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中国の台頭と日米豪安全保障協力の強化 61 中国の台頭と日米豪安全保障協力の強化 2000 年代を中心に佐竹 知彦 〈要旨〉 本稿は、 2000 年代に発展を遂げた日米豪の安全保障協力について、主として同盟国(日 豪)側の視点からその発展の理由と経緯を分析する。既存の研究では、2000 年代の初頭 から米国が複数の同盟国との関係強化を通じて、中国への対抗連合の形成を図っていたこ とが指摘される。これに対し、日豪両国は米国とは異なる対中認識を有していた。特に中国 と地理的に離れた豪州は、中国への直接的な対抗よりも、外交や貿易を通じた対中関係の 強化を優先していた。それにも関わらず日豪両国が日米豪安全保障協力の強化に動いたの は、平和維持活動や非伝統的安全保障領域における同盟国同士の協力を強化することで、 米国の地域・グローバルな役割を「補完」するという戦略に基づくものであった。2000 年代 における日米豪安全保障協力の強化は、中国を直接的に対象としたものというよりは、ハブ・ アンド・スポークス体制に基づく米国のプレゼンスの維持・強化という文脈の中で発展したの である。 はじめに 冷戦後のアジア太平洋地域では、一方で米国を中心とした 2 国間の同盟体制(いわゆ る「ハブ・アンド・スポークス」体制)が存続しつつ、他方で米国を含む同盟国同士の協力 も強化されてきた。その代表的な例が、日米豪の安全保障協力である。日豪両国は冷戦終 焉直後から 2 国間の防衛交流を強化してきたが、そうした協力は 2000 年代初頭に米国を 含む 3 カ国の戦略対話(Trilateral Strategic Dialogue TSD)が発足したことで、急速に 強化された。2006 3 月には初の閣僚級の TSD が開催された他、翌年 3 月には「安全 保障協力に関する日豪共同宣言」が発表され、同 6 月には両国の外務・貿易閣僚会合(2 プラス 2)も発足した。その後も日米豪の協力は継続的に強化され、近年では平和維持活動 PKO)や非伝統的安全保障領域のみならず、対潜水艦戦や強襲揚陸作戦といった伝統

中国の台頭と日米豪安全保障協力の強化 2000 年代 …中国の台頭と日米豪安全保障協力の強化 63 全保障協力が発展した経緯について、主として日豪両国の対米関係上の文脈から明らかに

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中国の台頭と日米豪安全保障協力の強化

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中国の台頭と日米豪安全保障協力の強化―2000年代を中心に―

佐竹 知彦

〈要旨〉

本稿は、2000年代に発展を遂げた日米豪の安全保障協力について、主として同盟国(日豪)側の視点からその発展の理由と経緯を分析する。既存の研究では、2000年代の初頭から米国が複数の同盟国との関係強化を通じて、中国への対抗連合の形成を図っていたことが指摘される。これに対し、日豪両国は米国とは異なる対中認識を有していた。特に中国と地理的に離れた豪州は、中国への直接的な対抗よりも、外交や貿易を通じた対中関係の強化を優先していた。それにも関わらず日豪両国が日米豪安全保障協力の強化に動いたのは、平和維持活動や非伝統的安全保障領域における同盟国同士の協力を強化することで、米国の地域・グローバルな役割を「補完」するという戦略に基づくものであった。2000年代における日米豪安全保障協力の強化は、中国を直接的に対象としたものというよりは、ハブ・アンド・スポークス体制に基づく米国のプレゼンスの維持・強化という文脈の中で発展したのである。

はじめに

冷戦後のアジア太平洋地域では、一方で米国を中心とした 2国間の同盟体制(いわゆる「ハブ・アンド・スポークス」体制)が存続しつつ、他方で米国を含む同盟国同士の協力も強化されてきた。その代表的な例が、日米豪の安全保障協力である。日豪両国は冷戦終焉直後から2国間の防衛交流を強化してきたが、そうした協力は 2000年代初頭に米国を含む 3カ国の戦略対話(Trilateral Strategic Dialogue:TSD)が発足したことで、急速に強化された。2006年 3月には初の閣僚級の TSDが開催された他、翌年 3月には「安全保障協力に関する日豪共同宣言」が発表され、同 6月には両国の外務・貿易閣僚会合(2

プラス 2)も発足した。その後も日米豪の協力は継続的に強化され、近年では平和維持活動(PKO)や非伝統的安全保障領域のみならず、対潜水艦戦や強襲揚陸作戦といった伝統

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的な安全保障分野にまで拡大されている 1。既存の研究では、こうした冷戦後の米同盟体制変容の背景に、地域において急速に影響力を増す中国の存在に加え、米国の対中戦略の変化が影響を与えたことが指摘されている。例えばニーナ・シローブ(Nina Silove)は、2000年代前半にジョージ・W・ブッシュ(George W. Bush)政権が中国の地域における覇権的な台頭を防ぐために、日豪を含む地域の同盟国の能力の強化と近代化、さらには同盟国同士の関係強化による「連合ネットワーク」(federated network)の形成を図っていたことを明らかにした 2。シローブによれば、日米豪の安全保障協力を含む 2000年代以降の米国の同盟国やパートナー国同士の安全保障協力の強化は、自然発生的に生まれたものというよりは、中国に対する米国の「外的均衡(external balancing)」戦略によって意図的に作り上げられたものに他ならなかった 3。とはいえ、シローブの研究の研究では、日本や豪州といった同盟国がなぜそうした米国の戦略構想を受け入れたのかという点は、明らかにされていない。以下で論じるように、2000

年代の初頭において、日米豪の対中脅威認識や中国との関係には少なからぬ差が存在した。特に豪州は、中国との地政学的な距離や対中関係の経済的重要性から、米国の対中強硬姿勢とは一定の距離を置いており、日米の政策決定者にはそうした豪州の対中姿勢に懸念を示す者もいた。こうした対中認識や対中政策の差異にもかかわらず、なぜ日豪は 2国間もしくは米国を含む 3カ国の安全保障協力を強化したのだろうか。この点に関し、石原雄介は日豪関係において米国が果たしてきた役割の重要性を指摘する 4。石原によれば、特に豪州が対日関係の発展を志向した背景には、「アジア太平洋における米国の役割の重要性やその文脈で日米同盟が果たす役割に関する[豪州側の]長期的な洞察」が存在した。また日豪安保共同宣言が発出された 2007年以降においても、日豪二国間関係の強化は対米関係を基盤として発展してきたという5。この指摘は極めて重要であるものの、石原の分析は基本的に日豪二国間の関係に主眼が当てられており、両国の対米関係が、いかなる論理において二国間もしくは日米豪三カ国の安全保障協力の強化につながってきたのかという点については、必ずしも明らかにされていない。そこで本稿では、上記の石原の指摘を足掛かりとしつつ、2000年代において日米豪の安

1 Andrew Shearer, Australia-Japan-U.S. Maritime Cooperation: Creating Federated Capabilities for the

Asia Pacific (Washington DC: Center for Strategy and International Studies, 2015).2 Nina Silove, “The Pivot before the Pivot: U.S. Strategy to Preserve the Power Balance in Asia”,

International Security, Vol. 40, No. 4, pp. 45-88.3 Ibid., p. 76.4 石原雄介「冷戦後日豪関係の発展と中国―『チャイナ・ギャップ』と『チャイナ・コンセンサス』の間で」添谷芳秀編『秩序変動と日本外交―拡大と収縮の 70年』(慶應義塾大学出版会、2016年)220頁。

5 同上。

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全保障協力が発展した経緯について、主として日豪両国の対米関係上の文脈から明らかにしたい。以下、第 1節では 1990年代後半から2000年代初頭にかけ、日豪がそれぞれ米国とは異なる対中認識を持ちつつも、米国の地域関与の維持という観点から、TSDの発足に自発的かつ積極的に関与していたことを明らかにする。次に、第 2節では米国における同時多発テロ事件をきっかけに、日米豪の 3カ国が主として非伝統的安全保障の分野で実践的な協力を深めてきたプロセスを検証し、その背景に米国の地域もしくはグローバルな役割を「補完」するという日豪両国の共通の戦略が存在したことを明らかにする。第 3節では、日米豪の安全保障協力が中国の台頭を背景に強化・制度化されつつも、その主たる対象は中国というよりは、米国の地域におけるプレゼンスの維持と強化にあったことを論じる。その上で、2000年代における日米豪安全保障協力の強化が中国の台頭をその主たる要因としつつも、直接的に中国を対象とするよりは、ハブ・アンド・スポークス体制に基づく米国のプレゼンスの維持・強化という文脈の中で発展したという本稿の結論を提示したい。

1.中国の台頭とTSDの発足

(1)背景冷戦後、特に 1990年代半ばより日米豪それぞれの 2国間安全保障関係が強化される中

で、豪州の中では 3カ国の安全保障協力の可能性について提案する政治家や実務家もいた。実際、豪州の戦略コミュニティの間では、90年代半ばまでに日米豪の 3カ国協力というアイディアは「一定の立ち位置を得ていた」と言われる 6。もっとも、日本側は周辺諸国の間で、日豪が「米国との同盟関係を基軸にした新たな軍事協力関係を構築しているのではないかという不用な疑念」を生むことに慎重であった 7。また 90年代を通し、2国間同盟の伝統を重視する米側の政策決定者は、日豪の安全保障協力に高い関心を示さなかった 8。そうした状況に変化をもたらしたのが、2001年 1月における米ブッシュ新政権の発足であっ

た。ブッシュ政権の対外政策、特にそのアジア政策の根幹は、軍事力を中心とした「力」の重視と、そうした力に裏打ちされた米国主導の秩序を、地域の民主的な同盟国と責任を共有しつつ維持していくことにあった。ブッシュ政権はアジアにおいて急速に力をつけつつあ

6 Hugh White, “Trilateralism and Australia: Australia and the Trilateral Strategic Dialogue with America and Japan,” in William T. Tow, Mark J. Thomson, Yoshinobu Yamamoto and Satu P. Limaye (eds.), Asia-

Pacific Security: US, Australia and Japan and the New Security Triangle (London and New York: Routledge, 2007), p. 105.

7 佐藤行雄「『遠い国』から『パートナー』へ」『外交フォーラム』1997年 8月号、43頁。8 White, “Trilateralism and Australia”, p. 104.

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る中国を「戦略的パートナー」ではなく「競争者」として位置づけ、中国の挑戦に対抗するために、日豪を含む地域の民主的同盟の結束を呼びかけた 9。ブッシュ大統領の外交アドバイザーであったロバート・ブラックウィル(Robert D. Blackwill)によれば、そうした民主的同盟国間の「相互連関システム」の構築は、地域における「敵対的な覇権国」の行動を抑制するとともに、「アジアにおける戦略的負担のより均衡な配分」を可能にするものであった 10。米国にとって、そうした地域戦略を遂行する上で最も重要なパートナーが日本であった。よ

く知られているように、2000年に後のブッシュ政権高官となる実務家や研究者によって発表された日米関係に関する超党派の報告書(いわゆる『アーミテージ・ナイレポート』)では、日本がその安全保障上の役割を拡大し、米国のより平等な同盟パートナーとなることを歓迎し、英米同盟をモデルに日米同盟を再活性化させることを主張していた 11。端的に言えば、米国は将来的な中国の台頭を見据え、米国の地域における主導的な役割の維持を確約しつつも、同時に日本をはじめとした同盟諸国の能力の拡大を奨励することで、自らの主導する地域秩序のより効率的な維持と強化を求めていたのである。一方日本でも、1990年代以降急速にその国防費を増加させていた中国に対する警戒は徐 に々強まっていた。1990年代中頃から、中国軍は尖閣諸島周辺への「調査船」の派遣や、東シナ海の日本の排他的経済水域への軍艦派遣など、日本周辺海域における活動を活発化させていた。これを踏まえ、1995年の時点で、中国海軍が「遠くない将来日本海に進出してくる」ことを予見する日本の専門家もいた 12。日本の防衛白書も、1996年以降中国の軍事費の増大と軍の近代化、海洋における活動の拡大について毎年記載するようになる 13。2001

年版の防衛白書では、中国の軍事力近代化の目標が、「中国の防衛に必要な範囲を超えるものではないのか慎重に判断されるべきであり、このような動向について今後とも注目していく必要がある」との記述があった 14。さらには中国の度重なる核実験や台湾海峡危機、歴史問題に対する中国側の態度等により、日本国民の対中感情も冷戦期と比べはるかに悪化してい

9 Governor George W. Bush, “A Distinctly American Internationalism,” Ronald Regan Presidential Library, Simi Valley, California, November 19, 1999, cited in Green 2017, p. 484.

10 Robert D. Blackwill, “An Action Agenda to Strengthen America’s Alliances in the Asia-Pacific Region”, in Blackwill and Paul Dibb (eds.), America’s Asian Alliances (Cambridge, MA: MIT Press, 2000), p.125.

11 The United States and Japan: Advancing Toward a Mature Partnership, INSS Special Report, October 11, 2000, pp. 3-4. http://www.dtic.mil/dtic/tr/fulltext/u2/a403599.pdf.

12 平松茂雄『軍事大国化する中国の脅威』(時事通信社、1995年)164頁。13 防衛省『防衛白書』(各年版)14 防衛省『平成 13年版 防衛白書』(2001年)60頁。

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た 15。とはいえ、急増する中国の国防費に対し、日本の防衛費はほぼ横ばいで推移していたことからもわかる通り、当時の日本は中国の脅威をそこまで切迫したものとも捉えてはいなかった。むしろ日本と中国は 1994年から防衛交流や安全保障対話を開始し、2000年 11月には日中間で防衛交流の増加や艦艇の相互訪問の早期実現が同意されるなど、経済のみならず安全保障面においても良好な関係を維持していた。1990年代後半から米国を中心に徐々に高まっていた「中国脅威論」についても、日本の多くの専門家は懐疑的であった 16。また日本の元防衛庁高官には、ブッシュ政権の対中強硬路線に異論を唱えるものもいた 17。確かに中国の台頭は、米国やその同盟国にとって長期的な戦略課題であったことは間違

いない。とはいえ、当時の中国の国防費は公表ベースで米国の 10分の 1以下であり、米国との緊密な同盟関係を維持している限りにおいて、中国への海洋進出への対応は十分に可能であった。何よりも、当時の日本にとって主たる軍事的脅威は中国ではなく、ミサイルや核開発を進める北朝鮮であった。それゆえ、2000年代前半にブッシュ政権が対中抑止を前面に打ち出した米軍再編案を日本側に提示した際、日本の政策決定者は戸惑いを隠せなかったのである 18。これに対し、豪州の対中認識は米国、そして日本とも大きく異なるものであった。当時の豪州は、中国の台頭を自国の安全に対する「潜在的」な脅威とすら見ていなかった。例えば2000年に発表された豪州の国防白書では、中国の軍事力の近代化やその活動に対する言及は皆無であった。白書はまた非正規戦や非伝統的安全保障脅威の存在を指摘しつつも、近い将来において豪州自身に直接的な脅威が及ぶ可能性を、極めて低く見積もっていた 19。むしろ白書は、地域で急速に安全保障上の影響力を増す中国が、豪州にとって益々重要な戦略的「対談者」(interlocutor)になるという観点から、戦略的問題に関する中国との対話を深化・発展させていくという方針を示していたのである 20。特に保守派でありながらも中国との経済関係を重視していたジョン・ハワード(John

15 内閣府大臣官房広報室「世論調査 図 10 中国に対する親近感」https://survey.gov-online.go.jp/h25/h25-gaiko/zh/z10.html(2018年 5月 29日参照)

16 例えば、天児慧編『中国は脅威か』(勁草書房、1997年)を参照。また 90年代における日米間の対中(脅威)認識の差異については、Hideo Sato, “Japan’s China Perceptions and its Policies in the Alliance with the United States”, September 1998, available at file:///Users/sataketomohiko/Library/Mobile%20Documents/com~apple~CloudDocs/Sato_final_PM.pdfが詳しい。

17 例えば、秋山昌廣『日米の戦略対話が始まった―安保再定義の舞台裏』(亜紀書房、2002年)298頁。18 秋田浩之『暗流―米中日外交 3国志』(日本経済新聞社、2008年)53頁。19 Department of Defence, Defence 2000: Our Future Defence Force (2000 Defence White Paper) (Canberra:

Commonwealth of Australia, 2000), pp. 23-24. 20 Ibid., p.37.

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Howard)首相は、1996年の台湾海峡危機以降悪化していた対中関係を改善すべく、積極的な対中外交を展開した。その結果 1999年 9月には江沢民が中国の主席として初めて訪豪し、経済関係の強化のほか、首脳及び外相同士の年次会合の開催について合意した。同年には豪州の外相や国防相を含む 8名の閣僚が中国を訪問するとともに、両国の政府高官による外交・安全保障に関する対話も強化された。経済的にも、90年代を通じ対中貿易は輸入・輸出双方で急速に成長し、2000年代前半には中国は米国、日本に次ぐ第 3の貿易パートナーとなった21。こうした事情を背景に、ハワードは米国の対中強硬姿勢にくみするよりも、むしろ米中両国間の「冷静で建設的な対話」を米側に促すことに、豪州の役割を見出していた 22。無論そのことは、豪州の政策決定者が中国の台頭に無関心であったことを意味するもの

ではない。例えば前述の国防白書では、今後 20年間でアジア太平洋の安全保障環境が、特に米中関係や日中関係といった主要国間の関係の行方によっては悪化する可能性を指摘するなど、中国の台頭とそれに伴う米中の力関係の変化に関しては詳しい言及がある 23。豪州にとってより差し迫った問題は、台湾海峡危機のような米中間の紛争の蓋然性が高まることにより、米国との同盟関係を通じてそうした紛争に豪州が関与せざるを得ない状況であった 24。実際、2001年にはリチャード・アーミテージ (Richard Armitage)米国務副長官が仮に台湾海峡危機が発生した場合、豪州の米国に対する支援を求める旨の発言をしていた 25。中国は豪州にとって直接的な「脅威」ではなかったが、同時に「戦略的な挑戦」を投げかけていたのである 26。そこにおいて重要なことは、豪州自身が中国に直接的に対抗するよりも、地域における米国の「優越」(primacy)やリーダーシップを支援することで、近い将来「いかなる国もしくは国家集団もグローバルな環境を形成する米国の全般的な能力に挑戦することはできない」状況を維持することにあった 27。それにより豪州は、米国との緊密な関係を維持しつつ、中国との関係を同時並行的に強化することが可能になるからである。地理的にも中国と対峙し、また地域において最大の米軍プレゼンスを有する日本との関係は、その意味において極めて

21 Department of Foreign Affairs and Trade, Advancing National Interest (Canberra: Commonwealth of Australia 2003), p. 142

22 Shannon Tow, Independent Ally: Australia in an Age of Power Transition (Melbourne: Melbourne U. Press, 2017) (Kindle Edition), No.5954-5956.

23 Department of Defence, Defence 2000, p. 18.24 Stuart Harris, “China-US relations: A difficult balancing act for Australia?”, Global Change, Peace &

Security, Vol. 17, No. 3 (2005), p. 237.25 Hamish McDonald, “Downer flags China shift”, The Age, August 18, 2004.26 Tow, Independent Ally, No. 5717.27 Department of Foreign Affairs and Trade, Advancing National Interest, p. 21.

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重要であった。特に日本が地域においてその役割を拡大することは、中国に対するカウンターバランスになるのみならず、日米同盟の強化を通じた米国の地域プレゼンスの維持・強化にもつながる28。日本の安全保障上の役割の拡大を奨励するという冷戦後の豪州の対日政策の基本方針は、中国の台頭が顕在化する中で、いっそうその戦略的な重要性を増すこととなったのである。

(2)日米豪戦略対話の発足日米豪による安全保障協力の強化が豪州によって提案されたのは、以上の戦略的な要請に基づくものであった。2001年 7月に開催されたアセアン地域フォーラム(ARF)に際し、豪外相のアレクサンダー・ダウナー(Alexander Downer)は次官級での日米豪戦略対話の開催を、日米の外相に提案した 29。3国間の安保対話を事務レベルで最初に提案したのは、豪外務貿易次官のアシュトン・カルバート(Ashton Calvert)であったと言われる。カルバートは 90年代に大使として日本に滞在した経験もあり、2001年 9月に在アメリカ合衆国特命全権大使として着任した加藤良三大使とは旧知の中であった。また加藤はアーミテージやマイケル・ソウレイ(Michael Thawley)豪駐米大使とも親密な関係にあり、こうした個人的な関係が、TSDの発足に大きく寄与したと言われる 30。加藤は、1975年~ 78年に在豪州大使館に一等書記官として勤務した時から、豪州が経済分野を超えて日本にとって持つ戦略的価値を感じていた。1981年北米局安保課長となった加藤は、当時課題であったシーレーン防衛の観点からする役割を含め、当時そこまで日の目を浴びることのなかった豪州の国際社会における役割を日本が「引き立てる」必要性を感じていたという31。他方で、日豪間の地理的な距離や対中関係の差異、それに両国の能力等により、加藤は日豪両国のみによる安全保障協力の限界も認識していた。加藤にとって、日豪安全保障協力の目的はあくまでも日米同盟を軸とした地域における米国のプレゼンスを日豪が「補完」することにあり、そうした協力を促すことに、3カ国安全保障協力の意義があった 32。こうした同盟国からの提案は、中国の台頭を背景に同盟国同士の連携を促すという米国

28 White, “Trilateralism and Australia”, p. 104.29 Alexander Downer, “Bias ignores years of hard work on foreign policy”, The Sydney Morning Herald, 11

July, 2008.30 John Hemmings, Quasi-Alliances, Managing the Rise of China, and Domestic Politics: The US-Japan-

Australia Trilateral, thesis submitted to the Department of International Relations of the London School of Economics and Political Science for the degree of Doctor of Philosophy.

London (January 2017), pp.134-135.31 加藤良三氏へのインタビュー、2018年 4月 6日。32 同上。

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の戦略構想とも合致するものであった。その結果、2002年 7月の米豪閣僚協議のサイドラインとして、最初の非公式の TSD次官級会合が開催された。当時ブッシュ政権の国家安全保障会議(NSC)日本・朝鮮担当部長を務めていたマイケル・グリーン(Michael Green)によれば、3カ国の最初の会談では中国の問題というよりも、地域のアーキテクチャについて議論が行われたという。特に豪州はブッシュ大統領が就任以降地域のアーキテクチャについて多くを語らなかったことを懸念しており、日本と共に、米国のAPECやARFへの定期的な参加を要請したという。もちろんその背景には中国の存在があったものの、軍事的な問題についてはほとんど議論されなかった 33。次官級のTSDはその後も2005年まで毎年開催されたが、そこでは北朝鮮の核・ミサイル開発や大量破壊兵器の不拡散問題、テロ対策に向けた協力といった地域における多岐にわたる問題が議論されていた 34。TSDは中国の台頭をその主たる要因としつつも、日米豪が地域の安全保障問題全般を議論する緩やかな協議体として発足したのである。

2.「交流」から「協力」へ

(1)9・11テロの勃発2001年 9月11日に米国で同時多発テロ事件が勃発すると、日豪は共に米国の「グロー

バルなテロとの闘い」を積極的に支援した。日豪それぞれの対米支援については、既に多くの文献で詳細な記述があるため、ここでは詳しく論じない 35。重要な点は、9・11をきっかけに、米国のリーダーシップやその地域的役割を「支える」ことの必要性が、日豪双方の政策決定者によっていっそう強く認識されるようになったことである。例えばイラク戦争において米国への「支持」を表明した小泉首相の最終的な判断の背景にあったのは、日米同盟における首脳同士の信頼関係の維持と、そうした信頼関係に基づく強固な日米同盟がもたらす北朝鮮への抑止力に対する期待であった 36。日本にとって、イラク戦争の失敗による米国の威信の低下は、北のさらなる挑発的な行動を誘発することにもつながる。そうした事態を防ぐために

33 マイケル・グリーン氏へのインタビュー、2017年 2月 22日。34 James L. Schoff, “The Evolution of US-Japan-Australia Security Cooperation”, in Yuki Tatsumi (eds.),

US-Japan-Australia Security Cooperation: Prospects and Challenges (Washington DC: Stimson Institute, 2015), p. 40.

35 日本側については、例えば信田智人『日米同盟というリアリズム』千倉書房、2007年及び佐竹知彦「日米同盟の『グローバル化』とそのゆくえ」添谷芳秀編『秩序変動と日本外交―拡大と収縮の 70年』(慶應義塾大学出版会、2016年)を、豪州側については、Robert Garran, True Believer: John Howard, George Bush & the American Alliance (Sydney: Allen & Unwin, 2004)及び Greg Sheridan, The Partnership: The Inside Story of the US-Australian

Alliance under Howard and Bush (Sydney: University of New South Wales Press, 2005)等を参照。36 『朝日新聞』2013年 3月 20日の福田元官房長官へのインタビューを参照。

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も、日本が米国の行動を積極的に支援することでその孤立主義への傾倒を防ぎ、米国を地域に繋ぎ止めておくことが重要と考えられていた 37。同様に、イラク戦争への参戦においてハワードは大量破壊兵器(WMD)の脅威に加え、豪州にとっての「対米同盟の重要性」を繰り返し強調した 38。そこにおける対米同盟の重要性とは、豪州の防衛のみならず、同盟を通じて「米国が地域に関与し続けること」を意味した 39。確かに豪州には(日本の北朝鮮に相当する)直接的な脅威こそ存在しなかったものの、対中関係を含め豪州にとって良好な安全保障環境を維持するためには、米国の孤立化を防ぎ、その地域プレゼンスを維持することが不可欠であった。そのためにも、豪州は対米支援を通じて米国人に対し「彼らが困難な課題を1人で行おうとしているのではない」ことを示す必要がある 40。だからこそハワードは、イラク戦争への派兵に反対する野党や大多数の国内世論を押し切ってまで、参戦を決断したのである。日本同様、豪州もまた地域における米国の関与と、グローバルなレベルにおける対米支援を、表裏一体のものとして捉えていた 41。こうした経緯を踏まえれば、米国の地域プレゼンスの維持という共通目標を有する日豪両国が、特に 9・11以降対テロや不拡散の分野で協力を深めていくのは自然な流れであったと言える。例えば2002年5月の日豪首脳会談後に発表された「日豪の創造的パートナーシップ」及びその行動計画では、日豪それぞれがテロリズムとの闘いにおいて行っている貢献を踏まえ、テロ対策のためのハイレベル協議を行うこと等が合意された 42。2002年 8月には中谷元防衛庁長官が日本の防衛庁長官として 4年ぶりに豪州を訪問し、ヒル(Robert Hill)国防大臣の会談において、テロ対策をはじめとした両国の安全保障協力の強化に向けた行動計画の実行に加え、外務・防衛局長クラスの対話を開始することで合意した 43。さらに 2003年7月に両国の首脳は、「国際テロリズムとの闘いに関する協力についての日豪共同声明」に署名し、特に東南アジア諸国のテロ対処能力向上のための支援等についての協力強化を掲

37 五百旗頭真・伊藤元重・薬師寺克行編『90年代の証言 岡本行夫―現場主義を貫いた外交官』(朝日新聞出版、2008年)298頁。なお、岡本は当時内閣官房参与を務めていた。

38 Hugh White, “Security, Defence, and Terrorism”, in James Cotton and John Ravenhill (eds.), Trading on

Alliance Security: Australia in World Affairs 2001-2005 (New York: Oxford University Press. 2006), p.180.39 “Transcript of the Prime Minister, the Hon. John Howard MP, Address to the Nation”, 20 March 2003.40 Sheridan, The Partnership, p. 65.41 Paul Kelly, “The Australian-American Alliance: Towards a Revitalization”, in Jeffrey D. McCausland,

Douglas T. Stuart, William T. Tow, and Michael Wesley, (eds.), The Other Special Relationship: The United

States and Australia at the Start of the 21st Century (Canberra: Strategic Studies Institute, 2007), p. 59.42 外務省「日豪首脳会談 共同プレスステートメント『日豪の創造的パートナーシップ』 (仮訳)」2002年 5月1日、

http://www.mofa.go.jp/mofaj/kaidan/s_koi/asi_pac02/australia_st.html。43 デズモンド・ボール「日豪安全保障関係の行方」マイケル・シーゲル、ジョセフ・カミレーリ編『多国間主義と同盟の狭間―岐路に立つ日本とオーストラリア』(国際書院、2006年)38頁。

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げ、具体的な行動計画も策定された 44。同年 9月には両国の間で初の「防衛交流の発展に関する覚書」が締結されている。また 2003年 5月、米国が「拡散に対する安全保障構想」(PSI)を発表すると、豪州は同年 9月に、また日本は翌年 10月に PSIの海上訓練を主催するなど、その活動に積極的に貢献した。同時に、9・11テロの勃発は、日豪両国にテロ対策以外の分野での協力の強化も促す

ことになる。その 1つの例が、東ティモール PKOにおける両国の協力である。1999年に東ティモールの分離独立運動に端を発した紛争が勃発すると、豪州は東ティモール国際軍(INTERFET)を組織し、紛争の鎮静化に主導的役割を果たした。介入に際し、ハワード首相は豪州が世界の警察官である米国の「副官」として、地域の安定化に向けた責務を負うと発言したことが報道された 45。ハワードは後に「副官」という言葉の使用を否定したものの、この言葉は豪州の役割を端的に捉えていたとも言える。実際、米国は情報収集や後方支援等において重要な役割を果たしたものの、欧州での紛争への関与等を理由に、INTERFETに歩兵部隊は提供しなかった。こうした米豪の協力をもって、地域の危機管理に向けた同盟「役割分担」の成功例とする研究もある 46。豪州はまた、当初より東ティモールへの自衛隊派遣を含む日本側の支援を要請していた。

これに対し、日本は資金・人道援助を行いつつ、自衛隊の派遣については「PKO5原則」等を理由にそれを見送っていた。ところが、その後紛争が収束したことに加え、9・11テロの勃発により米側の日本への人的貢献に向けた圧力が強まる中で、自衛隊の派遣の可能性が再浮上する。朝日新聞の取材によれば、特に自衛隊の陸幕が東ティモール派遣に積極的であったのは、「アフガニスタンやその周辺での[ブーツ・オン・ザ・グラウンドでの]対米支援が難しい以上、間接的であっても、世界規模で展開する米軍の国際安全保障の努力を補完するしかない」という判断であった 47。その結果、2002年 3月、日本政府は東ティモールに、PKOとしては過去最大規模となる690名の自衛隊施設部隊を派遣した。豪州同様、日本もまた東ティモール PKOへの貢献を、対米支援の一環として捉えていたのである。当時、豪州はこの問題でアジアにおいて「孤立」していると認識しており、日本を含む地域諸国をいかに巻き込むかについて腐心していた48。そうした中で決断された自衛隊の派遣に

44 外務省「国際テロリズムとの闘いに関する協力についての日豪共同声明(仮訳)」2003年 7月16日、http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/australia/ja_terro_s.html。

45 Fred Brenchley, “The Howard Defence Doctrine”, The Bulletin, Vol. 28, September 1999, p. 22.46 Coral Bell, “East Timor, Canberra and Washington: A Case Study in Crisis Management”, Australian

Journal of International Affairs, Vol. 54, No. 2, pp. 171-176.47 朝日新聞「自衛隊 50年」取材班『自衛隊 知られざる変容』(朝日新聞社、2005年)41頁。48 Duncan Campbell, “Invisible friends are no comfort / Diplomacy at the Crossroads”, The Australian, 15

September 1999.

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中国の台頭と日米豪安全保障協力の強化

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ついて、豪州は高く評価するとともに、強い感謝の意を表明した。2003年に発表された豪州の外交貿易政策白書は、9・11以降の日本の迅速な対応に加え、東ティモール PKOへの貢献を日豪が「地域における我々の相互の安全保障を強化するために共に働くことができる」ことの証左として挙げた 49。日豪両国にとって、そうした協力は、地域秩序の維持に向けた地域諸国の自律的な貢献という以上の意味を有していた。そこには、9・11以降グローバルなテロとの闘いに全力を傾けていた米国の役割を日豪が協同で「補完」し、強固な同盟体制に基づく米国の地域プレゼンスの維持を図るという日豪共通の戦略目標が存在したのである。

(2)イラク復興支援における協力自衛隊と豪軍の関係をより緊密なものとしたのが、イラク復興支援における協力であった。

2005年 2月、ハワード首相はキャンベラで記者会見し、陸上自衛隊が駐留するイラク南部に「自衛隊の安全を確保するため」450人の豪州軍を増派する方針を発表した。ハワードは前年 10月に行われた選挙前にはイラクへの増派を否定していたこともあり、労働党をはじめ野党はこの決断をいっせいに非難した。世論調査では、過半数の国民がイラクへの増派に反対するなかでの決断であった 50。自衛隊は英豪軍の駐在する「キャンプ・スミッティ」に連絡官を常駐させ、情報収集や共同訓練の調整等に当たらせていた。また豪州軍は安全の確保を含め自衛隊の活動に対して様 な々支援を行い、そうした豪州側の貢献を日本側は高く評価していた 51。ハワードは後に、豪州軍派遣の決断が従来までは経済が中心であった日豪の関係に、戦略的側面を付与する意味を持っていたことを明らかにしている 52。特に豪側は、自衛隊のイラク派遣が国内の憲法上機微な問題であることから、仮に安全上の問題からオランダ軍に続き自衛隊も撤退するような事態が起きた場合、連合軍の努力に「非常に深刻な打撃」を与えることを懸念していた 53。また豪州にとってイラクにおける日本の「ブーツ・オン・ザ・グラウンド」による貢献は、日本がイスラム原理主義や大量破壊兵器の拡散といった他の問題に対してよ

49 Department of Foreign Affairs and Trade, Advancing National Interest, p. 78.50 Michelle Hespe, “Polls show new Australian opposition to protecting Japanese in Iraq”, Kyodo News, 15

March 2005.51 例えば、イラク復興支援群「イラク復興支援活動報告」2006年 2月 21日、https://www.asahicom.jp/news/

esi/ichikijiatesi/iraq-nippo-list/20180416/370/060221.pdf、15頁を参照。52 John Howard, Lazarus Rising: A Personal and Political Autobiography (Sydney: HarperCollins Publishers,

2010), p. 458.53 Steve Lewis and Patrick Walters, “PM doubles troops to Iraq - 450 more Aussie soldiers to protect 850

Japanese engineers”, The Australian, 23 February 2005.

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り大きなコミットメントを示すための試金石として認識されていた 54。イラクにおける自衛隊の活動を支援することは、米主導の「テロとの闘い」を成功させるとともに、地域及びグローバルなレベルでの日本の安全保障上の役割の拡大という、豪州の戦略目標とも合致するものだったのである。イラクでの協力を通じて、日本側の豪州に対する評価は大きく上がった。豪州の専門家の中には、この派遣無くして日豪両国が 2007年の日豪安保共同宣言を結んだ可能性は「ほとんど無きにひとしい」という見方も存在する55。2005年 4月のハワード訪日に先立つ豪州メディアへのインタビューで、小泉首相は第 2次大戦の日本軍の行為について謝罪する表意があることを表明したほか、当時豪州側が強く求めていた 2国間の自由貿易協定(FTA)の可能性を検討する意思を表明し、その後 FTAの研究グループ創設に合意した 56。国内的に合意が困難な豪州との FTAの検討を小泉が決断した背景について、寺田貴は「自衛隊警備のためにイラクに兵を送り込んでくれたオーストラリアに対する感謝の現れとして、オーストラリアの貿易利益をより真剣にとらえたい小泉の思いが反映されていた」と分析する 57。日米豪の実務的な協力はまた、災害支援の分野において進められた。2004年 12月26

日、スマトラ沖大震災及び津波が発生すると、日本はインドネシアのアチェ州へ派遣された海上自衛隊の艦船 3隻に加え、航空自衛隊の輸送機 2機、陸上自衛隊第 7師団(230名)など合わせて 800~ 900人の自衛隊を派遣し、さらに 5億ドルの財政支援を行った。同じころ、豪州も救助目的のために 4機のC130輸送機に加え、海軍艦隊 1隻を派遣したほか、過去最大規模となる7億 6500万ドルの支援を表明した。さらに日本と豪州、そしてインドの3カ国は、米太平洋軍と米海兵隊が被災者救援のために組織した統合任務部隊に参加するなど、国際支援体制の中で米国と共に中心的な役割を果たした。この動きを高く評価したアーミテージ国務副長官は、竹内行夫外務事務次官に豪州との連携強化を強く進めたと言われる 58。こうして、9・11同時多発テロ事件の発生以降、自衛隊と豪州軍の現場レベルの協力は地域そしてグローバルなレベルで進んでいくことになる。9・11以前にその設立が決まっていた日米豪の戦略対話は、偶然にも9・11以降の 3カ国の協力を調整する枠組みを提供する

54 Tom Allard, “Decision hinged on the result of two elections”, The Sydney Morning Herald, 23 February 2005.

55 マルコルム・クック、アンドリュー・シェアラー「ゴーイング・グローバル:多国間協力のための日豪両国の新たなアジェンダ」、Lowy Institute、2009年 4月、12頁。

56 “Japan PM Koizumi open to WWII apology”, Australian Associated Press Financial News Wire, 19 April 2005.

57 寺田貴「日豪安全保障パートナーシップの進展―米中の役割と国際構造変化」谷内正太郎編『論集 日本の外交と総合的安全保障』(ウェッジ、2013年)282頁。

58 信田『日米同盟というリアリズム』、234頁。

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中国の台頭と日米豪安全保障協力の強化

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こととなった。無論、日米豪の安全保障協力は仮に9・11がなくとも進められていたであろうが、9・11テロという米国主導の国際秩序に対する挑戦が、日米豪 3カ国の協力を加速化させたことは明らかであろう。特に東ティモールの安定化やイラク復興支援における日豪両国の協力には、地域・グローバルな米国の役割を同盟国の協力によって「補完」することで、強固な同盟関係を軸とした米国の地域におけるプレゼンスの維持・強化を図るという構図が端的に示されていた。その結果、日豪の防衛「交流」は現場レベルでの協力を含むより実践的な「協力」へと進化したのである。

3.安全保障協力の制度化

(1)TSD閣僚級協議の発足と日豪安保共同宣言2005年 5月の日米豪 3カ国の外相級会談で、TSDは閣僚級協議へと格上げされること

が決定した。その直接的なきっかけは、2005年 2月における米国の国務副長官の交代であった。3カ国の安全保障協力を推し進めたアーミテージとは異なり、新たに就任したロバート・ゼーリック(Robert Zoellick)は中国を「責任あるステークホルダー」として位置づけ、米中関係を重視する反面、TSDにそれほど関心を払わなかったと言われる。こうした状況に危機感を強めた米豪の政府高官は、それぞれライス国務長官とダウナー外相に働きかけることで閣僚級の TSDを実現し、3カ国協力のモメンタムの維持を試みた 59。その結果、2006年3月に初の TSD閣僚級協議がシドニーで開催された。会合後の共同声明では、日米豪協力の強化のために、3カ国が国際的・地域的安全保障課題に関する情報及び戦略的評価の共有を強化していくことが明らかにされた 60。さらに外交部門を中心とした TSDプロセスに加え、国防部門を中心とした協力の枠組みも強化されることになる。2006年には米国防省が TSDとは別の枠組みによる国防部門間の協力を提案し、その結果翌年 2月には、安全保障・防衛協力会合(SDCF)の設立が合意され、その第 1回会合が 4月に東京で開催された。SDCFには 3カ国の国防(防衛)省・国務(外務)省からの文官に加え、制服組も参加しており、その初期のアジェンダには災害支援やミサイル防衛、海賊対処、過去の 2国間演習の教訓や不拡散、そして相互運用性や情報共有などが含まれていた 61。また同年 6月にはシンガポールで、初の 3カ国での国防大臣会合も開催されている。

59 Hemmings, Quasi-Alliances, Managing the Rise of China, and Domestic Politics, pp. 146-147.60 外務省「日米豪戦略対話 共同ステートメント(仮訳)」2006年 3月18日、https://www.mofa.go.jp/mofaj/

kaidan/g_aso/australia_06/jua_smt.html。61 Schoff, “The Evolution of US-Japan-Australia Security Cooperation”, pp. 42-43.

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このように、日米豪の 3カ国協力が発展するにつれ、その「最も弱い環」である日豪の安全保障関係も強化されることになる。特にTSDの枠組により日豪の閣僚や政策決定者が定期的に顔を合わせる機会を得たことは、両国の安保協力をより実質的なものとする上で大きな役割を果たした 62。その結果、2007年 3月、安倍総理とハワード豪首相の間で、安全保障協力に関する日豪共同宣言が採択された。共同宣言は「何か新しい連携を打ち出したというよりは、それまでの安保協力の蓄積を認めたうえで、今後も両国で安保協力を拡充していく意思を確認したいという性格の取極」であった 63。実際、それは協力の強化に向けた「骨組み」のようなものであり、何ら実質的な内容を伴うものではなかった。とは言え、そうした「骨組み」はその後より実務的な協力によって「肉付け」されていくことになる。2007年 6月にはネルソン豪国防大臣が豪国防大臣としてはおよそ 4年ぶりに訪日し、東京で久間防衛大臣と会合を行ったほか、初の 2プラス 2も開催された。さらに同年9月には「安全保障協力に関する日豪共同宣言を実施するための行動計画」が発出され、同宣言を実行に移すための具体的なロードマップが提示されている。同ロードマップは 2国間の防衛協力のみならず、国連改革や法執行、国境の安全やテロ対策、軍縮・不拡散や平和活動及び災害救援等、多岐にわたる協力項目が列挙されていた 64。尚、日豪の安保共同宣言について、豪州側は当初インドネシアと同年 11月に締結した安全保障枠組み協定(「ロンボック協定」)に類似した協定を想定していたが、日本側が正規の協定では国会審議の対象になることを懸念したため、共同宣言という形をとることになったと言われる 65。その一方で、日豪の交渉担当者は、共同宣言の発表が将来の公式の安全保障条約の締結に向けた「飛び石」となることを期待していたとの見方もある 66。もっとも、少なくとも当時の豪州政府内で、日本側と条約を伴う公式の安全保障協定を締結することへのコンセンサスは存在しなかった。特に第 3国からの攻撃に対する相互防衛義務を定めた条約を支持する者は、ほとんどいなかったと言われる67。また安倍政権は当初公式の協定に乗り気であったとも伝えられるが、共同宣言発表時には既に閣僚の失言や不祥事によって支持率が低下していたことに加え、イラクにおける大量破壊兵器の不在などに批判が高まっていたこともあり、政治的リスクを伴う豪州との安保協定の締結の見込みは日本側にとっても現実的で

62 Ibid.63 福島輝彦「日本外交における対オーストラリア関係の意味―戦後日豪関係の発展過程―」金沢工業大学国際学研究所編『日本外交と国際関係』(内外出版、2009年)209頁。

64 外務省「安全保障協力に関する日豪共同宣言を実施するための行動計画の主要な要素(仮訳)」、2007年 9月、http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/australia/0709_kk.html。

65 福島、前掲論文、209頁。66 Greg Sheridan, “Security treaty rejected by Tokyo”, The Australian, March 12, 2007.67 マリー・マクレーン前駐日豪大使へのインタビュー、2017年 10月11日。

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中国の台頭と日米豪安全保障協力の強化

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はなかった。

(2)中国の台頭?このように、2000年代中頃から日米豪の安全保障協力の制度化が進んだ背景には、前節で検討した 9・11以降の日米豪の実務レベルでの緊密な協力に加え、中国の台頭があった。9・11以降米国と中国の関係は一時的に改善していたものの、人民元改革や人権問題、北朝鮮・イランの核開発問題などをめぐって、再び両国の対立ムードが強まった。2006年 2

月の米「4年ごとの国防見直し」(QDR)は、中国を「主要国や台頭しつつある国々の中で、米国に軍事的に対抗する可能性が最も高い」国として位置付けるなど、中国に対して極めて厳しい見方を示していた。QDRはさらに、地域への 2国間・多国間での関与の深化や共通の安全保障課題に対処する上でのパートナーとして、日本と韓国、豪州に加えインドの名を挙げ、これらの国 と々統合運用や情報協力を強めていくことを明らかにした 68。日本もまた、2000年代に入り中国軍用機に対する航空自衛隊の緊急発進(スクランブル)の増加や、中国海軍の度重なる日本領海及び排他的経済水域への侵入などにより、中国の軍事活動に対する警戒心を強めていた。2004年に発表された新たな「防衛計画の大綱」は、中国による核・ミサイル戦力や海・空軍力の近代化の推進、海洋における活動範囲の拡大への言及があったほか、「島嶼部に対する侵略への対応」が初めて防衛力の役割として位置付けられた 69。2005年 9月には、中国軍艦が東シナ海のガス田付近で海上自衛隊のP-3C哨戒機に 100ミリ砲の照準を合わせる事件も発生した 70。さらに小泉首相の靖国参拝等で冷え切った日中の政治的関係を背景に、日本人の中国に対する見方はいっそう厳しくなっていた。2005年 11月に行った世論調査によれば、72%の回答者が「中国を信用できない」と回答し、76%が中国に「脅威を感じる」と答えたという71。同様に、豪州も中国の台頭に徐々に警戒心を強めつつあった。2003年に発表された国防省の報告書「防衛アップデート」は、米中関係が以前よりも安定的になりつつも、両国の戦略的競合や、台湾問題を巡る双方の誤認の可能性が継続するとの見方を取っていた72。さらに 2005年版の同報告書は、中国の防衛近代化のペースと規模が「誤認の可能性」を

68 United States Department of Defense, Quadrennial Defense Review Report, February 6, 2006, p.88.69 首相官邸「平成 17年度以降に係る防衛計画の大綱について」2004年 12月10日、https://www.kantei.go.jp/

jp/kakugikettei/2004/1210taikou.html(2018年 5月 31日参照)。70 リチャード・J・サミュエルズ著、白石隆監訳『日本防衛の大戦略 富国強兵からゴルディロックス・コンセンサスまで』(日本経済新聞出版社、2009年)238頁。

71 松田康博「第 6章 安全保障関係の展開」家近亮子・松田康博・段瑞聡編『【改訂版】岐路に立つ日中関係―過去との対話・未来への模索―』(晃洋書房、2012年)145頁。

72 Australian Department of Defence, Defence Update 2003 (Canberra: Commonwealth of Australia, 2003), p. 8.

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生じている点について言及し、中国軍の透明性の向上や「正当な安全保障上のニーズ」に沿った能力の開発を求めていた 73。さらにその 2年後の報告書は、2007年 1月に実験が行われた中国の衛星攻撃兵器を引き合いに、中国軍の新たな「破壊的」能力の向上が、誤認のみならず、地域の安定を損なう可能性について言及していた 74。とはいえ、この段階においても、豪州政府全体としての対中脅威認識は、日米のそれと比較して、依然として大きな隔たりがあったと言える75。特にハワード政権下における対中関係強化の結果、1996年から2006年にかけ、豪州の対中輸出は年平均で 18パーセント、合計で626パーセントも増加した 76。2007年には日本を抜き、中国は豪州の最大の貿易パートナーとなった。安全保障面でも、2004年 10月に豪州軍と人民解放軍との間で初の共同海上演習が行われるなど、限定的ではあるものの、軍同士の関係も進展していた 77。2004年 8月には訪中したダウナー外相が、米豪同盟を通じた豪州の台湾防衛義務に関する問いに対し、ANZUS条約は米豪以外に対する軍事行動によって自動的に発動されるものではないとの見方を示し、物議を醸した 78。さらに 2005年 2月には、中国への武器輸出制限措置の継続を米国と日本が EUに求めたのに対し、豪州はこの働きかけに参加しなかった。日米の政策決定者は、こうした豪側の対中姿勢を強く憂慮していたと言われる。米国が TSDを外相級に引き上げたのは、豪州を両国の側に「引き付ける」ためであったとする見方もある 79。このように、日米とは異なる対中姿勢をとりつつも、豪州が TSDの強化に応じたのは、既に触れた地域における米プレゼンスの維持という目標に加え、この枠組みを通じて(中国を刺激しない形で)日本の地域的な役割の拡大を図るという思惑があった。特に豪州の政策決定者は、90年代から日本の官僚制やリーダーシップの不在から、日豪の安全保障協力の進展のスピードが遅いことに不満を抱いていた 80。TSDや SDCFは、米豪両国が日本が地域の防衛や安全保障問題により深くコミットすることを促すための、格好の場を提供していたと言える。特に豪側には、当時テロとの戦いに加え、東ティモールでの平和維持活動など、軍の海外派遣が相次いでいたため、日本にそうした活動の一部を「肩代わり」してほしいと

73 Australian Department of Defence, Defence Update 2005 (Canberra: Commonwealth of Australia, 2005), p. 7.74 Australian Department of Defence, Defence Update 2007 (Canberra: Commonwealth of Australia, 2007), p. 20.75 この時期の豪州世論の対中認識については、例えば Ivan Cook, The Lowy Institute Poll: Australians Speak

2005 Public Opinion and Foreign Policy (Canberra: Lowy Institute for International Policy, 2005), p. 1を参照。76 Allan Gyngell, Fear of Abandonment: Australia in the World since 1942 (Melbourne: La Trobe University

Press, 2017) (Kindle Edition), No.6166-6168.77 Stuart Harris, “China–US relations: A difficult balancing act for Australia?”, Global Change, Peace &

Security, Vol. 17, No. 3, 2005, p. 235.78 Hamish McDonald and Mark Forbes, “Downer flags China shift”, The Age, August 18, 2004.79 White, “Trilateralism and Australia”, p. 109.80 Ibid., p. 104.

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中国の台頭と日米豪安全保障協力の強化

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いう思いもあったとされる 81。実際、米国防省のスタッフとして SDCFに参加していたジェームズ・ショフ(James

Schoff)によれば、会合で中国が言及されることはあったが、それは多くの場合において「北朝鮮との関わりや軍事的な透明性の欠如といった戦略環境を形成する一要素」としてであった 82。また TSDは高官協議の下に実務者レベルでのワーキング・グループを形成したが、その分野も人道支援・災害救援や対テロ、情報共有、不拡散や太平洋諸島、東南アジアといった地域秩序全般にかかる問題や領域であった。そこにおいて問題とされたのは、中国の軍事的な脅威に直接対抗するというよりも、米プレゼンスの維持や日本の役割の拡大を通じて、既存の地域秩序をいかに強固なものにしていくかという観点であったと言える。そのことは、日米豪の安全保障協力が進みながらも、同時期に提案された日米豪印の戦略対話が挫折したことからも明らかであろう。4カ国の安全保障対話は米側の一部の政策決定者や日本の安倍晋三首相により提唱され、2007年 5月には 4カ国の代表による非公式会談も行われた。ところが、その後中国が公式ルートを通じて 3カ国に抗議を行うと、4カ国協力に向けたモメンタムは縮んでいく。ハワード政権の後を継いだケビン・ラッド(Kevin Rudd)政権のスティーブン・スミス(Steven Smith)外相は、2008年 2月に行われた中国外相との共同記者会見の場で、豪州が 4カ国の戦略対話に参加する意図のないことを明らかにした 83。また安倍首相の後を継いだ福田康夫首相も、4カ国の安全保障協力にはほとんど関心を示さなかったと言われる 84。少なくとも2000年代において、中国を刺激するというリスクを冒してまで米国の非同盟国であるインドとの協力を公式化させることへのコンセンサスは、豪州はおろか、日本においても存在しなかったのである。

おわりに

以上見てきたように、2000年代における日豪もしくは日米豪安全保障協力の強化は、主として日豪両国の対米関係の延長線上に位置付けることが可能である。そこにおいて日豪の協力の基盤となっていたのは、台頭する中国や北朝鮮の脅威を念頭に置きつつ、米国の地域におけるプレゼンスをいかにして維持・強化するかという問題意識であった。特に豪州は、中国の台頭を警戒しつつも、中国との関係を損なわない形で米国の戦略的優位性を維持す

81 「役割変わる日米同盟 世界の秩序維持・構築へシフトを」『朝日新聞』2007年 3月 21日。82 Schoff, “The Evolution of US-Japan-Australia Security Cooperation”, pp. 42-43.83 Indrani Bagchi, “Australia to pull out of ‘quad’ that excludes China”, The Times of India, February 6,

2008.84 寺田、前掲論文、229頁。

Page 18: 中国の台頭と日米豪安全保障協力の強化 2000 年代 …中国の台頭と日米豪安全保障協力の強化 63 全保障協力が発展した経緯について、主として日豪両国の対米関係上の文脈から明らかに

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防衛研究所紀要第 21巻第 2号(2019年 3月)

る方法を求めていた。そのための手段が、米国との 2国間同盟関係の強化に加え、日本の安全保障上の役割の拡大、そしてその双方を促す日米豪安全保障協力の強化であった。そこにおいて中国は日米豪の安全保障協力の強化を促す主たる「要因」ではあったが、その直接的な「対象」ではなかったのである。その意味において 2000年代の日豪両国は、同盟国との(あるいは同盟国同士の)関係強化を通じた中国への「外的均衡」もしくは「連合ネットワーク」の形成という米側の戦略目標とは、やや異なる戦略認識を有していたと言える。少なくとも地域における米国の戦略的優位性が続く限りにおいて、中国を刺激する恐れのある同盟関係の公式化や日米豪印の協力は、両国にとって喫緊の課題ではなかった。特に中国との関係を重視する豪州側からすれば、潜在的には日本との「同盟」関係の締結を含む中国への「外的均衡」政策は中国を刺激するのみならず、日中間の紛争に巻き込まれるリスクを高めるという意味で、二重のリスクをはらむものでもある。そこにおける日豪両国の最適解とは、中国への明示的な「外的均衡」よりも、米国の地域・グローバルな役割を日豪が協同で補完することで、ハブ・アンド・スポークス体制に基づく米国の地域におけるプレゼンスを維持・強化していくことにあった。そこに、中国との地域覇権を争う立場にある米国と、その「ジュニア・パートナー」である日豪両国との間に存在する、中国の台頭に対する微妙な立場の違いを見出すことができるのである。

(さたけともひこ 政策シミュレーション室主任研究官)