頻陽府や天費府等、太宗昭陵の九峻府だけが

見え、高宗乾陵以後の一帝陵に近鄭する府名が見い出せないのは、何ら疑問とするには足らない。書陵として乾陵が造営さ

れる頃には、府兵として徴兵すべき軍府州の農民の兵役忌避による逃亡がすでに額在化し始める時期であり、一帝一陵護持の

ためだけに折衝府を新設出来るような情勢にはもはやなかったからである。このことは離宮警護のために附設された折衝

府の事例がより明確に示している。離宮と関係すると見なした折衝府の事例の全ては、惰代以来の離宮や唐初に再置ない

七世紀後牢以降に新置される離宮名と関係するものが見い出せないから

し新置された離宮に関係するものばかりであり、

である。

また白渠や羅文渠といった京畿の主要な渠水に沿った地黙にも折衝府が置かれていることも明らかになった。

さらに惰末の動観期とは言え、規模最大かつ最重要の中継倉である洛口倉域内に二府が進駐して防禦強化が園られてい

ることが確認出来た。卒時にあっても重要倉が府兵によって日常的に警備されていたことは、例えば京兆府宣化府折衝都

513

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514

尉が東都合嘉倉使という使職を帯びていたこと、

(

推察出来る。以上のように、帝陵、離宮、渠水、倉庫といアた皇一一帝ないし園家の重要施設に折衝府が附設される形で置か

れていたことは、本稿で示すことが出来た事例以外にも少なからず存在していたはずである。

幽州開一隅府別将が専知倉庫(恐らくは幽州の倉〉を兼務していたことから

次に開城や渡津、あるいはそれらとも重なる交通上、軍事上の圏内要衝に折衝府が附設されていることが認められた。

開津には閥令以下、津吏に至る官吏が置かれているが、彼等の職掌は往来者の過所を検問する等の文書庭理が主たるもの

犯罪者や不法通過者の逼捕、

であり、

その他日常的な警備のための兵力が

一定数配備されていたと嘗然考えねばならな

ぃ。前掲の敦埋出土「水部式」残巻に浮橋一般の管理維持に用いるべき労力として、「皆な先ず嘗津の水夫及び配する所

の兵を役す。若し足らざれば、兼ねて銀兵及び橋側の州鯨の人夫を以て充つ」(第二二五J一四O行〉と規定し、黄河上瀞

「兵を着め防守せしめ、北岸に停泊せしむることなから

しむ

(

)

(第五四J五五行)と定めており、ここに見える

の渡津かつ闘である舎寧聞及びその他の渡津について、

し。自品開の縁河の渡るに堪う慮は、所在の州軍に委ねて巌に捉揚を加う」

「所配兵」、「鎮兵」、「所在州軍」は閥所及び渡津に兵力を配備することを制度上でも明示しており、

」の兵力とは折衝

- 82ー

府所属の府兵以外にはあり得ない。さらには府兵を統率する折衝府武官が黄河三大浮橋の一で開も置かれていた河陽橋に

(

駐在していた事例が石刻史料で確認出来る。重要な関所や渡津と名稿が一致し、

あるいは至近の地に比定し得る折衝府

は、関所や渡津の存在と無関係であるとは考えられない。南京を取り圏む地域の闘所や渡津に附設されたと見なし得る折

衝府は言うまでもなく、

その他の所在不明の折衝府にあ

っても、開所や渡津といった交通、軍事上の要衝には高密度に設

置されていたと推測される。必ずしも開所や渡津の地ではなくとも、

しかるべき交通、軍事上の重要地貼にも折衝府が置

かれていたことが確認出来ることも、唐朝の圏内治安針策という政治的意固に基づくものと言えよう。

府兵制の根幹機能を支えるとされる折衝府は、繰り返して言うことになるが、農民を府兵として徴兵し訓練するだけの

機関ではなか?に。圏内の治安をいかに確保するかという創業期の苦難の経験から、それぞれしかるべき地黙に置かれる

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べくして順次に増設されてい司たと考えられる。確かに統一惰の時期、創業期の唐においては、漠北遊牧勢力に劃する漫

防の地に置かれた折衝府もいくつか見い出すことは出来るが、これら外敵に射する園防上の顧慮に基づく折衝府の設置よ

りも、むしろ匪倒的に圏内に目を向けた折衝府の設置が多いことに注目せねばならない。折衝府の配置がもっぱら圏内向

けの戦略思想に基づくものであったことは、北貌の分裂から唐の成立に至る歴史展開を跡附けることによって明確となっ

たはずである。すなわち、東西柏田への分裂から北周・北宵併立に至る時期、元は北貌という同根であるが故に正統性をめ

ぐる激烈な覇権争いが華北で間断なく繰り庚げられ、雨者によって圏一境線附近や圏内要衝に敷多くの城塞・軍墨が築かれ

た。これら城塞・軍盈は雨者の封時する地理的構園からして、そのほとんどは開中、河東、河南の地に築かれたのは嘗然

であった。北周が北買を併合して華北を統合すると、重要援貼を除いて、それらの多くは慶せられ駐屯兵力も撤牧された

であろうが、鹿せられたものは故城祉や故曇として残存したままであったはずである。惰の統一期を経て、惰末の全園的

- 83ー

叛観によって多くの群雄勢力が各地に割接する混凱分裂の情勢は史上空前のものであった。全圏各地の群雄勢力はかつて

の故域社や故量を再建修築し、あるいは新たに構築して地域支配の援黙とするとともに、それらをめぐる攻防戦が激しく

展開された。この時期に再築ないし新築された城塞や軍塾がおびただしい数にのぼったことは、唐が再統一の過程で「保

豪三十一所」、

「城壁石儀所」、

「保褒二十絵」、

「城柵十四」を順次奪取するという史料上にあらわれたごく限られた事例

だけからも十分にうなずけよう。惰末唐初の史料上に表われるこれら攻防劃象となった城塞や軍基の類いは、もつばら唐

側の立場から記録として残ったものであるために地域的にはかなり限られたものになっているが、全園的に似たような情

勢であったであろう。とは言え、開中に擦る創業期の唐にとっては、河東及び河南方面の敵劃勢力との戦いが最も蟻烈で

あったから、これら地域の城塞や軍基の戦略的重要性は奪取後においても、その後の再統一戦略上においても、十二分に

顧慮されていたはずである。そしてこれら城塞や軍基が折衝府として順次再編されていくことになる。

515

折衝府の所在をこのような歴史的展開のなかで検討することによって、なぜかくも偏った分布となっているかという間

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題については自ずと解答が得られるであろう。そして折衝府が園家の主要施設の警護、

さらにはもっぱら圏内要衝におけ

る治安維持を日常的に措うべく設置された軍事基地としての役割を嘗初より課せられたものであるからには、農民を府兵

として黙筒し、農閑期に戦闘訓練を施し、京師及び進境へ衛士として上番せしめるだけの機能をもつものでないことも自

明である。府兵が上番勤務の外に所属折衝府において

日常的軍務に着いていたとすれば、上番外にあってはご般の農民

(

)

と同様に田野に於て耕作に従事して居た」とはとうてい言えない激務であり、成了時期のほぼ全期聞を兵役義務によって

拘束されていたことになる。このような軍府州での府兵に徴護せられた農民の過重な負措は、従来の府兵制に閲する制度

史的研究ではほとんど言及されてこなかった。

制度上

に表われる府兵の京師への上番距離等によって生じる負携の不均衡

まず折衝府の偏在という既成事寅があって、それらを包括する形での制度化が準めら

といった様々な議論のある問題も、

れる過程で生じたある意味では必然的なひずみと考えるべきものであろう。

西現に始まる前期府兵制、開皇十年の統一惰

による再編せられた後期府兵制という制度史上の流れのなかで、

唐の府兵制は言うまでもなく後期府兵制を直接に縫承し

たものではある。しかし、それに加えて惰末の大動凱を経て唐の再統一に至る聞の、唐創業期における苦難の軍事的経験

が唐の府兵制には色濃く投影されており、内凱やそれによって引き起される分裂朕態を抑止せんとするもっぱら圏内に目

- 84ー

を向けた軍事戦略に基づくものであったがために、

折衝府の偏置もいわば必然的な歴史的産物であったと言えよう。

註(

1

)

「唐代府兵制の一考察|折衝府武官織の分析を通して|」

(一九九五『中圏中世史研究績編』京都大暴風平術出版

曾〉。

(

2

)

李方氏は資枠誠氏が本墓誌を元域府と誤讃したものをその

まま孫引きしている。

ハ3〉河南府済源燃にも同名府がある。

(4〉

(5〉

(

6

)

(7〉

(8〉

(9〉

絡州にも同名府がある。

京兆府所属の義塑府の誤記である可能性がある。

岐州鳳開閉府所属の部士口府の誤記である可能性がある。

陪の激州は唐の奈州である。

李方氏は雌見城府と謀議している。

扮州所属の六壁府と同一府であろう。

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(叩〉『元和郡勝圃士山』巻二二太原府孟豚傑「勝城、本名原仇

域。」

(江)太原府所属の豊川府と同一府である可能性がある。

(ロ〉相州所属の臨樟府の誤記である可能性がある。

(日)『長安志』巻七「城内一百八坊。章述記日、其中有折衝府

四。」同巻七・八・十の各坊係。

(U〉

'『元和士山』巻二ハ・三九・四

O。同巻四

02雷同昌豚、本漢

龍勅豚。(中略〉惰大業十一年、於域内置龍勤府。武徳二

年、改置寄昌。」

(日)『長安志』巻一四輿卒豚篠「楓里故城、即犬郎城、在豚東

南十里、周十二塁、崇二丈五尺、耳百太康中、始卒郡治也。」

(日〉『元和士山』巻二都豚僚、『長安士山』巻一五同僚。

(口〉『史記』巻五秦本紀腐共公一一一年保正義所引『括地士山』、

『元和士山』巻二美原田肺係。

(鴎〉『農舎要』巻七

O州豚改置上「雲陽豚、武徳元年、分雲陽

師献策石門勝。三年、何置東泉州、移雲陽豚於豚南十五里水衡

滅。貞親元年、厳泉州、改石門豚震雲陽。」

〈川口〉『逼鑑地理逼緯』巻四二所引『括地士山』、『元和士山』巻二

華州鄭豚係。

(幼〉『史記』各五七絡侯周勃世家正義所引『括地志』。谷氏

『校補』では『新士山』に懐徳府を華州所属とするのは誤り

で、同州所属とすべきであるとしている。

(mC

『元和士山』巻二鳳朔府貿難豚係、『太卒嚢字記』径三

O同

候。

(勾)『奮唐書』巻三八地理志隠州呉山懸僚、

517

『嚢字記』巻三

O

同僚。

(お〉『、通典』巻一七三州郡三寧州影原勝候、

同僚。

(

U

A

〉『笈字記』巻三四寧州裏楽勝候。

(お)『遁典』径一七三州郡三坊州中部勝候、

候。

(叩山)『元和士山』巻三延州延畠豚僚。

(幻)同右巻四震州鳴沙豚僚、『嚢字記』巻三六同僚。

(銘)『賢治遁鑑』巻一八三大業十二年七月候。

(却〉同右径一八四義寧元年九月篠。

(ぬ)『遁典』巻一七七州郡七河南府繰氏懸僚、『元和士山』径五

同僚。

(幻〉『賓字記』巻五ニ孟州済源豚保。

(幻)『史記』巻六九蘇秦列俸正義

・同巻九呂太后本紀正義所引

『括地士官、『嚢字記』巻五二孟州済源豚候。

(お〉『嚢字記』各五二孟州済源勝候。

(引剖)『史記』巻四三越世家組衰俊正義所引『括地志』C

(お〉同右巻四周本紀裏王十六年保正義・同巻七六卒原君列俸正

義所引『括地志』、『嚢字記』巻五二河南府温豚保。

〈お〉『元和志』巻五河南府新安豚僚、『遁鑑』各一八八武徳一一一

年四月・七月係。慈潤府は『新士山』に見えない所属府州不明

の折衝府で、貞翻一五年波の杜築基誌に彼の惰代での緯褐官

として「慈潤府司馬」と見えるものである。本墓誌の拓本定

員(『北京圏書館蔵中園歴代石刻拓本陸編』日

lm)でも明

らかに慈潤と讃めるが、慈澗の誤刻である可能性が大であ

『嚢字記』容=一四

『元和士山』径三同

- 85ー

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518

スV

(幻〉『元和士山』各八郷州新鄭豚係。

〈お)『水経注』巻四河水篇四「河水叉南、運陶城西。(中略)

然陶城在蒲坂城北、域問舜所都也。」、

『元和士山』巻一二河中

府河東照係。

(鈎〉『元和士山』巻一二河中府虞郷豚僚、『笈字記』巻四六同

係。

(州制〉『元和士山』省一二河中府臨耳目鯨僚、『安字記』各四六同

血回目。

(4〉『元和士山』巻一二絡州開喜豚係。『嚢字記』巻四七曲沃豚

僚では「桐郷城在曲沃豚西南」と作る。

(必)『史記』径一

O文脅本紀元年篠正義

・同巻四九外戚世家正

義所引『括地士山』。

(日制)向右各六秦始皇本紀九年保正義所引『括地士山』、『元和志』

各六侠州垣豚係。垣燃は貞元三年に河東道絡州から河南道侠

州に移管された。

〈HH

〉前註(円相)『史記』同僚正義所引『括地志』「蒲邑故城在濃

州緑川豚北四十五星。」谷氏『校補』では「(蒲邑)府属絡

州、或勝地調理析之故」と地理的ズレを読明されるが、隠州隠

川豚の北であれば、絡州域とはかなり距離閏に離れすぎの嫌

いがある。

〈必〉『太卒御覧』巻一九三居底部一二城下所引『郡園士山』。

(必)『元和志』袋一三扮州孝義豚係。

(円引〉同右各一一一一扮州鐙石燃係、『新志』巻三九同僚、

業起居注』巻三。

『大唐創

(組閣)『御賢』巻一七六居庭部六基下所引『郡園士山』。

(品目〉『元和志』径一四雲州僚、『笈字記』巻四九同僚、『遁鑑』

巻一九二貞観元年五月係。

(印)『元和士山』巻

一五那州青山勝候、『笈字記』各五九同僚。

(日〉『元和志』巻一六相州鄭豚僚、『笈字記』径五五同僚。

(臼)

『奮士山』袋三九江陵府夷陵豚係、『新士山』単位四

O同僚。

(臼)『惰書』程四八楊素停、『通鑑』巻一七七開皇九年正月

係。

(臼)長安二年波「勝州都督王佐官話誌」(『芭洛三編』等〉。

(日〉『元和士山』巻三九挑州臨濠鯨係。

(日山)同右巻三九眠州和政勝候。

(貯)

『史記』各六秦始皇本紀二六年保正義所引『括地志』。賀

次君輯校『括地志輯校』(一九八O

中華書局)二二回頁で

は「芳州、扶〔州〕、松府」と州字を補い、芳州、扶州、松

州の三州と讃んでいるが、全くの謀議である。

〈鎚)『元和士山』巻四

O涼州姑戚豚係、『新志』巻四

O同僚。

(臼)『笈字記』倉一一一九蕎州安塑豚僚。

(印)『元和志』巻二五潤州金壇豚僚、『新士山』巻四一同僚、

『笈{テ記』巻八九同僚。

(臼〉『通典』巻一七六州郡六彰州導江豚僚、『元和志』各三一

同僚、『奮士山』巻四一同僚。

(位)『嚢{予記』径五三懐州修武豚保。

(臼)『通鑑』径一八三大業

一二年二一月僚胡注所引『革命記』。

(臼〉『永祭大奥』巻五二

O四・二ハ葉表。

〈前山)同右各五二

O四・二ハ葉裏。北斉とあるのは北周の誤りで

- 86ー

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あろう。信偉府は『新志』では信重府に作る。この史料はま

た原仇府、館業府、信憧(童〉府と折衝府名の嬰濯を示してく

れる。

(前)同右各八

O九二・二二葉表所引。張園栓『中園古方士山考』

五六四頁(一九六二中華書局上海編輯所)に援れば、この

『臨川士山』は南宋期の編纂である。『新士山』巻四一撫州僚で

は折衝府が置かれたことは記していない。

(

U

V

天一間蕨明代地方志選刊第二四加。『新士山』巻三八頴州保

では折衝府が置かれたことは記していない。

〈ω〉『金石掌編補遺』巻一、『開中金石文{圭仔逸考』巻七・三

原蘇係。

(印〉『元和士山』巻一・三原勝候、『長安士山』巻二

O同僚。但し

後者は「東十八塁」に作る。

(均〉『元和志』巻一・三原燃係、『長安士山』巻二

O同僚。但し

後者は「二十里」に作る。成亨四年波の朱逮墓誌に「三原勝

。天斉府左果毅」と天湾府の所在蘇を明記している(『北京圏

書館蔵中園歴代石刻拓本産編』日

l川等)。

(冗)奉陵戸の具僅的あり援については、拙稿「唐代京兆府の戸

ロ推移」〈『唐代地域社舎史研究』一九九七同朋合出版)

参照。

(η〉『長安士山』巻一五臨漬鯨係、『新士官舎三七昭感懸燦。

(乃〉『元和志』巻二京兆府都豚僚。

(九)同右巻二同州朝邑豚係、

『新志』巻三七同僚、

一八七武徳二年正月俊。

(花)『元和士山』各二同州市閥均鯨僚、

519

『新士山』各三七同僚、

『逼鑑』巻『大

唐六典』巻六刑部司門曹傑。

(苅〉『新士山』巻三八銭州湖城豚候。

(作〉『階書』巻三

O地理志中河南郡侠豚僚、

大業九年七月係。

(刊叩)前詮〈1〉拙稿参照。

(乃)『元和士山』巻五河南府氾水鯨僚、『奮士山』巻三八孟州氾水

豚燦。後者では「成果府在豚北」とあり、位置がややずれ

る。

〈加)『元和士山』巻五河南府繰氏蘇僚、『新士山』巻三八同僚。

(飢〉『元和士山』巻五河南府新安勝候、同巻六侠州鐙賓勝候。

(位〉『逼典』巻一七七州郡七河南府新安勝候「豚東北一塁有漢

故函谷関。(中略〉後周改故函谷開城潟通洛防、以備費。」

(回〉『遁典』巻一七七州郡七汝州魯山鯨僚、『元和士山』径六汝

州魯山鯨係。

(山田〉『嚢字記』巻五河南府翠勝候。E日代の京相藩の言を引用し

ているが、後述するように、唐初の群雄攻防地として見える

から、唐代にも渡津であったことが知られる。

(部)『元和士山』各六侠州侠豚係、『新士山』巻三八同僚。

(部〉『大唐六典』巻六刑部司門曹僚。永和関の所在は延州であ

るが、制到岸が隈州永和蘇である。

(幻)『通典』巻一七七州都七絡州正卒回開係、『元和士山』径二一

同僚。

〈∞∞)『元和士山』巻一二絡州太卒豚僚、『実字記』巻四七同僚。

『新志』巻三九同僚では「有太卒閥、貞観七年置。」として

いる。だとすれば故閥ではないことになる。

- 87-

『通鑑』巻一八二

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520

(問)『元和志』巻一三太原府孟鯨係。

(卯)『永雄京大瓜ハ』各五二

O四太原府六古蹟傑「白馬鹿府、在陽

曲豚西北五十里、白馬掌府兵之地。按奮経云、陪書謂之故

府、則唐室巳慶。」

(mu)

殿耕望『唐代交通図考』第五巻「河東河北区」一三四九J

五O頁(一九八六中央研究院歴史語言研究所)参照。

〈幻〉『元和士ル』巻二二輿州順政豚係、『大唐六奥』巻六刑部司

門酋自候。

(幻〉『元和士山』巻一五津州高卒燃係。

(川出〉同右各三九蘭州五泉豚僚、『笈{子記』径一五一同僚。

(MN)

『通地ハ』得一七一州郡一序・北斉係、『元和志』巻二ハ懐

州河内豚牌師、『笈字記』巻五二孟州済源豚牌問。

(Mm)

『元和士山』巻一六澄州臨責豚僚、『笈字記』各五七温州観

城豚係。

(巾引〉殿氏前掲書第二各

「河陶磁西区」三七四頁参照。

(Mm

〉『元和士山』巻六侠州簸賓豚係。

(

ω

)

同右各六険州侠石勝候。

(川)同右各一一一河中府解豚傑。

(川〉同右各二京兆府淫陽豚牌師、『長安志』悠一七淫陽豚・高陵

前柿僚、『長安±山岡』巻下

「淫渠総園」。前註(九〉拙稿参照。

(川〉『新士山』径三九華州郷照僚に「皆関元四年、詔侠州刺史菱

師度疏故渠、叉立隠以防水害。」とあるが、故渠とあるから

唐初に渠水として機能していた可能性は少なくない。

(川)『嘗五代史』巻二三劉都俸「(貞明六年〉其年九月、

E

日終

李嗣昭率師来援、戦於(同州〉城下、王師不利、敗丘一走河

南、橋梁陥、溺死者甚衆、都以徐衆退保華州羅文案。」『通

鐙』巻二七一後梁貞明六年九月篠ほぼ同文。

(山)『通鑑』倉一五八梁大同四年八月候。

(川〉同右径一六回梁承聖元年十月候。

(川〉『元和士山』倉一四石州僚及び郭下離石蘇僚。

(川)『北湾書』巻一七斜律光停。太原府に白馬府があるが、こ

こに見える白馬成とは距離がありすぎるから、別所であろ

p円ノ。

(山川〉同右同停、『、通鑑』巻一六九陳天嘉四年三月係。

(川〉『周室田』径三四楊欄簿、『通鑑』巻一六九陳天嘉五年十

月・十一月係。

(川)『周書』巻二八賀若敦簿、『逼鑑』巻一六九陳天嘉六年十

月係。

(川)『周書』袋五武一帝紀上天和元年七月僚、『遁鑑』巻一六九

陳天康元年七月傑。

(川〉『周書』巻一一一斉煽王憲俸、『遜鑑』倉一七

O陳太建元年

九月・十一月係。

(川)『元和士山』巻五河南府一繭昌勝候。

(川〉『北斉書』巻一七斜律光停、『通鑑』倉一七

O陳太建三年

正月僚。

(山)『遁典』巻一七九州郡九慈州古口昌豚係、『通鑑』各一七

O

陳太建三年五月

・六月傑及び同僚胡註。

(川)『通鑑」巻一七二陳太建八年十月・十一月係。

(山)同右巻一七八開皇一九年十月保。

(川)同右巻一七九開皇二

O年四月篠及び同僚胡註、同仁欝元年

一郎ー

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正月係。

(川〉『奮唐書』巻一九四上突蕨俸上。

ハ川〉『通鑑』径一八四義寧元年七月・八月傑。前註(幻〉参照。

(

m

)

同右各一八五武徳元年正月僚。前註(川〉参照。

〈山)同右巻一八五武徳元年四月僚。

(m〉同右巻一八六武徳元年九月僚。

(川)同右巻一八六武徳元年一一一月候。前註(脳)参照。

(川)同右各一八七武徳二年二月保。

(川〉同右各一八八武徳三年四月係。

〈m)同右巻一八八武徳三年八月係。

(川〉同右各一八八武徳三年十月・十一月脇田。

(川〉『嘗書』巻二口同租本紀武徳二年七月僚、

同僚。谷氏『考樟』一二八頁以下参照。

521

『通鑑』巻一八七

(川〉『奮書』袋五七・『新書』巻八八表寂停、

七武徳二年十月候。

(川〉『通鑑』巻一八八武徳三年十一月係。

(印)同右各一九一武徳九年三月燦。

(印)前註(

1

)

拙稿多照。

(山)拙稿「唐代の橋梁と渡津の管理法規について|敦埋設見

「唐水部式」残巻を手掛りとして|」(一九九三梅原郁編

『中園近世の法制と祉曾』所枚京都大患人文科皐研究所〉

参照。

(山)前註(1〉拙稿参照。

(川〉漬口重園「府兵制度より新兵制へ」(一九六六『秦漢惰唐

史の研究』上所枚東京大皐出版曾〉。

『遁鑑』巻一八

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ARE-EXAMINATION OF THE F£7・BINGSYSTEM

府兵制INTHE TANG PERIOD―A HISTORICAL AND

 

GEOGRAPHICAL ANALYSIS OF ZHE-CHONG■FU

Otagi Hajime

  

The zfie-chong-fu折衝府, which supported the Tangfu-bins system,

numbered more than Siχ hundred and were scattered throughout the country・

They were, however, concentrated at specially fiχed sites. If we eχamine

the individua\ zhe-chong-fu \ntheir historical and geographical detail, we

find that many of them were established at fortresses built at strategic points

during the period of warfare from the division of the Bei-Wei 北魏to the

founding of the Tang empire. We also find that the function of the zhc-

chong-fu■wasnot only concerned with the draft, drill and rotating capital

guard, but in addition they served as military bases from which to carry out

the daily rule of law.

A STUDY OF THE EXPANSION OF THE F£I-BING

 

府兵MILITARY SYSTEM AND THE SOLDIERS

   

INVOLVED IN THIS IN TANG-DYNASTY

        

XI-ZHOU西州PROVINCE

            

Kegasawa Yasunori

  

Following its destruction of the Qu state of Gaochang 麹氏高昌國in

Zhenguan貞観14 (640), the Tang transformed this area into χi-Zhou

province and established it as an important point in the control 0f the

Western Territories and the Silk Road. Following the conquest, the Tang

established four:Zhechong一か折衝府(districtmilitary headquarters) within

the new province and implemented the conscription of the local populace to

serve as soldiers in the加b緬g system. This paper is an analysis of the

actual workings of theか-bing system and the true status of the soldiers in

                

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