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― 90 ― 27 西西退殿使陝西 黄河 洛陽 西安 京兆 洞庭湖 南京 長江 池州 宣州 銭唐 杭州 目次へもどる 次ページへ

晩唐第一の詩人晩唐第一の詩人と言われる杜牧の名句である。村」が昧わい処である 読む者にはその光景がまさに絵の様にくっきり頭にうか

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Page 1: 晩唐第一の詩人晩唐第一の詩人と言われる杜牧の名句である。村」が昧わい処である 読む者にはその光景がまさに絵の様にくっきり頭にうか

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悠久の名作シリーズ(27)

『清  明』  杜 牧

  晩唐第一の詩人

  杜牧は貞元九年(八〇三)〜大中六年(八五二)の晩唐

の人である。享年五十歳であった。我が国では平安時代

の初めに当たる。八〇五年、最澄が唐から帰り、天台宗を

開いた。八〇六年、空海が唐から帰り、真言宗を開いた。

八五八年、藤原良房が摂政となった頃である。字は牧ぼ

之し

号は樊は

川せん

。京兆万年、現代の陝西省西安市で生まれた。太

和二年(八二八)進士に合格、更に上級試験の賢良方正科

にも合格した。弘文館書郎(弘文館は皇族・上級貴族子弟

を担当する図書館兼学校)をふり出しに、京官や地方官を

歴任した。 

肉親の情に深い杜牧

 杜牧は非常に肉親の情が深かった。杜牧が三十五歳の時、

弟杜と

顗ぎ

も役人だったが眼病にかかり失明し退官した。杜牧

は弟の眼の医療費や、弟一家の生活費等のめんどうをみた。

宣州に殿中侍じ

御ぎょ

史し

内ない

供ぐ

奉ぶ

(検察担当)として赴く時には弟

一家をひきつれて行った。それまで杜牧が三十歳すぎたば

かりの頃は、美男子であり遊び好きで、夜毎青楼に通った

という。

 杜牧はよく出来るエリート官僚で、長安の都で又地方で

と役人を歴任したので、俸禄についてよく解っていた。弟

の医療費等の出費がかさむため、京官に比べて俸禄のよい

地方官を望んだが、杜牧の希望通りには行かなかった。京

官だったり又地方官だったりしたのである。四十四歳池州

の刺史(州の長官、知事格)の時、「春末池州の小亭に弄あ

ぶを題す」の詩を賦し、その中で「斉安自よ

り移りて秋浦の

守たり使

わたくし

君四十四、両り

ょう

佩はい

左鋼魚」私は黄州と池州と二度ま

でも刺史に就任することが出来た。(つまり地方官だった

ので弟一家のめんどうかよくみれた)と杜牧の感慨を詠ん

でいる。左銅魚とは、新任の刺史であることを証明する銅

製の魚符(魚形

の割符)。左側

を腰に下げて持

参し、州の府庫

に保管する右側

と照合して、身

分を証明したも

の。斉安とは黄

州の郡名、秋浦

は池州の治所、

すなわち役所の

所在地。

陝西

黄河

洛陽西安京兆

洞庭湖

南京

長江

池州宣州

銭唐

杭州

粉水

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 八四八年、杜牧四十八歳の時都に戻り、司勲員外郎史館

修撰(尚書省の郎中の補佐役・人事を担当)となったが、

やはり弟一家を抱えた大所帯で経済的に大変だったため、

宰相に対して地方官への転任を願い出た。杜牧はまず銭塘

(杭州)の刺史を願い出て許されず、次は湖州刺史への就

任を希望して許された。           

 約一年後、考こ

功ろう

郎中、知ち

制せい

誥こう

に任命され、長安に戻った。

この年弟が亡くなった。その折次の様な墓誌銘を杜牧は残

している。「唐故淮わ

南なん

支使・試大理評事・兼監察御史、杜

君墓誌銘」唐朝においてもと淮南(詩文などを書く)・試

大理評事につき、観察御史をも兼ねたということで、弟の

役人だった証明をしている。大中六年二月八日、実(京兆

府)万年県洪原郷少陵の西南二里の先せ

塋えい

(先祖の墓)に帰

葬した。(植木久行著「詩人たちの生と死」研文出版)弟

が失明してからずっと医療費そして弟一家のめんどうをみ

た心やさしい兄だった。

春雨けむるその向うに淡い杏の花が

清明時節雨紛紛 清明の時節雨紛紛

路上行人欲斷魂 路上の行人魂こ

を斷たんと欲す

借問酒家何處在 借し

問もん

す酒家は何れの處にか在る

牧童遙指杏花村 牧童遙かに指さす杏き

ょう

花か

の村

 清明とは、季節を示す二十四節気の一つ、春分から十五

日目をいう。陰暦の三月、陽暦の四月五日ごろである。

 

春の清明の時節だというのに小ぬか雨が降り続いてい

る。この雨は道ゆく旅人であるわたしの心を、すっかり落

ち込ませてしまう。

 「ちょっと尋ねたいのだが酒を売る店はどちらの方かな」

と牛飼いの少年に尋ねると、はるかかなたを指さした。眼

をやるとボーツと淡い杏の花咲く村がみえる。

 

この詩を詠んだのは、前述の池州の刺史を勤めていた

杜牧が四十四歳(四十二、三歳という説もある)の時役人

としての充実感と弟一家のめんどうも十分にみることが出

来、幸せを感じていた頃である。

鑑 賞

 桜美林大学名誉教授・二松学舎の元学長で同じく名誉教

授の、本会顧問である石川忠久先生が「漢詩鑑賞辞典」(講

談社)で、「杜牧の詩は軽妙洒し

脱だつ

が持ち味である、センス

がよい、盛唐から中唐へと洗練されてきた詩の、美しさ、

うまさの感覚が、風流な貴公子、杜牧の才をまって花開い

た。」と記されていて「清明」は正にそのとおりである。

この詩の起承句は霧の様に降る雨で、あたり一面がけむっ

てしまって道ゆく旅人(私)も心がすっかり落ちこんでし

まった。転結句、そこへ牛を追いながらやってきた少年に

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出会い、「酒屋はどち

らの方かな」と尋ね

た。少年は黙って向

こうの村を指さした。

雨のけむる向こうに

ボーツと杏の花らし

き景が見えた。その

景のほんのりとした明るさに身も心も暖かさを感じてきた。

 この詩の前半が小雨で陰影であり、最後の杏の花が、ほ

のぼのとした暖かさがある。

 

この花は濃い色ではなく淡い色の花であろう。(白い花、

と解釈している本、淡い色の花としている等まちまちで

あるが、いずれにしても桃の花のように濃い色ではなく

ボーッとした暖かさの感じられる色である)この詩は作者

の気持ちの変化がはっきり表現され読む者も作者の気持ち

と一緒になる。

 起承句は気候のよい清明節。杜牧は太陽の暖かな日差し

の中、農作業に励む農夫の姿を見ながら、野の花が咲き乱

れる小道を歩んで、楽しみながら旅をしたいと思っていた

のに、春雨のけむる日になり、私の心をすっかり滅入らせ

てしまった。と、いわば心の地獄を述べている。こんな気

持ちを紛らわそうと酒でも、と思い転結句で牛飼いの少年

に出会い「酒屋はどちらの方かな」と尋ねるのである。貧

しい素朴なまだあどけなさの残る少年であろう、ここで出

会った相手が大人ではなく少年であるから、この詩のよさ

が倍増する。

 杜牧はいまでいう知事格の刺史であったのだから、大人

なら地にひれ伏すかもしれないが、この少年にその様な身

分の上下は分からず、また杜牧もプライベートな旅でそれ

を喜んでいたことだろう。少年に遥か遠くの杏の花咲く村

を指ゆ

さされ、その辺りの様子に今までとうって変わって、

心は天国になったのである。

 この詩は何と言っても結句の「牧童遥かに指さす杏花の

村」が昧わい処である

晩唐第一の詩人と言われる杜牧の名句である。

 読む者にはその光景がまさに絵の様にくっきり頭にうか

ぶのである。

 ベトナムのホー・チーミンは中国で投獄中に自分の思い「酒屋はどちらの方かな」

黙って向こうの村を指した

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を杜牧の「清明」の詩を借りて述べた。

   清明の時節雨紛粉

    籠里の囚人魂を絶たんと欲す

   借問す自由は何れの處に有るやと

    衛兵遥かに指さす 公門

悠久の名作シリーズ(28)

『送張生』  歐 陽修

  北宋時代の逸材

 北宋時代は九六〇年から始まる。唐帝国が滅ばされた後

の五十三年間は次々に王朝が交替し、五代十国の時代とい

われる。趙氏が宋国を打ち立てたが周囲の異民族の侵入に

より領土的にも財政的にも遠く唐代には及ばなかった。日

本ではちょうど平安時代の中ごろである。

 歐陽修、姓は歐陽、名は修。貧しい地方事務官の子とし

て、江西省永豊県に生まれる。四歳で父を失い、おじに引

き取られたが、文具を買うお金もなく、未亡人の母は砂の

上に萩の茎をもって字を書いて息子に教えた。

 十歳の時、近所の旧家の書庫から唐の大詩人韓愈の全集

を見つけ読んだのが文学へ目覚めた初めであった。進士科

に首席で合格し、官吏生活に入ったのは二十四歳で、時の

天子仁宗の九年目であった。仁宗は四十二年もの長きにわ

たって北宋を安定的に治めてきた名君であり、その退官ま

で臣下として才能を発揮でき、最後は宰相の地位まで上り

つめたのは歐陽修の努力と幸運でもあった。

十年で二度の挫折

 三十四歳の歐陽修は同朋範疇ち

ゅう

円えん

の左遷に対し、越権して

反対したため周囲の重臣にうとまれ、湖北省義証県の長官

に左遷されたのが第一回目の挫折であった。

 三十七歳で都(汴京、今の開封市)に復帰した彼はその

すぐれた思想家、文章家、政治家としての才能を持って旺

盛に活躍し、他の同志とともに要職に就き、その業績には

目覚ましいものがあった。友人の石せ

介かい

がその功績を「慶暦

(時代名)聖徳の詩」に表して称えたが、反対党の意に背そ

き、こんどは安徽省の滁じ

州知事に左遷されたのが第二回目

であった。

 ところが朝廷では、逸材を退し

りぞ

けたことがかえって彼の名

を高め、数年後中央政府で宰相の一人になった。仁宗没後

も政府を輔た

け国政に奔走する。また彼が進士科の試験委員

長となったことは、その後多くの英才、たとえば蘇軾など

を育てる機会を得たことになり、文人としても最高の指導

者となった。

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