Upload
others
View
2
Download
0
Embed Size (px)
Citation preview
至笠田東国道24号へ
至高野山
国道480号
『史跡名称①奥之沢明神②歯痛地蔵③大念仏宝箇印塔④庚申塚⑤前田奥之丞顕彰碑⑥貧女お照の墓⑦天神詞⑧子安地蔵⑨稲荷社⑲藤谷弁天詞
iiZ'
-、-㌔ _.一.-P一一一
⑪中之沢明神⑫西行妻娘宝箇印塔
鬼王・団三郎の墓⑬有王丸の墓⑭薬師堂⑮院の墓⑯西行堂⑲八王子嗣⑱横笛の恋塚⑲戎社⑳細原地蔵堂
⑳子の日権現生誕地⑳柳沢明神㊨-の滝不動⑳亀田大隅守の碑⑮若宮⑳福井辻堂⑳神田地蔵堂⑳応其池
高野山を含む紀伊LLJ地北西部一帯の地主神を肥る神社で、文献
上では855年にあらわれますガ、祭紀の起源はさらlこ古いと伝え
られています。特に「丹生明神」「高野明神」と呼ばれる二祭神は、
空海の金剛峯寺の寺地選定にまつわる伝説に、土地を譲った神、
道案内をした神として登場し、金剛峯寺の鎮守神として勧請され
ました。 1 208年には越前園の気比明神と安芸園の厳島明神を勧
請し、以後「丹生四所明神」として崇拝されるようになりました。
LO空禦神社j/
iiiZS
iiidq
コルフ場 ー
歯㌔休鮒
九度山町尊院静杉飢-
∵..e:・・.
47 .'~. 事J軸智ニッ鳥居
8 ㌦ _山一一一--
'卓 JpJI
\ ●・・掬矛竃-竜。∵
iO地蔵堂
)
/ ◎院の墓
○貧女お照の墓
◎西行妻娘宝箇印塔鬼王・団三郎の墓
◎横笛の恋塚
写真提供:和歌山県立博物館
天野の里史跡一口説明
あく の さわみようL;ん
①奥之沢明神丹生明神か初めて天野の地を踏んだ所。奥村垣内の垣内神で、天野三沢明神の一つ。
はいたじぞう
②歯痛地蔵もつさい
歯痛に効能があると伝えられる。天野社の木祭の地鎮祭は、この近くで行われた。
だいネコんぶつEE31うきよういんとう
③大念仏宝薩印塔応永23年(1416)、大念仏講衆によって建てられ、以後大念仏講が盛んとなり、神社の山王堂と地蔵寺を中心に
行われた。
こうしんづか
④庚申塚庚申講員lこよって、慶安元年(1648)に建立された。
まえ だ あく の L:ようけんしようひ
⑤前日奥之丞顕彰碑明治初期、神社と地域のため尽くした功績の顕彰碑。
ひんじよてるはか
⑥貴女あ照の墓高野山奥の院の正面左側にともる「貧女の一灯」を献じたあ照が、ここに庵を結び生涯を終えた、と伝えられる。
てんじんlまこら
⑦天神示司由来は不明。
こやすじぞう
⑧子安地蔵『紀伊続風土記』に記されているが、安産と子育ての地蔵といわれる。
いなりしや
⑨稲荷社まつ
西村垣内の垣内神として肥られ、この付近は鎌倉時代の稲作の中心地帯で、稲荷社を布巳る。
ふじたにべんてんほこら
⑲藤谷弁天岡葛城修験の天野での行場といわれる。
なかのさわみようじん
⑪中之沢明神丹生明神を柁り、南村垣内の垣内神で、天野三沢明神の-つ。
さいぎょうさい しほうきclういんとう
⑫西行妻娘宝旗印塔供養のために建てられた碑で、 4基あり、右側の2基は応安5年(1372)、左側の2基は文安6年(1449)のもの。
碑はもと西行堂下の妻娘の茎に立てられていたが、ここに移された。
おにあうたんざぶううはか
鬼王・団三郎の墓そ 打 ううとう
西行妻娘宝箇印塔の裏側にあり、曽我兄弟の郎党の墓と伝えられる。
ありあうまるはか
⑱有王丸の墓しゆんかんそう す さ かい かしま こつ
俊寛僧都が鬼界ケ島lこ流罪となり死亡、弟子有王丸は治承3年(1 179)、主の骨を高野山E=納め、
伴ってきた俊寛の娘は天野で生涯を終えた。
や< し どう
⑭薬師堂葛城修験の天野での行場といわれる。
いんはか
⑯院の墓たいけんもんいんつrま43
鳥羽天皇の皇后、待賢門院に仕えた中納言の局が久安5年(1 149)ごろ、天野に転地療養し、ここlこ住まいし
亡くなった。
さいぎょうどう
⑯西行堂西行の妻は康治元年(1 142)E=、娘は仁平2年(1 152)[=尼となり、ここlこ庵を結び生涯を終え、里人はお堂を建て
あ柁りした。堂の下には墓がある。
はうあう じ ほこら
⑰八王子示司東峯垣内の垣内神として而巳られている。
よこぶえこいづか
⑱横笛の恋塚斎藤時頼は横笛と恋仲となるが、結婚できず出家し、治承3年(1 179)高野山に入った。
後を慕った横笛は天野に住み、再会を願ったが果たさず、 19歳で亡くなったといわれる。
えぴすしや
⑩戎社いつの時代に建てられたか不明。
ほそはら じ ぞうどう
⑳細原地蔵堂ぷつぞう
細原垣内の後山で、仏像山といわれた所lこあった地蔵をここに移し、垣内の地蔵堂としてお面巳りした。
安産と子育ての地蔵といわれる。才〕 ひ ごん「プんせいたん ち
⑪子の日権現生誕地乃ひじり
子の年・子の月・子の日・子の刻に生まれ、 「子の日権現」・「子の聖」と呼ばれ、長者屋敷に住んでいたが、
この地に居を移し生まれた。
やなぎさわみようじん
⑳柳沢明神リゆうぎ
狩場明神ゆかりの地で、空海と丹生明神との出会いの地という。竪義明神として、高野山上で大切にされた。おおり
下居垣内の垣内神で、天野三沢明神の一つ。
いち たき ふ どう
㊨ -の滝不動かけ だ
葛城修験の天野駆出しの行場といわれる。
かめ だ ああすみのかみ ひ
⑳亀田大隅守の碑うえだそうこ
近世初期の武将で、浅野家lこ仕えた武士であったが、上EB宗古との経緯で浪人となり、寛永3年(1626)
天野に住み、天野の開発に尽くした。碑は外孫によって建てられた。
わかみや
⑳若宮すさのおのみこと
谷口垣内の垣内神として、須佐之男命を肥る。
ふく い つじどう
⑳福井辻堂高野山参詣道の辻に建っていた堂で、観音を柁る。
こうだじぞうどう
⑳神田地蔵堂ちよういしみち
町石道の天野側に休憩所として建つ堂で、高野山の僧が天野に下向するときの出迎え場所。
あう ご い「ブ
⑳応其池応其上人が文禄年間(1592-1596)に造ったといわれる。