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イーシャ・ウパニシャッドイーシャ・ウパニシャッドイーシャ・ウパニシャッドイーシャ・ウパニシャッド(全18節)
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translated with notes by Swami Lokeswarananda
"ISA UPANISHAD" (フリー文書より日本語訳 ‘09/12)
「ウパニシャッド」とは、書物をいう言葉ではありません。「叡智」を指ししめす言葉です。この「叡智」
は、一般にいう知識とは異なります。平安、幸福、祝福を授ける至上の叡智です。叡智をえるには、すでに
その叡智をえた師のもとに行くことです。目が不自由なら、目の不自由な誰かのもとを訪ね、手を引いても
らおうとは思わないものです。それと同じで、叡智を求めるなら、叡智をえていない師のもとには行かない
ことです。師にはつつしみ深く接します。師は一切金銭を求めませんが、謙虚に根気よく耳を傾けるよう望
みます。これから教えようという真理を愛し敬うよう望みます。真理を強く求める気持ちを抱き、道徳面、
霊性面の準備を整えてから師にむかいます。
『イーシャ・ウパニシャッド(Isa Upanishad)』は、「イーシャ」という語からはじまることからそう呼
ばれます。「イーシャ」とは、神のこと、万人万物の最奥の「神である自己(「セルフ」)」のことです。他の
ウパニシャッドと異なり、全編がマントラから成り、多くの人が最古にして最高のウパニシャッドであると
します。『シュクラ・ヤジュル・ヴェーダ』におさめられ、おもに儀式をとりあつかうサンヒターの一部では
ありますが、イーシャ・ウパニシャッド自体は不二一元の叡智をあつかうものであり、儀式とは何ら関わり
がありません。
一般にいって、ウパニシャッドは、叡智と無知、真理と真理でないもの、唯一なるものと多様なるものに
まつわる論議にあふれます。しかし、イーシャ・ウパニシャッドは実に簡潔に、これら論議のすべてを解い
ています。相対であるすべてのものが、どのように究極的には唯一なる絶対存在に溶けこむのか示されます。
この「絶対なるもの」に名や形はありません。慣例として、それを示すのに「ブラフマン(偉大なる者)」「パ
ラマートマン(万象のセルフ)」という言葉を用います。この「ブラフマン」「パラマートマン」が私たち存
在の本質であり、存在するすべての背後にあります。名や形は多様であっても、本質においてただひとつで
す。ひとつなるものについて、ひとつなるものと私たちの関わりについてが、このウパニシャッドで追求さ
れる主題です。
2
====祈り祈り祈り祈り====
[訳]
オーム、かのブラフマンは無限。この万象の世もまた無限。
しかし「これ」は「かれ」の投影にすぎぬ。
「これ」がとりさられようと、「かれ」は同じく無限。
人々に平安を、草木樹木に平安を、生き物に平安を。
[解説]
ここでは、万象の世がそれのみで存在するのではないことが示されています。万象の世は、ブラフマンが
あって存在するものであり、ブラフマンに映しだされた像にすぎません。暗がりを歩けば、縄を蛇に見まち
がうこともあるでしょう。この幻惑は縄があって成立します。幻惑がたち消えたなら、もはや蛇は存在しま
せん。蛇は縄に溶解します。同様に、ブラフマン(私たちの本質でもある)を知るなら、この世はブラフマ
ンに溶解します。
3
=マントラマントラマントラマントラ 1111====
[訳]
移ろうこの世では、すべては変化し、すべては神に包まれる。
放棄を実践し、「セルフ(ブラフマン)」の意識に確かに在れ。
他人の富を求めるなかれ。
[解説]
この世も、この世のすべても、たえず変化します。しかし、この世とすべてを支えるものは、決して変化
にさらされません。つねに同一です。それが神です。神にもとづきすべてがあります。スクリーンに映しだ
される動画のようです。動画は動いていても、スクリーンは変わらず同じです。それと同じで、万象の世は
神に映しだされる像です。この世は映しだされた像にすぎず、暗がりの縄に蛇を見るようなものです。この
蛇は、それのみで存在するのではありません。縄があって存在するのであり、光が射したとたん、存在しな
くなるものです。同じように、ブラフマンを知るなら、この世はブラフマンに溶解し、「私」とブラフマンと
が唯一同一であることを理解します。この叡智に達することが人生の目的です。そのとき、この世があなた
を損ねることはありません。あなたとこの世の関わりは、長いこと水につかっていた白檀が、ひどい臭いを
発するようなものです。しばらくは白檀の香りがかき消され、ひどい臭いを放つでしょう。しかし、少しば
かり削ったなら、ひどい臭いは消え、白檀の香りが強まります。それと同じで、あなたのこの世への執着も、
一過性にすぎません。長らえることはありません。自らを、ブラフマンである、「純然たる意識」であると思
いなさい。たゆまず、確かに、そう思うことです。今あるこの世への執着も過ぎゆきます。
しかし、どうしたらブラフマンの叡智がえられるのでしょう。放棄の実践によりえられます。この世もこ
の世のあらゆる魅力も本物でない、移ろいゆくという意味において真理ではないと、たえず心にとめおきな
さい。ブラフマンのみが、不滅であるがゆえ、真理です。この世を放棄し、ブラフマンに専心することです。
黄金が心を惹きつけようと、それもひとときのことです。決してはかないものを追い求めぬことです。決し
て他人の富をむやみに求めず、自分の富にも執着せぬことです。この世とは移ろうものであると知る人にと
って、富は富でなく、どんなものであれ快楽は不快なものです。ブラフマンのみを想い、ブラフマンに浸り
なさい。ブラフマンのみが真理であり、あなたがそのブラフマンです。この意識を養い、その他のことはす
べて忘れてしまいなさい。
4
=マントラマントラマントラマントラ 2222====
[訳]
百年の世を生きたいと願うなら、経典の定める責務を行うべきもの。
かように責務を行うなら、いずれの行いの結実にもくくられぬ。
それのみが道である。
[解説]
先のマントラは放棄を呼びかけるものでした。この世の差しだす快楽を追い求めることには、何ら意味が
ありません。快楽を求めても、快楽とはたちまち消えさり苦しみとなるものであり、やっかいごとに身をお
くだけです。しかし、放棄のできる立場にある人ばかりではありません。事実、大部分の人は人生を愉しむ
ことを望んでおり、このマントラはそうした人々のためのものです。百年という長寿を望むことにも何ら問
題はありません。しかし、百年を生きながら、経典にしかれる決まりごとに厳密にのっとり、欲望を満たし
ていくことです。そうすることで、ゆっくりと心が浄められていき、快楽への切望も消え、分別がよく培わ
れ、「セルフの叡智(ブラフマン)」への愛が強まります。そのときには、いく度もの人生でなされた行いの
結実にも、もはや執着しなくなります。そうして放棄の道への準備が整います。
これが、ただちに放棄のできない人々の唯一の道です。道を外れたと思うことはありません。時間がいる
だけです。遅かれ早かれ、いずれは放棄の道をとるものです。それまでは、ここに記されたことに続くこと
です。
5
=マントラマントラマントラマントラ 3=3=3=3=
[訳]
この世にあるといわれる太陽なき世界は、魔物らにふさわしい。
彼らは闇に包まれる。
それこそ、盲人(「セルフ」を知らぬ者)の知る世界。
「セルフ」の叡智に至ろうとせぬ者は、自らを殺し、
死ののちその世界に入ることを余儀なくされる。
[解説]
ここでは、「セルフの叡智(ブラフマン)」に達しようと努力を重ねぬ人をいさめています。それはまさに、
真の意味で、自分を殺すことです。五感の快楽の奴隷になり、生命の目的をすっかり忘れ、生命の師を忘れ
てしまうこと以上にひどいことがあるでしょうか。自らを修めるには、「私」はブラフマンと同一である、「万
象のセルフ」と同一である、「私」とは、永遠なる解放であり、名も形もなく、何ら条件のない、純然たる意
識であると知ることです。「私」は変化にさらされず、はじまりも終わりもなく、思考も言葉も超えます。そ
れを知ったなら、解放に至ります。もはや生と死の間を行ったり来たりすることもありません。自分が真に
誰かを知ろうとしないなら、まさに自らを殺しています。この世の奴隷として恥をさらし、死後も不運にみ
まわれます。
6
=マントラマントラマントラマントラ 4=4=4=4=
[訳]
ブラフマンは唯一無二。
決して動かず、かつ心より速い。つねに先んじ、五感にも追いつかぬ。
その力は、空気にみなぎる神の力。水を支え、万象すべてを支える。
[解説]
ブラフマン、「セルフ」は唯一無二であり、それのみで完全です。決して動かず、つねに同一でありながら、
心よりも速く動きます。すべてを動かす力であり、そうしてこの世のすべてが流れています。ブラフマンは
万物の「マータリスヴァー(空気にみなぎる神)」の力となり、マータリスヴァーは因果(原因と結果)の原
理をにないます。
ブラフマンを説明することはできません。思考も言葉も超えます。すべてに行きわたり、すべての内に在
ります。形はありませんが、形をとるもののすべてです。名前はありませんが、名前のあるものすべてです。
まさに唯一無二です。それを強調して、相矛盾することが言われます。「ブラフマンは動じない」と言ったす
ぐあとで、「心より速い」と続きます。これはどういうことでしょう。
これは、ブラフマンには二つの相があるということです。相のひとつには属性がありません(ニルグナ)。
絶対真理、「純然たる意識(シュッダ・チャイタニヤ)」です。絶対存在、絶対叡智、絶対の至福です。それ
が「万象のセルフ(パラマートマ)」です。
相のもうひとつは属性をそなえます(サグナ)。相対にあります。この相においては、形があり、善/悪、
大/小といった資質をとることができ、そうした資質は無限に多様です。ここで心にとめおくべきは、それ
ら資質が属性であるにすぎず、投影にすぎないということです。それらがブラフマンに影響をおよぼすこと
はありません。子どもたちがつけて遊ぶ仮面のようなものです。心とは、それ自身では不動であり、「セルフ
(アートマン───ブラフマンの別の呼び名)」に動かされてはじめて活動します。「セルフ」が心を動かし
ています。「セルフ」がいたるところにいきわたることから、このことは身体の他の器官についても同様です。
7
万象のあらゆる要素にも同じことがいえます。「因果」の原因の背後、結果の背後で働く力です。
空気を例にしてみましょう。空気について「セルフ」とのかかわりでいえば、空気は「生命エネルギー(プ
ラーナ)」と呼ばれますが、空気そのものが生命を維持するのではありません。また、空気は「空間(マータ
リ)」を「動きまわる(スヴァー)」ことから、「マータリスヴァー」ともよばれます。ここでもやはり、「万
象のセルフ」があって活動します。このマータリスヴァーが、ヒラニヤガルバ(ブラフマンの第一の具象)
となり、ストラートマ(万象のセルフ───花の首飾りをつなげる糸のように)となります。ブラフマンが
この世の万象すべてを統御するのは、この属性をそなえる相においてです。「『それ』を畏れ炎は燃え、『それ』
を畏れ太陽は光り輝く。『それ』を畏れ、インドラ、ヴァーユが動き、第五の『死』が活動する」(『カタ・ウ
パニシャッド』 二-三-三)
ブラフマンから分かたれて生じるものはなく、かつそれらがブラフマンに影響することはありません。万
象のこの世のすべては、ブラフマンから生じ、ブラフマンに維持され、最後にはブラフマンに溶解します。
8
=マントラ=マントラ=マントラ=マントラ 5=5=5=5=
[訳]
「それ」は動き、かつ動かず。
はるかに在りて、そこに在り。
内に在りて、外に在り。
[解説]
このマントラは、名も形もなく何ら特徴というもののないブラフマンを説明するのが、いかに不毛である
かを示しています。ブラフマンは何ものでもなく、かつすべてです。思考も言葉も超えた何ものでもないも
のでありながら、すべてを包みこむすべてそのものです。唯一同一でありつつ、名と形のうえでは多様に見
えます。しかし、それら名や形は投影であるにすぎません。何ものにも、いずれにも関わらぬ、「それ」そ
のものです。たえず変わらず、変わることなく、何にも左右されません。遍在しつつ、すべてを超えます。
ブラフマンそれ自体は、動かず、普遍です。たえず同一です。雲にかくれる月が動くのを見ることがあり
ますが、実のところ月は動かず、動いているのは雲です。同様に、ブラフマン、「セルフ」は、つねに同一
です。生まれることも死ぬこともありません。肉体との関わりから、誕生し死を迎えるように思えます。新
しい衣服を着ても、古くなりすり切れれば脱ぎすてます。これが衣服と身体との関わりです。肉体と「セル
フ」の関わりも同様です。
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=マントラ=マントラ=マントラ=マントラ 6=6=6=6=
[訳]
自らにすべてを見、すべてに自らを見る者は、
何ものをも憎まず。
[解説]
これは、「サーマ・ドリシュタ(視点の公平さ)」と言われるものです。生けるすべてが、同じ「セルフ(ブ
ラフマン)」です。本質として、私たちはひとつであり、名や形が異なるにすぎません。しかし、これらの
名や形は投影です。真に実在するものでなく、よって私たち存在の一部をなすでもありません。名や形は、
それをとおして存在というものを真に見知る、薄いヴェールのようなものです。少年が様々な仮面をつけて、
他の子どもたちに「ふり」をします。虎の仮面をつけて虎のようにふるまえば、子どもたちは怖がります。
猿の仮面につけかえ、猿のようにあたりをとびまわれば、子どもたちは笑います。それがしばらくは続いて
も、最後には仮面をはずし、少年は自分にかえります。そうして、自分が彼らのひとりであると知ります。
「少年」はいつも同じですが、仮面が違って見せていました。私たちは同一のひとつのもの、ブラフマンで
す。名や形が違うものに見せているにすぎません。
このマントラは、私たちは本質としてひとつである、と見るよう説いています。ブラフマンから下草の一
枚にいたるまで、唯一の存在があるのみです。おのおのの「部分」が「全体」をつくりあげるのでもありま
せん。「セルフ」はいたるところで同一です。私があなたを傷つけるなら、私が傷つきます。私たちはみな
が幸福になってはじめて幸福になります。私たち───人間、動物、昆虫、植物───はひとつです。生命
の目的は、存在というものがひとつであるのを真に知ることです。すべてがひとつと知るなら、憎しみも隠
しごともありません。そこには愛があるのみです。
10
=マントラ=マントラ=マントラ=マントラ 7=7=7=7=
[訳]
「自ら」が「すべて」となり、
すべてがひとつであると知るなら、
何かを好み、何かを嫌(いと)うことがあろうか。
[解説]
「セルフの叡智(ブラフマン)」をえたのであれば、すべてとひとつであると感ずるものです。「私」がい
たるところ、あらゆるものに在ります。「二者(「これ」と「かれ」)」でなく「ひとつ」であり、この「ひと
つなるもの」が「私」です。ひとつであるというその意識が、生命の至上の到達地点です。体験する場とし
ては、まぎれもなく多様を呈していますが、多様の名や形をそなえたことで、自ら多様になったにすぎませ
ん。別の何かに変化したのではありません。なお唯一同一です。
ひとつであるという意識には、執着、憎しみ、嘆きがありません。二元性───多様を見ること───は
無知であるためです。「セルフの叡智」、ひとつであることの叡智により、この無知は完全に断たれます。
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=マントラ=マントラ=マントラ=マントラ 8=8=8=8=
[訳]
「セルフ(ブラフマン)」は遍在。
輝かしく、形をもたず、欠点をのがれ、汚されず、すべてを知る。
自らを治め、至上にして、それのみで在り、無窮。
あらゆるすべてをとりまとめる。
[解説]
ここでの論題は、どうしたら平安がえられるのかということです。二元の意識があるかぎり、他者との関
わりは、親密であったり敵意にあったりします。理想とすべきは、この世のすべてをそのままに受けとめる
心───空のように広大な心───でいることです。純粋で、輝かしく、自由な、すべてを抱きとめる心で
す。自分という「私」が、万人万物の「セルフ(私)」でもあるのだと知ることです。
不二一元論では、それを「セルフ(ブラフマン)」の本質とします。そうでなく思わせているのは偶発的な
属性であって、それが「セルフ」なのではありません。「セルフ」は純然たる観照者であり、万象のこの世の
いずれにも引きこまれることがありませんが、万象の世は「セルフ」があって続いています。ランプは光を
さしかけ、光なしには何も、善悪も、見えません。しかし、何に光をさしかけようと、ランプには影響しま
せん。「セルフ」と万象の世の関わりもそうしたものです。
12
=マントラ=マントラ=マントラ=マントラ 9=9=9=9=
[訳]
やみくもに供儀を行う者は、目の開かぬ暗闇にむかう。
しかし、神々女神を崇拝するだけの者は、より暗き闇にむかう。
[解説]
「目の開かぬ暗闇」とは、無知を示します。神々女神を崇拝する人は、崇拝のむくいを求めることで、さ
らに暗き闇にむかいます。「私は」「私のもの」という意識のあるかぎり、「セルフの叡智(ブラフマン)」は
ありえません。「私は」「私のもの」と言うとき、自分というものが肉体と心から成るとみなしています。つ
まりは、真の「セルフ」───純然たる意識、万象の「セルフ」───について無知である、ということで
す。無知である人は、そのように「私は」「私のもの」という言葉を用います。「私はこれこれである」「私に
はこれだけの資産がある」というように、です。
無知な人の心には数多くの欲望があり、欲望の数々によりいくどでも誕生します。しかし、欲望を満たそ
うとすればするほど自分の想いを握りしめ、それがはてしなく続いていきます。しかし、人には思慮深さ、
道理、分別が授けられています。よって、自分のたどってきた道は、心に平安を与えはしないのだと気づき
ます。それとは別の道、放棄の道をとらねばならないことを理解します。放棄を実践しないなら、盲人のよ
うに暗闇をさまよい苦しみます。
暗闇をさまよう人には二種類あります。一方は、「アヴィディヤー」を崇拝する人、つまり、なぜそうする
のかを考えることもなく、定められた供儀をやみくもに行う人々です。暗闇をさまようのももっともなこと
です。自らを救うには、「セルフの叡智」を求めなければならない、その真理に目が開くその日まで、暗闇に
あります。
さらにひどいのは、「ヴィディヤー」を崇拝するもう一方の人々です。ヴィディヤーは、一般には「叡智」
のことですが、ここでは「神々女神」の意です。いつかその位置に達しようと、神々女神を崇拝する人々が
います。その欲望が満たされることはありますが、解放を遅らせるばかりです。そこから、ウパニシャッド
は彼らがより暗き闇にいると言います。
13
=マントラ=マントラ=マントラ=マントラ 10101010====
[訳]
学識者らは言う。
アヴィディヤー(アグニホートラその他の供儀)の道と
ヴィディヤー(神々女神の崇拝)の道は、異なる結実をもたらす。
賢き者はそれを知る。
[解説]
ヴィディヤーとアヴィディヤー、いずれも「セルフの叡智(ブラフマン)」の障害となりますが、さらにヴ
ィディヤーはアヴィディヤーに劣ります。ここでは、「ヴィディヤー」という言葉を特定の意味で用いていま
す───神々女神の崇拝のことです。神々女神を崇拝することで、死後、神々女神の世界にむかいます。し
かし、それが有益でしょうか。そこですごす時間は無駄になります。そこにいなければ、目的地である「セ
ルフの叡智」へとむかい前進することに時間を使えるからです。それは神々女神の世界では不可能なことで
あり、よって、より暗き、より深き闇に進むことになります。
「アヴィディヤー」はカルマのことであり、よって障害になります。アヴィディヤー───アグニホート
ラ(聖火の儀式)その他の供儀───を執りおこなうということです。これは心を浄化していく冗長な道で
あり、暗闇を歩きまわることです。しかし、もう一方の道ほどには、時間とエネルギーの無駄にはなりませ
ん。
シャンカラの助言はこうです───行いと崇拝を結べ。両者をひとつにすることで、チッタ・シュッディ、
心の浄化につながり、「セルフの叡智」への歩みが早まります。心が浄化されることで、快楽への欲望が減じ、
「私は」「私のもの」といった意識もひいていきます。これが、シャンカラ曰く、じょじょに段階的に進む解
放の道、「カルマ・ムクティ」の道です。
14
=マントラ=マントラ=マントラ=マントラ 11111111====
[訳]
神々女神を崇拝し(ヴィディヤー)、
かつ供儀を行う(アヴィディヤー)者は、
供儀(アヴィディヤー)により不死へと至り、
神々女神の崇拝(ヴィディヤー)により至福に至る。
[解説]
神々女神を崇拝するにも、供儀を行うにも、条件となるのが、私的な何かをえることを動機にしないこと
です。神々女神の天界へ至るため、といった、行いの結実を求めぬことです。
先に解説されたように、ここでいう「ヴィディヤー」には特定の意味があります。神々女神の崇拝のこと
です。同様に、「アヴィディヤー」にも特定の意味があり、カルマのこと、つまりアグニホートラその他の供
儀のことです。それらのカルマは行うことを余儀なくされますが、何ら結実に執着せず行うことで、心の浄
化をうながします。カルマと崇拝を結ぶのは、じょじょに解放へと至る道です。放棄の準備の整わぬ人々の
道として、シャンカラも認めるところです。
しかし、この二つに別々に続いたとしましょう。アヴィディヤー───供儀───を行えば、ピトラ・ロ
ーカ(祖先たちの世界)にむかいます。「セルフの叡智(ブラフマン)」からははるかに遠い、暗き世界です。
事実、「セルフの叡智」に至るまで、そこで長い長い時間を待つことになります。しかし、ヴィディヤー──
─神々女神───を崇拝すれば、より暗き世界にむかい、「セルフの叡智」への到達はさらに遅れます。
確かに、デーヴァ・ローカ(神々女神の世界)には至りますが、その世界の快楽にからめとられ、崇拝の
結実がつきるまで、そこにとどまることになります。そうして、人としてふたたび誕生し、以前の続きから
苦闘を再開することになります。このことから、ヴィディヤーがさらに劣るとされます。
しかし、両者を結ぶ、つまり、行うべきカルマを結実に執着せず行い、かつ神々女神の崇拝を神々女神の
天界にむかうことを欲せずするなら、両者の恩恵、解放と至福をえます。いまだ放棄の道の準備の整わぬ人々
には、この道が進められます。
15
=マントラ=マントラ=マントラ=マントラ 12121212====
[訳]
「潜在(この世の因)」を崇拝する者は、暗闇にむかい盲人となる。
しかし、「顕在(目に見えるこの世)」を崇拝すれば、より暗き闇にむかう。
[解説]
アサンブーティが「潜在」、サンブーティが「顕在」です。インド哲学では「天地創造」を信じません。無
から何かが生じることをよしとせず、結果があるなら、それに先立つ原因があるはずです。目に見えずとも、
どこかの時点で「因」があったはずです。目の前にバニヤンの大樹があるとします。どのように生じたので
しょう。地面の下の一粒の種から生じました。目に見えなくとも、種はそこに存在します。存在しない、と
言うことはできません。木は種に潜在し、それが顕在となりました。
私たちをとりまく目に見えるすべては───星々、天空、山、川、平野、森、人間、動物など───かつ
て潜在し、アサンブーティの一部でした。アサンブーティは「プラクリティ、原質」と同義であり、エネル
ギーが互いに均衡した状態のことです。インド哲学では、その三種のエネルギーを、サットヴァ、ラジャス、
タマスとします。この三つが均衡にあるかぎり、顕在もありません。では何が存在したのかは、説明しがた
いことです。いまだ特定されぬ何か───波立たぬ海のようなものです。無限であり、波のない、「ひとつ」
です。
しかしこの均衡が、いずれかの時点で、何らかの理由により乱されます。なぜかは分かりません。おそら
く、そもそもそれ自体に不均衡を生じる性質があるのでしょう。これがサンブーティ、「顕在」のはじまりで
す。「ひとつ」が「多様」となり、「多様」は「ひとつ」のうちにあり、顕在となりました。まずはじめに顕
在となったものを、「ヒラニヤガルバ、はじめに生まれしもの」といいます。
アサンブーティ、サンブーティ、いずれを崇拝しようと結果は同じことであり、暗闇へとむかいます。ア
サンブーティとは何なのか全く分からなくとも、ともかく崇拝します。恐れからかもしれませんし、欲する
何かをえようとしてかもしれません。いずれにせよ、無力な盲人となり、未知なるものをたえず恐れつづけ
ます。
16
さらにひどいのは、サンブーティ、顕在のこの世を崇拝することです。この世には、恐れる何かがあり、
魅了する何かがあります。いずれにせよ、よい結果にはなりません。無力な奴隷となります。そのことを強
調し、より暗き闇にむかうと言っています。
ヴェーダンタでは、自らの内を見るよういいます。自らの「セルフ」が至上の主です。真の自分以外の何
かの奴隷であるかぎり、幸せにはなりえません。ヴェーダンタは言います。自らを修めよ。
17
=マントラ=マントラ=マントラ=マントラ 13131313====
[訳]
学識者らは言う。
サンブーティ(ヒラニヤガルバ)の崇拝と
アサンブーティ(プラクリティ)の崇拝は、異なる結実をもたらす。
賢き者はそれを知る。
[解説]
先にシャンカラは、「潜在」または「顕在」いずれかを崇拝することの不毛さを示しました。顕在化された
もの(ヒラニヤガルバ)を崇拝することで、何か特別な力を身につけることもあるでしょう。自然界には息
をのむような力があるものです。しかし、「潜在」を崇拝するなら、自らも潜在となり、潜在とひとつになり
ます。自らが崇拝するものになる、そう言われます。
18
=マントラ=マントラ=マントラ=マントラ 14141414====
[訳]
「潜在(アサンブーティ)」を崇拝し、
かつ「顕在(サンブーティ)」を崇拝する者は、
潜在により不滅に至り、顕在により死を超える。
[解説]
このマントラの一語目「サンブーティ」は、実際にはアサンブーティ、つまり「潜在」として読まれます。
韻の関係上、先頭の「ア」がとられています。「ヴィナーシャ(死)」は、ヒラニヤガルバ───一番最初に
サンブーティ(「顕在」)となったもの───のことです。ヒラニヤガルバが、いつかは消失へとむかうもの
であることから、「ヴィナーシャ」と呼ばれています。顕在化されたものは、潜在にもなりえます。
究極真理というものも、顕在、潜在、いずれにもなりえます。真理とは、顕在であれ潜在であれ、唯一同
一であることを心にとめおくことです。顕在、つまりサンブーティまたはヒラニヤガルバを崇拝することで、
自然をも超える力に達します。現代科学は、人間に何ができるのかの証明です。私たちは、確かに、生命の
様々な制約をも超えることができます。死への恐怖さえ乗りこえられます。ヒラニヤガルバを崇拝すれば、
それと同じようになります。ヒラニヤガルバは死にさらされます。「存在」をもたらされたものは、いずれも
必ず消失するためです。これは死が終わりではないことを教えています。つまり、形が変わるにすぎません。
それを知ったなら、不滅の意識がもたらされ、そうして死が克服されます。
また潜在を崇拝することをも愛することです。潜在を愛することで、潜在とひとつになります。潜在とは
原質のことであり、原質は永遠永続です。よって私たちも、永遠永続となります。サンブーティ、アサンブ
ーティ、いずれも永遠なるものへの意識を授けますが、相対的な意味あいでの永遠性です。絶対的な永遠性
は、「セルフの叡智(ブラフマン)」をつうじてのみ、たどりつきます。
ヴィディヤーとアヴィディヤー、サンブーティとアサンブーティ、これらすべては無知の範ちゅう内での
対立項です。しばしの解放感を与えはしますが、永遠なる解放ではありません。なお、カルマの手のうちに
あることになります。
19
=マントラ=マントラ=マントラ=マントラ 15151515====
[訳]
真理の顔は、輝く円盤に隠された。
おお、太陽よ、この世の命のすべてを養う者よ、その黄金盤をとりのぞきたまえ。
求道者らが、真理を目にすることのできるよう。
[解説]
ここでは、太陽が人格化されています。太陽はすべてを養います。生命の源であり、すべての源です。太
陽は、それ自体で輝き、またあらゆるものを光で照らします。ウパニシャッドは言います───この太陽の
背後に真理があり、真理とは、他でもない、ブラフマンである。私たちはみな、真理、ブラフマンを探し求
めていますが、太陽の目のくらむような輝きで見えなくなっています。それはまるで、光り輝く黄金盤が真
理をおおうかのようです。そこで、ブラフマンの顔を見ることのできるよう、どうぞその黄金盤をとりはら
ってください、と祈りを捧げます。
五感で知覚しうる対象すべてもまた、あたかも黄金盤にすっぽりおおわれているかのようであり、よって
対象に惹きつけられます。それら対象は、真には実在しませんが、実在するかのように見えます。暗がりで、
縄が蛇に見えるようなものです。灯りをさしかければ、事実縄にすぎないことが分かります。同様に、真理
を見るにも光が必要です。真理と真理でないものを見分けるには、叡智の光が必要です。目にするこの世は
真理ではありません───たえず変化し移ろうものである、という意味において、真理ではありません。真
理とは不変です。つねに同一、不滅です。ブラフマンのみが真理であり、万人万物の「セルフ」がブラフマ
ンです。無知から、一過性のものを永続すると思いこみ、しがみつきます。遅かれ早かれそれらは滅び、そ
れを嘆くことになります。実に魅力的に見えることから、そうした誤りをおかします。「黄金」でおおわれて
いるかに見えて、真に「黄金」ではありません。よってウパニシャッドは、価値のない、周辺的なことがら
に誤って惹きつけられることのないよう、真理そのものを明かしてください、と熱心な祈りを捧げています。
太陽は光、光は叡智です。叡智とは真理、真理とは叡智です。
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=マントラ=マントラ=マントラ=マントラ 16161616====
[訳]
おお、養う者、唯一の旅人、導き手よ! おお、プラージャーパティの息子よ!
その光をかき集め、とりはらいたまえ。
美しき至高の姿をお見せください。
あなたのうちにプルシャがおり、私がそのプルシャです。
[解説]
太陽は万物を養います。唯一無二の旅人、つまりそれのみで充足します。「プラージャーパティ」とは、生
きとし生けるものすべての主であり、その息子が太陽です。太陽の光はこの世のすべてを照らします。この
マントラは、その光をいくらかとりまとめるよう、太陽に祈るものです───目にはまばゆすぎるからです。
「私のため、少し光を落としてください。あなたは優雅なる御姿をもとりうることでしょう。その姿をお見
せください。私はこいねがうのではありません、その必要はないと知っています。あなたのうちに住まう者
がおり、私が『彼』であると知るからです」
太陽はブラフマンの象徴です。はじめは太陽を神格として崇拝します。その力と美には、圧倒されること
でしょう。その一片でもお与えくさいと祈ることでしょう。しかしそののち、自分と「それ」とが唯一同一
であることを知ります。この真理の啓示は、長きにわたる自制、放棄、瞑想ののちおこることです。
21
=マントラ=マントラ=マントラ=マントラ 17171717====
[訳]
さあ、死の時は来た。
私の命が、大宇宙の命へと溶けこみますように。
この肉体が、灰にまで焼きつくされますように。
この心は、一生のすべてを想い、何度となく行いのすべてを想います。
[解説]
死の時には様々な想いが心をよぎります。それらの想いには、どんな一生を生きたかが映しだされます。
しかし、死の時には善きことのみを想うよう、とりわけ努力することが大切です。私たちは想ったものにな
ります。私たちとは、「想い」の産物です。よって、心には、善き想いを抱くよう、何度となく言い聞かせま
す。死の時、一族親族が特別な祈りの捧げるのもそのためです。
22
=マントラ=マントラ=マントラ=マントラ 18181818====
[訳]
炎よ、善きことが訪れるよう、善きことへと導きたまえ。
神よ、あなたは人々の想い行いすべてを知る。
どうぞ、人々のうちの悪をとりのぞきたまえ。
何度でもこの頭を垂れましょう。
[解説]
これは、ブラフマンへと導かれるよう、炎に捧げる祈りです。死の時、粗雑な肉体は炎に焼かれますが、
精妙な「体」は残ります。この「精妙体」は一七のものから成ります───五つの生命エネルギー(プラー
ナ)、五つの知覚器官(ジュナーネンドリヤ)、五つの行為器官(カルメンドリヤ)、心(マナス)、知性(ブ
ッディ)。いずれも物質ではありますが、たいへん精妙な形でのことです。心には、これまでの想いと行いの
心象が残ります。
死の時、個としての自己は肉体を去りますが、精妙体にとどまります。精妙体となった魂は、カルマ(行
いの結実)に応じ、二つのローカいずれかにむかいます───ピトラ・ローカ(祖先らの世界)、またはデー
ヴァ・ローカ(神々女神の世界)です。さらに、カルマにより、どれだけの期間その世界にとどまるか決ま
ります。そうして、いまだ満たされていない欲望により、ふたたびこの世に誕生することになります。
魂は、誕生と死の循環の不毛さを悟り、放棄の道へとむかうまで、生と死とをくり返します。解放への道
へと続くのは放棄のみであり、究極的には、個としての自己が「大宇宙のセルフ(ブラフマン)」へと溶解し
ます。
(全18節 終了)