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東京外国語大学論集第 85 号(2012237 カジ・ノズルル・イスラム再考 ―その文学史的位置づけをめぐって― 丹羽 京子 はじめに 1. ノズルルの生涯 2. 現代詩のはじまり、はじめてのイスラム詩人 3. 歌、そしてガザル おわりに はじめに カジ・ノズルル・イスラム(Kazi Nazrul Islam 以下ノズルル)は、ベンガル語圏では多大な 影響力を持った詩人であり、特にバングラデシュにおいてはノーベル賞詩人タゴールと並び称 されるのみならず、まさに国民詩人といった位置づけを与えられている。にも関わらず、従来 のベンガル文学史における扱いはけっして大きいとは言えず、実際上のプレゼンスとのギャッ プが顕著な詩人でもある。 1) また文学史におけるその記述も、タゴールとタゴール後の 5 人の 詩人 2) の間にごく簡単に挿入される程度のものがほとんどで、のちに続く世代への影響力もし くは文学史上の意義などへの十分な言及を見出すことはほとんどない。一方、個別のノズルル 研究には相応の蓄積があり、そこにノズルルの近現代ベンガル文学における重要性は見て取れ るのだが、それらが文学史に反映されるには至っておらず、そこにノズルルという存在と、従 来の文学史記述との齟齬が見て取れると言えよう。 ノズルルの文学史上の扱いにおけるむずかしさの背景には様々な要因があるが、ここで問題 にしたいのは、次の 2 点である。ひとつはノズルルがさまざまな観点から「例外的」な詩人と みなされがちなゆえに、文学史の上では孤立した存在として捉えられる傾向があること、そし てもうひとつは歌の創作がノズルルの芸術的活動の大きな部分を占めていたという事実が、ノ ズルルの「文学」活動を実際以上に矮小化して捉えることになってはいないかという点である。 ここにはもちろん「歌」を「文学」として捉えることの問題点も含まれる。 本稿では、まずノズルルの生涯と「文学的」活動を振り返ったのちに、ノズルルの文学史的 な立ち位置をさまざまな角度から検証する。そしてさらにノズルルの歌を「文学作品」として

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東京外国語大学論集第 85 号(2012) 237

カジ・ノズルル・イスラム再考

―その文学史的位置づけをめぐって―

丹羽 京子

はじめに

1. ノズルルの生涯

2. 現代詩のはじまり、はじめてのイスラム詩人

3. 歌、そしてガザル

おわりに

はじめに

カジ・ノズルル・イスラム(Kazi Nazrul Islam 以下ノズルル)は、ベンガル語圏では多大な

影響力を持った詩人であり、特にバングラデシュにおいてはノーベル賞詩人タゴールと並び称

されるのみならず、まさに国民詩人といった位置づけを与えられている。にも関わらず、従来

のベンガル文学史における扱いはけっして大きいとは言えず、実際上のプレゼンスとのギャッ

プが顕著な詩人でもある。1) また文学史におけるその記述も、タゴールとタゴール後の 5 人の

詩人 2) の間にごく簡単に挿入される程度のものがほとんどで、のちに続く世代への影響力もし

くは文学史上の意義などへの十分な言及を見出すことはほとんどない。一方、個別のノズルル

研究には相応の蓄積があり、そこにノズルルの近現代ベンガル文学における重要性は見て取れ

るのだが、それらが文学史に反映されるには至っておらず、そこにノズルルという存在と、従

来の文学史記述との齟齬が見て取れると言えよう。

ノズルルの文学史上の扱いにおけるむずかしさの背景には様々な要因があるが、ここで問題

にしたいのは、次の 2 点である。ひとつはノズルルがさまざまな観点から「例外的」な詩人と

みなされがちなゆえに、文学史の上では孤立した存在として捉えられる傾向があること、そし

てもうひとつは歌の創作がノズルルの芸術的活動の大きな部分を占めていたという事実が、ノ

ズルルの「文学」活動を実際以上に矮小化して捉えることになってはいないかという点である。

ここにはもちろん「歌」を「文学」として捉えることの問題点も含まれる。

本稿では、まずノズルルの生涯と「文学的」活動を振り返ったのちに、ノズルルの文学史的

な立ち位置をさまざまな角度から検証する。そしてさらにノズルルの歌を「文学作品」として

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取り上げることで見えてくる文学史記述の可能性について考えてみたい。

1. ノズルルの生涯

ノズルルは 1899 年にボルドマン県(現在はインドの西ベンガル州に属する)のチュルリア村

に生まれた。ノズルルの家系はもともとパトナ出身で、その名にあるように「カジ(=カーデ

ィーすなわちイスラム法官)」としての役割をこの地域で担っていたが、イギリスの植民地とな

って久しいノズルル誕生時にはすでに没落しており、一家は困窮を極めていたという。1908 年、

ノズルルが 9 歳になる直前に父が亡くなると困窮の度はさらに増し、ノズルルは 10 歳にして自

立を余儀なくされている。

イスラム教徒の子弟として、ノズルルは初等教育を村のモクトブ(=マクタブ)で受けてい

るが、1909 年にここでの課程を修了すると、経済的理由からそれ以上学業を続けることができ

ず、自ら生計を立てる道を模索することになる。当初ノズルルはモクトブで年少の子どもたち

を教える仕事もしたが、ほどなく歌の世界で身を立てるようになった。

ノズルルの暮らしていたチュルリア村近辺では、当時レト(leto)と呼ばれる芸能集団が人

気を博しており、父方の叔父であるボジョレ・コリムが率いるレトに参加することでノズルル

はこの世界に足を踏み入れた。レトはジャットラ(yatra, ベンガル伝統の野外劇)とコビガン

(kabigan, 即興の歌の一種だが、通常ふたつの集団が歌を競い合い勝敗を決する)を出し物と

する集団で、ここでノズルルは歌作りの方法を叔父から学んだ。ノズルルにはもともと歌作り

の才能があったようで、近隣の村では「子ども詩人」(kishor kabi)として知られるようになり、

自ら歌うものばかりでなく、他の集団の歌い手から依頼されて歌を提供することもあったとい

う。さらには叔父が亡くなると、11 歳にしてリード・シンガーとして叔父のレトを率いるよう

になり、コビガンの場において相手方を打ち負かせたという手合せがいくつも語り継がれてい

る。3) このようなその場に応じて歌を作る経験を通して、ノズルルは様々なタイプの歌を作る

技術を身に付け、また、こうした歌において欠かすことのできないヒンドゥー、ムスリム双方

の神話や説話に通じていった。

1911 年、すなわち 12 歳頃からノズルルは断続的に高等学校に通うようになる。経済問題に

より退学と転校を繰り返し、その合間に茶店で働いたりレトに復帰したりという変則的な生活

を続けながらも基本的に成績は良好で、1917 年には最終学年である 10 年生までたどり着く。

この学校生活で特筆すべきは、さまざまな高校で接した教師から古典音楽やペルシャ語などの

レッスンを受けたこと、そして世界情勢や政治活動に触れたことであろう。特に最終学歴とな

るシヤルソル・ラージ・スクールでは、活動家でもあった教員の一人に強い影響を受けている。

そうした流れの中で、また第一次世界大戦がすでに勃発し、まさにロシア革命が起ころうとし

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ていたこの時期にあって、ノズルルは 10 年生の最終試験を待たずに軍隊入りを決心する。

ノズルルが配属されたのは第 49 ベンガル連隊で、この連隊は若干の訓練ののちカラチに送ら

れ、その後、連隊の解散までの 3 年間のほとんどをノズルルはカラチで過ごすことになる。連

隊のメンバーとしてのノズルルには特筆すべきものはほとんどないが、一方でそれは文学的に

は実り多い 3 年間になった。すなわちノズルルはこのカラチ時代にはじめて本腰を入れて創作

を行うようになり、それらが雑誌に載るようになったこと、そしてカラチに滞在することでウ

ルドゥー語とペルシャ語に磨きをかけられたことがこの 3 年間の大きな収穫となったのである。

レト時代の歌作りを除くと、これらがノズルルの初めての本格的な創作になるわけだが、小

説や戯曲にも手を染めながらも基本的に詩や歌の創作が中心であるそのありようは当初から一

貫している。特に 1919 年に詩編として初めて雑誌に掲載した「自由(mukti)」を通じて、こ

の作品を掲載した『ベンガル・ムスリム文学(Bangiy Musalman Sahitya Patrika)』と深く関わ

るようになったことが本格的な文筆活動の始まりとなったことは大きい。

ウルドゥー語やペルシャ語に関しては、ノズルルはモクトブで学んだころから親しんでいた

ようだが、同じ連隊に属するモウロビから本格的に学んだことでペルシャ詩や詩形への理解を

深めたことがのちの創作活動にも大きな影響を及ぼした。それについてはあらためて述べるが、

のちにベンガル語への翻訳出版をするハーフィズのルバイヤートやオマル・ハイヤームのルバ

イヤートに親しんだのもこのころである。

またノズルルは軍隊時代も歌の創作を続けており、夕方になると音楽の素養のあるものがノ

ズルルのもとに集まってきて毎夜歌の会を繰り広げていたとの証言もある。その際、軍歌や行

進曲のようなものも創作し、それがのちの「愛国的な歌」につながっていったと考えられてい

る。

1920 年になると第一次世界大戦の終結にともないベンガル連隊も解散となる。あらためて身

の振り方を考えることになったノズルルの選択は、コルカタでの文筆活動であった。当初ノズ

ルルは高校時代の友人、ショイロジャノンド 4) の住まいに間借りするが、ほどなく『ベンガル・

ムスリム文学』誌の事務所を訪ね、その中心人物であったムザッファル・アーマド(Muzaffar

Ahmad, 1889-1973)と事務所に同居しつつ執筆その他の仕事をこなすようになる。

ムザッファル・アーマドは、文筆家でもあったが、むしろ初期の共産主義運動の主要メンバ

ーとして知られる人物で、ノズルルは思想的にもムザッファルに共鳴していた。二人は『ベン

ガル・ムスリム文学』の発行だけでは飽き足らず、1920 年の 7 月からは『新しい時代(Nabayug)』

の発行を始め、さらに 1922 年の 8 月からはノズルルが中心となって『彗星(Dhumketu)』の

発行を始める。これらはいずれも長続きしなかったが、当時のノズルルの旺盛な執筆状況を反

映していた。

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これらの雑誌にノズルルが掲載していたのは現代詩、エッセイ、小説などの「読み物」だっ

たが、一方で歌の世界から離れたわけではなく、ムザッファルのところに引っ越しをしたまさ

にその日にすぐ歌の会が催されたことから見て取れるように、ノズルルは歌い手、もしくは歌

の作り手としても当時からよく知られていた。もっともこのころはまだ作り手というより、歌

い手として知られていたようで、当時のノズルルはロビンドロ・ションギート(タゴール・ソ

ング)を多く歌っていたという。5)

このように旺盛な創作意欲を見せていたものの、それまでほとんど無名と言っていい存在だ

ったノズルルの名を一躍知らしめることになったのは、一篇の詩「反逆者(Bidrohi)」であっ

た。6) この詩は 1921 年 12 月の最終週のある日に一気に書かれ、それが年が明けてほどなく

複数の雑誌に掲載されるとたちまちのうちにベンガル詩壇を席巻したのである。1913 年にノー

ベル文学賞を受賞した大詩人タゴールを頂点とするベンガル詩は、それまで抒情的なトーンが

濃厚で、タイトルに示されているように神を含めたあらゆるものに反旗を翻すこの詩は文壇を

揺るがし、特に若い世代を熱狂させた。

「反逆者」を発表した 1922 年はノズルルにとって実り多く、また多難な年となった。まず 8

月には先に名前を挙げた『彗星』の発行が始まり、10 月にはノズルルの著作としては初出版と

なる『時代の声(Yugbani)』が、そして同じ月に「反逆者」を含む第一詩集『炎のヴィーナ

(Agunibina)』が出版される。ところがこれらはいずれも植民地政府より差し止められてしまい、

そして 11 月になると、『彗星』に掲載した「アノンドモイの訪れに(Anandamayir Agamane)」

が「扇動的」であるとしてノズルルに逮捕状が出されるに至る。7) 同月末に逮捕、最終的に 1

年間の禁固刑が科せられることになり、ノズルルは翌 23 年の 12 月まで拘束された。「反逆者」

の発表以来、ノズルルの作品は独立運動や共産主義運動に目を光らせる植民地政府に問題視さ

れてきたが、これ以後詩集を含むノズルルの多くの著作に発禁処分が下されることになる。8)

この著作の出版に対する圧力は、長きにわたってノズルルの創作活動に影を落とすことにな

るが、一方で「反逆者」そのものとしての詩人ノズルルが英雄視されるという現象も見られた。

タゴールもこの時期上梓した歌劇『春(Basant)』をノズルルに捧げている。ノズルル自身も意

気盛んで、刑務所内でも旺盛な創作意欲を見せているほか、待遇改善を訴えてハンガー・スト

ライキをするなど常にその動向は注目を集めた。

釈放されて間もなく、24 年 4 月にノズルルは以前より知己を得ていたプロミラ・デビ(Pramila

Devi, 1908-62)と結婚する。プロミラがヒンドゥー教徒だったため、両者のコミュニティーか

ら少なからぬ反発が見られたが、これもまた「反逆者」としての名を高める一因ともなった。

また同じ年に発表した詩集『毒の笛(Bisher Banshi)』および『破壊の歌(Bhangar Gan)』は

再び発禁処分となっている。

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翌 25 年、ノズルルは仲間とともに「労働者独立党(Labour Swaraj Party of Indian National

Congress)」を結成し、9) その機関紙として『鋤(Langal)』発行に着手するが、この雑誌も長続

きせず、翌年 4 月に休止となる。ノズルルは常に世界情勢や独立運動に強い関心を示し、そし

てまた、それ以上に個人の自由と平等を強く主張したが、いわゆる政治的な活動――それはも

っぱら文筆活動を通してのものではある――は、このあたりをピークとして徐々に影をひそめ

ていく。しかしノズルルの場合、その変化は政治に嫌気がさしたというより、関心がほかに移

っていくことによって起こったようである。

1926 年 9 月、ノズルル夫妻に長男ブルブルが誕生する。10) このころからノズルルは歌の創

作に没頭するようになり、現代詩人もしくは政治的な著述家としてより、歌の作り手としての

活躍が目立つようになってくる。そしてまたその歌も、戦闘的なものより甘美な愛情に満ちた

ものが中心になっていった。それらの歌はコルカタのみならずダッカやその他の都市のさまざ

まな催しで披露され、観客を熱狂させたという。そしてまた、これらの歌は歌詞として、とき

に譜面付きでさまざまな雑誌に掲載され、1928 年の『ブルブル(Bulbul)』を始めとして歌詞

集も多く出版された。

おりしもこの時期はインドにおけるレコード産業が急速に発展していく時期にあたっていた。

インドでのレコードの制作、販売を担っていたのは英グラモフォン社(UK Gramophone

Company)で、1920 年代にはすでにウルドゥー語やベンガル語の歌のレコーディングが行われ

ていた。20 年代後半には、ノズルルの歌はすでに広く知られており、レコーディングを期待す

る声もあちこちから聞かれるようになっていたのだが、会社としてはノズルルの逮捕歴や政治

活動から接触を持つことを躊躇していたのだった。時節を見ながら会社は 28 年暮れについにノ

ズルルと直接交渉を始める。そしてこの過程で明らかになったのは、すでにノズルルの歌のレ

コーディングが行われていたという事実だった。すなわち、当時名の知られた歌手であったホ

レンドロ・ゴーシュがノズルルの名前を伏せてすでにレコーディングを行い、販売もされてい

たのだった。11) こうした経緯を経て、グラモフォン社とノズルルは 29 年に正式契約を結ぶ。

ノズルルのレコードは確実にヒットし、ここではじめてノズルルは経済的に一息つくことが

できた。当時の有名歌手はことごとくノズルルに曲を書いてもらおうとスタジオに殺到したと

いい、そうした歌手の証言が数多く残されている。12) 多くの歌手は「反逆者」の詩人として伝

説的な存在であったノズルルに相まみえることに興奮し、そのあけっぴろげで前向きな性格に

惹かれ、次々と歌をものにする才能に驚嘆した。

しかしこの、ある意味絶頂期にあったノズルルに、最初の打撃が訪れる。それは 30 年にブル

ブルが病魔により亡くなってしまったことであった。ノズルルはこの長男以外にも 28 年に二男、

31 年に三男を授かっているが、実質的に最初の子どもであった長男はノズルルにとって特別で、

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歌のノートも初めての歌詞集もブルブルと名づけて曲作りに打ち込んでいたのである。このの

ちもノズルルの創作力は当面衰えることなく続いたが、精神面で大きなダメージを負ったこと

は疑いがない。

グラモフォン社の仕事を始めた当初、ノズルルはミュージック・トレーナーだったジョミル

ッディン・カーン(Jamiruddin Khan, ?-1932)から古典音楽をさらに学び、32 年にジョミルッ

ディンが亡くなるとその座を引き継いでいる。このころからノズルルのミュージシアンとして

の地位はゆるぎないものとなり、グラモフォン社の首席コンポーザーとしての仕事のみならず、

数々の映画の音楽監督も務めるようになる。30 年代に入ると映画とレコード販売の結びつきが

顕著になり、ノズルルも多くの楽曲を映画にも提供している。

さらにノズルルは 38 年から定期的にラジオの番組も持つようになり、特に月 2 回放送の「ギ

ーティビチットロ」は人気番組となった。これは毎回あるテーマのもとに様々な歌を聞かせる

番組で、たとえば「キャラバン」というテーマのもとでアラブ風の歌を次々に披露するなどし

て聴取者を惹きつけた。ノズルルはこうした番組のために毎回数多くのオリジナルの曲を書い

たのである。

このように音楽活動は順調ではあったが、ブルブルの死以来、ノズルルの心境は大きく変化

し、「宗教的な」歌も数多く書くようになっていく。ウルドゥー語によるカッワーリーの売れ行

きが好調なことから、ノズルルの周囲ではベンガル語によるイスラム信仰の歌を求める声が高

まっていたが、当初会社は売れ行きを懸念していたという。ところが「試しに」出した一枚が

爆発的にヒットし、以後この種の「宗教歌」もノズルルの定番となっていく。ただしノズルル

にとって、「宗教歌」はセクト的な意味合いを持たず、レト時代から親しんでいたシャマ・ショ

ンギート(Shyama Sangit, カーリー女神を讃える歌)などヒンドゥー教系の歌の創作も並行し

て行っているほか、ヒンドゥー的なイメージとイスラム的なイメージの双方をひとつの楽曲の

中に混在させるのもノズルルの創作の特徴のひとつであった。13)

39 年になるとノズルルにさらなる打撃が襲いかかる。今度は妻プロミラが病に倒れ、最終的

に下半身不随となってしまったのである。ノズルルは高額の医療費を支払うために歌のロヤリ

ティーを担保に借金をし、結局はそれを失うことになる。このころからノズルルは精神的に不

安定になり、しだいに仕事をこなすことが困難になっていった。しばしば記憶を失い行方不明

になったり、つじつまのあわないことを話したりすることを繰り返したのちに、42 年 7 月、ラ

ジオ番組出演中に突如として言葉を失い、以後まったく人とのコミュニケーションを絶った状

態で残りの人生を過ごしたのであった。何度か精神科の医者にかかるも回復せず、第二次世界

大戦、インド・パキスタン分離独立と混乱の時代が続く中で一家は困窮を極め、親しい友人の

援助などでなんとか暮らす日々が続いたという。

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1972 年になると、前年に独立を果たしたバングラデシュ政府がノズルルを国民的詩人として

迎え入れる。おそらくインドの独立もバングラデシュの独立も認識していなかったであろうノ

ズルルは、残りの人生をダッカで送ったのちに、76 年にその生涯を閉じた。

2. 現代詩のはじまり、はじめてのイスラム詩人

ノズルルの文学史的位置づけを検証する前に、ノズルル作品を概観しておく必要があろう。

ノズルルの中心的創作は詩と歌にあり、それ以外に小説や戯曲などの散文作品があることはす

でに述べたが、ノズルルの場合、散逸してしまったものも少なくないので、それぞれの正確な

数字を挙げることは困難である。特に散逸が著しいのは歌の分野で、ノズルル自身が記録して

いた歌のノートがレコーディングスタジオで紛失してしまうという「事件」があったほか、ラ

ジオ番組用に作られた歌は、高い評価が伝えられている一方で一回限りの放送でレコーディン

グされていないものも多い。またノズルル自身を取り巻く状況も、正確な記録を困難にしてい

る。すなわち、自身のロヤリティーを守ることもできなかったほどの経済的困窮、さらには精

神的な破綻によってさまざまなものが散逸してしまっている。

そうした中、本や雑誌上に印刷されたものの総計としては、歌(歌詞)が約 2500 曲、詩が

800 篇、エッセイ、評論、演説原稿などが 100、短編小説が 18、戯曲や歌劇が 29、長編小説が

3 という数字が挙げられている。14) これはノズルルの活動時期がさほど長くはないことを考え

ると――長く見積もっても、1919 年から 42 年の 23 年間、うち最後の数年はほとんど創作ので

きる状態ではなかった――相当な数に上る。

この事実からも推測されるように、ノズルルはかなりの「早書き」で、必然的にその作品は

玉石混交の様相を呈していた。ただし、早書きであることは常にマイナスに作用するとは限ら

ない。ノズルルの代表作である「反逆者」の、詩壇に与えた衝撃のスタイルは独特の勢いあっ

てのもので、その力強さは「早書き」が最大限プラスに作用しているとも考えられる。さらに

は、数からして、またさまざまな証言からも、歌を書くのはそれ以上に早かったと推測される

が、だからといって詩よりも歌のほうが質において劣っていたというわけではなく、それどこ

ろか全体的に歌の方が詩よりも質において勝っていると考える向きが大勢である。15)

さて、ノズルルの文学史的な位置づけであるが、この章では対象を現代詩に限ってこれまで

のさまざまな記述を検証してみることにする。従来の文学史におけるノズルルに関する記述は、

「反逆者」を頂点とする現代詩を対象として書かれており、それ以外の著作はほとんど言及さ

れることがないからである。

まず確認しておかなければならないのは、ノズルルの活動時期が、タゴール後半生のそれと

完全に重なっていることである。ノズルルが実質的なデビュー作である「反逆者」を発表した

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とき、タゴールはすでにノーベル賞受賞詩人として揺るぎない地位を確立しており、なおかつ

いまだ多彩で旺盛な創作力を発揮していた。そしてタゴールが亡くなったとき、ほぼ同時期に

ノズルルは完全に自己の内に閉じこもってしまう。「なんという驚くべき一致!たった一年の間

にベンガルの二人の偉大な詩人の声が止んでしまったとは。ひとりはこの世界に別れを告げ、

ひとりは人生に別れを告げたのだった。」[Islam, Rafiqul 1991:219]という一致は偶然とはいえ、

文学史を概観するうえで心に留めておいてもよい事実であろう。16)

ノズルルが活躍した 1920 年代 30 年代という時期は、ベンガル詩壇においてはいかにタゴー

ルの影響から脱するかという次世代の詩人たちの格闘の時期でもあった。特にノズルルが盛ん

に現代詩を書いた 20 年代は、一世を風靡した雑誌『コッロル(Kollol, 潮騒)』(1923-29)の

名を冠して「コッロルの時代」とも言われるのだが、この雑誌はノズルルを始めとするタゴー

ル後の世代の作品を多く掲載したと同時に、ときに過剰なほどのタゴール批判を繰り広げた。

タゴール後の世代がいかにその影響力から脱し、自らの声を獲得するのに苦慮し試行錯誤を繰

り広げたかはこれまでさまざまな観点から論じられてきているし、文学史上も少なからず記述

されてきた。しかしその流れの中でノズルルが果たした役割については十分に吟味されてきた

とは言えない。17)

通常ベンガル文学史においては、タゴール後の詩壇の展開は 30 年代に登場した 5 人の詩人に

始まるとされることはすでに述べた。ノズルルは世代的にタゴールとこの 30 年代の詩人たちの

間にはさまれているが、その現代詩における影響力はけっして小さいものではない。例えば 5

人の詩人のうちのひとり、ブッドデブ・ボシュの実質的なデビュー作「囚人の讃歌(Bandir

Bandana)」はそのタイトルがノズルル作品から取られていることから明らかなように(ただし

ノズルルのそれは歌である)、ノズルルの作風の強い影響下にある。このブッドデブの例にも見

て取れるように、タゴール的詩風に覆われていた当時の詩壇において(しかもタゴール自身ま

だ現役であった)なんとかそこに風穴をあけ、自らの詩風を確立しようともがいていた若い世

代の詩人たちにとって、衝撃的なノズルルの登場は瞠目すべき出来事だったと同時に、その後

の現代詩の方向に啓示を与えるものであったに違いない。

なぜノズルルだけがやすやすとタゴールの影響から脱することができたかといえば、その強

烈な個性と意志だけでなく、ノズルルの育ってきた環境からも説明できる。そもそもそれまで

ベンガルの詩壇――あるいは文壇と言ってもよい――はタゴールをはじめとするヒンドゥー

中産階級出身者で占められ、その教養の範囲がかなり重なっていた。タゴールとタゴール以後

の詩人たちの文学的教養の差と言えば、タゴールが苦手としていたヨーロッパの現代詩により

通じていたことぐらいであり、それはタゴールを乗り越えるためのひとつの土台とはなったが、

それに加えてノズルルの登場も先に進むためのひとつのステップになったのではないだろうか。

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東京外国語大学論集第 85 号(2012) 245

ノズルルはそもそもタゴールの影響のおよばない世界から登場した人物で、その文学的教養

も英文学をはじめとする西洋文学ではなく、ウルドゥー詩やペルシャ詩といった「イスラム的」

世界のものだった。ノズルルはイスラム教徒としては初めて全ベンガル的な人気を勝ち得た詩

人であり、その詩世界がそれまでの詩人たちにとって新鮮であったことは間違いない。しかし

それ以上にノズルルがその個人の資質において提示した「現代思想」は若い世代に多大な影響

をおよぼした。

ノズルルが初期共産主義運動に深く関わり、『鋤』のような機関紙を発行したことはすでに述

べたが、これらはインドにおいて進歩主義作家協会が設立され(1936 年)、いわゆる「進歩主

義」的な文学が前面に出てくるより 10 年以上前のことであり、なによりも「教養」としてでは

なく、自らの実感に裏打ちされたその「自由、平等」思想、そしてそれが色濃く表れている詩

作品は、これに続く世代に衝撃を与え、それぞれの作品に刻印を残した。[Khan 1997]には、そ

うした詩人およびその作品として、ビシュヌ・デ(タゴール後の 5 人の詩人のうちのひとり、

前述)、シュバシュ・ムコッパダエ(Subhas Mukhopadhyay, 1919-2003, 40 年代に登場した主要

な詩人)など錚々たる名前の詩人の作品が挙げられており、これらひとつひとつについてはま

だ詳細な検討の必要があろうが、全体として「ベンガル現代詩の考察はかれ(ノズルル)抜き

ではあり得ない」[Khan 1997:275]というのは妥当な意見であろう。18)

文学史上のノズルルに関してもう一点忘れてはならないことは、イスラム教徒であることの

意味である。ノズルルがイスラム教徒として初めて全ベンガル的存在となったことはすでに述

べた。数の上ではけっして少なくないイスラム教徒がそれまでベンガル文学の表舞台に登場し

てこなかったのは故なきことではない。この時期のベンガリ・ムスリムは「文学」を担うべき

中間層が薄く、そのうえアッパー・ムスリムが概してウルドゥー語を用いていたため、近代以

降順調に発展を遂げてきたベンガル文学に参入することがあまりなかったからである。

もちろん、ノズルルが初めて詩を投稿した『ベンガル・ムスリム文学』という雑誌が存在し

ていたことからわかるように、それ以前にも「ベンガル語でものを書く」ムスリム作家や詩人

がいなかったわけではないのだが、それはまだ細々とした流れに過ぎなかった。しかしノズル

ルの登場がベンガリ・ムスリムの意識を変えた。すなわち、ベンガリ・ムスリムの間には、ノ

ズルルの成功によって「母語で文学的創作をすることに熱意と誇りが生まれた」[Khan

1997:410]のである。

このことはその後の歴史の流れを考えるうえで重要な視点になると思われる。なぜならノズ

ルルの成功をきっかけに「ものを書きたい」あるいは「書ける」ベンガリ・ムスリムが、ウル

ドゥー語からベンガル語へと転換していったとすると、ずっとのちのバングラデシュ独立に至

るベンガル語国語化運動の大きなうねりとも無関係ではないということになるからである。

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246 カジ・ノズルル・イスラム再考―その文学史的位置づけをめぐって―:丹羽 京子

周知のように、1947 年のインド・パキスタン分離独立ののち、いったんは東パキスタンとな

った東ベンガルが、中央政府を擁する西パキスタンと対立するようになった最初のきっかけは

「国語問題」であった。このときパキスタン政府はウルドゥー語を唯一の国語にという政策を

掲げ、同じ地位をベンガル語に対しても求める東パキスタンと対立したのだった。このパキス

タン政府の方針は、時間をずっと遡ってベンガル文学の世界にムスリム作家や詩人がほとんど

存在しないノズルル登場以前の時代であったら、それほど荒唐無稽ではなかったかもしれない。

それでも大詩人タゴールを擁する(タゴールもまた、ヒンドゥー、ムスリムの別なく「全ベン

ガル的」な存在であった)ベンガル人にとっては、ウルドゥー語を第一言語にするという方針

には違和感があっただろうが、ノズルルの存在なしで最終的にバングラデシュ独立までに至る

あの大きなうねりが起こりえたかどうかは一考の余地があろう。少なくとも独立インドで困窮

のなかにあったノズルルを新生バングラデシュが国民的詩人として迎え入れた意味はそこにあ

るのではないだろうか。

以上述べてきたことは、単独のノズルル研究においてこれまで指摘されてきた諸点に若干の

考察を加えたものである。しかしながらこうした観点は、従来の文学史(全体的な文学史のみ

ならず、「現代詩史」のようなものを含めて)ではまったくと言っていいほど検討されてきてい

ない。そのひとつの理由は、前に述べたようにベンガルの近現代文学がタゴールをひとつの頂

点として描かれてきたことにある。タゴールをベンガル文学の大動脈の中心として見た場合、

異なったラインに立つノズルルの位置は見失われがちになるからである。

しかし、総じてノズルルが当時の他の詩人たちとは圧倒的に異なっていたと言えるにしても、

ノズルルの場合、他と異なっていたために孤立していたのではなく、他と異なるがゆえのイン

パクトを持ち、ベンガル文学の流れのなかである種大きな役割を果たしていることは間違いな

い。つまり角度を変えてみれば、ノズルルが文学史の流れを変えている可能性もあるわけで、

その意味で文学史的観点からのさらなる検討が待たれていると言えよう。

3. 歌、そしてガザル

最後に、ノズルルの創作活動の重要な一角を占めていた歌について、その文学的意義を考察

することでこの論考を締めくくりたい。

まずノズルルの歌そのものの論評に入る前に、ベンガル文学における歌についていくつかの

点を確認する必要があろう。もともとベンガル文学においては、後世から見ておよそ「文学」

と認知される作品群はそのほとんどが韻文作品であり、同時に歌われるものでもあった。それ

が主に「書かれ」、「読まれる」ものとなり、散文作品が生まれ、韻文の世界でも「詩」と「歌」

の分離が見られるようになったのは、近代以降のことである。ただし近代以降もベンガルでは

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東京外国語大学論集第 85 号(2012) 247

歌と詩の結びつきは比較的密接で、その最大の所産のひとつがロビンドロ・ションギート(=

タゴール・ソング)であると言えよう。

周知のように、タゴール作品のひとつの頂点である『ギタンジョリ(Gitanjali, 1910)』は基

本的に歌として書かれており、今日でもベンガルではもっぱら歌われるものとして享受されて

いる。19) しかしタゴールの場合、『ギタンジョリ』またはほかの詩編が歌であることで、それ

らの文学上の価値が問題視されることはなく、あくまでベンガル文学の中心的な作品群として

扱われている。それに対してノズルルの場合、現代詩のみがその対象となり、歌が文学上の業

績としてほとんど取り上げられることがないのはなぜなのか。

話はやや逸れるが、タゴールの歌が「ロビンドロ・ションギート」(ロビンドロはタゴールの

ファーストネームのロビンドロナトを縮めたもの)と呼ばれ、ノズルルの歌が「ノズルル・ギ

ーティ」と呼ばれることにもひとつの「差別化」が見て取れる。「ションギート(sangit)」「ギ

ーティ(giti)」ともに「歌」という意味だが、「ギーティ」の方がやや歌のことばに重きを置い

た表現で、厳密ではないが、「ションギート」がことばと旋律がともに完全に創作されたものを

イメージするのに対し、「ギーティ」は旋律をすでにあるものから取るか、比較的単調な節回し

の上に歌詞を載せたイメージを伴う。しかし事実は、タゴール、ノズルルともに旋律も含めて

自らの創作である場合と、民族歌謡などのすでに存在していた旋律を用いた場合があり、この

ような呼称の相違には、タゴールの歌を一段上のものとして認知しようという意識が働いてい

ることが考えられる。20)

ブッドデブ・ボシュはかつて「『ギタンジョリ』期の作品群は真に詩であり、韻律技法の面で

も輝かしい道標となっている。すなわちこれらは詩としても自らの足で立つことができるもの

なのである。歌となったがためにベンガル全土においてこれらの人気はそれに匹敵するものを

持たないものとなったのではあるが。」[Bose, Buddhadeva 1966:74]と述べている。これは簡潔

にして正当な『ギタンジョリ』評であろうが、それではノズルルの歌の歌詞は「詩としては自

らの足では立て」ないものなのだろうか。

先に述べたように、一般的にノズルルの歌の歌詞は必ずしも同じノズルルの現代詩より劣っ

たものと考えられているわけではない。それどころか同じブッドデブの評によれば、むしろ詩

として書くより歌詞を書くときの方が詩的特性において勝っているとされているのである。で

は両者の歌はなぜこれほどまでに違う扱いを受けているのだろうか。

その背景としてまず我々は、近代以降「詩」と「歌」が別々のジャンルのものとして考えら

れるようになったことを考慮しなければならない。タゴールもノズルルも、詩を書くと同時に

歌も書いたが、両者とも、それぞれ異なるものを創作しているという意識があった。タゴール

が晩年取り組んだ散文詩などは、始めから歌にはなりようのない「現代詩」であり、ノズルル

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248 カジ・ノズルル・イスラム再考―その文学史的位置づけをめぐって―:丹羽 京子

の「反逆者」もまた同様の作品である。

ただ、それぞれの活動のありように、前者を「文学者」、後者を「音楽家」と認識させるよう

な側面があったことは否めない。タゴールは、ノズルルがしたように他者の歌を歌うこともな

ければ、一般大衆を前に歌を披露することもなかった。それに対してノズルルは注文に応じて

いかなる歌も作ることができ、純粋にミュージシアンとしての活躍も目立っていた。タゴール

の歌が歌としては当初あまり広まらず、単に詩として認識されていたのに対し、ノズルルの歌

は初めから歌として爆発的ヒットとなり、印刷媒体によらずに広まったこともノズルルの歌を

「文学」から排除する力として働いたと言えるかもしれない。

このようなノズルルの歌を、音楽的要素を度外視して文学作品として論じることができるか

どうかは、「文学」をどう捉えるかという問題にも関わる。そしてそれはまた、簡単に結論の出

るものでもないだろう。しかしノズルルの歌の歌詞に「詩として」の読みを加える試みは、以

上述べてきた観点に照らして意味あることであると思われる。ただし、膨大なノズルルの歌の

全般的な解析をここに行うことは不可能であるから、そのひとつを例に解説を試みる。以下に

挙げるのはよく知られた歌「旅人よ」(歌にはたいていタイトルがなく、一節目をタイトル代わ

りに用いる)の日本語訳である。

旅人よ、涙を拭け、戻ろう、自分自身を供とし。

花はおのずと咲き、そしておのずと散っていく。

狂人よ、それは満たされぬ望み、水で庵を編むとでも?

ここで渇きは癒されぬ、ここには渇きを癒す海はない。

ボクルの花も雨季に咲かず、ポウシュ月に花が咲くとでも?

この国では、ただ過ちばかりが散る、失望の森いっぱいに。

詩人よ、どれだけランプを燃やしたことか、自らを明りとし。

愛する人は来なかった、今日、おまえの世界は闇に包まれる。21)

まず注記すべきは、この歌がガザルの形式で書かれていることである。周知のようにガザル

とは本来ペルシャの詩形式で、それがインド亜大陸にも伝わったものである。ペルシャ語の影

響著しいウルドゥー語では、伝統的に詩編または歌においてガザルの形式が用いられていたが、

ベンガル語においてはノズルル以前にはほとんど試みられることはなかった。22) すでに述べた

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東京外国語大学論集第 85 号(2012) 249

ようにノズルルは早くからウルドゥー語やペルシャ語に親しんだが、本格的にそれを学んだの

はカラチ滞在時代である。のちに翻訳出版した『ハーフィズのルバイヤート』の序文で、ノズ

ルルは以下のように述べている。

わたしは学校を逃げ出して軍隊に入った。1917 年のことだった。そこでわたしは初めてハ

ーフィズを知ったのだった。わたしたちのベンガル連隊には、パンジャブ人のモウロビがい

た。ある日かれはハーフィズの詩集から何篇かを朗読してくれた。聞くやいなやわたしはそ

れに夢中になり、その日からかれのもとでペルシャ語を習い始め、ペルシャ詩人の主だった

詩編をすべて読んでしまった。

そのときからわたしはハーフィズの詩編を訳したいと思っていたが、当時はそれほどの詩

編を書く力量がわたしにはなかった。実際にわたしがハーフィズの詩編を訳し始めたのは、

それから数年経ってからのことである。それらはルバイヤートではなく、ガザルだったが、

それらは様々な雑誌に掲載された。[Islam, Kazi Nazrul 1930: 5]23)

軍隊が解散してコルカタに居を定めて数年の間のノズルルの文学活動についてはすでに述べ

た。このめまぐるしい時期、特に 1922 年に「反逆者」を発表して以来の多彩で多難な時期にお

いてもしかし、ノズルルは歌を歌い、作ることから遠ざかってはいない。ただしそれらの多く

は軍隊時代のなごりとナショナリズムの高揚の影響もあっていわゆる「愛国の歌」であった。

種々の文学活動が大きく歌へ、それも抒情的な歌へと傾いていくのは、26 年の長男ブルブルの

誕生をはさんでのことである。そしてこの 26 年後半から 28 年まではノズルルが最も多くのガ

ザルを書き、また上記の翻訳をした時期にあたる。先に挙げた「旅人よ」もそうした時期に書

かれたもので、これらは 28 年の歌詞集『ブルブル』発表でひとつの頂点に達したのだった。24)

実は『ブルブル』はすべての詩編がガザルで占められており、この時期いかにノズルルがガ

ザルの創作に打ち込んでいたかが見て取れる。そもそもブルブル(夜鶯)とはいかにもペルシ

ャ的なタイトルであるが、ノズルルは 26 年に生まれた最愛の息子をブルブルと名づけ(ただし

正式名ではない。ベンガル人の習慣としてつける「呼び名」としてである)、歌のノートもブル

ブルと名づけ、次々と歌を書きつけたというエピソードはすでに紹介したが、これらはほぼす

べてがガザルだったのである。

前掲の作品に話を戻そう。ガザルは対句によって構成され、はじめの対句が押韻し、それ以

降の対句は末尾がはじめの対句と同じように押韻するのが基本である。ペルシャ詩では、この

部分に同一語句の繰り返し(ラディーフ)があり、その前で押韻することになっているが、こ

のラディーフはなくでもよいとされ、事実ハーフィズのガザルにはラディーフなしのものが見

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250 カジ・ノズルル・イスラム再考―その文学史的位置づけをめぐって―:丹羽 京子

られるという。前掲のノズルルのガザルにはラディーフはなく、はじめの対句の「niya」(供に)

「jhariya」(散り)が押韻し、続く対句ではそれぞれ末尾の「doriya」(海)、「bhariya」(いっぱ

いに)、「duniya」(世界)が押韻している。

またガザルにおいては、最終句に詩人の雅号を詠みこむことになっているが、この詩におい

ては雅号の代わりに自分を指して「詩人(kabi)」と詠んでいる。ちなみにノズルルのガザルで

は、まれに自身の名前が使われている場合もあるが、このようにその代わりになる語句を詠む

か、もしくはそれに相当する語句がないことも多い。さらに本来のガザルでは韻律上の規則が

あるが、言語が異なるためにそれをベンガリ・ガザルにあてはめることはできない。ペルシャ

語やウルドゥー語で問題になる母音の長短は、基本的に母音の長短の区別のないベンガル語で

は反映することができないからである。

ガザルのユニークな点は、各対句の意味が独立していることである。対句と対句の意味的な

つらなりや、全体としての意味の統一には重きは置かれない。前掲の「旅人よ」でも、各対句

がひとつひとつの情景において意味を持ち、相互にストーリー展開的なつながりはないが、全

体として緩やかに失望感、無力感、枯渇感などをあらわす構成となっている。ちなみにここで

の「旅人」「狂人」「詩人」はいずれも作者自身をあらわすと考えられ、この詩はすなわち自分

自身への語りかけとなっている。

この詩句の一般的な解釈について述べると、この旅人とは人生の旅人、すなわち人生という

旅を生きるすべての人々のことでもあり、そこでは人は孤独で(供もなく)、世界において無力

であり、しかしむくわれずとも自分自身の力で生きていく、というところであろうか。どの対

句も見事な出来栄えであるが、特に 3 番目の対句は高く評価され、時に引用されることもある。

このようなガザルの詩形および特質は、それになじみのなかったベンガル人にとって新鮮な

ものであった。ただしこのような「新奇さ」はいわば外枠で、ひとたび詩の内容に入り込むと、

ここにはベンガル人にとってなじみ深い詩情が展開している。冒頭の「旅人(musaphir)」こ

そややめずらしいアラビア語系の単語を使っているものの(通常のベンガル語では pathik が一

般的である)、各対句の情景はベンガル人にとって自然なものであり、「ベンガル的」ですらあ

る。ボクルはベンガル人なら誰でも知っている花であるし(ボクルは雨季の花、また同じ行の

ポウシュ月は冬の始まりの月にあたる)、なにより最終句の「愛する人」と訳した部分は原語で

は banamali(野の花で作った花輪をかけるもの)、すなわちクリシュナ神を指している。つま

りこの最終句は、ベンガル最大の文学的伝統であるラーダー・クリシュナに重ねあわされてい

る。

このようなベンガル的、あるいはヒンドゥー的な「伝統」とペルシャ的、あるいはイスラム

的な要素の混在は、この詩に限らずノズルルの作品群の大きな特徴でもある。あるいはまた、

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東京外国語大学論集第 85 号(2012) 251

宗教的セクトとは無関係に、こうしたよく知られたシンボル群を駆使して人々に支持される歌

を提示するやり方は、遠くレト時代に身に付けたものかもしれない。

この詩が収められた歌詞集『ブルブル』はたいへんな人気を呼び、同じ年に早くも再版され、

その際には新たなガザルが加えられた。歌としても各地で熱狂的に受け入れられたが、それに

は当時の人気歌手が果たした役割も少なくない。そうした歌手のひとりとして、自ら詩人であ

り、歌の創作も行っていたディリプクマル・ラエ(Dilipkumar Ray, 1897-1980)の存在が知ら

れている。ディリプクマルはノズルルのガザルを熱狂的に支持し、各地で歌い、それを広めた

という。25) このガザルの成功がある意味、グラモフォン社との契約に結び付いていったのであ

るが、皮肉なことにレコード会社との契約後は多種多様な歌を作ることが求められ、割合とし

てガザルの創作は減っていく。しかしこの第一歌詞集『ブルブル』に収められた歌には、今日

でも新たにレコーディングが行われるなど人気のあるものが少なくない。

ただ、これによってベンガルにガザルが根付いたかといえば、そうとも言えない面がある。

たしかにノズルルのガザルは広く知られるところとなり、今日に至るまで繰り返し歌われてい

るのだが、ノズルルに続くガザル作詞家があらわれなかったのである。その理由についてノズ

ルル・ギーティ研究家のコルナモエ・ゴーシャミは「ガザルにおいては言葉が重要な要素を占

めている。ガザルは詩人の魂の表現なのである。ベンガルの歌の世界から詩人たちが去ってし

まい、旋律重視の商業的な歌の時代になって、それ(ガザル)が見られなくなったのは当然の

結果であった。」[Goswami 1996,199]と述べている。偉大な詩人が歌も作るというベンガル詩の

系譜のなかで、ノズルルはその最後の一人であったのである。

そしてノズルルにとってのガザルがいかなるものであったかと言えば、それがノズルルの詩

作の重要な一角を占めていたことは間違いない。ガザルは第一に抒情詩として定義づけられる。

ノズルルは、軍隊時代から 1925 年ごろまでの間、歌も含めて「反逆者」に代表されるトーンに

貫かれた作品群を生みだしていたのだが、26 年を境に抒情的な歌へと大きく転換し、まさにこ

のガザルによってノズルルは「愛の詩人」という別の呼称を獲得するに至ったのである。この

「反逆者の詩人」から「愛の詩人」への変貌はいとも簡単に成し遂げられたが、そこには異質

なもの、新奇なものを移入するだけではなく、もともとベンガル詩が色濃く持っていた抒情性

との親和性も働いていた。

これらの歌によってノズルルの歌の作り手としての名声が高まり、それがレコード会社との

契約に結び付いた経緯はすでに述べた。契約後のノズルルは、商品として求められる歌を作る

ことを余儀なくされていくわけだが、これら 26 年から 28 年にかけて書かれたガザル群はそれ

「以前」の作品であり、ノズルル自身の内なる衝動、詩人としての作品であると言うことがで

きる。その意味で、少なくともこれらの作品は、詩人ノズルルの自己表現、文学的所産である

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252 カジ・ノズルル・イスラム再考―その文学史的位置づけをめぐって―:丹羽 京子

と捉えられるべきであろう。

おわりに

以上、本論ではカジ・ノズルル・イスラムの文学的業績についてさまざまな角度から検証し

てきた。ノズルルがベンガル文学の主流からはずれたものとして扱われてきた経緯や背景につ

いては、以上述べてきた論点以外にも以下のことが考えられる。すなわち、ベンガルが東西に

分断されたことが、ノズルルの評価や研究に著しく影響を与えてきたと言えるのである。すで

に述べたようにノズルルは晩年バングラデシュで国民詩人としての待遇を受け、そのことが逆

にインド側でのノズルル評価や研究における冷めた眼差しを生んでいる。しかしながらノズル

ルはその活動時期を主に西ベンガル側で過ごしており、西側での充実した研究活動なくしては、

正当な評価はできないと考えられる。さらにノズルルが生きたのは、東西分裂以前のベンガル

であり、その扱いの大きな差はまさに後世の歴史的経緯が生んだものであって、実際のノズル

ルのプレゼンスを必ずしも反映してはいない。

ノズルルのありようを振り返ってみると、伝統的なベンガルの詩情を展開すると同時に革新

的な思想をあらわした人物でもあり、またレトのような伝統的な歌うたいのバックグラウンド

を持ちつつ、レコード産業で頭角をあらわしたという経歴からも見て取れるように、ノズルル

はまさに近代と現代の架け橋と言ってもよいポジションにある。つまり、ノズルルの作品と文

学へのアプローチは、伝統の最後の一人という側面と、現代の最初の一人という側面を併せ持

っているのではないだろうか。

さらに歌について考えるなら、前出のブッドデブの発言にもあるように「歌となったがため

にそれは匹敵するものを持たなくなった」という文字媒体によらない重要性があることも忘れ

るべきではないだろう。なぜなら、歌であるということによって、いまだ 100 パーセントでは

ない識字率とは関わりなく、万人に広がりを持つからである。ノズルルの歌は確実に人々に受

け入れられ、多少温度差があるにせよ、東西に関わりなくいまだ歌われているという事実は看

過すべきではないだろう。歌のことばは確実にそれを享受するものの間に浸透し、影響を及ぼ

さずにはいられないからである。

近代以降のベンガル文学の歩みを振り返るとき、確かにタゴールがその大動脈となって発展

してきたとは言えるだろう。しかし、それとは異なるラインに存在したノズルルを過小に評価

することは、ベンガル文学を実際以上に矮小化して捉えることになるのではないだろうか。そ

の意味で、ノズルル研究は、ベンガル文学研究を大きく推し進めるものであると筆者は考える。

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東京外国語大学論集第 85 号(2012) 253

1) 例えばインド側の西ベンガル州における最もオーソドックスな文学史、シュクマル・シェンの『ベンガル文

学史』(5 巻本)においては、丸々一巻(第 4 巻)がタゴールにあてられているのに対し、ノズルルにあて

られているのはたった 3 ページにすぎない。[Sen 1958]もちろんバングラデシュにおけるスタンスはこれ

とは異なっているが、シェンの文学史に匹敵するものが未だ書かれていないのが現状である。 2) ベンガル文学史では通常、ジボナノンド・ダーシュ(Jibanananda Das, 1899-1954)、シュディンドロナト・

ドット(Sudhindranath Dutta, 1901-60)、オミヨ・チョックロボルティ(Amiya Chakravarty, 1901-86)、ブッ

ドデブ・ボシュ(Buddhadeva Bose, 1908-74)、ビシュヌ・デ(Bishnu Dey, 1909-82)の 5 人をタゴール後の

主要詩人と位置付けている。 3) これらの歌の大部分は散逸してしまっているが、いくつかのものは伝えられている。[Goswami 1996:3-9]当

時、多い時で一日に 14,5 曲の歌を作ったというエピソードが残っているが、真偽のほどは確かではない。 4) ショイロジャノンド・ムコッパダエ(Shailajananda Mukhopadhyay, 1901-76)はのちに作家として成功し、

ショイロジャノンドの小説の映画化にあたってはノズルルが音楽監督を務めるなどその交友は長きにわた

って続いた。 5) ロビンドロ・ションギート、すなわちロビンドロナト・タクル(=タゴール)の作った歌は、当初から今日

のように広く歌われていたわけではない。1920 年ごろはまだタゴール・ソングが歌われる範囲は極めて限

られており、タゴール本人の周辺、すなわちタゴール家、ブランモ・ショマジュ(=ブラフマ・サマージ)、

そしてシャンティニケトンの学園において歌われているにすぎなかった。ロビンドロ・ションギートが広く

知られるようになったのはのちに優れた歌手が取り上げるようになってからのことだが、ノズルルがこのよ

うにタゴールの歌をさまざまな機会に歌ったことはそれらに先んじている。また、ノズルルはこのころシャ

ンティニケトンのタゴールのもとを訪れ、『ギタンジョリ』のすべてを歌って見せている。その際、タゴー

ルは「自分自身でもこれらすべては覚えていない」とその記憶力と歌唱力に驚嘆したというエピソードが残

っている。[Islam, Rafiqul 2010: 4] 6) 「反逆者」執筆から掲載までのいきさつや内容については、拙稿[1993]を参照されたい。 7) 『彗星』ははじめから当局に目をつけられており、第 13 号(1922 年 10 月 10 日号)でノズルルがインドの

完全独立を主張したことが問題となったが、正式な起訴はそれ以前に発表されていた「アノンドモイの訪れ

に」に対してなされることになった。 8) 発禁処分となった著作については[Kar 1983]に詳しい。 9) 労働者独立党は当初インド国民会議派(Indian National Congress)内の組織として結成されたが、のちに会

議派とは袂を分かち、労働者と農民を前面に出した組織となる。 10) 1924 年の暮れに第一子が生まれているが、誕生後すぐに亡くなったため、ブルブルが実質上の長男であっ

た。 11) ノズルルの初のレコードは、1925 年に録音されたものだった。(HMV no.6945)ここにはノズルルの名前は

クレジットされていないが、のちにノズルルと正式契約をする際、この時の分も含めてロヤリティーが支払

われたという。[Goswami 1996:45] 12) [Bose, Pratima 1980]など多くの歌手の証言が残されている。 13) ノズルルは一貫してシャマ・ションギートを書くのが得意で、ある歌手の証言によると、ある日夢中になっ

て 12 曲ものシャマ・ションギートを書いたという。また、このころノズルルが多くのイスラム系の宗教歌

を書いたことにより、イスラム教徒の歌手が不足し、新人歌手の発掘に励みがついたというエピソードも残

っている。[Goswami 1996: 75, 97] 14) [Islam, Rafiqul 1991]による。歌に関しては印刷された歌詞に加えて、レコードからの確認作業も行われてい

るが、それによると合計で 3000 曲は上回るとされている。ノズルルのレコードに関しては、[Khan, Ajharuddin 1997]にかなり詳細なリストがあるが、著者によるとレコード会社にも当時の記録はなく、その

ためこのリストは不完全であるという。 15) 「一般的に言えることは、かれの歌の方が詩よりも満足できる出来栄えになっていることだ。歌という比較

的短い形式においては、冗長になるというかれの欠点が表れにくい。」[Bose, Buddhadeva 1991 : 63] ブッド

デブ・ボシュはノズルルと個人的な親交もあった次世代の詩人で、タゴール後の 5 人の詩人のひとり。同じ

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論考で若き日に受けたノズルルの衝撃についても語っている。 16) タゴールが亡くなった 1941 年 8 月、ノズルルは「タゴールを失って(Rabihara)」という詩を発表、それを

自らラジオで朗読しているが、これが公的な場でノズルルの声が流れた最後となった。翌 42 年 7 月に再び

ラジオ出演をしているが、この際にはマイクを前にして話すことができず中断、以後完全にことばを失った。 17) タゴール後の詩人たちの格闘については、拙稿[丹羽 2012]も参照されたい。 18) ただし、詩のスタイルに関しては、ノズルルはそれまでのありようを大きく変えてはいない。育ってきた環

境が異なるため語彙や語法の選択には独特のものがあるが、韻律その他の詩形はそれ以前のありようを踏襲

している。 19) ノーベル賞受賞作品となった英語版『ギータンジャリ』は、このベンガル語版オリジナルの『ギタンジョリ』

の約 3 分の 1 が含まれているとはいえ、その全訳ではない。さらに、英語版は散文詩として書かれているの

に対し、オリジナルは基本的に歌であることが根本的に異なっている。 20) そのため近年では主にバングラデシュにおいて「ノズルル・ションギート」という呼称も使われている。 21) 歌詞集『ブルブル』に収められた一篇。『ブルブル』については後述。この翻訳は全集を底本として行った。

[Islam, Kazi Nazrul 1967: 234] 22) ベンガル語における最初のガザルはオトゥルプロシャド・シェン(Atulprasad Sen, 1871-1934)が発表した

ものとされている。弁護士でもあったオトゥルプロシャドはラクノウ滞在中にウルドゥー語に親しみ、この

形式に魅せられてベンガル語でガザルを書いた。ただしオトゥルプロシャドはコルカタの文学界や音楽界と

はほとんど関わりを持たず、これらが広まるには至らなかった。ベンガルでガザルが親しまれるようになっ

たのは、ノズルルの作品群によってである。 23) 単行本として出版された翻訳は、この『ハーフィズのルバイヤート』(1930)のほかに『アンパラ』(1933)

『オマル・ハイヤームのルバイヤート』(1959)がある。引用にもあるように、ノズルルはそれ以外にも雑

誌に多くの翻訳を発表しているが、特に 1926 年から 28 年にかけては「コッロル」を始めとする様々な雑誌

に多くのガザルの翻訳を載せている。 24) ノズルルの最初のガザル「庭のブルブル鳥(Bagicay Bulbul)」は 1926 年のオグロハヨン月(11 月中旬から

12 月中旬)に書かれ、翌 27 年の『コッロル』マーグ月号(1 月中旬から 2 月中旬)に発表された。 25) 歌詞集『ブルブル』の冒頭にはそのディリプクマルに捧げられた歌が収められている。ディリプクマル・ラ

エは、タゴールと同世代で同じく詩人であり、歌も作ったディジェンドロラル・ラエ(Dwijendralal Ray, 1863-1913)の息子。この当時歌手および作曲家として活躍していたが、のちに俗世を離れてポンディチェリー

に暮らした。その「引退」はノズルルを始めとして多くの関係者に惜しまれたという。

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Some Thoughts on Kazi Nazrul Islam in the Literary History of Bengal

NIWA Kyoko

Kazi Nazrul Islam(1899-1976), one of the most powerful poets in Bengali literature after

Tagore, is commonly known as a “Rebel Poet” for his highly acclaimed and widely read poem

where he declared himself a rebel against discrimination and injustice. It was in 1920s and 1930s

of the undivided Bengal of British India that he reached the peak of his creative excellence and

greatly influenced many of later generation poets.

However, we can find rather a law-key description about his works, much less of his influence

or significance in Bengali literature, in well recognized textbooks of literary history like Bangla

Sahityer Itihas (The Literary History of Bengal) written by the famous scholar Sukumar Sen. This

relatively low evaluation had partly been influenced by the partition of Bengal; and whereas in

Bangladesh Nazrul is regarded as a national poet, he has largely been undervalued in West

Bengal.

There are few other issues as well that we need to take into consideration while looking for

the reasons of Nazrul’s negative assessment. Since Rabindranath Tagore is the master figure of

Bengal poetry, the Literary History of Modern Bengal naturally evolves keeping him firmly at the

center and thus neglects easily Nazrul’s significance. It is more because he emerged from a

completely different background than that of Tagore and his literary talent too differed from that

of the great poet. Nazrul’s songs are also curiously ignored in literary studies, and hardly treated

as serious literature in contrast to Tagore songs, which are considered to be his important

literary works.

In this paper, the author tried to examine Nazrul’s literary works, including his songs, and

their significance in the perspective of shedding new light on the structure of the literary history

of Bengal.