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情報化社会と経済 IT 革命と情報化社会(資料) i (1) コンピュータ産業の成立、IBM の市場支配 1、半導体の発達とコンピュータ産業 (1)トランジスタの登場 電子計算機=コンピュータによる数値計算と論理演算は、数値を 2 進法(0 1 だけの元)で表現することにより、演算を論理式によって行う。そのため にコンピュータの電子回路もアナログの連続波形を 2 進法で表示可能なデジタ ル符号に変換し、電子的に貯えることが必要になる。初期の電子計算機では電 流を増幅する機能を持つ真空管がこの役目を担ったのであるが、消費電力が高 く熱も発生し故障しやすくて不安定であった。 William Bradford Shockley1910- 1989)が 1947 年、AT&T Bell Laboratory(ベル研究所) において、John Bardeen 1908 -1991)Walter Houser Brattain1902 -1987)とともに半導体 の性質を持つゲルマニウム 1 の塊の表面に二本の 針を立てると、その間に電気信号が起こることを 発見 2 、これをトランジスタ 3 と命名した。トラン ジスタは真空管に比べて消費電力が小さいこと、寿命が 遙かに長いことからその後急速に普及することになり、 コンピュータの小型化、高密度化が進み、性能が一段と 向上することになる。 IBM 1960 年に CPUCentral Processing Unit中央処理装置)の回路素子として真空管の代わりにトラ ンジスタを採用した IBM7070 を発表、大型コンピュー タでの市場を拡大していった 4 1 電気を通しやすい「導体」と電気を通さない「絶縁体」との中間の性質を持つ物質。通常 「半導体」と言った場合、半導体そのものではなく、半導体を用いて作られたダイオード やトランジスタ、またそれらの集積回路である IC などを指すことが多い。 2 敵のレーダーを検知する研究からゲルマニウムに注目し、これに少量の不純物を入れて作 った半導体をうまく組み合わせることにより、電流の増幅作用が出ることを発見する。こ れによって微弱な電波を増幅してレーダーが掛けられていることを検知しようとした。 3 「変化する抵抗を通じての信号変換器」(transfer of a signal through a varister または transit resistorからの造語。 4 トランジスタを最初に使ったコンピュータはスペリーランド社(旧レミントンランド社) UNIVAC Solid-State 80 であったが、市場を支配したのは IBM 7070 と、650 にかわ る中・小型コンピュータとしての 1401 であった。

(1) コンピュータ産業の成立、IBM の市場支配となる。テキサス・インスツルメンツ社(Texas Instruments Inc.)の技術者だ ったJack St. Claire

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    (1) コンピュータ産業の成立、IBMの市場支配

    1、半導体の発達とコンピュータ産業

    (1)トランジスタの登場 電子計算機=コンピュータによる数値計算と論理演算は、数値を 2 進法(0と 1 だけの元)で表現することにより、演算を論理式によって行う。そのためにコンピュータの電子回路もアナログの連続波形を 2 進法で表示可能なデジタル符号に変換し、電子的に貯えることが必要になる。初期の電子計算機では電

    流を増幅する機能を持つ真空管がこの役目を担ったのであるが、消費電力が高

    く熱も発生し故障しやすくて不安定であった。 William Bradford Shockley(1910- 1989)が

    1947年、AT&T Bell Laboratory(ベル研究所)において、John Bardeen(1908 -1991)、Walter Houser Brattain(1902 -1987)とともに半導体の性質を持つゲルマニウム1の塊の表面に二本の

    針を立てると、その間に電気信号が起こることを

    発見2、これをトランジスタ3と命名した。トラン

    ジスタは真空管に比べて消費電力が小さいこと、寿命が

    遙かに長いことからその後急速に普及することになり、

    コンピュータの小型化、高密度化が進み、性能が一段と

    向上することになる。 IBMは 1960年に CPU(Central Processing Unit:中央処理装置)の回路素子として真空管の代わりにトラ

    ンジスタを採用した IBM7070 を発表、大型コンピュータでの市場を拡大していった4。

    1 電気を通しやすい「導体」と電気を通さない「絶縁体」との中間の性質を持つ物質。通常「半導体」と言った場合、半導体そのものではなく、半導体を用いて作られたダイオード

    やトランジスタ、またそれらの集積回路である ICなどを指すことが多い。 2 敵のレーダーを検知する研究からゲルマニウムに注目し、これに少量の不純物を入れて作った半導体をうまく組み合わせることにより、電流の増幅作用が出ることを発見する。こ

    れによって微弱な電波を増幅してレーダーが掛けられていることを検知しようとした。 3 「変化する抵抗を通じての信号変換器」(transfer of a signal through a varister または transit resistor) からの造語。 4 トランジスタを最初に使ったコンピュータはスペリーランド社(旧レミントンランド社)の UNIVAC Solid-State 80であったが、市場を支配したのは IBMの 7070と、650にかわる中・小型コンピュータとしての 1401であった。

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    (2)IC=集積回路の発明 コンピュータの電子回路はトランジスタやコンデンサ、抵抗などを接合した

    ものであるが、ゲルマニウムの基板を利用してこれらの回路化の一体化が可能

    となる。テキサス・インスツルメンツ社(Texas Instruments Inc.)の技術者だった Jack St. Claire Kilby(1923~)は 1958年にこの IC(Integrated Circuit:集積回路)を考案し特許を取得した5。 一方、ゲルマニウムは特性が不安定でトラブルが多いため、半導体としてシ

    リコンの利用が広まってきた。Robert Noyce(1927-)はシリコンを熱酸化してすべての表面を保護膜で被覆し、これを活用してトランジスタなどの回路素子

    のすべてを順次送り込む技術を次々と完成させた。最後にこの膜の上に金属膜

    で配線して各部品を接続すれば ICができあがる。プレーナー技術と呼ばれるものである6。 この IC=集積回路を用いて 1964年に発表された IBM/360は、コンピュータの流れを変えたと言われている。

    5 いわゆる「キルビー特許」と呼ばれる。特許の内容は、半導体でできた一枚の基板の上に抵抗やトランジスタ、配線などを形成し、全体として特定の機能をこなす電子回路を構成

    する方法で、すべての ICが対象となる基本特許であった。TI社は日本において、特許出願を分割する手法を駆使して特許の一部の成立を遅らせたため、親特許が 1980年に失効しているにも関わらず、半導体メーカーは 2001年まで TI社に特許使用料を支払わなければならなくなってしまった。富士通は特許使用料の支払いを拒否し、1991年に TI社を相手取って訴訟を起こし、2000年の最高裁判決は特許の使用料請求を無効とした。 6 Noyceと「ムーアの法則」で有名な Gordon Mooreが 1968年に設立したのが Intel社であり、1970年には1キロビットの DRAMメモリーを世に送り出している。集積回路産業の誕生であり、また多くのシリコン開拓者や新興の企業人が集結したカリフォルニアのサ

    ンタクララはシリコンバレーという名前が定着した。

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    2、プログラムの発達とコンピュータ

    (1)プログラム開発言語とソフトウェア von Neumannによるプログラム内蔵方式によって、コンピュータに対する命令の列は論理化・数値化され計算機内部の記憶装置に記憶されるようになった。

    プログラムの表現は電子回路に対する形式論理的な操作であるが、これを言語

    形式で表現したものがマシン語7であり、これによって組まれたものがオブジェ

    クト・プログラム(オブジェクト・コード)と呼ばれる。ところがマシン語の

    プログラムは 0 と 1 の無味乾燥な記号列にすぎないので、人間にもっとわかりやすい言語=プログラミング言語8が開発されてきた。このプログラミング言語

    によって書かれたものがソース・プログラム(ソース・コード)と呼ばれる。 最初の高級プログラミング言語としては、1956 年に IBM 社によって開発された FORTALN(Mathematical FORmula TRANslating System)が有名である。数式をほぼそのまま記述できるのが特徴で、科学技術計算向けのプログラ

    ミング言語として使われた。また 1959年にはアメリカ国防総省とメーカ、ユーザの代表で構成された CODASYL 委員会(Conference On DAta SYstems Language)によって開発された事務処理用言語 COBOL(COmmon Business Oriented Language)は企業の会計処理に使われる大型計算機のプログラムに使われてきた9。 これらのプログラム言語によって様々なプログラム=ソフトウェアが開発さ

    れ、コンピュータの応用分野を広げ、その市場の拡大に貢献していったのであ

    る10。

    7 マイクロプロセッサが直接解釈・実行できる言語。数字の列で表現され、人間が簡単に理解できるような形式にはなっていない。マシン語は直接プロセッサが実行するコードであ

    るため、ハードウェアを制御するデバイスドライバや、OSの基盤となる部分などではマシン語による開発が行なわれることが多い。その反面、マシン語は複雑な、あるいは大規模

    なプログラムの開発には向かないため、アプリケーションソフトの多くは高水準言語=プ

    ログラミング言語によって開発され、マシン語に変換して実行するようになっている。 8 プログラミング言語は広義にはマシン語も含み、より機械が解釈しやすい低水準言語、人間が解釈しやすい高水準言語に分かれ、マシン語はもっとも低水準の言語となる。プログ

    ラミング言語は人間に理解できるように作られているため、そのままではコンピュータが

    実行することはできない。プログラミング言語で書かれたソースコードは、アセンブルや

    コンパイルなどの処理を行って、機械語の羅列(オブジェクトコード)に翻訳されるのである。 9 後にパソコン用のプログラミング言語に移植される BASIC(Beginners’ All-purpose Symbolic Instruction Code)は 1965年にダートマス大学の John G. Kemeny、Thomas E. Kurtzによって開発されている。 10 科学技術向け(数値計算用や統計解析用)のソフトウェア、業務処理向けのソフトウェアが開発され、コンピュータ・ハードウェアとともに販売されていった。

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    (2)OS=基本ソフトウェアと IBM System/360 ソフトウェアの応用分野が広がる一方、コンピュータ・ハードウェアの製品

    ライン毎にソフトウェアの互換性はなく、機種も増え続けていくことになった。 これは、ある特定目的のために動作するソフトウェアが、特定目的の専用のコ

    ンピュータ・システムを必要とすることであり、また、同じ専用システムでも

    IC(プロセッサ)のスピード、IOデバイスの数などのシステムの構成が違えば、それだけでソフトウェアの互換性は保てなかった。 そこで、入力や画面出力といった入出力機能やディスクやメモリの管理など、

    多くのアソフトウェアから共通して利用される基本的な機能を提供し、コンピ

    ュータ・システム全体を管理するソフトウェア、OS(Operating System:基本ソフトウェア)の開発が 1960年代から始まった。 そして 1964年に発表された IBM のSystem/360は ICを採用すると同時に業界で初めて本格的な OS (OS/360)を搭載していた。また、System/360は互換性をもったコンピューター・ファミリーで、ソフトウェアはもちろん、周辺装置

    はどのモデルでも共通に使えるようになった。また、ハードウェアの仕様の違

    いは OSが吸収してくれるため、ある OS向けに開発されたソフトウェアは、基本的にはその OSが動作するどんなコンピュータでも利用できることになる。その結果、ユーザの生産性は大幅に向上し、上位機種への移行も容易になった。

    一方、コンピュータ・ハードウェアを中心としたシステムは汎用化すること

    によって本格的な量産化が可能になり、市場を拡大していくことになった11。ま

    た、大型コンピュータの IBM による市場支配によって、他メーカーは IBM のシステムと互換性を持つ機種の開発(IBM コンパチブル路線)で、コンピュータ・ハードウェア企業の巨人 IBMに追随することになる。

    11 System/360は 70年末までに約 5,000台が販売されたが、これは 64年時点における販売予測の約 2倍であった。そして 50年代から 60年を通じて IBMは商用コンピュータ市場の 70%以上を占有することになる。まさにコンピュータ産業の巨人=IBMであった、

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    3、コンピュータ産業の巨人、IBMによる市場支配

    (1)IBM=ビッグ・ブルーの誕生とコンピュータ産業への参入 IBM(International Business Machines Corporation)は 1896 年設立のパンチカード式計算機械メーカー Tabulating Machines 社が、1901年に時計メーカーなどと合併して CTR(Computer Tabulating Recording)社を設立、1924 年 IBM に改称され設立された企業である。元々が事務用機器メーカーであり、主力のパンチカード式計算機械を、政府機関を中心に納入していた。 創業者のワトソンⅠ世、Thomas Watson (1874 – 1956) はセールスマンのモラルも低く地位がまだ低かった時代に、

    考える=THINK、頭を使って販売することの重要性を説き売上げを拡大していく。特に 1930年代に入りルーズベルト政権が登場し(1933)、ニューディール政策が始まると全国産業復興局(NRA)をはじめとする多数の政府機関からパンチカード式計算機械に対する需要が急増した12。 一方、パンチカード式計算機械の開発された技術は電気計算機の開発には貢

    献をしたが、電子計算機の開発・販売では出遅れた(第 1回参照)。しかしながら 1950年代に入ってコンピュータ事業に本格的に参入をし始めると、パンチカード式計算機械時代に培った政

    府機関との関係や販売、経営戦略のノウハウを駆使して、

    コンピュータ市場でも主導権を握り急成長をとげるこ

    とになる。1956年CEOになったワトソンⅡ世、Thomas J. Watson Jr. (1914 - 1993) はコンピュータ市場の動向を敏感に感じ取り、積極的に投資を拡大していった。

    特に System 360の OSの開発においては、ハードウェアの開発に匹敵する投資を行い13、IBM のコンピュータ・システムの全体系を統合化するとともに、その販売

    戦略をユーザに認知させていった。

    12 ニューディール政策は自由市場的な市場競争原理に対して、政府が一定の計画性を導入しようとするものであったので、政府活動のなかで統計的・経理的・計数的な機能が増大

    したためであった。特に 1935年に新設された社会保険局と契約は、全国労働者の 1人ひとりについて記録をとるというもので、パンチカード式計算機械の納入台数を増やし、その

    後の政府機関市場でも優位に立つきっかけを作った。 13 System360は発表前後の 4年間の間に、開発費、生産準備費、レンタル資金、販売費などあわせて 50億ドル(当時の邦貨で 1兆 8000億円)を要したまさに社運をかけた生産計画で、開発費だけで 5億ドル、そのうち半分が OSの開発費用だった。

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    (2)包括レンタル方式による市場支配 IBM はもともとパンチカード式計算機械の販売においてレンタル/リース方式をとっていた14。この方式では生産設備だけでなく生産物=商品自体が固定資

    本となり、結果的に必要固定資本額を巨大化させ、他の企業に対して高い参入

    障壁を形成することになる15。 IBM はコンピュータの販売方式においてもこのレンタル/リース方式を継続したが、コンピュータのハードウェアだけでなく OSを含むソフトウェア、さらにフィールドサポート、システムコンサルティング、ユーザ教育等コンピュー

    タを利用するために必要なサービスを包括的にレンタル価格に含めていた。し

    かしながらソフトウェアを含めてそれぞれの価格が明確になっていたわけでは

    ない。包括レンタル価格方式によってソフトウェアまで含めた固定資本の参入

    障壁を高めることによって IBMの寡占化にますます拍車をかけたのである。 (3)独占禁止法訴訟とアンバンドリング(価格分離)政策 少数の、特に一つの企業による市場の寡占支配は競争を阻害し、技術の発達

    を遅らせることになる。アメリカ司法省は 1969年に IBMによる包括レンタル方式を反トラスト法(独占禁止法)違反であるとして公正取引委員会に提訴し

    た。IBM はただちに和解(事実上の敗訴)し、一方的にアンバンドリング(価格分離)政策を発表する。これは、これまでのコンピュータ・システム全体の

    レンタル価格体系が、ユーザには内訳が不明だったのに対し、OSも含めて、それぞれ別立ての料金体系として分離したものであった。 ここにソフトウェアはコンピュータ・ハードウェアに付随するものではなく、

    それ自身が価値=価格をもつ独自の商品として自立していくことになった16。 【参考文献】 ・ トーマス・ワトソン・Jr自伝 『IBMの息子』 新潮社 ・ ティム・ジャクソン 『インサイドインテル』 翔泳社 ・ 村瀬康司 『はじめて読むマシン語』 アスキー ・ 遠藤諭 『計算機屋かく戦えり』 アスキー

    14 ユーザは商品=コンピュータを自己の資産として所有することなく、占有によって使用し、その対価を商品の所有者に支払うという賃貸借契約をベースとする取引である。 15 この固定資本の回収がレンタル/リース収入によって徐々に実現されていくのである。そして一たん市場で支配的な地位を築いてしまえば、前期以前の商品のレンタル/リース料の安定的な収入によって新規参入企業に対して常に優位に立てるようになる。 16 IBM自身は戦略商品としてのソフトウェアをユーザに対してコスト的に明確にしたにすぎないが、アンバンドリング政策によってソフトウェア自体を開発・販売するソフトウェ

    ア産業が、産業としての存立基盤を与えられたことになった。

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    (2) パソコンの登場とソフトウェア産業、マイクロソフトの市場支配

    1、マイクロプロセッサの登場と半導体産業

    (1)電卓とマイクロプロセッサの登場 日本の電卓メーカー、ビジコン社は機能の異なるモデルの電卓の開発を容易

    にするために、1969年に Intel社と「マイクロコンピュータ」(事実上は電卓)の開発のため契約を結ぶ17。日本からは嶋正利氏が参加し、1971 年に 3mm×4mmの小片の上に 2,300個のトランジスタを集積して実現した Intel 4004が完成・発表された。Intel 4004 は電卓のモデル変更をプログラムによって対応しようとしたものであるが、コンピュータの基本機能を小型のワンチップ上にす

    べて集約させて実現したもので、ICから LSI(Large Scale Integration:大規模集積回路)18への転換であり、マイクロプロセッサの出発点であった。 その後 Intelは 1974年に Intel 8080マイクロプロセッサ(右図)を発売、大型コンピュータに必要な回路がほとんど組み込まれ

    ていた。このマイクロプロセッサ19の登場によって大

    型コンピュータの処理能力を小型のワンチップで、

    低価格で手に入れることが可能になり、パーソナ

    ル・コンピュータの実現が可能になったのである。

    またマイクロプロセッサは電卓の他、炊飯器、テレ

    ビ、自動車のエンジンなどの機器に組み込むことに

    よって、これらの機器の制御も可能になるのであり、

    後のユビキタス技術にもつながるものでもあった。 17 当時いくつもの企業へ電卓の OEM(Original Equipment Manufacture)製造を行っていたビジコン社は、OEMの相手先ごとに様々な電卓とそれに用いる ICチップを作り変える必要があった。しかしこれにはたいへんな人手と時間を要し、ICチップメーカーも製造を引き受けたがらなかった。このためビジコン社は電卓の機能の変更について、ICチップの設計変更などハード面の対応ではなく、プログラムの変更というソフト面の変更で対応

    する方式をとることを考え、この開発を Intel社と共同で行うことになる。 18 ICのうちチップに収められた素子数が数千~数万程度のものを LSI、10万を超えるものを VLSI(Very Large Scale Integration)、さらに 100万を超えるものを ULSI(Ultra-Large Scale Integration )と呼ぶ。 19 なお、コンピュータの心臓部分 CPU(Central Processing Unit、中央処理装置)は、様々な数値計算や情報処理、機器制御などを行うコンピュータにおける中心的な回路で、プロ

    グラムを読み込むことによってこれらの処理を行うのであるが、これが現在では 1チップの LSIに集積されて実現されていることによって CPU=マイクロプロセッサとなり、またMPU(Micro Processing Unit)と呼ぶ場合もある。

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    (2)メモリとムーアの法則 コンピュータにマイクロプロセッサとともにプログラムやデータを保存する

    メモリが必要である。この回路構造は単純なパターンを並べるだけあったので

    日本の得意な量産技術、歩留まり、品質管理で勝負できる分野であった。1975年には日本政府の主導で、各社共同の研究体制によって特に DRAM(Dynamic Random Access Memory)20の開発に力を入れる。その結果 1977年には 64キロビットの DRAMの開発に成功、それ以降世界のメモリ市場を制圧する21。 Intelの設立者の 1人である Gordon E. Moore(1929-) によると、「半導体素子に集積されるトランジスタの数は、 18ヶ月で倍増する」(いわゆるムーアの法則、下左図)。 事実、ムーアの法則はメモリについても当てはまり(下中図) 容量は増え、需要を創出し、しかも量産効果によって値段は 変わらないので(下右図)、それがまたメモリの用途と需要を 増やす好循環を生んだ。

    半導体やコンピュータの標準化が進むと、技術レベルのグローバルな拡散が

    生じる。半導体産業も 1990年代に入るとより人件費の安い韓国、台湾、東南アジア、中国の順に工場移転と技術移転が進み、日本の半導体産業は失速した22。 20 読み書きが自由に行なえる RAMの一種で、コンデンサとトランジスタにより電荷を蓄える回路を記憶素子に用いる。コンピュータの電源を落とすと記憶内容は消去されるが、

    回路が単純で、集積度も簡単に上げることができ、価格も安いため、コンピュータのメイ

    ンメモリはほとんどが DRAMである。なお Intelはマイクロプロセッサに特化することによって現在の地位を築いている。 21 アメリカは 1985年に不公正貿易の提訴から緊急輸入制限をするなど「日米半導体戦争」といわれた貿易摩擦を経て、1986年には日米半導体協定によって政治的決着した。1987年には日本は DRAM市場で世界シェアの7割を占めた。 22 2002年時点で世界の DRAM市場は韓国の Samsung Electronicsが 31%を占め、一方に日本でメモリを生産するメーカーは NECと日立の折半出資によるエルピーダメモリのみで市場シェアは 6.4%である。

    ムーアの法則(MPU)

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    2、マイクロプロセッサとパソコンの時代

    (1)マイクロコンピュータとマイクロソフトの成立 インテルが 1974年に 8080マイクロプロセッサを発売した直後、ニューメキシコ州のアルバカーキのMITS(Micro Instrumental and Telemetry Systems)という小さな会社が技術的にも、価格的にもパーソナル機と呼ぶにふさわしい

    マイクロコンピュータ(マイコン)、Altair 8800(下図)を発表した。Altair 8800の価格はキットが 395ドル、完成品が 498ドルで、発売後 3ヶ月で 4000台の受注を受けることになる。 Altair 8800 の開発者 H. Edward Robertsは、コンピュータの仕様を公開し(オープン・

    アーキテクチャー)他のメーカーがこの仕様に

    基づいてメモリ・カードやプリンタなどの各種

    装置を自由に追加することが可能になった。そ

    してこの Altair 8800のためにプログラムを開発したのが当時まだ 20 歳の William Henry Gates(1955-)、ビル・ゲイツであった。ゲイツと Paul G. Allen(1953-)が 1975年に創立したMicrosoft社は BASIC言語の開発会社として出発し、この世界最初のマイクロコン

    ピュータのための BASICを書き上げたのである。 (2)Apple IIとパソコン時代の幕開け Altairを始めとした Intel 8080を使ったマイコンはコンピュータ・マニアの間で熱狂的に迎え入れられたが、信頼性に問題があり、ビジネス向けのアプリ

    ケーション・ソフトウェアもほとんどなかったので、最初は趣味の領域を出な

    かった。しかし、1976年にカリフォルニア州のクパティーノで Steven Paul Jobs(1955-)と Steve Wozniakによって設立された Apple Computer社が1977年に発表した Apple II(右図)は、システムとしての完成度が高く、技術的な知識がないユーザで

    も設定して使用ができる機種であり、1,200 ドルという値段にかかわらず最もよく売れた23。Apple IIは Altair と同じくオープン・アーキテクチャーを採用し、また表計算ソフト、会計用ソフト、ワープロ・ソフトなどが揃っていたのが成功の要因であった。

    Apple IIはパーソナル・コンピュータ(パソコン)時代の幕開けであった。 23 Apple IIは 80年末までに 12万台以上が販売された。

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    (3)IBM-PCの登場とMS-DOS ミニコンピュータ、そしてパーソナル・コンピュータへの市場の拡大に対し

    て、コンピュータ業界の巨人 IBMもこの市場への参入を図ることになる。1981年に発売にこぎつけた IBM-PC(IBM 5150、下図)は Altairや Apple IIと同様にオープン・アーキテクチャーを採用していたが、これは IBM-PC の開発にあたって、マイクロプロセッサ、ディスク・ドライ

    ブ、プリンタなどの多くの部品を他社からの調達に

    頼らざるを得なかったからであった。そして、

    IBM-PCの OS、オペレーティング・システムに採用されたのが Microsoft であり、 IBM-PC はMS-DOS(Microsoft Disk Operating System)を搭載し、MS-DOS 上で動くソフトウェアによってその機能を発揮することになる。 IBMがオープン・アーキテクチャー戦略をとったことで、IBM-PCのクローン製品や周辺機器、ソフトウェアが次々と発売され、それがまた IBM-PC の売上げを拡大することにつながった24。だがそれ以上に、仕

    様の公開されない OSであるMS-DOSの、そしてその開発・販売者であるMicrosoft社のソフトウェア市場とコンピュータ業界における支配を強めていくことになったの

    である。 IBM-PCが発売された翌年、1983年の雑誌 TIMEの表紙、MAN OF THE YEARを飾ったのは、MACHINE OF THE YEAR、パーソナル・コンピュータであり、パソコン時代への突入を象徴する出来事であった。 (4)GUIとMacintosh、そしてWindows アメリカ国防省の ARPA(Advanced Research Project Agency:高等研究計画局)にいた Douglas Engelbart(1925-)は人間に使いやすいコンピュータの研究を進め、1968年に GUI(Graphical User Interface)、画面上に複数のウィンドウを開き、それをマウスで操作するという構想を発表する。

    24 IBM-PCは当初の販売台数予測を「5年間で 24万 1683台」と見込んだが、この数字をわずか 1カ月で達成してしまうほどの勢い(IBM社)で、結果的に数百万台を販売することになる。その後、1984年に IBMが新規格の IBM PC/ATを発売し、これが現在まで続くパソコンの基本になっている。PC/AT も多くの互換機が発売され、それらのパソコンを総称して AT 互換機と呼んでいる。特に 1985 年に発売された Compac 社(後に Hewlett Packard社により買収)の AT互換機の技術力は本家の IBMを凌駕しており、以降 Compacはパソコンの新規格の策定に大きな影響力を持つようになる。

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    Engelbartの GUIの思想は、Xerox社の PARC(Palo Alto Research Center )にいた Alan Kay(1940-)が 1974年に 開発した Altoによって実現した25。

    1979年に PARCで Altoを見学した Apple社の Steven Paul Jobs はその先進性に感銘を受け、1984年にその機能 を 2,000ドルで実現するMacintosh(右図)を発表。 プロセッサに Motorola 社の 68000 を使用、パーソナル・コンピュータ市場に独自の地位を築いた。

    Microsoft 社も翌年から GUI の機能を持つWindows の開発・販売を始め、 1990 年にWindows3.0が、1993年にWindows3.1、そして、1995年に発売されたWindows95が世界的な大ヒットとなり、Windows は PC/AT 互換機用 OS の標準となった。

    3、パソコンの普及とソフトウェア産業

    (1)パソコンの普及とコンピュータ・ハードウェア産業 IC の高度化と相まってコンピュータ・ハードウェアの性能が高度化し、小型化し、そして低価格化したことによってコンピュータの普及は爆発的に拡大し

    た。2004年度の世界全体のパソコン出荷台数は 1億 7800万台、毎年 10%を超える成長率で拡大している26。一方、オープン・アーキテクチャー戦略をとった

    ことで、半導体同様技術レベルのグローバルな拡散が進み、人件費の安い台湾

    や東南アジア、中国へと工場移転と

    技術移転が進みつつある27。 パソコンの製造はもはや研究開

    発型の産業分野ではなく、低コスト

    の人件費に頼った組み立て型の産

    業なのである。

    25 Altoは結局市販されず、1500台が製造されて研究機関などに納入された。 26 2004年の日本のパソコン市場は、出荷台数は前年比 3.8%増の 1318万台、出荷金額は前年比 3.7%減の 1兆 7601億円。デスクトップパソコンが 49.8%、ノートパソコンが 50.2%で、ベンダー別シェアは、1位が日本電気 (19.9%)、2位が富士通 (19.0%)、3位がデル (10.2%)、4位が東芝(8.3%)、5位が日本アイ・ビー・エム (6.8%)となっている(ガートナー ジャパンのデータクエスト部門調査)。 27 半導体に続き、コンピュータも生産拠点と技術の移転が進み、2004年に IBMは PC事業部門を中国 Lenovo Groupに売却したのは象徴的な出来事である。

    2004年度の世界市場におけるパソコン市場シェア

    16%

    15%

    5%

    4%

    3%

    57%

    DELL

    Hewlett-Packard

    IBM

    Fujitsu/FujitsuSiemens

    Acer

    その他

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    xii

    (2)パソコンの普及とソフトウェア産業 コンピュータのソフトウェアはプログラムの集合体であり、プログラム言語

    の発達とともに科学技術計算、統計処理、業務処理などの分野で拡充をしてい

    ったが、大型コンピュータの時代にはソフトウェアはハードウェアに付随する

    「サービス」の側面が強かった。1969 年の IBM によるアンバンドリング(価格分離)政策によって ソフトウェアは、それ自身が価値=価格をもつ独自の

    商品として自立し、ソフトウェアを開発・販売するソフトウェア産業が、産業

    としての存立基盤を与えられたことになった(第2回)。 コンピュータ・ハードウェアが小型化し、そしてパーソナル・コンピュータ

    の登場によってコンピュータの市場が急速に拡大し、応用分野が広がるにつれ

    た、ソフトウェアに対する需要も拡大していくことになる。企業の業務分野に

    おける経理や人事管理、販売管理・在庫管理、製造工程の合理化を目的とした

    CAD(Computer Aided Design)・CAM(Computer Aided Manufacturing)、新聞・出版業における DTP(Desk Top Publishing)など様々な分野でソフトウェアのパッケージが開発、販売されている28。パーソナル=個人の利用分野でも、

    ワード・プロセッサー、表計算、グラフ作成、そしてゲーム・ソフトも普及し

    て、インターネットに代表されるネットワーク技術の革新はソフトウェアの応

    用分野をさらに広げ29、市場を拡大している30。

    28 日本では IT=情報産業は一般的には、コンピュータ産業(コンピュータおよびハードウェアの開発・製造)、通信産業(通信機器の開発・製造、通信サービス)、そして情報サー

    ビス産業に分類され、ソフトウェア産業=情報サービス産業である。アメリカではパッケ

    ージソフト開発を中心としたソフトウェア・プロダクツが全体の半数を占めているが、日

    本では受注システム開発 46.7%と圧倒的に大きく、ソフトウェア・プロダクツは僅かに10.4%でアメリカの状況と全く逆であり、特にこの傾向は小規模企業で高い(経済産業省『平成 16年 特定サービス産業実態調査』より)。 29 コンピュータのソフトウェアはプログラムの集合体であり、その内部構造はコンピュータ回路の結線網に直結したオブジェクト・プログラムから人間にもっとわかりやすい言語

    ソース・プログラムに分化しているが、人間の労働における制御機能を体系化、コード化、

    物質化したものである。もちろんこれによって人間労働の制御機能がプログラムに転化す

    るのではなく、プログラムを作成し、またプログラムによって生産過程を制御・管理する

    労働が必要になってくるのである(「経済学概論」第9回 「相対的剰余価値の生産-現代

    資本主義とコンピュータ制御生産様式)を参照)。前者=プログラムを作成する労働、そし

    て産業がパソコンの普及に必要とされ、またパソコンの普及がソフトウェア産業を成長さ

    せるのである。 30 特にソフトウェア産業は、インターネットの普及とそれに伴う電子商取引の拡大によって市場の拡大と成長が続いてきた分野である。日本でも 2004年度時点で事業所数 7110、就業者数約 56万人、年間売上高 14兆 5271億人(上記特定サービス調査より)。産業間の連関においては、他産業への波及効果という点ではインパクトは低いが(影響力係数が産

    業平均を 1とした場合 0.9)、他産業からの波及は他の情報産業と比べても極めて高い分野でもある(「情報経済論」第5回「IT産業=情報通信産業の影響力と感応度」参照)。それゆえ他の産業の景気動向、他の産業からの需要動向に左右されるという側面が強く、日本

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    また、Apple IIや IBM-PCの成功の背景に充実したソフトウェアのラインナップが必要であったように、パソコンの普及にはソフトウェアの拡充も不可欠

    であった。Harvard大学の Business School の学生であった Daniel Bricklin(写真右) とプログラマーの Bob Frankston(左)が 1979年に開発した表計算ソフト VISICALC は 1年間で 10万本を販売する大ヒット商品 となり、Apple IIの販売に貢献した。これに 対して 1983年には IBM-PC用に Lotus社 の表計算ソフト Lotus1-2-3が発売され、 IBMは Apple IIからパソコン市場の覇権を奪うことになる31。 (3)モジュール化とソフトウェア産業 コンピュータ・ハードウェアの生産過程において、もともとシステムを構成

    する機能をグループ化して分解するモジュールの考え方が一般的であり、IBM Sytem/360 の設計で生まれたモジュールによるハードウェアの設計と製造が生産性の向上に寄与し、またオープン・アーキテクチャーにもつながってきた32。 プログラム言語の発達とこれによって開発された OS を含めたソースのオープン化(第5回)によってソフトウェア産業でもモジュール化の思想は進んで

    いる33。日本の情報サービス産業も他産業の連関と同時に、産業内・業界内での

    連関が多重であり、同業者間での委託・受託の連鎖が複雑に連なりあっている34。

    でも IT投資の拡大によって 90年代末から 10%前後の高い伸びを続けてきた情報サービス産業の売上高は 2002年に入っての日本経済のリセッションも反映して鈍化、2003年にはマイナスに転じている。その中でも他サービス業や金融、保険業への売上げが大幅に伸び

    ているのに対し、建設・不動産業、運輸・通信業、製造業への売上げは減少している。特

    に後者の産業への依存度が高い島根県において、情報サービス産業全体の売上げ拡大を考

    えるときに、市場・販路の転換が強く求められるところでもある。 31 日本のパソコンの普及においても徳島のソフトウェア企業・ジャストシステムが 1985年に開発した NECの PC用日本語ワープロ・ソフト「一太郎」が大きな貢献をした。 32 このモジュール化の考え方はハードから組織へと概念が拡大し、90年代におけるアメリカのシリコン・バレーを中心とした情報関連産業における集積と企業間の連関が生産性の

    劇的な上昇を生み出したと言われている。 33 しかしながら「人月の神話」(1人で 100時間かかるプロジェクトを、100人を動員して1時間で行うことはできない)に代表されるように、ハードウェアにおける「モジュール化」の成功をソフトウェアの製造工程にそのまま当てはめることもできない。特にソフトウェ

    アの開発・製造においてはコミュニケーショとコラボレーションが必要とされ、この不足

    は生産性の低下にもつながる。 34 製造業においても県外の大企業向けの中間財、部品製造を生産する中小企業の多い島根県のケースは情報サービス産業においても当てはまると同時に、県内の情報サービス産業

    同士においても委託・受託の連鎖を作りあっている。

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    そして技術のオープン化によってハードウェア同様にソフトウェア技術のグロ

    ーバルな拡大とオフショア(海外生産拠点)化は着実に進行している35。

    4、マイクロソフトのコンピュータ市場支配

    パソコンの登場によってハードウェアのオープン化は加速化したが、ハード

    とソフトウェアをつなぐ OSの重要性と需要を増した。Microsoft社もパソコン用のプログラム、そして OSを開発するソフトウェア産業としてスタートしたが、パソコンの OSのアーキテクチャーはMicrosoft社がオープンにせず、独占状態が続いている。この結果コンピュータ・ハードウェアメーカーもソフトウェア

    産業も、Microsoft社の動向に支配される状況が続いている36。 かつて大型コンピュータの市場シェアを高めた IBMがコンピュータ産業全体の動向を左右したが、パソコンの時代にはMicrosoftが OSの市場を独占することによって同じことを行っている。IBM の支配はコンピュータの小型化によって崩れ去ったが、Microsoftの支配はコンピュータのネットワーク化(第4回)と、ソフトウェアのオープン化(第5回)によって崩れ去ろうとしている。 【参考文献】 ・ スミソニアン協会 『デジタル計算機の道具史』 ジャストシステム ・ 嶋正利 『マイクロコンピュータの誕生 わが青春の 4004』 岩波書店 ・ マイケル・ヒルツィック 『未来をつくった人々』 毎日コミュニケーションズ ・ ビル・ゲイツ 『ビル・ゲイツ 未来を語る』 アスキー ・ ダニエル・イクビア、スーザン・ネッパー 『マイクロソフト』 アスキー ・ スティーブン・レヴィー 『マッキントッシュ物語』 翔泳社 ・ 富田倫生 『パソコン創世記』 TBSブリタニカ

    35 2000年代に入ってアメリカで始まった ITバブル崩壊~IT不況によるコンピュータ需要の落ち込みや通信業界の過剰投資などもあって、コンピュータ産業や通信産業もソフトや

    サービス分野に重点を移しており、インドや中国の IT産業のこの分野での追い上げもすさまじい。コンピュータ・ハードウェアでは既に中国や東南アジアを中心とした部品製造の

    海外移転と、世界規模での生産から流通に至るまでのネットワーク化が進んでいるが、ソ

    フトウェアの分野でもアメリカからインドへの大量のアウトソーシングに見られるように、

    オフショア(海外生産拠点)化は着実に進行している。このことは、情報サービス産業の

    成長とあわさったグローバルな供給能力の拡大によって、情報サービス産業も国際的な競

    争からは逃れられないことを意味している。 36 結局は表計算ソフトもMicrosoft Excel、ワープロ・ソフトもMicrosoft Wordの独占状態である。1997年にアメリカ司法省はMicrosoft社が OS市場での独占的地位を維持するために「競争を阻害する行為をした」として独禁法違反で提訴した。2000年 6月の連邦地裁の判決では同社の独禁法違反を認めるとともに、同社を OS部門と応用ソフト部門に 2分割する是正命令を出した。その後、Microsoft社がパソコンメーカーと取り交わす OEM契約の緩和(デスクトップの変更を含む大幅な選択権など)を認めることなどによって和

    解している。

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    (3) インターネットの登場と情報通信産業の発展

    1、ネットワークとコンピュータ

    (1)バッチ処理とタイム・シェアリング、UNIXの登場 コンピュータが普及し始めた当初(1950年代)は、大型で高価なコンピュータを使って多くの人

    が作業をしていたが、データをまとめて入力して

    一気に処理をさせるという方法をとっていた。バ

    ッチ(batch)処理という方法で、ユーザはあらかじめ一連の操作を登録しておき、ためておいた

    データをまとめて処理する方式である。だがこの

    方法ではユーザはコンピュータの利用の順番を

    待たなければいけない。 そこで、1960年代からコンピュータを複数のユーザで共有し、処理装置を

    極短時間ごとに各ユーザに使わせるこ

    とで、擬似的に同時に複数のユーザが

    使える方法、タイム・シェアリング

    (TSS :Time Sharing System)が登場した。 この TSSの思想に基づいた最初の OSはMIT(Massachusetts Institute of

    Technology:マサチューセッツ工科大学)と AT&T Bell Laboratory(ベル研究所)および GE(General Electric)の共同プロジェクトとして始まり、1964年にMultics(Multiplexed Information and Computing Service)として開発された。このMulticsはスピードも遅く使いものにならなかったが、1968年にはベル研究所の Ken Thompsonにより軽くて使いやすい OS、UNIXが開発され37DECのミニコンピュータに採用された38。更に UNIXの開発者たちはこの OSのソースを世界中の大学や研究機関に非常に安価な値段で販売され、普及して

    いった39。

    37 UNIX開発の際に、効率低下の原因となるセキュリティの機能は必要ないとして外された。 38 最初はアセンブリ言語で書かれていた UNIXも、1972年には Dennis M.RitchieによりC言語で書き直され、これにより多くのマシンに比較的楽に移植できるようになった。 39 独自の拡張が施された多くの派生 OSが開発され、現在では UNIX風のシステム体系を持ったOSを総称的にUNIXと呼ぶことが多い。代表的なものだけでも、Sun Microsystems社の Solarisと SunOS、Hewlett Packard社の HP-UX、IBM社の AIX、SGI社(旧 Silicon

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    (2)分散処理とネットワーク、ワークステーション Xerox社の PARCが 1974年に発表した Alto(下左図)には、Ethernet(イーザネット)と呼ばれるネットワークの技術が盛り込まれていた。これは Alto同士を接続してデータやプログラムなどのリソース(資源)を共有しようとい

    う技術であった40。Altoによるネットワークそのものがコンピュータ・アーキテクチャーになるのである。 しかしながら、コンピュータ同士を社内、研究室内で接続して処理するとい

    う LAN(Local Area Network)の考え方は、パソコンの開発には導入されなかった41。

    一方、LANの思想はミニコンや UNIXマシンに普及し、大型コンピュータの端末としての機能だけをもつ端末型ワークステーションから専用のハードウェ

    ア構造とグラフィック処理能力を持つ EWS(Engineering Workstation)へ、 そして 1980年代には UNIXワークステーションとして一般化していく。 また、UNIX の TSS(タイム・シェアリング)の技術と相まって、コンピュ

    ータ・ネットワークを仕事の分散のために利用する方法も進んでいる42。

    Graphics社)の IRIX、Caldera Systems社(旧 Santa Cruz Operations社)の UnixWare、カリフォルニア大学バークリー校(UCB)の BSDと FreeBSDなどの派生 OS、そして Linus Torvaldsがパソコン用に開発した Linuxなどがある(第5回)。 40 もちろん大型コンピュータの時代には高性能の大型コンピュータに複数の端末機をつないで処理を行うという形態でのネットワークは存在していたが、Altoによるネットワークはネットワークで各コンピュータがつながり、分散して処理を行うというものである。 41 Microsoft社のMS-DOSを始め、パソコンの OSはネットワークには不向きで、またネットワークの実用化にはより強力なプロセッサと高度な OSが必要であった。 42 グリッド・コンピューティングと言われ、仕事を小さな単位に分割しネットワーク上で処理能力に余裕のあるコンピュータに仕事を送り、自動的に結果を集めることで、コンピ

    ュータのネットワークをまるでスーパーコンピュータのように使う方法である。

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    2、インターネットとソフトウェア産業の拡大

    (1)ARPANETと分散型ネットワーク 1969年、ARPA(アメリカ国防省高等研究計画局)は 軍事技術の研究情報交換と核戦争時のコンピュータ同士 の接続を目的として、大学間43をコンピュータで結んで 相互に通信が可能になるための研究を始めた。ARPANET の誕生である。 通信の方法として、サンタモニカのランド(Rand) 研究所の Paul Bran(1926-)が 1964年に発表した、 データを小さなまとまりに分割して一つ一つ送受信する パケット通信 (packet communication、下右図) という 方式がとられた 44。

    パケット通信を使えば、小分

    けにされたパケットを次のコン

    ピュータ=ルータ(router)45が宛名を調べて次に転送してくれ

    るので、核戦争で通信網が寸断

    された場合でもどこかのネット

    ワークを経由して目的地にたど

    りつけることになる。集中型の

    ネットワークではなく、分散型

    43 カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)、サンタ・バーバラ校(UCSB)、スタンフォード研究所(SRI)、そしてユタ大学(Univ. of Utah)の 4つの研究機関の大型コンピュータに、現在のルータにあたる IMPというコンピュータが取り付けられ、通信が開始された。 44 データのほかに送信先のアドレスや、自分がデータ全体のどの部分なのかを示す位置情報、誤り訂正符号などの制御情報が付加されている。パケット通信を使うと 2地点間の通信に途中の回線が占有されることがなくなり、通信回線を効率良く利用することができる。 45 ネットワーク上を流れるデータを他のネットワークに中継する機器。ネットワーク層のアドレスを見て、どの経路を通して転送すべきかを判断する経路選択機能を持つ。

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    のネットワークが可能になる。 (2)ARPANETの拡大とインターネット 1970 年代に入ると ARPANET は大学などの研究機関を中心に接続を拡大した。1976 年には当時驚異的な性能を持ったスーパーコンピュータ46CRAY-1 が登場し、研究者達はこれにアクセスするためにネットワーク技術を発展させた。

    また 1977年に発売されたパソコンの Apple IIは ARPANETへ接続するソフトを組み込まれており、モデム(modem)を接続して一般電話回線を通してARPANET に接続できるようになり、これから計算機を接続するサービスが開始され研究利用者の急速な増加が始まった。

    1980年代に入るとはネットワークに大学以外に民間機関も接続されるようになり47、このころからインターネット(Internet)と呼ばれるようになる。1983年にはコンピュータ同士が通信を行なう上で相互に決められた約束事=プロト

    コル(protocol)として UNIXに標準で実装されていた TCP/IP(Transmission Control Protocol/Internet Protocol)が採用された。また UNIXの開発者であるKen Thompsonが 1984年に UNIXソフトをオープン・ネットワーク構成でも利用できるように開発、公開し、LANとインターネットの融合が加速化した48。 ネットワークの運営は 1989 年から全米科学財団(National Science Foundation NSF)が引き継ぎ、1990年には商用の利用も認められたため、電話回線などを利用してインターネット接続を提供する商用 ISP(Internet Service Provider:インターネット・サービス・プロバイダー)49も次々と誕生し、個人でもインターネットの利用が可能になった50。

    46 大規模な科学技術計算に用いられる超高性能コンピュータ。その時点での最先端の技術を結集して開発され、価格も性能も他のコンピュータとは比べ物にならないほど高い。原

    子力、自動車、船舶、航空機、高層ビルなどの分野で設計やシミュレーションに使われ、

    近年では分子設計や遺伝子解析などバイオ、化学分野での導入も活発になっている。 47 1981年にはアメリカの大学と研究機関を IBM社のホストコンピュータで接続したネットワーク BITNETが稼動し始めた。 48 UNIXはもともとデータの送受信やファイル共有などネットワーク上の分散処理に適した OSとして開発されたので、インターネットの普及にあたってもサーバで最初から最もよく使われている OSは UNIXであった。 49 1987年には世界初の商用 ISP、UUNETがサービスを開始している。 50 日本では 1984年に東京工業大学の村井純によって JUNETという大学のコンピュータ間でのデータ転送接続の研究がボランティアで始まった。1988年には通信プロトコルとして TCP/IPを採用したWIDEが発足し、1992年から民間企業も巻き込んで相互接続の実験が行われた。また 1992年には商用プロバイダー会社、IIJが発足した。

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    (3)インターネットの普及とソフトウェア(ブラウザ) インターネットの普及にはコンピュータ・ハードウェアやネットワーク接続

    の技術だけではなく、ソフトウェアの発達が不可欠であった。インターネット

    はもともと UNIX などで開発されたデータ転送とファイル共有の仕組みをオープン・ネットワーク上で行うものであり、巨大なデータベース51でもある。この

    膨大な情報の中からユーザが自分に必要な情報を探すのは大変な作業である。 そこで、1990年にスイスのジュネーブにある CERN(Conseil Européen pour la Recherche Nucléaire:ヨーロッパ素粒子物理学研究所)の 物理学の研究者 Tim Berners-Lee(1955-)が データの所在を示すリンクをそれぞれのデータ に付け、これを関連付けることによって目的の 情報にたどりつける仕組みを考案した。そして このデータベースを整理統合し、文書やデータの意味や構造を記述するための

    マークアップ言語、HTML(HyperText Markup Language)を作成し、現在WWW(World Wide Web)と呼ばれている概念を提唱した。

    WWWは当初はテキストベースの情報で、研究者間での連絡や研究論文の交換などが中心であったが、1993年にイリノイ大学(UIUC)内にある NCSA(National Center for Supercomputing Applications:国立スーパーコンピュータ応用研究所)に所属していた学生の

    Marc Andreesen(1971-)が、HTML で記述されたWWW 上の情報を探し出すための閲覧ソフト(ブラウザ)を作成し、これを Mosaic と名づけた。Mosaic には GUI が使われ画面をクリックするだけで情報にたどりつけるので、またたくまに普及した。 その後 NCSAがMosaicの権利を主張したため、Marc Andreesenは SGI社

    の元社長、James H. Clark(1944-)が設立したMosaic Communications社 (のちに Netscape Communications 社と社名変更)52に入り、Mosaicのコード関連の書類を破棄した上で、1994年に Netscape Navigatorブラウザを発表し、たちまち市場を制覇した53。 51 複数のアプリケーションソフトまたはユーザによって共有されるデータの集合のこと。また、その管理システムを含める場合もある。 52 1998年にアメリカ最大のインターネット・プロバイダーである AOL社(America Online)に買収された。AOL社は 2000年には総合メディア企業 Time Warner社と合併、AOL Time Warnerとなるが、ITバブルの崩壊によってプロバイダー部門が業績不振となり、Time Warner社に社名が「戻っている」。 53 当初、機能に制限を設けたWebブラウザである Netscape Navigatorをシェアウェアとして無料で配布し、機能制限のない製品の購入を促進する戦略をとった。

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    一方、Microsoft社も 1995年に発表したWindows95に Internet Explorer1.0を添付、ブラウザ戦争が開始されたが、1996年には大幅に改良を加えた Internet Explorer 3.0が販売され、OSのWindowsの一部とすることで実質的に無料とし、OSとあわせてブラウザの市場においても独占状態を維持している54。 また、1994年にはスタンフォード大学電気工学 科の博士課程で学んでいた大学院生、David Filo (1965-)と Jerry Yang(1968-)がインターネット の個人的な興味を記録する目的でリストを作成し 始めたが、あまりにもアクセスが多くなりすぎた のでサーバを Netscape に移設55、1995年には Yahoo Corporationを設立し、本格的に Yahoo!に よる情報検索用のサイト運営を開始する56。 1990年代に始まったインターネットの商用利用はインターネットの普及につながり、同時にネットワーク上での新たなサービスを生み出し(これがまた普

    及を加速化させたのであるが)、そのサービスを提供するためのシステム、ソフ

    トウェアの開発を促していったのである。これはコンピュータ産業の中心がコ

    ンピュータ・ハードウェアからソフトウェアへ、そして情報通信と結びついた

    ソフトウェア産業や通信サービス産業へシフトしていくことも示していた。 3、情報スーパーハイウェイ構想と IT(情報通信)産業 (1)情報スーパーハイウェイ構想とアメリカ経済 インターネットの普及が加速化していた 1990年のはじめに、アメリカで情報スーパーハイウェイ(Information super-Highway)構想57が発表され、政策に移され、実現化し、そしてアメリカ経済が景気回復に向かっていた時期でもあ

    ったのでその景気拡大を加速化した(「情報経済論」第5回「情報スーパーハイ

    54 2004年時点でMicrosoft社の Internet Explorer(以下 IE)はブラウザ市場の 80%以上を占めている。一方、Netscape/Mozilla 系の Firefoxや Opera、Apple Computerの Safariなども市場シェアを伸ばしつつあるが、現在も証券会社のリアルタイム株価情報やオンラ

    インバンキングなどの金融サービスや一部の有料サービスでは、IEを対象にしたサイト開発を行っているために IEを利用しなければサービスを受けられなくなっている。 55 Yahooという名前は、"Yet Another Hierarchical Officious Oracle"の略だといわれているが、Jonathan Swiftの『ガリヴァー旅行記』に登場する、人間に似たおろかな動物の yahoo(野獣のような動物、ならずもの)という意味があるようである。 56 1996年には日本のパソコンソフト卸売会社・ソフトバンク(1981年設立・孫正義社長)と共同でヤフー株式会社を設立、Yahoo! Japanのサービスが開始される。 57 クリントン大統領とゴア副大統領は 1992年の大統領選挙期間中に「すべての家庭、企業、研究室、教室、図書館、病院を結ぶ情報ネットワークをつくる」と公約し、大統領当選後

    の 93年にシリコンヴァレーでアメリカの産業競争力強化のための「情報スーパーハイウェイ」を 2015年までにつくるという構想を発表した。かつて全米に張り巡らされた高速道路網が物流革命をもたらしたことにあやかっており、アメリカの高速道路(ハイウェイ)の

    基盤整備を提案したのがゴアの父(当時上院議員)であったという因縁がある。

  • 情報化社会と経済 IT革命と情報化社会(資料)

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    ウェイ構想とアメリカ経済」を参照)。 1980 年代に低迷していたアメリカ経済は58、コンピュータとインターネット

    を機軸とした情報通信技術=IT(Information Technology)59の革新を、最新の技術を体化した設備投資でダイレクトに取り込んでいった。IT(情報化)投資を中心とした設備投資が需要項目として現在の景気に直接影響を与えるだけで

    なく、その結果がサプライサイドの構造に作用して中長期的なインパクトを経

    済に与えたのである。ここから IT投資が需要の側面から景気拡大に貢献しただけでなく、供給の面(サプライサイド)を活性化させ、労働の生産性を高め長

    期的な景気拡大を生み出す、という考え方=ニュー・エコノミー論も登場した

    (「情報経済論」第7回~第 9回「IT(情報通信技術)とマクロ経済成長」参照)。 (2)通信インフラ・通信産業とインターネット 情報スーパーハイウェイ構想の基盤を支えていたのは、光ファイバー(Optical

    Fiber)60を中心とした通信インフラであった。1994 年には NII(National Information Infrastructure:全米情報基盤)が発表され、ハイウェイ建設に関して 94年~98年に投資総額 2億 7500万ドルが計上された。また民間企業による情報化投資を促すため、規制緩和による民間の投資活動を促進し、巨大メデ

    ィア産業を中心とした買収・合併劇が繰り返されたのである。特に光ファイバ

    ー技術による通信網は従来の電信・電話だけでなくデータ通信、画像や映像の

    転送を双方向で可能にし、高速のネットワーク網とこれを利用した新しいサー

    58 アメリカの情報スーパーハイウェイ構想は、日本の動きに刺激されたものでもあった。日本の NTTは 1980年代から光ファイバーの敷設を始め、これが VAN などの企業のデータ通信、POSシステム 、ファックスなどに利用されてきた。そして 90年の「新高度情報通信サービスの実現 VI & P」では光ファイバーを 2015 年までに家庭に張り巡らし、B-ISDN(広帯域統合サービス・デジタル通信網)の全国ネットワークをつくると提案されている。このような NTTの動きや 1980年代の日本経済の好調がアメリカを刺激し、情報スーパーハイウェイ構想にも影響を与えた。ゴア副大統領に影響を与えたと言われる経済

    学者 George Gilderは『テレビの消える日』 で、「日本は 1200億ドルを投じて、2000年までに光ファイバーを家庭にまで伸ばす計画をたてている」と警告を発し、地域電信電話

    会社やケーブルテレビの利益を投じて光ファイバー網を作れと提案している。 59 90年代前半は ICT(Information & Communication Technology)とも言われていた。この言葉はまた現在の日本の総務省を中心としたユビキタスを中心とした情報通信政策に

    も再び登場するようになった(第 11回~第 12回)。 60 ガラスやプラスチックの細い繊維でできている、光を通す通信ケーブル。 光ファイバーを使って通信を行なうには、コンピュータの電気信号をレーザ ーを使って光信号に変換し、できあがったレーザー光を光ファイバーに通し てデータを送信する。1957年に東北大学(現岩手県立大学長)の西澤潤一 博士が、光源として使えるレーザー光を発射することを発明し、ガラスの中 心に材質のちがうガラスを入れるという構造をとることによってガラスの線 による通信を可能にした。

  • 情報化社会と経済 IT革命と情報化社会(資料)

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    ビス(新しい産業)の創出を可能にすると考えられた。 だが、まだこの時期には通信インフラ整備について強調はされていたが、イ

    ンターネットの「革命的」な意義は盛り込まれていなかった61。コンピュータ技

    術の発達はコンピュータ産業の成立と成長をもたらしたが、これにはソフトウ

    ェアによる利用分野の拡大が不可欠であった。通信技術の発達においても同様

    のことが言える、通信技術の発達は通信産業の成長をもたらすが、通信インフ

    ラのみの膨張はいずれ破綻する62。 情報スーパーハイウェイ構想を実現に移し、IT 投資を拡大し、アメリカの産業の競争力を強化したのは、通信インフラと同時に、通信インフラで接続され

    たコンピュータ・ネットワークのアーキテクチャー=インターネットと、WWWや HTML、ブラウザ、サーチエンジン (search engine)63といったネットワーク上のアプリケーション=ソフトウェアやこれを使ったサービスであった。1990年代に入り IT(情報通信)が経済に与える影響を拡大したが、IT産業=情報通信産業(コンピュータ・ハードウェア、通信機器、通信サービス、そしてソフ

    トウェア産業)の中でも通信と結びついたソフトウェア産業のウェイトが、IT産業の中でも、また産業全体に対しても増大してきたのである。 通信技術の発達は FTTH(Fiber To The Home)や携帯電話の発達・普及、さらにユビキタス・ネットワークへとつながっていく。また通信の大容量化と

    放送技術のデジタル化は放送と通信の融合をもたらす。これは IT産業(特にネットワーク産業)をどのように変化させるのだろうか? また IT産業自体の発達がこれらにどのように関わっていくのであろうか? そして、それ自体がオープン・アーキテクチャーであるインターネットは、

    ソフトウェアの開発技術もオープン化させていく。これはソフトウェア産業の

    市場構造を変化させる可能性がある。次回以降探っていこう。 【参考文献】 ・ アンドリュー・S・タネンバウム 『コンピュータ・ネットワーク』 ピアソン・エデ

    ュケーション ・ AT&Tベル研究所 『UNIX原典』 パーソナルメディア ・ ティム・バーナーズ=リー 『Webの創成』 毎日コミュニケーションズ ・ ロバート・リード 『インターネット激動の 1000日』 日経 BP社 ・ ジョージ・ギルダー 『テレビの消える日』 講談社

    61 1994年ごろは Time Warner社が発表した双方向テレビ実験や、VOD(Video On Demand)と電話を相乗りさせて CATVで提供する Full Service計画などが本命だとされたが、いずれも頓挫した。また同時に日本でもマルチメディア(Multimedia)の名の下に様々な実験、模索がされていったが、いずれも必要なサービスを定着させたとは言い難い。

    逆に光ファイバーを中心とした通信インフラだけが残ったと言われている。 62 2000年から始まる ITバブルの崩壊は、通信会社の過剰な設備投資が最大の要因であった(「情報経済論」第 10回「ITバブルの崩壊と景気回復」参照)。 63 インターネットで公開されている情報をキーワードなどを使って検索できるWebサイトのこと。Yahoo!の他に、全文検索型の Google(Google 社は 1998年、スタンフォード大学で博士号候補であった Lawrence "Larry" E. Pageと Sergey Brinによって設立)や goo(1997年にサービスを開始した日本の NTT-Xが運営するポータルサイト)等が有名。