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Hitotsubashi University Repository Title � : Author(s) �, Citation �, 31(1): 71-88 Issue Date 2006-04 Type Departmental Bulletin Paper Text Version publisher URL http://doi.org/10.15057/17936 Right

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Hitotsubashi University Repository

Title民国期の「国語」問題についての一考察 : 雑誌『国語週

刊』の位置付け

Author(s) 上野, 倫代

Citation 一橋研究, 31(1): 71-88

Issue Date 2006-04

Type Departmental Bulletin Paper

Text Version publisher

URL http://doi.org/10.15057/17936

Right

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民国期の「国語」問題についての一考察      一雑誌『国語週刊』の位置付け一

上 野 倫 代

1.はじめに

 中国における「国語」を考える際,新文化運動の中で一つの潮流を迎えるこ

ととなる国語運動は,中国が国民国家だろうとするなかでの,一つの大きな国

家的事業でもあった。同時にそれは,これまで漢字を用いるごく一部の知識人

のみが交わした共通の文字言語体系を廃し,中国全土に共通の言葉,とりわけ

音声言語の統一を図ることを意味し㍍具体的にはユ905年の科挙の廃止,そ

れに伴う国者の制定,字母(「注音字母」)の制作公布,そして小学校課程にお

ける国語課の設置等々,多岐にわたってその事業は遂行されたのである。

 しかしながら,20年代半ばに入るとそれらの事業は情勢の悪化により頓挫

する。そして30年代に入り注音字母から入声が消え,『国音字典』が改修し出

版される頃,大衆語運動が起こる。これは,1930年に嬰秋白がラテン化字母

をソビエトで出版し,上海の左翼連盟らによって普及活動がなされたことが契

機となって起こった運動である。この大衆語運動は,国語運動史上の大きな潮

流の一つであると言える。この大衆語論争の主流は,方言文学の確立と漢字の

簡字化にあったが,音声の統一という側面から見たとき,見過ごすことのでき

ない現象が生じた。下瀬謙太郎のr支那語のローマ字化をめぐって一民国政府

の国字国語運動のあらまし』ωによれば,

   大衆語運動においては,方言の重要さを説くのであり,従って国語不統

  一主義の優れたところを実証するやうであるが,一方にはまた国語統一論

  者もあり,工具として国語羅馬字を使用する意見もある。…何はともあれ,

  大衆語論戦の諸産物の中,特に簡体字が最近の問題になっていることは注

  意を要する。(中略)新運動はどこまでも地方本位の主張を以て之に対立

  するのである。政府が公布した国語羅馬字なるものは,当然国民に標準音

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  を強制する準備であるに反し,新運動の漢字ラテン化なるものは,あくま

  で方言本位を守り,中央政府の統一政策に逆行しようとするのである・{割

と指摘されている。つまり,文学革命を経たのち,国者を統一することで標準

音を定め,国語を教授することによって言語を一元化しようとする五四期の流

れの中で,各地方の文学作品や言語の教育に向かう大衆語運動は,言語の統一

という動きに逆行しているように見えるのである。文学運動の流れから見れば,

五四時期に,民間の中へというスローガンのもと「白話文」への関心が高まり,

文体は文言文から白話文への移り変わりを迎えていた。そしてその流れは,地

方それぞれの文学を築こうとする潮流を生み出し,「大衆語」「大衆文学」の方

向へと推移していく。他方国語教育においては同様に文言教育から「語体文

(口語文)」教育へ推移し,その流れは地方の歌謡や童話,詩なども教科書に取

り入れていこうとする点においては大衆語運動の動きと一致している。では

30年代に起こった大衆語運動が,国語の統一という側面において,下瀬も指

摘していたように「方言本位を守り中央政府の統一政策とは相容れない関係」

になるのは何故であろうか。従来の研究史においては,五四から大衆語運動へ

移行するユO年間に関して,教育史,国語運動史の通史的な記述の中で,この

点について触れているものは少ない。

 そのような地方と中央の南巨歯誓が生じてしまった背景としては,国語運動が言

文一致を成し遂げるために制定した注音字母に大きな一因があった。ことばを

統一するということは,漢字をどう音声処理するのかという問題を孕んでいる。

漢字の音は各地各様であり,容易に一元化できるものではなかった。そこで民

初に考案されたのが注音字母である。つまり注音字母とは「讃音の統一」を本

来の目的とするものであり,漢字をどう読むかということを解決する為に考案

されたものであった。

 しかしこの注音字母の公布を巡って様々な反対意見が噴出した。それは漢字

の読みを支えるための注音字母が,実際には口語教育と全く同一のものとして

捉えられためであっれっまり文言文による教育か口語文によるそれかだけで

なく,どの地方の発音を中心とするか,といった言語的ポリティクスが,注音

字母の制定を起点にして繰り広げられたのである。そのため,注音字母は漢字

の読みを支えるためだけでなく,音声つまりことばを表書己するものとしても負

荷をおわされて誕生することとなったのである。

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民国期の「国語」問題についての一考察 73

 この音声を表記するために考案され公布されたこの注音字母には,音声表書己

文字として未解決の部分と,口語教育における注音字母学習の中で未定着の部

分が多分にあった。そのため大衆語運動では,そのような注音字母の欠陥から

新たなラテン化新文字に対する議論にいたるまで幅広い論争がかわされている。

本稿はそのような論争がなされた言語的,歴史的背景に少しでも近づくため,

まずは下瀬の言うように,五四時期の国語統一の流れから,方言本意の言語統

一を行うに至る要因を探りたい。具体的には,五四運動と大衆語運動のちょう

ど間に刊行されている雑誌『国語週刊』を取り上げ,発刊に至る歴史的経緯と

その位置付けをおこなう。

2.4つの国語雑誌

 この!0年間に出版された国語雑誌は四誌である。その四誌とは「国語月刊』,

『国語旬刊』,そして同名だが立場をことにする二つの「国語週刊」である。そ

れぞれの雑誌について説明してい㍍

 『国語月刊』冊は!922年2月~1923年7月まで全15期,中華民国国語研究

会が編輯し,上海の中華書局から出版された月刊誌である。r国語月刊』は五

四運動との関わりの中で,国語運動が最高潮に達したときに発刊されている。

毎月60頁前後が掲載され,主に「言論」がそのほとんどを占めている。五四

運動期の白話文学運動との繋がりを強く持っているため作家や白話小説家など

による執筆も多い。その内容は,白話文学と国語を結び付けていくことがこれ

からの教育に必要であるという論説や,注音字母をどのように実用化させるか

という専門的な論説がその大部分となっている。また通信欄の「国語界消息」

では,国語の教授が義務化されるなかでどのように各自治体が取り組んでいる

かという報告がなされている。更に,できたばかりの国語講習所に何人の募集

があり,何日に開講を迎えたなどの記述も詳細にされている。『国語月刊』の

特刊号としてだされた第七期「漢字改革号」は将来の漢字の行方について各種

の議論が寄せられて,国語界の内外に大きな影響を及ぼした。しかし,『国語

月刊』は徐々に議論が専門的な方向に移ってしまうため,購買者が減少し,程

なくして停刊した。

 『国語旬刊』側は1929年8月1日からその年の12月ユ1日(全13期)に出

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74 一橋研究 第31巻1号

された雑誌で,民国政府行政院教育部の国語警備委員会が編輯し,北平文化学

社が出版したものであ乱この雑誌の主な特徴は主に音韻に関わる諸論を掲載

していることであり,また方言調査の報告をまとめたり,中国大辞典の編纂に

向けての議論や,注音字母の入声の議論がなされた・主に「言論」が中心で,

通信欄はなく3,4題の論文が18頁前後の中に掲載されている。内容的には専

門的学術論文が主要で,最初に出されたr国語月刊』よりも詳細な議論がなさ

れている。特に,国者の変遷から地方方言音韻や国語字母(国語羅馬字)に関

するものなど,音声表記に関するものが中心であった。そ・のさい注目に値する

ことは,「開音字母」や「国語開音字彙」の編纂をすでにおこなっていること

である。

 次に二つの『国語週刊』の内で,二回目に出版されるr国語週刊』冊(この二

度目に発刊された「国語週刊』を本稿では後期『国語週刊』とする)である。

この後期『国語週刊』は1931年9月5日~1936年9月26日までの全260期

出版される。この雑誌は印刷発行上の問題で停刊する前雑誌「国語旬刊』の後

を引き継ぐ為に刊行されたものであり,国語統一壽備委員会が編修し,北平市

の国語統一窯備委員会週刊編輯処が出版している。雑誌は両面二頁に亘り,内

容は言論や漫談や国語界消息などその時々に応じて多彩である。次に述べる

『国語週干1」』と比べると国語の革命的なスローガンなどは全くなくなっている。

それゆえ,後期『国語週刊』の発干1』の辞には「第(2)期の国語週刊と名称は

同じであるが,しかしその性質は同じではない」㈲と述べられることになる。

 最後に『国語週刊』川であるが,この雑誌は上言己の三つの雑誌に比べて特異

な位置を占めてい乱発行期間は1925年6月14日~同年12月27日までの全

29期,雑誌の内容は,主に「言論,文嚢,通信」に分かれ,長文は少なく,8

頁内に収まらないものは次号に引き続いて連載されている。「言論」では,章

士剣などの反国語派に対して国語界内の人々の団結を呼びかけるものや,国語

教育の現状や国語運動の軌跡を述べたもの,国語の教授法や注音字母の改定や

字母讃音についての専門的な論文,など大きく三つに分けられる。r通信」の

欄では,実際に地方で国語教員をしている教師からの問い合わせや,反国語運

動についての報告,国語運動大会や其の他の宣伝広告,執筆者への依頼文や通

信文等が掲載されている。「文褻」では,白話詩や民謡,歌謡などが掲載され

ている。

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民国期のr国語」問題についての一考察 75

前出の国語統一壽備会より出された雑誌『国語月刊』と比較しみると,『国語

週刊」の内容とは明らかに異なっている部分が多い。第一に,出版背景より考

察すると,『国語月刊」が教育部の附属機関より編輯し出版されたのに対し,

r国語週刊』は私的立場から編輯出版されている。それは,経済的な財政圧迫

と政権の交代によって,教育部の機関内の活動が難しくなるからである。教育

部が空洞化するなか,国語教育に対する風当たりも徐々に強くなり,国語統一

警備会は教育部附属機関として機能しなくなる。時局の変動と教育部の空洞化

は,国語運動の活動の場を行政の立場から民間の立場へ移行させざるを得なかっ

たのである。しかし,この民間の立場における彼らの活動は,今まで進めてき

た国語運動及び国語教育を見直す契機となっ㍍それは,『国語週刊』の各論

説の特徴にょくあわれている。

 そのため,第二に,『国語週刊』の持っ言論の特徴が指摘できる。それは臨

時政権教育総長章士釧及び国語の反動派に対して過激な発言を繰り返す「革命

的」言説となっているのである。これは『国語月刊』と一線を画する最大の特

徴である。その一方で,他の思想や学術方面の論説では『国語月刊』の特刊

「漢字改革号」で述べら・れた国語教育の流れを多分に汲んでもいる。しかし,

国語教育の流れは同じであってもその視点が大いに異なっている。

 以前の教育部における国語政策は,国語教育を普及させるために精力的に政

策を推し進めていく側面を多分に持っていた。しかし,彼らの民間への転向は,

政策を推進する側からの一転を示している。つまり,彼らは持ち上がっていた

国語教育の不具合や矛盾を直接受けとめる立ち場となったのである。そのため,

教育部内部では見えなかった実際の教育の場における声を汲み取り,今後の前

進のために再度検討しなければならなかった。故に,雑誌の中の「言論」や

「通信」の欄には,殊に暗礁にのった国語運動に関する記事が満載されている。

つまり『国語月刊」では,いかに国語教育が推進したかという報告が多かった

のに関し,『国語週刊』では教育の現状がどのようであるか,現場で何が問題

なのかが主要な議論となったのである。これが,『国語週刊』を見るざい重要

な視点を作り出している。そのため『国語週刊』は,後に出た雑誌『国語旬刊』

とも,後期『国語週刊』とも異なった性質を持つことになったのである。

 ではこのr国語週刊』は,どのような歴史的背景のもとに誕生したのであろ

うか。

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76 一橋研究第31巻1号

3.雑誌『国語週刊』の誕生の歴史的背景

3-1.清末民初に於けることぱの統一への流れ

 清朝政府の政治的機構は,明朝の科挙制度をそのまま踏襲する形をとった。

そのことによって日常的な使用言語や自己の所属する地域や集団を問わず,幅

広い人材を登用し中央集権化を図ることが可能となった。このことは永きにわ

たる政権の存続を可能にするとともに,ある種の多言語的な空間を保持する一

因ともなったのである。

 この多言語的言語空間を生んだ科挙制度を廃し全国規模で言語の統一をしな

ければならないという考えが起こってきたのは,アヘン戦争から洋務運動の時

期である。というのも,諸外国の影響のもと新式の学堂が設立され幅コ,各技術

方面における専門教育が行われる中,人材育成の為の学制機関を確立する必要

が生じていたからである。また,列国の侵略が進むなかで各郷紳らは,近代的

な「国家」を築くため,政府の根本的な政治体制を改革する必要があると感じ

ていた。それを受け,清朝政府もようやく近代的な「国家」を早期に創出する

ため学制の改革に着手しほじめる。その一つが,近代的な学校システムの確立

であり,もう一つは従来の科挙制度の廃止であっれそして以下で述べるよう

に,この両者は密接な形で結び付いていた。

 教育改革が本格化する以前には湖広総督張之洞側が,『勧学篇』o皿コ「変科挙」の

中で八段文の廃止と科挙試験の改善を具体的に提示し,また両広総督劉伸一が

書院を学堂に改めるべきだとする書状を提出していた。しかしこれらは,政変

によりうやむやのままに終わってしまう。その後,義和団の乱以降,荒れた政

治体制を立て直すために西太后が下した「変法上諭」ωが,学制改革を加速さ

せ,改革案を次々に呼び込んでいく。先ず,山東巡撫衰世凱は,独自の教育改

革を提示するとともに,政府に山東プランに倣って学堂を施行する旨を奏上し

た。盟。一方,両広総督陶模と広東巡撫徳壽は「奏請変通科挙折」を上諭し,科

挙の改政を求めた。また,管学大臣張百煕は「敬陳大言十疎」を上諭し,「科挙

の改革,学堂の開校,報館の設立」を上言する。割。さらに,張之洞,劉伸一ら

による教育改革の具体案「箒議変通政治人材為先摺」において,科挙の八段文

の廃止が奏上され孔政府はこれを受け,8月に先ず郷試における八段文の廃

止を決定口』,9月には各省に命じて従来の書院を廃し,各省に高等学堂と大学

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民国期の「国語」問題についての一考察 77

堂を,各府及び直隷省に中学堂を,各州県に小学堂を設立し,全国に象学堂の

開設を命じた。

 その中でも勧学大臣張百煕は,科挙の廃止と近代的学校制度の設立を実現さ

せた影の功労者である。彼は,先ず保守的な官僚の圧力の中で科挙の全廃を訴

えるとともに,科挙の頂点である礼部の国子館と外務部の京師同文館を京師大

学堂の統制下に置き,近代的な大学組織系統の創出案を提出した帖]。政府はこ

の奏上を受け,ユ902年1月,外務省所属の京師大学堂を大学堂の所属とし,

管学大臣の統制下においた。そして1902年8月15日にはr欽定学堂章程」o田

を立案する。しかしここで保守派の政治的抑圧がかかり,立案した学堂章程は

事実上の停止状態となってしまう。そこで張之洞と衰世凱は,「欽定学堂章程」

を重訂する前に,連名で科挙の廃止を奏請する一m。その結果,政府は以後三回

の試験を最後に科挙を廃止するという諭旨を発した。そして張百煕は政府に請

願し,栄慶を保守派の間に立たせ,洋務派の重鎮張之洞を起用し,彼らと共に

学堂章程を重訂していく。張百煕,栄慶,張之洞らは呉汝紛の日本学事視察の

報告1宮コを随時受けながら,1903年6月27日r奏請添派重臣会商学務折』を作

成,翌1904年1月13日(光緒29年1ユ月26日)連名で『奏定学堂章程』mコを

公布する。これにより,初めて近代学校制度の大系が整うことになった。そし

てその『奏定学堂章程』に盛り込まれていたのが,「官話」による言語の統」皿コ

だったのである。

 上で述べたように,科挙を廃して新たな学制を築こうとする過程は,各方面

において非常に困難な状況に遭遇し続けた。それは,湖広総督張之洞や山東巡

撫蓑世凱などの地方の有力者らと清朝の新政府を支える官僚とが,従来の政治

的圧力を受けながらも,ある種の新たな政治的ビエラルビーを形成していくこ

とを示す過程でもあったからだ。そのため,この『奏定学堂章程』の中で謳わ

れた「官話」による言語の統一は,その「土台」を確立するにとどまり,中身

をこれから作り出していく必要があった。しかしながらその確立した「±台」,

つまりこの清末における言語統一の流れは,その後の国語を創出する際に大き

な影響を及ぼしていく。というのもこの流れは,先にのべたような政治的状況

のみならず,それを維持する経済的要因,そして,科挙制度の中で長年培われ

てきた従来の言語的ポリティクスさえも揺るがすことになるからである。言い

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78 一橋研究 第31巻1号

換えれば,それはことばを統一しようとする際の,これまで培われた文化的・

社会的な要素を守ろうとする力と排除しようとする力の間で生じる摩擦でもあっ

た。その摩擦の典型的な形が国語教育を制度化する過程の中に,これから述べ

る通り如実に現れ出ているのである。

 1906年,「教育宗旨」が発令され,提学司,観学所が設置されることで近代

学校制度は実質的に施行されはじめ孔またユ907年には,義務教育を強化す

る為の法案がだされるものの,その現状は,あまりに方言の乖離が激しいため,

学堂間の連絡や学部とのつながりがしっかりと取れず,授業はおろか学生とう

しがコミュニュケーションを取ることすら難しいといった困難に直面してい

た凹コ。そうした状況下でも,政府は着実に「国語」を作り出そうとしていた。

1909年に学部は「変通小学堂章程」「学部分年警備事宜」を頒布し,「中国文

学」から「国語文学」への変更を,また1910年には教科書を編訂,各種教辞

典を編纂すること,その翌年には教科書を頒布し北京及び各省に官話伝習所を

設け官話の学習を推進させる計画を発表する㌔さらに先の「分年壽備立憲事

官清単」の「国語教育事項」の説法が曖昧であるとし,教科書には併音を用い

るのか,言語の標準をどこにおくべきか,文法の規定はどう定めるのか,辞書

の編纂等検討すべき点などを八項目にまとめて提出している。中でも,標準音

に関して北京官話音を標準とするのは妥当ではないとしているように,最初の

壁となったのは標準音,つまり「国者」の問題であった。

 1911年中華民国が成立すると,察元培を中心に臨時教育会議が開かれれ

そこで国語の成立に向けて讃音の統」が必要であるとし,讃音統一会の召集が

決定される。この讃音統一会の目的は国者の審定,音素の決定,字母の採定と

大きく三事項よりなっていた固。呉稚日章を会長とし,王照を副会長及び議会の

進行役とし,議論が進められ,そこで定められたのが国者である。しかしなが

ら,この会議も非常に難航した。武田雅哉が『蒼韻たちの宴』で,

   ところで,この会議では,みずからの“お国ことば”をどれだけ“標準

  語”に取り入れることができるかということが,参加者たちの最大の関心

  事であったようだ。(江蘇,断江のやっらが多すぎる。そのうえ呉のやっ

  が議長に選ばれてしまった!)一三照は,眉間にしわを寄せた。そう。

  実際に集まった会員は,江蘇省,析江省の人間が圧倒的多数を占めていた

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民国期の「国語」問題についての一考察 79

  のである。かたや呉稚曄のほうとても,心中おだやかではない。かれにとっ

  ては, “北軍”の大将である王照をどうやってっぶすかが,最大の課題たつ

  たのである。会議は始まる前から波乱が予想されていた囲

と記しているとおり,国者を巡って言語的ポリティクスが繰り広げられた。結

局国者は,南方の官話音を考慮に入れたものであった。また同時に,讃音を審

定するさい,暫定的に使用した38字の言己号字母を整理し,「注音字母」として

通過させたのであった。

 しかしこの讃音統一への流れは,臨時教育会議が北洋軍閥衰世凱と対立する

ことで,僅か7ヶ月で閉幕する。哀世凱は察元培を中心とした改革派の教育方

針に反対し,彼が死去するまで国語統一への活動は一時中断することとなる。

ユ9ユ6年蓑世凱が死去すると,察元培を会長として「中華民国国語研究会」一が

発足する。これによりようや.く「注音字母」公布に向けての活動が再開するの

である。その後1919年に教育部の付属機関として「国語統一警備会」が成立

する(この機関は,国語運動の主体である国語硫究会が発展したものである)

と同時に,注音字母と『国音字典』が公布される。黎錦煕によれば,このとき

「文学革命」と「国語運動」の二つの潮流が結合したことで,国語研究会の会

員は今までの三倍以上にふくれあがった囲。その流れが追い風となり,注音字

母に冷淡な軍閥政府に懇願書を提出するなどして,1920年にようやく小学教

育のr国文」が廃され「国語」科が誕生する。1922年には会誌『国語月刊」

が刊行され,同年の8月に出された特刊「漢字改革号」は翌年にも再版され多

くの人々に読まれた。そうして1923年には国者の標準音を北京官話音から北

京語音へと改変される。しかし翌1924年より,口述する情勢の不安により雑

誌『国語月刊』は停刊を余儀なくされ,国語創出への動きは暗礁に乗り上げて

しまうことになる。

 ここで再度『国語週刊』が生まれるまでの背景を整理してみると,大きく三

つの要素をあげることができる。第rに,科挙の廃止に伴う政治的圧力。それ

は主にこれまでの文化的社会的なものを守り保全しようとする力であり,制度

や体制を維持しようとする方向へと導くものである。第二に,それに伴う情勢

の不安定さ。これは,その従来の力に対し,政治的に力を持って対時する力が

働くことであり,それは必ずしも(蓑世凱体制のように)新しい教育制度の中

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80 一橋研究 第31巻1号

で言語を統一しようとするものではない。そして,第三に言語の優位性の変化。

従来の科挙体制の時に培われた言語や文字の地位は,言語を一元化するための

新たな制度を確立せんとする際に,振り子のように大きく揺れながら変化をし

ていく。それは,「国者」が,南方の官話音を考慮に入れたものから,北京官

話音そして北京語音と変化していくように,ことばをどの音でどのようにっづ

るかということと絶えず関わりを持つ。では,このような背景の中,どうして

『国語週刊』は創刊されることとなったのか。再度歴史的側面より見ていきた

い。

3-2.『国語週刊』の誕生

 1916年衰世凱が死去した後も,軍閥の専制は依然として続き,北洋軍閥は

段棋瑞らの安徽派,漏国璋らの直隷派に分かれ,さらに地方軍閥も各地に割拠

し,互いに抗争を繰り返していた。かかる抗争は多大な費用をっいやし,教育

部の資金は削られ底をつく。北方の軍閥戦争はユ924年の江漸戦争,第二次奉

直戦争,漏国璋のクーデターと続き,奉天軍閥張作霧の斡旋を受け,段棋瑞が

事実上の最高権力者となる。そして1924年11月に中華民国臨時執政政府の執

政が執り行われることになる。そのとき司法総長兼教育総長として着任したの

が章士釦囲である。章士金1」は古文復古の主張をもって,現言語教育体制を改め

ようとしていた。その章土剣とはどのような人物なのであろうか。

 章士金1』(1881-!973)字は行厳,湖南省長沙県白茅鋪何家沖の地主の家庭に

生まれる。彼は1904年に長沙蜂起失敗後,日本に亡命し,日本の実践女子校

にて湖南省からの女子留学生に中国語を教えている。1908年,日本を後にし,

イギリスのアバディーン大学で5年間,哲学,倫理学,政治学,法律学を学ん

でいる。中国帰国後『民立報」や『独立週報』を出版し,第二次革命に参加す

るが,その敗北のため再度日本に亡命する。その時,陳独秀,高一画,李大金1」

らとともに『甲寅雑誌』を創刊し,蓑世凱の文教政策に反対の姿勢をとった。

1918年国会解散後に北京大学教授に任命される。もともと章士金1」は湖南の雑

誌『民立報」に携わるなど,革命派の中で活躍をして来た人物である。それ故,

一時は新時代の風潮にならい白話文を唱え,自ら白話文を書いていた時期もあっ

た。しかし白話運動がおこると,文章とは志を言えばよいものではない,文章

は先ず形式であり文体であるとしてその運動を批判し,古文復古を主張するよ

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民国期の「国語」問題についての一考察 81

うになるのである閉。彼は,白話文では本来の文章の奥深さや崇高さが失われ

ると感じ,文言文による教育の方がより人材育成の為に有効であるとして教育

の思想を転向する。つまり章士金1」はエリートを育成するための教育こそが中国

を救うために必要だと考えていたのであ乱そのため,国語運動が盛んに行わ

れていた時期には専ら政治的活動に身を費やした。1919年,峯春喧の要請で

護法運動に参加し,1921年,黎元洪の援助を得てイギリス憲政の視察遊学に

向かう。その時,ベルリンでマルクス主義を学んでいる。1922年,帰国した

章士金1jは農業大学校長に就任するとともに,参議院議員とな乱翌年,曹錫の

賄選に反対し杭州に逃れ,『新聞報」の主筆として論戦をはる。そして,ユ924

年11月に臨時政権が執行されるときには,司法総長として段旗瑞政権下に加

わった。そしてその時すでに任命されていた教育総長の三九齢が海外にいたた

めに,章士釧は自らが教育総長も兼務し,古文復古を柱とする教育体制を実現

するべくその意欲を示したのであった。

 これに対し即座に危機感を覚えたのが,後にr国語週刊』を創刊する一人で

ある黎錦煕であっれ黎錦煕は国語運動の中心的人物であり,以下のような経

歴と志を有している。

 黎錦煕(ユ890一ユ978)は湖南省湘潭県に生まれる。字は召カ西。ユ905年の時秀

才の資格を得る。ユ922年湖南優級師範の史地部卒業後,湖南省立編訳局で小

学校の教科書に白話小説の『西遊記」の一部を採用し,湖南第一師範では同僚

の楊昌済や徐特立らと宏文図書編訳社を設立し,白話文を用いた教科書や欧米

書籍の翻訳を出版したりした。!915年に教育部の招きで北京にいき教科書特

約編纂員となり,それ以降国語研究会を発足させたり,国語統一議備会を組織

したりするなど国語運動の先導的役割を果たす人物の一人となっていく。章士

剣が古文復古を唱える以前は,黎錦煕と旧知の間柄であった。

 黎錦煕は,章士剣が教育総長になると分かるや雑誌『農報記念刊』において

予防線を張るべく「一九二五年国語界「防御戦」紀略」を発表する。そこでは

国語運動の歴史を述べた上で,国書吾運動の前途はr士椚」たちが立ちはだかっ

ているとし,1923年以降ある旧友が「文章ができなければ,どうやって政治

を議論するのだ」,r古文が読めなければ人ではなく,古文を作ることができな

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82 一橋研究第3ユ巻1号

ければ子供ではない」という様な議論をしているのをよく耳にすると述べてい

る囲。黎錦煕は古文復古の主張を持っ章士金■」に対する強い危機感をここで表明

したのであ乱さらに黎錦煕は,三つの「国語の防御線」をはる・一つは口語

文,もう一つは国語教科書,最後は教育法令である。具体的には,口語文の使

用,口頭語で書かれた歌謡や短編の小説や簡単な文章に注音字母が附加されて

いる国語教科書の使用,そして1920年に改正した教育方案(国民学校は国文

を改め国語を作る法令を再度進呈し並びに初級小学校は絶対に国文教科書を禁

止することを命じた方案)を楯に今までの国語教育の方針を貫こうとした。

 しかし,その効果も虚しく,教育長官章士金1」は口語文を廃して,古文を用い

るべきであると主張をし続け,そして一部の教育の実権を握る者たちが口語文

教育を停止しようとしているという報告が,国語教員から黎錦煕のもとに報告

された鵬コ。そして,黎錦煕を含め国語統一警備会の者たちは,章のこのような

教育観が将来的に口語文教育及び注音字母教育を廃止する可能性が強いと考え

た。そして,教育法令を楯に更なる攻防を展開する。

 まず,黎錦煕は蘇州にいる教育部の国語統一警備会会長張一瞬に依頼し

1925年2月14日に嘆願書を章士釧に送った。だが,何の返答も無く,翌4月

15日章は教育総長の任に就任する。そこで,その当時国語統一警備会の会長

代行であった呉稚曄を筆頭に,黎錦煕らは,数名の者を率いて,就任三日目の

章士釧のもとへ直談判を持ちかける。

  もし国語の宗旨を問えば,一方において全国の言語を統一することであり,

  教育部は一つの標準を定めなければならない。もう一方においては,文字

  教育を普及させることであり,教育部は簡易な白話文を作り,注音字母で

  それらを補助して文字を織ることを認可しなければならないということで

  あ乱要するに,これは皆小学校教育と通俗教育の問題であり,子供と平

  民だけの範囲である。壇皿

このように,今までの国語運動の流れを説明した上で,言語の統一に向け教育

部がするべきこととして,国語の標準を規定し,初等教育,平民教育上での文

字教育を行わねばならない事を説明した。文字教育においては簡単な白話文を

作り,注音字母でそれらを識字させること教育部が認可するべき旨を提示して

いる。

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民国期の「国語」問題についての一考察 83

これに対し,章士釧は承諾をし,以下のように応じている。

  子供は必ずしもおのおの書を読むわけではないし,平民は更に言うまでも

  なく,皆何の影響もない。何故なら高等で専門的な人材教育とはまったく

  関係がないからである。山

車士金1」の返答から察するに,この時の教育への興味は「子供」や「平民」では

なく高等教育における人材の育成であったことが分かる。この返答より,小学

校の口語文教育と注音字母教育がっぶされる危険性がなくなったという安堵を

周囲に与えたが,その承諾はあくまでも一時的なものに過ぎなかった。言い換

えれば,当面の問,小学校における口語文教育と注音字母教育の続行が確保さ

れたものの,依然として口語文教育と注音字母の教授は不安定なものに変わり

なかったのである。その後まもなく奉天省で省長自らが,「小学校の各科目は

すべて文言文の教科書を用い,白話を禁止する」とカリキュラムの最重要原則

として掲げるという事件が起るからである。

 奉天省は,当時張作森軍閥の政権下にあった。北京臨時執政を取る安徽派段

棋瑞は,以前北京の実力者であったが,日本の原内閣成立によって後援者を失っ

た彼は,奉直戦争で敗れ失脚する。このとき奉天派の張作霧は,直隷派の曹鋸

が国会を買収し大統領に選出されたことに反対し北京へ挙兵した。迎え撃っ直

隷軍の呉侃孚は部将儒国璋の裏切りにより敗退する。奉天軍は漏国璋に迎えら

れて北京入りするのだが民衆が服従しないことを考慮し,段棋瑞の出馬をもと

め北京政府の執政を擁立させた。このため北京臨時政権は奉天省の政治力,軍

事力の影響下にあったのである。

 奉天省において文言教育が復活されたことは,北京臨時執政下の教育に直接

的な影響を及ぼすことを意味した。そこで黎錦煕らは,口語文教育及び注音字

母教育を死守せんとして・私的な立場より『国語週刊」を発刊するのである。

 このような背景のもとで『国語週刊』は,京報の創刊として6月14日に誕

生する。そのため『国語週刊』は章士剣が北京より退去する(1925.11.24)と,

まもなく雑誌の刊行を停刊(1925.12.27)するのである。

4.結びにかえて

このようにr国語週刊』は,民国成立以降「国語」創出への一連の動きを抑

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84 一橋研究 第31巻1号

止するカベの抵抗の象徴のような雑誌であった。そのため,国語運動の中核を

支えていた前雑誌『国語月刊』とは大きくその性質の異にするものである。そ

して『国語週刊』廃刊後,教育部より刊行された,注音字母の入声や音韻など

の専門的な内容が掲載されている雑誌『国語旬刊』とも,その発刊の意図が異

なっている。さらに,1930年代に刊行された後期『国語週刊』とは,言論や

通信欄など雑誌目録は類似するものの,抵抗の象徴としての意味合いは消失し,

前述したように『国語週刊』一の国語の革命的言説等は垣間見ることができない

ものであった。

 先に『国語週刊』発刊以前,制度的側面から見た従来の政治的圧力とそれに

対時する勢力,その制度の中に内在しているいまだ未創出の「国語」の問題を

指摘した。『国語週刊』誕生の時には,この上述の要素を飲み込む程の国語教

育を揺るがす権力の争いが存在していた。中でも,章士剣のようにその権力の

上に乗り,意図的に自らの志を教育体制に反映させようとするものの存在は,

これまで国家的な取り組みを行ってきた国語運動に危機的な状況を生み出すも

のであった。

 このようにして誕生した『国語週刊』の指し示しているものとは何であろう

か。大きく四点ほど取り上げてみたい。

 第一に,国語運動家たちの立場の一変である。政治的情勢が緊迫し,これま

での中枢から在野へ立場が一変することにより,制度自体の見直しを余儀なく

される。章士釦が注音字母の教育を「子供」や「平民」の教育という限られた

範囲に於いて使用を許可したことからも分かるように,注音字母教育を巡る初

等教育から高等教育の現状は理念的にも制度的にも不確定なものであったこと

を示している。そして奉天省の一例に関わらずこの時期,各地においても古文

復古の兆し醜が見られ,それに伴うそれぞれの地方における言語教育や制度の

見直しが求められていく。

 第二に,地方と中央の言語教育の格差の問題であ乱第一と付随するかたち

で,各地方独特の音韻,音素と政府より発行されたテキストとの乖離や,教授

法の格差が現れてくる。国家標準のテキストではその地方の音素を表記するこ

とができず,場所によっては国家標準のテキストを解釈するためのテキストが

必要となり,教授する仕方も二重に負担がかかってしまうとの声が上がってく

る醐のもこの時期である。

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民国期の「国語」問題についての二考察 85

 第三に,注音字母と方言音との問題であ引これは第一,第二を踏まえ字母

自体の欠陥とその役割を見直すとともに,方言の調査を行い方言に対応できる

字母を作っていこうというものである。方言調査は1924年の方言調査会設立

以降に始まる。方言調査や方言字母に関する記事を比べてみると,『国語週刊」

の時には方言音に関する論説は余り見られないが,次に刊行される『国語旬刊』

から方言音の研究成果がより具体的な取り組みになってあらわれでいる。

 そして第四に,国語運動者の分散である。これまで五四運動を経て最高潮に

達し会員数はこれまでの三倍を超えたと黎錦煕は報告している。しかし,これ

らr国語」を創出せんと国語運動を支える人々も,それぞれの郭に帰り活動を

していく中で散っていく。そして上述したように政治的,制度的,或いは言語

的な困難に直面す乱そのような状態の中での注音字母は万能な特効薬となる

ことはなく,それぞれの圧力の中で方向を転換した人々も多い醐。標準語音の

重視か方言音の重視かという問題は,その後の大衆語運動の中で大きな転期を

迎えるものの,下瀬が述べているように,その統一への方向性がまったく異な

るようにみえるその視点が,この『国語週刊」が刊行された時期にもうすでに

見え隠れしていることは,紛れもない事実であろう。

 しかし上記の四点はあくまでも仮定であり,今後,具体的な『国書吾週刊』の

議論を取り上げながら再度検討していく必要がある・また,ここでは紙幅のた

め述べることができなかったが,具体的に「国語週刊」を取り上げる際には,

注音字母が漢字の読みを支えるためだけでなく,ことばを表記するものとして

多大な責務を負うようになった,その思想的,言語的を踏まえ分析していく予

定である。

ω 下瀬は,大正6年(1917)から6,7年間陸軍軍医学校の校長として勤務してい㍍そのさい議

 音統一会の会員であった江榮宝や後に文字改革の建議をする程明超らとの親交を深めた。それから

 欧米視察のためヨーロッパヘ向かう。その後,日本に帰国し中国の国語国字運動やローマ字運動の

 資料を通し講演をしたものを著したものが,下瀬謙太郎『支那語のローマ字化をめぐって一民国政

 府の国字国語運動のあらまし」柏屋E岬1所,王936,である。

12〕同上書,4-9頁。

13〕中華民国国語研究会編輯「国語月刊』上海中華書局,1922,2-1925,5(全15期)

14)国語統一義備委員会編『国書吾句干1」』北平文化学社,1926,8.1一ユ2、ユ1(全13期)

15〕国語統一筆備委員会編r国語週刊」1931,9.5-1936,9.26(全260期)

/6〕黎錦煕「発干1」辞」ギ国語週刊』第1期王頁,ユ93ユ,9.5

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86 一橋研究 第31巻1号

17〕銭玄同,黎錦煕主編『国語週干1」』北新書局,ユ925,6.ユ4-2.27(全29期)

18〕ユ862年(同治元年)の同文館を皮切りに1863年に上海広方言館,翌年湖北方言館などが設立す

 る。王876年(光緒二年)には李鴻章が天津電報学堂を,80年には北洋水師学堂を設立する。張之

 洞も87年に広東水師学堂,90年に南京水師学堂,93年に武昌自強学堂を設立させ乱これら近代

 軍需産業と新式の学堂は橋本高勝r清末における西洋文物の導入と反応」(啓文社,1973)を参照。

19〕張之洞(1837-1909)は清末洋務派の指導者であ乱字は孝達,号は香涛。直隷省の南皮(現在

 の河北省)の人。同治の年に進士に合格し,翰林院侍講学士,内閣学士等の職に付き,1867年に

 湖北学政を任される。以後生涯をかけて,学制改革に取り組む。張之洞の教育への取り組みは,清

 末の洋務運動の流れと並行する形から始まり,ティモシー・リチャードとの出会いを境に徐々に西

 洋学間に力を入れるようになってい㍍張之洞の教育政策に関する先行研究は,阿部洋『中国近代

 史学校史研究」がある。これは近代教育の側面から『奏定学堂章程』の主編者である張之洞を述べ

 たものであ飢また,江椀『清末中国の対日教育視察の研究』の中では,留学教育を推進し多くの

 留学学生を派遣した張之洞の学制運動が述べられてい乱中文書では蘇雲塞『張之洞与湖北教育改

 革』が張之洞の学制改革の専門的研究であ乱これは洋務運動の中から張之洞が教育改革でなした

.功績を分析したものである。また王柄照r中国近代教育史」,任時先『中国教育思想史』は張之洞

 の教育思想の一端を論じている。だが,近代教育においての張之洞の研究は近年出始めたばかりで,

 本格的な研究はこれからである。

OO〕張之洞のr勧学篇』はユ898年r湘学報』の37-45期に連載されたものである。戊戌期には各省

 の巡撫によって頒布され,引用され孔内容は二四篇であり,内篇九篇,同心,教忠,明細,知類,

 宗経,正権,循序,守約,去毒。外篇十五篇,益智,遊学,設学,学制,広訳,閲報,変法,変科

 挙,農工商学,兵学,砿学,鉄路,会通,非揖兵,非攻教であ孔(張之洞r勧学篇」r近代中国史

 料叢刊第九』沈雲龍編,文海出版社)

O1〕1901年(光緒二十六年十二月緒十日)西太后は,内外大臣及び各省督撫にたいし清朝政府の国

 政や民衆統治,掌校,科挙,・軍政,財政のあらましを見直し,その改革を命じる諭旨を発表する。

 「下記変法」『中国近代教育史資料睡編・学制演変』上海教育出版社,1991,2頁

02〕直隷総督衰世凱(ユ859-1916)は,光緒二十七年(1901)の上諭によって,省立書院を改造し大学堂

 を設立し,中学堂を各府庁,直隷省に,小学堂を各州県に設置を徹底させ,蒙養学堂を増設する旨

 が各省に命じられたとき・いち早くこれに答えl r山東学堂事官及誠一章程」を奏摺す乱ま牟・

 光緒三十二年には保定師範学堂のほか天津に北洋師範学堂を設立させる。政府は1901年(光緒27

 年ユO月15日)r諭政務処将責世凱所奏泰山東学堂事官及誠一章程通行各省倣照孝一」を発す。

03〕1902「敬陳大計疎」『皇朝道威同光参議』巻六下,光緒壬寅秋上海久敬奇石印本(『中国返代教育

 史資歴編・学制演編』、ヒ海出版社,ユ99ユ,29頁節録)

○切政府は1902年8月(光緒27年7月16日)「諭以策論試士禁用八段文程式」並びに「諭停武生董

 考試及武科郷会試」を上諭し各省に通達する。/902年9月(光緒27年8月2日)政府はr諭於各

 省府直隷州及各州県分別将警防改設大中小学堂」の諭旨を発し,全国の書院を学堂へ改設する旨を

 通達した。1902年2月13日(光緒28年1月6日)張百煕のr壽辮大学堂大概情形」が奏上され

 る。

05〕政府の命を受け,京師大学堂を視察した張百煕は,1901年(光緒27年9月)当時外務部に所属

 していた京師同文館を大学堂の下に,また,礼部の頂点である国士舘を大学堂の上に置くことで,

 国子鑑一京師大学童一1同文館という系統を考えを奏請し㍍1902年/月14日(光緒27年12月5

 日)「諭将京師同文鰭着帰入京師大学堂」により,政府は外務部所属の京師同文館を,大学堂の所

 属とし管学大臣の統制下に置くことにより.一層新学制の準備が整ってい㍍これら清末の学制の

 改革に就いては多賀秋五郎r近代中国教育史資料 清末編』(みすず書房,!980)を参照。

○田張百煕は1902年8月15日に『欽定京師学堂章程』『欽定考定入学章程』『欽定高等学堂章程」

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民国期のr国語」問題についての一考察 87

 『欽定中学堂章程』r欽定小学堂章程』『欽定象学堂章程」を発する。これらを総じて『欽定学童章

 程』という。

07〕1901年清朝政府は新政を宣布し政務処を設置するとともに,張之洞を湖広総督兼参預政務大臣

 に命ず乱この北京入城以降,張之洞は本格的に清朝内部の官僚として教育改革の中心に鎮座する

 ことになる。張之洞は新政府以後,先ず湖北にて全国の教育規模を調査し,湖北において各段階の

 学校システムを確立し,教育政策を発布す私続いて学校建設の基準と各段階における学校教科書

 を規定し,湖北師範教育と国民教育を推進する計画を進めていく。その際,羅振玉を教科書選定の

 責任者とし日本への学事視察を命ずる。また,一方で張百煕は張之洞にr敬陳大計疎」(1901〕を奏

 上する前後に,書簡で「新学制」の在り方にっいてのやり取りを交わしている。張之洞は「…近頃

 諭旨と新聞に刊載された御大作の「敬陳大計疎」を読みましたが,非常に精密で詳しく,山東章程

 と比べてもなおよくできており,敬服致します。調査員を派遣し」層考察をすることが最も重要で

 す。まず予備科を設け具体的に「実事求是」を求めるべきでナ」と新学制のあり方を述べている。

 (劉春霧『張之洞全集」河北人民出版社,1998.8743頁)

皿8〕張百煕に懇願され,羅振玉の帰国五ヶ月後の1902年6月から10月まで日本で学事視察を行う。

 呉汝給の日本視察では,学校訪間はもちろんのこと,学校関係者,教育家,新聞社,政治家など多

 くの知識人との交流が特徴であ私また,その視察の様子は『東遊叢録』によって知ることができ

.る。呉汝紛『東遊叢録』は1902に東京の三省堂で出版されたものであり,「文部所講」(文部省で

 の講義概要)「摘妙日記」(日記の精選)「学校図表」「函乱筆談」(書信や筆談の言己録)の全560頁,

 四部構成からなる。

09)1904年ユ月13日管学大臣張百煕は,栄慶,張之洞らと共に『重訂学堂章程折』r奏定初等小学

 堂章程」r奏走高等小学堂章程」r奏定中学堂章程』r葵走高等学堂章程」r奏定大学堂章程』r奏定

 蒙養院章程及家庭教育法章程』r奏定初級師範挙党章程』r奏定優級日乖範学堂章程』r奏定佳用教員

 章程」『奏定訳学嬉章程』『奏定進士館章程』「奏定初等農工商実業学堂章程』『奏定実業補修普通学

 堂章程』r奏定芸徒学堂章程』r奏定中等農工商実業学堂章程』r奏走高等農工商実業学堂章程』r奏

 定実業教員講習所章程」「奏定実業学堂通則』『奏定各学堂管理通則』『奏定学務綱要」『奏定各学堂

 考試章程』『奏定各学堂奨励章程」を発布する。これらをまとめて『奏定学堂章程』と言う。(張之

 洞r奏定学堂章程」台聯国風出版社,1970)

竈① r奏定学堂章程」では,高等小学堂より言語統一のため官話の学習が義務づけられる。r学務綱

 要」のr各学堂はみな官話を学ぶべし」の項目には,r官話」によって言語の統一を行うことを明

 示している。「中国文学」という授業科目では,その目的を「通行している官話を使用とすること

 で全国において言語を統一し,民衆の志を団結する」としている。その意義として「四民が日常用

 いている文章を理解し,日常使われていることはを解釈し,気持ちを表現できるようにする」こと

 をあげている。日々使われている言葉を理解し,どう表現するが教室の中で要請されているのであ

 る。つまり,この章程において初めて話すことと書くことを一元化しようとすることが近代国家形

 戌の目標のひとつとして掲げられたのである。(『中国近代教育史資料睡編・学制演編』上海出版

 社,1991,310頁)

竈1〕r清国行政法』ではr其各学相互ノ間ニハ幾卜系統モナク連絡モナク唯各種各様ノ教育機関ガ偶

 然騨立シテ互二錯雑紛稀ヲ椙為セルノミ其収容セル生徒ノ姉キモ大抵健二1日学二素養アルニ止マiナ

 新学予備ノ知識二於テハ全然欠如セル者多ク中ニハ父祖ノ庇護二因リテ入学ヲ許サレタル者了■」其

 年齢ノ如キモ少キハー七八歳多キバ四五十歳二及ヘル者アリ又郷貫ノ相異二因リ所謂官話ヲ知ラサ

 ルトキハ言語相通セサル者アリ」と言己されてい乱『清国行政法』は明治36年(ユ903),後藤新平に

 より京都大学法学部法学博士であった織田萬に臨時台湾調査1日債調査委員として任じられた。第三

 巻は明治43年12月(19ユ0〕に干■」行きれたもので,その調査した時期は.狩野直喜が参画した明治38

 年(1904)前後から刊行直前までと推測できる。清国行政法の科挙ないし新式の学堂についての調査

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88 一橋研究 第31巻!号

 は,当時京都大学法学部にいた織田萬が,郷里熊本で静養中であった狩野直喜を協力者として後藤

 新平に推薦するとともに,実務担当として東京帝国大学漢学科卒の浅井虎夫を採用している。

吉川幸次郎は『中国哲学史』の肢文で「干■」行きれた報告のうち,清国行政法その名を署せざる著述で

 ある」と評している(狩野直喜『中国哲学史」(岩波書店,1953)を参照)。

織田萬『清国行政法』第三巻「新学制」台湾商務印書館.1904,443頁。

ω 江謙r奏報分年警備立憲宜清単」(硯海曙r清末文字改革文集』文字改革出版社,!958,117頁)

竈ヨ〕読音統一会1913年に教育部で選考した80名の会員を中心に行われ㍍その目的は(一)讃音統

 一会r本会之職務(一)審定一切字音為法定国者(二)将所有国者均所為豆単至純之音素,核定所

 有因素総数(三)採定字母毎一音素,均以一字母表之」(黎錦煕r国語運動史綱』上海商務印書館,

 1934,50頁)と示されてい乱

竈坦武田雅哉r蒼韻たちの宴』筑摩書房,1994,259-260頁。それ以外にも読音統一会の会議の様相

 は,倉石武武四郎r漢字の運命j(岩波新書,1952,66-75頁)や侃海曙などに記されている。そ

 のもとになったのは黎錦煕『国語運動史綱」(上海商務印書館,1934)であろう。ここには読音統

 一会に参加した会議のエピソードが事細かに記載されている。

幅5〕 『国語週刊』第一期,黎錦煕「国語研究会底年譜和裁椚底厳重的声明」1925,6.14

㈱章士金1」は1925年にr国語週干1」」に対抗する・形でr甲寅週刊」を発干1」する。章士金1」については,

 高田淳『章柄麟・章士釦・魯迅』(龍渓書舎,1974)や丸山昇『魯迅』(平凡社,1965)など女子大

 事件と魯迅との係わり合いで述べられているものが多い。また,章土釧についての研究書は郡小姑

 r章士金1」社会政治思想研究」(湖南教育出版社,2000)がある。

⑫刀 張若英『新文学運動史資料』光明書局,1934,227-241頁

㈱ 黎錦煕r国語運動史綱」上海商務印書館,1934,ユ31一ユ41頁

⑳ 白海州「是不足陰謀古文復辞」『国語週刊』第2期5頁,1925,6.21

θo〕 r若間国語底宗旨,一面是謀全国語言統一,非教育部定一個標準出来不可:一面是謀文字教育底

 普及,非教育都容許作浅易的白話文並将注音字母,饗助他椚識字不可。総而言之,道都皐小学教育

 和通俗教育底事,只以小核子和平民為範囲。」一黎錦煕「是個拉坂成個推」『国語週刊』第13期7頁,

 1925, 9.6

制〕 「他首肯了:小核子不一定個々是請書的,平民更不用説,都役用件魔関係。因為和高等専門人才

 教育井不相手」前掲,同頁。

1鋤 前掲,『国語週刊』第18期,8頁。

13ヨ〕前掲,『国語週予1」』第8期,第9期。

働 『国語週刊』第4期の「国語運動の暗礁」の中では,国語の普及がいかに暗礁に乗り上げていた

 かを4つのタイプに区分している。

極端に反対する派 r文以載道」を主張する者

表面だけ従っ派 1以前は積極的に国語を提唱したが現在は文言復古を主張する

メ2一方で国語を宣伝しながらも、もっ」方でたらめな事を言っ者

3文言を主体とし、国語の文体を応用すると主張する着

意味無く従フ派 1他人本位で自己が無い者

2知識が上滑りしている老

後生おそるべし派 自分の意見を持たずに三つの派の影響を受けてしまっ者

(L.H.「国語運動的日吉礁」r国語週刊』第4期3頁、ユ925,7.5)