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京都日仏協会雑誌FjKyoto2011年号掲載。
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緻をきわめる方法を見ると、顕微鏡マニアと農畜産業エンジニアの中間という科学者のタイプが浮かび上がる。しかし初期のパスツールには、ベルナールの持っていたような病理学大系そのものに挑むような理論性や、リービッヒやヘルムホルツのような、一つの化学原理から生態系の進化までを説明し尽くそうとするような広大な夢想はない。1884年の有名なソルボンヌ講演にも見られるように、パスツールは意識的に「自然博物誌の文学的夢想」を斥けてすらいた。 と も あ れ、偉人列伝的科学史の作者たちは、パスツールについては人知れず困っている。今日のパスツール研究所の学問的隆盛を鑑みれば、なおさらのことである。デカルトやベルナールの後世への威光が彼らの思索の順序から説明できるとすれば、パスツールに関しては、純粋に個人の仕事としての
「業績」とその多大な後世への影響の間に、まれに見る乖離があるからである。 おそらくそうした困惑の理由の一つには、「感染
(contagion)」の語が19世紀中盤と20世紀前半でまったく意味を変えたこともあるだろう。ラトゥールが言うように、「パスツールは細菌を取り扱うことで、同時に政治と社会的紐帯の領域に踏み込んだ」。「感染」の医学的認識の変化とともに、総合的医療政策が変わり、それに応じて「細菌(germe)」が想像に訴える姿も変わった。パスツールの微生物(microbes)研究が問いかけたのは、20世紀の分子生物学ではなく、19世紀の疫病論が息づいていた文化そのものである。医学史家はこれを忘れる訳にはいかないのである。ところで、そうした視点を失わない医学史家シンガーによれば、「感染症の医学的説明と対策は、16世紀のフラカストロの時代から19世紀までほとん
今回は、ルイ・パスツール(1822〜1895)とその時代の話をしてみたい。 今日のパスツール研究所の名声と、20世紀のノーベル賞リストに並ぶバクテリオロジーの成果を見れば、パスツールが20世紀の医学史における「偉人」であることを疑う人はいない。パスツールの功績とは、史上初めての細菌研究からワクチンと血清を考案し、実証的で体系的な説明と制度的な後ろ盾を固めて、それを感染性の畜疫や疾病の予防に適用したことだろうか。ところで、「偉人」伝は概ね、歴史が確定した個人の「業績」の価値や「成功」の度合いによってその時代と影響の余波を再構成するもので、あたかもすべてが個人の企図から発したかのような書き方をされるのが常である。20世紀を科学文明が自然の脅威を支配下に置いた時代とする科学史は、常にこうした偉人列伝をその進歩史観の柱とする。しかし、パスツール没後100年記念の伝記の作者である科学史家ブリューノ・ラトゥールが言うように、パスツールの研究履歴は「数多い決裂の合間を縫って」進んでいるように見え、アポステリオリなサクセス・ストーリーを作り上げるのは大変困難なのである。 1860年代までの化学と物理学のアグレジェ・パスツールには、七月王政が作り出した、貧しい出自の真面目で従順な学校秀才以上のものは何も認められない。その頃すでに実験室科学者というタイプはできあがっていた。生理学では在野の実験家クロード・ベルナールが活躍していた。また急速に生物学の先進国に成長していたドイツのミューラー、ヘルムホルツ、ウィルヒョウ、リービッヒによる生化学による生命現象の説明は、19世紀後半の西洋諸国の基礎医学を席巻していた。若きパスツールも、ためらうことなく実験室に入った。1854年にリールの化学教授に就任した後、農村暮らしの勘の赴くまま、ビールの発酵、葡萄の変質、家畜の病気などの問題に次々と取り組むうち、細菌の性質を明らかにしていったが、パスツールの地味な研究テーマと、ますます精
フランス医学史(5)パスツールの時代─社会と感染症
加 納 由起子
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主権の原理に従い、感染論が社会の平等を脅かすものと考え、こうした病気は体質と環境のせいであるとし、隔離政策を斥ける「アンチ接触感染論者(anti-contagionistes)」の争いが続いていた。リベラル派が主流であったパリ大学医学部では、二度のコレラの流行にも関わらず、1810年代から1850年代までアンチ派が大多数であった。イギリスではフランス以上に隔離政策が進められたが、それでも病原菌の実態が分からない時代においては、政府はフランスと同じく公衆衛生に力を入れるしかなかった。
1860年代、パスツールの研究が発酵と腐敗の同一性を確かめた頃、公衆衛生にたずさわる医者たちは、各種「熱病」の感染性についてはもはや疑いを得ないを信じるようになっていた。そして、古代から続く「瘴気(ミアスム)論」が人々の口にのぼるようになった。1860年代から1890年代までの『フランス医学アカデミー年報』や、民間に広く読まれた「家庭の医学」系の予防マニュアル書を見ると、「沼沢地や動物の死体から立ち上り、空気を汚し、体内に侵入する瘴気を防ぐ方法」が繰り返し考案されているのが分かる。特効薬ビジネスが盛んになった19世紀後半らしく、防毒マスクや「パイプ状携帯ミアスム清浄器」なども売りに出された。かつての接触感染説は1880年代には細菌病原体説と呼ばれ、環境の改善を公衆医療の柱としていた衛生学者とぶつかった。衛生学者の中には、大衆の過剰な感染の恐怖を懸念して、アンチ細菌の立場にまわった人たちもいる。
(1892年に、コレラ菌培養液を聴衆の前で飲んでみせたペッテンコーファーがよい例である。)同じ頃、パスツールは最後の研究である狂犬病のワクチン開発に乗り出し、12人の実験科学者とともに微生物研究所の礎石を築いた。コッホが炭疽菌研究から結核菌研究へと歩を進めた時でもあった。
ど変わらない」。近代市民社会が商工業活動の増大と都市の人口増加を受けて飛躍的に発展した、フランスの文明開化の時期とも言える19世紀前半、パリ大学の生理学者の政治的権力は否応無しに増していった。しかし、現在「感染症」と呼ばれる病気の蔓延について、パリ大学の医者たちは病理解剖学と生理学に頼って「体質」理論を繰り返す以外、何の病因論的説明も持たなかった。19世紀の医学者の社会的貢献は、概ね公衆衛生の領域で展開した。 なぜなら、19世紀は進歩主義の世紀であると同時に疫病の時代でもあったからである。1800年はナポレオン軍からヨーロッパ全土に広がった腸チフスと発疹チフスの流行で幕を開けた。1812年、ロシア遠征に出発した50万人のナポレオン軍は、チフスのために見る見る縮小し、帰仏時には3万人になっていたという。1815年まで、フランス各地の病院はチフス患者で一杯になった。また、コレラの猛威もヨーロッパを定期的に襲った。パリだけでも1832年に1万5千人を殺した流行、何の手だてもないまま再び迎えた1848年の流行、パリ・コミューン時のバリケードが水質の悪化に拍車をかけた1871年の流行、そして、最大最悪と言われた1891年の流行である。インフルエンザ、猩紅熱、痘瘡などは日常のことであり、ペストや癩病という古い病気も、見えなくなったとは言え、いつ戻ってくるか分からなかった。19世紀の「感染」の認識を示す例として、こうした疫病ないしは接触によって蔓延することが明らかであった病気のグループ(「熱病」とひとくくりに呼ばれていた)に、当時は何の疑いもなく精神病(神経症のみならず、大きな意味での精神の不衛生まで、つまり堕落した習慣も含む病気)も含まれていたことをあげておこう。微生物の自己増殖過程を知る前の医学にとって、「熱病」の病原菌は死の萌芽をはらんだ「瘴気(miasmes)」であり、その生体破壊の行動と蔓延のロジックは、生命そのものと同じくらい謎めいたものとみなされていた。病原菌への具体的対策は、1761年にジャック・リンドが処方したように、「熱、煙、ヒ素、硫酸」による汚染された場所とオブジェの消毒であった。 もう一人の優れた医学史家アカークネヒトによれば、18世紀末から1870年代のパリ大学医学部では、ある種の病気の流行を接触感染によって説明し、隔離政策(quarantaine)や「衛生線地帯」(cordons sanitaires)の設置による対策を推進する「接触感染論者(contagionistes)」と、革命以来称揚された大衆
(ここに大変面白い版画がある。これは1831年、コレラに見舞われた英国エクスターの労働者居住区の光景だが、コレラ患者が運び出される傍らで、下水での洗濯が続いている)
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ていた結核の再流行などに加え、今年3月に起きた福島原発の事故もまた、「感染」の語に古くからの意味を付け加えた。「目に見えない病原体」についての想像は21世紀にも健在であり(それが膨大な映像によって、見えているかのごとく、さらに確信的になり)、人々は「ミアスム」の内容や媒体や蔓延プロセスに関わらず、医学的に正しかろうとなかろうと、ただその「接触感染(contagion)」を怖れるものである。今年9月にアメリカで公開され(日本では11月12日 )、 話 題 を 呼 ん だ 映 画『 感 染 』(Contagion, Warner Bros. Productions, dir. Steven Soderbergh)は、パスツールの時代から変わらない「感染」の恐怖が、グローバル社会にそれこそ「感染」する様子を語っている。何一つ新しいことはないように思われる映画だが、ただ非常に興味深い要素は、この映画では世界の医師たちがグローバルネットワークを通じて病原体と闘うことである。そこには、20世紀におけるパスツール研究所の帝国主義的なネットワークの発展を重ねて見ることができるように思う。20世紀の「自然に対する科学の勝利」とは、もしかしたら、人知が再構成する自然界と細菌の世界との敬意ある共存ではなく、科学者ネットワークによる世界の地理的制覇にすぎなかったのかもしれない。
関連文献○ ルイ・パスツール著、山口清三郎訳『自然発生説
の検討』(岩波文庫)、1970年○ Erwin Ackerknecht, 《Anticontagionism between
1821 and 1867》, In t e rna t i ona l J ourna l o f Epidemiology, 2009.
○ Willy Hansen / Jean Freney, Des Bactéries et des hommes, Privat, 2002.(邦訳、ウィリー・ハンセン/ジャン・フレネ著、渡邊格訳『細菌と人類』、2004年、中央公論社)
○ Bruno Latour, 《Pasteur, une science, un style, un siècle》, 1995.http://www.bruno-latour.fr/livres/PASTEUR-PERRIN.pdf
○ Claire Salomon-Bayet, Pasteur et la révolution pastorienne, Payot, 1986.
○ C. & D. Singer, 《The Development of the Doctrine o f Contag ium Vivum, 1500-1750》, in 17th International Medical Congress(1913), London, 1914.
パスツールは生前、大衆の感染症の認識が大きく変わるのを見ることはなかったと言えるだろう。細菌病原体説から感染症対策を政治の一環とするまでに成長させたのは、彼よりも20歳若かったコッホであり、それは20世紀初頭の話になる。パスツールの時代、社会の全階層が持っていた「目に見えない病原菌」への恐怖は、お伽噺の深い淵から立ち上る死の蒸気ミアスムのイメージと、19世紀内科学が追求した運命的な疫病体質の概念の間で揺れ続けた。それでは、パスツールの「政治と社会的紐帯の領域への踏み込み」は途中で終わったのだろうか。パスツール自身は、その踏み込みは、「感染」の意識や文化的疫病論を通してなされるというよりは、「生命」や「自然」の博物誌的認識を覆すことによってなされる、と信じていた節がある。 パスツールの研究に衆目が集まった最初の契機は、ルーアンの博物誌家プーシェとの「自然発生」、あるいは「ヘテロ発生」(自然界のあらゆる生命形態は、無菌・真空の場所からでも、親なしで生まれ、進化のあらゆる様態は同じ発生原則に従うという古典的な自然科学の主張)をめぐる討論であった。パスツールは、当時世論を湧かせたこうした抽象的で哲学的な討論と、当時の公衆衛生政策の基盤であったミアスム論との関連を、漠然と理解していたようである。
「目に見えないもの」への恐怖は、一方で神秘的な発生説を必要とし、他方で実体的な死のイメージを必要とすることを。パスツールの時代の科学者や人文学者にとって、自然発生論および自然博物誌的な生命表象がどのように感染症への新たな認識と関わっていたか、それはまだ、どの歴史家も明らかにはしていない。生と死をただ一つの起源に由来するものとし、自然をたった一つの原則で理解しようとし、同じ思考プロセスから文明を唯一普遍の人類の進歩と考えた同じ文化に属していた、と言えるだけである。40年のキャリアの間、多岐にわたって続けられたパスツールの研究は、医科学は自然科学の一部であり、自然科学が人間中心の哲学的な生態系や進化説明に従わないこと、つまり「文明」に従わないこと、を示したように思われる。その意味で、現在までも、パスツールの真の評価はなされていないのではないだろうか。 パスツール研究所が世界に24の支部を持つようになった20世紀末、「感染」の恐怖は文明と人間社会に再び戻ってきた。1980年代のエイズ・パニック、90年代末から陸続と発症している畜疫、撲滅したと思っ