13
一一承平十二月 西年廿一日 一廿二日一 蔵青諾書屋本(藤原為一 家自筆本系統)であるこ 士左日記はいわゆる日記文学、わたくしのいう日記 初の作品と考えられる。 まずはじめに、士左日記における記事を整理してみると次 ごとくである。(嘩極聿蒋蔀郵駄螂醇珪鍛注な銅本職執唾擢麸需雅錯轆霊蹄 年月日 土左日記論(上) 士左 歌順 番号 |》‐||髭llJ ・・|3’ ’5一 一、’3’ 〃に二 11- 他言との関係 古典 大系 行数 (含 歌) 華祁(上) 7|含序 廿七日 |ー 4- 5.一かのひと,〃、 六帖第三海 6噸くひと 溌之 大橋清秀 和歌体十種 今昔巻第二十四 の第四十三貫之 宇治拾遺巻第十 二の十三貫之 1 7’ 「また、ある ときには、」 廿九日一蜑一 廿八日 -9』 ~三 23 10 廿 一ハpH 句1 △ユ ざ」垂ご グメ あるじのか護 ,Ⅵ 廿五日 2 1

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一一承平十二月

西年廿一日

一廿二日一

蔵青諾書屋本(藤原為一

家自筆本系統)であるこ

士左日記はいわゆる日記文学、わたくしのいう日記物語の最

初の作品と考えられる。

まずはじめに、士左日記における記事を整理してみると次の

ごとくである。(嘩極聿蒋蔀郵駄螂醇珪鍛注な銅本職執唾擢麸需雅錯轆霊蹄

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土左日記論(上)

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四日

五日

六日

七日

九八日日

|’十三日

十二冊

十一日

十日

吃一ふなびと

一恥一

一HⅡし一一

一11当一

一恥一

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一、白

⑩一あるひと

1]戸ノーニ

8一このひと

9一このわらは

昭一をんなわらは

叫びと

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『11

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ⅡIⅡ-

六帖第三みな

と貫之

後撰巻第十九

潟旅賞之

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10

’1圓回 o Q

とソ 277

類歌六帖

第四祝貫

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「この』フた

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型あるひと

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第一雑の

貫之巻

第十九

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加一あるひと

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型ぶれのをさし

一けるおきな

六帖第三磯

貫之

1918

あるひと

あるひと

15 11 5

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廿廿六五

日日

二月一日

廿九日一

廿八日

廿四日

廿七日

州日一土

左日記論(上)

37’一誕窪咋鍼みけ

弱あるひと

粥一ふなぎみ

詑一あるをむな

調あるひと

弘むかし、とさ

一といひけると

3130 鯛一あはぢのたう齢釧第一二舟

一め

28

一あるをんな

一あるひと

あるめのわら

日.言い’

’11

六帖第四ぬさ

貫之

新千載巻第八

嘉旅貫之

六帖第一子日

貫之

戸L '-,21-

’1’

1qLJ 12148

’7

「これにつ

けてよめ瀦

潭フた、」

| ’’

’四日一粥顛ねなるひと

羽あるひと

“おるをんな

五日虹一蛇

あるわらは

蝿あるひと

九日

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八日

一角

ノ、、

妬一あはじのしま六帖第三かた

のおほいご貫之

一切罫なぎみの遁

4915150 7ふなぎみの病

4者

8↑4

}‐

4むかしへびと六帖餡ハわす

れ草貫之

4あはは

蛆あるひと

故ありばらの

なりひらの中

将いま、けふあ

るひと

あるひと

六帖第三貝

貫之

六帖第五かた

み貫之

六帖第三鵬

貫之

統後拙

雑上

らず

六帖第六わす

れ草貫之巻

第十六

よみ人し

二二

1q上り翅

にことのあ

かねば、い

まひとつ‐、」

r〕・F

O D22 8

「ひと』《ノた

一句のみ同じ

六帖第六

きく

貫之集第四

たばく~こう」れかれ、

るしけれ

よめる』フ

、」 Ⅷ

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これによっても明らかなように、土左日記の記事には日によ

って簡潔な記述で終っている部分がある。こころみに古典文学

大系本の行数によってこれをみると、一行のみの記事が十一箇

’8

地・ヘノ 57565554 兜

一あるひと

RoJ△

あるひと

あるひと

あるひと

むかしのこの

はは

」圃《・原、

1

丁旧’1 1

’71132

ずやあら

ん、またか

くなん・」

「なほかな

しきにたへ

ずして、ひ

そかにこ具

ろしれるひ

とといへり

ける、フた、」

「なほあか

とあり、これらの記事の中には、天候についての記載が、「上

もすがらあめやまず」(一月廿八日)・「あめかぜやまず。」(二

月二日)・「あめふる・」(二月十四日)などとみえているので

あるが、すでに小林芳規氏も指摘しておられるところである

へ「土佐日記の文体」王朝文学ざ

一創刊号昭和三三年二月刊一

また、すでに築島裕博士霊壁垂郭霊琴漢越割礒誰中諦諦畦博禮罐寿埼

所ある。そして、これらには和歌が入っていない。そこで、こ

れらをみてみると、

金評一月)二日。なほおぼみなとにとまれり。講師、もの、さけお

こせたh/・

六日。きのふのごとし。

十月。けふは、このなはのとまりにとまりぬ。

十九日。ひあしければ、ふれいださず。

什四日。きのふのおなじところなり。

廿八日。よもすがらあめやまず。けさも。

(二月)二日。あめかぜやまず。ひひとひ、よもすがら、かみほとけ

をいのる。

十日。さばることありて、のぼらず。

十二日。やまざきにとまれり。

十三日。なほやまざきに。

十四日。あめふる。けふ、くるま京へとりにやる。

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この中にみえている天候についての記載は、「かぜなみやまね

土左日記論(上)

↑鐸麹郭輌仰元峠謹恥経玲今塞甑嘩序峰確聿剰需号酸海大)・遠藤嘉基博士が

指摘しておられるように念鑪嵯や怡弦群華峰輯鑑鋪諦剰土葹細擬鞄竝蓉

郵紹諏迄)、「きのふのごとし。」(一月六日)とあるのは漢文

訓読語と考えられる。

次に、二行の記事は七筒所あり、勿論これらにも和歌が入っ

次に、一

ていない。

(嘩秤十二月)廿五日。かみのたちより、よびにふみもてきたなり。

よばれていたりて、ひひとひ、よひとよ、とかくあそぶやうにてあ

けにけり。

廿九日。おほみなとにとまれり。くすしふりばへて、とうそ、白散、

さけくはへてもてきたり。こ&ろざしあるににたり。

(率評一月)一二日。おなじところなり。もしかぜなみの、「しばし。」

とをしむこLろやあらん、こ出るもとなし。

五日。かぜなみやまねば、なほおなじところにあり。ひと,人~たえず

とぶらひにく・

十二日。あめふらず。ふんとき、これもちがふれのおくれたりし、な

らしづよりむろつにきぬ・

廿三日。ひてりてくもりぬ。このわたり、かいぞくのおそりありとい

へば、かみほとけをいのる。¥

叶五日。かぢとりらの、「きたかぜあし。」といへぱ、ふれいださず。

かいぞくおひくといふこと、たえずきこゆ。

この中にみえている天候についての記載は、「かぜふけば」(一

月四日)という一例のみであるが、以上土左日記における一行.

二行・三行の記事計二十二を通覧してみると、七例の名詞(数

ぱ」(一月五日)・「あめふらず・」(一月十二日)・「ひてりてく

もり砲・」(一月廿三日)など三例であるが、これらの中にも、

「こ上ろざしあるににたり・」という漢文訓読語がみえている。

次に、三行の記事は四箇所あり、これらにも和歌は入ってい

ないのである。

(癖評十二月)廿二日に、いづみのくにまでと、たひらかに願たつ。

ふぢはらのときざね、ふなぢなれど、むまのはなむけす。かみなか

しも、ゑひあきて、い-とあやしく、しほうみのほとりにて、あざれ

あへり。

廿四日・識帥、むまのはなむけしにいでませり。ありとあるかみしも、

わらはまでゑひしれて、一文字をだにしらぬものしが、あしは十文

字にふみてぞあそぶ。

什八日。うらどよりこぎいでて、おほみなとをおふ。このあひだに、

はやくのかみのこ、やまぐちのちみね、さけ、よきものどももてき

て、ふれにいれたり。ゆくゆくのみくふ。

(韮評一月)四日。かぜふけば、えいでた具ず。まさつら、さけ、よ

きものたてまつれり。このかうやうにものもてくるひとに、なほし

もえあらで、いさ坐けわざせさす。ものもなし。にぎは其しきやう

なれど、まくるこふちす。

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詞を含む。)が漢字で記されているのである。そこで、これらの

語が他の諸本においてどのように表記されているかをみてみる

、上」、

1「願」(十二月廿二日)は、附・版が「ねかひ」。他はすべて「願」。

2「講師」(十二月廿四日)は、条・類・宮・術,定・寿(彰)・

版が「講師」。相・附は「新司」。寿(刈・浅・池)は「好士」。

3「一文字」(十二月廿四日)は、諸本すゞへて.文字」。

4「十文字」(十二月廿四日)は、相が「十もし」。他はすべて「十

文字」。

5「白散」(十二月廿九日)は、諸本すべて「白散」。

6「講師」(一月二日)は、条・類・宮・衛・定・寿(刈・池・彰).

版が「講師」。相は「かうし」。

7「京」(二月十四日)は、諸本すべて「京」。

となっていて、主要な写本にはすべて漢字で記されているのて

ある。(津獅謡睡は畷榊調年報頚匪権癖銅妹職池唾嘩鐙鰔却認識岼輌幟鞭昨唾癖

に関する研究第三部岩波書店昭和ニハ年二月刊によった.なお、諸本の略号

は次のとおりである。条l三条西家本.類1群書類従本。宮l宮内庁書陵部蔵本。

衛l近術家蔵本。定l定家自筆本。版1版本.寿l妙寿院本一類.刈l刈谷図詳館

蔵本。浅’浅野図書館蔵本.彰l彰考館文庫蔵本。池l池田他鑑博士蔵片仮潴本。

相I池田勉鑑博士蔵伝為相転一

写本。附註l附註の本文。、

以上のように、

一真名日記の記事をかな文にしたような表現のみられること。

二漢文訓読語のみられること。

三「講師」などの語が、主要な写本す.へてに漢字で記されているこ

、シ」。

などから、旅の真名日記が素材になっていることが明らかであ

1ユ

心』

一〈

るかと考えるのである。中田祝夫博士も新註国文学叢言土佐日

記霊需垂恥睡一)の補説において、「日記は毎日を食その日の事

象を記録したものが主であるわけであるが、中にはそれを材料

として、後日になって文学的に書き改めた場合も多い。土佐日

記などは多分その一つであらう。」調毫頁)とされており、三谷栄

一博士も、「恐らくこの日記の原典となったメモが「具注暦』の

ようなものに書き留められていた漢文日記であったかと思ふc」

(啼利垂毒年衲訓蠣店)としておられる。

士左日記の五十五日間の記事のうち、和歌の含まれていない

ものが二十九日分に及び半数以上を占めている。しかも、これ

らの記事はすべて十行以内であって、その半数以上の十八日分

がすでに記したように一行・二行の記事なのである。

そこで、和歌の含まれている二十六日分の記事について考察

したい。まずはじめに、五十八首の和歌のすぐ後の地の文をみ

てみると(船唄をのぞく)、

一和歌についての評言や話の書かれているもの二一例

二和歌についての評言や話の書かれていないもの三五例

に大別することができる。以上に属さないものは会話中にみえ

ている二例(歌順番号妬・岨〔業平〕)ということになるのであ

一○。

そして、一を、

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合和歌についての評言のあるもの一四例(7.9・吃・喝・唾‐.

妬・兜・弧・胡・“・媚・鞭・妃)

ロ和歌についての話のあるもの七例(2.8・”〔仲麻呂〕・妬・

砲・師・認)

二を

①吹の和歌の前の地の文にっづくもの三例(1.5・粥)

②次の記事にっづくもの八例(4.6・巧・肥・羽・蛇・皿・師)

⑧和歌で終っていて、吹にっづかないもの三例(皿・皿・弘)

④和歌のすぐ後の地の文のないもの・一二例

に、わけることができ、いをまた、

㈹和歌をうけて次の記事にっづくもの九例(u・唱・四・皿・翠・

句、ワー11・○○ノ

⑪。”QJ・川生・〃坐込

伺和歌のすぐ後につづく地の文がなく、改めて地の文が書きはじめ

られているもの一二例(3・Ⅳ・型・”・鋤・訓・妬・伽・印・

認・別・弱)

にわけることができるかと思う。

ここで、和歌のすぐ後の地の文に、和歌についての一評言や話

がみえている二十一例について考えてみたい。これらの士左日

記に収められている和歌のすぐ後の地の文は、和歌がなければ

書かれなかったと考えられるものが、その大部分を占めている

かと考える。そして、これは士左日記の作者である紀貫之の、

士左日記における和歌に対するなみなみならぬ関心を立証して

いるものではないであろうか。

そしてまた、和歌のすぐ後の地の文に、その和歌についての

土左日記論(上)

卓もqqJ。

話がみられることは、和歌によって土左日記の和歌の後の地の

文が展開している‐ことになり、前に記した、

①次の和歌の前の地の文にっづくもの三例

②次の記事につづくもの八例

も、和歌が書かれていることによって、土左日記の記事が展開

して行っているのである。

次に、和歌のすぐ後の地の文のないもの(㈹九例)において

も、和歌をうけて次の記事につづいているのであって、これら

によって土左日記における和歌の存在意義が明らかになったか

と考える。これについては、まだ拝見できずにいるが、渋谷孝

氏もその論考「「土佐日記』における和歌l意義と機能l」

毎需罰垂年鐸匪池輯)において考察をすすめておられるようである。

そして、この事実は偶然の結果ではなくて、土左日記の作者

の意図したものの結果であり、土左日記の成立に大きなかかわ

りをもつものであると考える。すなわち、土左日記は紀貫之が

承平五年二月十六日に帰京してから後に、前に述べた旅の真名

日記とともに、旅中の和歌の手控えのようなものを素材として

書かれたのではないかと考えるのである。

一一一

このことをさらに明らかにするために、土左日記に収められ

ている和歌のすぐ前の地の文をみてみると、次のとおりである。

一①.:のよめりける四例(1.2.6.m)上

&

!

0

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②.:よめりけるうた一例(魂)

二⑩:・のよめる九例(皿・加・皿・”・躯・鉦・粥・“・別)

②.:のまたよめる一例(岨)

3こふろやりによめる二例(配・羽)

側:・のよめるうた二一例(皿・蛆・型・羽.、鋤・認・妬・蛆・

○色句』庁a舟坐/

・川佳・川4.4荘、反J』

⑤よめるうた六例(8・Ⅳ・弘・”・虹・認)

⑥…なん、このうたをよめる一例(魁)

三の:・のいへる二例(随・弱)

②いへるうた一例(9)

3…とて、こ上るやりにいへる一例(調)

④かくぞいへる一例(“)

四①.:のかきていだせるうたこ例(3.銅)

②:・にて、になひいだせるうた一例(5)

五のそのうたこ例(7.邪)

②そのうたは一例(卿)

六①・・.、といへりけるうた一例(w)

七⑩:・よめり一例(髄)

②ところににれるうたよめり一例(帥)

八以上のいずれにも属さないもの八例(4.皿・巧・鋸・蛆・

鯛・艶・弱)

次に、古今和歌集所収の貫之の歌百二首G密を含む。)のうち、

巨臼・巨畠・巨巨の三首をのぞいた九十九首の詞耆の末尾をみ

てみると次のとおりである・念文部苧碓雑葬友藷鐙評唾蹄砿垂ユ蓉雪駄

4

割によ)

一①…よめる二例G・麗巴

②…をよめる一○例G・急・忠・馬令届?路?篭』杢患.

や、』口やい])

③.:をみてよめる八例(ら・弓・鵠?農や弓?$宇誤].

、画画)

側…をききてよめる三例合g・忌中望巴

佑.:にてよめる六例(路・患?望中亀号璋中震巴

j⑥…てよめる六例(だ・電・]弓・望号怠寧日巴

7:・とてよめる三例(程&鵠・路e

jl侶・:によめる五例角弓由君・ちゃ器?臼e

l⑨:・ばよめる二例(題・鴎e

二側…をよみける一例(忠)

⑫.:によみける一例G雷)

j③…とてよみける一例($e

三㈹…のそのながうた一例(邑冨)

四以上のいずれにも属さないもの二八例

五詞害なし二二例

そこで、土左日記に収められている和歌のすぐ前の地の文と、

古今和歌集に収められている貫之の歌の詞耆の末尾を比較検討

してみると、まず、土左日記にみえている「…のよめる」とい

う「の」助詞のついているものは、古今和歌集においては、

「・の再合のうた」(三例)・「:・のそのながうた」(一例)がみ

られるのみである。しかし、土左日記において、「こころやり

。、

一ノ

TU〆

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によめる」(二例)とあるように「に」助詞のついているものは、

古今和歌集においては、「…によめる」(五例)というように同

じ表現のものがある。次に、土左日記にみえている「.:のよめ

りける」(四例)というような形のものは、古今和歌集にはない

のである。

そこで、なぜ、古今和歌集の詞耆に、「.:のよめる」という

ように「の」助詞の用いられているものがみられないのかとい

うと、土左日記の「…のよめる」の「の」助詞のすぐ前には、

「ひと」とか「あるひと」というように和歌の作者が記されて

いるのであって、別に作者名のあげられている古今和歌集の詞

吾には、その必要がなかったからである。

そして、古今和歌集の詞耆には、「…をよめる」(一○例)・

「・・・をみてよめる」(八例).「・・・をききてよめる」(三例)・

「・・・にてよめる」(六例)・「…てよめる」(六例)・「…とてよ

める」(三例)・「…によめる」(五例)・「・・・ばよめる」(二例)

というようにさまざまの表現がみられるのであるが、これらの

表現が土左日記の和歌のすぐ前にみられないのは、古今和歌集

の詞書に記されているこれらのW柄は、土左日記の記事の中に

書かれているからなのである。

ここで、土左日記の記事をみてみたい。

冊六日。なほかみのたちにて、あるじしの坐しりて、郎等までにも

のかづけたり・・からうた、こゑあげていひけり。やまとうた、あるじ

土左日記術(上) ,

‐b■

この記事の中には、「かみのたちにて」「あるじしの、しりて」

「あるじのかみの」「となんありければ」「さきのかみの」な

どと記されていて、古今和歌集の詞書に記されている、いつ、

どこで、だれによって、どのような事情で歌がよまれたのかと

いうようなことが書かれているのである。今、紙面の都合で一

つの例しか示すことができないが、他の場合もほぼ同様と考え

てよいであろう。

次に、土左日記に収められている和歌と、地の文の長さとの

関係を調争へてみると、前に示した表によっても明らかなように、

和歌の記されている塒の記事は長いのである。すなわち、十行

以上の記事には?すべて和歌がみられるのである。これらは和

歌を中心にして、どのようなことがあったかが記されているの

であって、換言すれば、どのような事情で、だれによって歌が

ょまれたかの説明を中心に記されているのである。このような

土左日記中の和歌のみられる日の記事は、詞書の内容の発展し

も、まらうども、ことひともいひあへりけり。からうたは、これにえ

か聖ず。やまとうた、あるじのかみのよめりける

1みやこいでてきみにあはんとこしものをこしかひもなくわかれ

ぬるかな

となんありければ、かへるさきのかみのよめりける、

2しろたへのなみぢをとほくゆきかひてわれににゞへきはたれなら

なくに

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さて、土左日記に収められている五十八首の和歌のよみ手を

みてみる、と作者の明らかなものは歌順番号泌阿倍仲麻呂(古今

巻第九)・娚在原業平(古今巻第一)の二首のみである。そこで、

たものともみられるのである。そして、和歌のある日の記事が、

和歌のない日の記事に比較して長文である事実は、貫之の土左

日記執筆の意図と表裏をなすものと考えられるのである。

わたくしは、土左日記の素材となったものとして、

一旅の真名日記

一旅中の和歌の手控えのようなもの

の二‐つを想定し、土左日記がかな文で書かれた理由の一つとし

て、旅中の和歌を入れたかったからではないかと考えている。

これについては前にも触れたことがある(「『日記物語』の発生」

平安文学研究第二八輯昭和三七年六月刊、および和泉式郎日記の研

究初音書房昭和三六年二月刊所収)が、以上、考察したこと

によって、旅中の和歌の手控えのようなものが、土左日記の素

材になっていることか明らかではないかと考える。

もし、士左日記から和歌と、和歌とともに記されている和歌

のよまれた事情についての記事がなかったとすれば、土左日記

はどのようなものになっていたであろうか。これはあくまでも

仮定であるが、前にあげた一・二・三行の記事のようなものに

なっていたのではないかと推測されるのである。

'&

企》

この二首をのぞいた五十六首について考えてゆくことにする。

この五十六首の和歌のうち、土左日記の地の文によって、明

らかによみ手が貫之であると考えられるものは、2「さきのか

み」・泥「ふれのをさしけるおきな」・器「ふなぎみなるひと」・

六帖

粥「ふなぎみ」・詔「ふれなるひと」・鞭「ふなぎみの病者」・

盤・師・認の九首である。

次に、土左日記の地の文に、よみ手がだれであるかが記され

ているものをあげてみると、

1「あるじのかみ」(新士佐守)

5「かのひと人~」(新土佐守の兄弟その他)

(女性)

78「このひと」(割籠を持たせて来た人)

9「このわらは」(ある人の子)

⑬「をんなわらは」(そこにいた女の子)

六帖お「めのわらは」

妬「このわらは」

新毒軸詔「あるめのわらは」

六帖”「あはぢのたうめ」

釦「あるをんな」

六帖兜「あるをむな」

鈍「むかし、とさといひける

ところにすみけるをんな」

州「あるをんな」

六帖似「あるわらは」

(女の子)

(九歳ほどの男の子)

(女の子)

(淡路の老女)

(女)

(女)

(昔、土佐といったところに住

んでいたという女)

(女)

(垂里).

一○

L

リニ

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六帖“「むかしへびとのはは」(貫之の妻)

六帖“「あはじのしまのおぽいご」.(淡路の老女)

硯「むかしのこのはは」(貫之の妻)

の十八首である。

以上の二十七首に入らぬ二十九首の和歌のよみ手を、土左日

和歌体十種・今背・宇治拾遺六岫

記の地の文によってみてみると、3「あるひと」・4.6「ゅ

六帖・後撰六帖

くひと」。、「あるひと」・皿・胆「ふなびと」・皿「ひと」・妬.

Ⅳ「あるひと」・肥「あるひと」・岨「あるひと」・加「あるひ

六帖六帖・後撰

と」・瓢「ひと」・型「あるひと」・”「あるひと」・証「あるひ

六帖

と」・認「あるひと」・妬「あるひと」・幻・詔「あるひと」・虹・

妃「あるひと」・妬「あるひと」・卵「いま、けふあるひと」・

統後媛

副「あるひと」・弱「あるひと」・弘「あるひと」・弱「あるひ

と」。弱「あるひと」ということになるのである。・

そこで、土左日記所収の和歌のうち、他の害にもみえている

ものを調、へてみると、はじめにかかげた表にあるように重複し

ているものをのぞいて十六首に及んでいる。すなわち、

今昔物語一首(3)

宇治拾遺物語一首(3)

和歌体十種一首(3)

古今和歌六帖一四首(6.m。n.妬・皿・型・泥・羽・兜・粥.

9246ゾ

oO。〃4.A4.″去埜

後撰和歌集三首(6.m・型)

新千載和歌集一首(鯛)

土左日記論(上)

j

続後撰和歌集一首(瓢)

ということになる・このうち、和歌体十種(3)、古今和歌六帖(蛆)、

続後撰和歌集(副よみ人しらず)の三首は、貫之の作とはされて

いないものである。他の十四首(重出を含まず。)はすべて貫之

の作とされている・これらを整理してみると、次のとおりである。

5146444239383229282421151110§ヨ|難※ ※

めのわらは

ひと・

あるひと

あるめのわらは

あはぢのたうめ

あるをむな

ふれなるひと

あるひと

あるわらは

むかしへびとのはは

あはじのしまのおほいご

あるひと

士左日記における歌のよ

み手.

あるひと

ゆくひと

あるひと

註※印は貫之以外の和歌とされているもの《

|他書にみえている歌の作者

貫之緑榊識燕十種・今昔・字

貫之(六帖第三)

貫之(六帖第三・後撰)

貫之(六帖第三)

(作者名なし)(六帖第三)

貫之(六帖第三)

貫之(六帖第一・後撰)|

貫之(六帖第四・新千載)

貫之(六帖第三)

貫之(六帖第一)

貫之(六帖第三)

貫之(六帖第四)

貫之(六帖第三)

貫之(六帖第六)

貫之(六帖第三)

(よみ人しらず)(続後撰)ゞ

§

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これによれば、士左日記

紀貫之の歌ということにな

害に貫之の歌としている十

なお、以上の歌の外に、萩谷朴博士は日本古典全書土佐日記

緬調蔬輌壷月狸所収貫之全歌集の補遺において、巧「くももみな」

の歌の頭註に、「古今六帖巻三」と記しておられるのであるが、

わたくしが調査したところではみあたらなかった。・

土左日記所収の和歌で、古今和歌六帖にもみえているものは、

鈴木知太郎博士が日本古典文学大系聿華轄韮恥迩の解説におい

て、「さらに古今六帖にはこの日記の歌十四首を城せているが、

そのうち十三首は貫之作となっているので、六帖の成る頃には、

土左日記の貫之作であることは、もはや世の常識となっていた

ものとも推定せられる。」(伺鍔頁六)とされているように、十四首

が正しいようである。また、小西甚一博士は、土佐日記評解

需嬬菫一恥嘔一)の解説において、樋口寛氏の論考「土佐日記に於

ける貫之の立場」嬬碑衣檸麺罐琳刊)によって、十五首をあげてお

られるのであるが、そのうち訂「ををよりて」の歌は、はじめ

にかかげた表にも示しておいたように、第一句「ををよりて」

だけが同じで、第二句以下はちがっているので除外すると、十

四首ということになるのである。

そして、他の書にみえている十六首の和歌のうち、略・列の

二首以外はすべて貫之の歌となっているのである。しかも、他

て古今和歌六帖にみえているのである。

a

四首のうち、3以外の十三首はすべ

にみえているこれら十四首の和歌は、

るのである。萩谷朴博士は日本古典

勾五

とてするなり。」として書きはじめられておりながら、土左日

記の筆者である女の立場で一貫して書かれておらず、主人公で

ある貫之についての記述も不統一で、古今和歌六帖などによれ

ば土左日記に、「あるめのわらは」(詔)・「あはぢのたうめ」

全書所収貫之全歌集の補遺において、配(仲麻呂)・卿(業平)

の二首をのぞく五十六首をかかげて、

1「みやこいでて」(Ⅱ本古典全書の註記別内二)

5「をしとおもふ」(同右別四三)

7「あさぢふの」(同右別四四)

8「ゆくさきに」(同右別四五)

の四首以外の、五十二首を貫之の歌と見ておられるようである。

そして、萩谷朴博士は、日本古典全書の解説において、「貫之

が船中で書きつけたもとの日記は、極めて和歌の記入の多いも

のであった。即ち、通常の漢文体の日記ではありながら、それ

、剃りrrノ

自体が歌日記ともいふべきものであったと思はれる。」希岬匙

とされており、すでに諸先学によって、漢文体の日記が土左日

、争司、

記の素材となったのではないかと推定されているのである力

すでに述、へたように、わたくしは、旅の真名日記と旅中の和歌

の手控えのようなものとを素材として、貫之が土左から帰京し

た承平五年二月十六日から一、二年のほどに書かれたのではな

いかと考えているのである。

そして、すでに諸先学が明らかにしておられるように、土左

日記が、「をとこもすなる日記といふものを、をむなもしてみん

二①

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(羽)・「あるをむな」(鋤)・「あるわらは」(姪)・「むかしへび

とのはは」(“)・「あはじのしまのおほいご」(“)としてみ

えている歌は貫之の歌ということになっているのである。

草がなによって書かれたいわゆる日記文学の最初の作品と考

えられる土左日記に、このような事実の存在することは、いわ

士左日記論(上)

日屈側

ゆる日記文学が発生したその時すでに、}」のような性格が日記

文学に存在していたことになり、日記文学の発生と本質の問題

を究明する上に注目すべきことではないかと考えられるのであ

つ〈ぜ。

(以下次号)

二私