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109 2014 年度「化学」(担当:野島 高彦) (28)バイオテクノロジーを支援する有機化学 1 バイオテクノロジーの発展に化学はどのように貢献しているのか 生命現象の理解と生物機能の応用を,化学がさまざまな形で発展させ,高 度な技術を実現させてきた.今回はそのうち,ペプチドおよび DNA の化学合 成,DNA 増幅,そして DNA 塩基配列解読の化学を扱うことにする. 細胞のしくみを明らかにするためには,細胞内に存在する分子を化学合成 する技術が必要になる. 2014 年現在, 70 個程度のアミノ酸を望ましい順序で 脱水縮合し,ペプチドを合成する技術が確立している.また,DNA 合成の単 量体を 120 個程度まで望ましい順序で連結し,一本鎖の DNA とする技術も 確立している. 合成一本鎖 DNA と,耐熱性バクテリアから取り出された DNA 合成酵素 を組み合わせることによって,1 分子のサンプル DNA 10 万分子〜100 分子まで増幅する技術が確立している.また, DNA に蛍光色素を導入しなが ら複製反応を行うことによって, DNA の配列情報を解読できる技術が普及し ている. 人類は現在,地球上の生物の遺伝情報解読作業を,最先端技術を駆使して 精力的に進め,生命現象の理解に挑んでいる.すでにヒトのゲノム DNA 解読 作業は完了し,そこから得られる情報は医療に応用され始めている. 2 ペプチド合成の化学 n 個のアミノ酸が脱水縮合した構造をもつペプチド分子は, n 個のアミノ酸 残基から成るペプチド分子と考える.分子内の全アミノ酸残基のうち,両末 端のアミノ酸残基は, –NH2 あるいは–COOH がペプチド結合せずに残った状 態になっている.ペプチド分子を 1 本の分子鎖としてとらえた際に,–NH2 が残っている末端を N 末端* 1 –COOH が残っている末端を C 末端* 2 と呼ぶ. 天然の蛋白質は生体内においてリボソーム上で N 末端側から合成されて 行くが,有機化学合成においては C 末端側から合成を進めて行く. 1 アミノ末端と呼ぶ場合もある. 2 カルボキシ末端やカルボキシル末端と呼ぶ場合もある.

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2014年度「化学」(担当:野島 高彦)

(28)バイオテクノロジーを支援する有機化学

1 バイオテクノロジーの発展に化学はどのように貢献しているのか

生命現象の理解と生物機能の応用を,化学がさまざまな形で発展させ,高

度な技術を実現させてきた.今回はそのうち,ペプチドおよび DNAの化学合成,DNA増幅,そして DNA塩基配列解読の化学を扱うことにする.

細胞のしくみを明らかにするためには,細胞内に存在する分子を化学合成

する技術が必要になる.2014年現在,70個程度のアミノ酸を望ましい順序で脱水縮合し,ペプチドを合成する技術が確立している.また,DNA合成の単量体を 120 個程度まで望ましい順序で連結し,一本鎖の DNA とする技術も確立している.

合成一本鎖 DNA と,耐熱性バクテリアから取り出された DNA 合成酵素を組み合わせることによって,1分子のサンプル DNAを 10万分子〜100万分子まで増幅する技術が確立している.また,DNAに蛍光色素を導入しながら複製反応を行うことによって,DNAの配列情報を解読できる技術が普及している.

人類は現在,地球上の生物の遺伝情報解読作業を,最先端技術を駆使して

精力的に進め,生命現象の理解に挑んでいる.すでにヒトのゲノム DNA解読作業は完了し,そこから得られる情報は医療に応用され始めている.

2 ペプチド合成の化学

n個のアミノ酸が脱水縮合した構造をもつペプチド分子は,n個のアミノ酸

残基から成るペプチド分子と考える.分子内の全アミノ酸残基のうち,両末

端のアミノ酸残基は,–NH2あるいは–COOHがペプチド結合せずに残った状態になっている.ペプチド分子を 1 本の分子鎖としてとらえた際に,–NH2

が残っている末端を N 末端*1,–COOHが残っている末端を C 末端*2と呼ぶ.

天然の蛋白質は生体内においてリボソーム上で N 末端側から合成されて

行くが,有機化学合成においては C末端側から合成を進めて行く.

1 アミノ末端と呼ぶ場合もある. 2 カルボキシ末端やカルボキシル末端と呼ぶ場合もある.

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2.1 液相法

有機溶媒中で行うペプチド合成を液相法ペプチド合成と呼ぶ.例としてア

ミノ酸 2 個が連結したジペプチドをとりあげる.アミノ酸の順序を制御するために,N末端アミノ酸の NH2–と,C末端アミノ酸の–COOHを保護基によ

り保護しておく*3.両者を縮合剤の存在下で脱水縮合するとアミド結合が生じ

る.続いて保護基を除去し(脱保護),精製することにより目的物を得る.アミノ酸残基数が 3 以上の場合は,N 末端保護基のみを除去し,精製した後,次のアミノ酸(NH2–が保護されているもの)を反応させる.このようにしてアミノ酸残基数 20程度のものまでを合成できる.

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3 側鎖も保護する場合が多いのだが,説明を簡単にするためにここでは省略する.

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2.2 固相法(メリフィールド法)

液相法ではアミノ酸残基数が増えて行くと反応溶媒への溶解度が低下し,

反応効率が著しく低下する.また,反応が多段階にわたり合成作業がタイヘ

ンである.そこで,長い鎖長のペプチドを自動的に合成する固相法ペプチド合

成(メリフィールド法)が用いられる.

メリフィールド法では,直径 0.1 mm程度のポリスチレン製ビーズにアミノ酸の–COOH 側を固定しておき,このビーズ上で縮合,脱保護,洗浄を繰

り返すことにより,アミノ酸残基数 70程度までのペプチドを自動的に合成することができる.この連続操作は,コンピュータ制御されたペプチドシンセサ

イザーにおいて行われる*4.

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4 機械化することによって作業が簡単になり,しかも人的ミスがなくなったため,ペプチド合成を必要とする研究が進んだ.機械化のメリットは,人間が

ラクをすることだけではない.

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3 DNA 合成の化学

3.1 DNA の構造*5

O

CH2OPO

O

O

PO OCH2

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O

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3.2 DNA の固相合成法

N

N H

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N

NH

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5 DNAの生物学的な位置付けについてはここでは扱わない.生物学,生化学,分子生物学に関係する科目で学んでくれ.

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ペプチド合成法で用いられている固相合成法は,DNA 合成にも応用されている.生体内において DNA は 5’-末端側から合成されて行くが,化学合成においては 3’-末端側から合成を進めて行く.この合成は,コンピュータ制御された DNA シンセサイザーにおいて行われる.

ビーズ上に 3’–末端のヌクレオチドを固定しておき,脱保護,縮合,洗浄を繰り返して行く.保護基は,核酸塩基の–NH2,5’–末端の–OH,さらにリン酸エステル部位に導入しておく必要がある.反応終了後,ビーズからの切

り出しと脱保護を行い,目的の DNAを得る.120残基程度までの一本鎖 DNAは,この方法で容易に合成できる.

4 遺伝子増幅反応の化学

DNA の分析を行うためにも,また,組換え DNA 実験を行うためにも,特定配列の DNAのみから成る試料が必要となる.そのような場合に DNAを増幅する反応として汎用的に用いられている方法が PCR (Polymerase Chain

Reaction)である.

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PCRには鋳型となるDNA,耐熱性DNA合成酵素(耐熱性DNAポリメラーゼ),

dATP,dCTP,dGTP,dGTP,およびプライマーDNAが必要である.PCRでは鋳型 DNA の熱変性(一本鎖にほどく),プライマーの会合(アニーリング),DNA ポリメラーゼによる伸長反応,のサイクルを 30 回程度繰り返す.反応溶液の塩濃度(Mg2+が必要),プライマー配列,熱サイクルなどの条件が最適化

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されている場合,1セットの遺伝子サンプルから確実に目的配列だけを増幅できる場合もある(犯罪捜査に応用).

PCRはDNAの固相法合成,温度可変反応装置(サーマルサイクラー)の開発,好熱性細菌 T. aquaticus由来 DNAポリメラーゼの応用,によって実現した手法である.これら要素のどれか一つが欠けても PCRは実現しなかった.

PCRは遺伝子工学実験においても,興味の対象となるたんぱく質をコード

した DNAを単離・増幅する目的で用いられている.

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PCRの理解には以下の動画が役に立つかもしれない.

http://youtu.be/_YgXcJ4n-kQ

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5 DNA 塩基配列解読の化学

DNA 分子のヌクレオチド配列を読み取る手法が DNA シーケンシングであ

る.目的配列の上流にある,配列既知の領域にプライマーを会合させ,DNAポリメラーゼを用いて相補的配列を合成して行く.この時に蛍光色素で標識

された ddNTP(Nは A, C, G, T)を反応系に混ぜておく.4種類の ddNTPはそれぞれ異なるカラーの色素で標識しておく.これによって,伸長中の DNA鎖に,DNAポリメラーゼによって ddNTPが取り込まれると,伸長反応が停止するとともに蛍光色素で末端が標識される.1残基ごとに長さの違う DNA生成物を分離し,それぞれのカラーを確認して行くことによって,DNA配列を決めて行くことができる.

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O

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O

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この操作は DNA シーケンサーと呼ばれる装置を用いて自動的に行われる.

DNAシーケンサーの性能と,読み取られた配列の情報処理速度は年々加速している.2003年 4月にはヒトの全ゲノム塩基配列の読み取りが完了している (ヒトゲノムプロジェクト).その結果,ヒトは 21,787 個の遺伝子を持つことがわかった*6.現在,他の生物種に関してもゲノムプロジェクトが進行中である.

2014年には,ダイコン,ツェツェバエ,コイ,コムギ,テナガザル,コーヒー,ネムリユスリカ,ナス,ヒメコチョウラン,その他の生物のゲノムが

解読された*7.2015年には何のゲノムが解読されるだろう?

6 個人差が存在する.また,新しい遺伝子が発見される可能性も残されている. 7 2013年には,シベリアトラ,スッポン亀,アオウミガメ,褐虫藻(植物プランクトンの一種),見島牛(高級肉牛),太平洋クロマグロ,アフリカシーラカンス,アヒル,その他の生物のゲノムが解読された.

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DNAシーケンシングの理解には以下の動画が役に立つかもしれない.

http://youtu.be/ezAefHhvecM

● 2014 年にゲノム解読された生物の例

ツェツェバエ,4 月

「ツェツェバエのゲノム解読、睡眠病に光」,ナショナルジオグラフィック

http://www.nationalgeographic.co.jp/news/news_article.php?file_id=20140428002

青首ダイコン,5 月

「ダイコンのゲノムを世界に先駆け解読」,サイエンスポータル,科学技術振

興機構

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http://scienceportal.jst.go.jp/news/newsflash_review/newsflash/2014/05/20140521_02.html

コムギ,7 月

『コムギのゲノム配列の概要解読に成功- コムギの新品種開発の加速化に期待 -』,独立行政法人農業生物資源研究所

http://www.nias.affrc.go.jp/press/2014/20140718/

コイ,9 月

『コイの概要ゲノム配列』,Nature Japan

http://www.natureasia.com/ja-jp/research/highlight/9474

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テナガザル,9 月

『テナガザルゲノム解読:テナガザルのゲノムには、染色体の迅速な進化と

複数種へのほぼ同時に起こった放散が映し出されている』,Nature Japan

http://www.natureasia.com/ja-jp/nature/highlights/55820

コーヒーノキ,9 月

『コーヒーのゲノム解読、味向上・耐性強化に期待』,AFPBB NEWS WORLD BIZ

http://www.afpbb.com/articles/-/3025132

ネムリユスリカ,9 月

『極限乾燥耐性生物ネムリユスリカのゲノム概要配列を解読-生物がカラカラに乾いても死なないメカニズムの解明へ-』,独立行政法人農業生物資源研究所

http://www.nias.affrc.go.jp/press/2014/20140912/

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ナス,9 月

『ナスのゲノムを解読、品種改良に弾み』,サイエンスポータル,科学技術振

興機構

http://scienceportal.jst.go.jp/news/newsflash_review/newsflash/2014/09/20140922_03.html

ヒメコチョウラン,11 月

『ヒメコチョウランのゲノム塩基配列解読』,Nature Japan

http://www.natureasia.com/ja-jp/research/highlight/9602