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九州大学学術情報リポジトリ Kyushu University Institutional Repository 嘉村磯多論 : 「七月二十二日の夜」の評価をめぐっ 廣瀬, 晋也 第一保育短期大学助教授 https://doi.org/10.15017/12003 出版情報:語文研究. 59, pp.28-40, 1985-06-03. 九州大学国語国文学会 バージョン: 権利関係:

嘉村磯多論 : 「七月二十二日の夜」の評価をめぐっ て · 嘉 村 礒 多 論 ー 「 七 月 二 十 二 日 の 夜 」 の 評 価 を め ぐ っ て ー 廣

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Page 1: 嘉村磯多論 : 「七月二十二日の夜」の評価をめぐっ て · 嘉 村 礒 多 論 ー 「 七 月 二 十 二 日 の 夜 」 の 評 価 を め ぐ っ て ー 廣

九州大学学術情報リポジトリKyushu University Institutional Repository

嘉村磯多論 : 「七月二十二日の夜」の評価をめぐって

廣瀬, 晋也第一保育短期大学助教授

https://doi.org/10.15017/12003

出版情報:語文研究. 59, pp.28-40, 1985-06-03. 九州大学国語国文学会バージョン:権利関係:

Page 2: 嘉村磯多論 : 「七月二十二日の夜」の評価をめぐっ て · 嘉 村 礒 多 論 ー 「 七 月 二 十 二 日 の 夜 」 の 評 価 を め ぐ っ て ー 廣

「七月二十二日の夜」の評価をめぐ

ってー

嘉村礒多

「七月

二十

二日

の夜」

(「新潮」

昭7

・1)は、葛西善

、・一周忌

の前

日に、

遺族宅

を訪問

した折

の感懐

を描

いた短

であ

る。世評高

「途上」

(「中央公論」同

・2)

の陰

にあ

って、

さほど

重視され

ることもな

い。

ただ作中、葛西未亡人浅見

ハナを誹講し

ている点、

これ

に立腹

た葛西

の友人谷崎精

二が嘉村を非難

している点等、

この作品

は私小

説論

にと

って好個

の素材

であ

った。

「七月

二十

二日の夜」評

は、私小説

「私」

の領域

に関わ

る未亡人及び文壇

批判

の側面

にのみ焦点を合わせ、

その結果が作者

嘉村

「人格

の裁断

に直結する傾向

にあり、作品とし

ての全円的

な分析

までには至

っていな

い。他

の嘉

の作品とも比

較しながら、

評価軸

の片寄

りを改める必要があるよう

に思える。

1

発表当時、

この作品を論じ

て代表的なも

のは次

の二例

であ

る.

まず川端康成は、「触れれば手

に傷が

つきさうな結晶体」と

いう形

で、こ

の作品

を同

月発表

の堀

辰雄

「燃

ゆる頬」(「文芸春秋」)梶井

基次

「のんきな患者」(「中央公論」)と共ハに称賛

している。川端

この作品

「無神経

に読

んでゐた」

「或

る頁

まで来

て、愕然と頬

が鳥

肌立

つ寒気

に襲

はれた」と記し

ている。「或

る頁

」と

は未亡人批

と遺族

の末路を想像す

る場面

である。

この批判

は明ら

かに寧

ろ病的な厳粛

さであ

る。

(中略)

しか

し、

これ

よりも厳し

い批判を絶えず自己

に加

へて生き

てゐる

であ

る。(中略)苦行僧

の忍苦

は世

の常

の道徳を超えたも

のであ

り、

そこにはそれだけ

の精神

の高さが生れ

て来る

のである。

川端が注目し

ている

のは、作者

の内省

の苛烈さ

である。

それ

には

異論はな

いが、作者

の批判や内省

を直線的

なも

のとし

て捉

ている

ことや、「苦行僧

の忍苦」「精神

の高

さ」

など

の表現に明らかなよう

注③

に、久

米正雄、宇野浩

二以来

の私小説論

の常套

に寄

りかか

っている

ころに疑問

が残

る。「ナイ

フ」の件

ついても

「被害妄想患者

じみ

たところ」

(中略部分)と、表層

の解釈

に留ま

っている。

に小林秀雄

は、葛西と

の比較を通し

て、嘉村

の文学

の有り様を

鋭く分析し

ている。小林

は嘉村

の作品世界を

「狭陰だが、又業苦と

一28一

Page 3: 嘉村磯多論 : 「七月二十二日の夜」の評価をめぐっ て · 嘉 村 礒 多 論 ー 「 七 月 二 十 二 日 の 夜 」 の 評 価 を め ぐ っ て ー 廣

悔恨

と信念

の韓

き合ふ無類

の世界」

と規定

し、

その

「作品

がわれ

に提出

る最も根本的

な問題

は、や

はり葛西善

蔵的問

であ

る」と言う。「葛西善蔵的問題」と

は、小林

の表現を借り

て性急

に要

すれば、「性格上

の業苦」と

「芸術上

の実現」の

「倫

理的」な相関

がもたらす悲喜劇ともなろうか。小林

が示唆し

ている

のは、「性格

の弱点」

から生

じた貧苦

や病苦

「重

圧」

を倫

理的

に反翻

するため

に、更

に傷

つくと知

つつそれらを告白す

るしか

「術

はなか

った」

私小

説家

の運命

であろう。

この芸術と実生活

の相克

への言及

は、後

に平野謙

によ

って定式化され

る私小説論

の淵源とも言

えよう。

風物も人物

も、氏

(嘉村

・引用者注)

の倫理観

の金縛り

の下

でゐる。氏

の切

迫した世界

(中略)

いか

にもそれは美し

が、鋭

く歪

んだ美

しさでもある。人

を強

ひる美

しさ

でもある。

の文体

は観察家

の文体

ではな

い、飽

くまでも倫理家

の文体

る.倫理的

に能弁

であり、極度

に反省

され、警戒

され

た文体

である.

「鋭く歪んだ」「人

を強

ひる」美

とは、構築

され

た作品世界と文体

に凝縮

ている、痛ましく屈折した作者

の内面を指し

ての謂

であ

う。

この小林

の評

言は、川端

「苦行僧

の忍苦」と

いう理解を突き

抜け

ている。川端

が題材

「事実

」性に衝撃

を受け

ている

のに対し

て、小林

は作品を領導す

「倫

理」性

に視点

を据

ている。小林

よれば作者

の内省

「病的」

「厳粛」

であるだけ

でなく、屈折

た美意識と結び

ついている。「警戒された文体」とは、そ

のような屈

折した内省

によ

つて造形

され

た表現世界を指す言葉

に他

ならない。

ここで小林が嘉村を論ずる

に、葛

西

に対する

「所謂文壇

の批評

」、即

「社

会人たる資格

を紛失し

て、何

の芸術精進ぞ」と

った

「常識

的正論」

に立脚

しているのでないこと

は言うま

でもな

い。小林が推

察し

ている如く、嘉村

の文学的営為

の大半は

「倫理感」の発

では

ろう。しかし彼は想像力と表現欲によ

って

「小説」

を書

いた

ので

って、「常識的正論

」が拘

泥したような単な

る倫

理的課題を提供

ようとした

のではない。

ここで注意す

べきは、「葛西善蔵的問題」は嘉村

にと

って乗

り越

べき

課題

であ

った

わけだ

が、彼は葛西

ほど

の生活無能力者

ではな

ったと

いう

こと

である。彼は

この作品

の背景とな

っている昭和

の時点

で、平均月収八円弱

の原稿収入をか

こち、「翌日

の食物

があ

るか無

いかも知らず

に芸術を作

ってゐたといふ人

もありますが

(中

略)私

のはまだまだ豊満

なる悲哀

で恥づ

べきです

けれど

(中略)

の勇気

が有

る無

いよ

りも作

っても発表

できな

いのです

から

ね」

(「神前結婚

」「改造」

昭8

・1)と私小説

の不人気を嘆

いてはいた

注⑤

が、葛

西のように

「ど

うも作

(小説)

の方が出来な

いので困る」と

才能

の枯渇を痛苦す

ること

はなか

った。また嘉村は中村武羅夫

の留

守宅

に寄寓し、「古着」の

「夏羽織」さえ買わぬ節倹をし

て小

金をた

ている自分

の生活を、むし

ろ文学者とし

ては不徹

底な

「豊満

なる

悲哀」と恥じ

ていた。だから

こそ彼

は、貧苦

と病苦

を代償

一字

に陣吟しながら

「芸術を作

ってゐ」

た師葛西

に気

おされ、

その記

憶から師

の死後

も逃

れられなか

ったのである。文壇的

には葛西亜流

と目される私小

説を書き続

ているに

ついても、独自

の作風を確立

する必要を感

ていたようであ

る。

われわれは、否、私だけ

(中略)

たゞ己が貧し

い経験や身

上、

にう

つり行

くよし

なし事

を、

ってゐ

るに過ぎ

い。

こんな

こと

では仕様がな

い、何

んとかしなければ、さう息

一29一

Page 4: 嘉村磯多論 : 「七月二十二日の夜」の評価をめぐっ て · 嘉 村 礒 多 論 ー 「 七 月 二 十 二 日 の 夜 」 の 評 価 を め ぐ っ て ー 廣

いて見

ても、

ペンを執

れば、身

辺小説、私小説

のはうが書

進み

ゝから、

つひ安き

に就

いてしま

ふのであ

る。

(傍点引用

者)

(「短

い感想〕

「新潮」昭

7

・4)

嘉村

の言葉を額面通

りに受

け取

ること

には問題があ

ろうが、少な

くとも

このような低迷状態

にあ

って

「七月

二十

二日の夜」

は執筆

れた

のであり、彼

の、萬西もしく

は私小説

に対す

る複雑な思

いが、

作品

の底流

にあ

ったと考えられる。小林秀雄

の嘉村論

は、嘉村と葛

西が

「多く

の点

で異

ってゐる」としながらも、葛西を論ずる

こと

大部分を費やし

ている。そう

いう手順を踏まなければ嘉村を批評

きなか

ったと

ころ

に、嘉

の文学

の宿命があ

った。

2

谷崎

や川

端は、未亡人批判

とそ

の死後

の想像

の場

に特異

な反応

をし

た。

作品

によれば、

「私」

がその批判

や想像をす

るき

っかけと

った

のは、次

のような

こと

である。

無沙汰

の挨拶

の後

「出

し抜け

に」、未亡人が微笑しなが

「時

に、

近頃、あなた

のご商売

のご様子

は如何

です

の?」と質問した。「私」

「ご商売」と

いう言葉と、夫人

の微笑

「言

ひや

うのな

い不幸な

思ひ」をする。か

つての酔

ったS氏

(葛西)

「ヘーイ、君なぞ作

になれるもんかよ、俺

にさう言はれ

て口惜

しかな

いか、

ヘーイ」

いう嘲

罵と、夫

「追従し

て」笑

った夫

の表情を思

い出

したか

らである。「商売

しに

つい

ては、葛

西の談話

の記録

である感想

「酔

州七席七題」

(「中央公論」大13

・6)の

「友情」に、「この老駕馬

鞭打

って、書

けないも

のを酔払

はして喋舌

らせるなんか、随分

と惨

な話

ゃな

いです

か。

が、

まあ仕方

がないです

な。僕も商売、

なたも商売

さ」

の例があ

る。酔余

の放談

でお茶を濁し

ていること

の自嘲

であろう。「私」が夫人

「ご商売」を椰楡と受け取

ったとし

ても、

それ

ほど不思議

ではな

い。

とも

あれここでは、夫人

の言葉から嘲弄

の響きだけを感得し、

の表情を欄笑と受け取る

ことしか

できな

いみじめな

「私」が強調さ

ているのであ

る。彼はS氏

に受けた恥辱

の思

い出を触発される。

ここから筆

の運びとし

ては、欝積し

ていた怒りを爆発させると

いう

の、しかし言葉とし

て発せられる

ことはなか

った心情描出

がなさ

れる。彼は

「女

の癖

に」知人

の文

の浮き沈

に関心を持

つ婦人

「浅間し

い」心根

に反感を抱

く。故人

の友人達が

「遺族扶養

の目的

で文壇

に寄附

を募

った

「企」を、「何

か非常

に不条理

な、筋道

の通

ぬも

の」

と思

う。作者

「私」

の偏頗

とも

いえる述懐

を、長

一文

で畳み掛

ける。片岡良

一は

「江戸時代

の町人

の親族会議か何か

の口

注⑥

きき役が、

いわゆる

『筋』を云

っているようなせ

りふ」と評し

てい

る。片岡

「せりふ」と

いう言葉

で暗示し

ている通

りに、

これは小

の文体

とは異質

のも

のであ

る。作者

の思念が生

のまま

に投げ出さ

ている。叙述

の内容や表現が旧弊なだけ

でなく、作者

「私

」と

の距離が消失し

てしま

っている。

この後

に次

のような長

一文が続

く。

芸術家

の最後

の理想とし

て、われ随巷

に窮

死すー

のS氏

きびしい芸術観

と言はうか、生活観と言

はうか、と

まれ、左様

な秋霜

烈日とい

った、

いちじるしい気醜

に対し

て、遺され

た妻

たちは諸共

に飢

ゑた犬

か猫

かのやう

に其処辺

の道端

に手脚を

投げ出

して死

んでしま

った

のなら、土埃

にまみれ

てプ

ンプ

ン悪

一30一

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の発散す

る板

のやうにな

った死骸を通

る人

々が下駄

で蹴飛ば

ッと唾を吐

いたりする

のだ

ったら、

それを烏

の群が集ま

て食

べる

のだ

ったら、それ

こそ故人

の本懐、貧乏徳利と盃とを

にし

(中

略)人

ト為

リ友親

ヲ絶

スー

と口吟ん

でゐた信念

の勝利、

又、

遺作全集

五巻

へ錦

更に花

を添

へるものとし

て、蓋

しその衿

りと幸福と

はどんなであ

ったらうか!

で、生活

の不如

意を訴

える婦人

を更

に批判

した

一節

の最後

で、「何と

いふ生く

るも

のの悲哀、生存

の醜さ

(中略)それが取りも

さず私

の姿

であり、よし万人

の姿

であらうとも、私

にはこの人生

び芸術

なるも

のが、

理想

と実際が、ただただ残念

で堪らな

いので

る」と高潮

した気分

「私

」自

に収束

ている。

て谷崎精

二は、以上

の箇所を読

んで

「非常

に不愉快

に感じ」、嘉

村を

「非常識」「言語道断」と極

つける。そし

てここに披

渥された

見解を、作者

「病的」な

「劣等意識」

から生

じたものと断

じ、表

現上

「醜

い誇張」

に嘉村

の葛西

への

「卑屈」な

「おもねり」を見

ている。以下

「偽悪

の道化役者」、「爬虫類」、「変質

者の文学」、

「読

の理解

の増外」等

々、嘉村自身

の表現

の毒

々し

さに呼応す

るか

ようなやや抑制

を欠

いた批評が展開される。

この谷崎

「葛西と嘉

村」

(初

「早稲田文学」昭28

・9)は後

『放浪

の作家』

に収録さ

れ、次

いで

『葛

西善蔵

と広津和郎』(春秋社

昭47

・5)に再録

された

が、

その間嘉村

の文学を完全

に否定

したこれら

の言辞

は変

更され

いな

い。「奇蹟」以来

の葛

西

の盟友

であり、寄附金募集

の発起人

でも

ったと

いう谷崎が、

この作品

に激昂し

たこと

は頷

けるにしても、

作品

}部分

のみを取り上げ、全体を

「私的」にあ

るいは

「倫理的」

に論評し

ている点

には彼

の恣意を感じざ

るを得な

い。作品発表約

十年後

の、言

わば

「冷却期間」を挾

んでの文章

であ

るだけ

に、感情

的な論断とも思えな

い。また大方

の評家も谷崎

の意見をほぼ是認し

ている。とすれば、やはり問題とす

べき

であろう。作者

と作品

、主

人公と

の密着度が極

て高い私小

説にも、当然

のことなが

ら作者

注⑦

方法意

識は存在

する。私小説

「私」性

にのみ重心を

かけ、「小説」

を脇

に置い

て作者

の人格を殿誉す

る批評

には、

一つの陥穽があ

るよ

うに思

える。即ち作品を作者

の私的、

より端的

に言えば世俗的

〈有

効性〉

の位相

で律し

てしまう危険

であ

る。

にも述

べるが、嘉村が描

こうとし

ているも

のは、特定

の文壇

の偽善

でもなければ、未亡人

の知足

に遠

い愚かしさ

でもな

い。遺族

の死骸

の描写は、表現とし

ても実質的

な内容

からも、

これは比喩

あり

「誇張」な

のである。「死せる葛

西、生

ける嘉村

を踊

らす」

(谷

崎)

の結果とし

ての、葛

西

への

「おもねり」を意図

しているわけで

はない。

ここで見落と

してな

らないのは、遺族

の運命

に対す

る仮借な

い想

像と

は対照的

に、「私」自身

の反省や未亡人

への同情

の言葉が散見す

ること

であ

る。未亡人批判

の反省

とし

ては

「不謹慎な心」「横着な批

判」、「未亡人

の境涯が新な欄みを似

て心底から同情された」などと

あり、寄附金

ついても

「涙ぐまし

い美挙」「他

の窺ひ知

らぬ温

い友

情」と

った世

辞を連ね

ている。批判

は決

て直線的

なも

ではな

く、小林が葛西を評した

「純

潔過ぎる謙遜が偲傲

一形式

になる」

(注④)と

いう表

現そのままに、自卑

と自尊

の間

で屈折

している。

つけた火種を消

して回

るような筆致か

ら、嘉村

の主意

は谷崎

の考

たようなこと

ではなか

ったことがわか

る。しかも誤解

の恐れがあ

たからこそ、

「女

ひとりと思

へば

よく

よく馬鹿

にし

て」、

「自棄

クソ

一31一

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な、捨鉢

な、ああ

あ、

と言

ったやうな歎息」

と前

って釈

明しなけ

れば

ならなか

ったのである。彼

「筆禍」

を危惧

ていたことは次

の事実

でも推測

できる。

谷崎

によれば、作品発表直後、別

の場所

「此

の作品

に対す

る蔽

べからざる不快

さを述

べた」ところ、嘉村

「直

ぐ長

い手紙

が届

い」

たと

いうことである。

それには

「あの

品は決

て葛西

先生

の御遺族

を書

いた

のではなく、全然

別物

す」と

「弁解」

が記されていたらし

い。

この

「弁解」

は谷崎

の言

ように

「そらぐ

しい」

ものである。

例えばs氏

の戒名

「芸術院善

巧酒仙居士」

は紛

れも

なく葛

西

のそれ

である。火鉢

で大火傷

したS

の娘を

見て、

その火鉢

をS氏

に贈

った

「私」

は心を痛

めるが、大

森澄雄氏

の綿密

な調査

によれば、

これも事実

に符合

し、葛西

四女

美チ

が火傷

したのは昭和

五年十

二月

(作中

「去年

の十

二月」

とあ

る)である。

また

「遺

作全集

五巻

」と

いう記述

など年譜的事実

に徴

しても、葛西

の遺族

を扱

ったものであることは疑

いない。

それにも

らず、

やはり嘉村

の記す通

り、

これは葛

西の遺族

のことを書

いた

のではなく

「別物」と考

える方

が妥当

ではないか。

3

片岡良

一は問題

の箇所

に、嘉村

「形式的」「封建的道義」(注⑥)

の残津を見、大森氏

「偽悪者

ったポーズ」

や、我

が身も

「愛人

の将来を心痛し

ていた」嘉村

「身勝手

さ」を指摘

し、「偏狭な論

を振

り回す」嘉村

「恐ろしさ

に傑然

と」(注⑧

)す

る。このような

片岡、大森両氏

の意見を

~応肯定した上

で、更

にそこに作者

の意図

をす

くい取

ること

が必要

であるように思え

る。

以下

、執

筆時点

での嘉村

の内面

の動きを考慮

に入

れ、作品

に即

て検討

して

いきた

い。

の箇

所は

調子

は高

く、

り口も執拗

であ

る。

それだ

にか

って、正妻

と内妻

の処遇を峻別す

べきだとか、妻

は夫

の芸術

に殉

じて餓死す

べきだとい

った固随な

口舌

の裏

に、「私」の引き裂かれた

面の痛

ましさがほの見えてくる。「私」

はす

べてを

「承知し乍ら」

「何

か非常

に不条

理な、筋道

の通

らぬもののやうに思

はず

にはゐ

られな」い

のである。何に対

してか。「生く

るも

のの悲哀、生存

の醜

さ」

に対

してである。

い換

えれば

「人生及び芸術

なるも

のが、理

と実際」

が、否応

なしに分裂

してしま

ったことが

「ただただ残念

で堪

らない」

のである。作品

の到

る所

「不条理な」も

のに引きず

られ、分裂

してしま

った

「生存

の醜

さ」がち

りばめられ

ている。未

亡人

への同情と反発、

S氏

に対す

る相反す

る感情、

二本

のナイフな

ど、二

つのも

のの葛藤

「私」の内部を染あ

る色調

であ

る。「芸術家

の最後

の理想」

に殉

じて飢

え死

にし

ていく遺族を讃美した直後、彼

は位牌

に手

を合

わせ

「先生

のやうに文名が挙

ります

やう、出世

の望

みがかなひます

やう、南無」と心

のうち

に祈

るのである。

芸術

を目差す限

り、何

かし

ら現実以上、現世

の幸福以上

のも

を求

(中略)生甲斐、光

明、救済

でもあるやう

に思

倣す

こと

が普通

であ

るらしいのだが、悉く甚し

い迷妄としか思

へな

い。

然も、哀し

い愚な迷妄を知りながら、容易

に、そ

こを遁れ得な

いのである。

(「ひと

りごと」「時事新報

」昭6

・3

・20同22)

一切

の禍も、悩

みも迷妄

も、詩

の愛

で忘れ

てしま

ひた

い。(中

略)美

に対す

る信仰

以外、私

は何も

のをも持

ち合

せた

くな

(中略)芸術

に執心する

ことが、特

に高

い生

でも、何ん

でも

一32一

Page 7: 嘉村磯多論 : 「七月二十二日の夜」の評価をめぐっ て · 嘉 村 礒 多 論 ー 「 七 月 二 十 二 日 の 夜 」 の 評 価 を め ぐ っ て ー 廣

いではな

いか。むしろ、だんだん汚れ

て臓なくな

ってゆく

が省

みられる。無知

と矛盾

の裡

一生附

き纒

ふであらう芸術

呪ひを恐ろしく思

はずには居られない。(「螢火」「時事

新報

」昭

6

・6

・20~22)

芸術

に対す

「信仰」と、名声

や安穏

な生活

への憧れとがな

い交

にな

っている

のが嘉村

の現実

であ

った。

つのも

のが併存し得

のか齪

酷を

きたす

のかは別

とし

て、嘉

はそ

の相克

に苦し

んで

た。葛

西

への思

いも屈折

ている。S氏

臨終の場

面を見

てみる。

だが、

と何

のかが絶

え入るやう

に滅

った自

分を強

く撮ね

返した。自分

一箇

とし

ては、独生独死

は、かね

ての覚悟

であり

深く思ひ知

ってゐる筈

ではなか

った

のか?

(中略

)先師芸術院

ゐまさず

ば、

このたび空

しく過ぎなまし、

に専ら

S氏

哀、彼岸

からの鞭燵

によるもの

(中略)

さりなが

ら、

S氏が例

の口を

パクパク動

かして名残

りをし

さう

に死

んで行

った際、

の恋慕涕泣

の真只中、私も外儀

の姿

は如何

にも殊勝らしき悲

の色を装

はうてゐたと

は言

(中略)ー

やれやれ、

これ

があ

いた、実

に骨

の折

れる人

であ

ったが、ああ助

った

自分は自分の狭い安堵の心を神の前に秘め隠すことが出来

ようか!

(傍点引用者)

戯画め

いた描写

の中

にあ

って、二

つの逆接

の接続

詞は

「私」

のS

への思

いを明瞭

に物

っている。

感謝

と背反、共感と批判が分裂

したまま

に彼自身

を責

問しているのである。

わけても彼を苛

んだの

はS氏

に対

する劣等感

である。

遺族宅

からの帰途、電車

の中

「私」

は悪夢

にうなされる。夢

てきたS氏

が彼

に向

って

「野需間め

!

あんな野郎

は贋物だ

贋物

だよ。

ちょ

っとも心掛が

ってな

いぢ

ゃな

いか、芸術家

になど

なれるも

のか!」と罵

る。

これは夫人

「商売」と言われた時

に想

したS氏

の嘲笑

の思

い出と軌を

一にする.彼は記憶

の中

でも夢

でも、師

に笑われ

「わ

ッと泣」

いている

のである。嘉村

「私」

の引け目を通し

て、私小説家

とし

ての自責

の論

理を伝

えようとして

いる。「われ随巷

に窮死

す」を体現

した師

の徹底性を文字通

りに受け

って、身

動きならなくな

った嘉村

の不安を

この夢から読み取

るこ

とが

できよう。現世を断念

した葛西

による、作者自身

「芸術観」

「生活観」

に対す

る指弾

こそが、悪夢

の意味す

ると

ころ

である。

しか

しながら、松原新

一氏

のよう

に、例えば遺族

の運命

の描写を

「芸術家意識

それ自体が

一個

の執拗な煩悩と化し」た嘉

の、「葛

西

注⑩

善蔵

の精神

への微妙な誤解

の跡」と言

い切

ってしまうことには疑

注⑪

を感じ

る.私小説はそ

の性格上

〈連作性

〉を帯

びる。嘉村

一連

作品

に登場する葛西

の描

写は互いに関連

し、全体

として

一つの実像

を結ぶ。「生別離」(「新潮」昭4

・7)「足相撲

」(「文学時代」同

10)

「途上」

に描

かれた葛

西の姿

は、私小説家

「最後

の理想」が行き

つく果

ての

「生存

の醜

さ」

そのも

のであ

る。嘉村

はそ

のような、当

然葛

西自身

も気

づいていた

「理想と実際」

の宿命的な懸隔を正確

計測

しようと意図し

ていたのであり、

こうした理由

から葛西像

は、

作者

の自責

の論理

で色濃く塗り固められ、師

への思

いも意識的

に増

幅され

ているのであ

る。嘉村

の宇野浩二宛書簡

(昭3

・夏推定

)に

於け

る、亡き葛西

への敬慕

の静

けさと比較

すれば、

それは明らかで

ある。更

に言えば先

に引用した

「螢火」後半

は、葛西

の口述

による

感想

「小感

(「不同調」大

15

・3以降嘉村筆記)第

一回

「小説と

一33一

Page 8: 嘉村磯多論 : 「七月二十二日の夜」の評価をめぐっ て · 嘉 村 礒 多 論 ー 「 七 月 二 十 二 日 の 夜 」 の 評 価 を め ぐ っ て ー 廣

いふも

のに

一生を打ち込

んで行

っても、人格的

に救はれな

い感

のだと

いふ気

へする

のである」と

いう発言の援用ともみなせる

のではな

いか。

このよう

に嘉村は葛西を

「誤解」し

ていたのではなく、冷静

に認

識し

ていたと思う。

の上

で、葛

西ほどに徹底

できない自分を恥じ

ていた。

同時

「人

ト為

り友親

ヲ絶

ス」と

うそぶきながら、周囲

々を苦

しめ続

けた師

への反発も

ったのであ

る。嘉村は己

の罪業

を悔

いても誇示

はしなか

った。

しかも葛西

は生活

に行き詰まる度

「郷里と東京

の間を遁走し続け」た。

そこに

「イゴイズ

ム」を見た

注⑫

のは相馬泰三

や広津和郎だけ

ではあるま

い。

つて中村武羅夫や大宅壮

一が葛西を容赦なく批

判したが、嘉村

その批判

の内容

が自

にも当

てはまると感

じなか

った

であ

ろう

か。彼

が描

いた葛

西の姿

は、

さながらに彼

「人生及び芸術」

には

ね返

ってくるもの

である。

問題

のあの長

い二

つの文

は、

S氏と未亡人

の姿を通し

て、彼自身

「理想と実際」

の分裂を記し

ているのに他ならな

い。従

ってここ

に、嘉村

「一種

の功利的打算」を見る、大森氏

の次

のような考察

には全面的

には承服

できな

い。即ち

「昭和六年

の後半期

には、文壇

の事情も

一変し

て、葛

西流

の私小

説は悪評される憂き目

にあ

った。

こうした状

況の下

で、

〈世

間から〉葛

西

〈門下

とまで言

はれ〉、彼

の嫡流と見

られ

ること

は、確か

に不利

であ

った」とし、「葛西善蔵的

な作家態度と

口線を画す

ること

によ

ってはじめ

て、自ら

の浮かぶ瀬

もあ

る」と

いう

「嘉村

の内実」が創作動機

にあ

ったとする見解

(注

⑧)

である。確か

に葛西亜流と見られる

こと

に嘉村は不満

を感じ

いた

であろう。新

い試

みも…幾

つか

の作品

に見

られ

ころ

であ

る。

しかしこの作品

から嘉村

の、葛西と

の訣別

の姿勢を読み取る

とには、やはり無理があ

るよう

であ

る。「葛西ならび

に浅見に対

する

嘉村

の所懐」

に、師と

「}線を画す

る」

ことを意図した

「打算」

ること

はできな

い。なぜなら表現

に関する限り、未亡人

は批判

てい

ても直戴

的な

S氏批判

の言

はど

こにも見

られな

いから

であ

る。「一線を画する」

のではなく、

むしろ

「葛西善蔵的

な作家態度」

や信念が屈折した形

ではあるが強

調され

ているのだ。「私」が

S氏を

批判する

のではなく、

S氏が

「私」を嘲笑

しているのであ

る。ま

森氏

はS氏臨終

の場

面に、作者

の葛西

への

「感謝」並び

「激烈

注⑮

な悪感情

」を指摘

している。

しか

「埼があ

いた」以下は

「私」だ

けでなく

「一座」

のす

べての人

々の、死者

に対す

る愛憎入り乱れ

実感

ではなか

ったか。死

によ

ってもたらされる或る終結感、ある

「安堵

の心」を、余人

はともかく嘉

村は

「秘あ隠」すことなく、

自嘲

や講誰を交え

て描

いただけ

である。

同様

にこの作品

は、「浅見

の微笑

に対す

る露骨

な悪感情を基軸

て構成された」(注⑮

)のでもなかろう。浅見宅訪問

から、作品発

表ま

でに半年

近く経

過し

ている。葛西

の嘲弄な

らば早く

「足相撲」

で紹介済

みのことである。現実的な

〈有効性〉を狙

ったと

一面

で考

注⑯

にっ

え得

る私小説

の例

はあ

る。

だが

この作品

に於

いて

「不景気」

「二

進も

三進も」

いかなくな

った寡婦

に対する怒りを公

にすることが、

嘉村

の執筆動機

の基底

にあ

ったとは思えな

い。火傷

に責任

を感

じ、

手術

の失敗

に苦しむ田舎

の息

子を思い、

「横着

な批判」

を後悔す

「私」

の心を記し

ている

ことに注

目したい。

は谷崎宛

の手

の通

りに、

「葛

西先生

の御遺族を書

いた

ので

はな」か

った。自

分とちとせ

の、現在と未来を語

っているのである。

一34一

Page 9: 嘉村磯多論 : 「七月二十二日の夜」の評価をめぐっ て · 嘉 村 礒 多 論 ー 「 七 月 二 十 二 日 の 夜 」 の 評 価 を め ぐ っ て ー 廣

品を書

き進

める彼

の頭

には、「贋物

だよ贋物

だよ」と

いう声が呪文

のよう

に響

いて

いた

ことだ

ろう。

嘉村

の意

では、

遺族

の末

「芸術」と

いう観念を仮託した暗喩

に過ぎな

い。彼

「形式的道義」

「偽悪者

った

ポーズ」を目差

しているのではあ

るま

い。

4

て当時

の嘉村

の生活と

この作品と

の関わりを見て

いこう。

の短

い文学活動

にも、幾

度か

の作風

の変

遷はあ

った。「七月

十二日

の夜」はそ

一つの節目に位

置し

ている。

以後

の作品

には、

作者

の死生

観が濃厚

に投影

てくるが、

それは作者

の内面

の変化

反映

ているのである。作

品執筆

の昭和六年

は、実生活

の面

でも嘉

に転機

が訪

れた。大晦

日の帰郷

である。

新興芸術派

の凋落、前年十

一月

「近代生活」編集

の職を退

いて

以来

の家計

の逼迫、慢性的

な不眠と消化不良

による宿痢

の悪化など

注⑰

が、彼

に生活上

の不安を与

えていた

こと

は、太田静

一氏、大森氏

研究

に詳

しい。また当時

の生活

や心境を題材

にした

「夏近し」

(「文

科」昭6

・11)「来迎

の姿」(「文芸春秋」昭

7

・4)「神前結婚」、随

「螢火」「柿」(「文科」昭6

・12)等

にそ

の間

の事情

はうかがえる。

同時

にそこに、彼

の作家とし

ての焦燥を見る

ことも

できよう。煩

の末、彼

は大正十

四年

ちとせと故

郷を出

奔し

て以来初

て帰省

た○郷里

の我が家

に彼女を預けるため

である。

「山

口にも仁保

へも、

の場合は、死ん

でも帰れません」(昭4

・1付義弟山下栄宛書簡)

と決意し

ていた嘉

には、帰省

は深切

な意味を持

ったであ

ろう.上

京以来彼は、家族

への恩愛とそれを棄

てたこと

への自責

に苦し

みな

がら、病苦

や貧苦と

「芸術

の神」(同書簡)

への渇仰と

の危う

い拮抗

に耐え

てき

た。

そのような彼

にと

って、過去

の罪障を映し出

す合

せ鏡

のようなちとせと

の現在

の苦

に満

ちた生活

こそ、作品存立

要件

であ

ったはずだ。

の入

った斑点

に汚れた黄色

い壁

に向

って、

これ

から

の生涯を

過去

の所為

と罪報

とに項低れ乍

ら、足

に腓豚

の出来るま

で坐

通したら奈何

だと魔

の声

にでも決断

の膀を囁かれ

るやうな思

を、圭

一郎

は日毎

に繰返し押詰め

て考

へさせられた○

(「崖

の下」「不同調」昭3

・7)

ことも

知れ

ぬ未来

に向

って

「死ぬま

で都市放

浪を

つゞけ」

(「経机」「大阪朝

日新聞」昭8

・10

・4)内妻

とせめぎ合

うこと

生活

の空虚を埋める、

これが嘉村が当面選び取

った生

き方

であり、

の忍従や緊張をなぞる

のが彼

の文学

であ

った。従

って内妻を伴

故郷

に避難す

こと

は、

言わば

に対す

る背信

であり欺臓

であ

た。

こうした欺隔

は当

然作

品にも影響す

る。

我慢も

いい加減

にし

て、

この際

ユキ

(ちと

・引用者注)を故

郷に連

て帰

り、両親

に引き合せ

て因縁を

つけ、継子ながら自

の子にも因縁を

つけて置

いてやることが、意気地な

い哀し

打算

ではあ

るけれど、私

に死別した後

の彼女

の平安

のため

に、

より焦眉

の急

であ

ること

に思

ひ到

った。

(傍点引用者

)

結末

のこの思

い切り

の悪さ

に、「七月二十二日

の夜

」はその実相

露呈し

ている。遺族

の行末

ついて酷薄な予言をした

「私」

が、自

の妻子

の行末を憂慮し

ている

のである。

こうした矛盾

ついて嘉

は充分

に意識し

ていたわけ

で、

しかもそれが自分

の内実

である以

上、「理想」のうちに潜む

「打算」を

「私」に告白

させな

いわ

けには

一35一

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いかなか

った

のであ

る。

とすれば

ここで指摘す

べきは、嘉村

の方法上

の誤算

であろう。芸

に捕われた人間

の内面

の悲劇

を語る

のが、

この作

の課題

であ

た。彼

にと

っては切実

でも、もはや新

しいとは言

えぬこの課題

を、

は文壇

「ゴ

ップ」的題材

に寄

りかか

って生

のままに解き明

かそ

うとした。彼自身

が方法

としては私小説

〈負性〉

に縛

られ

ている

のであ

る。あ

るいは嘉村

には、事実と

いえど

一旦文字

にすれば

それ

は虚構

にな

ると

った幻想があ

ったのかも知れな

い。少なくとも事

実を・う一.口葉

の集積

で囲緯しさえすれば、

そこに文学空間が成立す

ると

いう思

い込

みはあ

ったと言

える。かく

て事実

は文学的

に処理される

ことも、自律的な美意識

で統合される

こともなく、

ひたすら作者

観念

によ

って誇張され、そ

の具体性、個別性だけが浮かび上が

って

くる

こと

にな

った。そ

の結果作品

に内在するはずの私小

説家

の運命

いう主題は拡

散し、「蹴飛ば」され、「唾

を吐」

きかけられる

「死

骸」だけが取り残

される。「観念

の実

質は実生活

に生

きる実感

によ

てのみ確

認され、小

説的条件

の展開がうながす作品

の構造と

は無縁

に成立す

る。『業苦』のり

アリテ

ィは

(中略)作品

の外延

にあ

る実生

の全重量

に賭

けること

で、

わずかに保

たれ

る」と

いう

三好行雄氏

注⑱

「業苫」

(「不同調」昭3

・1)批判

は、そ

のまま

この作品

にも当

てはまる

であろう。

電車

の悪夢

ナイ

フの挿話も共

「七月二十

二日」

「夜」の話

である。合

わせれば前

の遺族宅

の場

面に、質的

にも量的

にも匹敵

る。構成と

しても前半

と繋

がる

べきであ

る。

にも拘

らず遺族宅

場面だ

けが他

から遊離

し、

「人歩

きをす

ること

にな

ったのであ

る。

該当部分

の文体

ついては已に述

べた。象徴とし

ての機能を失

た言葉

の向

こうから、「私」を押

しのけて作者が登場し声高

に信念を

じている。これ

はも

はや描与とは言えな

い。「絶対

の苦し

みは、絶

に他人

に告白

できな

いも

のだと思

ってゐます。(中略)自己

の生活

を曝

け出す芸術が、髄か

一面

に於

ては厭なも

のだと思ひます」(大

11

・1

・13付安倍能成宛書簡)や、「私は近

角先生

のお説教

を死

ぬ程

ほんき

でき

ひてゐます。ナムアミダ仏をとな

へます」(大

12

・5

・31

付父若松宛書簡)

にも見られるよう

に、作家志望

の当初

から、嘉村

は宗教と文学

の間を揺れ動

き、自

己告

白型

の小説

に疑問と限界を感

ていた

のである。太

田氏

の説く如

く彼

の文学

が、近角常観

の新親

鷺主義

の影響を受

「俄悔道」

としての文学と

いう宗教性を帯びた

(注⑰)

であ

ったにしても、同時

に彼

にと

って告白

は、不満足

ながら文

学的

な方法

でもあ

ったはずだ。だとすれば、

この作品

はや

はり方法

「安

きに就

い」

(前掲

「短

い感想」)た作品とする他なか

ろう。

以上見

てき

たよう

に、彼は

この作品

で、生

活上

の欺臓を自

虐的

跡づ

けること

によ

って、そ

こから

の脱却を先

取りしようと試

みた。

しかし結局

は方法上失敗

に終り、彼は依然

とし

て元

の地点

に立

ち止

っている。

遺族宅

に着く直前、折

から

の蝟

の声

に故郷を想

「私」

の目

に映

じた

のは、次

のような変哲

もない光

景であ

る。

くうち、丘

の上

の鉄筋

コンクリート建

ての小学校

の新校舎と

か、竹藪

の中

の塗

りか

へた赤

い稲荷堂とか、藁葺

の間

にペンキ

りの新し

い西洋風

の家屋とか、四囲

の開化変遷に眼を向

(下略〉

この不調和な光景はまた、分裂し

てしま

った作者

の心象

の風景

一36一

Page 11: 嘉村磯多論 : 「七月二十二日の夜」の評価をめぐっ て · 嘉 村 礒 多 論 ー 「 七 月 二 十 二 日 の 夜 」 の 評 価 を め ぐ っ て ー 廣

も言

えないだろうか。

5

外出直後

「私」

は、早

くも

一つの煩悶

に逢着す

る。

矢来通り

の消防署前

のホーリネ

ス教会

の黒板

に、われ時を知

れり、今は眠より醒むる

の時なりー

と書

いてある

のが不図眼

に留ま

った。病

的なま

でそ

の聖書

の章句が、私

の魂を混乱させ

た。

の章句

は、新約

「ロマ書」

(13

・11)「なんじら時

を知

る故

に、

いよいよ然

なす

べし。今

は眠より覚

べき時

なり」

のことと推

測さ

れる。「私」は、章句

「時

」や

「眠」をど

のよう

に解した

のか。言

えるのは、

「魂を混乱

させた」

ということ

である。

は結局

「唯、受身

の場合

の外

は宇宙人生

に就

いて牽も知

り得な

い愚し

い自

分」を痛感す

る。已

にここで

「生

くるも

のの悲哀」、

「生存

の醜

さ」

いう主題が暗示

され

ているのであ

る。嘉村

の中

で仏教とキ

スト

教が奇妙な混交をし

ていたこと

は、先学

の指摘す

ると

ころであ

る。

「私」を惑乱させた

この章句は、「崖

の下」の圭

一郎を苦しめた崖上

の求道学舎

の勤行

の声、「愛慾之中。…窃窃

冥」「顛倒上下。…迭

相顧恋」と、ど

こか

で響き合

っているようだ。言うま

でもなく、

の章句

は後

「愚し

い自分」

の感慨を介し

て作品末尾

の次

一節と

呼応し

ている。

の身

の上わが身

の上、根本

のこと

は、大した悲劇

でも喜劇

もな

いとま

で今

は容易

に言

ひ得

るのであ

るが、地上

の娑婆

にあ

るあひだ

は、根無草

のやう

に違

順した愛憎

の花が咲く。

「違

順した愛憎」

とは、

S氏

や未亡人

ユキに対す

「私」

の気

であり、

また

「私」自身

に対す

る、更

には分裂し

てしま

った作者

自身

に対す

る気持

でもあ

る。「違順した」も

の、「不条理な」も

のの

実体を知

るのは、休息

「眠」

ついた

「時」か、悪夢から

「醒む

る」

「時」か、彼

「毫も知り得な

い」

のである。

て、

ここで作品後半

ついてもう少し考

てみたい。

まず電車

の中

「悪夢

であるが、

これは二

つの部分

から成

って

いる。

前半は大家

に会

う場

である。

「私」

は落間

に座

り、

大家

「見おろ」されている。「私」が持ち上げ

ること

のできな

った

「瀬

の大火鉢」を、大家

「なんな

く」抱

えた。

これ

らは

「私」

の大

への劣等感、

あるいは意識下

の娘

への罪悪感

の現れ

であ

る。無論

作者

の夢を見

たかど

うか

は問

ではな

い。中座

て外

に出た

「私」

は、友人を怒

らせ

た上

に、大家

の家を見失う。

ここから家さ

がし

のため

「狂気

のやう」な彷復が始まる。夢

の後半、焦燥

のう

に捜

し当

てた家

では、大家

はS氏

の相貌

で登場し

「私」を罵倒す

る。饗庭孝男氏

はこの後半

の古寺

つまり

「青松寺」を

「近角常

世界」と見、文学と宗教

の間

「切羽

つま

っ」た嘉

の心が

「夢

ふき出」たと解す

(注⑦)。氏がそ

一つの理由

とする

のは、同月

発表

「魍

」の主題が、まさ

に芸術と宗

の葛藤だから

である。

示唆

に富む分析と思う。但し氏は

「古寺」

「奥

にS氏

がすわり」

と解し

ているが、

これは間違

いであろう。寺

の娘は

「その家

ならこ

の前

の家

です

のに」と教え

てくれた

のである。

S氏

は青松寺

「前

の家」

にいた

こと

になる。磧末

な夢

解き

にこだわるようだが、

已に

「3」

でも述

べたよう

に、

ここはやはり芸術

と生活

の相克

と解

した

い。

この悪夢

には、故

郷喪失者

であり、市民生活

の規範

から逸脱し

一37一

Page 12: 嘉村磯多論 : 「七月二十二日の夜」の評価をめぐっ て · 嘉 村 礒 多 論 ー 「 七 月 二 十 二 日 の 夜 」 の 評 価 を め ぐ っ て ー 廣

た者

とし

ての、嘉村

の不安

と孤独感

がにじみ出

ていると思

われる。

生活

への羨望も芸術

への信仰も共

に、彼

が三畳間

に閉

じ込も

り、狭

い生活圏と交友関係

に逆比例

して増殖

させてい

ったも

のであ

ろう。

嘉村

の作品

に繰

り返

し描

かれる悪夢

は、彼

〈空虚〉を董恥

や焦燥

注⑲

で塗

つぶす、実生活か

らの復讐

に他な

らな

い。

このよう

に考

えてきた時、作品

の末尾近く、

S氏

の臨終と

それ

つわる

「私」自身

の死

の想像

の挿話

は、

}つの明瞭

な形

をと

って

くる。即ち

「人生及び芸術」

の止めどな

い分裂が、終局とし

て到達

せざるを得な

い無惨な死

の様相

であ

る。嘉村は紛れもなく、自分と

葛西

の運命を同

…視し

ている。しかし彼が作品発表二年後

に早世す

るま

で、目前

の死を認あようとしなか

った

ことも、最晩年

の宇野宛

書簡

やちとせ

の回想文

で指摘

できる

こと

である。詳述する用意はな

いが、彼

の作品

にはお

びただ

い死

が描かれ

る。

蛇身

の死児

の夢

(「父

となる日」「不同調」昭4

・1)、焼死した叔

(「秋立

つま

で」

「新

潮」

昭5

・11)、再

しな

いと妻

に誓

て死

いく義

(同)等。

それ

らの死

はその人間苦

の様相

に於

て、

おぞまし

さに満

てはいるが、反面現実感

に乏

しい。恐

らく有島

の自死

に驚き、震

で多く

の死者を見、自身病苦

に喘ぎなが

ら、彼

は遂

に自分

の死を

切実なも

のとし

て捉え

ることが

できなか

った

のではな

いか。

それ

「死と

いふも

のが訪れなければ

いい、何百年

でも何千年

でも生き延

びた

い」

(「来迎

の姿」)と願

った子供

の時から、同時

「厭離臓土、

欣求

上ー

の切

い思

ひ」が

「影と形

のやう

に持続し

て」

(同)

いたからだとも思える。

そし

てこの死

に対

る恐怖

と浄

への希求

の接点

にこそ、

「ナイ

フ」

の挿話

の意味

が存

する

のである。

ユキの懲愚もあ

っていじまし

「私」が高価な

ハーデルを買

った。

その事自体異様な行動

であるが、彼は

この

ハーデルを更

に高

価な

ンケルに買

い換え

て、

っと安心する。しかも換えた途

「今ま

での喜び全部が、暗

い淵

の底

に石

でも拗

ったやう

にドブ

ンと音を立

てて沈

んで」

った。

ナイフを取り換え、更

「取り換えた

こと自

体を後悔」する

「私」の姿

に、「何かを選択する

こと

にい

つも致命的

注⑳

なぞごを感

ていた」嘉村

「幼児性」を見

ることも

でき

よう。彼

は対立する二

つのも

のの間

にあ

って去

に惑

い、満

たされる

ことが

なか

った。

このような心奥

の欠如感

に常

に悩

まされ

ていたとも言

る。

ナイ

フの話

には、不確かな生

の空虚

を補墳

するために何

かに依

拠しようと躍起

にな

っている男が描

かれている。

その何

かと

は、

ンケ

ルの鋭

い刃である。しかしそれだけではない。ナイ

フと

は何

か。

の恐怖

から

「私」を守

ってくれるも

の、浄土

へと誘

ってくれ

〈護

符〉

に他

ならない。

これは飛躍

ではな

い。

この

一挺

のナイ

フを守

り刀にして魔を払

うて行かう

(下略)

「私」

は娘

の火傷を

「縁起が悪

い」と感じ

ている。夢

の中

のS氏

「天狗

のやうな」顔をし

ていた。悪夢

「呪

ひ」

のせ

いだ

った。

嘉村

には土俗的な迷信が根強く住み

ついていた。「滑川畔

にて」(「文

学時代」昭6

・10)には建長寺

「一昨年半僧坊

の石段

で、叢

から

蛇が飛び出た時

の不吉な思

ひが今だ

に忘られず、

この度

はお詣

りは

止した」などと平然と記し

ている。

ハー

デルは

「狂ひが来

さう」で、

事物とし

ての確かさを持たな

いも

のであ

った。

ヘンケルはどうか。

「頑

」で

「重量」感

にあふれ

ている。しかし

「あなたのこと

です

から、物を大事

にする人

です

から、

一生涯持

ってゐら

っし

ゃるでせ

うね」

いう

ユキの言葉

は、物

の確

かさと

は裏腹な生存

の不確か

一38一

Page 13: 嘉村磯多論 : 「七月二十二日の夜」の評価をめぐっ て · 嘉 村 礒 多 論 ー 「 七 月 二 十 二 日 の 夜 」 の 評 価 を め ぐ っ て ー 廣

を思

い知

らせたの

である。「私」は

「暗

い淵

の底

に」音立

てて沈

いき

なが

ら、自分

の臨終

の情景を想像す

る。

そこでは生を守護す

ナイフは、死臭を放

つ枕辺

に置かれ

る呪具とな

る。

ヘンケルさ

も生

の空虚を埋め

てはくれな

い.現世

「都市放浪」者

は、死後も

浄土

の安

息を許されず、黒猫

に腐肉を窺われる存在と化す。

これ

まさしく鳥

に啄まれる遺族と同じ運命

である。

かくし

て聖書

の章句

から、「私」が自

の死後

ユキの平安を祈

終節

まで、作品

は死

の観念

に支

配され

ている。

ここから浄土

の希求

の表出ま

であと

「歩

である。昭和六年版

『新文芸

日記』

に嘉村

は、

「私

は都会

で死

にたくな

い。(中略)それは私

の衷

心の願

である。あ

のお地蔵さ

んのそば

へ埋

る日を思

うて、このこころ躍

る!」(「『上

山』の里

(山

口県)1我

が郷土

を語るー

」)と記し

ている。望郷と浄

への思

いが

…体とな

っている。当時

の嘉村

にと

ってこれ

こそが最

も切実

な課題

ではなか

ったか。そし

てこれが現実

の行動とな

った

が、

七年振

の帰郷

であろう。

田静

一氏

の推定

によれば、

「来迎

の姿」

の起筆

は昭和六年

(注

)である。随想

「『上

ヶ山』の里」と同じくこの作品

は死と浄土

の思

いが主題とな

つている。だとすれば

「七月

二十二日

の夜」から、

「娑婆」

「違順

した愛憎」

に疲

れき

った男

「欣求浄土」

の萌芽

を読

み取

ること

は、

必ずしも見当違

いとは言

えまい。例

えば

「来迎

の姿」

に、

「日曜附録

の綴込み」

に載

った英語

㎝節が出

てく

る。

「私」

はそれを次

のように訳

している。

へる人

には此世

は喜劇

であ

り、感ずる人

には此世は悲劇

であ

る:::

「ヒ月

二卜二

日の夜」

の先

に引用した

「人

の身

の上わが身

の上、

根本

のこと

は、大

した悲劇

でも喜劇

でもな

い」

は、

この訳文

の発想

と似

てはいないだ

ろうか。も

っとも訳文が作品

に陰影を与える

のに

役立

っているのに対し、

こちら

は常識的な警句以上

の意義を持

って

いな

い。む

しろ

「私」が、「大

した悲劇

でも喜劇

でも

ない」と

いう達

観から

いか

に隔絶し

ているかが伝わ

ってくるくらい

である。

これは

「来迎

の姿」が、浄土

「お迎

え」

という或

る種

の諦念

のうちに死

の実相を把握

ているのに比

して、後者

が死を観念的

にしか捉え

いな

いこと

による

のであろう。

しかも

この

一節

は葛

西

「湖

畔手

記」、

「だが、お

せいよ、気をゆたか

に持

て。人間

のこと

は、す

べて

が悲劇

のやうにも、また悲劇

でも喜劇

でも何

でもな

いやう

にも、思

へば、思

へるのだ」

の安易な踏襲

に過ぎな

い。

以上

のよう

に、「七

月二十

二日の夜」は、死

の観念を支点

に芸術

生活と

の間を揺れ動く私小

説家

のおびえを描

いた作品

と言

えよう。

遺族

の死後

の姿

も、悪夢

もナイ

フの件

も、す

べてそのおび

えを描

〈夢

の実

験〉という方法意識

の現

れである○作品

は非

日常的な悪夢

や幻覚

を描

いて、私小説

の枠を破

る契機を孕

んでいた。しかしなが

ら作者

の内

面の分裂が、結果的

にはこの短編

に主題と構成

の分裂を

たらした。死と

いう不条理なも

のを描く

はず

の小説が、実在

未亡人を中傷す

〈負性〉とし

ての私小説と化した

のである。

「葛西と嘉村」(『放浪の作家葛西善蔵評伝』所収昭30

・12現代社)

文芸時評

(作品を手がかりに)「嘉村礒多氏の

『七月二十二日の夜』」(「新潮」昭7

2)

一39一

Page 14: 嘉村磯多論 : 「七月二十二日の夜」の評価をめぐっ て · 嘉 村 礒 多 論 ー 「 七 月 二 十 二 日 の 夜 」 の 評 価 を め ぐ っ て ー 廣

久米

「『私』小説と

『心境』小説」(「文芸講痩」大14

・1同5)。宇野

「『私小説』私見」

(「新潮」大14

・10〉

文芸時評

「梶井基次郎と嘉村礒多」(「中央公論」昭7

.2)

宇野浩二

「葛西善蔵」(「文芸春秋」昭3

・9)。葛西善蔵

「朝詣り」(「改造」大11

.2)

他⑥

「嘉村礒多の役審」(「国上」昭23

・2)。また小笠原克

「私小説の美意識=その極北1」

(「解釈と鑑賞」昭44

・1)は、「慣用句的な成語のたぐいで覆われた、非個性的な類想

的な誘葉の氾濫」、「告白なのか主張なのか

(中略)見わけがたい」と述べている。

饗庭孝男「倫理的想像者=嘉村礒多論ー

〈小説論の試みH>」(「文学界」昭52

.9)は、

従来の私小説論が

「芸術を生活に還元し、表現世界を倫理の問題にひきよせ」て、私小

説の

「小説」ではなく

「『私』の方に重心をおくという結果を生んだ」と批判している。

「嘉村礒多ー内なる

『家』ー」(『私小説作家研究』所収昭57

・4明治書院)

嘉村の作品、とりわけ

「写真」(「文学時代」昭5・10)などには、内妻小川ちとせの

立場

への形式主義的なこだわりがうかがえる。

「嘉村礒多論」「葛西善蔵論」(共に

『「愚者」の文学』所収昭49・6冬樹社)

宇野浩二

(注③)は、私小説の享受者側の問題として、これに近いことに触れている。

占田精

一「短歌

・俳句

・私小説」(「短歌研究」昭29・9)にも、「私小説は又連作小説な

のである」という見解がある。

相馬

「……が困

った人だ」広津

「『正藏爺さん』の強味」(共に

「新潮」大8.4)

中村

「作家の遇不遇その他」(「新潮」昭3・10)大宅

「葛西善蔵を否定す」(「中央公

論」昭3

・10)

例えば

「新潮」合評会

(昭7

・2)で春山行夫は、嘉村の

「魍魎」(「作品」昭7

.1)

にボーを連想している。

『葛西醤蔵の研究』昭45

・6桜楓社

萬西

「湖畔手記」(「改造」大13

・11)には

「この手記は最初から妻にあてゝ、おせい

とのいきさつの一切を謝罪的な気持で書く

つもりだ

ったのが」とある。他に和田謹吾

「私小説の成立と展開」(『講座H本文学10』昭44

・5三省堂)の近松秋江作品に於ける

「功利性」「実用的効果」の指摘など。

『嘉村礒多その生涯と文学』(昭46

・4彌生書房)

「『業苫』嘉村礒多ー現代文学鑑賞」(「解釈と鑑賞」昭39

・9岡10)

拙稿

「嘉村礒多論「

『曇り日』における

「私」の位置リ」(「第

一保育短期大学研究紀

要2号」昭60・4)

柄谷行人

「私小説の両義姓よ

心賀直哉と嘉村礒多」(「季刊芸術」昭47秋季号)

作品引用は嘉村は桜楓社版全集に、葛西は津軽書房版全集に拠った。なお、漢字は環行

の字体に改めた。

一40一