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追手門学院大学文学部紀要32号1997年3月21日 Aya Sofya 3605 ペルシア語写本Nizam al-Tawar雍h 中のセルジュク朝関連の記事について(下) The Saljuqids described in the Persian manuscript of Nizam al-Taw砂nkh (Aya Sofya 3605, Siileymaniye, Istanbul)(II) Kozo Itani 本紀要の前号に筆者は「Aya Sofya 3605ペルシア語写本Nizam al-Tawarikh中のセル ジュク朝関連の記事について(上)」(以下(上)と略)を発表して,イスタンブルのスユレイ マニイエ図書館でAya Sofya 3605の登録番号を持つ,ペルシア語写本がナスィールッディー ン・トゥースィー(1274年没)のTansukh一ndma-yi Ilkhdni (100葉)と,ナースィルッディー 1) ン・ノ゛イダーウィー(1316/7年没)のNizam al-Taむankh (72葉)というふたつの作品を含ん でおり,写本が筆写されたのは西暦1347年のことで,筆写の場所はルームのカイセリであっ たことを報告した。併せて(上)ではNizam al-Ta倒arikh (以下NTと略)中のセルジュク朝 に関する部分の日本語訳を作成したが,時間の都合で訳注を付することができなかった。本稿 では(上)の訳文への訳注,解説を付することを主目的とし, NTと他のペルシア語史料との 関係や史料としてのNTの性格などについても考察を行いたい。 さて, (上)の訳文への訳注を付することとも関連して,本稿ではまず, NTのセルジュク 朝関連の記事と表現上,内容上で密接な関係があると思われる,バナーカティー(Abu Sulayman Dawud b. Abi al-Fadl Muhammad b. Muhammad b. Dawud al-Banakatい329/30年没) の著作Rawdat Uli al-Albab ft Ma'rifat al-Taえarikh wa 仙Ånsab (『歴史や系譜の知識に関心 を持つ者たちの楽園』の意味,通称はTarikh-i Bandkati『バナーカティー史』,以下TBと略)のセル ジュク朝を扱った記事を訳出し,ふたつの記事を比較検討することにより, NTの史料として の性格の特色なども考察してみたい。 TBについてはすでにイーラーンのJa'far Shi‘arによっ -1-

Aya Sofya3605ペルシア語写本Nizam al-Tawar雍h …Aya Sofya3605ペルシア語写本Nizam al-Tawarikh中のセルジュク朝関連の記事について(下) Armaniyusが毎日1,000ディーナールを支払うという条件で,彼に生命の保証を与えた。治

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  • 追手門学院大学文学部紀要32号1997年3月21日

    Aya Sofya 3605ペルシア語写本Nizam al-Tawar雍h

      中のセルジュク朝関連の記事について(下)

    井  谷  鋼  造

    The Saljuqids described in the Persian manuscript of Nizam

    al-Taw砂nkh (Aya Sofya 3605, Siileymaniye, Istanbul)(II)

    Kozo Itani

    は じ め に

     本紀要の前号に筆者は「Aya Sofya 3605ペルシア語写本Nizam al-Tawarikh中のセル

    ジュク朝関連の記事について(上)」(以下(上)と略)を発表して,イスタンブルのスユレイ

    マニイエ図書館でAya Sofya 3605の登録番号を持つ,ペルシア語写本がナスィールッディー

    ン・トゥースィー(1274年没)のTansukh一ndma-yi Ilkhdni (100葉)と,ナースィルッディー

                  1)ン・ノ゛イダーウィー(1316/7年没)のNizam al-Taむankh (72葉)というふたつの作品を含ん

    でおり,写本が筆写されたのは西暦1347年のことで,筆写の場所はルームのカイセリであっ

    たことを報告した。併せて(上)ではNizam al-Ta倒arikh (以下NTと略)中のセルジュク朝

    に関する部分の日本語訳を作成したが,時間の都合で訳注を付することができなかった。本稿

    では(上)の訳文への訳注,解説を付することを主目的とし, NTと他のペルシア語史料との

    関係や史料としてのNTの性格などについても考察を行いたい。

     さて, (上)の訳文への訳注を付することとも関連して,本稿ではまず, NTのセルジュク

    朝関連の記事と表現上,内容上で密接な関係があると思われる,バナーカティー(Abu

    Sulayman Dawud b. Abi al-Fadl Muhammad b. Muhammad b. Dawud al-Banakatい329/30年没)

    の著作Rawdat Uli al-Albab ft Ma'rifat al-Taえarikh wa 仙Ånsab (『歴史や系譜の知識に関心

    を持つ者たちの楽園』の意味,通称はTarikh-i Bandkati『バナーカティー史』,以下TBと略)のセル

    ジュク朝を扱った記事を訳出し,ふたつの記事を比較検討することにより, NTの史料として

    の性格の特色なども考察してみたい。 TBについてはすでにイーラーンのJa'far Shi‘arによっ

    -1-

  •   Aya Sofya 3605 ペルシア語写本Nizam al-Tawdrikh中のセルジュク朝関連の記事について(下)

    て校訂テクストが出版されているが,本稿ではイスタンブルのスユレイマニイエ図書館に登録

    番号Aya Sofya 3026として所蔵されているペルシア語写本を底本とし,校訂テクスト(以下

    TB/txtと略)を参照した。 Aya Sofya 3026のTBは写本末尾の奥書によれば,ヒジラ暦746

    年ラビーウn月17日(1345.10.15)に筆写が完成した写本である。筆写された場所は不明であ

    るが,写本としてはAya Sofya 3605のNTが書かれるちょうど2年前に完成したものである。

    (上)でも引用したC。A. Storey著Yu.E. BregeF増補のPersian Literature (Persidskaja

    Literatura, chast' I, Moskva, 1972, str.323)によれば,この写本はTBの現存する最古の写本で

                         2)あるが,上記のJa'far Shi'arの校訂テクストでは利用されていない。 TBの緒言で(残念なが

    らAya Sofya 3026写本では,この緒言を含む,冒頭の第1葉が欠けている。)この作品自体はイルハ

    ン国のアブー・サイード・ハン時代のヒジラ暦717年シャッワール月25日(1317.12.31)に書

    かれたことが明記されているので, Aya Sofya 3026写本は作品完成28年後の写本である。

     『バナーカティー史JTBは9部からなり,第1部はアーダムからイブラーヒームに至る預

    言者たちの歴史,第2部はプルス(ペルシア人)の諸王の歴史,第3部はイブラーヒームに至

    るイスラームの預言者ムハンマドの系譜とイスラーム時代のハリーファやイマーム・マフ

    ディーの歴史,第4部はアッバース朝時代にイーラーンで独立した王やスルターンたちの歴史,

    第5部はヤフード(ユダヤ人)の歴史,第6部はナサーラー(キリスト教徒)とイフランジュ

    (ヨーロッパ人)の歴史,第7部はヒント(インド)人の歴史,第8部はヒター(中国)の歴史,

    第9部はムグール(モンゴル人)の歴史に当てられている。この構成から見る限り, TBの第1

    ~4部はNTの第1~4部と全く同一の構成になっており,ただ,大きく異なるのはNTの

    第・4部の末尾に置かれていた,分量も僅かで,未完のモンゴル人の歴史がTBでは独立して第

    9部をなし, TB全体の中ではこの部分が最も分量が多く,重要な部分となっていることであ

    る。またTBではその緒言で著者自身がその書名を挙げている,ラシードゥッディーン(1318

    年没)著作の世界史, Jami' al-Tawarikhを利用して,NTにはない,第5~8部のユダヤ人,

    ヨーロッパ,インド,中国の歴史が付加されている。 これらの作品構成上の相違はNT (1275

    年完成)とTB (1317年完成)が書かれた,それぞれの時代背景と著者の執筆意図の違いを反映

    したものであろう。セルジュク朝に関連する記事はTBの第4部第5族にあるが,以下では第

    4部全体の内容説明を含めて第5族の記事を訳出する。(訳文中の下線部はNTの(上)の記事と

    一致しない部分であること,【 】は筆者の補足であることを示す。(上)の場合も含め,在位したスル

    ターンの代数を表すI)~XIII)の数字は本来写本にはなく,便宜的に筆者が付したものである。)

    -2-

  • 井  谷  鋼  造

    1. Aya Sofya 3026ペルシア語写本TB中のセルジュク朝の記事

     《TB冒頭部の第4部全体の内容説明[1 r, TB/txt : 2-3]の翻訳》

     第4部。アッバース家のハリーフアたちの時代にイーラーンの諸地方で独立して帝王権を行

    使した偉大なスルターンたちや高貴な王たちについて。彼らは7つの集団(ta'ifa)であり,

    【その数は】69名,彼らの帝王たる【期間は】ヤアクーブ・ブン・ライスの出現からマラーヒ

    ダの帝王フールシャーフ(Khurshah)の時代の終わりまでで400年。

    《TB第4部第5族セルジュク朝についての記事[79 r-80 V,TB/txt:229-34]の翻訳浄

    第5族セルジュク朝(Saljuqiyan)。彼らは14名であり,彼らの帝王たる【期間は】39年と

    rヶ月であった。

    I)Sultan Rukn al-Din Abu Talib Tughril-bik b. Muhammad b. Mika'ilb. Sulayman b。

    Saljuq

    セルジュク朝の最初である。 ガズニーのスルターンMahmudがIsra'il b. Sulayman b.

    Saljuqiを城へ送り,彼はそこで没したので,彼【Mahmud】の息子Mas'udの時代432年に

    Tughrilは反乱してホラーサーンを取った。 Qa'im bi-Amr Allah は彼にヒルアと協定書

    (ahd-nama)を送った。軍司令官(ispahbad)であったBasasiriがQa'imを廃位したので,

    Qa'imはTughril-bikに援助を求め,彼は来てBasasiriを滅ぼし, Qa'imをバグダードに連

    れてきた。【Tughril-bikは】Rukn al-Dinというラカブを得てホラーサーンへ戻り, 442年

    に没した。彼の帝王たる期間は10年であった。

    II) Sultan 'Izzal-DinAbu Shuja' Alb Arslan Muhammad b. Tughril-bik

    極めて威厳のある勇敢な帝王であった。全世界に攻撃をかけた。Fadlawavhと共にファー

    ルスヘ来てファールスを取った。【ファールスはその後】8年と5ヶ月,ダイラム人たちの時

    代の終わりからサルグル朝(Salghuriyan)国運の軍旗の出現までセルジュク朝に領有された。

    この期間7名が彼らの代理として支配者となった。初代はFadlawayh Shabankara,第2代

    はZayn al-Din Khumar-tikin,第3代はアタベグJalal al-Din Jawli,ファールスのシャ

    バーンカーラの制圧は彼の手でなされた。第4代はアタベグQaraja,第5代はアタベグ

    Manku,第6代はアタベグBuzaba,第7代はMalikshah Saljuqi。スルターン'Izz al-Din

    Albarslanは12,000騎を率いて30,000騎を有するルームのカイサルArmaniyusに向かい,

    彼らを敗走させた。カイサルは,極めて身分が低いため閲兵の際,閲兵官がその名を記さず,

    バグダードのシフナSa'd al-Dawlaが「書け,【彼が】ルームの王を捕らえるかもしれぬ」と

    言ったほどの,あるルーム人のグラームの手で捕虜となった。【スルターンは】カイサルの

    -3

  • Aya Sofya 3605ペルシア語写本Nizam al-Tawarikh中のセルジュク朝関連の記事について(下)

    Armaniyusが毎日1,000ディーナールを支払うという条件で,彼に生命の保証を与えた。治

    世の終わりにマーワラーアンナフルヘ向かい, BRMの城を取った。城主が連行された。彼に

    【スルターンは尋問したが】正直に言わなかった。 スルターンは彼に懲罰を与えるように命じ

    た。 彼は短剣を抜き,スルターンを狙った。 グラームたちは彼を阻止しようとしたが,スル

    ターンは弓射に自信を持っていたので【彼らを】押さえ,彼を射ようとした。スルターンの死

    期が来ていたので,矢は外れ,彼がスルターンを襲い,短剣で刺し,スルターンは死んだ。

    454年のことで,彼の帝王たる期間は12年であった。

    Ill)SultanMu'izz al-DinAbu al-FathMalikshah b. Alb Arslan

     知識かおり,公正な帝王であった。世界の多くの地方は彼の占有下にあった。 Nizam

    al-Mulk Hasanが彼のワズィールであった。次の詩が彼の問答について詠まれてきた。

    詩:全ての帰すべきところは1行に作詩されてきた。

    聞け,おお,サーヒブNizam al-Mulk マウラーナーHasanよ。

    条件と夢解きと驚愕,期間と否定と情報。

    否認と拒絶と関係,敬意と調査と私。

    イマームたちのうちImam al-Haramaynが彼の同時代人であった。 477年に没した。彼の

    帝王たる期間は23年であった。

    IV) Sultan Rukn al-DinAbu al-Fawarisb.Kayaruq b.Malikshah

    父の皇太子(wall al-'ahd)であった。遺命(wasayat)により後継者(gayim maqam)となっ

    た。 兄弟のMahmudやMuhammadと戦った。 Mahmudは彼の時代に没した。 Hasanb.

    'All Sabbah al-Himyariが現れ,'Abd al-Malik b.'Attashをイスファハーンへ,その地方を

    取るために送った。スルターンKayaruqは489年に没した。彼の帝王たる期間は12年で

    あった。

    V) Sultan Ghiyath al-DinAbu Shuia' Muhammad b.Malikshah

     兄弟の後帝王となった。バグダードに向かった。彼の父のグラームであったAyazと

    Sadaqaが彼と戦い, Sadaqaは殺害され, Ayazは捕虜となった。戻るとシャーフ・ディズ

    の旬間に行乱'Abd al-Malikb.'Attashを城から降ろし,惨めな格好で殺した。502年のこ

    とであった。彼の帝王たる期間は13年であった。

    VI)Sultan Mu'izz al-Dawla Abu al-Harith Sanjar b. Malikshah           -

     兄弟たちの時代ホラーサーンの王であった。 その後スルターンとなった。 Mughith al-Din

    Abu al-Qasim Mahmud b. Muhammadが彼に反乱したが,敗北し,その後御前に来て詫び

    たのでスルターンはイラークにおける自らの代理の地位を彼に与えた。 Abu al-Qasimは4年

    後に亡くなった。彼の時代にグズたちがジャイフーンを越えた。スルターンのワズィールで

                                    3)あったMudabbir al-Mulk 'Ajami はスルターンに彼らを攻撃させ,スルターンは捕虜となっ

  • 井  谷  鋼  造

    た。グズたちはホラーサーン,牛ルマーン,ファールスの王権を得た。グズだちと交際のあっ

    たスルターンのマムルークたちの一団がスルターンを逃亡させてティルミド(tirmid)の城へ

    連れていった。 そこで542年のラビーウ1月に没した。彼の帝王たる期間は40年であった。

    死に際に次の句を詠んだ。

    詩:世界を征服する剣,城を開城させる戦斧によって

    世界は私に従うものとなった。身体が思考(ray)に従うように

    一度手を見せるだけで私は多くの城塞を取った。

    一度足を踏みしめるだけで私は多くの戦列を破った。

    死が襲いかかったとき,それは何の役にも立たなかった。

    永続は神の永続であり,王権は神の王権なのだから。

    VII)SultanRukn al-DinAbu TalibTughril b.Muhammad b.Malikshah

     叔父の代理で,父の後継者となった。

    VIII)Ghiyath al-Din Abu al-Fath Mas'ud b. Muhammad

     兄弟の後17年イラークのスルターン権を叔父の代理で行使した。彼の時代グズがスルター

    ンに反乱した。彼と兄弟の間で何度も戦いがあった。マワーリーは彼らの死を歓迎した。アー

    ザルバイジャーンのアタベグIldikiz,イラークのアタベグPahlun,ファールスのサルグル朝。

    のように。

    IX)SultanMughith al-DinAbu al-FathMalikshahb.Mahmud b.Muhammad

     自らの息子Mas'udとMuhammadをアタベグBuzanaとTaj al-Dinwazlrと共にファー

    ルスヘ送った。自らはバグダードへ行った。Buzanaは彼らをイスファハーンへ連れていき,

    Muhammadを即位させた。 スルターンは彼らの方へ向かい, Bawaznaを殺した。叔父が亡

    くなるとMalikshahは後継者となったが,アミールたちを顧みなかった。アミールたちは一

    致して歓待中に彼を捕らえ,監禁した。彼の帝王たる期間は4ヶ月であった。彼の時代牛プ

    チャク地方(nawahi-yi Qifjaq)からトゥルクマーンの数集団が来た。 Ya'qub b. Arslan

    al-Afshariが多数の部衆と共にフーズィスターンを選択した。アタベグMuzaffar al-Din

    Sunqur b. Mawdud al-Salghuriがファールスへ来て,43年にMalikshahに反乱してファー

    ルスを取った。555年に没した。彼の後アタベグZangi b. Mawdudが14年帝王権を行使し

    た。571年の終わりに没した。彼の息子アタベグWaklaが後継者となり,20年間ファールス

    で帝王権を行使し,591年に没した。

    X) SultanGhiyathal-DlnAbu Shuja'Muhammad b.Mahmud

    父の後帝王となった。 バグダードを包囲した。 その間に兄弟のMalikshahとArslan b.

    Tughrilの母の夫,アタベグIldikizがArslanと共にハマダーンを包囲したことを聞いた。

    そのため彼らを排除するために戻った。ハマダーンへ来ると、彼らは敗走し 彼はIldikizの

  • Aya Sofya 3605 ペルシア語写本Nizam al-Tawdrtkh中のセルジュク朝関連の記事について(下)

    領土をめざした。 554年に結核のため没した。死に際に軍のアミールたちが騎乗し,宝庫にあ

    る全ての財宝とグラームや女奴隷たちを彼に見せるように命じた。彼は見物場からそれらを眺

    めて泣き,言った。「これら全てのアミールたち,軍隊,配下,家臣,金,宝石も私の苦痛の

    一かけらをも減らせないし,私の生涯を一瞬でも増やせない。全生涯を俗事に努めるとは何と

    不運な者よ」と。そしてそれら全ての財をその場にいた者たちに与えた。幼い息子があったが,

    「アミールたちが服従すると知っている」と言って彼をマラーガの総督(wall)Aqsunqur

    Ahmad Damil に託した。彼の帝王たる期間は3年と4ヶ月。

    XI)Mu'ayyad al-DinAbu al-HarithSulaymanshah ibn Muhammad b.Mas'ud

     Ghiyath al-Dinの後アミールたちは相対立し,ある者は彼の兄弟のMalikshahに傾き,あ

    る者は彼らの叔父Sulaymanshahに【味方した。】Sulaymanshahがイスファハーンへ着く

    とファールスのアダ゛グTakla,フーズィスターンの総督Shamla Turkan,カーディーSadr

    al-Din Khujandiの息子が彼と共にあり,【Sulaymanshahは】イスファハーンを彼【カー

    ディーの息子】に託した。ハマダーンの境域にいた軍を呼んだが,従わなかった。

    Sulavmanshahは肪らtの戦いに行吉。555年のラビーウl月に捕らえられ、絞殺された。

    彼の帝王たる期間は6ヶ月であった。アタベグIldikizの妻の子, Tughrilの子Arslanがハ

    マダーンで帝王に即位した。 15年と7ヶ月帝王権を行使し,ハマダーンで没した。暫くアタ

    ベグIldikizが絶対の支配者であり,彼の後その兄弟Qizil Arslanが即位したが,フィダー

    イーたちの手で殺された。【この】地方におけるセルジュク朝の帝王位は終わったが,ルーム

    のスルターン位は現在までスルターン■Aぼal-Din QilijArslan b. Mas'ud b. QilijArslan b.

    Sulaymanの子孫が保有していたが,滅亡した。

    2. NT及びTB中のセルジュク朝に関する記事への訳注と解説

     (上)で訳出したNT,及び本稿で訳出したTB[|コのセルジュク朝に関連する記事への訳注

    と解説を以下で行うこととする。上記のTBの記事からも明らかなようにペルシア語史料NT

    とTBの間には下線部の記事を除いて記事の内容上,表現上での類似が少なくない。実は,

    TBの下線部の記事についても以下の解説で触れるようにそれらがNTの別の箇所に由来して

    いると考えられるものがいくつかある。具体例に則してそれらを挙げてみたい。

     訳注と解説を行うに当たって, NT, TBに先だって著述されたペルシア語によるセルジュク

    朝史,ラーヴァンディー(Najm al-)inAbu Bakr Muhammad b. 'AH b. Sulayman al-Rawandi)

                 _                                  9)作の尺萌d al-Sud口r wa Ayat d一Surur (『胸の安らぎと喜びの証』1206/7年完成。以下RSと略),

    年代的にはNTとTBの中間に著述されたラシードゥッディーン作のJami' al-Tawankh (以

    下JTと略)のセルジュク朝に関する部分,また,NT,TBよりも後に成立したハムドゥッラー

  •                   井 谷 鋼 造

    フ・ムスタウフィー(恥md Allah Mustawfi Qazwini)作のTankh-i Guzida (以下TGと略),

    シャバーンカーライー(Muhammad b.'AH Shabankara’l)作のMajma'al-Ansdb (以下,サンタ

                                            10)ト・ペテルブルグ所在の写本をMA.イーラーンで出版された校訂テクストをMA/txtと略)中のそれ

    ぞれセルジュク朝に関する部分を参照した。また, NTについては(上)で参照できなかった

    校訂テクストの一つ, Nizam al一Ta旬artkh(A generalhistoryofIran),Hakim Sayyid Shams

                                            10Allah Qadri (introduction& indices),Hyderabad-Deccan, 1930.を利用できた。(以下NT/

    txtと略)このテクストは現在インドのアリーガル・ムスリム大学に留学中の京都大学大学院

    生,真下裕之氏のご好意によりコピーを人手できた。記して謝意を表したい。

     《NT,TBの第4部全般についての説明への訳注と解説l

     (上)の7頁においてNTでは第4部がアッバース朝時代にイーラーンを支配した7つの集

    団=王朝をまとめて,その支配者数78 名,支配期間420年としているが,実際にNTでは9

    つの集団(TBの7集団にサルグル朝とムグールが付加される)の歴史が述べられ,各集団の冒頭に

    記録される支配者数を合計すると,最後のムグール(モンゴル人)を除いて87名となる。(サッ

    ファール朝3,サーマーン朝10,ガズニー朝12,ダイラム人18,セルジュク朝14,マラーヒダ7,サル

    グル朝15,ホラズムシャーフ8)このうちサルグル朝は(上)でも述べた通りNTの著者バイ

    ダーウィーの出身地ファールスを支配してバイダーウィー個人とも直接のつながりがあった関

    係でNTに記録が残された地方政権であり,TBではこの王朝は独立して記述されていない。

    支配者数の合計87 名からサルグル朝の15名を引くと72名となるが,この数字もTBに言う

    支配者数の合計69名と合わない。実際の支配者数の合計87名とNTの記す78名,及びTB

    の記す69名という相違が何に由来するのか,今のところ説明はつけられない。 NTに関して

    は実際の合計であるペルシア語の87 (hashtad u haft)という数字が78 (haftadu hasht)と誤

    記されたことも可能性としては考えられる。但し確証はない。支配期間の420年(NT)およ

    び400年(TB)についてはいずれも問題がない。NTの著作されたヒジラ暦674年からサッ

    ファール朝のヤアクーブ・ブン・ライスの出現した255年[NT : 148 V,NT/txt:56]までは

    419年,[TB: 83 V, TB/txt : 244]によるとマラーヒダ(イスマーイール=ニザール派)最後の教

    主フールシャーフの死は655年であり,この年から前述の255年まではきっかり400年となる

    からである。

     《NT,TBのセルジュク朝に関する記事への訳注と解説y

     (上)の8頁に訳出したように[NT : 158r-v,NT/txt : 68]ではセルジュク朝の支配者数は

    14名,その統治期間は約160年とされている。 しかし(上)の13頁に訳出した,最後の二人

    のスルターン,アルスラン,トグルイル父子についてはその名や事績についての記録が混乱し

                        -7-

  •   Aya Sofya 3605ペルシア語写本Nizam al-Ta肋ankh中のセルジュク朝関連の記事について(下)

    ているので13人のスルターンしか在位しなかったようにも読める。さらにTBではNTで第

    7代に数えられるマフムードについての, NTでも僅か1行の記録が第6代サンジャルの記事

    の中に吸収されてしまっており,最後のスルターン,トグルイル(n世)についてはその名も

    出てこないので,表面的には11人のスルターンの名前しか見えない。統治期間については

    NTの約160年という数字は妥当なものである。 NTではセルジュク朝最初のスルターン,ト

                               ■i)グルイル・ペグの記事[NT : 158 V, NT/txt : 69]に見える(4)55年という記年を除いて年代

    に関する記録がない。そこに記されるようにトグルイル・ペグの在位期間が26年であったと

    すれば彼の即位は, 429年であったことになり,[RS : 371]によればセルジュク朝最後のスル

    ターン,トグルイルII世が,ホラズムシャーフ,テキシュの軍に敗死するのが590年であるか

    らセルジュク朝の統治期間は約160年となるのである。一方TBの記す39年と7ヶ月という

    数字は全く事実に合わない。[TB/txt : 229]では139年と百の数字が補われているが,これに

    しても160年との間には大きな隔たりがある。以下でもこのような例は現れるが,TBの記す

    数字には誤りが多い。何故そのような誤りが生じたのかについては明確な解答を与えることは

    できないが。以下ではセルジュク朝歴代のスルターン各人の治世の記録ごとに訳注と解説を付

    することとしよう。

    I)NTのセルジュク朝初代トグルイル・ペグについての記事は極めて短い。それに対してTB

    ではトグルイルの勃興と,彼の時代にトゥルク系マムルーク上がりの将軍バサースィーリーが,

    ミスルに本拠を置くイスマーイール派のファーティマ朝の援助を受けて決起し,トグルイル・

    ベグが従兄弟イブラーヒーム・イナルの反乱鎮圧のため不在の隙をついてバグダードに入り,

    スンナ派のアッバース朝ハリーファ,カーイムを捕らえて丸1年以上監禁し,その間バグダー

    ドではファーティマ朝のハリーファ=イマーム,ムスタンスィル(在位1036-94)の名でフト

    バが読まれるという前代未聞の大事件(1058-60年)のことが手短に触れられている。しかし,

    NTにはもともとそれらの記事がないわけではなく,たとえば,ガズユー朝のスルターン,マ

    フムード(在位998-1030)の記事の末尾には次のような記述がある。

     最後に【マフムードは】Isra'Il b. Sulayman b. Saljuqをマーワラーアンナフルから呼ん

    だ。彼ら【セルジュク集団】の多さについて持っていた恐怖のため彼をヒントの地にある

    Kalinjarの城塞へ送った。彼【Isra'il】はそこで死んだ。彼らが反乱し,彼【マフムード】

    の子孫が弱体化する原因は彼【Isra'Il】を捕らえたことにある。[NT : 151 r-v,NT/txt: 60]

     これに相応する記事はTBのガズニー朝の部分にもあり,[TB: 78 r,TB/txt:226]僅かに

    「ヒントの地」の部分が「スィンドの地」となっているだけで,他は表現上も上記のNTの記

    事と全く同一である。つまり, TBの記事はこの部分をセルジュク朝の勃興史においても繰り

                        -8-

  • 井  谷  鋼  造

    返したのである。NT,TBに先立つセルジュク朝史RSにはガズナのマフムードと当時のセル

    ジュク家の代表者,上述のイスラーイールにまつわる物語が詳しく述べられ,[RS:87-91]

    によれば,結局イスラーイールはマフムードに捕らえられ,ヒンドゥースターンのKalinjar.

    城塞に7年間監禁された後そこで死亡したことが語られている。NT,TBの記事はこれを承け

    て簡潔にまとめたものであろう。因みにここに現れるイスラーイールという人物はルームのセ

    ルジュク朝の祖であり, NT, TB共にIsra'Il b. Sulayman b. Saljuq(TBではSaliuqi)となっ

    ているが,[RS: 87]ではイスラーイールはセルジュク朝の名祖セルジュクの4人の息子のう

    ちの長子であり,正しくはIsra'ilb. Saljuqとならなければならない。イスラーイールとセル

    ジュクの間にスライマーンの名が入っている理由は不明であるが,NTとTBの表記が完全に

    一致していることから見てTBがNTの記事を踏襲したことが窺われる。TBではトグルイ

    ル・ベグの系譜がTughril-bikb. Muhammad b. Mika'Ilb. Sulayman b. Saljuqとなってい              ー

    るが,(但し,[TB/txt: 229]ではTughril-bikMuhammad)最初のTughril-bik b. Muhammad                                     -

    は明らかに誤りで,トグルイル・ベグはこの人物のトゥルク語名であり,ムハンマドは同一人

    物のイスラーム教徒としてのアラブ名である。従って息子という意味の「ブン」の語はトグ

    ルイル・ペグという名とムハンマドの名の間に不要であり,トグルイル・ベグについてTBの

    表記はMika'Il b. Sulayman b. Saljtiqの部分を含めてNTのそれより明らかに不正確である。

     次にバサースィーリーの事件についてもNTの第3部第3層のアッバース朝第26代ハリー

    ファ,カーイム(在位1031-75)に関する部分に以下のような記事がある。

     彼の時代ホラーサーンにTughril-tikin b. Mika'ilb. Sulaymanが現れ, Qa'im bi-Allah        -   -

    は彼にヒルアを送り, Rukn al-Dawlaというラカブを与えた。 その後バグダードの軍司令

    官(isfahbadh)BasasiriがQa'imbi-Allahに挑んだので【Qa'imは】Tughril-tikinに援助        -   -

    を求めた。【Tughrilは自らのワズィールである】'Amidal-Dawlaに言った。「彼【Qa'im】               -

    に全幅の信頼が生じるような簡潔な返答を書け」と。'Amid al-Dawlaは書いた。「我らは                一

    必ずや彼らがそれに立ち向かえないような軍隊を率いて彼らのところへ来て,彼らを惨めな

    恰好で追い出すであろう。彼らは小人どもである。」【『クルアーン』27章37節の冒頭2語

    を除く全文】スルターンは完全な【装備の】軍を率いて行き,ワースィトとクーファの間で

    戦い, Basasiriは敗走した。スルターンはそこからハリーファの御前へ行き,彼をバグダー

    ドへ連れ戻した。町に近づくとスルターンは下馬し,鐙を取って歩いていた。ハリーファは

    勧めて言った。「馬に乗れ,おお,Rukn al-Dinよ」と。その日以来スルターンたちのラカ

    ブはDawlatからDinに変わった。バグダードの税(mal)はスルターンたちの占有すると

    ころとなった。[NT: 145r-v,NT/txt:51]

  • Ay a Sofya 3605ペルシア語写本Nizam. al-Tawdrikh中のセルジュク朝関連の記事について(下)

     この記事に対応するTBのカーイムに関する記事[TB : 68v-69 r, TB/txt: 198-9]はスル

    ターンのラカブがダウラ(国運, Rukn al-Dawla)からディーン(宗教, Rukn al-Din)に変わっ

    たという上記の下線を付した部分を除いてNTとは一致しない。ここに訳出した記事の中で

    奇妙なことはスルターン,トグルイル・ペグの名がTughril-tikin,彼のワズィール'Amid                    -

    al-Mulkが'Amid al-Dawla,さらにハリーファ,カーイム(al-Qa'im bi-Amr Allah)の名が

    -10-

    Qa'im bi-Allah となっていることである。これらは誤記に違いないが,NTの校訂テクストで

    も訳文の最初のカーイムの名を除いて上記のようになっていることから, NTの写本ではこの

    ような表記が継続されていったと推定される。 以下でも,上記のIsra'il b. Sulayman b.

    Saljuqのような例を含めてNTでは人名の誤記,誤写が少なくない。

     437(1045/6)年カーイムがトグルイル・ペグにRukn al-Dawlaのラカブを与えたこと[RS:

    105,JT : 21,TG : 429],バサースィーリー事件の際,救援を求めたカーイムの書状に対してト

    グルイル・ベグのワズィール,アミードゥルムルクが部下の書記Safi Abu al-‘AlaHassulに

    「彼らのもとへ戻れ」という意味の冒頭の2語を省略せずにイスラームの聖典『クルアーン』

    27章37節の章句全文を返答として送らせたこと[RS : 109, JT : 24, TG : 354, MA : 165 r-v,

    MA/txt: 99],バサースィーリー討伐後バグダードにカーイムを連れ戻った時のハリーファの

    トグルイル・ベグに対する言葉「馬に乗れ,おお, Rukn al-Dinよ」とこれによってトグ

    ルイル・ベグのラカブがダウラからディーンに変わったこと [RS : no, JT : 25, TG : 355,

    MA : 165 V,MA/txt: 100]はいずれもラーヴァンディーがすでに記録しており,ラシード,ハ

    ムドゥッラーフ・ムスタウフィー,シャバーンカーライーがそれを殆どそのままの形で踏襲,

    引用している。また,トグルイル・ペグが455年ラマダーン月8日(1063. 9.4 )にライの郊外

    で病没したこと[RS : 112,JT : 27,TG : 430,MA : 165v,MA/txt : 100],その在位期開か26年

    であったこと[RS : 98,jt: 28-9, MA: 165 V, MA/txt : 100]もラーヴァンディーに記録があ

    るが,TB中のトグルイル・ベグがホラーサーンに戻り, 442(1050/1)年に没したこと,及び

    その在位が10年であったという記述は他の史料に共通する記事がない。いずれも明らかな誤

    りであり,TB中の年代,数字の誤記,誤写は以下でもたびたび現れる。但し,TB中の432

    (1040/1)年にトグルイル・ベグがガズユー朝のスルターン,マスウードに反乱したという記

    述は,[TG : 428]によれば,この年にあった,セルジュク集団とガズニー朝軍のホラーサー

    ンの覇権をめぐるダンダーナカーンの戦いのことを言ったものであろう。

    II)NTではセルジュク朝の第2代スルターン,アルプ・アルスランの名はAbu Shuja'

    Albarslan Muhammad b. Ja'far-bik b. Mika'Ilとなっており([NT/txt:69]でも同様),TB

    ではAbu Shuja' Alb Arslan Muhammad b. Tughril-bik となっているが,いずれもその父

    の名が誤りである。周知のように初代トグルイル・ベグには男子がいなかったので,彼を継い

    だアルプ・アルスランはトグルイル・ペグの兄弟チャグル・ベグ(Jaghri-bik <Chaghri-beg)

  • 井  谷  鋼  造

    の子である。おそらくNTの著者バイダーウィー自身,あるいは写本のコピイストがトゥル

    ク語で鷹の意味の「チャグル」の綴りをイスラーム教徒によくあるアラブ名「ジャアファル」

    と読み誤り,あるいは読み替えてJGhRYをJ'FRと記したのである。一方TBの表記は明ら                ー

    かに不注意から生じたと思われる誤りである。

     TBの記事ではアルプ・アルスランの記事に「8年と5ヶ月」ファールスを支配した7名の

    支配者名が出てくるが,これは明らかにNTのサルグル朝に関する記事の冒頭にある記録に

    基づいている。 TBには独立した記事のないサルグル朝の項目でNTは次のように述べる。

    パールスはダイラム人たちの時代の終わりから彼ら【サルグル朝】の時代の初めまで約

                                         一

    80年セルジュク家の占有下にあった。 455年にスルターンAlb Arslanがパールスに来て

    【そこを】取った。Fadlawayhを任命した。 543年にサルグル朝が反乱し,帝王位が彼らに

    定められるまで何年か彼ら【セルジュク朝】の側から7名の者が統治してきた。[NT : 164

    V-165 r,NT/txt : 74-5]

    としてTBに挙げられる7人の名が簡潔な説明と共に以下に続く。但し,NTでは第2代の

    Khumar-tikinのラカブがRukn al-Dawlaに,第5イ戈はMankubarsに,第6代はTuraba

    にの表記については後述)に,第7代はMalikshah b. Sultan Mahmudになっている。後述す

    るセルジュク朝の第5代スルターン,ムハンマド(在位1105-18)時代に書かれ,このスル

    ターンに献呈されたファールス地方に関するペルシア語の地誌Fdrs-nama-yi Ibn al-Balkhi

    (以下FNIと略)によればKhumar-tikinのラカブはRukn al-Dawlaであり[FNI : 3,136,167],

    この点についてはNTの表記がより正確である。(但し,[TB/txt: 230]ではRukn al-Dinであ

    る)543 - 455 =88年となるNTの記事からも明らかなようにTBの記す,僅か「8年と

    5ヶ月」というこれら7名の統治期間は誤りである。 TBの記事は明白にNTに基づいて書か

    れていると思われるが,数字に関してはここでも誤りを犯している。 TBの,ファールスの支

    配者3代目のJalal al-Din Jawliの項目にあるシャバーンカーラについては後述するが,

    [NT:165r]でもこの人物による,シャバーンカーラ制圧について同内容の記事かおる。

     アルプ・アルスランの事績についてはNT,TB共に殆ど同一の内容と表現で,ルーム(ビザ

    ンツ帝国)の王Armaniyus (ロマタス・ディオゲネス)との史上に名高い1071年のマラーズギ

    ルドの戦い,及びその翌年のマーワラーアンナフル遠征中の不慮の事故死のことが語られてい

    る。このうちルーム王との戦いについては明らかにRSに基づいており(RSではルームの王の

    名はArmanusであり,[NT/txt : 69,JT : 33,TG : 433,MA : 166r,MA/txt: 101]でも同じ表記で

    ある。),ルーム王が閲兵官もその名を記そうとしなかったほどの身分の低い1グラームの手で

    捕虜となったことは[RS : 119]の記事そのままである。 NT,TBの記事中の「バグダードの

    -11-

  •   Aya Sofya 3605 ペルシア語写本Nizam al-Tawdrikh中のセルジュク朝関連の記事について(下)

    シフナ(軍政長官)Sa'd al-Dawla」とはAmir Sa'd al-Dawla Guhar-Ayinのことであり,こ

    の人物については専論かおる。(清水宏祐「ゴウハル・アーイーンの生涯」『東洋学報』76-1・2)

    NTだけに見える,戦いが行われたPul-i Kisraという地名([NT/txt: 69]ではこの部分はwa

    kasriとなっていて,意味上先行する12,000騎に続き, 12.000余騎の意味となり,地名として読むことは

    できない。アラビア文字の綴りKSRYはKisraともkasriとも読める)は他の史料には全く見えない。

     マーワラーアンナフル遠征の記事でアルプ・アルスランが包囲して取った((上)11頁の拙訳

    では「PRMの城を包囲した。」となっているが,正しくは「包囲して取った。」である。訳文を訂正した

    い。)城はNTによればPRM,TBによればBRMの綴りで書かれている。しかし,この城の名

    は[RS : 120,NT/txt: 70, JT : 40, TG : 433]によれば, BRZMと綴られているので, NT, TB

    の表記は誤記であろう。 RS, JTによれば,この城塞の城主はYusuf BRZMY であり,この人

    物が自らを弓射で処刑しようとしたアルプ・アルスランに逆襲し,スルターンを落命させる経

    緯についてのNT,TBの記事は上記のRS, JT, TGに加え,[MA : 166 r,MA/txt : 101]の記事

    とも一致している。但し,NTの記事では城主に一人の人物が付き添っていて,その人物がス

    ルターンを殺害したように読めるが,そのような人物のことは他の史料には全く見えない。

    [RS : 120, TG : 433]によれば,アルプ・アルスランの没年は465年ラビーウ1月(1072年11/

    2月)のことであり, TBの454年は明らかに誤りである。スルターンの在位12年の記録は

    [RS : 116, JT : 42, TG : 433, ma: 166 r, MA/txt: 102]にも記されており,この期間にはトグ

    ルイル・ベグが亡くなる以前に,アルプ・アルスランが父チャグル・ペグを継いでホラーサー

    ンに君臨した2年間を含めている。

    Ill)セルジュク朝の最盛期に当たる第3代スルターン,マリクシャーフについてのNT, TB

    の記事は,何故か極めて簡略である。このうちスルターン,マリクシャーフを全面的に支えた,

    セルジュク朝で最も有名なワズィール(宰相)ニザームルムルク(1092年没)が「サマルカン

    ドから帰還の際ジャイフーンの船頭たちの賃金をアンターキーヤに割り当てた」という逸話は

    RS以来同様の内容が[JT: 45 -6,TG : 435,MA: 166 V, MA/txt : 103]にも伝えられているが,

    TBにはなく, NTの記事は簡略すぎて逸話の意味がよくわからないので, (但し,[NT/txt:

    70]ではほぼ以下のような内容の説明が補足されている)[RS: 128-9]に基づいてこの逸話のfull

    versionを引用してみよう。

     スルターンの軍がジャイフーン【中央アジアのアム河】を越えた時Nizam al-Mulkは船

    頭たちの賃金の支払い書をアンターキーヤ【ジャームにある都市アンティオキアのこと】に

    宛てて書いた。 スルターンが乗馬すると船頭たちが助けを求めてきた。「我らは貧民です。

    我らの生活の糧はこの河に依っています。もしここから若者がアンダー牛-ヤに出かけても,

    戻るときには老人になっています」と。スルターンはNizamに言った。「おお,父よ,こ

    - 12-

  •                 井 谷 鍛 造

    の冷酷さは何なのか。我々はこのくにでアンターキーヤに割付をしなければならないほど手

    許不如意なのか」と。ワズィールは言った。「おお,主人よ,彼らは【その】場所へ行く必

    要はない。我々の配下が現金で彼らの支払い命令書を買い戻す。私めがこれを命じた訳は王

    権が偉大なものとなり,帝国が拡大したためである。そして世の人々が我々の国土の広さや

    帝王の命令がどこからどこまで行き渡っているかを知り,それを伝える者たちが歴史に【そ

    れを】書き留めるのである。」

    マリクシャーフの時代,セルジュク朝の領土は最大となり,マーワラーアンナフルからルーム,

    ジャームに達した。その領土の広さを伝えているのがこの逸話なのである。 TBに見える詩は

    他の史料にはなく,第2行目「条件と……」以下の表現はTBとTB/txtの間にかなりの相違

    があり,TBの表現では翻訳できなかったので,この部分の訳は[TB/txt: 231]に拠った。こ

    の詩はLSLL/LSLL/LSLL/LSLのramal韻の詩である。マリクシャーフの在位期間はNT

    が記すように20年であり,その没年は[JT : 54, TG : 439]によれば485年シャッフール月

    (1092年11/2月)であるので, TBの23年, 477年という数字はいずれも正確ではない。 NT,

    TBの両者に現れるImam al-Haramaynという人物はNTの記すように本名をAbu al-Ma

    'all 'Abd al-Malik al-Juwayniという,ホラーサーンはニーシャープール出身のアシアリー派

    神学者で,トグルイル・ペグ時代のアシアリー派神学弾圧の影響でヒジャーズへ赴き,マッカ,

    マディーナの両聖地で4年間教鞭を取ったため,イマームルハラマインの別名がある。アル

    プ・アルスラン時代以降ワズィール位に就いたニザームルムルクはアシアリ一派を厚遇したの

    で,ニーシャープールへ戻り,そこに設立されたニザーミーヤ・マドラサで後にセルジュク朝

    時代を代表する思想家となるガザーリーらを教えた。1085年没。(Encych卸

  • Aya Sofya 3605ペルシア語写本Nizam al-Tawdrikh中のセルジュク朝関連の記事について(下)

    また同頁でアルプ・アルスランの父の名は「ジャアファル」とされている。これらの表記の類

    似や一致は, DNAの校訂テクストの底本となったパリのBibliotheque Nationaleの写本

    (Ancient fonds Turc 250)が本稿で扱っているルームのカイセリで筆写されたAya Sofya 3605

    写本の系統のNTに基づいてそのトゥルク語韻文への「翻案」をおこなった可能性を示唆し

    ている。

     イーラーンにおけるマラーヒダ勢力勃興の立役者ハサン・サッバーフの名はTBでは

    Hasan b. 'All Sabbah al-Himyariとなっているが,[NT: 163 r]のマラーヒダを扱った部分

    の冒頭に現れるこの人物の名はHasan b. *Ali b. Muhammad al-Sabbah al-Himyariとなっ

    ているので,TBの表記はむしろこれに倣ったものであろう。ハサンがイスファハーン郊外の

    マリクシャーフが建設した城塞,シャーフ・ティスベ送ったとされる人物の名は[RS : 156,

    JT: 69-70]によればAhmad b. 'Abd al-Malik 'Attashであり,父子共に有名なイスマー

    イール派のダーイー(宣教者)であったイブン・アッターシュの息子アフマドのことがここで

    は話題になっているのだが, NT, TBではこれ以後もアフマドの名は現れない。これに関連し

    て(上)の拙訳11頁で。「イスファハーンのシャーフ・ディズ」の前に「教師として

    (bi-adibi)」という部分を訳し落としているので,ここで補足したい。[JT : 66]によれば,ベ

    ルクヤルクの没年は498年ラビーウH月2日(1104.12.22)であり, TBの489年という記年は

    正しくない。ベルクヤルクの在位が12年であったことは[RS : 138,JT : 66, MA : 168 r,MA/

    txt: 107]でも同様に記録されており, NT, TBの記述とも問題はない。

    V)異母兄であるベルクヤルクとの熾烈な後継者争いに結果として残ったムハンマド(I世)

    の時代はセルジュク朝政権がやや小康を回復した時期であった。 NT,TBのムハンマドに関す

    る記事の内容は,彼の,兄ベルクヤルクを支持していたアヤズ,サダカとのバグダードにおけ

    る戦いとマラーヒダの立て箭もるシャーフ・ディズ攻略に絞られている。このうちアヤズ,サ

    ダカの討伐についてのNTの記事は明らかに[RS : 153-4]の記述に拠っており,戦いの際

    敵軍の上空に「口から火を吐く龍の形の黒雲のしるし」が現れ,その恐怖から敵軍が武器を投

    げ捨てて逃散したことは殆ど同じ表現で[JT : 68-9, TG : 444,MA: 168 r,MA/txt : 108]にも

    記録されている。

     シャーフ・ディズ攻略戦は[RS : 153,158]によれば7年にもわたる長期の戦いとなったが,

    最終的にマラーヒダ側か降伏し,[RS : 161]では降伏したアフマド・アッターシュはイスファ

    ハーンで7日間吊された後,矢の雨を浴び,最後はイスラーム教徒にとって最大の屈辱となる

    遺体焼却の仕打ちを受けたという。ムハンマドの没年は[TG : 447]によれば, 511年ズル

    ヒッジャ月24日(1118.4.18)であり,TBの502年という記事は正しくない。ムハンマドの在

    位が13年であったことは[RS : 152,JT : 78, MA : 168 V,MA/txt:109]でも同様に記録され

    ている。

    14-

  • 井 谷  鋼 造

    VI)第6代スルターン,サンジャルはいわゆる「大セルジュク朝」最後の君主であり,彼の

    死をもってセルジュク朝の東部イーラーン(ホラーサーン)支配は実質的に終焉し,以後のセ

    ルジュク朝政権はキルマーンやルームの独立政権を除いて全てサンジャルの同母兄ムハンマド

    の子孫たちが継承し,イラーク.(またはアジャム)のセルジュク朝と呼ばれる。サンジャルはム

    ハンマドの死後自らの任地のホラーサーンからイラークヘ来てムハンマドの子,マフムードを

    実力で屈服させ,宗主権を認めさせた上でイラークの支配者の地位をマフムードに与えた。上

    記のセルジュク朝の支配者数のところでも述べたが,マフムードに関する記事はTBではサン

    ジャルの部分に吸収されてしまっており,僅か1行分にすぎないが, NTのように君主として

    独立した記録がないのはこのような事情によるのであろう。 NT,TBのサンジャルに関する記

    事の内容は彼にグズすなわちセルジュク家自身の出身部族であるオグズ=トゥルクマーンが反

    乱した経緯がその大半を占めている。この事件はサンジャル自身にとっても,またセルジュク

    朝全体にとっても極めて重大な事件であり, NT, TBが記すようにサンジャル自身が捕虜と

    なってしまうのである。 TBよりはNTの記事がより詳しいが,ここでもNTがRSを基にし

    たことは両者の記事を読み比べれば疑う余地がない。 NT,TB共にMudabbir al-Mulk

    'Ajamiという人名が現れるが,この人名はRSには見えず,代わりにサンジャル時代の有力

    者としてAmir Mu'ayyad-i Buzurg, Yuriinqush, 'Umar 'Ajamiという3人の名が[RS:

    179,JT : 95]に見える。 Mudabbir al-Mulk という語が「王権の執行者」という意味の普通名

    詞であって特定の人物のラカブでないとすれば, Mudabbir al-Mulk 'Ajami という人名とお

    ぼしき語の中でアジャミーというニスバのみが固有名詞であるということになる。このアジャ

    ミーとはRS, JTに見える「ウマル・アジャミー」のことであろう。アミール・ムアイヤド・

    アイアパ(AmirMu'ayyad Ay-aba)はサンジャルのグズからの解放に重要な役割を果たし,さ

    らにサンジャルの没後はセルジュク朝政権亡き後のホラーサーンの実力者となり,ホラーサー

                               13)ンの覇権をめぐってホラズムシャーフに対抗する人物である。アイアパがサンジャル時代,ま

    たその後の歴史の中で「王権の執行者」と呼ばれても不思議ではない。このようなことを考え

    合わせると,確証はないが, Mudabbir al-Mulk 'Ajamiなる人名はここに挙げた3人,もし

    くはアイアパとウマルの二人の名が混乱,合体,誤記された結果現れた形ではないかと筆者は

    推測している。(上)12頁の拙訳で「狩をしながらジャイフーン河の畔で遊んでいた。ティル

    ミズの境界に入った時そこで【スルターンが】死去した。」と訳した部分があるが,[NT/txt:

    72]では「ティルミズの境界に達した時舟に乗り,戻ってティルミズ城に行った。そこで死去

    した。」と補足されている。但し,[RS : 184,JT : 102,MA : 170 r,MA/txt: 113]によればサン

    ジャルは551 (1156/7)年に彼の国都マルウで死去したとされ,[TG : 452]ではその死亡の日

    付は552年ラビーウ1月26日(1157.5. 8)となっているのでティルミズで没したというNT,

                              14)TBの記事及びTBの542年という記年はそれと合わない。 また,NTでグズの各戸が「1マ

    - 15

  •   Aya Sofya 3605ペルシア語写本Nizam al-Tawartkh中のセルジュク朝関連の記事について(下)

    ンの銀」を支払うという記事は[RS : 179, JT : 97, MA : 169 V, MA/txt : 112]ではいずれも

    「7マンの銀」となっており,銀の額が合わない。(但し[TG : 451]では「1マンの銀」である。)

    NTの記す,セルジュク朝時代最大の思想家イマーム,ガザーリー(1111年没)の弟子

    Muhammad b, Yahyaのグズたちによる拷問死は[RS : 181, JT : 98, MA : 169 V, MA/txt :

    112]に同内容の記事が見える。NTにはなくTBにのみ見えるサンジャル自作の辞世の詩は

    SLSL/SSLL/SLSL/SSLのmujtathth韻に拠っており,[TG : 447]に全く同文で収録され

    ているが,そこではサンジャルの兄ムハンマドの作とされている。 TBではサンジャルのラカ

    ブがMu'izz al-Dawla となっているが,これはNTの記すようにMu'izz al-Din が正しい。

    -16-

     TBにはなくNTにのみ見える「シャバーンカーラ」について述べておこう。この名は本稿

    でたびたび登場するペルシア語史料MAの著者シャバーンカーライーのニスバ(由来名)の元

    になった地名であるが,セルジュク朝初期の時代には明らかに集団名として現れてくる。アル

    プ・アルスラン,マリクシャーフ父子2代に仕えたセルジュク朝を代表するワズィール,ニ

    ザームルムルクが著した『統治の書J Siyar al-Mu碓k (以下SMと略)に見える「シャバーン

    カーラ」の語は明白に集団名であ石。[SM : 61 V, 62r,SM/txt : 136,138]またスルターン,ム

    ハンマド時代のフア^-ルス地方の地誌であるFNIには次のような記述がある。

     古い時代シャバーンカーラについてはパールスで語られることもなかったが,彼らは一つ

    の民族(qawm)であり,その生業は羊飼い,薪運び,賃労働などであった。ダイラム時代

    の終わりの混乱期にFadlawayhが立ち,かれらの威勢があきらかになった。時と共に,

    【彼らの勢力は】増大し,全てが軍人となり,武装し,イクターウの保有者となった。

    [FNI:164]

     この記述によれば,「シャバーンカーラ」とは上述のアルプ・アルスランのところに現れた

    ファドラワイフ,もしくはファドルーヤと呼ばれる人物の出現と共に強勢となった集団名であ

    ることは間違いない。ところが,上記のTBのアルプ・アルスランについての記事,及び

    [NT : 165 r,NT/txt:75]のサルグル朝の記事の冒頭に見えるようにファールスの「シャバー

    ンカーラ」はセルジュク朝側の支配者アタベグ,チャヴル(Jalal al-DinJawl<Chavli)によっ

    て抑圧,根絶させられてしまったという。(上)の3頁にも引用した14世紀の地理情報を多く

    含むTGの著者ハムドゥッラーフ・ムスタウフィー作のNuzhat al-Qu謐b (以下NQと略,尚。

                               15)この書物は情報源としてFNIを利用したことを明記している。NQ/LS,NQ/DSはそれぞれLe strange,

    Dablr-siyaqiによって校訂されたテクストを示す。)では「シャバーンカーラ」はファールス東方の,

    ファールス,キルマーン,ファールス海(ペルシア湾)に挟まれた地域(NQ : 277r- 78 r,NQ/

                         IS)LS: 138-9, NQ/DS : 167-9]の名前である。つまり,初め集団名であったものが後に地域名

  • 井  谷  鋼  造

    へと変化していったのである。[ma: 182 V-193 r,MA/txt : 151-81]に長い記述のある,新旧

    2集団からなる「シャバーンカーラ」の王たちの歴史は集団としての「シャバーンカーラ」と

    地域としての「シャバーンカーラ」両方の意味を併せ持った内容となっている。

    VII)[RS : 203-5]によればスルターン,マフムードは511年,父ムハンマドの死後即位し,

    8ヶ月後イラークに到来した叔父サンジャルと戦い,敗北したが,叔父の宗主権を認めて赦さ

    れ,イラークの支配権を託された。 525年シャッワール月11日(1131.9. 6)に没したという。

    従って在位期間は14年になるが, NT及び,その叔父サンジャルの記事に含まれているTB

    の在位が4年という記事はこれと合わない。おそらくは10という数字が書き落とされたもの

    であろう。

    Vm)スルターン,トグルイル(I世)についてはRSの記事も実質的には極めて短い。 この

    スルターンもまたホラーサーンの叔父サンジャルの宗主権下に3年間在位し,[RS : 208,it:

    114,MA : 170 r,MA/txt : 114]では529年ムハッラム月(1134年10/1月)に没したという。

    IX)スルターン,マスウードもまた上記の兄弟マフムード,トグルイルと同じく,サンジャ

    ルの宗主権下にイラークの支配権を与えられた君主にすぎなかったが,兄弟たちに比べて在位

    が長かったためにRSのマスウードに関する記事は比較的長い。 この時代にはイラークの周辺

    のアーザルバイジャーンやファールス,ジャームで,元来はセルジュク家の各地に配置された

    王子たちの後見人の意味であったアタベグの称号を持つ地方支配者が現れ,セルジュク朝の政

    権は根幹から掘り崩されていった。その代表がNT, TBに名の挙がっているアーザノじバイ

    ジャーンのイルディギズであり, NTの著者バイダーウィー本人や彼の祖父,父が直接の関係

                       17)を持っていたファールスのサルグル朝である。マスウードは即位前に何度か兄弟のマフムード

    やトグルイルと戦っており,それがNT,TB両者に現れる「彼と兄弟の間で何度も戦いが

    あった」という表現となったのであろう。RS, JTによれば,即位後のマスウードに敵対した

    のは後述する,弟スライマーンシャーフや,兄マフムードの二人の息子を擁立したファールス

    の実力者アタベグ,ボズアパであった。[RS : 225]によれば,マスウードの在位期間は18年

    であり,[RS : 245]では546年ラジャブ月朔日(1151. 10. 14)にハマダーン郊外の離宮

    (kushk)で病没したことが記されている。 TBではマスウードの記事は独立して書かれておら

    ず,前出のトグルイルの記事の中で連続してマスウードの時代が語られている。 TBの中で

    「マワーリーは彼らの死を歓迎した」と訳出した原文ぱmawali wafat-i ishan dam-i

    istiqbal zadand" であるが,[TB/txt : 232]ではNTとほぼ同じぐmawali wa nuwwab-i

    Ishan dam-i istiqlal zadand" (NTでぱmawali wa nuwwab-i u dar har jay dam-i istiqlal    -

    zadand")となっており,こちらの方が明らかに意味が取り易いので,おそらくはTBの誤写

    であろう。[RS : 177]によれば,グズがサンジャルに反乱したのは548年末のこととされてい

    るので,マスウードの没年が上記の通りであるとすれば,マスウードの時代にグズの反乱の記

    -17-

  • Aya Sofya 3605 ペルシア語写本Nizam al-Tawarikh中のセルジュク朝関連の記事について(下)

    事を置くのはふさわしくない。またNTでイラークのアタベグ,パフラヴァーン(TBでの綴り

    はPHLWN,[TB/txt : 232]ではNTと同じPHLWAN)とされる人名が[RS: 266]で上述のア

    タベグ,イルディギズの息子として現れる人物(Nusrat al-DinPahlawan Muhammad, アタベグ

    在位1175-86)のことであるとすると,この人物がマスウード時代に名を挙げられることも不

    自然である。 このようにマスウード時代以降のNT,TBの記事にはRSに基づいていながら

    RSの記事の内容との間に爺鮪が目立つようにもなる。

    X)マスウード没後のセルジュク朝の政治史は,東方のホラーサーンで宗主権者の「大スル

    ターン」サンジャルがオグズ=トゥルクマーンの捕虜となり,その後脱出してまもなく死去す

    るという上述の事情も重なって混迷し,セルジュク朝は実権を失い,ますます弱体化する。こ

    の時代スルターン位に就く人物の選択は政権を支える有力なアミールたちの意向により決定さ

    れ,その意向に沿わなければ,容赦なく廃位される運命にあった。 NT,TBに記されているス

    ルターン,マリクシャーフ(n世)についての記事も,その内容にはマリクシャーフの経歴と

    関連する,前代のスルターン,マスウード時代の事件を含んでいる。その中にファールスのア

    タベグTurabaとマスウードの戦い,及びTurabaの敗死の記事があるが,[RS : 242 -3, JT:

    129-31]によれば,この事件は541 (1146/7)年のことで,アタベグの名はトゥルク語で灰色

    の熊を意味する「ボズアパ(Buzaba<Boz-apa)」である。 NT中のTQraba (TWRABH)の表

    記とRSのBuzaba (BWZABH)の表記はアラビア文字の上下に付される点を除けば全く同一

    の形であり,おそらくNTは点の有無及びその打つべき位置を誤ってTurabaのような形に

    なったのであろう。[TB/txt: 232]では(?)印を付されたNuraba (NWRABH)の形が見える

    が,これも同様の誤りである。(TBではBuzana (BWZANH)のように綴られているが,上下の点

    の有無や位置,また綴りそのものも3箇所で一致していない)上述のチャグル・ベグやベルクヤルク

    の例にもあったが,NTの著者バイダーウィー本人もしくは写本のコピイストはおそらく自ら

    に余りなじみのないトゥルク系の人名についてはその表記に不注意であったようである。

     マリクシャーフ(Ⅱ世)自身に関する記事はNT,TB共に彼が,即位以前兄弟のムハンマド

    と共にファールスの実力者アタベグ,ボズアパに擁されていたこと,及び叔父マスウード没後

    4ヶ月在位した後,配下のアミールたちの支持を失って廃位されたということであるが,

    [RS : 250,JT : 136]によれば,即位が547年ラジャブ月(1152年10月)であり,廃位が同年

    シャッフール月(1153年1月)のことであった。但し,マリクシャーフは廃位後, NTの,次

    代のスルターン,ムハンマ下(Ⅱ世)の記事にあるように監禁されていたハマダーンの離宮か

    ら,[RS : 255, JT : 137]によれば, 15日後に逃亡し,フーズィスターンヘ至り,その後は

    アーザルバイジャーンの実力者,アタベグ,イルディギズを頼って兄弟のムハンマドに敵対す

    る活動を続け,[JT : 139]によれば, 555年ラビーウ1月15日(1160.3.25)にイスファハーン

    で没したという。 TBにのみ見える牛プチャク地方からトゥルクマーンの数集団が来たという

    - 18-

  •                  井 谷 鋼 造

    記事は今回参照したどの史料の中にも対応する記事を見いだせなかった。また同じくTBのア

    タベグ,スンクル,ザンギー, Takla (TKLH)(TBではWakla (WKLH)と読める)の3人の

    名が見える部分はNTのサルグル朝の部分[NT : 166 r-v,NT/txt : 75-6 ]を基にして書かれ

    ており,ここに見える年代,在位年数はNTの記事と一致している。

    XI)NTとTBのスルターン,ムハンマド(n世)についての記事は全く一致しない。 NTの

    記事ではムハンマド自身についての記事は在位期間が7年であったことだけである。 NTにあ

    る,前出のマリクシャーフ(II世)が廃位後送られたKushkとはマスウード時代からイラー

    クのセルジュク朝政権の国都(Dar a!-Mulk)とされたハマダーンの郊外に建設されていた離宮

    のことである。上述のように廃位後フーズィスターンヘ逃亡したマリクシャーフがNTの記

    事の通り,そのままフーズィスターンに居続けた訳ではない。ムハンマドの時代もセルジュク

    朝政権はこのマリクシャーフやこれら二人の兄弟の叔父,スライマーンシャーフによるスル

    ターン位獲得のための挑戦を受け,支持者のアミールたちの内紛や動揺もあって,安定しな

    かった。TBに見えるムハンマドのバグダード包囲は[RS: 267-9, JT: 148-52]によれば,

    551 (1156)年のことであるが,その隙を衝いた兄弟,マリクシャーフとアタベグ,イルディ

    ギズのハマダーン接近のために,散々な失敗に終わり,ラシードは「努力はむなしく,財庫は

    空になって」スルターンがハマダーンの離宮へ戻ったと記している。ムハンマドの没年は

    [RS : 259,270,JT : 152]では554年ズルヒッジャ月(1159年12月-1160年1月)であり,在位

    期間は7年であった。 TBの記事は内容的にバグダード包囲をめぐる部分はRS, JTと一致し,

    ムハンマドが幼い息子を託したというAqsunqur Ahmad Damil (DMYL)とは[JT: 161]に

    見える,かってのアーザルバイジャーンの支配者,ラッワード朝のAhmadili b. Ibrahim b.                       -

    Wahsudhan (1116年没)の奴隷出身の,当時のマラーガのアタベグ,アクスンクルに当たる

    と思われるが,ムハンマド自身のことばを含む,彼の死の状況を述べた部分は,本稿で参照し

    た他の史料に対応する部分が見つからず,在位が「3年と4ヶ月」という記事は明らかに正し

    くない。

    XII)スルターン,スライマーンシャ―フの在位期間も6ヶ月という短命であり,彼もまた

    先々代のマリクシャーフと同様に配下のアミールたちの合議により即位したものの,まもなく

    彼らの支持を失って,ハマダーン近郊の'Ala' al-Dawlaの城に送られて監禁された。[RS :

    279]によれば,スライマーンシャーフはそこで556年ラビーウH月12日(1161.4.10)に没し

    た。上述のようにスルターン,ムハンマドが没した時点ではその兄弟,マリクシャーフも生存

    していたので,彼はNTのムハンマドの記事及びTBのスライマーンシャーフの記事にあるよ

    うに一定の支持者を得て,イスファハーンへ入り,[RS : 249,JT : 139]では僅か16日ではあ

    るが,再び在位したことになっている。マリクシャーフの死後,そしてスライマーンシャーフ

    の監禁後スルターン位に就いたのは,アーザルバイジャーンの実力者アタベグ,イルディギズ

    - 19 -

  •  Aya Sofya 3605ペルシア語写本Nizam al-Tawdrikh中のセルジュク朝関連の記事について(下)

    を継父とする,トグルイル(I世)の子,アルスランであった。ところが, NT, TBでは以後

    「15年と7ヶ月」在位するアルスランについては独立した記事がない。スライマーンシャーフ

    自身は,すでにその兄弟マスウードの在位当時からスルターン位獲得に挑戦し,敗れて7年間

    Farrahin/Farrazin[RS : 235,262]またはBarrajin[JT : 125,143]城塞に監禁されていた。

    その後城主の計らいで城を出て,ムハンマド時代にイルディギズらアーザルバイジャーンのア

    ミールたちの支持を得て一時はムハンマドをハマダーンから追い落とし[JT : 146]によれば,

    僅か27日ではあるが,一度はスルターンとして在位しており,その後マーザンダラーン,

    フーズィスターン,イスファハーン,バグダード,アーザルバイジャーンの各地を流寓し,再

    び, 550(1155)年にイルディギズの援助を受けてムハンマドと,アーザルバイジャーンと

    アッラーンを画するアラス河畔で戦うが,敗北して,マウスィルヘ落ちのびていたのである。

    史料でスライマーンシャーフの行動を追っていると,当時の,支持者を失い,衰退したセル

    ジュク朝の王族が直面していた苦境がっぶさに浮かび上がってくるようである。 NTに見える,

    アラーウッダウラの城は[RS : 279,344,351,JT : 156]にも見えるが,それは当時のハマダー

    ンの土着有力者で,アリー家,サイイド一族の頭目Fakhr al-DIn 'Ala' al-Dawla 'Arabshah

    の居城であった。 RSの著者ラーヴァンディーはこの人物の3人の息子の教育を約6年にわ

    たって受け持ち,この一族の下で暮らした経験があるので,ハマダーンの地理については詳し

      18)かった。この点だけを取ってみてもNTの記事がRSに基づいて書かれていることは明白であ

    ろう。但し,スライマーンシャーフの名がNTではSulaymanshah Muhammad b. Mas'ud,                               -

    TBではSulaymanshah ibn Muhammad b. Mas‘udとなっているのは共に誤りで, Sulay・

    manshah b. Muhammad b. Mallkshah とならなければならない。同様にTBのスライマー

    ンシャーフのラカブはMu'ayyad al-Dlnであるが, NTのMu'izz al-Dinが正しい。 TBの

    「スライマーンシャーフがイスファハーンへ着くと……絞殺された」の記事は今回参照した史

    料の中に対応する記述を見つけられなかった。

    XIII)本来ならば,セルジュク朝の13代目のスルターンは前述のようにアルスラン・ブン・

    トグルイル(I世)であり,彼の事績が述べられなければならないのだが,NT,TBでは共に

    アルスランの記事は前代のスライマーンシャーフの記事の末尾に在位期間と「ハマダーンで没

    した」ということが語られるだけで,実質的な記事はない。ただNTだけは13代目のスル

    ターンとしてアルスランの名を挙げているが,その記事の内容は実際にはアルスランの子で,

    イラークのセルジュク朝最後のスルターンとなるトグルイル(H世)の事績である。 このあた

    り, NT, TB共に記事が混乱しているようである。スルターン,アルスランはその父トグルイ

    ル(I世)の死後,叔父マスウード時代にその下で養育され,のちマスウード配下で台頭した

    アタベグ,イルディギズの庇護を受けた。それは父トグルイルの死後,アルスランの生母が叔

    父マスウードによってイルディギズに再嫁させられたためで,イルディギズはこの女性との間

    -20-

  •                  井 谷  鋼  造

    にJahan Pahlawan MuhammadとQizil Arslan‘Uthman という二人の息子をもうけている。

    NTでアルスランがイルディギズの「養子」であるという表現が見られるのはこのような事情

    によるものである。スライマーンシャーフは即位後イルディギズヘの配慮からアルスランを皇

    太子としたことは[RS : 277,JT : 154]にも見える。その後スライマーンシャーフが廃位,監

    禁されるとアーザルバイジャーンからアルスランとイルディギズが呼ばれ,アルスランが即位

    して15年と7ヶ月在位する。スルターン,アルスランの事績はNT,TBには何も記録されて

    いないが,この時代に実権を握っていたのはアタベグ,イルディギズとその妻で,アルスラン

    の生母であった女性である。571年にはイルディギズとその妻が相次いで死去し,ついで

    [RS : 301]によれば,この年のジュマーダーH月の中日(1175.7.31)にアルスラン自身が病没

    すると,その後継者としてアルスランの子,トグルイル(n世)が即位するのである。すでに

    父アルスランの時代から実権はイルディギズ一族に掌握されており,トグルイル時代の初期

    10年はスルターンの叔父に当たる,イルディギズの子,ジャハーン・パフラヴァーン・ムハ

    ンマドが「大アタベグ」として実権を継承していた。 TBでイルディギズ本人がトグルイル時

    代も実権を握っていたように記しているのは明らかに誤りで,イルディギズの前に「パフラ

    ヴァーン・ムハンマド・ブン」の語が脱落しているのであろう。[TB/txt: 234]ではこの箇所

    はMuhammad b. Ildigizとなっている。[JT : 182]によればパフラヴァーン・ムハンマドは。

    581年ズルヒッジャ月(1186年2/3月)に死去し,兄弟のクズル・アルスランがアタベグとし

    て実権を継承したが,この頃からトグルイルの自立傾向が強まり,スルターンとアタベグの対

    立が始まった。[JT : 186]によれば,自らの意向に従わないトグルイルに業を煮やしたクズ

    ル・アルスランは584年ラジャブ月(1188年8/9月)自ら国都ハマダーンに来て,スライマー

    ンシャーフの子,サンジャル(San jar b. Sulaymanshah)の名前でフトバをおこなわせるよう

    にし,さらに[JT : 188]によれば,アタベグは586年ラマダーン月(1190年10月)にはスル

    ターン,トグルイルとその子マリクシャーフを捕らえてアラス河畔のKahran城へ送り,自

    らスルターンに即位したのである。 ところが[JT: 189]によれば,翌587年シャッフール月

    (1191年10/1月)クズル・アルスランがハマダーンの離宮の一つで, 50箇所もの短剣による傷

    を負った遺体となって発見されたという。アタベグ,クズル・アルスランの死がNT,TBの

    記事のようにイスマーイール=ニザール派の暗殺者フィダーイーによるものであったことは

    RS, JT共に記していないが,当時そのように広く信じられていたことは大いにあり得る。ク

    ズル・アルスランの死後監禁状態を解かれたスルターン,トグルイルは執政上アタベグたちの

    摯肘からは暫く自由になるが,アタベグ,パフラヴァーン・ムハンマドの子,クトルグ・イナ

    ンチ(Qutlugh inanj)とイラーク,特にライの支配をめぐって対立し,トグルイルに敗れたク

    トルグ・イナンチが「大スルターン」サンジャルの没後ホラーサーンに台頭し,やがてホラー

    サーン全体の支配権を掌握したホラズムシャーフ朝のテキシュに援助を求めたことから,東方

    -91

  • Aya Sofya 3605ペルシア語写本Nizam al-Tawankh中のセルジュク朝関連の記事について(下)

    で強大な軍事力をもつホラズムシャーフのイラーク情勢への介入を招くこととなるのである。

    [RS : 371]によれば, 590年ジュマーダーU月24日(1194.6.16)スルターン,トグルイルは大

    軍を率いてライヘ進軍したテキシュに対して少数の部下と共に出撃し,敵軍に包囲されて敗死

    した。そしてトグルイルの死と共にイラークのセルジュク朝の政権は消滅する。NTの「スル

    ターン,アルスラン」の記事はその実このような経過に基づいたアルスランの子,トグルイル

    の記事に他ならず,「この地方におけるセルジュク家の政権は終わった」というのはアルスラ

    ンではなく,その子トグルイルでなければ当てはまらないのである。

     NT,TBのセルジュク朝の歴史を述べた部分の末尾にルームのセルジュク朝のことが出てく

    るが, NTが「……の子孫が保有している」としているルームのスルターン位がTBでは「保

    有していたが,滅亡した」となっているのはNT, TBそれぞれの執筆年代の状況を反映して

    いて興味深い。すなわち,NTの執筆された1275年にはまだルームにセルジュク朝が存在し

    たが, TBが執筆された1317年にはそれはすでに滅亡していたのである。ルームのセルジュ

                      19)ク朝の滅亡は1308/9年とされているので,この表現の違いは正確にそれぞれの執筆年代の差

    を反映したものであろう。尚,ルームのセルジュク朝にはNT,TBの記すような'Ala' al-Din

    Qillj Arslan b. Mas'Qd b. Qillj Arslan b. Sulaymanという名のスルターンはいないので,

    「アラーウッディーン」というラカブと「クルチ・アルスラン」という名の間にKayqubad b.

    Kaykhusraw b. という名が脱落しているものと考えられる。 NT ([NT/txt:74]にはこの語は

    ない)にのみ現れるQLPMYNの形はルームのスルターンたちの祖先で,セルジュク朝の名祖

    セルジュクの子,上記のセルジュク朝初代スルターン,トグルイル・ベグのところでその名が

    現れた,イスラーイールの子であるクタルムシュ(Qutalmish (QTLMSh))の綴りが崩れて写                                -

    されたものであろう。

    お わ り に

     以上のように(上)で訳出したNTのセルジュク朝の記事に加えて,本稿では新たにTBの

    セルジュク朝の記事を訳出して両者を比較しつつ記事の内容や表記について筆者なりの訳注や

    解説を付してきた。但し,表記と内容の両面で共に14世紀の写本である,NT,TBについて

    はまだまだ不明な点が少なくない。本稿の訳注や解説において参照し得た史料類は13~14世

    紀のペルシア語史料に限られており,同時代のアラビア語史料は今回利用されていない。それ

    はNT,TBが共にペルシア語で書かれた史料であるという事情もあるが,時間的にアラビア

    語史料まで参照する余裕がなかったという理由が大きい。本稿で行ったような史料記述に対す

    る訳注や解説とはその実,スルターンの代ごとにセルジュク朝の政治史を他の史料と比較対照

    しながら根元から網羅的に跡付けていく作業に他ならず,思いの外時間がかかり,不十分な結

                       -22-

  • 井  谷  鋼  造

    果に終わってしまった。写本類を主とした文献資料の読解,検討をさらに深めながら,筆者自

    身のセルジュク朝政治史研究をさらに高い視点と精確な基礎知識に基づいて推進することを今

    後の課題としたい。

     最後に(上)に直接後続する形で書かれた本稿のまとめとして, NT, TBなどの本稿で取り

    上げたペルシア語史料の,特にセルジュク朝関連の記事がおおよそどのような引用,参照関係

    になっているのかを筆者の試論として提示しておきたい。それは図式化すれば,次のようにな

    20)る。( )内は作品の成立年代。

       /JT (detailedabridgement,1306/7)・TG (1329/30)一MA (1332/3)

    RS(1206/7)               ノ   ト

    NT(briefabridgement.1275)     >TB(1317)

     本稿の訳注と解説で示した通りNT, JTなどのペルシア語史料は,この両者の中にも明白な

    出典名としてRSの名が現れないにもかかわらず,内容と表現の両面から,あるいは直接的で

    ないにしろ, RSに基づいて書かれていることは疑いを容れない。そしてJTの記事はセル

    ジュク朝の部分に限らず, TB, TGに引用されたことはTB, TGそれ自体の中に明記されてい

    21)る。それゆえロシアの東洋学者バルトリド(W. Barthold)は,その有名な著書Turkestan

    down to the Mongol invasionの中でTBのことを「この作品はその実,ラシードゥッディー

    ンのJTのコピーにすぎず,著者が自らの時代を扱った,重要性の低い付加を行っているだけ

    である」(third edition,London, 1968, p.49)と評しているのである。ところが,残された課題は

    まだまだ多いが,本稿で明らかにしたようにTBのセルジュク朝を含む第4部の全体は,実は

    JTの記事に拠っているというよりもNTの記述に近い。特にセルジュク朝の部分に限って言

    えば, TBがJTよりも簡潔なNTに拠って書かれていることは,筆者には疑いようのないこ

                                      22)とに思える。この結論が正しいとすれば,バルトリドのTBについての説明は訂正を要するこ

    ととなろう。

     (上)の2頁で筆者は,英国のブラウン(E.G. Browne)の名著とされるA literary history

    of Persia (Vol. IE, Cambridge U. p., 1976,(reprint), p. 100)のNTについての評言を引いて

    NTは「面白くない,無味乾燥な小著」とされていることを示した。実は,同書のNTについ

    て書いた項目の直後にブラウンはTBを取り上げてNT,TBの両者を比較し,次のように書い

    ている。

     他方,バイダーウィーは,ラシードゥッディーンに直接影響を受けなかった殆どのペルシ

    アの歴史家と同様にイスラームやイスラーム教徒(原語ぱMuhammadan peoples").古代の

    ベルシアの王たち,ヘブライの預言者や長老だちと関連するもの以外の全ての歴史を実質上

                      -23-

  •  Aya Sofya 3605 ペルシア語写本Nizam al-Ta切arikh中のセルジュク朝関連の記事について(下)

    無視している。これら二つの歴史の手引き書【すなわちNTとT