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【研究ノート】 ジョン・D・ロックフェラー 1 世の 企業家活動と富の集積,1839-1911年(2) 鮫 島 真 人   目   次 1 ロックフェラー家のルーツと企業家ロックフェラーの誕生 1. 1 ロックフェラー家のルーツとビッグビル 1. 2 企業家ロックフェラーの誕生 1. 3 恐慌とロックフェラー 2 水平結合・垂直統合戦略とスタンダード社の設立 2. 1 南北戦争と石油産業の誕生 2. 2 水平結合・垂直統合戦略と盟友フラグラー 2. 3 スタンダード社の設立と南部開発会社事件(以上前号) 3 スタンダード社の増資とタイドウォーター事件とトラストの形成(以下本号) 3. 1 スタンダード社の増資(1)と「クリーヴランドの大虐殺」 3. 2 スタンダード社の増資(2)と石油パイプライン輸送の独占 3. 3 タイドウォーター事件とトラストの形成 4 反トラスト運動とスタンダード社の解体 4. 1 トラスト形成後の垂直統合戦略の拡大と技術開発 4. 2 反トラスト運動とアイダ・ターベル 4. 3 ジャージー・スタンダード社の解体と富の集積 583215

ジョン・D・ロックフェラー1世の 企業家活動と富 …...ジョン・D・ロックフェラー1 世の企業家活動と富の集積,1839-1911 年(2)(鮫島真人)

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ジョン・D・ロックフェラー 1世の企業家活動と富の集積,1839-1911年(2)(鮫島真人)地域経済の成長と地域間格差―需要側からのアプローチ―(小藤弘樹)

【研究ノート】

ジョン・D・ロックフェラー 1世の

企業家活動と富の集積,1839-1911年(2)

鮫 島 真 人  

目   次 は じ め に 1 ロックフェラー家のルーツと企業家ロックフェラーの誕生  1. 1 ロックフェラー家のルーツとビッグビル  1. 2 企業家ロックフェラーの誕生  1. 3 恐慌とロックフェラー 2 水平結合・垂直統合戦略とスタンダード社の設立  2. 1 南北戦争と石油産業の誕生  2. 2 水平結合・垂直統合戦略と盟友フラグラー  2. 3 スタンダード社の設立と南部開発会社事件(以上,前号) 3 スタンダード社の増資とタイドウォーター事件とトラストの形成(以下,本号)  3. 1 スタンダード社の増資(1)と「クリーヴランドの大虐殺」  3. 2 スタンダード社の増資(2)と石油パイプライン輸送の独占  3. 3 タイドウォーター事件とトラストの形成 4 反トラスト運動とスタンダード社の解体  4. 1 トラスト形成後の垂直統合戦略の拡大と技術開発  4. 2 反トラスト運動とアイダ・ターベル  4. 3 ジャージー・スタンダード社の解体と富の集積 お わ り に

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第 62巻 第 4号

3 スタンダード社の増資とタイドウォーター事件とトラストの形成

3. 1 スタンダード社の増資(1)と「クリーヴランドの大虐殺」

 南部開発会社計画(SIC計画)が進行している最中,1872年 1月 1日ロック

フェラーは,精油会社の買収とスタンダード社の増資をおこなうという 2つ

の決議を同社の役員会で決定した.彼は競争相手の多かったクリーヴランド

の精油会社の買収と輸送部門への設備投資(輸送タンクの製造,パイプライン建

設)の目的のために,同社の株式数を 1万株から 2万 5,000株に増やして,資

本金を 100万ドルから 250万ドルに増資した 1).

 ロックフェラーがクリーヴランドの精油業者 22社を 40日足らずで買収し

たことは,のちに「クリーヴランドの大虐殺(Massacre in Cleveland)」2)と呼ば

れ,水平結合戦略の始まりであった.彼は,まずクラーク・ペイン会社およ

び J・スタンレーの会社を買収してからクリーヴランドの精油業者を効率的に

速く買収するというスタンダード社の成長目標を定めて,そのために同社の

資本金を 100万ドルから 250万ドルに増資を行うという自己管理によるマネー

ジメント(目標管理,Management by Objectives and self-Control)を決めたのである.

ロックフェラーは一旦目標を定めると,その目標のために無駄を排除,節約,

効率性を追求する一連の政策を打ち出した 3).

 スタンダード社の第 1回目の増資について,第 12表の 1872年 1月 1日現

1) スタンダード社の経営状況について,クリーヴランドの銀行家ダン・イールス(Dan P. Eelles)がニューヨークの銀行に対して財務状況を述べているので,Nevins (1940) op. cit. Vol.1., p.273.から引用する.「この会社は 100万ドルの資本,36万ドルの精油及び不動産の投資,残余 60万ドルは事業運営へ投資され,その負債は現在 15万ドル以内で,大資金余剰(a large surplus of funds)を持っている」と同社の強固な財務状況を述べている.ロックフェラーの「実体のある投資」を示すものとして,輸送タンク車を 1870年に 78台所有しており,石油輸送に積極的に投資していたことがうかがわれる.Nevins (1940) pp.268-269.

2) ロックフェラーは,1872年 2月 17日から 3月 28日までの間に,クリーヴランドの競合する精油会社 26社のうち 22社を吸収した.クリーヴランドだけでも大小合わせると,50の精油業者がいた.「クリーヴランドの大虐殺」に関しては,Abels (1967) op. cit., pp.83-93.(訳書,pp.99-109.)

3) ロックフェラーが石油産業に参入して約 10年でアメリカ最大級の石油精製業者となった理由の 1つに彼の経営政策があり,利潤の内部留保および利潤の再投資が挙げられる.

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ジョン・D・ロックフェラー 1世の企業家活動と富の集積,1839-1911年(2)(鮫島真人)

在の株主のなかに 4名の新しい株主が出でくるが,3名はクリーヴランドの 3

つの主要銀行の銀行家であった.1人目はセカンド・ナショナル銀行のアマサ・

ストーン 2世(Amasa Stone, Jr.),2人目はコマーシャル・ナショナル銀行のス

ティルマン・ウイット(Stillman Witt),そしてマーチャンツ・ナショナル銀行

の T・P・ハンディ(T. P. Handy)の 3名である.各々が頭取で資金調達の天才

であったロックフェラーの陣容の一角を形成した.もう1人のベンジャミン・

ブルースター 4)(Benjamin Brewster)はフラグラーの鉄道仲間であり,スタンダー

ド社の油送管(パイプライン)部の責任者であった.

 ロックフェラーは第 12表のスタンダード社の増資分 1万 5,000株のなかか

ら,クリーヴランドのクラーク・ペイン会社(Clark, Payne &Co.)の買収に 4,000

4) ベンジャミン・ブルースターの業績に関しては,晴山英夫(1976)「第一次大戦前のアメリカにおける企業支配―その準備的一考察―」『商経論集』(北九州大学)第 12巻 1号,pp.37-74.

第 12表 1872年 1月 1日の Standard Oil Co. of Ohioの増資による株主の変化(単位:100ドル)

(出所)Nevins (1953) op.cit., pp.134-135.

1872年 1月 1日現在の株主 持株数 額面 増資分

15,000株の株主 持株数 額面

John D. Rockefeller 2,016 201,600 John D. Rockefeller, H. M. Flaglerを除く現株主への比例配分

4,000 400,000William Rockefeller 1,459 145,900

H. M. Flagler 1,459 145,900 Clark, Payne & Co. 4,000 400,000

Samuel Andrews 1,458 145,800 John D. Rockefeller 3,000 300,000

S. V. Harkness 1,458 145,800 H. M. Flagler 1,400 140,000

Amasa Stone, Jr. 500 50,000 John D. Rockefellerへの委託 1,200 120,000

Stillman Witt 500 50,000 Jabez A. Bostwick 700 70,000

O. B. Jennings 500 50,000 J. Stanley 200 20,000

T. P. Handy 400 40,000P. H. Watson 500 50,000

Benjamin Brewster 250 25,000

     10,000株    1,000,000          15,000株   1,500,000

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第 62巻 第 4号

株および J・スタンレーの会社買収に 200株,ペインの友人であったニュー

ヨークの石油販売業者ジャベズ・A・ボストウィック 5)のロング・アイラン

ド・オイル社(Long Island Oil Company)買収に 700株と,合計 4,900株,額面

50万ドル相当を直接ふりむけた.そして彼は南部開発会社事件のキーマンで

レーク・ショア鉄道の貨物輸送総代理人あったピーター・H・ワトソン(P. H.

Watson)へ 500株,額面で 5万ドル相当を与えた.また増資後のロックフェラー

の持株数は 2万 5,000株のうち,5,016株で約 4分の 1強の株式を所有した.

 同年ロックフェラーは,クリーヴランド地域および全国市場で競争する有

力な精油会社を傘下に入れる目的でスタンダード同盟(Standard Oil Alliance)を

結成した.同時に彼は小規模の精油会社に対する力を強める目的で,のちに「中

央精油業者協会(Central Refiner’s Association)」となる「全国精油業者協会(National

Refiners’ Association)」を設立した.彼はスタンダード同盟と「全国精油業者協会」

を表面上は精油業界の秩序維持 6)に利用して,裏ではスタンダード社による

独占化の目的のために有力な同業者を傘下に収め,弱小な同業者を次々と排

除した.

 ロックフェラーは南部開発会社事件(SIC事件)で怯むことなく,スタンダー

ド社に競合するクリーヴランドの 25社の精油会社をひとつひとつ買収する凄

まじい攻勢に出た.彼は 40日間足らずで 22社を買収して,同社の精油能力

を全国の 20%に引き上げた 7).これが,「クリーヴランドの大虐殺(Massacre

in Cleveland)」である.彼の説得に最後まで応じなかったクリーヴランドの精

油会社は大小合わせて約 30社あったが,やがてそのうちの多くは倒産した.

 倒産した業者のなかには,ロックフェラーへの恨みを抱いたまま亡くなっ

た人,石油関連の樽業者であった父親をもつジャーナリスト,アイダ・ター

5) 同社の社長がジャベズ・A・ボストウィック(Jabez A. Bostwick)で早くからスタンダード同盟の一員となり,1873年にロックフェラーとアメリカン・トランスファー社(American Transfer Company)に出資してパイプライン・ビジネスに進出した.

6) 精油業界の秩序維持とは,同業者の乱立や精油価格の乱高下を防ぐことである.7) Eloit Jones (1926) op.cit., pp.48-50.

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ジョン・D・ロックフェラー 1世の企業家活動と富の集積,1839-1911年(2)(鮫島真人)

ベル 8)のように生涯をかけてスタンダード社やロックフェラー批判を繰り広

げる者もいた.アイダ・ターベルについてはあとの章で扱う.

 ロックフェラーはスタンダード社が生き残るために精油業界の秩序維持は

必要不可欠であるという信念を持って 9),「クリーヴランドの大虐殺」後も精

油業者へ働きかけて強引な買収をおこなった.彼が同業者の買収を継続して

いるときに,南北戦争後,はじめての恐慌が 1873年におこった 10).

 この恐慌の被害は全米に及んだことで労働者たちの不満が爆発して,彼ら

の抗議活動が激しいときには暴力事件に発展した.この恐慌はスタンダード

社にとっても苦しかったが,ロックフェラーは抵抗する相手に徹底した値下

げ競争を仕掛け,ニューヨークをはじめ全米の精油会社を強引に買収した.

1873年の恐慌は,結果として水平結合戦略におけるロックフェラーの同業者

の買収をあと押しする結果となった.

 ロックフェラーはスタンダード社の国内販売を強化する目的で,1873年ア

メリカ南部の有力な石油仲買業者チェス・カーリー社の権利を半分買収した.

彼は矢継ぎ早に石油卸売業者を買収し,1875年にはセントルイスのウォーター

ズ・ピアス社も傘下に収めて垂直統合戦略の前方統合を進めた 11).

 南北戦争後,はじめての恐慌がおこった 1873年を第 2表,第 4表,第 5表,

の 3表から分析すると,アメリカの原油の生産量・精製油生産量・石油総輸

8) アイダ・ターベルのスタンダード社やロックフェラー批判に関しては,Tarbell, Ida M. (1969) The History of the Standard Oil Company, (Chalmers David C., ed.) New York: Norton.  ターベルの他の有名著作としては U. S. Steelの J.P.モルガンの右腕であったエルバート・ゲアリーに関しての Tarbell, Ida M., (1933) The Life of Elbert H. Gary: A Story of Steel, New York: D. Appleton-Century Company, Inc.がある.

9) ロックフェラーのこの信念に関して,チャーナウはアメリカ合衆国の歴史において,ロックフェラーほど自分のしていることが正しいと信じて疑わなかった実業家はいないと述べている.またロックフェラーは常人には無い驚異的な記憶力の持ち主である反面,自分の都合の悪い事は本当にすっかり忘れてしまうとも述べている.

10) 南北戦争のつけがまわってきた 1873年の恐慌は,ミズーリ・カンサス・アンド・テキサス鉄道がニューヨーク・ウエアハウス・アンド・セキュリティ社への期限内の支払いができなかったために,その影響でジェイ・クック社,キーオン・コックス社などの金融会社が破綻して引き起こされた.ブルナー /カー(2009),前掲書,pp.12-13, p17.

11) 安部悦生(2002)「ロックフェラーと石油産業―経営戦略と企業形態―」安部悦生,壽永欣三郎,山口一臣(2002)『ケースブックアメリカ経営史』有斐閣,所収,p81.

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第 62巻 第 4号

出量は次のようになる.

 1873年のアメリカの原油の生産量は 989万バーレルであったが,貯蔵およ

び運送途中の消耗によって原油の実質出荷量は 950万トンであった.そのう

ち,国内の原油出荷量は 904バーレルで生産量の 95.2%を占め,原油輸出量

は 46万バーレルで 4.8%と 20分の 1以下であった.

 精製油生産量は 675万バーレルでそのうち,精製油国内出荷量は 185万バー

レルと精製油生産量の 27%を占め,精製油輸出量は 490万バーレルで 73%

と 7割を占めた.原油と精製油を合わせた石油総輸出量は 536万バーレルで,

そのうち原油輸出量が 46万バーレルで 9%を占め,精製油輸出量は 490万バー

レルで 91%と石油総輸出量の 9割をこえた.

 精製油輸出量は 1862年対比で約 54倍,1870年の 258万バーレルから約 2

倍の 490万バーレルに伸ばした.石油総輸出量が 1862年 27万バーレルから

1873年 536万バーレルと 11年で約 20倍とすると,精製油輸出量が石油総輸

出量の大半に寄与したのである.

 1873年合衆国からの石油の輸出先として,第 6表から,ヨーロッパが原油

の輸出先として 44万バーレルで 96%,灯油は 1870年対比と変わらず 90%を

占めたが,数量は約 1.5倍に増加した.英国の石輸入量は 1870年対比で 2倍

に増加したが,合衆国からのヨーロッパ向けの 10分の 1に低下した.その分,

ドイツとフランスの比率が高まり,特にドイツが原油および灯油輸入量伸ば

した.

 精製工場は,当初,広い地域に分散していたが,1860年代半ばには,ピッ

ツバーグ,ニューヨーク,石油地帯,クリーヴランドの 4大石油精製センター

を形成した 12).第 13表から,1865年の合衆国における主要な精製地域の精

製能力日量は 11,680バーレルであり,4大石油精製センター(ニュージャージー

を含む)は 10,560バーレルで 90%を占めた.

 最大の石油精製センターはピッツバーグで精製能力日量は 4,500バーレ

12) Williamson and Daum (1959) op.cit., p.289. Abels (1967) op.cit., p.51. (訳書,pp.65-66.)

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ジョン・D・ロックフェラー 1世の企業家活動と富の集積,1839-1911年(2)(鮫島真人)

ル(39%)あり,クリーヴランドの 800バーレル(6%)の 5倍以上であった.

1870年代になると石油輸送の主流は鉄道輸送になるが,1860年代半ばは河川

輸送であった.そのために,オイル・クリークとアレガニー川を利用できるピッ

ツバーグが石油輸送において,他の石油精製センターと比較して有利であっ

た.

 1873年の合衆国における主要な精製地域の精製能力日量は 47,600バーレ

ルであり,1865年対比で 4倍になった.クリーヴランドの精製能力日量は

12,500バーレル(26%)とピッツバーグを抜いて最大の石油精製センターとし

て台頭した.スタンダード社は,日産 1万バーレルの精製能力を持っていた.

 クリーヴランドが台頭した理由は,鉄道輸送および水上輸送もできる立地

上の有利さ,資材調達,人件費の安さなどあるが 13),これらの地理的条件を

うまく活用したロックフェラーの経営政策にあった.しかも,4大石油精製

センターにおいて,ピッツバーグの 24工場,ニューヨーク 19工場,石油地

13) Abels (1967) op.cit., p.51. (訳書,pp.65-66.)

第 13表 主要な精油地域における原油処理能力日量の推移(単位:1バーレル= 42ガロン)

精油地域 65年 % 73年 %

ピッツバーグ 4,500 39 10,000 21

フィラデルフィア 600 5 2,000 4

ボストン 500 4 600 1

ニューヨーク・ニュージャージー 3,100 26 10,000 21

クリーブランド 800 6 12,500 25

石油地帯 2,160 19 9,200 20

エリー …… …… 1,200 3

ボルティモア 20 …… 1,200 3

その他 …… …… 900 1

総 計 11,680 100 47,600 100

(出所)Williamson and Daum (1959) op.cit., p.325, p.332, p.291.

(589) 221

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第 62巻 第 4号

帯 27工場に対して,クリーヴランドは 6工場 14)に集約しピッツバーグの精

製能力を上回った 15).

 ロックフェラーは,フィラデルフィア,ピッツバーグおよびニューヨーク

といった地区の大手精油所会社の社長たちにスタンダード社の買収に応じる

ように説得し了解をとりつけて,同社の増資とパイプライン輸送業への新規

参入の準備を進めていた.

3. 2 スタンダード社の増資(2)と石油パイプライン輸送の独占

 1875年 3月 10日ロックフェラーは,2社の大手精油会社の買収目的のため

に,スタンダード社の株式数を 2万 5,000株から 3万 5,000株に増やして,資

本金を 250万ドルから 350万ドルにする 2度目の増資をおこなった.

 今回の増資は第 14表から,フィラデルフィアおよびピッツバーグといっ

た地区の大手精油所であったウォードン・フルー社 16),ロックハート・フルー

社 17),ニューヨークの精油会社チャールズ・プラット社 18)の買収目的に 93

万 7,500ドル,S・V・ハークネスに 6万 2,500ドルペンシルヴェニアであった.

ロックフェラーは今回の買収で,フィラデルフィアおよびピッツバーグの精

油能力の半分以上を占有した 19).

 ウォードン・フルー社のウィリアム・G・ウォドン(William G. Warden)とチャー

ルズ・ロックハート(Charles Lockhart)は 1872年の南部開発会社(SIC)の株

主であったが,どちらかといえばペンシルヴェニア鉄道のスコットから推薦

14) 6社は,スタンダード社,ハンナ・チャピン社,スコフィールド・スクワイア・アンド・ティグール,ビショップ・アンド・ハイゼル,W. H.ドーン,コリガン社である.Henry, J. T. (1877) Early And Later-History of Petroleum, p.317.

15) Williamson and Daum (1959) op.cit., p.147.16) ウォードン・フルー社(Warden, Frew & Co., 665 barrel/day,精油所名アトランティック精油所.) Henry (1877) op.cit., p.319.

17) ロックハート・フルー社(Lockhar, Frew & Co., 670barrel/day,精油所名ブリリアント精油所.)Henry (1877) op.cit., p.318.

18) チャールズ・プラット社(Charles Pratt & Co., 1,500barrel/day,精油所名プラッツ精油所ブルックリン.) Henry (1877) op.cit., p.316.

19) Williamson and Daum (1959) op.cit., p.348.p.417.

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ジョン・D・ロックフェラー 1世の企業家活動と富の集積,1839-1911年(2)(鮫島真人)

を受けたロックフェラーの反対勢力に属していた.チャールズ・プラット社

のチャールズ・プラットは SIC事件のとき,反ロックフェラー派の急先鋒で

あった.そのような彼らが 2~ 3年後の 1875年には,ロックフェラーの説得

に応じて彼の陣営に参加したのである.

 ロックフェラーは彼らのような敵に好条件を提示して懐柔し,最後には味

方につけて忠誠を誓わせたのである.彼は,ニューヨーク,フィラデルフィア,

ピッツバーグといった精油業の盛んな地区の大手精油所を買収して,当時の

第 14表 1875年 3月 10日の Standard Oil Co. of Ohioの増資時における株主(単位:100ドル)

〈1875年 3月 10日現在の株主〉 J. Huntington

John D. Rockefeller D. M . Harkness

S. V. Harkness Josia Macy

H. M. Flagler W. H. Macy

S. Andrews W. T. Wardwell

O.H. Payne D. P. Eells

B. Brewster S. F. Barger

T. P. Handy W. H. Vanderbilt

O. B. Jennings H. W. Payne

William Rockefeller J. J. Vandergrift

J. Stanley John Pitcairn, Jr.

A. M. McGregorL. G. Harkness

W.C. Andrews

A. J. Pouch 〈増資分1万株の株主〉 持株数 額面

F. A. Arter Warden, Frew & Co. 6,250 625,000

P. H. Watson Charles Pratt & Co. 3,125 312,500

J. A. Bostwick S.V. Harkness 625 62,500

10,000株 1,000,000

(注)1875年 3月 10日現在の株主の持株数は不明.(出所)U. S. Bureau of Corporations (1907) op.cit., pp.50-51.     Nevins (1953) op.cit., p.210.

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第 62巻 第 4号

アメリカの 3大鉄道(ニューヨーク・セントラル,ペンシルヴァニア,エリー鉄道)

沿線の主だった精油所を全ておさえたのである.その結果,1877年に,スタ

ンダード社はアメリカの石油精製品の約 70%を生産した.

 ここに至るまでのロックフェラーの努力は並大抵ではなかった.資金面 1

つをとってみても多額の融資を受けており,わずかでも資金繰りが狂えば,

スタンダード社は崩壊する危険性を常に持っていたであろう.彼はさきに述

べたクリーヴランドの 3つの主要銀行 20)やハークネスを筆頭とする投資家か

ら融資を受ける天才(資金調達の天才)であり,かつここぞというビジネスの

勝負時には投資できる度胸を持った人物であった.

 そしてロックフェラーは利潤の内部留保によって,同社が強い財務体質をも

つようになると次第に銀行に依存しなくなり,1882年のスタンダード・オイル・

トラスト(S.O.T.)成立以降,同トラスト内の会社は相互に資金を融通しあうの

である 21).1885年に彼は次のように「私は,スタンダード・オイルのように巨

大な事業はそれ自身が資金をもち,ウォール・ストリートに依存すべきでない

と考える」22)と彼の見解を述べている.また彼が引退後,力説した言葉に,「我々

は最初から大利潤を獲得し,そして我々はそれを事業に留保した」23)とある.

 SIC事件の運賃リベートの協定で煮え湯を飲まされて以来,ロックフェラー

はフラグラーとブルースターに相談しながら,スタンダード社を鉄道依存の

高い輸送体制から自前のパイプライン輸送のできる会社へと転換する計画を

立てた.

 ロックフェラーのパイプライン輸送業界の独占についての考察に先だって,

20) クリーヴランドの 3つの主要銀行(銀行頭取)とは,セカンド・ナショナル(アマサ・ストーン 2世),コマーシャル・ナショナル(スティルマン・ウイット),マーチャンツ・ナショナル(T・P・ハンディ)で,ロックフェラーの陣容の一角を形成した.3人の銀行頭取はスタンダード社の株主であったが,ロックフェラーはのちにストーン 2世の存在が邪魔になり,スタンダード社の株式を買い取り排除した.ロックフェラーは一時的であったがオハイオ州国法銀行の重役を務めたこともあるが石油の仕事に集中したいために熱心ではなかった.Abels (1967) p.85,(訳書,p.101.) Nevins (1953) op.cit., p.100.

21) 井上忠勝(1959c)前掲論文,pp.37-39.22) Hidy and Hidy (1955) op.cit., p.607.23) Nevins (1940) op.cit. Vol.1, p.273.

224 (592)

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ジョン・D・ロックフェラー 1世の企業家活動と富の集積,1839-1911年(2)(鮫島真人)

パイプラインの建設と分類について述べると,最初のパイプラインの建設は

1865年にヴァン・シッケルが馬車輸送を除去するために行った 24).石油パイ

プラインの大まかな分類についていえば,直径 2ないし 4インチの小口径の

ギャザリング・パイプライン(gathering pipeline)と直径 6インチ以上の幹線

パイプライン(trunk pipeline)に分かれる.幹線パイプラインは,原油幹線パ

イプライン(crude trunk pipeline)と精油幹線パイプライン(gasoline or products

trunk pipeline)に分かれる 25).彼はコストダウンをするためにパイプライン輸

送を原油と精製品の両方に利用したので,ここでは原油幹線パイプラインと

精油幹線パイプラインを取り扱う.

 ロックフェラーはニューヨークのジャベツ・A・ボストウィック(Jabez

A. Bostwick)と提携し,アメリカン・トランスファー社(American Transfer

Company)に出資して 1873年にパイプライン・ビジネスに進出した.同社の

パイプライン建設 26)を請け負ったのが,のちにスタンダード社のパイプライ

ン担当重役になるダニエル・オディ(Daniel O’Day)27)であった.

 スタンダード社がパイプライン・ビジネスに進出した翌年の 1874年にロッ

クフェラー夫妻にとって,念願であった長男ジョン・D・ロックフェラー 2

世(John Davison Rockefeller Jr., 1813-89,以下 ,ロックフェラー 2世と略記)が誕生した.

 同年ロックフェラーは,船舶運輸業者ヤコブ・J・バンダーグリフト 28)(Jacob

24) クルース H. E. / ギルバード C.(1974)『アメリカ経営史』下,東洋経済新報社,p.310.25) ギャザリング・パイプラインは,2 or 4インチの小口径で油井からセントラルポイントへの集油のパイプラインである.トランクラインとは,直径 6インチ以上でパイプライン・システムの主要ラインである.パイプラインの効果,建設コスト,種類については小谷節男(2000)前掲書,pp.114-117, 257-258.

26) アメリカン・トランスファー社(American Transfer Company)のパイプライン建設とは,クラリオン油田からアレガニー川沿いのエムレントンまでの約 80マイルのパイプライン建設であった.小谷節男(2000)前掲書,p.274.

27) エネルギシュなダニエル・オディはロックフェラーの好む人物であった.またオディと血縁関係だとされるジョン・オディ博士は,彼の著作である『Oil Wells in the Woods』の中でスタンダード社を擁護してアイダ・ターベルの同社への批判を攻撃した.Abels (1967) op.cit., p.269.

28) ピッツバーグの船舶運輸業者バンダーグリフトは蒸気船ではしけを曳くアイディアを用いてアレガニー川で儲けて,下流油田地帯にバンダーグリフト・アンド・フォアーマン・パイプライン社(Vandergrift and Foreman Pipeline Company)を設立してスタンダード社の役員となり,パイプラインの大資本家となる.Abels (1967) op.cit., p16. (訳書,p.25.)

(593) 225

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第 62巻 第 4号

J. Vandergrift)が下流油田地帯 29)のパイプライン 5社を統合して設立したユナ

イッド・パイプライン社(United Pipe Line Company)に,23万 3,333ドルを出

資して 3分の 1の株式を取得した.彼は同社の 9人の重役のなかにダニエル・

オディを含むスタンダード同盟の役員 6名を派遣した 30).バンダーグリフト

は南部開発会社計画(SIC計画)のとき,反ロックフェラー派であったがロッ

クフェラーの陣営に参加したのである.

 ロックフェラーはこのときから,スタンダード社の精油能力と運輸部門か

ら引き出した利潤を背景にパイプライン建設とターミナル施設を拡大して既

存のパイプライン会社を支配する方向に舵をとった.彼は 1878年,最後に残っ

たペンシルヴェニア鉄道の子会社で石油地帯最大の輸送サービス事業を行う

エンパイア輸送会社 31)(Empire Transportation Company)を 340万ドルで買収し,

既存のパイプラインの輸送業界を独占した.32)

 スタンダード社は長距離パイプラインを建設して原油と精製品の両方にパ

イプライン輸送を利用し 33),コストダウンを図った.当時,長距離パイプラ

インの建設は,鉄道会社の物量を大幅に減少させるものであった.そのため

にギャザリング・パイプラインに対してとっていた従来の鉄道会社の好意的

な姿勢は異なり,幹線パイプラインに対して敵対的な姿勢となった.同社は

鉄道会社と激しく輸送価格を競争した.特に同社とペンシルヴェニア鉄道と

の競争は熾烈を極めた.結果的には,同社が鉄道会社との間で繰り広げた競

29) 下流油田地帯とはペンシルヴェニア油田のバトラー,クラリオン,アームストロング郡を指し,上流油田地帯とはアレガニー川の上流地帯のオイル・クリークを指す.小谷節男(2000)前掲書,p.259.

30) 小谷節男(2000)前掲書,p.274.31) エンパイア輸送会社(Empire Transportation Company)は 1865年に設立されたペンシルヴェニア鉄道の子会社で翌年にパイプラインに参入した.Abels (1967) op.cit., pp.122-125. (訳書,pp.136-139.) Eloit Jones (1926) op.cit., pp.52-54.

32) エンパイア輸送会社(Empire Transportation Company)は 1865年に設立されたペンシルヴェニア鉄道の子会社で翌年にパイプラインに参入した.Abels (1967) op.cit., pp.122-125. (訳書,pp.136-139.) Eloit (1926) op.cit., pp.52-54.

33) ロックフェラーは原油と精製品の両方をパイプライン輸送するために,原油幹線パイプライン(crude trunk pipeline)と精油幹線パイプライン(gasoline or products trunk pipeline)を建設して利用した.

226 (594)

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ジョン・D・ロックフェラー 1世の企業家活動と富の集積,1839-1911年(2)(鮫島真人)

争は鉄道業界の運賃低下と安全性やサービスの向上を促し,ある面では鉄道

業界を活性化させ拡大させた.

 第 15表から,19世紀の最後の四半世紀の間に石油製品はアメリカ国内だ

けでなくヨーロッパを中心に世界各地へ輸出され,石油製品の生産量は 765

万バーレルから 4,970万バーレルへと約 6.5倍に増加して,主力製品であった

灯油の生産量も約 652万バーレルから 3,000万バーレルへと約 4.5倍と飛躍的

に伸びた.1890年代に入ると,灯油だけでなく重油,潤滑油およびその他の

石油製品の需要も世界的に拡大され,石油産業は世界規模のビッグ・ビジネ

スとなった.

 ロックフェラーは多くの主だった精油所をスタンダード社の傘下におさめ,

スタンダード同盟は 11社になった.また彼は東部の主要鉄道における原油輸

送と精油輸送の協定運賃と運賃リベートをも支配し,エンパイア輸送会社を

買収して既存のパイプラインの輸送業界を独占した.石油業界におけるロッ

クフェラーの独占が完成したかのように思われたが,まだペンシルヴェニア

第 15表 石油製品の生産量の推移(単位:1,000バーレル,カッコ内は%)

   年製品

1873-75平均

1878-80平均

1883-85平均 1889 1894 1899

ナフサ―ベンジン―ガソリン

894.7(10.5)

1,482.2(11.5)

2,442.0(13.0)

3,900(14.1)

6,100(13.8)

6,700(13.5)

灯 油 6,529.5(83.0)

10,799.8(86.0)

15,171.4(82.0)

20,200(73.2)

29,500(66.6)

30,000(60.4)

重 油 3,400(7.7)

7,300(14.7)

潤滑油 225.8(2.5)

376.1(2.5)

884.2(4.5)

1,800(6.5)

3,300(7.4)

4,100(8.2)

その他 1,700(6.2)

2,000(4.6)

1,600(3.2)

計 7,650.0(100.0)

12,656.1(100.0)

18,497.6(100.0)

27,600(100.0)

44,300(100.0)

49,700(100.0)

(出所)Williamson and Daum (1959) op.cit., p.485, p.615.

(595) 227

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第 62巻 第 4号

州の石油生産業者との決着はついていなかった.

3. 3 タイドウォーター事件とトラストの形成

 ペンシルヴェニアの石油生産業者は,スタンダード社のエンパイア輸送会

社の買収によって国内販売とヨーロッパ向けの輸出の要であるニューヨーク

を中心に東海岸市場への石油を直接販売できなくなる危機に直面した.例え

るならば,もっとスケールアップした南部開発会社計画(SIC計画)の再来で

ある.それを阻止するためにペンシルヴェニアの石油生産業者と投資家が極

秘に団結して 34),石油生産者同盟(Petroleum Producer’s Union)を組織した 35).

 石油生産者同盟は「石油会議」と呼ばれる会議を重ね,1875年に発見され

たペンシルヴェニア州のブラッドフォード油田 36)の原油をスタンダード社よ

りも低コストで東海岸の巨大市場に輸送する 2つのプロジェクトを支持する

ことを決めた 37).1つは独立業者ルイス・エメリー 2世 38)(Lewis Emey, jr.)の

ブラッドフォード北部油田からバッファローまでパイプライン輸送し,その

あとは船積みしてエリー運河を通じてニューヨークまで運ぶというエクイタ

ブル(Equitable)計画であったが実現しなかった 39).もう 1つがバイロン・D・

ベンソン(Byron D. Benson),デビット・マッケルビー(David Mckelvy),ロバー

ト・E・ホプキンス(Robert E. Hopkins)たちの 3人のベンチャー企業から始まっ

たタイドウォーター(Tidewater)計画であった.

34) バイロン・ベンソン(後のダイドウォーター社社長),ロバート・ホプキンス,デビット・マッケルビー,ルイス・エメリー 2世,フランクリン・ゴーエン社長(ペンシルヴェニア・アンド・レディング鉄道会社社長)などである.Abels (1967) op.cit., p.144.

35) 石油生産者同盟は,2,000人以上の石油生産者を代表する 172名の代議員からなるものであった.Tarbell (1904) op.cit., pp.213-214. Abels (1967) op.cit., p.135. (訳書,p.150.)

36) ブラッドフォード油田はペンシルヴェニア州マッケ郡,ニューヨーク州カタラウス郡に位置し,1878年には日産 650万バーレルの産油があり,全国産油量の 42%を占めた.小谷節男(2000)前掲書,pp.259-261.

37) Tarbell (1905) op.cit. Vol. 1, pp.213-214. Abels (1967) op.cit., p.135. (訳書,p.150.)38) ルイス・エメリー 2世は石油地帯において石油生産業と精油業を営む,活動的でもっとも資力に富む独立業者であった.

39) エメリー 2世は 1878年この計画のためにエクィタブル・ペトロレアム・カムパニー(Equitable Petroleum Company)を設立した.Abels (1967) op.cit., p.139. (訳書,p.154.)

228 (596)

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ジョン・D・ロックフェラー 1世の企業家活動と富の集積,1839-1911年(2)(鮫島真人)

 彼らの計画は,まずオイル・クリークから約 300キロメートルの東に位置

するブラッドフォード下流油田(クラリオン郡)からウイリアムズポートま

での全長 175キロメートルの長距離のパイプラインを敷設して原油を輸送す

る.次にその原油をペンシルヴェニア鉄道の系列会社である地元のペンシル

ヴェニア・アンド・レディング鉄道を使って運ぶか,船で輸送する計画であっ

た 40).彼らはその計画のために,1878年 11月資本金 51万 5,000ドルのタイ

ドウォーター・パイプライン・カンパニー(Tidewater Pipeline Company, Limited,

以下 ,タイドウォーター社と略記)を立ち上げた 41).社長にはバイロン・D・ベ

ンソンが就任し,パイプラインの主任技師にはパイプライン敷設のベテラン

であるハーマン・ハウプト将軍(General Hermann Haupt)が選ばれた.

 ロックフェラーはタイドウォーター社によって約 2年間苦戦を強いられた.

彼はこのパイプライン建設を阻止するために,スタンダード社のパイプライ

ン担当重役のダニエル・オディに指示してあらゆる手段をつかい,徹底的に

妨害した.彼はパイプラインの工事現場への資材調達阻止やパイプライン敷

設予定地の買い上げ,議会にも働きかけてパイプライン建設の阻止などを行っ

た.さらに彼はタイドウォーター社が販売先として当てにしていたニューヨー

クの精油業者 6社を同社の建設中にスタンダード社に吸収した.

 しかしタイドウォーター側もベンソンやハウプト将軍を中心に結束し,必

死の覚悟でロックフェラーのいかなる妨害に屈することもなく,1879年 5月

22日,約 75万ドルの投資で長距離のパイプライン工事を完成させた.タイ

ドウォーター社の長距離パイプラインの完成について,Abels (1967)は,「計

画は成功であった.石油工業の新しい時代が訪れはじめた」42)と述べている.

 こうように書いてくると,どうしてもロックフェラーが極悪非道に映るが,

40) Tarbell (1905) op.cit. Vol.2, p.4. Hidy and Hidy (1955) op.cit. p.21.41) タイドウォーター社の資本金 51万 5,000ドルの内,フランクリン・ゴーエン社長(ペンシルヴェニア・アンド・レディング鉄道会社社長)が 25万ドル,バイロン・ベンソンが 10万ドル,そして 10万ドルから 1,000ドルに至る個人の出資金で多数の石油生産が出資した.小谷節男(2000)前掲書,p.266.

42) Abels (1967) op.cit., p.145. (訳書,p.160.)

(597) 229

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第 62巻 第 4号

規制も無くモラルも十分に無い当時のアメリカでは,パイプラインの工事を

阻止する彼の手法が特にあくどいというものではなかった.ただ彼の場合は

資金も人材も豊富にあり,その分彼のやり方が大規模になり,世間の注目を

引いたのである.立場が代われば相手方も,それぐらいのことはやらなかっ

たとは言えないのである.

 どんなことをしても諦めないロックフェラーはタイドウォーター社への対

抗策として,自社のパイプラインの料金と鉄道の運賃を大胆にも 50%近く下

げた.すると,大幅な値下げの効果が表れ,タイドウォーター社のパイプラ

インの稼働率が 50%にまで落ちた.それに加えて,ウイリアムズポートでソー

ラー精油社(Solar Refining Company)という会社が設立されて日産 1,000バー

レルの精油所が建設されることになった 43).すると,タイドウォーター社の

経営陣はスタンダード社という超巨大企業と戦うことに限界を感じたためか,

完成から 1年も経たない 1880年 3月にスタンダード社の傘下に入った.

 1881年 4月にロックフェラーは,オハイオ・スタンダード社の子会社であっ

たユナイッド・パイプライン社とアメリカン・トランスファー社を吸収して,

資本金 3,000万ドルの巨大なナショナル・トランジット社 44)を設立した.

 ロックフェラーは手を緩めることもなく,タイドウォーター社を乗っ取る

(Take-Over)という指示を腹心のアーチボルドに出した.アーチボルドの工作

によって,タイドウォーター社のベンソンら経営陣は信頼していた投資家に

裏切られ,1882年同社の経営をロックフェラーに渡し,同社はナショナル・

トランジット社に吸収された.

 タイドウォーター事件はロックフェラーに従わず対抗するものに対して,

彼がどんな手段を使っても諦めることなく,相手を徹底的に潰すことを世間

に示した事件であった.またロックフェラーが精油部門の支配と運輸部門の

利潤を背景に,名実ともに石油パイプラインの輸送業界を独占し,精油所の

43) Williamson and Daum (1959) op.cit. p.409, p.438, pp.441-443. Abels (1967) op.cit., p.144. (訳書,p.159.)

44) ナショナル・トランジット社については Abels (1967) op.cit., p.150, p.156. (訳書,p.166, p.171.)

230 (598)

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ジョン・D・ロックフェラー 1世の企業家活動と富の集積,1839-1911年(2)(鮫島真人)

立地をマーケティング・エリアに移行させるという石油輸送の新時代を開い

た事件でもあった.

 タイドウォーター社の乗っ取りを画策しているさなか,ロックフェラーは

異なる州に存在するスタンダード同盟の会社を合体させてきた「プール(Pool)

方式」に限界を感じていた.同方式の企業集中の形態が緩いために,商取引

や輸送の面で拘束力が弱く,そのために協定がしばしば破られた.彼はこの

問題に対処するために,フラグラーにクリーヴランドの 2人の弁護士,マイ

ロン・P・ケイス(Myron P. Keith,以下,ケイスと略記)とルフス・P・ランニィ(Rufus

P. Ranney)の 3人でスタンダード社の株式を受託者(トラスティー,Trustee)に

譲渡するというフラグラーの考案したトラスト 45)について何年も研究してい

た 46).

 1879年 4月 8日にロックフェラーは第 16表のスタンダード社の 37の株主

の信託を受けて,弁護士である 3名の受託者,ケイス,ジョージ・H・ビラ

ス(George H. Vilas),ジョージ・F・チェスター(George F. Chester)に同社の 3

万 5千株の株式を預託した最初のトラスト協定(The First Trust Agreement)47)

を成立させた.この協定で 3名の受託者に会社の所有権の保有があることを

法律的に明らかにしたことで,同社に不都合なことがあれば株主のために行

動したと言い逃れることができる利点があった.もちろん 3名の受託者はダ

ミー・トラスティーであり,真の支配者はロックフェラーたちであった.

 第 16表からロックフェラーはオハイオ・スタンダード社の全株式数 3万

5千株のうち 8,934株,持分比率では 25.6%と 4分の 1以上を保有し,彼か

らサミュエル・アンドルーズの弟ウィリアム・C・アンドルーズ (William C.

45) トラストという言葉はトラスティーシップ(Trusteeship,受託者[理事]の職[地位],受託者度)を意味しており,昔は寡婦や孤児を保護する時の言葉でもあった.今や受託者のあるなしに関係なく,巨大な独占の企業体を意味することに使用されるようになった.Yergin, Daniel (1991) The Prize : The Epic Quest for Oil, Money & Power, Simon & Schuster, pp.44-47. (ヤーギン ,ダニエル(1991)『石油の世紀―支配者たちの興亡―』上,日本放送協会,pp.62-63.)

46) Williamson and Daum (1959) op.cit., p.467.47) この協定は,「the Keith, Vilas, and Chester Agreement」として知られる.Ibid. p.468, p.814.

(599) 231

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第 62巻 第 4号

Andrews)までの 10大株主で同社の 8割の株式を保有した.兄アンドルーズ

はこの表に記載されていないことから,1879年には独立していたことが窺え

る 48).

 またマーク・ハンナは,Hanna & Chapinという会社名義でスタンダード社

の株式を 263株(第 21位,額面で 2万 6,300ドル相当)保有した株主であっ

た.パイプライン事業に貢献したニューヨークのボストウィック,ユナイッ

ド・パイプライン社のバンダーグリフト,ブルースターらが 20大株主に名を

連ねた.同時に 3人のクリーヴランドの銀行家が株主から姿を消したことで,

スタンダード社の資本の蓄積が一段と進み資金的に余裕ができたと思われる.

 ロックフェラーは,1879年の最初のトラスト協定(The First Trust Agreement)

の成立でオハイオ・スタンダード社の資産の所有権を明らかにした.そのこ

48) サミュエル・アンドルーズは 1878年ごろにロックフェラーの会社拡大のための利益の再投資などの経営方針との違いから,彼の所有する同社の全株式をロックフェラーに 100万ドルで売却して独立した.

第16表 1879年 4月 8日のトラスト設立時における Standard Oil Co. of Ohioの 10大株主(単位:100ドル,%)  

(出所)Stevens (1913) op.cit., pp.15-16.

順位 株主 持株数 額 面 持分比率(%)

1 John D. Rockefeller 8,984 898,400 25.6

2 H. M. Flagler 3,000 300,000 8.5

3 S. V. Harkness 2,925 292,500 8.3

4 Charles Pratt 2,700 270,000 7.7

5 O. H. Payne 2,637 263,700 7.5

6 J. A. Bostwick 1,872 187,200 5.3

7 W. Rockefeller 1,600 160,000 4.5

8 Charles Lockhart 1,408 140,800 4.0

9 William C. Warden 1,292 129,200 3.7

10 W. C. Andrews 990 99,000 2.8

合 計 27,408 2,740,800 77.9

232 (600)

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ジョン・D・ロックフェラー 1世の企業家活動と富の集積,1839-1911年(2)(鮫島真人)

とで先ほど述べたようにメリットもあるが,デメリットも発生した.同社の

法的身分が明確になり,具体的に同社の資産の所有方法がペシルヴェニア州

法に違反しているのではではないかという問題 49)や受託者相互間での利害衝

突などがクリーヴランド・オフィスに集中した.

 ロックフェラーはビジネスが大きくなれば,コンビネーションも増大して

権益の衝突も増えると考えた.彼はより良い統合のために,フラグラーと新

たにスタンダード社の主導的法律顧問弁護士となったサミュエル・C・T・ドッ

ド 50)(以下 ,ドッドと略記)に,極秘で新しい協定について報告するように要請

していた.新しい協定とは,同社の権益を 1つの所有権と指揮のもとに再編

成することのできる 1879年のトラストにかわるものであった.

 ドッドのトラストについて考察する前に,彼がスタンダード社の顧問弁護

士になった経緯と 1863年頃に彼の書いた詩について紹介したい.彼は鉄道運

賃のリベートについて強い反対者であったが,ロックフェラーの度重なる説

得に応じて,1879年 4月 8日のトラスト協定の成立後に同社の新しい統合に

ついて研究する顧問弁護士となった.

 ドッドは彼の顧客であったユナイッド・パイプライン社のバンダーグリフトの

エクイティ訴訟 51)の代理人として,1878年スタンダード社を訪問してロックフェ

ラーと面会した.彼はその時のロックフェラーの印象について,「ひじょうに愉快

な,紳士らしい,謙虚な人である.しかし,交渉の各時点で,できるかぎりゆっ

くり熟考し,独自の考えを出す」と述べている 52).1872年の南部開発会社事件(SIC

事件)の頃から,彼が持っていたロックフェラーのイメージとは違ったようである.

49) Nevins (1953) op.cit. p.390.50) サミュエル・C・T・ドッド(Samuel C. T. Dodd,1836-1907)はペンシルヴェニア州フランクリンの出身であった.哲学的で信仰心の深い彼はオイル関係の弁護士をしながらも,世間からは文学的才能をもつ独創性のある思考家として名声を得ていた.彼は鉄道のリベートについては強い反対者であったが,コンビネーションについては強い賛同者でもあった.彼は 1879年から 1905年までスタンダード社の主導的法律顧問弁護士として,同社の法律家を育てる仕事を続けた.Nevins (1953) op.cit., Vol. I, pp.387-389.

51) 株主権の請求に関する訴訟.52) 小谷節男(2000)前掲書,p.335.(引用)Nevins (1953) op.cit., pp.387-389.

(601) 233

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第 62巻 第 4号

 その後ドッドがまだ青年弁護士であったときに,石油産業という新しい産

業の未来について書いた『グリース・ランド(Grease Land)』という詩がロッ

クフェラーの目に留まり,彼をたいへん喜ばせた.ドッドは彼の要請を一度

は断りながらも,1879年 5月に同社の法律顧問になった 53).

 『グリース・ランド(Grease Land)』という詩を Abels (1969) 54)のなかから引

用すると,「グリースの土地よ,グリースの土地よ.そこでは,燃える石油が

愛され,歌われ,そこでは,販売と借地権の技巧が時めき,そこでは,ラウ

ズビルやタールビルの町が現れた.永遠の夏の輝きはなくとも,油井はすべ

てに愛を与えてくれる」とある.

 1880年頃ドッドはオハイオ・スタンダード社の権益を 1つの所有権と指揮

のもとに,再編成することのできる新しいトラスト協定についてのロックフェ

ラーの要請に対して,「3つのプラン」を報告した.

 ドッドの「3つのプラン」とは,小谷(2000)55)によると,第 1案は持株会

社(holding company)の設立であり,第 2案は「種々の会社の株主による共同

経営制度(co-partnership of stockholders)の形成」であった.そして第 3案は,「ト

ラストによる株式保有計画(the plan of holding the stocks in trust)を注意深く発展

させること,および,ビジネスが受益者たちの選ばれた代表によって管理さ

れることであった」と述べている.

 第 1案の持株会社の設立については,ニュージャージー州が 1889年に法制

化するまで,当時まだ持株会社制度を認めた州もなく,法律的に設立許可の

獲得が困難であった 56).第 2案の共同経営制度の形成はニューヨーク州の株

式連合(joint-stock association)の適用で可能であったが,報告書の作成義務が

53) Abels (1967) op.cit., p.18. (訳書,p.31.)54) “The Land of Grease, The Land Of Grease, Where burning oil is loved and sung; Where flourish

arts of sale and lease Where Rouseville rose and Tarville sprung; Eternal Summer gilds them not But oil wells render dear each spot.”Abels (1967) op.cit., p.18.(原文引用)訳書,p.31.(引用)

55) 小谷節男(2000),前掲書,pp.315-320.56) Williamson and Daum (1959) op.cit., pp.468-469. Nevins (1953) op.cit., p.390. 小谷節男(2000)前掲書,p.316.

234 (602)

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ジョン・D・ロックフェラー 1世の企業家活動と富の集積,1839-1911年(2)(鮫島真人)

あり,課税対象となることで秘密の保持ができず却下された 57).ドッドがもっ

とも推す第 3案が最終的に採用された.

 ドッドのプランとは,1つの州に 1つの会社を新たに設立して,その州内

にあるスタンダード社の資産あるいは子会社をその会社に保有させ管理させ

ることであった.それによって州政府の課税は新たに設立された会社に一本

化されて,同社の資産への多重課税を避けられた.つまり,各州内にある同

社の資産を統一して,トラストの持ち分に応じ,トラスト証券を発行して受

託者の下に置くことであった 58).

 イギリス法の信託制度 59)から発想されたドッドのトラスト案は,ロック

フェラーに採用されて,1882年 1月 2日にスタンダード・オイル・トラスト

(S.O.T.)60)として成立した.S.O.T.は 1879年のトラスト協定と異なり,スタ

ンダード社の所有する全資産を 3名のダミー・トラスティーからロックフェ

ラーたち 9名の受託者 61)で構成される最高意思決定機関である受託者会(Board

of Nine Trustees)に移管した.

 スタンダード・オイル・トラストの定款によると,受託者会の責務はトラ

スト構成各社についての全般的監視(第 3条 15項)であり,受託者会の権限は

57) Williamson and Daum (1959) op.cit., p.469. Nevins (1953) op.cit., pp.390-391. 小谷節男(2000)前掲書,p.317.

58) Nevins (1953) op.cit., p.393.小谷節男(2000)前掲書,pp.318-320.59) イギリス法の信託におけるトラストという言葉は「ある人が他人のためにその財産を委託される場合に生ずる関係を述べるのに用いられている」Abels, (1967) op.cit., p.151. (訳書,p.167.)

60) スタンダード・オイル・トラスト(S.O.T.)の成立については,井上忠勝(1959a)「スタンダード・オイル・トラスト前史」古林喜楽・山下勝治編『経営理論と経営政策』中央経済社,所収,pp.271-302.井上忠勝(1959b)「スタンダード・オイル・トラスト形成史における問題点」『企業経営年報』神戸大学第 9号,pp.51-76.井上忠勝(1966)「企業合同の管理機構―スタンダード石油トラストを中心として―」『経済経営研究年報』(神戸大学)第 17巻 2号,pp.39-56.玉置紀夫(1967)「スタンダード石油トラストの形成・展開・解体―個別的金融資本の成立過程に関する研究―」『経済学年報』慶応大学,第10号,pp.193-246.谷口明丈(1977)「Standard Oil Trustの成立」『土地制度史学』第 75号,pp.22-48.チャンドラー(1979)前掲書,下,pp.724-36.

61) 理事会におけるトラスティーとその任期,John D. Rockefeller,O. H. Payne,William Rockefeller(1885年 4月まで),H. M. Flagler,J. A. Bostwick,William C. Warden(1884年 4月まで),Charles

Pratt,Benjamin Brewster,John D. Archbold(1883年 4月まで)U. S. Industrial Commission, (1900) Report of the IndustrialCommission, Vol.2, Trust and Industrial Combinaitions, Washington, p.1223.

(603) 235

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第 62巻 第 4号

62) United States Bureau of Corporations (1907) op.cit. PartⅠ, p.367.63) Hidy and Hidy (1955) op.cit., p.56.64) Abels (1967) op.cit., p.155. (訳書,p.170.)

経営委員会及びその他の委員会に委譲されること(第 16条)とある.すなわち,

同トラストは受託者会の監視のもと,経営委員会及びその他の委員会によっ

て日常の業務は運営され,経営委員会が組織全体の管理をおこなったのであ

る 62).

 1882年から 1892年までの S.O.T.における 9名の受託者は,J・D・ロック

フェラー,W・ロックフェラー,H・M・フラグラー,J・D・アーチボルド(以

上 4名は 1882年 -1892年までの任期),O・H・ペイン(1882-1884),W・C・ワー

デン(1882-1885),J・A・ボストウィック(1882-1887),B・ブルースター(1882-

1888),C・プラット(1882-1891),H・H・ロジャ-ズ(1885-1892),ウィリアム・

ロックフェラーと組んで販売拡張に活躍した H・A・ハッチンズ(1887-1892),

1887年からボストウィックの代理人となったW・H・ティルフォード(1887-

1892)の 12名が務めた 63).これら受託者の就任時の年齢構成は,最高齢がフ

ラグラーとプラットの 52歳,ロックフェラーの 43歳,アーチボルドが最年

少の 34歳であった.

 第 17表から,S.O.T.は投下資産価値 7,000万ドルで設立され,資本金 350

万ドルのオハイオ・スタンダード社の株式数 3万 5,000枚に対してトラスト

証券が 20倍の 70万株発行され,41人の株主(完全支配下の 14社および部分的

に支配していた 26社)に分配された.ロックフェラーたち 9名の受託者から構

成される理事会が運営する同トラストは,トラスト証券と交換に 41人の株主

の株式を受け取った.9名の受託者は同トラストの約 6割の持分を占めた.

 S.O.T.を構成する完全支配下の 14社および部分的に支配していた 26社の

利益は,9名の受託者に一旦送られた.受託者が妥当だと考えるだけの配当

金が,トラスト証券の所有者に送られた 64).

 これはオハイオ・スタンダード社の株式数 1株の額面 100ドル相当が,ト

ラスト証券数 20株の 2,000ドルに相当したことを意味した.すなわち,350

236 (604)

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ジョン・D・ロックフェラー 1世の企業家活動と富の集積,1839-1911年(2)(鮫島真人)

株主名 持株数 トラスト証券取得数

John D. Rockefeller 9,585 191,700

H. M. Flagler 3,000 60,000

S. V. Harkness 2,925 58,500

Charles Pratt 2,700 54,000

O. H. Payne 2,500 50,000

J. A. Bostwick 1,700 34,000

William Rockefeller 1,600 32,000

William C. Warden 1,470 29,400

Charles Lockhart 1,360 27,200

W. C. Andrews 990 19,800

Estate of Josiah Macy, Jr. 892 17,840

O. B. Jennings 818 16,360

John Huntington 584 11,680

J. J. Vandergrift 500 10,000

Benjamin Brewster 409 8,180

John D. Archbold 350 7,000

D. M. Harkness 323 6,460

H. M. Hanna and G. W. Chapin 263 5,260

C. M. Pratt 200 4,000

J. N. Camden 200 4,000

Henry L. Davis 200 4,000

Henry H. Rogers 190 18,200

A . J. Pouch 178 3,560

C. F. G. Heye 178 3,560

W. P. Thompson 132 2,640

A. M. McGregor 118 2,360

H. A, Hutchins 111 2,220

T. C. Bushnell 100 2,000

第 17表  1882年 1月 2日の S.O.T. 設立時の Standard Oil Co. of Ohioにおける株主,持株数,トラスト証券取得数

(605) 237

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第 62巻 第 4号

万ドルのスタンダード社が S.O.T.のトラスト証券を媒介することで 20倍の

7,000万ドルの会社になったのである.

 ロックフェラーは S.O.T.の設立時にオハイオ・スタンダード社の持株数が

9,585(持分比率 27.3%)だったので額面で 95万 8,500ドル相当であったので,

S.O.T.のトラスト証券 19万 1,700(持分比率 27.3%)を受け取り,額面で 1,917

万ドル相当となった.

 ロックフェラーは,S.O.T.を設立した同年 8月 1日にニューヨーク・スタ

ンダード社(S.O.N.Y.)を設立して,弟ウィリアムを社長に,J・A・ボストヴィッ

クを副社長に就任させた.彼は 4日後の 8月 5日にスタンダード・オイル・

ニュージャージー社が設立され,フラグラーを社長に,トーマス・C・ブッシュ

ネル 65)を副社長に就任させた.

 スタンダード社の所有する資産および子会社のある州毎に会社を設立する

65) トーマス・C・ブッシュネルは,1882年の S.O.T.の成立時には 28位の株主で俸給役員であった.

Jos. L. Warden 98 1,960

D. Bushnell 97 1,940

Wm. T. Wardwell 78 1,560

O. H. Payne 61 1,220

Wm. H. Macy 59 1,180

Warden, Frew & Co. 55 1,100

Louise C. Wheaton 50 1,000

Mrs. H. M. Flagler 50 1,000

Julia H. York 50 1,000

Lide K. Arter 35 700

Wm. H. Marcy, Jr. 28 560

D. M. Harkness 28 560

H. A. Pratt 15 300

計 35,000 700,000

(出所)United States Bureau of Corporations (1907) op.cit., p.68.

238 (606)

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ジョン・D・ロックフェラー 1世の企業家活動と富の集積,1839-1911年(2)(鮫島真人)

という S.O.T.の協定に沿って,「続く数年間にわたって,インディアナ州,ア

イオワ州,ケンタッキー州,ネブラスカ州,カンザス州およびカリフォルニ

ア州にもそれぞれ設立された」66)のである.

 ロックフェラーは S.O.T.の本部をニューヨークに移し,同トラストをロッ

クフェラーたち 9名の受託者会で構成される理事会(Board of Nine Trustees)で

運営した.受託者会と理事会が実質的に同一であることから,経営の柔軟性

と戦略的な決定を行うときの命令系統や指揮権の実効性が伴った 67).

 ロックフェラーたちスタンダード社の最高幹部が S.O.T.における株式の信

託を受けて,1887年から 1892年までの間に,第 18表にある容器 &缶,樽,

国内取引,輸出貿易,潤滑油,石油精製および石油輸送など各々のオペレーショ

ンに権限をもつ 7つの委員会の実権を掌握して S.O.T.を運営した.

 チャンドラー(1979)68)は,S.O.T.の委員会システムをスタンダード社のマ

ネジメントの特徴の 1つとして取り上げた.委員会を利用する目的について,

「異なった会社で同様の職能あるいは活動を遂行している管理者の業務を調整

するのに,委員会を利用するというのは,理にかなった方法であった」と述

べて評価している.また,井上(1987)69)は,委員会制度の導入によって,ス

タンダード・オイルは「central controlと local independenceとの間に適当な

バランスを確立することに先駆者的成功をおさめたということができるであ

ろう」と述べている.

 スタンダード社は,第 19表から 1881年度のアメリカ国内における主要精

製地の精製能力 9万 7,760 barrel /dayに対して 8万 7,760 barrel /day,約 89%

を占めた.前にも述べたとおり,ロックフェラーは,ニューヨーク,フィラ

デルフィア,ピッツバーグといった地区の大手精油所を買収して,当時のア

66) 小谷節男(2000)前掲書,p.323.(引用)67) Williamson and Daum (1959) op.cit., pp.469-470. Nevins (1953) op.cit., p.394.68) 委員会を利用する目的について,チャンドラー(1979)前掲書,p.726.チャンドラー(2005)前掲書,pp.75-86.

69) 井上忠勝(1987)『アメリカ企業経営史研究』神戸大学経済経営研究所,p.106.

(607) 239

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第 62巻 第 4号

メリカの三大鉄道(ニューヨーク・セントラル,ペンシルヴェニア,エリー鉄道)

沿線のおもな精油所を全て押さえた.

 スタンダード・オイル・トラスト(S.O.T.)におけるパイプライン輸送の支

配については第 20表から,1884年にアパラチア油田の原油産出量 2万 3,956

バーレルのうち,2万 256バーレルを同トラストのパイプラインで輸送し,

第 18表 Standard Oil Trust (S.O.T.)の諮問委員会(1887-1892年)

諮問委員会 メンバー(1887年任命) 新メンバー

容器&缶

W. T. Wardwell(議長)H. H. RogersH. L. Davis他 2人

A. J. Pouch(議長),1891年C. H. PrattC. W. Harkness他 3人

A. H. McGregor(議長)T. H. WheelerW. P. Thompson他 4人

国内取引

W. P. Thompson(議長),1889年W. H. TilfordH. A. Hutchis他 2人

H. A. Hutchins(議長),1890年C. M. PrattF. Rockfeller他 3人

外国貿易T. C. Bushnell(議長)J. McGeeA. J. Pouch

C. F. Ackerman他 2人

潤滑油O. T. Waring(議長)E. T. BedfordS. H. Paine

石油精製

H. H. Rogers(議長)J. H. AlexanderF. Q. Barstow他 2人

A. M. McGreger(議長)P. Babcock, Jr.J. A. Moffett他 2人

輸送

H. M. Flagler(議長)J. D. ArchboldW. P. Thompson他 2人

原油生産 不明 不明

(出所)Hidy and Hidy (1955) op.cit., pp.60-61.

240 (608)

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ジョン・D・ロックフェラー 1世の企業家活動と富の集積,1839-1911年(2)(鮫島真人)

第 19表 アメリカ国内の主要精製地の精製能力(単位:barrel /day)

主要精製地 1873年1881年

スタンダード 独立業者

クリーブランド 12,732 21,425 -

ピッツバーグ 8,990 15,035 1,730

フィラデルフィア 2,061 11,000 4,457

エリー 1,168 - -

オイルリージョン 9,231 6,985 275

ニューヨークニュージャージー 9,790 34,300 2,571

バルチモア 1,098 - -

その他 1,500 - -

小 計 88,745 9,015

合 計 46,570 97,760

(出所)Williamson and Daum (1959) op.cit., p.473.

第 20表 スタンダード・オイル・トラスト(S.O.T.)の送油管支配アパラチア原油の輸送支配(1884~ 1900年)

(単位:1,000バーレル)

年 アパラチア油田の原油産出量 S.O.T.の原油輸送量 原油産出量に占める

割合(%)

1884 23,956 20,256 84.5

1886 26,550 23,340 87.9

1888 16,941 13,933 82.2

1890 30,673 23,997 79.8

1892 33,432 26,975 80.7

1894 30,738 23,925 77.7

1896 33,972 29,464 86.7

1898 31,717 27,773 87.6

1900 36,295 31,985 88.1

(出所)Williamson and Daum (1959) op.cit., p.583.

(609) 241

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第 62巻 第 4号

すでに 8割を超えていた.

 これらのことを鑑みると,スタンダード社は設立から 22年間にわたり努

力を続け,1882年にスタンダード・オイル・トラスト(S.O.T.)を形成し,水

平結合を完成させて全米の精油の生産および精油品の流通に関して 80%から

90%を握ったと推測される.

 その後スタンダード・オイル・トラスト(S.O.T.)に倣って,ウイスキー・

トラスト,製糖トラスト,南部の綿花トラストが成立した.そしてドットの

トラスト案は,ロックフェラーの石油産業以外の銅トラスト,錫トラストへ

も採用された.

4 反トラスト運動とスタンダード社の解体

4. 1 トラスト形成後の垂直統合戦略の拡大と技術開発

 ロックフェラーはトラストを形成後,スタンダード社をより一層盤石なも

のにするために,1880年代から 1911年のジャージー・スタンダード社の解

体まで,原油不足を想定して原油の分野と,市場拡大のために精油製品の分

野で垂直統合戦略を拡大した.

 ロックフェラーの新たな戦略には大きく 2つの戦略があった.1つ目の戦

略は,石油がいつかは枯渇するのではないかというスタンダード社の幹部た

ちを含め,石油業界の人たちの不安を解消するために,垂直統合戦略におけ

る後方統合にあたる原油の自社生産と原油市場への積極的な介入であった.2

つ目の戦略は垂直統合戦略における前方統合にあたる精油製品の国際市場へ

の販路開拓と技術開発であった.

 原油の自社生産は,石油の枯渇という不安を一掃する大型油田が偶然にも

1885年 5月にオハイオ州ライマで発見された.これを機に油田開発がオハイ

オ州ライマの油田で開始され,隣接するインディアナ州へと拡大された.

 この油田で石油業界の不安は払拭されたが,このライマの石油は硫黄成分

が多く含まれるという問題があった.硫黄成分が多いということは金属を腐

242 (610)

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ジョン・D・ロックフェラー 1世の企業家活動と富の集積,1839-1911年(2)(鮫島真人)

食させ,燃える時に悪臭を放つことから灯油の生産に不向きであり,当時は

特別な化学処理つまり脱硫技術を施さなければ使えなかった.

 そこで,ロックフェラーはライマ油田の将来性を信じて,数百万ドルとい

う巨額の資金を投入し,採掘権を買い取り,現地にパイプラインまで敷設した.

スタンダード社の役員たちは,当時無謀とも思えるこのロックフェラーの投

資に危惧の念を覚えたようで,アーチボルトなどは不安になり,株を売却した.

しかしロックフェラーは持ち前の度胸の良さで,自分の直感を信じて巨額の

投資を続けた.

 その一方でロックフェラーは一流の化学者を雇って,ライマの石油から硫

黄分を取り除く研究を開始した.その結果,スタンダード社の技術者であっ

たドイツ人ヘルマン・フラッシュが硫黄分を取り除く技術を開発した.脱硫

技術の開発が成功したことで,ロックフェラーはライマ油田の原油を自社生

産にまわすことができた.この脱硫技術が応用開発されて現在,SO2,SO3(ソッ

クス)の減少対策に使用されている.

 スタンダード社の原油生産部門における占有率(原油の自社生産)は,石油

精製と比較するとそれほど高くはなかった.同社は「鉄道恐慌」と呼ばれた

1893年の恐慌で,とくに石油産業が打撃を受けたことなどを利用して,1890

年代には大手の原油生産会社であるユナイテッド・オイル社などを買収し,ラ

イマの油田の大半をも掌中に収めたことで19世紀末には全米の30%になった.

 カナダでは自国の油田をロックフェラーから守るために,1880年代にカナ

ダの企業家たちが集団でインペリアル・オイル社を設立したが,1890年代に

は彼に買収されてスタンダード社の軍門に降った 70).

 ロックフェラーは原油市場への積極的な介入のために,また原油の買い付

け代行会社であったジョセフ・シープ・エージェンシーを買収した.ダルモ

ン /カリエ(2006)71)によると,ロックフェラーはジョセフ・シープ・エージェ

70) カナダのインペリアル・オイル社に関しては,マクウェイグ(2005)前掲書,p.210. 71) ダルモン /カリエ(2006)前掲書,pp.25-47.

(611) 243

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第 62巻 第 4号

ンシーを使って原油の購入方法を従来の原油取引所から現場の油井での取引

へと移行させた.次第にこうした原油の購入方法が主流になったために,他

の独立精製業者たちも追従し,原油取引所も廃止されて,スタンダード社は「公

示価格」をつけるシステム 72)を導入した.最終的に,原油価格は同社の「公

示価格」,つまり「買い取り価格」が標準になった.23の製油所をもつ同社は,

19世紀末にはアメリカの原油取扱量(原油の流通量)の 80%を支配したと述べ

ている.

 ロックフェラーはスタンダード社の販路をアメリカ国内にとどまらず,

1866年のロックフェラー・アンド・カンパニーを設立し,できるだけ代理店

を通さない自社による輸出政策を継続して国際市場に積極的に挑戦し拡大さ

せた.安部(2002)73)は,垂直統合戦略における販売部門の輸出市場への前

方統合として「1880年代のアメリカで生産される灯油の約 7割が輸出され,

その内の 7割がヨーロッパ,3割がアジアに輸出された」と述べている.そ

してアメリカで生産される灯油の 2割が中国や日本に輸出されたのである.

 ロックフェラーは世界中の消費者を相手にしたことで,灯油をはじめ製品

の安定供給のために,精製法などの技術開発や副産物の新たな利用法の開発

にも同社の力を注いだ.先述のように,ロックフェラーは灯油の生産に適さ

ない硫黄や硫化水素の成分の高い原油,すなわち品質の悪い原油から硫化物

を除去する精製法をスタンダード社のドイツ人科学者であるヘルマン・フラッ

シュに開発させて,品質の良い灯油を製造したのである.

 その他に,ロックフェラーは川などに廃棄していた副産物に注目して,新

たな利用法を開発した.このもっとも顕著な例がガソリンであり,彼は,原

油からガソリンを取り出し,生産量を増加させる熱分解法を開発させた.そ

れまでは廃棄されていたガソリンが,今やもっとも貴重な石油製品となった.

72) 「公示価格」は特定の地域での原油の購入価格の水準を示すものであり,「公示価格」された表示を集油ラインの入口やパイプラインの出口の段階でつけるシステムのこと.

73) 安部悦生(2002)「ロックフェラーと石油産業―経営戦略と企業形態―」安部悦生 /壽永欣三郎 /山口一臣(2002)『ケースブックアメリカ経営史』有斐閣,p.81,からの引用.

244 (612)

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ジョン・D・ロックフェラー 1世の企業家活動と富の集積,1839-1911年(2)(鮫島真人)

 ロックフェラーはトラストの形成以降,産業界を一変させる革新をおこなっ

た.そのなかでも,彼はスタンダード社を,油井からの産出に始まり顧客へ

の配送まで,完全に統合された組織と技術を備えた近代的企業にした.そして,

19世紀末までにスタンダード社は,全米において,原油生産で 30%,原油取

扱量の 80%を支配した.また,同社は石油精製の販売で全米の 90%,輸出に

ついても国内の販売量の 2倍を上回った.

4. 2 反トラスト運動とアイダ・ターベル

 スタンダード・オイル・トラスト(S.O.T.)が巨大化することで,前述した

ように同トラストに追随する産業が増え,官民挙げての反トラスト運動が大

きくなったためにニューヨーク州の下院と上院で 2つの調査 74)が実施された.

 1879年にニューヨーク州の下院議会で,スタンダード社の経営実態ととく

に同社の鉄道会社との運賃リベートなどに関して A.バートン・ヘップバー

ン 75)を委員長とするヘップバーン調査が行なわれ,公聴会が開かれた.この

公聴会では,すでに同社を独立していたアンドルーズがロックフェラーに反

対の立場の証言をおこなった 76).

 そして 1888年にはニューヨーク州の上院でロックフェラーを証人として,

S.O.T.の仕組みや組織の経営実態,鉄道会社との関係に関する聴聞会が開か

れたが,議員の質問に対してロックフェラーは質問の意図を的確に把握した

うえで,のらりくらりと質問をかわしたのである.

 これらの 2つの調査などから,1906年にセオドア・ルーズベルト(Theodore

Roosevelt,1859-1919,在任 1901-09)がヘップバーン法を成立させて鉄道に対

74) この 2つの調査に関しては,Abels (1967) op.cit., p.249, p.254. (訳書,p.267, p.273.)チャーナウ(2000)前掲書,上, p.306,下, p.379.

75) A. バートン・ヘップバーン(A. Barton Hepburn)は反ロックフェラー派の勢力として活躍したのち,チェース・ナショナル銀行の頭取となり,1914年 3月から亡くなるまでの 1922年1月までの間,ロックフェラー財団の理事を務めた.フォスディック,レイモンド(1956)『ロックフェラー財団―その歴史と業績―』法政大学出版局,p.35, AppendixⅠ, p.26.

76) Abels (1967) op.cit., pp.171-172(訳書,p.188.)

(613) 245

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第 62巻 第 4号

する統制を強化し,石油のパイプラインを連邦の統制下におくのであるが,

1888年の段階では,この聴聞会では何一つ成果が得られなかった.

 そこで,翌年のオハイオ州選出のジョン・シャーマン(John Sherman,1823-

1900)上院議員によって,連邦議会の上院に反トラスト法が提出され可決され,

1890年 7月第 23代ベンジャミン・ハリソン大統領(Benjamin Harrison,1833-

1901,在任 1889-93)が署名したことで,シャーマン反トラスト法 77)(Sherman

Antitrust Act)と呼ばれる法律が成立して,これ以降アメリカ合衆国において

企業のトラストや大規模な連合は違法になった.

 ところがシャーマン反トラスト法は実効性が弱いうえに,同法の成立する

前年の 1889年には,ニュージャージー州で同法の抜け穴となる持株会社を認

める法律も成立しており,不備な法律であった.シャーマン反トラスト法の

効果が,実際に出てくるのは 20世紀に入ってからである.

 そのためにスタンダード・オイル・トラスト(S.O.T.)はこのとき,大した

打撃も受けなかったが,それでも同トラストに対する批判は続いた.1873年

から 1890年代なかごろまでは,農産物の価格が半分以下に下落したデフレー

ションの時代であり,また数百万の移民が流入したために農業労働者および

都市の工場労働者の賃金が低落した時代であった.1890年代には,1892年 6

月に起ったピッツバーグのカーネギー・スティールの工場での死者を出した

大規模な労働争議に代表されるように,労働争議も多発するようになった.

ストライキや労働運動がおこるこの頃から,ロックフェラーやカーネギーに

対するアメリカ社会の批判が高まったのである 78).

 トラスト時代のスタンダード社には労働問題がなかったとよくいわれるこ

77) 1890年に成立したシャーマン反トラスト法は第 1条取引制限協定の規則,第 2条独占的行為に関する規定からなり,1911年のスタンダード・オイル・トラスト事件(U.S.221 ,U.S.1)で「条理の原則」が判例にはじめて導入された.

78) 中小の農業労働者や工場労働者の格差の拡大に対する不満が,トラストを形成するビッグビジネスに向けられた.ビッグビジネスの拡大と世論の動きについては,井上忠勝(1968)「ビッグビジネスと世論―スタンダード石油を中心として―」『国民経済雑誌』(神戸大学)第118巻 3号,pp.18-34.

246 (614)

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ジョン・D・ロックフェラー 1世の企業家活動と富の集積,1839-1911年(2)(鮫島真人)

とに対して,Abels (1969) 79)はこのことについて事実ではないと述べながらも,

「ストライキはほとんどなかったし,起こったとしても部分的なものであった

ことは事実である」と述べている.ロックフェラーは労働運動や労働組合を

全く認めなかったといわれており,労働運動を扇動する者や労働組合に関心

をもつ従業員に対しては即座に厳しい態度で臨んだ.一方で彼は他のアメリ

カの産業にさきがけて,フリンジ給付(fringe benefit)80)を制度化し,労働者

への補償法が実施される以前に,労働者が事故にあった場合には入院費用や

賃金の半額支払いなどを実施していた.1903年には年金制度を実施した.年

金制度の導入はアメリカの一般的な大企業から 20年も先んじていた 81).

 1892年 3月オハイオ州最高裁は,同州の司法長官ディヴィッド・ワトソン

によるスタンダード・オイル・オハイオ(Standard Oil Company of Ohio)が,実

質上ニューヨークのスタンダード・オイル・トラスト(S.O.T.)によって運営

されているのは,州の規定に違反しているという訴訟を認め,同トラストは

解体すべきだという判決を下した.

 ロックフェラーらスタンダード・オイル・トラスト(S.O.T.)の幹部にとっ

ては,S.O.T.の解体は形の上だけのことであり,同年 4月にはスタンダード

同盟(Standard Oil Alliance)を復活させた.構成会社をトラスト時の 92社から

20社の同盟に減少させ,非公式な企業結合で実質的にはそのまま同トラスト

の幹部が実権を握り各企業に利益を配当するという仕組みは変わらなかった.

スタンダード同盟 20社の株式交換はトラスト証券の持分に応じてなされたの

79) Abels (1967) op.cit., pp.173-174. (訳書,p.189.)チャーナウは誇張気味だとまえおきしながらも,スタンダード社のストライキに関して「ストライキもなければ,不満をもつ従業員もいなかった」と元従業員の言葉を載せている.また,「1903年にジャージー・スタンダード社のベイヨーン精油所で起きた労働組合承認をめぐるストライキを叩き潰していた」と述べている.チャーナウ(2000)前掲書,上,p.314.そして,コロラドのラドラー事件については CF & I(コロラド・フューエル・アンド・アイアン)炭鉱のストライキなので省略した.ラドラーの詳細については,フォスディック,R.(1956)『富との闘い―ロックフェラー 2世の生涯―』武田桂二郎訳,鏡浦書房,pp.54-73.

80) フリンジ給付(fringe benefit)とは,企業が給与以外に社員に与える付加給付であり,例えば住宅費,健康保険,病気休暇などである.

81) Abels (1967) op.cit., p.173. (訳書,p.189.)

(615) 247

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第 62巻 第 4号

で所有関係に変更はみられなかったが,トラスト証券はロックフェラー兄弟,

フラグラーなどの 10家族 17人によって全体の 70%にあたる 49万 4,619枚の

証券を所有されていた 82).ロックフェラーの持株比率もほとんど変わらず,

約 26.4% 83)であった.

 また,1892年のトラスト解体によって,第 18表の 8つの委員会は公式に

は解散したけれども,スタンダード同盟を統一的に管理するには,委員会の

構成メンバーがスタンダード同盟を構成する会社の社長になって本社と密接

に連絡すべきであるとの法律顧問である S・C・T・ドッドの提案に従って,

相談と同意による非公式の意思決定は継続された 84).復活したスタンダード

同盟 20社は,所有の面からだけでなく経営の面からも社長・取締役兼任体制

によって利益共同体としての堅固な一体化をはかったのである.

 それでも「スタンダード・オイル・トラスト敗訴」は社会に大きな影響を

与えたが,翌年の 1893年に恐慌 85)がおこったために,S. O. T.に対する世間

の関心が薄れ,スタンダード社にとっては幸いした.しかも同社はこの恐慌

の影響を受けるどころか,同業者が倒産することで,石油の需要増加も手伝っ

て,かえって利益を増大させる結果となった.このことからスタンダード社

はより一層盤石な基礎を築いていったのである.

 その後,病気がちであったロックフェラーは,1897年 9月に長男のジョン・

D・ロックフェラー 2世の大学卒業を機に実権を握ったまま第一線から退いた.

ロックフェラーは 58歳であり,スタンダード社における彼の後継者に,ジェ

ネラルな能力を発揮し本業である石油業に全霊で打ち込んでいたバイスプレ

82) 塩見治人 /浜田誠吾(1986)『アメリカ・ビッグビジネス成立史―産業的フロンティアの消滅と寡占体制―』東洋経済新報社,p.184.

83) Hidy and Hidy (1955) op.cit., p.223.84) 国内法人 19社の取締役には 25名の取締役が相互に兼務して,各社社長には経営委員会のメンバーが原則的に就任した.アーチボルド(4社),H・H・ロジャ-ズ(7社),ティルフォード(2社),以下各 1社は,ロックフェラー,W・ロックフェラー,フラグラー,オディ,マックギー(J. Mcgee),マクドナルド(J. McDonald)であった.

85) 1893年の経済恐慌はフィラデルフィア・アンド・レディング鉄道,レイクエエリー・アンド・ウエスタン鉄道などの鉄道破綻と銀採鉱業界の資産価格の下落が原因で引きおこされた.ブルナー /カー(2009)前掲書,p.17.

248 (616)

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ジョン・D・ロックフェラー 1世の企業家活動と富の集積,1839-1911年(2)(鮫島真人)

86) 1899年に持会社株ジャージー・スタンダード社が設立され,ロックフェラーが社長に就任した.スタンダード社から持会社株ジャージー・スタンダード社の成立過程および,なぜスタンダード社は 1899年まで改組されなかったかについては,西川登(1979)「スタンダード石油会社持株会社システムの成立過程」『経営史学』第 13巻 2号,pp.67-77, 参照.

87) 済藤友明(1991)「アメリカにおけるオーナー企業から経営者企業への発展―スタンダード・オイルのケース―」森川英正編『経営者企業の時代』有斐閣,所収,pp.202-203.

88) ロックフェラーは鉱山を中心に金融もふくむ幅広い投資活動をおこない,W・ロックフェラーは銀行,証券および生命保険会社への積極投資をおこなった.フラグラーはフロリダ開発のための鉄道,不動産への投資をおこなった.これらに関しては,Clews, Henry (1973) Fifty years in Wall Street, New York: Arno Press,参照

ジデントであったアーチボルドが選ばれた.

 同年,オハイオ州最高裁がスタンダード社に再度解体命令を下したために,

アーチボルドはロックフェラーの指示に従い,かねてから用意していたとお

りに同社の顧問弁護士ドッドと協力し,1889年に制定されたニュージャージー

州の持株会社の法律に沿って,1899年持株会社スタンダード・オイル・カン

パニー・オブ・ニュージャージー 86)(以下,ジャージー・スタンダード社,S.O.N.J.と

略記)を設立させた.持株会社ジャージー・スタンダード社と 1882年にフラ

グラーを社長として設立された精油会社スタンダード・オイル・ニュージャー

ジーは別会社であり,注意を要する.

 持株会社ジャージー・スタンダード社の役員構成は,ロックフェラー(社長),

51歳のアーチボルド(副社長),W・ロックフェラー(同),フラグラー(同),H・H・

ロジャ-ズ(同),父親チャールズ・プラットの財産を引き継いだ 44歳の C・M・

プラット(秘書役),49歳のW・H・ティルフォード(財務役)の 7名である.アー

チボルド(会社全般と海外営業)とティルフォード(国内販売)だけが専心的に

本業の石油ビジネスに携わり,ロジャ-ズはガス事業のほかに鉱山投資を行っ

た 87).ロックフェラーをはじめ,W・ロックフェラー,フラグラーはスタンダー

ド社の取締役会に出席するぐらいで,各々の投資活動に専念した 88).

 持株会社ジャージー・スタンダード社は,授権資本額を 1,000万ドルから 1

億 1,000万ドルに引き上げ,トラスト解体時のトラスト証券発行額と同額の

9,275万ドルの株式を発行して,それと交換にスタンダード同盟 20社の株式

(617) 249

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第 62巻 第 4号

を取得することになった 89).同社は 41の子会社を持つ会社となった.1890

年代になると,ニュージャージーは世界最大の石油精製センターへと発展し

て,次にクリーヴランド,フィラデルフィアが続いた.

 スタンダード社による持株会社システム(holding company system)の導入は,

アメリカ合衆国の産業の広汎な分野への同システムの普及の原動力となり,

1890年代に持株会社が普及しなかったのに対して 1900年から 1903年の間に

おいて重要な 29の企業合同のうち,16が持株会社を利用した 90).

 持株会社ジャージー・スタンダード社の 41の子会社とその株式保有比率に

関しては,第 21表を参照願いたい.オハイオ・スタンダード社(株式保有比率,

99.9%)およびニューヨーク・スタンダード社(99.7%)はもちろんのこと,パ

イプライン会社ナショナル・トランジット社(99.7%),石油販売会社ウォーター・

ピアス社(68.7%)も同社の子会社であった.注目すべきは,同社の子会社に

対する株式保有比率が,41社中 39社が 50%以上であったということである.

 20世紀になると,ガソリンと軽油が自動車 91)エンジンの内燃機関用燃料

として使用され,重油が船舶や機関車に石炭に代って用いられるようになり,

本格的な「石油の世紀」92)が幕を開けた.

 社会的には反トラスト運動は激しくなっていたが,1893年の恐慌による

不況から抜け出し,景気が上向いていたことと共和党選出でオハイオ州出身

の第 25代ウイリアム・マッキンリー(William McKinley,1843-1901,在任 1897-

1901)大統領が経済界に対して寛容だったこともあり,ほかのトラスト同様に

スタンダード社も安泰であった 93).

89) Hidy and Hidy (1955) op.cit., pp. 306-312.90) 西川登(1979)前掲論文,p.67. Bonbright, J.C. and G.C. Means (1932) The Holding Company:

Its public significanceand its regulation, New York and London, McGraw-Hill, pp.69-70.91) 1896年アメリカでフォードが1号車を製造し,同時期にフランスでもパナール社とド・ディオン・ブートン社が自動車を製造した.

92) Yergin, Daniel (1991) op.cit., pp.44-47(訳書,pp.62-63)93) ウイリアム・マッキンリーは 1896年の大統領選でウイリアム・ブライアン(William

Jennings Brayan)に勝利した.マッキンリーの大統領選における総指揮者がマーク・ハンナであり,ロックフェラーは共和党に 25万ドルの支援を行った.Weinberg, Steve (2008) Taking on the Trust: The Epic Battle of Ida Tarbell and John Rockefeller, W. W. Norton & Company, pp.193-194.

250 (618)

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ジョン・D・ロックフェラー 1世の企業家活動と富の集積,1839-1911年(2)(鮫島真人)

会社名 保有率(%)

Borne Scrymser Co. 100.0

Central Refining Co,.Ltd. 100

Continental Oil Co. 100

New Jersey Storage Co.  100

Standard Oil Co. (アイオワ) 100

Standard Oil Co. (カンザス) 100

Standard Oil Co. (オハイオ) 99.9

Anglo-American Oil Co.,Ltd. 99.7

Atlantic Refining Co. 99.7

Buckeye Pipe Line Co. 99.7

Eureka Pipe Line Co. 99.7

Forest Oil Co. 99.7

Indiana Pipe Line Co. 99.7

National Transit Co. 99.7

New York Transit Co. 99.7

Nothern Pipe Line Co. 99.7

Ohio Oil Co. 99.7

Solar Refining Co. 99.7

South Penn Oil Co. 99.7

Southern Pipe line Co. 99.7

Standard Oil Co. (インディアナ) 99.7

Standard Oil Co.of New York 99.7

Swan & Finch Co. 99.7

Union Tank Line Co. 99.7

Standard Oil Co. (ケンタッキー) 99.5

Underhay Oil Co. 98.8

Inland Oil Co. 98.6

Galena Oil Co. 86.3

第 21表 Jersey Standard 社の子会社とその株式保有比率(1899年)

(619) 251

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第 62巻 第 4号

 1901年 9月 6日マッキンリー大統領が暗殺されたあと,副大統領であった

セオドア・ルーズベルト(以下,T・ルーズベルトと略記)が第 26代大統領に就

任した.彼は大統領としての地盤が弱かったために人気をとることも考えて,

1904年の大統領選に勝利して 2期目に入るとスタンダード社の事業規模が不

当に他社を圧倒していることを取り上げ,マスコミをも動員して同社を本格

的に攻撃した.

 T・ルーズベルト大統領はある演説のなかで,アメリカは巨大な富にまつわ

る問題を解決しなければならないと述べた.彼はその演説のなかで,「もちろ

ん,かかる富をもって,いかにたくさんの慈善を行おうとも,その富を獲得

するための不正な行為を償うことはできない」94)と発言してロックフェラー

を攻撃した.

94) ルーズベルト大統領のこの演説はエイベルズ(1969)p.271.からの引用.“Of course,no amount of charities in spending such fortunes can compensate for the misconduct in acquiring them.”(原文引用)Abels (1967) op.cit., p.252.

(出所)Hidy and Hidy (1955) op.cit., p.583.

Empire Refining Co., Ltd 78.5

Gilbert & Barker Mfg , Co. 76.5

Vacuum Oil Co. 76.5

Capital City Oil Co. 74.8

Empreza Industrial de Petroleo 70.0

Water-Pierce Oil Co. 68.7

Standard Oil Co.(ミズーリ) 65.0

Pennsylvania Lubucating Co. 60.0

North Western Ohio Natural Gas Co. 59.3

Chesebrough Mannfacturing Co. 55.5

West India Oil Refining Co. 50.0

West Virginia Oil Co. 47.5

Signal Oil Co. 38.8

252 (620)

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ジョン・D・ロックフェラー 1世の企業家活動と富の集積,1839-1911年(2)(鮫島真人)

 T・ルーズベルトの政権時代には,スタンダード社を含めて 25社の企業が

反トラスト法違反で起訴された.そのなかでも同社の訴訟事件ほど,会社経

営の仕組みや組織の実態が複雑で手に負えないものはなかった.そのことは,

Hidy and Hidy, (1955) 95)が,あれほど几帳面な S・C・T・ドッド弁護士でさえ

もスタンダード社の全体像をえがくことはできなかったと述べていることか

らもうかがえる.

 ロックフェラーやスタンダード社を批判したマスコミのなかに,前述した

「クリーヴランドの大虐殺」のあおりを受け,石油産業に従事していた父親が

破産した 96)タイタスヴィル近郊のラウズヴィル出身のアイダ・ターベル 97)(Ida

Minerva Tarbell,1857-1944,以下 ,ターベルと略記)がいた.

 ターベルの兄ウィリアム・ターベル(Walter William “Will” Tarbell)98)はスタン

ダード社にとって石油販売会社として真の競争会社であるピュア・オイル社

(Pure Oil Company)99)の重役であり,反トラスト裁判におけるロックフェラー

を攻撃する有力な証人でもあった.

 最初にスタンダード社とロックフェラー批判を展開したのは,ヘンリー・D・

ロイド(Henry D. Lloyd,以下,ロイドと略記)であった.1894年にロイドは『連邦

に反逆する富(Wealth Against Common Wealth)』100)を出版し,スタンダード社を

95) Hidy, and Hidy, (1955) op.cit., p.329.96) アイダ・ターベルの父親フランクリン・ターベル(Franklin Sumner Tarbell)は最初,原油樽業者であったがのちに石油生産業者となった.Weinberg (2008) op.cit., pp.18-20, p.48, p.58. Abels (1967) op.cit., p.249. (訳書,p.267.)

97) アイダ・ターベルに関しては,彼女の著作で全米において 1906年の超ベストセラーとなった The History of the Standard Oil Companyが有名であり,他の著作として The Life of Elbert H. Gary: A Story of Steel.などがある.Tarbell, (1933) The Life of Elbert H. Gary: A Story of Steel. New York: D. Appleton-Century Company, Inc.

98) ウィリアム・ターベルはピュア・オイル社の財務,マーケティングの重役であり石油産業に精通した実力者である.Weinberg (2008) op.cit., p.97, 169, 210. Abels (1967) op.cit., p.249. (訳書,p.267.)

99) ピュア・オイル社はロックフェラーに抵抗する石油生産業を中心に,1895年に設立された石油販売会社で 1900年にプロデューサーズ・オイル社と U. S. Pipeline社と合併後,資本金 1,000万ドルになった.同社の社名はスタンダード社と競争しても負けない響きをもつ名前ということで選ばれた.Weinberg (2008) op.cit., p.169, p.210.

100) ヘンリー・D・ロイドの 1894年の大ベストセラーである.Lloyd, Henry D. (1963) Wealth Against Commonwealth, (Cochran, Thomas, ed.) New Jersey : Englewood Cliffs, Prentice-Hall.

(621) 253

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第 62巻 第 4号

邪悪な天体海王星(Neptune)にたとえ,石油産業を食い物にしている社会の敵

だとすることで同社とロックフェラーへの批判 101)をおこなった.彼らへの批判

は社会的盛り上がりを見せたが,ロイドの急死によってそれも下火になった.

 アイダ・ターベルは,4年以上の歳月と約 5万ドルの費用をかけて準備し

た『The History of the Standard Oil Company』を自ら編集長を務める当時人気

の雑誌であった『マクルアーズ・マガジン(McClure’s Magazine)』102)(以下『マ

クルアーズ』)に 1902年 11月から連載した.この雑誌の売り上げは連載当初

から数十万部に及び,2年間にわたって連載された.

 ターベルはロイドと異なって,スタンダード社の経営実態,特に鉄道会社

との関係に対しておこなわれた 1879年のヘップバーン調査(公聴会)や 1888

年にニューヨーク州の上院でおこなわれた 2つの調査(聴聞会)などの資料を

綿密に検討した.そして彼女は個々の実名を挙げ,筋の通った上質の内容を

年代順に記述してロックフェラー批判を展開した.

 『マクルアーズ』が中心となって,ピューリッツァーやハースト配下の新聞

などがスタンダード社とロックフェラーの強引な企業買収や情け容赦ない事

業の進め方に関する批判を連日くり広げた.20世紀初頭に,この雑誌は綿密

な調査に基づき,企業や行政の内幕を暴く記事を掲載し,世論を喚起して T・

ルーズベルトや政府を動かして 1906年のヘップバーン法 103)など数多くの法

律を制定させた.

 ロックフェラー批判とともにスタンダード社は「陰謀」で競争相手を潰し,

巨大企業にのし上がったのだから,同社を潰せという世論に後押しされて反

トラスト法の対象となった.

101) 当時,海王星(Neptune)は邪悪な天体にたとえられていた.ロイドのスタンダード社やロックフェラーへの批判に関しては,Abels (1967) op.cit., p.58. (訳書,p.72.)

102) アイルランドからの移民であったサミュエル・シドニー・マクルーア(Samuel Sidney McClure,1857-1949)が,1893年に大学時代の友人であるジョン・フィリップスと共同で『マクルアーズ・マガジン(McClure’s Magazine)』を創刊した.Weinberg (2008) op.cit., xv, pp.149-161.

103) ヘップバーン法は世論がルーズベルト大統領を動かして鉄道に対する統制を強化させ,石油のパイプラインを連邦の統制下におく法律を成立させた.

254 (622)

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ジョン・D・ロックフェラー 1世の企業家活動と富の集積,1839-1911年(2)(鮫島真人)

4. 3 ジャージー・スタンダード社の解体と富の集積 

 ジャージー・スタンダード社はすでに 21の州で訴訟をおこされていたが 104),

1906年 11月連邦政府によって,石油産業における独占企業体である同社が取

引制限や価格差別などに関して不当な悪意の取引をおこなったという理由か

ら,同社の解体を目的としてシャーマン反トラスト法違反で訴訟を起こされた.

 ブルナー /カー(2009)105)によると,1907年 8月ケネソー・M・ランディ

ス判事 106)(以下 ,ランディス判事と略記)は鉄道会社からの裏リベートなどの

各種の法律違反を理由にスタンダード・オイル・カンパニー・インディアナ

(Standard Oil Company of Indiana)に 2,924万ドルの罰金判決を言い渡した.この

判決は資本金 100万ドルの会社に対する 2,924万ドルという不条理な罰金支

払い命令であったが,企業に対する規制を強化する連邦政府の強気の姿勢を

示した点でも注目に値すると述べている.

 1906年のサンフランシスコ大地震が引き金となったといわれる 1907年の

恐慌 107)のとき,スタンダード社は連邦政府によって,石油産業における独

占企業体である同社は取引制限や価格差別などに関して不当な悪意の取引を

おこなったという理由 108)から反トラスト法違反で訴訟を起こされた.同社

は世間やマスコミからは社会の敵と見なされ,ロックフェラーは「ラバー・

バロン」として激しく非難されていたのである.

 連邦政府がスタンダード社を反トラスト法違反で訴訟したときに,T・ルー

104) スタンダード社が抱える 21の州での反トラスト訴訟に関しては,Abels (1967) op.cit., pp.259-262. (訳書,pp.278-282.)

105) ブルナー /カー(2009)前掲書,p.17, p.55.106) ケネソー・マウンテン・ランディス判事とこの判決に関しては,Abels (1967) op.cit., pp.259-

262. (訳書,pp.279-281.)107) ヘンリー・クルーは 2009年の恐慌について分析を行っており,9つの原因を挙げている.

Clews (1973) op.cit., p.799.ブルナー / カー(2009)前掲書,pp.16-17.108) スタンダード社の反トラスト法違反の理由にについて,岡部直祐(1965)「反トラスト政策の基本構造―取引制限と独占を中心に―」『経済学雑誌』第 52巻 3号,大阪市立大学,pp.41-69.は同社は石油産業における独占企業体であり,同社が取引制限や価格差別などに関して不当な悪意の取引をおこなったという理由で,連邦政府や州政府から反トラスト法違反で訴訟を受けたと述べている.

(623) 255

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第 62巻 第 4号

ズベルトは大統領のイメージを強化しようと公に,「過去 6年間にビジネスに

関するフェアーな法律をつくろうとしてもこれらの男たちは一貫して反対し

た」109)と述べた.この裁判の途中で T・ルーズベルト大統領から第 27代大

統領ウィリアム・タフト(William H. Taft,1857-1930,在任 1909-13)に代わったが,

政府の方針は変わらず,そのまま裁判は続けられた.

 1909年にセントルイス連邦裁判所は長期の審議の末,行政側に有利なジャー

ジー・スタンダード社の解体判決を下して,最終的に 1911年 5月 15日連邦

最高裁判所のエドワード・ホワイト長官は連邦裁判所の判断を支持し,同社

の解体を命じた.

 岡部直祐(1965)110)はスタンダード社の反トラスト法違反の理由について,

同社は石油産業における独占企業体であり,同社が取引制限や価格差別など

に関して不当な悪意の取引をおこなったという理由で,連邦政府や州政府か

ら反トラスト法違反で訴訟を受けたと述べている.

 1890年に成立したシャーマン反トラスト法は第 1条 取引制限協定の規則,

第 2条 独占行為に関する規定からなり,1911年のスタンダード・オイル・

トラスト事件(U.S. 221, U.S. 1)で「条理の原則」が判例にはじめて導入された.

 マクウェイグ(2005)111)はこのスタンダード・オイル・トラスト(S.O.T.)

に関する裁判が桁外れな規模であったことを示す数字として,同裁判に出廷

した証人数 444人,証拠書類 1,371件,裁判記録は 1万 4,495ページに及ぶ裁

判であったことを挙げている.スタンダード社はこの裁判以外に 21の州で反

トラスト訴訟 112)をかかえていたことから,ロックフェラーと同社に全米の

注目が集まっていたことが十分にうかがえる.

109) Yergin (1991) op.cit., p.108.110) 反トラスト法違反の理由に関して,岡部直祐(1965)前掲論文,pp.41-69.トラストの定義付については Ripley (1916),アメリカントラストの分析に関しては,Neale, A.D. (1960) The Antitrust Laws of the United States of America, A Study of Competition Enforced by Laws.

111) マクウェイグ(2005)前掲書,p.215.飯塚英一(2010)前掲書,p186.112) スタンダード社が抱える 21の州での反トラスト訴訟に関しては,Abels (1967) op.cit.,

pp.259-62. (訳書,pp.278-282.)

256 (624)

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ジョン・D・ロックフェラー 1世の企業家活動と富の集積,1839-1911年(2)(鮫島真人)

 持株会社ジャージー・スタンダード社は 1911年の解体判決によって 34社

に分割され,ロックフェラーをはじめ,弟のウィリアムやフラグラーのほか

取締役 4名 113),彼を含めて合計 7名が一斉に同社の役員から退いた.同社の

解体後 114),同社の企業群の株価は下落するどころか急激に上昇した.

 Abels (1969)は,なぜ解散後スタンダード社の株価が高騰したのかついて述

べている.ジャージー・スタンダード社には,1910年に株主が 6,006人いたが,

これは 10年前の株主数の 2倍であり,ニューヨーク株式取引所に上場されて

いなかったけれども,活発に店頭取引が行われていた.

 「解散後,シャージー・スタンダード社が最強の単位として台頭した.1911

年末には構成会社全体の純資産価値は 6億 6,000万ドル(6億 6,045万 1,800ドル)

と見積もられたが,このうちジャージーとその子会社が,2億 8,553万 2,000

ドルで先頭に立ち,ニューヨーク・スタンダード社が 6,002万 4,000ドルで第

2位,オハイオ・スタンダード社が 4,405万 2,000ドルで第 3位だった.旧持

株会社所有 98万 3,383株のうち,ロックフェラーの持株は,24万 4,385であり,

会社解散時の持株の価額は 1億 6,000万ドルを超えていた」115)とある.

 シャージー・スタンダード社の株主は,その持分に応じてスタンダード社

の一族から各構成会社の端株を受け取ることとなった.同社の株主が端株を

受け取るための株式分割が行われ,「その算出法は,983383を分母とし,分

子は全体の資産総額に対する各特定の会社の資産額の比率で,その分数に 1

株(100ドル)の価額」を乗せた.

 スワン・アンド・フィンチ会社の株主の場合であれば,旧株式 1株につき

994 / 983383株で額面価格は 10セントであり,「ボーヌ・スクライスマー会社の

113) 取締役 4名は,H. C. Folger, Jr.,Oliver H. Payne,E. T. Bedford,L. J. Drakeである.坂本義和(2008)『スタンダード・オイル・ニュージャージーの解体後における研究開発活動』千倉書房,p.44.

114) スタンダード・オイルの解体後の同社関連企業については,同上,参照.伊藤孝(2004)『ニュージャージー・スタンダード石油会社の史的研究―1920年代初頭から 60年代末まで―』北海道大学図書刊行会.

115) Abels (1967) op.cit., pp.272-73, (訳書,pp.293-94.)からの引用である.

(625) 257

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第 62巻 第 4号

場合であれば1995/983383株で額面価額は20セント等といったように支給され」

て,各会社が配当を出した時には,配当金が数セントであることが頻繁であった.

 「配当支払後 1週間もたたぬうち,スタンダード社の株を専門に扱う仲買業

者がウォール街に生まれた」のを前後して株価は高騰し,3ヵ月も経たない

うちに同社株の市場価額は 2億ドル上がったために,他のトラストの株主の

羨望の的となった.

 Abels (1967)によると,スタンダード社株の騰貴の原因は「大衆がはじめて

会社の真価を知ったことによるものであり,その価値を反映して株価も上昇

したというわけである.1912年の 1月から 10月までの間に,ニューヨーク・

スタンダード株は 260ドルから 580ドルに上がったが,これもインディアナ・

スタンダード株の上げっぷりには及ばなかった.同株は分割に際して旧株 1

株に対し29分の1で割当てられたが,3500ドルから9500ドルに高騰した.ロッ

クフェラーの富はこの急激な価格上昇で急膨張した」と述べている 116).

 なお,1911年末のスタンダード社の構成会社全体の資本金 9,833万 8,300

ドル,純資産価値 6億 6,000万ドル(6億 6,045万 1,800ドル),および旧持株会

社所有 98万 3,383株については第 22表 117)を参照願いたい.ロックフェラー

の持株比率は 4分の 1であり,会社解散時の持株の価額として 1億 6,000万

ドルを超えていたというのは妥当である.1882年から 1911年までの間のス

タンダード社の配当金の合計は約 7億 5,000万ドルであることから 118),彼が

約 20年間に受け取った配当金は約 1億 8,800万ドルである.

 ジャージー・スタンダード社の解体後,スタンダード社の株価は高騰して,

116) Abels (1967) op.cit., pp.272-273. (訳書,pp.293-294)117) 近代トラストは一般的に過大資本化(overcapitalization)されていたが,そのなかにおいてスタンダード社は過小資本化(undercapitalization)されていた.スタンダード社の過小資(undercapitaiizaton)については,高寺貞男(1976)「スタンダード石油会社における過小資本とその修正」『経済論叢』(京都大学)第 115巻 4・5号,pp.321-340.西川(1979)p.77は,スタンダード社から持会社株ジャージー・スタンダード社の成立過程についての論文のなかで,過小資本化について触れている.

118) 1882-1898年の間の配当金が約 2億 2,300万ドル,1899-1911年の配当金が約 5億 2,700万ドルで合計して約 7億 5,000万ドルである.Hidy and Hidy (1955) op.cit., p.636, p.633.

258 (626)

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ジョン・D・ロックフェラー 1世の企業家活動と富の集積,1839-1911年(2)(鮫島真人)

ロックフェラーが持つ同社の株券は途方もない価値を持つことになり,石油

産業以外の鉄鉱石や銅などの投資活動による資産を含め,彼の純資産 119)は

1913年に 9億ドルに達した.彼の純資産は当時の米国民総生産(GNP)の 2%

以上に匹敵し,現在の貨幣価値に換算すると 1,896億ドル(約 21兆円)であった.

 しかもその後,旧スタンダード系関連企業はロックフェラーの信任が厚かっ

たアーチボルドの輸出拡大と自社傭船などの新戦略のもとで,ロスチャイル

ド,シェルおよびロイヤル・ダッチなどとの競争が厳しくなっていた海外市

場を拡大させて成長した.

119) ロックフェラー 1世の純資産は,9億ドル[1913年の実数金額で当時米国の国民総生産の2%以上に匹敵する,現在の価値に換算して約 1,900億ドル(約 23兆円)に相当]である.『朝日新聞』1998年 9月 23日と,米誌『アメリカン・ヘリテージ』1998年 8月 21日号を参照.

第 22表 ニュージャージー・スタンダード社における過小資本化の進行(単位:ドル)

年度 資本化 純資産 純益 配当

1899 97,250,000 196,713,318 64,456,674 32,092,500

1900 97,448,700 205,480,449 55,501,775 46,691,474

1901 97,448,900 210,997,006 52,291,768 46,775,390

1902 97,448,900 231,758,406 64,613,365 43,851,966

1903 97,448,900 270,217,922 81,336,994 42,877,478

1904 98,338,300 297,489,225 61,570,111 35,188,266

1905 98,338,300 315,613,262 57,459,356 39,335,320

1906 98,338,300 359,400,193 83,122,251 39,335,320

1907 98,338,300 415,432,799 131,274,808 39,335,320

1908 98,338,300 526,538,701 116,445,910 39,335,320

1909 98,338,300 568,727,055 77,413,508 39,335,320

1910 98,338,300 615,956,056 87,705,976 39,335,320

1911 98,338,300 660,451,800 95,414,239 36,385,171

(出所) Hidy and Hidy, (1955) op.cit., p.633. 高寺貞男(1976)「スタンダード石油会社における過小資本とその修正」『経済論叢』(京都大学)第 115巻 4・5号,p334.

(627) 259

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第 62巻 第 4号

 アーチボルドの後を継いで社長となった A・C・ベッドフォードは,第 1

次世界大戦の最中である 1917年に,国防省の全米石油戦時サービス委員会

(NPWSC)の活動に専念するために社長を退任し,カナダのインペリアル石油

の社長をしていた 39歳のW・C・ティーグル 120)が専門経営者として社長に

就任し,海外販売業績を大きく上げるとともに 1920年から従業員持株計画

を実行して所有と経営の分離を進めた 121).旧スタンダード系関連企業はアメ

リカを代表する企業であり続け,現在のエクソンモービルなどに名を変えて,

世界における石油業界のメジャー・ナンバーワン企業となっている.

 1911年ロックフェラーは,スタンダード社の解体について何も語らずに引

退した.その前年に彼は,1889年から 1910年までの 21年間にわたり,企業

家活動で集積した富のなかから寄付総額で 3,500万ドルを使い,バプティス

ト派の研究機関としてのシカゴ大学を設立していた 122).同派の援助と管理の

もとに,シカゴ大学をアメリカでも有数の大学にした彼の活動に協力したの

が,アメリカ・バプティスト派教育協会の事務局長をしていたフレデリック・

T・ゲイツであった.ロックフェラーは科学的でかつ戦略的なアプローチに基

づくフィランソロピー活動のために,1892年にゲイツを顧問に雇い,1897年

頃からジョン・D・ロックフェラー 2世を参加させた.

 ロックフェラーは企業家活動のときと同様にフィランソロピー事業の構想

について事前にゲイツやロックフェラー 2世と十分に相談しながら,フィラ

120) W・C・ティーグル(W. C. Teagle)はロックフェラーのパートナーであったM・クラークの娘を母とし,コーネル大学で工業化学を専攻した.スタンダード社の海外輸出委員会,輸出取引委員会を歴任してヨーロッパ・アジア市場において,1900年代から 1910年代をロイヤル・ダッチ・シェルと熾烈な競争を展開した.彼は 1911-14年の間で副社長をつとめ,取締役の在任期間は 1917-42年の間であった.Gibb, and Knowlton, (1956) op.cit., pp.687-689.

121) 従業員持株計画に沿って,1920年から 1934年まで受託者の株が 4回にわたって放出され,株主数は 1927年 5万 628名,1929年 9万 2758名,1938年 12万 6383名となり,1910年に株主が 6,006人からすると,株主数は 28年間で約 21倍である.Gibb and Knowlton (1956) op.cit., p.670. Abels (1967) op.cit., p.272. (訳書,pp.293.)済藤友明(1991)は「ロックフェラー家の持分比率は,1927(ジョンのみ)年 22%,1929年約 20%,1938年約 10%である.ロックフェラー家の比率の減少した最大の原因は,1920年から従業員持株計画を実行したことである」と述べている.済藤友明(1991)前掲論文,p.213.

122) フォスディック(1956)op.cit., p.12.

260 (628)

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ジョン・D・ロックフェラー 1世の企業家活動と富の集積,1839-1911年(2)(鮫島真人)

ンソロピー事業のためのロックフェラー医学研究所,一般教育財団,ロック

フェラー衛生委員会を設立し,ロックフェラー財団群を形成していた.ロッ

クフェラーはスタンダード社の解体判決を受けたときには,同財団群におい

て中核の役割を果たすことになる,国際的視野に立った広範囲な活動を行う

ために組織化された大型民間助成財団であるロックフェラー財団の設立に動

いていたのである.

お わ り に

 以上述べたように,ロックフェラーは南北戦争における特需で農産物の売

買を中心とする事業を拡大させ,その利益を元手に,1860年代初期に石油産

業のなかで地味ではあるが長期的成長が期待できる石油精製業への投資を地

理的条件から考慮してクリーヴランドで開始した.彼は投資を開始して間も

なく,同産業がワールド・ワイドな市場に発展することを直感的に強く信じ

るようになり,「他の誰にも利益を渡すな」という彼の企業家活動における利

潤追求の信念のもと,競争相手に負けないために精油業に専念することを決

心した.そのために,彼は実務に有能な人材を集め,品質重視の薄利多売の

戦略を練り,コストを下げるための徹底した原価計算や帳簿管理に基づく事

業の効率的経営,そして南北戦争終結直後の 1866年からの自社による輸出戦

略などの積極的な拡大政策を展開しながら規模の経済を実践し,利潤の内部

留保と再投資によって,恐慌を乗り越えるごとにスタンダード社を強い財務

体質の会社に成長させた.

 ロックフェラーは,その企業家活動において,鉄道会社の運賃リベートを

利用した SIC事件や水平結合戦略の始まりである「クリーヴランドの大虐殺」

において世間からの非難に晒されても,自分が社会のために正しいことをし

ていると心底思っていたためにくじけることもなかった.それどころか,彼

は強い意志をもって,まだモラルもなく,混沌として投機的な産業と見做さ

れていた石油産業に一定の秩序を与え,タイドウォーター事件を経たのちに

(629) 261

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第 62巻 第 4号

石油パイプラインの輸送業界を独占し,1880年代初期までに全米の精油生産

部門の 80%以上を掌握した.ロックフェラーは S.O.T.を形成すると同時に精

油所の立地をマーケティング・エリアに移行させるという石油輸送の新時代

を開いたのである.

 トラスト形成後も,ロックフェラーはオハイオ州ライマ油田の自社生産の

案件を除いて,企業経営者として独善的になることもなく,事業の重要事項

については,事前に彼の仕事仲間と相談しながら,禁欲的な効率経営による

積極的な拡大政策である垂直統合戦略を推進した.彼は委員会制度の導入に

みられるように権限移譲を積極的におこない,人材,組織,インフラ整備,マー

ケティング,新技術の開発の分野で企業革新をもたらして,19世紀末には石

油産業をアメリカの代表する産業に成長させた.また,スタンダード社によ

る持株会社システム(holding company system)の導入は,アメリカ合衆国の産

業の広汎な分野における同システムの普及の原動力となった.

 20世紀に入ると,社会的に反トラスト運動が激しくなり,ターベルらのロッ

クフェラー批判とともにスタンダード社を潰せという世論に後押しされて,

1906年連邦政府によって,同社の解体を目的としてシャーマン反トラスト法

違反で訴訟が起こされた.そして,1911年にスタンダード・オイル・トラス

ト裁判(U. S. 221, U. S. 1)において,「条理の原則」がはじめて導入されて,ジャー

ジー・スタンダード社は 33社への解体判決を受けた.ロックフェラーは同社

の解体について何も語らずに,彼を含めて 7人の取締役と一斉に同社の役員

から退いた.

 ロックフェラーの企業家活動を総括すると,彼は,会計,人材および組織

を重視しながら,禁欲的な効率経営による積極的な拡大政策を推進して消費

者に低価格で良質の灯油を提供し,同時に石油産業に一定の秩序を与えた.

彼は,人材,組織,インフラ整備,マーケティング,新技術の開発の分野で

継続的に企業革新をおこなって,同産業の広範な要素を S.O.T.という 1つの

組織に統合したのである.

262 (630)

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ジョン・D・ロックフェラー 1世の企業家活動と富の集積,1839-1911年(2)(鮫島真人)

 ロックフェラーはスタンダード社の解体当時に,彼の企業家活動及び投資

活動によって,9億ドルに達する純資産を集積していた.彼の純資産は当時

の米国民総生産(GNP)の 2%以上に匹敵し,現在の貨幣価値に換算すると 1,896

億ドル(約 21兆円)であった.

 ロックフェラーの献金活動は正式な記録によると,十分の一献金を目標と

して,1855年 11月 25日の教会などへの 2ドル 70セントから始まった 123).

彼は企業家活動で集積した富のなかから,大型の慈善活動として,1889年から,

シカゴ大学をバプティスト派の研究機関にするために,約 20年間同大学に対

し,総額にして 3,500万ドルの寄付を行った.彼は科学的でかつ戦略的なア

プローチに基づくフィランソロピー活動のために,1892年に元バプティスト

派の牧師であったゲイツを顧問に雇い,1897年頃からロックフェラー 2世を

参加させた.

 ロックフェラーは企業家活動のときと同様に,フィランソロピー事業の構

想について事前にゲイツやロックフェラー 2世と十分に相談しながら,密接

に関わったが,計画が実行に移されて研究所や財団が設立される際には,ス

タンダード社のときと同様に実務に有能な人材(その道の専門家や科学者)を採

用して活躍の場を与え,権限委譲をおこなった.フィランソロピー事業が開

始されると,ロックフェラーは運営に干渉しなかった.しかし,財団におい

て一定の期間に成果が上がらない場合は,企業における効率的な経営の見直

しに相当する,戦略,人事,組織,財務を見直すシステムを導入していた.

 ロックフェラーはスタンダード社の解体判決を受けたときには,すでにフィ

ランソロピー活動のためのロックフェラー医学研究所,一般教育財団,ロッ

クフェラー衛生委員会を設立し,ロックフェラー財団群を形成していた.彼

は同財団群において中核の役割を果たすことになる,国際的視野に立った広

123) 「元帳 A(Ledger A.)」によると,当初のロックフェラーの献金先や目的は,エル・ストリート・バプティスト教会,貧民の救済活動,海外宣教のためであった.Nevins (1953) op.cit., 2vols, p.479. 十分の一献金とは,キリスト教において収入の十分の一を神様にささげる献金のことで,什一献金とも呼ばれる.十分の一献金については,聖書のマキラ書 3章 10節参照.

(631) 263

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第 62巻 第 4号

範囲な活動を行うために組織化された大型民間助成財団であるロックフェ

ラー財団の設立に動いていたのである.

 本稿では,ロックフェラーのフィランソロピー活動を解明するための歴史

研究における前提条件を明らかにするために,彼の企業家活動における,会計,

人材,組織,インフラ整備,マーケティング,新技術の開発の分野について

の企業革新を検証し,彼の事業に対する考え方や姿勢を明らかにした.今後

の研究で,ロックフェラーが企業家活動のなかで実践した事業に対する考え

方や姿勢が,どのように彼のフィランソロピー活動に引き継がれたかを明ら

かにしたいと思う.

(さめしま まさと・同志社大学経済学研究科後期課程)

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ジョン・D・ロックフェラー 1世の企業家活動と富の集積,1839-1911年(2)(鮫島真人)

The Doshisha University Economic Review Vol.62 No.4

Abstract

Masato SAMESHIMA, John D. Rockefeller I as a Dynamic Entrepreneur and His

Accumulation of Wealth, 1839–1911

  From the start of his career, John D. Rockefeller I was aware of the importance

of economy and system (cost-consciousness), human resources, and organization

power. He recognized the prime importance of human resources and ensured that

his associates hired his competitors’ best human resources and oil works, through

the process of consolidation and centralization in the oil industry. Rockefeller I

conferred with his associates on the important business plan that he innovated to

introduce the committee system into the business of the Standard Oil Company.

Standard Oil’s pioneering big business operations revolutionized the oil industry,

which in turn, led to the growth of the American industry.

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