8
昭 和43年5月20日 27 疫痢 と国民栄養 京都 市立病 院伝染病科 内藤伝兵衛 (こ の論 文 を,恩 師,故 伊 沢 為 吉 先 生 の御 霊 前 に捧 げ る) ま えが き 近 年,小 児 赤 痢 は絶 えず 散 発 し,い わゆる疫痢 年 令 層 の集 団赤 痢 も しぼ しば 発 生 す るが,昔 から 疫 痢 の最 も多 発 す る酷 暑 の候 にお い て さ え,劇 疫 痢 症 例 が全 くみ られ な くなつ て か ら既 に6年 経過 した.連 日連 夜,重 篤 な疫 痢 患 児 の診 療 に忙 殺 され た 往 年 を 回顧 す る と誠 に感 概無 量 の も のが ある. 去 る昭 和30年,故 恩師伊沢為吉先生が 「臨抹の 日本 」第1巻 第3号 に 「疫痢 の 罹患予防 に 就い て 」 と題 す る論 文 に,昭 和14年 日華 事 変 の進 展 に 伴 い余 儀 な くされ た米 の配 給 統 制以 後,疫 痢 の減 少 し始 め た 事 実 に着 目 し,わ た くしが 昭 和30年 春,京 都で開催された第29回 日本伝染病学会で行 なつた疫痢 の病機についての交見演説 の 成績か ら,疫 痢 の成 立 に は赤 痢 菌 感 染 と共 に共 存 す るあ る種 の腸 内菌 叢 が関 与 して い て中 毒 現 象 発 現 の根 源 を な して い る.こ れ らの菌叢は病原菌ではない が 毒 性 ア ミン体 を産 生 す る腸 内常 住 の菌 種 で あ つ て,栄 養 条件,飲 食物 に 従つて変遷すると結論 し,疫 痢 の発 生 予 防 に は古 来,本 邦小児の慣習で あつ た 偏 つ た食 事,特 に米飯の大食を矯正して牛 乳,動 物 性 た ん 白質,脂 肪に富む飲食物に改善し て ゆ く こ とが根 本 策 で あ る と強 調 され た.こ の疫 痢予防に対する恩師の主張が見事に今日の国民栄 養 の改 善 の も とに実 現 され て,今 や疫痢は全 くそ の姿 を 消 し,小 児赤痢の発生は減らないが疫痢中 毒 症 候 を 呈 す る症 例 は全 くみ られ な くな つ た. 本 稿 で は戦 前 小 児 の赤 痢 感 染 者 の30%に 及ぶ疫 痢 発 症 をみ た 頃 か ら,戦 時 中,戦 後 を 通 じ今 日 ま での京都市における小児赤痢 と疫痢の発生状況を 観 察 し,併 せ て昭 和24年 以 降,年 ご とに 改善 の 一 途 を た どつ た 国民 栄 養の 変 遷 を照 合 して 疫 痢 と栄 養 との密接 な関係に言及 してみたい と思 う. 観察成績 1京 都市における小児赤痢,疫 痢患者発生数 と疫痢発生率の年次別推移 昭和14年 か ら昭和41年 ま で の28年 間 に市 立 京 都 病 院 一京 都 市立 病 院 伝 染 病 科 に入 院 した1~10才 の 小 児 赤 痢 と疫 痢 患 者 数,疫 痢発生率(疫 痢/小 児赤痢+疫 痢),赤 痢100対 疫痢患者数,並 び に両 者 の致 命 率 を示 した の が表1で あつ て,こ れを図 に示 す と図1と な る.年 間1,000名 を越える小児 赤 痢 と400名 を越える疫痢患者の発生をみた京都 市において,昭 和14年 米 の配 給 統 制が 行 なわ れ て か ら,ま ず 減 り始 めた の は赤 痢 で は な くて 疫 痢 で あつた.す なわ ち,栄 養 環 境 の変 化,特 に 日本人 の 主食 で あ る米 食 の制 限 が 疫 痢 発 症 に もた ら した 影 響 を見 逃 す こ とは で きな い ので あ る.当 時,定 型 的 な疫 痢 症 状 を発 して入 院 して くる患 者 の家 庭 の食生活を調査す ると,配 給以外に白米供給のル ー トを持ち ,主 食統制 の影響を あま り蒙 らない家 庭 が 多 か つ た事 実 は今 で もわ た くし の脳裡 に 深 く 印 象 つ げ られ て い る.図 で見 られ るよ うに,昭 18年 まで,す なわち大東亜戦争開戦までは小児赤 痢 の発 生 は著 しい減 少 を 示 さ なか つ た に もか か わ らず,疫 痢 患 児数,疫 痢発生率は明かに下降傾向 を示 していた.戦 争末期,す なわ ち昭 和19年 に 入 る と食 糧 事 情 は い よい よ悪 化 し,昭 和20年8月15 日つ い に終 戦 を迎 え,戦 後 は昭 和24年 まで の間, 食 糧 窮 乏 の どん底 状 態 に あつ た頃 には,赤 痢激減 と共 に疫痢発生 もまた減少 した ことは周知 の通 り で あ るが,当 時は赤痢患者数の割には疫痢患者数 が 多 く,従 つて疫痢発生率 は 戦前をむしろ上廻

感染症学雑誌 ONLINE JOURNAL - 疫痢 と国民栄養journal.kansensho.or.jp/kansensho/backnumber/fulltext/42/...昭和43年5月20日 27 疫痢 と国民栄養 京都市立病院伝染病科

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昭 和43年5月20日 27

疫 痢 と 国 民 栄 養

京都市立病院伝染病科

内藤 伝兵 衛

(この論文を,恩 師,故 伊沢為吉先生の御霊前に捧げる)

まえがき

近年,小 児赤痢は絶えず散発し,い わゆる疫痢

年令層の集団赤痢もしぼしば発生するが,昔 から

疫痢の最も多発する酷暑の候においてさえ,劇 症

疫痢症例が全 くみ られなくなつてから既に6年 を

経過 した.連 日連夜,重 篤な疫痢患児の診療に忙

殺された往年を回顧すると誠に感概無量のものが

ある.

去る昭和30年,故 恩師伊沢為吉先生が 「臨抹の

日本」第1巻 第3号 に 「疫痢 の 罹患予防 に 就い

て」と題する論文に,昭 和14年 日華事変の進展に

伴い余儀なくされた米の配給統制以後,疫 痢の減

少し始 め た 事実に着目し,わ た くしが昭和30年

春,京 都で開催された第29回 日本伝染病学会で行

なつた疫痢 の病機についての交見演説 の 成績か

ら,疫 痢の成立には赤痢菌感染と共に共存するあ

る種の腸内菌叢が関与 していて中毒現象発現の根

源をなしている.こ れ らの菌叢は病原菌ではない

が毒性ア ミン体を産生する腸内常住の菌種であつ

て,栄 養条件,飲 食物 に 従つて変遷すると結論

し,疫 痢の発生予防には古来,本 邦小児の慣習で

あつた偏つた食事,特 に米飯の大食を矯正して牛

乳,動 物性たん白質,脂 肪に富む飲食物に改善し

てゆくことが根本策であると強調された.こ の疫

痢予防に対する恩師の主張が見事に今日の国民栄

養の改善のもとに実現されて,今 や疫痢は全 くそ

の姿を消し,小 児赤痢の発生は減らないが疫痢中

毒症候を呈する症例は全 くみられなくなつた.

本稿では戦前小児の赤痢感染者の30%に 及ぶ疫

痢発症をみた頃から,戦 時中,戦 後を通じ今日ま

での京都市における小児赤痢 と疫痢の発生状況を

観察し,併 せて昭和24年 以降,年 ごとに改善の一

途をたどつた国民栄養の変遷を照合して疫痢 と栄

養との密接な関係に言及 してみたい と思 う.

観察成績

1京 都市における小児赤痢,疫 痢患者発生数

と疫痢発生率の年次別推移

昭和14年 から昭和41年 までの28年間に市立京都

病院一京都市立病院伝染病科に入院 した1~10才

の小児赤痢と疫痢患者数,疫 痢発生率(疫 痢/小

児赤痢+疫 痢),赤 痢100対 疫痢患者数,並 びに両

者の致命率を示 したのが表1で あつて,こ れを図

に示すと図1と なる.年 間1,000名 を越える小児

赤痢と400名 を越える疫痢患者の発生をみた京都

市において,昭 和14年 米の配給統制が行なわれて

から,ま ず減 り始めたのは赤痢ではなくて疫痢で

あつた.す なわち,栄 養環境の変化,特 に 日本人

の主食である米食の制限が疫痢発症にもたらした

影響を見逃すことはできないのである.当 時,定

型的な疫痢症状を発 して入院 してくる患者の家庭

の食生活を調査す ると,配 給以外に白米供給のル

ー トを持ち ,主 食統制の影響をあま り蒙 らない家

庭が多かつた事実は今でもわた くしの脳裡に深 く

印象つげられている.図 で見 られるように,昭 和

18年 まで,す なわち大東亜戦争開戦までは小児赤

痢の発生は著 しい減少を示さなかつたにもかかわ

らず,疫 痢患児数,疫 痢発生率は明かに下降傾向

を示 していた.戦 争末期,す なわち昭和19年 に入

ると食糧事情はいよいよ悪化 し,昭 和20年8月15

日ついに終戦を迎え,戦 後は昭和24年 までの間,

食糧窮乏のどん底状態にあつた頃には,赤 痢激減

と共に疫痢発生 もまた減少 した ことは周知の通 り

であるが,当 時は赤痢患者数の割には疫痢患者数

が多く,従 つて疫痢発生率 は 戦前をむしろ上廻

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28 日本伝染 病学会雑誌 、第42巻 第2号

表1年 次別小 児赤痢 ・疫痢患者数 の推移 と疫痢発生率,致 命率(昭14-41)

()内 死亡数

図1年 次別小児赤 痢 ・疫痢庵者数 の推移 と疫痢発

生率(昭14-41)

り,京 都市では図のごとく昭和24年 に最高率を示

している.当 時は戦争によつて破壊された食生活

の量的復興の段階にあり,そ の重点は食糧の量的

確保におかれ,食 事の内容や栄養価値を考慮する

精神的物質的余裕がなく,た だ空腹をみたす こと

にのみ努力が集中されて,穀 類,い も類など主 と

して熱源食品の増加が大きな特徴であつたことは

われわれの銘記するところである.

昭和24年 以後になると,国 民経済の発展,食 糧

事情の回復や栄養改善事業従事者のたゆまざる努

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昭 和43年 5月 20日 29

力等 が 相まつて,食 生活 の 内容 も漸次豊か とな

り,食 生活が一応の回復段階を終つてほぼ戦前水

準に復 したのは昭和27~28年 頃であるが,こ の頃

には小児赤痢の増加に伴い疫痢発生数 も多 く,当

時の疫痢発生率はほぼ戦前と同率を示 している事

実か らも疫痢 と栄養との密接な関係が窺われ るの

である.そ の後の国民の栄養,体 位の向上は誠に

著しく(後 述)特 に昭和30年 以降の栄養向上と全

く平行 して疫痢発生率 は逐年低下 の 一途をたど

り,つ いに昭和37年 には0と な り,以 後今日まで

1例 の疫痢患者にも遭遇せず,昭 和41年 には京都

市内で500を 越える小児赤痢の発生をみたが,疫

痢症候を呈する患児は皆無であつた.

なお疫痢の致命率の高いのは疾病の性格上止む

を得ないが,昭 和22年 以降サルファ剤に始まる赤

痢の化学療法によつて赤痢の致命率は顕著な低下

がみられるけれども,疫 痢の致命率は,化 学療法

以来,幾 分低下はみ られても依然高い致命率を示

している.昭 和20,21年 の赤痢の致命率の高かつ

たのは食糧窮乏に因する栄養失調状態に加 うるに

志賀菌赤痢の流行によるものである.

亜 昭和24~38年 間の国民栄養の変遷

1)全 国1人1日 当 り栄養摂取量の推移

昭和24年 以降国民の栄養摂取水準は年々改善向

上の道をたどり,特 に昭和30年 以降は食糧稱成高

度化の線に沿つてより文化的な,よ り合理的な方

向に移行 し,ま だ栄養基準量には達しないとはい

うものの,食 癒 巧の近代化は実に目ざましいもの

図2栄 養 攝 取 量の推 移(全 国1人1日 当 り)

(剛 和24年= 100)

がある.昭 和24年 を100と してその後昭和38年 ま

で15年 間の栄養摂取量(全 国1人1日 当 り)の 年

次別推移を図示 す る と図2と なる.最 も大 きな

増加を示 しているのはカルシウム,動 物性たん白

質,脂 肪,ビ タミンAが 主なものであるが,食 生

活が一応の回復段階を終つてほぼ,戦 前水準に復

した昭和27年 以降30年 頃までは,カ ルシウム,動

物性たん白質が中だるみ状態を示 したが,そ の後

は脂肪,動 物性たん白質,カ ルシウム,ビ タミン

Aは 順調な上 り坂を示している.

伸び悩 み の 傾向を示しているものは 全たん白

質,ビ タミンB2で あるが,著 しく減少したもの

としてはビタ ミンB1とCが あげられ,い ずれも

24年 からみると30%前 後低下 している.特 にB1

は依然として下降状態を続けてお り,現 在でもな

おわが国における白米食偏重の食生活の根本的な

不合理性を如実に物語つている.し かしながら,

B1以 外の必要な栄養成分が増加し,昔 から摂取

量の過多をいましめてきた含水炭素の摂取量が漸

減の傾向を示 してお り,全 般的には順調な改善が

認められる.

2)食 品群別消費量の推移

昭和24年 を100と した主要食品群の推移を示 し

たものが図3で ある.戦 後最 も伸びたものは油脂

類であ り,果 実類がこれに次いでいる.動 物性食

品の中では畜産食品が激増 したけれ ども魚介類が

停滞しているので動物性食品の総量としては油脂

図3食 品群別 消費量の推移(昭 和24年=100)

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30 日本伝染 病学会雑誌 第42巻 第2号

類,果 実類の伸びよりも下回つているわけである

(後述).豆 類は27年頃から殆んどその伸びがみら

れず,穀 類 と野菜類はごくわずかではあるが減少

の傾向にある.い も類は下降状態を続けている.

このように,穀 類,い も類等の澱粉性食品は明か

に頭打ちの傾向を示しているものとみてさしつか

えない.こ れに反して,油 脂類,動 物性食品,果

実類が増加し,食 糧の消費稱成は次第に高度化の

方向に進んでいる.

3)動 物性食品消費量の推移

図4は 昭和24年 を100と した動物性食品消費量

の推移を示す.既 に述べた通 り,最 近のわが国の

食糧消費傾向は国民所得の向上や,生 活水準の上

昇に伴い澱粉性食品を中心に栄養をとつていた消

費形態から漸次抜け出し,動 物性食品の増加が著

図4動 物性食 品消費 量の推移(昭 和24年=100)

しい.す なわち,戦 後の酪農振興に伴なう牛乳,

乳製品消費の伸びは他の食品にくらべて最高であ

り,有 畜農業の普及 や 食生活の近代化 に伴なう

卵類,肉 類消費の増加もますます顕著 となつてき

た.こ れに反して,古 来わが国で動物性たん白質

として摂取している魚介類は27年 以後停滞状態に

ある.魚 介類は腐敗が早く保存が困難であ り,保

存加工技術の未熟であつたこと等の影響で,戦 前

は肥飼料にふ り向けられる部分が多かつたが,最

近は魚肉ソーセージ,煉 製品,罐 詰等の加工品の

消費は伸びても鮮魚介の消費が減少しているので

ある.近 年の国民の嗜好上からみても,畜 産食品

の方が好まれることなどの影響 と魚獲量は資源的

にみて これ以上の著 しい増加は望めない ことか ら

動物性たん白質源 としての魚介類は今後はむ しろ

処理加工の改善によつて利用度が高められるので

はなかろ うか.

以上,昭 和24年 以降38年 に至 る15年間の国民栄

養の変遷を概説 したが,と に角,日 本人の白米に

対する嗜好,愛 着の習慣は長い年月を経て根強く

滲透 しているものであるから,そ う簡単に抜け出

ることは困難であるが,最 近は生活様式を簡素化

しようとする風習が強 くなり,家 事労働節約のた

め調理の簡単な加工食品,そ のまま食べられる即

席食品,嗜 好食品の増加が著明で,穀 類偏重から

抜け出して米だけに頼 らない食生活様式が軌道に

乗つたといつても過言ではないと思 う.

III小 児赤痢,疫 痢患児から分離された赤痢菌

型の分布

昭和27年 以降,わ ずかながら疫痢症例のみられ

た最後の年である36年に至る10力年間における小

児赤痢2,982例,疫 痢526例 から分離 された赤痢

菌型の分布を示すと表2と なる.こ れによると,

菌陽性率が常に疫痢の方が低 くなつている.こ れ

は後にも述べるように,疫 痢は必ずしも赤痢菌の

感染を必要 とせず,他 の腸感染によつても起 り得

るからである.菌 型の中でSh.flexneri 3aが や

や疫痢の方に高率 とな つ ているが,他 の菌は赤

痢,疫 痢の間に菌型の差は認められない.ま た疫

痢が全 くなくなつた昭和37年 か ら41年までの小児

赤痢患児か ら分離された赤痢菌型を示す と表3の

通 りとなる.表 示のごとく,特 に39年 以後はSh.

sonneiが 急増し,従 来,流 行の主流を占めたSh.

flexneri 2a, 2b, 3aが 激減するという大 き な流

行型菌の異変をきたしている.そ の中でも,41年

には544例 にも達 す る小児赤痢患者が 入院 した

が,入 院後証明された赤痢菌の99.1%ま でがSh.

sonneiと い う激変ぶ りである.そ の ほとんどは

軽症例で,疫 痢中毒症候を呈する患者は全 くみ ら

れなかつた.こ のような現状をみ る時,か つて大

正初期に大原菌が疫痢の病原に擬せ られた時代を

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昭 和43年 5月 20日 31

表2小 児赤 痢 と疫痢の赤 痢菌型 分布(昭 和27~36)上 欄 は赤痢,下 欄 は疫痢

顧みて うたた今昔の感にたえないものがある.

考 察

明治31年(1898)に 始まつた九大伊東教授を始

祖 とする疫痢に関する研究は,そ の後,幾 多先輩

の臨床学者,細 菌学者,病 理学者により過去半世

紀余の久しきにわたる献身的研究が続けられ,い

わゆる疫痢の病原,病 態生理,病 理を始め,そ の

臨床,療 法に関す る研究に至るまで各方面か らの

研究成果はわれわれ後輩を啓蒙し,疫 痢の本態究

明に対す る研究意欲をそそつたのであつた.更 に

昭和22年(1947)に は米国疫痢調査団が来日して疫

痢患児の血清 カルシウム量の低下を指摘 して 「日

本の小児は潜在性テタニーの状態に あ り,こ れ

が赤痢菌の感染をうけると急激にテタニーの症状

を発現するものである.」 と結論した.し かしな

がら,そ の後の本邦研究者の追試によれば,必 ず

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32 日本伝 染病学会雑誌 第42巻 第2号

表3昭 和37年 ~41年 の小児赤痢 の赤痢菌型分布

しも低 カルシウムの成績は得 られなかつた.引 続

き,こ の急激重篤な経過を とる疫痢の成因を解明

せんとする病機の検索が続けられたが,万 人の納

得する定説が得られないままに,今 日,疫 痢 とい

う疾患が消滅するとい う時代を迎えたのである.

伊東教授の病原大腸菌感染説に始まつた疫痢中

毒症候発現の成因に対する諸学説については,過

去の文献に論 じつ くされているのでここに改めて

論ず ることは差控えるが,従 来の諸学者の病因説

によつて,わ たくしがどうしても納得のいかなか

つたのは,疫 痢に関して観察されてある次の事実

のすべてを説明し難い点であつた.

1.疫 痢 は本邦小児の一定 の年令層(2~6

才)の 一部小児に頻発し,ほ とんど日本独特の観

があること.

2.外 観肥満 していて,い わゆるpastosな 児が

疫痢症状を発 し易い.こ のような児は,平 素,米

飯を大食す る習慣がある.

3. .日常少食でやせた細い体貌の児は赤痢に罹

つても 疫痢症状にはならない.

4.乳 児に疫痢がないこと.

5.疫 痢は家族的な罹患素質があ り,兄 弟姉妹

が疫痢年令に達すると相次いで罹患する事実があ

る.

6.疫 痢の発生は気温の影響を うけ,わ が国の

高温,高 湿の続 く夏期に多発する.

7.戦 争が始まつて米の配給統制が行なわれた

当時,赤 痢が減 らないのに,ま ず,疫 痢が減 り始

めた こと.当 時でも疫痢を発症 した児が米食にめ

ぐまれた米穀商の家族であつた事例がある.

8.赤 痢菌以外の腸感染(病 原大腸菌,サ ルモ

ネラその他)に よつても疫痢症状を発することが

ある.

9.崎 形児の麻酔手術後に疫痢 と全 く同様の中

毒症候を発することがある.

10.水 痘,狸 紅熱等突発的高熱をもつて発病す

る患者にも同様の症状を呈することがある.

先年,わ た くしは疫痢における主要症候群 と病℃

理解剖学的所見から,細 菌毒 とは別の,主 として

血管系に作用する毒性産物を想定し,ア ミノ酸 の

脱炭酸によつて生ずる有毒ア ミン体のうち,そ の

薬理作用の強力なチラミンの検索を行ない,疫 痢

患者の腸内菌叢にチラミン形成菌の多い事実を認

めた.更 に,血 中アンモニアの増量を再確認 し,

赤痢,疫 痢における肝臓機能障害を重要視 して疫

痢症候発現を解説した.換 言すれば,栄 養の差異

に伴つて変動する小児の腸内菌叢に疫痢の起源が

求め られ,食 習慣を異にする民族によつて疫痢を

頻発 し,ま た反対 に疫痢の稀 な結果を招来する

と解いたのである.こ のわれわれの考え方によれ

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昭 和43年 5月 20日 33

ば,上 記10項 目の疫痢に関して観察されてある不

可解な現象が了解されるのである.そ の後,栄 養

と腸内菌叢との関係を検討している問に,疫 痢患

者がなくなつてしまい.こ こに追加成績の示 され

ないのは遺憾である.

むすび

古来,米 中心の澱粉性食品にその熱量の大部分

を依存した 日本人特有の食生活が,い わゆる疫痢

体質を作 り,腸 内菌叢の変動を招来するものと考

えられる.近 年,こ の米に頼る日本人独得の食生

活様式か ら抜け出して乳i類,卵 類,肉 類の飛躍的

な増加すなわち動物性たん白,脂 肪,カ ルシウム

i摂取量の増加によ り,日 本人の食品構成が穀類カ

ロリー/総 カロリー比の低下 と動物性蛋白質/総

蛋白質比の上昇をきた し,い わゆる食生活の近代

化,洋 風化を もた らした ことが疫痢を減少~消滅

させた根本的要因と考える.

国民栄養の現状が今後更に基準量に向つて改善

の道をたどるならば,疫 痢なる疾患は本邦小児の

過去の疾患 とな り,疾 病史の一部をかざるものと

なるであろう.

(本論文 の要旨は第36回および第40回日本伝染病学

会総会において報告した)

文 献

1) 伊沢為吉: 疫痢第1版, 南江堂, 昭10. 疫痢罹

患 と体 質 (疫 痢 の 病機), 治 療, 32 (7): 29,

昭25. 疫 痢 成 因 に関 す る 最 近 の 知 見 と 余 等 の

解 説, 治 療, 37 (4): 455, 昭30. 疫 痢 の 罹 患

予防 に就 いて, 臨 床 の 日本, 1 (3): 51, 昭

30.

2) 内藤 伝 兵衛: 疫 痢 の病 機, 日伝 染 会 誌, 29 (5):

209, 昭30. 最近 の疫 痢 減 少 と国 民 栄 養 の変 遷,

日伝 染 会誌, 36 (2): 64, 昭37. 最 近 の 疫 痢

減 少 と 国 民栄 養 の 変 遷 (続 報), 日伝 染 会 誌,

40 (6): 234, 昭41. Pathogenesis of Ekiri

Advances in the Sludy of Ekiri in JapanEdited by Kazuo Ogasawara, 15, 1955.

3) 原 弘 毅: 小 児 期 の 所謂 疫 痢様 中 毒症 状 た る痙

李 惹 起 時 に 於 け る 血 液 安 門 増加 の 病 理 的 意 義

に就 て, 児 科 雑 誌, 34431, 昭4.

4) 諏 訪 紀 夫: 疫 痢 の 病 理 解 剖 補遺, 日伝染 会 誌,

27 (11~12): 395, 昭29.

5) 小笠 原 一 夫: 疫 痢 の 予防 問題, 日本 医 事 新 報,

1527: 6, 昭28. 疫 痢 の病 機, 日伝 染 会 誌, 29

(5): 199, 昭30. Pathogenesis of Ekiri Ad-

vances in the Study of Ekiri in Japan Editedby Kazuo Ogasawara, 29, 1955.

6) 神 前 武 和: ポ ル フ イ リ ソ及 び 金属 ポ ル フ イ リ

ン に関 す る研 究, 金 原 出 版, 昭29.

7) 平 井 拓 造, 服 部 忠 順: 疫 痢 及 び赤 痢 の肝 障碍

につ いて, 日伝 会 誌, 30 (7): 683, 昭31.

8) 浅 野 修: 疫 痢 患 児腸 内菌 叢 に依 るチ ラ ミン形

成 に つ い て, 日伝 染 会 誌, 30 (10): 878, 昭32.

9) 厚 生 省 公 衆衛 生 局栄 養 課=国 民 栄 養 の現 状, 昭

34, 36, 39.

10) 平 井 金 三 郎: 細菌 に よ る ア ミノ酸 の分 解, 日本

医 書 出版, 昭25.

Ekiri and National Nutrition

Dembeye NAITO

Ekiri recognized previously with high frequency among only Japanese infants especially in summer

season, was destined to become extinct since 1955 and eradicated finally in 1962 in Kyoto province. In

the early stage of World War II when the rice distribution control was enforced, ekiri was on the decrease

though infantile dysentery did not decline. From the last stage of World War II through the several

years after the war, while the food situation was most unfavourable, ekiri occurred still as ever, on the otherhand the dysentery incidence was decreasing.

After the war, main foods distributed were only rice and some sweet potato for gratifying hunger for

several years, and then the food situation destroyed by the war was gradually improved quantitatively.

In the period 1952-1953, when the food situation was almost restored to the prewar levels, both dysentery

and ekiri of infants increased again and the ekiri incidence went up to the prewar average.

However, following the remarkable qualitative improvement of dietary life, that is, the marked

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increase of intake of animal protein, fat, and calcium (meat, egg, and milk) since 1955, ekiri was destined

rapidly to become extince and disappeared at last. It is strongly considered that the extinction of ekiri

is chiefly due to the modernization or westernization of Japanese dietary life which got rid of the previous

food composition attaching importance to rice.