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Hitotsubashi University Repository Title � : Author(s) �, Citation �, 108(2): 297-315 Issue Date 1992-08-01 Type Departmental Bulletin Paper Text Version publisher URL http://doi.org/10.15057/12390 Right

URL...一橋論叢 第108巻 第2号 平成4年(1992年)8月号 (90〕 焦点をあて、十八世紀の西欧を席巻した啓蒙思想が、 書批判の領域に限定され、その内容も、スビノザ思想て、その消化吸収の分野は、スピノザの形而上学や聖どーによって

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Hitotsubashi University Repository

Titleフランス啓蒙思想とスピノザ : 西欧近代思想史における

異端の「抑圧」と「復活」

Author(s) 柴田, 寿子

Citation 一橋論叢, 108(2): 297-315

Issue Date 1992-08-01

Type Departmental Bulletin Paper

Text Version publisher

URL http://doi.org/10.15057/12390

Right

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フランス啓蒙思想とスピノザ

   ー西欧近代思想史における異端の「抑圧」

と「復活」1

柴  田

寿  子

フランス啓蒙思想とスピノザ(89〕

はじめに

 思想の歴史を画するような異端的な思想のなかには、

その本質が継承されないまま、歴史から久しく忘却さ

れ、その後、何十年、何世紀を経た異なる時代、異な

る杜会において、再ぴ人々の注目を集める思想がある。

デカルト哲学やホヅブズ政治論とともに、近代初期の

最良の理論的遺産でありながら、「屍と化した犬」のよ

うに全く忘れ去られ、その後一世紀を経たドイッ古典

哲学期に、「スビノザ・ルネサンス」として、思想界の

争点となって再登場するスビノザ哲学は、こうした思

想の典型であろう。そして、デカルト哲学やホッブズ

政治論のように、革新的な思想として登場し、その後

西欧近代思想の主流となって、後継者によって脈脈と

受け継がれ、歴史の表舞台をつくってきた思想は、「連

続」と「継承」という視点から語られるにふさわしい

が、スピノザ思想のように、つねに西欧思想のなかの

異端であり続ける思想は、「不連続」と「復活」によっ

てしか語られない。

 では、なぜスビノザ思想は、西欧近代思想史上にお

いて「不連続」とならざるをえなかったのか。逆にい

えば、西欧近代思想は、スビノザ思想の何を見落とし、

何を無意識的に「抑圧」し続けてきたのか。本稿は、

この問題の一端を考えるため、スビノザの杜会理論に

297

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一橋論叢 第108巻 第2号 平成4年(1992年)8月号 (90〕

焦点をあて、十八世紀の西欧を席巻した啓蒙思想が、

スビノザ思想をどのように受容していったか、とくに

フランスにおけるその経緯を、簡単にスケッチするこ

とを目的としている。

 そもそも、思想史上、スピノザの杜会・政治論の後

継者を探究することは、困難である。スペインからポ

ルトガル、ポルトガルからオランダヘと亡命したユダ

ヤ人の末蕎であるスピノザは、アムステルダムのユダ

ヤ人共同体からも破門され、キリスト教にも改宗しな

いまま、オランダ国内を放浪した特異な経歴の持ち主

である。スピノザ以降、かれの思想を継承した著名な

思想家が、オランダに輩出しなかったことは、スピノ

ザの出自と生き方にふさわしいとさえ言える。むしろ

かれの思想は、他国において次代の思想界を担った著

名な思想家の一群ーたとえば、イングランドのロッ

                  リ ペ ル タ ン

ク、ドイツのライプニヅツ、フランスの自由思想家な

どーによって消化吸収されていった。しかし、概し

て、その消化吸収の分野は、スピノザの形而上学や聖

書批判の領域に限定され、その内容も、スビノザ思想

の本質が継承されたとは言い難い。

 たとえぱ、ロックは、オランダ亡命中、親友のリン

ボルフ(勺巨号君ωく彗巨昌σo『9一崖竃-ミ旨)を介し

てスビノザ思想を知り、『寛容についての書簡』(ニハ

八九)執筆のさいに、スビノザの『神学、政治論』(一

                    (1)

六七〇)や『遺稿集』(ニハ七七)を収集している。し

かし、ホッブズの自然権(法)思想やハリントンなど

のイギリス・リベラリズムが、ロックの国家論に圧倒

的な影響を及ぽしているのに対し、かれの政治論にお

けるスビノザ国家論の影は薄い。また、ロヅク以降、

トーランド、コリンズ、ティンダルなどの理神論老た

ちは、スビノザを批判しつつも、スビノザの汎神論や

聖書批判の内容をかなり摂取してはいるが、やはり、

スピノザ思想の受容は、。宗教論ないし形而上学の問題

領域に限られていたといってよい。同様に、ドイツに

おけるスピノザ思想の受容も、古典哲学期における有

名なスピノザ・ルネサンスが、汎神論論争に終始した

ことからも分かるように、形而上学の問題領域に限定

されていた。

298

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(91) フランス啓蒙思想とスビノザ

 このような状況のなかで、従来の数少ないスピノザ

政治思想の研究老たちが、スピノザ国家論の影響を、

一世紀以上を経たフランス革命の思想家、ルソーの国

       ^2)

家論に見出したことは、興味深い事実である。スピノ

ザとルソーの国家論が本当に類似しているのか、ある

いは全く対局にあるのか、その正否は別にしても、西

欧近代政治思想の潮流のなかで、スビノザ政治論が演

じた「不連続」と「復活」の一幕が、そこに見いださ

れることは確かであろう。

 ここではまず、スビノザと同時代人であった、フラ

   り ペ ル ク ン

ンスの自由思想家たちが、スビノザ思想をどのように

自国に輸入したか、という経緯からたどづてみよう。

     リ ペ ル タ ン

   一 自由思想家とスビノザ

 スビノザが、思想と言論の自由をまもるため、ハイ

デルベルク犬学からの正教授就任要請を辞退したのは、

有名なエピソードである。同年の一六七三年、かれは、

祖国オランダに侵攻したフランス軍の司令官、コンデ

公と会見するために、ユトレヒトに向かった。当時、

スビノザは、自由主義と分権主義的共和主義を掲げた、

商業都市貴族派に好意的であったと伝えられるが、加

れの政治行動についてはほとんど知られていない。そ

の意味で、この会談は、異端老、隠遁老として知られ

るスビノザが、他面では、オランダの政局や政界の主

要人物と密接なかかわりをもっていたことを予測させ

る、特筆すべき事件だった。

 コンデ公は、武勇に優れていたばかりか文芸愛好家

    り  ペ ル タ  ン

であり、自由思想家との会見を好んだ。しかし、結局

この会見は実現せず、スピノザと実際に会うことがで

きたのは、ストゥッバ中尉(言彗団若ま8ωけ昌署9

[望◎ξp望昌o葛一卑εり與一とも記される])と、ユト

レヒトのフランス人総督リュクサンブール公爵であっ

た。この会見においてスピノザは、ルイ十四世に自著

を献呈するならば、年金を受領できるように取り計ら

うとの申し出を、丁重に断ったと伝えられる。

                   ^3〕

 この年、ストゥッバは、『オランダ人の宗教』(ニハ

七三)のなかで、オランダの宗教状況を次のように報

告している。オランダ人はプロテスタントである圭言

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一橋論叢 第108巻 第2号 平成4年(1992年)8月号 192〕

われているが、その実、オランダには、「ローマ・カト

リック、ルター派、ブラウン派、独立派、アルミニウ

ス派、再洗礼派、ソチニ派、アリアナー、狂信者、ク

ウェーカー、戦懐老、ボーレリスト、アルメニア人、

モスクワ人、自由思想家」など、ありとあらゆる宗派

が雑居し、あげくのはては、ユダヤ人、ベルシャ人、

そして自分の帰属集団が分からないような「放浪老」

までもが共存していると。かれによれぱ、このような

オランダ人にとって、唯一共通の神は、キリスト教で

はなく、商業利益であり、オランダの宗教状況は、ス

ピノザの『神学・政治論』に端的に示されている。と

いうのも、この書物は、ユダヤ教やキリスト教はもち

ろんのこと、すべての既存の宗教を覆して、無神論と

自由思想と宗教の自由に道を開くものであるからであ

         ^4)

る、とかれは述べている。

                     リ ペ ル

 ストゥヅバやコンデ公に隈らず、フランスの自由思

ヲ  ン

想家たちは、スピノザ思想に興味を抱き、スピノザに

           (5)      叩 ペ ル タン

会見しにきた者も何人かいた。当時の自由思想家たち

は、教会のドグマに苛立ち、精神の解放を望んではい

たが、放縦な欲望の解放を、自由と同一視する傾向が

あり、みずからの理論体系の欠如を、スビノザの思想

            (6)

で補おうとしていたようである。

                 リ ペ ル タ ン

 スピノザ自身も、周囲の人々から、自由思想家n無

神論老という誤解を多々受けたが、かれ自身は、無神

論者とは、「名誉や富を過度に追い求める者」であり、

                   (7〕

自分の思想は、それとは正反対であると弁明し、無神

論者と呼ぱれることを嫌った。スピノザの言う「無神

論(>99ω昌易)」とは、主にフランスで流行していた

自由思想を念頭においたものであり、エリート層(多

くは高級官僚)にあって、知的エスプリと不信心と不

                      リ ペ

道徳が潭然一体となった生活を送っていた当時の自由

ル タ ン

思想家たちにたいし、スピノザは批判的であり、かれ

           ^8)

らを警戒していたようである。

         リ ベ ル チ ン

 一方、フランスの自由思想家たちは、スピノザ思想

を理論的に咀種する作業を開始し始めた。リシャー

ル・シモン (宛ドブ與『O凹昌O員H8001H胃N)は、 スビノ

ザの旧約聖書批判に強い影響を受け、『旧約聖書の批

判的歴史』(婁ミ§〔ミ尽§きミ“§饒ωざ§§、

300

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フランス啓蒙思想とスビノザ{93〕

H雪o。)を著した。シモンのこの著作は、出版と同時に

発禁処分となり、そうした弾劾の先頭にたったのが、

当時のフランス・力トリヅク教会の指導老であり、宗

教.政治思想の第一任老でもあった、モーの司教、ボ

                ^9)

シュエ (団oω讐gし竃べ-弓冒)であった。

 ボシュエは、聖書の記述を論拠に、神から与えられ

た絶対的な王権と、王権の家父長的な権威を基礎づけ、

ルイ十四世の王政擁護論を展開しており、この点でか

れは、ロックが『政府論二篇』で批判したロバート・

フィルマー(宛o序ヰヨ一旨2一旨o.o。山①艶)にあたる役

割を、当時のフランスにおいて果たしていた思想家だ

った。そのボシュエにとって、シモンの聖書解釈と、

その背後に控えるスピノザの『神学・政治論」とは、

みずからの論拠をゆるがす最も危険な書物の一つであ

(10)

った。ボシュェはスピノザを論破するために、ヘブラ

イ語を学ぴ、『世界史論』(bぎ§δ 吻ミ 、§吻ミミ

§“§δ良ぎ畠o.H)において、旧約聖書の時代からフラ

ンク王国建国にいたる歴史を、神の摂理を証明するた

め詳細に描きだした。

 さて、ここで注意すべきことは、ルソiが、ボシュ

エの宗教論、政治論の批判を通して、スビノザ思想に

            (u)

大いに注目していた事実である。ちなみにルソーは、

一七六二年、『エミール』が押収され、バリ高等法院に

よって有罪判決が下され、故郷ジュネーヴにおいても、

『工、・、iル』と『杜会契約論』が焚書処分となり、逮捕

令が発せられた際、バリ大司教に弁明の手紙を送って

いる。そのなかで、ルソーは、かつて無神論老スピノ

ザが、自由に自説を教え、自著を印刷することができ、

公然とフランスにきて歓迎され、君主たちから敬意を

払われ、大学から招璃され、人々に尊敬されたのにた

いし、「哲学や理性や人間性がこれほど賞賛されてい

る今世紀において」、自分がこれほど迫害される理不

      ^12)

尽さを訴えている。一世紀後のフランス思想界におい

ても、スピノザは、清廉高潔にして、かつ斬新な「無

神論」の旗手であり続けていたようである。

  二 貴族改革派とスピノザ

     リ ペ ル チ ン

こうして、自由思想家を介してフランスに紹介され

301

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一橋論叢 第108巻第2号 平成4年(1992年)8月号 (94〕

たスビノザは、十八世紀のフランスにおいて、グレン

(Ω註ユ色まω巴暮・o曇コ)による『神学・政治論』の

翻訳(一六七八)やブーランヴィリエ(困昌巨婁苧

                ^13)

亭員H①畠~Hべ曽)の『神学・政治論概要』によって流

布され、広く読まれた。スピノザの思想は、必ずしも

理解されたわけではなく、かれの思想を認めるのは危

険すぎるとみなされていたが、その無神論、唯物論的

側面は、確実にフランス思想界に浸透した。スピノザ

の『神学・政治論』は、「十七世紀が生んだ、宗教的政

治的権威に対する最も破壊的な攻撃」であるがゆえに、

                    (M)

啓蒙思想が依拠する「最もラディカルな政治文書」と

なりえたのである。

 ところで、十八世紀にはいると、フランスの「スビ

ノザ主義老」たちは、たんに無神論的な雰囲気を求め

るぱかりではなく、歴史や杜会にたいして批判的考察

をおこない、具体的な政治改革案を提示するようにな

っていた。たとえぱ、『神学・政治論概要』によって知

られるブーランヴィリエは、ルイ十五世治下において、

王の専制政治を廃して、貴族階級による政治改革をめ

ざした貴族、ノアイユ公のサークルのメンバーであっ

た。かれは、フランスの古代政体史の研究

(完亀亀§ニミ一、募ミ§き~§“曇㎞募恕ミ

§§gきいもミ膏§§ぎミミ)を通して、フランク族

のガリア征服時の時の政治形態、つまり自由人が集合

し、協議し、君主を選出するというゲルマン的封建制

度こそ、フランスにとって「自然」であり「正義」で

あると主張し、世襲的、中央集権的な専制王政を廃し、

貴族の指導力を導入して、権力の分散をはかるよう提

 (15)

案した。

 ブーランヴィリエのような貴族改革派の知識人は、

ノアイユ公をはじめ、オルレアン公、メーヌ公などの

もとに集まりサロンを開いていたが、そうした貴族改

革派のひとりに、サン・ピエール(ω巴巨-雲①冒9H雷o。

-H葦ω)がいた。サン・ビエールの代表的著作『ポリシ

ノディー論(複合顧問会議制度論)』(bぎ§δ}ミざ

き冨§き♪ミHo。)を批判したのが、ルソーである。

 ルソーは、『ポリシノディー論批判』(一七五六~六

一)において、選挙制による貴族の顧問会議によって、

302

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(95〕 フランス啓蒙思想とスビノザ

専制政治を防止するというピエールの『ポリシノディ

ー論』を批判し、貴族を主体とした暫定的改革によっ

ては、政治の腐敗と混乱を解決することはできず、真

の公益を計るためには、君主制自体を廃する「革命」

           ^珊)

が問題なのであると主張した。ルソーは、このような

貴族主義的改革派の「スピノザ主義老」たちを通して

も、スピノザ思想に輿味を引かれていたはずである。

三 百科全書派とスビノザ

 百科全書派が活躍する十八世紀中葉になると、相変

わらず「スピノザ主義」を標棲することは危険ではあ

ったものの、「スピノザ主義」のひろがりによって、フ

ランス思想界の唯物論的傾向は強まり、スピノザの哲

学体系をはじめ、十七世紀の形而上学の批判がなされ

るまでになった。コンディヤク(丙饒①目自①団o目目go①

Oo邑旨9一ミH㌣ミo.o)が、『体系論』(ド§嵩 昏蜆

隻吻蒔§s一ミお)において、マールブランシュ、ライプ

ニヅツ、スビノザの体系批判を展開したように、百科

全書派は、「神」や「実体」などの形而上学的概念や、

それらの定義や公理によって体系をつくる形而上学的

方法を廃して、感覚的物質的な「自然」という概念だ

けを残し、また、べーコンの.帰納法のような実験的、

科学的方法のみを、真の哲学の方法とすべきであると

考えたからである。

 ここにいたって、啓蒙思想とスビノザ思想とが、実

は完全なすれちがいをおこしていたことが明自になっ

        リ { ル タ ン

てくる。つまり、自由思想家たちがスビノザ思想を輸

入して以来、「スピノザ主義」は、近代啓蒙思想の唯物

論的傾向と科学的自然主義の土壌を形づくる上で、犬

きな役割を果たしてきたが、スピノザ思想の本質その

ものは、啓蒙思想の内側に摂取されてはいなかったの

である。このことは、百科全書派によるスビノザ形而

上学の批判が、スビノザ思想をまったく理解していな

い点に、明確に現れている。

 たとえぱ、当時フランスで、スピノザを一番よく理

解している男といわれたディドロ(冒宗s戸 H胃ω■

ミO。{)は、『百科全書』における「スピノザ」の項目の

叙述において、半世紀前のべール(里①昌①}昌-p畠ミ

303

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一橋論叢 第108巻 第2号 平成4年(1992年)8月号 (96〕

-Hぎ㊦)の『批判的歴史辞典』(b“き§§“ミ寺涼ざ辛

亀§良〔辻ミ§一畠彗)によるスピノザ批判をほとんど

そのまま踏襲し、スピノザの『エチカ』冒頭における、

「実体(ω亭9彗8)」・「属性」(9己げ巨)L・「変様

(冒a旨8=昌)」といった概念や体系を、批判に付し

ている。ディドロが、スピノザ哲学は、「明らかに誤っ

た命題や異論の余地のある命題を掲げ、……術語の用

法を問違えて意味を大部分取り違え、…・:歴然たる矛

          ^〃)

盾撞着を無数に犯している」と判断した理由を、ごく

簡単にまとめるならば、次のような問題に帰着する。

 第一点は、自然1-宇宙(昌写胃ω)は、スピノザの述

べるような必然性にもとづく唯一実体1-神ではなく、

諸部分(諸実体)が複合してできた物質であり、神の

自由な創造によってつくられたものであるという点で

ある。スビノザの言うように、延長(噂9旨)11物質

が、思惟(潟冨紺)1-観念と同等に神の属性であるな

らぱ、神は物質的であることになり、神の本性は卑し

                   (18)

められることに、なってしまう、というのである。第二

点は、個々の人聞、あるいは人間の思考や行為は、ス

ピノザの言うような神の変様ではなく、別々の諸主体

である、という点である。そうでなけれぱ、神は、人

類が引き起こすさまざまな狂気、妄想、不正、.悪を生

み出した加害老であり、同時に、その結果を甘受する

                    ^”)

被害老であることになってしまう、というのである。

 このようなディドロによるスビノザ批判の内容から、

近代啓蒙主義における基本的思考の枠組みを推察する

ことができる。近代啓蒙主義によれぱ、まず、自然は、

神の創造の産物であるがゆえに、諸部分が級密にかつ

機械的に合成されてできあがった物質であり、他方、

神の似姿をもつ人聞は、その物質を知覚し、法則性を

発見し、作用を加え、支配する主体である。そして人

問が自然を支配しえるか否かは、正しい自然科学の知

識を獲得しているか否かにかかっている。それと同様、

杜会が正しく構成され、運営されるか否かは、人間の

主体的で知的な営みの正誤に依存している。つまり、

杜会的な不公正や悪は、人間による錯誤、迷信、狂気、

妄想などによって生みだされるものであり、人間の認

識が理性的、科学的になれぱ、不正や悪は改善される。

304

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フランス啓蒙思想とスビノザ(97〕

それゆえ、従来の神学や形而上学の抽象性、不確実性、

虚為性を廃し、それに代わり、実験的、経験的方法に

よって確証された科学的真理をたて、真理を百科全書

的に体系化し、そうした知によって人々が啓蒙される

ならぱ、人類全体の「教育」と「精神の進歩」が図ら

れることになる。

 このような啓蒙主義の精神と、スビノザの体系が示

唆した原理とは、根本的に異なっていた。自然は唯一

実体n神であるというスビノザの体系によれぱ、人間

は、自然のなかにおける特別な存在、自然を支配する

存在ではなく、むしろ自然に凌駕される存在であり、

人問の思考や実践、およびそれを介して形成される杜

会や歴史は、自然全体の必然的な統一性のうちに把握

されなければならかかった。また、スピノザは・神の

属性が延長(物質)と思惟(観念)であり、両者の秩

序は同一であるという形而上学を根拠に、人問におけ

る身体と思考の同一性、また身体に座をもつ感情や欲

望と理性の同一性という問題を提起し、人間身体にた

いする思考の優位性、欲望や感情にたいする理性の優

越性を基調に、理論構築を続けてきた西欧思想の伝統

に、疑問を提示していた。さらにスビノザは、実体

(全体性)とその変様としての人問という概念によっ

て、杜会における正義・不正義・善・悪、あるいは、

人間の認識における迷信、妄想、狂気などが、杜会を

も含む自然全体の諸関係から、必然的に生みだされる

フロセスを解明し、個々の人間を主体ではなく、そう

した全体性を表現しながら全体性に依存するものとし

て把握しようとした。

 このようなスピノザ体系の意義が、近代啓蒙主義に

よって理解されなかったことは、次のようなディドロ

自身の言葉が、如実に物語っている。「スピノザの信

奉者がたくさんいるというのは正しくない。……かれ

の説を研究した人の数は少なく、そのなかでも、それ

を理解し、正しくその見取図を描けたり、その原理の

道筋を敷桁したりできる者は、これまた少ない。もっ

と正直な人は、スピノザは全く理解不可能で、とくに

その哲学は永遠の謎のようなもので、かれに味方をす

るのは、信じたくないとひそかに考えていたことを、

305

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橋論叢 第108巻 第2号 平成4年(1992年)8月号 (98〕

かれが大胆不敵に否定してくれるからだ、と白状する

   (20)

ほどであるLと。

四 ルソーとスビノザ

 さて、ルソーがスピノザ思想と出会うまでには、以

上のような思想史上の経緯があった。ルソーが自著作

において、スピノザについて論じている箇所はきわめ

       リ ベ ル タ ン

て数少ないが、自由思想派、ボシュエ、貴族改革派、

さらに百科全書派の人々の思想動向からみて、ルソー

がスビノザに無関心であったはずはなく、スビノザか

ら影響を受けた可能性は犬きいと思われる。しかも、

ルソーの慧眼は、スビノザの聖書批判や形而上学の領

域よりは、むしろかれの国家論から本質的な問題をひ

きだした点にあった。スピノザ思想は、フランスに輸

入されて以来、本質的には、啓蒙思想と「不連続」な

関係にあったが、よヶやく、スピノザ国家論の根本原

理に注目し、それを「復活」させる思想家が現れたの

である。ここでは、ルソーの『杜会契約論』冒頭にお

ける契約の原理に、問題を限って考察してみよう。

 ω 統治契約説と杜会契約説

 ルソー-は、『杜会契約論』の冒頭を、グロティウスの

支配服従契約論の論破からはじめている。これは、当

時、グロティウス流の自然法論と支配服従契約論、お

よぴそれにもとづく制隈王政論が、フランス百科全書

派に支配的な政治的見解であつたからであろう。

 『百科全書』における、「自然状態」や「自然法」の

項目の叙述から分かるように、百科全書派の理論家た

ちは、まず、自然状態はまったくの無秩序ではなく、

一定の「自然的杜会」をなしており、自然法による一

定の規律が支配していると前提し、そうした規律を、

「全人類の一般意志(くo-昌芯県急冨-①)」、「共通の欲

望」、「善」などの概念で示した。そして、人々は生ま

れながらに、功利を追求する自己愛H「特殊意志

(くO-8忍寝ま2忌篶)」とともに、「一般意志」に従う

杜交性をもっているが、ただ後老はきわめて不安定な

ものであるから、杜会状態を安定させるためには、各

人は、同意と契約を介して、自已の自然権の一部を主

権老に委譲し、一定の「服従の秩序」をつくる必要が

306

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(99〕 フランス啓蒙思想とスピノザ

      ^21)

ある、と主張した。

 こうして、主権者(たいていの場合は君主)と人民

の間には、権利・義務関係が設定され、君主の権力の

範囲は、自然法と支配服従契約によって正当な範囲に

限定され、臣民には市民的自由と所有権、および低抗

権が認められる。ディドロも、「国民全体」は「王位、

政府、公的権威」の所有老であり、「君主は、それら権

利の用益権老、執行人、保管老」であると論じ、権力

の所有者である人民から王に権力が委譲されるときに、

人民と君主との問に結ばれた契約が、政治的権威の源

       (η)

であると述べている。

 ルソーは、このようなグロティウス流の自然法論と

支配服従契約論は、奴隷の契約であるとして、正当な

権威から新しい権力を樹立する「結合の契約(寝9①)」

を提示する。その契約の基本原理は、多人数が集合し、

各人の「力(δ『8)」を総和させることによって、一致

した動機で共同の活動を行いえるような統一的な最高

権力11主権を生みだすことである。しかも主権は、各

人相互がすべての人々と結ぴつきながら、どのような

他老にも服従せず自由であるような結合方式(Oω二-

    (23)

9ωε=一〇)によって生じるから、各人の利益であ

る「特殊意志」は真に一致し、「共通の利害」、つまり

「一般意志」(Oω」--一塞o。二一三)が成立する。

 ところで、マドレーヌ・フランセが、ルソー杜会契

                     粛)

約論の起源は、スピノザ『国家論』の第三章にある、

と推測するように、ルソーによる「結合の契約」の出

発点には、スピノザ国家論の基本原理が継承されて

(25)

いた。スピノザにとって、個人の「自然権(旨ω墨巨・

蟹-①)」とは、その個人がもつ「自然の力(冨9S①

O08巨武)」であり(↓↓甲宍く一HO。㊤一下ニハ三、↓甲自

    (26)

-♪ミH二八)、個人に可能な限りでの身体的・精神的

能力の総体を意味する。そして、国家形成時の「契約

(8o巨昌)」とは、多数者1-大衆(昌巨幕邑O)が杜会的

に共同することによって、各人の力をより大きなもの

にし、かつ、なんらの服従関係も生みださずに、各人

の平等と自律的自由が確保される(↓↓甲*<一H虞-

H責下一七六)ような力の結合と組織の方式を意味し

た(↓↓~、×<一岩一下一六八、H甲■㌣“ミO。.三四)。

307

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一橋論叢 第108巻第2号 平成4年(1992年)8月号 {100〕

このような杜会的な力11権利の共同的所有によって生

じた国家は、統一的な「身体」をもち、また「あたか

も一つの精神」をもつかのように機能するのである

(↓}」自ードミO〇二二四)。

 このように、ルソーが、百科全書派の統治契約説を

廃して杜会契約論を樹立するさい、多数老の力の「総

和」によって、主権と一般意志を確立するという問題

設定を、スピノザから継承した点は興味ぶかい。しか

し、正当な権利にもとづいて、多数老の力を結集すべ

きである、という問題意識を強烈に前面におし掲げる、

「革命家」ルソーと、権利は力と同義にすぎないから、

まず多数老の力の現実的な結集状況から出発しようと

する、「現実主義老」スビノザとでは、相反する結論を

導きだすことになるのである。

② 権利とカ

 スビノザは、個人の権利〔11自然権〕と個人のもつ

現実的な諸力とを同一視し、国家権力を、諸個人の力

の合成として理解しようと試みた。スビノザにとって、

国家形成以前の無法の自然状態においてはもちろんの

こと、国家形成以後の法治状態においても、権利と力

とは同一のものである。それゆえ、スビノザは、現実

における権力の運動形態の変化に先行して、正当な権

利について主張することはしない。たとえば、かれに

よれぱ、既成の最高権力が崩壊し、権力形態が変更さ

れるのは、臣民が正しい権利を主張したからではなく、

諸個人の力の結合方式になんらの変化が起き、人々を

結合させていた権力維持機構のメカニズムそのものに、

多犬な変化が生じた結果なのである(↓↓甲 ×<目一

曽9下二四二~二四四)。

 これにたいし、ルソーは、主権の形成原理として、

スビノザの力の論理を継承しながら、他面では、「約

束」としての正当な権利(亭◎εと、事実(雪け)とし

ての権力(君毫oεとを同一視することをひじょう

に警戒した。ルソーは、すでに存在する力と、あるべ

き権利を混同することは、既成の権力を正当化するこ

とにつながると述べて、そうした理論的混同を犯した

代表老として、グロティウスを論駁し(Oω」-ドω畠一

一二)、「人間のあいだのあらゆる正当な権威の基礎

308

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(101) フランス啓豪思想とスビノザ

としては、約束だけが残るL(Oω」-介寄9一一四)と

主張している。

       /

 それゆえ、ルソーの議論によれぱ、現実の力よりも、

正当な権利こそが先行すべきであり、一般意志は、契

約や法という「約束(8毫彗巨昌)」として、前提され

る傾向があった。一般意志を明示するものは、「少な

くとも一度だけ」は成立したはずである杜会契約であ

り、「選挙による全員一致によって成立した」決議

(Oω」-9ω箪=一〇)であり、杜会契約が成立したの

ちは、一般意志は、立法権によって制定された法とし

て示され、合法的な人民集会の同意と決議によっての

み変更可能である(Oω・昌-HNしωし曽-亀①一一九八

~一九九)。つまり、「法律」こそが、一般意志を明示

するものなのである(Oω、自H-H9おρ二四〇)L。

 もちろん、「意志を一般的なものたらしめるのは、投

票老の数よりもむしろ、投票老を一致させる共同の利

益である」(Oω・■-戸彗戸=二八)、とルソーが述べて

いるように、法が成立するのは、その背後に各人の利

益の一致があるからである。この意味でルソーは、各

人が、自らの権利と同意にもとづき、正当な手続きに

よって成立させた法に従うという、近代的な「法の支

配」の原理を樹立することによって、一般意志と特殊

意志との一致を、「法」として具体化したといえる。し

かし同時に、人民の特殊意志は、杜会契約や定期的な

人民集会によって決定された法1-一船意志によって、

啓蒙されなけれぱならない対象となったのである。

 ㈹ 二般意志Lと「一つの精神」

 ルソーの議論によれば、ひとたぴ一般意志を体現す

る政治体と法が形成されると、各人の私的利益11特殊

意志とは対立するものとして、「不変で、純粋」であ

り、「つねに正しく、つねに公の利益をめざす」一般意

志が存在していることになる(Oω」<-Hし箪二一

四)。そもそも、「一般意志」は、特殊意志の集合体で

ある「全体意志(<O-9詠まざ易)」とは異なるもので

あり(Oω」-メω竃一一二五、■-Hら仰二一二~二二二、

自-ωし昌一二二五)、つねに各人の「特殊意志」と対立

している。二般意志はつねに正しいがL、それを導き

だすはずの人民の判断や意見は、「つねに啓蒙されて

309

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一橋論叢 第108巻第2号 平成4年(1992年)8月号 (102)

いるわけではなくL、また「人民は、放っておいても、

つねに幸福を欲する」が、「しかし人民は、放っておい

ても、つねに幸福がわかるとは限らない」(Oω.■-9

ωoo〇一一四五~一四六)からである。

 このように、一般意志は、私的利益の競合のなかか

らは現れないし、「人民」のなかに日常的に内在してい

るような精神ではないのだから、人民の私的意志や欲

望は、つねに一般意志にそくしたものであるよう、国

家から有形無形の拘束と圧力を受け、少なくとも公的

な事柄にかんしては、人民は指導を受ける必要が生じ

る。ルソーによれぱ、人民にたいしては、「その意志を

理性(冨げ冒)に一致させるように強制しなけれぱな

らない」し、こうした「公衆への啓蒙」(ζ昌陣①筥;・

ε①)Lがなされた結果、はじめて全構成員の真の力の

合成が可能となり、「全体の最大の力」が形成され、一

般意志と特殊意志の一致が可能となるのである

(きミー)。

 このようなルソーの一般意志論にたいして、スピノ

ザ国家論における「一つの精神」には、啓蒙主義的視

点はない。「一つの精神」とは、まず第一に、あくまで

も個人の私的欲望を基礎として成立するものであり、

大衆の精神を形成している原理は、かならずしも「理

性(5饒O)」ではない(↓↓甲〆<卜H竃一下一七一~一

七二)。歴史上存在した国家のほとんどがそうであっ

たように、国家は、理性という一致点によって形成さ

れたものであるというよりは、「安全を計るために必

要不可欠なことがら(ω8膏岸津后O彗竃)」にかんして

共通の利害関係をもち、「同じ生活様式」(↓}、昌-ω一

ミP三七)を有し、「共同の希望」や「共同の恐怖」な

どの同一感情を共感(↓勺・≦-Hし芦六〇)し合うこ

とによって成立している。そして最高権力の成立さえ

確保されているのならぱ、人々のあいだで、利害認識

や感情にさまざまな差があってもかまわないし、また

すべての人々がつねに真に理性的な判断を下す必要も

ないのである。

 それゆえ、スビノザのイメージする国家とは、個々

人が自己利益にもとづく活動を行い、たえず自己の欲

望や感情を吟味し、同時に自已と他老との欲望や感情

310

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(103) フランス啓蒙思想とスビノザ

の一致点を探求するような力の発揮の場が、複合的に

組み合わせられ、それが全体としてほ、「あたかも一つ

の精神」であるかのように機能する統一体である。ス

ビノザにとって、「大衆の力(昌⊆三巨9邑ω君け彗巨})」

とは、杜会契約や法によってあらかじめ示されている

理性11一般意志のもとで、啓蒙と指導によって、制御、

統制されるものではなく、あくまで、

の程度そのものが、最高権力〔主権〕

決定し続けるのである。

おわりに

大衆の力の合成

の権利の内実を

 以上論じてきたように、スピノザ思想は、啓蒙思想

の全盛期を準備する土壌をつくりながら、その思想内

容は、啓蒙主義とは本質的に相反するものであった。

啓蒙主義的思想は、みずからとは異質な諸原理を展開

するスピノザ思想を、継承したというよりも、受容し

つつ、その本質を無意識的にすりかえ、排除し、思想

史の奥底に「抑圧」したといってよい。啓蒙主義時代

にただひとり、スピノザ国家論の本質を洞察し、それ

を摂取したルソーにおいてさえも、スピノザ思想が啓

蒙主義にすり変えられる側面があった。

 本来ルソーが、約束という権利を、事実としての力

から厳密に区別しようとしたのは、かれが、圧倒的多

数の民衆は、腐敗した少数老の既成権力下で、経済的

不平等と政治的圧政に虐げられているという事実と、

その大多数老の民衆こそ、人閻の自由と平等を保証す

るような「杜会契約」によって、新しい杜会を実現す

る権利をもつという正当な権利とを、激しく対立させ

て意識していたからである。二のような民衆を主体と

      かoめ

して、国家の要たる一般意志を新たに成立させるため

には、理性を有する者が民衆を啓蒙するという啓蒙主

義が、どうしても必要とされた。

 それゆえ、ルソーは、個々人相互の現実的で力動的

な諸関係から、国家や権力を構成したスビノザの問題

設定を継承しながら、現実の力よりも、正当な権利に

よる権力の構成を追求し、個人の多様な力動性を、特

殊意志と一般意志の理論によって、正しく普遍的な全

体性に置き換えた。これによって、スピノザ国家論に

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一橋論叢 第108巻第2号 平成4年(1992年)8月号 (104〕

おける個人の力動性と、その集合体である「夫衆」の

運動の理論は、近代国家を支える市民階級が身につけ

なければならない、啓発された理性的な杜会倫理へと、

完全に置き換えられたのである。これと同時に、再度

スピノザ国家論は、ながらく西欧思想の潮流の底に埋

もれていくことになる。

 スビノザと同じユダヤ人であるベンヤミン(一八九

二~一九四〇)は、時代と人間が、ひたすら連続的に

進歩していくという近代啓蒙主義の進歩的歴史観に反

対して、「歴史がそこに集中しているひとつの焦点」が

あり、その諸要素は、「このうえない危険にさらされ、

このうえなく悪評たかく、潮笑された作品や思想とし

                  (〃)

て、つねに現在の奥底ふかくに埋もれている」と語っ

ている。スビノザ思想のように、「抑圧」されることに

よって、「不連続」と「復活」の運命をたどる思想は、

まさに歴史の底ふかく埋もれてしまった「廃壇」であ

り、また、歴史が新しい思想を必要とした時、人夫が、

そこにたちもどる「焦点」のひとつでもあろう。久し

く注目されることがなかったスビノザ思想が、「ルネ

サンスLを迎えたと称され、とくに、かれの国家論が

議論の姐上にのぽりはじめた近年の現象は、歴史が、

近代啓蒙主義的理性にたいする一つのアンチ.テーセ

として、再ぴスピノザ思想に注目しはじめたことを示

している。

(1)J・ロック、平野敢訳『寛容についての書簡』

匿旨彗ω耳宛簑昌o己編老序文蓑葦-糞葦一朝日出

 版社、一九七一年。

 なおロヅクは、スビノザの友人であり、当時のオラ

 ンダの薯名な数学老であり政治家であった、フヅデ

 (雪巨守L竃o。-ミ冒)と、スピノザ哲学における唯一

 実体と無限の諸属性などの間題について、リンボルフ

 を介して間接的に議論しあっている。幸ぎら睾p

 ..=自o宗,ωε霧ユo旨o目Ωo匝.ω目目昼冨篶留1>冨8目-

 卑2o巨o目o目亭①σ印zωo{く”目=昌σo篶す.ω〔o具窃oo冒・

 往雪8睾一亭旨す冒-oo斤9、.9§ぎ留“§§ミs 5

 六〇彗鉗ω罫易彗俸zε目彗貝H畠p参照。

(2)ρ申く彗o・す昌Lミきニミ§き“きミミ盲§這

 ㌧ミざ蜆s喜㌻さミss良さ、完o§吻§s一耳彗『彗需・

 昌①巨皇亭↓訂G邑く①冨岸くo{竃與gぎgg勺8ω9

 H竃9丙易詔=俸丙易器二一z①考く冒河H㊤8一き-.一〇り.

312

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フランス啓蒙恩想とスビノザ(105〕

 H匿.Hミ・奉巴8『向〔訂冨貝、.宛o易需豊彗庄ω旦冒o墨

 -亭9『oo-旨s;訂昌-露彗包亭9『8冒8工昌o{

 g巨s-守①&o昌1-“さミ§ミ県雰ざミ県§§一

 <一仰』…9畠圭君1Ng-M胃.竃ぎ巴9弓句彗島9

 ..-①ω『凧目」目庁o①目o①ωωq冒oユωけ①ω庄顯目ω-①《Oo目9顯R

 ωoq竺v oo宛o目錫①螂戸.,完“eミ“§“ぎ吻§昏尽ミ“O×-一

 岩芦署.呂-o。介などを参照。

(3一5尋膏§豪き§ミき針§§§一S§

 ㌧ぎ“§δ守ミミ㎞母辻討吻㌧ミミミ§o“ミ昏、s§s§

 完§~§麦討ミミミ嚢ミ§§“o蓉昏

 黒§♪(『王の軍隊の一将校がベルンの牧師であり神

 学教授である人に宛てて書いた多くの手紙に示された

 オランダ人の宗教』)、O〇一〇管PH雪ω・

一4一声O.;①一冨墨一隻§§§〉§§貸思『貫

 宍印二ωoプ目印σ9<①『辰①q一-㊤8一ω.お①ムωド マリアン

 ヌ.シ目ープ「スピノザ あるいはガリレイ的政治哲

 学」(『シャトレ哲学史m 近代世界の哲学』、竹力良知

 監訳、白水杜、一九七六年)、二〇六ぺージ。

(5) たとえぱ、一六六七年には、ω巴葦-吋く篶ヨ昌」

 (崖崖-Hきω)がスビノザを訪ねている。声O。冨9易-

 昌戸印.印.o’ω.杜o9

(6) ポール・アザール、野沢協訳『ヨーロヅバ精神の

危機 一六八01一七一五』、法政大学出版局、一九七

 三年、一五八ぺージ。

一7一暑竺竃負隻§§9§一<二目ぎ葦晶華

 =①巳①亭彗皿q彗>斤胆宗昌尉匝實奉ポ詔冨oブ與津①旨ざ畠冒眈.

 胴o胴①σ①目く050饅二Ω①σ}陣『o戸O凹ニミー目↑①『吻ζ目才o『■

 ω津罵房巨o;彗2=轟一匡①己①亭①轟し竃蜆も.胃㊤.(畠中

 尚志訳『スビノザ往復書簡集』岩波文庫、一九五八年、

 一=一〇べージ)。

(8一掌①冒宗き星§§きき曽§§二。■Hol;

 巨5昌昌o①qs昌庁p宛o≦o巨戸H竃9ω1島一ω.旨o.

(9) なおシモンは、この自著について、書簡のなかで、

 「これは、聖書が語る奇蹟を全面的に否定した背神者

 スビノザの言葉ではないか、などとおっし中いません

 ように。今日多くの人が濫用しているこの先入観を、

 どうかお捨てになりますように」と、言い訳をしてい

 る。ポール.アーザル『前掲書』、二二四、二五二~二

 五三ぺージ。

(10) スビノザが『神学・政治論』において、国家権力

 の起源と成立について、どのような聖書解釈を展開し

 ていたかについては、拙稿「スピノザ政治思想におけ

 る聖書解釈の意義  主権論と宗教論との関連をめぐ

 って」(『一橋論叢』第一〇五巻 第二号、一九九〇年)

参照。

(11) ルソーの政治・宗教論が、ボシュエ思想の批判と

313

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1106〕橋論叢 第108巻第2号 平成4隼(1992年)8月号

 スピノザ思想の摂取を介して成立した点については、

小澤亘「ルソーにおける「宗教」と「政治」ーボシ

 ュエ・ホヅブズ・スピノザとの対比による一考察

lL(『思想』一九九〇年、四月号、岩波書店)参

 照。

(η) --宛o自ωωo嘗』一〇岸oくω目匝①O①目伽くo岬Oすユ卑oo=①

 序困塞仁冒g戸>冒訂急{①ま勺胃貝Q丙§ミ吻oo§-

 ミ~膏㎞-く㌦p甲〇四管o雲目g雲‘肉頸く∋o目戸o印≡昌與『、

 p雲彗o旨g烏註宣雪凧訂宗一畠箪o・竃H。(西川長夫

 訳『ボーモンヘの手紙』『ルソー全集 第七巻』、自水

 杜、一九八二年、四四四~四四五ぺージ)。

(13)ト§富“導ぎミ§ぎ鳶“§-き、}鳶§ニベ竃・出

 版は彼の死後となったが、摂政時代(一七一五~一七

 二〇)以前より原稿が回覧され、大きな影響を与えた

 と言われる。他の薯作に、『バルフ・デ・スピノザの

 誤謬を駁す』(完書ミ{§きωミ§ミ萎き㎞§o註昏

 留ぎ0Nやミ曽)もある。

(14) -甲}昌昌津グ↓箒軍彗}■目=①q巨①冒∋8戸

 冬彗昌昌彗一畠鼻p睾(清水幾太郎訳『フランス啓蒙

 思想入門』、自水社、一九八五年、六五ぺージ)。

(15) 勺彗---彗鳥鼻>ωωo冒一、.ω口旨墨二霧;害ユ易

 オ嘗8尉g5君-己ε①(崖竃-弓寄)..一9ミ“δ留“.

 ミO§ω一吋2まO易『曾-6巨①し竃POOI岩O-H胃

(16) -.-丙o易ωSε旨oq①昌9けω膏5勺o気ω着o2P

 ◎向§§9ミ嵩雪畠一暑.竃㌣3↓■(宮治弘之訳『ポ

 リシノディ論批判』『ルソー全集 第四巻』白水社、一

 九七八年、四三六~四三八ぺージ)。

(17) ω勺-ZON>一 向ミ§ミoも“、““ oミ bざ“ざミ§辻ミ

 完良竃ミミ“、8吻o帯so§き助ト、済ミ昏肪ミぎδ一>

 罵焦9鶉↓具oぎNω頸∋o①一句印⊆9①俸Oo昌寝管貝

 =σ轟マ霧俸H∋肩ぎ昌冨.ミ3ら、ξム.(野沢協訳「ス

 ピノザ哲学」『百科全書』より『ディドロ薯作集 第二

 巻 哲学11』法政大学出版会、一九八○年、二七一ぺ

 ージ)なお、この項目の執筆老が、本当にディドロで

 あったか否かについては、研究史上疑間がもたれてい

 る。本稿では、当時の啓蒙思想家によるスピノザ理解

 の典型的な一例として挙げた。

(18) §宍一〇.象牟P亀①。(ディドロ、『前掲書』、二七

 二~二七三、二七八~二七九べージ)、

(19) さミら」雷.(ディドロ、『前掲書』、二七六~二七

 七ぺージ)

(20) さ}>P象ω・(ディドロ、『前掲書』、二七一ぺー

 ジ)

(21) 吋↓>↓ U向 之>↓C丙向一 U丙O-↓ -〕向 ->

 之>↓ζ内貝婁Qo§赴貧ミg-oo.ミー畠一ミ雷一〇〇・

 -曽山讐ニジ目クール、杉之原寿一訳「自然状態」『百

314

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(107) フランス啓蒙思想とスピノザ

 科全書』桑原武夫訳編、岩波文庫、一九七一年、一九

 八~二〇五ぺージ。井上幸治訳「自然法」『ディドロ著

 作集 第三巻 政治・経済』、一九八九年、一一~一五

 ぺージ)

(22) >C↓O宛-↓向勺O--↓-OC向.肉ミQ〔喜ミ帯一Hべ蜆H.

 O』8・(井上幸治訳「政治的権威」『ディドロ薯作集

 第三巻』、六ぺージ)

(23) 略記号 Oω・は、--内o畠器彗一bミ9ミ§、

99ミQ要ミ§9ミ蚤雲H月(作田啓一訳『杜会契

 約論』『ルソー全集 第五巻』白水杜、一九七九年)を

 示し、略記号以下は順米、章、節、原文ぺージ、邦訳

 ぺージを示している。

(刎) 髪ぎ①F句S篶朕.Sーミ.一P竃.

(25) この点については、拙稿「人民主権論の思想的系

 譜  ホッブズとルソーを結ぶスピノザ政治思想の位

 置L(『思想』一九八八年、七月号、岩波書店)参照。

(26) 略記号、↓↓勺。は、『§ミミ§ ドぎミo粗§・

きミ汁§一留“§§9雨§昌(畠中尚志訳『神学・政

 治論  聖書の批判と言論の自由-』上・下、岩波

 文庫、一九四四年)、略記号↓甲は、『、§ざ、§

きミ㌻葦畠“§§9“§昌(畠中尚志訳『国家論』

 岩波文庫、一九四〇年)を示し、略記号以下は、順に、

章およぴ節、原文べージ、邦訳ぺージを示している。

(27) 幸巴↓胃}雪甘∋巨:b轟-99宗『ω9宗巨①P、、

 9塞§§“ぎωきき暑■-ピω:~ζ昌oL竃pω-べ蜆1

 (丘澤静也訳『教育としての遊ぴ』晶文杜、一九八一

年、ニハ七ぺージ)

                (一橋大学助手)

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