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2003 沖縄医報 Vol.39 No.11 -52(974)- 沖縄に来た聖なる菩提樹の歴史(後編) 長嶺胃腸科内科外科医院 長 嶺 信 夫 5. ブッダガヤの菩提樹のその後 ブッダガヤの菩提樹からセイロンへ菩提樹 の分け樹が贈られたあと、初代のブッダガヤ の菩提樹は仏教の布教に没頭するアショーカ 王に嫉妬した王妃によって切られ、枯れてし まった。 ブッダガヤの初代の菩提樹と、その後、ジ エタヴァナのアーナンダ菩提樹が枯れたた め、アヌラーダプラのスリー・マハ菩提樹が 植樹の時から現在までの経過が歴史的に記録 されている世界で最も古い樹となっている。 現地ガイドの説明や資料によると、 1) 初代のブッダガヤの菩提樹がアショー カ王の王妃の指図で切られ、枯れた。 2) その後スリランカからの苗木を移植し た2代目の菩提樹が紀元前1世紀に枯れ (ガイドの説明) 3) その後にはえた 3 代目の菩提樹が紀元 5 世紀に枯れ(ガイドの説明) 4) その後にはえた 4 代目の菩提樹が紀元 12 ~ 13 世紀にイスラム教徒による仏教弾圧 の際ブッダガヤの大塔とともに破壊され (ガイドの説明) 5) その後はえていた 5 代目(?)の菩提樹 が1874年に枯れ(1903年発行のMaha Bodhi Journal に記載) 6)その後新しい樹が同じ場所に育った (写真3)。 ところで、正法寺のホームページに載って いる「フォートギャラリー・天竺紀行」の記 述では、現在の菩提樹は、“1876年嵐で倒れ た古木の根から芽を出したもの”と記述して いる。しかし、2003 年 4 月に放送された「世 界・ふしぎ発見、スリランカ編」のテレビ番 組では“その後、アヌラーダプラから再度株 分けされたものである”と放送していた。ほ かにもアヌラーダプラからの分け樹が移植さ れたと記載しているものが多い。現地ガイド も同じように説明していた。 このように、ブッダガヤの菩提樹に関して は、歴史書の記載が不十分なことや、12 ~ 13 世紀のイスラム教徒やヒンズー教徒によ る破壊の後、荒廃してジヤングルに埋もれて いたのを 19 世紀後半にイギリス人の考古学

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沖縄に来た聖なる菩提樹の歴史(後編)

長嶺胃腸科内科外科医院 長 嶺 信 夫

5.ブッダガヤの菩提樹のその後

ブッダガヤの菩提樹からセイロンへ菩提樹の分け樹が贈られたあと、初代のブッダガヤの菩提樹は仏教の布教に没頭するアショーカ王に嫉妬した王妃によって切られ、枯れてしまった。ブッダガヤの初代の菩提樹と、その後、ジエタヴァナのアーナンダ菩提樹が枯れたため、アヌラーダプラのスリー・マハ菩提樹が植樹の時から現在までの経過が歴史的に記録されている世界で最も古い樹となっている。現地ガイドの説明や資料によると、1)初代のブッダガヤの菩提樹がアショーカ王の王妃の指図で切られ、枯れた。2)その後スリランカからの苗木を移植した2代目の菩提樹が紀元前1世紀に枯れ(ガイドの説明)3)その後にはえた3代目の菩提樹が紀元5世紀に枯れ(ガイドの説明)4)その後にはえた4代目の菩提樹が紀元12~13世紀にイスラム教徒による仏教弾圧の際ブッダガヤの大塔とともに破壊され(ガイドの説明)5)その後はえていた5代目(?)の菩提樹が1874年に枯れ(1903年発行のMahaBodhi Journalに記載)6)その後新しい樹が同じ場所に育った(写真3)。ところで、正法寺のホームページに載っている「フォートギャラリー・天竺紀行」の記述では、現在の菩提樹は、“1876年嵐で倒れた古木の根から芽を出したもの”と記述している。しかし、2003年4月に放送された「世

界・ふしぎ発見、スリランカ編」のテレビ番組では“その後、アヌラーダプラから再度株分けされたものである”と放送していた。ほかにもアヌラーダプラからの分け樹が移植されたと記載しているものが多い。現地ガイドも同じように説明していた。このように、ブッダガヤの菩提樹に関しては、歴史書の記載が不十分なことや、12~13世紀のイスラム教徒やヒンズー教徒による破壊の後、荒廃してジヤングルに埋もれていたのを19世紀後半にイギリス人の考古学

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者カニンガムによってなされた発掘調査までの間、菩提樹がどうなっていたのか不明な点が多い。スメダ師は前述の著書の中で、1903年6月

に発行されたMaha Bodhi Journalの中に記載されている次の箇所を原文のまま紹介している。“その樹の下にある聖座にBhagawan

Buddhaが座ったという聖なる菩提樹は今はない。この樹は1874年に破壊(was destroyed)された。この聖樹のひと枝(a branch)はアショーカ王の娘であるサンガミッタによってセイロンのアヌラーダプラに運ばれた。これは現在世界で最も古い歴史上の樹である。初代の樹が1874年に破壊された時、新しい樹(a new plant)がその場所で育ち、それは現在ブッダガヤの聖地にある。その樹は生き生きとしていて、緑の葉を茂らせている。”この記録を見る限り、その後にはえた菩提樹が枯れた菩提樹の根元やその近くにあった

苗木から育ったものか、あるいは、遠く海をへだてたスリランカのアヌラーダプラから新たに運んで植樹したのかは明確でない。現在、ブッダガヤの菩提樹はマハ・ボディ寺院とともに世界遺産に登録されている。

6.インド・サールナートの菩提樹

ベナレス(ヴァラーナシ)郊外に位置するサールナート(Sarnath)の菩提樹について記載する時、インドにおける仏教の再興に尽くしたアナガリカ・ダルマパーラ(AnagarikaDharmapala, 1864~1933年、写真4)大師ぬきでは語れない。以下スメダ師の著書とラストラパラ会長の挨拶の中から一部紹介する。“ダルマパーラは1891年1月22日にはじ

めてブッダガヤを訪れている。彼は寺院の前に立った時、非常に感動するとともに、聖地の荒廃ぶりに胸がはりさけんばかりであった。彼は聖なる菩提樹の下にある金剛法座(Diamond Seat)のそばに座り、神聖な寺院の復元と仏教発祥の国に仏教を復興させるため、強大な布教団を発足させることを決心した。同年、インド菩提樹協会を創設している。彼は特にブッダが初めて輪

りん

廻ね

を説いた場所であるサールナートのイシパタナ鹿公園を賛えるため、立派なムラガンダ・クテイ寺院を建立することに力をそそいだ。また、ダルマパーラは、スリランカにいる時、アヌラーダプラにある聖なる菩提樹の保護に非常に関心を持ち、菩提樹と寺院の保護に力をそそいでいる。その結果、アヌラーダプラは考古学上の都市という以外に、聖なる菩提樹のために世界的に有名になったのである。”サールナートにおけるムラガンダ・クテイ寺院建設工事の当初から、ダルマパーラはスリランカのアヌラーダプラにある聖なる菩提樹の苗木を持ち帰ることを願い、持ち帰って移植する時期としてムラガンダ・クテイ寺院の落成の日を考えていた(Sumedha)。すな

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わち、ムラガンダ・クテイ寺院の栄光を世界的なものとして神聖化するため、アヌラーダプラのスリー・マハ菩提樹から3本の苗木をブッダ(Buddha、仏)、ダルマ(Dhamma、法、真理)、サンガ(Sangha、僧、仏教教団)の3宝(Triple Gem)と名付けてサールナートに運んだのである(Rashtrapala)。ムラガンダ・クテイ寺院の歴史的落成式は1931年11月11日に挙行され、3本の菩提樹の苗木の植樹はその翌日おこなわれた(写真5)。植樹はダルマパーラ大師自身や他の高僧、

考古学会長などの手でなされ、それらの苗木が高くそびえ立ち、将来ダルマ(Dhamma)が世界中に輝かしい影を投げかけるように願い、全員でガンジス川の水を注いでいる(1931年12月発行 The Maha Bodhi Journal)。

ところで、1931年にサールナートに菩提樹が植えられてから今年(2003年)で72年になる。今回、菩提樹の贈呈式の前に特別に菩提樹が植えられている構内に入れてもらったが、3本の菩提樹は根元で合流し、根元から7~8本の太い幹が枝わかれするようにのびていた(写真6)。

7.京都府園部町に贈られた菩提樹

1992年2月25日、スリランカのスリー・マハ菩提樹の分け樹が、現地で、スリランカ政府から京都府園部町に贈られた。そのきっかけは1990年に開催された「花博」での同国と園部町関係者の出合いという。その後、農業を中心に交流をつづけ、町からスリランカの子供達へ衣類や中古の自転車を贈るなどをしていた。こうした交流の中で、聖地を訪れた町長が聖地の菩提樹をみて感動し「町の国際交流のシンボルとして建設中の国際交流会館に植えたい」と分け樹の譲渡を要請していた。もらい受けるのに一年かかったという。苗木にはアヌラーダプラのボマルワ寺院の証明書が添付され、スリー・マハ菩提樹に関する歴史的事項が記載されているが、書面の

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中に菩提樹の分け樹を贈呈した経緯や趣旨、目的の記載は見当たらない。

8.伊豆・真照院の菩提樹

1998年に鹿児島大学仏教倫理学専攻の谷口昌陽助教授がブッダガヤから持ち返った菩提樹の実から発芽した菩提樹が真照院で育っているという。菩提樹の実は谷口さんがブッダガヤを訪れた際、現地のガイドからもらったもので、発芽した苗は植物学的には聖なる菩提樹と同じクワ科のインドボダイジュとのことである。ところで、ブッダガヤの境内では観光客を相手に菩提樹の葉や菩提樹で作った数珠だとか言って色々な物を売っている。聖なる菩提樹がはえている境内の中にも自由に入ることができ、境内の中には沢山の葉が落ちている。同じように、菩提樹の実が熟し、種がとれる頃(晩秋)現地を訪問すれば、誰でも容易に実(種子)を手に入れることができる。そのようにして手に入れた菩提樹の種子から発芽した菩提樹の樹はインド国内外にかなりあるでしょう。しかし、日本の植物検疫法では、現在菩提樹の実は国内に持ち込めないことになっている。それに比較し、今回の沖縄県民への菩提樹

の分け樹贈呈は、インド菩提樹協会の公式の式典のもと贈呈されたものであり、その趣旨、目的からしても前者と同列に扱うことはできない。

9.おわりに

このたび、沖縄の南部戦跡に植樹するため、きわめて貴重な聖なる菩提樹の分け樹が私達沖縄県民に贈呈されたが、贈呈式の式典で、2人の高僧は聖なる菩提樹の歴史を詳しく述べ、今回の菩提樹の分け樹の贈呈は歴史的なできごと(historical event)であると強調するとともに、私達が分け樹の贈呈を要請した趣旨としてあげた“第2次世界大戦で亡くなった多くの戦死者の御霊を慰霊するとともに、長崎や広島で起きたような悲惨な戦争を2度と繰り返さないよう、恒久平和のメッセージを世界に発信しつづけるため、この聖なる菩提樹が役立つことを祈念する”と述べていたことを報告する。ブッダゆかりの聖なる菩提樹の歴史について、2人の高僧の著書や挨拶、その他の資料を参考に記述したが、菩提樹の分け樹の贈呈に至った経緯やそれに関連する文書は稿をあらためて報告する予定である。

(2003年9月記)