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1 再臨のメシアの御言葉厳選集 真の母が選んだ、再臨のメシアの御言葉 第八篇 信仰生活と修練(P810) 第一章 信仰生活とは何か 第一節 信仰生活とは 第二節 信仰生活の目標 第三節 信仰生活の道 第四節 信仰生活の段階 第五節 信仰生活での体験 第二章 心と体の修練 第一節 修練とは 第二節 修練の目標 第三節 信仰の修練 第四節 心の修練 第五節 体の修練 第六節 心と体の統一のための生活 第三章 真の父母に似るための信仰生活と路程 第一節 復帰摂理による信仰生活 第二節 真の父母を迎えるための路程 第三節 真の父母を通して生まれ変わる路程 第四節 真の父母に従って成長する路程 第五節 真の父母を通して完成する路程 第四章 真の父母の人生から見た信仰者の道 第一節 召命の人生 第二節 成就の人生 第三節 養育の人生 第四節 相続の人生

第八篇 信仰生活と修練

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真の母が選ぶ、再臨のメシアの御言葉厳選集新天聖経

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再臨のメシアの御言葉厳選集

真の母が選んだ、再臨のメシアの御言葉

第八篇 信仰生活と修練(P810)

第一章 信仰生活とは何か

第一節 信仰生活とは

第二節 信仰生活の目標

第三節 信仰生活の道

第四節 信仰生活の段階

第五節 信仰生活での体験

第二章 心と体の修練

第一節 修練とは

第二節 修練の目標

第三節 信仰の修練

第四節 心の修練

第五節 体の修練

第六節 心と体の統一のための生活

第三章 真の父母に似るための信仰生活と路程

第一節 復帰摂理による信仰生活

第二節 真の父母を迎えるための路程

第三節 真の父母を通して生まれ変わる路程

第四節 真の父母に従って成長する路程

第五節 真の父母を通して完成する路程

第四章 真の父母の人生から見た信仰者の道

第一節 召命の人生

第二節 成就の人生

第三節 養育の人生

第四節 相続の人生

第八篇 信仰生活と修練

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第一章 信仰生活とは何か

第一節 信仰生活とは

1 信仰生活は、必ず傍観者の立場を脱皮しなければなりませ

ん。皆さんは今、先生に従っていますが、先生を中心として信

仰生活をするのではありません。皆さん自身を中心として信仰

生活をするのです。ですから、信仰生活をする人には、人がど

うであろうと、自分一人が守っていくべき信仰の道があるので

す。

そのような信仰生活は、周りの人からは学べない深い心情の

世界において、天を中心として一人で感謝する生活、一人で満

足する生活ができなければなりません。

世の中がどんなに悪くても、天地を見つめながら、「感謝し

ます。私は幸福です」と言える信仰生活をしなければなりませ

ん。

そのようにできず、そのようなことを感じられなければ、そ

の反対の立場、この上なく悲しい立場で、「私は罪人です。私

は足りない者でございますので、勇気をお与えください」と決

意して再起する、そのような期間を必ずもたなければならない

のです。

真の信仰観

2 「信じて行えば、できないことはない」。このような信仰

観をもたなければならないのです。「第一の主体は神様であり、

私は対象である。完全なプラスは、完全なマイナスを創造する。

自分は第二の神様、第二のイエス様、第二の父母様の立場にい

るので、その立場に到達できる!」という考えをもたなければ

なりません。

先生がどのようにして世界的な仕事を独りでしているのかと

いうことを考える時、このような哲学的背景を中心として、直

接的に国を消化していっているからです。ですから、先生の前

に潔く、「私たちは、これを伝授されて、間違いなくそのよう

に生きます」と約束しなさいというのです。

3 先生がこの地に来て、信仰の世界に残した偉大な内容は四

種類です。神様と人間の関係をはっきりさせました。責任分担

と蕩減というものを、歴史上、誰も知りませんでした。人間が

なぜこのような姿になったかを知らなかったのです。これをは

っきりさせておきました。次に、良心的な人は貧しく、悪人が

良い生活をするのはなぜかということです。蕩減法、カイン・

アベル問題を知りませんでした。その次には、人間が善を望む

のに、なぜますます問題が悪くなっていくのかということです。

これは血統問題、サタンの汚れた血のためです。血統問題を根

本的に知らないために、解決できませんでした。世界の問題が

みな、この原理に引っ掛かっています。

4 今までの信仰生活は、「私」一人を取り戻すためのもので

した。失ってしまったアダムとエバと同じ立場で、原罪のない

本然の個体を取り戻すためのものでした。今、神様が最後に願

うこととは何でしょうか。まずは神様の愛を中心として、個体

と個体を合わせた一つの家庭を取り戻すことです。さらには、

神様が愛するその家庭を中心として、そこから広がる氏族を取

り戻し、民族と世界を取り戻そうというのです。これが神様の

全体的なみ旨です。

5 天は、人間的な希望を中心として生きている人間をして、

新しい希望をもって死の峠を越え、永遠の世界を欽慕しながら

生きるようにするために、無限に苦労されました。ですから、

信仰生活をする人たちは、地上に何かの希望を抱いて生きるの

ではなく、死までも越えて立ち得る希望を抱き、永遠の希望の

3

世界を夢見て生活しなければなりません。このために、私たち

も今、信仰生活をしているのです。

6 天の心情を体恤し、その心情圏内からもたらされる衝撃と

刺激を感じる者がいるとすれば、地上のどんな迫害や苦痛や死

の道がその人の行く道を塞ごうとしても、塞げません。このよ

うな心情が心を激しく動かし、その心が体を促して手足を動か

すようにすることによって、いつの間にか無限の境地に向かっ

て歩んでいくようになる、その生活を一つ一つ体恤しようと努

力するのが、正に今日、俗世で暮らしている信仰者の生活なの

です。

7 神様は、自分の教団を中心として信仰生活をするキリスト

教徒を望みません。先生も統一教会という看板をつけています

が、「この看板をいつ取ってしまえるだろうか」と考えます。

皆さんは統一教会の人たちだと注目を浴びているかもしれませ

んが、その注目が三千里半島(韓半島)でいつ消えるかという

のです。

世界に広がっている統一教会の食口たちは、神様の恨を解こ

うと歯を食いしばって努力し、神様の苦難の道を代わりに歩も

うと、忠孝の心情で走っています。この仕事をして倒れるのを

最高の基準として、決意して歩んでいる群れが統一教会の食口

たちです。このように行く道が恵みの道なのです。

8 神様が見る皆さんの信仰の観念は、あまりにも気掛かりで

す。今、先生がこの地にいなければ、皆さんの中で、何人残る

か疑問です。分かりませんが、争いが起こるでしょう。今、先

生は、み旨のために死のうという人がどれほどいるかという点

から、皆さんを見つめています。ですから、皆さんは深刻な立

場に至らなければなりません。家庭では妻と子女たちのために、

教会では食口たちのために、自分がどれほど精誠を尽くしたか

ということが問題なのです。

9 自分の信仰生活において、天の同情を受ける内容を残せな

い人は、それでおしまいになります。今、先生自身もそうです。

先生自身はもちろん、公的な立場でどこかに行って、礼拝の時

間に遅れるようになれば、出てくる前に祈ります。また、ある

聖日には、礼拝の時間になっても行けないときがあります。そ

の時にも、必ず悔い改めの祈りを捧げます。主体的責任をもっ

た者として、食口たちが先生を仰ぎ見ながら、福を受けようと

生死の問題を解決するために精誠を捧げているのですから、そ

の時間に行けない自らを赦してほしい、と祈るのです。そのよ

うな祈りが必要なのです。

10 世界のために行かなければなりません。世界のために犠牲

になるのです。目的を成就しようとする人が、その目的のため

にどれだけ犠牲の代価を払うか、相対的圏内にそれがどれだけ

流れていくようにするかによって、目的成就の期日が短縮され

るのです。世界のために生きようとすれば、大韓民国のために

生きなければなりません。大韓民国が世界のために生きなけれ

ば、私たちが世界のために生きなければならないというのです。

自分のような信仰と思想をもつ人をつくり、あるいはそのよう

な子孫をつくって、このような思想を千年、万年後代に残して

あげる基盤が残る限り、「統一思想」は、世界に新しい文化世

界を創造する思想になるでしょう。このように見るのが、先生

の観点であり、神様の観点なのです。

11 皆さんの信仰生活に味がなければなりません。先生は、昔、

皆さんを伝道しなさいと地方に送り、統一産業に毎日、一日に

二度、三度行き来しました。また、清平に一日おきに行き来し

ました。何のためにそのようにしたのでしょうか。味があると

いうのです。普通の人には感じることのできない味が分かるの

第八篇 信仰生活と修練

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です。精誠を捧げて行き来するその世界において、心霊のあら

ゆる細胞が発展し、その発展の力が自分の内面において運動す

るというのです。そのような何かがなければなりません。雨が

降ろうと、雪が降ろうと、味を感じなければならないのです。

12 王がこの地に来られる目的は、地上に天国を実現するため

です。天国は、どのような所でしょうか。侍るための準備に合

格した人と、侍る生活に合格した人が行く所です。侍るための

準備と侍る生活を、万宇宙に、永遠に誇れる世界が天国です。

天国に行って何をするのか分かりますか。ただ遊び回る所だ

と思っているかもしれませんが、そうではありません。遊び回

ろうとすれば、そのために、過去に準備をしてきた条件と、生

活的な条件がなければなりません。ところが、何もしないで、

「福を下さい」と祈ってばかりいます。神霊的な人たちが途中

で苦しくなる主な原因が、そこにあります。いくら恩恵を受け

た人でも、七年を越えるのが大変だというのです。

13 無条件に福を下さいというのは、真の信仰ではありません。

真の信仰をもとうとすれば、どのようにしなければならないの

でしょうか。今日、この地上にいる人類は、六千年間続いてき

たアダムの子孫です。ですから、人類を思って痛哭できる心の

基準が確立されていなければなりません。そうでなければ、そ

の世界と絶対に縁を結ぶことはできません。

かわいそうな乞食を見て、胸が痛んで耐えることができず、

服を満足に着ることのできない人を見れば、自分が服を着飾る

ことに耐えられず、満足に食べられない人を見れば、自分も食

べることができず、自分だけがどこか安らかな所にいることは

できないという心をもたなければならないのです。

14 世界には二種類の人がいて、宗教者の中にも二種類の人が

存在します。とにかく自分は楽に、良い暮らしをして福を受け

ようとし、自分の教団が豊かになり、自分たちの民族は幸せに

暮らそうと祈る御利益宗教は、消えていくのです。そのような

ことを知ったので、統一教会は、自分の一身を犠牲にしてでも

神様を助け、神様を解放しようというのです。

統一して何をするのでしょうか。神様を解放しようというの

です。神様の真の権威を中心として、人類始祖と共に無限の幸

福をたたえながら理想郷で暮らすことができ、侍られながら過

ごすべき神様が、このように悲惨になったという事実を知った

ので、その神様を私たちの手で解放させようというのです。こ

れは驚くべき提言です。そのような内容が宗教界から出てきた

という事実は、神様にとってこの上なく喜ばしい知らせなので

す。

15 信仰生活とは、生きて死の問題を解決しようというもので

す。皆さんは、死刑囚たちについては知らないかもしれません

が、先生は死刑囚たちと一緒に過ごしてみたので、よく知って

います。その人たちは、自分の刑が執行される前、どれほど深

刻か分かりません。秋夕(チュソク=先祖祭祀と墓参をする日)

のような日になれば、その秋夕の月を、歴史にない最後の月と

して鑑賞するのです。風が吹き、台風が吹きつけても、「ああ、

自分の人生では、この台風が最後になるなあ」と言いながらそ

れを鑑賞するというのです。あらゆる万象を新たに見直す、そ

のような深刻な心情で過ごすのです。信仰の道を行く人の中に、

このように深刻な立場で天の生命を大切に秤にかけながら、一

日の生活を誓っていく者がどれほどいるのでしょうか。これは

深刻な問題です。先生もそのような深刻な立場にいるので、こ

のような道を継続して行くのです。

信仰生活は神様に侍る生活(P815)

16 信仰は神様に侍る生活、侍りながら共に暮らす生活です。

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その道を行かなければ安らかではありません。すぐに体に支障

を来たします。環境に支障を来たすというのです。信仰生活は、

天に侍って共に暮らす生活です。朝に日が昇り、お昼になり、

夕方になって日が沈むのは変わりません。千年、万年変わらな

いのです。その軌道が狂うことになれば、すべてのものがずれ

ていきます。愛の心、真の愛の道を訪ねていかなければなりま

せん。真の生命、真の血統を受け継いだ人は、神様の眷属にな

って、いつも神様と共に暮らすというのです。自然と共に喜び

ながら生き、自分が行き来する生活を喜んですることが、神様

と共に暮らすことなのです。

17 信仰生活には、団体の信仰生活もありますが、個人の信仰

生活もあります。団体の信仰生活をすれば、平均的な恩恵は受

けることができますが、個人の恩恵を受けるのは困難です。個

人の恩恵を受けるための生活は、天の近くで生きる生活です。

深い祈りと自分自らの生活の中で、どれだけ天と近く生きるか

によって、個人の信仰が高まるというのです。

18 皆さんが統一教会の仕事をするためには、新しく信仰者の

覚悟をもたなければなりません。中心に対するはっきりとした

信念をもたなければなりません。その中心を世界の理想の中心

と思うまでは、世界を収拾できる信仰生活ができません。信仰

による人格を分別することができないのです。

ですから、皆さんは、信仰の中心に対して、はっきりとした

信念をもたなければなりません。山の頂上に上ることを願うな

らば、夜も昼も行かなければなりません。そして、心の世界で

千回、万回行ってみて、正しい道だと感じたとき、初めて行動

することができます。心の底からそのようにしなければ、行動

ができません。心の底で千回、万回決心してから行かなければ

ならないのです。自ら決心して立ち上がったので、途中で様々

な危険が近づくとき、その危険を解決するために、材料を収拾

するのが信仰生活なのです。

19 信仰生活は、ただするのではありません。信仰生活は、頂

上なら頂上を征服するために、最高峰なら最高峰を征服するた

めに、必要な材料を収拾するのと同じです。ですから、皆さん

は困難な峠が近づけば、その峠を避けて戻るのではなく、克服

して進まなければなりません。今、ぶつかっている難しいこと

より、もっと難しいことに遭遇するようになっても、「私はそ

こで滅びない」という真剣な立場で、その困難を自分のものと

して消化できる、主体的な自我を発見するために努力しなけれ

ばならないのです。

20 悪の分野を阻止し、善の分野を生涯路程に残そうとするの

が、人間が信じて進む信仰生活です。人間が望む最高の希望と

は何でしょうか。完全に善の存在になることです。マタイによ

る福音書第五章四十八節に、「あなたがたの天の父が完全であ

られるように、あなたがたも完全な者となりなさい」とありま

す。

絶対にして善の主体であられる神様は、その愛の対象の位置

に人間が立つことを願うでしょう。ですから、人間も、神様の

相対的絶対の善の存在として立つことを、最高に願うのです。

その相対的な存在が悪の立場に立って呻吟し、サタンに讒訴

される位置に立つことを願わないのが善の主体です。これは言

うまでもありません。ですから、完全な善の主体としていらっ

しゃる神様は、人間に対して、完全な対象的善の実体であるこ

とを望まれるのです。

それでは、生まれる時からそれを願ったのでしょうか。もち

ろんそうでしょう。また、生まれて一生の間、そのように生き

ることを願うのでしょうか。もちろんそうでしょう。今までも

そうしましたが、未来においても、善であることを願う神様だ

というのです。

第八篇 信仰生活と修練

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21 信仰とは、信じて敬い、仕えることです。その信仰の限界

とはどこでしょうか。忍耐の信仰、克服の信仰の限界がどこま

でですか。神様以上の立場に上がるまでです。神様に侍ること

より、神様の頭に上がって踊りを踊っても、神様が喜んで、

「さあ、踊れ」と言うことができるところまでです。そこまで

上がらなければなりません。ですから、信じられないことがあ

りません。内容さえ裏づけられるならば、信じられないことは

ないのです。

22 統一教会は、生活の中で生きた神様を信仰の対象、侍る対

象とし、神様の愛から結束と統一を主張していこうというので

す。これが統一教会の出発の動機です。最も理論的な基盤の上

で出発した宗教です。妄想ではありません。具体的な内容を提

示して出発したというのです。

23 侍る生活は、千年たっても自分を考えてはいけません。

「私は統一教会で数十年間、先生に侍った」と考えてはいけま

せん。そのような人を先生は好みません。先生は、今までして

きたことをみな忘れてしまいました。忘れていくようになると

き、より大きな侍る生活が待っています。神様もそうなのです。

信じて希望を訪ねていく生活(P817)

24 信仰者は、より大きなことのために、公的な祈りを捧げな

ければなりません。そうして、これを横的に、どのように展開

させるのでしょうか。それを空想することで終わるのではなく、

行動の結実として表すために、創造的な冒険をしなさいという

のです。ですから、信仰者は、現実の環境と不断に闘争して、

理想を現実化させるための冒険の生活をしなければなりません。

したがって、信仰生活は、最高の開拓者の生活であり、最高の

闘争者の生活であり、最高の伝道者の生活です。そのような結

果として現れてこそ、最高の勝利者になることができます。皆

さんは、そのような信仰生活をしなければならないのです。

25 永遠に自分が自分を信じ、自分が自分自身を望みとして、

自分が自分自身を愛しながら、「神様、私の愛をお受けくださ

い。神様、私の希望を御覧になってお喜びください。神様、私

の信仰を御覧になってお喜びください」という時、神様が「分

かった!」と言うことができなければなりません。信仰を立て

た目的がそれであり、希望を探す目的がそれであり、愛を慕わ

しく思う目的がそれなので、そのようになれば、そこで主に相

まみえるようになります。そうして、その主と共に暮らすので

す。

26 皆さんの善し悪しが問題ではなく、皆さん自身が神様のみ

前に順応できる絶対的な信仰をもっていけるのか、ということ

が問題です。実績をもてずにいれば、希望だけでももちなさい

というのです。希望をもつためには、絶対信仰をもつことはも

ちろん、実践的過程を築いていかなければなりません。

先生は、この地上の男性を代表し、誰よりも厳しい闘争の歴

史を経ていかなければなりません。先生は、霊界と肉界から公

認される権限をもって現れましたが、皆さんはそうではありま

せん。実績がなければ、信仰で越えればいいのです。その信仰

は、どんな信仰でなければならないのでしょうか。自分が好む

信仰ではいけません。そのような信仰では、志を成就したとし

ても自分だけが喜ぶ志なので、神様が喜びません。

自分の思いどおりにしたことは、やればやるほど神様からも、

先生からも遠ざかるのです。「自分が好きだからやるのであっ

て、嫌ならしない」と言ってはいけません。神様がお喜びにな

らなければなりません。問題はここにあります。先生自身もそ

うです。ですから、自分が実践的な生活ができなくても、絶対

7

に信じなさいというのです。信じればよいのです。

27 統一教会の教会員たちは、先生の話を絶対的に信じなけれ

ばなりません。希望を求めて昔のように信じなければなりませ

ん。

昔、み旨が分からない時にも、希望を抱き、愛を慕いながら

進みました。皆さんが求めた道を歩みながら、そのような立場

に立っていないのなら、先生のみ言を信じ、神様の愛を信じ、

その命令によって動かなければなりません。それしか方法があ

りません。このような道を経ていかなければならないのです。

もし、皆さんが個人的な勝利の位置で神様の祝福を受け、家

庭的な位置で祝福を受けたとしても、家庭を越えて氏族、民族、

国家、世界、天宙にまで進まなければなりません。七段階が残

っています。神様のみ前にまで行こうとすれば、七段階を経な

ければなりません。七つの峠があるというのです。その位置ま

で進むためには、神様を絶対に信じなければなりません。神様

がどういう命令をしようと、そこに絶対服従しなければならな

いのです。

悔い改めて新しい生命を得る生活(P818)

28 ある人は、「信仰生活は年を取ってからしよう、死ぬ時に

なって、信じて天国に行こう」と考えます。しかし、とんでも

ないことです。それでは天国に行くことはできません。いつ神

様を中心として出発するかということが重要です。死ぬ時にな

って出発したとすれば、全生涯の大部分は神様に背反する立場

にいたということになります。ですから、それに比例して、そ

れ以上の悔い改めをしなければなりません。それにもかかわら

ず、年を取ってから信じて天国に行こうと考える人は、愚かな

人なのです。

29 信仰生活は、み旨を知ったその日から今までの生活が、あ

る人は一年になり、ある人は十年になり、あるいは半生をみ旨

と共に生きてきた人もいるはずですが、これまでの生活が停止

した立場だったのか、あるいは前進する立場だったのか、そう

でなければ後退する立場だったのか、ということが問題になり

ます。

皆さんは、これらのどこに属するかを必ず明示して、越えて

いかなければなりません。いくら過去は前進したとしても、き

ょう停止していれば、そこに神様の生命力が存在できません。

神様の愛が存在できません。過去には前進しながら無限の価値

と無限の生命力と無限の愛の力をもって生きたとしても、現在

が停止した立場にあるとすれば、神様と離別したということな

のです。

30 堕落した私たちが神様の生命圏と愛の圏内に入るためには、

必ず悔い改めが必要です。先祖から今まで、百の罪を犯したの

なら、それ以上の努力をして悔い改めなければなりません。で

すから、信仰生活において悔い改めは欠かすことができません。

私たちは、千代、万代の先祖たちを通して生まれました。そ

の先祖たちが善の先祖たちなら、「私」は自動的に神様の生命

圏内に接することができる、近い距離にいるのです。しかし、

悪の先祖たちならば、神様の生命圏と遠い距離にいます。遠い

距離にいる人が神様の生命圏と関係を結ぼうとすれば、先祖た

ちの悪をすべて乗り越えることのできる悔い改めの期間が、絶

対に必要だというのです。これを満たさなければ、自分以上の

生命力の世界に接触することはできません。ですから、信仰の

道には必ず悔い改めの涙が必要なのです。

み言を成就する生活(P819)

31 信仰生活を十年すれば、その十年の信仰生活が神様の心情

第八篇 信仰生活と修練

8

と一つになるために闘ったものでなければなりません。そして、

皆さんが何かと向き合ったとき、とても大きな喜びを感じたな

ら、その刺激を中心として必ずそれを成就できる日が来なけれ

ばなりません。そのような思いが、いつも絶えず皆さんの心の

中の深い所に残っていなければならないのです。

皆さんが難しい環境に囲まれた立場に立ったなら、「春が来

れば、私がこの思いをもう一度発揮して、天の果てまで伸びて

いく。いつか見ていなさい。その時が来れば、私はこのように

行く」という信念をもたなければならないのです。

32 信仰は、あくまでも実践のための動機を備えるのに必要な

ものです。ですから、聖書は、天国がどこにあるのかというと

き、天国は信じるところにあるとは教えませんでした。天国は

私にあるといいました。「私にある」という言葉は、主体的立

場が相対的世界にかかっているという意味ではありません。主

体的な内容を自分が決めなければならないということです。そ

れを決定できる動機が人間にある、という事実を表したのです。

33 皆さんは、霊的に先生を通して体恤した信仰を実践舞台に

適用させなければなりません。そうすれば、そこから必ず天国

が広がります。神様を中心として見るとき、私が二番目なら、

実践環境は三番目です。蘇生、長成、完成です。私は中心の位

置に立っているので、私が天も完成させることができ、世の中

も完成させることができます。ですから、聖書を見ても、いつ

も二番目が問題になっています。その二番目の位置は、どのよ

うな位置でしょうか。神様と宇宙を見るとき、人は二番目の位

置にいるのです。

34 人は、一つの線を中心として見れば、三点を連結するので

す。ですから、人間が完成することによって神様が完成するこ

とができ、人間が完成することによって宇宙が完成することが

できます。そのような自分が今、開拓の途上で絶対に必要なこ

とは、この二つの世界を調整するための体恤と実践です。体恤

が霊的な面を言うとすれば、実践は真理的な面を言い、体恤が

右側ならば実践は左側です。これが一致して平衡を保ち、私の

人格基準の前に完結させることによって、宇宙を代表した神様

の息子として登場することができるのです。

35 実績がなければなりません。戦場に出ていき、一人だけで

あっても、勝利の戦果をもつことが問題です。実践は、いい加

減な実践ではありません。神様の代身者として、一家を代表し、

一国を代表して、感服させ得る実践過程を経るには、血のにじ

む闘争がなければなりません。笑いながら歩んではいけません。

死ぬか生きるかという深刻な立場で実践することによって、そ

こに比例した実績が自然に現れるのです。ですから、最高の実

力を発揮して実績を残すべき時なのです。

第二節 信仰生活の目標(P820)

1 習慣的な信仰生活は危険です。そのような信仰生活は、絶

えず活動するサタンに讒訴条件を提示する要因になります。

人々が復帰路程を歩んでいくにつれて、一人も失うまいとする

サタンは、あらゆる方法を通して再侵犯の機会を狙っています。

サタンは、個々人が立てた蕩減条件によって一個人から離れて

いかなければなりませんが、また再び家庭的次元、民族的次元

において、侵犯することもあり得るのです。

ですから、ある意味では、厳格な戒律が信仰生活に有益です。

習慣に依存した世俗的な生活は、皆さん自身を過去の生活に筒

単に引き込む傾向があるので、真の生活の方法になり得ません。

人間は、ただ真の愛と持続的な自己犠牲の生活をするとき、初

めてサタンを克服できます。したがって、困難でも公義を実行

するとき、人間の偉大な充足感も得ることができます。皆さん

9

全員が、このような生活を営まなければならないのです。

信仰生活をする理由(P821)

2 人は良心と体があります。体が引き寄せ、体が広がり、欲

望を広げれば、中心が縮みます。体が思いどおりにすれば、良

心の世界は零に戻ります。引っ張って下りてくるのです。これ

をなくせば、縦的に高まります。縦的な基準において神様のみ

前に完成基準を立てられなかったので、そこに到達するために

は、世の中のどんな愛よりも最高の精誠を尽くさなければなり

ません。世の中の愛以上の愛を投入してこそ、長成期完成級か

ら完成期に行き、直接主管と間接主管の一体圏を中心として、

責任分担の完成圏を乗り越えるのです。それが原理観なのです。

3 純粋な宗教であるほど、体を打つのです。特にキリスト

(カトリック)教徒たちが独身生活をしますが、社会と万民の

ために犠牲になり、奉仕しなさいというのです。キリスト教で

は、「城の頂上の石にならずに、隅のかしら石になりなさい」、

「柱の中でも正門の柱にならずに、垣根の柱になりなさい」と

教えています。

聖書の教えは、すべて、体が願うことと反対です。堕落した

心と体を、二つともそのまま放っておいてはいけません。です

から、体が喜ぶことの反対側に追いやるのです。そうしてこそ、

体の願うことが除去されるからです。純粋で最も高次的な宗教

は、体が願う方向の反対に追いやる宗教なのです。

4 信仰の道においては、自己主張や自我観念はあり得ません。

絶対的な信仰は、自我観念が一つも残らない信仰を言います。

絶対的に信じるというときは、「私」自体に絶対的に反対する

要因が一つもあってはいけません。神様を中心として一つにな

ろうというところに、自己主張はあり得ません。主体が求める

とおり、完全に一致しなければなりません。完全に一致すると

いうことは、自分自ら主張できる一片の心もないのです。

信仰生活をしながら自分の思いどおりに主張できるところが

あるとすれば、その場所は天国ではありません。自分の思いど

おりに願うところでは、いくらよく信じたとしても、そこは天

国ではありません。このような根本問題を中心として、皆さん

は深刻に考えなければなりません。先生も、そのような問題を

中心として深刻に考えるというのです。

5 個人的に解決し難いことにぶつかった人は、自分よりも信

仰において立派な人、自分よりも上にいる人を訪ねて、率直に

打ち明けて話さなければなりません。「私は、私ではなく、彼

に従っていく人になろう」と考えなければなりません。彼が

「右に行きなさい」と言えば右に行き、「左に行きなさい」と

言えば左に行くのです。また「上がりなさい」と言えば上がり、

「下りなさい」と言えば下りるのです。「私のために生きるの

ではなく、指導する人の代わりになろう」と考えれば、その環

境を避けて行ける道があるのです。

ですから、信仰生活において同志が必要です。同志のいない

人は寂しい人です。同志がいれば、互いに補充し、保護できる

というのです。そうすることによって、環境の困難を克服でき

る道も生まれます。もし同志がいなければ、自分ですべて解決

しなければなりませんが、前後関係を一人で解決できる能力が

ない自分では、とても難しいのです。

6 堕落した人間は、サタンによって生命が始まったので、自

分自身を否定しなければ神様の生命と連結できません。ですか

ら、生命を投げ出す方法しかありません。それでは、生命の統

一はどこで起こるのでしょうか。堕落した生命を捨てるところ、

すなわち自分の生命を犠牲にする、その果てにおいて神様の新

しい生命と関係が結ばれるのです。ですから、信仰の道は、み

第八篇 信仰生活と修練

10

旨のために行く道であり、一つになるための道であり、命を懸

けて行く道なのです。

7 先生は、皆さんが部屋の中で笑いながら話をしても、すぐ

にその感じが伝わってきます。この笑いが神様のみ前にプラス

となる笑いなのか、マイナスとなる笑いなのか、その感じが伝

わってくるというのです。皆さんもそれができるように、習慣

化して発展させていかなければなりません。

ですから、自分を中心として起きる周囲のすべての要件には、

無意味なものは一つもありません。すべてのことが、私を啓発

させ、発展させるための一つの教材として登場するのです。そ

のような生活態度が必要です。一人だからといって、自分勝手

にはできないのです。

このような生活態度を中心として生活すれば、初めて会う人

でも、面識のある人でも、誰であっても、いい加減に接するこ

とはできません。初めて会う人だから、適当に扱えばいいだろ

うと考えてはいけません。その人がどんな人なのか分からない

ではないかというのです。ですから、このようなあらゆる心情

的基準を中心として、体恤する環境を開発する生活をしなけれ

ばなりません。そのように、あらゆることにおいて、間違いな

く効果的な価値を発見して喜びを感じたとすれば、その人の信

仰生活は、観念的な信仰ではなく、実質的な信仰生活であり、

神様と共に生きる信仰生活です。

8 信仰生活は切実でなければなりません。おなかのすいた人

が御飯を恋しく思うこと、母を失った子女が母を探すのと同様

に、そのような切実な心が先に立たなければなりません。信仰

の道や信仰の目的というのは、見えるものではないからです。

神様のみ旨が見えますか。神様のみ旨は、人を通して成就され

るまでは見えないのです。

世の中では、すべて計画し、設計し、予算を編成して広げて

いきますが、神様のみ旨は、目で見ることもできず、触ること

もできません。ですから、その見えない世界を追求し、それに

対する目的を現実として成就していくことは、とても難しい課

題です。

皆さんの目は、見えないものを見るようになっているのでは

なく、見えるものを見るようになっています。また感じるのも、

見えないものを見聞きして感じるようになっているのではなく、

見えるものを見て感じるようになっています。必ず五官の作用

は、見える世界を見て、聞いて、触って、感じるようになって

いるのです。

9 信仰の道とは何でしょうか。見える世界で感じる感覚より

も、見えない世界で一層強い感覚を感じるようになれば、その

人は絶対に疲れることがないというのです。外的な世の中のこ

とは、すべて見えるものによって動きますが、信仰の道は、見

えないものを追求していくので、その目的が漠然とするときに

は力が出ないのです。

神様との父子関係回復(P823)

10 統一教会の人たちは、何を信仰生活の目標にして生きなけ

ればならないのでしょうか。父母の心情をもち、僕の体をまと

い、十字架の道を行くことを目標にして生きるべきでしょう。

僕の体というのも、ふさわしくない言葉です。父の命を奪った

殺人者の体です。ですから、これを蕩減するための道を行かな

ければなりません。イエス様は、罪がなくてもその道を行きま

したが、父の命を奪った罪人である私たちは、百回、千回でも

この道を行かなければならないのです。

11 人間が神様に対して切ない心情で深刻に訴えても、神様を

探し出すことができなかったのは、人間が堕落によって神様と

11

父子関係が結ばれなかったからであり、天倫にかなう愛の関係

が結ばれなかったからです。ですから、人間がこのような立場

に落ちるようになった原因と内容を知らなければならず、サタ

ンの真相をはっきりと明かして、本来の立場を回復しなければ

なりません。言葉によって結ばれる父子の関係、約束だけで結

ばれる父子の関係は必要ありません。心を尽くし、力を尽くし

て父のみ旨のために生き、骨肉が溶け出す苦痛の中でも耐えて

勝利するようになるとき、私たちは、神様と父子の関係を回復

できるのです。

12 神様のみ手によって造られた万物、神様のみ言によって実

現された万物、その栄光を想像してみてください。今日の天と

地は、そのようにはなっていません。それは、恨めしく、悔し

いことです。創造の動機と目的もこのようなものではありませ

んでしたが、思ってもいない人間の堕落によって、創造の動機

と目的を蹂躙した結果になってしまいました。

堕落は、苦痛と悲しみと不幸の源泉になり、人間が嫌うあら

ゆることの原因になりました。怨讐とは、刃物を持った人だけ

ではありません。堕落、これこそが人類の怨讐であり、万物の

怨讐であり、創造主の怨讐です。この怨讐は、どこから始まっ

たのでしょうか。人間の先祖から始まりました。ですから、命

懸けの闘争ももちろん必要ですが、この罪悪の根を抜いてしま

うためには、堕落の本拠地を抜本的に取り除き、爆破して切っ

てしまわなければなりません。そうしてこそ、地上の人間と関

係を結ぶことができなくなります。それがまだ残っているので、

世の中に罪悪が蔓延するのです。

信仰者は、結果的なものを中心として闘争するのではなく、

堕落の本拠地を探すところに第一の目標を置かなければなりま

せん。怨讐の根拠地、堕落の源泉を求めて、神様と人間とサタ

ンの三者間で、その問題を解決しなければなりません。そうで

なければ、不幸の端緒は解けないのです。

13 人間が真の息子、娘の立場で神様を「父」と呼ぶことが人

類の希望であり、すべての万物の願いであり、神様の願いです。

ですから、私たちは、この地上で神様の真の息子、娘として復

帰の運命を打開していかなければなりませんが、ここで私たち

がただ一つ望むものがあるとすれば、真の愛を中心として神様

と父子の関係を回復することです。

14 喜びと悲しみは、天国と地獄という言葉で代わりに表され

ます。先生は、この道に初めて立ち上がった時、宇宙の根本と

は何かを考え、掘り下げていきました。それは父と息子の関係

です。したがって、復帰の根本内容は、父子の関係なのです。

歴史は、この関係を復帰させておかなければなりません。です

から、復帰歴史は、本然の父と息子、娘の関係を回復するもの

です。

15 私たちは、絶対的な父の前に、真の息子、娘として立つた

めに、新しい信仰によってあらゆる疑いの世界、死亡の世界、

罪悪の世界、恐怖の世界を越えなければなりません。私たちは、

天が求める信仰の内容が分かれば、それを立証させる基準を立

て、天のみ前に出なければなりません。それができなければ、

神様の真の息子、娘になることができません。

このような信仰をもって立ち上がるとき、皆さんは神様と永

遠の関係を結ぶことができ、永遠の善と永遠の生命を享受する

ことができ、苦痛から永遠の解放を受けることができ、永遠の

天国圏内で暮らしていけることを肝に銘じなければなりません。

16 人間は、父母がいなければ寂しく思い、夫婦がいなければ

寂しく思い、自分と自分の家庭を保護してくれる国家がなけれ

ば寂しく思います。これが人間の相互の情として現れています。

このように変わる関係でも寂しく思うのに、永遠の理念を中心

第八篇 信仰生活と修練

12

とした関係を結べないことを寂しく思わないでしょうか。この

ように人間は、地上ですべての条件を備えても、そこに加えて

天倫の永遠の関係を、また望むようになっているのです。

17 信仰者たちは、変わる理念的な条件をもって生きてはいけ

ません。変わらない不変の関係を回復するのですが、その関係

は別々に分かれたものではなく、自分が生きる生活圏内で全体

が一つに連結されているという事実を知り、自ら神様と関係を

結んで生きなければなりません。神様と関係を結ぶ、それが実

証的な価値を回復し、神様を心に迎えて生きる、すなわち神様

と一体の関係の中で暮らすことができるのです。

そのような生活をするようにさせてくれる神様の実体を感じ

るとすれば、その価値は部分的な価値ではありません。そのよ

うに全体的な価値が実現される環境を回復するようになる時、

個体と全体の価値は自分を中心として動き始めるというのです。

18 統一教会の信仰観は、今までの信仰観とは異なります。今

までは、イエス様と聖書を中心として、すなわち救世主という

言葉を中心として漠然と信じてきました。しかし、私たちは、

父母という言葉を中心として神様と父子の関係を備え、子女の

立場で信じています。父母と子女は、離そうとしても離すこと

のできない関係をもっています。生まれる時もそうであり、生

きていてもそうであり、死ぬ時もそうなのです。

ですから、皆さんは、父母を離れては生活することもできず、

活動することもできません。宇宙史的な中心であるその父母は、

父母自身だけの関係をもってきたのではなく、神様を中心とし

た絶対的な関係をもってきました。したがって、皆さんは、神

様とその父母が一致したところに連結されなければ、責任を完

遂することができず、目的を達成することができません。最も

重要なのは、神様と父母と「私」がいつも一致しなければなら

ないということです。

19 人間の嘆きは何であり、全被造万物の嘆きは何でしょうか。

人間が天の家庭の家族として参与できないことです。これが天

宙の嘆きです。今日、私たちが信仰生活をする目標は、ほかの

ことではありません。神様に対して「お父様!」と呼ぶことで

す。父の真の子女として、人類全体が兄弟となって喜び、神様

を「父」と呼ぶことのできるそのひと日を迎えるために、神様

が六千年間、復帰摂理をしてこられたというのです。

霊的成熟のために(P826)

20 イエス様は、どうして自らを「神のひとり子」とおっしゃ

ったのでしょうか。イエス様が、このように人間が到底信じら

れない条件を提示されたのは、彼らにこれを信じれば瞬間的に

飛躍できる恩恵を与えるためでした。人間が無限の信仰でイエ

ス様を信じ、心から天に向かって叫ぶようになれば、飛躍的に

信仰が成長するようになります。

天国の中心に向かう皆さんの信仰の程度が高ければ高いほど、

それだけ霊界も皆さんを通してより大きく役事(働き)するこ

とができ、皆さんが無限の信仰心を所有するならば、皆さんの

その人格を通して、皆さんが想像できないほどの超感覚的な世

界の事実と、宇宙の事実を、一時に感じることができます。と

ころが、人間はこのような驚くべきものを失ってしまいました。

行って行って、また行かなければならないのが無限の世界を

指向している信仰者の姿勢だとすれば、ある限界圏内にとどま

らせる信仰を主張する群れをはねのけるために、終わりの日に

は、宇宙的な大きな闘いをしなければならないのです。

21 本来、人間は、霊肉を通してこそ完全な人間になります。

しかし、イエス様が霊的父母の立場にのみいらっしゃれば、霊

的救援、つまり半分の救援しかできない立場になります。です

13

から、残りの半分の救援、すなわち肉的救援をするために再臨

主がこの地にいらっしゃらなければなりません。そうして、そ

の再臨主が、イエス様を信じて逝った霊人たちと全世界に散ら

ばっているキリスト教徒を一つに統一して神様のみ前に捧げる

ことによって、第三イスラエルの出発をすることができます。

霊的な第二イスラエル民族になるためには、洗礼を通さなけれ

ばなりませんでしたが、今後、来られる主を中心として第三イ

スラエルになるためには、祝福の門を通らなければならないの

です。

22 アダムとエバの誤った愛によって堕落したので、これを蕩

減復帰するためには、神様の愛を中心として祝福の関門を通し

て、新郎と新婦の関係を結ばなければなりません。そのように

しなければ、天国に行くことはできません。イエス様もこのよ

うな責任を全うすることができませんでした。このことを救世

主が再び現れて行わなければ、地上のすべてのものの根を通さ

なければ、この地上の絡み合ったものを収拾する方法がありま

せん。ですから、それに対する責任を全うしなければならない

のです。

23 イエス様が十字架にかけられたために、肉身をもった真の

父母は実現されませんでした。すなわち神様の血統である息子

は立てられましたが、霊肉ともの真の父母の顕現は実現されな

かったのです。霊界にだけ限定され、霊的救援のみ行ってきた

のであり、肉的救援、すなわち体の贖罪は実現されなかったの

です。結局、今日までキリスト教には、霊的な父と霊的な母し

かいませんでした。

ですから、真の父母がいらっしゃれば、私たちは、その父母

によって霊肉が共に生まれ変わるために条件的、あるいは象徴

的に母の胎内に入り、新しい生命として再びよみがえらなけれ

ばなりません。私たちは、そのための路程を求めながら歩んで

いるのです。

24 肉身と霊人体を中心として見るとき、より重要なものは肉

ではなく霊だというのです。肉は七十、八十年の時間圏、限界

圏内で生きては消えてしまいますが、霊は時間圏を超越し、空

間圏まで超越できる権限をもっています。したがって、歴史的

な責任を悟り、その責任を果たすことが人間の本義です。皆さ

んがいくら肉身を中心として裕福に暮らしても、結局は死ぬよ

うになります。いずれにせよ肉身は死ぬようになっているので

す。

25 イエス様の当時、洗礼ヨハネが家庭的にイエス様を迎える

ことができなかったために、イエス様が代わりに蕩減を受けた

のと同様に、キリスト教文化圏が再臨主を迎えられないことに

よって、洗礼ヨハネ的なキリスト教の代わりに統一教会をつく

ってきたのです。ですから、統一教会は再臨時代において、世

界的な版図のユダヤ教と同じです。

イスラエルの国と同じ立場にいるアメリカや自由世界が一つ

にならなければならないのですが、彼らがみな反対したのです。

韓国もそうです。神様が新約時代にイエス様を通して霊的救援

摂理をしてきたのですが、統一教会は、実体の国を求めて霊肉

ともの救援摂理をしてきたのです。終わりの日を迎えて、世界

的版図の霊的基盤をもったキリスト教が先生と完全に一つにな

れば、肉的基盤が連結されるのは問題ないのです。

26 私たちは、先にサタン世界から抜け出さなければなりませ

ん。そして、外界の人たちとは違う感情をもたなければなりま

せん。神様の愛を体恤できなければならないのです。サタンが

愛するものを憎悪しなければなりません。そして、全世界のた

めに私たち自身を犠牲にしなければなりません。

先生を中心として、皆さんが個人、家庭、氏族、民族、国家、

第八篇 信仰生活と修練

14

そして世界的に勝利すれば、私たちは、第三イスラエルとして、

イスラエル選民、または霊的なイスラエルを再建することがで

きます。そのようになれば、神様は、私たちを通して全人類を

霊肉両面で救援なさることができるのです。

27 霊的な基準と肉的な基準のうち、どちらがより重要でしょ

うか。私たちは、肉的な基準だけを中心として生きていくので

はありません。肉は霊のために、霊は肉のために存在するので

す。皆さんは、世の中の人たちが生きていくような立場にしが

みついてはいけません。皆さんは、霊肉が一つになった実体を

備えて、よりやり甲斐のある立場で出発しなければなりません。

これが統一理念をもった皆さんが行くべき道にもかかわらず、

肉身を中心として食べて暮らすことが重要だと考える人がかな

りいます。しかし、それはすべて条件に引っ掛かるようになっ

ているのです。

真の父母様の命の中で成長(P828)

28 神様の願いと人類の希望の帰着点となり、信仰者が勝利で

きる起点となる一つの基盤とは何でしょうか。神様の恨の起源

は、人類が偽りの父母から出発したことなので、真の父母の神

聖な関係を中心として、その前に順応する群れになることです。

そのようにすることによって、初めて天地が解放され、天国の

門が開くというのです。

29 真の家庭には、真の父母がいなければならず、真の男性と

真の女性、真の夫婦、真の子女がいなければなりません。一番

の中心は何でしょうか。個人の目的も真の父母であり、男性と

女性の目的も真の父母だということです。真の父母になって、

息子、娘をもち、家庭をもつのです。それで統一教会は、「真

の父母様を信仰しよう」、「真の父母を信じよう」というのです。

信じるというのは、明確ではないからです。明確ではないので、

信じるのです。明確であれば、信じる立場を越えられるのです。

今まで明確に知らなかったので信じましたが、明確に知って

しまえば、信じるのではありません。今までは自分がなぜ生ま

れたのか、私たち夫婦とは何か、子女とは何か、家庭とは何か

を知りませんでした。しかし、私たちは、真の父母の家庭を信

じるのではなく、真の父母様の家庭を知っているのです。皆さ

んは、真の父母を知っているというのです。信じるのではあり

ません。真の父母を信じていると考えずに、知っていると考え

なければなりません。その次には、真の父母と生活をしなけれ

ばなりません。真の父母と共に生きなければならないのです。

30 メシヤは、堕落していない完成した真の父母です。真の父

母が現れてこそ、一つの軸となって、神様と人間が連結される

のです。神様は、霊的な真の父母であり、アダムとエバが完成

すれば、実体的な地の真の父母になります。この軸ができてい

るので一つになるのです。

今までの宗教は、真の父母の基準がなかったので、地上で連

結できる道がありませんでした。いつも精誠を捧げ続け、天と

相対的基準を合わせて霊的に出会うのです。ですから、たくさ

んの信仰者が精誠を捧げて、捧げて、捧げる継続的な修道の生

活を通して、だんだんと霊的に橋を架けて、天と出会う生活を

してきたのです。

31 偽りの愛、偽りの生命、偽りの血統によって生まれたもの

を切ってしまい、真の愛、真の生命、真の血統に接ぎ木して生

き返ることが、人類が行くべき道であり、個人全体が行くべき

道なのです。宗教が出てきたのは、体を征服して一つにするた

めです。このような立場で真の愛と一つになり、この地上で暮

らして天国に行くことができる息子、娘たちを、皆さんが生ま

なければなりません。

15

宗教を信じなくても天の国に行ける真の息子、娘を生むこと

ができる人にはなっていません。ですから、宗教が出てきて体

を征服して一つにし、真の父母と一つになって接ぎ木しなけれ

ばなりません。偽りのオリーブの木が真のオリーブの木になる

のです。真の息子、娘を生み、この地上で暮らしてから永遠の

あの世に、天国に入っていくのが創造理想です。

32 真の父母は、地獄の底から天上の位置にまで行くのです。

その真の父母のみ旨に従って真の父母と心情一体となり、生活

理想一体となれば、真の愛を中心として行く真の父母とその人

は隔たりがありません。縦的に立てて蕩減したものが、横的に

入ってくるのです。

個人復帰、家庭復帰、氏族、民族、国家、世界、天宙復帰と

神様解放圏まで行ってこそ、八段階の基準がすべてなくなるの

です。そのように横的になされることによって、個人が家庭、

氏族、民族に行けます。個人は思いどおりに家庭に行き、家庭

は氏族に、氏族は思いどおりに民族に行けるので、個人から出

発して世の中の果てまで行って、帰ってこれるのです。

第三節 信仰生活の道(P829)

1 人間は、堕落した人類始祖の子孫として生まれたので、堕

落の峠を越えなければ神様を訪ねることができる道はなく、天

の国に入ることさえできません。また、堕落性をもった存在に

落ちた人間としては、堕落した峠を再び越える道を模索したと

しても、自分では不可能です。堕落した峠を再び越えるには、

必ず自分の力ではない、第三者の力に頼らざるを得ません。こ

のような境遇に置かれているのが、今日この地上に生きている

私たちなのですが、有り難くも、天は私たちを放置されず、堕

落の峠を越えさせるために、今まで歴史を通して試練しながら、

その責任を担ってきているのです。

神様のみ旨どおりに生きる道(P830)

2 真の信仰の道というとき、真とは一つしかありません。信

仰の対象とは誰でしょうか。絶対的な神様です。信仰生活とは、

神様のみ旨に合うように、神様が願う目的地を訪ねていくため

のものです。「私」が願うものではないというのです。信仰す

る人たちが願うものではありません。今まで信仰界の混乱が世

界的に広がったのは、信仰の目的が自分を中心としてするので

はなく、神様のみ旨を成就するためのものであることが分かっ

ていないからです。

3 すべてのことが自分と連結されています。完成するのも自

らにかかっていて、完成できないのも自らにかかっています。

成功するのも自らにかかっていて、成功できないのも自らにか

かっています。信仰生活もそうです。一生涯、同じ信仰生活を

しますが、本来、良心を中心として最高の目標に到達したいと

いうのは、万民共通です。

しかし、最高の基準に到達するというのは並大抵のことでは

ありません。上がれば上がるほど、最後にはだんだんと少なく

なります。最後には、一つで全体が完成するという結論が出る

のですが、その一つに到達するのが難しいのです。今まで歴史

を通して良心は、善の目的に向かってきましたが、人間が願う

ところを完成するというのは、並大抵のことではないのです。

4 生活の中で、どんな立場で天と同行するかという評価の基

準を育てる生活が、統一教会の信仰生活です。これが皆さんが

あの世に行ったとき、財産になり、今後、新しい世代が歴史の

主人公になるのか、あるいは落伍者になるのかを決める境界線

になるのです。

第八篇 信仰生活と修練

16

5 私たちには勝利基準が必要です。使命を完遂できる出発の

起点が必要です。これは、自分が主体的立場で勝利基準を立て

なければならないということです。そうでなければ、目的とす

るところを実現させられないというのは、当然の論理です。そ

れでは、勝利基準をどこに立てるのでしょうか。それは、「私」

自身に立てなければならないのです。

6 イエス様がこの地に来て、神様の全体の使命を代わりに背

負い、天宙において起こったこの闘いを完結するための責任者

として立った時、いつも問題視したのが神様とイエス様御自身

のことでした。神様は、天宙の中心にならなければならず、イ

エス様は実体の中心にならなければなりませんでした。これを

いつも念頭に置いていたのです。もし、ここに間隔が広がり、

一つの目的の基準を中心として相いれないことが広がるように

なるときは、勝利の方向に前進できないのです。

7 イエス様がいつも心中で深く考えたこととは何かというと、

「父と息子はいつも一つにならなければならない」ということ

でした。すなわち勝利的主体である神様を中心として、自分が

地において主体的な立場で勝利的基盤を備えるためには、まず

自分の心に神様を迎えなければならないという認識をもってい

たのです。そのような立場でイエス様が自分のことを「神の宮

である」と言った話が成立するのです。結局、勝利の基準とは、

地で神様の実体となるイエス様を中心として、聖殿と同じ立場

で一体になる基盤です。

すなわち、勝利の基準を決定することを標準としなければ、

復帰の完結や、あるいはその当時、イエス様の使命を終結させ

る方法がないというのです。このような観点から信仰の基準を

立てて出発しなければ、いくら信仰生活を長くしたとしても、

いくら困難な路程を経過したとしても、勝利の基準を備えた立

場に立ったと言うことができません。ですから、一番大きな問

題は、勝利の基準を、自分自体内でまず決定できるひと時をも

たなければならないということであると結論を下せるのです。

8 皆さんが真を求めようとするときには、真を求める心が必

要だということを感じなければならず、天と地が喜ぶことので

きる真理を探そうと願うときには、皆さんの体が自ら真の体に

なる真の相対基準を備えなければならないことを悟らなければ

なりません。

真であられる神様と真の真理と真の人間は、それぞれその存

在の在り方が異なりますが、内的基準においては同じ方向に向

かって動いています。すなわち、神様と真理は同じ方向に向か

って永遠に実存するというのです。

今日、私たちが生きているこの地を見つめ、誰でもこの世が

真の世の中になり得ないことを嘆いています。また、自分自身

を反省してみながら、真の自身になれないことを嘆き、私たち

が信仰の道を歩みながら真の神様と出会うことを願いますが、

真の神様と出会えないことを嘆いています。これが信仰者たち

の苦痛なのです。

9 私たちが命を懸けて信じるのを見るとき、単に流れる世の

荒波とともに流れてしまうことを願って信じる人はいないはず

です。生涯をかけて深刻な立場で信じれば信じるほど、その問

題が重要であればあるほど、誰でも、それが深く、広く、ある

いは長く残されることを願うでしょう。神様が私たちを見つめ

るとき、深刻な神様ならば誰よりも深刻な観点で自分を見てく

れることを望むのが、私たちの願いでしょう。また、自分が起

点となって世界に何かが残ることを願うのが、信仰者として誰

もがもたざるを得ない態度なのです。

10 信仰をもつ人たちは、「神様の息子になる」と言いますが、

神様の願いとは何でしょうか。神様の願いは、私たちが寝食を

17

中心とする日常生活とは関連がありません。それは誰でもする

ことです。聖書には、「何を食べようか、何を飲もうか、ある

いは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみ

な、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父

は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であること

をご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい」(マタ

イ六・三一~三三)と定義されているのです。

11 環境を克服して一つの新しい面の突破口をつくり、毎日の

ように方向を異にする道を訪ねていかなければ、神様が願う世

界に行けないのが信仰の道です。ですから、私たち自身が信仰

の道を行くためには、「私」の力が不足し、私自身が神様を中

心とした習慣的基準、生活的基準をもつことができないことに

よって、これが変わりやすいので、私たちは、いつも神様を標

準としてきょうの生活を調整しなければならないのです。

堕落性を脱いでいく道(P832)

12 人間は、本来、ために生きることのできる一つの中心と連

結され、自分の生を出発するようになっていましたが、堕落に

よって誰かのために生きるところから自分の生を出発できず、

自分自身のために生きるところから生を出発するようになり、

あらゆるものを自己中心にのみ考えて関係を結ぼうとするよう

になりました。永遠の自由と平和を目標にして進む私たちは、

あらゆるものを自分のために帰結させようとする堕落性を脱い

でしまい、自分を越えて、まず誰かのために生きられる自らに

ならなければならないのです。

13 私たちは、自分を誇る前に、堕落の氏族であることを自ら

認めなければなりません。自分の何かを表す前に、堕落性に染

まった罪悪歴史を表し、罪悪の本性を告白しなければなりませ

ん。このような立場に置かれているにもかかわらず、そのよう

な立場を避けています。天は必ず、歴史的に染まった罪状を清

算しなければならず、血統的に結ばれてきた罪悪の怨恨を解か

なければならないのです。

14 同僚や師弟、あるいは家庭において、「私」と関係を結ん

だ人たちの中で、弁解する人を好む人がいるか、見てみてくだ

さい。皆さんは、自分に何か起これば、「あの人もそうだ」と

言いながら、他の人を引っ張り込もうとします。「誰々もそう

だったのに、弟や妹もそうだったのに、なぜ私だけ叱るのか」

と言うのです。これは、偽りです。自分が誤ったなら、率直で

なければならないにもかかわらず、他の人にかみついて引き込

もうとするというのです。これが堕落性です。ですから、日常

生活において率直になりなさいというのです。神様のみ前では、

より一層率直にならなければなりません。

15 完全な物が一つの目的のために結合するとき、完成された

物になります。一つの家が完成するには、扉や、そこに所属す

る一切の付属品が完全でなければなりません。それでこそ、一

つの家が完成します。このような問題を見るとき、完全な個体

を追求するようになります。ですから、マタイによる福音書第

五章四十八節で、「あなたがたの天の父が完全であられるよう

に、あなたがたも完全な者となりなさい」とあるのです。その

標準が、天が完全であるようにあなた方も完全になりなさい、

というものです。

絶対に近い対象的な価値を追求することは言うまでもありま

せん。絶対者の前に対象として立つのに恥ずかしくない完全品

を求めるのです。そうだとすれば、私たちの生活から分析しな

ければなりません。生活をすべて掘り返してみなければならず、

私たちの考えもすべて掘り返してみなければなりません。私た

ちの四肢五体、私たちの感覚器官までも分析しなければなりま

第八篇 信仰生活と修練

18

せん。「私」が感じることも、すべて昔とは違っていなければ

ならないのです。

16 堕落した人間に肯定的な要因が残っているときは、堕落性

をもっているという結論が出てきます。このように見てみると

き、完全に分解しなければなりません。その形態とその要素を

そのまま連結させるところには、堕落性の要因が残っています。

それは、完全分解、完全否定ではありません。完全分解という

のは完全否定です。真の人間の本然の理想的な所願成就の道は、

堕落した人間に肯定的な要因が存在していては、出てこないの

です。このように結論を下すことができます。

ですから、真の神様が宗教を通して彼の摂理の目的を追求し

ていらっしゃるとすれば、その神様が主張する行路、路程は、

肯定ではなく絶対否定です。絶対否定で出発した基準が出てこ

なければ、堕落した人間の前に、絶対者の相対理念を成就でき

る道は出てこないのです。

17 堕落性を完全に脱がなければなりません。堕落性を完全に

脱ぐためには、自分個人から脱がなければなりません。そうし

て、個人において勝利しなければならず、家庭において勝利し

なければならず、民族、国家、世界、天宙まで勝利しなければ

なりません。これが堕落性からの解放圏です。ですから、それ

を克服できる相対的な自分を発見するようになるときは、直ち

に神様が主管しているものが分かるようになります。信じるの

ではなく、「私」が神様と共にいることが分かるようになるの

です。

18 皆さんが天のみ前に立つとき、足りない自分自身を発見し

なければならず、罪人であることを認識しなければなりません。

そして、神様が思いどおりにできる泥土のように、土くれのよ

うになりなさいというのです。皆さん自身が存在するというこ

とを自ら認めては、不可能です。ですから、「死なんとする者

は生きん」という言葉が、そこから成立します。

この目が堕落性をもっていて、この耳が堕落性をもっていて、

この口が堕落性をもっていて、この体が堕落性をもっています。

これを完全に排除してしまいなさいというのです。神様が願わ

れるとおりに、このように造り出せばこのように行き、あのよ

うに造り出せばあのように行き、「突撃しなさい」と言えば突

撃し、「後退しなさい」と言えば後退しなければなりません。

神様が願うとおりにできなければならないのです。

19 認識や意識を変えるというのは、恐ろしくて難しいことで

す。一度誤った習慣を身につけると直すのが困難です。それで

「三つ子の魂百まで」という言葉があるのです。

皆さんが統一教会に入ってきて数十年になっても、社会で生

きていた習慣性が根絶されていないというのです。「み旨のた

めに犠牲になりなさい、犠牲になりなさい」という話はします

が、本当に犠牲になったでしょうか。犠牲になる立場と犠牲に

ならずに行ける立場を選びなさいと言うなら、「犠牲になる立

場に行こう」と、自信をもって言える皆さんになっているかと

いうのです。そうはなっていません。生活する人間の歴史的伝

統によって、習慣性がそのようになっているからです。

パウロのような人も、「わたしは、なんというみじめな人間

なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってく

れるだろうか」(ローマ七・二四)と言いました。それも習慣

性のためです。二つの法があり、心は神様の法に従い、体はサ

タンの法に従う、その中間に自分自身が置かれているので「あ

あ!」と言いながら嘆いたというのです。この死の陰から誰が

救ってくれるのかという話です。

20 生涯の何年間にわたって身につけられた習慣性をなくすた

めには、死ぬほど努力しても足りないというのです。言い換え

19

れば、何百万年も続いてきた習慣性と堕落性を抜き取るという

のは、数世紀の人生路程をもってしてもできないというのが理

論的です。これは深刻なことです。

皆さんは、堕落性についてただ漠然と話しています。それは、

食べることによって身についた習慣ではありません。骨肉を受

けて継承し、血統を受けて継承したものです。そして、血肉を

混ぜてできた習慣性です。人の力では抜き取ることのできない

根を、そこに下ろしています。世界万民を抱えるかのような、

巨大な木のようになっているのです。

21 堕落性に対する自覚、堕落の恨に対する自覚をしなければ

なりません。エデンから追い出されて涙を流したアダムとエバ

を考えてみてください。それを回想するのです。それ以上に懇

切に父母を求め、一つになろうとする心に徹し、千年、万年、

死の峠があっても、それを何度でも越えようという心が先に立

たなければなりません。ですから、心と体が一つになるところ

を探さなければ、勝利の覇権基盤が地上に横的に展開しても、

「私」と関係を結ぶことができないのです。

本然の自分を探す道(P835)

22 皆さんは、取り戻すべき本然の自分を置いたまま、喜ぶこ

とのできない自らであることを知らなければなりません。悲し

みに置かれている自らであることを知らなければならないので

す。しかし、ある世界を見て悲しく思うのではありません。悲

しみや苦痛を感じるとしても、ある相対的な世界で起こる悲し

みや苦痛を感じるのではなく、「真の私」を探せない悲しみ、

真の私を探せない苦痛を感じなければなりません。世の中に悲

しみと苦痛がたくさんあるとしても、真の私を探せない悲しみ

と苦痛よりひどい苦痛と悲しみはありません。

それでは、創造主である神様は、今まで誰を求め続けていら

っしゃいますか。皆さん自体、すなわち私を訪ねてきていらっ

しゃいます。ですから、真の私が完全に決定されなければなり

ません。そうすることができないとき、完全に一つの実体を中

心とした真の家庭、真の家庭を中心とした社会、国家、さらに

は国家を単位とした世界、世界を単位とした天宙とは、関係を

結ぶことができません。ですから、完全な私になることが、す

べての段階の一番の基準になるのです。

23 人間は、神様のみ言に背いたために、神様のみ言を失い、

神様の実体を失い、神様の愛を失ってしまいました。神様がみ

言を語られるときの心情はどうであり、実体を造るときの心情

はどうであり、その実体を通して誇ろうとしていた神様の内的

心情はどうだったのでしょうか。このようなことを考えるとき、

私たちは、神様のみ言を失った者であり、本然の実体を失った

者であり、神様の理念の園を動かせる愛の実体を失った者だと

いうのです。

ですから、私たちは、自分を立てて誇ることのできない罪人

だと悟らなければなりません。また、自分の実体を立てて主導

する行事ができない存在であり、自分の心を立てて安息の基盤

を求められない存在であることを知らなければならないのです。

24 心は、行く道をしきりに止めようとします。「背を向けな

さい。昔に帰りなさい。心の深いところに帰りなさい」と言い

ます。ですから、仏教では「座禅をしなさい」と言うのです。

本然の私を、本然の心を求めていかなければならないのは、悲

しいこの地上の生活であり、今日、この地上の現実ですが、昔

に帰ってこれを清算したのちには、夢にでも過去を考えたくな

いというのです。これをなくしてしまおうとするのが神様の目

的です。ですから、新しい理想世界と新しい希望に酔いしれて

生きなければなりません。

第八篇 信仰生活と修練

20

25 世の中の人が求めるのは、良いものを食べようとし、良い

ものを着ようとするのです。しかし、修行の道を行く人は、悪

いものを食べようとするのが本質にならなければなりません。

反対です。良いのを食べられず、良いのを着られず、貧しくと

も、本然の関係を求め、永遠に「私」を抱いてくれるその愛を

訪ねていくことが、宗教人たちの生活目的であり、生活の方便

です。行く道が、このように違うというのです。

26 み旨の本然の位置は、神様がいらっしゃるところです。で

すから、み旨の本然の位置は神聖なのです。そこは、万有のす

べての段階を超越し、四方から測定しても、自分の位置が何度

だということがはっきり出てくるのです。しかし、それが合わ

ないときは、自分が見ると一八〇度なのに、その原点基準がほ

かのところにあるので、回して合わせるまでは一八〇度になる

道がありません。そのような結果にぶつかるのは、歴史過程が

堕落圏内にあるという概念のもとでは、避けられない結論です。

「私」を照準として四方から零点の位置を探さなければなり

ません。探すには、本然の零点の位置を中心として、原器のす

べてをはっきりと知るべきことを理解して、その理論に一致さ

せるとき、私もそのようになるというのです。その事実を見い

だすまでは、私たち自体が結果的存在として出発できる、み旨

の一致点を探すことはできません。それは理論的にそうです。

異議がないのです。

27 アダムとエバを造るとき、本来の関係を中心として、あら

ゆる精誠を尽くしたように、この堕落して故障した物を直すた

めには、千年歴史で創造したものの何十倍以上の力を注いで本

然の位置を取り戻さなければなりません。何百回、何百回、何

百回、このようにして定着していこうとするので、数千年、数

万年の復帰歴史がかからざるを得ないのです。

28 人間は、悪魔の主管圏内、サタンの主管圏内で、本性の心

と反対のサタンの愛の圏内で統治されることによって、良心と

体が闘争するようになりました。この闘争をいかに整備するか、

ということが重要な問題です。

これを整備するには、「私」一人の個人の事情を整備するこ

とで終わるのではありません。私を中心としてサタン圏の世界

の環境を整備しなければなりません。ですから、その環境が自

らと相いれないようにするのではなく、すべての環境が私に順

応し、その環境自体が私についてくることができるようにして

おかなければなりません。そうでなければ、本然の心が指向す

る所に訪ねていけないのです。

29 「私」とは、どのような存在なのでしょうか。この宇宙史

的な存在として、最後の人生行路で勝利の冠を求め、天地の万

宇宙、万有の存在物を相続できる神聖な王子です。このような

存在が落ちて、一握りの米で売られていき、どこかの無価値な

悪党の群れに籠絡されていいのでしょうか。それを許容するこ

とはできません。今から、私たちが取り戻さなければなりませ

ん。私たちが復帰の使命を担って、人間の本性を回復させなけ

ればならないのです。

本然の私は、どこにいますか。私を取り戻すためにさまよっ

ていて、本然の私自身を知って、そこに関係を結んで生きよう

とする希望の中であえいでいます。歴史的な起源と通じ、歴史

的な起源にだけ通じることで終わるのではなく、その背後には

天地の法度と連結され、現実と連結されていて、今後、訪れる

未来と連結されている私を取り戻さなければならないのです。

第四節 信仰生活の段階(P837)

1 漢字で信仰という字を書いてみると「信」の字です。ここ

から「人」の字を取れば「言」の字だけが残ります。信仰とい

21

うのは、結局、人の言葉を意味します。この時、言葉とは、人

と人の関係を結んでくれるものを意味します。関係がなければ

言葉が出ないので、言葉を話すときは、既に相対的基準ができ

ているのです。

また、関係が結ばれるには信仰がなければなりません。この

ような根本が愛によってつくられた関係から出てきたのです。

しかし、その関係は、自分の思いどおりに結ばれたものではあ

りません。その関係が結ばれる力の条件があり、目的とする基

準が互いに符合できたので、結ばれたのです。

信仰を立てる段階(P838)

2 希望は、必ず信仰を標榜して進んでいきます。信仰は何を

求めるのでしょうか。信仰を完成した実体において、百を信じ

たなら、信じた百の実際の価値を求めるのです。それは、創造

理想と一致できる人、すなわち原理法度と一致できる人、堕落

しないで完成した人を標榜し、信じて進んでいくのです。この

信仰で勝利するようになるとき、彼は希望を成し遂げることが

できます。希望と信仰で勝利した実体になるとき、神様の愛は

自動的に現れるのです。

3 絶対的な信仰者を絶対的に求めていく神様の公式的原則が

あるので、ノアに対して山に船を造る立場に、立てまいとして

も立てざるを得ませんでした。ノアは百二十年間、その責任を

全うしました。そのようにして百二十年という年数を復帰した

のです。

ノアは、それをしました。聖書には、ノアの息子たちが洪水

審判ののちに、「父は狂った父だと思っていたが、父の言葉ど

おり神様が審判して、うちの家庭の八人家族だけが残った。こ

れを見ると、うちの父の言葉が正しい。うちの父は預言者であ

り、神の人だ」と、尊敬しなければなりませんでした。

それにもかかわらず、洪水審判ののちに、ノアが箱舟から降

りたのち、裸になって寝ている時、次男が「父が狂って裸で寝

ている」と兄弟を扇動し、兄弟が服を持って後ろ向きに歩いて

いってかぶせました。隅々まで否定したというのです。結局、

反対したことを否定できません。神様のみ前に絶対的な信仰を

立てなければなりません。サタンの前に絶対的にするのではな

く、神様だけのために絶対的な信仰を立てる人は、神様が信仰

の先祖として祝福しないわけにはいきません。愛さざるを得な

いというのです。

4 実践と信仰について見てみるとき、いつも信じることが先

立つのであって、実践が先立つことはできません。堕落した人

間においては、信仰が強くなってこそ実践も強くなります。し

かし、信じる基準と実践の基準には、いつも差があります。神

様は、信仰だけを望むのではありません。より良くなることの

できる実践の結果を望んで、信仰を求めるのです。それにもか

かわらず、人間は実践をおろそかにして信じることを主として

いるので、神様が望むことと食い違っています。そのような信

仰生活を常にしているのが、私たちの立場なのです。

5 神様が絶対信仰から始めたので、み旨を成就するためには、

絶対信仰から始めなければなりません。絶対信仰は、絶対愛を

中心としてしなければなりません。主体となるものが愛です。

信仰は相対です。ですから、皆さんは、愛を中心として絶対信

仰、絶対欲望を望むのです。愛の目的は、大宇宙を出産するこ

とです。創造しておかなければなりません。ですから、絶対信

仰です。大宇宙を生産していこうとするので、神様までも自分

の実体、心と体のすべてを投入し、さらに投入し、永遠に投入

しなければならないのです。

6 絶対信仰とは、ために生きることです。絶対の神様がため

第八篇 信仰生活と修練

22

に生きているというのです。若いときにデートをすれば、男性

も女性もお互いに「どれくらい信じているか、どれだけ私のた

めに生きてくれるか」と考えますが、ために生きる道を立てる

ために、ために生きる道を歩みながら一つにならなければなり

ません。

絶対信仰とは、創造の対象物を立てるためのものです。絶対

信仰の上に真の愛を中心として一つになるので、投入しなけれ

ばなりません。誰かが投入してこそ水平になりますが、誰が投

入するのでしょうか。男性が「自分を中心として投入しなさい」

と言っても駄目であり、女性が「自分を中心として投入しなさ

い」と言っても駄目です。二人がお互いに投入し合いながら、

より大きなことのために思い、望むことができなければなりま

せん。このようなものが絶対信仰、絶対愛なのです。

7 なぜ絶対信仰が必要ですか。神様も最高の理想的基準の位

置まで行かなければなりません。ですから、その基準を中心と

して愛の相対圏が出てきます。相対圏自体を、微々たる動物や

鉱物世界を絶対信仰で造ったのです。絶対愛を中心として投入

したというのです。絶対投入して、鉱物時代、植物時代、動物

時代、その次に安着時代に移っていくのです。心と体が争って

は絶対にいけないという結論の立場に立たなければ、天国化さ

れた世界や天国になることはできないのです。

8 絶対信仰とは何でしょうか。絶対愛の秩序を立てるための

ものです。愛のためです。その愛のために絶対信仰を求めてい

く人は、自分自体の個性真理体を忘れて投入します。神様が人

格神の性相と形状をすべて忘れて、根こそぎ投入してこそ、相

手が完成するのです。そして、「私を、息子を愛することので

きる父母の愛の主人にしてほしい」と言うのです。それは、息

子がするのであって、神様御自身もできず、父と母もできない

のです。

堕落性を脱ぐ実践の段階(P840)

9 今日まで、神様が失ったものを探し求めてこられたのも、

人間を主管できる能力が無いからではありません。今日まで、

サタンの讒訴を受けながら闘われたのも、神様に権能が無くて

そうしたのではありません。原理原則を探し立てるためでした。

神様は、サタンを前に立てて、サタンがつくったものを再び整

理する役事をして来ていらっしゃるのです。サタンが先に支配

していたものを整理することは、サタンが讒訴できないと言う

のです。ですから、最も賢い人は、サタンまでも立てて手伝い

をさせることのできる人です。そのような人がいるとすれば、

彼は最高の勝利者でしょう。

10 皆さんが闘いで勝利して、過去の歴史と現実と未来を代表

した勝利者になろうとすれば、歴史を支配していたサタンの実

情、現実を支配しているサタンの実情、未来に対するサタンの

心の中を知らなければなりません。そのためには、イエス様が

イスラエル民族を代表して独り孤独な身でオリーブ山に登って

祈られ、生涯を捧げて天のみ旨を遮るサタンと対決しながら、

歴史と現実と未来を代表する苦難の標準を立てられたのと、同

じ道を行かなければなりません。皆さん各自の行く路程に、こ

のような試練の峠が残っているのです。

11 統一教会においては、すべての復帰の原則を提示しておき、

サタンの讒訴条件に引っ掛からないように、全体責任を担って

歩まなければならないのが先生の責任です。この道を先生が築

きました。人間自身が、神様のみ前に神様の愛の公法によって、

天から再び「喜ばしい」という言葉を頂く条件を、すなわち立

て札を打ち込んでおき、その立て札によって愛することができ

る、そのような祝福を受けました。統一教会の先生が、世界歴

23

史上において初めて愛することができる出発をしたのです。で

すから、統一教会の教会員たちから原理を学ぶ数多くの人々は、

今後、先生が指示する方法に従って生きなければならないとい

うことです。

12 私たちは、堕落性をもっています。堕落性の四大条件とは

何ですか。驕慢と猜疑と血気と偽りです。驕慢、嫉妬、血気、

偽り、これが堕落性です。皆さんも、それを脱がなければなら

ないということです。これを脱ごうとするので、今まで断食を

したり、思い悩んだりしてきたのです。

これを脱ごうとすれば、復帰路程の審判時代において、どの

ようにしなければならないのでしょうか。「私」自身がみ言で

武装し、み言の実体にならなければなりません。実体過程を通

過しようとすれば、必ず堕落性を脱がなければなりません。こ

こには四大条件が残っているので、これを脱ごうとすれば、迫

害も受け、試練も受けなければならないのです。

13 再創造歴史とは、どのようなものでしょうか。落ちたもの

が上がるのです。反対の力で、勢いよく跳ね上がります。それ

で、心情の一致点を立てながら進むのです。ですから、信仰が

なければなりません。また、信仰に先立ってあるべきものは、

行うということです。自分を中心として行うのではなく、神様

を愛する立場で行わなければなりません。愛する方のために行

うのです。これを正しておかなければ、復帰の道を行くことは

できません。歴史を見れば、そのようになっているのです。

14 神様は、善の側に聖別された動物、植物、鉱物などすべて

の物を通して、すなわち祭物という条件を通して、人間と関係

を結ぼうとされました。そのような時代に生きていた人たちは、

真の祭物と一つにならなければなりませんでした。このような

時代が旧約時代までです。真の価値を求めていくべき堕落の運

命を背負った人間が夢にも考えていないときに、神様は、この

人たちをして、真の物を通して真の価値の関係を結ばせるため

に苦労してこられたのです。

15 地で堕落したので、地で抜け出さなければなりません。神

様が複雑な状況をつくるのは悪いことではありません。どこに

行ってもぶつかり、どこに行っても苦しむようにしておいたの

は、汚れたものを取り除き、傷を取り出し、堕落性を早く脱ぐ

ようにするためです。環境が平坦でなければ、体にこびりつい

た垢を全て剥ぎ取るかのように、殻をどんどん剥ぎ取るという

のです。ですから、多事多端なほど、蕩減的解怨成就が早いと

いうのです。

16 世の中に堕落した世界圏、堕落圏があるので、それを抜け

出さなければなりません。いくらアンテナが水中にあっても、

この平面線を越えて、その先端が出れば、世界に通じるのと同

じように、真の愛のアンテナが堕落性のアンテナを越えなけれ

ばなりません。ですから、サタン世界のすべてのものを否定し

て余りあってこそ、天と関係を結べる、条件的存在になるので

す。全体的存在ではありません。このようなことを宗教が分ら

なかったのです。

17 実体をまとって栄光の復活の日を迎え、神様のみ前に報い

ることのできる時が終わりの日です。神様の息子、娘の名でサ

タンを打ち砕くことが、正に伝道です。伝道する立場は涙を流

す立場であり、歴史的な先祖たちがしっかり闘いなさいと祝福

してくれる立場であり、未来の子孫たちまで期待にあふれた目

で見つめる立場です。

言い換えれば、その立場は、僕の立場から養子の立場に、養

子の立場から直系の子女の立場に再生する立場だというのです。

私たち人間が、このように再生して、実体復活するのが神様の

第八篇 信仰生活と修練

24

願いなのです。歴史的な基準を横的に立てて、復活の基準を立

てなければなりません。

18 統一教会の教会員たちは、み旨を信じて進むにときに、僕

の時代と養子の時代と直系の子女の時代を経なければなりませ

ん。そのような三過程を経て、自分が伝道した人や自分に従う

食口を、父母が子女のために死を覚悟して愛するように愛する

ことができなければなりません。「私が犠牲になっても、私の

あらゆる福をその人に譲り渡せれば感謝だ」という心が皆さん

に自動的に起きてこそ、祝福を受ける息子、娘になることがで

きるのです。

真の愛で完成する段階(P842)

19 真とは何でしょうか。男性の前に真の愛をもった女性、女

性の前に真の愛をもった男性が真です。父母の前に真とは何で

しょうか。真の愛をもった孝子です。孝子の前に真とは何でし

ょうか。真の愛をもった父と母です。人間世界の前に真とは誰

ですか。神様です。神様のみ前に真とは誰ですか。真の愛で一

つになったアダムとエバです。そのようになれば完成です。

そこには、父母がいて、師がいます。父と母は息子、娘を教

育します。夫は妻を、妻は夫を教育するのです。そのように生

きた人たちは、父と母になり、師になり、主人になります。そ

のようになれば、その家が平和の基地になります。ですから、

家庭ですべてが実を結ぶようになっているのです。

20 真の父母は何から出発しましたか。真の愛から始まりまし

た。結局は、愛が問題になります。

真の愛を中心としていく家庭、氏族、民族、国家、世界は、

一つに通じるのです。歴史の方向性は、真の愛の道だけでなけ

ればならないのですが、今までそれは、ジグザグでばらばらに

なってきました。

それを真の父母が来て、完全に方向を変えておかなければな

りません。個人を越え、家庭を越え、氏族を越え、国を越えて、

そのようにしなければならないのです。

21 心と体が真の愛で一つになれば、体の所有は心であり、心

の所有は体なのです。心と体が一つになった男性と女性、この

二人が真の愛で一つになるとすれば、真の愛をもったので、神

様を占領することができます。神様を占領しようとすると、橋

を架けなければなりません。それは、男性一人ではできず、女

性一人ではできません。愛を中心として、夫婦が、横的な愛に

連結されなければなりません。男性と女性が完成しようとすれ

ば、自分の相対を訪ねていかなければならないのです。

22 真のオリーブの木の家庭の畑には、サタンが触れることの

できる何の理論的根拠もありません。サタンが触れることがで

きるのは長成期完成級までであって、完成期完成級には触れる

ことができません。責任分担を完結することによって、原理結

果主管圏と直接主管圏が真の愛で一体となります。連結される

のです。サタンがこれを分立させる内容はありません。ここか

ら新しい歴史的な転換時代が訪ねてくるのです。

23 三大王権が一カ所に集まった組織体が私たちの家庭です。

過去、現在、未来世界の王宮基地が私たちの家庭です。祖父を

神様のように侍らなければなりません。家庭において、大王と

して絶対的な力をもった方が祖父です。父母はアダムとエバの

立場です。現在の家庭の王であり、中心です。子女は、未来世

界の王権を相続します。これが真の愛で結ばれた皇族概念です。

そのように完成してから行くところが天国です。そうでなけれ

ば道がありません。この位置において完成するのです。

25

24 神様の創造目的は、アダムとエバが真の愛の主体であられ

る神様の戒めを守って、真の人として完成することです。さら

には、神様の真の愛で一つになった真の夫婦になることです。

アダムとエバが真の愛で完成することは、すなわち神様が実体

をまとう希望が成就することです。そして、彼らが真の夫婦と

して完成することは、すなわち神様の絶対的な愛の理想の完成

を意味するのです。

第五節 信仰生活での体験(P843)

1 皆さんは、信仰生活において神秘的体験、あるいは霊的に

神様がいらっしゃることを体験していますか。皆さんの中に、

祈りや夢での啓示の中で、霊的にでも先生とたびたび会い、先

生の指導を受ける人がいるはずです。一〇〇パーセントそのよ

うにならなければなりません。それは、私たちだけがもってい

る力であり、私たちだけがもっている誇りであり、私たちだけ

がもっている宝物だというのです。

今まで宗教は、体験的な過程を経ることができなかったため

に、あたふたとさまよい、世俗化してしまいました。しかし、

統一教会は、最後の位置に立った神様であることを知っている

ので、いくら波風や洪水が押し寄せてもこれを押しのけ、死ぬ

ことがあっても、あすへの希望を遺言に残して死ぬことのでき

る男性と女性になっているという事実は、驚くべきことです。

み言の体験(P844)

2 真理のみ言は、同じ内容を何度聞いても嫌になりません。

これを体験しなければなりません。同じみ言を百回以上聞いて

も、また聞きたいと思う真理のみ言をもった教会に行けば、間

違いなく天国に行きます。また、百回会い、千回会っても、ま

た会いたいと思う教会指導者に出会ったなら、離れないでくだ

さい。一つの手を失えば、残りの一つの手でその人をつかんで

ください。そのような指導者に出会えば、間違いなく天国に行

くのです。

3 統一教会の原理のみ言を聞いて、教会に行こうと決心する

と、必ず試練が伴います。あるいは、原理のみ言を聞くと約束

しておくと、必ず家に何か事故が起きたり、いつも何か出来事

が起こります。皆さんは、そのような体験をしたはずです。こ

れは間違いない公式です。なぜなら、個人的な環境から、より

高く上がろうとすれば、サタンがてっぺんから押さえつけるか

らです。

4 誰よりも深い心情関係を経て与えようとするので、み言を

深く知らなければなりません。一〇〇パーセント以上の心的基

準と連結される立場に立とうとすれば、そのように深いところ

まで体験し、実感しながら与えなければなりません。そのよう

な心をもってみ言を伝えなければなりません。行動的な面で、

彼らが「私」を好ましく思うことができるようにしなければな

らないのです。

5 信仰生活は実戦です。実戦で勝たなければなりません。新

しい人が教会に行こうとするときは、必ずサタンが働くのです。

新しい人が入ってこようとすれば、必ず妨害しようとします。

ですから、それを克服させるためには、主体が絶対的でなけれ

ばなりません。完全なプラスは完全なマイナスを創造します。

ですから、うやむやではいけません。確定的な立場で、すべて

のことを説明しなければならないのです。

霊的体験と心情体験

6 初代教会は、神霊の役事によって迫害の渦中を乗り越える

第八篇 信仰生活と修練

26

行動ができました。しかし、それが個人から始まって、家庭を

経て、民族を経て、世界的になることができず、限定された内

容で残るようになりました。それは、どのような根本原因によ

って自分たちに霊的な現象が起き、またそれがどんな過程を経

て、どんな終着点に向かっていくのか、その方向をはっきりつ

かめなかったからです。

7 初めから先生は、霊界を中心として重要な解決点を立てま

した。解決すべきその基準が国家を越え、世界を越える霊界か

ということを鑑定してきたのです。霊界は超国家的であり、超

民族的なので、霊界では国家を越えて心霊状態が同じ人たちが

集まります。国家を超越したというのです。

8 今後、霊的な体験をしなければなりません。自分のするこ

とが成功するのか、失敗するのかということが分からなければ

なりません。祈りを熱心にすれば、すぐに成功することが分か

ります。それをすれば、気分が良くて、体が軽くなるのです。

肉体的に分かるのです。体がそうです。そのためには、自分を

考える観念、個人主義的観念が備わっているものを、すべて拭

い去ってしまわなければならないのです。

9 先生は、世の中のどこかに行って苦労する統一教会の宣教

師たちを、毎日のように霊界を通して指導し、教えてあげてい

ます。皆さんは、生活を通してそれを知らなければなりません。

統一教会に入ってきて一週間だけみ言を聞いて決心すれば、生

活態度が変わります。昔のことは嫌いになります。ですから、

先生が教えた話が耳に入ってきて、話を聞く前に既に予示され

たものを再び聞くのです。こうすることによって、統一教会の

中心食口にならざるを得ないというのです。

10 信仰生活は体恤です。体恤しなければ分からないというの

です。ですから、体恤しなければなりません。体験ではなく体

恤です。体恤というのは何でしょうか。天が悲しい時、「私」

がその悲しみを知らなければなりません。その悲しみが感じら

れるのが体恤です。体恤すれば、祈りが必要ありません。

11 信仰において、最も貴いことは体恤です。体恤して、自分

自身でも分からない涙を限りなく流さなければなりません。皆

さんは、意識を超越して目から涙が落ちるのを感じたことがあ

りますか。誰かに非難されたといって、悔しく、悲しいからで

はありません。自分でも分からない悲壮な心情が湧き上がり、

とめどなく涙が落ちなければなりません。信仰者の本質的な生

活像は、そうでなければならないのです。自らにも分からない

苦痛が、深くしみ込んでくるようでなければなりません。胸が

詰まり、身の置き所がないほど、深くしみ込んでこなければな

らないのです。

12 皆さんが生涯を通して体恤信仰をするにおいて、原則的な

分別路程を歩みながら、万物万象の前に、「永遠不変の勝利者

だ」と誇れる基準を立てなければなりません。そのような基準

を皆さんが立てることができないとすれば、この地上に悲しみ

の条件が残るようになります。また、悲しみの条件が残ってい

る以上、天上に行っても、神様の内的な心情を尋ねていくこと

は困難です。ですから、皆さんは、心の立場にいるイエス様、

体の立場にいる聖霊を通した生命体として、神様の栄光の実体

として現れなければなりません。そうするとき、初めて皆さん

が信仰の実体になるのです。

13 先生は今まで、韓国にいる数多くのキリスト教徒よりも多

くの精誠を神様のみ前に捧げました。心情的な人は発展するよ

うになっています。個人的な心情から家庭的な心情、民族的な

心情、世界的な心情に発展し、体恤するようになっています。

27

心情をもってより一層精誠を捧げる人がいるとき、神様は、そ

の人を離しません。神様は、そのようにしていない人を用いて

は、作戦を行うことができません。

天国保衛の命令を受けた立場において、自分の位置をどのよ

うに信仰的に導いていくかという問題が、何よりも大きな問題

です。自分が一つの行動を間違えば、歴史が左右されるので、

のちに歴史的な審判を受けるようになるのです。ですから、寝

ること、食べること、着ることなど、一切の生活を、信仰を中

心として行っていかなければならないのです。

14 先生が車に乗って出発すると、すぐに良くないと感じると

きがあります。そのときは、進路を変えます。そのようなイン

スピレーションや体感が来るのです。体感は、体恤する信仰生

活で生じます。皆さんが道を行く途中で、電柱でも何でも、そ

れをつかんで痛哭したい心情になるときがあるはずです。その

ような時を絶対に逃さないようにしなければなりません。その

ような時を何度か逃せば、そのような機会は私から遠ざかりま

す。それを逃してしまえば、絶対に「私」にプラスになりませ

ん。かえって反対の力になって、私を押しのけるのです。

15 体恤は、必ず信仰生活に必要です。体恤を通して、神様の

人格について知ることができ、それと同時に、神様が「私」と

共にどのような内的な心情関係をもつのか、ということを感じ

られます。体恤の道を通してのみ、私たちは、そのようなこと

を感じられるというのです。信仰生活を通して幸福を感じ、ま

た、信仰生活を通してより理想的な新しい希望をもつことも、

体恤の過程を経なければ現れません。

キリスト教がローマ迫害時代に圧迫を受け、ライオンの餌に

なりながらも信仰の道をひるまずに行けたのは、漠然とした立

場でそうなったのではありません。これは、そのような立場を

乗り越えられる、体恤した内容があったからなのです。

16 皆さんは、天倫を中心として運行される神様と、そのみ旨

を成就するために、人間に対して無限に忠誠を尽くされた神様

の事情を体恤しなければなりません。また、このみ旨を立てる

ために無限に犠牲になってこられた神様の心情、また未来の理

念を立てるために無限に御自身を超越された神様の心情、無限

に与えようとされる神様の愛の心情を体恤しなければならない

のです。

重生の体験(P847)

17 私たちは、信仰生活をするにおいて、完全に自分自身を忘

れ、祭物になりながらも足りなさを感じ、犠牲になりながらも

足りなさを感じて、死の場においても自らを叱責することがで

きなければなりません。このように天のみ前に何も誇らない本

性の人になってこそ、永遠であられる天の復活の理想を成し遂

げることができるのです。

18 信仰路程において、サタン世界のどんな人よりも優れてい

なければならないのであって、彼らと同じ程度であってはいけ

ません。内的な心情と心性を比較してみるとき、あえて彼らが

ついてくることができないほどの気高い心情と心性の円満性を

もたなければなりません。その条件を根拠として、復活圏内に

入ることができるのです。

19 私たちは、悔い改めの涙で復活圏を迎えなければなりませ

ん。アダムとエバが流せなかった涙を流して、抜け出さなけれ

ばなりません。互いが反目し、妬ましく思いながら、「私の罪

の動機は、お前のせいだ。私はこうなるはずではなかったのに、

お前のせいでこうなった」と言って、自分の悲しみを第三者に

転嫁させようとして、「私は肯定されるべきであり、正常だ」

第八篇 信仰生活と修練

28

という気持ちをもってはいけません。「私」を否定して、環境

を肯定しなければなりません。私が救援されることよりも、国

が救援されることを願い、国のために涙しなければなりません。

また、家庭が救援されることを願い、家庭のために涙すること

ができなければならないのです。

20 私たちの生活を復活させ、私たちの生涯を復活させて、善

を追求するようにする主体的な対象が存在するという事実をは

っきりと知り、信仰心をもっていく「私」自身になったとすれ

ば、私自身が対象の立場でその主体と一つになり、主体の目的

と対象の目的が一致する一点を選んでいかなければなりません。

そのような人は、いくら難しい環境であっても、その環境を

克服することができます。いくら難しい事情があるとしても、

その主体であられる絶対者の願いと目的はこうだと、はっきり

と知って悟れば悟るほど、その悟りが自分の生涯路程において、

直接的に新しい力の源泉になるのを感じるようになるでしょう。

第二章 心と体の修練(P849)

第一節 修練とは

1 修練とは磨き、鍛錬することです。磨き、鍛錬するには何

を標準としてするのでしょうか。皆さんの中には二種類の人が

います。外なる人と内なる人がそれですが、堕落した立場から

見れば、堕落した外なる人と堕落した内なる人がいます。これ

らが本然の人格体に似ていくのです。本然の人格体とは、万物

が敬拝し、神様が懐に抱かれ、キスしてあげることのできる幼

子のような姿です。したがって、皆さんは、本然の人格体を標

準として修練を受けなければならないのです。

分立によって善の対象になる

2 皆さんは、どれほど統一教会のために生きたでしょうか。

統一教会のために自分がいたのでしょうか、自分のために統一

教会を利用したのでしょうか。ここから善悪の基準が分立され

るのです。善と悪が別々にあるのではなく、み旨から外れると

きは、悪と善として分かれます。善は正常な軌道を行き、悪は

異常な軌道を行きます。

今日、人倫道徳や社会の道徳基準を中心として見てみるとき

も、原理原則があります。原理は、「私のために生きなさい」

と言うところで成立するのではありません。ために生きようと

するところで原則が成立します。ですから、統一教会の教会員

として、二十四時間自分のことを考えるより、もっと大きな統

一教会のイメージが「私」を占領していなければなりません。

夢においても、統一教会と離れている自分になってはいけませ

ん。

3 善の神様の人にならなければ、善の神様が願う家庭を望む

ことはできません。また、善の神様の家庭にならなければ、善

の国家や世界を望むことはできません。ですから、一番の問題

は、「私」自身で解決点を探さなければならないということで

す。その境界線が心と体です。

苦行による蕩減

4 肉身を打つ方法は、正に苦行です。それで、イエス様は、

「自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うも

のは、保つのである」(ルカ一七・三三)と言いました。これ

は、体が願うものを切ってしまわなければならないという話で

す。体が願うものをなくさなければならないのです。

5 歴史時代において、どんな宗教よりも、苦行する宗教を訪

29

ねていかなければなりません。宗教生活とは、良心が拷問宮に

なって、「この体め、この体め!」と言いながら、完全に死ん

で倒れる時まで拷問し、降伏させ、再び目覚めないように占領

できるようにすることです。心が体を占領しなければならない

のです。

6 宗教は、なぜ苦行をしなければならないのですか。なぜ十

字架を負わなければならないのですか。なぜ犠牲になって奉仕

しなければならないのですか。それは、あらゆる人間が嫌うこ

とです。ですから、この堕落した世界で、宗教は出家を強調し

てきたのです。すべてのことを完全に否定しなければなりませ

ん。統一教会の祝福は、完全否定を追求するのです。

個人否定から家庭否定、氏族否定、民族否定、世界否定、思

想否定まで、あらゆるものを否定してきました。その否定する

段階が高まるにつれ、自分の価値が蓄積されるのです。サタン

世界を否定する足場が広くなれば広くなるほど、「私」の本然

の人格の蓄積は高まります。大きくなるというのです。ですか

ら、否定するのです。ですから、宗教は現実を否定して出家す

るのです。

7 宗教は、苦行の道を行きます。体が好むものは足で蹴って

しまいなさいというのです。肉的な目が喜ぶとおりに行ってみ

ると、心の目はそれを嫌います。すべて反対です。人間はもと

もと矛盾した存在だと考えるのも、堕落を知らなかったからで

す。

矛盾した自我の発見、これは偉大な発見です。歴史において、

どんな発見よりも偉大です。堕落がどのようにしてなされたか

を知っているとすれば、それは何より驚くべきことです。この

混沌の中から解放される道があるとすれば、どんな犠牲を払っ

ても行かなければなりません。それが堕落した人間が行くべき

責任路程なのです。

8 「復帰蕩減」ではなく、「蕩減復帰」です。「復帰蕩減」と

いうものはあり得ません。神様の「復帰蕩減」という概念は、

エデンの園にはあり得ません。もしそれがあるとすれば、アダ

ムとエバを思いどおりにすることができます。堕落によって血

統が変わったことが問題です。種が変わりました。それを蕩減

しなければならないのです。

否定によって本然の道を求める(P850)

9 復帰の道においては、皆さんが最も好むものが怨讐です。

男性には女性が怨讐であり、女性には男性が怨讐であり、父母

には子女が怨讐であり、子女には父母が怨讐であり、その父母

の一族には氏族が怨讐であり、氏族は民族が怨讐です。すべて

怨讐になっています。これを一度に清算するためには、すべて

否定しなければなりません。自分の一族の四位基台を失った悲

しみすらも体験できない人は、天の国に行くことはできません。

神様は、数千代を延長しながら、今まで四位基台の復帰を願っ

てきたのです。神様のみ前に千年、万年親孝行しても、顔を上

げることはできません。罪人の中の罪人のような自らを、逃れ

ることはできないというのです。

10 天国に入るためには、サタンの血統を否定して再び元に戻

さなければなりません。純潔であり純血です。純潔血統、純潔

愛を中心とした家庭基盤の上で孝子にならなければなりません。

家庭的孝子になれずにいます。国家的忠臣、孝子になれずにい

ます。家庭的純孝子、家庭的純忠臣、家庭的忠聖人、忠聖子に

ならなければなりません。天地を身代わりして相続できる息子、

娘になれずにいるので、これを皆さんの一代で成し遂げなけれ

ばならないのです。

第八篇 信仰生活と修練

30

11 自分のために生きる世の中は滅びました。堕落は、自分自

体を先に自覚して中心の位置に立ったものなので、それを否定

しなければなりません。自分を否定して全体を生かしたあとで、

自分がそこに花を咲かせなければならないというのです。花の

香りは、一年育った花でも、根と幹、枝のすべての栄養素を吸

収して花が咲いたあとに出るのです。ですから、全体のために

生きる人になって、花が咲き、香りが漂ってこそ、神様が訪ね、

天使が飛んできて保護するようになります。それが天地の願い

なのです。

12 皆さんは、神様を喜ばせる贈り物をもっていますか。神様

が訪ねてくるとき、「本当にありがとう!」と言える贈り物を

もっているのか、神様が訪ねてくるときに、家庭的に善の贈り

物を差し上げられるのかというのです。夫婦になっていれば、

夫婦は神様が訪ねてくるときに、贈り物として差し上げるもの

は、ほかのものではなく、愛で一つになった夫婦です。

愛で一つになった夫婦はどのような夫婦でしょうか。自分の

ために生きる夫婦ではなく、妻は夫のために生き、夫は妻のた

めに生きる夫婦です。その夫婦が永遠に一つになろうと、生殖

器を守って永遠に行こうという、その家庭を神様が贈り物とし

てもらうことを願うというのです。

13 アダムとエバが完成して息子、娘を生んでこそ、実体的な

神様の姿になります。しかし、サタンの息子、娘になりました。

天使長の息子、娘になりました。神様と関係のない息子、娘に

なったのです。ですから、完全に否定しなければなりません。

血統を汚したので、神様が思いどおりにできません。

愛する女性とあす、あさってに結婚しようというのに、山賊

が盗んでいったも同然です。そのように山に入って、盗んだ物

で生活し、息子、娘を生んで一つの民族になったのです。昔、

結婚の約束をしていた男性がその姿を見たとき、どれほど惨め

でしょうか。神様が全知全能だといっても、天使長を思いどお

りにすることはできません。天使長を葬り去ることはできない

状況で、その血肉が混ざった息子、娘全体を葬ってしまうこと

ができるかというのです。ですから、神様は、囹圄(牢獄)の

身です。監獄に閉じ込められているというのです。

14 自分を否定するまでは、創造本然の原素材の立場に戻るこ

とはできません。そこには、分かれた隙間があってはいけませ

ん。皆さんが本然の愛の理想家庭に定着するためには、サタン

が入る隙間があってはいけません。水が入ってきてはならず、

空気が入ってきてはならず、光が入ってきてはいけないのです。

15 愛を受ける位置に立とうとすれば、主体と対象の立場で一

つにならなければなりません。主体は完全に与えようとしなけ

ればならず、対象は完全に受けようとするとき、主体と対象が

一つになるのです。百を与えようとする主体がいれば、「私は

百を受けなければならない」と言わなければなりません。天が

百を与えようとするのに、私たち人間が自分の考えや自己主張、

自分の欲望を中心として受けようとすれば、百を満たせる場が

生じません。

自分の欲望があり、希望があれば、それが八十、七十、六十、

五十になるというのです。ですから、百をみな受けることはで

きません。「百を完全に受けようとすれば、あなたのところに

あるすべてのものを空けてしまいなさい。すべてのものをなく

してしまいなさい。すべてのものを否認しなさい。ここでは、

すべてのものを放棄してしまいなさい」と言わなければなりま

せん。全体を放棄して、絶対服従するのです。服従は悪いこと

だと思うかもしれませんが、完全に服従していけば、その人を

占領することができるというのです。

16 善の人は、生まれてから死ぬ時まで、永遠に人を助けてあ

31

げようという人です。階級を超越して、東西南北を超越して、

人種を超越し、歴史過程で定められた伝統を乗り越え、永遠に

助けてあげながら生きて逝ったとすれば、その人は善の人です。

自分が永遠に人のために与えてみると、空っぽになって、低気

圧になるのと同じです。自分自体を他のところに押し出すので、

あちらの世界の周辺には高気圧圏が生じます。ですから、息が

止まるときは、その高気圧が一度に押し寄せます。千年積んで

おいたものが一瞬のうちに上がってきて、「私」を一気に数千

万年の頂上に上げてくれるというのです。

勝利者になる道(P853)

17 神様も人間も、まだみ旨を成就できないまま歴史は流れて

います。このみ旨を成就できなくなったのは、神様ではなく人

間のためです。言い換えれば、アダムとエバが堕落したために、

このみ旨が失敗するようになりました。ですから、失敗したこ

のみ旨を収拾しようとするのが、今までの歴史過程であり、摂

理路程です。

このみ旨が成就されるためには、み旨を成就できる人が必要

です。神様が長い歴史時代を経ながら、アダム家庭からノア家

庭、アブラハム家庭、モーセ家庭、ヨセフ家庭を選んで、み旨

に従う人をお立てになりました。もし、彼らが天と地を連結さ

せる責任を果たせなくなるときには、み旨を成就できる方向さ

え備えられなくなります。このような事実を、私たちは摂理路

程を通してよく学んだのです。

18 今日、統一教会を中心として見れば、統一教会がみ旨を成

就させるのか、させられないのかということが問題です。み旨

は個人に該当するものもあり、全体に該当するものもあります。

個人に該当するみ旨に相対できる人と、全体に該当するみ旨に

相対できる人がいなければ、そのみ旨を成就することはできま

せん。いくらみ旨が成就する時を迎えたとしても、その人が責

任を遂行できなくなれば、み旨を成就できるひと時を失ってし

まいます。み旨を成就するためには、必ず人が必要であり、そ

の次には、時が問題になります。いつでも、時というものが問

題になります。それと同時に、時と人の間に関係して、み旨を

成就させる条件が必ず必要なのです。

19 イエス・キリストは、自分が引き受けた専門分野である万

民を救援する責任を遂行するために、まずどのような立場に立

たなければならないのでしょうか。その方も、やはり全身全霊

を込める立場に立たざるを得ません。寝ても覚めても、ひたす

ら自らのすべてのものをここに投入しなければなりません。こ

のようなことは、何かの命令を受ける立場や強要される立場か

らではなく、自分自らしなければなりません。そうしてこそ、

それを通して自分の希望が芽生え、幸福の条件が提示され、そ

れによって、自分の勝敗が決定されるのです。

20 子女なら子女、伝道した人なら伝道した人を中心として、

周囲に垣根をつくらなければなりません。そのような垣根をつ

くって、その垣根の内ではどんな秘密も自由自在に議論するこ

とができなければなりません。死んでも私たちをサタン世界に

移すことはできないという絶対的な圏内がつくられてこそ、神

様は、ここから絶対的なみ旨を広げていけます。これは、今後、

皆さんが専門家として責任をもち、遂行しなければならない分

野なので、よく知らなければなりません。

21 勝利者になろうとする者にぶつかってくるあらゆる環境条

件は、協助する環境ではなく、反対する環境です。そのような

時、その環境に耐えられなければならず、心だけは、信じて頼

ることができるようにならなければなりません。この心は、歴

史的な血と涙と汗がまだらに染まって私たちにまで連結されて

第八篇 信仰生活と修練

32

きます。ですから、どんな困難にも、心だけは動かず、変わっ

てはいけません。

「どこの誰も、勝利したいと思うこの欲求の心情を奪ってい

くことはできない」という自信をもって進まなければなりませ

ん。自信のない勝利は、偶然の勝利です。そのような勝利では

なく、自信のある絶対的な勝利をしなければなりません。その

ような勝利は、歴史的な勝利であると同時に、創造理想の勝利

です。信念に燃える勝利的な心がなければなりません。どんな

試練でも、勝ち抜くまでは勝利の月桂冠をかぶることはできな

いのです。

22 原理を学べば、否定できない事実であることが分かるよう

になるので、行かざるを得ず、やらざるを得ません。ですから、

皆さんは、自らが行くべき道なので、その路程で敗北者になら

ずに勝利しなければなりません。先生も今まで独りで闘いまし

たが、勝利した基準があるので、皆さんも勝利することができ

ます。先生がいる限り、心配せずに最後まで闘っていけば、勝

利は皆さんのものです。先生は確信できます。そのように思っ

て、自信をもって力強く突撃していきなさいというのです。

23 指導者は、部下により良く食べさせ、より良く着せたいと

思わなければなりませんが、もし危急を要する時は、悲惨な道

に追い立ててでも送らなければなりません。モーセがどれほど

もどかしい思いをもって、民族を離れて四十日祈祷を捧げたで

しょうか。モーセは、彼らに暴風雨が迫っていることを知って

いたのです。

先生は、きょうもこの道を歩んでくる食口たちを見て胸が痛

かったのですが、痛めば痛むほど彼らを追い立ててでも、一日

でも早く天宙理想を実現しなければならないという切実な心を

感じます。先生は昔、罪人として刑務所にいたことを覚えてい

ます。アメリカは、鉄格子をつかんで涙を流しながら訴えた先

祖がいたことを忘れれば、滅びます。勝利は、涙と血と汗によ

ってのみ得ることができます。先生はどんな孝子にも劣らず、

たくさんの涙を流しました。天は善を指向する人の保護者だと

いうことを、先生は知っています。死を覚悟し、仕事をするた

びに、天は生きる道を開いてくださるのです。

24 信仰生活をするにおいて、三つだけすれば、勝利は決定す

るようになっています。問題は、どれくらい持ちこたえられる

かということです。数十年行くのか、でなければ数年行くのか

ということは、皆さんの努力と持久力に左右されます。

第一に、「理念において制覇しなさい」、第二に、「精誠と忠

誠において誰よりも先頭に立ちなさい」、第三に、「善の行いに

おいて先頭に立ちなさい」というものです。この三つだけ実践

すれば、今後の勝利は既に決定されているのと同じです。結果

は持ちこたえる力と期間、そして努力によって左右されます。

勝利を得るのは、皆さんの努力いかんによって、七年が五年に

短縮されることもあり、一年に短縮されることもあり得るので

す。

25 勝利の中で最高の勝利とは、どのようなものでしょうか。

本来、人間は勝利の本郷から出発するようになっていますが、

堕落したために、それができないところから勝利の世界を求め

ていくようになりました。その求めていく標準とは何かという

と、人格完成を成し遂げた位置です。もちろん人格も必要かも

しれませんが、その人格を動かせる内心的な核、すなわち愛が

もっと必要です。その愛が正に神様の愛なのです。

26 言葉よりも事実が必要であり、弁解よりも実績が必要です。

弁解は通じません。言葉は通じません。実績の前に、結果は極

めて厳粛なものであり、冷静に判断されるものです。正しけれ

ば正しいものとして、悪ければ悪いものとして帰結します。勝

33

利は勝利として帰結するのです。敗者は敗者として、悲しみと

惨めさとともに帰結するのです。それが歴史的な判断の路程な

のです。

27 昔のように、むやみに生きることはできません。そして、

自分の先祖たちとあの世に行っている宗祖、王、そして神様が

すべて一体になり、天の国の血統を伝授してサタン世界の血統

を地上から完全に清算し、一つの大家族の兄弟たちをつくって

いかなければなりません。一つの大家族から一つの国、一つの

文化世界、アダム文化世界、絶対、唯一、不変、永遠のアダム

文化の世界を創造しなければならないのが、「私」の責任です。

私が責任を果たさなければなりません。

今は「私たち」という言葉を語ることができません。私の心

と体が一つになり、その次に、私の家庭が一つになり、私の一

族が一つになって、国家圏、世界圏の国に接ぎ木して、野生の

オリーブの木の畑を、完全に真のオリーブの木の畑にしなけれ

ばならないのです。

28 理想家庭をつくれなかったのは神様の責任ではありません。

人類の先祖と子孫である皆さんが責任を果たさなければなりま

せん。神様が理想家庭をもってきて与えることはできません。

破綻させた張本人が直さなければならないのです。理想家庭、

平和理想世界王国を失ってしまいました。それが罪の中で、途

方もない罪です。絶対的であり、唯一、不変、永遠の神様が造

るのに、誤差はあり得ないのです。

第二節 修練の目標(P856)

1 人間が失った自らを取り戻そうとすれば、どのようにしな

ければならないのでしょうか。子女を失う当時の、神様の心情

を回想しなければなりません。そうでなければ、本然の自分を

取り戻す方法がありません。失ったものは、失ったその場所に

また行ってこそ、見つけることができるように、失った自分を

取り戻すためには、「私」を失う時の神様の心情を回想しなけ

ればなりません。そのような運動を提示しなければ、人間は本

来の自分を取り戻すことはできないのです。

本然の自分を取り戻すこと

2 「私」を取り戻すには、誰を中心として取り戻さなければ

なりませんか。自分を中心として取り戻すのではありません。

神様を中心とした私を取り戻すまでは、本然の位置に戻ること

はできません。ですから、数多くの宗教は神様を求めるのです。

神様と私の関係を知って、私がどのように立たなければならな

いのかということを知るための道が、宗教の道なのです。

3 人間にとって最も貴いものは、神様の全体属性を備える本

然の私です。しかし、人間が最も貴いものを失ったので、それ

が見つかるまでは喜びや幸福を感じることができません。それ

で、今日の堕落した人類は、東西南北の四方に散って、その

「本然の私」を探し求めているのです。

4 絶対的な理念の本体であり、善の本体であり、生命の本体

であり、愛の本体であるその何かを必然的に求めるべき人間な

のですが、「私」自身は今、さまよっています。このような私

の姿が絶対的な善の方向と角度に比べて、どのような方向と角

度をもっているのでしょうか。

私の心は右に行こうとするのに、体は左に行くのはどういう

ことでしょうか。私の心は、もっと高い理念をもとうとするの

に、実際には限界のある宇宙観をもっているのはどういうこと

でしょうか。私たちの姿を、もう一度冷静な立場で観察してみ

なければなりません。その何かを求めるためにあえいでいる、

第八篇 信仰生活と修練

34

自らの強情でひねくれた姿を見つめようとしなければなりませ

ん。私には体があり、心があり、霊があります。私たちは、こ

の体と心と霊が統合した一つの姿にならなければならないので

す。

5 神様と共に働き、共に死ぬ立場で自分を再創造する努力を

経なければ、平和の境地、神様の理想郷は「私」と関係を結ぶ

ことができません。この距離を短縮させ、その理想的平和の境

地が自分のものだという自覚をもち、自分が動くときは必ず神

様が創造した本然の道に従って動くようにするのです。そして、

天国に入る時、サタンが汚したものをきれいに清算して解放し、

天国の王権を受け継いでから入らなければならないのです。

6 人はみな、負債を負いました。生命の負債、血統の負債が

それです。宇宙の愛の中で生じた存在世界に負債を負っていま

す。ですから、負債を返す解放の位置に行かなければなりませ

ん。万物を造られた神様の本然の愛の心の位置を踏み上がって、

神様までも解放させてあげなければならないのです。創造した

すべてのもの、絶対信仰、絶対愛、絶対服従の基準で造ったも

のを神様が失ったので、私たち人間が取り戻してあげなければ

ならないのです。

自己主管が優先(P857)

7 今は、自分たちの生命と、先祖たちの生命を救うべき覚醒

時代です。これを考えるとき、「私」個人はこのように自由に

動いて暮らせる自らではありません。このすべての存在世界は、

宇宙的な関係圏内で私の実存価値を立てることを待ち望んでい

るのを、実体的に感じなければなりません。心で感じ、頭で理

解するだけでなく、情的に感じることのできる立場にまで進ま

なければならないというのです。

今日、人間を見つめて、「あまりにもかわいそうです。お父

様! しかし、お父様が良心をもった人間に物質を与える責任

と、真の心をもつ者の体を主管すべきみ旨があることを知って

おりますし、真の霊自体がお父様の主管を受けなければならな

いことを私たちは知っております」と言いながら、自分自身に

山のような黄金と宝物を持ってこられても、それが心の願うも

のではないとすれば、それを果敢に捨てることができなければ

なりません。

問題は、このようにこの上なく大きな物質的な試練を、軽々

と越えられるのかということです。したがって、私の体の価値

は宇宙よりも大きいので、この宇宙よりも大きな体を私の心が

屈服させる時、私の心は宇宙的な価値を乗り越えるのです。

8 私たちの心は、世界を抱き、天地を抱き、最後には神様ま

で抱こうとします。それが心がもつ目的です。ですからイエス

様は、「神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカ

一七・二一)と言いました。さらには、「父がわたしにおり、

また、わたしが父におることを知って悟るであろう」(ヨハネ

一〇・三八)と言いました。

皆さんは、皆さんがもっている理念や、皆さんが暮らしてい

る生活環境において、隣人をどれくらい同参(一緒に参加する

こと)させることができ、この民族とこの世界を、どれほど引

き入れることができますか。皆さんの心は大きいのですが、そ

の心の中に自分の一つの体を入れることができない堕落した人

間です。皆さんの心は、天地を抱き、神様までも抱いて安息さ

せてさしあげようとします。それにもかかわらず、皆さんは、

自分の一つの体を征服できずに、あえいでいるのです。

9 皆さんは、それぞれ心をもっています。それでは、心と体

は互いに友人になるでしょうか、争い合う群れになるでしょう

か。もし友人になれずに争い合う群れになるとすれば、どちら

35

側が闘いの主人公になるのでしょうか。心と体が争えば、いつ

でも体が先に心に闘いを挑むようになります。心はじっとして

いるのに、体が心を苦しめるのです。男性の体でも女性の体で

も、その体は心を悩ませるのです。ですから、自分一個体にお

いて、心と体の統一を成し遂げなければなりません。皆さんが

「心よ、体よ、お前たち、統一しなさい」と命令したからとい

って、心と体が統一されるのではありません。

10 心がどれほど大きいか知っていますか。見えませんが、あ

ることはあります。この心がどれほど大きいかというと、恐ら

くこの世界を百個、千個入れても、満足しないでしょう。また、

地球星のようなダイヤモンドが何千個、何万個あるのに、一個

だけしか与えなければ、気分を悪くするでしょう。このように、

心は想像もできないほど大きいというのです。また皆さんの心

は、学ばなくても、良いことと悪いことをよく知っています。

心が誰かから、「おい、心よ。誰かがこれこれこのようなこ

とをすれば、悪いことなので、その時はお前が番兵になりなさ

い」ということを学んだでしょうか。学んでいませんが、この

心は、体がとても大きな力で刃向かってきても問題にしません。

かえってその力に比例して、電気よりも速く、即座に反応を起

こします。他の思いをもてば、即座に止めるようにするのです。

どれほど教育を受ければ、そのようになるのでしょうか。も

し人が教育して、いつでもそれができるようにしたとすれば、

これは大成功です。いくら偉大な教育者でも、このようにする

ことはできませんでした。このようなことを学んだことがあり

ますか、ありませんか。学ばなくても、すべての人がよく知り、

よくできるというのです。

11 世の中が問題ではありません。天下が統一されたとしても、

「私」が統一されなければ神様のみ前に行けません。一言誤っ

ても、良心はすべて分かります。良心は両親に優ります。良心

は両親が与えたものではありません。天から来たのであり、根

っこが神様なので、自分の両親に優るのです。良心は堕落した

世界の師に優り、良心は両親に優るのです。

12 皆さんの心と体が闘い始めたのは、いつからか分かります

か。堕落した直後からです。そこで病気にかかったのです。そ

れを取り除いてしまうことができなければ、絶対に天国に行け

ません。心と体が闘う人は、天国に行けません。先生はそれを

闘ったのです。「宇宙主管を願う前に自己主管を完成せよ」と

いうのです。行けば行くほど、神霊的な世界に入れば入るほど、

もっと恐ろしいサタンが現れるのです。

13 皆さんは、常に「私」という存在が善悪の母体だというこ

とを考えなければなりません。先生も皆さんのような年齢のと

き、このような内容で苦闘したのです。

それで、先生が立てた標語が、「宇宙主管を願う前に自己主

管を完成せよ」というものです。これが信仰生活においての第

一条です。このような面で、自己を完成し、自己を主管できる

ようになるとき、すなわち、自分の体を制御し、克服できる自

主性をもつようになるときは、自分の心と体の相克がなくなる

のです。

14 先生は、「お金を下さい」とは祈りません。出世するため

には祈りませんでした。それでは、三大目標とは何でしょうか。

第一に、「宇宙主管を願う前に自己主管を完成せよ」という

ものです。第二に、「絶対的な信仰をもとう」というものです。

第三に、「絶対愛をもとう」というものです。これが三大目標

です。

「私」の仕事において、サタンがうそをついてだましても、

私は絶対的な信仰をもって事実を確認するまで行くのです。で

すから、「サタン、お前も、最後には私を正しい道に案内しな

第八篇 信仰生活と修練

36

ければならない」という信仰をもつのです。

15 至高な愛の理想を成就すべき人間の完成は、愛に対する責

任性をもつ時に可能なのです。その責任性とは、人間が愛の自

由を下さった神様に感謝しながら、自己修養、自己管掌で自由

の主体になる責任です。人にとって愛の責任性は、法や世間体

ゆえに守られるのではなく、神様との生命的、縦的関係の中で

自己主管、自己決断で守られるのです。

心と体の統一(P860)

16 人の心と体を統一する方法は二つしかありません。一番目

には、この体を粉々にして占領する方法であり、二番目は体を

打たないで統一する方法です。強制で体を主管する方法はよく

ありません。それでは、どのようにしなければならないのでし

ょうか。今まで心は、体と対等に闘ってみることが一度もでき

ずに、いつも負けてきました。それは心の力が弱いためです。

この心に注射を打ち、力を二倍から三倍に増やせばどうなる

と思いますか。そうすれば体を引っ張っていくことぐらいは問

題にならないはずです。つかんで引っ張っていくことができる

のです。自動車のタイヤに空気を強く吹き込めば大きく膨らむ

ように、心にも強く力を放り込めば、どのようになるでしょう

か。力が強くなります。そのあとに、心と体が闘えばどちらが

勝つでしょうか。このように容赦なく体を打って占領する方法

と、心に力を加える二つの方法があるのです。

17 心の力の源泉は愛です。ですから、心が授け受けして生じ

る爆発的な力を神様に連結さえすれば、それは何倍、何百倍、

何千倍も統一できるのであり、世界万民が待ち望んでいた願い

を成就できるのであり、永遠に共に暮らすことができると同時

に、天国も自分のものにすることができるのです。その秘訣が

正に愛です。愛は、統一に向かって上がるエレベーターであり、

統一を成就できる絶対的な秘訣なのです。

18 この地に暮らしている堕落した人間は、悲しい思いが募れ

ば募るほど、互いに分裂していきます。自分を中心として悲し

めば、悪人たちの習性である分裂が起こり、善のために悲しめ

ば、分裂していたものが一つになるのです。すなわち分かれた

心と体が一つになって、天倫と統一された合一点がつくられる

ようになるのです。

19 統一は、「私」の心と体からしなければなりません。これ

を教える所が統一教会です。したがって、統一教会に入ると、

他人のように疎遠に過ごしていた人も、兄弟よりも身近に過ご

すようになります。また、肉身の父母ではない父母様に侍り、

互いに異なる兄弟と互いに異なる国と互いに異なる民族が、一

層強く糾合される高次的な愛をもっています。ですから、この

ようなところを「萬民之願統一世界」と言わざるを得ないので

す。統一教会に入れば、このような希望の要素をもつことがで

きるのです。

20 心と体が一つになった男性と女性、心と体が一つになった

その心と体の基準とは何でしょうか。自分の心と体の基準では

ありません。神様の心と体の基準、本来の先祖の心と体の基準

がなければなりません。本来の神様の心の基準、神様の体の基

準がなければなりません。見えない神様の心と体に似て現れた

ので、見えない神様の心と体の基準を中心として、地上におい

て平衡を取っていきながら出会わなければなりません。会うの

に、何で出会わなければならないのかというと、愛で出会うの

です。愛で統一されるようになっているのです。

21 どんな聖人も、「心と体の統一が万事統一の基本となる」

37

ということは主張しませんでした。「家和万事成」と言ったよ

うに、家が和合すれば万事が成就されるのは事実ですが、和合

すべきその父と母の心と体が和合しているのかというとき、そ

うではないというのです。十人が暮らしていれば、十人の心と

体が和合してすべてが一つになるべきですが、サタン世界では

十人の心と体が闘っているので、二十に分かれているというの

です。そこに平和はあり得ません。

22 皆さんは、個人の心と体を一つにしなければなりません。

その次には、夫婦の統一です。愛を中心として互いにために生

きるときに、統一が可能なのです。心は今まで一生の間、皆さ

んの体のために生きました。しかし、この体は心のために生き

ませんでした。心が体のために生きるのと同様に、体が心のた

めに生きる立場に立って、一つにならなければなりません。

何を中心として一つになるのでしょうか。真の愛、ために生

きる愛をもって一つになるのです。そのような「私」になって

お互いのために生きる真の愛を中心として、夫と妻が一つにな

らなければなりません。そうしてこそ、枝がどんどん伸びてい

きます。それでこそ、大きくなるのです。それが自分で分かり

ます。それでこそ、心が喜びます。何を見てもうれしく、仕事

をしても苦しいと思わず、寝なくても疲れないというのです。

23 統一教会の「統一」とは何でしょうか。神様に心と体があ

るならば、心と体が一つになり、統一された場をもたなければ、

神様も解放を受けた喜ばしい場に、幸福の場に出ていくことが

できません。神様がそうだとすれば、世界もそうだということ

です。世界自体も主体と対象の関係、社会も主体と対象の関係、

家庭も主体と対象の関係になっています。

救援摂理は復帰摂理であり、復帰摂理は再創造摂理です。再

創造摂理を通さなければ、あらゆることが成就されません。男

性と女性が通じてこそ、互いに夫婦にもなることができます。

主体と対象が一つにならなければ通じません。統一もそのよう

に成立します。神様と人間が通じてこそ、一つになります。通

じるというのは、体が通じ、心が通じるということです。

24 どこで統一を探すのでしょうか。統一は、犠牲になるとこ

ろ、譲歩するところにあります。そのようにすれば、どこに行

っても、三年もせずに一つになるのです。三年を越えて和合投

入し、犠牲になって投入すれば、新しい主人が行ったり来たり

しながら一つになります。世の中が、大宇宙の真の愛の空気で

いっぱいになるというのです。ですから、解放圏です。

25 統一する前に、どのようにならなければならないのでしょ

うか。統一は、水平の上に立たなければなりません。平和がな

ければ統一はできないのです。ですから平和統一です。知らな

い人は「統一平和だ」と言うかもしれませんが、知っている人

は「平和統一」です。ですから、この言葉は、道理に従って、

理屈に合うように連結されています。それは本当に驚くべきこ

とです。それ自体が伝統的な思想をもって、そこに関係してい

る人たちが生きていることが奇跡です。神秘的なのです。

26 和合統一は栄え、闘争分裂は滅びます。分裂すれば滅びま

す。すべてが相対主義になっているのに、分裂するので滅びる

のです。なくなるのです。和合統一です。あらゆるものは、お

互いに個性真理体として和合して統一します。上中下、右中左、

前中後、これはすべて栄えるのです。補い合うので栄えます。

悪は闘争しながら分裂して滅びるのであり、善は一致しながら

和合しようとするので、統一されて栄えるのです。

27 平和と和合は異なります。平和はただそのままこの水平上

で実現されますが、和合は二つが一つの関係を結ばなければな

りません。次に、統一は核がなければ定まりません。重心がな

第八篇 信仰生活と修練

38

ければ大変なことになるのです。なぜ生きるのかという問題や、

なぜ仕事をするのかという問題は、目的観に連結されます。

「私」が宇宙の中で、どこに関係を結んで生きるかということ

が問題なのです。

28 自然な環境において原則を中心として従っていき、ために

生きることによって広がる和合と統一は天国のものであり、反

対に、強制的にこちらのために生きなさいと注文し指示するの

は、和平と平和の反対となる地獄の世界です。

皆さん自身の心と体を見るとき、心は天が定めた原則を知っ

ているので、いつでも自分に「他のために生きなさい」と言う

のです。

しかし、この体は、神様が定めたことと反対の立場にいるの

で、強制的に「自分のために生きなさい」と言うのです。この

ような存在はあり得ず、自動的になくならなければならないの

です。

第三節 信仰の修練(P863)

1 ヨハネによる福音第三章十六節に、「神はそのひとり子を

賜わったほどに、この世を愛して下さった」とあります。アメ

リカを愛し、教派を愛して、ひとり子を賜ったのではありませ

ん。世界のために賜ったのです。バプテスト教会や長老派教会

のために賜ったのではありません。それで、先生は、はっきり

と教えるのです。統一教会は、世界のために存在し、神様のた

めに存在するのであって、先生のために存在するのではありま

せん。ですから、先生は滅びません。統一教会は滅びません。

神様が保護するからです。

すべての完成は、真の愛から始まります。全世界が真の愛を

中心として、このような公式を適用して訓練しなければなりま

せん。そのようにしなければ生きていけないというほど、習慣

化しなければなりません。世界のどこに行っても、そのように

生きなければならないのです。年老いた人を見れば、自分の祖

父と祖母のように、父と母の年齢なら自分の父と母のように、

自分の相対の年齢なら自分の妻や夫のように、息子、娘の年齢

なら自分の子女のように、自分の年齢なら兄弟のように愛さな

ければなりません。それが習慣化しなければなりません。楽し

くなければならないのです。

真の愛で

2 川の水は、海に向かいます。地上は川の水と同じであり、

霊界は海水と同じです。人間は誰でも霊界に行くようになりま

すが、淡水魚は、海水では死んでしまいます。突然入れば、窒

息するのです。ですから、慣れなければなりません。統一教会

は、その世界の内容を地上で訓練する所です。真の愛、ために

生きる愛の活用訓練をさせる修練所が統一教会です。ために生

きる愛の実体を形成するための修練所です。神様がために生き

る愛で生きているので、ために生きる愛をもった場合、どこに

行っても歓迎されます。どこに行っても反発がないのです。

3 真の愛の統治圏として征服することは、容易なことではあ

りません。重なり合った防衛線を経て、受難を克服して立ち上

がってこそ可能です。また、その受難を甘受できる自らの立場

が決定された現在の基盤をもたなければ、達成することはでき

ません。このような点から統一教会の現在の立場を見てみると

き、統一教会がこの世界の歴史過程で未来の主人として君臨で

きる立場とは、どのような立場でしょうか。個人のための立場

ではありません。個人の立場より良い立場です。世界人類の

個々人より少し良ければ、個人的な未来の主人になるかもしれ

ませんが、個人的な主人では駄目です。また、家庭を中心とし

て見てみるとき、少し良ければ家庭的主人になるのですが、私

39

たちが望むのはそれではありません。家庭を越えて氏族、氏族

を越えて国家、国家を越えて世界的主人として君臨しなければ

なりません。これは、簡単な問題ではありません。誰よりも悲

惨な歴史過程を経て、現実的勝利の基盤を準備しなければ、未

来の主人になることはできないのです。

4 愛のふろしきは、神様とこの宇宙を入れても余ります。神

様まで入れても、そうです。もし神様が一秒の間に三十万キロ

メートルも進む電気をつくったとすれば、神様はそれよりも速

く進むはずですが、その愛のふろしきで、もてる力を出し切っ

て走っても事故が起きないほど、愛のふろしきは大きいという

のです。いくら宇宙が大きくても、その愛を中心として回るよ

うになっているのであって、直線では行きません。真の愛をも

った人は宇宙をもち、宇宙をもった人は、宇宙を治めるのです。

今日の地上生活は、このような愛を訓練する所です。そのよう

な所で暮らしているのが人生なのです。

5 真の愛でために生きれば上がり、自分を愛すれば下ってい

きます。地獄と天国が自分を中心としてできています。体を中

心として喜ぶときは、サタンの舞踏場になり、心を中心として

絶対的に喜べば、神様の舞踏場になります。神様が喜べる絶対

的な心になれなかったというのです。体を中心として絶対的に

喜べば、地獄に落ちて滅び、なくなってしまうのです。

6 真の愛で怨讐のために生きてあげれば、怨讐の世界を治め

ることができるようになり、その怨讐の世界がむしろ皆さんを

尊敬し、侍るようになるのです。皆さんの子女や父母よりも、

周辺のすべての人のために生きてあげ、これ以上ない真の愛を

施せば、サタンは自動的に逃げていくようになり、代わりに神

様がその場に訪ねてこられて、千倍、万倍に返してくださるの

です。

サタンをして逃亡せざるを得なくさせる秘法とは何でしょう

か。真の愛でために生き、ために死に、ために愛そうとする真

の人の前では、いくら悪辣なサタンでも、国境線を放棄して逃

げていかざるを得なくなるのです。逃亡するとしても、国境線

を崩してから行くようになっているのであって、そのまま行く

ことはできないのです。そのようになれば、どんなことが起こ

るでしょうか。悪魔、サタンが離れていくことによって、地獄

の死亡圏に直行していた無数の生命が、一八〇度旋回して天の

国に上昇できる永生の道理が広がるのです。このように永生の

祝福が下されるのです。

み言に従って(P865)

7 先生が神様のみ言で生きたので、皆さんも神様のみ言で生

きなければなりません。皆さんは、先生より何倍も熟達できる

ように、み言を読んで、また覚えて行わなければなりません。

そうしながら、「私はこのような道を行かなければならない。

父母様が願うことがこのような道なので、このように行かなけ

ればならない」と考えなければなりません。そのようにすれば、

皆さんがある村に入っていったとき、その村の先祖たちまで来

て自分に侍ってくれ、「歓喜の同参者になりたい」と思うとい

うのです。

8 父母様が残しておいたみ言をたどる後世になってこそ、そ

の万国の万民全体が永遠の天上に近い道に接近していくという

のです。先祖を尊重し、先祖が残した遺物と、先祖が訓示とし

て残したみ言を、世の中で自分が生きることよりも、表象的で

ない実象的な主体として、暗い世界の灯台のように見つめてこ

そ、暗い海の暗礁が幾重にも囲んだ世界を分別していくことが

でき、自ら解放の道を行くことができます。その灯台を見て、

自分の方向を尋ね求めていく道しかありません。その灯台にな

第八篇 信仰生活と修練

40

れる話を先生がするのです。今まで天地を中心として、先生の

み言以上のみ言を語った人はいませんでした。ですから、この

上なく高い心情の世界から芽生えて出てくる、天上のみ言とし

て受け入れることができなければならないのです。

9 終わりの日には、心情と人格とみ言で審判するのです。ど

れくらいよく信じたか、ということで審判するのではありませ

ん。神様には心情の中心があります。天地を中心として、神様

が立てるべき、ただ一つの心情の中心があります。そして、こ

の神様の心情と一体になれる人格の中心があります。また、こ

の人格と心情と一体になれる人として、神様の代わりに語れる

み言の中心があります。これが審判の三大要件です。その中で

も、み言の審判が最初に始まります。堕落した人間の世の中で

は、み言の審判が先に展開されるというのです。

10 今日、堕落した世界の思潮は、真理の世界を求めていきま

す。そして、文化と共に発展していく歴史は、一つの文化世界

に向かう理念を求めています。今まで、世界の思潮は、思想と

主義を通して現れましたが、万民が一つになることができ、万

民が和合できる一つのみ言の基準を立てられないまま、袋小路

でもがいています。これが今の現実です。ですから、共産主義

者たちも溶かし、民主主義者たちも溶かして、一つにできるみ

言が出てこなければなりません。真理を追究するこの世界に一

つのみ言が現れて、今までの真理を審判しなければならないの

です。

11 皆さんが恩恵に満ちて、命懸けで立ち上がれば、神様が代

わりにマイクを持って立ち上がるというのです。天使世界も同

じです。先生もそうです。ですから、このみ言に夢中になって、

御飯を食べるのも忘れ、寝るのも忘れ、生活するのも忘れるほ

どに高揚すれば、皆さんは、誰でも、先生がしていたことを身

代わりすることができます。この作用が偉大なのです。

蕩減の峠を越えて(P866)

12 神様は、アダムとエバの堕落によって、人類を一度に滅ぼ

しても収まらないほど悔しくて無念なのに、その父の世話にな

って良い暮らしをしようと、自分が幸せになろうと考えてはい

けません。神様が捨てるしかない世界を再び収拾し、第二の理

想郷に向かって、本郷の故郷の山河と父母たちに侍っていた孝

子、忠臣、聖人たちが歩んだその後ろ姿についていき、一歩で

も間違いなくその道を踏んで、この蕩減の峠を越えなければな

りません。父母様が歩んだ道は、皆さんが一緒に行かなければ

なりません。ついていかなければなりません。千里万里、千里

遠征です。千里遠征が残っているのです。

13 蕩減の道は、必ず時間が消耗されなければなりません。ま

た、単に時間の消耗だけでなく、自分自らの消耗が起こらなけ

ればなりません。このような信仰の道を切り開いていくべき、

各自の責任が残っています。それでは、皆さんがここにどれほ

ど時間を消耗し、どれほど自分自身を消耗したでしょうか。こ

れが蕩減の要因を除去させるか、させられないかを左右します。

このように見てみるとき、信仰の道は、犠牲の道です。自分

の生涯の犠牲です。言い換えれば、自分が幸福になるすべての

要因を投入する道です。それだけでなく、自分の肉身もここに

巻き込まれなければなりません。全体を中心とした犠牲と、自

分自体を中心とした犠牲の代価を支払わなければならないので

す。その時間が長く、自分自体の犠牲の量が多ければ多いほど、

それに比例して、自分一代で清算できる蕩減の量が多くなると

いうのは、正当な道理です。

14 豊かに暮らす人より、苦労をたくさんする人が福を受けま

41

す。一番高い基準は、一番苦労することです。それで、先生は

皆さんを苦労する場に追いやるのです。「その分野においては

私でなければならない」と言うことができなければなりません。

それでこそ、責任を遂行することになります。僕の中の僕にな

り、養子の中の養子になり、息子の中の息子になって、子孫ま

でも公認する永遠の祝福の立場まで進んでこそ、責任を全うし

た皆さんになるのです。

行くときは、僕として行き、養子として行き、息子として行

き、聖霊とイエス様の資格で行き、最後には父として行かなけ

ればなりません。息子、娘の立場までは自分のための蕩減分野

であり、聖霊とイエス様の立場は父のための蕩減分野です。父

の責任まで果たしてこそ、自らの責任を全うすることになり、

過去、現在、未来に対して不足のない自らになるのです。

15 神様の息子であるイエス様は、世界と天宙を連結して親孝

行をする男性になることが目的ではありません。親孝行をする

家庭をつくるのです。家庭で血統を誤った基準から、個人的家

庭、家庭的、氏族的、民族的、国家的、世界的家庭をつくるの

です。先生独りでその十字架を背負って蕩減の峠を越え、境界

線、国境線を越えてきています。先生は、世界的な基準で勝利

することによって、神様とサタンの戦争までやめさせ、平和な

地上天国、天上天国をつくるのです。

16 神様の悲しみを蕩減してさしあげなければなりません。神

様が「私」のために涙を流した代わりに、私たちは、兄弟のた

めに、国家のために涙を流し、世界のために涙を流そうという

のです。このような責任を遂行する群れが世の中に現れるよう

になれば、その群れは滅びません。その子孫は、間違いなく発

展するでしょう。

皆さんの当代には、もちろん悲惨な、歴史的な何かがあるか

もしれませんが、今、終わりの日が来たので、当代に二つの世

界を審判し、一つの世界を建国できる時代が来ることを知り、

この時こそ歴史的な時であり、神様のみ前に孝子になることが

でき、忠臣になることができる時であることを知り、神様を慰

める皆さんにならなければなりません。

17 もし、どんな悲惨な環境の中でも、自信と勇気をもって困

難を克服して再出発できる群れがいるとすれば、新しい世界は

彼らから始まります。しかし、何かをもっている群れは、動く

に当たって勇気がなく、もっていない群れは、動こうとしても

動ける力がないのです。

ですから、私たちは、このような境遇にある人たちにつき従

うことができ、また与えることのできる、その何かをもってい

なければなりません。この境地を越えるには、そのままではで

きません。そこには、多くの蕩減条件と犠牲を経なければなり

ません。自分の利益のための犠牲ではなく、全体の利益になる

犠牲を払い、全体の勝利、全体の価値のために、自分の一身を

犠牲にすることに満足する群れが必要です。

関係回復の原理(P868)

18 神様の愛を中心として、すべての万物が和動する中で、万

物の主人の資格を備えて神様に、「我が父よ。栄光をお受けく

ださい!」と言うことができたアダムが堕落することによって、

そのような価値を喪失してしまいました。ですから神様は、創

世以後、本然の息子、娘が現れて「父よ」と叫ぶ、その一言を

聞きたいと思うのです。

今日、私たちが呼び求めているその父は、罪悪の立場で呼び

求める父ではありません。ですから、私たちは、罪悪の世の中

から抜け出して、善の理想の園に入っていかなければなりませ

ん。その理想の園とは、人間が神様の栄光を現す世界であると

同時に、喜びに陶酔して生きることのできる世界です。言い換

第八篇 信仰生活と修練

42

えれば、人間が動ずれば万物が動じ、人間が静ずれば万物が静

ずるようになり、人間と万物が動じ静ずると同時に、創造主の

神様も動じ静ずることのできる世界です。それだけでなく、神

様と人間の相対的な関係を超越して、一体となる理想の園なの

です。

19 神様は、人間が御自身と一つになることを願われたのであ

り、一つになった中で驚くべき愛を中心として喜びに酔う、そ

の一場面を思い描きながら、そのような世界を創造してこられ

たのです。ところが、人間が堕落することによって、これが自

分たちの怨恨になったと同時に天倫の怨恨となり、堕落以後今

日まで、その怨恨に怨恨を加重させる悲しい歴史を連ねてきた

のです。

それでは、神様が今日、この地に対して摂理される最大の希

望とは何でしょうか。それは、堕落の父母をもつ人類を再び神

側に立て、「私は、あなた方の永遠の父であり、あなた方は、

私の永遠の息子、娘だ」と叫ぶことです。そのようにできる日

を迎えることが、堕落した人間の歴史的な希望であり、天倫に

対する天的な希望なのです。

20 平和の世界は、国家と国家の間に良い関係を結ばなければ

なりません。闘争の概念があってはいけません。関係を結んで

相対的立場にならなければなりません。縁があって来たので、

相対的な関係になってこそ関係が結ばれるのです。関係という

のは、悪いものを中心として語る言葉ではありません。良い意

味の言葉です。

21 関係は、縁のないところでは結ばれません。仏教では因縁

を語りますが、統一教会では関係を語ります。一段階先を行っ

ています。関係は必ず二つ以上で結ばれますが、因縁は一人で

も結ばれます。心と体は相対関係になっているので、統一され

た関係を結びます。男性と女性も相対関係になっているので、

「夫婦一体」と言うことができます。

このように見れば、関係を結べるその中心がなければならな

いのです。父子関係も相対的な関係なので、「父を中心として」、

「息子を中心として」と言うように、絶対的な内容を満たせる

「中」がなければなりません。真ん中を意味する「中」の字、

これは四方の中心を意味するのです。

22 主体と対象の関係というものは、時間と空間を包括してい

ます。関係を結ぶようになるとき、相手は低い位置にいますが、

大きな心をもって対すれば、その相手にも大きな栄光を与える

のです。父母の心が広ければ広いほど、その相手もそうなるの

です。主体の前には、必ず対象存在が生じるようになっていま

す。

23 関係というものに型があれば、その型に縛られたすべての

人間の歴史や個人の事情は、みな異なります。ですから、主流

とどのような関係があるのかというのです。木で言えば、木の

葉は千年前に出てきた葉も、千年後に出てきた葉も、その本質

は同じです。その木の中心の根と連結されています。また、中

心の幹と連結されていて、中心の芽が連結されています。枝も

同じです。東西南北の四方にほかの枝があっても、その内容に

おいてはみな同じだというのです。

24 共鳴圏は、二人が一つになった境地です。父母も二人であ

り、夫婦も二人であり、兄弟も二人であり、子女もそうです。

すべて二人です。カップルになるので、関係という話になりま

す。「兄弟関係」というものも、二人を前提に語る言葉です。

独りでは「関係」という言葉は使えません。「政治関係」も国

と民であり、「主体と対象の関係」もやはり二人を前提に使う

言葉であって、独りでは関係を結べないのです。

43

25 人間に体恤させ、人間と父子の関係を結ぶために苦労して

いらっしゃる父であることを、心や生活で感じなければなりま

せん。私たちの最後の希望として残されているもの、すなわち

神様の恩賜の中で私たちが立てられるのも、何を基準として立

てられるのでしょうか。それは、創造の理念である神様と人間

の父子関係を回復するために、地上でどの程度実践したかとい

うことにかかっています。私たちの生活圏でどの程度実践した

かによって、自分たちの価値を見いだすことができるのです。

26 鳥や、海にいる魚のような万物、万有の存在にも、歌と、

踊りと、会話できる言葉があります。言葉が少し発展すれば歌

になり、歩き方が発展すれば踊りになるのです。このような表

現で和合し、会話できる関係というものは、愛を中心として成

り立っていることを知らなければなりません。愛の時間を分か

ち合い、愛の時間を互いに高揚させるための行動を、万有の存

在が競争しているのです。人間は万有の主人です。ですから、

人間がこの歌の話と、和合の話を一日に十倍、百倍加担させて、

さえずり、喜べる世の中になれば、その世の中は、神様が酔い

しれて暮らせる環境となる世の中なのです。

第四節 心の修練(P870)

1 心は永遠を伴い、体は一生を伴います。心は生涯を調整し

て現れ、体は生活を調整して現れます。生活と生涯は異なりま

す。生涯とは一生について語ることであり、生活とは一日につ

いて語ることです。このように、私たちの心と体は、それ自体

が異なります。人間は、心が生涯を主管し、体が生活を主管す

るようになっています。ですから、一日一日の生活で食べなけ

れば、体は死ぬようになります。しかし、心は食べるには食べ

ますが、生涯の観点から外れる立場で食べてはいけないという

のです。このような意味から見るとき、心が望む観念がより大

きいというのです。

心は父母の中の父母

2 私たちがほかの人と和合できない心をもっているとすれば、

私たちは、その心を動かして、すべての人に一〇〇パーセント

合わせることができる心の修練をしなければなりません。そう

でなければ、サタンは終わりの日に皆さんを審判台の上に立て

ておき、「誰それよ、お前はこのような不備な条件があるでは

ないか」と言って、そのようにできない点を掲げて讒訴するの

です。

3 心は、宇宙の神様を身代わりしているので、父母の中の父

母です。師の中の師であり、主人の中の主人です。ですから、

純潔さをもっている「私」の心は、世の中の母よりもっと近い

母であり、父母です。世の中のどんなに立派な先生よりも、私

に一番近い先生です。また、世の中のどんな主人よりも、自分

の僕たちを正しく導いてくれる主人の立場に立っているのが心

なのです。

4 心と体は異なります。心はどこからもらいましたか。神様

からもらいました。心は神様から来るのです。皆さんの心は天、

体は父母から来ました。体は地から来たので、地から出るもの

を食べるのです。皆さんは、地の世話になっているのです。こ

の地は物質です。人は、男性でなければ女性です。神様が創造

されたアダムとエバの延長が正に「私」です。人といえば、そ

こには既に実体があるのです。人の中に何種類のものが入って

いますか。地が入っていて、人が入っていて、神様が入ってい

ます。昔から「天、地、人」という言葉があります。心は天で

あり、体は地であり、人は人(じん)なのです。

第八篇 信仰生活と修練

44

5 「私」一人には、神様が入っていて、地が入っていて、人

が入っています。心が主体となり、体は対象になります。心は、

体の中心になるので、意志がなければならず、観念がなければ

ならず、主張がなければなりません。これが一つに一致した人

を人格者といいます。心の命令どおりに体が動く良心的な人を、

人格者というのです。自分の一身を思いどおりにできる人が人

格者です。ですから、心が中心です。心は神様の代身であり、

体は人の代身です。神様は、人の心を治め、人の心は人の体を

治め、人の体は万物を治めるのです。

6 人間には心と体があります。父母からもらった体、地から

体の要素になる物質を供給された体をもっています。しかし、

心が問題になっています。神様は、その心と体を不変の心情の

基台の上に立てたいと思われるのです。そのようにすることが、

神様が人間を創造された目的であり、堕落した人間に対して摂

理される目的です。いくら心が喜び平安だとしても、その心は

心情の家に入って休むことができずにいるだけでなく、体もや

はりそうだというのです。

7 今まで人間は、何を求めて苦労してきましたか。人倫の心

の代わりとなる天倫の心情を求めて、その心情と私たちの心が

一つになるようにと、今まで骨を祈ってきました。一つになっ

たその心は、絶対的な心と関係を結んだので、その心は誰かが

切り取ろうとしても切り取ることはできません。ですから、こ

のようにどんな理念と、どんな主義主張をもってしても、決し

て侵すことはできない心を、私たちは、今まで求めているので

す。ですから、もしこれを探し出せないとすれば、決して悲し

みと悲哀を免れることはできません。

心の指向性(P871)

8 心は、自然の道理に符合します。善に向かって無限に動こ

うとします。それは、羅針盤が南と北を示すのと同じです。自

然の道理が、方向を失って善を避けていくことはありません。

そのような現象はないのです。人間の心もやはり、ある目的に

向かって動こうとします。生命に向かって動く心、心情を通し

て動く心、真理を分別する心、全体と和合したいと思う心、全

体のある理念に和合して生きたいと思う心、この心が、天が善

の方向を指示できる基盤なのです。

9 私たちには心があります。その心は、より大きな理念に向

かって、寝ても覚めても時間と空間を越えて、「私」をある方

向に押し出そうとしています。しかし、このような動きが連続

する歴史とともに動いていこうとする事実を感じながらも、そ

のような面をもっている自らを解明できずにいます。

皆さんは、自分を分かってほしい、自分を信じてほしいと言

いたいでしょう。そして、私が考え、私が主張するすべてのこ

とが、そのある動きと関係を結ぶことを願いながら今まで生き

てきたという事実も、否定できないでしょう。それでは、私を

信じ、私を分かってほしいと求めるとき、自らを確定して、天

倫の大きな目的と関係を結んだ立場に自らを立ててから、その

ような要求をしたかというと、そうではありません。

このように見るとき、私の価値は、どこで決定されるのでし

ょうか。万象を動かせる主体、あるいは主動体となることを心

で望み、生活で、行動で動いて成し遂げようとする自らを、も

う一度分析して、冷静に批判する過程を経るまでは、大きな目

的を成し遂げることはできません。天は天倫の目的を成し遂げ

ようとされますが、自らがそのようにすることができなければ、

天のみ前に堂々と立つことはできません。天倫の前に頭を上げ

ることはできないというのです。

45

10 天は、生命の主体であり、理念の主体であり、愛の主体で

あって、私たちの心と体の主体です。ですから、私が天と接触

する瞬間には、私の体は自分の体ではありません。私の心は自

分の心でなく、私の心情は自分の心情ではないのです。私の理

念は自分の理念ではありません。その時こそ、神様を身代わり

した体になるので、万物の主人公になるのです。その時に、私

の心が神様と同じ心になるので、私の心は神様を身代わりする

ことができるのです。その時に初めて私の生命は、万宇宙を動

かせる生命の権限をもつのです。私の心情は、神様の心情を身

代わりして現れることができ、私の理念であり、父の理念だと

いうのです。それでこそ、私たちの心的な願いのすべての目的

が終結するのです。

11 心は、刺激的で苦痛な現実の環境を避け、理想に向かって

進むことを促しています。どんな指導者でも、この現実と闘わ

なければなりません。しかし、理想を指向し、待ち望み、催促

するこの心について知っている人は、一人もいません。その心

の命令に従って行動しなければなりません。

歴代の数多くの預言者たちも、その心に抵抗しませんでした。

今後、どんな人でも同じです。その心に応じるべきであって、

誰かがどのようにするからといって、できるのではありません。

抵抗できない、自ら応じるべき運命に置かれている自分たちで

あることを心から認めるとすれば、今日、この世界は、理想世

界ではなく、私たちが夢見て希望する理想世界と関係を結んで

いないというのです。それは堕落したからなのです。

12 神様が私たちのために受けたあらゆることは、私たちの心

と体に反映されます。体が行動する一つ一つに、心は善の目標

を指向するように環境を管理し、休む暇もなく努力します。ま

た、体がその目的と方向を失い、死亡のどん底に陥るようにな

った時、心は体に向かって、善のものを見つめなさいと勧告し

ます。ですから、「私」自身から解決しなければなりません。

私たちの心が天を身代わりするならば、心が望む目標と天が望

む目標が一致しなければならないのです。

13 神様が私たちの心の中心ならば、その神様が望む目標と、

私たちの心が望む目標とが一致しなければなりません。また、

心と体が一つになるために、体はこの地の理想的な基準と一致

しなければならず、心は神様が目標とする方向と一致しなけれ

ばなりません。歴史的な最後の終末時代、善の理想世界は必ず

訪れるものなので、「私」の体が生活において善の理念世界と

接する関係をもっていなければなりません。心の基準が神様の

基準と分かれるとき、苦衷が生じるようになり、体の生活基準

が世界的な理念と相反するとき、また、苦衷が生じるのです。

それでは、どこから是正するのでしょうか。それは相対圏では

なく、私自身にかかっています。

信仰と祈り、精誠の道(P873)

14 きょう、死を覚悟して新しい信仰の道に立ち上がった皆さ

んが、絶対的な信仰で神様の希望に向かっていけば、そのよう

な信仰路程を通して神様と同じ価値を探し出すことができます。

このような信仰をもって責任感をもたなければならず、このよ

うな信仰をもって実践する真の息子、娘たちにならなければな

りません。そのようにならなければ、到底父の前に立てません。

絶対的な父の前に真の息子、娘として、忠臣の姿として立ち得

ないのです。

15 天は歴史的に何を通して人間を訪ねてくださったかという

と、信仰という条件をもって訪ねてくださいました。天は人間

をして、この信仰の条件を立てさせる一方、人間に対して実践

を求めました。天と「私」が関係を結び、悲しみの心情を除去

第八篇 信仰生活と修練

46

することのできる一つの足場を立てるためには、信仰を中心と

して一つの実践的な行路が生じなければなりません。そうして

こそ、歴史的な関係を立てることができるのです。

16 不都合な立場を解消するためには、自分自身に対して率直

に告げなければなりません。「私は本来、このような人です」

と率直に通告し、「私はこのように悪い人だが、あなたは善の

人なので、私のような人に同情して、行くべき道を模索できる

方案があれば、私に哀れみを施してください」と言わなければ

なりません。

祈る心で人と向き合えば、自由な環境が広がります。しかし、

ただそのまま踏みとどまっていては、いくら自分がやっても、

心では収拾がつきません。環境を収拾できないというのです。

ですから、「私はこのような人間ですが、あなたと関係を結び

たいのです。ですから、哀れみを施してください」と率直に告

げなければなりません。それが祈りです。

祈りは、自分が行く方向が間違ったとき、正しい方向に行く

よう導いてくれます。皆さんの生活を見れば、言葉一つ、行動

一つ、感じ方一つによって、二転三転しています。皆さん自身

が、今日、現実の中で息をしながら生きているこの瞬間に、こ

のように秤にかけています。その秤の目盛りを合わせることに

おいては、率直でなければならないのです。

17 先生の祈りは、一般の人が聞いても分かりません。百回読

んでみてこそ通じます。天の神秘の声を聞いて、そこに共鳴で

きる心と体で体恤する境地が必要なので、自然と通じ、すべて

に通じなければなりません。通じなければ、分かりません。釈

迦牟尼も言いました。「天上天下唯我独尊」という言葉は、そ

の境地で語った言葉です。境界線を越えるようになれば、必ず

そのようになるのです。

18 皆さんに必要なことは、祈りと精誠です。自分が自ら復活

した位置に立ったのでしょうか。復活した位置に立てなかった

とすれば、切実に求める位置に立ったでしょうか。信仰をもち

ながら、環境に責任をもち得る自らになったでしょうか。私た

ちは、そのようにはなっていません。

ですから、祈りが重要です。祈りは、生死の基準を動かす能

動性をもっています。そのような祈りを捧げるのは、大変なこ

とです。「私」が見上げるほど高く、広い塔を積むとすれば、

どれほど忙しいでしょうか。広くて高い塔を積もうとすれば、

どれほど忙しいかというのです。それを五十年なら五十年の間

に、すべて積み上げなければならないと誓ったとすれば、休む

暇がないのです。

19 先生は、祈りが最も威力のあるものと信じています。不可

能を可能にすることができるからです。統一教会では祈りを強

調しますが、ほかの特別な方法で祈るのではありません。しか

し、その内容は異なるのです。「自分自身のために祈ってはい

けない」というのが先生の教えです。自らの使命のために、そ

して他の人のために、また自分の祈りが慰労の言葉として神様

に伝えられるようにしなさい、と教えています。

20 難しい問題があるときは、祈りを捧げて解決していかなけ

ればなりません。それでは、祈りはなぜするのでしょうか。祈

りとは、神様の心情的基準を中心として関係を結ぶものです。

ある問題を中心として、真の意味で国を心配し、神様を心配す

る思いで祈りを捧げれば、神様は、必ず前後を教えてくれるよ

うになっています。そのような役事は、いくらでもあるのです。

21 私たちは、外的に伸びていくことよりも、精神を統一して

内的に深く追求していく道を模索しなければなりません。これ

が今日、キリスト教で言う「祈りの生活」です。皆さんが目的

47

を立てておき、それを成就させようとする祈りよりも、神様の

考えに接して、神様が語りたいと思われるみ言を体恤し、それ

を実践するという祈りが、より貴重なのです。ですから、祈り

を捧げるために、静かな所を訪ねていくのです。

22 祈りの生活をすれば、形容できない喜びが訪れます。その

境地が、創世前の神様の心の境地です。皆さんがそのような境

地で、「こうだ!」という内容をもって説明できる立場に立つ

とすれば、その立場は、正に神様が天地万物を創造された立場

だというのです。神様がみ言で被造物を創造された立場です。

そのような境地でみ言を宣布しなければなりません。そうすれ

ば、人々も必ずそのようなみ言に触れようとするのです。

23 皆さんが祈りを捧げようとすれば、一日の日課を始める前

にしなければなりません。ですから、最も重要な時間が早朝で

す。早朝が最も重要なのです。この時間が一日の勝敗を左右す

る重要な時間帯です。この時に祈らなければなりません。深い

祈りをするときに、自分が今まで全く感じてみたことのない分

野を感じてみるためには、自分を中心とした祈りをしてはいけ

ません。国家なら国家、世界なら世界という、大きな目的を中

心として祈らなければならないのです。

24 深く根を張った祈りの生活を、たくさんしなければなりま

せん。み旨に徹した生活をしなさいというのです。そして、神

様が行かれる道と教会が行く道に、自分がどれほど呼吸を合わ

せて生きるかを、常に考えなければなりません。そうしようと

すれば、「教会の便りが気になって死にそうだ」と言いながら、

直接、訪ねていけなければ、「電話してでも知りたい」と思う

気持ちがなければなりません。そのような心を前面に立てて暮

らす家庭なら、神様が共にいない道理はありません。そのよう

な根もないのに植えておけば死んでしまうので、植えないこと

より良くないというのです。皆さんは、このような原則を知り、

生活を再整備して、そのような基盤を築き上げなければなりま

せん。

25 祈りは、御飯を食べることより重要です。ですから、先生

も自然を好み、一人で過ごす時間は心が満たされます。静かな

夜が本当に好きです。生活の豊かな底辺基盤を築くことができ

るのは、祈り以外に道がありません。その世界、その場で愛を

感じ、愛を体験できるのであって、普通のところでは難しいの

です。そのような基盤の上で、自分自体が力を補強できる立場

に立ってこそ、皆さんの信仰の道を皆さん自身が行けるのであ

って、いつもこのように先生が導いてあげていては、先生がい

ないときはどうするのですか。そのような背後の生活を備える

ためには、祈りが必要です。夜も昼も全体のために祈ってこそ、

それが生きた祈りになります。そうしてこそ、何年かごとに、

自分が願う祈りが変わり、題目が変化するとともに発展するの

です。ですから、今の時がどんな時なのかを知らなければなり

ません。そのような背後の生活を、皆さんは、祈りの生活を通

して備えなければならないのです。

26 祈りは、自分の気が散るような所でするものではありませ

ん。奥深い所、天を代表する所、境界線から遠い中央の地に行

って祈らなければなりません。ですから、どのように祈るので

しょうか。自分の生涯の切実で重要な問題を祈るためには、自

分自身を清め、この境界線と関係のない、永遠にサタンと関係

のない所で祈らなければなりません。ある人は、「神様のみ前

にいくら祈ってみても、応答がなかった」と言いますが、それ

は応答するようにはなっていません。サタン側で祈っているの

に、神様がそのような祈りを聞いてくださるでしょうか。

27 心は丸く、心門というものがあります。祈れば、いつもう

第八篇 信仰生活と修練

48

まくいくわけではありません。そこにも、春夏秋冬と同様の、

自分の性稟による型があります。天の方向と心の方向がぴった

り合う時があります。その時を逃してはいけません。そのよう

な時が来れば、すぐに分かるのです。祈りの生活をすれば、直

ちに「何か起こる」ということが分かります。その時のために、

しっかりと準備しなければなりません。その時には、百事に備

え、この心の門を開いて、そこを掘り下げれば、非常に大きな

力と、非常に大きな神様の愛が、どのようなものかを感じられ

る段階に入るのです。

28 涙を流しながら祈りをたくさんしなければならない時が、

終わりの日です。また、涙だけでなく、血を注ぎながらでも祈

らなければなりません。私たちは、涙の峠、十字架の峠を越え

てきました。イエス様はゲッセマネの園で血のしたたりのよう

に汗を流して、涙の祈りを捧げられました。民族を胸に抱いて

涙を流されました。そのような祈りは、サタンの権限を抑える

ことができるのです。

29 皆さんは、自らの心を通して祈れる人にならなければなり

ません。皆さんが体を通して現す言葉や行動が、皆さんの心の

中心と連結された時、その言葉や行動は、神様とサタン、また

はどんな人の前でも恥ずかしくなく、堂々としているでしょう。

神様は、正にこのような存在を求めていらっしゃるのです。

30 心で祈り、すべての面で戒律を立て、天に向かって訴える

祈りは成就するようになっています。今日の祈る人たちのよう

な祈りを数十年したところで、成就しません。真の愛の心情を

もって、約束する位置で祈りを捧げなければなりません。一度

祈って三十年、四十年待てる、切実な心をもたなければならな

いのです。三十年、四十年過ぎても忘れない、切実な思いで祈

って待ってみるのです。成就するというのです。多くの祈りは

必要ありません。

31 祈るときには、涙を流しながら祈り、汗を流しながら祈ら

なければなりません。「何かがぶつかっても、私を突き抜ける

のであって、私は倒れない」、このような信念をもって祈りを

捧げなければなりません。迫害があり、反対が起こっても、祈

りを成就してくれるための、神様の時が近づいたことを知らな

ければなりません。統一教会を信じていくとともに、だんだん

と大変になれば大変になるほど、時が近づいたことを知らなけ

ればなりません。

32 神様だけを主として、自らが新しいものを刺激できる生活

を直接経験しなければなりません。そのような心情を感じなが

ら活動をすれば、そこには必ず繁殖が起こります。そのように

なれば、発展するのです。生きている木には新芽が出てくるの

です。きのうときょうが違うというのです。そこには必ず生命

力が躍動するのです。皆さんがこのような感情を失う日には、

生死を懸けて祈りなさいというのです。徹夜の祈りを捧げてで

も精誠を積んでいかなければなりません。

神様は、皆さんがそのような生活をしようとすれば、わざと

その時間を奪っていこうとするかもしれません。そのときは、

いくら努力しても、希望を見いだそうとしても見いだすことが

できません。努力すればするほど、一層真っ暗な窮地に陥ると

きもあります。ですから、付きまとうサタンまでも「私」に屈

服させて、神様に仕えなければならないという気持ちをもって、

より一層強く闘うことができなければならないのです。

33 私たちが行くべき道は、いずれにせよ突破していくべき道

であることを考えれば考えるほど、これは私たちの力だけでは

不可能です。ですから、信仰者は祈りを捧げなければなりませ

ん。個人として神様のみ旨と一致する伝統を受け継ぐ道を見い

49

だせなくなる時は、彼がいくら努力をし、いくら忠誠を尽くし

ながら行くといっても、その結果は、必ず神様のみ旨に背く立

場に帰結するようになります。そのような観点から、現在の

「私」の位置がどれほど重要かということを知らなければなり

ません。

34 皆さんは、息子、娘のために祈る前に、まず天界にいる、

今まで苦労した歴史的な先祖たちのために祈らなければなりま

せん。自分が幸せに暮らすことを願う前に、この地の人類が幸

せに暮らすことを願う心をもたなければなりません。「私」が

踊りを踊る前に、まず嘆息圏内にいる万民を見つめて心配でき

なければなりません。また、うれしくても、うれしい表情をす

ることができず、楽しもうとしても、楽しむ行為ができなかっ

たイエス様の事情を身代わりできる心をもたなければならない

のです。

35 自分の思いを中心として祈ってみなさいというのです。い

くら夜を明かして祈っても、神様とは関係がありません。一生

を否定し、一生をつかみ、その一生のために行かなければなり

ません。例えば、家庭を否定し、国を抱きなさいというのです。

より大きなもののために生きること、それが公的です。そうし

てこそ、残るのです。自分の欲望を中心として、家庭を中心と

して行くこと、それはあとのことです。より大きな目的を中心

として行かなければならないのです。

36 堕落した人間は、生まれる時、喜びの中で生まれても、逝

く時は涙を流しながら逝くのです。しかし、今、かわいそうな

民族のために泣く者は、民族の福を受けるのであり、かわいそ

うな教団のために泣く者は、教団の福を受けるのであり、かわ

いそうな世界のために泣く者は、世界の福を受けるでしょう。

祭物になって分立する道(P879)

37 皆さんは、まず、皆さん自体を天のみ前に、誓いの条件物

として立てようとしなければなりません。イエス様も世界のた

めに、天地のために、あるいは多くの人のために、ただ一度誓

いの条件を立てましたが、それが何かといえば十字架です。イ

エス様は、この十字架を通して、数多くの先知先烈(ソンチソ

ンニョル=先駆けて道を悟った先人、義のために命を捧げた烈

士)が命を捧げて苦労してきたその基準を一時に乗り越えたの

です。ですから、皆さんは、宇宙的な生の価値を実現するため

に、今後、ある一時、天の前や世界の前に、または個人の前に

捧げられる一つの誓いの祭物になろうという観念を、はっきり

ともたなければなりません。

38 統一教会自体を見ると、神様のみ旨と、先生のみ旨と、皆

さんのみ旨が一致しなければなりません。まず、そのようにな

らなければならないのです。そのあとに方向を定め、条件物を

提示しなければなりません。それが一致しなければ、いくら時

が熟したとしても、み旨の成就は絶対に不可能です。祖父母、

父母、自分、三代が合わさって、一つの祭物と同じ立場に立た

なければなりません。宇宙史的な全体を中心として見るとき、

一つになる道しかないのです。

39 祭物というものは、所有物を決定する条件物です。先生は、

そのようなことをみな知っているので、このような定義を下し

ました。善に所有されるか、悪に所有されるかという問題は、

何を中心として決定されるのでしょうか。サタンと神様が愛の

心情を中心として取り引きしていることを、誰も知りませんで

した。愛の道を開発し、愛の道を開拓するみ旨を立て、愛の人

を求める立場に立ち、高い愛の基準を天のみ前に返すまでは、

サタン世界の愛の基準の物が、天の所有物として登場すること

第八篇 信仰生活と修練

50

はできません。天の所有物として登場しなければ、神様が人間

と共に一つになった物を所有できる道がないというのです。で

すから、祭物は犠牲になり、人を身代わりして所有させるので

す。

40 人類が遭遇するあらゆる苦痛を自分の苦痛として、人類が

喜ぶあらゆることを自分の喜びとして感じられる立場に立って

いらっしゃるのが神様なので、そのような神様のみ前に祭物の

場に出ていく存在は、人類が喜び、神様が喜ぶことのできるそ

の場に歩調を合わせなければなりません。人類と神様がプラス

されるところに歩調を合わせてみると、自分はマイナスになら

なければなりません。自分は犠牲にならなければならないので

す。これが堕落によって失ったすべてを回復させられる、一つ

の助力部隊です。一つの祭物的条件物だというのです。

41 本質的愛を離れて、公的な愛を離れて、異質で自主的な覚

醒をしたところから堕落が始まりました。自己を中心としたと

ころから堕落が始まったので、自分を中心として愛を論じるそ

の世界は、サタンの着陸基地がただそのまま延長されていくと

いうのです。しかし、神様の愛、公的な愛を中心として自分の

個人的な愛までも犠牲にさせてサタンを分立しようと、これを

踏み越えるところでは、サタンの侵食基地が零になってしまう

のです。

第五節 体の修練(P880)

1 体は地を象徴するといいました。ですから、体が安息して

暮らせる福地に向かっていこうとすれば、生まれ変わる苦痛を

経なければなりません。したがって、時間がたてばたつほど、

だんだん不安と恐怖にとらわれるようになります。しかし、そ

の峠を越えれば、喜びがあります。

妊娠した夫人たちは、出産の期限が近づくほど苦痛がだんだ

んひどくなりますが、その苦痛を越えれば、その苦痛に反する

喜びがあるように、そのような峠がなければなりません。人間

を愛される天は、人間を造って祝福され、「あなたの体は地を

治めるのであり、あなたの心は天を治めるだろう」とおっしゃ

ったのです。

2 サタンは、死亡の障壁を立てています。その下に敷かれて

いるのが私たちの体です。神様のみ前に怨讐となったサタンは、

本来、天使長です。神様が主体であれば、天使長は霊的な対象

です。心は天を象徴し、体はその対象を象徴するので、サタン

は人間の体を足場として活動しているのです。それで、どの宗

教も体を打つのです。どこかの国家や何かの主義を征服するの

ではなく、体を征服することが宗教の目的です。そして、本然

の良心基準に入っていこうとするのです。体が求めるあらゆる

条件を無視して心の門を開き、アダムとエバが堕落せずに上が

っていかなければならなかった良心基準に到達するようになる

ときに、初めてそこから平和が始まるのです。

純潔を守る

3 男性も純潔であり、女性も純潔でなければなりません。結

婚前に汚すことはあり得ません。純潔、それから純血です。血

統です。愛を望む人は、純潔を守らなければならず、新しい血

統、純血の血統を受け継がなければなりません。それで純潔、

純愛、純血です。それとともに男性と女性が結婚して、二人が

一つになって東西南北に切り替わっても、上下が切り替わって

も、前後左右が切り替わっても、どのようになったとしても

「私は投入して忘れ、ために生きる」と言えば、千年、万年解

放され、和合しないものがないがゆえに、統一世界が現れるの

です。

51

4 私たちには、蕩減路程が残っています。み旨のためにはす

べてのものを犠牲にし、「私」の体の純潔を守りながら、自分

の血族、親族を一時に失っても、み旨に従わなければなりませ

ん。すべての一家、親戚が自分を捨てても、み旨に従わなけれ

ばなりません。歴史上のノアがそうであり、アブラハムがそう

であり、モーセがそうでした。そうかといって、すべて失った

のではありません。永遠なものと取り替えたのです。しかし、

彼らはすべてのものを失って永遠のものを得る、ということが

分かりませんでした。漠然とは分かりましたが、具体的な内容

は分からなかったというのです。

5 いくら美男美女がやって来て皆さんを誘惑しても、そのよ

うな渦中で倒れてはいけません。ですから、従順と貞節を重要

視する男性と女性になって、祝福の血統を千年、万年守り、数

千代にわたって純潔を守る子孫を残さなければなりません。そ

のような子孫を長く残すほど、世界を指導し、天国を指導でき

る皇族圏の血族として残されるのです。

6 愛は唯一のものです。一つしかありません。唯一のもので

あり、絶対的なものです。そのような愛を願うので、妻に接す

るとき、絶対「性」をもって接しなければなりません。妻に出

会うことによって、天国が私を訪ねてくるようになります。そ

のようになっています。男性がいくら苦労しても、愛の道を訪

ねていき、愛の正道に従わなければ、天国に行くことはできま

せん。そのような天国を「私」に紹介するために訪ねてきた方

が、妻という人であり、夫という人です。その二人が仲たがい

する日には、天国が壊れていきます。私たちの人生の本然の理

想と夢にひびが入っていくのです。

7 一つの個体において、過去と未未がきょうを中心として連

結されています。過去、現在、未来が関係を結んでいます。過

去と現在と未来を中心にして、天地の運勢が巡っていくのです。

神様が最後の審判をする時、私個人が審判の聖書になり、法典

になります。ですから、審判をしても引っ掛からない絶対的な

立場を築いてこそ、個人復帰が完結します。

今は、個人完成の上に家庭を完成すべき時です。家庭の歴史

のすべてが審判の材料になります。ですから、審判される時に、

サタンが讒訴できない純潔の家庭にならなければなりません。

そうしてこそ、家庭的な復帰を完成し、民族的な基盤を完結す

ることができます。民族的な勝利の基盤を完全に築けば、サタ

ン世界の万民を審判でき、神様が自ら裁判長の立場に立つよう

になります。全世界に散らばっている民族がサタンを攻撃する

ようになる時、抗議を受けない絶対的な勝利の基盤を築いてこ

そ、民族的な復帰の道を行ったということができます。そのよ

うな人が、国家、世界、天地、全人類を贖罪者として救う主人

になるのです。

肉身の主管によって(P882)

8 私たちの体の限界点とは、どこまででしょうか。心が体と

闘うとき、一番勝ちたいのは何でしょうか。それは食欲です。

食べることです。宗教生活をするためには、食欲をいかに克服

するかということが問題です。御飯は食べなければなりません

が、人間は御飯のために生きてはいけません。イエス様も四十

日断食祈祷をしたのち、サタンから、「もしあなたが神の子で

あるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」

(マタイ四・三)という試練を受けました。

しかし、それに対するイエス様の答えは的確でした。「人は

パンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言

葉で生きるものである」(マタイ四・四)と言いました。み言

で生きるというのです。み言で生きるということは、真理に従

第八篇 信仰生活と修練

52

って、すなわち道理のとおり、法のとおりに生きるという話で

す。ですから、イエス様がサタンに言ったそのみ言は、「あな

たはなぜ神様の法度に背きながら生きるのか」ととがめるみ言

なのです。

9 私たちは、二十四時間を治めなければなりません。時間を

治めなければなりません。愛は、時間圏を治める立場に立たな

ければならないのです。その次には、行動を治めなければなり

ません。愛は、行動を治める以上の立場に立たなければなりま

せん。時間を治めなさいという言葉は、睡眠を治めることです。

行動を治めなさいというのは、御飯を食べることなど、あらゆ

る欲を治めることです。そして、情欲を治めなければなりませ

ん。愛は、その上にあります。その次には、物欲を治めなけれ

ばならないのです。

10 イエス様も断食をしました。どの宗教を見ても、その宗教

内には苦行をしない人がいません。そのような宗教であるほど、

高次的な宗教です。この世を完全に否定した立場から出発して

こそ、完成されます。真の宗教は、全体を否定しながら進んで

いくようになります。世の中が考えることとは違うというので

す。真の宗教は、世の中のことを肯定するところから出発する

のではなく、否定するところから出発します。否定のどん底か

ら肯定の要件を形成させて、自己主管圏を立てていかなければ

なりません。ここにおいて、心を中心として再創造されたとい

う価値をもつ存在になる時には、善の人になるのです。

11 宗教は何を指導するのでしょうか。心を生かし、体を占領

しようというのです。それで、宗教では、「犠牲になり、奉仕

しなさい」と言うのです。そして、「断食をして苦痛を与えな

さい」と言います。「苦行の道を行き、犠牲になって奉仕しな

さい」と言います。その道を行かなければ、天国に入れません。

これが原則なのです。

12 宗教は否定するのです。ですから、すべて捨てなければな

りません。食べることも捨て、寝ることも捨て、好きなことを

みな捨てなさいというのです。情欲、食欲、睡眠欲を捨てなさ

いというのです。食べて、寝て、喜ぶことをすべて捨てなさい

というのです。人は本来、食べて寝なければなりません。そし

て、喜ばなければなりません。ところが、そのすべてのことが

肉身を通して死亡の行路になったので、これを追放しなさいと

いうのです。

13 宗教は是認、認定から出発するのではなく、否定から出発

します。悪の世の中なので、悪を支持すれば悪になります。ま

ず自分を審判しなさいというのです。「私」個人から打たなけ

ればなりません。この世界のあらゆる罪悪社会を打つのではあ

りません。それも打たなければなりませんが、まずは自分自身

を打ちなさいというのです。心と体が闘っているので、この体

を弱めなければなりません。

何を中心として打つのでしょうか。打つためには正しいこと

を立てて、打たなければなりません。何を基準にして打つのか

というとき、その基準は、「私」の個体においては良心を中心

として打ちなさいというのです。ですから、人間にとって性欲

や食欲という本能的なものを否定しなさいと言います。それで、

断食祈祷をしなさい、徹夜祈祷をしなさいと言うのです。

14 宗教を中心とした既存の価値体系は、なぜ崩壊していった

のですか。それは、宗教自体が本来の任務を忘れたまま分裂と

紛争がやむ間がなく、それで現実に対する指導力を喪失したか

らです。既存の宗教は、神様と人生と宇宙について明確に教え

られなかった結果、善と悪、義と不義の区別をはっきりさせる

ことができませんでした。特に神様の存在の有無に対する質問

53

に、明快な答えを与えることができませんでした。

宗教が無力化すると同時に、物質は、人間の前に手段ではな

く目的と化し、享楽にふけるのが当然のこととなり、人間性は

肉欲と物欲によって麻痺し動物化したので、このような土壌の

上に真の愛と奉仕、そして義や神聖さなどの既存の価値観は存

立し続けることができないというのです。

15 天国行きと地獄行きは、どこで決定するのでしょうか。

「私」によって決定するのです。体の五官を通して感じる条件

の中で、良心の呵責を感じる生活をする人は地獄にいます。心

を中心として、心が喜べる生活をする人は天国にいます。です

から、人が物欲と悪心を捨てて、良心を中心として天倫を望む

のは、極めて当然のことなのです。

善の実績を積む道(P884)

16 皆さんは、驕慢になって自分を自慢してはいけません。個

人的な実績にプラスすべきものは、自分の家庭の実績です。家

庭においては、家庭を誇る前に家庭の実績を中心として、氏族

の実績のために投入しなければなりません。氏族の実績を誇る

のではなく、民族のためにまた投入しなければならず、民族の

圏内で三千里半島の韓国が祝福を完了したと誇るのではありま

せん。世界を中心として個人から神様まで、八段階を越えてい

かなければなりません。ですから、神様が「すべてを成就した」

とおっしゃるようになれば、皆さんも誇れるようになるのです。

17 真の父母の導きに従っていかなければなりません。真の父

母が最初に天国に入って生活できる内幕を残したので、その内

幕を中心として生きた生活の上で、皆さんがあの世に行って、

自分の実績に応じて暮らさなければなりません。あの世におい

ても、統計的評価基準によって自らの位格、留まる位階が決定

されるというのです。それが科学的になっています。自分が信

じたとおりに、自分が思ったとおりになるのではありません。

18 人は誰でも、家庭のこともすべてやりながら民族のために

生き、国家のために生きて、暮らしていくことを願います。神

様も、そうすることを願われるのです。しかし、私たちは。二

者択一しなければならない運命に置かれています。すなわち堕

落した私たち人間は、より大きな善を追求していくべき差し迫

った運命圏内にいます。家庭のための善の実績よりも、国家と

民族のための善の実績がより大きいので、神様も、それをもっ

と追求していらっしゃるというのです。ですから、人格者にな

ろうという人たちは、自分の家庭や氏族を主とした人格者にな

ろうとは言いません。民族を越えて世界的な人格者になろうと

するのです。私たち自体は、より大きな分野で貢献できる中心

的な人物を願い、追求しているという事実を否定することはで

きません。

19 世界のために忠誠を尽くし、神様のみ前に忠誠と責任を果

たした人がいるならば、その人はその国と民族の前に堂々とし

ていて、その家庭の父と母、誰にでも堂々としています。鏡の

前に立って自分自身を見つめるときも、堂々としているという

のです。率直な良心をもって、自分自身を称賛できるというの

です。「これ以上できません。いくら見ても、これ以上できま

せん。私は命まで捧げました。この地に来て、これ以上できま

せん。私がもっている気力を出し切り、精誠を尽くしました。

ただ一つだけできなかったことがあるとすれば、それはこの民

族と国家と世界を、私と共に神様のみ前に出ていかせることが

できなかったことです。それが罪ならば、罪であって、私とし

ては、できることはすべてしました」と言える立場で逝く人が

いるならば、その人は必ず歴史に何かを残していく人でしょう。

第八篇 信仰生活と修練

54

第六節 心と体の統一のための生活(P885)

1 私たちの目は、天を見つめていなければなりません。もし、

人間が堕落しないで根本的にうまくいったとすれば、九〇度以

下を見つめながら暮らせるのですが、堕落したので、目は天を

見つめなければならないというのです。信仰者たちには、九〇

度以下を見つめることは容認されません。天を見つめなければ

なりません。地を見つめていっては滅びます。「私」を中心と

していけば滅びるのです。

今や、私たちは、あらゆるものを収拾しなければなりません。

生活から体、心、心情に至るまで、すべて収拾しなければなり

ません。それでは、その心情の基盤はどこに置くべきなのでし

ょうか。心情の基盤は、歴史路程に置くのではなく、堕落する

前のアダムとエバの心情に置かなければなりません。ですから、

その心情を通して、天と共にきょうの生活感情と、時代的なす

べての思潮を消化させ、天と共に解決する生活をしなければな

りません。そのような息子、娘たちがこの地上に現れなければ

ならないのです。

2 心と体を統一させるにも、愛がなければできません。父母

が子女を愛するときは、自分のおなかをすかせることも、苦労

することも、ぼろの服を着ることも自ら行い、あるいは願わな

い所も自ら行きます。このような愛の道には、心も体も統一的

な方向を備えていくので、この道だけが統一の要因であり、統

一の方案です。これを自分の生活路程の基準とし、生涯の標準

として定めていけば、皆さんは滅びません。それは先生が保証

します。

伝道生活(P886)

3 神様は、復帰の道をたどって個人と家庭を訪ねてこられま

したが、その個人と家庭から排斥されました。そのような神様

が、再び世界に向かっていくその歩みをやめないので、「私」

も行かなければなりません。その道が険しいからといって、そ

の道に死があるからといって、悲しい曲折があるからといって

嫌がってはいけません。私の父が行かれる道を私も行かなけれ

ばならないので、父が大変であれば私も大変であることを望み、

父が悲しめば私も悲しむことを望まなければなりません。これ

が統一の理念です。

このみ旨が、間違いなく父の立てられたみ旨であることを知

るようになれば、いくら難しいことでも克服しなければなりま

せん。また、いくら難しい事情があるとしても、そのお方は私

の父であり、その事情は私の事情になるので、その父が立てら

れた伝統を相続し、その父の歴史と心情に接ぎ木されるために

は、その父が苦痛を受ければ、私も苦痛を受けなければなりま

せん。それは当然の道理です。

ですから、統一教会の教会員は、休まずにその道を行かなけ

ればなりません。ゴルゴタの丘でイエス様が死の場においても

祈りながら伝道したように、統一教会の皆さんは、死亡の暗闇

が襲うこの天地の中でも伝道をしなければなりません。地獄に

行っても、その中で一番かわいそうな人を伝道しなさいという

のです。

4 信仰生活は副業ではありません。本業の中の本業です。人

に会っても、「私」が会うその人に今、み言を伝えなければ、

その人が帰る途中でどうなるか分からないのです。その人がほ

かの人でなく、自分の父母や兄や姉だと考えなければなりませ

ん。機会を逃したときは、「み言を伝えなければならないのに、

私が忙しくて申し訳ない。いつかもう一度会いましょう」と挨

拶だけでもして、条件を残していかなければならないのです。

5 伝道は、生命を接ぎ木することなので、簡単ではありませ

55

ん。それで、一人についても精誠を尽くすのです。皆さんは、

一生をかけて、何人に精誠を尽くしてみましたか。自分のため

に精誠を尽くしてくれる人が多いといって誇ってはいけません。

精誠を尽くす人は福を受けますが、精誠を尽くしたものを受け

る人は、福を受けられません。ですから、私が精誠を尽くして

あげなければなりません。精誠を尽くしてあげたのに、彼が言

うことを聞かないと寂しく思ったり、悲しいと考えたりしては

いけません。天理の原則がそのようになっていると思いなさい

というのです。そのようにできる人は絶対に悲しんだり、寂し

く思うことがありません。

6 伝道は、出産するのと同じです。先生が経験してみると、

一人の人を自分の息子以上に信じることができる人にするため

には、息子を生むより三倍の努力が必要だというのです。伝道

した以後にも責任をもたなければなりません。ほかの道に行っ

た人が再び戻るには、衝撃的な感動を受けて涙を流すか、自分

自ら悔しさや無念さを感じるか、今まで感じることができなか

った心情が爆発する出来事が起こらなければならないのです。

7 伝道は誰のためにするのでしょうか。神様のためにし、人

類のためにするのですが、「私」の息子、娘のために、そして

私のためにするのです。私たちのためにするのです。ですから、

誰も恨むことはありません。自分を恨まなければなりません。

誰かに「しなさい」と言うのではなく、私がしなければなりま

せん。そうしてこそ、私たちが願った生きる所が生じるのです。

8 伝道は、おなかのすいた人が御飯を求めるように実践しな

ければなりません。おなかがすいたときに御飯の貴重さが分か

るように、そのような心をもってやってこそ、霊界からも協助

して対象者ができるのです。本業としてしなければなりません。

最も重要なものが信仰生活です。

9 アダムが完成の位置で結婚できなかったので、真の父母が

復帰され、家庭を率いて世界をさすらいながら、天の側の家庭、

天の側の氏族を編成し、サタン世界が奪っていった家庭、氏族、

民族、国家、世界を一つにして取り戻してこなければなりませ

ん。それで伝道しなければならないのです。

伝道とは何でしょうか。サタン世界の血統を中心として生ま

れたので、その生まれた血統に新しく神様の血統を接ぎ木する

のです。それを中心として、野生のオリーブの木をすべてなく

してしまわなければなりません。それが伝道です。天の国に行

くための財産なのです。

10 神様の愛を受ければ、その愛を与えなければならないので、

伝道をせざるを得ません。神様をお迎えする中間の立場に立と

うとすれば、自分の土台が必要なので伝道しなければなりませ

ん。「私」の罪にまでも責任をもてる信仰の子女がいなければ

なりません。ですから、伝道は教会のためのものではなく、自

分自身のためのものです。神様の心情をもってみ言を伝えれば、

伝道ができるのです。

11 伝道するために歩き回れば、神様が同行してくれるのです。

「伝道(チョンド)」を逆にすると何ですか。「挑戦(トチョ

ン)」です。私が行く道に敵がいれば、追い払ってくれる神様

が共にいらっしゃるので、万事が思いどおりになるのです。挑

戦です。伝道、挑戦です! それができない人は、どんどん気

力を失っていきます。挑戦しない人は、父が嫌い、祖父が嫌い、

祖父の子孫、父の子孫、自分の妻、息子、娘まで好みません。

父は父として、母は母として挑戦しなければならないのです。

12 皆さんが愛の種を植えておいて、それが大きくなれば、ど

うなるでしょうか。霊界に行って、自分に伝道された子孫たち

第八篇 信仰生活と修練

56

は他人ではありません。木の枝に連結された、また他の新しい

枝と考えるのです。一つです。何千年たった木、何万年たった

木から芽が出てくる時、今年も出てきて、来年も出てきます。

何千年、何万年たったその木の要素が、「私」と共に途絶える

ことはあり得ません。そこに連結されて、もっと大きくなるの

です。

13 皆さんが我知らず、神様が慕わしくてじっとしていること

ができず、道に出て誰かに会うようになれば、彼と縁をもって

自然に伝道ができます。誰か相対する人がいなくて独りでいる

時は、神様が直接来られて共にいらっしゃるのです。自分の手

をつかむと光ります。そのようなことが感じられます。光が

「私」を擁護し、抱いてくれるのを感じるようになります。

そのような時、安らかな顔、平和に満ちた顔、幸福に満ちた

顔をして、その心情をどのように体恤するかが問題です。心と

体が膨らみ、細胞やすべてのものが満ち足りて、天の無限の愛

に浸ることができなければなりません。手でリズムをとりなが

らメロディーを口ずさむとき、全宇宙が注目していることを感

じる立場に立って、「お父様!」と呼び求めるその声、そのよ

うな心情圏が必要です。それを皆さんが体恤しなければなりま

せん。そのようにすれば、伝道ができるようになっています。

14 「私」の心が動いて出発するとき、あるいは「伝道しよう」

と思うとき、望んでする人がいて、仕方なくする人がいて、死

ぬかと思って恐る恐るする人がいます。どのようにしなければ

ならないのですか。歓迎してするのか、やむを得ずに、死ぬこ

ともできずに仕方なくするのでしょうか、恐ろしくてするので

しょうか。どうなのですか。それは、みな落第です。

それでは、どのようにしなければならないのですか。心と体

が主体と対象の関係になっていて、その相対の位置と環境条件

が一致しているときは、喜びで出発するのです。悲しみで出発

するのではなく、喜びで出発するようになっています。喜びの

内容が最初であって、悲しみの内容が最初ではありません。堕

落とは何でしょうか。悲しみの内容が最初であり、喜びの内容

はスタートもしなかったというのです。復帰の運命の道を求め

ていく私たちとしては、み旨を喜びの内容として出発し、喜び

の過程として消化させてこなければなりません。

祝福家庭の生活(P889)

15 祝福家庭は、心が神様と一体にならなければなりません。

また、体が神様と一体にならなければならず、志が神様と一体

にならなければなりません。そうしてこそ、創造理念を代表し

ていく家庭になるのです。家庭がなくては「私」という価値を

決定することはできません。私たちの個体には、神様の心情と

希望が宿っています。私たちは、神様の心情の実体であり、神

様のみ旨を代表した立場なのです。

16 祝福家庭は、数多くの民族の前に手本となり、数多くの教

会の前に手本にならなければなりません。ヨセフ家庭が責任を

果たせなかったことを、皆さんの家庭がよく果たすことによっ

て蕩減復帰し、ヨセフの氏族が責任を果たせず、ユダヤ数が責

任を果たせなかったことを、私たちが教団的に蕩減復帰して乗

り越えなければなりません。そうして、家庭的失敗、氏族的失

敗を国家基準を中心として、一時に蕩減復帰して乗り越えよう

というのです。

17 祝福家庭は、何をすべきなのでしょうか。神様の国と、神

様の世界を相続し、神様の愛を相続しなければなりません。国

を相続できる権限と、神様の愛を相続できる権限を、祝福家庭

はもっています。今後、神様の国と神様の愛を相続できる特権

的権限を許諾するのが祝福です。統一教会は、神様と神様の国

57

を連結させる神様の愛を主張してきたので、心情の世界を語る

のであり、心情の歴史を語るのです。ですから、家庭が問題に

なります。

18 祝福を受けた家庭は、天国創建において愛国者の家庭にな

らなければなりません。一切の生活は、寝ても覚めても天の命

令によって動かなければなりません。霊界から見れば、この地

上にいる祝福家庭は、「天の国のスパイ家庭」です。サタン世

界で迫害を受けながら、自由のない隷属の環境で暮らす人たち

です。ですから、そこで展開される基盤を拡大させるためには、

自分の生死をかけて活動しなければなりません。

19 先生は、祝福家庭を先頭に立たせます。しかし、祝福家庭

が苦労もせず、天地のために涙を流す生活もしなければ、意味

がありません。涙なしに生きる人は偽者です。終わりの日には

分かるでしょう。きょう、私たちもまた、涙を流さなければな

りません。そうかといって、食べることのために泣いてはいけ

ません。任された責任を全うするために泣かなければなりませ

ん。怨讐と対決している私たちは、怨讐の基盤を占領しなさい

との特別命令を受けた責任者として、その責任ゆえに夜寝るこ

とができずに涙しなければならないのです。

20 祝福を受ければ、アダムとエバが堕落する直前の段階に復

帰するようになります。それでは、何をすべきでしょうか。完

成すべき段階が残っているので、神様の心情を理解していかな

ければなりません。この過程において、神様が堕落した人間を

救うために苦労された内的な事情を体得しなければなりません。

神様がこの地上に愛するひとり子を送られて、復帰歴史に責任

をもっていくようにされたのと同様に、祝福家庭たちも自分の

子女たちを祭物にして、サタンの世の中に出ていかなければな

りません。

自分の息子、娘を背負いながら、ヨセフとマリヤがイエス様

を抱いてエジプトに避難したような生活をしなければなりませ

ん。そして、愛する息子、娘がおなかをすかせているのを見て、

「このような生活をするのは、この人類のためなのだから、私

たちを愛されるお父様は保護してくださるだろう」と考えなけ

ればなりません。そうすれば、神様は、この世の中に実体とし

て来られる主のような立場に彼らを立てられるでしょう。です

から、最後まで残って責任を果たさなければなりません。「私

は祝福家庭なのだから、接待しなさい」と言っていては、敗れ

去っていくのです。

21 祝福家庭が神様を中心とした生活、み旨を中心とした生活

をしたでしょうか。できませんでした。自分を中心とする生活

をしました。あらゆる生活の動機も目的も、み旨と神様であっ

てこそ、そこに愛の園がつくられるのです。そうして、神様を

主体にし、私たちは相対となって、与え合うことができなけれ

ばなりません。そのようになれば、そこに神様の愛が介入する

のです。

22 皆さんは、どんな人にならなければならないのでしょうか。

天の家庭として生きていく原理原則がなければなりません。祝

福家庭は、自分が属した氏族のために、つらい生活をしなけれ

ばならないというのです。自分の周囲にいる家庭が眠るとき、

一緒に眠ってはいけません。また、彼らが何かを食べるといっ

て、一緒に食べてもいけません。祝福家庭は、その氏族内の家

庭を育てなければなりません。子女を育てる父母と同じ立場で、

その家庭が困難であれば、自分が困難を抱えている以上の困難

を感じなければなりません。自分の近所で誰それが御飯を食べ

られずにいると聞けば、「いっそ、自分が飢えるほうがましで

あって、その人を飢えさせることはできない。到底私だけが食

べることはできない」という心情をもち、その人に持っていっ

第八篇 信仰生活と修練

58

てあげられる人にならなければなりません。

23 今日、祝福家庭は、赤ん坊を抱いて愛することができるの

ですが、その赤ん坊は何のために生まれたのでしょうか。神様

のために生まれ、神様との関係を通して生まれました。夫を貴

く思い、妻を貴く思い、二人でひそひそ話をしたり、どんなこ

とをしたとしても、その相対は、自分たち同士で出会ったので

はありません。公的な天道を前にして出会った人たちです。神

様を介在させて出会った人たちです。

息子、娘が悲惨であればあるほど、そこに介在された神様が

悲惨になるというのです。そうであればあるほど、精誠を尽く

し、姿勢を整え、神様が信じ得る節操と志操をもっていけば、

私たちの行く道は、絶対に塞がりません。必ず打開されるので

す。それは、今まで先生が闘ってきた生涯路程を通して体験し

たことであり、否定することはできないのです。

24 先生が自分たち祝福家庭のために苦労したことを考えると

き、自分たちも家庭において、先生以上に苦労できる子孫をつ

くっておかなければなりません。それが原理観です。モーセに

従うイスラエル民族が、モーセの道に従うためには、モーセの

ような苦労をしなければなりませんでした。モーセがその道に

立ち上がるときまで、エジプトの風習の中で、イスラエルの人

として守るべき伝統を失わず、選民圏を守らなければなりませ

んでした。ですから、モーセが指導者になるまでの生活は、イ

スラエル民族の誰よりも苦労する生活でした。イスラエル民族

がモーセに仕えるとき、そのようなことを考えて、自分の生涯

に困難があっても、モーセ以上に苦労はできなかったというこ

とを考えて荒野路程に出発したとすれば、三週間以内にカナン

の福地に行くことができたというのです。問題はそこにありま

す。父母に侍る立場にあれば、父母より子女がもっと苦労しな

ければなりません。国においても忠臣がいれば、忠臣は国王よ

りもっと苦労しようとしなければなりません。それが天理なの

です。

25 統一教会の祝福家庭は、自分の国を求めなければなりませ

ん。「私」の国を求めなければなりません。これを失ったのが

アダムとエバです。アダムとエバが失ったので、これは必然的

であり宿命的なことです。堕落したアダムとエバの宿命です。

神様と真の父母が介在したので、宿命的な課題であり、お金で

もできず、何かの手段ですることもできません。いつでも血を

流して血の祭壇に立たなければならないのです。

第三章 真の父母に似るための信仰生活と路程

第一節 復帰摂理による信仰生活(P892)

1 新しいメシヤを迎えるべきこの時に、私たちが果たすべき

ことは、イスラエルの復帰歴史をもう一度やり直して、サタン

世界のどんな思想の侵犯も受けない、絶対的に神様のみ言を信

じる信仰者になることです。そのような信仰者が必要です。世

の中のどんな栄光や栄華があったとしても、それに揺さぶられ

ることなく、それを断ち切って新しいメシヤのために立ち上が

ることのできる、分立された人にならなければなりません。そ

うすることによって、神様の愛の圏内に立てるという歴史的な

公式路程を、私たちは知ったのです。

復帰原理の道

2 皆さんは、原理講義を何度も聞いてみたでしょう。その中

の一つが復帰原理です。これは、堕落した人間が神様を訪ねて

いく公式です。その公式は、何を通して行くのでしょうか。言

葉を通して行くのでもなく、知識を通して行くのでもありませ

59

ん。心情を通して行くのです。アダム家庭を見るとき、カイン

とアベルの位置も、心情によって決定されます。誰が神様をよ

り愛するかということが問題であって、神様の愛を誰がよりた

くさん受けるかということが問題ではないのです。

3 「統一原理」は、人間が神様の息子、娘になる原理です。

神様の忠臣、烈女、神様の孝子、孝女になろうという原理でも

あります。本心をもった人間は、誰でもイエス様の兄と姉にな

らなければならず、弟と妹にならなければならず、神様のみ前

に忠男忠女、孝男孝女にならなければなりません。このような

統一教会の原理は、過去にもなく、これからの未来にもない、

一つしかない原理です。このような面で、誇りをもつにふさわ

しいものです。

歴史的な数多くの宗教の道主たちと闘って、神様の公認を受

けた原理です。遠くない将来に、統一教会が世界を動かす時が

来るでしょう。この大韓民国が問題ではありません。「統一原

理」は、より偉大な真理、より偉大な思想、より偉大なみ旨、

より偉大な生活観、より偉大な行動観として、万民が従うべき

歴史と、時代と、未来の結果体なのです。

4 人間は、原理原則に従っていかなければなりません。春に

なれば種を蒔き、夏になれば生い茂り、秋になれば実を結び、

冬になればすべて整理して、新しい生命の根源を自分の内心に

備えなければなりません。そうしてこそ、再び春が来たときに、

再び植えることができる種になります。これは、今後、皆さん

が父母になって、皆さんと同じ息子、娘を生まなければならな

いということです。皆さんの息子、娘を、皆さんのように育て

なければならないということなのです。

5 復帰は、創造の原理原則を中心としてなさなければなりま

せん。本来、アダムとエバを中心として永遠なる愛の法度を立

てたので、その法度に従わなければなりません。その法度を否

定すれば、天理を破壊することになるのです。ですから、人間

はもちろん、神様まで否定されてしまう立場になるので、その

ため再創造過程を通して収拾してきたのです。

サタン分立路程(P893)

6 天は、私たち人類が憎くて審判するのではありません。人

類をこのようにしたサタン、悪を支配してきた主人公、神様を

裏切ってきた主人公を打って分立させることが、神様の摂理の

目的です。私たち人間を捕まえて死の大釜に放り込むことが目

的ではなく、人間を蹂躙して、この地を惑わしてきたサタンを

撲滅することが神様の目的です。

ですから、「この道を離れなさい。この道を避け、出ていっ

て闘いなさい。怨讐とみなしなさい」と皆さんの心に警告して

います。良心をもつ人には、行けば行くほど、「あなたはここ

から離れなければならない」と警告するというのです。

7 サタン分立は、そのままではできません。サタン世界の人

たちが好む道では、絶対にサタン分立ができないのです。サタ

ン世界で一番難しいこと、サタン世界の人たちが一番嫌がるこ

とをしなければなりません。十字架の道、受難の道、犠牲にな

る道は、サタンが嫌がります。ですから、底辺に下りていかな

ければなりません。サタンは上がろうとするので、私たちは底

辺に下りていくのです。底辺に下りていって、サタンを分立さ

せなければなりません。分立しておいてこそ、責任分担圏が生

じるのです。

8 愛の関係が結ばれれば、必ず主管されるようになっている

のが原理です。この原理を立てておかれた神様御自身が、原理

を否定することはできません。サタンが法に背いて介入したか

第八篇 信仰生活と修練

60

らといって、サタンを打ってなくしてしまうとすれば、神様御

自身が立てられた愛の原理自体をなくしてしまうことになりま

す。ですから、仕方ありません。

歴史的なすべての問題が、ここから起こってきたのです。で

すから、アダムとエバを分立させて、故障したものを、故障し

ていないのと同じ立場に修理してきたのが、救援摂理歴史なの

です。

9 祭祀を捧げるところでは、必ず血を流すようになります。

人を中心として、サタンと人間の権限を中心として、悪神と人

間の権限を中心として、歴史過程で闘争が起こってきましたが、

これを分立させなければなりません。しかし、人を裂くことが

できないので、神様は、人間の代わりに祭物を設定しました。

人間の代わりに祭物を立て、天の側に属するか、サタン側に属

するかを分けました。ですから、祭物を捧げて勝利するように

なるとき、初めて堕落した天使が占領していたその基準を乗り

越えることができるのです。祭物の宗教は、このようにしてき

たのです。

10 サタンを屈服させなければなりません。何によってサタン

を屈服させるのでしょうか。み言と一つになった基準をもって、

屈服させなければなりません。それ以外には方法がありません。

堕落とは、み言と分離してしまったことです。み言と一つにな

れなかったことが堕落です。

ですから、蕩減復帰原則において、み言を中心として一つに

なることによって、人格が復帰されるのです。人格が復帰され

たということはどういうことであり、み言と一つになったとい

うことはどういうことでしょうか。堕落していない人の立場に

立ったということです。その堕落していない人は、天使長を屈

服させる権限を備えた人です。ですから、皆さんは、最前線に

出ていき、サタンを屈服させて戻ってこなければ、神様の愛の

世界を許諾されないのです。

11 蕩減条件が必要なのは、サタンを分立するためです。皆さ

んの血統を中心として、サタンが体の中に根を下ろしています。

皆さんは、サタンの血を受けたというのです。ですから、生ま

れ変わらなければ、天の国に行けません。再び生まれなければ

なりません。重生の原理がここにあります。生まれ変わらなけ

ればならないということです。血統が違うので、接ぎ木されな

ければなりません。ですから、蕩減条件を立てようとすれば、

皆さんのすべての生活を否定し、先生のすべてのものを中心と

して、接ぎ木されなければならないというのです。

堕落以前の立場に復帰(P894)

12 堕落以前にあった心情の園は、どこに行きましたか。堕落

以前の高い位置で、神様と楽しみ、喜ぶことのできる世界は、

どこに行きましたか。これを失ってしまいました。アダムとエ

バが神様の愛を受けるだけでなく、神様から「あなた方は私の

永遠の息子、娘だ」という認定を受けて、天使長までもアダム

とエバに屈服し、あらゆる万象が彼の命令に順応する立場、満

天下を主管しなさいと堂々と立てることができる立場で堕落し

たのではありません。天使長に引っ張り回される立場で堕落し

ました。主人の息子、娘として、息子、娘の位置と息子、娘の

権限を備えられない立場で堕落したのです。

13 神様は、堕落以前の本然の善の立場にいたアダムとエバに、

天地をまとめて、ここに神様の実体まで合わせて遺業として与

えようとされました。天地を与えると同時に、創造主まで与え

ようというのです。これ以上に大きな遺業がどこにあるでしょ

うか。

人間が堕落したその日から、神様は、天を収拾し、地を収拾

61

し、人間を収拾して「あなたのものであり、私のものだ」と言

うことができる日に向かって歩んでこられました。「あなたで

あると同時に私であり、あなたの家庭であると同時に私の家庭

であり、あなたの社会であると同時に私の社会であり、あなた

の国であると同時に私の国であり、あなたの世界であると同時

に私の世界だ」と語ることを願われて、神様は、今まで歩んで

こられたのです。神様は、天地全体の遺業を独りで抱え、その

遺業を相続してくれる人間を求めてこられたのです。

14 神様が歴史路程で摂理してこられた全般的な内容を分析し

てみれば、神様は、復帰途上において、堕落しなかった本然の

アダムとエバを求めてこられたことが分かります。堕落するこ

とによってサタンの血統を受け継いだので、人間は神様の血統

を通さなければ、神様の民になることができません。このよう

に悪の子孫なのですが、それでも神様は、人間がイエス様を信

じて堕落以前の立場に上がることを望まれ、あすを希望として

歩んでこられました。しかし、今日までイエス様を信じて堕落

前のアダムとエバの立場に上がった人は、どのくらいいるでし

ょうか。一人もいないのです。

15 偽りの父母によって生まれたことを、どれほど実感してい

ますか。人が病気になれば、病気を治さなければなりません。

もし、弱い人が病気になったとすれば、病気になる前の弱い状

態に治すだけではいけません。それ以上の健康な状態に治さな

ければなりません。これと同様に、堕落とは人間が故障したこ

とであり、悪の世界へ落ちたことなので、故障したものを直さ

なければならず、落ちる以前の立場に引き上げなければ、救援

にならないのです。

救援とは、すなわち復帰です。復帰するには、昔、堕落する

前のその基準ではなく、その基準を越えた立場にまで復帰しな

ければなりません。ですから、原罪をもった偽りの父母を通し

て生まれた人類は、原罪を越えた真の父母を通して生まれ変わ

らなければならないのです。

16 復帰というのは、本来の種に帰ることです。復帰の完成は

種の完成です。今まで人類は、その本然の種を探せませんでし

た。それは堕落のためです。サタンが中心の根、中心の幹、中

心の芽を占領したのです。ですから、それが垂直にならずに曲

がっています。そこでは、完成された種を収穫することはでき

ません。それが、世の中を占領しているサタンの愛です。

17 救世主、メシヤ、再臨主、これは、主に救援と復帰過程に

焦点を合わせた次元で呼ばれてきたものです。誰も天国に入る

ことができなかったのです。イエス様も楽園に入っています。

偽りの父母、偽りの先祖と関係を結んで生まれ、葛藤と罪悪の

中で生きてきた堕落人間は、堕落直前の段階にまで復帰される

ことによって、すべての所願が成し遂げられるのではありませ

ん。宗教者たちが願ってきたことは、神様のみ旨も、人間の本

性の所願も成就され、創造理想を完成した本然の理想的な人間

となって理想世界を成し遂げることです。それは、神様の愛の

理想を完成した個人として生まれ変わったのち、真の愛の夫婦

となって真の父母になることなのです。

第二節 真の父母を迎えるための路程(P896)

1 今、人類は、真の父母を求めていかなければなりません。

その次には、その真の父母に孝行の道理を果たさなければなり

ません。アダムとエバは、神様のみ前に孝行の道理を果たすこ

とができませんでした。本来は、神様に孝行の道理を果たした

あとに、子女たちを繁殖し、その子女たちをして、孝行の道理

を受け継がせるようにしなければなりませんでした。すなわち、

神様を中心とした心情的な法度の氏族が現れていなければなり

第八篇 信仰生活と修練

62

ませんでした。神様は、そのような一つの氏族を立てるために、

六千年間役事してこられたのです。

真の父母と出会うには

2 私たちは、神様に出会えば、すべてが成就されると思って

いました。しかし、人間にはゆがんだ分野がまだ残っています。

すなわち人間の先祖が人類の真の先祖になれなかったことによ

って、真の父母をもつことができず、真の子女になれませんで

した。ですから、皆さんが養子として神様を知り、サタンと闘

って勝利したとしても、直系の血統の関係を結ぼうとすれば、

真の父母を迎えなければならないのです。

3 人間にとって最後の目的とは何でしょうか。それは、神様

のもとに行くことです。神様と直接、愛を授け受けすることで

す。そうするためには、真の父母に出会わなければなりません。

その真の父母が青春時代に現れたとしても、彼の青春時代は個

人の青春時代ではありません。彼が立っている青春時代の位置

は、養子の時代を経て子女の時代を経た、歴史的な運命を備え

た位置です。

彼の価値を個人的に見てみるときは、あなたと私の一対一の

立場ですが、彼によって全体と個体が関係を結び、絶対者と相

対できる関係を結べます。ですから、私たちが真の父母様を迎

えるようになれば、僕の僕として来た人も、僕として来た人も、

養子として来た人も、みな直系子女としてその価値が上がるよ

うになります。そうでなければ、真の父母と連結されず、関係

を結ぶこともできないのです。

4 皆さんは、どんな立場でメシヤと出会うことを願いますか。

皆さんは、どんな立場で新郎のイエス様に出会いたいですか。

どんな準備とどんな姿をもって、その前に現れることを願いま

すか。これは深刻な問題です。豪華絢爛に準備した栄光の灯を

持って、「あなたは私の花婿です」と言いながら迎える花嫁を

イエス様が願うでしょうか。ゲッセマネの園のような孤独な場

において、涙を流しながら湧き上がる心情で、「私たちの先祖

が責任を果たせずに……」と言う、そのような哀れな姿の花嫁

を願うでしょうか。皆さんは、どのように答えますか。

主は、栄光の花嫁に出会う前に、苦難の花嫁を訪ねていきま

す。皆さんは、苦難の花嫁を経て、ここに花嫁の資格をつくっ

ておかなければなりません。これが復帰の路程です。父の悲し

みをその子女がなくそうとすれば、父の悲しみ以上の悲しい場

に行かなければならないのです。

5 復帰摂理路程を観察してみるとき、ここには個人が越える

べき峠があります。今までの六千年の歴史は、失ったアダム一

人を探すための歴史です。一人の完成した男性を探すために、

六千年かかりました。このように進んできながら、一時を決め

て一個人が完成し、個人的に勝利したというその峠を越えてこ

そ、新しい関係を結べる時を迎えるようになります。その時が、

正に、今日の人類が願う希望の時代です。また。一人の完成し

た男性としてこの地に来られる方が、万民が望む救世主であり、

このような思想が救世主思想、メシヤ思想なのです。

6 真の父母は、永遠に一組です。アメリカにも必要であり、

キリスト教にも必要であり、仏教にも必要であり、各国が必要

とします。各個人から家庭、氏族、民族、国家、どこにもみな

必要な言葉です。真の父母によって、すべてのことが解決され

なければなりません。それが、堕落によって偽りの父母が出て

くることによって解決されなかったので、真の父母が来て復帰

して解決してくれるというのです。

個人として真の父母に従うようになれば、天国に行くのであ

り、家庭として従っていっても天国に行くのであり、氏族、民

63

族、国家、世界、天地も、従っていけば天国に行くのです。皆

さんは、今まで統一教会を個人的に信じ、真の父母によって天

国に行こうとしましたが、そうではありません。家庭が信じれ

ば家庭的に従うのであり、国家が一度に信じれば国家が従うの

であり、世界が一度に信じれば世界がすべて天国に入るという

のです。

7 神様は、自分を忘れて歩んでこられたので、先生も自分を

中心としては出ていくことができませんでした。神様は、その

ような一人を求めてこられたのです。地上でそのような人を立

てて蕩減しなければ、この悲しみの峠を越えることができませ

んでした。ですから、先生の家庭には、神様の六千年の悲しみ

の歴史が宿っています。

怨讐が内外で迫害をしながら、先生の路程を遮ってきました。

神様もこのような道を歩んでこられました。地で誤ったので、

このようになりました。神様の心情は、誰も知ることができな

かったのです。このような環境においても、神様が願われる家

庭を探し立てようと身もだえしてきた真の父母の道を、皆さん

が再び歩まなければなりません。

ですから、過去を清算しなければ、この道を行くことができ

ず、自分の家庭を中心としてはこの道を行くことができません。

先生の内的な苦痛が、どれほど大きかったかを知らなければな

りません。皆さんの家庭を見て、父母様が苦痛を忘れることが

できなければならないのです。祝福家庭は、父母様の家庭の垣

根になり、自分たちが立派だということを、見せてあげられな

ければなりません。また、新世界の代表的な家庭にならなけれ

ばなりません。今でも、そのような家庭になるために、身もだ

えしている人がいなければならないのです。

8 皆さんは、今まで祈る中で、そのまま天国に来ているかの

ような立場で父を呼び求めましたが、父が深刻な立場にいらっ

しゃり、父がかわいそうな事情にいらっしゃるように、「私」

もかわいそうな事情にいなければならず、表現はできませんが、

父のかわいそうな事情が私の事情としてお互いが心で感じられ

なければなりません。そして、「お父様、私にどんな悲しみが

あっても、どんな困難があっても、御心配なさらないでくださ

い」と言いながら、子女としての道理を果たし、慰めてさしあ

げることができなければなりません。

そのような一人がこの地上に現れなければ、歴史的な問題を

解決する道がありません。私たちは、この上なく難しい立場に

立っても、神様のみ前に同情を願うのではなく、神様に同情し

てさしあげることのできる立場に立たなければなりません。そ

のような関係によって歴史時代を経て、磨きに磨かれてきた結

晶体がイエス様でした。

しかし、イエス様がみ旨を成就できなかったために、再び来

られる主が、そのみ旨を成就しなければなりません。そして、

再び来られる主が行くべき道も、その道です。すなわち真の父

母の道なのです。真の父母は、歴史的な希望の集約体です。神

様が、全体を代表する歴史的な条件的実体として立てたお方が

真の父母なのです。

信仰基台(P899)

9 統一教会は、真の父母を信じることによって、息子、娘を

直接教育できる時代に入ったので、皆さんが心を一つにして精

誠を尽くし、父母様が願う道に従っていけば自然に一つになり、

皆さんの良心は、善し悪しがだんだんと分かるようになります。

だんだん通じるようになるというのです。

神様は、ほかのところに存在するのではありません。皆さん

は、第二の神様の愛の対象です。神様の愛を受けることのでき

る息子、娘の立場にいます。神様が「私」の良心に入ってきて

いることを、いつも考えなければなりません。一体になってい

第八篇 信仰生活と修練

64

るというのです。神様が縦的な父だということを感じなければ

なりません。それを中心として、一般の生活の中で環境のすべ

てのことを処理していかなければならないのです。そうすれば、

天の国の皆さんの先祖たちがすべて共にあり、天使圏が共にあ

ることによって、アダム家庭の代わりに立派な家庭を完成し、

天国に直行するようになるというのです。

10 神様がアダムとエバを造られた根本時代を包括して信仰の

基準を立てるための中心存在が真の父母なので、真の父母に絶

対信仰、絶対愛、絶対服従しなければなりません。創造理想か

ら堕落と復帰全体の世界的基準まで説明し、話だけでなく、そ

れを経験していき、橋を架けてきた方が真の父母です。ですか

ら、先生に旧約時代の完成、新約時代の完成、成約時代の完成

がかかっているというのです。絶対信仰、絶対愛、絶対服従で

神様が造った相対を堕落によって失ったので、それを取り戻そ

うとすれば、私たちも絶対信仰、絶対愛、絶対投入するしかな

いのです。

11 アブラハムがソドムとゴモラに対して、隠れた根となる祭

壇を積んだのと同様に、自分が暮らす地域とその住民たちに向

かって切実に訴えて祈ったアブラハムの燃える心情を、皆さん

自身ももたなければならず、アブラハムの苦労の路程で立てら

れた信仰の基台、隠れた根のような基準を、皆さん自身が引き

継がなければならないことを、決して忘れてはいけません。

信仰の祖アブラハムの家庭は、神様から祝福の基となること

を約束されましたが、これがイサクとヤコブを経てモーセを通

して民族的な形態をつくり、イエス様を通して世界的な範囲に

拡大しました。アブラハムの天に対する徹底した忠誠心と信仰

がなかったならば、この地上には天と接続できる一つの関係も

現れることはできませんでした。アブラハムが信仰の祖になる

ことができた隠れた秘訣とは何だったのか分かりますか。ただ

天に向かって思慕する心と地のために生きる心が限りなくあっ

たので、天の父との広く深い関係を結ぶ足場をもつことができ、

信仰の祖になることができたというのです。

実体基台(P900)

12 堕落性を脱ぐのは、決して容易なことではありません。数

年、あるいは数十年の間に育まれた習慣である酒やたばこをや

めるだけでも、二転三転するのが堕落人間の姿です。数千、数

万年の間、血統に乗じて根を下ろしてきた堕落性を脱ぎ捨てる

ことが、どうして容易なことでしょうか。人間の努力だけでは

絶対に不可能なことです。神様を絶対信仰する基準において、

縦的な軸として立てて侍りながら、一生身もだえしても難しい

闘いです。神様を自分の父母や子女以上に絶対的に愛する境地

で、真の父母として侍っていかなければ、考えることすらでき

ないことです。

13 神様が何かを決定するときは、必ずカインとアベルを立て

てするようになります。カインを通してでも教えてくださるこ

とがあるのです。このような立場から見るとき、悲しみも、苦

痛も、死の道も、自分が開拓しなければなりません。自分が最

後まで耐え、開拓して越えていくのが復帰の道です。ですから、

イエス様も十字架で亡くなってから復活して勝利の基台を立て

ておき、聖霊を送りました。ここでキリスト教を立てて世界的

な出発をするようになったのです。

14 世界で完全にカイン・アベルの基準が形成され、一つの主

権をもつ理想国家を形成するようになるとき、初めて神様の永

遠無窮な理想的地上天国が建設されるのです。統一教会は、そ

のために前に進まなければなりません。先にカインを導き、そ

の次には父母様の行く道の足場にならなければなりません。父

65

母様の行く道のために、常に足場をつくらなければなりません。

皆さん自身がカイン・アベル家庭をつくり、カイン・アベル氏

族をつくり、カイン・アベル国家基準を中心として進むことの

できる基盤を発展させることができてこそ、その基盤を通して

父母様が世界に進むことができるというのです。

15 キリスト教は、最後に一緒に残ることができる兄です。で

すから、この兄と一つにならなければ、死を避ける道がありま

せん。私たちは、そのような運命に置かれています。神様は、

何を望むのでしょうか。統一教会とキリスト教が手を握らなけ

ればなりません。なぜなら、原理がそうだからです。カインと

アベルが一つになってこそ、父母が登場するのです。カインと

アベルを通して父母が復帰されるのです。

カインとアベルが争って決裂することによって、父母も落と

し穴に落ちたので、カインとアベルが世界的基準で一つになっ

てこそ、世界的氏族基盤を中心とした父母が出現します。その

ようになれば、民主世界にはその統一された基準から一時に世

界的な勝利の基盤が広がるのです。

16 今日、復帰路程でカインを救援しようとすれば、三倍以上

努力しなければなりません。しかし、自分たちが命令するとば

かり考えているのであって、命令を受けるとは思っていません。

姿勢が違うというのです。カイン・アベルの原則は、そうでは

ありません。アベルは血を流しました。カインの生きる道を築

くために血を流したというところに価値があります。そこに貴

いものがあり、そこに勝利の基準があります。牧会者も同じで

す。牧会者自身が、食口たちのためにどれほどアベル的な責任

を果たし、人生の最高の目的のように、その一人に生命を傾け

てどれほど育ててみたかという問題を、自問自答してみなけれ

ばなりません。

17 カイン・アベルが一つになる勝利的基盤が広がることによ

って、父母がこの地上に臨在できるのです。父母が現れること

によって、私たちが福を受けることができ、天国の新しい出発

ができます。「私」独りではなく、父母に侍って天国に入らな

ければなりません。統一教会で言えば、既に父母は現れました

が、カイン・アベルの世界的蕩減条件において、祝福家庭の基

盤の上に、このようなものができていないというのです。

アベル的家庭の代表が勝利して、天の福を受ける者として町

内に行けば、その町内の人たちが涙を流しながらひざまずき、

「世の中は滅びても、あなたの家庭は福を受けなければならな

い」と言えなければなりません。悪の世の中にいる町内の人た

ちがすべてひざまずき、あがめられる家庭になってこそ、長子

の位置に立つのです。

第三節 真の父母を通して生まれ変わる路程(P901)

1 地上世界において、誰もが真の父母の門を通して再び生ま

れなければなりません。重生という言葉、生まれ変わるという

言葉が出てきます。ニコデモが夜にイエス様を訪ねてきて、生

まれ変わるということについて尋ねた時、イエス様が、「あな

たはイスラエルの教師でありながら、これぐらいのことがわか

らないのか」(ヨハネ三・一〇)と言ったのですが、重生は再

び生まれるということです。生まれ変わるということです。

生まれ変わるとは、どういうことですか。偽りの父母から生

まれた人が、真の父母を通して再び生まれることを意味するの

です。再び生まれるときに、神様の愛、神様の生命、神様の血

統を受け継ぐためには、「サタン世界の愛と、サタン世界の生

命と、サタン世界の血縁とは全く関係がない」と言わなければ

なりません。「それは意識にもない」と言えるようにならなけ

ればならないのです。

第八篇 信仰生活と修練

66

2 私たちが氏族的メシヤの使命を実践することによって、重

生が成されます。重生、再び生むことのできる道が生じます。

お母様のおなかの中に入るのです。家庭的メシヤから氏族的、

国家的、世界的、天宙的メシヤまで、お母様のおなかの中を通

して、頂上の神様とお父様とお母様が愛し合える位置に行き、

その色に染まって出てこなければなりません。ですから、左側

に入って再び回って出てきて、家庭のお母様のおなかの中から

出てこなければなりません。

家庭から出発したので、本然の基準に戻ってすべてのものを

清算して現れるとき、サタンとは全く関係のない基盤になるの

です。そして、重生の生みの苦しみを体験しなければなりませ

ん。そのようになることによって、祝福を受けた家庭は、真の

父母になるのです。サタンと永遠に関係のない新しい出発がで

きる神様の直系子孫の立場に至って真の父母になり、その一族

は、真の父母一色となって天国に直行できる氏族になります。

氏族と民族を編成して国家と連結されれば、国家が入り、世界

が入ることができるのです。

み言の修練(P902)

3 真のみ言とは、どのようなみ言でしょうか。その内容は、

どのようになっているのでしょうか。そこには、個人の内容と、

家庭の内容と、社会の内容と、国家の内容と、世界の内容、天

地があるならば天地の内容、神様がいるならば神様の内容まで

含まれているのです。

そのように、一方向的で直行する道を教えてくれ、その道を

守り、その道に行くようにする法がなければなりません。神様

がいるならば、神様にまで到達し、神様の心情があるならば、

その心情にまで連結される法がなければならないというのです。

4 皆さんが修練を受けるのは、皆さんの前にいる怨讐を退け

て審判するためです。そのためには、まずみ言を学ばなければ

なりません。このみ言はどこから出てきたのでしょうか。創造

当時の心情から、復帰の路程を経て出てきたのです。この事実

を忘れてはいけません。み言を身につけなければ、実体を立て

ることができず、実体を立てなければ心情を立てることができ

ないので、み言を聞く時は、体で聞き、心で聞き、心情で聞か

なければならないのです。

5 修練を受けながら、み言を中心として、昔、自分がみ旨の

道を出発した時に、み旨を慕わしく思い、先生に従った切実な

心を回復させなければなりません。そうでなければ、天国の門

を開くことはできません。

切ない心情で、会えなければ生きていけず、ために生きなけ

れば生きていけない、という気持ちにならなければなりません。

食口たちに会いたいと思わなければならず、食口たちがいる所

に行って暮らしたいと思わなければなりません。このような心

を再びもたなければ、天の国に行くことができる鍵を失うよう

になるのです。

6 皆さんは、世の中を振り払って、その反対方向に出ていく

ことができなければなりません。さらには、世の中を正すため

に真の生活をしなければなりません。どんな人に対しても、そ

の人がうまくいくことを願わなければならず、その人が天的な

幸福を得て喜ぶ時、自分も共に喜べる心をもたなければなりま

せん。

そして、父に感謝しながら、新しい希望を抱く心を携え、光

の栄光を見つめる心と、平和の心情を呼び起こせる心をもたな

ければなりません。さらには、すべての人が一つに結ばれるよ

う、生活を通してその心を現さなければなりません。もし、皆

さんがこれらのすべてのことを、生活を通して、生涯を通して

現さなければ、あの世に行って神様の栄光を謳歌することはで

67

きません。ですから、皆さんが天国に行って神様の栄光を謳歌

しようとすれば、まず地上にいる時、神様のみ旨のためにみ言

を伝え、実践しなければならないのです。

信仰の子女(P903)

7 皆さんは、家庭復帰をしなければなりません。そのために

は、信仰の三子女を復帰しなければなりません。そして、その

息子、娘と四位基台をつくるのです。信仰の父母を中心とする

外的な信仰の四位基台を造成し、信仰の子女が自分の直系の息

子、娘に完全に侍ることのできる基台を立てなければなりませ

ん。

この信仰の三子女とは何でしょうか。霊界の三天使長に該当

します。三天使長がアダムとエバを造る時から侍っていたのと

同様に、皆さんが祝福を受けたあと、出産する子女が腹中にい

る時から、信仰の子女が侍らなければなりません。これは、ア

ダムが創造される前から、創造されて成人して聖婚式をする時

まで、天使長が協助すべき基準を、皆さんがこの地上で蕩減復

帰するのです。ですから、信仰の三子女が必要なのです。

8 父母になるためには、祝福を受けなければなりません。そ

して、家庭をつくるためにはカインを復帰しなければなりませ

ん。自分の個体が復活するためには、カインを屈服させなけれ

ばならないというのです。すなわち、アダムは父母の立場にい

ますが、神様の恨を解怨成就してアダム自身が復帰されるため

には、カインが屈服しなければならないのです。

それと同様に、復帰原則による蕩減路程においても、皆さん

が信仰の子女を長子の立場に立て、皆さんの息子、娘をアベル

の立場に立てて、カイン・アベルを復帰させてこそ、完全に復

帰されます。そうでなければ、真の父母の立場に上がれません。

真の父母の立場に上がるためには、カイン・アベルを復帰しな

ければならないのが原則です。カインがアベルに屈服しなけれ

ばならないというのです。

9 自分が信仰の子女をもつということは、数千代の宗教者た

ちが望んできた最高の理想です。イエス様も、それを得られま

せんでした。ゲッセマネの園での最後の談判祈祷においても、

皆に反対され、見捨てられました。しかし、私たちは、復活圏

で勝利の家庭を構築したので、これは天宙が支持する家庭です。

そのような価値をもつ祝福家庭です。自分が犠牲になったとし

ても、自分の子女たちには正しい伝統を伝えなければならない

のが、祝福を受けた夫婦の責任です。また、家庭の責任です。

子女に重い蕩減の荷物を負わせてはいけないのです。

10 なぜ信仰の子女が必要なのですか。三大天使長と、アダム

の三人の息子と、サタン世界のカインの兄を取り戻すために必

要です。

旧約時代、新約時代、成約時代を取り戻すためです。旧約時

代は民族、新約時代は国家、成約時代は世界を取り戻すのです。

それで、旧約時代はイスラエルの六十万大衆のカナン復帰、

イエス様は国家から世界のカナン復帰、統一教会は世界から天

宙のカナン復帰です。カナン復帰の最後の門です。このような

意味で、三段階で表示がされるというのです。

11 皆さんは、食べたいように食べ、着たいように着て、自分

がやりたいようにすべてやっていますが、それが讒訴条件にな

るのです。壮年の夫婦たちは、神様に忠誠を尽くせる若者たち

をもつことができなかったので、神様のみ前に恥ずかしいと思

わなければなりません。

今からでも、そのような若者たちを育てなければなりません。

幸いにして有り難いことは、統一教会には「信仰の子女」とい

うものがあります。壮年の夫婦たちを救援できるものが信仰の

第八篇 信仰生活と修練

68

息子、娘だというのです。このために、骨髄が溶け出すほど、

一度、真剣に走ってみなさいというのです。そうして、若者た

ちの前に希望の涙を流すようになる時、その希望ある若さの基

盤の上にメシヤが訪ねてくるのです。

祝福による重生(P905)

12 人間は、真の愛の根本を悟って、神様のみ前に真の愛をお

返ししなければなりません。真の父母様を通して、祝福の基準

を経て重生し、聖別された者だけが、神様の真の子女として登

場することができます。したがって、祝福の過程を通過しなか

った人は、最初の実の資格がないのです。

13 祝福式は、サタンの血統圏を断絶して神様の血統圏に転換

させるものです。まず腹中に宿した赤ん坊から始まります。祝

福家庭の子女は、聖酒を飲ませて条件的な重生式を経なければ

なりません。そのようにして生まれ変わるのですが、腹中にい

る時に重生式をしなければなりません。祝福家庭の母もそのよ

うにしなければならず、祝福を受けていない婦人たちも同じで

す。同じ母の立場に立つようになります。聖酒を飲むことが条

件です。それで、完成した真の父母の血統を相続する内容が、

すべてが連結されるのです。

14 父と母の血統を受け継いで生まれた人を、一人も残さずに

祝福の場に導かなければなりません。腹中において重生式を行

い、幼稚園からは復活式を行い、その次には、永生式である祝

福をしなければなりません。そして、血統の根絶を目標として

前進する私たちの責任は、神様の代身であり、真の父母の代身

であり、イエス様の代身の道を行くことです。

国家的メシヤ、世界的メシヤ、天宙的メシヤ、家庭の王、氏

族の王、国家の王、世界の王、天宙の王権を設定しました。皆

さんの家庭でできなければ、世界の家庭で一致させなさいとい

うのです。そうすれば、家庭において親不孝をし、家庭におい

て逆賊になったとしても、世界の忠臣の位置に立てば、すべて

解放されるというのです。そうすることができるように相いれ

ない環境を段階的に払拭(ふっしょく)し、次元の高い前進的

未来の基盤が残るようにしてあげなければなりません。それが

真の父母の責任であり、天の父母の責任なのです。

第四節 真の父母に従って成長する路程(P906)

1 血統転換式の過程には、お母様の生命と、お父様の生命が

結合した内容が入っているというのです。それを通過すること

によって、皆さんは、サタン世界と分立するようになります。

真の父母から再び生まれた、という信念をもたなければならな

いというのです。そのようにしなければ、真の父母様の前で祝

福を受けるのは不可能です。生まれ変わって、父母様を迎えて

成長した男女として神様のみ前に立ち、神様の心情圏を受け継

いで、父母様を通して再び生まれたという相続権を受けなけれ

ば、結婚することはできないのです。

真の父母に従い、似る者となろう

2 皆さんが行く道は、皆さんのために行くのではありません。

父がこのように行ったので、父に似なければならず、父に従う

「私」自身にならなければなりません。今まで縦的な苦労の歴

史を備え、横的な歴史の基準を築いてくるために苦労されたの

ですが、それと同じです。父が私たちの家庭を主として世界を

主管することを願ったそのみ旨を、私たち自身で回復してさし

あげなければなりません。そうすることによって、私たちの先

祖が失敗したことを、私たちの時代に蕩減して責任を完遂しよ

うという信念をもち、憂える心と、責任をもつ心と、実践する

69

心をもって勝利の一日を迎えなければなりません。

そうして、万民が、これは父のものであり、真の父母様のも

のだと言いながら、お返ししなければなりません。父のものと

してお返しし、真の父母様のものとしてお返ししたあとに、真

の父母が「これはあなた方のものだ」と言って、再び私たちに

返してくださるその日を迎えなければなりません。それでこそ、

私たちのすべての摂理は完結し、最後の栄光の勝利は、この天

上天下に成就するようになります。これをはっきりと理解し、

それが成就される時まで、神様の代わりに憂い、責任をもって

闘っていかなければなりません。

3 完全な主体であられる神様の対象として創造された人間も、

完全な対象、すなわち絶対価値をもった真の対象にならなけれ

ばなりません。既にその位置に立っていらっしゃる真の父母様

に似て、神様が、絶対的位置で絶対相対を確保し、解放をお受

けになることができる、真の理想家庭の愛の主人にならなけれ

ばなりません。それが人間の責任なのです。

4 神様は、真の愛を中心とした、縦的な愛と生命と血統の父

です。簡単に言えば、真の愛を中心とした父だというのです。

縦的な父です。堕落していない人間は、その縦的な父母に九〇

度を合わせて完全に一つになり、横的な真の愛と、真の生命と、

真の血統を中心として、神様と完全に合徳(和合)した父母の

立場に立てる愛の相対だったというのです。

神様の生命、神様の愛、神様の血統と、アダムとエバの愛、

アダムとエバの生命、アダムとエバの血統が縦横に混ざり、喜

びの中で、幸福の中で、満ち足りた中で人間が生まれたとすれ

ば、皆さんの心は、神様のように永遠に縦的位置に立つのであ

り、皆さんの体は、アダムとエバのように九〇度を備えた真の

父母の伝統的基準に一致して、自らが共鳴体になったでしょう。

5 良心とは何でしょうか。縦的な真の愛の神様から受け継ぎ、

縦的な父に似たものとして受け継いだ「私」です。ですから、

良心はまっすぐだというのです。垂直です。それは、神様の愛

と生命と血肉を受け継いだ、内的な位置にあります。そして、

「私」の体は、本然の愛と本然の生命と本然の血肉が内外に和

動する中で一体化できる、横的な真の父母の体を受け継いだ、

外的な「私」だというのです。

6 体は、人類の血肉の父母であるアダムとエバに似て生まれ、

心は縦的な父母の血肉に似て生まれました。ところが、この二

つが争います。なぜ争うのでしょうか。根っこが誤ったからで

す。

これを和合するには、神様を絶対に信じなければなりません。

祈る前に「神様は、私の縦的な父だ」と明らかにしなければな

りません。死んでも生きても、神様の愛を中心として、直角の

位置に立たなければなりません。直角の位置に立てば影がなく

なるので、修行は必要ありません。影があるので修行に励まな

ければならないのです。

7 神様に似なければなりません。神様のようになっていなけ

ればならないのです。このようになれば、神様と自分が似てい

るので、自動的にプラスとマイナスとして一つになり、四方に

爆発するのです。縦的な父母と横的な父母が一つに統一された

愛で生まれたなら、皆さんの心は、神様の愛と生命と血肉を一

〇〇パーセント受け継いでいたでしょう。

また、そこに完全な理想的な相対である真の父母の愛と生命

と血統を完全に受け継ぐのです。ここには、内的な神様と外的

な神様が一つになっています。神様の心と体が真の愛によって

統一されるのと同様に、私たちが真の愛の内的で縦的な真の父

母、そして外的で横的な真の父母と一つになったその基準で生

まれたというときは、絶対的な真の愛の圏内にいるので、私た

第八篇 信仰生活と修練

70

ちの心と体は一つになるのです。

8 真の父母はメシヤであり、真の子女はメシヤに似なければ

なりません。そのようになるためには、先生を中心として氏族

的メシヤたちがそのように生きなければなりませんが、そのよ

うに生きることができなければ、問題が大きいというのです。

霊界に行って先生が神様の審判の標柱になるでしょう。先生が

百ならば、皆さんも百でなければなりません。父母は、自分の

息子、娘たちが自分より立派になることを望むのが原則なので、

そうでなければならないというのです。

9 先生だけが真の父母ではなく、皆さんも真の父母にならな

ければなりません。皆さんもやはり完成しなければならないの

です。先生は大きな木になりましたが、皆さんは、大きな木の

細胞のようにならなければならないという話です。大きな木で

ある先生に似なければなりません。すべて種です。根本に似た

のです。

10 「私」個人は、神様に似なければならないので、再創造さ

れなければなりません。心と体が歴史の戦場として、休む間も

ない苦海の路程を歩んでいるというのが、私たちの先祖が行く

道であり、私たちが行く道であり、未来に連結された私たちの

子孫が行くべき道です。この怨恨の巣窟が分かるようで分から

なかったのです。今は知ったので、これをしなければならない

のです。

天使長まで治める万物の霊長として、その権威を喪失してい

たのですが、自分の本然の位置を取り戻す立場に立てるための

ものが、再び来られるメシヤ、救世主であり、真の父母様が世

界の家庭を、世界の国々を一つの所に行くことができるように

するためのものが、祝福家庭であり、祝福行事なのです。

真の父母の代身者(P908)

11 私たちは、真の父母の代身者です。男性はお父様の分身で

あり、女性はお母様の分身です。すなわち神様は、男性と女性

の二性性相の中和的主体としていらっしゃるので、男性は神様

の男性性稟を身代わりして生まれ、女性は神様の女性性稟を身

代わりして生まれたのです。

本性において私たちの個体は、生まれる時から真の父母の肢

体です。それで、イエス様も、「わたしはぶどうの木、あなた

がたはその枝である」(ヨハネ一五・五)とおっしゃいました。

男性たちはお父様の肢体であり、女性たちはお母様の肢体であ

り、男性たちはお父様の分身であり、女性たちはお母様の分身

です。ですから、神様が御覧になって、お父様の分身になるこ

とができ、お母様の分身になることができると思われれば、い

くら離れていても、そこには神様の愛が宿らないわけにはいき

ません。お父様の事情とお父様のみ旨を中心として生きる人に

は、神様の心情が自然に連結されるのです。

12 皆さんが創造主として、父として、真の主人としての責任

を代わりに担うとすれば、どこに行っても天地が皆さんを助け

るでしょう。皆さんは、絶対者の責任、父の責任、主人の責任

をもたなければなりません。それに責任をもっていけば、絶対

に排斥されません。

今日、すべての人たちは、自分の行動と、自分の生命と、自

分の心情に責任をもってくれる人を求めています。このような

社会が理想社会です。責任をもって死を覚悟して進めば、同志

がたくさん現れます。言い換えれば、皆さんが地域に出ていく

時、生命を造られた創造主としての責任、父母としての責任、

主人としての責任、この三つの責任をもたなければなりません。

そうすることができなければ、絶対者の代身者、真の父母の代

身者、真の主人の代身者になることは絶対にできません。これ

71

さえもできなければ、存在世界から追放されるしかありません。

責任をもてなければ、絶対服従で侍ることでもしなければなら

ないのです。

13 私たちは、休む時間がありません。先生と先生の家庭を中

心として、復帰の構造がどのように拡大するかを理解しなけれ

ばなりません。私たちがこのような形態によって、個人復帰、

家庭復帰、氏族復帰などを経て、世界復帰の次元にまで至るよ

うになれば、すべての国々、全世界が包容されて復帰の頂上の

もとに入ってくるでしょう。ですから、皆さんもこの形態に従

わなければなりません。そのようになれば、皆さんは、先生と

真の父母と神様の代身者になるだけでなく、理想世界の理想的

な夫婦の代表者になるのです。

14 統一教会は、教会員を食口と言い、真の父母に侍る息子、

娘と言います。

しかし、出会うやいなや、世界のために出ていきます。夫と

妻を結婚させて、東西南北に分けるのです。そのようにして、

神様をもっと愛してみると、心情的に真の愛の主人公になった

というのです。もし、地上で会えなくなれば、霊界に行ってそ

の愛を見いだすことができます。これがどれほど素晴らしいか

というのです。地上で出会って暮らしながら愛し合う以上の愛

をもって、夫が「私」に仕えてくれ、父母と息子、娘が私に仕

えるというのです。そのような人は、真の愛の主体になり、神

様と同じ理想をもった完全な神様の代身者になるでしょう。

15 皆さんは、真の父母の代身者、お父様の分身、お母様の分

身、お父様の願いの実体、お父様の事情とお父様の心情の実体

として登場しなければなりません。皆さんは、六千年間のお父

様の希望的な実体、事情的な実体、心情的な実体として現れた

のです。皆さんは、その願いを自分のもの、その事情を自分の

もの、その心情を自分のものとしなければなりません。天に対

してこの地にいる皆さんが行くべき道は、お父様の前に祭物に

なる道です。皆さんが責任をもたなければならないのです。

16 人間の願いとは何でしょうか。息子、娘を生み、その息子、

娘がサタン世界から迫害されず、天の国に直行するように育て

る真の父母になることです。しかし、そのようになれませんで

した。真の息子、娘を生んで、天の国に直行させる「真の父母」

の代身者になることが願いです。皆さんも良い息子、娘を生み

たいでしょう? 世界で最も優れた子女を生みたいはずです。

それができなかったのです。いかにそれを成し遂げるかが問題

です。

その次は、天使長が、神様の息子、娘であるアダム、エバを

育てることができませんでした。いかに神様の息子、娘を育て、

神様に必要な人として教育するかということが問題です。それ

で、皆さんは、熱心に働いて、国を代表する大統領の代身者に

なりたいと思い、その国の会社や行政省庁の主人になりたいと

思うのです。真の主人になろうということです。これが私たち

の三大所願です。

一つは真の父母、その次には真の師、そして真の主人です。

皆さんも出世してアメリカの州知事になりたいと思い、大統領

になりたいと思います。その前に家の主人にならなければなり

ません。家庭の伝統を相続して、先祖に代わる、神様に代わる

主人の立場に立たなければならないのです。

第五節 真の父母を通して完成する路程(P910)

1 神様と真の父母と「私」は、復帰を完結させるに当たって、

なくてはならない存在です。神様を中心として真の父母になる

べき人間の先祖が堕落したので、堕落の動機を越えるためには、

三者が一致点を見いださなければなりません。神様のみ旨と、

第八篇 信仰生活と修練

72

真の父母のみ旨と、私たちの志が一致しなければなりません。

復帰というものを考えるとき、人間が神様の創造目的と一致

する立場に到達してこそ、人類の目的も成就されるのであり、

人類の父母として来られる主も、万民を復帰させたという基準

を完成するのです。このように父母と子女が一つになることに

よって、神様のみ旨である本然の園を形成し、そこで父母と子

女が永遠に分かれようとしても分かれることのできない家庭を

備える時、初めて神様のみ旨が完結するというのです。

2 アダムとエバが真の愛で完成することは、すなわち神様が

実体をまとった希望が成就することです。そして、彼らが真の

夫婦として完成することは、すなわち神様の絶対的な愛の理想

の完成を意味します。次に、アダムとエバが善の子女をもって

真の父母になることは、すなわち神様が永存の父母、すべての

人の父母であられることを実際的に確定し、また人間の血統を

通して子孫が繁栄することによって、天上天国の市民を無限に

増やしたいという理想を成就するようになるのです。

心情関係(P911)

3 神様は、今まで、歴史を二つの形態によって広げてきまし

た。一つはプラスであり、一つはマイナスですが、これが一つ

にならなければなりません。アルファとオメガが一つに終結し

なければならないのです。

真の父母から出発すべき歴史でしたが、人間が真の父母を失

い、偽りの父母の子女になったので、真の父母を復帰して神様

のみ前に再び出ていかなければなりません。そのようになると

き、平和の園が開放されるというのです。ですから、このよう

な心情的な関係をもたない限り、皆さんは神様の息子、娘にな

れません。

4 皆さんは、価値として見るとき、神様の六千年の心情と希

望の存在である真の父母を迎えることができ、真の父母の子女

として関係を結んで立ち上がれる立場にあります。ですから、

皆さんの指と髪の毛の一本も歴史的なものであり、時代的なも

のであり、未来的なものです。すなわち、皆さんは、新しい時

代の先祖として立つべき、厳粛な立場に置かれているのです。

5 皆さんは、神様の愛と、真の父母の愛と完全に一つになら

なければなりません。その基準において心と体が真の愛で一つ

になり、父母が一つにならなければなりません。夫婦が真の父

母と一つになり、神様と一つにならなければならないのです。

それでこそ三代圈が生じるのです。

心情的な三代の真の愛とは、神様の愛、真の父母の愛、その

次には真の夫婦の愛です。そのようになってこそ、人間世界に

初めて着陸するようになります。そのような立場を経ていかな

ければなりません。ですから、その場は自分の心と体が一つに

なり、夫婦が完全に愛し合って、完全な神様の愛と真の父母の

愛と一つにならなければならないのです。

6 皆さんは、故郷の地を求め、国を求め、地上、天上の永遠

の天の国を求めるための伝統を、自分の一身で探し出さなけれ

ばなりません。アダムが失ったものを、すべて自分の愛によっ

て取り戻さなければなりません。それで、神様が創造した以上

の心情をもって涙を流さなければならないのです。自分の血族

に会って涙を流さなければならず、自分の故郷の山河を抱いて

涙しなければなりません。そうして、本然の心情で愛の芽が芽

生え、愛の花園に花が咲き、愛の実が実ることを願うのです。

7 堕落とは、真の愛と真の生命、そして真の血統を失ったこ

とです。誰が失ったのでしょうか。アダムとエバが完成しなけ

ればならなかったのですが、失ってしまったというのです。そ

73

の完成とは何でしょうか。神様の愛と完全に一つになり、神様

の生命と完全に一つになり、神様の血統と完全に一つにならな

ければなりませんでした。父子関係は血統でなければ結ばれま

せん。神様の家庭がなかったというのです。

8 真の愛は、離れることができません。いつでも一つになっ

ています。永遠に一つになっています。人間は、誰もがそのよ

うな真の愛を望み、願います。父母は、地獄にいても自分の息

子、娘を考えます。父母が地獄にいながら、自分の息子、娘が

地獄にいるといえば、自分の苦痛のために涙を流すのではなく、

息子、娘のために祈りを捧げるのです。

9 宇宙の中で、永遠、不変、絶対の原理とは、原因と結果、

主体と対象の関係です。これを人間社会に適用するならば、父

子関係と夫婦関係がその核心です。一つは縦的な主体と対象の

関係です。もう一つは、横的な主体と対象の関係です。この両

者が次元の高い主体と対象の関係にありながら、縦に合わせた

ものが新しい主体となり、横に合わせたものが新しい対象にな

って、円満な授受作用を通じて渾然一体となって立体化し、調

和した球形運動に入った状態が、愛を中心とした力の作用であ

り、人間社会の基本単位である理想家庭のモデルなのです。こ

のような意味で、愛を最も価値のあるものと認定せざるを得な

いというのです。

10 この地上において、中心である人類の先祖を中心として連

結させていくには、先に何が設定されなければならないのでし

ょうか。父子関係が設定されなければなりません。男性として

生まれても、女性として生まれても、最初に結ばれるものが父

子関係です。なぜ父子関係なのでしょうか。それは天地がその

ようになっているからです。

縦に下りてきたものが父子関係です。父子関係でなければ、

縦的に連結されません。父子関係の縦的連結は、生命が連結さ

れなければなりません。父と母の生命と血統が連結されなけれ

ばなりません。父子関係はそのままではできないのです。血統

が連結されなければならないのです。

11 天宙の「天」という宇は、「二」と「人」が一つになって

います。そして、「宙」というものは家を意味します。宇宙も

そうです。「天宙」というものは、天を中心とした家庭を意味

するのです。天運を支える家庭のことです。天運を支える家庭

には、縦的に真の父母である創造主が連結され、その創造主と

九〇度の決着点を中心に横的に連結されます。縦的な真の父母

と横的な真の父母が連結されます。創造主と創造された子女は

父子関係です。家庭は、それが縦的に動くだけではありません。

縦横の関係が一体になるのです。

創造目的の完成(P913)

12 神様の願いとは何でしょうか。神様も、やはり真の人、真

の男性と真の女性を望むのです。それを願わざるを得ません。

信仰者として最高に望むものは、統一教会の言葉で言えば、完

成した人です。完成した人は、真の人です。神様が救援摂理を

推進させてきたその目的も、やはり完成した人であると同時に、

真の人にあります。

それでは、神様が会いたい人とはどんな人でしょうか。真の

人です。真の男性と真の女性に会いたいというのです。真の男

性と真の女性に会えなくなったのは、堕落のためです。ですか

ら、復帰は真の人を取り戻すことなのです。真の人を取り戻す

には、創造原則において男性を先に造ったので、真の男性に先

に出会わなければなりません。そして、神様が本来意図され、

願った目的を達成しようというのが、救援摂理の目的です。

第八篇 信仰生活と修練

74

13 今まで信仰生活をしてきた人たちは、神様の愛を中心とし

て創造理想を完成しようとするみ旨が分かりませんでした。そ

れは、神様のみ旨の完成、創造理想の完成です。それは四位基

台の完成です。四位基台を完成すればどのようになりますか。

天と地が定着するようになります。天と地が初めて定着するよ

うになるのです。天は上の軸と同じであり、地は下の軸と同じ

です。これを中心として一つになるのです。ここで子女は、中

央の軸に向かって一つになる平面的な形態を備えなければなり

ません。それで、これが育つことによって、中央に上がってい

って一つの円形をつくり、愛の理想の球形をつくるのです。

14 信仰生活をする人たちは、よく観念的な世界を求め、そこ

から慰めを受けようとしています。しかし、たとえ堕落したと

しても、人間は本来、永遠の天性と通じることができる性稟を

もっていて、各自の心の中には、創造理想の要素はもっている

のです。ですから、人間は、罪悪を脱いで完成し、神様と一体

となり、無限に喜びの生活をすることができるのです。

私たちが祈る目的は、心の核心となる要素を目覚めさせよう

とすることです。皆さんがそのような一つの基準を立て、見て、

聞いて、感じる心の中心を天倫の前に立てるとすれば、皆さん

は、神様に敬拝を捧げ、「ハレルヤ」と言いながら栄光を返す

ことができるのです。しかし、今日の人間たちの中には、この

ような心の境地を願いながらも、このような境地に到達するた

めに深刻に投入して、自らの本性を探し立てるために闘争する

人がいないというのです。

第四章 真の父母の人生から見た信仰者の道

第一節 召命の人生(P915)

1 希望に満ちたあすが、召命を受けた者として「私」を呼ん

でいます。その召命された人が行く道は、運命によっていくの

ではなく、宿命的な道に従っていくのです。運命の道は変更さ

せることができますが、宿命的な道が変わることはあり得ませ

ん。

父子関係を変えることができますか。兄弟関係を変更させる

ことができますか。できません。それは宿命的です。天運の道

理と宿命に帰着して安着することを願う、そのような歴史が巡

っているのです。その安着の基点が真の父母です。真の父母を

中心とした真の子女の宿命的な関係を神様と結んでおいたので、

これは変更することができないのです。

神様の召命

2 人間が、心と体で願う希望とは、創造主である神様が再び

直接主管してくださることです。今日の私たちには、このよう

な希望とみ旨を果たすべき使命があり、そのことを完遂するた

めの召命を受けているのです。ですから、私たちは、神様の主

管性を復帰してさしあげなければならず、それとともに、万物

の主人としての主管性も復帰してさしあげなければなりません。

そして、神様が主管してくださる恩賜に対して、感謝の栄光を

お返ししなければなりません。このような責任は、万物にある

のでもなく、天の天軍天使にあるのでもなく、今日の私たちに

あるのです。

3 神様は、私たち個人を訪ねてこられますが、その個人を中

心として家庭と社会、ひいては世界まで取り戻すことを願われ

ます。ところが、この道がまだ塞がっています。天の摂理歴史

路程は、「私」を求めて地にまで下りてきました。ですから、

「私」を中心として再び天の方向に進まなければならないので

すが、その道が塞がっています。

それだけでなく、善を追求する人たちは、今までこの世的な

75

あらゆるものを切って、否定しながら、失った本然のものを神

様のみ前に再び探し立てることができる道を探そうとしました

が、このような道は限界点に来ています。

今、皆さんが感じなければならないことは、神様の悲しみで

す。イエス様の悲しい心情を体恤しなければなりません。そし

て、神様は六千年という長い歳月を、悲しみの中であえぎなが

ら、皆さん一人を求めてこられたという事実を、実体的に感じ

なければならないのです。

4 皆さんは制限された環境で働いていても、誰の命令を受け

て働いているかが重要です。神様の命令を受けて、あるいは世

界と国家の召命を受けて働いているという信念をもたなければ

なりません。世界に代わって制限された環境で働いているので

す。国家に代わって制限された環境で働いています。個人を中

心としても同じですが。命令を受けた背後が異なることによっ

て、その結果も異なるというのです。

5 信仰の道を行くというのは、それほど簡単ではありません。

神様からの召命は誰でも受けることはできます。しかし、この

召命に従っていくことはとても大変です。神様は、「私」の後

ろから行かれるのではなく、いつも先に立って行かれます。ど

れほど忙しそうに前を行かれるか分かりません。私たちが歩調

を合わせることができないほど、先に行かれます。

ですから、復帰摂理の途上における計画的な摂理、計画的な

事業は大変なのです。神様の摂理は、飛躍的な発展を通して進

んでいきます。個人から家庭、家庭から氏族に越えながら蕩減

させていくというのです。順を追って上がっていくのではなく、

段階的に飛び越えていくので、一年なら一年という一定の期間

を通して計画的に仕事をしていては、塞がってしまうのです。

時に遅れるということです。

このような問題を見るとき、召命を受けてみ旨の道を行く人

たちは、いつも切迫した気持ちで進まなければなりません。神

様と「私」がプラスとマイナスの相対的な関係を中心として調

整していきながら、自分の位置を見いだし、その時に合わせて

いかなければなりません。しかし、その時を適切に把握して行

動を開始することは、とても難しいのです。

6 皆さんは、皆さんの学問と皆さん自身を、世界と神様のみ

前に奉献するように召命を受けています。皆さんは、皆さんの

共同体の中で神様を代弁し、神様から来る愛と希望を周りに伝

達し、世の中の人たちが人類と神様に奉仕する仕事の手伝いを

する使命を受けています。これは、皆さんの教会や社員や会衆

を悟らせ、彼らを動員して神様を中心とする自由と平和の世界

を形成することに連結されるのです。

7 先生が神様の天命を受けて、アメリカを救いなさいという

召命を受けてアメリカに行く時、どれほど緊張し、どれくらい

深刻だったでしょうか。韓国の皆さんは、先生が神様の命令を

受けてソウルを離れる時に深刻だったのと同様に、先生の指示

を受ける時、先生がアメリカに向かって責任を担って立ち上が

った姿勢と同じでなければ、愛のパートナーにはなれません。

その彼らの行動は、不正なものであって、公義のものではあり

ません。

8 先生は、反対を受けながら上がってきました。復帰路程が

そうです。今まで統一教会の復帰歴史は、そのようになってい

ます。ですから、皆さんは、最初の志操を失わずに、個人から

世界の頂点を越える時まで、最後までついてきなさいというの

です。

神様のみ前に責任を果たしたのか、果たせなかったのかとい

うとき、果たしたという決裁を受けなければなりません。果た

したというときは福を受けます。その福を通告される時まで残

第八篇 信仰生活と修練

76

る者になってこそ、同じ圏内に入れる恵沢を受けるのです。個

人的に、家庭的に、世界的に皆さんが、先生を中心として死を

覚悟して一つになっていくならば、同型、同等の恵沢圏内に立

つのです。

9 召命というものは、「私」が何かの責任を背負う権限がな

いという意味です。召命とは、召されたということなのです。

この言葉は、ある絶対的な中心によって、自分は東の方に向か

っているのに、「西の方に行きなさい」と新しい命令を受けた

ということです。その命令されたことは、東の方にいるといっ

て、東の方の人たちに命令されたのではありません。中心を通

して命令を受けたというのです。その中心は、あらゆるものの

希望の基準を代表できる中心なので、その召命された人は、全

体の中心に対して相対的役割を果たさなければなりません。

召命を受けていなかったときには、一方向的な責任を果たせ

ばよいのです。それが、召命を受けたあとは、四方向的、ある

いは球形的使命が与えられるということです。先生が世界的中

心に連結された人間、個々人を代表した立場で神様の召命を受

けたというときは、東西南北、上下関係、すべての面の代表的

な格を備えてこそ、召命された者としての使命が完遂されるの

です。

10 召命者も、個人が必要であり、家庭が必要であり、氏族、

民族、国家が必要です。このような観点から「選民」と言いま

すが、その選民とは何でしょうか。召命を受けた民族です。選

民の国、召命を受けた国です。選民の世界というのは、召命を

受けて、召命されたあらゆるみ旨を完成した国です。そのみ旨

を成し遂げれば、戻って一つになるのです。ですから、神様は、

アルファとオメガ、始めと終わりだという話があるのです。

11 父母の中の真の父母が神様です。神様は、私たちの真の父

母です。真の家庭の王、真の国の王、真の世界の王が私たちの

父母様です。その方に侍ることができる千年太平時代を迎えな

ければなりません。韓国の「月よ、月よ、明るい月よ、李太白

(リテイハク)が遊んだ月よ……」という歌のように、この地

上で父母様に侍り、千年、万年生きるという希望を成就する、

統一教会員の各自の使命と召命的目的があることを知らなけれ

ばなりません。

12 神様のみ旨の前に召された責任者として、召命的責任を全

うしなければなりません。韓国の人は韓国の人としての召命、

世界的メシヤとしての召命があります。「召」の字は、命令の

呼び掛けを意味します。軍隊の出動命令と同じです。召命的使

命を全うしなければならないのです。

使命の自覚(P918)

13 先生は、一つの峠を越えるのがどれほど大変だったか分か

りません。誰かが一言語れば、いつでも百世、千世、あの世に

行っても痛哭する心がしみ込んでいる人です。先生が神様に

「文鮮明(ムンソンミョン)が来ました」と言う時、神様も切

なる心情で我知らず、千万の階段を飛び降りてきて、首を抱い

て痛哭しつつ、「よく来た!」と言いながら、「アダムとエバの

ために痛哭したが、やっと帰ってきた」という喜びの涙を流し、

息子を抱いて千万の階段を上がって、座っていた王座に再び座

り、「み旨が成就した。アーヂュ!」と言う神様の声を聞くま

では、死ぬことができません。やらざるを得ないのです。それ

が真の父母が行くべき鉄則の路程でした。皆さんの一生の路程

において、その記念の基準を中心として残される贈り物を準備

して天のみ前に持っていかなければなりません。そうしてこそ、

父母様の近くに行き、苦楽を共にしたとして相続権を受け、天

上世界の系列の責任者に立てられることを、間違いなく理解し

77

て、責任ある生涯の道を行かなければならないのです。

14 自覚が必要です。自分自身に対する自覚、自らの環境に対

する自覚、国家に対する自覚、世界に対する自覚をしなければ

なりません。このように新しい世界観を中心として新たに自覚

し、すべてのことを清算して越えていくところでアベルの立場

が決定されるのです。アベルの立場を決定すれば、カインを必

ず屈服させ、神様に侍らなければなりません。そうすることで、

皆さんは、天国に行ける個人になることができ、天の家庭、天

の国家、天の世界、すなわち天国を築く個人になることができ

ます。これが復帰の起点なのです。

15 自分を歴史的な罪の結実と見なければなりません。氏族な

ら、そのような氏族と見なければなりません。氏族は、現実か

ら見るとき、国家と見ることができます。現実のあらゆる民族

と関係しているのです。数千代の氏族の根を受け継いでいるの

で、それを延長して、平面的に見れば国になります。

ですから、「私」は国や民族の罪に責任をもつべき罪の子孫

です。私は民族が受ける罪の代価を代わりに払わなければなり

ません。世界の罪を、現在に払うべき罪の代価を私が代わりに

払わなければならないというのです。このような自覚をしなけ

ればなりません。それがメシヤとして来られたイエス様が感じ

た道です。私が生きればこの世が生き、私が死ねばこの世が死

ぬという境地まで、そのような自覚をした段階まで進まなけれ

ばならないのです。

16 皆さんは、自分自身を知りませんでした。そうこうするう

ちに、み旨を知るとともに、自覚の心情をもってこの門をたた

いてきました。皆さんは、「歴史を経て、時代を過ぎて未来を

開いていく私だ」ということを自覚しなければなりません。自

分自身で自覚しているようですが、実際は神様が私を自覚させ

ているのです。

きょうの私が自覚した姿をもつために、数多くの預言者や烈

士たちが血を流し、今も背後で、自覚した私になることを願っ

ています。ここにおいて再び歴史を台無しにし、台無しにし続

け、さらに台無しにする可能性のある自分だということを感じ

なければなりません。「歴史的な幼いアダムとエバの恨を両肩

に背負い、現実と未来にまでも責任をもつべき私だ」というこ

とを自覚しなければならないのです。

17 統一教会は、何をするためにこの世の中に現れたのでしょ

うか。罪を悔い改める道を教えてあげるために現れました。罪

を悔い改めることのできる道を教えてあげようというのです。

そのためには、信仰によって救いを得るという内容はあるので

すが、どのような自覚をしなければならないのでしょうか。世

界を代表した自覚をしなければならないのです。

男性も世界を代表した自覚をしなければならず、女性も世界

を代表した自覚をしなければなりません。歴史的な勝利の祭物

にならなければならないという自覚、時代的な勝利の主体にな

らなければならないという自覚をしなければなりません。メシ

ヤの命を奪ったので、自覚しなければならない立場において、

亡くなったその方の前で私が死んで蕩減し、その方の哀れみが

私に及ぶことによって、彼と共に復活の栄光に参与しようとい

う心をもたなければなりません。そうでなければ、天国に入る

ことはできないというのが原則なのです。

18 自覚です! 堕落とは、個人を中心として自覚したところ

から出発しました。今からは、蕩減復帰して、自分を中心とし

たものではなく、神様の家庭を中心とした自覚がなければなり

ません。そこから新しい理想世界が生じるのです。そのように

するには、血統が問題です。人類はそれを、今まで知りません

でした。先生が地上に現れ、詳細に解明してあげることによっ

第八篇 信仰生活と修練

78

て、初めて分かるようになりました。

そのようにして理解した自分は、自分の存在圏と関係があり

ません。革命的にひっくり返して、新しい父母を中心とした新

しい家庭が出てこなければならず、その家庭は、今のように個

人を自覚した立場で堕落したものとは違います。これは、公的

な自覚の上に立っているので、心と体が争うことがないのです。

人類救済の人生(P920)

19 宗教が志向すべき最後の目的とは何でしょうか。もちろん、

個人救済の目的を主張することも一理ありますが、それよりも

もっと進んで家庭を救わなければなりません。まず家庭を取り

戻し、安住圏に属している人間を罪悪の中から解放させなけれ

ばなりません。真の意味で歴史を代表し、時代を代表し、未来

を代表する家庭を取り戻さなければなりません。

また世界人類が共に喜ぶことができる家庭の基礎と、家庭が

行くべき正道の基準を拡張しなければなりません。その家庭の

正道がどこから出発し、どこに行くべきなのか、ということが

決定されなければならないのです。そのようにならない限り、

この地上に平和の世界を創建することはできません。外的なも

のがいくらきちんと形成されたとしても、内的な家庭において

は破綻することもあり得るというのです。

20 いくら台風が吹き、いくら受難の道が幾重にも横たわって

いるとしても、愛の馬を走らせるにおいては敵がなく、遮る者

はいません。父母が子女を愛する道を遮ることはできません。

力で遮ることはできないのです。どんな手段方法でも遮ること

はできません。妻を愛する夫、夫を愛する妻の愛を、何をもっ

てしても遮ることはできません。ですから、愛は偉大なのです。

国を愛する愛国者の行く道は、どんな力でも、何をもってし

ても遮ることはできません。買うこともできず、売ることもで

きません。天理の道理を明らかにしていく聖者の行く道におい

て、人類を救済し、人類を愛することを遮ることはできないの

です。

21 神様が滅びていく世俗的な世界に対峙させるために統一教

会を立てたので、この統一教会は、対抗できるあらゆる内容を

備えなければなりません。

中心のない世俗的なこの世の中で、落ちていくこの現実世界

で、それを防げない悲嘆の環境を迎えたこの人類は、絶望に遭

遇しています。反面、これに対峙して、落ちるのと反対に、無

限に向上できる一つの道を準備しなければ、人類を救済してき

た神様のすべての摂理が中断されてしまうというのです。

22 先生は、世界と天地を生かすのです。天地は先生が責任を

もつので、皆さんは、皆さんの一族を生かしなさいというので

す。自分の兄弟を救援し、父と母を救援するのです。そこで天

使長を屈服させ、真の父母によって祖父母から孫と孫娘まで四

代が一つになり、天の国に行くようにしてあげる責任がありま

す。「私」が国家と全体を、天のみ前にお返しするのです。

23 一片丹心、この大宇宙に心情世界を再び立てようとするの

が救援歴史なので、その救援歴史の路程で、私がどの程度の材

料になり得るかということだけを考えなければなりません。万

物を材料とし、人類を材料とし、霊界の幾千万の聖徒を材料と

しなければなりませんが、私が動けば万物がどの程度動き、人

類がどの程度動き、天上の幾千万の聖徒がどの程度まで動き、

私が地上で叫ぶことがこの宇宙のどの範囲まで心情の反応を呼

び起こすのかによって、天上における私の価値が決定されるの

です。イエス様が死ぬ瞬間の悲しみは、天に反映され、万宇宙

に反映されました。このためにイエス様は救世主です。心情の

救世主なのです。

79

24 皆さんは、個人のある欲望を満たすために努力するのでは

なく、より大きな目的のために犠牲となり、奉仕する信仰生活

をしなければなりません。そうして、ただ神様のみ旨と人類の

ために苦労されたイエス様の心情基準まで行かなければならず、

今まで苦労してこられた神様の切ない心情を慰労してさしあげ

る、神様の真の子女の立場まで行かなければなりません。

今日、皆さんは、不義を見れば憤慨する心をもち、また与え

たいと思う神様の愛の心をもち、この世の果てにまで行って、

神様の国と神様の義を探し立てるために苦労しなければなりま

せん。さらには、今まで人類を救援するために悲しみの中で苦

労してこられた神様の心情を、慰労できなければなりません。

25 神様は、堕落した人類を抱きかかえながら、救援摂理をす

るために無限に努力してこられました。人間が罪悪に陥ってい

る時、人間を訪ね、人間のために生き、人間に福地を紹介する

ために苦労された方がいるとすれば、その方は、私たちの愛す

る父母でもなく、何かの情関係で結ばれている子女や夫婦でも

ありません。また、国家でもなく、どんな聖人、賢人でもあり

ません。それは神様なのです。

26 私たちは、堕落していない本然の園を再び回復していかな

ければなりません。堕落した人間であるがゆえに、落ちていな

いその本然の状態を取り戻し、神様を失ってしまった人間であ

るがゆえに、神様を失っていないその位置を取り戻し、人類の

真の父母を失ってしまったがゆえに、真の父母を失っていない

その位置を取り戻さなければなりません。神様と理想の真の父

母を中心とした平和の園において、子女として生活できる位置

を求めていかなければならないようになっています。それで、

これを成就するためにも、私たちには、新たに救援摂理という

言葉が残されているのです。

27 救援するために摂理される神様は、この地に対するあらゆ

る苦痛を傍観する無責任な立場では、この世を収拾できないの

で、堕落した世の中で人間が遭遇するあらゆる苦痛を、人間だ

けの苦痛として傍観するのではなく、直接その苦痛圏内に入っ

て責任をもって対応していかれます。また、この悲しくて悲惨

な歴史的な対応の路程の上に、神様が直接参与しなければ人類

を救援できないので、人類の悲しい歴史に同伴して今まで闘っ

てきたのです。

28 人類は、真の父母を失いました。父母から生まれることは

生まれましたが、真の父母の深く、高く、貴い愛をそっくりそ

のまま受けることはできずに生まれ、その父母と一緒には暮ら

せなかったのです。また、父母の立場にある神様は、子女を失

うことによって望んでいた基準を達成できなかったので、長い

歴史を抱きかかえながら、その目的を達成するために、今まで

人類の背後で収拾してこられたのです。これが神様の救援摂理

なのです。

29 救援を受けるべき私たちが、永遠の生命を求めて父の愛の

中に抱かれるためには、あらゆる苦難と深い傷を踏み締めて立

ち上がらなければなりません。今や、私たちは、家庭と社会と

国家、世界が反対しても、それを踏み締めて立ち上がり、ただ

神様のみ旨だけをつかんで立ち上がったイエス様の立場に立っ

て、歴史的な死亡の氏族に向かって突進できる、天の精兵にな

らなければなりません。

30 世の中で、決意なくして何かが成就されることはありませ

ん。闘うには、当然、正義に立脚して闘わなければなりません。

サタンは、根本的に高くなることを願いますが、私たちは、そ

れとは反対に、低くなって私の体と愛で闘っていかなければな

第八篇 信仰生活と修練

80

りません。そして、ひたすら一直線でなければなりません。す

なわち、一片丹心でなければならないというのです。「私」自

身は砲弾なので、自分の耳と目と手が、それぞれほかの所にあ

れば滅びます。この闘いで勝利するためには、惜しむものがあ

ってはいけません。人類を救援するためには、どんな犠牲をも

覚悟するのが天の計算です。皆さんは、先祖たちの血痕が染み

ついた犠牲の祭壇を守って、神様の恨みを晴らさなければなら

ないのです。

第二節 成就の人生(P923)

1 神様は、子女を求めて、万物を求めて、創造本性の世界を

実現しようと闘ってこられ、理想世界の主人に永遠で偉大な偉

業を相続させ、万世無窮に喜びを享受しようとされました。神

様は、悲しい中でも、私たちのために一層祝福してあげたいと

思っていらっしゃることを知らなければなりません。

ですから、皆さんは、「み旨の前に新しい息子、娘ですので、

真の家庭としてお立てになり、真の夫婦として真の子女を備え

た基盤の上で万物を主管する、この上なく大きな栄光の実体と

なるようにしてください」と言わなければなりません。したが

って、許諾してくださった万世の栄光を享受できる真の子女と

なって、来られる真の父母を支えてさしあげる使命を果たさな

ければなりません。

皆さんは、真の父母を安息させてさしあげなければならず、

再び真の父母と皆さんが一つになって、神様を安息させてさし

あげなければなりません。そうなる時、善であられる神様が、

満天下の国王として、私たちの父として君臨するようになり、

善の天国が地上に成就されるというのです。

摂理の秘密を明かす(P923)

2 リベカは、エバの立場で分かれた兄弟を一つにしました。

それで、神側で家庭復帰することができました。ヤコブが長子

権を復帰して、エデンの園で失ってしまった家庭を復帰したの

です。リベカの腹中でヤコブとエサウが争いました。それで、

リベカが神様に祈りながら「こんなことでは、わたしはどうな

るでしょう」(創世記二五・二二)と言った時、神様がはっき

りと教えたのです。「二つの国民があなたの胎内にあり、二つ

の民があなたの腹から別れて出る。一つの民は他の民よりも強

く、兄は弟に仕えるであろう」(創世記二五・二三)と神様が

答えました。それは長子が下がり、次子が上がることを意味し

ていたのです。長子権復帰の概念が残っていたというのです。

それは、タマルの場合も同じでした。タマルの腹中でペレヅ

とゼラも争うので、問題になってタマルが「なぜこのように争

うのですか」と言いながら祈る時、神様が同じように返事をし

たのです。「あなたの胎中に二つの国があるが、大きな国が小

さな国に仕えるだろう」と答えたのは、復帰に関することでし

た。今までこれは秘密だったのであり、四千年以上、誰もその

内容が分かりませんでした。神様とサタンだけが知っていたの

です。

サタンは偽りの父母です。神様が望むのは真の父母です。真

の父母は、本然のエデンの園で神様が望んでいた家庭の主人で

す。真の父母が現れて、神様の秘密とサタンの秘密を明らかに

するのです。神様は、次子を通して復帰歴史を展開しますが、

腹中まで訪ねていって復帰するのです。そうでなければ、神様

の血統が定着できません。

3 メシヤとして来たイエス様も、真の父母の名をもってきて

死んでいったので、再臨しなければなりません。再びやって来

て主人になるためのみ業をするのですが、それが正に、今のこ

の時です。先生がこの時に合わせて天地の秘密、神様が隠して

いた秘密、サタンが隠していた秘密、歴史的秘密、哲学者たち

81

の秘密の谷をすべて解決したので、これを知るすべての人は、

誰も否定することができません。

肯定的な天理によって、大きくても小さくても、教育を受け

た人は、誰でもみな小学校を出れば小学校の卒業生になるので

あり、中高等学校を出れば中高等学校の卒業生になるのです。

天国に入城できる解放的基盤をもった天の息子、娘が生まれれ

ば、彼らは、天の国の博士コースを通過したことになるので、

天の国の大臣になり、息子、娘になれる道が、統一教会の教え

る道にないはずがありません。ですから、本当に誰にとっても

必要な道であり、行くべき道なのです。

4 真の父母様のみ言は、アメリカの憲法よりも貴いのです。

真の父母様はただ一組です。今の時は、ただ一度だけです。過

去にもなく、未来にもありません。真の父母様が、肉身をまと

って実体として存在するのは今の時だけです。永遠の中でたっ

た一度きりです。ですから、真の父母様が天の秘密をはっきり

と教えるのです。これは隠された真理です。

先生がそのような概念を、既に完成させておきました。その

ような秘密の概念を教えるまでは、サタンがすべてのものを占

領してきたというのです。しかし、先生が教えておいたので、

もうすべてのことが明らかになりました。もうサタンが先頭に

出ることはできません。神様も認めるのです。このまま従いさ

えすれば、完成するのに問題ないというのです。そのような教

えです。

5 見えないものであるほど貴いものであり、無限に浸透する

ものであるほど貴いものです。無限にために生きる神様の愛は、

自分の生命を投入してもすべて忘れる愛です。ですから、生命

の相対になれば、生命が突然、爆発的に復活する刺激を感じる

のです。それで、聖書には「自分の命を救おうとするものは、

それを失い、それを失うものは、保つのである」(ルカ一七・

三三)とあります。「零」の立場にいなさい、何ももってはい

けない、というのです。死んだ立場のように立っていなさい、

というのです。

先生が今まで、このような天理の歴史的な秘密を明らかにし、

一生に適用して暮らしてみたので、世の中が「葬ってしまえ!」

といくら騒いでも行くのです。それが問題です。迫害は、迫害

する人たちから所有権を相続するための神様の第二の戦略戦術

です。ですから、一生の間迫害を受けましたが、先生は疲れま

せんでした。見た目には何でもありませんが、天地大道の主人

である神様には、誰よりも愛する息子です。迫害は、怨讐たち

から所有権を復帰してくるための作戦なのです。

6 人間は、原理結果主管圏と直接主管圏の過程を経て完成し

なければなりません。その過程で堕落したというのです。神様

の愛を知らずに堕落しました。これは、神様とサタンだけが知

っています。アダムとエバは知らないというのです。無知で堕

落した人類始祖になったので、その過程で生まれたすべての人

間は、この秘密の峠を越えることができません。また教え導い

てくれる真理のあらゆる経書も、それを明らかにできません。

人類の父母になる人が現れて、これを明らかにしなければなり

ません。明らかにしようとすれば、天地の道理から、根本の歴

史からひっくり返せる内容を理解しなければ、不可能です。

7 全知全能の神様が、なぜ今まで悲惨な世界を造っておいて、

手を出すことができずにいるのでしょうか。神様は、思いどお

りにできません。命を奪うことはできません。命を奪おうとす

れば、一瞬にして奪うことができる能力はありますが、これを

処断することができず、手を出すことができません。そのよう

な血族が残されたのが堕落の世界だということを、今日の宗教

圏は分かりませんでした。

真の父母の名をもって、霊界のすべての実情を詳細に知り、

第八篇 信仰生活と修練

82

堕落の動機から神様の秘密、サタンの秘密まで掘り起こし、こ

のようなものを明らかにした内容が「統一原理」です。これを

もって、今、地上世界と天上世界に分かれて混乱状況にあり、

相反的な歴史を形成しているすべてのものを和合させるために、

霊界の根本の実情から地上の根本、人生の根本まで、すべて解

消して連結させようとするのです。

カイン・アベルの闘いの終息(P925)

8 アダムとエバが堕落したものを収拾するためのカイン・ア

ベルの歴史において、神様は、再び二次的な失敗をしました。

カインがアベルの命を奪う悲惨な姿に遭遇しました。堕落によ

って血を見ることはありませんでしたが、堕落した結果によっ

て人類歴史で血を見たのです。それだけでなく、血の歴史を尋

ねて、お互いに和解しなければならない人間であるにもかかわ

らず、和解することもできず、天と共に一つになることもでき

ませんでした。ですから、神様は、その人類を、全世界を、ノ

アを中心として打たなければなりませんでした。そうして、水

で全体が消えるように、一掃してしまわざるを得ない神様にな

ってしまったのです。

9 アダム家庭において、カインとアベルが分かれました。カ

インとアベルの分裂によって、闘いの時代になりました。カイ

ンとアベルが、敵同士となり、今まで、心と体の紛争から夫婦

同士の紛争、父子関係の紛争、兄弟の紛争につながりました。

これが連結されて分かれ分かれになり、氏族、民族、国家にま

で進んで戦争の歴史を受け継いだのです。

10 カインは、長子権を中心として、神様が弟を立てて自分の

位置を復帰してくるので、アベルの血を見た歴史をさらに拡大

させたのです。それが人類歴史です。ですから、人類歴史は、

血を流す歴史を通して、戦争の歴史にならざるを得ませんでし

た。兄の立場の力をもっている人たちが、父母から新しく教育

を受けて真の人になれる弟の立場にいる人たちの道を遮ってき

たのです。それが歴史の課題です。

このようなカイン・アベル問題が解決されず、血統の問題が

解決されずに、母と息子、娘が所有権と故郷と祖国を失いまし

た。これを取り戻さなければなりません。家庭で起こった事件

なので、家庭で取り戻さなければならないのです。

11 父母が現れなければ、兄弟の争いを和解させることはでき

ません。父母はむやみに現れません。長子権を解放して一つに

ならなければ、天運を迎えることはできません。皆さんが福を

受けるためには、心と体が一つにならなければならないのです。

これがカイン・アベルです。男性と女性、夫がプラスならば妻

はマイナスです。この二人はカインとアベルです。この二人が

一つにならなければなりません。争ってはいけません。本来一

つになるのが原則だったのですが、分かれたので、一つになら

なければならないのです。

12 アダム家庭のアベルとカインが怨讐になったのと同様に、

世界的版図においては旧教と新教が怨讐になりました。これが

堕落していないアダム圏内に入ってきて、完全に一つになるの

です。イエス様が体を失うことによって、霊的な父母にはなり

ましたが、実体的な父母になれなかったので、小羊の婚宴をす

るのです。新しい主が来て、真の父母圏を完成して祝宴をする

のです。

13 皆さんは、アダム家庭でのカインとアベルのことをよく知

っているでしょう。カインが摂理を完成したなら、その後にア

ベルが出発することができるようになっていました。ですから、

イエス様の生涯を時代性で見れば、前の時代はカインの時代で

83

あり、あとの時代はアベルの時代でした。イエス様は、第二の

世界的アベルの主人であり、アベルの世界を建設するための第

一の責任者でした。その時までの世界は、カインの世界でした。

自分を中心とした世界だったというのです。ですから、その世

界を収拾して屈服させ、兄弟が真の父母様を迎えて子女の立場

に立たなければならないのです。

14 真の父母がこの地に来て、アダムとエバを中心としたカイ

ンとアベルの恨を解かなければなりません。そうして、兄弟が

兄弟を抱き、兄弟が兄弟を身代わりして、友人のために死の道

に出ていく心が生じなければなりません。万民を救援しようと

いう博愛精神で、世界人類と親しくなる心が現れなければなり

ません。それでこそ、新しい生活の基盤がつくられるのです。

15 アダムとエバの堕落によって、人間は真の父母を失い、神

様を失うようになりました。また、カインがアベルの命を奪う

ことによって、兄弟まで失うようになったので、人間は神様の

み前に進むことができなくなったのです。ですから、堕落した

人間は、神様を探さなければならず、父母を探さなければなら

ず、アベルを探さなければなりません。

どのようなアベルを探さなければならないのでしょうか。カ

インに打たれて死んだアベルではいけません。生きて、サタン

と闘って勝利したアベルを探さなければなりません。そうして

こそ、一つの家庭の息子として立つことができ、そうしてこそ、

悪と善を審判する時、神様の権能を身代わりして審判の権限を

もつ息子、娘になることができるのです。

16 神様は、人間を創造される時、最初にアダムを創造されま

した。ですから、神様が真の父母を復帰する時も、先にアダム

を復帰するのです。それで、歴史を通して神様は、一つの種で

あるアダムを探すために役事してこられました。その種のアダ

ムを完成したアダムにまで育てていらっしゃるのです。これが、

神様が歴史を通して役事していらっしゃることだというのです。

それで、アダム家庭でカインとアベルを通して摂理され、ノア

の息子たちを通し、アブラハムを通し、そしてヤコブとエサウ

を通して摂理されました。神様は、個人的 な次元から家庭、

氏族、民族、国家的な次元まで摂理してこられ、ついに再臨主

の時に至ったのです。

17 真の父母は、カインとアベルが一つになった基盤の上で復

帰されるようになっています。個人的にそのような原則が適用

され、勝利するようになる時は、カインがアベルに屈服しなけ

ればなりません。そうして、アベルが兄になり、兄であるカイ

ンが弟の位置に立って、アベルに堕落していない本然の兄以上

に侍り、従順に従うことができてこそ、復帰されていくことを

知らなければなりません。

真の父母になるための人生(P928)

18 来られる主は、どんな使命を完結するために来なければな

らないのでしょうか。もちろん、花婿の資格を完結するために

来なければなりません。しかし、何よりも真の父母の内容を完

結しなければなりません。そうして、天地から真の父母として

認定を受けなければならず、神様のみ前に真の孝子、孝女とい

う認定を受けなければなりません。そのような孝子、孝女とし

て登場する代表的な祝宴が、正に小羊の婚宴なのです。

19 真を求めて立ち上がったすべての探検家の前に、勝利者の

印を受ける私たちになるためには、歴史的な悲しみと苦衷も甘

受し、時代的な悲しみと苦衷も甘受し、神様、真の父母、真の

夫婦、真の子女、真の兄弟、真の民、真の国、真の天地の前に

立ち上がらなければなりません。このような切実な心情が崩れ

第八篇 信仰生活と修練

84

なければ、その国の民として残ることができ、その国の忠臣、

烈女、あるいは孝子、孝女の位置に立てることを知らなければ

なりません。

20 誰が世界の主人にならなければなりませんか。悪魔、サタ

ンが主人になる前に、神様が主人にならなければなりません。

その次には、この地上に堕落していない人類の先祖アダムとエ

バ、すなわち真の父母が主人となり、真の息子、娘が暮らすそ

の家庭が主人にならなければならず、その次には、その氏族と、

その国と、世界が主人にならなければなりません。これが本然

の理想だったのです。

21 皆さんは、真の父母という言葉を知りませんでした。皆さ

んと真の父母との距離がどれほど遠いですか。千里のかなたに

あります。そこは、たくさんの塀で遮られています。個人的な

塀、家庭的な塀、氏族的な塀、民族的な塀、国家的な塀、世界

的な塀、天宙的な塀で遮られています。この塀を越えて勝利し

た方が真の父母なので、真の父母の名と一つになるためには、

皆さんもこれを越えなければなりません。

そのためには、どのようにしなければならないのでしょうか。

乗り越えなくとも、ここに橋だけ架ければいいのです。家庭的

な塀に橋だけ架ければいいのです。個人的なことから家庭的な

橋を架け、家庭的なことから氏族的な橋を架け、氏族的なこと

から民族、民族的なことから国家、国家的なことから世界的な

橋を架けて、越えるようになるとすれば、頂上まで一度に越え

ることができます。真の父母が、そのような平坦な大路に、石

橋でなく鉄橋を架けておいたというのです。

22 アダム家庭が天国に入れなかったのですが、父母様が来て

全世界の家庭を編成して、一度に門を開いてアダム家庭完成、

アダム氏族完成、アダム民族完成、アダム国家完成、アダム世

界完成、アダム天宙完成を成し遂げ、地上天国と天上天国に合

わせて入らなければなりません。全世界の人たちが、国を越え

て一カ所に行くことのできる道をつくらなければなりません。

この道は、家庭がすべて父母に従っていく道しかありません。

それが復活的家庭編成です。そうして、天国復活の入城が可能

になるというのです。

アダムが再び祝福を受けて再臨したように、アダム氏族、ア

ダム血族の形態を備えるのです。偽りの父母になったアダムが

再び真の父母として来て、アダムの真の父母家庭、氏族、民族、

国家、世界、このようになるのです。これができるまでは、天

国に入ることができません。天国に入るには、真の父母が入ら

なければなりません。真の父母が前に立ち、後ろについて入ら

なければならないのです。ですから、真の父母の血族にならな

ければなりません。血統が連結されたものは、父子関係です。

真の父母の真の子女にならなければなりません。それが祝福家

庭です。アダム家庭で堕落してこのようになったので、反対に

ひっくり返したのが祝福家庭です。

23 真の父母と一つになって祝福を受けた家庭には、どのよう

なことが起こるのでしょうか。真の父母と主体、対象として一

体理想圏内に入れば、どのようなことが起こるのでしょうか。

相対となる祝福家庭も、真の父母に従って、真の父母の生活の

すべてのものを受け継ぎ、蕩減しなくても越えていくというの

です。家庭的に真の父母の心情を受け継ぎ、氏族、民族、国家、

世界的に受け継いだ資格を備えるので、真の父母の対象圏に立

つことができるというのです。

24 先生が現れていなければ、一つになるのは不可能です。真

の父母でなければ、一つにすることができないというのです。

言葉だけの真の父母や、世の中で人気取りをするための真の父

母ではありません。真の父母になるためのその背後で、どれほ

85

ど広く、高く、険しく、深いところを、泳いで、走って、乗っ

て、越えてきたかという事実を考えなければなりません。その

ようなことができる内容を備えたので、神様と霊界のすべての

先覚者と預言者たちが認定した基台の上で、真の父母を宣布し

ているというのです。

第三節 養育の人生(P930)

1 先生が一代ならば、祝福を受けた皆さんは二代として、三

代である皆さんの子女をアダムとエバの立場におき、伝統的な

アダムとエバを創造した神様の創造理想を、神様の代わりに見

せる実体対象として、養育すべき責任があります。見えない神

様の実体の中心は、父と母、すなわち真の父母であり、その息

子、娘はアダムとエバの立場になります。この子女と兄弟と夫

婦と父母を求めるための家庭基盤が、皆さんの代身家庭によっ

て完成したエデンの園の天の国を代表する中心の位置になりま

す。

これは、理論的に間違いない事実であることをはっきりと知

って、そのような家庭になって天国に移行していく責任がある

ことを知らなければなりません。

父の人生

2 先生は、恨みを晴らすべき人がたくさんいますが、神様を

知っているので耐えてきたのです。数千年の間、激しく反対し

ていた怨讐の中でも最高の怨讐であり、何ものをもってしても

赦すことはできない怨讐ですが、天倫を立てたなら、そこに権

威を与えなければならないので、その権威のためにも頭を下げ

ざるを得ず、冷遇されながらも黙々と行くしかなかったのです。

教会がなくても、先生の手で個人を収拾しなければなりませ

んでした。それで一九五〇年代には、食べずに、眠らずに、休

まずに仕事をしたのです。そのようにしながら、個人を抱えて

涙で始め、個人を抱えて痛哭で始め、民族の悲運を、彼を通し

て解こうとし、民族の恨を、その家庭を通して解こうとしたの

です。

3 人間の本性の無限な価値を喪失した人間は、いくら行楽の

席で踊っても、悲嘆の声が良心の奥深くから、昼夜休まずに聞

こえてくるというのです。これを避けることができないので、

人間の行く道を苦行の道だと言うのです。これを解決するため

に修養の道を尋ね歩くのです。そのような苦悩は、男性でも女

性でも、人間として生まれた誰にでもあります。これは、万民

が共同で解決すべき一つの宿題だというのです。これを連結さ

せて「私」が神様のみ前に行くようになる時は、万事が思いど

おりになるのです。大宇宙が私の所有になるのです。

4 先生は、休まずに仕事をしました。夢のようなことです。

このような現実世界において、歴史的な世界において、政治的

なこの社会の基盤の上に、先生のみ言がただそのまま的中して

きたのです。そのような社会現象の過程を経てきたことを、生

きている私たちの目で見ています。そして、私たちがここに旗

を掲げて先発隊として立ったという、その驚きに感謝できなけ

ればなりません。それを栄光として誇ることができなければな

らないというのです。その場に参与した「私」は、千回死んで

も恨みがあってはいけません。神様の名で正義と愛の勇士とし

て天国の門を開門するためなら、私の血と肉を切り取っても惜

しくはないという考えに燃えていなければならないのです。

5 皆さんは、先生が神様についてすべて教えてあげて分かる

のであって、教えてあげなければ分かりません。それを教えて

あげなければなりません。正しい師は、教えてあげるのが原則

です。主人も教えてあげなければならず、父母も教えてあげな

第八篇 信仰生活と修練

86

ければならないのです。父母も愛の道を教えてあげなければな

らず、師は社会制度について教えてあげ、社会において家庭と

して合格するようにしなければならず、また、主人は世界にお

いて家庭として合格できる道を教えてあげなければならないの

です。

6 救援摂理歴史は、み言を通過する歴史でした。ですから、

人類は真理のみ言を探し求めてきたのです。

真理を探したあとには、実体を通過しなければなりません。

この実体を通過できなかった恨が残っているので、この地上に

実体の主人公であるお一人が来ることを願うのです。これが再

臨思想です。

実体通過の恩賜を受けたあとには何をするのでしょうか。新

婦として装い、新郎と新婦の関係を結び、心情の門を通過して

いってこそ、神様の相続者になることができます。み言だけで

は相続を受けられません。体だけをもってしては相続を受けら

れません。実体がみ言の化身となって、神様の心情を通過した

という合格証をもらってこそ、天上天下の大主宰であられる神

様の息子、娘になれるのです。

7 アダムが堕落したのは、神様のみ言と一致できなかったか

らです。み言と一致できないことによって、み言の目的である

完成実体になれませんでした。人格基準が神様のみ前に捧げら

れなかったというのです。そのために、完全な神様の愛が完成

された人格基準と関係を結ぶことができなかったのです。

結局、み言は実体を造るためのものです。したがって、愛も

実体が完成されなければ、成立しません。完成実体にならなけ

れば、和合の道がないのです。

8 み言の実体とは、再臨主でいらっしゃいます。それで、今

までみ言の世界的基盤をつくってきたのです。しかし、その実

体は心情を備えていなければなりません。それを合わせもつ実

体でなければ、神様のみ前に立つことができないというのです。

これは、キリスト教史において完成の基盤になります。そして、

その主体の位置を占める人は、心情が一致した内容で、キリス

ト教的な真理をもたなければならないのです。その真理をもっ

て現れたのが、統一教会です。

母の人生(P932)

9 母が愛する子女を家において、どこかに行ったときに、ふ

と子女のことを思い出すことがあります。そのようなときは、

明らかに子女に何か起こるのです。母には分かるというのです。

しかし、すぐには行けないので、母は仕方なく、子女に独りで

その峠を越えさせなければなりません。それは自ら越えるべき

峠です。その峠を越えてこそ、それ以上落ちないことを神様が

約束してくださるのです。

ですから、新竹が節々を作って成長するように、一つ一つの

峠を越えなければなりません。それができなければ、落ちてし

まいます。ですから、段階的に個人勝利から家庭勝利に移って

いくときは、神様は、絶対に干渉されません。独りで闘わなけ

ればならないのです。

10 父母の愛は国境を越えるのです。息子がアメリカに行った

からといって、韓国にいる母の愛が制約を受けることはありま

せん。母は、息子のために涙を流します。体は韓国にあります

が、心はアメリカにいる息子のために涙を流すのです。汗を流

すのも、仕事をするのもその息子のためです。これは愛でなく

てはできません。力で、大声を張り上げてできますか。愛の心

があってこそ、できるのです。

11 子女が母に対して「お母さん!」と言うとき、母はその一

87

言に五臓六腑がとろけるというのです。骨髄がみなとろける感

情にとらわれます。それで、握った手首には、天下を与えても

換えることのできない偉大な力が流れるのです。

父母の崇高な犠牲の場、そのような実践の場から統一が起こ

ります。それは人間の愛ではありません。天倫を解怨し、天情

の所願成就の恨を解くために人間が責任をもつべきことは、愛

に酔って世界人類を抱くために十字架の道を自ら進んでいくこ

とです。ここに統一の要因と方案があることは、言うまでもあ

りません。

12 母の愛を知れば、いくら虎のような男性も、天下に恐れら

れる虎のような大将も、母の前にはすべて屈服するのです。愛

の前に屈服するのです。ですから、息子、娘をたくさん生み育

てた母は、悪い心をもつことができないのです。

13 愛をもった母の中には、境界線がありません。愛をもった

母には、残忍なところがありません。角がなく円満で境界線が

ないというのです。そこには無限の平安が連結されるのです。

ですから、その母の平安さや円満さが、母の顔よりももっと素

晴らしいというのです。

愛する母の顔が、息子、娘には、美人よりも良いのです。そ

の町内の美人、おばさん、祖母の三代が住んでいる家には一度

も行かなくても、美人ではない母の懐には毎日のように行かな

ければならないのです。

真の父母としての人生(P933)

14 父は厳格でなければなりません。母は愛で抱かなければな

りません。

父の愛が縦的な愛ならば、母の愛は横的な愛です。この縦横

の愛が和合するところで育つ子女たちは、「私は幸せだ。うち

の父は誰とも換えられない。大統領とも換えられない。神様と

も換えられない」と言うのです。それは、既に主体的、縦的な

父の愛を知り、横的な母の愛を知ったからです。ですから、縦

的な父、横的な母を交換しようと考える人はいません。絶対的

なのです。

15 真の愛を誰が収穫できるでしょうか。夫婦が収穫できるの

です。収穫して、天の国の倉庫にもっていって、納めなければ

なりません。皆さんは、道になり、車になって、皆さんの息子、

娘を乗せていくのです。ですから、皆さんの母は道になり、父

は車になって息子、娘を乗せていくというのです。父と母は、

息子、娘が宇宙の真の愛の目的に向かっていくための、教材に

なり、教本にならなければなりません。

16 父は骨を植え、母は肉づけをして「私」を生みました。そ

こには自分という概念がありません。愛だけがあります。愛す

ればすべて入ります。愛だけがあり、生命だけがあり、血統だ

けがあります。私にあるのは、父母の愛と、父母の生命と、父

母の血統です。それで、父母が離してしまおうとしても離れな

いのです。

第四節 相続の人生(P933)

1 天宙の主人に侍り、その方から相続を受けるまでは、天地

の大主宰の息子、娘になることはできません。天地の主人に侍

り、天地の父母の使命を果たすために来られる方から、血統を

相続して祝福を受ければ、生育し、繁殖して、全天地を主管す

る天地の主人になるのです。天地の大主宰であられる真の父母、

真の主人の位置を経由して、真の父母の位置に上がっていった

その方と、内的な関係を結び、血統を相続して、父母の心情を

身代わりできる子女の名分を備えるまでは、主人になることは

第八篇 信仰生活と修練

88

できないのです。

み旨一筋の人生(P934)

2 家庭で父と母に侍って暮らしたくないと思う人がどこにい

ますか。自分の子女を懐に抱いて眠りたくないと思う人がどこ

にいますか。また、そのような立場で神様に侍りたくないと思

う人がどこにいるのでしょうか。先生もそうしたいと思うので

す。しかし、そのようにしてはみ旨が成就されないので、悲惨

な道を経てきたのです。

先生がそのような道を歩んできたのは、私自身のためではあ

りません。天倫のみ旨を立てるためでした。伝統を立てるため

でした。そのような責任があったので、私の体に傷ができ、顔

が憔悴しきっても、あるいは人々からつばを吐かれるひどい立

場に立っても、それが問題ではありませんでした。たった一つ、

この体が死ぬ前に、いかに伝統をこの地上に残しておくかとい

うことが問題でした。そうでなければならないというのです。

いくら暴風雨が吹き荒れる環境に置かれても、いくら物乞い

のようなかわいそうな立場に置かれても、いくら民族の反逆者

だという言葉を浴びせられ、囹圄の身になっても、それが問題

にはなりませんでした。ただ変わらない天の伝統を残そうとい

うのが、今までの先生の生涯だったのです。

3 統一の道と関係を結んでいるがゆえに、私たちが行く道は

涙の道であり、血と汗の道です。神様の悲しい事情と向き合う

ときは、涙なくして向き合うことができず、悲惨なその消息と

向き合うときは、血がほとばしらざるを得ません。先生は、自

分の血肉のすべてを捧げても、神様のその悲しみを解消するた

めには、何であってもすべてしてさしあげたいと思います。数

千万の弟子たちを犠牲にすることになっても、そのみ旨を成し

遂げるためには、何でもすることができます。

だからといって、皆さんを愛していないのではありません。

愛しているがゆえに、統一教会を中心として、皆さんを僕とし

て涙と血と汗を流すようにさせ、養子として、あるいは直系の

子女として歩んでいくようにしているのです。直系の子女とし

て、死の場を躊躇せずに行くことができる人になってこそ、来

られるその方の実体的な十字架の路程を代わりに担うことがで

きるのです。

神様が今まで私たちの先祖を立てて蕩減復帰の使命を果たさ

せたように、実体的な真の父母にも、愛する子女を立てて世界

的な蕩減路程を開拓すべき使命が残っています。ですから、一

つの民族が完全に復帰されるときまでは、これを継続しなけれ

ばならないのです。

4 宇宙の頂点は、世界人類が一つの一族だというものです。

ですから、人類は、愛の網袋の中で絡み合う中を、自分のため

の愛ではなく自分より家庭をもっと大切にする愛を求めていか

なければなりません。

また、家庭よりも氏族のための愛を求めていかなければなら

ず、氏族よりも民族のための愛を求めていかなければならず、

民族よりも国家のための愛を求めていかなければならず、国家

よりも世界のための愛を求めていかなければなりません。それ

がみ旨の行く道であり、愛の行く道です。

忠臣は、国のために自分個人を無視し、自分の家庭を無視し、

自分の氏族を無視して進まなければなりません。それが忠臣の

道理です。

また、孝子は自分の一身を無視し、自分に属する妻子を無視

し、父母の意向に従っていかなければなりません。それが孝子

の道理です。ですから、み旨が行く道は、愛が行く道です。

「私」個人よりも大きなことを先に愛する道が、み旨の行く道

であり、愛の行く道なのです。

89

5 私たちは、今、神様の懐に戻ることのできる近い距離にあ

ります。ですから、私たちは、「私」自身がどのようにすべき

なのかを考えなければなりません。私たちがみ旨を知って行く

この道は、私が救われて祝福を受けるために行く道ではありま

せん。それはみ旨ではありません。み旨に従いながら私が家庭

を必要とするのは、世界人類に貢献できる家庭をつくるためで

あり、氏族を必要とするのは、民族と国家と世界に貢献できる

氏族をつくるためです。ですから、そのような立場に立って、

この思想と一致して動くことができなければならないのです。

6 統一教会の教会員たちが行くべき道は、どのような道でし

ょうか。国のために闘うことも必要であり、国のために自分の

位置を守ることも必要かもしれませんが、それよりもっと問題

になるのは、「私」自身は、どのようにイエス様を身代わりし

た立場に立つかということです。歴史過程で神様の息子として

遣わされたイエス・キリストが、神様と一つになった基盤の上

で成し遂げようとしたことを成し遂げられなかったので、今日、

私たち各個人がこれをもう一度再現させて成し遂げなければな

りません。イエス様が成し遂げられなかったその内容を、私た

ちの一代に結びつけて成し遂げることのできる基盤を準備しな

ければ、神様のみ旨は進展することができません。

7 私たちは、私たち自体を歴史的な復活の実体として運行で

きるようにしなければなりません。七十年、八十年の一生を自

分のために生きるのではなく、摂理のみ旨から見て、永生の路

程を経て発展できるみ旨を立ててきたのが神様の摂理なので、

そのみ旨と共に生きなければならないというのです。「私が生

きるのは、み旨を現すためであり、み旨のために生きることな

ので、み旨が行く道は、私の生命の延長であり、私の理念の延

長であり、私の生活の延長だ」と称賛できる人格を中心とした

生活舞台をどのように広げるか、ということが重要な問題なの

です。

8 「私」が本の一ページを見ても、神様の摂理のみ旨がここ

から開門することを考え、そのような深刻な立場でその本の一

ページを通読する人は、神様が必要なことを、準備する人であ

ることは間違いありません。神様は、そのような人を選んで用

いるのです。

9 「私の悲しみを解いてほしい」というのが神様の第一の願

いです。そして、二番目は「私の苦痛を解いてほしい」という

ことです。それでは、誰がその願いをかなえてあげるのでしょ

うか。神様御自身には解くことができません。それは、相対的

に食い違ったことなので、神様御自身が解こうとしても解くこ

とができません。私たちが解いてさしあげなければなりません。

ですから、他の道はないのです。「ただ神様のために千回で

も万回でも死のうという、神様が願う人たちのために私が犠牲

になろう」という、それしかありません。そのような深い内容

を中心として語らざるを得なかったので、聖書には「自分の命

を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つ

のである」(ルカ一七・三三)とあるのです。この逆説的な話

は妥当な話です。

10 皆さんが行くところには、ありとあらゆる事情が多いので

す。血を売ってでも伝道に出ていかなければならず、行く旅費

がなければ千里の道もいとわずに歩いていかなければならず、

自らの一片丹心を決めたみ旨に向かって山を越え、野を横切り、

冒険をものともせずに行かなければなりません。先生が望むの

は、皆さんがそのような立場で倒れても、天を恨んではいけな

いということです。皆さんがそのような立場で犠牲になっても

恨んではいけないというのです。

天国建設のかがり火を持って立ち上がった勇士なのに、どう

第八篇 信仰生活と修練

90

して矢が飛んでくることがなく、どうして敵が包囲しないでし

ょうか。そのようなことがあるというのです。しかし、師のた

めに生き、神様のために生きる心は、自分のためでなく、民族

のためであり、世界のためです。ですから、そのみ旨に対して

歩んでいく道は、死の道も喜んで訪ねていくべき道であり、そ

れが統一勇士が行くべき道なのです。

11 皆さんは、み旨を知ったので、行く途上において後退でき

ません。天のみ前に忠臣となり、孝子、孝女になるためには、

天が行く前に、「私」が先に立って行かなければなりません。

それが復帰の道であることを知ったので、「今まで個人的な十

字架の道を、私が知らない時に行ったのが悲しい。家庭的な十

字架の道を私が知らない時に行ったのが悲しい。氏族的で、民

族的な十字架の道を私が知らない時に行ったのが悲しい! も

う分かったので、この恨まで添えて、国家的な十字架を私が背

負おう」と言わなければならないのです。

12 先生の一生がそうです。み旨を抱いた男の行く道は、悲惨

であればあるほど価値があります。先生に何がありますか。何

もありません。何もないと考えるのです。すべて置いていくの

です。

先生がしたすべてのことは、後代のために、統一家の世界の

ためです。世界の人たちが愛すべきことを残していくのです。

先生が愛し、先生の息子、娘が愛すべきものを残そうとは考え

ないというのです。

神様の栄光のための人生(P937)

13 皆さん自身が神様のみ前に、「私を中心として蕩減をして

ください」と言ってこそ、蕩減になるのです。神様に祭物を捧

げるときも、神様が「捧げなさい」と言って祭物を捧げること

で終わるのではなく、自発的に祭物を捧げることができなけれ

ばなりません。神様が「祭物を捧げなさい」と言って捧げるの

は、蕩減するための祭物ですが、自分が自発的に捧げる祭物は、

栄光を受けることのできる条件になるものです。

14 天の食口がいるならば、彼は世の中で孤立した人でしょう。

天の息子、娘がいるならば、彼らは悪の世の中で嫌われる人た

ちでしょう。

皆さんは、怨讐の国、サタンの都城を壊滅させるための責任

者として現れた人たちです。ですから、家庭に入れば家庭の迫

害を受けるのであり、社会に出ていけば社会の迫害を受けるで

しょう。イエス様がそうであり、神様がそうであり、天のため

に死んでいった人たちがそうだったので、歴史的な悲しみの峠

が私たちの前にもあるのです。その峠を越えてから侍ることが

できるイエス様です。ですから、イエス様は、そのような立場

に立っている人たちと、友となるために訪ねてこられるのです。

15 統一の信徒たちが行く歩みの前に、「少しゆっくり行きな

さい」という言葉はあり得ません。早く早く行かなければなり

ません。凛々しい姿で行かなければなりません。どれほど栄光

でしょうか。「そのような立場で天から遣わされて、勝利の足

場を立て、神様が永遠に記憶せざるを得ない地域なら地域、世

界なら世界をつくらなければなりません。「私」個体だけでな

く子孫たちまで、父に「永久に栄光をお受けください」と言う

ことができる世界をつくらなければなりません。「そのような

仕事をするために行く私なので、私の手は私の手ではなく、三

千万を身代わりした手であり、世界の人類を身代わりした手で

す」。そのようなことを感じなければなりません。この手は、

父の手として先祖たちが誇り、子孫たちがたたえることのでき

る手であると実感しなければならないのです。

91

16 神様が「私」に百を命令したといって、実際に神様が「私」

にその百だけを願われるでしょうか。少しでも多く捧げてこそ、

「おお、そうか!」と言いながら称賛することでしょう。ここ

において価値が変わります。神様が命令をすれば、皆さんは、

皆さんのたった一つの命を捧げることができますか。神様から

百という命令を受ければ、皆さんは、それ以上をしてさしあげ

なければなりません。これが最善の方法です。もし、そのよう

にしたとすれば、それは個人においては栄光であり、神様が誇

ることのできる内容です。「しなさい」と言うとおり百だけす

るとすれば、それはほかの人たちでもできるのです。

17 私たち自身は、誇るものがありません。誇るのは、闘って

勝利したあとにこそできるのです。そのまま誇れば、サタンが

讒訴するようになっています。無形の父の代わりに闘って遺業

を相続し、来られる実体の真の父母の代わりに遺業を相続しな

ければなりません。そして、「父よ、栄光をお受けください」

と言わなければならないのです。

18 皆さんは、神様の本然の園を紹介する生活、天の生命と愛

と栄光をたたえる生活をしなければなりません。さらには、す

べての人たちをして、そのように暮らすようにしなければなり

ません。すなわち創造主である神様を身代わりして、皆さんが

再創造の役事をしなければならないのです。また、地上で生涯

を捧げて神様に忠誠を尽くし、被造万物を身代わりして、善の

世の中だけでなく悪の世の中でも愛することができる人になっ

て、本然の理想を謳歌できなければなりません。そのようにす

るとき、皆さんは、神様の創造理想を実現する真の息子、娘と

なり、永遠の神様の愛と栄光の圏内で、神様と永遠に苦楽を共

にできるのです。